(Translated by https://www.hiragana.jp/)
三島事件 - Wikipedia

三島みしま事件じけん

1970ねん日本にっぽん東京とうきょう新宿しんじゅく発生はっせいした陸上りくじょう自衛隊じえいたいそうかん拘束こうそく割腹かっぷく自殺じさつ事件じけん
三島みしま由紀夫ゆきお > だてかい > 三島みしま事件じけん

三島みしま事件じけん(みしまじけん)とは、1970ねん昭和しょうわ45ねん11月25にち作家さっか三島みしま由紀夫ゆきお本名ほんみょう平岡ひらおかこう)が、憲法けんぽう改正かいせいのため自衛隊じえいたい決起けっきクーデター)をびかけたのち割腹かっぷく自殺じさつをした事件じけんである。三島みしま隊長たいちょうつとめる「だてかい」のメンバーも事件じけん参加さんかしたことから、その団体だんたい名前なまえをとってだてかい事件じけん(たてのかいじけん)ともばれる[1][2]

三島みしま事件じけん
バルコニー演説えんぜつする三島みしま由紀夫ゆきお
場所ばしょ 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう新宿しんじゅく市谷本村いちがやほんむらまち1番地ばんち
陸上りくじょう自衛隊じえいたい市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとん
座標ざひょう
北緯ほくい3541ふん34びょう 東経とうけい13943ふん43びょう / 北緯ほくい35.69278 東経とうけい139.72861 / 35.69278; 139.72861座標ざひょう: 北緯ほくい3541ふん34びょう 東経とうけい13943ふん43びょう / 北緯ほくい35.69278 東経とうけい139.72861 / 35.69278; 139.72861
日付ひづけ 1970ねん昭和しょうわ45ねん11月25にち水曜日すいようび
午前ごぜん1058ふんごろ午後ごご020ふんごろ (JST (UTC+9))
概要がいよう 三島みしま由紀夫ゆきお森田もりた必勝ひっしょうほかで民兵みんぺい組織そしきだてかい」のメンバー5めい市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとんない東部とうぶ方面ほうめん総監そうかん訪問ほうもんし、益田ますだけんそうかん拘束こうそく幕僚ばくりょうらをりつけたのち三島みしまがバルコニーで自衛じえいかん決起けっきげきうったえ、その総監そうかんしつ三島みしま森田もりた割腹かっぷく自決じけついたったクーデター未遂みすい事件じけん
武器ぶき 日本にっぽんがたな短刀たんとう特殊とくしゅ警棒けいぼう
死亡しぼうしゃ 2人ふたり三島みしま由紀夫ゆきお森田もりた必勝ひっしょう
負傷ふしょうしゃ 8にん幕僚ばくりょう自衛じえいかん
被害ひがいしゃ 東部とうぶ方面ほうめん総監そうかん幕僚ばくりょう自衛じえいかん
犯人はんにん だてかいメンバー5にん三島みしま由紀夫ゆきお森田もりた必勝ひっしょうしょう正義まさよし小川おがわ正洋まさひろ古賀こが浩靖ひろやす
対処たいしょ 懲役ちょうえき4ねん実刑じっけい判決はんけつ監禁かんきん致傷ちしょう暴力ぼうりょく行為こういとう処罰しょばつかんする法律ほうりつ違反いはん傷害しょうがい職務しょくむ強要きょうよう嘱託しょくたく殺人さつじん
テンプレートを表示ひょうじ

この事件じけん日本にっぽん社会しゃかいおおきな衝撃しょうげきをもたらしただけではなく、日本にっぽん国外こくがいでも速報そくほうニュースとなり、国際こくさいてき名声めいせい作家さっかこした異例いれい行動こうどう一様いちようおどろきをしめした[3][4]警視庁けいしちょうが2016ねん実施じっしした「警視庁けいしちょう創立そうりつ140ねん特別とくべつてん みんなでえら警視庁けいしちょう140ねんじゅうだい事件じけん」のアンケート投票とうひょうにおいて三島みしま事件じけんだい29となった(警視庁けいしちょう職員しょくいんだけの投票とうひょうではだい52[5]

※なお、以下いかでは三島みしま自身じしん言葉ことば著作ちょさくからの引用いんようを〈 〉でくくることとする(家族かぞく知人ちじん他者たしゃ述懐じゅっかい評者ひょうしゃ論評ろんぴょう成句せいく年譜ねんぷなどからの引用いんようとの区別くべつのため)。

そうかん訪問ほうもん拘束こうそく

編集へんしゅう
 
舞台ぶたいとなった市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとん事件じけん当時とうじ看板かんばんすみ文字もじ書体しょたいで「陸上りくじょう自衛隊じえいたい市ヶ谷いちがやちゅうとん」となっていた[6]渦中かちゅうとなった東部とうぶ方面ほうめん総監そうかんは1994ねん朝霞あさか移駐いちゅうしている。

1970ねん昭和しょうわ45ねん)11月25にち午前ごぜん1058ふんごろ三島みしま由紀夫ゆきお(45さい)はだてかいのメンバー森田もりた必勝ひっしょう(25さい)、しょう正義まさよし(22さい)、小川おがわ正洋まさひろ(22さい)、古賀こが浩靖ひろやす(23さい)の4めいともに、東京とうきょう新宿しんじゅく市谷本村いちがやほんむらまち1番地ばんちげん市谷本村いちがやほんむらまち5-1)の陸上りくじょう自衛隊じえいたい市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとん正門せいもん四谷よつやもん)を通過つうかし、東部とうぶ方面ほうめん総監そうかんかいそうかんしつ正面しょうめん玄関げんかん到着とうちゃく出迎でむかえの沢本さわもと泰治やすじ3とうりくたすくみちびかれ正面しょうめん階段かいだんのぼったのちそうかん業務ぎょうむ室長しつちょうはらいさむ1とうりくたすく(50さい)に案内あんないされそうかんしつとおされた[7][8][注釈ちゅうしゃく 1]

この訪問ほうもんは21にち予約よやくずみで、業務ぎょうむしつ中尾なかおりょういち3とうりく警衛けいえいしょに、「11ごろ三島みしま由紀夫ゆきお先生せんせいくるま到着とうちゃくしますのでフリーパスにしてください」と内線ないせん連絡れんらくしていたため、門番もんばん鈴木すずき偣2とうりく曹が助手じょしゅせき三島みしま敬礼けいれいっただけで通過つうかとなった[6][注釈ちゅうしゃく 2]

応接おうせつセットにいざなわれ、こしかけるようにすすめられた三島みしまは、そうかん益田ますだけんりくすすむ(57さい)に、例会れいかい表彰ひょうしょうする「優秀ゆうしゅう隊員たいいん」として森田もりたら4めい直立ちょくりつさせたままいちにん一人ひとり名前なまえんで紹介しょうかいし、4めい同伴どうはんしてきた理由りゆうを、「じつは、今日きょうこのものたちをれてきたのは、11月の体験たいけん入隊にゅうたいさいやま負傷ふしょうしたものを犠牲ぎせいてきしたまで背負せおってりてくれたので、今日きょう市ヶ谷いちがや会館かいかん例会れいかい表彰ひょうしょうしようとおもい、一目いちもく総監そうかんにおにかけたいとかんがえてれてまいりました。今日きょう例会れいかいがあるので正装せいそうまいりました」と説明せつめいした[7][11]

ソファで益田ますだそうかん三島みしまかいって談話だんわちゅう話題わだい三島みしま持参じさん日本にっぽんがたな・“せきまごろく”にかんしてのものになった。そうかんが、「本物ほんものですか」「そのような軍刀ぐんとうをさげて警察けいさつとがめられませんか」とたずねたのにたいして三島みしまは、「この軍刀ぐんとうは、せきまごろく軍刀ぐんとうづくりになおしたものです。鑑定かんていしょをごらんになりますか」とって、「せきけんもと」としるされた鑑定かんていしょせた[7][11]

三島みしまかたないてせ、あぶらぬぐうためのハンカチを「しょう、ハンカチ」とって同人どうじん要求ようきゅうしたが、その言葉ことばはあらかじめめてあった行動こうどう開始かいし合図あいずであった[7]。しかしそうかんが、「ちりがみではどうかな」といながら執務しつむつくえほうかうという予想よそうがいうごきをしたため、目的もくてき見失みうしなったしょう仕方しかたなくそのままさんとうちかづいて日本にっぽん手拭てぬぐいわたした[7]ごろなかみつけられなかったそうかんはソファのほうもどり、かたなるためさんとうよこすわった[11]

三島みしま日本にっぽん手拭てぬぐい刀身とうしんいてから、かたな総監そうかん手渡てわたした。ぶんそうかんは、「いいがたなですね、やはり三本杉さんぼんすぎですね」とうなずき、これを三島みしまかえしてもとせきもどった。このとき、115ふんごろであった[7]三島みしまかたなふたたき、使つかった手拭てぬぐいかたわらにていたしょうわたし、目線めせん指示しじしながらつばりを「パチン」とひびかせてかたなさやおさめた[10][12]

それを合図あいずに、せきもどるふりをしていたしょうはすばやく総監そうかんうしろにまわり、っていた手拭てぬぐい総監そうかんくちをふさぎ、つづいて小川おがわ古賀こが細引ほそびきやロープで総監そうかん椅子いすしばりつけて拘束こうそくした[7]古賀こがからべつ日本にっぽん手拭てぬぐいわたされたしょうそうかんさるぐつわませ、「さるぐつわは呼吸こきゅうまるようにはしません」とことわり、短刀たんとうをつきつけた[7][11]

そうかんは、レンジャー訓練くんれんなにかでみなが「こんなにつよくなりました」とわらばなしにするのかとおもい、「三島みしまさん、冗談じょうだんはやめなさい」とうが、三島みしまかたないたまま総監そうかん真剣しんけんかおつきでにらんでいたので、そうかん只事ただごとではないことにづいた[11]。そのあいだ森田もりたそうかんしつ正面しょうめん入口いりくちと、幕僚ばくりょうちょうしつおよび幕僚ばくりょう副長ふくちょうしつつうずる出入口でいりぐちの3箇所かしょすべ観音開かんのんびらドア)に、つくえ椅子いす植木鉢うえきばちなどでバリケード構築こうちくした[7][13]

幕僚ばくりょうらと乱闘らんとう

編集へんしゅう

ちゃすタイミングを見計みはからっていた沢本さわもと泰治やすじ3が、そうかんしつ物音ものおとづき、その報告ほうこくけたはらいさむ1廊下ろうかて、正面しょうめん入口いりくちこすりガラスのまど一片いっぺんセロハンテープられ、すこ透明とうめいちかづけてある)から室内しつないうかがうと、益田ますだそうかんうしろにだてかい隊員たいいんたちがっていた。そうかんがマッサージでもけているかのようにえたが、うごきが不自然ふしぜんなため、なかにゅうろうとするとかぎまっていた[8]

げん1がドアに体当たいあたりし、隙間すきまが2、30センチできた。室内しつないから「るな、るな」と森田もりた必勝ひっしょうさけごえげ、ドアから要求ようきゅうしょされた[8][12]。それにとおしたげん1らはすぐに行政ぎょうせい副長ふくちょう山崎やまざきこうりくすすむ(53さい)と防衛ぼうえい副長ふくちょう吉松よしまつ秀信ひでのぶ1(50さい)に、「三島みしまらがそうかんしつ占拠せんきょし、そうかん監禁かんきんした」と報告ほうこく幕僚ばくりょうらに非常ひじょう呼集こしゅうをかけ、沢本さわもと3部下ぶか警務けいむたい連絡れんらくした[6][8]

そうかんしつ左側ひだりがわつうじる幕僚ばくりょうちょうしつのドアのバリケードを背中せなかこわし、川辺かわべ晴夫はるお2(46さい)と中村なかむらすみれせい2(45さい)がいちはやくなだれむと、すぐさま三島みしま軍刀ぐんとうこしらえの“せきまごろく”をいて背中せなかなどをりつけ、つづいて木刀ぼくとうって突入とつにゅうしたげん1笠間かさま寿一ひさいち2曹(36さい)、磯部いそべじゅんぞう2曹らにも、「しゅつろ、しゅつろ」、「要求ようきゅうしょめ」とさけびながら応戦おうせんした[6][8]。このとき三島みしまこしとしてかたな手元てもとくようにし、大上段だいじょうだんからはろさずに、刃先はさきりにしていたという[8][12]。この乱闘らんとうで、ドアののあたりにかたなきずのこった[8]時刻じこくは1120ふんごろであった[7]

かれら5にん退散たいさんさせているあいだに、さらに幕僚ばくりょう副長ふくちょうしつがわから、清野きよの不二雄ふじお1(50さい)、高橋たかはしきよし2(43さい)、寺尾てらお克美かつみ3(41さい)、水田みずた栄二郎えいじろう1じょう菊地きくち義文よしふみ3曹、吉松よしまつ秀信ひでのぶ1山崎やまざきこうりくすすむの7にん次々つぎつぎ突入とつにゅうしてきた[6][7]副長ふくちょう吉松よしまつ1が、「なにをするんだ。はなおうではないか」とうが乱闘らんとうつづき、古賀こが浩靖ひろやすしょうテーブルや椅子いすげつけ、小川おがわ正洋まさひろ特殊とくしゅ警棒けいぼう応戦おうせんした[7][8][13]

森田もりた短刀たんとう応戦おうせんするが、ぎゃく短刀たんとうをもぎられた[7]三島みしまはすかさず加勢かせいし、森田もりたきずりたおした寺尾てらお3高橋たかはし2りつけた[6]そうかん見張みはっていたしょうに、清野きよの1灰皿はいざらげつけると、三島みしまりかかった。清野きよの1は、地球儀ちきゅうぎげて応戦おうせんするがつまずいて転倒てんとう山崎やまざきりくしょうりつけられ、幕僚ばくりょうらはそうかん安全あんぜんかんがえ、一旦いったん退散たいさんすることにした[6][8]

この乱闘らんとうにより自衛隊じえいたいいん8にん負傷ふしょうしたが、なかでももっと重傷じゅうしょうだったのは、みぎひじひだりてのひら背部はいぶせつなそうによる全治ぜんち12週間しゅうかん中村なかむらすみれせい2だった[4]三島みしまかたな玩具おもちゃだとおもって左手ひだりてでもぎろうとしたためてのひらけんった中村なかむら2は、左手ひだりて握力あくりょくうしな後遺症こういしょうのこった[6][14][15]。しかし中村なかむら2は、三島みしまたいして「まったくうらみはありません」とかたり、「三島みしまさんはわたしころそうとおもってったのではないとおもいます。相手あいてころならもっとおもってるはずで、うでをやられたとき手心てごころかんじました」と述懐じゅっかいしている[14][注釈ちゅうしゃく 3]

1122ふん東部とうぶ方面ほうめん総監そうかんしつから警視庁けいしちょう指令しれいしつ110ばんはいり、1125ふんには、警視庁けいしちょう公安こうあん公安こうあんだいいち本来ほんらい極左きょくさ対策たいさく)が警備けいびきょくちょうしつ臨時りんじ本部ほんぶにして関係かんけい機関きかん連絡れんらく[16]、120めい機動きどうたいいん市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとんけて出動しゅつどうさせた[9][16]室外しつがい退散たいさんした幕僚ばくりょうらは三島みしまはなうため1130ふんごろ廊下ろうかから総監そうかんしつまどガラスをった。最初さいしょかおした功刀くぬぎ松男まつお1がくられた[15]吉松よしまつ1まどしに三島みしま説得せっとくするが、三島みしまは「これをのめば総監そうかんいのちたすけてやる」と、最初さいしょ森田もりたがドアから廊下ろうかしたものとどう内容ないよう要求ようきゅうしょを、やぶれたまどガラスから廊下ろうかげた[7]

要求ようきゅうしょにはおも

いち)1130ふんまでにぜん市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとん自衛じえいかん本館ほんかんまえ集合しゅうごうせしめること。

左記さき次第しだい演説えんぜつ静聴せいちょうすること。
 (イ)三島みしま演説えんぜつげき撒布さんぷ
 (ロ)参加さんか学生がくせい名乗なの
 (ハ)だてかい残余ざんよ会員かいいんたいする三島みしま訓示くんじ

さんだてかい残余ざんよ会員かいいんほん事件じけんとは無関係むかんけい)を急遽きゅうきょ市ヶ谷いちがや会館かいかんより召集しょうしゅう参列さんれつせしむること。

よん)1130ふんより1310ふんにいたる2あいだあいだ一切いっさい攻撃こうげき妨害ぼうがいくだりはざること。一切いっさい攻撃こうげき妨害ぼうがいくだりはれざるかぎり、当方とうほうよりは一切いっさい攻撃こうげきせず。

みぎ条件じょうけん完全かんぜん遵守じゅんしゅせられて2あいだ経過けいかしたときは、そうかん身柄みがら安全あんぜん引渡ひきわたす。その形式けいしきは、2めい以上いじょう護衛ごえい当方とうほうよりし、拘束こうそく状態じょうたいのまま(自決じけつ防止ぼうしのため)、本館ほんかん正面しょうめん玄関げんかんおい引渡ひきわたす。

ろくみぎ条件じょうけんまもられず、あるいはまもられざる惧れあるときは、三島みしまただちにそうかん殺害さつがいして自決じけつする。

などとかれてあった[11][17]

幕僚ばくりょう幹部かんぶらは三島みしま要求ようきゅうれることをめ、1134ふんごろ吉松よしまつ1三島みしまに、「自衛じえいかんあつめることにした」とげた[8]三島みしまは「きみ何者なにものだ。どんな権限けんげんがあるのか」と質問しつもんし、吉松よしまつ1が「防衛ぼうえい副長ふくちょう現場げんば最高さいこう責任せきにんしゃである」と名乗なのると、三島みしますこ安心あんしんした表情ひょうじょうとなり腕時計うでどけいてから、「12までにあつめろ」とった[8]

そのあいだ三島みしま森田もりためいじ、益田ますだそうかんにも要求ようきゅうしょ書面しょめんかせた[7]しびれた益田ますだそうかんは、細引ほそびきすこゆるめてもらった[11]そうかんは、何故なぜこんなことをするのか、自衛隊じえいたいわたしにくいのか、演説えんぜつなら内容ないようによってはわたしわりにはなすなどと説得せっとくすると、三島みしまそうかん檄文げきぶんのようなはなしをして、自衛隊じえいたいそうかんにくいのではない、妨害ぼうがいしなければころさないとげ、「きょうは自衛隊じえいたい最大さいだい刺戟しげきあたえて奮起ふんきうながすためにた」とった[11]

なお、三島みしまそうかんしつ恩賜おんし煙草たばこったかどうかは不明ふめいであるが、「現場げんば煙草たばこうくらいの時間じかんはあるだろう」と、荷物にもつ一緒いっしょに、園遊会えんゆうかいもらった恩賜おんし煙草たばこアタッシュケースれるように前々まえまえにメンバーにわたしていたという[18][注釈ちゅうしゃく 4]

1140ふん市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとん部隊ぶたいないに「業務ぎょうむ支障ししょうがないものは本館ほんかん玄関げんかんまえ集合しゅうごうしてください」というマイク放送ほうそうがなされ、その放送ほうそうかえされた[6][7]。1146ふん警視庁けいしちょう三島みしま全員ぜんいんについて逮捕たいほ指令しれいした[9]駐屯ちゅうとんないには、パトカー警務けいむたいしろいジープが次々つぎつぎもうスピードではいってていた[12][13]。このころ、すでにテレビやラジオも事件じけん第一報だいいっぽうつたえていた[9]

バルコニーで演説えんぜつ

編集へんしゅう

部隊ぶたいない放送ほうそういた自衛じえいかんやく800から1000めいが、続々ぞくぞくあし本館ほんかん正面しょうめん玄関げんかんまえ前庭ぜんていあつまりした[4][7]なかにはすでに食堂しょくどう昼食ちゅうしょくはじめ、それを中断ちゅうだんしてものもあった[6]かれらのなかでは、「暴徒ぼうと乱入らんにゅうして、ひとられた」「総監そうかん人質ひとじちられた」「赤軍せきぐんたんじゃないか」「三島みしま由紀夫ゆきおもいるのか」などと情報じょうほう錯綜さくそうしていた[6][9][12]

1155ふんごろ鉢巻はちまきしろ手袋てぶくろけた森田もりた必勝ひっしょう小川おがわ正洋まさひろが、「げき」を多数たすう撒布さんぷし、要求ようきゅう項目こうもく墨書すみがきしたまく総監そうかんしつまえバルコニーうえかららした[12]自衛じえいかん2にんがジャンプしてまくきずりくだそうとしたが、とどかなかった[12]前庭ぜんていには、ジュラルミンたてった機動きどう隊員たいいんや、新聞しんぶんしゃやテレビなど報道陣ほうどうじんくるまあつまっていた[13][20]

当日とうじつそうかんからやく50メートルしかはなれていない市ヶ谷いちがや会館かいかん例会れいかいていただてかい会員かいいん30めいについては、幕僚ばくりょうらは三島みしま要求ようきゅうれずに会館かいかんないめる処置しょちをし、警察けいさつ監視かんしかれて現場げんば召集しょうしゅうさせなかった[16][20]不穏ふおん状況じょうきょうって動揺どうようする会員かいいんらと警察けいさつ自衛隊じえいたいとのあいだ小競こぜいがこり、ピストル制止せいしされた[16][20]

正午しょうごげるサイレンが市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとん上空じょうくうひびき、太陽たいようひかりびてひか日本にっぽんがたな・“せきまごろく”の抜身ぬきみ右手みぎてかかげた三島みしまがバルコニーにった[6][10][注釈ちゅうしゃく 5]日本にっぽんがたなえたのは一瞬いっしゅんのことだった[6]三島みしまあたまには、「七生しちしょう報國ほうこく」(ななたびまれわっても、朝敵ちょうてきほろぼし、くにむくいるの[注釈ちゅうしゃく 6])とかれたまる鉢巻はちまきかれていた[6][10]みぎ背後はいごにはおな鉢巻はちまき森田もりた仁王におうちし、正面しょうめん凝視ぎょうししていた[13]

三島みしまだ」「なんだあれは」「ばかやろう」などと口々くちぐちこえがるなか三島みしま集合しゅうごうした自衛じえいかんたちにかい、しろ手袋てぶくろこぶしげて絶叫ぜっきょうしながら演説えんぜつはじめた[9]。〈日本にっぽんまもる〉ための〈けんぐん本義ほんぎ〉にかえれという憲法けんぽう改正かいせい決起けっきうなが演説えんぜつで、主旨しゅし撒布さんぷされた「げき」とほぼおな内容ないようであった[21][22]上空じょうくうには、はやくも異変いへんきつけたマスコミヘリコプター騒音そうおんし、なんだい旋回せんかいしていた[6][20]

おまえら、け。しずかにせい。しずかにせい。はなしけ。男一匹おとこいっぴきいのちをかけて諸君しょくんうったえているんだぞ。いいか。それがだ、いま日本人にっぽんじんがだ、ここでもってがらねば、自衛隊じえいたいがらなきゃ、憲法けんぽう改正かいせいってものはないんだよ。諸君しょくん永久えいきゅうにだね、ただアメリカの軍隊ぐんたいになってしまうんだぞ。諸君しょくん日本にっぽん……アメリカからしかないんだ。シビリアン・コントロールといって……シビリアン・コントロール……んだ。シビリアン・コントロールというのはだな、しん憲法けんぽうしたでこらえるのがシビリアン・コントロールじゃないぞ。
そこでだ、おれは4ねんったんだ。自衛隊じえいたいがるを。……4ねんったんだ、……最後さいごの30ふんに……っているんだよ。諸君しょくん武士ぶしだろう。武士ぶしならば自分じぶん否定ひていする憲法けんぽうをどうしてまもるんだ。どうして自分じぶん否定ひていする憲法けんぽうのために、自分じぶんらを否定ひていする憲法けんぽうにぺこぺこするんだ。これがあるかぎり、諸君しょくんたちは永久えいきゅうすくわれんのだぞ。 — 三島みしま由紀夫ゆきお、バルコニーにて[21][注釈ちゅうしゃく 7]

自衛じえいかんたちは一斉いっせいに、「こえねえぞ」「め」「したりてきてしゃべれ」「おまえなんかになにほどけるんだ」「ばかやろう」とはげしい怒号どごうばした[6][9]。「われわれの仲間なかまきずつけたのは、どうしたわけだ」と野次やじぶと、すかさず三島みしまはそれにこたえて、「抵抗ていこうしたからだ」とすさまじい気迫きはくでやりかえした[12][21]

そのにいたKりく曹(原典げんてんでも匿名とくめい)は、うるさい野次やじ舌打したうちし、「絶叫ぜっきょうする三島みしま由紀夫ゆきおうったえをちゃんといてやりたいがした」「ところどころ、はなし野次やじのため聴取ちょうしゅできない個所かしょがあるが、三島みしまのいうことも一理いちりあるのではないかと心情しんじょうてき理解りかいした」とのちかたり、いったん号令ごうれいをかけて集合しゅうごうさせたなら、きちんと部隊ぶたいべつ整列せいれつしてくべきだったのではないかとしている[9][注釈ちゅうしゃく 8]

三島みしまは、〈諸君しょくんなか一人ひとりでもおれと一緒いっしょやつはいないのか〉とさけび、10びょうほど沈黙ちんもくしてったが、相変あいかわらず自衛じえいかんらは、「気違きちがい」「そんなのいるもんか」と罵声ばせいびせた[9]予想よそうえた怒号どごうはげしさやヘリコプターの騒音そうおんで、演説えんぜつ予定よてい時間じかんよりもかなりすくなく、わずか10ふんほどでげられた[18]三島みしま演説えんぜつはやめにげたのは、機動きどうたいいちかい突入とつにゅうしたのをたからだとも推測すいそくされている[13]

演説えんぜつえた三島みしまは、最後さいご森田もりたとも皇居こうきょむかって、〈天皇陛下てんのうへいかまんさい!〉を三唱さんしょうした。そのときも、「ひきずりろせ」「じゅうて」などの野次やじで、ほとんどもききとれないほどだった[9]。このだい32普通ふつう連隊れんたいは100めいほどの留守るす部隊ぶたいのこして、900めい精鋭せいえい部隊ぶたいひがし富士ふじ演習えんしゅうじょうかけて留守るすであった[6]三島みしまは、森田もりた情報じょうほう連隊れんたいちょうだけが留守るすだと勘違かんちがいしていた[6]。バルコニーまえあつまっていた自衛じえいかんたちは通信つうしん資材しざい補給ほきゅうなどの、現職げんしょくにおいてはどちらかといえば三島みしま想定そうていした「武士ぶし」ではない隊員たいいんらであった[6]

三島みしまかみ風連ふうれん敬神けいしんとう)の精神せいしんせいすこしでもちかづくことにおもきをいて、マイク使用しようしていなかった[12][23]。マイクや拡声かくせい使つかわずに、あくまでも雄叫おたけびの肉声にくせいにこだわった[12][24]三島みしまはやし房雄ふさおとの対談たいだん対話たいわ日本人にっぽんじんろん』(1966ねん)のなかで、神風かみかぜれん西洋せいよう文明ぶんめい対抗たいこうするため、電線でんせんしたをくぐるとき白扇はくせんあたませたことや、かれらがあえて日本にっぽんがたなだけでたたかったたましい意味いみかたっていた[25][注釈ちゅうしゃく 9]

三島みしま演説えんぜつをテレビでていた作家さっか野上のかみ弥生子やよこは、もしも自分じぶん母親ははおやだったら「(マイクを)そのはしってとどけにってやりたかった」とかたっていたという[26]水木みずきしげるは、『コミック昭和しょうわだい8かん(1989ねん)で、当時とうじ自衛じえいかん演説えんぜつかなかったことについて、「三島みしま由紀夫ゆきお武士ぶしどう強調きょうちょうしながら自衛隊じえいたいいん相手あいてにされなかったのは自衛隊じえいたいいんゆたかな日本にっぽん個人こじん主義しゅぎ享楽きょうらく主義しゅぎ傾向けいこうになっていたからだろう」としている[27]

事前じぜん三島みしま連絡れんらくけ、当日とうじつあさ、11市ヶ谷いちがや会館かいかんるように指定していされていたサンデさんで毎日まいにち記者きしゃ徳岡とくおか孝夫たかおとNHK記者きしゃ伊達だてそうかつは、だてかい会員かいいん田中たなか健一けんいちかいして三島みしま手紙てがみ檄文げきぶん、5にん写真しゃしんなどがはいった封書ふうしょわたされていた[12]。それはまんいち警察けいさつから檄文げきぶん没収ぼっしゅうされ、事件じけん隠蔽いんぺいされたときのことを惧れてたくされたものだった[12]徳岡とくおかはそれを靴下くつした内側うちがわかくしてバルコニーまえまではしり、演説えんぜついていた[12]

前庭ぜんていけつけたテレビ関係かんけいしゃなどは、野次やじ騒音そうおん演説えんぜつはほとんどこえなかったと証言しょうげんしているが、徳岡とくおか孝夫たかおは、「みみさえあればこえた」「なぜ、もうすこしんしずかにしてかなかったのだろう」とし[12]、「自分じぶんたち記者きしゃらには演説えんぜつこえ比較的ひかくてきよくこえており、テレビ関係かんけいしゃとはみみちがうのだろう」とかたっている[28][注釈ちゅうしゃく 10]

この演説えんぜつ全容ぜんよう録音ろくおんできたのは文化放送ぶんかほうそうだけだった。マイクをえだくくけて、罵声ばせい報道ほうどうヘリコプターの騒音そうおんなか、〈それでも武士ぶしか〉と自衛じえいかんたちにけて怒号どごうはっする三島みしまこえ良好りょうこう録音ろくおんすることに成功せいこうし、スクープとなったという[12][注釈ちゅうしゃく 11]文化放送ぶんかほうそう報道ほうどう監修かんしゅう『スクープ音声おんせいつたえた戦後せんごニッポン』(2005ねん新潮社しんちょうしゃ)の付属ふぞくCDでこの演説えんぜつ肉声にくせいくことができる。

割腹かっぷく自決じけつ

編集へんしゅう

1210ふんごろ森田もりたともにバルコニーから総監そうかんしつもどった三島みしまは、だれうともなく、「20ふんくらいはなしたんだな、あれではこえなかったな」とつぶやいた[29]。そして益田ますだそうかんまえち、「総監そうかんには、うらみはありません。自衛隊じえいたい天皇てんのうにおかえしするためです。こうするより仕方しかたなかったのです」とはなしかけ、制服せいふくのボタンをはずした[13][29][30]

三島みしまは、しょうそうかんてていた短刀たんとう森田もりたからり、わりに抜身ぬきみ日本にっぽんがたなせきまごろく森田もりたわたした[13]。そして、そうかんからやく3メートルはなれたあか絨毯じゅうたんうえ上半身じょうはんしんはだかになった三島みしまは、バルコニーにかうように正座せいざして短刀たんとう両手りょうて[4][30]森田もりたに、「きみはやめろ」とさんことばかり殉死じゅんしおもいとどまらせようとした[10][31]

割腹かっぷくしたで、“たけ”とゆび色紙いろがみくことになっていたため、しょう色紙いろがみしたが、三島みしまは「もう、いいよ」とってさびしくわらい、右腕うわんにつけていた高級こうきゅう腕時計うでどけいを、「しょう、これをおまえにやるよ」とわたした[10][18]。そして、「うーん」という気合きあいをれ、「ヤアッ」と両手りょうてひだり脇腹わきばら短刀たんとうたてて、みぎ真一文字まいちもんじ作法さほう切腹せっぷくした[6][10][29]

ひだり後方こうほうった介錯かいしゃくじん森田もりたは、つぎ自身じしん切腹せっぷくひかえていたためか、尊敬そんけいするへのためらいがあったのか、三島みしまの頸部に太刀たちろしたが切断せつだんなかばまでとなり、三島みしましずかにまえほうかたむいた[6][30][32]。まだ三島みしまきているのをしょう古賀こがが、「森田もりたさんもういち太刀たち」「とどめを」とこえをかけ、森田もりたさん太刀たちろした[13][30][33]そうかんは、「やめなさい」「介錯かいしゃくするな、とどめをすな」とさけんだ[30][注釈ちゅうしゃく 12]

介錯かいしゃくがうまくいかなかった森田もりたは、「ひろしちゃんたのむ」とかたなわたし、古賀こがいち太刀たちるって頸部のかわいちまいのこすという古式こしきのっとって切断せつだんした[13]最後さいごしょうが、三島みしまにぎっていた短刀たんとう使つかくびかわ胴体どうたいからはなした[13][33][注釈ちゅうしゃく 13]。そのあいだ小川おがわは、三島みしまらの自決じけつ自衛じえいかんらに邪魔じゃまされないように正面しょうめん入口いりくち付近ふきん見張みはりをしていた[7]

つづいて森田もりた上着うわぎぎ、三島みしま遺体いたいとな位置いち正座せいざして切腹せっぷくしながら、「まだまだ」「よし」と合図あいずし、それをけて、古賀こがいち太刀たち介錯かいしゃくした[29]。そのしょう小川おがわ古賀こがの3にんは、三島みしま森田もりたりょう遺体いたい仰向あおむけになおして制服せいふくをかけ、両人りょうにんくびならべた[7][29]そうかんが「きみたち、おまいりしたらどうか」「自首じしゅしたらどうか」とこえをかけた[30]

3にんそうかんあしのロープをはずし、「三島みしま先生せんせい命令めいれいで、あなたを自衛じえいかんわたすまで護衛ごえいします」とった。そうかんが、「わたしはあばれない。しばったままひとさまのまえすのか」とうと、3にん素直すなおそうかん拘束こうそくすべいた[30]三島みしま森田もりたくびまえ合掌がっしょうし、だまってなみだをこぼす3にんそうかんは、「もっとおもいきりけ…」とい、「自分じぶんにも冥福めいふくいのらせてくれ」と正座せいざして瞑目めいもく合掌がっしょうした[29]

1220ふんぎ、そうかんしつ正面しょうめん入口いりくちから小川おがわ古賀こがそうかんりょうわきからささえ、しょう日本にっぽんがたなせきまごろくって廊下ろうか[7][13]。3にんそうかん吉松よしまつ1わたし、日本にっぽんがたなあづけ、その牛込うしごめ警察けいさつしょいん現行げんこうはん逮捕たいほされた[12][13]警察けいさつ温情おんじょうからか3にん手錠てじょうはかけられなかった[35]むらがる報道陣ほうどうじんける正面しょうめん玄関げんかんからパトカーで連行れんこうされてとき何人なんにんかの自衛じえいかんが3にんあたまなぐったため、警察官けいさつかんが「ばかやろう、なにをするか」と一喝いっかつしてせいした[35][36]

1223ふんそうかん室内しつないはいった署長しょちょうが2めい死亡しぼう確認かくにんした[16]。「きみ三島みしま由紀夫ゆきおしたしいのだろ?すぐって説得せっとくしてやめさせろ」と土田つちた國保くにやす警備けいび部長ぶちょうから指示しじけて、警務けいむ参事官さんじかんけん人事じんじだいいち課長かちょう佐々淳行さっさあつゆき警視庁けいしちょうから現場げんばけつけたが、三島みしま自決じけつまでにわなかった。佐々ささは、遺体いたい対面たいめんしようと総監そうかんしつはいったとき様子ようすを「足元あしもと絨毯じゅうたんがジュクッとおとてた。みるとうみあか絨毯じゅうたんだから見分みわけがつかなかったのだ。いまもあの不気味ぶきみ感触かんしょくおぼえている」と述懐じゅっかいしている[37][38]

人質ひとじちとなったそうかんはその、「被告ひこくたちににくいという気持きもちは当時とうじからなかった」とし、「くにおもい、自衛隊じえいたいおもい、あれほどのことをやった純粋じゅんすいくにおもしんは、個人こじんとしてはってあげたい。にくいという気持きもちがないのは、純粋じゅんすい気持きもちをっておられたからとおもう」とかたった[30]

現場げんば押収おうしゅうひんなかに、辞世じせいかれた短冊たんざくが6まいあった。三島みしまが2森田もりたが1のこりのメンバーも1ずつあった[11]

益荒男ますらおが たばさむ太刀たちの さやりに いくとせたいへて 今日きょうはつしも
るをいとふ にもひとにも 先駆さきがけて るこそはなと しょう夜嵐よあらし — 三島みしま由紀夫ゆきお
今日きょうにかけて かねてちかいひし むねの おもひをるは 野分のわけのみかは — 森田もりた必勝ひっしょう
もえゆる 大和やまとしんを はるかなる おおみこころの そなはすまで — しょう正義まさよし
くもをらび しらゆきさやぐ 富士ふじの うたしんぞ もののふみち — 小川おがわ正洋まさひろ
獅子ししとなり とらとなりても くにのため ますらをぶりも かみのまにまに — 古賀こが浩靖ひろやす

三島みしま由紀夫ゆきお本名ほんみょう平岡ひらおかこう)は享年きょうねん45。森田もりた必勝ひっしょう享年きょうねん25、自分じぶんを「まさかつ」でなく、「ひっしょう」とぶことをこのんだという[13]

当日とうじつ余波よは

編集へんしゅう

市ヶ谷いちがや会館かいかんなかで、警察官けいさつかん機動きどうたい監視かんしかれていただてかい会員かいいん30にんちゅう森田もりたおなはんものたちは事件じけんって動揺どうようし、「(現場げんばに)かせろ」とはげしく抵抗ていこうして3めい公務こうむ執行しっこう妨害ぼうがい逮捕たいほされた[16][20]会館かいかんのこされた会員かいいんたちは、任意にんい同行どうこうもとめられ、整列せいれつして「きみ」を斉唱せいしょうしたのち四谷よつやしょれてかれた[16]

1230ふんぎ、そうかんないもうけられた記者きしゃ会見かいけんじょうでは、開口一番かいこういちばん2人ふたり自決じけつした模様もようつたえる警視庁けいしちょう係官かかりかんと、矢継やつばや生死せいし質問しつもんする新聞しんぶん記者きしゃたちとの興奮こうふんしたやりりがわされはじめた[16]2人ふたりくびがはねられたことをはじめてった記者きしゃたちのあいだからは、うめきごえれ、どよめきがひろがった[16]

吉松よしまつ1記者きしゃたちのまえ一部始終いちぶしじゅう説明せつめいした。切腹せっぷく介錯かいしゃくというしんじがたい状況じょうきょう記者きしゃたちはなん確認かくにんし、「つまりくびどうはなれたんですか」と1人ひとり大声おおごえさけぶように質問しつもんすると、吉松よしまつ1はそのままオウムがえしで肯定こうていした[12]。もはやくべきことがなくなった記者きしゃたちはそれぞれ足早あしばやそとっていった[12]

多方面たほうめん活躍かつやくし、ノーベル文学ぶんがくしょう候補こうほとしてもられていた著名ちょめい作家さっかのクーデターびかけと割腹かっぷく自決じけつ衝撃しょうげきのニュースは、国内外こくないがいのテレビ・ラジオで一斉いっせい速報そくほうながされ、まちでは号外ごうがいくばられた[10][16][20][39]番組ばんぐみ急遽きゅうきょ特別とくべつ番組ばんぐみ変更へんこうされ、文化ぶんかじんなど識者しきしゃ電話でんわによる討論とうろんなどもおこなわれた[40]市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとんまえには、9つあまりの右翼うよく団体だんたい続々ぞくぞくせた[4]

1230ふんから防衛庁ぼうえいちょう記者きしゃ会見かいけんひらいた中曽根なかそね康弘やすひろ防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかんは、事件じけんを「非常ひじょう遺憾いかん事態じたい」とし、三島みしま行動こうどうを「迷惑めいわくせんまん」「民主みんしゅてき秩序ちつじょ破壊はかいする」ものと批判ひはんした。官邸かんていでニュースをった佐藤さとう栄作えいさく首相しゅしょう記者きしゃだんかこまれ、「くるったとしかおもえない。常軌じょうきいっしている」とコメントした[12][40]両人りょうにんはそれまで、三島みしま自衛隊じえいたい体験たいけん入隊にゅうたい自衛隊じえいたいPRのこう材料ざいりょうとして好意こういてきていたが、事件じけん政治せいじとしての立場たちば発言はつげんした[41]。なお、佐藤さとう首相しゅしょうはこの日記にっきに「(事件じけんこした)この連中れんちゅうだてかい三島みしま由紀夫ゆきおそのときいておどろくのみ。くるったとしかかんがへられぬ。詳報しょうほうけて愈々いよいよわからぬことばかり。(中略ちゅうりゃく立派りっぱかただが、場所ばしょ方法ほうほうゆるされぬ。しいひとだが、乱暴らんぼうはなんといってもゆるされぬ」と困惑こんわくしているむねのこしている[42]一方いっぽう中曽根なかそねのちに『わたし履歴りれきしょ』で「わたしは、これは美学びがくじょう事件じけんでも芸術げいじゅつてき殉教じゅんきょうでもなく、時代じだいへの憤死ふんしであり、思想しそうじょう諌死かんしだったのだろうとおもった。が、菜根さいこんたんにあるように『操守そうしゅいむあきらなるべく、しかも激烈げきれつなるべからず』であり、個人こじんてき感慨かんがいにふけっているときではなかった」としている[43]

釈放しゃくほうされた益田ますだそうかん自衛じえいかんたちのまえ姿すがたあらわし、「ご迷惑めいわくかけたがわたしはこのとお元気げんきだ。心配しんぱいしないでほしい」と左手ひだりてたかって挨拶あいさつすると、「いーぞ、いーぞ」「よーし、がんばった」などの声援せいえんがり、拍手はくしゅいた[9]。その取材しゅざいしていた東京とうきょう新聞しんぶん記者きしゃは、その光景こうけいになんとも我慢がまんできないものをかんじたとし、その「軍隊ぐんたい」らしくない集団しゅうだん態度たいどへの違和感いわかん新聞しんぶんコラムにつづった[9]

三島みしま自決じけつたいする追悼ついとうではもちろんない。民主みんしゅ主義しゅぎ挑戦ちょうせんした三島みしまらの行動こうどう非難ひなんし、平和へいわ国家こっか軍隊ぐんたいてっするという決意けつい拍手はくしゅでもない。いってみれば、暴漢ぼうかん監禁かんきんから脱出だっしゅつしてきた“社長しゃちょう”へのねぎらいであり、サラリーマン団結だんけつしんといったところだろうか。
のこされた隊員たいいんへ、マイクで指示しじた。「みなさんは勤務きんむふくしてください。どうぞ、そうしてください」と哀願あいがん調ちょう隊員たいいんはいっこうにりそうもない。(中略ちゅうりゃく)はからずも露呈ろていした自衛隊じえいたいのサラリーマンてき結束けっそく無秩序むちつじょ状態じょうたい — 東京とうきょう新聞しんぶんコラム(昭和しょうわ45ねん11月25にち[9]

テレビの正午しょうごのニュースで息子むすこ事件じけん注視ちゅうししていた三島みしまちち平岡ひらおかあずさは、速報そくほうのテロップでながれた「介錯かいしゃく」「死亡しぼう」のを「介抱かいほう」と間違まちがえ、なぜ介抱かいほうされたのにんだのだろうと医者いしゃうら動転どうてんしていた[44]。そのうち、外出がいしゅつさき事態じたいったはは倭文しずおもつま瑤子ようこ緊急きんきゅう帰宅きたくし、一家いっかは「青天せいてん霹靂へきれき」の混乱こんらん状態じょうたいとなった[44]

1320ふんごろ三島みしましたしい川端かわばた康成やすなりそうかんけつけたが、警察けいさつ現場げんば検証けんしょうちゅう総監そうかんしつにはちかづけなかった[45]呆然ぼうぜん憔悴しょうすいした面持おももちの川端かわばた報道陣ほうどうじんかこまれ、「ただおどろくばかりです。こんなことは想像そうぞうもしなかった――もったいないかたをしたものです」とこたえた[46]石原いしはら慎太郎しんたろう当時とうじ参議院さんぎいん議員ぎいん)も現場げんばおとずれたが、入室にゅうしつはしなかったという[47]石原いしはらあつまった記者きしゃだんたいして「現代げんだい狂気きょうきとしかいいようがない」、「ただわかいのちをかけた行動こうどうとしては、あまりにも、みのりないことだった」とコメントしている[48]

14警視庁けいしちょう牛込うしごめ警察けいさつしょうちに、「だてかい自衛隊じえいたい侵入しんにゅう不法ふほう監禁かんきん割腹かっぷく自殺じさつ事件じけん特別とくべつ捜査そうさ本部ほんぶ」を設置せっちした[9]自衛隊じえいたい最高さいこう幹部かんぶ1人ひとりは、「三島みしま自決じけつったあとの隊員たいいんたちの反応はんのうはガラリとかわった。だれもが、ことばをにごし、複雑ふくざつ表情ひょうじょうでおしだまったまま、放心ほうしんしたようであった。まさか自決じけつするとはおもっていなかったのだろう。その衝撃しょうげきは、おおきいようだ」とこの感想かんそうむすんだ[9]

演説えんぜつていたKりく曹も、「割腹かっぷく自決じけついて、そのに1あいだほどわすれてくした」と言葉少ことばすくなにかたり、幕僚ばくりょう3のTも、「まさか、ぬとは! すごいショックだ。自分じぶんもずっと演説えんぜついていたが、わか隊員たいいん野次やじでほとんどききとれなかった。けた言葉ことばならしずかにいてやればよかった」という談話だんわべた[9]

1715ふん三島みしま森田もりたくび検視けんしのためひとつずつビニールぶくろれられ、胴体どうたいひつぎおさめられて、市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとん牛込うしごめしょ移送いそうされ、遺体いたいしょない安置あんちされた[10][49]しょには民族みんぞく学生がくせいたち右翼うよく団体だんたい弔問ちょうもんおとずれ、かり祭壇さいだんもうけられたが、すぐに撤去てっきょされた[4][49]

22ぎ、警視庁けいしちょう三島みしまてい森田もりたのアパートの家宅かたく捜索そうさく開始かいしし、三島みしまいえは、翌日よくじつ午前ごぜん4ごろまで捜索そうさくされた[49][50]三島みしまていざされたもんまえ路上ろじょうには、おおくの報道陣ほうどうじん密集みっしゅうし、その後方こうほうには、三島みしまファンの女学生じょがくせいかた姿すがたられ、詰襟つめえり学生がくせいふく民族みんぞく学生がくせい一団いちだん直立ちょくりつ不動ふどう姿勢しせいほおらし、嗚咽おえつをこらえてなが時間じかんっていたという[9]

検視けんし物証ぶっしょう逮捕たいほ容疑ようぎ

編集へんしゅう

翌日よくじつの11月26にち午前ごぜん1120ふんから1325ふんまで、慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん法医学ほういがく解剖かいぼうしつにて、三島みしま遺体いたい斎藤さいとう銀次ぎんじろう教授きょうじゅ森田もりた遺体いたい船尾せんび忠孝ちゅうこう教授きょうじゅ解剖かいぼう執刀しっとうした。その検視けんしによると、2人ふたり死因しいんは、「頸部わりそうによるはなれだん」で、以下いか所見しょけんとなった[12][34][51]

三島みしま由紀夫ゆきお

頸部は3かいりかけており、7センチ、6センチ、4センチ、3センチのくちがある。右肩みぎかたかたながはずれたとられる11.5センチのせつなそうひだりアゴちいさなこぼれ。腹部ふくぶはヘソを中心ちゅうしんみぎへ5.5センチ、ひだりへ8.5センチのせつなそうふかさ4センチ。小腸しょうちょうたっし、ひだりからみぎ真一文字まいちもんじ身長しんちょう163センチ。45さいだが30さいだい発達はったつした若々わかわかしい筋肉きんにくのうおもさ1440グラム。血液けつえきAがた

森田もりた必勝ひっしょう

だい3頸椎とだい4頸椎のなかあいだ一刀いっとうのもとにとしている。腹部ふくぶきずひだりからみぎ水平すいへい、ヘソのひだり7センチ、ふかさ4センチのきず、そこからみぎへ5.4センチのあさせつなそう、ヘソのみぎ5センチにきりそう右肩みぎかたに0.5センチのちいさなきず身長しんちょう167センチ。わかいきれいなからだ — 解剖かいぼう所見しょけん昭和しょうわ45ねん11月26にち

三島みしまは、小腸しょうちょうが50センチほどそとるほどの堂々どうどうとした切腹せっぷくだったという[6]。またいち太刀たちあごたりだい臼歯きゅうしくだけ、したろうとしていたとされる[6]

介錯かいしゃく使つかわれた日本にっぽんがたなせきまごろくは、警察けいさつ検分けんぶんによると、介錯かいしゃく衝撃しょうげき真中まんなかよりさきがSがたがっていた[10][34]。また、刀身とうしんけないように目釘めくぎりょうはしつぶしてあるのを、せきまごろくおくおもである渋谷しぶや大盛おおもりどう書店しょてん社長しゃちょう舩坂ひろし牛込うしごめ警察けいさつしょ確認かくにんした[44][52]

刀剣とうけん鑑定かんてい専門せんもん渡部わたなべしんわれじゅは、このかたなかたなもんは「三本杉さんぼんすぎ」でなく、「互のみだれ」だとし、かたなもかなりやわらかく、せきまごろくきたかたとはちがうと鑑定かんていした[53]ほかにも、このかたな本物ほんものせき孫六まごろくではないとする専門せんもん断言だんげんや、かたな出所しゅっしょ調査ちょうさもあり、三島みしま贋物にせものをつかまされていたというせつ根強ねづよくある[54]

しょう正義まさよし小川おがわ正洋まさひろ古賀こが浩靖ひろやす所持しょじひんには、三島みしまが3めいわたした「命令めいれいしょ」と現金げんきん3まんえんずつ(弁護士べんごし費用ひよう)、特殊とくしゅ警棒けいぼう各自かくじ1ほんずつ、登山とざんナイフなどがあった[34]しょうへの命令めいれいしょにはおもに、以下いか文言もんごんかれてあった。

きみ任務にんむ同志どうし古賀こが浩靖ひろやすくんとともに人質ひとじち護送ごそうし、これを安全あんぜんわたしたるのち、いさぎよくばくき、だてかい精神せいしん堂々どうどう法廷ほうていにおいて陳述ちんじゅつすることである。
今回こんかい事件じけんだてかい隊長たいちょうたる三島みしま計画けいかく立案りつあん命令めいれいし、学生がくせいちょう森田もりた必勝ひっしょう参画さんかくしたるものである。三島みしま自刃じじん隊長たいちょうとしての責任せきにんじょう当然とうぜんのことなるも、森田もりた必勝ひっしょう自刃じじんみずかすすんでだてかいぜん会員かいいんおよび現下げんか日本にっぽん憂国ゆうこくこころざしいだ青年せいねんそう代表だいひょうして、みずかはんをたれて青年せいねん心意気こころいきしめさんとする鬼神きじんかしむるりんれつ行為こういである。
三島みしまはともあれ森田もりた精神せいしん後世こうせいこうかつて恢弘せよ。 — 三島みしま由紀夫ゆきお命令めいれいしょ[55]

しょう正義まさよし小川おがわ正洋まさひろ古賀こが浩靖ひろやすの3めいは、嘱託しょくたく殺人さつじん不法ふほう監禁かんきん傷害しょうがい暴力ぼうりょく行為こうい建造けんぞうぶつ侵入しんにゅう銃刀じゅうとうほう違反いはんの6つの容疑ようぎで、11月27にち送検そうけんされ[4][49]、その12がつ17にちに、嘱託しょくたく殺人さつじん傷害しょうがい監禁かんきん致傷ちしょう暴力ぼうりょく行為こうい職務しょくむ強要きょうようの5つのつみ起訴きそされた[49]

事件じけん

編集へんしゅう

各所かくしょ反響はんきょう論調ろんちょう

編集へんしゅう

自衛隊じえいたい防衛庁ぼうえいちょう

編集へんしゅう

事件じけん翌日よくじつ11がつ26にちそうかんしつまえには、だれがたむけたのかきく花束はなたばがそっとかれていたが、ものの1あいだとたたぬうちに幹部かんぶによってかたづけられた[56]。その東京とうきょうおよび近郊きんこうざいたいする陸上りくじょう自衛隊じえいたいないおこなわれたアンケート(差別さべつ抽出ちゅうしゅつ1000めい)によると、だい部分ぶぶん隊員たいいんが、「げきかんがかた共鳴きょうめいする」というこたえであった。一部いちぶには、「おおいに共鳴きょうめいした」というこたえもあり、防衛庁ぼうえいちょうをあわてさせたという[56]

三島みしま対談たいだんしたことのある防衛大学校ぼうえいだいがくこうちょう猪木いのき正道せいどうは、三島みしまの「げき」を、「公共こうきょう秩序ちつじょまもるための治安ちあん出動しゅつどう公共こうきょう秩序ちつじょ破壊はかいするためのクーデター転化てんかする不逞ふてい思想しそうであり、これほど自衛隊じえいたい侮辱ぶじょくするかんがかたはない」と批判ひはんした[57]

その三島みしまだてかい体験たいけん入隊にゅうたいしていた陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこう滝ヶ原たきがはら駐屯ちゅうとんには、だい2中隊ちゅうたい隊舎たいしゃまえ追悼ついとうがひっそりと建立こんりゅうされた[41][58]いしぶみには、「ふかよるに あかつきつげぐる くたかけの わかきをひきいてぞ こしゆるみね おおやけしょ」という三島みしまきざまれた[41][58]

警察けいさつが、三島みしまった自衛隊じえいたいわか幹部かんぶ事情じじょう聴取ちょうしゅすると、三島みしま共鳴きょうめい真剣しんけん日本にっぽん防衛ぼうえい問題もんだいかんがえているもの予想よそう以上いじょうおおかったという[59]だてかいにゲリラ戦略せんりゃく講義こうぎなどをしていた山本やまもとしゅんかち1事情じじょう聴取ちょうしゅされたが、警察けいさつ当局とうきょく事件じけんたんなる暴徒ぼうと乱入らんにゅう事件じけんというかたち処理しょりする方針ほうしんとなっていたため、山本やまもと1法廷ほうていまではばれなかった[59][注釈ちゅうしゃく 14]

12月22にち東部とうぶ方面ほうめん総監そうかん益田ますだけんりくすすむ事件じけんぜん責任せきにんをとって辞職じしょくした[49]。このさい益田ますだそうかん中曽根なかそね康弘やすひろ防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかん談判だんぱんしたが、そのとき記録きろくテープには、中曽根なかそねが「おれには将来しょうらいがある。そうかんくらい人臣じんしんきわめたのだからぜん責任せきにんればいちけん落着らくちゃくだ」「東部とうぶ方面ほうめん総監そうかん俸給ほうきゅうを2号俸ごうほうげるから…」(これは退職たいしょくきん計算けいさん基礎きそがくやし、退職たいしょくきんやすという意味いみ)と打診だしんしていたくだりがあるとされる[15]

三島みしま事件じけん被害ひがいしゃ1人ひとりである寺尾てらお克美かつみ3は、このテープをいて「ちょうえくり」かえり、それまで尊敬そんけいしていた中曽根なかそねを、「こういうおとこかとなげかわしくおもった」としている[15][注釈ちゅうしゃく 15]

事件じけんから3ねんの1973ねん昭和しょうわ48ねんあきから、自衛じえいかんよう服務ふくむ宣誓せんせいぶんに「日本国にっぽんこく憲法けんぽうおよ法令ほうれい遵守じゅんしゅし」という文言もんごん防衛庁ぼうえいちょう内局ないきょく挿入そうにゅうした[35]。この文言もんごんは、それまで国家こっか公務員こうむいん警察官けいさつかん)の宣誓せんせいぶんだけにかれ、自衛じえいかん宣誓せんせいぶんに「憲法けんぽう遵守じゅんしゅ」をれるのは躊躇ちゅうちょされていたが(憲法けんぽうだい9じょう素読そどくすれば自衛隊じえいたい存在そんざい違憲いけんとらえることが可能かのうなため[35])、三島みしま事件じけん自衛隊じえいたいまったくの安全あんぜん人畜じんちく無害むがい組織そしきであることが明瞭めいりょうとなったため(だれ1人ひとりとしてこの文言もんごんれても将校しょうこう反抗はんこうしないと判断はんだんしたため[35])、挿入そうにゅうすることになった[35]

新聞しんぶん社説しゃせつ海外かいがい

編集へんしゅう

事件じけんたいする主要しゅよう新聞しんぶん各紙かくし論調ろんちょうは、読売新聞よみうりしんぶん朝日新聞あさひしんぶん毎日新聞まいにちしんぶん、がほぼ一様いちように、当日とうじつ中曽根なかそね康弘やすひろ防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかん佐藤さとう栄作えいさく首相しゅしょうのコメントを踏襲とうしゅうするような論調ろんちょうで、三島みしま行動こうどうを、狂気きょうき暴走ぼうそうとらえ、はん民主みんしゅ主義しゅぎてき行動こうどうだんじてゆるされないという主旨しゅしのものであった[16][39][40]

朝日新聞あさひしんぶん社説しゃせつは、三島みしま行動こうどう支配しはいしていたものは「政治せいじてき思考しこうより、その強烈きょうれつで、特異とくい美意識びいしき」だろうとしたうえで、「かれ哲学てつがくがどのようなものであるか理解りかいできたとしても、その行動こうどうけっしてゆるされるべきではない」と批判ひはんした[61]毎日新聞まいにちしんぶん社説しゃせつでも、「まったく狂気きょうき沙汰さたというよりほかない」としたうえで、「(三島みしまの)思想しそうがいかに純粋じゅんすいで、それなりの価値かちつものであろうと、正当せいとうなルールによらない、はん民主みんしゅてき行動こうどうだんじてゆるされない」とまとめられた[62]

アメリカのクリスチャン・サイエンス・モニター社説しゃせつは、「三島みしま自決じけつ日本にっぽん軍国ぐんこく主義しゅぎ復活ふっかつのきざしとみなすことはむずかしい。それにもかかわらず、三島みしま自決じけつ意味いみはよく検討けんとうするにあたいするほど重大じゅうだいである」とろん[63]、イギリスのフィナンシャル・タイムズは、「たとえ気違きちがいだろうと正気しょうきだろうと、かれ三島みしま)のしめした手本てほんは、日本にっぽん少数しょうすう若者わかものたちにとって、現在げんざい将来しょうらいつうじ、つよ影響えいきょうりょくつことになるだろう」とした[63]

ドイツディ・ヴェルトは、「詩人しじん精神せいしん純粋じゅんすいさにじゅんじてハラキリをおこなう」とほうじた[63]フランスのレクスプレスは、「うれうべき日本にっぽん現状げんじょうむかしもどせととなえて割腹かっぷくした」とほうじ、ル・モンドは、「三島みしま自刃じじん偽善ぎぜん告発こくはつするためのものである」とろんじた[63]

オーストラリアフィナンシャル・レビューは、「三島みしまを、日本にっぽんおおちょう国家こっか主義しゅぎ暴力団ぼうりょくだんむすびつけるのは、たん三島みしまたいする誤解ごかいのみならず、近代きんだい日本にっぽんたいする誤解ごかいでもある」として、「伝統でんとうてき文化ぶんか近代きんだい社会しゃかいあいだにある構造こうぞうてき相剋そうこくなかに、しん追求ついきゅうし、にまでいたったかれ悲劇ひげきは、かれ自身じしん作品さくひんのように完璧かんぺきいきにまで構成こうせいされている」とろんじた[63]

ワシントンからは、「軍国ぐんこく主義しゅぎ復活ふっかつおそれ」、ロンドンからは「右翼うよく刺激しげきすることが心配しんぱい」、パリからは「知名ちめいじん行動こうどうおどろき」といった打電だでんだった[39]

ヘンリー・ミラーは、「三島みしま高度こうど知性ちせいめぐまれていた。その三島みしまともあろうじんが、大衆たいしゅうしんえようとこころみても無駄むだだということを認識にんしきしていなかったのだろうか」といかけ、以下いかのようにかたった[64]

かつて大衆たいしゅう意識いしき変革へんかく成功せいこうしたひとはひとりもいない。アレキサンドロス大王だいおうも、ナポレオンも、仏陀ぶっだも、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、そのぼくのるかぎりだれひとりとして、それには成功せいこうしなかった。人類じんるいだい多数たすう惰眠だみんむさぼっている。あらゆる歴史れきしつうじてねむってきたし、おそらく原子げんしばくだん人類じんるい全滅ぜんめつさせるときにもまだねむったままだろう。(中略ちゅうりゃくかれらをざめさせることはできない。大衆たいしゅうにむかって、知的ちてきに、平和へいわてきに、うつくしくきよとめいじても、無駄むだおわるだけだ。 — ヘンリー・ミラー「特別とくべつ寄稿きこう[64]

ヘンリー・スコット=ストークスは、三島みしまを「日本人にっぽんじんのうちではもっと重要じゅうよう人物じんぶつ」とし、それまで自民党じみんとう幹部かんぶたちが私的してき場所ばしょでだけ意見いけん交換こうかんしていた国防こくぼう問題もんだい政治せいじ論争ろんそうのすべてを、敢然かんぜんとして「公開こうかいせきちだした」ことで注目ちゅうもくあたいするとして、なぜ、それがいままで日本にっぽん職業しょくぎょう政治せいじたちに出来できなかったのかと指摘してきした[65]

日本にっぽんは)国防こくぼう問題もんだいトランプあそびかポーカー勝負しょうぶをやっているかのように議論ぎろんするくにである――を、認識にんしきできるひとはほとんどあるまい。(中略ちゅうりゃく外国がいこくじん日本にっぽん自由じゆう選挙せんきょおこなわれ、それに過剰かじょう気味ぎみなくらいおびただしい世論せろん調査ちょうさ言論げんろん自由じゆうがあるという事実じじつこそが、日本にっぽん民主みんしゅ主義しゅぎのあることを物語ものがたっているとあたまからしんじこんでいる。三島みしま日本にっぽんにおける基本きほんてき政治せいじ論争ろんそう現実げんじつせいけていること、ならびに日本にっぽん民主みんしゅ主義しゅぎ原則げんそく特殊とくしゅせいについて、注意ちゅうい喚起かんきしたのである。 — ヘンリー・スコット=ストークス「ミシマは偉大いだいだったか」[65]

エドワード・G・サイデンステッカーは、新聞しんぶん記者きしゃらから「三島みしま行動こうどう日本にっぽん軍国ぐんこく主義しゅぎ復活ふっかつ関係かんけいあるか」とわれ、直感ちょっかんてきに「ノー」とこたえた理由りゆう以下いかのようにコメントした[66]

たぶん、いつのか、くに平和へいわとか、国民総生産こくみんそうせいさんとか、そんなものすべてにきあきしたとき、かれあたらしい国家こっか意識いしき守護神しゅごじんされるだろう。いまになってわれわれは、かれなにをしようとこころざしていたかを、きわめてはやくからわれわれにげていて、それをげたことをることができる。三島みしま生涯しょうがいはある意味いみシュバイツァーてき生涯しょうがいだった。 — エドワード・G・サイデンステッカー「時事じじ評論ひょうろん[66]

ドナルド・キーンは、「わたし佐藤さとう首相しゅしょう三島みしま行動こうどう狂気きょうきったのが間違まちがいであることをっている。それ(三島みしま行動こうどう)は論理ろんりてき構成こうせいされた不可避ふかひのものであった。(中略ちゅうりゃく世界せかいだい作家さっかうしなったのである」とかたった[67]

しん左翼さよく

編集へんしゅう

三島みしま討論とうろんかいおこなったことのある東大とうだい全共闘ぜんきょうとうは、駒場こまばキャンパスで「三島みしま由紀夫ゆきお追悼ついとう」のまく弔意ちょういしめし、京都大学きょうとだいがくなどでも、「悼 三島みしま由紀夫ゆきお割腹かっぷく」のまく追悼ついとうした[16][51]

京都大学きょうとだいがくパルチザン指揮しきしゃ滝田たきたおさむは、「われわれ左翼さよく思想しそうてき敗退はいたいです。あそこまでからだをれる人間にんげんをわれわれは一人ひとりっていなかった。動転どうてんしたね。しん左翼さよくがわにも何人なんにんもの"さんとう"をつくられねばならん」とコメントした[16][51]

しん左翼さよく有力ゆうりょく党派とうは幹部かんぶは、三島みしま自分じぶんたちのちがいを強調きょうちょうし、「われわれは三島みしまの“美学びがく”にたいして、“なま哲学てつがく”でいきます。ねばなにかができるというものではないですから。でもぬことをけるというのではありませんよ。われわれがぬときは、ころされてぬのです」とかたった[16]

作家さっか文化ぶんかじん

編集へんしゅう

三島みしまちかしかった友人ゆうじんおな思想しそう系譜けいふつらなる作家さっか評論ひょうろんらは、三島みしま事件じけん意味いみを「諌死かんし」ととらえた[16]三島みしまことなる思想しそう傾向けいこう作家さっからも、三島みしま思想しそうえ、公平こうへい審美しんび文芸ぶんげい批評ひひょうをしていたことにたいする畏敬いけいねんから、現場げんばでの川端かわばた康成やすなりのコメントのように、その稀有けう才能さいのう喪失そうしつ純粋じゅんすいしむこえおおかった[16][40]。その一方いっぽう、あくまでも思想しそうてき反対はんたいはん天皇てんのう姿勢しせいから、三島みしま行動こうどうを「錯誤さくご愚行ぐこう」と批判ひはんする山田やまだ宗睦むねちかなどの評論ひょうろん[68]軍国ぐんこく主義しゅぎ警戒けいかいする野間のまひろしのような、当時とうじの「戦後せんご文化ぶんかじん」の一般いっぱんてき意見いけん反映はんえいするものもおおかった[16][69]

司馬しばりょう太郎たろうは、三島みしまの「うすよごれた模倣もほうしゃ」がることを危惧きぐし、三島みしま文学ぶんがくろんのカテゴリーにめるべきものという主旨しゅしで、政治せいじてき意味いみたせることに反対はんたいし、野次やじった自衛じえいかんたちの大衆たいしゅう感覚かんかくほう正常せいじょう健康けんこうなものとした[70][注釈ちゅうしゃく 16]

柴田しばたしょうは、「直感ちょっかんてきにナルシズムをかんじてはらった」、「わかひとたち、とくしん左翼さよくひとたちには、動揺どうようなどしないでほしい。哲学てつがくによる自己じこ破壊はかい大事だいじなのか、人間にんげんとしてつづけることが大事だいじなのか、自分じぶん原理げんりがどちらにあるのか、たがいによくみとどまってかんがえなければならないときだろう」とかたった[71][注釈ちゅうしゃく 17]

中野なかの重治しげはるは、「佐藤さとう中曽根なかそねも、こんどの『だてかい』を前髪まえがみでつかんだ」とし、三島みしま事件じけんを「狂気きょうきすることにより、ぎゃく自衛隊じえいたい合理ごうりてき理性りせいてきなもの、市民しみんてき常識じょうしき違反いはんしない暴力ぼうりょく集団しゅうだんかのような印象いんしょう社会しゃかい喧伝けんでんする機会きかいとして政治せいじ利用りようしたと批判ひはんした[73]

小林こばやし秀雄ひでおは、「右翼うよくといふやうな党派とうはせいは、あのひと三島みしま)の精神せいしんにはまった関係かんけいがないのに、事件じけんがさういふ言葉ことばさそふ。事件じけん事故じこみに物的ぶってきられるから、これにかんむりせる言葉ことば物的ぶってきに扱はれる」とし、事件じけんについて様々さまざまな「講釈こうしゃく」をしだ批判ひはんする人間にんげんには、「事件じけん抽象ちゅうしょうてき事件じけんとして感受かんじゅちょくすること」が容易よういでないとした[74]

じつみならずらずのうちに事件じけん事故じこみに物的ぶってきに扱つてゐるといふことがあるとおもふ。事件じけんが、わがくに歴史れきしとか伝統でんとうとかいふ問題もんだいふか関係かんけいしてゐることげんふまでもないが、それにしたつて、この事件じけん象徴しょうちょうせいとは、この文学ぶんがくしゃ自分じぶんだけが責任せきにん背負せおいんだ個性こせいてき歴史れきし経験けいけんつくしたものだ。さうでなければ、どうしてたしかに他人たにんであり、孤独こどくでもあるわたしうごかすちからが、それに備つてゐるだらうか。 — 小林こばやし秀雄ひでお感想かんそう[74]

村松むらまつつよしは、作家さっかとしての地位ちい家族かぞくにもめぐまれ、きていれば、いずれノーベル文学ぶんがくしょう受賞じゅしょうする可能かのうせいおおいにあった三島みしまが、そのすべてをって行動こうどうした意義いぎを、「〈昭和しょうわ元禄げんろく〉へのもってする警告けいこく」とし[75]はやし房雄ふさお追悼ついとう集会しゅうかいで、三島みしまが、自衛隊じえいたい本来ほんらいの「名誉めいよある国軍こくぐん」にかえれとびかけ、「をもって反省はんせいうながした」諌死かんしだとした[16]

橋川はしかわ文三ぶんぞうは、三島みしま戦前せんぜんからの精神せいしんまえたうえで、三島みしまの「くる」を、高山たかやま彦九郎ひこくろうかみ風連ふうれん横山よこやま安武やすたけ相沢あいざわ三郎さぶろうや、「無名むめいのテロリスト」の朝日あさひ平吾へいご中岡なかおかうしとらいちおなじように位置いちづけた[76]少年しょうねん時代じだい三島みしま影響えいきょうあたえた保田やすだ與重郎よじゅうろうは、「森田もりた青年せいねんが、自他じた再度さいどともためらつたといふ検証けんしょうは、しんうつくしさのあかしである。やさしいとおもふゆゑにさらにかなしい」[77]、「三島みしまひところさず、自分じぶんぬことに精魂せいこんをこらす精密せいみつだんどりをつけたのである」と哀悼あいとう以下いかのようにかたった[78]

こわれたものきょううんひ、不安ふあんものは暴といひ、またゆきづまりといひ、かべあたまみずからうちつけたものといつたりしてゐる。想像そうぞう比較ひかくたやした事件じけんとして、くにちゅうのみならず世界せかいこわろしいなまぐさい衝動しょうどうあずかへたてん近来きんらい歴史れきしじょう類例るいれいがない。その特異とくい識別しきべつすることはこわれをともなふゆえに、それを無意識むいしきにさけて、政論せいろんてき類型るいけいてき判断はんだんするものは、特異とくいのふくんでゐる創造そうぞうせい未来みらいせい革命かくめいせいおそれる、現状げんじょう自己じこ保全ほぜん処世しょせいしてゐるものらである。創造そうぞうせい以下いかのことばは、イデオロギー所謂いわゆる思想しそう無縁むえんひと生命せいめい威力いりょくそのものである。 — 保田やすだ與重郎よじゅうろうてん時雨しぐれ[78]

高橋たかはし和巳かずみは、三島みしま思想しそうてき立場たちばちがいながらも、「しき味方みかたよりも果敢かかんなるてきはいっそうかなしい」、「もし三島みしま由紀夫ゆきおれいにしてみみあるなら、け。高橋たかはし和巳かずみが〈ひしおをくつがえしていている〉そのこえを」と哀悼あいとうした[79]武田たけだ泰淳たいじゅんは、「わたしかれとは文体ぶんたいもちがい、政治せいじ思想しそうぎゃくでしたが、わたしかれ動機どうき純粋じゅんすいせいいちかいうたがったことはありません」とコメントし[80]大岡おおおか昇平しょうへいは、「ほかにやりかたはなかったものか。……なぜこの才能さいのう破壊はかいされねばならなかったのか」と無念むねんさを表明ひょうめいした[81]

倉橋くらはし由美子ゆみこは、三島みしま行動こうどう非難ひなんしたり否定ひていしたりするのに躍起やっきになっている人間にんげんたち(おもにどう業者ぎょうしゃ作家さっか)を、恐怖きょうふおおきすぎてえることしかできないよわいぬたとえ、かれらの言葉ことばは「自己じこ防衛ぼうえい」のためのしゃべりであり、ひととしてつづけることが大事だいじだとかのその物言ものいいは、自分じぶんほっするようにぬことのできた天才てんさいにとっては「ほとんどみみせきすにらぬ言葉ことば」だとべている[82]。また、もっときていればもっといい仕事しごとができたのにとか、あるいは、文学ぶんがく仕事しごとまってああした行動こうどうはしったというせつとなえたりする作家さっかたいしては、自分じぶんたちが作家さっか文学ぶんがくしゃであることが特別とくべつ資格しかく存在そんざいでもあるかのような(すべて文学ぶんがくのためにあるかのような)物言ものいいをしているとし、「三島みしまどう業者ぎょうしゃたちとのおつきあいにつくづくいやがさしていた気持きもち」がよくかるとかたっている[82]

ひとつの稀有けう文才ぶんさい消滅しょうめつしむのはよいが、きていればまだよい作品さくひんけたのにといういいかたには、かねたまごにわとりしむのにたけちくささがある。三島みしま作品さくひんがもっとおおければそれだけ日本にっぽん文化ぶんか遺産いさんだかなにだかののりょうがふえるのに、というのがそもそも俗悪ぞくあくかんがえかたなので、三島みしまがその行動こうどうによってしめしたのが、文化ぶんかとはどういうものであるかということなのだった。 — 倉橋くらはし由美子ゆみこ英雄えいゆう[82]

中井なかい英夫ひでおは、三島みしま短絡たんらくてき異常いじょうしゃあつかいする風潮ふうちょう批判ひはんし、「ただ劣等れっとうかん裏返うらがえしぐらいのことでかたづけてしまえる粗雑そざつ神経しんけい浅薄せんばく思考しこうが、こうもはばかす時代じだいなのか」となげいた[83]もり茉莉まりは、「首相しゅしょう長官ちょうかんが、三島みしま由紀夫ゆきお自刃じじん狂気きょうき沙汰さただとっているが、わたしちがいはどっちだ、といたい」として、以下いかのようにかたった[84]

現在げんざい日本にっぽんは、外国がいこくからいち人前にんまえ国家こっかとしてあつかわれていない。国家こっかも、人間にんげんも、そのおこなわれていることで、はじめて国家こっかであったり、人間にんげんであったりするのであって、なん交渉こうしょうにおいても、外国がいこくから、すでに、尊敬そんけいあるあつかいをうけていない日本にっぽんは、存在そんざいしていないのとおなじである。(中略ちゅうりゃく滑稽こっけい日本人にっぽんじん状態じょうたいを、悲憤ひふんする人間にんげんと、そんな状態じょうたいを、にぶ神経しんけいけとめ、長閑のどかわらいをうかべている人間にんげんと、どっちが狂気きょうきか? このごろの日本にっぽん状態じょうたい平然へいぜんとしていられる神経しんけいを、普通ふつう人間にんげん神経しんけいであるとは、わたしにはかんがえられない。 — もり茉莉まりちがいはどっち?」[84]

石川いしかわあつしは、〈天皇てんのう中心ちゅうしんとする日本にっぽん歴史れきし文化ぶんか伝統でんとうまも[22]主義しゅぎ三島みしまが、「武士ぶし」というつよ観念かんねんちながら剣術けんじゅつはじめ、〈能動のうどうてきニヒリズム[85]〉の根元ねもとである陽明学ようめいがくという行動こうどう哲学てつがく知行ちぎょう合一ごういつ行動こうどうにより万物ばんぶつ創造そうぞうみなもとである「太虚たいきょ」にする「かえり太虚たいきょ」のかんがえ)をったことが決定的けっていてきであり、〈ムダを承知しょうち〉のへの〈跳躍ちょうやく〉となったのは、だてかいという「集団しゅうだん組織そしき」の一員いちいんとなり「錬成れんせい形式けいしき」をったことがおおきいとし、「もはやたかが思想しそうとはいえない。すでにして、思想しそう信念しんねんであって、組織そしき微小びしょうにしても、ともかく現実げんじつにはたらきかけるちからであった」ととらえつつ、最期さいごのこされた『げき』にみられる「信念しんねんほのお」は「戦中せんちゅう少年しょうねんのすがたにねかへつたかのやう」で、これをめるようなすべての歯止はどめはられたのだろうとしている[86]。そして石川いしかわは、自身じしん三島みしまのように天皇てんのう中心ちゅうしん主義しゅぎを「絶対ぜったい不変ふへん」のものとする思想しそうではないものの、「いのちのみずのあふれるつぼ」(肉体にくたい)のなかの〈ニヒリズム〉が「太虚たいきょ」へとっていった場所ばしょが、「武士ぶし」でない「サラリーマン」がたむろする「役所やくしょ屋上おくじょう」であったことをあわれみ、屋上おくじょうへいがいのあいだに断絶だんぜつがあっても「精神せいしんじょう事件じけんであつたことはいちてんのうたがひもない」と[86]、すでに三島みしま精神せいしんが「太虚たいきょ」にかえしたのち様々さまざまな「思想しそうの惰夫」が「思想しそう符号ふごうせいまけかに拘泥こうでいしてつべこべ」とろんずることをなん[86]三島みしま熊野くまの神社じんじゃ神輿しんよかつぎの最中さいちゅうた〈青空あおぞら〉を「三島みしまくんの〈肉体にくたい〉の戦利せんりひん」だと評価ひょうかした自身じしんの4がつ時評じひょう[87]かさねながら以下いかのように追悼ついとうした[86]

三島みしまくんはわたしのくみしがたい「中心ちゅうしん思想しそうちながらも、その行動こうどう哲学てつがくをもつて、大塩おおしお平八郎へいはちろうらんから学生がくせい運動うんどうにまでわたつて、てきをもふくめたひろいところに単身たんしんよくしるすじとおしてゐた。
さきによんがつのこのらんに、「太陽たいようてつ」についていたとき、わたしは三島みしまくんがミコシをかついで「青空あおぞら」をたくだりをいて、その「青空あおぞら」に感動かんどうしたといつた。いま三島みしまくん文学ぶんがくつて、けんといふ道具どうぐり、それをもつておのれのしたが、この道具どうぐはものをいはないから、当人とうにん末期まっきになにをたか、こちらがわにつたへてるたよりはない。三島みしまくん小説しょうせつなかでは、はらせつつたものが「日輪にちりん」をることになつてゐるが、それから類推るいすいもできない。すべてこれ虚妄きょもうかんずるか。わたしもまたはっするにことばなく、感動かんどうふかしずむばかりである。 — 石川いしかわあつし認識にんしきから行動こうどうへの跳躍ちょうやく[86]

吉本よしもと隆明たかあきは、三島みしまおな戦中せんちゅう戦後せんごとおった世代せだい人間にんげんとして、事件じけん衝撃しょうげき自身じしんへのいとしてかたった[88]

三島みしま由紀夫ゆきお劇的げきてき割腹かっぷく介錯かいしゃくによるくびはね。これは衝撃しょうげきである。この方法ほうほうは、いくぶんかきているものすべてを〈コケ〉にみせるだけの迫力はくりょくをもっている。この方法ほうほうすさまじさと、悲惨ひさんなばかりの〈檄文げきぶん〉や〈辞世じせい〉のうたくだらなさ、政治せいじてき行為こういとしての見当けんとうはずれの愚劣ぐれつさ、にいたる過程かていを、あらかじめテレビカメラに映写えいしゃさせるようなところにあらわれている大向おおむこうむけの〈めた計算けいさん〉の仕方しかた等々とうとう奇妙きみょうアマルガムが、衝撃しょうげき色彩しきさいをあたえている。そしていはここすう年来ねんらい三島みしま由紀夫ゆきおにいだいていたのとおなじようにわたしにのこる。〈どこまで本気ほんきなのかね〉。つまり、わたしにはいちばんわかりにくいところでかれはんでいる。このいにたいして三島みしま方法ほうほうすさまじさだけがこたえになっている。そしてこのこたえ一瞬いっしゅん〈おまえはなにをしてきたのか!〉とせまるだけのちからをわたしにたいしてもっている。 — 吉本よしもと隆明たかあき情況じょうきょうへの発言はつげん――暫定ざんていてきメモ」[88]

磯田いそだ光一こういちは、三島みしま事件じけんは、死後しごびせられる様々さまざま罵詈ばり雑言ぞうごん批判ひはんったうえ行為こういであり、「戦後せんご」という「ストイシズムをうしなった現実げんじつ社会しゃかいそのものに、徹底てっていした復讐ふくしゅうをすること」だったとし、三島みしまにとって天皇てんのうとは、「存在そんざいしえないがゆえに存在そんざいしなければならないなにものか」で、「“絶対ぜったい”へのかわきのもとめた極限きょくげんのヴィジョン」だととらえた[89]

たとえこのたびの事件じけんが、社会しゃかいてきになんらかの影響えいきょうをもつとしても、生者しょうじゃ死者ししゃれい愚弄ぐろうしていいという根拠こんきょにはなりえない。また三島みしま行為こういが、あらゆる批評ひひょう予測よそくし、それを承知しょうちしたうえでの決断けつだんによるかぎり、三島みしまはすべての批評ひひょう相対そうたいしつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評ひひょう峻拒しゅんきょする行為こうい、あるいは批評ひひょうそのものが否応いやおうなしに批評ひひょうされてしまうという性格せいかくのものである。三島みしま文学ぶんがく思想しそうつらぬくもの、 それは美的びてき生死せいしへのかわきと、地上ちじょうのすべてをそらしようという、すさまじい悪意あくいのようなものである。 — 磯田いそだ光一こういち太陽たいようしんてつ悪意あくい[89]

谷口たにぐち雅春まさはる生長せいちょういえ創始そうししゃ)は、明治めいじ憲法けんぽう復元ふくげんとなえ、その著書ちょしょ占領せんりょう憲法けんぽう日本にっぽん』において、三島みしま序文じょぶん寄稿きこう依頼いらいしている[90]。また、事件じけん参加さんかした古賀こが浩靖ひろやすしょう正義せいぎ生長せいちょういえ会員かいいんであり、三島みしま事件じけん直前ちょくぜんの11月22にち(谷口たにぐち雅春まさはる誕生たんじょうたる)に谷口たにぐちたく教団きょうだん本部ほんぶいたいむね電話でんわれている。面会めんかいかなわず「ただ一人ひとり谷口たにぐち先生せんせいだけは自分じぶんたち行為こうい意義いぎってくれるとおもう」と遺言ゆいごんのこしたとされる[91]谷口たにぐちのちに『愛国あいこくなまえて―三島みしま由紀夫ゆきお行動こうどう哲学てつがく』を上梓じょうしし「この谷口たにぐちだけはのあの行為こうい意義いぎっていてくれるだろうと、決行けっこうともにした青年せいねんたちに遺言ゆいごんのようにわれたことをかんがえると、三島みしまのあの自刃じじん如何いかなる精神せいしんてき過程かていおこなわれ、如何いかなる意義いぎをもつものであるかについて、わたし理解りかいただけのことを三島みしま霊前れいぜんけんじげて、れい満足まんぞくねがうことがわたしわされた義務ぎむのようなもするのである」とべ、三島みしま自刃じじんがクーデターではなく、後世こうせい人々ひとびとため自決じけつであり、吉田よしだ松陰しょういん処刑しょけいされた(旧暦きゅうれきの10がつ27にち西暦せいれきの11月25にちたる)にわせて計画けいかくしたものであるとかたっている[91]

報道ほうどうにおける

編集へんしゅう

当時とうじ新聞しんぶん、テレビなど報道ほうどう機関きかんがこの事件じけんほうじるさい三島みしま名前なまえにしたことが議論ぎろんまとになった[92]生前せいぜんには「三島みしま先生せんせい」というかたをしていたひとたちがきゅうに「三島みしま」とてしはじめたことに違和感いわかんがあったとするこえがある[93][94]島内とうないけい日本にっぽん社会しゃかい晩年ばんねん三島みしまを「奇人きじん変人へんじんいし、事件じけんにはNHKですらてにすることで「犯罪はんざいしゃあつかいしていたとする[95]

葬儀そうぎ記念きねん裁判さいばんなど

編集へんしゅう

事件じけん翌日よくじつの11月26にち慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん解剖かいぼうえた2遺体いたいは、くび胴体どうたいをきれいに縫合ぬいあわされた。午後ごご3まえ死体したい安置あんちしつにおいて、三島みしま遺体いたいおとうとせんこれわたされ、森田もりた遺体いたいあにわたされた[44][49]森田もりたほうは、そのまますぐに渋谷しぶや代々木よよぎ火葬かそうじょう荼毘だびされた[49]おとうと死顔しにがおは、やすらかにねむっているようだったと述懐じゅっかいしている[96]

1530ふんぎ、病院びょういんからパトカーの先導せんどう三島みしま遺体いたい自宅じたくはこばれた。ちちあずさ息子むすこがどんなわりてた姿すがたになっているだろうとおそれ、かんのぞいたが、三島みしま伊沢いさわ甲子きのえね麿まろたくした遺言ゆいごんにより、だてかい制服せいふくせられ軍刀ぐんとうむねのあたりでしっかりにぎりしめられ、遺体いたいかおもまるできているようであった[44][97]。これは警察官けいさつかんたちが、「自分じぶんたちが普段ふだんからかげながら尊敬そんけいしている先生せんせい遺体いたいだから、特別とくべつ気持きもち丹念たんねん化粧けしょうしました」とほどこしたものだった[44][注釈ちゅうしゃく 18]

密葬みっそうには親族しんぞくのほか、川端かわばた康成やすなり伊沢いさわ甲子きのえね麿まろ村松むらまつつよし松浦まつうら竹夫たけお大岡おおおか昇平しょうへい石原いしはら慎太郎しんたろう村上むらかみ兵衛ひょうえつつみ清二せいじ増田ますだ貴光たかみつ徳岡とくおか孝夫たかおなどが弔問ちょうもんおとずれた[39][49][99]三島みしまていにわのアポロンの立像りつぞうあしもとには、30ほんあまりの真紅しんく薔薇ばらそとかられられていた[99][注釈ちゅうしゃく 19]愛用あいよう原稿げんこう用紙ようし万年筆まんねんひつかんおさめられ、16ぎに出棺しゅっかんとなった。そのときはは倭文しずおもゆびひつぎかおのあたりをでて、「おおやけたけしさん、さようなら」とった[98][注釈ちゅうしゃく 20]三島みしま遺体いたい品川しながわきりたに斎場さいじょうで1810ふん荼毘だびされた[44][101]

森田もりた通夜つやも18ぎに、だてかい会員かいいんによって代々木よよぎ聖徳せいとくさん諦聴寺たいちょうじいとなまれた。森田もりた戒名かいみょうは「慈照いんしゃくしんとおる必勝ひっしょう居士こじ[51][96]。このときに、三島みしまだてかい会員かいいん一同いちどうてた遺書いしょみなまわみされた[102]三重みえけん四日市よっかいち実家じっかでの通夜つやは、翌日よくじつ11がつ27にち葬儀そうぎは11月28にちカトリック信者しんじゃあに希望きぼうによりうみほしカトリック教会きょうかいいとなまれ、16ごろ納骨のうこつされた。三島みしまからはおとうとせんこれ出席しゅっせきした[49]

11月30にち三島みしま自宅じたくはつななにち法要ほうよういとなまれた。三島みしま両親りょうしんへの遺言ゆいごんに、「自分じぶん葬式そうしきかならかみしきで、ただし平岡ひらおかとしてのしきふつしきでもよい」としていた[44]戒名かいみょうについては「かならず〈たけ〉のれてもらいたい。〈ぶん〉の不要ふようである」と遺言ゆいごんしていたが、遺族いぞくは「文人ぶんじんとしてそだってたのだから」というおもいで、〈たけ〉のしたに〈ぶん〉のれることし、「あきらたけいんぶんかんこう居士こじ」となった[44]

12月11にち、「三島みしま由紀夫ゆきお追悼ついとうゆうべ」が、はやし房雄ふさお発起人ほっきにん総代そうだいとした実行じっこう委員いいんかいにより、池袋いけぶくろ豊島としま公会堂こうかいどうおこなわれた。これがのち毎年まいとし恒例こうれいとなる「憂国ゆうこく」の母胎ぼたいである[103]司会しかい川内かわうち康範やすのり藤島ふじしまやすし実行じっこう委員いいん日本にっぽん学生がくせい同盟どうめいなどの民族みんぞく学生がくせいで、あつまった人々ひとびとは3000にん以上いじょうとなった(主催しゅさいしゃ発表はっぴょうは5000にん)。会場かいじょうはいりきれず、ちかくのちゅう池袋いけぶくろ公園こうえんにもひとあつまった[49][103]

 
三島みしま由紀夫ゆきおはか

翌年よくねん1971ねん昭和しょうわ46ねん)1がつ12にち平岡ひらおかで49にち法要ほうよういとなまれた。大阪おおさかサンケイホールでは、はやし房雄ふさおら10めい発起人ほっきにんとした「三島みしま由紀夫ゆきおしのぶつどひ」がもよおされ、やく2000にんあつまった[104]。1月13にちは、負傷ふしょうした自衛じえいかんたちへ三島みしま夫人ふじん瑤子ようこがおびの挨拶あいさつまわりに[15][104]

1がつ14にち三島みしま誕生たんじょうでもあるこの府中ふちゅう多磨たま霊園れいえん平岡ひらおか墓地ぼち(101しゅ13がわ32ばん)に遺骨いこつ埋葬まいそうされた[44][104]自決じけつの49にち誕生たんじょうであることから、三島みしま転生てんせいのための中有ちゅうう期間きかんさだめたのではないかというせつもある[105]

1がつ24にち、13から築地つきじ本願寺ほんがんじ葬儀そうぎ告別こくべつしきいとなまれた。喪主もしゅつま平岡ひらおか瑤子ようこ葬儀そうぎ委員いいんちょう川端かわばた康成やすなり司会しかい村松むらまつつよし三島みしま親族しんぞくやく100めい森田もりた遺族いぞくだてかい会員かいいんとその家族かぞく三島みしま知人ちじんら、そして一般いっぱん参列さんれつしゃのうち先着せんちゃく180めい列席れっせきした[104]安達あだち瞳子とうこのデザイン制作せいさくにより、くろのスポーツシャツ姿すがた三島みしま遺影いえい中心ちゅうしんに、くろぬの背景はいけい白菊しらぎくつくった大小だいしょう7はなだまかざられた簡素かんそ祭壇さいだんもうけられた[104]

弔辞ちょうじ舟橋ふなばし聖一せいいち持病じびょうのため途中とちゅうから北条ほうじょうまこと代読だいどく)、武田たけだ泰淳たいじゅん細江ほそええいこう佐藤さとう亮一りょういち村松むらまつ英子えいこ伊沢いさわ甲子きのえね麿まろ藤井ふじい浩明ひろあき出光いでみつ佐三さぞうの8めいんだ[40][104][106]演劇えんげきかい代表だいひょうした村松むらまつ英子えいこ嗚咽おえつしながら弔辞ちょうじんでいた[106][107]

先生せんせいをもって虚空こくうえがされた灼熱しゃくねつの、そしてきよらかなひかりまえにしては、すべてのことばが、むなしくかんじられ、わたしはただ茫然ぼうぜんたたずおもいです。わたしにとってかけがえのないだった先生せんせい先生せんせい血潮ちしおは、絢爛けんらんえる夕映ゆうばえのにじのように、日本にっぽんよごれたそらげたのです。(中略ちゅうりゃく
いたわりを、それとせないように、いたわってくださるのが、先生せんせいでした。えたぎる情熱じょうねつ冷徹れいてつ知性ちせいとを、同時どうじねそなえることの可能かのうせいを、しめしてくださったのが先生せんせいでした。明晰めいせきほのおは、つねにわたしたちをみちびひかりでした。(中略ちゅうりゃく先生せんせいをもっててんじられたあのうつくしいほのおは、永久えいきゅうえることなく、先生せんせい愛惜あいせき敬慕けいぼするひとたちの頭上ずじょうに、えつづけることでしょう。ふつつかなわたしも、そのかがやきに忠実ちゅうじつちかうひとりでございます。どうかそういうわたしたちをお見守みまもくださいますように。 — 村松むらまつ英子えいこ弔辞ちょうじ[107]

参列さんれつしゃは、藤島ふじしまやすし篠山しのやまきのしん横尾よこお忠則ただのりまゆずみ敏郎としお芥川あくたがわ比呂志ひろし五味ごみ康祐こうすけ中村なかむら伸郎のぶお野坂のさかあきら井上いのうえやすし中山なかやま正敏まさとし徳岡とくおか孝夫たかおなどがいた[39][56]イギリスBBC放送ほうそうきょくが、三島みしま葬儀そうぎなま中継ちゅうけいしたいともうれてていたが、実行じっこう委員いいんかいはこれを辞退じたいした[56]当時とうじ首相しゅしょう佐藤さとう栄作えいさく寛子ひろこ夫人ふじんも、ヘリコプター変装へんそうしてでも参列さんれつしたいともうていたが、極左きょくさ勢力せいりょく式場しきじょうおそうといううわさっていたため警備けいびじょう問題もんだい実現じつげんしなかった[106]

臨時りんじ看護かんご施設しせつやトイレットカーが配備はいびされ、私服しふく制服せいふく警察官けいさつかん100にん機動きどうたい50にん、ガードマン46にん警備けいびたるなか、8200にん以上いじょう一般いっぱんきゃく会場かいじょうくちかれたおおきな遺影いえい弔問ちょうもんし、もと軍人ぐんじんからOLにいたるまで多彩たさい三島みしまファンがしかけた[40][56]なかには、「追悼ついとう三島みしま由紀夫ゆきお」ののぼりはたてて名古屋なごやから会社かいしゃぐるみでかけつけた団体だんたいもあり、文学ぶんがくしゃ葬儀そうぎとしては過去かこ最大さいだいのものとなった[40][56]

1がつ30にち、「三島みしま由紀夫ゆきお森田もりた必勝ひっしょう烈士れっし顕彰けんしょういしぶみ」が松江まつえ日本にっぽん大学だいがく高等こうとう学校がっこうげん立正大学りっしょうだいがく淞南高等こうとう学校がっこう)の玄関げんかんまえ建立こんりゅうされ、除幕じょまくしきおこなわれた[104][108]いしぶみには、「まこと」「維新いしん」「憂国ゆうこく」「改憲かいけん」の文字もじきざまれた[108]

2がつ11にち三島みしま本籍ほんせき兵庫ひょうごけん加古川かこがわ志方しかたまち八幡やはた神社じんじゃ境内けいだいで、地元じもと生長せいちょういえげん生長せいちょういえ本流ほんりゅう運動うんどう)の会員かいいんによる「三島みしま由紀夫ゆきおしの追悼ついとう慰霊いれいさい」がおこなわれた[109]

2がつ28にちだてかい解散かいさんしき西日暮里にしにっぽり神道しんとうみそぎだい教会きょうかいおこなわれ、瑤子ようこ夫人ふじんと75めい会員かいいん出席しゅっせきした[96]瑤子ようこ夫人ふじん実家じっか杉山すぎやま神道しんとう関係かんけいふかく、神道しんとうみそぎだい教会きょうかいえんがあったため、解散かいさんしき場所ばしょとなった[110]倉持くらもちきよしが「声明せいめい」をみ、〈蹶起けっきともに、だてかい解散かいさんされます〉[111]という三島みしま遺言ゆいごん内容ないようつたえて解散かいさん宣言せんげんをした[104]三島みしまかく班長はんちょうらにわたし、皇居こうきょすみやすしかんあづけられていた日本にっぽんがたなは、瑤子ようこ夫人ふじんのはからいで、それぞれ班長はんちょう形見かたみとしてわたされた[102]

3月23にち、「だてかい事件じけんだい1かい公判こうはん東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょの701ごう法廷ほうていひらかれた。3被告ひこく家族かぞくらと平岡ひらおかあずさ瑤子ようこ遺言ゆいごん執行しっこうじん斎藤さいとう直一なおかず弁護士べんごし傍聴ぼうちょうした[4]裁判さいばんちょう櫛淵くしぶち陪席ばいせき裁判官さいばんかん石井いしい義明よしあき本井もとい文夫ふみお検事けんじ石井いしい和男かずお小山こやま利男としお主任しゅにん弁護人べんごにんくさ鹿しかあさこれかい弁護人べんごにん野村のむらたすくふとしおとこ酒井さかいとおるはやし利男としお江尻えじり平八郎へいはちろう大越おおこしゆずるであった[4][40]

6月26にちには、フランスの三島みしま文学ぶんがくファンたちのつよ要望ようぼうによりパリ追悼ついとう集会しゅうかい開催かいさいされ、詩人しじんのエマニュエル・ローテンが事件じけんつくった三島みしまささげるあい儀式ぎしき憂国ゆうこく)」がぎんじられた[112]

だい7かい公判こうはんの2にちの7がつ7にちしょう正義まさよし小川おがわ正洋まさひろ古賀こが浩靖ひろやすの3被告ひこく保釈ほしゃくとなった[113]犯罪はんざい事実じじつみとめ、証拠しょうこ隠滅いんめつ逃亡とうぼうおそれがないため、17東京とうきょう拘置こうちしょ出所しゅっしょした3にん瑤子ようこ夫人ふじん出迎でむかえられ、19から赤坂あかさかプリンスホテル記者きしゃ会見かいけんおこなった[104][113]

9がつ20日はつか瑤子ようこ夫人ふじん墓参ぼさんおり墓石はかいし位置いち異常いじょうづいた。翌日よくじつの9がつ21にち立花りっか石材せきざいてんひと納骨のうこつしつけたところ、遺骨いこつつぼごと紛失ふんしつしているのを発見はっけんし、府中ふちゅう警察けいさつしょとどた。ぬすまれた遺骨いこつは、同年どうねん12がつ5にち平岡ひらおかはかから40メートルほどはなれたところにめられているのが発見はっけんされた。遺骨いこつもと状態じょうたいのままで、一緒いっしょれられていた葉巻はまきもと状態じょうたいであった[40][104][108]

11月25にち埼玉さいたまけん大宮おおみやげんさいたま)の宮崎みやざき清隆きよたかもと陸軍りくぐん憲兵けんぺい曹長そうちょうたくにわに「三島みしま由紀夫ゆきお文学ぶんがく」が建立こんりゅうされた。揮毫きごう三島みしま瑤子ようこ平岡ひらおか瑤子ようこ)。生前せいぜん三島みしま宮崎みやざき清隆きよたかおくった一文いちぶんが「三島みしま由紀夫ゆきお文学ぶんがくしおり」に掲載けいさいされた[104]同日どうじつ平岡ひらおかでは神式しんしきいちねんさいまるうちパレスホテルおこなった[40][108]

12月6にちにはだい14かい公判こうはんおこなわれ、当時とうじ自民党じみんとう総務そうむ会長かいちょう防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかんであった中曽根なかそね康弘やすひろ証言しょうげんだいった[114]中曽根なかそねは、自分じぶん事件じけん直後ちょくごに「迷惑めいわくせんまん」とったのは公人こうじん立場たちば自衛隊じえいたいない不穏ふおんうごきが発生はっせいするのをふせぐためだったとし[114]三島みしまかんがえには全幅ぜんぷくてき賛成さんせいしないものの、かれ三島みしま)は「かくすれば、かくなることとりながら、やむにやまれぬ大和魂やまとだましい」でやったもので、それを自分じぶん政治せいじなりに事件じけんけとめ消化しょうかしていきたいとしつつ、「にく気持きもちよりもいたわりたい気持きもちである」とべた[114]

1972ねん昭和しょうわ47ねん)4がつ27にち、これまで17かい公判こうはんまでに、中曽根なかそね康弘やすひろ村松むらまつつよしまゆずみ敏郎としおなど多彩たさい人物じんぶつ証人しょうにんった「だてかい事件じけん裁判さいばんだい18かい最終さいしゅう公判こうはんひらかれ、しょう正義まさよし小川おがわ正洋まさひろ古賀こが浩靖ひろやすの3めい懲役ちょうえき4ねん実刑じっけい判決はんけつくだされた[40][115]罪名ざいめいは、「監禁かんきん致傷ちしょう暴力ぼうりょく行為こういとう処罰しょばつせきスル法律ほうりつ違反いはん傷害しょうがい職務しょくむ強要きょうよう嘱託しょくたく殺人さつじん」となった[115]

判決はんけつぶん最後さいごは「被告人ひこくにんらはよろしく、『まなべなきたけ匹夫ひっぷいさむしんらざるぶん譫言うわごといくく、じんじんなければしのびざるところきにいたる』べきことを銘記めいきし、事理じりきょくせず、人類じんるい全体ぜんたいにもひろげ、その平和へいわ安全あんぜん実現じつげん努力どりょく傾注けいちゅうすることを期待きたいする」とめくくられていた[115]

1974ねん昭和しょうわ49ねん)10がつに3にんが4ねん刑期けいき満了まんりょうまえ出所しゅっしょとなってから、もとだてかい会員かいいんたちによる三島みしま森田もりた慰霊いれいさいはじまった[102]出所しゅっしょした古賀こが国学院大学こくがくいんだいがく神道しんとうまなんだのち鶴見つるみ神社じんじゃ神主かんぬし資格しかくり、3にん慰霊いれいしているところもと会員かいいんあつまるようになり、毎年まいとし慰霊いれいさいおこなわれるようになった[102]。そのもと会員かいいん平岡ひらおかとの連絡れんらく機関きかんとして「三島みしま森田もりた事務所じむしょ」が出来でき[102]

1975ねん昭和しょうわ50ねん)3がつ29にち三島みしま親交しんこうがあり三島みしま事件じけんつよ共感きょうかんしめしていた村上むらかみ一郎いちろうが、自宅じたく日本にっぽんがたなにより自害じがいした[16]

1977ねん昭和しょうわ52ねん)3がつ3にちもとだてかい会員かいいん伊藤いとう好雄よしお(1期生きせい)と西尾にしお俊一しゅんいち(4期生きせい)が参加さんかした経団連けいだんれん襲撃しゅうげき事件じけんこった。瑤子ようこ夫人ふじん説得せっとくにより投降とうこう終結しゅうけつした[116]

1980ねん昭和しょうわ55ねん)8がつ9にち三島みしま仲人なこうどけていただてかい会員かいいん倉持くらもちきよしげん本多ほんだきよし)にてた遺書いしょ全文ぜんぶんが、朝日新聞あさひしんぶん紹介しょうかいされた[117][118]同年どうねん11がつ24にち山本やまもとしゅんかちもとだてかい有志ゆうしらにより「三島みしま由紀夫ゆきお烈士れっしおよ森田もりた必勝ひっしょう烈士れっし慰霊いれいじゅうねんさい」が市ヶ谷いちがやわたし学会がっかいかん開催かいさいされた[117]

1999ねん平成へいせい11ねん)11がつ下旬げじゅん2000ねん平成へいせい12ねん)1がつ4にち三島みしまだてかい会員かいいん一同いちどうてた遺書いしょ新聞しんぶん各紙かくし公開こうかいされた[119][120]

2018ねん平成へいせい30ねん)11月26にち三島みしま事件じけん当事とうじしゃだてかいメンバーの小川おがわ正洋まさひろ心不全しんふぜんのため70さい死去しきょした[121]

三島みしま由紀夫ゆきお自衛隊じえいたい

編集へんしゅう

昭和しょうわ41ねん

編集へんしゅう

1965ねん昭和しょうわ40ねんごろから自衛隊じえいたい体験たいけん入隊にゅうたい希望きぼうくちにするようになっていた三島みしまは、「昭和しょうわ元禄げんろく」の只中ただなか1966ねん昭和しょうわ41ねん)6がつ短編たんぺん英霊えいれいこえ』を発表はっぴょう[122]。8月に長編ちょうへん奔馬ほんば』の取材しゅざいのために奈良ならけん大神神社おおみわじんじゃおとずれ、そのあし広島ひろしまけん江田島えたじま海上かいじょう自衛隊じえいたい第一術科学校だいいちじゅつかがっこうなどを見学けんがく教育きょういく参考さんこうかん特攻隊とっこうたいいん遺書いしょんだ[123][124]。その熊本くまもとけんわたかみ風連ふうれんのゆかりの新開しんかい大神宮だいじんぐう桜山さくらやま神社じんじゃなど)を取材しゅざいして10まんえん日本にっぽんがたな購入こうにゅうする[54][125][126]

三島みしまあきごろから民兵みんぺい組織そしき構想こうそうはじ[127]、10がつごろから防衛庁ぼうえいちょう自衛隊じえいたい体験たいけん入隊にゅうたい希望きぼう打診だしんしたがことわられ、橋渡はしわたしを毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ常務じょうむ狩野かのきんゆう依頼いらいし、防衛庁ぼうえいちょう事務次官じむじかん三輪みわ良雄よしおもとりくすすむ藤原ふじわらいわなどと接触せっしょくして口利くちききをもとめた[10][128]

12月19にち小沢おざわひらくさくから民族みんぞく雑誌ざっし創刊そうかん準備じゅんびをしている青年せいねんはなしいたはやし房雄ふさお紹介しょうかいで、万代ばんだいきよし平泉ひらいずみきよし門人もんじん明治学院大学めいじがくいんだいがくそつ)が三島みしまたくたずねて[6][129][130]。また同月どうげつには、舩坂ひろしちょ英霊えいれい絶叫ぜっきょう』(12月10日刊にっかん)の序文じょぶんいたれいとして、舩坂から日本にっぽんがたなせきまごろく寄贈きぞうされていた[44][52]

昭和しょうわ42ねん

編集へんしゅう

1967ねん昭和しょうわ42ねん)1がつ5にち民族みんぞく月刊げっかん雑誌ざっし論争ろんそうジャーナル』が創刊そうかんされ、11にち編集へんしゅうちょうちゅうつじ和彦かずひこ平泉ひらいずみきよし門人もんじん明治学院大学めいじがくいんだいがくそつ)とふく編集へんしゅうちょう万代ばんだいきよし両人りょうにんそろって、寄稿きこう依頼いらいのために三島みしまたく訪問ほうもんした[注釈ちゅうしゃく 21]三島みしま無償むしょう同誌どうし寄稿きこうすることにし、2人ふたりは3にちに1わり三島みしまたずねた[132][133]

三島みしま2人ふたり青年せいねんに、「『英霊えいれいこえ』をいてから、おれには磯部いそべ一等いっとう主計しゅけいれいうつったみたいながするんだ」と真剣しんけんかおい、あるとき日本にっぽんがたないて、「かたなというものは鑑賞かんしょうするものではない。きているものだ。このきたかたなによって、60ねん安保あんぽにおける知識ちしきじん欺瞞ぎまんをえぐらなければならない」ともった[134]

1がつ27にちには、万代よろずよらとおな平泉ひらいずみきよし門人もんじんで『論争ろんそうジャーナル』のスタッフをしている日本にっぽん学生がくせい同盟どうめいにちがくどう)の持丸もちまるひろし早稲田大学わせだだいがくせい)も三島みしまたく訪問ほうもんし、翌月よくげつ創刊そうかんの『日本にっぽん学生がくせい新聞しんぶん』への寄稿きこう依頼いらいした[131][135]

このころさんとうは、新潮社しんちょうしゃ担当たんとう編集へんしゅうしゃ小島こじま喜久江きくえに、「こわいみたいだよ。小説しょうせついたことが事実じじつになってあらわれる。そうかとおもうと事実じじつほう小説しょうせつ先行せんこうすることもある」とかたったという[26]。2月28にちには、川端かわばた康成やすなり石川いしかわあつし安部あべ公房こうぼう連名れんめいで、中共ちゅうきょう文化ぶんかだい革命かくめい抗議こうぎする声明せいめい記者きしゃ会見かいけんおこなった[124][136]。ちなみに、当時とうじこの声明せいめいぶん全文ぜんぶんほうじた新聞しんぶん東京とうきょう新聞しんぶんだけだった[137][注釈ちゅうしゃく 22]

3月、三島みしま自衛隊じえいたい体験たいけん入隊にゅうたい許可きょかくだり(1、2週間しゅうかんごとに一時いちじ帰宅きたくするという条件じょうけんづけ)、4がつ12にちから5がつ27にちまでの46日間にちかん単身たんしん体験たいけん入隊にゅうたいする[128]本名ほんみょうの「平岡ひらおかこう」で入隊にゅうたいした三島みしまず、久留くるよね陸上りくじょう自衛隊じえいたい幹部候補生学校かんぶこうほせいがっこうたいづけとなった。4月19にちはなれこう陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこうおもむき、山中さんちゅう踏破とうは山中湖やまなかこ露営ろえいなどを体験たいけん富士ふじ学校がっこう幹部かんぶ上級じょうきゅう課程かてい(AOC)にぞくし、菊地きくち勝夫かつお1じょう指導しどうけた[140][141][142]

その4がつ中旬ちゅうじゅん下旬げじゅんごろ三島みしま藤原ふじわらいわから「若手わかて自衛じえいかん幹部かんぶ生活せいかつぶりをせましょう」とむすめ婿むこ冨澤とみさわあきら借家しゃくや案内あんないされ、数日すうじつ冨澤とみさわとその同期生どうきせい5にんほどと会食かいしょくした[143]。そのせきさんとうは、学生がくせいデモたい警察けいさつりょくだけでおさえきれなくなったさい自衛隊じえいたい治安ちあん出動しゅつどう利用りよう政権せいけんをこちら(自衛隊じえいたいがわ)のものにしようと、とも行動こうどううなが自身じしんのクーデターあんべたが、冨澤とみさわは「そんな非合法ひごうほうなことはやりません」とこたえた[143]。そのときさんとう冨澤とみさわらにたいし「倶にてんいただかず」といった顔色かおいろになったという[143]。5月11にち以降いこうは、レンジャー課程かてい所属しょぞくしたのち習志野ならしのだいいち空挺くうていだん移動いどうし、基礎きそ訓練くんれん降下こうか訓練くんれんのぞく)を体験たいけんした[140][141][142]

論争ろんそうジャーナルぐみにちがくどう学生がくせいたちが、「自分じぶんたちも自衛隊じえいたい体験たいけん入隊にゅうたいしたい」との意向いこうしめした[131]三島みしま民兵みんぺい組織そしきげを本格ほんかくてき企図きとし、持丸もちまるひろしつうじて、早稲田大学わせだだいがく国防こくぼう(4がつ結成けっせい)からの選抜せんばつ協力きょうりょく要請ようせいした[10]。こうして、論争ろんそうジャーナルぐみにちがくどう三島みしまさんしゃ関係かんけい徐々じょじょ出来上できあがった[128][131]

6月19にち六本木ろっぽんぎ喫茶店きっさてん「ヴィクトリア」でおこなわれた早稲田大学わせだだいがく国防こくぼう代表だいひょうとの会見かいけんで、三島みしま森田もりた必勝ひっしょう早稲田大学わせだだいがく教育きょういく学部がくぶにちがくどう)ははじめてかおわせ、早大そうだい国防こくぼう自衛隊じえいたい体験たいけん入隊にゅうたい日程にっていめた[144][注釈ちゅうしゃく 23]

7がつ2にちから1週間しゅうかん早大そうだい国防こくぼう13めい自衛隊じえいたいきた恵庭えにわ駐屯ちゅうとん体験たいけん入隊にゅうたい森田もりたはそのとき感想かんそうを、「それにしても自衛じえいかんなかで、大型おおがた免許めんきょをとるためだとか、転職てんしょく有利ゆうりだとかっている連中れんちゅうサラリーマン化現けげんぞうなにとかならないのか」とつづり、自衛隊じえいたいいんが「憲法けんぽうについておおくをかたりたがらない」ことと、「クーデターをこす意志いしあきらかにした隊員たいいんないのは残念ざんねんだった」ことをげた[144]

8がつ三島みしま国土こくど防衛ぼうえいたい中核ちゅうかくたいとなる青年せいねん養成ようせいする具体ぐたいてき計画けいかくかため、自衛隊じえいたい体験たいけん入隊にゅうたい定期ていきてき実施じっしするため、9月9にちに、陸上りくじょう自衛隊じえいたい重松しげまつ恵三けいぞう面談めんだんした[146][147]。9月26にちインドくため日本航空にほんこうくう羽田空港はねだくうこう出発しゅっぱつした三島みしまは、わかころからのいで、香港ほんこん赴任ふにんしていた警視庁けいしちょう佐々淳行さっさあつゆきけいとく空港くうこうい、「このままでは日本にっぽんはダメになる。ソ連それんにやられる。極左きょくさ天下てんかをとられる。自衛隊じえいたいではダメだ。警察けいさつもダメだ。たたか愛国あいこくグループをつくらなければいけない。自分じぶん国軍こくぐんをつくりたい。日本にっぽんもどったら一緒いっしょんでやろう」とうったえたが、佐々ささは、三島みしまにオピニオンリーダーとして警備けいび体制たいせい強化きょうか協力きょうりょくしてほしいとって、私兵しへい創設そうせつかんがえをせいした[148]

10月、三島みしま小説しょうせつあかつきてら』の取材しゅざいおとずれたインドで、5にちインディラ・ガンディー首相しゅしょうザーキル・フセイン英語えいごばん大統領だいとうりょう陸軍りくぐん大佐たいさ面会めんかいし、中共ちゅうきょう脅威きょういたいする日本にっぽん国防こくぼう意識いしき欠如けつじょについて危機ききかんいだ[149][150]。そして惰眠だみんむさぼっている日本にっぽんを「アリとキリギリス」のなつのキリギリスにたとえつつ、〈アリがせつせとはたらいてゐて、片方かたがたぢやキリギリスがあそびほうけてゐるのとおんなじ〉構図こうずだとし、〈ふゆのたくはへは絶対ぜったいにしておきべきだ〉、〈木枯こがらしがきだしたときのことをかんがへないのはバカだ〉、〈(日本にっぽんは)愚者ぐしゃ天国てんごくですなあ〉とべた[149]

中共ちゅうきょう国境こっきょうせっしてゐるといふかんじは、とても日本にっぽんではわからない。もし日本にっぽん中共ちゅうきょうとのあひだに国境こっきょうがあつてかうがわ大砲たいほうならんでたら、いまのんびりしてゐる連中れんちゅうでもすこしはきりつとするでせう。まあうみでへだてられてゐますからね。もつともいまぢや、うみなんてものはたいしてやくにたないんだけれど。ただ「ぬものきよし」でせうな。 — 三島みしま由紀夫ゆきお「インドの印象いんしょう[149]

帰国きこくの11月、三島みしまは、論争ろんそうジャーナルのメンバーと民兵みんぺい組織そしき祖国そこく防衛ぼうえいたい」の試案しあん討議とうぎし、祖国そこく防衛ぼうえいたい構想こうそうパンフレット作成さくせいはじめた[127]。12月5にちには、航空こうくう自衛隊じえいたい百里基地ひゃくりきちからF-104戦闘せんとう試乗しじょうした[151][152]。12月まつ祖国そこく防衛ぼうえいたい構想こうそうパンフレットを、もと上司じょうし藤原ふじわらいわからせられた陸上りくじょう自衛隊じえいたい調査ちょうさ学校がっこう情報じょうほう教育きょういく課長かちょう山本やまもとしゅんかち1が、藤原ふじわら仲介ちゅうかい三島みしま会食かいしょくした[153]

ちまたノーベル文学ぶんがくしょう候補こうほさわがれている三島みしまたいし、「文士ぶんしでいらっしゃるあなたは、やはりくことに専念せんねんすべきであり、くことをとおしてでも、あなたの目的もくてきたっせられるのではありませんか」と山本やまもと1に、三島みしまは「もうくことはてました。ノーベルしょうなんかには、これっぽちの興味きょうみもありませんよ」と、じっと見据みすえてきっぱりとこたえた[153]

この瞬間しゅんかん山本やまもと1背筋せすじにピリリと火花ひばなはしり、「これは本気ほんきなのだ」と確信かくしんし、三島みしま一緒いっしょにやれるとおもったと同時どうじに、このひとには大言壮語たいげんそうごしてはならぬとかんじた[153]事件じけん山本やまもと1三島みしまが「もうくことはてた」につづいて「あなたのおっしゃるような役割やくわりはFたしてくれるでしょう」とべていたこともしるしている[31]持丸もちまるひろしによると、三島みしま山本やまもとってひどく興奮こうふんし、「あのひと都市としゲリラ専門せんもんだ。おれたちの組織そしきにうってつけの人物じんぶつじゃないか。おまえも一緒いっしょおう」とったという[6]

このころ、「祖国そこく防衛ぼうえいたい構想こうそう全面ぜんめんてき賛同さんどうする論争ろんそうジャーナルぐみと、その「急進きゅうしん主義しゅぎてき色彩しきさい」と三島みしま私兵しへいてきなイメージに難色なんしょくしめがくどう斉藤さいとう英俊ひでとし宮崎みやざき正弘まさひろ)とのあいだ亀裂きれつしょうはじめ、持丸もちまるひろし伊藤いとう好雄よしお宮沢みやざわとおるはじめ阿部あべつとむらがにちがくどう除籍じょせきとなり、論争ろんそうジャーナルぐみ合流ごうりゅうした[131]持丸もちまる三島みしまともに、雑誌ざっし論争ろんそうジャーナル』のふく編集へんしゅうちょうとなった[131]

昭和しょうわ43ねん

編集へんしゅう

1968ねん昭和しょうわ43ねん)2がつ25にち銀座ぎんざ8丁目ちょうめ4-2のしょう鍛冶たんやビルのいくまこと社内しゃない論争ろんそうジャーナル事務所じむしょにおいて、三島みしま由紀夫ゆきおちゅうつじ和彦かずひこ万代ばんだいきよし持丸もちまるひろし伊藤いとう好雄よしお宮沢みやざわとおるはじめ阿部あべつとむら11めい血盟けつめいじょう作成さくせい。「ちかい 昭和しょうわよんじゅうさんねんがつじゅうにち わがひとし大和やまと男児だんじノ矜リトスル 武士ぶししんヲ以テ 皇国こうこくいしずえトナランごとちかいフ」と三島みしますみ大書たいしょし、各人かくじん小指こゆび剃刀かみそりってあつめた署名しょめいし、三島みしま本名ほんみょうで“平岡ひらおかこう”としるした[132][152]

そのとき三島みしまは、「血書けっしょしてもかみけばぶようなものだ。しかし、ここで約束やくそくしたことは永遠えいえんきる。みんなでこのみほそう」と、自分じぶんもうとして、「おい、このなか病気びょうきのあるやつをあげろ」とみな大笑おおわらいさせてから、全員ぜんいんった[152]にはかたまらないようにしおれていた[23]

3月1にちから1かげつ持丸もちまるひろし学生がくせいちょうとする論争ろんそうジャーナルぐみが、三島みしま陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこう滝ヶ原たきがはら駐屯ちゅうとん自衛隊じえいたい体験たいけん入隊にゅうたい直前ちょくぜん中央大学ちゅうおうだいがくの5めいがスト解除かいじょ参加さんかできなくなり、持丸もちまるにちがくどう矢野やのじゅんだいいん応援おうえんもとめた[31][154]。これにおうじて森田もりた必勝ひっしょうが1週間しゅうかんおくれで入隊にゅうたいした[144]春休はるやす帰省きせいちゅうスキー右足みぎあし骨折こっせつして治療ちりょうちゅうだったにもかかわらず、くるしい訓練くんれん参加さんか頑張がんば森田もりた姿すがた三島みしま感心かんしん注目ちゅうもくした[144]

3月30にち体験たいけん入隊にゅうたい無事ぶじ終了しゅうりょうし、主任しゅにん教官きょうかん隊員たいいんと「おとこなみだ」のわかれをした森田もりた学生がくせいいちぎょうりバスで大田おおた南馬込みなみまごめ三島みしまていむかい、慰労いろうかい夕食ゆうしょくまねかれた[144]。1期生きせいとなった森田もりた三島みしまへの礼状れいじょうに、「先生せんせいのためには、いつでも自分じぶんいのちてます」と速達そくたつおくった[131][155]。それにたい三島みしまは、「どんな美辞麗句びじれいくをならべた礼状れいじょうよりも、あの一言ひとことにはまいった」と森田もりたげた[131][155]森田もりたはこのころ北方領土ほっぽうりょうど返還へんかん運動うんどうなどに尽力じんりょくしていた[131][155]

三島みしまは、祖国そこく防衛ぼうえいたい構想こうそう政財界せいざいかい協力きょうりょくるため、与良よら相談そうだんしていたが、このころから持丸もちまるひろしつうじ、桜田さくらだたけし日本にっぽん経営けいえいしゃ団体だんたい連盟れんめい代表だいひょう常任じょうにん理事りじ)らへの接触せっしょくはじめ、はつ面談めんだんった。しかし、なかなか承諾しょうだくられず、自衛隊じえいたい関係かんけいしゃから三輪みわ良雄よしおつうじて説得せっとくをすることをアドバイスされ、3月18にち三輪みわ良雄よしおにそのむねつたえた[156]

4がつ上旬じょうじゅんつつみ清二せいじ手配てはいにより、五十嵐いがらし九十九つくもドゴール制服せいふく担当たんとう)のデザインした制服せいふく完成かんせいしたのをしゅくし、三島みしま論争ろんそうジャーナルぐみから祖国そこく防衛ぼうえいたい隊員たいいんらとともにその制服せいふく青梅おうめ愛宕あたご神社じんじゃ参拝さんぱいし、満開まんかいさくら吹雪ふぶきした記念きねん写真しゃしんった[132][157][158]

同月どうげつ中旬ちゅうじゅん三島みしま桜田さくらだたけし三輪みわ良雄よしお藤原ふじわらいわよんしゃ面談めんだんした。桜田さくらだ前回ぜんかいより理解りかいしめし、民兵みんぺい組織そしきを「体験たいけん入隊にゅうたい同好どうこうかい」という無難ぶなん名称めいしょうにするように指示しじし、中核ちゅうかく隊員たいいんのみを名称めいしょういて「祖国そこく防衛ぼうえいたい」の任務にんむとすることで合意ごういした[157]。このころ早稲田大学わせだだいがく校内こうないには、「体験たいけん入隊にゅうたい募集ぼしゅう」の看板かんばん設置せっちされるなどひろ人材じんざいもとめ、応募おうぼしてきた学生がくせい持丸もちまるいち面接めんせつ試験しけんした[31][122]

5月から、山本やまもとしゅんかち1による祖国そこく防衛ぼうえいたい中核ちゅうかく要員よういんへの集中しゅうちゅう講義こうぎ訓練くんれん支援しえん開始かいしされ、27にちには、北朝鮮きたちょうせん工作こうさくいんおぼしき遺体いたい秋田あきたけん能代のしろはま浅内あさない漂流ひょうりゅうした「能代のしろ事件じけん」(1963ねん4がつ)があつかわれた[159]。この事件じけんなにかの圧力あつりょくたんなる密入国みつにゅうこく事件じけんとして処理しょりされ、うやむやのままとなったことをった三島みしまは、溺死できしたい写真しゃしんをじっとつめたのち、「どうしてこんな重大じゅうだいなことが、問題もんだいにされずに放置ほうちされるんだ!」と激昂げっこうしたという[159]

6月1にち三島みしま中核ちゅうかく要員よういん山本やまもと1指導しどうした市中しちゅうたいゲリラ戦略せんりゃく総合そうごう演習えんしゅうみ、潜入せんにゅう尾行びこう変装へんそうなど)をおこなった[159]労務者ろうむしゃりすまして任務にんむをこなし、だれにも見破みやぶられないように山谷さんやたまひめ公園こうえんまでたどりいた三島みしまつかてた真剣しんけん姿すがたに、山本やまもと1ふか感動かんどうおぼえたという[159]同月どうげつ15にち、「全日本ぜんにほん学生がくせい国防こくぼう会議かいぎ」が結成けっせいされ、森田もりた必勝ひっしょう初代しょだい議長ぎちょう就任しゅうにん三島みしま森田もりたのため、この結成けっせい大会たいかい祝辞しゅくじ万歳ばんざい三唱さんしょうし、デモのときもタクシーで随伴ずいはんし、まどから森田もりた激励げきれいした[131][144]

7がつ25にち学生がくせいらを引率いんそつしただい2かい体験たいけん入隊にゅうたい陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこう滝ヶ原たきがはら駐屯ちゅうとんで、8がつ23にちまでおこなわれた。このとき伊藤いとうくにてん紹介しょうかいしょう正義まさよし古賀こが浩靖ひろやすとも神奈川大学かながわだいがくなま全国ぜんこく学生がくせい協議きょうぎかい)が参加さんかし、2期生きせいとなった[122][139]

一方いっぽう桜田さくらだたけし日経連にっけいれん)からの支援しえん協力きょうりょく結局けっきょく中途半端ちゅうとはんぱかたちで、バカにされたことから(最終さいしゅうてき桜田さくらだは、「きみ私兵しへいなどつくってはいかんよ」と、300まんえんせんをしたという)、三島みしまのプライドはひどくきずつき、民兵みんぺい組織そしきすべ自費じひまかなうことにした[160]

組織そしき規模きぼ縮小しゅくしょうせざるをえなくなった祖国そこく防衛ぼうえいたいは、たい名称めいしょう万葉集まんようしゅう防人さきもりうたの「今日きょうよりは かえりみなくて 大君おおきみみにく(しこ)のだてわれは」と、歌人かじんたちばな曙覧あけみの「だいすめらぎみにくだてと いふものは 如此るものぞと すす真前まんまえに」に2しゅにちなんだ「だてかい」とえた。10月5にち虎ノ門とらのもん国立こくりつ教育きょういく会館かいかん三島みしま初代しょだいがく生長せいちょう持丸もちまるひろし中核ちゅうかく会員かいいんやく50めいが「だてかい」の正式せいしき結成けっせいしきおこなわれ、ある新聞しんぶんがこれをスクープしてつたえた[139][161]

10月21にち国際こくさい反戦はんせんデー三島みしまだてかい会員かいいん山本やまもと1陸上りくじょう自衛隊じえいたい調査ちょうさ学校がっこう学生がくせいらは、しん左翼さよくデモ(新宿しんじゅく騒乱そうらん)の状況じょうきょう把握はあくするため、デモたいなか潜入せんにゅう組織そしきリーダーだれかなどを調査ちょうさした[160]

火炎瓶かえんびんくろけむり催涙さいるいガスが充満じゅうまんするなか三島みしま充血じゅうけつさせながらじろぎもせずに機動きどうたい全学ぜんがくれん攻防こうぼうせんつめていた[160]場所ばしょ銀座ぎんざ移動いどうし、交番こうばん屋根やねうえから、いしはげしい市街しがいせんている三島みしま身体しんたい興奮こうふん小刻こきざみにふるえているのを、すぐとなりにいた山本やまもと1づいた[160]。この六本木ろっぽんぎ防衛庁ぼうえいちょうにもしん左翼さよくしゃがくどう突入とつにゅうしようとし、機動きどうたい猛烈もうれつ放水ほうすい応戦おうせんするが正門せいもん突破とっぱされてしまった[162]

しん左翼さよく暴動ぼうどう鎮圧ちんあつするための自衛隊じえいたい治安ちあん出動しゅつどう機会きかい予想よそうした三島みしまは、そのときだてかいたいとして自衛隊じえいたいおよばないところを加勢かせいし、それにじょうじて自衛隊じえいたい国軍こくぐん憲法けんぽう9じょう改正かいせいちょう法規ほうきてき実現じつげんする計画けいかく構想こうそうはじめた[31][163][164]。この昼過ひるすぎ、赤坂あかさか設営せつえいしていた拠点きょてん一旦いったんげたとき山本やまもと1持参じさんウィスキー三島みしますすめると、「えっ、なんですか。この事態じたいさけとは!」と憤然ふんぜんせきったという[160]

騒乱そうらんつづよる会員かいいんたちを拠点きょてん集結しゅうけつさせた三島みしまは、この総括そうかつかいをここでちたいと山本やまもと1ねがた。まさにいまこそ決起けっき行動こうどうるべきと主張しゅちょう会員かいいんもいたが、まだ治安ちあん出動しゅつどうはないと見込みこんだ山本やまもと1演習えんしゅうかい解散かいさん進言しんげんし、落胆らくたんした三島みしま会員かいいんたちを国立こくりつ劇場げきじょう移動いどうさせていった[160][161]

治安ちあん出動しゅつどうイコール政治せいじ条件じょうけんわたしかんがへても間違まちがえひないとおもふ。でありますから、「撤兵てっぺいしないぞ」とげんはれたら、どんな政権せいけんもかなふ政権せいけんはないんです。だから、「ぢや、おまへ、撤兵てっぺいするにはどうしたらいいんだ。撤兵てっぺいしてもらふにはどうしたらいいんだ」。
憲法けんぽう改正かいせいして軍隊ぐんたいみとめなさい」とげんつちやへばそれまでだ。これはなにクーデターしなくてもできちやふ。わたしわるいことをそそのかすんぢやないけれども(笑)、それくらゐのはらがなければ、自衛隊じえいたいゼネラルといふものはこれからやつていけないとわたしおもえつてる。だから、とおくのはうから遠巻とおまきにして世論せろんうごかさう、なんていふことをかんがへるよりも、本当ほんとうのチャンスがたときにグッと政治せいじてきてるゼネラルがゐないといかんな。 — 三島みしま由紀夫ゆきお素人しろうと防衛ぼうえいろん」(防衛大学校ぼうえいだいがくこうでの講演こうえん[164]

11月10にち東大とうだい全共闘ぜんきょうとう軟禁なんきんされている文学部ぶんがくぶ部長ぶちょうはやし健太郎けんたろう解放かいほうもとめて、三島みしま阿川あがわ弘之ひろゆきとも東大とうだいおもむき、はやしとの面会めんかいもとめるが全共闘ぜんきょうとう拒絶きょぜつされてかなわなかった(はやし健太郎けんたろう監禁かんきん事件じけん)。

12月21にち山本やまもと1によるゲリラせん講義こうぎとき三島みしまは、「ゲリラとは、(ひとあざむく)弱者じゃくしゃ戦術せんじゅつではないですか?」と疑問ぎもんげかけた[160]講義こうぎ休憩きゅうけいちゅう森田もりた必勝ひっしょう山本やまもと1に、「日本にっぽんでいちばんわるやつだれでしょう? だれころせば日本にっぽんのためにもっともいいのでしょうか?」とたずねたという[160]山本やまもと1は、「覚悟かくごがなければひところせない。わたしにはまだしんてきえていない」とこたえた[160]

12月まつ三島みしまていだてかい中核ちゅうかく会員かいいん山本やまもと1らがあつまり、だてかい綜合そうごう警備けいび保障ほしょう株式会社かぶしきがいしゃりょうともかいとの連携れんけい計画けいかく模索もさくされた[160]。やがて話題わだい間接かんせつ侵略しんりゃくなどにおよび、「あなたは一体いったいいつつのか」という主旨しゅし三島みしまわれた山本やまもと1が、暴徒ぼうと皇居こうきょ乱入らんにゅうして天皇てんのう侮辱ぶじょくされたときと、治安ちあん出動しゅつどうさいだという主旨しゅしこたえると、「そのときは、あなたのもとで、中隊ちゅうたいちょうをやらせてもらいます」と三島みしま哄笑こうしょうしてったという[160]

三島みしまは、山本やまもと1やそれにつながるきゅう陸軍りくぐん関係かんけいしゃ政府せいふ高官こうかんとの接触せっしょくつうじ、治安ちあん出動しゅつどう可能かのうせい感触かんしょくて、以下いかのようなクーデター計画けいかく構想こうそうしていた[31][165]

治安ちあん出動しゅつどう必至ひっしとなったとき、まず三島みしまと「だてかい会員かいいんていしてデモたい排除はいじょし、わたし山本やまもと1)の同志どうしひきいる東部とうぶ方面ほうめん特別とくべつはん呼応こおうする。ここでついに、自衛隊じえいたい主力しゅりょく出動しゅつどうし、戒厳かいげんれい状態じょうたい首都しゅと治安ちあん回復かいふくする。万一まんいち、デモたい皇居こうきょ侵入しんにゅうした場合ばあいわたし待機たいきさせた自衛隊じえいたいのヘリコプターで「だてかい会員かいいん移動いどうさせ、せず、断固だんこ阻止そしする。
このとき三島みしまじゅうめいはデモたい殺傷さっしょうせめい、さやはらって日本にっぽんがたなをかざし、自害じがい切腹せっぷくおよぶ。「はん革命かくめい宣言せんげん」にかれているように、「あとにつづものあるをしんじ」て、みずからの布石ふせきとするのである。三島みしまだてかい」の決起けっきによってまくひら革命かくめいげきは、から自衛隊じえいたいによって完成かんせいされる。クーデターを成功せいこうさせた自衛隊じえいたいは、憲法けんぽう改正かいせいによって、国軍こくぐんとしての認知にんち獲得かくとくしてまくじる。 — 山本やまもとしゅんしょう自衛隊じえいたいかげ部隊ぶたい三島みしま由紀夫ゆきおころした真実しんじつ告白こくはく[165]

昭和しょうわ44ねん

編集へんしゅう

1969ねん昭和しょうわ44ねん)1がつ18にちはん日本にっぽん共産党きょうさんとうけいしん左翼さよく学生がくせいらが東京大学とうきょうだいがく安田やすだ講堂こうどう占拠せんきょする東大とうだい安田やすだ講堂こうどう事件じけんきた。19にち警視庁けいしちょう機動きどうたい学生がくせいらとの攻防こうぼうせんていた三島みしまは、しん左翼さよく時計とけいだいから自決じけつして共産きょうさん主義しゅぎ日本にっぽん主義しゅぎむすびつくことをふせぐため、「ヘリコプターで催眠さいみんガスをいてねむらせてくれ」と警視庁けいしちょう電話でんわれた[124]

しかし、三島みしま危惧きぐ無用むよう老婆心ろうばしんとなり、予想よそうはんだれいのちけるような意欲いよくのある東大とうだいせいなどいなかった[31]三島みしまは、あっけなく投降とうこうする全共闘ぜんきょうとう安堵あんどすると同時どうじ失望しつぼうし、最終さいしゅうてきには自分じぶんたちとは価値かちかんちがうことをさとって軽蔑けいべつするようになった[166][167][168]

2がつ1にち論争ろんそうジャーナルぐみにちがくどうとのはしやくであった森田もりた必勝ひっしょうが、にちがくどうよりも論争ろんそうジャーナルぐみがわ完全かんぜんかたむき、小川おがわ正洋まさひろ明治学院大学めいじがくいんだいがく法学部ほうがくぶ)、野田のだ隆史たかし田中たなか健一けんいち鶴見つるみ友昭ともあき西尾にしお俊一しゅんいちの5めいともにちがくどう除籍じょせきとなった[139][169][注釈ちゅうしゃく 24]。この6めい新宿しんじゅくじゅうしゃ西新宿にししんじゅく4丁目ちょうめ)にあるアパート小林こばやしそうをたまりとしていたため「じゅうしゃグループ」とばれ、テロルさない一匹狼いっぴきおおかみ集団しゅうだんであった[139][169]

2がつ19にちから23にちまで、山本やまもとしゅんかち1指導しどうした板橋いたばし松月しょうげついん合宿がっしゅくし、だてかい特別とくべつ訓練くんれんおこなわれた[163]暖房だんぼうもない厳寒げんかん本堂ほんどうで、よる寝袋ねぶくろ食事しょくじ持参じさん缶詰かんづめという過酷かこく状況じょうきょうなかみな寝静ねしずまったのち三島みしましろいききながらつくえかって執筆しっぴつ活動かつどうもしていたという[163]。そのうし姿すがた山本やまもと1は、「わたしはこのひととならんでもいい」とおもった[163]

2がつ25にち山本やまもと1きゅう陸軍りくぐん時代じだい同期生どうきせいさん事件じけん協力きょうりょくしゃであった自衛隊じえいたいいんMをまじえて、山本やまもとたく三島みしまとの会談かいだんがあった。Mは三島みしまの『はん革命かくめい宣言せんげん』の思想しそうおおいに共鳴きょうめいしていたが、〈有効ゆうこうせい問題もんだいではない〉という部分ぶぶんについてだけは、「行動こうどうする以上いじょうたなければ意味いみがない」と反論はんろんし、てきまさ武器ぶき戦車せんしゃミサイル)など、具体ぐたいてき手段しゅだん有効ゆうこうせいだいいちだとろんじた[163]

それにたいして三島みしまは、「それでは問題もんだいのたてかたがまるでちがうんだ」と、ず「文化ぶんかまもる」という目標もくひょう意識いしき重要じゅうようせい、「日本にっぽんがたな」でたたかうことの比喩ひゆてき意義いぎき、「実際じっさいに、みずからのいのちけてにすること、その行為こういがあとにつづくものをまたつくすんだ」と、みずからは安全あんぜん地帯ちたい発射はっしゃボタンひとつで大量たいりょう殺戮さつりくをする物質ぶっしつてき近代きんだい武力ぶりょく意識いしきへの反論はんろんかえした[163]

われわれは、まもるべき日本にっぽん文化ぶんか歴史れきし伝統でんとう最後さいご保持ほじしゃであり、最終さいしゅう代表だいひょうしゃであり、つその精華せいかであることをもっみずかにんずる。「よりよき未来みらい社会しゃかい」を暗示あんじするあらゆる思想しそうとわれわれは先鋭せんえい対立たいりつする。なぜなら未来みらいのための行動こうどうは、文化ぶんか成熟せいじゅく否定ひていし、伝統でんとう高貴こうき否定ひていし、かけがへのない現在げんざいをして、すべて革命かくめいへの過程かていせしめるからである。
自分じぶんみずからを歴史れきし化身けしんとし、歴史れきし精華せいかをここに具現ぐげんし、伝統でんとう美的びてき形式けいしき体現たいげんし、みずからを最後さいごものとした行動こうどう原理げんりこそ、神風かみかぜ特攻隊とっこうたい行動こうどう原理げんりであり、特攻隊とっこうたいいんは「あとにつづくものあるをしんじず」といふ遺書いしょをのこした。「あとにつづくものあるをしんじず」の思想しそうこそ、「よりよき未来みらい社会しゃかい」の思想しそうしん論理ろんりてき対立たいりつするものである。なぜなら、「あとにつづくもの」とは、これもまたみずからを最後さいごものおもさだめた行動こうどうしゃならぬからである。有効ゆうこうせい問題もんだいではない。 — 三島みしま由紀夫ゆきおはん革命かくめい宣言せんげん[170]

3月1にちから、学生がくせい引率いんそつしただい3かい体験たいけん入隊にゅうたい陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこう滝ヶ原たきがはら駐屯ちゅうとんで29にちまでおこなわれた。このだい3かい体験たいけん入隊にゅうたいで、小川おがわ正洋まさひろ参加さんかして3期生きせいとなった。9にちから15にちには、体験たいけん入隊にゅうたい経験けいけんしゃ会員かいいん)を対象たいしょうとする上級じょうきゅうのリフレッシャーコースの訓練くんれんおこなわれ、「玩具おもちゃ兵隊へいたいさん」と世間せけんからばれていただてかい実態じったいは、自衛隊じえいたい将校しょうこうおどろくほど精鋭せいえいにされていった[60][注釈ちゅうしゃく 25]

ヘンリー・スコット=ストークスはこの体験たいけん入隊にゅうたい取材しゅざいし、ロンドンの『ザ・タイムズ』に記事きじ掲載けいさいした。ストークスがリフレッシャーコースの森田もりた必勝ひっしょうに、「なぜだてかいはいったのか」とうと、「三島みしましたがいていこうとおもった。……三島みしま天皇てんのうとつながっているから」とこたえた[172]

4がつ13にち、ストークスの記事きじんだロンドンのテムズ・テレビが、市ヶ谷いちがや会館かいかんでのだてかいの4がつ例会れいかい取材しゅざいて、訓練くんれん様子ようす撮影さつえいした。三島みしまは、ストークスや、テムズ・テレビのレポーター・ピーター・テーラーを自宅じたくまねいた[173]

4がつ28にち沖縄おきなわデーの三島みしま山本やまもと1は、しん左翼さよく全学ぜんがくれんのゲリラ活動かつどうはげしい渦巻うずまきデモを視察しさつした。その三島みしま山本やまもと1皇居こうきょめんする国立こくりつ劇場げきじょうれてき、エレベーターで舞台ぶたい奈落ならく案内あんないし、「奈落ならくは、わたし信頼しんらいする友人ゆうじん管理かんりしています。いつでもお使つかください」とった[163]同月どうげつには、『自衛隊じえいたい二分にぶんろん』を発表はっぴょうした[174]

三島みしまは、体験たいけん入隊にゅうたい訓練くんれんちゅうったわか自衛隊じえいたい幹部かんぶなか協力きょうりょくしゃつけそうとしていたが、三島みしま同調どうちょうする幹部かんぶもこの時期じきはじめていた[163]。そのなか1人ひとりは、山本やまもと1真意しんいわからないと三島みしまらす言葉ことばき、山本やまもと1に「もし、あなたのしんわったのなら、われわれもだまっておりませんから、どうかそのつもりでいてください!」と電話でんわしてものもあった[163]

防衛大学校ぼうえいだいがくこう卒業そつぎょうした将校しょうこうとも交流こうりゅうもとめ、親交しんこうふかめようとしていた三島みしまたいする防衛庁ぼうえいちょう内局ないきょく圧力あつりょくが、このはるごろから様々さまざまなかたちであり、だてかい訓練くんれん規制きせいがはめられるようになってていた[60]官民かんみん一体いったいとなった行動こうどう模索もさくをしていた三島みしま自衛隊じえいたい内部ないぶへの苛立いらだちが次第しだいつよまり、表向おもてむきは自衛隊じえいたい内部ないぶ批判ひはんはしなかったが、だてかい会員かいいんあいだでは内局ないきょくへの罵倒ばとうかえされた[60]

5月11にちみなと愛宕あたご青松寺せいしょうじ三島みしま祖父そふ平岡ひらおか定太郎ていたろう菩提寺ぼだいじ境内けいだい精進しょうじん料理りょうり醍醐だいごで、三島みしま山本やまもと1自衛隊じえいたい幹部かんぶ会食かいしょくし、しん左翼さよく解放かいほう闘争とうそう国防こくぼう問題もんだい情勢じょうせい分析ぶんせきした。このとき三島みしまボーガン訓練くんれんをする適切てきせつ場所ばしょはないかたずねたという[163]。5月13にち三島みしまは、東大とうだい教養きょうよう学部がくぶ教室きょうしつ開催かいさいされた全共闘ぜんきょうとうとの討論とうろんかい出席しゅっせきし、しん左翼さよく学生がくせいらと激論げきろんわした(詳細しょうさい討論とうろん 三島みしま由紀夫ゆきおvs.東大とうだい全共闘ぜんきょうとう共同きょうどうたい東大とうだい闘争とうそう参照さんしょう)。

5月からさんとうは、だてかい幹部かんぶきゅうの7、8めいにも居合いあいならわせはじめ、9めい持丸もちまるひろし森田もりた必勝ひっしょう倉持くらもちきよし福田ふくだ俊作しゅんさく福田ふくだ敏夫としお勝又かつまたたけしこうはら昭弘あきひろ小川おがわ正洋まさひろしょう正義まさよし)に日本にっぽんがたなわたし、可能かのうの「決死けっしたい」をつくった[175][176][177]。5月23にち山本やまもと1しただてかい会員かいいん100めい特別とくべつ訓練くんれん初日しょにち。26にちまで訓練くんれんおこなわれた。このすこまえ三島みしま伊沢いさわ甲子きのえね麿まろ仲介ちゅうかいで、山本やまもと1とも保利ほりしげる官房かんぼう長官ちょうかんった[176]

6がつ下旬げじゅん三島みしま山本やまもと1部下ぶか5めい自衛じえいかんやまうえホテルのレストランの個室こしつ会食かいしょくした。三島みしまは、だてかい皇居こうきょ死守ししゅ具体ぐたいてきじつ行動こうどう計画けいかくについてはなし、「すでに決死けっしたいつくっている」と山本やまもと1決断けつだんせまった。5めい自衛じえいかんらは三島みしま賛同さんどうしたが、山本やまもと1は、「まず白兵戦はくへいせん訓練くんれんをして、そのそなえるべきだ。それもみずか突入とつにゅうするのではなく、暴徒ぼうと乱入らんにゅう阻止そしするために」とせいして賛同さんどうしなかった[165][176]

自衛じえいかんらが、「臆病者おくびょうもの! あなたはわれわれを裏切うらぎるのか!」と山本やまもと1るのを三島みしま制止せいしした[165]沈黙ちんもくのち三島みしま義憤ぎふんおさえた面持おももちで、「皇居こうきょ突入とつにゅう死守ししゅ」などさんヶ条かじょうかれたかみ灰皿はいざらうえやした[176]つぎ訓練くんれん試案しあん山本やまもと1はなえたのち三島みしま総理そうり官邸かんていでの演習えんしゅう計画けいかく提案ていあんするが、自衛隊じえいたい批判ひはんてきマスコミおそれた山本やまもと1はすぐに「それは駄目だめです」とことわった[176]。7月、山本やまもと1陸上りくじょう自衛隊じえいたい調査ちょうさ学校がっこうふく校長こうちょう昇格しょうかくし、次第しだいだてかい指導しどう協力きょうりょくついやす時間じかんがなくなっていった[176]

この初夏しょかころ何人なんにんかの将校しょうこう幹部かんぶりくすすむ)と三島みしまあいだ企図きとされていたクーデター計画けいかくやみほうむられることになった[165]将校しょうこう幹部かんぶらはべいぐんとパイプがあり、アメリカがわ了解りょうかいて、自衛隊じえいたい国軍こくぐんけた治安ちあん出動しゅつどうおこなうはずであったが、キッシンジャーひそかに訪中ほうちゅう準備じゅんびはじめアメリカが親中しんちゅう路線ろせん転換てんかんしたため(べいちゅう和解わかい計画けいかく)、日本にっぽん国軍こくぐんみとめられない状況じょうきょうとなった[165]

7がつ26にちから、学生がくせい会員かいいん引率いんそつしただい4かい体験たいけん入隊にゅうたい陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこう滝ヶ原たきがはら駐屯ちゅうとんで8がつ23にちまでおこなわれた。このころから、だてかい主要しゅよう古参こさん会員かいいんなかつじ和彦かずひこ万代ばんだいきよしらと三島みしまとのあいだ齟齬そご表面ひょうめん三島みしまはんして、金銭きんせん感覚かんかく女性じょせい関係かんけいがルーズだった中辻なかつじ財政難ざいせいなん論争ろんそうジャーナルの資金しきんげん田中たなかきよしげんもとめたことが決定的けっていてき亀裂きれつとなり、8がつ下旬げじゅんに、中辻なかつじ万代よろずよすうめいだてかい退会たいかいした[31][175][注釈ちゅうしゃく 26]

10月12にちだてかいの10がつ例会れいかい持丸もちまるひろし初代しょだいがく生長せいちょう)も正式せいしき退会たいかいとなった。中辻なかつじしたしい持丸もちまるは、どちらのがわくかまよったあげく、論争ろんそうジャーナルの編集へんしゅうだてかい活動かつどう両方りょうほうめることにめた[31]三島みしまは、「だてかい仕事しごと専念せんねんしてくれれば生活せいかつ保証ほしょうする」となん説得せっとくしてめたが、持丸もちまるはそれを辞退じたいした[175]

持丸もちまるわりに森田もりた必勝ひっしょうだてかい学生がくせいちょうとなり、論争ろんそうジャーナル編集へんしゅうないいていただてかい事務所じむしょ森田もりたむアパートに移転いてんした[176]持丸もちまるは、かい事務じむ手伝てつだっていた松浦まつうら芳子よしこ婚約こんやくしていた。大事だいじ右腕うわんだった持丸もちまるうしなった三島みしま山本やまもと1に、「おとこはやっぱりおんなによってわるんですねえ」とかなしみといかりのこえでしんみりったという[176]

10月21にち国際こくさい反戦はんせんデーの三島みしまだてかい会員かいいん昨年さくねん同様どうように、左翼さよくデモ(10.21国際こくさい反戦はんせんデー闘争とうそう)の状況じょうきょう確認かくにんするが、しん左翼さよく機動きどうたい簡単かんたん鎮圧ちんあつされた。もはや自衛隊じえいたい治安ちあん出動しゅつどうたいだてかいまくはなく、憲法けんぽう改正かいせい自衛隊じえいたい国軍こくぐんへのみちがないことを認識にんしきした[22]警察けいさつ自衛隊じえいたいとの相違そうい明確めいかくするため、政府せいふ防衛庁ぼうえいちょう)はこのチャンスにあえて自衛隊じえいたい治安ちあん出動しゅつどうすべきであるとかんがえていた三島みしまにとって、失望しつぼうかん憤慨ふんがいおおきかった[22][60]三島みしま新宿しんじゅくまちあるきながら、「だめだよ、これでは。まったくだめだよ」とひとごとかえし、自暴自棄じぼうじきになったように「だめだよ、これでは」とさけんだという[60]

三島みしま家族かぞくぐるみのいがあった佐々淳行さっさあつゆきによれば、このときの視察しさつは「(三島みしまに)マスコミの機動きどうたい応援おうえんをしていただくようおねがいせよ」との上司じょうし指示しじけた佐々ささけいらいによるものであったが、もどってきた三島みしまは「もうぼくらの出番でばんはないよ。機動きどう隊員たいいんたちはみなしろせながら余裕綽々よゆうしゃくしゃく過激かげきさばいている。ぼくらの出番でばんうばってしまった佐々さささん、貴方あなたうらみますよ」とべた。佐々ささは「もうゲバ闘争とうそうおわりです。貴方あなた文学ぶんがく世界せかいもどられては如何いかですか」と説得せっとくしたが、以後いご両者りょうしゃあいだ音信いんしん途絶とだえた[38]

10月25にち三島みしま少年しょうねん時代じだいいた「はなざかりのもり」を激賞げきしょうし、出征しゅっせいジョホールバルにて終戦しゅうせん直後ちょくご拳銃けんじゅう自決じけつした蓮田はすだ善明よしあき享年きょうねん41)の25回忌かいきが、中央ちゅうおう本線ほんせん沿線えんせん荻窪おぎくぼ料亭りょうてい桃山ももやまおこなわれ[178][179]、その席上せきじょう三島みしまは、「わたし唯一ゆいいつしんのよりどころは蓮田はすださんであって、いまはなんまようところもためらうこともない」、「わたし蓮田はすださんのあのころの年齢ねんれいたっした」と挨拶あいさつべていたという[180][181]

10月31にち三島みしまたくおこなわれただてかい班長はんちょう会議かいぎで、10・21が不発ふはつわったことで今後こんご計画けいかくをどうするかが討議とうぎされた。森田もりたは、「だてかい自衛隊じえいたい国会こっかい包囲ほういし、憲法けんぽう改正かいせい発議はつぎさせたらどうだろうか」と提案ていあんするが、武器ぶき調達ちょうたつ問題もんだいや、国会こっかい会期かいきちゅうなどで実行じっこう困難こんなん三島みしま返答へんとうした[182]

11月3にちの15から、国立こくりつ劇場げきじょう屋上おくじょうで、陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこうぜん校長こうちょういかりじゅんさんげんりくすすむ観閲かんえつしゃむかえて、だてかい結成けっせいいち周年しゅうねんパレードがおこなわれた[183]演奏えんそう陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこう音楽おんがくたい女優じょゆう村松むらまつ英子えいこばいしょう美津子みつこ花束はなたば贈呈ぞうていした。どう劇場げきじょう2かい大食たいしょくどうでのパーティーでは、藤原ふじわらいわもとりくすすむ三輪みわ良雄よしおもと防衛ぼうえい事務次官じむじかん祝辞しゅくじべ、三島みしま挨拶あいさつした[124][183]

たんに、軍隊ぐんたいてき行動こうどうであるがゆえ嫌悪けんおする、戦後せんご風潮ふうちょうわたし非常ひじょうにある意味いみ偽善ぎぜんであるとおもってきたわけであります。ここで、わたしけっして軍国ぐんこく主義しゅぎとか、ファシズムとかという意味いみではなしに、日本人にっぽんじん市民しみん生活せいかつのなかに、自然しぜん軍隊ぐんたい教養きょうようっていつでもじゅうってちあがれる、外的がいてき侵入しんにゅうさいしてもじゅうをとってちあがれるだけの、訓練くんれんをへた人間にんげん青年せいねんのなかに一人ひとりでもおおくならなければいかん、そこではじめて我々われわれにも自信じしんをもって文化ぶんかないし、思想しそう自分じぶんのなかでやしない、そだてることができるんだとおもったことが、だてかいをつくった動機どうきであります。 — 三島みしま由紀夫ゆきおだてかい1周年しゅうねん挨拶あいさつ[10]

11月16にちしん左翼さよくによる佐藤さとう首相しゅしょう訪米ほうべい阻止そし闘争とうそうおこなわれるが、ふたた機動きどうたい簡単かんたん鎮圧ちんあつされ自衛隊じえいたい治安ちあん出動しゅつどう完全かんぜん絶望ぜつぼうてきとなった。11月28にち三島みしま山本やまもと1まねいて自宅じたくで「最終さいしゅうてき計画けいかくあん」の討議とうぎひらくが、山本やまもと1から具体ぐたいさくられずわった[183]。12月8にちから4日間にちかん三島みしま北朝鮮きたちょうせん武装ぶそうゲリラにたいする軍事ぐんじ事情じじょう視察しさつのために韓国かんこくった[183]

12月22にち三島みしまだてかいは、陸上りくじょう自衛隊じえいたい習志野ならしの駐屯ちゅうとん例会れいかいひらき、空挺くうていだん落下傘らっかさん降下こうか予備よび訓練くんれんおこなった[173]訓練くんれん三島みしま憲法けんぽう改正かいせい緊急きんきゅうせいいた。これにもとづいて、 阿部あべつとむ(1期生きせい)を班長はんちょうとする「憲法けんぽう改正かいせい草案そうあん研究けんきゅうかい」がだてかいない組織そしきされることがまり、毎週まいしゅう水曜日すいようびよるに3あいだ討議とうぎかい実施じっしすることとなった[184][185]

12月1にち三島みしまは、翌年よくねん正月しょうがつ発表はっぴょうする村上むらかみ一郎いちろうとの対談たいだんで、現下げんか自衛隊じえいたいには、二・二六事件ににろくじけんのような革命かくめいこせる体制たいせいはなく、1以上いじょう将校しょうこうでなければなにこせない状態じょうたいだとかたっていた[186]

昭和しょうわ45ねん

編集へんしゅう

1970ねん昭和しょうわ45ねん正月しょうがつ山本やまもとしゅんかち1だてかい会員かいいんたちがあつまった三島みしまていでの新年しんねんかいで、民間みんかん防衛ぼうえいはなしおよんださい三島みしま何気なにげなく、「自衛隊じえいたいけることもありるでしょうね」とはっした[187]

1がつまつ三島みしま昨年さくねん12がつ訪韓ほうかんしたさい世話せわになった韓国かんこく陸軍りくぐんもと少将しょうしょうRと山本やまもとしゅんかち1とをまねいて会食かいしょく。Rの辞去じきょ三島みしま山本やまもと1に、「(クーデターを)やりますか!」とうが、山本やまもと1は、「やるならわたしってからにしてください」と返答へんとうした[187]。このころさんとうは、山本やまもと1が「硬骨こうこつ」と評価ひょうかしている自衛隊じえいたい将校しょうこう接触せっしょくしていた[185]

3月1にち学生がくせい会員かいいん引率いんそつしただい5かい体験たいけん入隊にゅうたい陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこう滝ヶ原たきがはら駐屯ちゅうとんで、28にちまでおこなわれた。このころから、森田もりた必勝ひっしょう学生がくせいちょうだい1はん班長はんちょう)と三島みしま決起けっき計画けいかくはなうようになるが、まだ具体ぐたいさくはなかった。同月どうげつ三島みしま村松むらまつつよしに、「蓮田はすだ善明よしあきは、おれに日本にっぽんのあとをたのむといって出征しゅっせいしたんだよ」とつぶやいた[98]

3がつまつ突然とつぜん三島みしま和服わふく姿すがたにしきふくろれた日本にっぽんがたなたずさえて山本やまもと1たく訪問ほうもんした。山本やまもと1日本にっぽんがたな話題わだいさないようにしていたが、三島みしまがそのかたな自分じぶん提供ていきょうして決意けついうながすつもりのようながした[187]かえぎわ三島みしまは、「山本やまもと1つめたいですな」とい、「やるなら制服せいふくのうちにたのみますよ」と山本やまもと1かえした[187]

4がつ3にち三島みしま千代田ちよだ内幸町うちさいわいちょう1-1の帝国ていこくホテルのコーヒーショップにおいてしょう正義まさよしだい5はん班長はんちょう)に、最後さいごまで行動こうどうともにする意志いしがあるかをたずね、しょう承諾しょうだくした[7]。4がつ10日とおか三島みしま自宅じたくまねいた小川おがわ正洋まさひろだい7はん班長はんちょう)にも、「最終さいしゅう行動こうどう」に参加さんかする意志いしがあるかどうか打診だしんし、小川おがわしょう同様どうよう沈思ちんし黙考もっこうすえ承諾しょうだくした[7][18]

4がつ下旬げじゅん、11ねんまえ1959ねん昭和しょうわ34ねん)から毎号まいごうんでいた『蓮田はすだ善明よしあきとその』(しょう高根たかね二郎じろうちょ)が3月刊行かんこうされたため、三島みしまはそれをたずさ山本やまもと1たく訪問ほうもんし、「わたし今日きょうは、このほんによってまりました」と献呈けんていした[187]。5月、「憲法けんぽう改正かいせい草案そうあん研究けんきゅうかい」のための資料しりょう問題もんだい提起ていき』のだい1かいしん憲法けんぽうにおける『日本にっぽん』の欠落けつらく」を三島みしま配布はいふした[188][注釈ちゅうしゃく 27]

5がつ中旬ちゅうじゅん三島みしまたく森田もりた必勝ひっしょうしょう正義まさよし小川おがわ正洋まさひろの3めいあつまった。だてかい自衛隊じえいたいとも武装ぶそう蜂起ほうきして国会こっかいはいり、憲法けんぽう改正かいせいうったえるという「最良さいりょう方法ほうほう」を討議とうぎするが、具体ぐたいてき方法ほうほうはまだ模索もさくちゅうであった[7]。6月2にち三島みしまだてかい陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこう滝ヶ原たきがはら駐屯ちゅうとんで、上級じょうきゅうしゃのリフレッシャーコースを、4にちまでおこなった[171]。このかい食糧しょくりょう支給しきゅうされず不眠ふみん不休ふきゅう青木あおきげん樹海じゅかい行軍こうぐんする過酷かこく訓練くんれんだった[171]

6月13にち三島みしま森田もりたしょう小川おがわの4めいみなと赤坂あかさかあおいまち3番地ばんちげん虎ノ門とらのもん2丁目ちょうめ10-4)のホテルオークラ821ごうしつ集合しゅうごう。これまで接触せっしょくしてきた自衛隊じえいたい将校しょうこうらにはもう期待きたいできないことをさとり、自分じぶんたちだけで実行じっこうする具体ぐたいてき計画けいかくった[7][18][185]

三島みしまは、自衛隊じえいたい弾薬だんやくくら占拠せんきょして武器ぶき確保かくほ爆破ばくはするとおどす、あるいは東部とうぶ方面ほうめん総監そうかん拘束こうそくするかして自衛隊じえいたいいん集結しゅうけつさせて、国会こっかい占拠せんきょ憲法けんぽう改正かいせい議決ぎけつさせる計画けいかく提案ていあんした[7]討議とうぎ結果けっか東部とうぶ方面ほうめん総監そうかん拘束こうそくする方法ほうほうることにし、だてかい2周年しゅうねん記念きねんパレードにそうかんまねいて、そのさい拘束こうそくするあんなどが検討けんとうされた[7]

6月21にち三島みしまら4めいは、千代田ちよだ駿河台するがだい1丁目ちょうめ1番地ばんちやまうえホテル206ごうしつ集合しゅうごう三島みしまから、市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとんないヘリポートだてかい体育たいいく訓練くんれん場所ばしょとして借用しゃくようできる許可きょかることに成功せいこうしたむね報告ほうこくされた。そして、そうかんしつがヘリポートからとおいため、拘束こうそく相手あいて32連隊れんたいちょう宮田みやたともこう1変更へんこうすることが提案ていあんされ、全員ぜんいん賛同さんどうした[7]

7がつ5にち三島みしまら4めいは、やまうえホテル207ごうしつ集合しゅうごう決行けっこうを11月のだてかい例会れいかいにすることにめ、例会れいかいのヘリポートでの訓練くんれんちゅうに、三島みしましょう運転うんてんするくるま武器ぶき日本にっぽんがたなんで32連隊れんたいちょうしつおもむき、宮田みやた連隊れんたいちょう監禁かんきんする手順てじゅん決定けっていした[7]

同月どうげつ三島みしま保利ほりしげる官房かんぼう長官ちょうかん中曽根なかそね康弘やすひろ防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかんに、防衛ぼうえいかんする文書ぶんしょ政府せいふへの「建白けんぱくしょ」としてたくしたが、中曽根なかそね防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかんはそれを閣僚かくりょう会議かいぎ佐藤さとう栄作えいさく首相しゅしょう提出ていしゅつしなかった[189]

7がつ11にちしょう三島みしまからわたされた現金げんきん20まんえん中古ちゅうこ41ねんしきしろトヨタ・コロナ久下くげモータースから購入こうにゅうした[7]。7がつ下旬げじゅん三島みしまら4めいは、千代田ちよだ紀尾井町きおいちょう4番地ばんちホテルニューオータニのプールで、決起けっきともにするだてかいメンバーをもう1にんやすことにし、だれにするか相談そうだんした[7]。このなつ三島みしまは3めいそれぞれに8まんえんわたし、北海道ほっかいどう慰安いあん旅行りょこうさせた[10][18]

このころ三重みえけん四日市よっかいち帰省きせいした森田もりたは、旧知きゅうち上田うえだしげるに、「三島みしま由紀夫ゆきおって自分じぶんかんがかた理論りろんできた。だから三島みしまをひとりでなせるわけにはいかん」とった[169]。8月28にちふたたびホテルニューオータニのプールにあつまった三島みしまら4めいは、古賀こが浩靖ひろやすだい5はんふく班長はんちょう)を仲間なかまくわえることを決定けっていした[7][10]

9月1にち、「憲法けんぽう改正かいせい草案そうあん研究けんきゅうかい」のかえり、森田もりたしょう新宿しんじゅく西新宿にししんじゅく3丁目ちょうめ8-1の深夜しんやスナック「パークサイド」に古賀こがさそい、「最終さいしゅう計画けいかく」を説明せつめいして賛同さんどう[7][29]2人ふたりから、「三島みしま先生せんせい生死せいしをともにできるか」とわれ、「ひろしちゃん、いのちをくれないか」とたのまれた古賀こがは、だてかい入会にゅうかいしたときからその覚悟かくごができていたため承諾しょうだくし、同志どうしくわえてくれたことを感謝かんしゃした[18][29][60]

9月9にち三島みしま銀座ぎんざ4丁目ちょうめのフランス料理りょうりてん古賀こがまねき、計画けいかく具体ぐたいあんかせ、決行けっこうは11月25にちだとかたった[7]三島みしまは、「自衛隊じえいたいいんちゅう行動こうどうともにするものがでることは不可能ふかのうだろう、いずれにしても、自分じぶんななければならない」[7]、「ここまでたら、地獄じごくさん丁目ちょうめだよ」とった[29]

9がつ10日とおか三島みしまだてかい陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこう滝ヶ原たきがはら駐屯ちゅうとんで、上級じょうきゅうしゃのリフレッシャーコースを12にちまでおこなった。9月15にち三島みしま森田もりたしょう小川おがわ古賀こがの5めいは、千葉ちばけん野田のだきょうふうかんおこなわれた戸隠とがくしりゅう忍法にんぽう演武えんぶかい忍者にんじゃ大会たいかい)を見物けんぶつし、帰途きと墨田すみだ両国りょうこく 1丁目ちょうめ10-2のイノシシ料理りょうりてんももんじ」で会食かいしょくして同志どうしてき結束けっそくかためた[7][29]

このころ三島みしまやく4ねんちか世話せわになった陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこう滝ヶ原たきがはら駐屯ちゅうとん機関きかん感謝かんしゃ言葉ことば複雑ふくざつ心境しんきょうつづった[190]

ここでは終始しゅうしあたたかくむかえへられ、利害りがい関係かんけいなにもからまないしん人情にんじょう信頼しんらいを以つてぐうされ、娑婆しゃばではついにあじはふことのないおとこなみだといふものをあじはつた。わたしにとつてはここだけが日本にっぽんであつた。娑婆しゃば日本にっぽんつたもののことごとくがここにあつた。日本にっぽんおとこ世界せかいきびしさとうつくしさがここだけにきてゐた。われわれは直接ちょくせつ自分じぶん家族かぞく運命うんめいづかふやうに、日本にっぽん運命うんめいについてかたり、日本にっぽん運命うんめいについてうれへた。(中略ちゅうりゃく)ここはわたし鍛錬たんれん場所ばしょでもあり、思索しさく場所ばしょでもあつた。わたしは、ここで自己じこ放棄ほうきとうとさときびしさをきょうへられ、思想しそう行為こうい一体化いったいかを、精神せいしん肉体にくたい綜合そうごうのきびしい本道ほんどうきょうへられた。(中略ちゅうりゃく歴代れきだい連隊れんたいちょうはじめ、滝ヶ原たきがはらわかとん方々かたがたのすべてに、わたし感謝かんしゃ一語いちごあるのみである。
同時どうじに、ろくちゅう自衛隊じえいたい運命うんめいのみをうれへ、その未来みらいのみをせ、その打開だかいのみにしんくだく、自衛隊じえいたいについて「りすぎた」おとこになつてしまつた自分じぶん自身じしんの、ほとんどきょうねつてき心情しんじょうみずからあはれみもするのである。 — 三島みしま由紀夫ゆきお滝ヶ原たきがはらぶんたむろだい[190]

9月にヘンリー・スコット・ストークスたく夕食ゆうしょくかいまねかれた三島みしまは、食事しょくじくら面持おももちで、日本にっぽんから精神せいしんてき伝統でんとううしなわれ物質ぶっしつ主義しゅぎがはびこってしまったとい、「日本にっぽん緑色みどりいろへびのろいにかかっている日本にっぽんむねには、緑色みどりいろへびいついている。こののろいからのがれるみちはない」という不思議ふしぎたとばなしをした[191][注釈ちゅうしゃく 28]三島みしま時々ときどき予言よげんめいたことを突然とつぜんはっすることがあり、はるごろにもちゃちちあずさ日本にっぽん未来みらいあんずる言葉ことばっていた[192]

あるばん事件じけんとしはるごろでしたか、せがれちゃで、「日本にっぽんへんなことになりますよ。ある突然とつぜん米国べいこく日本にっぽんあたましに中国ちゅうごく接触せっしょくしますよ、日本にっぽんはその谷間たにまそこからうえ見上みあげてわずかにはないをぬすきできるにとどまるでしょう。わがとも台湾たいわんはもはやたのむにたらずと、どこかにってしまうでしょう。日本にっぽん東洋とうよう孤児こじとなって、やがて人買ひとか商人しょうにん商品しょうひん転落てんらくするのではないでしょうか。いまや日本にっぽん将来しょうらいたくするにるのは、じつじゅうだい若者わかものほかはないのです」ともうしました。これをあとせがれのある先輩せんぱいはなしますと自分じぶんもあなたよりずーっとはやよんじゅうさんねんはるに、銀座ぎんざ食事しょくじちゅうにまったくおな予言よげんかされたものです、とおどろいておりました。 — 平岡ひらおかあずさせがれ三島みしま由紀夫ゆきお[192]

9月25にち三島みしまら5めいは、新宿しんじゅく3丁目ちょうめ17番地ばんち伊勢丹いせたん会館かいかん後楽園こうらくえんサウナ集合しゅうごう三島みしまだてかい例会れいかい招集しょうしゅう方法ほうほう変更へんこうすることを提案ていあんし、とくに11月の例会れいかいは、自衛隊じえいたい関係かんけいしゃ近親きんしん親戚しんせきもののぞいた隊員たいいん三島みしま直接ちょくせつ連絡れんらくすることを[7]就職しゅうしょく結婚けっこんまっているもののぞいた[18]。10月はじめ、まえ故郷こきょう北海道ほっかいどう山河さんがておきたいと古賀こがのため、三島みしま旅費りょひ半額はんがく1まんえんあたえた[29]

10月2にち三島みしまら5めいは、銀座ぎんざ2丁目ちょうめ6-9の中華ちゅうか料理りょうりてんだいいちろう」に集合しゅうごう。11月のだてかい例会れいかい午前ごぜん11ひらいて、例会れいかい市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとんのヘリポートでの通常つうじょう訓練くんれん開始かいし三島みしましょう葬儀そうぎ参列さんれつ理由りゆう退席たいせきして、日本にっぽんがたなくるま搬入はんにゅうする手筈てはずで32連隊れんたいちょう拘束こうそくするという具体ぐたいてき手順てじゅん決定けっていした[7]

その行動こうどうさい、ありのままを報道ほうどうしてもらえる信頼しんらいできる記者きしゃ2めいあらかじパレスホテル待機たいきさせておき、一緒いっしょくるま同乗どうじょうさせ、32連隊れんたい隊舎たいしゃまえ車中しゃちゅうたせることも同時どうじ決定けっていした[7]。10月9にち北海道ほっかいどう旅行りょこうちゅう古賀こがのぞいた4めいが「だいいちろう」にふたた集合しゅうごうし、計画けいかくさい確認かくにんした[7]

10月17にち三島みしま持丸もちまるひろし自宅じたくび、1968ねん昭和しょうわ43ねん)2がつ25にち作成さくせいした血盟けつめいじょうっててほしいとたのみ、著名ちょめいしたものおおくが脱退だったいしたので焼却しょうきゃくしたいむねつたえた[122][193]。10月19にち三島みしまら5めいは10がつ例会れいかいのち千代田ちよだこうじまち1丁目ちょうめ4番地ばんち東条とうじょう会館かいかんで、だてかい制服せいふく着用ちゃくようして記念きねん撮影さつえいおこなった[7]

10月23にち都内とない火葬かそうじょう給電きゅうでん指令しれいしょだてかい演習えんしゅうおこなった。この演習えんしゅうまえ市ヶ谷いちがやわたし学会がっかいかん集合しゅうごうした会員かいいんまえで、黒板こくばんに「coup d'État(クーデター)」と無言むごんいた三島みしまは、都市とし機能きのうマヒさせるための具体ぐたいてき場所ばしょしめした[171][194]会員かいいんたちは、いよいよだてかい全員ぜんいんでのクーデターがはじまるのだとおもったという[171]。この訓練くんれん三島みしまよる1にんで、山本やまもと1たくたずねた[19]。この訪問ほうもん山本やまもと1は、「赤垣あかがき源蔵げんぞう徳利とっくりわかれ」のようなものだったのではないかと回想かいそうしている[19]

10月27にち血盟けつめいじょうを、持丸もちまるとともに劇団げきだんなみ曼劇じょうにわ焼却しょうきゃくした[193]。しかし、持丸もちまるはこれをわたまえに、血盟けつめいじょうのコピーを内密ないみつにとっておいた[122]焼却しょうきゃくみなと六本木ろっぽんぎの「アマンド」でコーヒーをみながらさんとう持丸もちまるに、「おまえがやめたのちかい性格せいかくわったよ。これから(来年らいねんから)はかいのかたちをえようとおもう。おまえも、かいのことはよくっているので、外部がいぶからひとつ応援おうえんしてくれよ」とったという[122][193]

11月3にち三島みしま森田もりたしょう小川おがわ古賀こがの5めいは「アマンド」でわせ、六本木ろっぽんぎ4丁目ちょうめ5-3のサウナ「ミスティー」に集合しゅうごう檄文げきぶん要求ようきゅう項目こうもく原案げんあん検討けんとうした[29]。このとき全員ぜんいん自決じけつするという計画けいかく三島みしまめさせ、「ぬことはやさしく、きることはむずかしい。これにこたえなければならない」としょう小川おがわ古賀こがの3めいめいじた[29]

三島みしまは、「いままで覚悟かくごでやってきてくれた、その気持きもちうれしくおもう。しかし、きて連隊れんたいちょう護衛ごえいし、連隊れんたいちょう自決じけつさせないようにれて任務にんむだれかがやらなければならない。その任務にんむ古賀こがしょう小川おがわの3にんたのむ、森田もりた介錯かいしゃくをさっぱりとやってくれ、あまくるしませるな」とった[7]

森田もりたは、「おれたちは、きているにせよんでくにしろ一緒いっしょなんだ、またどこかでえるのだから」、「(われわれは一心いっしん同体どうたいだから)あのたましいはひとつになるんだ」とった[18][29][182]三島みしま前日ぜんじつの11月2にち銀座ぎんざの「はまさく」に森田もりたし、「森田もりた、おまえきろ。おまえ恋人こいびとがいるそうじゃないか」と自決じけつめるように説得せっとくしていた[10][44]

しかし森田もりたは、「おやともおもっている三島みしま先生せんせいぬときに、自分じぶんだけがのこるわけにはいきません。先生せんせいへの旅路たびじに、是非ぜひわたしをおきょうさせてください」とった[10]。そのしょう小川おがわ古賀こがの3めいも、「おまえ一緒いっしょきて先生せんせい精神せいしんごう」と説得せっとくし、三島みしま森田もりた自決じけつおもとどまることを期待きたいしたが、森田もりた決心けっしんるがなかった[10][31]

11月4にち三島みしまだてかい陸上りくじょう自衛隊富士学校じえいたいふじがっこう滝ヶ原たきがはら駐屯ちゅうとんで、上級じょうきゅうしゃのリフレッシャーコースを、6にちまでおこなった。会員かいいんたちは、このとき鉄道てつどう爆破ばくは訓練くんれんけ、ばくだん設置せっち方法ほうほうなどをおそわった。実際じっさい線路せんろ爆破ばくはして、ばくおんとも線路せんろ粉々こなごなになるのを見学けんがくした[171][194]

訓練くんれん終了しゅうりょう三島みしまら5めいは、御殿場ごてんばうち御殿場ごてんばかん別館べっかんひらかれた慰労いろうかいで、会員かいいん自衛隊じえいたいいんらとひそかに別離べつりしみ、三島みしま全員ぜんいん正座せいざをしてさけをついでまわって、「唐獅子からじし牡丹ぼたん」をうたい、森田もりた小学しょうがく唱歌しょうかはな」と「加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい」、しょうは「しろはなころ」、小川おがわは「昭和しょうわ維新いしんうた」「知床しれとこ旅情りょじょう」をうたい、古賀こが特攻隊とっこうたいいん朗読ろうどくした[18][193]

11月10にち森田もりたしょう小川おがわ古賀こがの4めいは、菊地きくち勝夫かつお1とうりくじょうとの面会めんかい口実こうじつに、市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとんはいり、32連隊れんたい隊舎たいしゃまえ下見したみして駐車ちゅうしゃ場所ばしょ確認かくにんした。11月12にち森田もりた小川おがわしょうの3めいは、東武百貨店とうぶひゃっかてん開催かいさいされた「三島みしま由紀夫ゆきおてん」を見学けんがく。そのよる、スナック「パークサイド」で、小川おがわ森田もりたから介錯かいしゃく依頼いらいされて承諾しょうだくした[7]

11月14にち三島みしまら5めいは、サウナ「ミスティー」に集合しゅうごう。32連隊れんたい隊舎たいしゃまえ待機たいきさせる記者きしゃ2めいをNHK記者きしゃ伊達だてそうかつサンデさんで毎日まいにち記者きしゃ徳岡とくおか孝夫たかおにし、檄文げきぶん記念きねん写真しゃしん決起けっき当日とうじつわた主旨しゅし説明せつめい三島みしまからなされ、5めい檄文げきぶん原案げんあん検討けんとうした[7]

11月19にち三島みしまら5めいは、伊勢丹いせたん会館かいかん後楽園こうらくえんサウナ休憩きゅうけいしつ集合しゅうごう。32連隊れんたいちょう拘束こうそくしたのち自衛隊じえいたい集合しゅうごうまでの時間じかんや、三島みしま演説えんぜつなどの時間じかん配分はいぶんわせした[7]森田もりたが「要求ようきゅうとおらない場合ばあい連隊れんたいちょうころしてもいか」とたずねると、「無傷むきずかえさなければならない」と三島みしまこたえた[18]。その、スナック「パークサイド」で、古賀こが森田もりたから、「おれ介錯かいしゃくをしてくれるのは最大さいだい友情ゆうじょうだよ」とわれた[29]

11月21にち決行けっこう当日とうじつの11月25にちに32連隊れんたいちょう在室ざいしつ有無うむ確認かくにんするため、森田もりた三島みしま著書ちょしょ行動こうどうがく入門にゅうもん』をとどけることを口実こうじつ市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとんおもむくと、当日とうじつ宮田みやたともこう32連隊れんたいちょう不在ふざいであることが判明はんめいした[7]三島みしまら5めいは、中華ちゅうかだいいちろう」に集合しゅうごう森田もりた報告ほうこく協議きょうぎ結果けっか拘束こうそく相手あいてを、東部とうぶ方面ほうめん総監そうかん変更へんこうすることに決定けっていした[7]三島みしまはすぐに益田ますだけん東部とうぶ方面ほうめん総監そうかん電話でんわれ、11月25にち午前ごぜん11面会めんかい約束やくそくをとりつけた[7]

同日どうじつよく11がつ22にち森田もりたら4めい三島みしまから4せんえんり、新宿しんじゅくステーションビルなどにおいて、ロープバリケード構築こうちくさい使つか針金はりがね、ペンチ、まくようのキャラコぬのつけようブランデー水筒すいとうなどを購入こうにゅうした。よるしょう横浜よこはま市内しない森田もりたとドライブちゅう、「三島みしま介錯かいしゃくができないときたのむ」と森田もりたから依頼いらいされて承諾しょうだくした[7]

11月23にち三島みしまら5めいは、千代田ちよだまるうち1丁目ちょうめ1番地ばんちパレスホテル519ごうしつ集合しゅうごう決起けっき最終さいしゅう準備じゅんびまく檄文げきぶん鉢巻はちまき辞世じせいなど)と、一連いちれん行動こうどう予行よこう演習えんしゅうおこなった。辞世じせいは「うまくなくてもいい、自由じゆう奔放ほんぽうけ」と三島みしまった[29]よく11がつ24にちも、三島みしまら5めいはパレスホテルに集合しゅうごう再度さいど予行よこう演習えんしゅうをし、前日ぜんじつわせてやく8かい練習れんしゅうおこなった[7]

同日どうじつひる14ごろ三島みしま徳岡とくおか孝夫たかお伊達だてそうかつに、「明日あした午前ごぜん11腕章わんしょうカメラってくること、明日あした午前ごぜん10にまた連絡れんらくする」という主旨しゅし電話でんわをし[7]、15ごろには、新潮社しんちょうしゃ担当たんとう編集へんしゅうしゃ小島こじま喜久江きくえ明日あしたあさ1030ふんに『天人てんにん五衰ごすい』の原稿げんこう自宅じたくりにるように電話でんわれた[26]

夕方ゆうがた16ごろから、三島みしまら5めいは、新橋しんばし2丁目ちょうめ15-7の料亭りょうていすえげん」のおくあいだばんはちじょう)でとりなべ料理りょうりの「わ」のコース(1人ひとり15,000えん)とビール7ほんわかれの会食かいしょくをした[7][10][195]。18ごろ、おみせゆたかさん(赤間あかま百合子ゆりこ)がおしゃくをしようとすると、三島みしま自分じぶんでビールをつぎ、最後さいご乾杯かんぱいをした[10]

食事しょくじちゅう明日あした決起けっきのことははなさず、映画えいが女優じょゆう三島みしま映画えいがひと』で共演きょうえんした俳優はいゆうかつ新太郎しんたろうはなしなどの雑談ざつだんをした[10]三島みしまは、「いよいよとなるともっとセンチメンタルになるとおもっていたがなんともない。結局けっきょくセンチメンタルになるのは我々われわれ第三者だいさんしゃなんだろうな」とった[18]

食事しょくじわった20ごろ一同いちどうみせて、しょう運転うんてんするくるま帰宅きたく車中しゃちゅうさんとうは、「総監そうかん立派りっぱひとだからもうわけないがまえ自決じけつすればわかってもらえるだろう」とった[182]。また、もしもそうかんしつはいまえ自衛隊じえいたいいんらに察知さっちされつかまった場合ばあいは、5にん全員ぜんいんしたんでぬしかないともはなした[18]

大田おおた南馬込みなみまごめ4丁目ちょうめ32-8の自宅じたく帰宅きたくした三島みしまは、22ごろ自宅じたく敷地しきちない両親りょうしんたく就寝しゅうしん挨拶あいさつき、父親ちちおやから煙草たばこぎをたしなめられた[44]森田もりた西新宿にししんじゅく4丁目ちょうめ32-12の小林こばやしそう8ごうしつ下宿げしゅく帰宅きたく同居どうきょするだてかい会員かいいん田中たなか健一けんいちさそって、ちかくの食堂しょくどう三枝みえ」にき、例会れいかい市ヶ谷いちがや会館かいかん徳岡とくおか孝夫たかお伊達だてそうかつわたすべき封書ふうしょ2つうたくした[169]

小川おがわ古賀こがは、しょう戸塚とつか1丁目ちょうめ498番地ばんちだいはやかん下宿げしゅく宿泊しゅくはくした。そのさいに3にん介錯かいしゃくのことをはない、小川おがわは、剣道けんどう経験けいけん豊富ほうふしょうに、森田もりた介錯かいしゃくができない場合ばあいわりを依頼いらいし、しょう承諾しょうだくした。しかし3にんあいだでは、介錯かいしゃく予定よていしゃ実行じっこうできないときには、三島みしま森田もりたわずに、のこりのだれかが介錯かいしゃくするという意思いしであった[7][注釈ちゅうしゃく 29]

11月25にちしょうら3めい午前ごぜん7起床きしょう古賀こが森田もりたに「こしてくれ」とたのまれていたため、森田もりた下宿げしゅく廊下ろうかにあるピンク電話でんわらした[29][169]。3めいは、朝食ちょうしょくらず、目立めだたぬように制服せいふくうえからコートやカーディガンを羽織はおって、制帽せいぼうはビニールの買物かいものぶくろれ、午前ごぜん850ふんごろしょう運転うんてんするコロナに同乗どうじょう下宿げしゅく出発しゅっぱつした[7][18]

森田もりたは7起床きしょうし、9ごろ新宿しんじゅく西口にしぐち公園こうえん付近ふきん西口にしぐちランプ入口いりくちで、コロナでやってしょうら3めい合流ごうりゅうした[7]いちぎょう三島みしまていむかい、荏原えばらランプて、三島みしまていちかくのだい京浜けいひん国道こくどうがったあたりのガソリンスタンドって洗車せんしゃ。そのあいだ各人かくじん故郷こきょう家族かぞくへのわかれの手紙てがみ投函とうかんした[7][10][18]

三島みしまは8起床きしょうし、コップいちはいみずだけをみ、お手伝てつだいさんに小島こじま喜久江きくえわた小説しょうせつ原稿げんこうあづけた[12]。10ごろ徳岡とくおか孝夫たかお伊達だてそうかつ電話でんわれ、市ヶ谷いちがや会館かいかん午前ごぜん11るように指定していし、田中たなか倉田くらたというもの案内あんないするとつたえた[7]しょう運転うんてんするコロナに同乗どうじょうしたいちぎょうが1013ふんごろ三島みしまてい到着とうちゃくした[7]

三島みしま玄関げんかんむかえにしょうに、小川おがわ古賀こがら3名宛なあての封筒ふうとうりの命令めいれいしょ現金げんきん3まんえんずつを手渡てわたし、車中しゃちゅうむようにめいじた[7]軍刀ぐんとう仕様しようにした日本にっぽんがたなせきまごろくかわせいアタッシュケースをげ、くるままでゆっくりとあるいた三島みしまは、「命令めいれいしょはしかとわかったか」と助手じょしゅせきみ、「命令めいれいしょんだな、おれの命令めいれい絶対ぜったいだぞ」、「あと3あいだぐらいでぬなんてかんがえられんな」などとった[18]

いちぎょうせたコロナは自衛隊じえいたい市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとんかった。秋晴あきばれのそらしたしろいコロナは環状かんじょう7号線ごうせんて、だい京浜けいひん国道こくどうはいり、品川しながわから中原なかはら街道かいどうて、荏原えばらランプから高速こうそく道路どうろ2号線ごうせんった[12][20]。1040ふんごろ、コロナは飯倉いいくらランプ高速こうそくりた[12][20]

赤坂あかさかから青山あおやま神宮じんぐう外苑がいえんまえたが、まだ時間じかんはやかったため外苑がいえんを2しゅうした[20]。このとき三島みしまは、「これがヤクザ映画えいがなら、ここで義理ぎり人情にんじょうの“唐獅子からじし牡丹ぼたん”といった音楽おんがくがかかるのだが、おれたちは意外いがいあかるいなあ」とった[29]古賀こがは、「わたしたちにつら気持きもち不安ふあんおこさせないためだったのだろうか。まず先生せんせいうたいはじめ、4にん合唱がっしょうした。うたったあと、なにかじーんとくるものがあった」と供述きょうじゅつしている[29]

けん田原坂たばるざかから、みぎ赤坂あかさか離宮りきゅうひだり明治めいじ記念きねんかん進行しんこうし、学習がくしゅういん初等しょとう校舎こうしゃちかくに一時いちじ停車ていしゃしたとき、「母校ぼこうまえとおるわけか。おれ子供こども現在げんざいこの時間じかんにここに授業じゅぎょうをうけている最中さいちゅうなんだよ」と三島みしまった[10][18]。コロナは四谷よつや見附みつけ交差点こうさてん直進ちょくしんし、靖国やすくにどおり、陸上りくじょう自衛隊じえいたい市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとん正門せいもんはいっていった[10]

決起けっきいたった要因よういん

編集へんしゅう

自衛隊じえいたいいんたちへいた檄文げきぶんには、戦後せんご民主みんしゅ主義しゅぎ日本国にっぽんこく憲法けんぽう批判ひはん、そして日米にちべい安保あんぽ体制たいせいでの自衛隊じえいたい存在そんざい意義いぎうて、決起けっきおよび憲法けんぽう改正かいせいによる自衛隊じえいたい国軍こくぐんうなが内容ないようかれていた[22]三島みしま最初さいしょ単身たんしん自衛隊じえいたい体験たいけん入隊にゅうたい直後ちょくごの1967ねん昭和しょうわ42ねん)5がつ27にち時点じてんでは、〈いまの段階だんかいでは憲法けんぽう改正かいせい必要ひつようではないといふこうへにかたむいてゐます〉とおおやけのインタビューけにはこたえながらも、以下いかのようにべている[141]

わたしは、わたしかんがえが軍国ぐんこく主義しゅぎでもなければ、ファシズムでもないとしんじています。わたしのぞんでいるのは、国軍こくぐん国軍こくぐんたるただしい地位ちいくことだけです。国軍こくぐん国民こくみんのあいだのただしいバランスを設定せっていすることなんですよ。(中略ちゅうりゃく
政府せいふがなすべきもっとも重要じゅうようなことは、たんなる安保あんぽ体制たいせい堅持けんじ安保あんぽ条約じょうやく自然しぜん延長えんちょうなどではない。集団しゅうだん保障ほしょう体制たいせいにおけるアメリカの防衛ぼうえいりょくと、日本にっぽん自衛じえいけん独立どくりつてき価値かちを、はっきりわけてPRすることである。たとえば安保あんぽ条約じょうやくにおいても、どういうときには集団しゅうだん保障ほしょう体制たいせいのなかにはいる、どういうときには自衛隊じえいたい日本にっぽん民族みんぞく国民こくみん自力じりきまもりぬくかという“限界げんかい”をはっきりさせることです。 — 三島みしま由紀夫ゆきお三島みしま帰郷ききょうへいに26の質問しつもん[141]

さらに三島みしまは、〈いまの制度せいどがそうさせるのか、陛下へいかのお気持きもちがそうさせるのからないが、外国がいこく使臣ししん羽田はたむかえるときに陛下へいかがわきにって自衛隊じえいたい儀仗ぎじょうけられるということをいたとき、わたしは、なんともいえない気持きもちがしました〉ともべている[141]

また1967ねん昭和しょうわ42ねん)11月の福田ふくだひさしそんとの対談たいだんでは、高坂こうさかただし憲法けんぽうへの苦心くしん尊重そんちょうしながらも、自分じぶん憲法けんぽうたいして〈現実げんじつ主義しゅぎ立場たちばちたい〉が、〈現状げんじょう肯定こうてい主義しゅぎ〉ではあってはならないとおもうとし、このまま日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい9じょう改正かいせいしないまま〈解釈かいしゃく〉で〈縄抜なわぬけ〉するという論理ろんりてきなトリックに三島みしま疑問ぎもんていしつつ、〈ぼくはもっと憲法けんぽう軽蔑けいべつしている〉と[196]憲法けんぽう改正かいせいへの法的ほうてき手続てつづき国会こっかいさんぶんと、過半数かはんすう国民こくみん投票とうひょうというだんかまえ)のハードルのたかさに言及げんきゅうしながら、憲法けんぽうだい9じょうがクーデターでしかえられないとかたっている[196]

このように、日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい9じょうだい2こうがあるかぎり、自衛隊じえいたいは〈違憲いけん存在そんざい〉でしかないとていた三島みしまは、『檄文げきぶん』や『問題もんだい提起ていき』のなかで、自民党じみんとうだい9じょうだい2こうたいする解釈かいしゃくや、共産党きょうさんとう社会党しゃかいとう日米にちべい安保あんぽ破棄はき標榜ひょうぼうしつつもだい9じょう護憲ごけん堅持けんじするという矛盾むじゅん姿勢しせいを、〈日本人にっぽんじんたましい腐敗ふはい道義どうぎ頽廃たいはい根本こんぽん原因げんいん〉をなしているものとて、両者りょうしゃ国体こくたいをないがしろにする姿勢しせい批判ひはんしている[22][188]演説えんぜつなかでも、自衛じえいかんらに、〈諸君しょくん武士ぶしだろう、武士ぶしならば、自分じぶん否定ひていする憲法けんぽうをどうしてまもるんだ〉と絶叫ぜっきょうし、ばらまいた『檄文げきぶん』のなかで〈生命せいめい尊重そんちょうのみで、たましいんでもよいのか。生命せいめい以上いじょう価値かちなくしてなに軍隊ぐんたいだ。いまこそわれわれは生命せいめい尊重そんちょう以上いじょう価値かち所在しょざい諸君しょくんせてやる。それは自由じゆうでも民主みんしゅ主義しゅぎでもない。日本にっぽんだ。われわれのあいする歴史れきし伝統でんとうくに日本にっぽんだ〉とうったえた[22]

三島みしま自決じけつ決心けっしん影響えいきょうあたえた動因どういんひとつには、自決じけつ前年ぜんねん建国けんこく記念きねんに、国会こっかい議事堂ぎじどうまえで「覚醒かくせいしょ」なる遺書いしょのこしていまし同胞どうほう覚醒かくせいうながすべく焼身しょうしん自殺じさつした青年せいねん江藤えとう小三郎こさぶろう自決じけつもあった。三島みしまは『わかきサムラヒのための精神せいしん講話こうわ』において、〈わたしは、この焼身しょうしん自殺じさつをした江藤えとう小三郎こさぶろう青年せいねんの「本気ほんき」といふものに、ゆめあるひは芸術げいじゅつとしての政治せいじたいするもっと強烈きょうれつ批評ひひょうんだ一人ひとりである〉としるしており、この青年せいねん至誠しせい壮絶そうぜつ三島みしま出処しゅっしょ進退しんたいおよぼしていた心情しんじょう看取かんしゅされている[197]

三島みしま自殺じさつには様々さまざま側面そくめんから諸説しょせつげられ、その要因よういんひとつとして、三島みしま少年しょうねん時代じだいレイモン・ラディゲ夭折ようせつあこがれていたことなどや[198]、『豊饒ほうじょううみ』でふく主人公しゅじんこう本多ほんだ老醜ろうしゅうえがいていることなどから、自身じしんの「い」への忌避きひ推察すいさつされるきもある。新潮社しんちょうしゃ担当たんとう編集へんしゅうしゃだった小島こじま千加子ちかこによると、『豊饒ほうじょううみ執筆しっぴつちゅうに「としをとることは滑稽こっけいだね、ゆるせない」、「自分じぶんとしをとることを、絶対ぜったいゆるせない」と三島みしまっていたことがあるとされる[199]。また月刊げっかん中央公論ちゅうおうこうろん』の編集へんしゅうちょうであった粕谷あらや一希かずきによると、三島みしまは、「自分じぶん荷風かふうみたいな老人ろうじんになるところを想像そうぞうできるか?」とったとされ(なお、三島みしま荷風かふうとは系図けいずじょうでは遠戚えんせき関係かんけいにある)、その一方いっぽうで、「作家さっかはどんなに自己じこ犠牲ぎせいをやってもなかひと自己じこ表現ひょうげんだとおもうからな」ともったという[200]

しかし、三島みしまいへのかんがえはいちめんてきではなく、〈自分じぶんかお折合おりあいをつけながら、だんだんにとしをとつてゆくのは賢明けんめい方法ほうほうである。ろくじゅうななじゅうになれば、いいがおだとうんつてくれるひとげんはれるだらう〉ともべており[201]、〈室生むろう犀星さいせい晩年ばんねん立派りっぱで、じつつやうつくしかつたが、そのてんでは日本にっぽんうまれて日本人にっぽんじんたることは倖せである。いの美学びがく発見はっけんしたのは、おそらく中世ちゅうせい日本人にっぽんじんだけではないだろうか。(中略ちゅうりゃくスポーツでも、じゅうさい野球やきゅう選手せんしゅといふものはかんがへられないが、ななじゅうさい剣道けんどうはちだんは、ちやんと現役げんえき実力じつりょくつてゐる〉ともかたっている[202]小島こじま千加子ちかこにも以前いぜんには、「川端かわばた康成やすなり佐藤さとう春夫はるおなどは、としをとって精神せいしんうつくしさがにじれい」ともっていたという[203]

1969ねん昭和しょうわ43ねん)10がつおこなわれた学生がくせいとの対談たいだんでは、学生がくせいが、三島みしま以前いぜんから「夭折ようせつ美学びがく」ということをしばしばいていたことにれ、「」とかけはなれてはかんがえられない「美学びがく」について質問しつもんされたさい以下いかのようにこたえている[204]

ギリシアじんうつくしくうつくしくぬことをのぞんだといわれています。うつくしくぬということはつまりわたし年齢ねんれいではもうおそいのかもしれないけれども、西郷さいごう隆盛たかもりわたしうつくしくんだおもっている。(中略ちゅうりゃく
それじゃみにくぬというのはなにだろうとおもうと、これはだんだんにいろいろな世間せけんてき名誉めいよかすがたまって、そしてゆかなかでたれながしになってぬことです。わたしはそれがいやいやでおそろしくてたまらない。きっとわたしもそうなるかもしれないですね。だからそれがおそろしいから、いろいろなことをやって、なるたけはやなに決着けっちゃくがつくようにたくらんでいる。
あなたは本気ほんきはなかったのだろうというけれども、戦争せんそうんでからなかなかチャンスがないわけだ。とにかく太宰だざいさんみたいにおんな一緒いっしょかわむのもいいだろうが、なかなかチャンスがない。わたし一緒いっしょんでくれる女性じょせい――このなかにそんな女性じょせいほうでもおられればいいのですが、――そういう志望しぼうしゃがなかなかあらわれないのです。(笑)ですからようするにチャンスをいっしたということですな。 — 三島みしま由紀夫ゆきお国家こっか革新かくしん原理げんり――学生がくせいとのティーチ・イン その[204]
日時にちじ 昭和しょうわよんじゅうさんねんじゅうがつさんにち
場所ばしょ 早稲田大学わせだだいがく大隈おおくま講堂こうどう
主催しゅさい 早稲田大学わせだだいがく尚史ひさしかい

1969ねん昭和しょうわ44ねん)3がつだい3かい自衛隊じえいたい体験たいけん入隊にゅうたい学生がくせい雑談ざつだんでも、「由紀夫ゆきお」という名前なまえわかすぎる名前なまえだから、としったらシェークスピアすなきち)の尊称そんしょうの「すなおきな」にあやかって「ゆきおきな」にするつもりだとい、「えっ、先生せんせいわかくしてぬんじゃないんですか」と学生がくせいおどろいて質問しつもんすると、三島みしま苦虫にがむしつぶしたようなしぶ表情ひょうじょうわってよこいてしまったという[205]。このことから、44さい時点じてんでは、作品さくひんがいじつ人生じんせいでは長生ながいきするつもりだったともられている[205]

なお、三島みしまにはヒロイズムつまり英雄えいゆうてき自己じこ犠牲ぎせいたいするあこがれがあることがエッセイなどから散見さんけんされ、それも要因よういんひとつにかぞえられる。三島みしまは、1967ねん昭和しょうわ42ねん元旦がんたんに『年頭ねんとうまよい』とだいして新聞しんぶん発表はっぴょうした文章ぶんしょうで、〈西郷さいごう隆盛たかもりじゅうさい英雄えいゆうとしてんだし、このあいだ熊本くまもとくだりつてかみ風連ふうれん調しらべて感動かんどうしたことは、一見いっけん青年せいねん暴挙ぼうきょられがちなあのらん指導しどうしゃ一人ひとりで、壮烈そうれつ最期さいごげた加屋かや霽堅が、わたし同年どうねんんだといふ発見はっけんであつた。わたしいまなら、英雄えいゆうたる最終さいしゅう年齢ねんれいあいだあいふのだ〉とべている[206]。また、『行動こうどうがく入門にゅうもん』のなかでは、以下いかのようにかたっている。

かつて太陽たいようびてゐたものが日蔭ひかげついひやられ、かつて英雄えいゆう行為こういとして人々ひとびと称賛しょうさんはくしたものが、いまや近代きんだいヒューマニズム見地けんちからさばかれるやうになつた。(中略ちゅうりゃく会社かいしゃ社長しゃちょうしついちにちひゃくじゅうほん電話でんわをかけながら、ほかの商社しょうしゃ競争きょうそうしてゐるおとこがどうして行動こうどうてきであらうか? 後進こうしんこくくだりつて後進こうしんこく住民じゅうみんたちをだましあるき、会社かいしゃ収益しゅうえきげてほめられるおとこがどうして行動こうどうてきであらうか?
現代げんだい行動こうどうてきげんはれる人間にんげんには、たいていそのやうなぞく社会しゃかいのかすがついてゐる。そして、この世俗せぞくあかにまみれたなかで、人々ひとびと英雄えいゆう類型るいけいおとろえへ、に、むざんな腐臭ふしゅうはなつていくのをるのである。青年せいねんたちは、自分じぶんらがかつて少年しょうねん雑誌ざっし劇画げきがからまなんだ英雄えいゆう類型るいけいが、やがて自分じぶんかれるべき未来みらい社会しゃかいなかでむざんな敗北はいぼく腐敗ふはいにさらされていくのを、焦燥しょうそうつて見守みまもらなければならない。そして、英雄えいゆう類型るいけいほろぼす社会しゃかい全体ぜんたいこうかつて否定ひていさけび、かれ自身じしんちいさなかみ必死ひっしまもらうとするのである。 — 三島みしま由紀夫ゆきお行動こうどうがく入門にゅうもん[207]

そして、壮絶そうぜつ見出みいだすという傾向けいこうは、平田ひらた弘史ひろし時代物じだいもの劇画げきがきだとかたっていることなどからうかがえ[208]切腹せっぷくたいする官能かんのうてき嗜好しこうやこだわりも、自身じしん映画えいが制作せいさくした小説しょうせつ憂国ゆうこく』や、榊山さかきやまたもつ名義めいぎゲイ雑誌ざっし発表はっぴょうした小説しょうせつあい処刑しょけい』から看取かんしゅされる[209]切腹せっぷくについて三島みしまかたったことのあるなか康弘やすひろどおりは、切腹せっぷく興味きょうみ傾向けいこう人々ひとびと男女だんじょわず、「切腹せっぷく精神せいしんてき伝統でんとう、すなわち儀式ぎしきてき厳粛げんしゅく崇高すうこう自己じこ犠牲ぎせい悲愴ひそうを、思春期ししゅんきしんきざみつけて以来いらい条件じょうけん反射はんしゃのように、あい両極りょうきょくむす媒体ばいたいとして、切腹せっぷく意義いぎ把握はあくしている」とし[210]、そういった人々ひとびとでも、自殺じさつ切腹せっぷくえらひとはあっても、「切腹せっぷくしたいから自殺じさつするひとは、まずい」と解説かいせつしている[210]

なお、三島みしまは1970ねん昭和しょうわ45ねん7がつ7にちづけサンケイ新聞しんぶん夕刊ゆうかん戦後せんご25周年しゅうねん企画きかくわたしなかの25ねん」に、『たしてゐない約束やくそく』というエッセイを寄稿きこうし、そのなかで、自身じしん戦後せんご25ねんの〈空虚くうきょ〉をかえり、それを〈はなをつまみながらとおりすぎた〉とし、以下いかのようにその時代じだいについてかたっている[211]

じゅうねんまえわたしにくんだものは、多少たしょうがたへんへはしたが、いまもあひかはらずしぶとくながらへてゐる。ながらへてゐるどころか、おどろくべき繁殖はんしょくりょく日本にっぽんちゅう完全かんぜん浸透しんとうしてしまつた。それは戦後せんご民主みんしゅ主義しゅぎとそこからしょうずる偽善ぎぜんといふおそるべきバチルスである。こんな偽善ぎぜん詐術さじゅつは、アメリカの占領せんりょうともおわりはるだらう、とかんがへてゐたわたしはずいぶんあまかつた。おどろくべきことには、日本人にっぽんじんみずかすすんで、それを自分じぶん体質たいしつとすることをえらんだのである。政治せいじも、経済けいざいも、社会しゃかいも、文化ぶんかですら。 — 三島みしま由紀夫ゆきおたしてゐない約束やくそくわたしなかじゅうねん[211]

三島みしまはその戦後せんご民主みんしゅ主義しゅぎ否定ひていしつつも〈そこから利益りえき、のうのうとらしてたといふことは、わたしひさしいしんきずになつてゐる〉と告白こくはくし、おおくの作品さくひんかさねても、自身じしんにとっては〈排泄はいせつぶつかさねたのとおなじ〉で、〈その結果けっか賢明けんめいになることはだんじてない。さうかとうんつて、うつくしいほどおろかになれるわけではない〉として最後さいご一節いっせつでは以下いかのような訣別けつべつ表明ひょうめいしている。この文章ぶんしょうは、実質じっしつてき遺書いしょひとつとして、以降いこう三島みしま研究けんきゅう三島みしま事件じけんろんにおいておお引用いんようされている。

じゅう年間ねんかん希望きぼうひとひとしつつて、もはやさきえてしまつたやうな今日きょうでは、その幾多いくた希望きぼうがいかに空疎くうそで、いかに俗悪ぞくあくで、しかも希望きぼうようしたエネルギーがいかに厖大ぼうだいであつたかに唖然あぜんとする。これだけのエネルギーを絶望ぜつぼう使つかいつてゐたら、もうすこしどうにかなつてゐたのではないか。
わたしはこれからの日本にっぽんたいして希望きぼうをつなぐことができない。このままぎょうつたら「日本にっぽん」はなくなつてしまうのではないかといふかんましにふかくする。日本にっぽんはなくなつて、そのだいはりに、無機むきてきな、からつぽな、ニュートラルな、中間色ちゅうかんしょくの、富裕ふゆうな、抜目ぬけめがない、ある経済けいざいてき大国たいこく極東きょくとう一角いっかくのこるのであらう。それでもいいとおもえつてゐるひとたちと、わたしくちをきくにもなれなくなつてゐるのである。 — 三島みしま由紀夫ゆきおたしてゐない約束やくそくわたしなかじゅうねん[211]

ちなみに、三島みしま決起けっき時点じてんですでに決意けついしていたことは、事件じけんまえの9がつに「だてかい」メンバーの古賀こが浩靖ひろやすかって、「自衛隊じえいたいいんちゅう行動こうどうともにするものがでることは不可能ふかのうだろう、いずれにしても、自分じぶんななければならない」とかたっていたことからあきらかで[7]、8がつには「諌死かんし」という漢字かんじみを「kanshi」とノートへんいて、ヘンリー・スコット・ストークスわたしていることなどから、自決じけつクーデター実行じっこうではなく、「諫死」(みずかぬことによって目上めうえものをいさめること)の意味合いみあいであったことがうかがえる[169]

はやし房雄ふさおは、三島みしまはやしとの対談たいだん対話たいわ日本人にっぽんじんろん』(1966ねん)のなかで、政治せいじたちは詩人しじん文学ぶんがくしゃ予見よけんしたことを、なんじゅうねんぎてからやっとがつくとったことにれながら[212]、「三島みしまくんとその青年せいねん同志どうし諌死かんしは、〈平和へいわ憲法けんぽう〉と〈経済けいざい大国たいこく〉というだいうそうえにあぐらをかき、このうつくしい――うつくしくあるべき日本にっぽんというくにを、〈エコノミック・アニマル〉と〈フリー・ライダー〉(ただ)の醜悪しゅうあく巣窟そうくつにして、破滅はめつふちへのすべりをおこさせている〈精神せいしんてき老人ろうじんたち〉の惰眠だみんをさまし、日本にっぽんすべりそのものをくいとめる最初さいしょ最後さいごの、貴重きちょう有効ゆうこう人柱ひとばしらである」とべている[212]

また、三島みしま自決じけつへの要因よういんひとつとしてかせないものには、三島みしま少年しょうねんにおける文学ぶんがくであり、精神せいしんてき支柱しちゅう一人ひとりでもあった蓮田はすだ善明よしあき敗戦はいせんさいし、国体こくたい護持ごじねんじてピストル自決じけつをとげたことの影響えいきょうがある[213]詳細しょうさい蓮田はすだ善明よしあき三島みしま由紀夫ゆきお参照さんしょう)。1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ19にち戦地せんちジョホールバル蓮田はすだは、中条ちゅうじょうゆたか大佐たいさ軍旗ぐんき決別けつべつしき天皇てんのう愚弄ぐろうした発言はつげん敗戦はいせん責任せきにん天皇てんのうかえし、皇軍こうぐん前途ぜんと誹謗ひぼうし、日本にっぽん精神せいしん壊滅かいめついた)に憤怒ふんぬし、大佐たいさ射殺しゃさつ自身じしん自害じがいした。三島みしま翌年よくねん11がつ17にち成城学園せいじょうがくえんもとこころりょうおこなわれた「蓮田はすだ善明よしあきしのかい」で、哀悼あいとうけんじた[注釈ちゅうしゃく 30]

三島みしまおな戦中せんちゅう世代せだいであり知人ちじんであった吉田よしだみつるは、三島みしま生涯しょうがいかけてもうとした課題かだい基本きほんにあるものは、「戦争せんそうおくれた」事実じじつ胚胎はいたいしているとし、終戦しゅうせんときまん20さいであった三島みしまかんがみて、戦艦せんかん大和やまと海上かいじょう特攻とっこうせん参加さんかし21さい戦死せんししたうすふちいわ三島みしま共通きょうつうする精神せいしんや、四国しこくおき上空じょうくうべい軍機ぐんき交戦こうせん散華さんげしたはやしいんおっとのこされた日記にっきが『わがいのち月明げつめいもえ』として戦後せんご出版しゅっぱん)と三島みしま共通きょうつうする自己じこ凝視ぎょうし平静へいせいさをながら、つぎのように考察こうさつしている[215]

出陣しゅつじんする先輩せんぱい日本にっぽんなみ曼派同志どうしたちのあるものは、直接ちょくせつかれ後事こうじたくする言葉ことばのこしてせいったはずである。後事こうじたくされるということは、戦争せんそう渦中かちゅうにある青年せいねんにとって、およそ敗戦はいせん復興ふっこうというような悠長ゆうちょうなものにはつながらず、自分じぶんもまた本分ほんぶんをつくして祖国そこくじゅんずることだけを純粋じゅんすい意味いみしていた。(中略ちゅうりゃく
われわれ戦中せんちゅう世代せだいは、青春せいしゅん頂点ちょうてんにおいて、「いかにぬか」という難問なんもんとの対決たいけつとおしてしか、「いかにきるか」の課題かだい追求ついきゅうゆるされなかった世代せだいである。そしてその試練しれんに、馬鹿ばか正直しょうじきにとりくんだ世代せだいである。はやしいんおっと表現ひょうげんによれば、――おれは、よしんばなぐられ、とばされることがあっても、精神せいしん王国おうこくだけははなすまい。それがいまのおれにとり、唯一ゆいいつ修業しゅうぎょうであり、おれにとって過去かこ未来みらい一貫いっかんせるかたまなばせるものが、そこにあるのだ――と自分じぶん鞭打むちうとうとする愚直ぐちょく世代せだいである。戦争せんそうおわると、自分じぶん一方いっぽうてき戦争せんそう被害ひがいしゃ仕立したてて戦争せんそうえんり、いそいそと古巣ふるすかえってゆく、そうした保身ほしんじゅつにつけていない世代せだいである。三島みしま自身じしん律義りちぎ生真面目きまじめで、妥協だきょうゆるせないひとであった。 — 吉田よしだみつる三島みしま由紀夫ゆきお苦悩くのう[215]

1992ねん4がつから1994ねん1がつまでの1ねん8かげつ日本にっぽん滞在たいざいしていたというインドじんビジネスマンのM.K.シャルマは、三島みしま行動こうどうについて、「かれ三島みしま)は小説しょうせつとしてこのでありとあらゆる栄光えいこうれたが、戦時せんじ自分じぶんが〈兵隊へいたいにならなかった〉というコンプレックスからのがれることはできなかった。兵役へいえきのがれたことは男児だんじとしての証明しょうめいけるだけでなく、かれにとって、民族みんぞく一人ひとりとしての資格しかくけることだったのだろう。この劣等れっとうかんは、名声めいせいれればれるほど、かれしんつよ自嘲じちょうねんあたえたのにちがいない」とべている[216]

杉山すぎやま隆男たかおは、三島みしま滝ヶ原たきがはらぶんたむろたいない『たきがはら』にせた一文いちぶんなか自分じぶんのことを、〈自衛隊じえいたいについて「りすぎた」おとこになつてしまつた〉[190]っていたことにれつつ、「じっさい〈りすぎた〉三島みしまは、『げき』にもきとめたとおり、〈アメリカはしん日本にっぽん自主じしゅてき軍隊ぐんたい日本にっぽん國土こくどまもることをよろこばないのは自明じめいである〉という自衛隊じえいたい本質ほんしつ見抜みぬいていたがゆえに、自衛隊じえいたい今日きょうある姿すがた予見よけんすることができたのだろう」とべ、杉山すぎやま自身じしん実際じっさい体験たいけんしてさとった自衛隊じえいたいかんかさねて以下いかのように分析ぶんせきしている[217]

隊員たいいんひとりひとりが訓練くんれん任務にんむ最前線さいぜんせん小石こいしげるようにどれほど地道じみちでひたむきな努力どりょくかさねようとも、アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人こうけんにんにし、アメリカの意向いこうをうかがわざるをない、すぐれて政治せいじてき道具どうぐとしての自衛隊じえいたい本質ほんしつ限界げんかいは、戦後せんごじゅうねんろくじゅうねんとなり、世紀せいきあたらしくなってもわりようがないのである。(中略ちゅうりゃく
わたしじゅうねんかけておもり、やはりそうだったのか、とみずからに納得なっとくさせるしかなかったことを、三島みしまよんねんたない自衛隊じえいたい体験たいけんなかでそのするど透徹とうてつした眼差まなざしのさき見据みすえていた。もっとも日本にっぽんであらねばならないものが、戦後せんご日本にっぽんのいびつさそのままに、っこの部分ぶぶんで、日本にっぽんとはなりない。三島みしま絶望ぜつぼうはそこからはっせられていたのではなかったのか。 — 杉山すぎやま隆男たかお「『兵士へいし』になれなかった三島みしま由紀夫ゆきお[217]

舟橋ふなばし聖一せいいちは、三島みしまを「いきどおりの」だとし、その意味いみについて、「――わたしはおもう。表現ひょうげんりょく極限きょくげんにつながることを――。表現ひょうげんしても、表現ひょうげんしても、その表現ひょうげんりょくあつかべによってさまたげられるときペンなげうってぬほかはない」という見解けんかいしめした[218]

島田しまだ雅彦まさひこは、三島みしまが『文化ぶんか防衛ぼうえいろん』のような論文ろんぶんき、そうした「イデオロギーささえるべく言葉ことば伽藍がらん」を小説しょうせつにおいて創作そうさくしながら、その一方いっぽうで「サブカルチャー帝王ていおうとしてのポジション」をつくっていった理由りゆうは、安保あんぽ反対はんたい左翼さよく全盛ぜんせい時代じだいにイデオロギーをストレートにしても全面ぜんめんてき支持しじられるはずもないため、民主みんしゅ主義しゅぎてき支持しじりつけなければならなかったからだと考察こうさつ[219]、それは「戦後せんご民主みんしゅ主義しゅぎ守護神しゅごじん」という位置いちめるようになった「戦後せんご天皇てんのうそのものの隠喩いんゆ」を、三島みしまみずからが体現たいげんしようとしたのではないかとべている[219]。そしてそのやりかたは、石原いしはら慎太郎しんたろうのように文学ぶんがくしゃ政治せいじにかかわるという方向ほうこうではないが、「一人ひとり三島みしまとうみたいなものの勢力せいりょくばしていく手口てぐち」であり、三島みしま意識いしきなかでイデオロギーと「有機ゆうきてき矛盾むじゅんなくむすびついていたのかもしれないという意味いみでの政治せいじ」なのだとろんじている[219]

また島田しまだは、今日きょう文学ぶんがくが、「この日本にっぽんえるとか、日本にっぽん政治せいじえるという政治せいじてき野心やしん」からとおはなれてしまったことにれつつ、以下いかのような見解けんかいべている。

いま時点じてん後学こうがくで、三島みしまのやったことをとらえなおそうとすれば、もともとは政治せいじ敗北はいぼくしたもののジャンルであるともわれていた文学ぶんがくふかくコミットしながら、しかしそれでも、文学ぶんがくサイドから政治せいじへの逆転ぎゃくてんさよならホームランてきコミット、文学ぶんがく革命かくめい社会しゃかい革命かくめいになるということをどこかでしんじていたのではないか。むろんそれは非常ひじょうむずかしい。かつての自由じゆう民権みんけん運動うんどうになたちや、大正たいしょうデモクラシーになたち、共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどうにコミットした文学ぶんがくしゃたちがいていた理想りそう主義しゅぎなかったかもしれないけれども、にが現実げんじつ認識にんしきともないつつ、過去かこ文学ぶんがくしゃ政治せいじのかかわりかたいち変形へんけい三島みしまみとめるのは可能かのうかもしれない。 — 島田しまだ雅彦まさひこ三島みしま由紀夫ゆきお不在ふざいさんじゅうねん[219]

田中たなか美代子みよこは、三島みしま遺稿いこう壮年そうねん狂気きょうき』のなか[220]、〈現代げんだい一般いっぱん政治せいじ実業じつぎょう知識ちしきじんはそれほど正気しょうきであり、それほど児戯じぎからとおくにゐるだらうか〉と「さん事件じけん」にれながら反問はんもんし、〈狂気きょうき問題もんだい提起ていきは、正気しょうきだとおもえつてゐる人間にんげん狂気きょうきをあばくところにある〉としるしていたことをげながら、「実際じっさいげき〉の指摘してきする沖縄おきなわ問題もんだいもいまだに解決かいけつをみず、げん憲法けんぽうはいわばゴルディウスのむすであり、三島みしま事件じけんは、内外ないがい情勢じょうせいらし、改憲かいけん不可能ふかのう見極みきわめたゆえに、みずから〈文化ぶんか〉を体現たいげんしつつ、〈政治せいじ〉と刺違さしちがえた象徴しょうちょうてき行動こうどうだった」と考察こうさつしている[221]

磯田いそだ光一こういちは、三島みしまのなかに、「戦後せんご安定あんていした社会しゃかいのなかで風化ふうかをつづける文化ぶんか状況じょうきょうへの反発はんぱつ戦後せんご国家こっかのはんでいる矛盾むじゅんへの挑戦ちょうせん」があり、それが「時代じだい価値かちかん逆行ぎゃっこうするみち動因どういんひとつ」になったとべている[222]。そして、その小説しょうせつ生涯しょうがいがたとえ「三島みしま由紀夫ゆきお」というの「仮面かめんげき」であったとしても、「その仮面かめんのそなえていた妥協だきょうらないあゆみ」は、三島みしまとなえた政治せいじ思想しそう評価ひょうかおおくの批判ひはん問題もんだいのこされているにせよ、「その芸術げいじゅつじょうゆたかな達成たっせいとともに、人間にんげん精神せいしんてき価値かち証明しょうめいしようとする誠実せいじつこころみのひとつであった」として、「自身じしん行為こうい時代じだいへのアンチテーゼ意識いしきしていた三島みしまは、その評価ひょうかをのこされたひとびとにゆだねたのである」としている[222]

死後しご46ねんった2017ねん平成へいせい29ねん)1がつはつ公表こうひょうされたジョン・ベスターとの対談たいだんの9かげつまえの1970ねん2がつ19にち実施じっし)でさんとうは、〈がね、自分じぶんなか完全かんぜんにフィックスしたのはね、自分じぶん肉体にくたいができてからだとおもうんです。(中略ちゅうりゃく位置いち肉体にくたいそとからなかはいってきたようながする〉、〈平和へいわ憲法けんぽうです。あれが偽善ぎぜんのもとです。(中略ちゅうりゃく憲法けんぽうは、日本人にっぽんじんねとっているんですよ〉と自身じしん死生しせいかん文学ぶんがく憲法けんぽうについてれ、行動こうどうについては自身じしんを〈ピエロ〉にたとえ、後世こうせい理解りかいゆだねるかのような以下いか発言はつげんをしている[223][224][225][226]

ぼくがやっていることが写真しゃしんます。あるいは、週刊しゅうかん紹介しょうかいされます。それはその段階だんかいにおいてみんなにわかるわけでしょう。ああ、あいつはこんなことをやっている、バカだねえ、と。でも、その「バカだねえ」ということをいく説明せつめいしても、ぼくをバカだとおもったひとはバカだとおもつづけます。(中略ちゅうりゃく)ですから、ぼくは、スタンダールじゃないけれども、happy few がわかってくれればいいんです。ぼくにとっては、ぼく小説しょうせつよりもぼく行動こうどうほうかりにくいんだ、という自信じしんがあるんです。(中略ちゅうりゃく
ぼくんでね、50ねんか100ねんたつとね、「ああ、わかった」というひとがいるかもしれない。それでもかまわない。きているというのは、人間にんげんはみんななんらかの意味いみピエロです。これはまぬかれない。佐藤さとう首相しゅしょうでもやっぱり一種いっしゅのピエロですね。きている人間にんげんがピエロでないということはありないですね。

人間にんげんがピエロというのは、ある意味いみ芝居しばいをやらなくちゃきていけない。(ジョン・ベスターのい)

芝居しばいをやらなきゃきていけないのは、きっと神様かみさま我々われわれ人形にんぎょうあつかっているわけでしょう。我々われわれ人生じんせいひとつの役割やくわりを、puppet play(パペット・プレー)をいられているんですね[注釈ちゅうしゃく 31] — 三島みしま由紀夫ゆきお「ジョン・ベスターとの対談たいだん」(1970ねん2がつ[224][225][227]

裁判さいばんでの陳述ちんじゅつなど

編集へんしゅう

のこった3にんへの公訴こうそは、嘱託しょくたく殺人さつじん傷害しょうがい監禁かんきん致傷ちしょう暴力ぼうりょく行為こうい職務しょくむ強要きょうようなど刑事けいじ訴訟そしょうほうわくない外形がいけいてきなものにまり、改憲かいけん論議ろんぎについては、法廷ほうてい自体じたい意見いけん左右さゆうし、支援しえん団体だんたい全国ぜんこくがくきょう日本にっぽん青年せいねん協議きょうぎかい、11・25義挙ぎきょ正当せいとう裁判さいばん要求ようきゅう闘争とうそう実行じっこう委員いいんかいなど)が三島みしま論文ろんぶん問題もんだい提起ていき』を提出ていしゅつしたにもかかわらず、弁護べんごだんも「現行げんこう憲法けんぽう批判ひはん司法しほう裁判所さいばんしょ関与かんよするところではない」として証拠しょうこ物件ぶっけんとはしなかった[221]

大越おおこしまもる弁護人べんごにん最終さいしゅう弁論べんろんで、「国家こっかのためにする緊急きんきゅう救助きゅうじょ法理ほうり」の適用てきよう主張しゅちょうしたが、櫛淵くしぶち裁判さいばんちょうは、「国家こっか公共こうきょう機関きかん有効ゆうこう公的こうてき活動かつどう期待きたいしえないだけの緊急きんきゅう事態じたい存在そんざいしていたとは到底とうていみとめられない」として被告ひこくらは懲役ちょうえき4ねん実刑じっけいとなった[注釈ちゅうしゃく 32]。なお、被告ひこくらの裁判さいばんちゅう陳述ちんじゅつなどは以下いかのものである。

しょう正義まさよし

「いまのなかたとき、うすっぺらなことばかりおおい。真実しんじつかたることができるのは、自分じぶん生命せいめいをかけた行動こうどうしかない。先生せんせい三島みしま)からこのようなはなし以前いぜんから、自分じぶんでもこうかんがえていた。憲法けんぽう占領せんりょうぐん英文えいぶん起草きそうした原案げんあんしつけたもので、欺瞞ぎまん偽善ぎぜんにみち、屈辱くつじょく以外いがいのなにものでもない。(中略ちゅうりゃく日本人にっぽんじんたましい取戻とりもどすことができるのではないかとかんがえ、行動こうどうした。しかし、社会しゃかいてき政治せいじてき効果こうかがあるとはおもわなかった。三島みしま先生せんせいも『おおくのひと理解りかいできないだろうが、いま犬死いぬじにがいちばん必要ひつようだということをせつけてやりたい』とはなされていた。われわれは軍国ぐんこく主義しゅぎものではない。永遠えいえんつづくべき日本にっぽん天皇てんのう地位ちいまもるために、日本人にっぽんじん意地いじせたのだ」[4]

天皇てんのう地位ちいは、天皇てんのう存在そんざいするがゆえに、歴史れきしてき天皇てんのうなのであって、大統領だいとうりょう議員ぎいんえらぶように多数決たすうけつまるものではないのです。きくきくであるからこそきくなのであって、どのようにしてもバラにすることはできないのと同様どうように、天皇てんのう選挙せんきょやそれにるいするもので否定ひていすることはできないのです。それなのに(国民こくみんの)『総意そういもとづく』とあるのは現行げんこう憲法けんぽう西洋せいよう民主みんしゅ概念がいねんあやまって天皇てんのうてはめ、天皇てんのう国民こくみん対立たいりつするヨーロッパの暴君ぼうくんのようにえがしたアメリカ占領せんりょうぐん日本にっぽん弱化じゃっかたくらみです。それ現行げんこう憲法けんぽうしん日本人にっぽんじん自覚じかくするならばだまって見過みすごすわけにはできないはずです。三島みしま先生せんせい森田もりた大兄たいけい自決じけつは、このうしなわれつつある大義たいぎのためにおこなった至純しじゅんにして至高しこう至尊しそん自己じこ犠牲ぎせい最高さいこう行為こういであります。『』は文化ぶんかであるといった三島みしま先生せんせい言葉ことばは、このことをしていたのではないかとおもいます」[113]

小川おがわ正洋まさひろ

自衛隊じえいたい治安ちあん出動しゅつどうするまでの空白くうはくめるのが、だてかい目的もくてきだった。くにがみずからの日本にっぽん文化ぶんか伝統でんとうつたえ、くにまもるのを憲法けんぽう保障ほしょうするのは当然とうぜんである」[4]

三島みしま先生せんせいの『右翼うよく理論りろんでなく心情しんじょうだ』という言葉ことばはとてもうれしいものでした。自分じぶんひとからくらべれば勉強べんきょうりないし、活動かつどう経験けいけんすくない。しかし、日本にっぽんおも気持きもちだけはだれにもけないつもりだ。三島みしま先生せんせいは、如何いかなるときでも学生がくせい先頭せんとうたれ、訓練くんれんともにうけました。ともどろにまみれ、あせながしてゆきうえをほふくし、その姿すがた感激かんげきせずにはおられませんでした。これは世間せけんでいう三島みしま道楽どうらくでもなんでもない。また、文学ぶんがくしゃとしての三島みしま由紀夫ゆきおでもない。(中略ちゅうりゃくだてかい例会れいかいつうじ、先生せんせいは『左翼さよく右翼うよくとのちがいは“天皇てんのう”しかないのだ』とよく説明せつめいされました。『左翼さよくかさ方式ほうしきだが我々われわれちがう。我々われわれはぎりぎりのたたかいをするしかない。後世こうせいしんじても未来みらいしんじるな。未来みらいのための行動こうどうは、文化ぶんか成熟せいじゅく否定ひていするし、伝統でんとう高貴こうき否定ひていする。自分じぶんみずからを、歴史れきし精華せいか具現ぐげんする最後さいごものとせよ。それが神風かみかぜ特攻隊とっこうたい行動こうどう原理げんり“あとにつづものありとしんじず”の思想しそうだ。(中略ちゅうりゃく武士ぶしどうとはぬこととつけたりとは、あさきたらその最後さいごだとおもうことだ。だから歴史れきし精華せいか具現ぐげんするのは自分じぶん最後さいごだとおもうことが、武士ぶしどうなのだ』とおしえてくださいました。(中略ちゅうりゃくわたしたち行動こうどうしたからといって、自衛隊じえいたい蹶起けっきするとはかんがえませんでしたし、なかきゅうわることもあろうはずがありませんが、それでもやらねばならなかったのです」[113]

古賀こが浩靖ひろやす

戦後せんご日本にっぽん経済けいざい大国たいこくになり、物質ぶっしつてきには繁栄はんえいした反面はんめん精神せいしんてきには退廃たいはいしているのではないかとおもう。思想しそう混迷こんめいなかで、個人こじんてき享楽きょうらく利己りこてきかんがえがさきち、民主みんしゅ主義しゅぎ美名びめい日本人にっぽんじん精神せいしんをむしばんでいる。(中略ちゅうりゃく)その傾向けいこうをさらにすすめると、日本にっぽん歴史れきし文化ぶんか伝統でんとう破壊はかいするおそれがある。(中略ちゅうりゃく)この状況じょうきょうをつくりだしているあく根源こんげんは、憲法けんぽうであるとおもう。げん憲法けんぽうマッカーサーサーベルしたでつくられたもので、サンフランシスコ条約じょうやく形式けいしきてき独立どくりつしたとき、無効むこう宣言せんげんをすべきであった」[4]

現実げんじつには、日本にっぽんにとって非常ひじょうにむずかしい、重要じゅうよう時期じきが、曖昧あいまいな、呑気のんきなかたちでろうとしており、現状げんじょう維持いじ生温なまぬる状況じょうきょうなか日本にっぽんちゅうは、どっぷりとつかって、これが、将来しょうらいどのような意味いみっているかをふかく、真剣しんけんさぐることなくろうとしていたことに、三島みしま先生せんせい森田もりたさんらがいきどおらざるをなかったことはたしかです」[113]

狂気きょうき気違きちが沙汰ざたといわれたかもしれないが、いまきている日本人にっぽんじんだけにびかけ、うったえたのではない。三島みしま先生せんせいは『自分じぶんかんがえ、かんがいていまできることはこれなんだ』とった。最後さいご話合はなしあったとき、『いまこの日本にっぽんなにかがこらなければ、日本にっぽん日本にっぽんとして立上たちあがることができないだろう、社会しゃかい衝撃しょうげきあたえ、亀裂きれつをつくり、日本人にっぽんじんたましいせておかなければならない、われわれがつくる亀裂きれつちいさいかもしれないが、やがておおきくなるだろう』とっていた。先生せんせい後世こうせいたくしてあの行動こうどうをとった」[182]

大越おおこしまもる弁護人べんごにん

「まれにみる鋭敏えいびん頭脳ずのう持主もちぬしである三島みしま脳裏のうりには、このうつくしい日本にっぽんが、ガラガラとおとをたててくずれてゆく姿すがたが、とらえられていたにちがいない。三島みしま畢生ひっせい大作たいさく豊饒ほうじょううみ』これと同名どうめいつきうみは、その華麗かれいさにず、うみであり、廃墟はいきょ世界せかいである。これと同様どうよう三島みしま脳裏のうりには、経済けいざいてきには益々ますますゆたかになる日本にっぽんが、精神せいしんてきにはつきうみのように荒廃こうはいしてしまうのがうつっていた。われわれは、その危機ききひとつを最近さいきん連合赤軍れんごうせきぐん事件じけんしめされた。あの事件じけんこそ、道義どうぎ根底こんていからうしなわれていることを、もっとはしてきしめすものである。三島みしま親友しんゆうである村松むらまつつよしは、その著書ちょしょ三島みしま由紀夫ゆきお―そのなま』に、『日本人にっぽんじん繁栄はんえいのぬるまにつかり、たのみとしていた自衛隊じえいたいも、とうにはならなかった。どうしたらこの事態じたいうごかしるか、をもっていさめるみちえらんだ』といている。こうして、三島みしま森田もりたは、割腹かっぷく自決じけつをし、社会しゃかい覚醒かくせいさせようとした」[63]

三島みしま遺書いしょ

編集へんしゅう

三島みしまだてかい会員かいいん倉持くらもちきよし(1期生きせいだい2はん班長はんちょう)にてた遺書いしょは、事件じけんよるに、瑤子ようこ夫人ふじんから倉持くらもちきよし手渡てわたされた[97][228]倉持くらもちは、決起けっきした会員かいいん4めい同様どうよう三島みしまから信頼しんらいされていた人物じんぶつであった[111][229]

三島みしま倉持くらもちから仲人なこうど依頼いらいされ快諾かいだくしていたために、〈蹶起けっき破滅はめつみちみちびくこと〉、〈許婚きょこんしゃ裏切うらぎりつて貴兄きけいだけを行動こうどうさせること〉は不可能ふかのうだったことをつたえ、人生じんせいきてもらいたいことを遺言ゆいごんした[111]

小生しょうせいちいさな蹶起けっきは、それこそかんがへにかんがへたすえであり、あらゆる条件じょうけん参酌さんしゃくして、唯一ゆいいつ活路かつろ見出みいだしたものでした。活路かつろ同時どうじ明確めいかく予定よていしてゐました。あれほど左翼さよく学生がくせい行動こうどう責任せきにんのなさを弾劾だんがいしてきたしょうせいとしては、とるべきみちひとつでした。それだけに人選じんせん厳密げんみつきわめ、ごくごくしょう人数にんずうで、できるだけ犠牲ぎせいすくなくすることをかんがへるほかはありませんでした。
小生しょうせいとしてもだてかい会員かいいんともよしのためにつことをどんなに念願ねんがんし、どんなにゆめみたことでせう。しかし、状況じょうきょうはすでにそれを不可能ふかのうにしてゐましたし、さうなつた以上いじょう参加さんかしゃにはなにらせぬことがじょうである、とかんがへたのです。小生しょうせいけっして貴兄きけいらを裏切うらぎりつたとはおもえつてをりません。(中略ちゅうりゃく)どうか小生しょうせい気持きもちんで、今後こんご就職しゅうしょくし、結婚けっこんし、汪洋おうようたる人生じんせいなみ抜手ぬきてせつつてすすみながら、貴兄きけいしん理想りそうわすれずに成長せいちょうされることを念願ねんがんします。 — 三島みしま由紀夫ゆきお倉持くらもちきよしての封書ふうしょ」(昭和しょうわ45ねん11月)[111]

この倉持くらもちへの封書ふうしょとも同封どうふうされていただてかい会員かいいん一同いちどうての遺書いしょは、事件じけん翌日よくじつ11がつ26にち代々木よよぎ聖徳せいとくさん諦聴寺たいちょうじいとなまれた森田もりた必勝ひっしょう通夜つやせきで、みなまわみされた[102]。これをんだ会員かいいんたちは、のこされたものへの三島みしまおもいやりがつたわってきたと回想かいそうしている[102][229]

たびたび、諸君しょくんこころざしをきびしい言葉ことばでためしたやうに、小生しょうせい脳裡のうりにあるゆめは、だてかい会員かいいん一丸いちがんとなつて、のためにち、かい思想しそう実現じつげんすることであつた。それこそ小生しょうせい人生じんせい最大さいだいゆめであつた。日本にっぽん日本にっぽん姿すがたかえすために、だてかいはその総力そうりょく結集けっしゅうしてことあたるべきであつた。(中略ちゅうりゃく革命かくめい青年せいねんたちの空理空論くうりくうろんはいし、われわれは不言ふげん実行じっこうむねとして、たけみちにはげんできた。ときいたらば、だてかい真価しんかぜん国民こくみん目前もくぜん証明しょうめいされるはずであつた。
しかるに、ときあらず、われわれが、われわれの思想しそうのために、全員ぜんいんあげて行動こうどうする機会きかいうしなはれた。日本にっぽんはみかけの安定あんていしたに、いちにちいちにちたましいのとりかへしのつかぬがん症状しょうじょうをあらはしてゐるのに、をこまぬいてゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動こうどう必要ひつようなときに、状況じょうきょうはわれわれに味方みかたしなかつたのである。(中略ちゅうりゃく
日本にっぽん堕落だらくふちしずんでも、諸君しょくんこそは、武士ぶしたましいまなび、武士ぶし錬成れんせいけた、最後さいご日本にっぽん若者わかものである。諸君しょくん理想りそう放棄ほうきするとき、日本にっぽんほろびるのだ。わたし諸君しょくんに、男子だんしたるの自負じふきょうへようと、それのみかんがへてきた。一度いちどだてかいぞくしたものは、日本にっぽん男児だんじといふ言葉ことばなに意味いみするか、終生しゅうせいわすれないでほしい、と念願ねんがんした。青春せいしゅんおいたものこそ終生しゅうせいたからである。けっしてこれを放棄ほうきしてはならない。 — 三島みしま由紀夫ゆきおだてかい会員かいいんたりし諸君しょくんへ」(昭和しょうわ45ねん11月)[230]

三島みしま自決じけつ1週間しゅうかんまえの11月18にちよるに、大田おおた南馬込みなみまごめ自宅じたく古林ふるばやししょうによる1あいだあまりの対談たいだんインタビューにおうじた。このとき話題わだいだてかいおよぶと〈いまにわかります〉と2、3かえし、古林ふるばやしが『豊饒ほうじょううみ』のつぎ今後こんご予定よていくと、〈いまのところ、つぎのプランはなにもないんです〉とかたった[231]

古林ふるばやしはこののことをかえり、三島みしまが、「ほんとうに、なんにも、予定よていがない」とったときかおを、「あれほどさびしそうなかおを、わたしはみたことがない」とかたり、三島みしまが「敗戦はいせんよりいもうとのほうが、ショックだったといたのは、ウソで、敗戦はいせん非常ひじょうにショックだったのです。どうしていいのかわからなかった」ともっていたと回想かいそうしている[232]

事件じけん参加さんかした古賀こが浩靖ひろやす父親ちちおや事件じけん当時とうじ、「生長せいちょういえ本部ほんぶ講師こうしをし、古賀こが自身じしん入信にゅうしんしていた[7][29][注釈ちゅうしゃく 33]出所しゅっしょ古賀こがったというもとだてかい会員かいいん伊藤いとうくにてんが、「あの事件じけんで、なにがあなたにのこったか」をたずねると、古賀こがはただてのひらうえけて、なにかのおもさ(三島みしま森田もりたくびおもさ)をつようにしてじっとそれを見詰みつめていただけだったという[233]

1984ねん昭和しょうわ59ねん)に発刊はっかんされた写真しゃしん週刊しゅうかんフライデー創刊そうかんごうの「14ねん発見はっけんされた衝撃しょうげき写真しゃしん自決じけつおもみをいま」に、三島みしま生首なまくびのアップ写真しゃしん掲載けいさいされたことをけ、未亡人みぼうじん平岡ひらおか瑤子ようこ講談社こうだんしゃ強硬きょうこう抗議こうぎ出版しゅっぱんめられた。このことにつき平岡ひらおか瑤子ようこは、同年どうねんまつおこなわれた伊達だてそうかつ徳岡とくおか孝夫たかおによるインタビューで、「フォト・ジャーナリズムのこのたびの行為こういは、(江戸えど時代じだいの)さらくびです。さらくび死刑しけい以上いじょう刑罰けいばつであることを、あの雑誌ざっし編集へんしゅうに携った人々ひとびとは、ごぞんじなのでしょうか」とべた[234]

市谷いちたに記念きねんかんでツアーガイドの仕事しごとをしていた葛城かつらぎ奈海によると、東部とうぶ方面ほうめん総監そうかんしつきゅう陸軍りくぐん大臣だいじんしつ)から天皇てんのうの「休憩きゅうけいしょきゅう便殿びんでんあいだ)」にかって、りょう部屋へやまえ廊下ろうか移動いどうして三島みしま森田もりた必勝ひっしょうれいおもわれる「くろかげ」をたことがあるという[35]

1949ねん昭和しょうわ24ねん)に発生はっせいした弘前大学ひろさきだいがく教授きょうじゅ夫人ふじん殺人さつじん事件じけんでは、三島みしま事件じけん影響えいきょうけて1971ねん昭和しょうわ46ねん)に真犯人しんはんにん名乗なのたため、冤罪えんざい懲役ちょうえきしゅうになっていた人物じんぶつは、のち再審さいしんひらかれ無罪むざい判決はんけつとなった[235]

三島みしま事件じけんのち何人なんにんかの高校生こうこうせい後追あとお自殺じさつをしたという新聞しんぶん記事きじがあり、翌年よくねん1971ねん昭和しょうわ46ねん)9がつには、八王子はちおうじ高校生こうこうせい三島みしま著書ちょしょ2さつかかえて、校庭こうていでガソリンをかぶって焼身しょうしん自殺じさつした記事きじ毎日新聞まいにちしんぶん報道ほうどうされた[108]

俳優はいゆう高倉たかくらけん三島みしま事件じけん触発しょくはつされ、三島みしま映画えいが製作せいさくする予定よていだったという[236]高倉たかくらけんしたしかった横尾よこお忠則ただのりによると、具体ぐたいてきプランも煮詰につまり、高倉たかくらけんロサンゼルスなん渡航とこうしていたとされ、「次第しだいけんさんのなかに三島みしまさんがうつっていくかのようで、ぼく三島みしまさんのれい高倉たかくらけんさんに映画えいがつくらせようとしているのだなとかんじていました」と横尾よこお述懐じゅっかいしている[236]。ところが土壇場どたんば瑤子ようこ未亡人みぼうじん了解りょうかいられず映画えいが製作せいさく断念だんねんせざるをなくなった。仕方しかたなく高倉たかくらけん横尾よこお電話でんわしてきて、多磨たま霊園れいえん一緒いっしょ墓参はかまいりにきましょうとさそい、「カメラってきてください。一緒いっしょりましょう」とったという[236]

三島みしま事件じけん前後ぜんこう日本にっぽんかんする社会しゃかいてき出来事できごと

編集へんしゅう

出典しゅってん[138][237][238][239][240]

三島みしま事件じけん前後ぜんこう勃発ぼっぱつした世界せかいのクーデター・戦争せんそう暗殺あんさつ・テロ

編集へんしゅう

出典しゅってん[35][237][238][239]

三島みしま事件じけん題材だいざい・ヒントにしている作品さくひん

編集へんしゅう
  • ゆうやけ番長ばんちょう だい15しゅう文武両道ぶんぶりょうどう
    • 原作げんさく梶原かじはらいち 漫画まんが荘司しょうじとしお
    • アキレス腱あきれすけんってスポーツ特待とくたいせいみちたれてしまった主人公しゅじんこう赤城あかぎ忠治ただはるもと級友きゅうゆうであるインテリの青木あおき輝夫てるお三島みしま由紀夫ゆきお自殺じさつらせをげ、おおいにショックをける場面ばめんえがかれており、三島みしま尊敬そんけいしていた青木あおきは「憂国ゆうこく切腹せっぷくだよ。諌死かんしだ!」とさけび、げきちゅうでも6ぺーじわたって三島みしま演説えんぜつから切腹せっぷくいたるまでの描写びょうしゃえがかれている。
      また、三島みしま事件じけんいて、日本にっぽんたましいのためにいのちてた三島みしま感動かんどうした赤城あかぎが「おれもそのたましいっかけるぜ!」と決意けついし、それを青木あおきは「ああ、いま……かつて国定くにさだ忠治ただはる尊敬そんけいしていたおとこ日本にっぽんんだ巨大きょだいなる知性ちせい三島みしま由紀夫ゆきお志向しこうしたのだ」とかんじ、「自衛隊じえいたいへいって三島みしま先生せんせい日本にっぽんたましいをよびかけたがそのをかけたこえをだれもいてくれなかった………が、だがよ、おれにゃこえたぜ」となみだながらにかた赤城あかぎ姿すがたえがかれている。

小説しょうせつ

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ この建物たてもの1874ねん明治めいじ7ねん)から1879ねん明治めいじ12ねん)まで陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう戦争せんそう大本営だいほんえい陸軍りくぐん陸軍りくぐんしょう参謀さんぼう本部ほんぶなどがかれ、 大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんメッカでもあった[9]太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせんには、はれまこと少佐しょうさ吉本よしもと貞一さだいち大将たいしょうなどが割腹かっぷく自決じけつをし、極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん法廷ほうていにも使用しようされた場所ばしょでもある[9]
  2. ^ 玄関げんかん出迎でむかえた沢本さわもとさんが、日本にっぽんがたな所持しょじについて質問しつもんしたが、三島みしま例会れいかい使つかう「指揮しきがたな」だとった[6][10]
  3. ^ 中村なかむら2はそのりくまく広報こうほう班長はんちょうだい32連隊れんたいちょうそうかん幕僚ばくりょう副長ふくちょう久留くるべい幹部かんぶ候補こうほせい学校がっこう校長こうちょう歴任れきにんし、1981ねん昭和しょうわ56ねん)7がつりくすすむ定年ていねん退官たいかんした[14]
  4. ^ ちなみに、山本やまもとしゅんかち最後さいご三島みしまたく訪問ほうもんしたさい形見かたみかのように、三島みしまから恩賜おんし煙草たばこだてかいたいのレコードをもらったという[19]
  5. ^ このバルコニーは、かつて太田おおた道灌どうかん江戸城えどじょう防衛ぼうえいのために展望てんぼうだいいたところでもある[9]
  6. ^ この「七生しちしょう報國ほうこく」というかたりは、楠木くすのき正季まさすえあに楠木くすのき正成まさしげとも自害じがいしたときはっした言葉ことばとして『太平たいへい』でかたられている(正成まさしげおとうとのその言葉ことば同意どうい)。
  7. ^ 檄文げきぶん」では、自分じぶん否定ひていする憲法けんぽうにぺこぺこする自衛じえいかんたちを〈みずかおかせするもの〉と表現ひょうげんされている[22]
  8. ^ Kりく曹はその当時とうじ心境しんきょう以下いかのように述懐じゅっかいしている。
    無性むしょうにせつなくなってきた。げん憲法けんぽう異邦いほうじんとして国民こくみんからながあいだ白眼しろめされてきた我々われわれ自衛隊じえいたいいん祖国そこく防衛ぼうえいにんたる自衛隊じえいたい存在そんざいについて、だいなりしょうなり、隊員たいいん同士どうし不満ふまんはもっているはずなのに。まるで学生がくせいデモ行進こうしん機動きどうたい対決たいけつしているような状況じょうきょうであった。すくなくとも指揮しき命令めいれいをふんでここに集合しゅうごうしてきた隊員たいいんたちである。(中略ちゅうりゃく部隊ぶたいべつ整列せいれつさせ、三島みしまはなしかせるべきで、たとえ、暴徒ぼうとによるものであっても、いったん命令めいれい集合しゅうごうをかけた以上いじょう正規せいき手順てじゅんをふむべきだ。こんなありさまの自衛隊じえいたいが、日本にっぽんまも軍隊ぐんたいであるとはおこがましいとおもった。 —  Kりく曹の回想かいそう[9]
  9. ^ 三島みしまだてかい会員かいいんに、「人間にんげん自分じぶんはな言葉ことば真意しんいあやまりなくつたえ、相手あいて正確せいかく理解りかいしてもらえる範囲はんいは、せいぜい10にん限界げんかいだ」と、軍隊ぐんたい最小さいしょう単位たんいはん何故なぜ10にんかという根拠こんきょ説明せつめいをし、はな表情ひょうじょう呼吸こきゅう息吹いぶきがききて直接ちょくせつつたわる範囲はんいなか普通ふつう肉声にくせいはなさないかぎり、はなし真意しんいはなかなかつたわらず、大勢おおぜい相手あいてにして文明ぶんめい利器りきのマイクを使つかってこえげて演説えんぜつすると、そこにはかなら虚飾きょしょく誇張こちょうはいり、本質ほんしつてきひとしんうごかすことはできないという意味いみはなしをしていた[23]
  10. ^ 徳岡とくおか孝夫たかおは、演説えんぜつをききとれる範囲はんいのこしたメモを、三島みしまからたくされた手紙てがみ写真しゃしんともに、と銀行ぎんこうかし金庫きんこ保管ほかんしているという[28]
  11. ^ 文化ぶんか放送ほうそうで、この事件じけん担当たんとうした若手わかて記者きしゃ三木みき明博あきひろは、その同社どうしゃ社長しゃちょう就任しゅうにんしている。
  12. ^ このとき介錯かいしゃくさん失敗しっぱいしたことで、かたなさきがSがたがってしまったともわれる[34]
  13. ^ 1971ねん4がつ19にちだいかいおよび同年どうねん6がつ21にちだいろくかい公判こうはん記録きろくによればつぎのように記録きろくされている。「右肩みぎかたきず初太刀しょだち失敗しっぱいである。森田もりた必勝ひっしょう三島みしま由紀夫ゆきおまえたおれると予想よそうしてろしたが、三島みしまうしろにったため手許てもとくるってかたった。つぎ太刀たちは、三島みしまがくゆかにつけてもだえてうごいているところらねばならないためくび位置いちさだまらず、ゆかくび位置いちちかいからゆかかたなたってなかなか切断せつだんできない。結果けっか森田もりたわって古賀こが正義まさよしがもういち太刀たちるった。」
    また慶応義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん法医学ほういがく解剖かいぼうしつ教授きょうじゅ斎藤さいとう銀次ぎんじろう当時とうじ)による1970ねん11月26にち解剖かいぼう所見しょけん三島みしま切腹せっぷくきずのように(「#検視けんし物証ぶっしょう逮捕たいほ容疑ようぎ」を参照さんしょう)、ここまで腹部ふくぶふか短刀たんとうした場合ばあいには腹部ふくぶ内臓ないぞう分布ぶんぷする血管けっかん迷走めいそう神経しんけい刺戟しげきして血管けっかん迷走めいそう神経しんけい反射はんしゃおこし、血管けっかん拡張かくちょうによりのうりゅうたもてなくなり失神しっしんおちいる。さらに瞬時しゅんじおそってくる全身ぜんしん痙攣けいれん硬直こうちょくにより両脚りょうきゃくびきり、そのために上体じょうたいまえのめりになるかうしろにのけぞってしまう。だから切腹せっぷくするものかたわらにさえやくはいしておかなければ到底とうてい介錯かいしゃくすることはできないのである。
    なお森田もりた割腹かっぷくかんして、三島みしまおよび森田もりた空手からて師匠ししょうであった中山なかやま正敏まさとしつぎのようにべている。「まえ三島みしまさんのつめたうえで、しかも三島みしまさんのから短刀たんとうをもぎとり自分じぶんはらてたなぞということは到底とうていしんじられないことであり、どんなにちついたしっかりしゃでも出来できない芸当げいとうである。なんとおどろくべき気力きりょくであり、なんおそれるべき精神せいしんりょくであろうか。」(中山なかやま正敏まさとし憂国ゆうこく烈士れっし 森田もりた必勝ひっしょうくんしのぶ」1971ねん2がつ1にちづけ
    以上いじょう事実じじつから判断はんだんするに、森田もりた必勝ひっしょうによる三島みしま由紀夫ゆきお介錯かいしゃく失敗しっぱいだったことはうたがうまでもないもののそこには無理むりからぬ理由りゆうがあったものと斟酌しんしゃくすべきだろう。
  14. ^ 三島みしま自決じけつの3ねん市ヶ谷いちがやのとある企業きぎょう参与さんよとなった山本やまもとしゅんかち持丸もちまるひろしたずね、「山本やまもとさん、いいわるいはべつにして、三島みしま先生せんせいがあのような事件じけんこしたのは、あなたに刺激しげきされたせいかもしれませんよ」とうと、山本やまもとしたいたまま、「寝覚ねざめがわるい。いまは三島みしまさんのれいなぐさめながら、俳句はいく三昧ざんまい生活せいかつをしている」とこたえたという[60]
  15. ^ 寺尾てらお克美かつみによれば、歴代れきだい防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかんぜん責任せきにんらなかったのは中曽根なかそねだけで、「風見鶏かざみどり」さながらわたあるいて総理そうり大臣だいじんにまでのぼりつめたのち、「憲法けんぽう改正かいせいができないので〈専守防衛せんしゅぼうえい〉という〈政治せいじてき捏造ねつぞう〉をとなえて、そのしのぎで今日きょうまで国民こくみん近隣きんりん諸国しょこく誤魔化ごまかして」きたとしている[15]。そして寺尾てらお克美かつみは、後年こうねん自衛隊じえいたい退官たいかん加害かがいしゃである三島みしま行為こういを「義挙ぎきょ」と総括そうかつし、憲法けんぽう改正かいせいうったえる日本にっぽん会議かいぎ活動かつどうとなった[15]
  16. ^ しかし、そんな司馬しばりょう太郎たろう自身じしん晩年ばんねんには、三島みしま予言よげんおなじように、バブルから平成へいせい時代じだい日本人にっぽんじん拝金はいきん主義しゅぎ倫理りんり喪失そうしつをしきりになげいてうれうようになった[39]
  17. ^ 櫻井さくらいしげるくんは、「『ナルシシズムにはらつ』といった若手わかて作家さっか」(柴田しばたしょうのこと)をふくめ、三島みしま自決じけつ直後ちょくご批判ひはんてきコメントをしたもの何人なんにんかは、生前せいぜん三島みしまのことを「先生せんせい!」とんでび「きているあいだは(三島みしまを)尊敬そんけいしていたひとたちである」とべている[72]
  18. ^ このとき何人なんにんかの編集へんしゅうしゃがデスマスクをることを遺族いぞくいたが、必要ひつようないだろうという返事へんじけて実行じっこうされなかった[98]
  19. ^ その光景こうけい川端かわばた康成やすなりが、「薔薇ばらってこわいね」と増田ますだ貴光たかみつ耳元みみもとつぶやいたという[99]
  20. ^ 本当ほんとうは、「おおやけたけしさん、立派りっぱでしたよ」と倭文しずじゅういたかったが、まわりのおきゃくから芝居しばいがかりとおもわれそうで躊躇ちゅうちょしてしまったのだという[100]
  21. ^ 雑誌ざっし論争ろんそうジャーナル』は、豊島としま高田たかだ本町ほんちょう2-1467のビルの一室いっしつをオフィスとするいくまことしゃから発刊はっかんされた[131]
  22. ^ この当時とうじ朝日新聞あさひしんぶん文化ぶんかだい革命かくめいたいして礼賛らいさん一色いっしょくであったが、新聞しんぶん報道ほうどうでは、中国ちゅうごく大陸たいりくから香港ほんこんまでおよいでげてくる民衆みんしゅうが、ふか餌食えじきになっているという記事きじもあったという[138][139]
  23. ^ 「ヴィクトリア」の場所ばしょを、銀座ぎんざ8丁目ちょうめとする出典しゅってんもある[145]
  24. ^ にちがくどう宮崎みやざき正弘まさひろは、森田もりたらの除籍じょせき理由りゆうを「共産きょうさん主義しゅぎたましいわたしたため」と『日本にっぽん学生がくせい新聞しんぶん』にいた[139][169]
  25. ^ リフレッシャーコースは、2はく3にちで、3・6・9・11がつとし4かいおこなわれた[171]
  26. ^ だてかい全員ぜんいん旅費りょひ滞在たいざい食費しょくひ雑費ざっぴ制服せいふくだいなどの費用ひようはすべて、三島みしままかなっていたが、田中たなかきよしげんが「自分じぶん三島みしまだてかいのパトロンである」と財界ざいかい吹聴ふいちょうしていたことが三島みしまみみはいってきたことが、だてかい名誉めいよおもんじる三島みしまいかりをった[60]はやし房雄ふさおは、ちゅうつじ和彦かずひこ万代ばんだいきよし退会たいかい問題もんだいれ、だてかい結成けっせい1周年しゅうねん記念きねんパレードのまえあたりに、三島みしまから、「あなたのおきらいな連中れんちゅうはもういませんから、安心あんしんしててください」と電話でんわがあったとして、以下いかのようにかたっている[130]
    かれらは小澤おざわひらくさくわたし感動かんどうさせたのとおな物語ものがたりで、青年せいねんぎらいの三島みしまくん感動かんどうさせた。すくなくとも当初とうしょかれらはかけどおりに純粋じゅんすい誠実せいじつであったかもしれぬ。だが、かれらは結局けっきょく天人てんにん五衰ごすい』の主人公しゅじんこうのような悪質あくしつ贋物にせものだった。やがて雑誌ざっして、後援こうえんしゃえ、多少たしょうかねあつまるにつれて、急速きゅうそく変質へんしつしてった。(中略ちゅうりゃく
    ある“だい先輩せんぱい”の一人ひとりは、「ひどいにあったな。結局けっきょくかれらは戦後せんご青年せいねん最悪さいあくのタイプ、いわばひかりクラブ連中れんちゅうみたいなやつらばかりだった」とまで極言きょくげんした。(中略ちゅうりゃく)「だてかい」はいちはやかれらを除名じょめいした。三島みしまくん村松むらまつつよしくん立会たちあいじんとしてNとMに破門はもん絶縁ぜつえんもうしわたした。その激怒げきどぶりは尋常じんじょうではなかった、と村松むらまつくん証言しょうげんしている。(中略ちゅうりゃく)『だてかい』の会員かいいんなんもフルイにかけられて精選せいせんされた。(中略ちゅうりゃく前記ぜんきNやMのひかりクラブきびしく排除はいじょされた。 — はやし房雄ふさおかなしみのきん[130]
  27. ^ 7がつ配布はいふだい2かいは「戦争せんそう放棄ほうき」、9月配布はいふだい3かいは「『非常ひじょう事態じたいほう』について」とつづいた[185]
  28. ^ この「緑色みどりいろへび」の意味いみなになのかかんがつづけたヘンリー・スコット・ストークスは、1990ねん平成へいせい2ねんごろ突然とつぜん、「あめりかドル」(緑色みどりいろ紙幣しへい)のことだとわかったと徳岡とくおか孝夫たかおげた[39]
  29. ^ 小川おがわ正洋まさひろはこの交際こうさいしていた女性じょせい入籍にゅうせきし、そのことを2人ふたりげた[18]
  30. ^ 三島みしま蓮田はすだけんじた哀悼あいとうは、〈古代こだいゆきでし きみはその古代こだいげんじて雲隠くもがくだまひしに われ近代きんだいのこされてむなしく 靉靆のゆきを慕ひ その漠々ばくばくたる 塵土じんどうもれんとす〉[214]
  31. ^ なお、この後半こうはんつづきでは以下いかのように、自身じしん行動こうどうからめて人間にんげん運命うんめいについてかたっている。
    小林こばやし秀雄ひでおってますけど、人間にんげんんだときはじめて人間にんげんになる。人間にんげんかたちをとるとうんです。なぜかというと、運命うんめいがヘルプしますから。運命うんめいがなければ、人間にんげん人間にんげんかたちをとれないんです。ところが、きているうちは、その人間にんげん運命うんめいなにかわからないんですよ、予言よげんしゃでなければ。運命うんめい決定けっていしなければ、その人間にんげんかたち完成かんせいしないでしょう。それで、やっていることはみんなバカげたことにえるんですね。でも、運命うんめい芸術げいじゅつ決定けっていする。 — 三島みしま由紀夫ゆきお「ジョン・ベスターとの対談たいだん」(1970ねん2がつ[227]
  32. ^ これにかんし、裁判さいばん傍聴ぼうちょうしていた三島みしまちち平岡ひらおかあずさは、裁判さいばんちょう審理しんりはなれて独断どくだんてき陽明学ようめいがくろん武士ぶしどうろん展開てんかいしたことに疑問ぎもんていしている[36]
  33. ^ なお、しょう正義まさよしははも「生長せいちょういえ」に入信にゅうしんしていた[7]

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 終章しゅうしょう三島みしま事件じけん』か『だてかい事件じけん』か」(保阪ほさか 2001, pp. 303–322)
  2. ^ 高橋たかはし新太郎しんたろう「『だてかい事件じけん裁判さいばん」(きゅう事典じてん 1976, pp. 247–248)
  3. ^ だいいちしょう 三島みしま自決じけつはどうとらえられてきたか」(柴田しばた 2012, pp. 16–35)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l はるゆきだいいちかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 20–59)
  5. ^ 警視庁けいしちょう創立そうりつ140ねん特別とくべつてん みんなでえら警視庁けいしちょう140ねんじゅうだい事件じけん」アンケート結果けっか だい11から50まで 更新こうしん:2016ねん3がつ31にち警視庁けいしちょうホームページ)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z だいよんしょう 時計とけい日本にっぽんがたな」(猪瀬いのせ 1999, pp. 321–449)
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi 国会こっかい占拠せんきょせよ ■だいかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 59–82)
  8. ^ a b c d e f g h i j k 総監そうかんあぶない ■だいよんかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 99–108)
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t だいいちしょう 三島みしま由紀夫ゆきお」(再訂さいてい 2005, pp. 5–62)
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x だいよんしょう 憂国ゆうこく黙契もっけい」(生涯しょうがい 1998, pp. 233–331)
  11. ^ a b c d e f g h i 「『ることはなと……』■だいさんかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 83–98)
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w だいじゅうしょう じゅういちがつじゅうにち」(徳岡とくおか 1999, pp. 238–269)
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n だいよんしょう 市ヶ谷いちがやだいにて」(彰彦あきひこ 2015, pp. 199–230)
  14. ^ a b c 「『三島みしま事件じけん』をふりがえって」(げん 2004, pp. 119–127)
  15. ^ a b c d e f g 寺尾てらお克美かつみ三島みしま由紀夫ゆきおられたおとこ」(憂国ゆうこく 2020, pp. 47–72)
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s だいいちしょう最後さいごいちねん熱烈ねつれつつた』」(保阪ほさか 2001, pp. 57–92)
  17. ^ 要求ようきゅうしょ」(昭和しょうわ45ねん11月25にち)。36かん 2003, pp. 680–681
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r だいななしょう」(あずさ 1996, pp. 233–256)
  19. ^ a b c 「XI 市ヶ谷いちがやだいじょうへ」(山本やまもと 1980, pp. 243–266)
  20. ^ a b c d e f g h i だいななしょう 昭和しょうわ45ねん11月25にち」(年表ねんぴょう 1990, pp. 219–228)
  21. ^ a b c 無題むだい」(市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとんにて演説えんぜつ 1970ねん11月25にち)。36かん 2003, pp. 682–683、にちろく 1996, pp. 418–420、小室こむろ 1985, pp. 186–189、三島みしま由紀夫ゆきお演説えんぜつぶん”. 2007ねん2がつ28にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん10がつ7にち閲覧えつらん
  22. ^ a b c d e f g h げき」(市ヶ谷いちがや駐屯ちゅうとんにて撒布さんぷ 1970ねん11月25にち)。36かん 2003, pp. 402–406、保阪ほさか 2001, pp. 18–25
  23. ^ a b c さん、さむらい『三島みしま由紀夫ゆきお』と『だてかい』」(松浦まつうら 2010, pp. 59–144)
  24. ^ だいよんしょう そのとき、そしてこれから――よん 野田のだ隆史たかし」(ぐん 2005, pp. 169–172)
  25. ^ はやし房雄ふさおとの対談たいだん対話たいわ日本人にっぽんじんろん』(ばんまち書房しょぼう、1966ねん10がつ夏目なつめ書房しょぼう、2002ねん3がつ増補ぞうほ再刊さいかん)。39かん 2004, pp. 554–682
  26. ^ a b c 最後さいご電話でんわ」(ポリタイア 1973ねん6がつごう)。小島こじま 1996, pp. 8–24、群像ぐんぞう18 1990, pp. 78–88
  27. ^ 水木みずきしげるコミック昭和しょうわ だい8かん』(講談社こうだんしゃ、1989ねん12がつ)p.15
  28. ^ a b 徳岡とくおか孝夫たかお「”あの事件じけん”からよんじゅうねん――三島みしま由紀夫ゆきおわたし前編ぜんぺん)」(正論せいろん 2010ねん10がつごう
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「『ぬことはやさしい』■だいろくかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 117–122)
  30. ^ a b c d e f g h くにおも純粋じゅんすいしんに ■だいかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 109–116)
  31. ^ a b c d e f g h i j だいよんしょう 三島みしま事件じけん前後ぜんこう真相しんそう」(持丸もちまる 2010, pp. 125–190)
  32. ^ 智英ともひで「『本気ほんき』の時代じだい終焉しゅうえん」(中条ちゅうじょう 2005, pp. 188–203)
  33. ^ a b 非常ひじょう連帯れんたいだいじゅうろくかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 245–270)
  34. ^ a b c d だいよんしょうだてかい』と『自衛隊じえいたい』」(再訂さいてい 2005, pp. 157–184)
  35. ^ a b c d e f g h だいしょう さんとう森田もりた蹶起けっき日本にっぽん運命うんめい」(村田むらた 2015, pp. 223–286)
  36. ^ a b 三島みしま裁判さいばんおもう」(あずさぞく 1974, pp. 5–72)
  37. ^ 佐々淳行さっさあつゆき「そのとき、わたしは……」(諸君しょくん! 1999ねん12がつごう)。彰彦あきひこ 2015, pp. 226–227
  38. ^ a b 佐々淳行さっさあつゆき連合赤軍れんごうせきぐん「あさま山荘さんそう事件じけん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1996ねん
  39. ^ a b c d e f g だいじゅういちしょう 死後しご」(徳岡とくおか 1999, pp. 238–269)
  40. ^ a b c d e f g h i j k だい八章はっしょう」(年表ねんぴょう 1990, pp. 229–245)
  41. ^ a b c だいしょう 自決じけつ背景はいけい」(小室こむろ 1985, pp. 121–198)
  42. ^ 佐藤さとう栄作えいさく (1997). 佐藤さとう栄作えいさく日記にっきだい4かん. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. p. 210 
  43. ^ 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん へんわたし履歴りれきしょ 保守ほしゅ政権せいけんにな日本経済新聞にほんけいざいしんぶん出版しゅっぱんしゃ、2007ねん、542-544ぺーじISBN 978-4532193737 
  44. ^ a b c d e f g h i j k l m だいいちしょう」(あずさ 1996, pp. 7–30)
  45. ^ 川端かわばた康成やすなり三島みしま由紀夫ゆきお」(臨時りんじ 1971)。群像ぐんぞう18 1990, pp. 229–231、評論ひょうろん1 1982, pp. 615–619、いちくさいちはな 1991, pp. 215–218
  46. ^ 川端かわばた康成やすなり「『もったいないかただった』=かけつけた川端かわばた」(朝日新聞あさひしんぶん 1970ねん11月26にちごう 3めん週刊しゅうかんサンケイ 1970ねん12月31にちごう)。再訂さいてい 2005, p. 57、保阪ほさか 2001, p. 86
  47. ^ 石原いしはら慎太郎しんたろう三島みしま由紀夫ゆきお日蝕にっしょく――その栄光えいこう陶酔とうすい虚構きょこう」(没後ぼつご20 1990, pp. 116–181)。石原いしはら 1991
  48. ^ 石原いしはら慎太郎しんたろう「かけつけた石原いしはらぼうぜん」(読売新聞よみうりしんぶん夕刊ゆうかん 1970ねん11月25にちごう 10めん)。年表ねんぴょう 1990, p. 230
  49. ^ a b c d e f g h i j k 年譜ねんぷ 昭和しょうわ45ねん11月25にち-12月」42かん 2005, pp. 330–334
  50. ^ 昭和しょうわ45ねん11月25にち」(にちろく 1996, pp. 412–422)
  51. ^ a b c d 没後ぼつご」(にちろく 1996, pp. 423–426)
  52. ^ a b 舩坂ひろしせき孫六まごろく――三島みしま由紀夫ゆきお、その秘密ひみつ』(光文社こうぶんしゃカッパ・ブックス、1973ねん)。岡山おかやま 2014, p. 105
  53. ^ せきまごろくこぼれ ■だいはちかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 151–156)
  54. ^ a b じゅうきゅう 佩刀はかせせきまごろく』の由来ゆらい」(岡山おかやま 2014, pp. 103–108)
  55. ^ 命令めいれいしょ」(昭和しょうわ45ねん11月)。36かん 2003, pp. 678–679、再訂さいてい 2005, p. 236
  56. ^ a b c d e f だいしょう 三島みしま事件じけん波紋はもん」(再訂さいてい 2005, pp. 185–215)
  57. ^ 猪木いのき正道せいどうくにまもる』(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1972ねん
  58. ^ a b 「あとがき」(山本やまもと 1980, pp. 290–298)
  59. ^ a b 「XII てしなきみんぼうへのみち」(山本やまもと 1980, pp. 267–289)
  60. ^ a b c d e f g h だいよんしょう 邂逅かいこう、そして離別りべつ」(保阪ほさか 2001, pp. 189–240)
  61. ^ 社説しゃせつ」(朝日新聞あさひしんぶん 1970ねん11月26にちごう)。年表ねんぴょう 1990, p. 230
  62. ^ 社説しゃせつ」(毎日新聞まいにちしんぶん 1970ねん11月26にちごう 5めん)。年表ねんぴょう 1990, p. 230
  63. ^ a b c d e f はるあらしだいじゅうななかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 271–304)
  64. ^ a b ヘンリー・ミラー特別とくべつ寄稿きこう」(週刊しゅうかんポスト)。小室こむろ 1985, pp. 194–195
  65. ^ a b ヘンリー・スコット=ストークス「ミシマは偉大いだいだったか」(諸君しょくん!・そう特集とくしゅう 三島みしま由紀夫ゆきおつめて 1971ねん2がつごう)。追悼ついとうぶん 1999, pp. 321–323
  66. ^ a b エドワード・G・サイデンステッカー時事じじ評論ひょうろん 1971ねん4がつ20にちごう)。裁判さいばん 1972, pp. 299–300
  67. ^ ドナルド・キーン時事じじ評論ひょうろん 1971ねん4がつ20にちごう)。裁判さいばん 1972, p. 300
  68. ^ 山田やまだ宗睦むねちか週刊しゅうかん現代げんだい増刊ぞうかん三島みしま由紀夫ゆきお緊急きんきゅう特集とくしゅうごう 1970ねん12月12にちごう)。保阪ほさか 2001, pp. 88–89
  69. ^ 野間のまひろし錯誤さくごにみちた文学ぶんがく政治せいじ短絡たんらく」(朝日あさひジャーナル 1970ねん12月6にちごう)。保阪ほさか 2001, p. 89
  70. ^ 司馬しばりょう太郎たろう異常いじょう三島みしま事件じけんせっして」(毎日新聞まいにちしんぶん 1970ねん11月26にちごう 1めん)。徳岡とくおか 1999, p. 290、中公ちゅうこう編集へんしゅう 2010, pp. 133–135
  71. ^ 柴田しばたしょう「ナルシシズムにはらつ」(週刊しゅうかん現代げんだい増刊ぞうかん三島みしま由紀夫ゆきお緊急きんきゅう特集とくしゅうごう 1970ねん12月12にちごう)p.168
  72. ^ はじめて三島みしまていたずねたときのこと」(櫻井さくらい 2020, pp. 21–26)
  73. ^ 中野なかの重治しげはる週刊しゅうかん現代げんだい増刊ぞうかん三島みしま由紀夫ゆきお緊急きんきゅう特集とくしゅうごう 1970ねん12月12にちごう)。保阪ほさか 2001, pp. 89–90
  74. ^ a b 小林こばやし秀雄ひでお感想かんそう」(臨時りんじ 1971読本とくほん 1983, pp. 56–57
  75. ^ 村松むらまつつよし市谷台いちがやだいじょう諌死かんし」(週刊しゅうかん時事じじ 1970ねん12月26にちごう)。保阪ほさか 2001, p. 81
  76. ^ 「“くる思想しそう美学びがく完結かんけつとはおもえぬ」(朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん 1970ねん11月26にちごう 10めん)。橋川はしかわ 1998, pp. 132–134
  77. ^ 保田やすだ與重郎よじゅうろううら太陽たいよう」(新潮しんちょう三島みしま由紀夫ゆきお追悼ついとう特集とくしゅうごう 1971ねん2がつごう)。追悼ついとうぶん 1999, pp. 230–239
  78. ^ a b 保田やすだ與重郎よじゅうろうてん時雨しぐれ」(臨時りんじ 1971)。福田ふくだ 1996, pp. 167–192
  79. ^ 高橋たかはし和巳かずみ果敢かかんてきかなし」(サンケイ新聞しんぶん 1970ねん11月26にちごう)。しん読本とくほん 1990, pp. 130–131
  80. ^ 武田たけだ泰淳たいじゅん週刊しゅうかん現代げんだい増刊ぞうかん三島みしま由紀夫ゆきお緊急きんきゅう特集とくしゅうごう 1970ねん12月12にちごう)。年表ねんぴょう 1990, p. 231、保阪ほさか 2001, p. 86
  81. ^ 大岡おおおか昇平しょうへいのこったものへの証言しょうげん」(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1972ねん2がつごう)。保阪ほさか 2001, p. 86
  82. ^ a b c 倉橋くらはし由美子ゆみこ英雄えいゆう」(新潮しんちょう三島みしま由紀夫ゆきお追悼ついとう特集とくしゅうごう 1971ねん2がつごう)。追悼ついとうぶん 1999, pp. 131–136、彼女かのじょ 2020, pp. 143–150
  83. ^ 中井なかい英夫ひでお「ケンタウロスのなげき」(しお特集とくしゅう 三島みしま由紀夫ゆきお せい遍歴へんれき 1971ねん2がつごう)。追悼ついとうぶん 1999, pp. 302–311
  84. ^ a b もり茉莉まりちがいはどっち?」(新潮しんちょう三島みしま由紀夫ゆきお追悼ついとう特集とくしゅうごう 1971ねん2がつごう)。追悼ついとうぶん 1999, pp. 96–99
  85. ^ 革命かくめい哲学てつがくとしての陽明学ようめいがく」(諸君しょくん! 1970ねん9がつごう)。行動こうどうがく 1974, pp. 189–228、36かん 2003, pp. 277–310
  86. ^ a b c d e 石川いしかわあつし文芸ぶんげい時評じひょう じょうした――認識にんしきから行動こうどうへの跳躍ちょうやく 割腹かっぷく必然ひつぜんはあったか 三島みしま、『だてかい』で思想しそう固定こてい げきにはえぬ三島みしま姿すがた」(朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん 1970ねん12月24にち-25にちごう)。「ぶんりん通言つうげん――昭和しょうわ45ねん12がつ」として石川いしかわ評論ひょうろん15 1990, pp. 413–421
  87. ^ 石川いしかわあつし文芸ぶんげい時評じひょう じょうした(『太陽たいようてつ』、『古今ここんしゅうしん古今ここんしゅう』)――『肉体にくたい』の戦利せんりひん青空あおぞら』、『英雄えいゆう』へのみちいそぐな 三島みしまのまぼろしのたび」(朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん 1970ねん4がつ27にち-28にちごう)。「ぶんりん通言つうげん――昭和しょうわ45ねん4がつ」として石川いしかわ評論ひょうろん15 1990, pp. 341–349
  88. ^ a b 吉本よしもと隆明たかあき情況じょうきょうへの発言はつげん――暫定ざんていてきメモ」(試行しこう 1971ねん2がつ・32ごう)。『詩的してき乾坤けんこん』(国文こくぶんしゃ、1974ねん9がつ所収しょしゅう読本とくほん 1983, pp. 60–65、ゆめムック 2020, pp. 178–184
  89. ^ a b 太陽たいようしんてつ悪意あくい――三島みしま由紀夫ゆきお」(文學ぶんがくかい特集とくしゅう 三島みしま由紀夫ゆきお 1971ねん3がつごう)。磯田いそだ 1979, pp. 434–445
  90. ^ 「『占領せんりょう憲法けんぽう日本にっぽん』にせる」(谷口たにぐち雅春まさはるちょ占領せんりょう憲法けんぽう日本にっぽん日本教文社にっぽんきょうぶんしゃ、1969ねん5がつ)。『らんりょうおう』(新潮社しんちょうしゃ、1971ねん5がつ)、35かん 2003, pp. 450–452
  91. ^ a b 谷口たにぐち雅春まさはる愛国あいこくなまえて―三島みしま由紀夫ゆきお行動こうどう哲学てつがく』(日本教文社にっぽんきょうぶんしゃ、1971ねん11月)pp.2-3
  92. ^ 文藝ぶんげい年鑑ねんかん 1971, p. 318
  93. ^ 瀬戸内せとうち寂聴じゃくちょう美輪みわ明宏あきひろ対談たいだんいまこそかた三島みしま由紀夫ゆきお」(すばる 22(10) 特集とくしゅう三島みしま由紀夫ゆきおぼつ30ねん・2000ねん10がつごう)pp.15-35における、p.32の美輪みわ明宏あきひろ発言はつげん
  94. ^ たきはら健之けんし昭和しょうわ元禄げんろく忠臣蔵ちゅうしんぐら」(回想かいそう 1971, p. 168)
  95. ^ 島内とうないけい評伝ひょうでん 三島みしま由紀夫ゆきお 【めくるめく薔薇ばら世界せかいへ、へんなのは、どっち?】」(文豪ぶんごうナビ 2004, pp. 146–148)
  96. ^ a b c だいしょう 野分のわけのち」(彰彦あきひこ 2015, pp. 231–253)
  97. ^ a b 武人ぶじんとしてのだいきゅうかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 157–196)
  98. ^ a b c 「IV 行動こうどうしゃ――訣別けつべつ」(村松むらまつ 1990, pp. 469–503)
  99. ^ a b c 増田ますだ元臣もとおみうつくしい人間にんげん本性ほんしょう」(月報げっぽう34かん 2003
  100. ^ 平岡ひらおか倭文しずおも「暴流のごとく――三島みしま由紀夫ゆきおなな回忌かいきに」(新潮しんちょう 1976ねん12がつごう)。村松むらまつ 1990, p. 503、群像ぐんぞう18 1990, pp. 193–204、年表ねんぴょう 1990, pp. 17, 21, 172, 192
  101. ^ 既得きとく権益けんえき」でもうかる火葬かそうじょうが、「中国ちゅうごくけい資本しほん」にねらわれている”. 週刊文春しゅうかんぶんしゅん - 清水しみず 俊一しゅんいち. 2022ねん8がつ6にち閲覧えつらん
  102. ^ a b c d e f g だいよんしょう そのとき、そしてこれから」(ぐん 2005, pp. 111–188)
  103. ^ a b 「プロローグ あれからよんじゅうねん経過けいかした」「だいいちしょう憂国ゆうこく前史ぜんし憂国ゆうこく 2010, pp. 15–56
  104. ^ a b c d e f g h i j k 年譜ねんぷ 昭和しょうわ46ねん42かん 2005, pp. 334–338
  105. ^ だいろくしょう 三島みしま由紀夫ゆきお遺言ゆいごんじょう」(小室こむろ 1985, pp. 199–230)
  106. ^ a b c 三島みしま先生せんせい葬儀そうぎ」「付記ふきとして」(英子えいこ 2007, pp. 131–145)
  107. ^ a b だいよんしょう 新劇しんげき女優じょゆう 村松むらまつ英子えいこ」(岡山おかやま 2016, pp. 135–174)
  108. ^ a b c d e だいろくしょう」(あずさ 1996, pp. 206–232)
  109. ^ 昭和しょうわ46ねん」(にちろく 1996, pp. 427–432)
  110. ^ 伊藤いとう好雄よしお「召命――隊長たいちょう三島みしま決起けっきのこされて」(だいほえ 2008ねん7がつ夏季かきごうだい261ごう)。村田むらた 2015, pp. 292–298
  111. ^ a b c d 倉持くらもちきよしての封書ふうしょ」(昭和しょうわ45ねん11月)。38かん 2004, pp. 495–496
  112. ^ あい儀式ぎしきだいじゅういちかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 203–214)
  113. ^ a b c d e 「『日本にっぽんがたな武士ぶしたましい』 ■だいななかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 123–150)
  114. ^ a b c 文武両道ぶんぶりょうどう達人たつじんだいじゅうよんかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 227–232)
  115. ^ a b c 憂国ゆうこく法理ほうり接点せってんだいじゅうはちかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 305–318)
  116. ^ 「エピローグ そのだてかい」(村田むらた 2015, pp. 287–303)
  117. ^ a b 年譜ねんぷ 昭和しょうわ55ねん42かん 2005, pp. 347–348
  118. ^ 序章じょしょう じゅうねん遺書いしょ」(保阪ほさか 2001, pp. 27–56)
  119. ^ しょう さんじゅういちねんの『事実じじつ』」(保阪ほさか 2001, pp. 323–344)
  120. ^ 年譜ねんぷ 平成へいせい12ねん42かん 2005, pp. 368–369
  121. ^ 三島みしま由紀夫ゆきお研究けんきゅうかいメルマガ通巻つうかんだい1298ごう(2018ねん11月27にち
  122. ^ a b c d e f だいしょう 三島みしま由紀夫ゆきお青年せいねんぐんぞう」(保阪ほさか 2001, pp. 93–143)
  123. ^ 習字しゅうじ伝承でんしょう」(婦人ふじん生活せいかつ 1968ねん1がつごう)。34かん 2003, pp. 612–614
  124. ^ a b c d だいろくしょう」(年表ねんぴょう 1990, pp. 161–218)
  125. ^ 荒木あらき 1971西にしほう太郎たろう三島みしま由紀夫ゆきおかみ風連ふうれんいち)」(三島みしま由紀夫ゆきお総合そうごう研究けんきゅう、2007ねん5がつ7にち通巻つうかんだい143ごう
  126. ^ だいしょう 学習がくしゅういんというみずうみ」(島内とうない 2010, pp. 57–92)
  127. ^ a b 祖国そこく防衛ぼうえいたいはなぜ必要ひつようか?」(祖国そこく防衛ぼうえいたいパンフレット 1968ねん1がつ)。34かん 2003, pp. 626–643
  128. ^ a b c 「IV 行動こうどうしゃ――『狂気きょうき』のつばさ」(村松むらまつ 1990, pp. 421–442)
  129. ^ 青年せいねんについて」(論争ろんそうジャーナル 1967ねん10がつごう)。34かん 2003, pp. 561–564
  130. ^ a b c だいじゅうななしょう」(はやし 1972, pp. 233–247)
  131. ^ a b c d e f g h i j だいしょう ノサップ」(彰彦あきひこ 2015, pp. 71–136)
  132. ^ a b c 持丸もちまるひろしだてかい論争ろんそうジャーナル」(32かん 2003月報げっぽう
  133. ^ 年譜ねんぷ 昭和しょうわ42ねん42かん 2005, pp. 287–294
  134. ^ 藤島ふじしまやすし天皇てんのう青年せいねん――三島みしま由紀夫ゆきおをめぐって』(日本教文社にっぽんきょうぶんしゃ、1973ねん)。保阪ほさか 2001, p. 105
  135. ^ だいさんしょう弱者じゃくしゃ天国てんごく』の時代じだいこうして」(持丸もちまる 2010, pp. 75–124)
  136. ^ 文化ぶんかだい革命かくめいかんする声明せいめい」(東京とうきょう新聞しんぶん 1967ねん3がつ1にちごう)。36かん 2003, p. 505
  137. ^ なぞひと――NHK記者きしゃ伊達だてそうかつ」(西にし 2020, pp. 189–207)
  138. ^ a b だいいちしょう ナンパけい全学ぜんがくれんだてかいへ」(村田むらた 2015, pp. 11–70)
  139. ^ a b c d e f だいいちしょう あけぼの」(ぐん 2005, pp. 9–80)
  140. ^ a b 自衛隊じえいたい体験たいけんする――46日間にちかんのひそかな“入隊にゅうたい”」(サンデさんで毎日まいにち 1967ねん6がつ11にちごう)。34かん 2003, pp. 404–413
  141. ^ a b c d e 三島みしま帰郷ききょうへいに26の質問しつもん」(サンデさんで毎日まいにち 1967ねん6がつ11にちごう)。34かん 2003, pp. 414–422
  142. ^ a b だいいちしょう にん」(杉山すぎやま 2007, pp. 8–71)
  143. ^ a b c だいいちしょう さんとうのクーデターろん」(西村にしむら 2019, pp. 13–32)
  144. ^ a b c d e f 日誌にっし」(必勝ひっしょう 2002, pp. 89–142)
  145. ^ だいいちしょう 名物めいぶつ学生がくせい」(彰彦あきひこ 2015, pp. 9–70)
  146. ^ 菊地きくち勝夫かつおての書簡しょかん」(昭和しょうわ42ねん8がつ25にちづけ)。38かん 2004, pp. 455–457
  147. ^ 菊地きくち勝夫かつおての書簡しょかん」(昭和しょうわ42ねん9がつ24にちづけ)。38かん 2004, pp. 457–460
  148. ^ 警察けいさつとの唯一ゆいいつきずな――佐々淳行さっさあつゆきいち)」(西にし 2020, pp. 71–96)
  149. ^ a b c 「インドの印象いんしょう」(毎日新聞まいにちしんぶん 1967ねん10がつ20日はつか-21にちごう)。34かん 2003, pp. 585–594
  150. ^ 菊地きくち勝夫かつおての書簡しょかん」(昭和しょうわ42ねん10がつ20にちづけ)。38かん 2004, p. 460
  151. ^ 「F104」(文藝ぶんげい 1968ねん2がつごう)。33かん 2003, pp. 570–580
  152. ^ a b c だいしょう」(あずさ 1996, pp. 165–205)
  153. ^ a b c 「III 祖国そこく防衛ぼうえいろん」(山本やまもと 1980, pp. 46–72)
  154. ^ 年譜ねんぷ 昭和しょうわ43ねん42かん 2005, pp. 294–303
  155. ^ a b c 宮崎みやざき 1999
  156. ^ 三輪みわ良雄よしおへの書簡しょかん」(昭和しょうわ43ねん3がつ18にち、4がつ17にちづけ)。38かん 2004, pp. 927–931
  157. ^ a b 菊地きくち勝夫かつおての書簡しょかん」(昭和しょうわ43ねん4がつ17にちづけ)。38かん 2004, pp. 463–464
  158. ^ 現物げんぶつ写真しゃしんぐん 2005, p. 29
  159. ^ a b c d 「V 祖国そこく防衛ぼうえいたい訓練くんれん」(山本やまもと 1980, pp. 93–118)
  160. ^ a b c d e f g h i j k 「VI みんぼう活動かつどう目標もくひょう模索もさく」(山本やまもと 1980, pp. 119–149)
  161. ^ a b だいさんしょうだてかい』の結成けっせい」(保阪ほさか 2001, pp. 143–188)
  162. ^ だいしょう 山本やまもといち三島みしま複雑ふくざつ関係かんけい」(西村にしむら 2019, pp. 33–70)
  163. ^ a b c d e f g h i j 「VII きん目標もくひょう治安ちあん出動しゅつどうえる」(山本やまもと 1980, pp. 150–175)
  164. ^ a b 素人しろうと防衛ぼうえいろん」(防衛大学校ぼうえいだいがくこう講演こうえん 1968ねん11月20にち)。「防衛大学校ぼうえいだいがくこう最終さいしゅう講演こうえんぜんさいろく」(諸君しょくん! 2005ねん12がつごう)、まき 2005村田むらた 2015, pp. 46–47
  165. ^ a b c d e f 終章しゅうしょう だれ三島みしまころしたのか」(山本やまもと 2001, pp. 192–237)
  166. ^ 高橋たかはし和巳かずみとの対談たいだんおおいなる過渡かと論理ろんり――行動こうどうする作家さっか思弁しべん責任せきにん」(しお 1969ねん11がつごう)。
  167. ^ はやし房雄ふさおとの対談たいだん現代げんだいにおける右翼うよく左翼さよく――リモコン左翼さよくまことなし」(流動りゅうどう 1969ねん12がつごう)。
  168. ^ つつみ清二せいじとの対談たいだんろく将校しょうこう全学ぜんがくれん学生がくせいとの断絶だんぜつ」(財界ざいかい 1970ねん1がつ1にち・15にちごう)。
  169. ^ a b c d e f g だいさんしょう 惜別せきべつとき」(彰彦あきひこ 2015, pp. 137–198)
  170. ^ はん革命かくめい宣言せんげん」(論争ろんそうジャーナル 1969ねん2がつごう)。35かん 2003, pp. 389–405、防衛ぼうえいろん 2006, pp. 9–32
  171. ^ a b c d e f だいしょう だてかいだい期生きせい」(村田むらた 2015, pp. 71–126)
  172. ^ 「IV よっつのかわ[5]行動こうどうかわ」(ストークス 1985, pp. 276–346)
  173. ^ a b 年譜ねんぷ 昭和しょうわ44ねん42かん 2005, pp. 304–315
  174. ^ 自衛隊じえいたい二分にぶんろん」(20世紀せいき 1969ねん4がつごう)。35かん 2003, pp. 434–446
  175. ^ a b c 「IV 行動こうどうしゃ――集団しゅうだんというはし」(村松むらまつ 1990, pp. 443–468)
  176. ^ a b c d e f g h 「VIII とおきん目標もくひょう混淆こんこうのなかで」(山本やまもと 1980, pp. 176–205)
  177. ^ 昭和しょうわ44ねん」(にちろく 1996, pp. 365–384)
  178. ^ 中河なかがわ与一よいちたましいたかまり」(なみ曼 1975, pp. 126–128)
  179. ^ 年譜ねんぷ」(昭和しょうわ44ねん10がつ25にち)(三島みしま42かん 2005, p. 313)
  180. ^ 栗山くりやま理一りいち池田いけだつとむ塚本つかもと康彦やすひこ鼎談ていだんみやび希求ききゅうした壮烈そうれつ精神せいしん――蓮田はすだ善明よしあき その生涯しょうがい熱情ねつじょう」(なみ曼 1975, pp. 106–124)
  181. ^ 「『葉隠はがくれ』にかくされた孤高ここう決意けつい」(櫻井さくらい 2020, pp. 45–48)
  182. ^ a b c d 「『天皇てんのう中心ちゅうしん国家こっかを』■だいじゅうかい公判こうはん」(裁判さいばん 1972, pp. 233–244)
  183. ^ a b c d 「IX 絶望ぜつぼうえてなお活路かつろを」(山本やまもと 1980, pp. 206–222)
  184. ^ だいさんしょう 草案そうあんにつづられた三島みしま真意しんい」(松藤まつふじ 2007, pp. 89–118)
  185. ^ a b c d だいしょう 公然こうぜん公然こうぜん谷間たにま」(保阪ほさか 2001, pp. 241–302)
  186. ^ 村上むらかみ一郎いちろうとの対談たいだん尚武しょうぶしん憤怒ふんぬ抒情じょじょう文化ぶんかネーション革命かくめい」(日本にっぽん読書どくしょ新聞しんぶん 1969ねん12月29にち - 1970ねん1がつ5にち合併がっぺいごう)。40かん 2004, pp. 608–621
  187. ^ a b c d e 「X 決起けっき黙契もっけいきしす」(山本やまもと 1980, pp. 223–242)
  188. ^ a b 問題もんだい提起ていきいちしん憲法けんぽうにおける『日本にっぽん』の欠落けつらく」(憲法けんぽう改正かいせい草案そうあん研究けんきゅうかい配布はいふ資料しりょう、1970ねん5がつ)。36かん 2003, pp. 118–128
  189. ^ 山本やまもとしゅんかちての書簡しょかん」(昭和しょうわ45ねん8がつ10にちづけ)。38かん 2004, pp. 946–947
  190. ^ a b c 滝ヶ原たきがはらぶんたむろだい」(たきがはら 1970ねん9がつ25にち創刊そうかんごう)。36かん 2003, pp. 348–349
  191. ^ 「プロローグ――個人こじんてき記憶きおく」(ストークス 1985, pp. 3–30)
  192. ^ a b だいよんしょう」(あずさ 1996, pp. 103–164)
  193. ^ a b c d だいしょう 予兆よちょう」(ぐん 2005, pp. 81–102)
  194. ^ a b だいじゅうしょう 決起けっき1ヶ月かげつまえ」(ゆたかおっと 2006, pp. 97–102)
  195. ^ だいきゅうしょう その前夜ぜんやまで」(徳岡とくおか 1999, pp. 212–237)
  196. ^ a b 福田ふくだひさしそんとの対談たいだん文武両道ぶんぶりょうどう哲学てつがく」(論争ろんそうジャーナル 1967ねん11がつごう)。サムライ 1996, pp. 205–266、持丸もちまる 2010, pp. 13–24、39かん 2004, pp. 696–728
  197. ^ わかきサムラヒのために――政治せいじについて」(PocketパンチOh! 1969ねん5がつごう)。サムライ 1996, pp. 19–23、35かん 2003, pp. 58–60
  198. ^ わたし遍歴へんれき時代じだい」(東京とうきょう新聞しんぶん夕刊ゆうかん 1963ねん1がつ10日とおか - 5月23にちごう)。32かん 2003, pp. 271–323
  199. ^ 日々ひびわかれ――への一里塚いちりづか」(ポリタイア 1973ねん7がつごう)。小島こじま 1996, pp. 25–40
  200. ^ 粕谷あらや 2006
  201. ^ わたしかお」(毎日新聞まいにちしんぶん 1954ねん9がつ19にちごう)。28かん 2003
  202. ^ 「『純文学じゅんぶんがくとは?』その」(雑誌ざっし風景ふうけい 1962ねん6がつごう)。32かん 2003
  203. ^ 作中さくちゅう人物じんぶつへの傾斜けいしゃ」(ポリタイア 1973ねん10がつごう)。小島こじま 1996, pp. 81–126
  204. ^ a b 国家こっか革新かくしん原理げんり――学生がくせいとのティーチ・イン その」(早稲田大学わせだだいがく大隈おおくま講堂こうどう 1968ねん10がつ3にち)。防衛ぼうえいろん 2006, pp. 232–298、40かん 2004, pp. 232–271
  205. ^ a b 「22 政治せいじとのかかわりー――てもらえませんか」(村上むらかみ 2010, pp. 137–140)
  206. ^ 年頭ねんとうの迷ひ」(読売新聞よみうりしんぶん 1967ねん1がつ1にちごう)。34かん 2003, pp. 284–287
  207. ^ 行動こうどうがく入門にゅうもん」(PocketパンチOh! 1969ねん9がつごう-1970ねん8がつごう)。35かん 2003, pp. 606–658
  208. ^ 劇画げきがにおける若者わかものろんサンデさんで毎日まいにち 1970ねん2がつ1にちごう)。36かん 2003, pp. 53–56
  209. ^ だいろくしょう 映画えいが憂国ゆうこく』」(堂本どうもと 2005, pp. 115–148)
  210. ^ a b なか康弘やすひろどおりそうせられた作家さっか 三島みしま由紀夫ゆきお――ナルシスはなぜ……」(うわさ 1972
  211. ^ a b c たしてゐない約束やくそく――わたしなかじゅうねん」(サンケイ新聞しんぶん夕刊ゆうかん 1970ねん7がつ7にちごう)。防衛ぼうえいろん 2006, pp. 369–373、36かん 2003, pp. 212–215
  212. ^ a b はやし房雄ふさお弔辞ちょうじ」(新潮しんちょう三島みしま由紀夫ゆきお追悼ついとう特集とくしゅうごう 1971ねん2がつごう)。追悼ついとうぶん 1999, pp. 86–91
  213. ^ しょう高根たかね 1970文學ぶんがく大系たいけい 1970, pp. 461–471(1968ねん9がつごう-11月ごうぶん)、再訂さいてい 2005, pp. 99–156、きたかげ 2006, pp. 22–92
  214. ^ 蓮田はすだ善明よしあきへのけんじ」(おもかげ 1946ねん11月17にち)。なみ曼 1975冒頭ぼうとう現物げんぶつ写真しゃしん37かん 2004, p. 762、再訂さいてい 2005, p. 152、島内とうない 2010, p. 262
  215. ^ a b 吉田よしだみつる三島みしま由紀夫ゆきお苦悩くのう」(ユリイカ 1976, pp. 56–64)、中公ちゅうこう編集へんしゅう 2010, pp. 136–146、吉田よしだ下巻げかん 1986, pp. 127–143、戦中せんちゅう 2015, pp. 70–88
  216. ^ M.K.シャルマ(わけ山田やまだかず)『喪失そうしつくに日本にっぽん―インド・エリートビジネスマンの「日本にっぽん体験たいけん」』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2001ねん3がつ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、2004ねん1がつ)pp.254-264。初出しょしゅつ雑誌ざっし諸君しょくん!』1998ねん6がつごう-2000ねん10がつごう
  217. ^ a b 最終さいしゅうあきら 手紙てがみ」(杉山すぎやま 2007, pp. 185–219)
  218. ^ 舟橋ふなばし聖一せいいち壮烈そうれつ憤死ふんし」(東京とうきょう新聞しんぶん 1970ねん11月26にちごう)。進藤しんどう 1976, p. 507
  219. ^ a b c d 島田しまだ雅彦まさひこ三島みしま由紀夫ゆきお不在ふざいさんじゅうねん」(古井ふるい由吉よしきち平野ひらの啓一郎けいいちろうとの座談ざだん)(没後ぼつご30 2000, pp. 322–340)
  220. ^ 旧版きゅうばん三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう35』(新潮社しんちょうしゃ、1976ねん4がつ所収しょしゅう
  221. ^ a b 田中たなか美代子みよこ三島みしま事件じけん」(事典じてん 2000, pp. 604–606)
  222. ^ a b 「かなたへの疾走しっそう」(アルバム 1983, pp. 80–96)
  223. ^ 三島みしま由紀夫ゆきお 自決じけつ9カ月かげつまえ肉声にくせい…TBSに録音ろくおんテープ毎日新聞まいにちしんぶん、2017ねん1がつ12にち
  224. ^ a b 三島みしま由紀夫ゆきお平和へいわ憲法けんぽう偽善ぎぜん憲法けんぽうは、日本人にっぽんじんねとっている」TBSが公開こうかいテープの一部いちぶ公開こうかい放送ほうそう産経さんけいニュース、2017ねん1がつ12にち
  225. ^ a b しん発見はっけん 自決じけつきゅうヵ月かげつまえ公開こうかいインタビュー――三島みしま由紀夫ゆきお 素顔すがお告白こくはく」(群像ぐんぞう 2017, pp. 119–137)
  226. ^ 三島みしま由紀夫ゆきお公開こうかいインタビュー」(告白こくはく 2017, pp. 5–74)
  227. ^ a b 三島みしま由紀夫ゆきお公開こうかいインタビュー――マスコミと三島みしま」(告白こくはく 2017, pp. 30–38)
  228. ^ 井上いのうえ隆史たかし解題かいだい――だてかい会員かいいん」(38かん 2004, pp. 989–990)
  229. ^ a b だいさんしょう 昭和しょうわ45ねん11月25にち」(村田むらた 2015, pp. 127–160)
  230. ^ だてかい会員かいいんたりし諸君しょくんへ」(昭和しょうわ45ねん11月)。38かん 2004, pp. 672–673
  231. ^ 古林ふるばやししょうとの対談たいだん三島みしま由紀夫ゆきお 最後さいご言葉ことば」(図書としょ新聞しんぶん 1970ねん12月12にち、1971ねん1がつ1にちごう)。(新潮しんちょうカセットばん1989ねん4がつ、CDばん2002ねん6がつ)。古林ふるばやししょう戦後せんご作家さっかかたる』(筑摩書房ちくましょぼう、1971ねん)、群像ぐんぞう18 1990, pp. 205–228、40かん 2004, pp. 739–782
  232. ^ 古林ふるばやししょうわたしは『』をけられていた」(週刊しゅうかん現代げんだい増刊ぞうかん三島みしま由紀夫ゆきお緊急きんきゅう特集とくしゅうごう 1970ねん12月11にちごう)。年表ねんぴょう 1990, p. 212
  233. ^ だいよんしょう そのとき、そしてこれから――いち 伊藤いとうくにてん」(ぐん 2005, pp. 177–180)
  234. ^ 伊達だてそうかつ徳岡とくおか孝夫たかおによるインタビュー・平岡ひらおか瑤子ようこ三島みしまじゅうよんねん歳月さいげつ」(諸君しょくん! 1985ねん1がつごう)。徳岡とくおか 1999, p. 305
  235. ^ 井上いのうえ安正やすまさ冤罪えんざい軌跡きせき――弘前大学ひろさきだいがく教授きょうじゅ夫人ふじん殺害さつがい事件じけん』(新潮社しんちょうしゃ、2011ねん1がつ
  236. ^ a b c 横尾よこお忠則ただのり追悼ついとう高倉たかくらけん まぼろしとなった三島みしま由紀夫ゆきお映画えいが」(中央ちゅうおう 2015, pp. 200–201)
  237. ^ a b 三島みしま由紀夫ゆきお 関連かんれん年表ねんぴょう」(柴田しばた 2012, pp. 268–279)
  238. ^ a b 三島みしま由紀夫ゆきおだてかい 年譜ねんぷ」(保阪ほさか 2001, pp. 355–373)
  239. ^ a b 三島みしま由紀夫ゆきお年譜ねんぷ」(熊野くまの 2020, pp. 253–270)
  240. ^ 日誌にっしいち」(必勝ひっしょう 2002, pp. 23–88)
  241. ^ だいろくしょう 小説しょうせつえがかれた三島みしま由紀夫ゆきお――蠱惑こわくする文学ぶんがく生涯しょうがい」(岡山おかやま 2016, pp. 159–192)
  242. ^ リービ英雄えいゆう解説かいせつ――加賀かが乙彦おとひこおおきな『はん証言しょうげん』」(加賀かが 1993, pp. 614–621)

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

三島みしま著作ちょさく全集ぜんしゅう

編集へんしゅう
  • 三島みしま由紀夫ゆきお決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう28かん 評論ひょうろん3』新潮社しんちょうしゃ、2003ねん3がつISBN 978-4106425684 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう32かん 評論ひょうろん7』新潮社しんちょうしゃ、2003ねん7がつISBN 978-410642572-1 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう33かん 評論ひょうろん8』新潮社しんちょうしゃ、2003ねん8がつISBN 978-4106425738 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう34かん 評論ひょうろん9』新潮社しんちょうしゃ、2003ねん9がつISBN 978-4106425745 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう35かん 評論ひょうろん10』新潮社しんちょうしゃ、2003ねん10がつISBN 978-4106425752 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう36かん 評論ひょうろん11』新潮社しんちょうしゃ、2003ねん11月。ISBN 978-4106425769 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう37かん 詩歌しか新潮社しんちょうしゃ、2004ねん1がつISBN 978-4106425776 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう38かん 書簡しょかん新潮社しんちょうしゃ、2004ねん3がつISBN 978-4106425783 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう39かん 対談たいだん1』新潮社しんちょうしゃ、2004ねん5がつISBN 978-4106425790 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう40かん 対談たいだん2』新潮社しんちょうしゃ、2004ねん7がつISBN 978-4106425806 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう41かん 音声おんせい(CD)』新潮社しんちょうしゃ、2004ねん9がつISBN 978-4106425813 
  • 佐藤さとう秀明ひであき; 井上いのうえ隆史たかし; 山中やまなか剛史たけし へん決定けっていばん 三島みしま由紀夫ゆきお全集ぜんしゅう42かん 年譜ねんぷ書誌しょし新潮社しんちょうしゃ、2005ねん8がつISBN 978-4106425820 
  • 田中たなか美代子みよこ; 佐藤さとう秀明ひであき; 井上いのうえ隆史たかし へん決定けっていばん 三島由紀夫全集補巻 補遺ほい索引さくいん新潮社しんちょうしゃ、2005ねん12月。ISBN 978-4106425837 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお行動こうどうがく入門にゅうもん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ〉、1974ねん10がつISBN 978-4167124014 
  • 三島みしま由紀夫ゆきおわかきサムライのために文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ〉、1996ねん11月。ISBN 978-4167124038 初版しょはん日本教文社にっぽんきょうぶんしゃ)は1969ねん7がつ
  • 三島みしま由紀夫ゆきお文化ぶんか防衛ぼうえいろん筑摩書房ちくましょぼうちくま文庫ぶんこ〉、2006ねん11月。ISBN 978-4480422835 初版しょはん新潮社しんちょうしゃ)は1969ねん4がつ25にち
  • 三島みしま由紀夫ゆきお; 川端かわばた康成やすなり川端かわばた康成やすなり三島みしま由紀夫ゆきお往復おうふく書簡しょかん新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう文庫ぶんこ〉、2000ねん11月。ISBN 978-4101001265 初版しょはん新潮社しんちょうしゃ)は1997ねん11月 ISBN 978-4104200016
  • 三島みしま由紀夫ゆきお ちょ、TBSヴィンテージ クラシックス へん告白こくはく――三島みしま由紀夫ゆきお公開こうかいインタビュー』講談社こうだんしゃ、2017ねん8がつISBN 978-4062206549 - 文庫ぶんこばん講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ)は2019ねん11月 ISBN 978-4065173855

事典じてん資料しりょう・アルバムけい

編集へんしゅう

論考ろんこう評伝ひょうでん研究けんきゅう

編集へんしゅう

親族しんぞく学友がくゆう私人しじん追想ついそう

編集へんしゅう
  • 井上いのうえゆたかおっとはたていない約束やくそく――三島みしま由紀夫ゆきおのこせしもの』コスモのほん、2006ねん10がつISBN 978-4906380800  - 著者ちょしゃもとだてかい会員かいいん
  • 鈴木すずき繪美えみ監修かんしゅう田村たむらつかさぐんのゆくへ――もとだてかい会員かいいんたちのしん軌跡きせきかしわ艪舎、2005ねん11月。ISBN 978-4434070662 
  • 西村にしむら繁樹しげき三島みしま由紀夫ゆきお最後さいごった青年せいねん将校しょうこう並木なみき書房しょぼう、2019ねん10がつISBN 978-489063-3913 
  • はら竜一りゅういち熱海あたみ青年せいねん将校しょうこう――三島みしま由紀夫ゆきおわたし新風しんぷうしゃ、2004ねん10がつISBN 978-4797443240 
  • 平岡ひらおかあずさせがれ三島みしま由紀夫ゆきお文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ〉、1996ねん11月。ISBN 978-4167162047 初版しょはん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう)は1972ねん5がつ NCID BN04224118月刊げっかん諸君しょくん!』1971ねん12がつごう - 1972ねん4がつごう連載れんさいされたもの。
  • 平岡ひらおかあずさせがれ三島みしま由紀夫ゆきお没後ぼつご)』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1974ねん6がつNCID BN03950861  - 倭文しずおも夫人ふじんとの回想かいそう対談たいだん収録しゅうろく絶版ぜっぱん
  • 松浦まつうら芳子よしこ監修かんしゅう松浦まつうらひろしいまよみがえる三島みしま由紀夫ゆきお――自決じけつよりよんじゅうねん高木たかぎ書房しょぼう、2010ねん12月。ISBN 978-4884710866 増補ぞうほばんは2020ねん11月
  • 三谷みたにしん級友きゅうゆう 三島みしま由紀夫ゆきお』(再刊さいかん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、1999ねん12月。ISBN 978-4122035577 原版げんばん笠間かさま書院しょいん)は1985ねん7がつ NCID BN01049725絶版ぜっぱん
  • 宮崎みやざき正弘まさひろ三島みしま由紀夫ゆきお以後いご」――日本にっぽん日本にっぽんでなくなる並木なみき書房しょぼう、1999ねん9がつISBN 978-4890631124 
  • 村上むらかみ建夫たけおきみたちにはからない――「だてかい」で三島みしま由紀夫ゆきお新潮社しんちょうしゃ、2010ねん10がつISBN 978-4103278511 
  • 村田むらた春樹はるき三島みしま由紀夫ゆきおきた時代じだい――だてかい森田もりた必勝ひっしょうあお林堂はやしどう、2015ねん10がつISBN 978-4792605322 
  • 持丸もちまるひろし; 佐藤さとう松男まつお証言しょうげん三島みしま由紀夫ゆきお福田ふくだひさしそん たったいち対決たいけつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2010ねん10がつISBN 978-4163732503 
  • 山本やまもとしゅんかち三島みしま由紀夫ゆきお憂悶ゆうもん祖国そこく防衛ぼうえい市ケ谷いちがや決起けっきへの道程どうてい真相しんそう日本文芸社にほんぶんげいしゃ、1980ねん6がつNCID BN10688248 
  • 山本やまもとしゅんしょう自衛隊じえいたいかげ部隊ぶたい」――三島みしま由紀夫ゆきおころした真実しんじつ告白こくはく講談社こうだんしゃ、2001ねん6がつISBN 978-4062107815 
  • 日本にっぽん学生がくせい新聞しんぶん へん回想かいそう三島みしま由紀夫ゆきお行政ぎょうせい通信つうしんしゃ、1971ねん11月。NCID BN0927582X 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお研究けんきゅうかい へん『「憂国ゆうこく」のよんじゅうねん――三島みしま由紀夫ゆきお追悼ついとう記録きろく証言しょうげん並木なみき書房しょぼう、2010ねん10がつISBN 978-4890632626 
  • 三島みしま由紀夫ゆきお研究けんきゅうかい へん『「憂国ゆうこく」のじゅうねん啓文ひろふみしゃ書房しょぼう、2020ねん10がつISBN 978-4899920717 

編集へんしゅうしゃ公人こうじん追想ついそう

編集へんしゅう
  • 荒木あらききよしこれはつしも――三島みしま由紀夫ゆきおかみ風連ふうれん日本にっぽん談義だんぎしゃ、1971ねん11月。 
  • 石原いしはら慎太郎しんたろう三島みしま由紀夫ゆきお日蝕にっしょく新潮社しんちょうしゃ、1991ねん3がつISBN 978-4103015079 
  • 井上いのうえ隆史たかし; 佐藤さとう秀明ひであき; 松本まつもととおる へんどう時代じだい証言しょうげん三島みしま由紀夫ゆきおかなえ書房しょぼう、2011ねん5がつISBN 978-4907846770 
  • 粕谷あらや一希かずき作家さっかぬと時代じだいわる――戦後せんご日本にっぽん雑誌ざっしジャーナリズム』日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ、2006ねん7がつISBN 978-4532165611 
  • 川島かわしままさる三島みしま由紀夫ゆきお文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1996ねん2がつISBN 978-4163512808  - 著者ちょしゃ講談社こうだんしゃでの三島みしま担当たんとう編集へんしゅうしゃ
  • 小島こじま千加子ちかこ三島みしま由紀夫ゆきおだん一雄かずお筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま文庫ぶんこ〉、1996ねん4がつISBN 978-4480031822 初版しょはん構想こうそうしゃ)は1980ねん5がつ NCID BN05256969
  • 櫻井さくらいしげるくん三島みしま由紀夫ゆきおなにのこしたか』きずな出版しゅっぱん、2020ねん11月。ISBN 978-4866631288 
  • 椎根しいね完全かんぜんばん 平凡へいぼんパンチ三島みしま由紀夫ゆきお茉莉花まりかしゃ河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ)、2012ねん10がつISBN 978-4309909639 旧版きゅうばん新潮社しんちょうしゃ)は2007ねん3がつしんていばん茉莉花まりかしゃ)は2020ねん12月。著者ちょしゃ平凡へいぼんパンチのもと編集へんしゅうしゃ
  • 澁澤しぶさわ龍彦たつひこ三島みしま由紀夫ゆきおおぼえがき』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、1986ねん11月。ISBN 978-4122013773 初版しょはんたてふう書房しょぼう)は1983ねん12月 NCID BN02999027
  • 堂本どうもと正樹まさき回想かいそう 回転かいてんとびら三島みしま由紀夫ゆきお文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん新書しんしょ〉、2005ねん11月。ISBN 978-4166604777 
  • 徳岡とくおか孝夫たかお; ドナルド・キーン『悼友紀行きこう――三島みしま由紀夫ゆきお作品さくひん風土ふうど中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1973ねん7がつNCID BN05300550 文庫ぶんこばん中公ちゅうこう文庫ぶんこ)は1981ねん11月 NCID BN06844951改題かいだい再刊さいかんは『三島みしま由紀夫ゆきおめぐたび:悼友紀行きこう』(新潮しんちょう文庫ぶんこ、2020ねん2がつ ISBN 978-4101313566
  • 徳岡とくおか孝夫たかお五衰ごすいひと――三島みしま由紀夫ゆきお私記しき文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ〉、1999ねん11月。ISBN 978-4167449032 初版しょはん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう)は1996ねん11月。再刊さいかん文春ぶんしゅん学藝がくげいライブラリー)は2015ねん10がつ ISBN 978-4168130533
  • ドナルド・キーン『おも作家さっかたち――谷崎たにざき川端かわばた三島みしま安部あべ司馬しば新潮社しんちょうしゃ、2005ねん11月。ISBN 978-4103317067 文庫ぶんこばん新潮しんちょう文庫ぶんこ)は2019ねん4がつ
  • ドナルド・キーン『わたしと20世紀せいきのクロニクル』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2007ねん7がつISBN 978-4120038457 改訂かいてい再刊さいかんは『ドナルド・キーン自伝じでん』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2011ねん2がつ
  • はやし房雄ふさおかなしみのきん――三島みしま由紀夫ゆきおへの鎮魂歌ちんこんか文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1972ねん3がつNCID BN08146344  - 『対話たいわ日本人にっぽんじんろん』(夏目なつめ書房しょぼう、2002ねん3がつ新版しんぱん抜粋ばっすい収録しゅうろく
  • 近代きんだい作家さっか追悼ついとうぶん集成しゅうせい〈42〉三島みしま由紀夫ゆきおゆまに書房しょぼう、1999ねん4がつISBN 978-4897146454 
  • 村松むらまつ英子えいこ三島みしま由紀夫ゆきお 追想ついそうのうた ――女優じょゆうとしてそだてられて』阪急はんきゅうコミュニケーションズ、2007ねん10がつISBN 978-4484072050 

雑誌ざっしけい特集とくしゅうほん

編集へんしゅう
  • 新潮しんちょう 臨時りんじ増刊ぞうかん 三島みしま由紀夫ゆきお読本とくほん』、新潮社しんちょうしゃ、1971ねん1がつASIN B00QRZ32NO 
  • 安部あべ順一じゅんいち へん中央公論ちゅうおうこうろんだい1かんだい29ごう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2015ねん1がつASIN B00PM72XQK 
  • 小野おの好恵よしえ へんユリイカ 批評ひひょう 特集とくしゅう三島みしま由紀夫ゆきお――きずつける美意識びいしき系譜けいふだい11かんだい8ごう青土おうづちしゃ、1976ねん10がつASIN B00UYW77RS 
  • 梶山かじやま季之としゆき へん「〈特別とくべつレポート〉三島みしま由紀夫ゆきお無視むしされた家系かけい」『月刊げっかんうわさ はちがつごうだい2かんだい8ごううわさ発行はっこうしょ、48-62ぺーじ、1972ねん8がつ 
  • 坂本さかもと忠雄ただお へん新潮しんちょう 12がつ特大とくだいごう 没後ぼつごじゅうねん 三島みしま由紀夫ゆきお特集とくしゅうだい12かんだい87ごう新潮社しんちょうしゃ、1990ねん12月。 
  • 佐藤さとうたつせん へん群像ぐんぞうだい3かんだい72ごう講談社こうだんしゃ、2017ねん3がつASIN B01NH2WT0X 
  • 中島なかじま和夫かずお へん群像ぐんぞう がつ特大とくだいごう 三島みしま由紀夫ゆきお 芸術げいじゅつだい2かんだい26ごう講談社こうだんしゃ、1971ねん2がつ 
  • 長谷川はせがわいずみ へん現代げんだいのエスプリ 三島みしま由紀夫ゆきお至文しぶんどう、1971ねん3がつNCID BN09636225 
  • 藤島ふじしまやすし へんなみ新年しんねんごう(12・1がつ合併がっぺい特集とくしゅう三島みしま由紀夫ゆきお不在ふざいだい1かんだい4ごう株式会社かぶしきがいしゃなみ曼、1975ねん1がつ 
  • 前田まえだ速夫はやお へん新潮しんちょう 臨時りんじ増刊ぞうかん 三島みしま由紀夫ゆきお ぼつさんじゅうねん』、新潮社しんちょうしゃ、2000ねん11月。NCID BA49508943 
  • 新装しんそうばん 文芸ぶんげい読本とくほん 三島みしま由紀夫ゆきお河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1983ねん12月。NCID BA35307535  - 初版しょはんは1975ねん8がつ
  • しん文芸ぶんげい読本とくほん 三島みしま由紀夫ゆきお河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1990ねん11月。ISBN 978-4309701554 
  • 中央公論ちゅうおうこうろん特別とくべつ編集へんしゅう 三島みしま由紀夫ゆきお戦後せんご中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2010ねん10がつISBN 978-4120041617 
  • 文藝ぶんげい別冊べっさつ 増補ぞうほ新版しんぱん 三島みしま由紀夫ゆきお――にいたるまでたましいさけびつづけよ』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ〈KAWADEゆめムック〉、2012ねん4がつNCID BA75322341  - 旧版きゅうばんは2005ねん11月の『文藝ぶんげい別冊べっさつ 永久えいきゅう保存ほぞんばん 三島みしま由紀夫ゆきお ぼつ35ねん生誕せいたん80ねん
  • 文藝ぶんげい別冊べっさつ 三島みしま由紀夫ゆきお1970――うみふたつにるように、かれった』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ〈KAWADEゆめムック〉、2020ねん3がつISBN 978-4309980058 
  • 中央公論ちゅうおうこうろん特別とくべつ編集へんしゅう 彼女かのじょたちの三島みしま由紀夫ゆきお中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2020ねん10がつISBN 978-4120053474 

作家さっか関連かんれん・その

編集へんしゅう

外国がいこくじんによる三島みしま研究けんきゅうしょ

編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう
画像がぞう外部がいぶリンク
  三島みしま由紀夫ゆきお事件じけん写真しゃしん特集とくしゅう - 時事通信社じじつうしんしゃ