三島 みしま 事件 じけん (みしまじけん)とは、1970年 ねん (昭和 しょうわ 45年 ねん )11月25日 にち に作家 さっか の三島 みしま 由紀夫 ゆきお (本名 ほんみょう ・平岡 ひらおか 公 こう 威 い )が、憲法 けんぽう 改正 かいせい のため自衛隊 じえいたい に決起 けっき (クーデター )を呼 よ びかけた後 のち に割腹 かっぷく 自殺 じさつ をした事件 じけん である。三島 みしま が隊長 たいちょう を務 つと める「楯 だて の会 かい 」のメンバーも事件 じけん に参加 さんか したことから、その団体 だんたい の名前 なまえ をとって楯 だて の会 かい 事件 じけん (たてのかいじけん)とも呼 よ ばれる[1] [2] 。
この事件 じけん は日本 にっぽん 社会 しゃかい に大 おお きな衝撃 しょうげき をもたらしただけではなく、日本 にっぽん 国外 こくがい でも速報 そくほう ニュースとなり、国際 こくさい 的 てき な名声 めいせい を持 も つ作家 さっか が起 お こした異例 いれい の行動 こうどう に一様 いちよう に驚 おどろ きを示 しめ した[3] [4] 。警視庁 けいしちょう が2016年 ねん に実施 じっし した「警視庁 けいしちょう 創立 そうりつ 140年 ねん 特別 とくべつ 展 てん みんなで選 えら ぶ警視庁 けいしちょう 140年 ねん の十 じゅう 大 だい 事件 じけん 」のアンケート投票 とうひょう において三島 みしま 事件 じけん は第 だい 29位 い となった(警視庁 けいしちょう 職員 しょくいん だけの投票 とうひょう では第 だい 52位 い )[5] 。
※なお、以下 いか では三島 みしま 自身 じしん の言葉 ことば や著作 ちょさく からの引用 いんよう 部 ぶ を〈 〉で括 くく ることとする(家族 かぞく ・知人 ちじん ら他者 たしゃ の述懐 じゅっかい 、評者 ひょうしゃ の論評 ろんぴょう 、成句 せいく 、年譜 ねんぷ などからの引用 いんよう 部 ぶ との区別 くべつ のため)。
舞台 ぶたい となった市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち 。事件 じけん 当時 とうじ の看板 かんばん は墨 すみ 文字 もじ の書体 しょたい で「陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 市ヶ谷 いちがや 駐 ちゅう とん地 ち 」となっていた[6] 。渦中 かちゅう となった東部 とうぶ 方面 ほうめん 総監 そうかん 部 ぶ は1994年 ねん に朝霞 あさか へ移駐 いちゅう している。
1970年 ねん (昭和 しょうわ 45年 ねん )11月25日 にち の午前 ごぜん 10時 じ 58分 ふん 頃 ごろ 、三島 みしま 由紀夫 ゆきお (45歳 さい )は楯 だて の会 かい のメンバー森田 もりた 必勝 ひっしょう (25歳 さい )、小 しょう 賀 が 正義 まさよし (22歳 さい )、小川 おがわ 正洋 まさひろ (22歳 さい )、古賀 こが 浩靖 ひろやす (23歳 さい )の4名 めい と共 とも に、東京 とうきょう 都 と 新宿 しんじゅく 区 く 市谷本村 いちがやほんむら 町 まち 1番地 ばんち (現 げん ・市谷本村 いちがやほんむら 町 まち 5-1)の陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち 正門 せいもん (四谷 よつや 門 もん )を通過 つうか し、東部 とうぶ 方面 ほうめん 総監 そうかん 部 ぶ 二 に 階 かい の総 そう 監 かん 室 しつ 正面 しょうめん 玄関 げんかん に到着 とうちゃく 。出迎 でむか えの沢本 さわもと 泰治 やすじ 3等 とう 陸 りく 佐 たすく に導 みちび かれ正面 しょうめん 階段 かいだん を昇 のぼ った後 のち 、総 そう 監 かん 部 ぶ 業務 ぎょうむ 室長 しつちょう の原 はら 勇 いさむ 1等 とう 陸 りく 佐 たすく (50歳 さい )に案内 あんない され総 そう 監 かん 室 しつ に通 とお された[7] [8] [注釈 ちゅうしゃく 1] 。
この訪問 ほうもん は21日 にち に予約 よやく 済 ずみ で、業務 ぎょうむ 室 しつ の中尾 なかお 良 りょう 一 いち 3等 とう 陸 りく 曹 が警衛 けいえい 所 しょ に、「11時 じ 頃 ごろ 、三島 みしま 由紀夫 ゆきお 先生 せんせい が車 くるま で到着 とうちゃく しますのでフリーパスにしてください」と内線 ないせん 連絡 れんらく していたため、門番 もんばん の鈴木 すずき 偣2等 とう 陸 りく 曹が助手 じょしゅ 席 せき の三島 みしま と敬礼 けいれい し合 あ っただけで通過 つうか となった[6] [注釈 ちゅうしゃく 2] 。
応接 おうせつ セットにいざなわれ、腰 こし かけるように勧 すす められた三島 みしま は、総 そう 監 かん ・益田 ますだ 兼 けん 利 り 陸 りく 将 すすむ (57歳 さい )に、例会 れいかい で表彰 ひょうしょう する「優秀 ゆうしゅう な隊員 たいいん 」として森田 もりた ら4名 めい を直立 ちょくりつ させたまま一 いち 人 にん 一人 ひとり 名前 なまえ を呼 よ んで紹介 しょうかい し、4名 めい を同伴 どうはん してきた理由 りゆう を、「実 じつ は、今日 きょう このものたちを連 つ れてきたのは、11月の体験 たいけん 入隊 にゅうたい の際 さい 、山 やま で負傷 ふしょう したものを犠牲 ぎせい 的 てき に下 した まで背負 せお って降 お りてくれたので、今日 きょう は市ヶ谷 いちがや 会館 かいかん の例会 れいかい で表彰 ひょうしょう しようと思 おも い、一目 いちもく 総監 そうかん にお目 め にかけたいと考 かんが えて連 つ れて参 まい りました。今日 きょう は例会 れいかい があるので正装 せいそう で参 まい りました」と説明 せつめい した[7] [11] 。
ソファで益田 ますだ 総 そう 監 かん と三島 みしま が向 む かい合 あ って談話 だんわ 中 ちゅう 、話題 わだい が三島 みしま 持参 じさん の日本 にっぽん 刀 がたな ・“関 せき 孫 まご 六 ろく ”に関 かん してのものになった。総 そう 監 かん が、「本物 ほんもの ですか」「そのような軍刀 ぐんとう をさげて警察 けいさつ に咎 とが められませんか」と尋 たず ねたのに対 たい して三島 みしま は、「この軍刀 ぐんとう は、関 せき の孫 まご 六 ろく を軍刀 ぐんとう づくりに直 なお したものです。鑑定 かんてい 書 しょ をごらんになりますか」と言 い って、「関 せき 兼 けん 元 もと 」と記 しる された鑑定 かんてい 書 しょ を見 み せた[7] [11] 。
三島 みしま は刀 かたな を抜 ぬ いて見 み せ、油 あぶら を拭 ぬぐ うためのハンカチを「小 しょう 賀 が 、ハンカチ」と言 い って同人 どうじん に要求 ようきゅう したが、その言葉 ことば はあらかじめ決 き めてあった行動 こうどう 開始 かいし の合図 あいず であった[7] 。しかし総 そう 監 かん が、「ちり紙 がみ ではどうかな」と言 い いながら執務 しつむ 机 つくえ の方 ほう に向 む かうという予想 よそう 外 がい の動 うご きをしたため、目的 もくてき を見失 みうしな った小 しょう 賀 が は仕方 しかた なくそのまま三 さん 島 とう に近 ちか づいて日本 にっぽん 手拭 てぬぐい を渡 わた した[7] 。手 て ごろな紙 かみ を見 み つけられなかった総 そう 監 かん はソファの方 ほう に戻 もど り、刀 かたな を見 み るため三 さん 島 とう の横 よこ に座 すわ った[11] 。
三島 みしま は日本 にっぽん 手拭 てぬぐい で刀身 とうしん を拭 ふ いてから、刀 かたな を総監 そうかん に手渡 てわた した。刃 は 文 ぶん を見 み た総 そう 監 かん は、「いい刀 がたな ですね、やはり三本杉 さんぼんすぎ ですね」とうなずき、これを三島 みしま に返 かえ して元 もと の席 せき に戻 もど った。この時 とき 、11時 じ 5分 ふん 頃 ごろ であった[7] 。三島 みしま は刀 かたな を再 ふたた び拭 ふ き、使 つか った手拭 てぬぐい を傍 かたわ らに来 き ていた小 しょう 賀 が に渡 わた し、目線 めせん で指示 しじ しながら鍔 つば 鳴 な りを「パチン」と響 ひび かせて刀 かたな を鞘 さや に納 おさ めた[10] [12] 。
それを合図 あいず に、席 せき に戻 もど るふりをしていた小 しょう 賀 が はすばやく総監 そうかん の後 うし ろにまわり、持 も っていた手拭 てぬぐい で総監 そうかん の口 くち をふさぎ、つづいて小川 おがわ 、古賀 こが が細引 ほそびき やロープで総監 そうかん を椅子 いす に縛 しば りつけて拘束 こうそく した[7] 。古賀 こが から別 べつ の日本 にっぽん 手拭 てぬぐい を渡 わた された小 しょう 賀 が が総 そう 監 かん にさるぐつわ を噛 か ませ、「さるぐつわは呼吸 こきゅう が止 と まるようにはしません」と断 こと わり、短刀 たんとう をつきつけた[7] [11] 。
総 そう 監 かん は、レンジャー 訓練 くんれん か何 なに かで皆 みな が「こんなに強 つよ くなりました」と笑 わら い話 ばなし にするのかと思 おも い、「三島 みしま さん、冗談 じょうだん はやめなさい」と言 い うが、三島 みしま は刀 かたな を抜 ぬ いたまま総監 そうかん を真剣 しんけん な顔 かお つきで睨 にら んでいたので、総 そう 監 かん は只事 ただごと ではないことに気 き づいた[11] 。その間 あいだ 、森田 もりた は総 そう 監 かん 室 しつ 正面 しょうめん 入口 いりくち と、幕僚 ばくりょう 長 ちょう 室 しつ および幕僚 ばくりょう 副長 ふくちょう 室 しつ に通 つう ずる出入口 でいりぐち の3箇所 かしょ (全 すべ て観音開 かんのんびら き ドア)に、机 つくえ や椅子 いす 、植木鉢 うえきばち などでバリケード を構築 こうちく した[7] [13] 。
お茶 ちゃ を出 だ すタイミングを見計 みはか らっていた沢本 さわもと 泰治 やすじ 3佐 さ が、総 そう 監 かん 室 しつ の物音 ものおと に気 き づき、その報告 ほうこく を受 う けた原 はら 勇 いさむ 1佐 さ が廊下 ろうか に出 で て、正面 しょうめん 入口 いりくち の擦 こす りガラスの窓 まど (一片 いっぺん のセロハンテープ が貼 は られ、少 すこ し透明 とうめい に近 ちか づけてある)から室内 しつない を窺 うかが うと、益田 ますだ 総 そう 監 かん の後 うし ろに楯 だて の会 かい 隊員 たいいん たちが立 た っていた。総 そう 監 かん がマッサージでも受 う けているかのように見 み えたが、動 うご きが不自然 ふしぜん なため、中 なか に入 にゅう ろうとすると鍵 かぎ が閉 し まっていた[8] 。
原 げん 1佐 さ がドアに体当 たいあ たりし、隙間 すきま が2、30センチできた。室内 しつない から「来 く るな、来 く るな」と森田 もりた 必勝 ひっしょう が叫 さけ び声 ごえ を挙 あ げ、ドア下 か から要求 ようきゅう 書 しょ が差 さ し出 だ された[8] [12] 。それに目 め を通 とお した原 げん 1佐 さ らはすぐに行政 ぎょうせい 副長 ふくちょう ・山崎 やまざき 皎 こう 陸 りく 将 すすむ 補 ほ (53歳 さい )と防衛 ぼうえい 副長 ふくちょう ・吉松 よしまつ 秀信 ひでのぶ 1佐 さ (50歳 さい )に、「三島 みしま らが総 そう 監 かん 室 しつ を占拠 せんきょ し、総 そう 監 かん を監禁 かんきん した」と報告 ほうこく 。幕僚 ばくりょう らに非常 ひじょう 呼集 こしゅう をかけ、沢本 さわもと 3佐 さ の部下 ぶか が警務 けいむ 隊 たい に連絡 れんらく した[6] [8] 。
総 そう 監 かん 室 しつ 左側 ひだりがわ に通 つう じる幕僚 ばくりょう 長 ちょう 室 しつ のドアのバリケードを背中 せなか で壊 こわ し、川辺 かわべ 晴夫 はるお 2佐 さ (46歳 さい )と中村 なかむら 菫 すみれ 正 せい 2佐 さ (45歳 さい )がいち早 はや くなだれ込 こ むと、すぐさま三島 みしま は軍刀 ぐんとう 拵 こしら えの“関 せき 孫 まご 六 ろく ”を抜 ぬ いて背中 せなか などを斬 き りつけ、続 つづ いて木刀 ぼくとう を持 も って突入 とつにゅう した原 げん 1佐 さ 、笠間 かさま 寿一 ひさいち 2曹(36歳 さい )、磯部 いそべ 順 じゅん 蔵 ぞう 2曹らにも、「出 しゅつ ろ、出 しゅつ ろ」、「要求 ようきゅう 書 しょ を読 よ め」と叫 さけ びながら応戦 おうせん した[6] [8] 。この時 とき に三島 みしま は腰 こし を落 お として刀 かたな を手元 てもと に引 ひ くようにし、大上段 だいじょうだん からは振 ふ り下 お ろさずに、刃先 はさき で撫 な で斬 ぎ りにしていたという[8] [12] 。この乱闘 らんとう で、ドアの取 と っ手 て のあたりに刀 かたな 傷 きず が残 のこ った[8] 。時刻 じこく は11時 じ 20分 ふん 頃 ごろ であった[7] 。
彼 かれ ら5人 にん を退散 たいさん させている間 あいだ に、さらに幕僚 ばくりょう 副長 ふくちょう 室 しつ 側 がわ から、清野 きよの 不二雄 ふじお 1佐 さ (50歳 さい )、高橋 たかはし 清 きよし 2佐 さ (43歳 さい )、寺尾 てらお 克美 かつみ 3佐 さ (41歳 さい )、水田 みずた 栄二郎 えいじろう 1尉 じょう 、菊地 きくち 義文 よしふみ 3曹、吉松 よしまつ 秀信 ひでのぶ 1佐 さ 、山崎 やまざき 皎 こう 陸 りく 将 すすむ 補 ほ の7人 にん が次々 つぎつぎ と突入 とつにゅう してきた[6] [7] 。副長 ふくちょう の吉松 よしまつ 1佐 さ が、「何 なに をするんだ。話 はな し合 あ おうではないか」と言 い うが乱闘 らんとう は続 つづ き、古賀 こが 浩靖 ひろやす は小 しょう テーブルや椅子 いす を投 な げつけ、小川 おがわ 正洋 まさひろ は特殊 とくしゅ 警棒 けいぼう で応戦 おうせん した[7] [8] [13] 。
森田 もりた も短刀 たんとう で応戦 おうせん するが、逆 ぎゃく に短刀 たんとう をもぎ取 と られた[7] 。三島 みしま はすかさず加勢 かせい し、森田 もりた を引 ひ きずり倒 たお した寺尾 てらお 3佐 さ 、高橋 たかはし 2佐 さ に斬 き りつけた[6] 。総 そう 監 かん を見張 みは っていた小 しょう 賀 が に、清野 きよの 1佐 さ が灰皿 はいざら を投 な げつけると、三島 みしま が斬 き りかかった。清野 きよの 1佐 さ は、地球儀 ちきゅうぎ を投 な げて応戦 おうせん するが躓 つまず いて転倒 てんとう 。山崎 やまざき 陸 りく 将 しょう 補 ほ も斬 き りつけられ、幕僚 ばくりょう らは総 そう 監 かん の安全 あんぜん も考 かんが え、一旦 いったん 退散 たいさん することにした[6] [8] 。
この乱闘 らんとう により自衛隊 じえいたい 員 いん 8人 にん が負傷 ふしょう したが、中 なか でも最 もっと も重傷 じゅうしょう だったのは、右 みぎ 肘 ひじ 部 ぶ 、左 ひだり 掌 てのひら 背部 はいぶ 切 せつな 創 そう による全治 ぜんち 12週間 しゅうかん の中村 なかむら 菫 すみれ 正 せい 2佐 さ だった[4] 。三島 みしま の刀 かたな を玩具 おもちゃ だと思 おも って左手 ひだりて でもぎ取 と ろうとしたため掌 てのひら の腱 けん を切 き った中村 なかむら 2佐 さ は、左手 ひだりて の握力 あくりょく を失 うしな う後遺症 こういしょう が残 のこ った[6] [14] [15] 。しかし中村 なかむら 2佐 さ は、三島 みしま に対 たい して「まったく恨 うら みはありません」と語 かた り、「三島 みしま さんは私 わたし を殺 ころ そうと思 おも って斬 き ったのではないと思 おも います。相手 あいて を殺 ころ す気 き ならもっと思 おも い切 き って斬 き るはずで、腕 うで をやられた時 とき は手心 てごころ を感 かん じました」と述懐 じゅっかい している[14] [注釈 ちゅうしゃく 3] 。
11時 じ 22分 ふん 、東部 とうぶ 方面 ほうめん 総監 そうかん 室 しつ から警視庁 けいしちょう 指令 しれい 室 しつ に110番 ばん が入 はい り、11時 じ 25分 ふん には、警視庁 けいしちょう 公安 こうあん 部 ぶ の公安 こうあん 第 だい 一 いち 課 か (本来 ほんらい は極左 きょくさ 対策 たいさく 課 か )が警備 けいび 局 きょく 長 ちょう 室 しつ を臨時 りんじ 本部 ほんぶ にして関係 かんけい 機関 きかん に連絡 れんらく し[16] 、120名 めい の機動 きどう 隊 たい 員 いん を市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち に向 む けて出動 しゅつどう させた[9] [16] 。室外 しつがい に退散 たいさん した幕僚 ばくりょう らは三島 みしま と話 はな し合 あ うため11時 じ 30分 ふん 頃 ごろ 、廊下 ろうか から総監 そうかん 室 しつ の窓 まど ガラスを割 わ った。最初 さいしょ に顔 かお を出 だ した功刀 くぬぎ 松男 まつお 1佐 さ が額 がく を切 き られた[15] 。吉松 よしまつ 1佐 さ が窓 まど 越 ご しに三島 みしま を説得 せっとく するが、三島 みしま は「これをのめば総監 そうかん の命 いのち は助 たす けてやる」と、最初 さいしょ に森田 もりた がドア下 か から廊下 ろうか に差 さ し出 だ したものと同 どう 内容 ないよう の要求 ようきゅう 書 しょ を、破 やぶ れた窓 まど ガラスから廊下 ろうか に投 な げた[7] 。
要求 ようきゅう 書 しょ には主 おも に
(一 いち )11時 じ 30分 ふん までに全 ぜん 市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち の自衛 じえい 官 かん を本館 ほんかん 前 まえ に集合 しゅうごう せしめること。
(二 に )左記 さき 次第 しだい の演説 えんぜつ を静聴 せいちょう すること。 (イ)三島 みしま の演説 えんぜつ (檄 げき の撒布 さんぷ ) (ロ)参加 さんか 学生 がくせい の名乗 なの り (ハ)楯 だて の会 かい の残余 ざんよ 会員 かいいん に対 たい する三島 みしま の訓示 くんじ
(三 さん )楯 だて の会 かい 残余 ざんよ 会員 かいいん (本 ほん 事件 じけん とは無関係 むかんけい )を急遽 きゅうきょ 市ヶ谷 いちがや 会館 かいかん より召集 しょうしゅう 、参列 さんれつ せしむること。
(四 よん )11時 じ 30分 ふん より13時 じ 10分 ふん にいたる2時 じ 間 あいだ の間 あいだ 、一切 いっさい の攻撃 こうげき 妨害 ぼうがい を行 くだり はざること。一切 いっさい の攻撃 こうげき 妨害 ぼうがい が行 くだり はれざる限 かぎ り、当方 とうほう よりは一切 いっさい 攻撃 こうげき せず。
(五 ご )右 みぎ 条件 じょうけん が完全 かんぜん に遵守 じゅんしゅ せられて2時 じ 間 あいだ を経過 けいか したときは、総 そう 監 かん の身柄 みがら は安全 あんぜん に引渡 ひきわた す。その形式 けいしき は、2名 めい 以上 いじょう の護衛 ごえい を当方 とうほう より附 ふ し、拘束 こうそく 状態 じょうたい のまま(自決 じけつ 防止 ぼうし のため)、本館 ほんかん 正面 しょうめん 玄関 げんかん に於 おい て引渡 ひきわた す。
(
六 ろく )
右 みぎ 条件 じょうけん が
守 まも られず、あるいは
守 まも られざる惧れあるときは、
三島 みしま は
直 ただ ちに
総 そう 監 かん を
殺害 さつがい して
自決 じけつ する。
などと書 か かれてあった[11] [17] 。
幕僚 ばくりょう 幹部 かんぶ らは三島 みしま の要求 ようきゅう を受 う け入 い れることを決 き め、11時 じ 34分 ふん 頃 ごろ に吉松 よしまつ 1佐 さ が三島 みしま に、「自衛 じえい 官 かん を集 あつ めることにした」と告 つ げた[8] 。三島 みしま は「君 きみ は何者 なにもの だ。どんな権限 けんげん があるのか」と質問 しつもん し、吉松 よしまつ 1佐 さ が「防衛 ぼうえい 副長 ふくちょう で現場 げんば の最高 さいこう 責任 せきにん 者 しゃ である」と名乗 なの ると、三島 みしま は少 すこ し安心 あんしん した表情 ひょうじょう となり腕時計 うでどけい を見 み てから、「12時 じ までに集 あつ めろ」と言 い った[8] 。
その間 あいだ 、三島 みしま は森田 もりた に命 めい じ、益田 ますだ 総 そう 監 かん にも要求 ようきゅう 書 しょ の書面 しょめん を読 よ み聞 き かせた[7] 。手 て の痺 しび れた益田 ますだ 総 そう 監 かん は、細引 ほそびき を少 すこ し緩 ゆる めてもらった[11] 。総 そう 監 かん は、何故 なぜ こんなことをするのか、自衛隊 じえいたい や私 わたし が憎 にく いのか、演説 えんぜつ なら内容 ないよう によっては私 わたし が代 か わりに話 はな すなどと説得 せっとく すると、三島 みしま は総 そう 監 かん に檄文 げきぶん のような話 はなし をして、自衛隊 じえいたい も総 そう 監 かん も憎 にく いのではない、妨害 ぼうがい しなければ殺 ころ さないと告 つ げ、「きょうは自衛隊 じえいたい に最大 さいだい の刺戟 しげき を与 あた えて奮起 ふんき を促 うなが すために来 き た」と言 い った[11] 。
なお、三島 みしま が総 そう 監 かん 室 しつ で恩賜 おんし 煙草 たばこ を吸 す ったかどうかは不明 ふめい であるが、「現場 げんば で煙草 たばこ を吸 す うくらいの時間 じかん はあるだろう」と、他 た の荷物 にもつ と一緒 いっしょ に、園遊会 えんゆうかい で貰 もら った恩賜 おんし 煙草 たばこ もアタッシュケース に入 い れるように前々 まえまえ 日 び にメンバーに渡 わた していたという[18] [注釈 ちゅうしゃく 4] 。
11時 じ 40分 ふん 、市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち の部隊 ぶたい 内 ない に「業務 ぎょうむ に支障 ししょう がないものは本館 ほんかん 玄関 げんかん 前 まえ に集合 しゅうごう して下 くだ さい」というマイク放送 ほうそう がなされ、その後 ご も放送 ほうそう が繰 く り返 かえ された[6] [7] 。11時 じ 46分 ふん 、警視庁 けいしちょう は三島 みしま ら全員 ぜんいん について逮捕 たいほ を指令 しれい した[9] 。駐屯 ちゅうとん 地 ち 内 ない には、パトカー 、警務 けいむ 隊 たい の白 しろ いジープが次々 つぎつぎ と猛 もう スピードで入 はい って来 き ていた[12] [13] 。この頃 ころ 、すでにテレビやラジオも事件 じけん の第一報 だいいっぽう を伝 つた えていた[9] 。
部隊 ぶたい 内 ない 放送 ほうそう を聞 き いた自衛 じえい 官 かん 約 やく 800から1000名 めい が、続々 ぞくぞく と駆 か け足 あし で本館 ほんかん 正面 しょうめん 玄関 げんかん 前 まえ の前庭 ぜんてい に集 あつ まり出 だ した[4] [7] 。中 なか にはすでに食堂 しょくどう で昼食 ちゅうしょく を食 た べ始 はじ め、それを中断 ちゅうだん して来 き た者 もの もあった[6] 。彼 かれ らの中 なか では、「暴徒 ぼうと が乱入 らんにゅう して、人 ひと が斬 き られた」「総監 そうかん が人質 ひとじち に取 と られた」「赤軍 せきぐん 派 は が来 き たんじゃないか」「三島 みしま 由紀夫 ゆきお もいるのか」などと情報 じょうほう が錯綜 さくそう していた[6] [9] [12] 。
11時 じ 55分 ふん 頃 ごろ 、鉢巻 はちまき に白 しろ 手袋 てぶくろ を着 つ けた森田 もりた 必勝 ひっしょう と小川 おがわ 正洋 まさひろ が、「檄 げき 」を多数 たすう 撒布 さんぷ し、要求 ようきゅう 項目 こうもく を墨書 すみが きした垂 た れ幕 まく を総監 そうかん 室 しつ 前 まえ バルコニー 上 うえ から垂 た らした[12] 。自衛 じえい 官 かん 2人 にん がジャンプして垂 た れ幕 まく を引 ひ きずり下 くだ そうとしたが、届 とど かなかった[12] 。前庭 ぜんてい には、ジュラルミン の盾 たて を持 も った機動 きどう 隊員 たいいん や、新聞 しんぶん 社 しゃ やテレビなど報道陣 ほうどうじん の車 くるま も集 あつ まっていた[13] [20] 。
当日 とうじつ 、総 そう 監 かん 部 ぶ から約 やく 50メートルしか離 はな れていない市ヶ谷 いちがや 会館 かいかん に例会 れいかい に来 き ていた楯 だて の会 かい 会員 かいいん 30名 めい については、幕僚 ばくりょう らは三島 みしま の要求 ようきゅう を受 う け入 い れずに会館 かいかん 内 ない に閉 と じ込 こ める処置 しょち をし、警察 けいさつ の監視 かんし 下 か に置 お かれて現場 げんば に召集 しょうしゅう させなかった[16] [20] 。不穏 ふおん な状況 じょうきょう を知 し って動揺 どうよう する会員 かいいん らと警察 けいさつ ・自衛隊 じえいたい との間 あいだ で小競 こぜ り合 あ いが起 お こり、ピストル で制止 せいし された[16] [20] 。
正午 しょうご を告 つ げるサイレンが市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち の上空 じょうくう に鳴 な り響 ひび き、太陽 たいよう の光 ひかり を浴 あ びて光 ひか る日本 にっぽん 刀 がたな ・“関 せき 孫 まご 六 ろく ”の抜身 ぬきみ を右手 みぎて に掲 かか げた三島 みしま がバルコニーに立 た った[6] [10] [注釈 ちゅうしゃく 5] 。日本 にっぽん 刀 がたな が見 み えたのは一瞬 いっしゅん のことだった[6] 。三島 みしま の頭 あたま には、「七生 しちしょう 報國 ほうこく 」(七 なな たび生 う まれ変 か わっても、朝敵 ちょうてき を滅 ほろ ぼし、国 くに に報 むく いるの意 い [注釈 ちゅうしゃく 6] )と書 か かれた日 ひ の丸 まる の鉢巻 はちまき が巻 ま かれていた[6] [10] 。右 みぎ 背後 はいご には同 おな じ鉢巻 はちまき の森田 もりた が仁王 におう 立 た ちし、正面 しょうめん を凝視 ぎょうし していた[13] 。
「三島 みしま だ」「何 なん だあれは」「ばかやろう」などと口々 くちぐち に声 こえ が上 あ がる中 なか 、三島 みしま は集合 しゅうごう した自衛 じえい 官 かん たちに向 む かい、白 しろ い手袋 てぶくろ の拳 こぶし を振 ふ り上 あ げて絶叫 ぜっきょう しながら演説 えんぜつ を始 はじ めた[9] 。〈日本 にっぽん を守 まも る〉ための〈建 けん 軍 ぐん の本義 ほんぎ 〉に立 た ち返 かえ れという憲法 けんぽう 改正 かいせい の決起 けっき を促 うなが す演説 えんぜつ で、主旨 しゅし は撒布 さんぷ された「檄 げき 」とほぼ同 おな じ内容 ないよう であった[21] [22] 。上空 じょうくう には、早 はや くも異変 いへん を聞 き きつけたマスコミ のヘリコプター が騒音 そうおん を出 だ し、何 なん 台 だい も旋回 せんかい していた[6] [20] 。
おまえら、
聞 き け。
静 しず かにせい。
静 しず かにせい。
話 はなし を
聞 き け。
男一匹 おとこいっぴき が
命 いのち をかけて
諸君 しょくん に
訴 うった えているんだぞ。いいか。それがだ、
今 いま 、
日本人 にっぽんじん がだ、ここでもって
立 た ち
上 あ がらねば、
自衛隊 じえいたい が
立 た ち
上 あ がらなきゃ、
憲法 けんぽう 改正 かいせい ってものはないんだよ。
諸君 しょくん は
永久 えいきゅう にだね、ただアメリカの
軍隊 ぐんたい になってしまうんだぞ。
諸君 しょくん と
日本 にっぽん ……アメリカからしか
来 こ ないんだ。シビリアン・コントロールといって……シビリアン・コントロール……んだ。シビリアン・コントロールというのはだな、
新 しん 憲法 けんぽう の
下 した でこらえるのがシビリアン・コントロールじゃないぞ。
そこでだ、おれは4
年 ねん 待 ま ったんだ。
自衛隊 じえいたい が
立 た ち
上 あ がる
日 ひ を。……4
年 ねん 待 ま ったんだ、……
最後 さいご の30
分 ふん に……
待 ま っているんだよ。
諸君 しょくん は
武士 ぶし だろう。
武士 ぶし ならば
自分 じぶん を否定 ひてい する憲法 けんぽう をどうして
守 まも るんだ。どうして
自分 じぶん を
否定 ひてい する
憲法 けんぽう のために、
自分 じぶん らを
否定 ひてい する
憲法 けんぽう にぺこぺこするんだ。これがある
限 かぎ り、
諸君 しょくん たちは
永久 えいきゅう に
救 すく われんのだぞ。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 、バルコニーにて[21] [注釈 ちゅうしゃく 7]
自衛 じえい 官 かん たちは一斉 いっせい に、「聞 き こえねえぞ」「引 ひ っ込 こ め」「下 した に降 お りてきてしゃべれ」「おまえなんかに何 なに が解 ほどけ るんだ」「ばかやろう」と激 はげ しい怒号 どごう を飛 と ばした[6] [9] 。「われわれの仲間 なかま を傷 きず つけたのは、どうした訳 わけ だ」と野次 やじ が飛 と ぶと、すかさず三島 みしま はそれに答 こた えて、「抵抗 ていこう したからだ」と凄 すさ まじい気迫 きはく でやり返 かえ した[12] [21] 。
その場 ば にいたK陸 りく 曹(原典 げんてん でも匿名 とくめい )は、うるさい野次 やじ に舌打 したう ちし、「絶叫 ぜっきょう する三島 みしま 由紀夫 ゆきお の訴 うった えをちゃんと聞 き いてやりたい気 き がした」「ところどころ、話 はなし が野次 やじ のため聴取 ちょうしゅ できない個所 かしょ があるが、三島 みしま のいうことも一理 いちり あるのではないかと心情 しんじょう 的 てき に理解 りかい した」と後 のち に語 かた り、いったん号令 ごうれい をかけて集合 しゅうごう させたなら、きちんと部隊 ぶたい 別 べつ に整列 せいれつ して聴 き くべきだったのではないかとしている[9] [注釈 ちゅうしゃく 8] 。
三島 みしま は、〈諸君 しょくん の中 なか に一人 ひとり でもおれと一緒 いっしょ に起 た つ奴 やつ はいないのか〉と叫 さけ び、10秒 びょう ほど沈黙 ちんもく して待 ま ったが、相変 あいか わらず自衛 じえい 官 かん らは、「気違 きちが い」「そんなのいるもんか」と罵声 ばせい を浴 あ びせた[9] 。予想 よそう を越 こ えた怒号 どごう の激 はげ しさやヘリコプターの騒音 そうおん で、演説 えんぜつ は予定 よてい 時間 じかん よりもかなり少 すく なく、わずか10分 ふん ほどで切 き り上 あ げられた[18] 。三島 みしま が演説 えんぜつ を早 はや めに切 き り上 あ げたのは、機動 きどう 隊 たい が一 いち 階 かい に突入 とつにゅう したのを見 み たからだとも推測 すいそく されている[13] 。
演説 えんぜつ を終 お えた三島 みしま は、最後 さいご に森田 もりた と共 とも に皇居 こうきょ に向 むか って、〈天皇陛下 てんのうへいか 万 まん 歳 さい !〉を三唱 さんしょう した。その時 とき も、「ひきずり降 お ろせ」「銃 じゅう で撃 う て」などの野次 やじ で、ほとんどもき取 きと れないほどだった[9] 。この日 ひ 、第 だい 32普通 ふつう 科 か 連隊 れんたい は100名 めい ほどの留守 るす 部隊 ぶたい を残 のこ して、900名 めい の精鋭 せいえい 部隊 ぶたい は東 ひがし 富士 ふじ 演習 えんしゅう 場 じょう に出 で かけて留守 るす であった[6] 。三島 みしま は、森田 もりた の情報 じょうほう で連隊 れんたい 長 ちょう だけが留守 るす だと勘違 かんちが いしていた[6] 。バルコニー前 まえ に集 あつ まっていた自衛 じえい 官 かん たちは通信 つうしん 、資材 しざい 、補給 ほきゅう などの、現職 げんしょく においてはどちらかといえば三島 みしま の想定 そうてい した「武士 ぶし 」ではない隊員 たいいん らであった[6] 。
三島 みしま は神 かみ 風連 ふうれん (敬神 けいしん 党 とう )の精神 せいしん 性 せい に少 すこ しでも近 ちか づくことに重 おも きを置 お いて、マイク を使用 しよう していなかった[12] [23] 。マイクや拡声 かくせい 器 き を使 つか わずに、あくまでも雄叫 おたけ びの肉声 にくせい にこだわった[12] [24] 。三島 みしま は林 はやし 房雄 ふさお との対談 たいだん 『対話 たいわ ・日本人 にっぽんじん 論 ろん 』(1966年 ねん )の中 なか で、神風 かみかぜ 連 れん が西洋 せいよう 文明 ぶんめい に対抗 たいこう するため、電線 でんせん の下 した をくぐる時 とき は白扇 はくせん を頭 あたま に乗 の せたことや、彼 かれ らがあえて日本 にっぽん 刀 がたな だけで戦 たたか った魂 たましい の意味 いみ を語 かた っていた[25] [注釈 ちゅうしゃく 9] 。
三島 みしま の演説 えんぜつ をテレビで見 み ていた作家 さっか の野上 のかみ 弥生子 やよこ は、もしも自分 じぶん が母親 ははおや だったら「(マイクを)その場 ば に走 はし って届 とど けに行 い ってやりたかった」と語 かた っていたという[26] 。水木 みずき しげる は、『コミック昭和 しょうわ 史 し 』第 だい 8巻 かん (1989年 ねん )で、当時 とうじ の自衛 じえい 官 かん が演説 えんぜつ を聴 き かなかったことについて、「三島 みしま 由紀夫 ゆきお が武士 ぶし 道 どう を強調 きょうちょう しながら自衛隊 じえいたい 員 いん に相手 あいて にされなかったのは自衛隊 じえいたい 員 いん も豊 ゆた かな日本 にっぽん で個人 こじん 主義 しゅぎ 享楽 きょうらく 主義 しゅぎ の傾向 けいこう になっていたからだろう」としている[27] 。
事前 じぜん に三島 みしま の連絡 れんらく を受 う け、当日 とうじつ 朝 あさ 、11時 じ に市ヶ谷 いちがや 会館 かいかん に来 く るように指定 してい されていたサンデ さんで ー毎日 まいにち 記者 きしゃ ・徳岡 とくおか 孝夫 たかお とNHK記者 きしゃ ・伊達 だて 宗 そう 克 かつ は、楯 だて の会 かい 会員 かいいん ・田中 たなか 健一 けんいち を介 かい して三島 みしま の手紙 てがみ と檄文 げきぶん 、5人 にん の写真 しゃしん などが入 はい った封書 ふうしょ を渡 わた されていた[12] 。それは万 まん が一 いち 、警察 けいさつ から檄文 げきぶん が没収 ぼっしゅう され、事件 じけん が隠蔽 いんぺい された時 とき のことを惧れて託 たく されたものだった[12] 。徳岡 とくおか はそれを靴下 くつした の内側 うちがわ に隠 かく してバルコニー前 まえ まで走 はし り、演説 えんぜつ を聞 き いていた[12] 。
前庭 ぜんてい に駆 か けつけたテレビ関係 かんけい 者 しゃ などは、野次 やじ や騒音 そうおん で演説 えんぜつ はほとんど聞 き こえなかったと証言 しょうげん しているが、徳岡 とくおか 孝夫 たかお は、「聞 き く耳 みみ さえあれば聞 き こえた」「なぜ、もう少 すこ し心 しん を静 しず かにして聞 き かなかったのだろう」とし[12] 、「自分 じぶん たち記者 きしゃ らには演説 えんぜつ の声 こえ は比較的 ひかくてき よく聞 き こえており、テレビ関係 かんけい 者 しゃ とは聴 き く耳 みみ が違 ちが うのだろう」と語 かた っている[28] [注釈 ちゅうしゃく 10] 。
この演説 えんぜつ の全容 ぜんよう を録音 ろくおん できたのは文化放送 ぶんかほうそう だけだった。マイクを木 き の枝 えだ に括 くく り付 づ けて、飛 と び交 か う罵声 ばせい や報道 ほうどう ヘリコプターの騒音 そうおん の中 なか 、〈それでも武士 ぶし か〉と自衛 じえい 官 かん たちに向 む けて怒号 どごう を発 はっ する三島 みしま の声 こえ を良好 りょうこう に録音 ろくおん することに成功 せいこう し、スクープとなったという[12] [注釈 ちゅうしゃく 11] 。文化放送 ぶんかほうそう 報道 ほうどう 部 ぶ 監修 かんしゅう 『スクープ音声 おんせい が伝 つた えた戦後 せんご ニッポン』(2005年 ねん 、新潮社 しんちょうしゃ )の付属 ふぞく CDでこの演説 えんぜつ の肉声 にくせい を聴 き くことができる。
12時 じ 10分 ふん 頃 ごろ 、森田 もりた と共 とも にバルコニーから総監 そうかん 室 しつ に戻 もど った三島 みしま は、誰 だれ に言 い うともなく、「20分 ふん くらい話 はな したんだな、あれでは聞 き こえなかったな」とつぶやいた[29] 。そして益田 ますだ 総 そう 監 かん の前 まえ に立 た ち、「総監 そうかん には、恨 うら みはありません。自衛隊 じえいたい を天皇 てんのう にお返 かえ しするためです。こうするより仕方 しかた なかったのです」と話 はな しかけ、制服 せいふく のボタンを外 はず した[13] [29] [30] 。
三島 みしま は、小 しょう 賀 が が総 そう 監 かん に当 あ てていた短刀 たんとう を森田 もりた の手 て から受 う け取 と り、代 か わりに抜身 ぬきみ の日本 にっぽん 刀 がたな ・関 せき 孫 まご 六 ろく を森田 もりた に渡 わた した[13] 。そして、総 そう 監 かん から約 やく 3メートル離 はな れた赤 あか 絨毯 じゅうたん の上 うえ で上半身 じょうはんしん 裸 はだか になった三島 みしま は、バルコニーに向 む かうように正座 せいざ して短刀 たんとう を両手 りょうて に持 も ち[4] [30] 、森田 もりた に、「君 きみ はやめろ」と三 さん 言 こと ばかり殉死 じゅんし を思 おも いとどまらせようとした[10] [31] 。
割腹 かっぷく した血 ち で、“武 たけ ”と指 ゆび で色紙 いろがみ に書 か くことになっていたため、小 しょう 賀 が は色紙 いろがみ を差 さ し出 だ したが、三島 みしま は「もう、いいよ」と言 い って淋 さび しく笑 わら い、右腕 うわん につけていた高級 こうきゅう 腕時計 うでどけい を、「小 しょう 賀 が 、これをお前 まえ にやるよ」と渡 わた した[10] [18] 。そして、「うーん」という気合 きあ いを入 い れ、「ヤアッ」と両手 りょうて で左 ひだり 脇腹 わきばら に短刀 たんとう を突 つ き立 たて て、右 みぎ へ真一文字 まいちもんじ 作法 さほう で切腹 せっぷく した[6] [10] [29] 。
左 ひだり 後方 こうほう に立 た った介錯 かいしゃく 人 じん の森田 もりた は、次 つぎ に自身 じしん の切腹 せっぷく を控 ひか えていたためか、尊敬 そんけい する師 し へのためらいがあったのか、三島 みしま の頸部に二 に 太刀 たち を振 ふ り降 お ろしたが切断 せつだん が半 なか ばまでとなり、三島 みしま は静 しず かに前 まえ の方 ほう に傾 かたむ いた[6] [30] [32] 。まだ三島 みしま が生 い きているのを見 み た小 しょう 賀 が と古賀 こが が、「森田 もりた さんもう一 いち 太刀 たち 」「とどめを」と声 こえ をかけ、森田 もりた は三 さん 太刀 たち 目 め を振 ふ り降 お ろした[13] [30] [33] 。総 そう 監 かん は、「やめなさい」「介錯 かいしゃく するな、とどめを刺 さ すな」と叫 さけ んだ[30] [注釈 ちゅうしゃく 12] 。
介錯 かいしゃく がうまくいかなかった森田 もりた は、「浩 ひろし ちゃん頼 たの む」と刀 かたな を渡 わた し、古賀 こが が一 いち 太刀 たち 振 ふ るって頸部の皮 かわ 一 いち 枚 まい 残 のこ すという古式 こしき に則 のっと って切断 せつだん した[13] 。最後 さいご に小 しょう 賀 が が、三島 みしま の握 にぎ っていた短刀 たんとう を使 つか い首 くび の皮 かわ を胴体 どうたい から切 き り離 はな した[13] [33] [注釈 ちゅうしゃく 13] 。その間 あいだ 小川 おがわ は、三島 みしま らの自決 じけつ が自衛 じえい 官 かん らに邪魔 じゃま されないように正面 しょうめん 入口 いりくち 付近 ふきん で見張 みは りをしていた[7] 。
続 つづ いて森田 もりた も上着 うわぎ を脱 ぬ ぎ、三島 みしま の遺体 いたい と隣 とな り合 あ う位置 いち に正座 せいざ して切腹 せっぷく しながら、「まだまだ」「よし」と合図 あいず し、それを受 う けて、古賀 こが が一 いち 太刀 たち で介錯 かいしゃく した[29] 。その後 ご 、小 しょう 賀 が 、小川 おがわ 、古賀 こが の3人 にん は、三島 みしま 、森田 もりた の両 りょう 遺体 いたい を仰向 あおむ けに直 なお して制服 せいふく をかけ、両人 りょうにん の首 くび を並 なら べた[7] [29] 。総 そう 監 かん が「君 きみ たち、おまいりしたらどうか」「自首 じしゅ したらどうか」と声 こえ をかけた[30] 。
3人 にん は総 そう 監 かん の足 あし のロープを外 はず し、「三島 みしま 先生 せんせい の命令 めいれい で、あなたを自衛 じえい 官 かん に引 ひ き渡 わた すまで護衛 ごえい します」と言 い った。総 そう 監 かん が、「私 わたし はあばれない。手 て を縛 しば ったまま人 ひと さまの前 まえ に出 だ すのか」と言 い うと、3人 にん は素直 すなお に総 そう 監 かん の拘束 こうそく を全 すべ て解 と いた[30] 。三島 みしま と森田 もりた の首 くび の前 まえ で合掌 がっしょう し、黙 だま って涙 なみだ をこぼす3人 にん を見 み た総 そう 監 かん は、「もっと思 おも いきり泣 な け…」と言 い い、「自分 じぶん にも冥福 めいふく を祈 いの らせてくれ」と正座 せいざ して瞑目 めいもく 合掌 がっしょう した[29] 。
12時 じ 20分 ふん 過 す ぎ、総 そう 監 かん 室 しつ 正面 しょうめん 入口 いりくち から小川 おがわ と古賀 こが が総 そう 監 かん を両 りょう 脇 わき から支 ささ え、小 しょう 賀 が が日本 にっぽん 刀 がたな ・関 せき 孫 まご 六 ろく を持 も って廊下 ろうか に出 で て来 き た[7] [13] 。3人 にん は総 そう 監 かん を吉松 よしまつ 1佐 さ に引 ひ き渡 わた し、日本 にっぽん 刀 がたな も預 あづ け、その場 ば で牛込 うしごめ 警察 けいさつ 署 しょ 員 いん に現行 げんこう 犯 はん 逮捕 たいほ された[12] [13] 。警察 けいさつ の温情 おんじょう からか3人 にん に手錠 てじょう はかけられなかった[35] 。群 むら がる報道陣 ほうどうじん の待 ま ち受 う ける正面 しょうめん 玄関 げんかん からパトカーで連行 れんこう されて行 い く時 とき 、何人 なんにん かの自衛 じえい 官 かん が3人 にん の頭 あたま を殴 なぐ ったため、警察官 けいさつかん が「ばかやろう、何 なに をするか」と一喝 いっかつ して制 せい した[35] [36] 。
12時 じ 23分 ふん 、総 そう 監 かん 室内 しつない に入 はい った署長 しょちょう が2名 めい の死亡 しぼう を確認 かくにん した[16] 。「君 きみ は三島 みしま 由紀夫 ゆきお と親 した しいのだろ?すぐ行 い って説得 せっとく してやめさせろ」と土田 つちた 國保 くにやす 警備 けいび 部長 ぶちょう から指示 しじ を受 う けて、警務 けいむ 部 ぶ 参事官 さんじかん 兼 けん 人事 じんじ 第 だい 一 いち 課長 かちょう ・佐々淳行 さっさあつゆき が警視庁 けいしちょう から現場 げんば に駆 か けつけたが、三島 みしま の自決 じけつ までに間 ま に合 あ わなかった。佐々 ささ は、遺体 いたい と対面 たいめん しようと総監 そうかん 室 しつ に入 はい った時 とき の様子 ようす を「足元 あしもと の絨毯 じゅうたん がジュクッと音 おと を立 た てた。みると血 ち の海 うみ 。赤 あか 絨毯 じゅうたん だから見分 みわ けがつかなかったのだ。いまもあの不気味 ぶきみ な感触 かんしょく を覚 おぼ えている」と述懐 じゅっかい している[37] [38] 。
人質 ひとじち となった総 そう 監 かん はその後 ご 、「被告 ひこく たちに憎 にく いという気持 きも ちは当時 とうじ からなかった」とし、「国 くに を思 おも い、自衛隊 じえいたい を思 おも い、あれほどのことをやった純粋 じゅんすい な国 くに を思 おも う心 しん は、個人 こじん としては買 か ってあげたい。憎 にく いという気持 きも ちがないのは、純粋 じゅんすい な気持 きも ちを持 も っておられたからと思 おも う」と語 かた った[30] 。
現場 げんば の押収 おうしゅう 品 ひん の中 なか に、辞世 じせい の句 く が書 か かれた短冊 たんざく が6枚 まい あった。三島 みしま が2句 く 、森田 もりた が1句 く 、残 のこ りのメンバーも1句 く ずつあった[11] 。
益荒男 ますらお が たばさむ
太刀 たち の
鞘 さや 鳴 な りに
幾 いく とせ
耐 たい へて
今日 きょう の
初 はつ 霜 しも
散 ち るをいとふ
世 よ にも
人 ひと にも
先駆 さきが けて
散 ち るこそ
花 はな と
吹 ふ く
小 しょう 夜嵐 よあらし — 三島 みしま 由紀夫 ゆきお
今日 きょう にかけて かねて
誓 ちかい ひし
我 わ が
胸 むね の
思 おも ひを
知 し るは
野分 のわけ のみかは
— 森田 もりた 必勝 ひっしょう
火 ひ と
燃 もえ ゆる
大和 やまと 心 しん を はるかなる
大 おお みこころの
見 み そなはすまで
— 小 しょう 賀 が 正義 まさよし
獅子 しし となり
虎 とら となりても
国 くに のため ますらをぶりも
神 かみ のまにまに
— 古賀 こが 浩靖 ひろやす
三島 みしま 由紀夫 ゆきお (本名 ほんみょう ・平岡 ひらおか 公 こう 威 い )は享年 きょうねん 45。森田 もりた 必勝 ひっしょう は享年 きょうねん 25、自分 じぶん の名 な を「まさかつ 」でなく、「ひっしょう 」と呼 よ ぶことを好 この んだという[13] 。
市ヶ谷 いちがや 会館 かいかん の中 なか で、警察官 けいさつかん や機動 きどう 隊 たい の監視 かんし 下 か に置 お かれていた楯 だて の会 かい 会員 かいいん 30人 にん 中 ちゅう 、森田 もりた と同 おな じ班 はん の者 もの たちは事件 じけん を知 し って動揺 どうよう し、「(現場 げんば に)行 い かせろ」と激 はげ しく抵抗 ていこう して3名 めい が公務 こうむ 執行 しっこう 妨害 ぼうがい で逮捕 たいほ された[16] [20] 。会館 かいかん に残 のこ された会員 かいいん たちは、任意 にんい 同行 どうこう を求 もと められ、整列 せいれつ して「君 きみ が代 よ 」を斉唱 せいしょう した後 のち 、四谷 よつや 署 しょ に連 つ れて行 い かれた[16] 。
12時 じ 30分 ふん 過 す ぎ、総 そう 監 かん 部 ぶ 内 ない に設 もう けられた記者 きしゃ 会見 かいけん 場 じょう では、開口一番 かいこういちばん 、2人 ふたり が自決 じけつ した模様 もよう と伝 つた える警視庁 けいしちょう の係官 かかりかん と、矢継 やつ ぎ早 ばや に生死 せいし を質問 しつもん する新聞 しんぶん 記者 きしゃ たちとの興奮 こうふん したやり取 と りが交 か わされ始 はじ めた[16] 。2人 ふたり の首 くび がはねられたことを初 はじ めて知 し った記者 きしゃ たちの間 あいだ からは、うめき声 ごえ が洩 も れ、どよめきが広 ひろ がった[16] 。
吉松 よしまつ 1佐 さ も記者 きしゃ たちの前 まえ で一部始終 いちぶしじゅう を説明 せつめい した。切腹 せっぷく 、介錯 かいしゃく という信 しん じがたい状況 じょうきょう を記者 きしゃ たちは何 なん 度 ど も確認 かくにん し、「つまり首 くび と胴 どう が離 はな れたんですか」と1人 ひとり が大声 おおごえ で叫 さけ ぶように質問 しつもん すると、吉松 よしまつ 1佐 さ はそのままオウム返 がえ しで肯定 こうてい した[12] 。もはや聞 き くべきことがなくなった記者 きしゃ たちはそれぞれ足早 あしばや に外 そと へ散 ち っていった[12] 。
多方面 たほうめん で活躍 かつやく し、ノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう 候補 こうほ としても知 し られていた著名 ちょめい 作家 さっか のクーデター呼 よ びかけと割腹 かっぷく 自決 じけつ の衝撃 しょうげき のニュースは、国内外 こくないがい のテレビ・ラジオで一斉 いっせい に速報 そくほう で流 なが され、街 まち では号外 ごうがい が配 くば られた[10] [16] [20] [39] 。番組 ばんぐみ は急遽 きゅうきょ 、特別 とくべつ 番組 ばんぐみ に変更 へんこう され、文化 ぶんか 人 じん など識者 しきしゃ の電話 でんわ による討論 とうろん なども行 おこな われた[40] 。市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち の前 まえ には、9つあまりの右翼 うよく 団体 だんたい が続々 ぞくぞく と押 お し寄 よ せた[4] 。
12時 じ 30分 ふん から防衛庁 ぼうえいちょう で記者 きしゃ 会見 かいけん を開 ひら いた中曽根 なかそね 康弘 やすひろ 防衛庁 ぼうえいちょう 長官 ちょうかん は、事件 じけん を「非常 ひじょう に遺憾 いかん な事態 じたい 」とし、三島 みしま の行動 こうどう を「迷惑 めいわく 千 せん 万 まん 」「民主 みんしゅ 的 てき 秩序 ちつじょ を破壊 はかい する」ものと批判 ひはん した。官邸 かんてい でニュースを知 し った佐藤 さとう 栄作 えいさく 首相 しゅしょう も記者 きしゃ 団 だん に囲 かこ まれ、「気 き が狂 くる ったとしか思 おも えない。常軌 じょうき を逸 いっ している」とコメントした[12] [40] 。両人 りょうにん はそれまで、三島 みしま の自衛隊 じえいたい 体験 たいけん 入隊 にゅうたい を自衛隊 じえいたい PRの好 こう 材料 ざいりょう として好意 こうい 的 てき に見 み ていたが、事件 じけん 後 ご は政治 せいじ 家 か としての立場 たちば で発言 はつげん した[41] 。なお、佐藤 さとう 首相 しゅしょう はこの日 ひ の日記 にっき に「(事件 じけん を起 お こした)この連中 れんちゅう は楯 だて の会 かい 三島 みしま 由紀夫 ゆきお その他 た ときいて驚 おどろ くのみ。気 き が狂 くる ったとしか考 かんが へられぬ。詳報 しょうほう を受 う けて愈々 いよいよ 判 わか らぬ事 こと ばかり。(中略 ちゅうりゃく )立派 りっぱ な死 し に方 かた だが、場所 ばしょ と方法 ほうほう は許 ゆる されぬ。惜 お しい人 ひと だが、乱暴 らんぼう はなんといっても許 ゆる されぬ」と困惑 こんわく している旨 むね を書 か き残 のこ している[42] 。一方 いっぽう 、中曽根 なかそね は後 のち に『私 わたし の履歴 りれき 書 しょ 』で「私 わたし は、これは美学 びがく 上 じょう の事件 じけん でも芸術 げいじゅつ 的 てき な殉教 じゅんきょう でもなく、時代 じだい への憤死 ふんし であり、思想 しそう 上 じょう の諌死 かんし だったのだろうと思 おも った。が、菜根 さいこん 譚 たん にあるように『操守 そうしゅ は厳 いむ 明 あきら なるべく、しかも激烈 げきれつ なるべからず』であり、個人 こじん 的 てき な感慨 かんがい にふけっているときではなかった」としている[43] 。
釈放 しゃくほう された益田 ますだ 総 そう 監 かん が自衛 じえい 官 かん たちの前 まえ に姿 すがた を現 あらわ し、「ご迷惑 めいわく かけたが私 わたし はこの通 とお り元気 げんき だ。心配 しんぱい しないでほしい」と左手 ひだりて を高 たか く振 ふ って挨拶 あいさつ すると、「いーぞ、いーぞ」「よーし、がんばった」などの声援 せいえん が上 あ がり、拍手 はくしゅ が湧 わ いた[9] 。その場 ば で取材 しゅざい していた東京 とうきょう 新聞 しんぶん の記者 きしゃ は、その光景 こうけい になんとも我慢 がまん できないものを感 かん じたとし、その「軍隊 ぐんたい 」らしくない集団 しゅうだん の態度 たいど への違和感 いわかん を新聞 しんぶん コラムに綴 つづ った[9] 。
三島 みしま の
自決 じけつ に
対 たい する
追悼 ついとう ではもちろんない。
民主 みんしゅ 主義 しゅぎ に
挑戦 ちょうせん した
三島 みしま らの
行動 こうどう を
非難 ひなん し、
平和 へいわ 国家 こっか の
軍隊 ぐんたい に
徹 てっ するという
決意 けつい の
拍手 はくしゅ でもない。いってみれば、
暴漢 ぼうかん の
監禁 かんきん から
脱出 だっしゅつ してきた“
社長 しゃちょう ”へのねぎらいであり、
サラリーマン の
団結 だんけつ 心 しん といったところだろうか。
残 のこ された
隊員 たいいん へ、マイクで
指示 しじ が
出 で た。「みなさんは
勤務 きんむ に
服 ふく してください。どうぞ、そうしてください」と
哀願 あいがん 調 ちょう 、
隊員 たいいん はいっこうに
立 た ち
去 さ りそうもない。(
中略 ちゅうりゃく )はからずも
露呈 ろてい した
自衛隊 じえいたい のサラリーマン
的 てき 結束 けっそく と
無秩序 むちつじょ 状態 じょうたい 。
— 東京 とうきょう 新聞 しんぶん コラム(昭和 しょうわ 45年 ねん 11月25日 にち )[9]
テレビの正午 しょうご のニュースで息子 むすこ の事件 じけん を知 し り注視 ちゅうし していた三島 みしま の父 ちち ・平岡 ひらおか 梓 あずさ は、速報 そくほう のテロップで流 なが れた「介錯 かいしゃく 」「死亡 しぼう 」の字 じ を「介抱 かいほう 」と見 み 間違 まちが え、なぜ介抱 かいほう されたのに死 し んだのだろうと医者 いしゃ を恨 うら み動転 どうてん していた[44] 。そのうち、外出 がいしゅつ 先 さき で事態 じたい を知 し った母 はは ・倭文 しず 重 おも や妻 つま ・瑤子 ようこ が緊急 きんきゅう 帰宅 きたく し、一家 いっか は「青天 せいてん の霹靂 へきれき 」の混乱 こんらん 状態 じょうたい となった[44] 。
13時 じ 20分 ふん 頃 ごろ 、三島 みしま と親 した しい川端 かわばた 康成 やすなり が総 そう 監 かん 部 ぶ に駆 か けつけたが、警察 けいさつ の現場 げんば 検証 けんしょう 中 ちゅう で総監 そうかん 室 しつ には近 ちか づけなかった[45] 。呆然 ぼうぜん と憔悴 しょうすい した面持 おもも ちの川端 かわばた は報道陣 ほうどうじん に囲 かこ まれ、「ただ驚 おどろ くばかりです。こんなことは想像 そうぞう もしなかった――もったいない死 し に方 かた をしたものです」と答 こた えた[46] 。石原 いしはら 慎太郎 しんたろう (当時 とうじ 参議院 さんぎいん 議員 ぎいん )も現場 げんば を訪 おとず れたが、入室 にゅうしつ はしなかったという[47] 。石原 いしはら は集 あつ まった記者 きしゃ 団 だん に対 たい して「現代 げんだい の狂気 きょうき としかいいようがない」、「ただ若 わか い命 いのち をかけた行動 こうどう としては、あまりにも、実 みの りないことだった」とコメントしている[48] 。
14時 じ 、警視庁 けいしちょう は牛込 うしごめ 警察 けいさつ 署 しょ 内 うち に、「楯 だて の会 かい 自衛隊 じえいたい 侵入 しんにゅう 不法 ふほう 監禁 かんきん 割腹 かっぷく 自殺 じさつ 事件 じけん 特別 とくべつ 捜査 そうさ 本部 ほんぶ 」を設置 せっち した[9] 。自衛隊 じえいたい の最高 さいこう 幹部 かんぶ の1人 ひとり は、「三島 みしま の自決 じけつ を知 し ったあとの隊員 たいいん たちの反応 はんのう はガラリと変 かわ った。だれもが、ことばを濁 にご し、複雑 ふくざつ な表情 ひょうじょう でおし黙 だま ったまま、放心 ほうしん したようであった。まさか自決 じけつ するとは思 おも っていなかったのだろう。その衝撃 しょうげき は、大 おお きいようだ」とこの日 ひ の感想 かんそう を結 むす んだ[9] 。
演説 えんぜつ を見 み ていたK陸 りく 曹も、「割腹 かっぷく 自決 じけつ と聞 き いて、その場 ば に1時 じ 間 あいだ ほど我 が を忘 わす れて立 た ち尽 つ くした」と言葉少 ことばすく なに語 かた り、幕僚 ばくりょう 3佐 さ のTも、「まさか、死 し ぬとは! すごいショックだ。自分 じぶん もずっと演説 えんぜつ を聞 き いていたが、若 わか い隊員 たいいん の野次 やじ でほとんどき取 きと れなかった。死 し を賭 か けた言葉 ことば なら静 しず かに聞 き いてやればよかった」という談話 だんわ を述 の べた[9] 。
17時 じ 15分 ふん 、三島 みしま と森田 もりた の首 くび は検視 けんし のため一 ひと つずつビニール袋 ぶくろ に入 い れられ、胴体 どうたい は柩 ひつぎ に収 おさ められて、市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち を出 で て牛込 うしごめ 署 しょ に移送 いそう され、遺体 いたい は署 しょ 内 ない に安置 あんち された[10] [49] 。署 しょ には民族 みんぞく 派 は 学生 がくせい たち右翼 うよく 団体 だんたい が弔問 ちょうもん に訪 おとず れ、仮 かり の祭壇 さいだん が設 もう けられたが、すぐに撤去 てっきょ された[4] [49] 。
22時 じ 過 す ぎ、警視庁 けいしちょう は三島 みしま 邸 てい や森田 もりた のアパートの家宅 かたく 捜索 そうさく を開始 かいし し、三島 みしま の家 いえ は、翌日 よくじつ の午前 ごぜん 4時 じ 頃 ごろ まで捜索 そうさく された[49] [50] 。三島 みしま 邸 てい の閉 と ざされた門 もん の前 まえ の路上 ろじょう には、多 おお くの報道陣 ほうどうじん が密集 みっしゅう し、その後方 こうほう には、三島 みしま ファンの女学生 じょがくせい が肩 かた を抱 だ き合 あ い泣 な く姿 すがた が見 み られ、詰襟 つめえり の学生 がくせい 服 ふく を着 き た民族 みんぞく 派 は 学生 がくせい の一団 いちだん が直立 ちょくりつ 不動 ふどう の姿勢 しせい で頬 ほお を濡 ぬ らし、嗚咽 おえつ をこらえて長 なが い時間 じかん 立 た っていたという[9] 。
翌日 よくじつ の11月26日 にち の午前 ごぜん 11時 じ 20分 ふん から13時 じ 25分 ふん まで、慶応義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 病院 びょういん 法医学 ほういがく 解剖 かいぼう 室 しつ にて、三島 みしま の遺体 いたい を斎藤 さいとう 銀次 ぎんじ 郎 ろう 教授 きょうじゅ 、森田 もりた の遺体 いたい を船尾 せんび 忠孝 ちゅうこう 教授 きょうじゅ が解剖 かいぼう 執刀 しっとう した。その検視 けんし によると、2人 ふたり の死因 しいん は、「頸部割 わり 創 そう による離 はなれ 断 だん 」で、以下 いか の所見 しょけん となった[12] [34] [51] 。
三島 みしま 由紀夫 ゆきお :
頸部は3回 かい は切 き りかけており、7センチ、6センチ、4センチ、3センチの切 き り口 くち がある。右肩 みぎかた に刀 かたな がはずれたと見 み られる11.5センチの切 せつな 創 そう 、左 ひだり アゴ下 か に小 ちい さな刃 は こぼれ。腹部 ふくぶ はヘソを中心 ちゅうしん に右 みぎ へ5.5センチ、左 ひだり へ8.5センチの切 せつな 創 そう 、深 ふか さ4センチ。左 さ は小腸 しょうちょう に達 たっ し、左 ひだり から右 みぎ へ真一文字 まいちもんじ 。身長 しんちょう 163センチ。45歳 さい だが30歳 さい 代 だい の発達 はったつ した若々 わかわか しい筋肉 きんにく 。脳 のう の重 おも さ1440グラム。血液 けつえき A型 がた 。
森田 もりた 必勝 ひっしょう :
第 だい 3頸椎と
第 だい 4頸椎の
中 なか 間 あいだ を
一刀 いっとう のもとに
切 き り
落 お としている。
腹部 ふくぶ の
傷 きず は
左 ひだり から
右 みぎ に
水平 すいへい 、ヘソの
左 ひだり 7センチ、
深 ふか さ4センチの
傷 きず 、そこから
右 みぎ へ5.4センチの
浅 あさ い
切 せつな 創 そう 、ヘソの
右 みぎ 5センチに
切 きり 創 そう 。
右肩 みぎかた に0.5センチの
小 ちい さな
傷 きず 。
身長 しんちょう 167センチ。
若 わか いきれいな
体 からだ 。
— 解剖 かいぼう 所見 しょけん (昭和 しょうわ 45年 ねん 11月26日 にち )
三島 みしま は、小腸 しょうちょう が50センチほど外 そと に出 で るほどの堂々 どうどう とした切腹 せっぷく だったという[6] 。また一 いち 太刀 たち が顎 あご に当 あ たり大 だい 臼歯 きゅうし が砕 くだ け、舌 した を噛 か み切 き ろうとしていたとされる[6] 。
介錯 かいしゃく に使 つか われた日本 にっぽん 刀 がたな ・関 せき 孫 まご 六 ろく は、警察 けいさつ の検分 けんぶん によると、介錯 かいしゃく の衝撃 しょうげき で真中 まんなか より先 さき がS字 じ 型 がた に曲 ま がっていた[10] [34] 。また、刀身 とうしん が抜 ぬ けないように目釘 めくぎ の両 りょう 端 はし を潰 つぶ してあるのを、関 せき 孫 まご 六 ろく の贈 おく り主 おも である渋谷 しぶや の大盛 おおもり 堂 どう 書店 しょてん 社長 しゃちょう ・舩坂弘 ひろし が牛込 うしごめ 警察 けいさつ 署 しょ で確認 かくにん した[44] [52] 。
刀剣 とうけん 鑑定 かんてい の専門 せんもん 家 か ・渡部 わたなべ 真 しん 吾 われ 樹 じゅ は、この刀 かたな の刀 かたな 紋 もん は「三本杉 さんぼんすぎ 」でなく、「互の目 め 乱 みだ れ」だとし、刀 かたな の地 ち もかなり柔 やわ らかく、関 せき 孫 まご 六 ろく の鍛 きた え方 かた とは違 ちが うと鑑定 かんてい した[53] 。他 ほか にも、この刀 かたな が本物 ほんもの の関 せき 孫六 まごろく ではないとする専門 せんもん 家 か の断言 だんげん や、刀 かたな の出所 しゅっしょ 調査 ちょうさ もあり、三島 みしま が贋物 にせもの をつかまされていたという説 せつ は根強 ねづよ くある[54] 。
小 しょう 賀 が 正義 まさよし 、小川 おがわ 正洋 まさひろ 、古賀 こが 浩靖 ひろやす の所持 しょじ 品 ひん には、三島 みしま が3名 めい に渡 わた した「命令 めいれい 書 しょ 」と現金 げんきん 3万 まん 円 えん ずつ(弁護士 べんごし 費用 ひよう )、特殊 とくしゅ 警棒 けいぼう 各自 かくじ 1本 ほん ずつ、登山 とざん ナイフ などがあった[34] 。小 しょう 賀 が への命令 めいれい 書 しょ には主 おも に、以下 いか の文言 もんごん が書 か かれてあった。
君 きみ の
任務 にんむ は
同志 どうし 古賀 こが 浩靖 ひろやす 君 くん とともに
人質 ひとじち を
護送 ごそう し、これを
安全 あんぜん に
引 ひ き
渡 わた したるのち、いさぎよく
縛 ばく に
就 つ き、
楯 だて の
会 かい の
精神 せいしん を
堂々 どうどう と
法廷 ほうてい において
陳述 ちんじゅつ することである。
今回 こんかい の
事件 じけん は
楯 だて の
会 かい 隊長 たいちょう たる
三島 みしま が
計画 けいかく 、
立案 りつあん 、
命令 めいれい し、
学生 がくせい 長 ちょう 森田 もりた 必勝 ひっしょう が
参画 さんかく したるものである。
三島 みしま の
自刃 じじん は
隊長 たいちょう としての
責任 せきにん 上 じょう 当然 とうぜん のことなるも、
森田 もりた 必勝 ひっしょう の
自刃 じじん は
自 みずか ら
進 すす んで
楯 だて の
会 かい 全 ぜん 会員 かいいん および
現下 げんか 日本 にっぽん の
憂国 ゆうこく の
志 こころざし を
抱 いだ く
青年 せいねん 層 そう を
代表 だいひょう して、
身 み 自 みずか ら
範 はん をたれて
青年 せいねん の
心意気 こころいき を
示 しめ さんとする
鬼神 きじん を
哭 な かしむる
凛 りん 烈 れつ の
行為 こうい である。
三島 みしま はともあれ
森田 もりた の
精神 せいしん を
後世 こうせい に
向 こう かつて恢弘せよ。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「命令 めいれい 書 しょ 」[55]
小 しょう 賀 が 正義 まさよし 、小川 おがわ 正洋 まさひろ 、古賀 こが 浩靖 ひろやす の3名 めい は、嘱託 しょくたく 殺人 さつじん 、不法 ふほう 監禁 かんきん 、傷害 しょうがい 、暴力 ぼうりょく 行為 こうい 、建造 けんぞう 物 ぶつ 侵入 しんにゅう 、銃刀 じゅうとう 法 ほう 違反 いはん の6つの容疑 ようぎ で、11月27日 にち に送検 そうけん され[4] [49] 、その後 ご 12月 がつ 17日 にち に、嘱託 しょくたく 殺人 さつじん 、傷害 しょうがい 、監禁 かんきん 致傷 ちしょう 、暴力 ぼうりょく 行為 こうい 、職務 しょくむ 強要 きょうよう の5つの罪 つみ で起訴 きそ された[49] 。
事件 じけん 翌日 よくじつ 11月 がつ 26日 にち の総 そう 監 かん 室 しつ の前 まえ には、誰 だれ がたむけたのか菊 きく の花束 はなたば がそっと置 お かれていたが、ものの1時 じ 間 あいだ とたたぬうちに幹部 かんぶ の手 て によって片 かた づけられた[56] 。その後 ご 、東京 とうきょう および近郊 きんこう に在 ざい 隊 たい する陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 内 ない で行 おこな われたアンケート(無 む 差別 さべつ 抽出 ちゅうしゅつ 1000名 めい )によると、大 だい 部分 ぶぶん の隊員 たいいん が、「檄 げき の考 かんが え方 かた に共鳴 きょうめい する」という答 こたえ であった。一部 いちぶ には、「大 おお いに共鳴 きょうめい した」という答 こたえ もあり、防衛庁 ぼうえいちょう をあわてさせたという[56] 。
三島 みしま と対談 たいだん したことのある防衛大学校 ぼうえいだいがくこう 長 ちょう ・猪木 いのき 正道 せいどう は、三島 みしま の「檄 げき 」を、「公共 こうきょう の秩序 ちつじょ を守 まも るための治安 ちあん 出動 しゅつどう を公共 こうきょう の秩序 ちつじょ を破壊 はかい するためのクーデター に転化 てんか する不逞 ふてい の思想 しそう であり、これほど自衛隊 じえいたい を侮辱 ぶじょく する考 かんが え方 かた はない」と批判 ひはん した[57] 。
その後 ご 、三島 みしま と楯 だて の会 かい が体験 たいけん 入隊 にゅうたい していた陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう 滝ヶ原 たきがはら 駐屯 ちゅうとん 地 ち には、第 だい 2中隊 ちゅうたい 隊舎 たいしゃ 前 まえ に追悼 ついとう 碑 ひ がひっそりと建立 こんりゅう された[41] [58] 。碑 いしぶみ には、「深 ふか き夜 よる に 暁 あかつき 告 つげ ぐる くたかけの 若 わか きを率 ひきい てぞ 越 こし ゆる峯 みね 々 公 おおやけ 威 い 書 しょ 」という三島 みしま の句 く が刻 きざ まれた[41] [58] 。
警察 けいさつ が、三島 みしま と知 し り合 あ った自衛隊 じえいたい の若 わか い幹部 かんぶ に事情 じじょう 聴取 ちょうしゅ すると、三島 みしま に共鳴 きょうめい し真剣 しんけん に日本 にっぽん の防衛 ぼうえい 問題 もんだい を考 かんが えている者 もの が予想 よそう 以上 いじょう に多 おお かったという[59] 。楯 だて の会 かい にゲリラ戦略 せんりゃく の講義 こうぎ などをしていた山本 やまもと 舜 しゅん 勝 かち 1佐 さ も事情 じじょう 聴取 ちょうしゅ されたが、警察 けいさつ 当局 とうきょく は事件 じけん を単 たん なる暴徒 ぼうと 乱入 らんにゅう 事件 じけん という形 かたち で処理 しょり する方針 ほうしん となっていたため、山本 やまもと 1佐 さ は法廷 ほうてい までは呼 よ ばれなかった[59] [注釈 ちゅうしゃく 14] 。
12月22日 にち 、東部 とうぶ 方面 ほうめん 総監 そうかん ・益田 ますだ 兼 けん 利 り 陸 りく 将 すすむ が事件 じけん の全 ぜん 責任 せきにん をとって辞職 じしょく した[49] 。この際 さい 、益田 ますだ 総 そう 監 かん と中曽根 なかそね 康弘 やすひろ 防衛庁 ぼうえいちょう 長官 ちょうかん が談判 だんぱん したが、その時 とき の記録 きろく テープには、中曽根 なかそね が「俺 おれ には将来 しょうらい がある。総 そう 監 かん は位 くらい 人臣 じんしん を極 きわ めたのだから全 ぜん 責任 せきにん を取 と れば一 いち 件 けん 落着 らくちゃく だ」「東部 とうぶ 方面 ほうめん 総監 そうかん の俸給 ほうきゅう を2号俸 ごうほう 上 あ げるから…」(これは退職 たいしょく 金 きん 計算 けいさん の基礎 きそ 額 がく を増 ふ やし、退職 たいしょく 金 きん を増 ふ やすという意味 いみ )と打診 だしん していたくだりがあるとされる[15] 。
三島 みしま 事件 じけん の被害 ひがい 者 しゃ の1人 ひとり である寺尾 てらお 克美 かつみ 3佐 さ は、このテープを聞 き いて「腸 ちょう が煮 に えくり」かえり、それまで尊敬 そんけい していた中曽根 なかそね を、「こういう男 おとこ かと嘆 なげ かわしく思 おも った」としている[15] [注釈 ちゅうしゃく 15] 。
事件 じけん から3年 ねん 後 ご の1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん )秋 あき から、自衛 じえい 官 かん 用 よう の服務 ふくむ の宣誓 せんせい 文 ぶん に「日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 及 およ び法令 ほうれい を遵守 じゅんしゅ し」という文言 もんごん を防衛庁 ぼうえいちょう 内局 ないきょく が挿入 そうにゅう した[35] 。この文言 もんごん は、それまで国家 こっか 公務員 こうむいん (警察官 けいさつかん 他 た )の宣誓 せんせい 文 ぶん だけに書 か かれ、自衛 じえい 官 かん の宣誓 せんせい 文 ぶん に「憲法 けんぽう 遵守 じゅんしゅ 」を入 い れるのは躊躇 ちゅうちょ されていたが(憲法 けんぽう 第 だい 9条 じょう を素読 そどく すれば自衛隊 じえいたい の存在 そんざい が違憲 いけん と捉 とら えることが可能 かのう なため[35] )、三島 みしま 事件 じけん で自衛隊 じえいたい が全 まった くの安全 あんぜん 人畜 じんちく 無害 むがい な組織 そしき であることが明瞭 めいりょう となったため(誰 だれ 1人 ひとり としてこの文言 もんごん を入 い れても将校 しょうこう が反抗 はんこう しないと判断 はんだん したため[35] )、挿入 そうにゅう することになった[35] 。
事件 じけん に対 たい する主要 しゅよう な新聞 しんぶん 各紙 かくし の論調 ろんちょう は、読売新聞 よみうりしんぶん 、朝日新聞 あさひしんぶん 、毎日新聞 まいにちしんぶん 、がほぼ一様 いちよう に、当日 とうじつ の中曽根 なかそね 康弘 やすひろ 防衛庁 ぼうえいちょう 長官 ちょうかん や佐藤 さとう 栄作 えいさく 首相 しゅしょう のコメントを踏襲 とうしゅう するような論調 ろんちょう で、三島 みしま の行動 こうどう を、狂気 きょうき の暴走 ぼうそう と捉 とら え、反 はん 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 的 てき な行動 こうどう は断 だん じて許 ゆる されないという主旨 しゅし のものであった[16] [39] [40] 。
朝日新聞 あさひしんぶん の社説 しゃせつ は、三島 みしま の行動 こうどう を支配 しはい していたものは「政治 せいじ 的 てき な思考 しこう より、その強烈 きょうれつ で、特異 とくい な美意識 びいしき 」だろうとした上 うえ で、「彼 かれ の哲学 てつがく がどのようなものであるか理解 りかい できたとしても、その行動 こうどう は決 けっ して許 ゆる されるべきではない」と批判 ひはん した[61] 。毎日新聞 まいにちしんぶん の社説 しゃせつ でも、「まったく狂気 きょうき の沙汰 さた というよりほかない」とした上 うえ で、「(三島 みしま の)思想 しそう がいかに純粋 じゅんすい で、それなりの価値 かち を持 も つものであろうと、正当 せいとう なルールによらない、反 はん 民主 みんしゅ 的 てき な行動 こうどう は断 だん じて許 ゆる されない」と纏 まと められた[62] 。
アメリカのクリスチャン・サイエンス・モニター の社説 しゃせつ は、「三島 みしま の自決 じけつ を日本 にっぽん 軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 復活 ふっかつ のきざしとみなすことはむずかしい。それにもかかわらず、三島 みしま 自決 じけつ の意味 いみ はよく検討 けんとう するに値 あたい するほど重大 じゅうだい である」と論 ろん じ[63] 、イギリスのフィナンシャル・タイムズ は、「たとえ気違 きちが いだろうと正気 しょうき だろうと、彼 かれ (三島 みしま )の示 しめ した手本 てほん は、日本 にっぽん の少数 しょうすう の若者 わかもの たちにとって、現在 げんざい 、将来 しょうらい を通 つう じ、強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく を持 も つことになるだろう」とした[63] 。
ドイツ のディ・ヴェルト は、「詩人 しじん 精神 せいしん の純粋 じゅんすい さに殉 じゅん じてハラキリを行 おこな う」と報 ほう じた[63] 。フランス のレクスプレスは、「憂 うれ うべき日本 にっぽん の現状 げんじょう を昔 むかし に戻 もど せと唱 とな えて割腹 かっぷく した」と報 ほう じ、ル・モンド は、「三島 みしま の自刃 じじん は偽善 ぎぜん を告発 こくはつ するためのものである」と論 ろん じた[63] 。
オーストラリア のフィナンシャル・レビュー は、「三島 みしま の死 し を、日本 にっぽん に多 おお い超 ちょう 国家 こっか 主義 しゅぎ や暴力団 ぼうりょくだん と結 むす びつけるのは、単 たん に三島 みしま に対 たい する誤解 ごかい のみならず、近代 きんだい 日本 にっぽん に対 たい する誤解 ごかい でもある」として、「伝統 でんとう 的 てき 文化 ぶんか と近代 きんだい 社会 しゃかい の間 あいだ にある構造 こうぞう 的 てき な相剋 そうこく の中 なか に、真 しん の美 び を追求 ついきゅう し、死 し にまで至 いた った彼 かれ の悲劇 ひげき は、彼 かれ 自身 じしん の作品 さくひん のように完璧 かんぺき な域 いき にまで構成 こうせい されている」と論 ろん じた[63] 。
ワシントン からは、「軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 復活 ふっかつ の恐 おそ れ」、ロンドン からは「右翼 うよく を刺激 しげき することが心配 しんぱい 」、パリ からは「知名 ちめい 人 じん の行動 こうどう に驚 おどろ き」といった打電 だでん だった[39] 。
ヘンリー・ミラー は、「三島 みしま は高度 こうど の知性 ちせい に恵 めぐ まれていた。その三島 みしま ともあろう人 じん が、大衆 たいしゅう の心 しん を変 か えようと試 こころ みても無駄 むだ だということを認識 にんしき していなかったのだろうか」と問 と いかけ、以下 いか のように語 かた った[64] 。
かつて
大衆 たいしゅう の
意識 いしき 変革 へんかく に
成功 せいこう した
人 ひと はひとりもいない。
アレキサンドロス 大王 だいおう も、
ナポレオン も、
仏陀 ぶっだ も、
イエス も、
ソクラテス も、
マルキオン も、その
他 た ぼくの
知 し るかぎりだれひとりとして、それには
成功 せいこう しなかった。
人類 じんるい の
大 だい 多数 たすう は
惰眠 だみん を
貪 むさぼ っている。あらゆる
歴史 れきし を
通 つう じて
眠 ねむ ってきたし、おそらく
原子 げんし 爆 ばく 弾 だん が
人類 じんるい を
全滅 ぜんめつ させるときにもまだ
眠 ねむ ったままだろう。(
中略 ちゅうりゃく )
彼 かれ らを
目 め ざめさせることはできない。
大衆 たいしゅう にむかって、
知的 ちてき に、
平和 へいわ 的 てき に、
美 うつく しく
生 い きよと
命 めい じても、
無駄 むだ に
終 おわ るだけだ。
— ヘンリー・ミラー「特別 とくべつ 寄稿 きこう 」[64]
ヘンリー・スコット=ストークス は、三島 みしま を「日本人 にっぽんじん のうちでは最 もっと も重要 じゅうよう な人物 じんぶつ 」とし、それまで自民党 じみんとう の幹部 かんぶ たちが私的 してき な場所 ばしょ でだけ意見 いけん 交換 こうかん していた国防 こくぼう 問題 もんだい ・政治 せいじ 論争 ろんそう のすべてを、敢然 かんぜん として「公開 こうかい の席 せき に持 も ちだした」ことで注目 ちゅうもく に値 あたい するとして、なぜ、それが今 いま まで日本 にっぽん の職業 しょくぎょう 政治 せいじ 家 か たちに出来 でき なかったのかと指摘 してき した[65] 。
(
日本 にっぽん は)
国防 こくぼう の
問題 もんだい を
トランプ 遊 あそ びか
ポーカー の
勝負 しょうぶ をやっているかのように
議論 ぎろん する
国 くに である――を、
認識 にんしき できる
人 ひと はほとんどあるまい。(
中略 ちゅうりゃく )
外国 がいこく 人 じん は
日本 にっぽん で
自由 じゆう な
選挙 せんきょ が
行 おこ なわれ、それに
過剰 かじょう 気味 ぎみ なくらいおびただしい
世論 せろん 調査 ちょうさ と
言論 げんろん の
自由 じゆう があるという
事実 じじつ こそが、
日本 にっぽん に
民主 みんしゅ 主義 しゅぎ のあることを
物語 ものがた っていると
頭 あたま から
信 しん じこんでいる。
三島 みしま は
日本 にっぽん における
基本 きほん 的 てき な
政治 せいじ 論争 ろんそう に
現実 げんじつ 性 せい が
欠 か けていること、ならびに
日本 にっぽん の
民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 原則 げんそく の
特殊 とくしゅ 性 せい について、
注意 ちゅうい を
喚起 かんき したのである。
— ヘンリー・スコット=ストークス「ミシマは偉大 いだい だったか」[65]
エドワード・G・サイデンステッカー は、新聞 しんぶん 記者 きしゃ らから「三島 みしま の行動 こうどう が日本 にっぽん の軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 復活 ふっかつ と関係 かんけい あるか」と問 と われ、直感 ちょっかん 的 てき に「ノー」と答 こた えた理由 りゆう を以下 いか のようにコメントした[66] 。
たぶん、いつの
日 ひ か、
国 くに が
平和 へいわ とか、
国民総生産 こくみんそうせいさん とか、そんなものすべてに
飽 あ きあきしたとき、
彼 かれ は
新 あたら しい
国家 こっか 意識 いしき の
守護神 しゅごじん と
目 め されるだろう。いまになってわれわれは、
彼 かれ が
何 なに をしようと
志 こころざ していたかを、きわめて
早 はや くからわれわれに
告 つ げていて、それを
成 な し
遂 と げたことを
知 し ることができる。
三島 みしま の
生涯 しょうがい はある
意味 いみ で
シュバイツァー 的 てき 生涯 しょうがい だった。
— エドワード・G・サイデンステッカー「時事 じじ 評論 ひょうろん 」[66]
ドナルド・キーン は、「私 わたし は佐藤 さとう 首相 しゅしょう が三島 みしま の行動 こうどう を狂気 きょうき と言 い ったのが間違 まちが いであることを知 し っている。それ(三島 みしま の行動 こうどう )は論理 ろんり 的 てき に構成 こうせい された不可避 ふかひ のものであった。(中略 ちゅうりゃく )世界 せかい は大 だい 作家 さっか を失 うしな ったのである」と語 かた った[67] 。
三島 みしま と討論 とうろん 会 かい を行 おこ なったことのある東大 とうだい 全共闘 ぜんきょうとう は、駒場 こまば キャンパスで「三島 みしま 由紀夫 ゆきお 追悼 ついとう 」の垂 た れ幕 まく で弔意 ちょうい を示 しめ し、京都大学 きょうとだいがく などでも、「悼 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 割腹 かっぷく 」の垂 た れ幕 まく で追悼 ついとう した[16] [51] 。
京都大学 きょうとだいがく パルチザン 指揮 しき 者 しゃ の滝田 たきた 修 おさむ は、「われわれ左翼 さよく の思想 しそう 的 てき 敗退 はいたい です。あそこまでからだを張 は れる人間 にんげん をわれわれは一人 ひとり も持 も っていなかった。動転 どうてん したね。新 しん 左翼 さよく の側 がわ にも何人 なんにん もの"三 さん 島 とう "を作 つく られねばならん」とコメントした[16] [51] 。
新 しん 左翼 さよく 有力 ゆうりょく 党派 とうは の幹部 かんぶ は、三島 みしま と自分 じぶん たちの違 ちが いを強調 きょうちょう し、「われわれは三島 みしま の“死 し の美学 びがく ”に対 たい して、“生 なま の哲学 てつがく ”でいきます。死 し ねば何 なに かができるというものではないですから。でも死 し ぬことを避 さ けるというのではありませんよ。われわれが死 し ぬときは、殺 ころ されて死 し ぬのです」と語 かた った[16] 。
三島 みしま と近 ちか しかった友人 ゆうじん や同 おな じ思想 しそう の系譜 けいふ に連 つら なる作家 さっか や評論 ひょうろん 家 か らは、三島 みしま 事件 じけん の意味 いみ を「諌死 かんし 」と捉 とら えた[16] 。三島 みしま と異 こと なる思想 しそう 傾向 けいこう の作家 さっか らも、三島 みしま が思想 しそう を超 こ え、公平 こうへい な審美 しんび 眼 め で文芸 ぶんげい 批評 ひひょう をしていたことに対 たい する畏敬 いけい の念 ねん から、現場 げんば での川端 かわばた 康成 やすなり のコメントのように、その稀有 けう な才能 さいのう の喪失 そうしつ を純粋 じゅんすい に惜 お しむ声 こえ が多 おお かった[16] [40] 。その一方 いっぽう 、あくまでも思想 しそう 的 てき 反対 はんたい や反 はん 天皇 てんのう の姿勢 しせい から、三島 みしま の行動 こうどう を「錯誤 さくご の愚行 ぐこう 」と批判 ひはん する山田 やまだ 宗睦 むねちか などの評論 ひょうろん 家 か や[68] 、軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 化 か を警戒 けいかい する野間 のま 宏 ひろし のような、当時 とうじ の「戦後 せんご 文化 ぶんか 人 じん 」の一般 いっぱん 的 てき 意見 いけん を反映 はんえい するものも多 おお かった[16] [69] 。
司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう は、三島 みしま の「薄 うす よごれた模倣 もほう 者 しゃ 」が出 で ることを危惧 きぐ し、三島 みしま の死 し は文学 ぶんがく 論 ろん のカテゴリーに留 と めるべきものという主旨 しゅし で、政治 せいじ 的 てき な意味 いみ を持 も たせることに反対 はんたい し、野次 やじ った自衛 じえい 官 かん たちの大衆 たいしゅう 感覚 かんかく の方 ほう を正常 せいじょう で健康 けんこう なものとした[70] [注釈 ちゅうしゃく 16] 。
柴田 しばた 翔 しょう は、「直感 ちょっかん 的 てき にナルシズムを感 かん じて腹 はら が立 た った」、「若 わか い人 ひと たち、特 とく に新 しん 左翼 さよく の人 ひと たちには、動揺 どうよう などしないでほしい。死 し の哲学 てつがく による自己 じこ 破壊 はかい が大事 だいじ なのか、人間 にんげん として生 い き続 つづ けることが大事 だいじ なのか、自分 じぶん の原理 げんり がどちらにあるのか、互 たが いによく踏 ふ みとどまって考 かんが えなければならない時 とき だろう」と語 かた った[71] [注釈 ちゅうしゃく 17] 。
中野 なかの 重治 しげはる は、「佐藤 さとう も中曽根 なかそね も、こんどの『楯 だて の会 かい 』を前髪 まえがみ でつかんだ」とし、三島 みしま 事件 じけん を「狂気 きょうき 」化 か することにより、逆 ぎゃく に自衛隊 じえいたい が合理 ごうり 的 てき 理性 りせい 的 てき なもの、市民 しみん 的 てき 常識 じょうしき に違反 いはん しない非 ひ 暴力 ぼうりょく 集団 しゅうだん かのような印象 いんしょう を社会 しゃかい に喧伝 けんでん する機会 きかい として政治 せいじ 家 か が利用 りよう したと批判 ひはん した[73] 。
小林 こばやし 秀雄 ひでお は、「右翼 うよく といふやうな党派 とうは 性 せい は、あの人 ひと (三島 みしま )の精神 せいしん には全 まった く関係 かんけい がないのに、事件 じけん がさういふ言葉 ことば を誘 さそ ふ。事件 じけん が事故 じこ 並 な みに物的 ぶってき に見 み られるから、これに冠 かんむり せる言葉 ことば も物的 ぶってき に扱はれる」とし、事件 じけん について様々 さまざま な「講釈 こうしゃく 」を垂 しだ れ批判 ひはん する人間 にんげん には、「事件 じけん を抽象 ちゅうしょう 的 てき 事件 じけん として感受 かんじゅ し直 ちょく 知 ち する事 こと 」が容易 ようい でないとした[74] 。
実 じつ は
皆 みな 知 し らず
知 し らずのうちに
事件 じけん を
事故 じこ 並 な みに
物的 ぶってき に扱つてゐるといふ
事 こと があると
思 おも ふ。
事件 じけん が、わが
国 くに の
歴史 れきし とか
伝統 でんとう とかいふ
問題 もんだい に
深 ふか く
関係 かんけい してゐる
事 こと は
言 げん ふまでもないが、それにしたつて、この
事件 じけん の
象徴 しょうちょう 性 せい とは、この
文学 ぶんがく 者 しゃ の
自分 じぶん だけが
責任 せきにん を
背負 せおい ひ
込 こ んだ
個性 こせい 的 てき な
歴史 れきし 経験 けいけん の
創 つく り
出 だ したものだ。さうでなければ、どうして
確 たし かに
他人 たにん であり、
孤独 こどく でもある
私 わたし を
動 うご かす
力 ちから が、それに備つてゐるだらうか。
— 小林 こばやし 秀雄 ひでお 「感想 かんそう 」[74]
村松 むらまつ 剛 つよし は、作家 さっか としての地位 ちい も家族 かぞく にも恵 めぐ まれ、生 い きていれば、いずれノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう を受賞 じゅしょう する可能 かのう 性 せい が大 おお いにあった三島 みしま が、その全 すべ てを押 お し切 き って行動 こうどう した意義 いぎ を、「〈昭和 しょうわ 元禄 げんろく 〉への死 し を以 もっ てする警告 けいこく 」とし[75] 、林 はやし 房雄 ふさお も追悼 ついとう 集会 しゅうかい で、三島 みしま が、自衛隊 じえいたい を本来 ほんらい の「名誉 めいよ ある国軍 こくぐん 」に帰 かえ れと呼 よ びかけ、「死 し をもって反省 はんせい を促 うなが した」諌死 かんし だとした[16] 。
橋川 はしかわ 文三 ぶんぞう は、三島 みしま の戦前 せんぜん からの精神 せいしん 史 し を踏 ふ まえた上 うえ で、三島 みしま の「狂 くる い死 し 」を、高山 たかやま 彦九郎 ひこくろう 、神 かみ 風連 ふうれん 、横山 よこやま 安武 やすたけ 、相沢 あいざわ 三郎 さぶろう や、「無名 むめい のテロリスト」の朝日 あさひ 平吾 へいご や中岡 なかおか 艮 うしとら 一 いち と同 おな じように位置 いち づけた[76] 。少年 しょうねん 時代 じだい の三島 みしま に影響 えいきょう を与 あた えた保田 やすだ 與重郎 よじゅうろう は、「森田 もりた 青年 せいねん の刃 は が、自他 じた 再度 さいど ともためらつたといふ検証 けんしょう は、心 しん の美 うつく しさの証 あかし である。やさしいと思 おも ふゆゑにさらにかなしい」[77] 、「三島 みしま 氏 し は人 ひと を殺 ころ さず、自分 じぶん が死 し ぬことに精魂 せいこん をこらす精密 せいみつ の段 だん どりをつけたのである」と哀悼 あいとう し以下 いか のように語 かた った[78] 。
怖 こわ れた
者 もの は
狂 きょう と
云 うん ひ、
不安 ふあん の
者 もの は暴といひ、またゆきづまりといひ、
壁 かべ に
頭 あたま を
自 みずか らうちつけたものといつたりしてゐる。
想像 そうぞう や
比較 ひかく を
絶 たや した
事件 じけん として、
国 くに 中 ちゅう のみならず
世界 せかい に
怖 こわ ろしい
血 ち なまぐさい
衝動 しょうどう を
与 あずか へた
点 てん 、
近来 きんらい の
歴史 れきし 上 じょう 類例 るいれい がない。その
特異 とくい を
識別 しきべつ することは
怖 こわ れをともなふ
故 ゆえ に、それを
無意識 むいしき にさけて、
政論 せいろん 的 てき 類型 るいけい 的 てき に
判断 はんだん する
者 もの は、
特異 とくい のふくんでゐる
創造 そうぞう 性 せい や
未来 みらい 性 せい や
革命 かくめい 性 せい に
恐 おそ れる、
現状 げんじょう の
自己 じこ 保全 ほぜん に
処世 しょせい してゐる
者 もの らである。
創造 そうぞう 性 せい 以下 いか のことばは、
イデオロギー や
所謂 いわゆる 思想 しそう と
無縁 むえん の
人 ひと の
生命 せいめい の
威力 いりょく そのものである。
— 保田 やすだ 與重郎 よじゅうろう 「天 てん の時雨 しぐれ 」[78]
高橋 たかはし 和巳 かずみ は、三島 みしま と思想 しそう 的 てき 立場 たちば は違 ちが いながらも、「悪 あ しき味方 みかた よりも果敢 かかん なる敵 てき の死 し はいっそう悲 かな しい」、「もし三島 みしま 由紀夫 ゆきお 氏 し の霊 れい にして耳 みみ あるなら、聞 き け。高橋 たかはし 和巳 かずみ が〈醢 ひしお をくつがえして哭 な いている〉その声 こえ を」と哀悼 あいとう した[79] 。武田 たけだ 泰淳 たいじゅん は、「私 わたし と彼 かれ とは文体 ぶんたい もちがい、政治 せいじ 思想 しそう も逆 ぎゃく でしたが、私 わたし は彼 かれ の動機 どうき の純粋 じゅんすい 性 せい を一 いち 回 かい も疑 うたが ったことはありません」とコメントし[80] 、大岡 おおおか 昇平 しょうへい は、「ほかにやり方 かた はなかったものか。……なぜこの才能 さいのう が破壊 はかい されねばならなかったのか」と無念 むねん さを表明 ひょうめい した[81] 。
倉橋 くらはし 由美子 ゆみこ は、三島 みしま の行動 こうどう や死 し を非難 ひなん したり否定 ひてい したりするのに躍起 やっき になっている人間 にんげん たち(おもに同 どう 業者 ぎょうしゃ の作家 さっか )を、恐怖 きょうふ が大 おお きすぎて吠 ほ えることしかできない弱 よわ い犬 いぬ に喩 たと え、彼 かれ らの言葉 ことば は「自己 じこ 防衛 ぼうえい 」のための喋 しゃべ りであり、人 ひと として生 い き続 つづ けることが大事 だいじ だとかのその物言 ものい いは、自分 じぶん の欲 ほっ するように死 し ぬことのできた天才 てんさい にとっては「ほとんど耳 みみ を籍 せき すに足 た らぬ言葉 ことば 」だと述 の べている[82] 。また、もっと生 い きていればもっといい仕事 しごと ができたのにとか、あるいは、文学 ぶんがく の仕事 しごと に行 い き詰 づ まってああした行動 こうどう に走 はし ったという説 せつ を唱 とな えたりする作家 さっか に対 たい しては、自分 じぶん たちが作家 さっか ・文学 ぶんがく 者 しゃ であることが特別 とくべつ な資格 しかく や存在 そんざい でもあるかのような(すべて文学 ぶんがく のためにあるかのような)物言 ものい いをしているとし、「三島 みしま 氏 し が同 どう 業者 ぎょうしゃ たちとのおつきあいにつくづく厭 いや 気 き がさしていた気持 きもち 」がよく分 わ かると語 かた っている[82] 。
ひとつの
稀有 けう な
文才 ぶんさい の
消滅 しょうめつ を
惜 お しむのはよいが、
生 い きていればまだよい
作品 さくひん が
書 か けたのにといういいかたには、
金 かね の
卵 たまご を
生 う む
鶏 にわとり の
死 し を
惜 お しむのに
似 に たけち
臭 くさ さがある。
三島 みしま 氏 し の
作品 さくひん がもっと
多 おお ければそれだけ
日本 にっぽん の
文化 ぶんか 遺産 いさん だか
何 なに だかのの
量 りょう がふえるのに、というのがそもそも
俗悪 ぞくあく な
考 かんが えかたなので、
三島 みしま 氏 し がその
行動 こうどう によって
示 しめ したのが、
文化 ぶんか とはどういうものであるかということなのだった。
— 倉橋 くらはし 由美子 ゆみこ 「英雄 えいゆう の死 し 」[82]
中井 なかい 英夫 ひでお は、三島 みしま の死 し を短絡 たんらく 的 てき に異常 いじょう 者 しゃ 扱 あつか いする風潮 ふうちょう を批判 ひはん し、「ただ劣等 れっとう 感 かん の裏返 うらがえ しぐらいのことで片 かた づけてしまえる粗雑 そざつ な神経 しんけい と浅薄 せんばく な思考 しこう が、こうも幅 はば を利 き かす時代 じだい なのか」と嘆 なげ いた[83] 。森 もり 茉莉 まり は、「首相 しゅしょう や長官 ちょうかん が、三島 みしま 由紀夫 ゆきお の自刃 じじん を狂気 きょうき の沙汰 さた だと言 い っているが、私 わたし は気 き ちがいはどっちだ、と言 い いたい」として、以下 いか のように語 かた った[84] 。
現在 げんざい 、
日本 にっぽん は、
外国 がいこく から
一 いち 人前 にんまえ の
国家 こっか として
扱 あつか われていない。
国家 こっか も、
人間 にんげん も、その
威 い が
行 おこな われていることで、はじめて
国家 こっか であったり、
人間 にんげん であったりするのであって、
何 なん の
交渉 こうしょう においても、
外国 がいこく から、
既 すで に、
尊敬 そんけい ある
扱 あつか いをうけていない
日本 にっぽん は、
存在 そんざい していないのと
同 おな じである。(
中略 ちゅうりゃく )
滑稽 こっけい な
日本人 にっぽんじん の
状態 じょうたい を、
悲憤 ひふん する
人間 にんげん と、そんな
状態 じょうたい を、
鈍 にぶ い
神経 しんけい で
受 う けとめ、
長閑 のどか な
笑 わら いを
浮 うか べている
人間 にんげん と、どっちが
狂気 きょうき か? このごろの
日本 にっぽん の
状態 じょうたい に
平然 へいぜん としていられる
神経 しんけい を、
普通 ふつう の
人間 にんげん の
神経 しんけい であるとは、
私 わたし には
考 かんが えられない。
— 森 もり 茉莉 まり 「気 き ちがいはどっち?」[84]
石川 いしかわ 淳 あつし は、〈天皇 てんのう を中心 ちゅうしん とする日本 にっぽん の歴史 れきし ・文化 ぶんか ・伝統 でんとう を守 まも る[22] 〉主義 しゅぎ の三島 みしま が、「武士 ぶし 」という強 つよ い観念 かんねん を持 も ちながら剣術 けんじゅつ を始 はじ め、〈能動 のうどう 的 てき ニヒリズム[85] 〉の根元 ねもと である陽明学 ようめいがく という行動 こうどう 哲学 てつがく (知行 ちぎょう 合一 ごういつ の行動 こうどう により万物 ばんぶつ 創造 そうぞう の源 みなもと である「太虚 たいきょ 」に帰 き する「帰 かえり 太虚 たいきょ 」の考 かんが え)を持 も ったことが決定的 けっていてき であり、〈ムダを承知 しょうち 〉の死 し への〈跳躍 ちょうやく 〉となったのは、楯 だて の会 かい という「集団 しゅうだん の組織 そしき 」の一員 いちいん となり「錬成 れんせい の形式 けいしき 」を取 と ったことが大 おお きいとし、「もはやたかが思想 しそう とはいえない。すでにして、思想 しそう は信念 しんねん であって、組織 そしき は微小 びしょう にしても、ともかく現実 げんじつ にはたらきかける力 ちから であった」と捉 とら えつつ、最期 さいご に残 のこ された『檄 げき 』にみられる「信念 しんねん の炎 ほのお 」は「戦中 せんちゅう の少年 しょうねん のすがたに跳 は ねかへつたかのやう」で、これを引 ひ き止 と めるような全 すべ ての歯止 はど めは断 た ち切 き られたのだろうとしている[86] 。そして石川 いしかわ は、自身 じしん は三島 みしま のように天皇 てんのう 中心 ちゅうしん 主義 しゅぎ を「絶対 ぜったい 不変 ふへん 」のものとする思想 しそう ではないものの、「いのちの水 みず のあふれる壺 つぼ 」(肉体 にくたい )の中 なか の〈ニヒリズム〉が「太虚 たいきょ 」へと飛 と び立 た っていった場所 ばしょ が、「武士 ぶし 」でない「サラリーマン」がたむろする「役所 やくしょ の屋上 おくじょう 」であったことを憐 あわ れみ、屋上 おくじょう と塀 へい 外 がい のあいだに断絶 だんぜつ があっても「精神 せいしん 上 じょう の事件 じけん であつたことは一 いち 点 てん のうたがひもない」と述 の べ[86] 、すでに三島 みしま の精神 せいしん が「太虚 たいきょ 」に帰 かえ した後 のち に様々 さまざま な「思想 しそう 屋 や の惰夫」が「思想 しそう の符号 ふごう の正 せい か負 まけ かに拘泥 こうでい してつべこべ」と論 ろん ずることを難 なん じ[86] 、三島 みしま が熊野 くまの 神社 じんじゃ の神輿 しんよ 担 かつ ぎの最中 さいちゅう に見 み た〈青空 あおぞら 〉を「三島 みしま 君 くん の〈肉体 にくたい 〉の戦利 せんり 品 ひん 」だと評価 ひょうか した自身 じしん の4月 がつ の時評 じひょう [87] を重 かさ ねながら以下 いか のように追悼 ついとう した[86] 。
三島 みしま 君 くん はわたしのくみしがたい「
中心 ちゅうしん 」
思想 しそう に
立 た ちながらも、その
行動 こうどう 哲学 てつがく をもつて、
大塩 おおしお 平八郎 へいはちろう の乱 らん から
学生 がくせい の
運動 うんどう にまでわたつて、
敵 てき をもふくめた
広 ひろ いところに
単身 たんしん よく
著 しる 眼 め の
筋 すじ を
通 とお してゐた。
さきに
四 よん 月 がつ のこの
欄 らん に、「
太陽 たいよう と鉄 てつ 」について
書 か いたとき、わたしは
三島 みしま 君 くん がミコシをかついで「
青空 あおぞら 」を
見 み たくだりを
引 ひ いて、その「
青空 あおぞら 」に
感動 かんどう したといつた。
今 いま 、
三島 みしま 君 くん は
文学 ぶんがく の
場 ば を
去 さ つて、
剣 けん といふ
道具 どうぐ を
取 と り、それをもつておのれの
身 み を
刺 さ したが、この
道具 どうぐ はものをいはないから、
当人 とうにん が
末期 まっき の
目 め になにを
見 み たか、こちら
側 がわ につたへて
来 く るたよりはない。
三島 みしま 君 くん の
小説 しょうせつ の
中 なか では、
腹 はら を
切 せつ つたものが「
日輪 にちりん 」を
見 み ることになつてゐるが、それから
類推 るいすい もできない。すべてこれ
虚妄 きょもう と
観 かん ずるか。わたしもまた
発 はっ するにことばなく、
感動 かんどう は
深 ふか く
沈 しず むばかりである。
— 石川 いしかわ 淳 あつし 「認識 にんしき から行動 こうどう への跳躍 ちょうやく 」[86]
吉本 よしもと 隆明 たかあき は、三島 みしま と同 おな じ戦中 せんちゅう 戦後 せんご を通 とお った世代 せだい の人間 にんげん として、事件 じけん の衝撃 しょうげき を自身 じしん への問 と いとして語 かた った[88] 。
三島 みしま 由紀夫 ゆきお の
劇的 げきてき な
割腹 かっぷく 死 し ・
介錯 かいしゃく による
首 くび はね。これは
衝撃 しょうげき である。この
自 じ 死 し の
方法 ほうほう は、いくぶんか
生 い きているものすべてを〈コケ〉にみせるだけの
迫力 はくりょく をもっている。この
自 じ 死 し の
方法 ほうほう の
凄 すさ まじさと、
悲惨 ひさん なばかりの〈
檄文 げきぶん 〉や〈
辞世 じせい 〉の
歌 うた の
下 くだ らなさ、
政治 せいじ 的 てき 行為 こうい としての
見当 けんとう 外 はず れの
愚劣 ぐれつ さ、
自 じ 死 し にいたる
過程 かてい を、あらかじめテレビカメラに
映写 えいしゃ させるような
所 ところ にあらわれている
大向 おおむこ うむけの〈
醒 さ めた
計算 けいさん 〉の
仕方 しかた 等々 とうとう の
奇妙 きみょう な
アマルガム が、
衝撃 しょうげき に
色彩 しきさい をあたえている。そして
問 と いはここ
数 すう 年来 ねんらい 三島 みしま 由紀夫 ゆきお にいだいていたのとおなじようにわたしにのこる。〈どこまで
本気 ほんき なのかね〉。つまり、わたしにはいちばん
判 わか りにくいところでかれは
死 し んでいる。この
問 と いにたいして
三島 みしま の
自 じ 死 し の
方法 ほうほう の
凄 すさ まじさだけが
答 こた えになっている。そしてこの
答 こたえ は
一瞬 いっしゅん 〈おまえはなにをしてきたのか!〉と
迫 せま るだけの
力 ちから をわたしに
対 たい してもっている。
— 吉本 よしもと 隆明 たかあき 「情況 じょうきょう への発言 はつげん ――暫定 ざんてい 的 てき メモ」[88]
磯田 いそだ 光一 こういち は、三島 みしま 事件 じけん は、死後 しご に浴 あ びせられる様々 さまざま な罵詈 ばり 雑言 ぞうごん や批判 ひはん を知 し った上 うえ の行為 こうい であり、「戦後 せんご 」という「ストイシズムを失 うしな った現実 げんじつ 社会 しゃかい そのものに、徹底 てってい した復讐 ふくしゅう をすること」だったとし、三島 みしま にとって天皇 てんのう とは、「存在 そんざい しえないがゆえに存在 そんざい しなければならない何 なに ものか」で、「“絶対 ぜったい ”への渇 かわ きの喚 よ び求 もと めた極限 きょくげん のヴィジョン」だと捉 とら えた[89] 。
たとえこのたびの
事件 じけん が、
社会 しゃかい 的 てき になんらかの
影響 えいきょう をもつとしても、
生者 しょうじゃ が
死者 ししゃ の
霊 れい を
愚弄 ぐろう していいという
根拠 こんきょ にはなりえない。また
三島 みしま 氏 し の
行為 こうい が、あらゆる
批評 ひひょう を
予測 よそく し、それを
承知 しょうち した
上 うえ での
決断 けつだん によるかぎり、
三島 みしま 氏 し の
死 し はすべての
批評 ひひょう を
相対 そうたい 化 か しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる
批評 ひひょう を
峻拒 しゅんきょ する
行為 こうい 、あるいは
批評 ひひょう そのものが
否応 いやおう なしに
批評 ひひょう されてしまうという
性格 せいかく のものである。
三島 みしま 氏 し の
文学 ぶんがく と
思想 しそう を
貫 つらぬ くもの、 それは
美的 びてき 生死 せいし への
渇 かわ きと、
地上 ちじょう のすべてを
空 そら 無 む 化 か しようという、すさまじい
悪意 あくい のようなものである。
— 磯田 いそだ 光一 こういち 「太陽 たいよう 神 しん と鉄 てつ の悪意 あくい 」[89]
谷口 たにぐち 雅春 まさはる (生長 せいちょう の家 いえ 創始 そうし 者 しゃ )は、明治 めいじ 憲法 けんぽう 復元 ふくげん を唱 とな え、その著書 ちょしょ 『占領 せんりょう 憲法 けんぽう 下 か の日本 にっぽん 』において、三島 みしま に序文 じょぶん の寄稿 きこう を依頼 いらい している[90] 。また、事件 じけん に参加 さんか した古賀 こが 浩靖 ひろやす と小 しょう 賀 が 正義 せいぎ が生長 せいちょう の家 いえ の会員 かいいん であり、三島 みしま が事件 じけん 直前 ちょくぜん の11月22日 にち (谷口 たにぐち 雅春 まさはる の誕生 たんじょう 日 び に当 あ たる)に谷口 たにぐち 宅 たく と教団 きょうだん 本部 ほんぶ に会 あ いたい旨 むね の電話 でんわ を入 い れている。面会 めんかい が叶 かな わず「ただ一人 ひとり 、谷口 たにぐち 先生 せんせい だけは自分 じぶん 達 たち の行為 こうい の意義 いぎ を知 し ってくれると思 おも う」と遺言 ゆいごん を残 のこ したとされる[91] 。谷口 たにぐち は後 のち に『愛国 あいこく は生 なま と死 し を超 こ えて―三島 みしま 由紀夫 ゆきお の行動 こうどう の哲学 てつがく 』を上梓 じょうし し「この谷口 たにぐち だけは死 し のあの行為 こうい の意義 いぎ を知 し っていてくれるだろうと、決行 けっこう を伴 とも にした青年 せいねん たちに遺言 ゆいごん のように言 い われたことを考 かんが えると、三島 みしま 氏 し のあの自刃 じじん が如何 いか なる精神 せいしん 的 てき 過程 かてい で行 おこな われ、如何 いか なる意義 いぎ をもつものであるかについて、私 わたし が理解 りかい し得 え ただけのことを三島 みしま 氏 し の霊前 れいぜん に献 けんじ げて、氏 し の霊 れい の満足 まんぞく を願 ねが うことが私 わたし に負 お わされた義務 ぎむ のような気 き もするのである」と述 の べ、三島 みしま の自刃 じじん がクーデターではなく、後世 こうせい の人々 ひとびと の為 ため の自決 じけつ であり、吉田 よしだ 松陰 しょういん の処刑 しょけい された日 ひ (旧暦 きゅうれき の10月 がつ 27日 にち は西暦 せいれき の11月25日 にち に当 あ たる)に合 あ わせて計画 けいかく したものであると語 かた っている[91] 。
当時 とうじ の新聞 しんぶん 、テレビなど報道 ほうどう 機関 きかん がこの事件 じけん を報 ほう じる際 さい 、三島 みしま の名前 なまえ を呼 よ び捨 す て にしたことが議論 ぎろん の的 まと になった[92] 。生前 せいぜん には「三島 みしま 先生 せんせい 」という呼 よ び方 かた をしていた人 ひと たちが急 きゅう に「三島 みしま 」と呼 よ び捨 す てしはじめたことに違和感 いわかん があったとする声 こえ がある[93] [94] 。島内 とうない 景 けい 二 に は日本 にっぽん 社会 しゃかい が晩年 ばんねん の三島 みしま を「奇人 きじん 変人 へんじん 」扱 こ いし、事件 じけん 後 ご にはNHKですら呼 よ び捨 す てにすることで「犯罪 はんざい 者 しゃ 」扱 あつか いしていたとする[95] 。
事件 じけん 翌日 よくじつ の11月26日 にち 、慶応義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 病院 びょういん で解剖 かいぼう を終 お えた2遺体 いたい は、首 くび と胴体 どうたい をきれいに縫合 ぬいあわ された。午後 ごご 3時 じ 前 まえ に死体 したい 安置 あんち 室 しつ において、三島 みしま の遺体 いたい は弟 おとうと ・千 せん 之 これ に引 ひ き渡 わた され、森田 もりた の遺体 いたい は兄 あに ・治 ち に引 ひ き渡 わた された[44] [49] 。森田 もりた の方 ほう は、そのまますぐに渋谷 しぶや 区 く 代々木 よよぎ の火葬 かそう 場 じょう で荼毘 だび に付 ふ された[49] 。弟 おとうと の死顔 しにがお は、安 やす らかに眠 ねむ っているようだったと治 ち は述懐 じゅっかい している[96] 。
15時 じ 30分 ふん 過 す ぎ、病院 びょういん からパトカーの先導 せんどう で三島 みしま の遺体 いたい が自宅 じたく へ運 はこ ばれた。父 ちち ・梓 あずさ は息子 むすこ がどんな変 か わり果 は てた姿 すがた になっているだろうと恐 おそ れ、棺 かん を覗 のぞ いたが、三島 みしま が伊沢 いさわ 甲子 きのえね 麿 まろ に託 たく した遺言 ゆいごん により、楯 だて の会 かい の制服 せいふく が着 き せられ軍刀 ぐんとう が胸 むね のあたりでしっかり握 にぎ りしめられ、遺体 いたい の顔 かお もまるで生 い きているようであった[44] [97] 。これは警察官 けいさつかん たちが、「自分 じぶん たちが普段 ふだん から蔭 かげ ながら尊敬 そんけい している先生 せんせい の御 ご 遺体 いたい だから、特別 とくべつ の気持 きもち で丹念 たんねん に化粧 けしょう しました」と施 ほどこ したものだった[44] [注釈 ちゅうしゃく 18] 。
密葬 みっそう には親族 しんぞく のほか、川端 かわばた 康成 やすなり 、伊沢 いさわ 甲子 きのえね 麿 まろ 、村松 むらまつ 剛 つよし 、松浦 まつうら 竹夫 たけお 、大岡 おおおか 昇平 しょうへい 、石原 いしはら 慎太郎 しんたろう 、村上 むらかみ 兵衛 ひょうえ 、堤 つつみ 清二 せいじ 、増田 ますだ 貴光 たかみつ 、徳岡 とくおか 孝夫 たかお などが弔問 ちょうもん に訪 おとず れた[39] [49] [99] 。三島 みしま 邸 てい の庭 にわ のアポロンの立像 りつぞう の脚 あし 元 もと には、30本 ほん あまりの真紅 しんく の薔薇 ばら が外 そと から投 な げ入 い れられていた[99] [注釈 ちゅうしゃく 19] 。愛用 あいよう の原稿 げんこう 用紙 ようし と万年筆 まんねんひつ が棺 かん に納 おさ められ、16時 じ 過 す ぎに出棺 しゅっかん となった。その時 とき に母 はは ・倭文 しず 重 おも は指 ゆび で柩 ひつぎ の顔 かお のあたりを撫 な でて、「公 おおやけ 威 たけし さん、さようなら」と言 い った[98] [注釈 ちゅうしゃく 20] 。三島 みしま の遺体 いたい は品川 しながわ 区 く の桐 きり ヶ谷 たに 斎場 さいじょう で18時 じ 10分 ふん に荼毘 だび に付 ふ された[44] [101] 。
森田 もりた の通夜 つや も18時 じ 過 す ぎに、楯 だて の会 かい 会員 かいいん によって代々木 よよぎ の聖徳 せいとく 山 さん 諦聴寺 たいちょうじ で営 いとな まれた。森田 もりた の戒名 かいみょう は「慈照院 いん 釈 しゃく 真 しん 徹 とおる 必勝 ひっしょう 居士 こじ 」[51] [96] 。この時 とき に、三島 みしま が楯 だて の会 かい 会員 かいいん 一同 いちどう へ宛 あ てた遺書 いしょ が皆 みな に回 まわ し読 よ みされた[102] 。三重 みえ 県 けん 四日市 よっかいち 市 し の実家 じっか での通夜 つや は、翌日 よくじつ 11月 がつ 27日 にち 、葬儀 そうぎ は11月28日 にち にカトリック 信者 しんじゃ の兄 あに ・治 ち の希望 きぼう により海 うみ の星 ほし カトリック教会 きょうかい で営 いとな まれ、16時 じ 頃 ごろ に納骨 のうこつ された。三島 みしま 家 か からは弟 おとうと ・千 せん 之 これ が出席 しゅっせき した[49] 。
11月30日 にち 、三島 みしま の自宅 じたく で初 はつ 七 なな 日 にち の法要 ほうよう が営 いとな まれた。三島 みしま は両親 りょうしん への遺言 ゆいごん に、「自分 じぶん の葬式 そうしき は必 かなら ず神 かみ 式 しき で、ただし平岡 ひらおか 家 か としての式 しき は仏 ふつ 式 しき でもよい」としていた[44] 。戒名 かいみょう については「必 かなら ず〈武 たけ 〉の字 じ を入 い れてもらいたい。〈文 ぶん 〉の字 じ は不要 ふよう である」と遺言 ゆいごん していたが、遺族 いぞく は「文人 ぶんじん として育 そだ って来 き たのだから」という思 おも いで、〈武 たけ 〉の字 じ の下 した に〈文 ぶん 〉の字 じ も入 い れることし、「彰 あきら 武 たけ 院 いん 文 ぶん 鑑 かん 公 こう 威 い 居士 こじ 」となった[44] 。
12月11日 にち 、「三島 みしま 由紀夫 ゆきお 氏 し 追悼 ついとう の夕 ゆう べ」が、林 はやし 房雄 ふさお を発起人 ほっきにん 総代 そうだい とした実行 じっこう 委員 いいん 会 かい により、池袋 いけぶくろ の豊島 としま 公会堂 こうかいどう で行 おこな われた。これが後 のち に毎年 まいとし 恒例 こうれい となる「憂国 ゆうこく 忌 き 」の母胎 ぼたい である[103] 。司会 しかい は川内 かわうち 康範 やすのり と藤島 ふじしま 泰 やすし 輔 、実行 じっこう 委員 いいん は日本 にっぽん 学生 がくせい 同盟 どうめい などの民族 みんぞく 派 は 学生 がくせい で、集 あつ まった人々 ひとびと は3000人 にん 以上 いじょう となった(主催 しゅさい 者 しゃ 発表 はっぴょう は5000人 にん )。会場 かいじょう に入 はい りきれず、近 ちか くの中 ちゅう 池袋 いけぶくろ 公園 こうえん にも人 ひと が集 あつ まった[49] [103] 。
三島 みしま 由紀夫 ゆきお の墓 はか
翌年 よくねん 1971年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )1月 がつ 12日 にち 、平岡 ひらおか 家 か で49日 にち の法要 ほうよう が営 いとな まれた。大阪 おおさか のサンケイホール では、林 はやし 房雄 ふさお ら10名 めい を発起人 ほっきにん とした「三島 みしま 由紀夫 ゆきお 氏 し を偲 しの ぶつどひ」が催 もよお され、約 やく 2000人 にん が集 あつ まった[104] 。1月13日 にち は、負傷 ふしょう した自衛 じえい 官 かん たちへ三島 みしま 夫人 ふじん ・瑤子 ようこ がお詫 わ びの挨拶 あいさつ 回 まわ りに来 き た[15] [104] 。
1月 がつ 14日 にち 、三島 みしま の誕生 たんじょう 日 び でもあるこの日 ひ 、府中 ふちゅう 市 し 多磨 たま 霊園 れいえん の平岡 ひらおか 家 か 墓地 ぼち (10区 く 1種 しゅ 13側 がわ 32番 ばん )に遺骨 いこつ が埋葬 まいそう された[44] [104] 。自決 じけつ 日 び の49日 にち 後 ご が誕生 たんじょう 日 び であることから、三島 みしま が転生 てんせい のための中有 ちゅうう の期間 きかん を定 さだ めたのではないかという説 せつ もある[105] 。
1月 がつ 24日 にち 、13時 じ から築地 つきじ 本願寺 ほんがんじ で葬儀 そうぎ 、告別 こくべつ 式 しき が営 いとな まれた。喪主 もしゅ は妻 つま ・平岡 ひらおか 瑤子 ようこ 、葬儀 そうぎ 委員 いいん 長 ちょう は川端 かわばた 康成 やすなり 、司会 しかい は村松 むらまつ 剛 つよし 。三島 みしま の親族 しんぞく 約 やく 100名 めい 、森田 もりた の遺族 いぞく 、楯 だて の会 かい 会員 かいいん とその家族 かぞく 、三島 みしま の知人 ちじん ら、そして一般 いっぱん 参列 さんれつ 者 しゃ のうち先着 せんちゃく 180名 めい が列席 れっせき した[104] 。安達 あだち 瞳子 とうこ のデザイン制作 せいさく により、黒 くろ のスポーツシャツ姿 すがた の三島 みしま の遺影 いえい を中心 ちゅうしん に、黒 くろ 布 ぬの の背景 はいけい に白菊 しらぎく で作 つく った大小 だいしょう 7個 こ の花 はな 玉 だま が飾 かざ られた簡素 かんそ な祭壇 さいだん が設 もう けられた[104] 。
弔辞 ちょうじ は舟橋 ふなばし 聖一 せいいち (持病 じびょう のため途中 とちゅう から北条 ほうじょう 誠 まこと が代読 だいどく )、武田 たけだ 泰淳 たいじゅん 、細江 ほそえ 英 えい 公 こう 、佐藤 さとう 亮一 りょういち 、村松 むらまつ 英子 えいこ 、伊沢 いさわ 甲子 きのえね 麿 まろ 、藤井 ふじい 浩明 ひろあき 、出光 いでみつ 佐三 さぞう の8名 めい が読 よ んだ[40] [104] [106] 。演劇 えんげき 界 かい を代表 だいひょう した村松 むらまつ 英子 えいこ は嗚咽 おえつ しながら弔辞 ちょうじ を読 よ んでいた[106] [107] 。
先生 せんせい が
身 み をもって
虚空 こくう に
描 えが き
出 だ された
灼熱 しゃくねつ の、そして
清 きよ らかな
光 ひかり を
前 まえ にしては、すべてのことばが、むなしく
感 かん じられ、
私 わたし はただ
茫然 ぼうぜん と
佇 たたず む
思 おも いです。
私 わたし にとってかけがえのない
師 し だった
先生 せんせい 、
先生 せんせい の
血潮 ちしお は、
絢爛 けんらん と
燃 も える
夕映 ゆうば えの
虹 にじ のように、
日本 にっぽん の
汚 よご れた
空 そら を
染 そ め
上 あ げたのです。(
中略 ちゅうりゃく )
いたわりを、それと
見 み せないように、いたわって
下 くだ さるのが、
先生 せんせい でした。
燃 も えたぎる
情熱 じょうねつ と
冷徹 れいてつ な
知性 ちせい とを、
同時 どうじ に
兼 か ねそなえることの
可能 かのう 性 せい を、
示 しめ して
下 くだ さったのが
先生 せんせい でした。
明晰 めいせき な
炎 ほのお は、つねに
私 わたし たちを
導 みちび く
光 ひかり でした。(
中略 ちゅうりゃく )
先生 せんせい が
身 み をもって
點 てん じられたあの
美 うつく しい
炎 ほのお は、
永久 えいきゅう に
消 き えることなく、
先生 せんせい を
愛惜 あいせき し
敬慕 けいぼ する
人 ひと たちの
頭上 ずじょう に、
燃 も えつづけることでしょう。ふつつかな
私 わたし も、その
輝 かがや きに
忠実 ちゅうじつ を
誓 ちか うひとりでございます。どうかそういう
私 わたし たちをお
見守 みまも り
下 くだ さいますように。
— 村松 むらまつ 英子 えいこ 「弔辞 ちょうじ 」[107]
他 た の参列 さんれつ 者 しゃ は、藤島 ふじしま 泰 やすし 輔 、篠山 しのやま 紀 きの 信 しん 、横尾 よこお 忠則 ただのり 、黛 まゆずみ 敏郎 としお 、芥川 あくたがわ 比呂志 ひろし 、五味 ごみ 康祐 こうすけ 、中村 なかむら 伸郎 のぶお 、野坂 のさか 昭 あきら 如 、井上 いのうえ 靖 やすし 、中山 なかやま 正敏 まさとし 、徳岡 とくおか 孝夫 たかお などがいた[39] [56] 。イギリス のBBC 放送 ほうそう 局 きょく が、三島 みしま の葬儀 そうぎ を生 なま 中継 ちゅうけい したいと申 もう し入 い れて来 き ていたが、実行 じっこう 委員 いいん 会 かい はこれを辞退 じたい した[56] 。当時 とうじ の首相 しゅしょう 佐藤 さとう 栄作 えいさく の寛子 ひろこ 夫人 ふじん も、ヘリコプター に乗 の り変装 へんそう してでも参列 さんれつ したいと申 もう し出 で ていたが、極左 きょくさ 勢力 せいりょく が式場 しきじょう を襲 おそ うという噂 うわさ が飛 と び交 か っていたため警備 けいび 上 じょう の問題 もんだい で実現 じつげん しなかった[106] 。
臨時 りんじ の看護 かんご 施設 しせつ やトイレットカーが配備 はいび され、私服 しふく ・制服 せいふく 警察官 けいさつかん 100人 にん 、機動 きどう 隊 たい 50人 にん 、ガードマン46人 にん が警備 けいび に当 あ たる中 なか 、8200人 にん 以上 いじょう の一般 いっぱん 客 きゃく が会場 かいじょう 入 い り口 くち に置 お かれた大 おお きな遺影 いえい に弔問 ちょうもん し、元 もと 軍人 ぐんじん からOLにいたるまで多彩 たさい な三島 みしま ファンが押 お しかけた[40] [56] 。中 なか には、「追悼 ついとう 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 」ののぼり旗 はた を立 た てて名古屋 なごや から会社 かいしゃ ぐるみでかけつけた団体 だんたい もあり、文学 ぶんがく 者 しゃ の葬儀 そうぎ としては過去 かこ 最大 さいだい のものとなった[40] [56] 。
1月 がつ 30日 にち 、「三島 みしま 由紀夫 ゆきお ・森田 もりた 必勝 ひっしょう 烈士 れっし 顕彰 けんしょう 碑 いしぶみ 」が松江 まつえ 日本 にっぽん 大学 だいがく 高等 こうとう 学校 がっこう (現 げん ・立正大学 りっしょうだいがく 淞南高等 こうとう 学校 がっこう )の玄関 げんかん 前 まえ に建立 こんりゅう され、除幕 じょまく 式 しき が行 おこ なわれた[104] [108] 。碑 いしぶみ には、「誠 まこと 」「維新 いしん 」「憂国 ゆうこく 」「改憲 かいけん 」の文字 もじ が刻 きざ まれた[108] 。
2月 がつ 11日 にち 、三島 みしま の本籍 ほんせき 地 ち の兵庫 ひょうご 県 けん 加古川 かこがわ 市 し 志方 しかた 町 まち の八幡 やはた 神社 じんじゃ 境内 けいだい で、地元 じもと の生長 せいちょう の家 いえ (現 げん 生長 せいちょう の家 いえ 本流 ほんりゅう 運動 うんどう )の会員 かいいん による「三島 みしま 由紀夫 ゆきお を偲 しの ぶ追悼 ついとう 慰霊 いれい 祭 さい 」が行 おこな われた[109] 。
2月 がつ 28日 にち 、楯 だて の会 かい の解散 かいさん 式 しき が西日暮里 にしにっぽり の神道 しんとう 禊 みそぎ 大 だい 教会 きょうかい で行 おこな われ、瑤子 ようこ 夫人 ふじん と75名 めい の会員 かいいん が出席 しゅっせき した[96] 。瑤子 ようこ 夫人 ふじん の実家 じっか の杉山 すぎやま 家 か が神道 しんとう と関係 かんけい が深 ふか く、神道 しんとう 禊 みそぎ 大 だい 教会 きょうかい と縁 えん があったため、解散 かいさん 式 しき の場所 ばしょ となった[110] 。倉持 くらもち 清 きよし が「声明 せいめい 」を読 よ み、〈蹶起 けっき と共 とも に、楯 だて の会 かい は解散 かいさん されます〉[111] という三島 みしま の遺言 ゆいごん の内容 ないよう を伝 つた えて解散 かいさん 宣言 せんげん をした[104] 。三島 みしま が各 かく 班長 はんちょう らに渡 わた し、皇居 こうきょ の済 すみ 寧 やすし 館 かん に預 あづ けられていた日本 にっぽん 刀 がたな は、瑤子 ようこ 夫人 ふじん のはからいで、それぞれ班長 はんちょう に形見 かたみ として渡 わた された[102] 。
3月23日 にち 、「楯 だて の会 かい 事件 じけん 」第 だい 1回 かい 公判 こうはん が東京 とうきょう 地方裁判所 ちほうさいばんしょ の701号 ごう 法廷 ほうてい で開 ひら かれた。3被告 ひこく の家族 かぞく らと平岡 ひらおか 梓 あずさ 、瑤子 ようこ 、遺言 ゆいごん 執行 しっこう 人 じん の斎藤 さいとう 直一 なおかず 弁護士 べんごし が傍聴 ぼうちょう した[4] 。裁判 さいばん 長 ちょう は櫛淵 くしぶち 理 り 。陪席 ばいせき 裁判官 さいばんかん は石井 いしい 義明 よしあき 、本井 もとい 文夫 ふみお 。検事 けんじ は石井 いしい 和男 かずお 、小山 こやま 利男 としお 。主任 しゅにん 弁護人 べんごにん は草 くさ 鹿 しか 浅 あさ 之 これ 介 かい 。弁護人 べんごにん は野村 のむら 佐 たすく 太 ふとし 男 おとこ 、酒井 さかい 亨 とおる 、林 はやし 利男 としお 、江尻 えじり 平八郎 へいはちろう 、大越 おおこし 譲 ゆずる であった[4] [40] 。
6月26日 にち には、フランスの三島 みしま 文学 ぶんがく ファンたちの強 つよ い要望 ようぼう によりパリ で追悼 ついとう 集会 しゅうかい が開催 かいさい され、詩人 しじん のエマニュエル・ローテンが事件 じけん 後 ご に作 つく った三島 みしま に捧 ささ げる詩 し 「愛 あい と死 し の儀式 ぎしき (憂国 ゆうこく )」が吟 ぎん じられた[112] 。
第 だい 7回 かい 公判 こうはん 日 び の2日 にち 後 ご の7月 がつ 7日 にち 、小 しょう 賀 が 正義 まさよし 、小川 おがわ 正洋 まさひろ 、古賀 こが 浩靖 ひろやす の3被告 ひこく が保釈 ほしゃく となった[113] 。犯罪 はんざい 事実 じじつ を認 みと め、証拠 しょうこ 隠滅 いんめつ や逃亡 とうぼう の恐 おそ れがないため、17時 じ に東京 とうきょう 拘置 こうち 所 しょ を出所 しゅっしょ した3人 にん は瑤子 ようこ 夫人 ふじん に出迎 でむか えられ、19時 じ から赤坂 あかさか プリンスホテル で記者 きしゃ 会見 かいけん を行 おこ なった[104] [113] 。
9月 がつ 20日 はつか 、瑤子 ようこ 夫人 ふじん が墓参 ぼさん の折 おり 、墓石 はかいし の位置 いち の異常 いじょう に気 き づいた。翌日 よくじつ の9月 がつ 21日 にち 、立花 りっか 家 か 石材 せきざい 店 てん の人 ひと が納骨 のうこつ 室 しつ を開 あ けたところ、遺骨 いこつ が壷 つぼ ごと紛失 ふんしつ しているのを発見 はっけん し、府中 ふちゅう 警察 けいさつ 署 しょ に届 とど け出 で た。盗 ぬす まれた遺骨 いこつ は、同年 どうねん 12月 がつ 5日 にち 、平岡 ひらおか 家 か の墓 はか から40メートルほど離 はな れたところに埋 う められているのが発見 はっけん された。遺骨 いこつ は元 もと の状態 じょうたい のままで、一緒 いっしょ に入 い れられていた葉巻 はまき も元 もと の状態 じょうたい であった[40] [104] [108] 。
11月25日 にち 、埼玉 さいたま 県 けん 大宮 おおみや 市 し (現 げん ・さいたま市 し )の宮崎 みやざき 清隆 きよたか (元 もと 陸軍 りくぐん 憲兵 けんぺい 曹長 そうちょう )宅 たく の庭 にわ に「三島 みしま 由紀夫 ゆきお 文学 ぶんがく 碑 ひ 」が建立 こんりゅう された。揮毫 きごう は三島 みしま 瑤子 ようこ (平岡 ひらおか 瑤子 ようこ )。生前 せいぜん 、三島 みしま が宮崎 みやざき 清隆 きよたか に送 おく った一文 いちぶん が「三島 みしま 由紀夫 ゆきお 文学 ぶんがく 碑 ひ の栞 しおり 」に掲載 けいさい された[104] 。同日 どうじつ 、平岡 ひらおか 家 か では神式 しんしき の一 いち 年 ねん 祭 さい を丸 まる の内 うち パレスホテル で行 おこ なった[40] [108] 。
12月6日 にち には第 だい 14回 かい の公判 こうはん が行 おこ なわれ、当時 とうじ 自民党 じみんとう 総務 そうむ 会長 かいちょう で防衛庁 ぼうえいちょう 長官 ちょうかん であった中曽根 なかそね 康弘 やすひろ が証言 しょうげん 台 だい に立 た った[114] 。中曽根 なかそね は、自分 じぶん が事件 じけん 直後 ちょくご に「迷惑 めいわく 千 せん 万 まん 」と言 い ったのは公人 こうじん の立場 たちば で自衛隊 じえいたい 内 ない に不穏 ふおん な動 うご きが発生 はっせい するのを防 ふせ ぐためだったとし[114] 、三島 みしま の考 かんが えには全幅 ぜんぷく 的 てき に賛成 さんせい しないものの、彼 かれ (三島 みしま )は「かくすれば、かくなることと知 し りながら、やむにやまれぬ大和魂 やまとだましい 」でやったもので、それを自分 じぶん は政治 せいじ 家 か なりに事件 じけん を受 う けとめ消化 しょうか していきたいとしつつ、「憎 にく む気持 きもち よりもいたわりたい気持 きもち である」と述 の べた[114] 。
1972年 ねん (昭和 しょうわ 47年 ねん )4月 がつ 27日 にち 、これまで17回 かい の公判 こうはん までに、中曽根 なかそね 康弘 やすひろ 、村松 むらまつ 剛 つよし 、黛 まゆずみ 敏郎 としお など多彩 たさい な人物 じんぶつ が証人 しょうにん に立 た った「楯 だて の会 かい 事件 じけん 」裁判 さいばん の第 だい 18回 かい 最終 さいしゅう 公判 こうはん が開 ひら かれ、小 しょう 賀 が 正義 まさよし 、小川 おがわ 正洋 まさひろ 、古賀 こが 浩靖 ひろやす の3名 めい に懲役 ちょうえき 4年 ねん の実刑 じっけい 判決 はんけつ が下 くだ された[40] [115] 。罪名 ざいめい は、「監禁 かんきん 致傷 ちしょう 、暴力 ぼうりょく 行為 こうい 等 とう 処罰 しょばつ ニ関 せき スル法律 ほうりつ 違反 いはん 、傷害 しょうがい 、職務 しょくむ 強要 きょうよう 、嘱託 しょくたく 殺人 さつじん 」となった[115] 。
判決 はんけつ 文 ぶん の最後 さいご は「被告人 ひこくにん らは宜 よろ しく、『学 まなべ なき武 たけ は匹夫 ひっぷ の勇 いさむ 、真 しん の武 ぶ を知 し らざる文 ぶん は譫言 うわごと に幾 いく く、仁 じん 人 じん なければ忍 しの びざる所 ところ 無 な きに至 いた る』べきことを銘記 めいき し、事理 じり を局 きょく 視 し せず、眼 め を人類 じんるい 全体 ぜんたい にも拡 ひろ げ、その平和 へいわ と安全 あんぜん の実現 じつげん に努力 どりょく を傾注 けいちゅう することを期待 きたい する」と締 し めくくられていた[115] 。
1974年 ねん (昭和 しょうわ 49年 ねん )10月 がつ に3人 にん が4年 ねん の刑期 けいき 満了 まんりょう 前 まえ に出所 しゅっしょ となってから、元 もと 楯 だて の会 かい 会員 かいいん たちによる三島 みしま ・森田 もりた の慰霊 いれい 祭 さい が始 はじ まった[102] 。出所 しゅっしょ した古賀 こが が国学院大学 こくがくいんだいがく で神道 しんとう を学 まな んだ後 のち 、鶴見 つるみ 神社 じんじゃ で神主 かんぬし の資格 しかく を取 と り、3人 にん で慰霊 いれい している所 ところ に元 もと 会員 かいいん が集 あつ まるようになり、毎年 まいとし 慰霊 いれい 祭 さい が行 おこな われるようになった[102] 。その後 ご 、元 もと 会員 かいいん と平岡 ひらおか 家 か との連絡 れんらく 機関 きかん として「三島 みしま 森田 もりた 事務所 じむしょ 」が出来 でき た[102] 。
1975年 ねん (昭和 しょうわ 50年 ねん )3月 がつ 29日 にち 、三島 みしま と親交 しんこう があり三島 みしま 事件 じけん に強 つよ い共感 きょうかん を示 しめ していた村上 むらかみ 一郎 いちろう が、自宅 じたく で日本 にっぽん 刀 がたな により自害 じがい した[16] 。
1977年 ねん (昭和 しょうわ 52年 ねん )3月 がつ 3日 にち 、元 もと 楯 だて の会 かい 会員 かいいん ・伊藤 いとう 好雄 よしお (1期生 きせい )と西尾 にしお 俊一 しゅんいち (4期生 きせい )が参加 さんか した経団連 けいだんれん 襲撃 しゅうげき 事件 じけん が起 お こった。瑤子 ようこ 夫人 ふじん の説得 せっとく により投降 とうこう し終結 しゅうけつ した[116] 。
1980年 ねん (昭和 しょうわ 55年 ねん )8月 がつ 9日 にち 、三島 みしま が仲人 なこうど を引 ひ き受 う けていた楯 だて の会 かい 会員 かいいん ・倉持 くらもち 清 きよし (現 げん ・本多 ほんだ 清 きよし )に宛 あ てた遺書 いしょ の全文 ぜんぶん が、朝日新聞 あさひしんぶん で紹介 しょうかい された[117] [118] 。同年 どうねん 11月 がつ 24日 にち 、山本 やまもと 舜 しゅん 勝 かち 、元 もと 楯 だて の会 かい 有志 ゆうし らにより「三島 みしま 由紀夫 ゆきお 烈士 れっし 及 およ び森田 もりた 必勝 ひっしょう 烈士 れっし 慰霊 いれい の十 じゅう 年 ねん 祭 さい 」が市ヶ谷 いちがや の私 わたし 学会 がっかい 館 かん で開催 かいさい された[117] 。
1999年 ねん (平成 へいせい 11年 ねん )11月 がつ 下旬 げじゅん と2000年 ねん (平成 へいせい 12年 ねん )1月 がつ 4日 にち 、三島 みしま が楯 だて の会 かい 会員 かいいん 一同 いちどう に宛 あ てた遺書 いしょ が新聞 しんぶん 各紙 かくし に公開 こうかい された[119] [120] 。
2018年 ねん (平成 へいせい 30年 ねん )11月26日 にち 、三島 みしま 事件 じけん の当事 とうじ 者 しゃ で楯 だて の会 かい メンバーの小川 おがわ 正洋 まさひろ が心不全 しんふぜん のため70歳 さい で死去 しきょ した[121] 。
1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )頃 ごろ から自衛隊 じえいたい 体験 たいけん 入隊 にゅうたい 希望 きぼう を口 くち にするようになっていた三島 みしま は、「昭和 しょうわ 元禄 げんろく 」の真 ま っ只中 ただなか の1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )6月 がつ に短編 たんぺん 『英霊 えいれい の聲 こえ 』を発表 はっぴょう [122] 。8月に長編 ちょうへん 『奔馬 ほんば 』の取材 しゅざい のために奈良 なら 県 けん の大神神社 おおみわじんじゃ を訪 おとず れ、その足 あし で広島 ひろしま 県 けん 江田島 えたじま の海上 かいじょう 自衛隊 じえいたい 第一術科学校 だいいちじゅつかがっこう などを見学 けんがく 。教育 きょういく 参考 さんこう 館 かん で特攻隊 とっこうたい 員 いん の遺書 いしょ を読 よ んだ[123] [124] 。その後 ご 熊本 くまもと 県 けん に渡 わた り神 かみ 風連 ふうれん のゆかりの地 ち (新開 しんかい 大神宮 だいじんぐう 、桜山 さくらやま 神社 じんじゃ など)を取材 しゅざい して10万 まん 円 えん の日本 にっぽん 刀 がたな を購入 こうにゅう する[54] [125] [126] 。
三島 みしま は秋 あき 頃 ごろ から民兵 みんぺい 組織 そしき の構想 こうそう を練 ね り始 はじ め[127] 、10月 がつ 頃 ごろ から防衛庁 ぼうえいちょう へ自衛隊 じえいたい 体験 たいけん 入隊 にゅうたい 希望 きぼう を打診 だしん したが断 ことわ られ、橋渡 はしわた しを毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ 常務 じょうむ の狩野 かの 近 きん 雄 ゆう に依頼 いらい し、防衛庁 ぼうえいちょう 事務次官 じむじかん ・三輪 みわ 良雄 よしお や元 もと 陸 りく 将 すすむ ・藤原 ふじわら 岩 いわ 市 し などと接触 せっしょく して口利 くちき きを求 もと めた[10] [128] 。
12月19日 にち 、小沢 おざわ 開 ひらく 策 さく から民族 みんぞく 派 は 雑誌 ざっし の創刊 そうかん 準備 じゅんび をしている青年 せいねん の話 はなし を聞 き いた林 はやし 房雄 ふさお の紹介 しょうかい で、万代 ばんだい 潔 きよし (平泉 ひらいずみ 澄 きよし 門人 もんじん で明治学院大学 めいじがくいんだいがく 卒 そつ )が三島 みしま 宅 たく を訪 たず ねて来 き た[6] [129] [130] 。また同月 どうげつ には、舩坂弘 ひろし 著 ちょ 『英霊 えいれい の絶叫 ぜっきょう 』(12月10日刊 にっかん )の序文 じょぶん を書 か いた礼 れい として、舩坂から日本 にっぽん 刀 がたな ・関 せき 孫 まご 六 ろく を寄贈 きぞう されていた[44] [52] 。
1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )1月 がつ 5日 にち に民族 みんぞく 派 は 月刊 げっかん 雑誌 ざっし 『論争 ろんそう ジャーナル 』が創刊 そうかん され、11日 にち に編集 へんしゅう 長 ちょう ・中 ちゅう 辻 つじ 和彦 かずひこ (平泉 ひらいずみ 澄 きよし 門人 もんじん で明治学院大学 めいじがくいんだいがく 卒 そつ )と副 ふく 編集 へんしゅう 長 ちょう ・万代 ばんだい 潔 きよし の両人 りょうにん が揃 そろ って、寄稿 きこう 依頼 いらい のために三島 みしま 宅 たく を訪問 ほうもん した[注釈 ちゅうしゃく 21] 。三島 みしま は無償 むしょう で同誌 どうし に寄稿 きこう することにし、2人 ふたり は3日 にち に1度 ど の割 わり で三島 みしま を訪 たず ねた[132] [133] 。
三島 みしま は2人 ふたり の青年 せいねん に、「『英霊 えいれい の聲 こえ 』を書 か いてから、俺 おれ には磯部 いそべ 一等 いっとう 主計 しゅけい の霊 れい が乗 の り移 うつ ったみたいな気 き がするんだ」と真剣 しんけん な顔 かお で言 い い、ある時 とき は日本 にっぽん 刀 がたな を抜 ぬ いて、「刀 かたな というものは鑑賞 かんしょう するものではない。生 い きているものだ。この生 い きた刀 かたな によって、60年 ねん 安保 あんぽ における知識 ちしき 人 じん の欺瞞 ぎまん をえぐらなければならない」とも言 い った[134] 。
1月 がつ 27日 にち には、万代 よろずよ らと同 おな じ平泉 ひらいずみ 澄 きよし の門人 もんじん で『論争 ろんそう ジャーナル』のスタッフをしている日本 にっぽん 学生 がくせい 同盟 どうめい (日 にち 学 がく 同 どう )の持丸 もちまる 博 ひろし (早稲田大学 わせだだいがく 生 せい )も三島 みしま 宅 たく を訪問 ほうもん し、翌月 よくげつ 創刊 そうかん の『日本 にっぽん 学生 がくせい 新聞 しんぶん 』への寄稿 きこう を依頼 いらい した[131] [135] 。
この頃 ころ 三 さん 島 とう は、新潮社 しんちょうしゃ の担当 たんとう 編集 へんしゅう 者 しゃ の小島 こじま 喜久江 きくえ に、「恐 こわ いみたいだよ。小説 しょうせつ に書 か いたことが事実 じじつ になって現 あらわ れる。そうかと思 おも うと事実 じじつ の方 ほう が小説 しょうせつ に先行 せんこう することもある」と語 かた ったという[26] 。2月28日 にち には、川端 かわばた 康成 やすなり 、石川 いしかわ 淳 あつし 、安部 あべ 公房 こうぼう と連名 れんめい で、中共 ちゅうきょう の文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい に抗議 こうぎ する声明 せいめい の記者 きしゃ 会見 かいけん を行 おこ なった[124] [136] 。ちなみに、当時 とうじ この声明 せいめい 文 ぶん の全文 ぜんぶん を報 ほう じた新聞 しんぶん は東京 とうきょう 新聞 しんぶん だけだった[137] [注釈 ちゅうしゃく 22]
3月、三島 みしま の自衛隊 じえいたい 体験 たいけん 入隊 にゅうたい 許可 きょか が下 くだ り(1、2週間 しゅうかん ごとに一時 いちじ 帰宅 きたく するという条件 じょうけん 付 づけ )、4月 がつ 12日 にち から5月 がつ 27日 にち までの46日間 にちかん 、単身 たんしん で体験 たいけん 入隊 にゅうたい する[128] 。本名 ほんみょう の「平岡 ひらおか 公 こう 威 い 」で入隊 にゅうたい した三島 みしま は先 ま ず、久留 くる 米 よね の陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 幹部候補生学校 かんぶこうほせいがっこう 隊 たい 付 づけ となった。4月19日 にち に離 はなれ 校 こう 後 ご 、陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう に赴 おもむ き、山中 さんちゅう 踏破 とうは 、山中湖 やまなかこ 露営 ろえい などを体験 たいけん 後 ご 、富士 ふじ 学校 がっこう 幹部 かんぶ 上級 じょうきゅう 課程 かてい (AOC)に属 ぞく し、菊地 きくち 勝夫 かつお 1尉 じょう の指導 しどう を受 う けた[140] [141] [142] 。
その4月 がつ 中旬 ちゅうじゅん か下旬 げじゅん 頃 ごろ 、三島 みしま は藤原 ふじわら 岩 いわ 市 し から「若手 わかて 自衛 じえい 官 かん 幹部 かんぶ の生活 せいかつ ぶりを見 み せましょう」と娘 むすめ 婿 むこ ・冨澤 とみさわ 暉 あきら の借家 しゃくや を案内 あんない され、数日 すうじつ 後 ご 冨澤 とみさわ とその同期生 どうきせい 5人 にん ほどと会食 かいしょく した[143] 。その席 せき で三 さん 島 とう は、学生 がくせい デモ隊 たい を警察 けいさつ 力 りょく だけで抑 おさ えきれなくなった際 さい の自衛隊 じえいたい 治安 ちあん 出動 しゅつどう 時 じ を利用 りよう し政権 せいけん をこちら(自衛隊 じえいたい 側 がわ )のものにしようと、共 とも に行動 こうどう を促 うなが す自身 じしん のクーデター案 あん を述 の べたが、冨澤 とみさわ は「そんな非合法 ひごうほう なことはやりません」と答 こた えた[143] 。その時 とき 三 さん 島 とう は冨澤 とみさわ らに対 たい し「倶に天 てん を戴 いただ かず」といった顔色 かおいろ になったという[143] 。5月11日 にち 以降 いこう は、レンジャー 課程 かてい に所属 しょぞく した後 のち 、習志野 ならしの 第 だい 一 いち 空挺 くうてい 団 だん に移動 いどう し、基礎 きそ 訓練 くんれん (降下 こうか 訓練 くんれん を除 のぞ く)を体験 たいけん した[140] [141] [142] 。
論争 ろんそう ジャーナル組 ぐみ 、日 にち 学 がく 同 どう の学生 がくせい たちが、「自分 じぶん たちも自衛隊 じえいたい 体験 たいけん 入隊 にゅうたい したい」との意向 いこう を示 しめ した[131] 。三島 みしま は民兵 みんぺい 組織 そしき の立 た ち上 あ げを本格 ほんかく 的 てき に企図 きと し、持丸 もちまる 博 ひろし を通 つう じて、早稲田大学 わせだだいがく 国防 こくぼう 部 ぶ (4月 がつ に結成 けっせい )からの選抜 せんばつ 協力 きょうりょく を要請 ようせい した[10] 。こうして、論争 ろんそう ジャーナル組 ぐみ 、日 にち 学 がく 同 どう と三島 みしま の三 さん 者 しゃ 関係 かんけい が徐々 じょじょ に出来上 できあ がった[128] [131] 。
6月19日 にち 、六本木 ろっぽんぎ の喫茶店 きっさてん 「ヴィクトリア」で行 おこな われた早稲田大学 わせだだいがく 国防 こくぼう 部 ぶ 代表 だいひょう との会見 かいけん で、三島 みしま と森田 もりた 必勝 ひっしょう (早稲田大学 わせだだいがく 教育 きょういく 学部 がくぶ 、日 にち 学 がく 同 どう )は初 はじ めて顔 かお を会 あ わせ、早大 そうだい 国防 こくぼう 部 ぶ の自衛隊 じえいたい 体験 たいけん 入隊 にゅうたい の日程 にってい を決 き めた[144] [注釈 ちゅうしゃく 23] 。
7月 がつ 2日 にち から1週間 しゅうかん 、早大 そうだい 国防 こくぼう 部 ぶ 13名 めい が自衛隊 じえいたい 北 きた 恵庭 えにわ 駐屯 ちゅうとん 地 ち で体験 たいけん 入隊 にゅうたい 。森田 もりた はその時 とき の感想 かんそう を、「それにしても自衛 じえい 官 かん の中 なか で、大型 おおがた 免許 めんきょ をとるためだとか、転職 てんしょく が有利 ゆうり だとか言 い っている連中 れんちゅう のサラリーマン 化現 けげん 象 ぞう は何 なに とかならないのか」と綴 つづ り、自衛隊 じえいたい 員 いん が「憲法 けんぽう について多 おお くを語 かた りたがらない」ことと、「クーデターを起 お こす意志 いし を明 あき らかにした隊員 たいいん が居 い ないのは残念 ざんねん だった」ことを挙 あ げた[144] 。
8月 がつ 、三島 みしま は国土 こくど 防衛 ぼうえい 隊 たい 中核 ちゅうかく 体 たい となる青年 せいねん を養成 ようせい する具体 ぐたい 的 てき 計画 けいかく を固 かた め、自衛隊 じえいたい 体験 たいけん 入隊 にゅうたい を定期 ていき 的 てき に実施 じっし するため、9月9日 にち に、陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい の重松 しげまつ 恵三 けいぞう と面談 めんだん した[146] [147] 。9月26日 にち 、インド に行 い くため日本航空 にほんこうくう 機 き で羽田空港 はねだくうこう を出発 しゅっぱつ した三島 みしま は、若 わか い頃 ころ からの知 し り合 あ いで、香港 ほんこん に赴任 ふにん していた警視庁 けいしちょう の佐々淳行 さっさあつゆき と啓 けい 徳 とく 空港 くうこう で落 お ち合 あ い、「このままでは日本 にっぽん はダメになる。ソ連 それん にやられる。極左 きょくさ に天下 てんか をとられる。自衛隊 じえいたい ではダメだ。警察 けいさつ もダメだ。闘 たたか う愛国 あいこく グループをつくらなければいけない。自分 じぶん は国軍 こくぐん をつくりたい。日本 にっぽん に戻 もど ったら一緒 いっしょ に手 て を組 く んでやろう」と訴 うった えたが、佐々 ささ は、三島 みしま にオピニオンリーダーとして警備 けいび 体制 たいせい 強化 きょうか に協力 きょうりょく してほしいと言 い って、私兵 しへい 創設 そうせつ の考 かんが えを制 せい した[148] 。
10月、三島 みしま は小説 しょうせつ 『暁 あかつき の寺 てら 』の取材 しゅざい で訪 おとず れたインドで、5日 にち にインディラ・ガンディー 首相 しゅしょう 、ザーキル・フセイン (英語 えいご 版 ばん ) 大統領 だいとうりょう 、陸軍 りくぐん 大佐 たいさ と面会 めんかい し、中共 ちゅうきょう の脅威 きょうい に対 たい する日本 にっぽん の国防 こくぼう 意識 いしき の欠如 けつじょ について危機 きき 感 かん を抱 いだ く[149] [150] 。そして惰眠 だみん を貪 むさぼ っている日本 にっぽん を「アリとキリギリス 」の夏 なつ のキリギリスに喩 たと えつつ、〈アリがせつせと働 はたら いてゐて、片方 かたがた ぢやキリギリスが遊 あそ びほうけてゐるのとおんなじ〉構図 こうず だとし、〈冬 ふゆ のたくはへは絶対 ぜったい にしておきべきだ〉、〈木枯 こが らしが吹 ふ きだしたときのことを考 かんが へないのはバカだ〉、〈(日本 にっぽん は)愚者 ぐしゃ の天国 てんごく ですなあ〉と述 の べた[149] 。
中共 ちゅうきょう と
国境 こっきょう を
接 せっ してゐるといふ
感 かん じは、とても
日本 にっぽん ではわからない。もし
日本 にっぽん と
中共 ちゅうきょう とのあひだに
国境 こっきょう があつて
向 む かう
側 がわ に
大砲 たいほう が
並 なら んでたら、いまのんびりしてゐる
連中 れんちゅう でもすこしはきりつとするでせう。まあ
海 うみ でへだてられてゐますからね。もつともいまぢや、
海 うみ なんてものはたいして
役 やく にたないんだけれど。ただ「
見 み ぬもの
清 きよ し」でせうな。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「インドの印象 いんしょう 」[149]
帰国 きこく 後 ご の11月、三島 みしま は、論争 ろんそう ジャーナルのメンバーと民兵 みんぺい 組織 そしき 「祖国 そこく 防衛 ぼうえい 隊 たい 」の試案 しあん を討議 とうぎ し、祖国 そこく 防衛 ぼうえい 隊 たい 構想 こうそう パンフレット を作成 さくせい し始 はじ めた[127] 。12月5日 にち には、航空 こうくう 自衛隊 じえいたい 百里基地 ひゃくりきち からF-104戦闘 せんとう 機 き に試乗 しじょう した[151] [152] 。12月末 まつ 、祖国 そこく 防衛 ぼうえい 隊 たい 構想 こうそう パンフレットを、元 もと 上司 じょうし ・藤原 ふじわら 岩 いわ 市 し から見 み せられた陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 調査 ちょうさ 学校 がっこう 情報 じょうほう 教育 きょういく 課長 かちょう ・山本 やまもと 舜 しゅん 勝 かち 1佐 さ が、藤原 ふじわら の仲介 ちゅうかい で三島 みしま と会食 かいしょく した[153] 。
巷 ちまた でノーベル文学 ぶんがく 賞 しょう 候補 こうほ と騒 さわ がれている三島 みしま に対 たい し、「文士 ぶんし でいらっしゃるあなたは、やはり書 か くことに専念 せんねん すべきであり、書 か くことを通 とお してでも、あなたの目的 もくてき は達 たっ せられるのではありませんか」と問 と う山本 やまもと 1佐 さ に、三島 みしま は「もう書 か くことは捨 す てました。ノーベル賞 しょう なんかには、これっぽちの興味 きょうみ もありませんよ」と、じっと目 め を見据 みす えてきっぱりと答 こた えた[153] 。
この瞬間 しゅんかん 、山本 やまもと 1佐 さ は背筋 せすじ にピリリと火花 ひばな が走 はし り、「これは本気 ほんき なのだ」と確信 かくしん し、三島 みしま と一緒 いっしょ にやれると思 おも ったと同時 どうじ に、この人 ひと には大言壮語 たいげんそうご してはならぬと感 かん じた[153] 。事件 じけん 後 ご 、山本 やまもと 1佐 さ は三島 みしま が「もう書 か くことは捨 す てた」に続 つづ いて「あなたのおっしゃるような役割 やくわり はF氏 し が果 は たしてくれるでしょう」と述 の べていたことも記 しる している[31] 。持丸 もちまる 博 ひろし によると、三島 みしま は山本 やまもと と会 あ ってひどく興奮 こうふん し、「あの人 ひと は都市 とし ゲリラ の専門 せんもん 家 か だ。俺 おれ たちの組織 そしき にうってつけの人物 じんぶつ じゃないか。おまえも一緒 いっしょ に会 あ おう」と言 い ったという[6] 。
この頃 ころ 、「祖国 そこく 防衛 ぼうえい 隊 たい 」構想 こうそう に全面 ぜんめん 的 てき に賛同 さんどう する論争 ろんそう ジャーナル組 ぐみ と、その「急進 きゅうしん 主義 しゅぎ 的 てき 色彩 しきさい 」と三島 みしま の私兵 しへい 的 てき なイメージに難色 なんしょく を示 しめ す日 ひ 学 がく 同 どう (斉藤 さいとう 英俊 ひでとし 、宮崎 みやざき 正弘 まさひろ )との間 あいだ に亀裂 きれつ が生 しょう じ始 はじ め、持丸 もちまる 博 ひろし 、伊藤 いとう 好雄 よしお 、宮沢 みやざわ 徹 とおる 甫 はじめ 、阿部 あべ 勉 つとむ らが日 にち 学 がく 同 どう を除籍 じょせき となり、論争 ろんそう ジャーナル組 ぐみ に合流 ごうりゅう した[131] 。持丸 もちまる は三島 みしま と共 とも に、雑誌 ざっし 『論争 ろんそう ジャーナル』の副 ふく 編集 へんしゅう 長 ちょう となった[131] 。
1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )2月 がつ 25日 にち 、銀座 ぎんざ 8丁目 ちょうめ 4-2の小 しょう 鍛冶 たんや ビルの育 いく 誠 まこと 社内 しゃない の論争 ろんそう ジャーナル事務所 じむしょ において、三島 みしま 由紀夫 ゆきお 、中 ちゅう 辻 つじ 和彦 かずひこ 、万代 ばんだい 潔 きよし 、持丸 もちまる 博 ひろし 、伊藤 いとう 好雄 よしお 、宮沢 みやざわ 徹 とおる 甫 はじめ 、阿部 あべ 勉 つとむ ら11名 めい が血盟 けつめい 状 じょう を作成 さくせい 。「誓 ちかい 昭和 しょうわ 四 よん 十 じゅう 三 さん 年 ねん 二 に 月 がつ 二 に 十 じゅう 五 ご 日 にち 我 わが 等 ひとし ハ 大和 やまと 男児 だんじ ノ矜リトスル 武士 ぶし ノ心 しん ヲ以テ 皇国 こうこく ノ礎 いしずえ トナラン事 ごと ヲ誓 ちかい フ」と三島 みしま が墨 すみ で大書 たいしょ し、各人 かくじん が小指 こゆび を剃刀 かみそり で切 き って集 あつ めた血 ち で署名 しょめい し、三島 みしま は本名 ほんみょう で“平岡 ひらおか 公 こう 威 い ”と記 しる した[132] [152] 。
その時 とき に三島 みしま は、「血書 けっしょ しても紙 かみ は吹 ふ けば飛 と ぶようなものだ。しかし、ここで約束 やくそく したことは永遠 えいえん に生 い きる。みんなでこの血 ち を呑 の みほそう」と、先 ま ず自分 じぶん が呑 の もうとして、「おい、この中 なか で病気 びょうき のある奴 やつ は手 て をあげろ」と皆 みな を大笑 おおわら いさせてから、全員 ぜんいん で呑 の み合 あ った[152] 。血 ち には固 かた まらないように塩 しお を入 い れていた[23] 。
3月1日 にち から1か月 げつ 、持丸 もちまる 博 ひろし を学生 がくせい 長 ちょう とする論争 ろんそう ジャーナル組 ぐみ が、三島 みしま と陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう 滝ヶ原 たきがはら 駐屯 ちゅうとん 地 ち へ自衛隊 じえいたい 体験 たいけん 入隊 にゅうたい 。直前 ちょくぜん に中央大学 ちゅうおうだいがく の5名 めい がスト解除 かいじょ で参加 さんか できなくなり、持丸 もちまる は日 にち 学 がく 同 どう の矢野 やの 潤 じゅん に代 だい 員 いん の応援 おうえん を求 もと めた[31] [154] 。これに応 おう じて森田 もりた 必勝 ひっしょう が1週間 しゅうかん 遅 おく れで入隊 にゅうたい した[144] 。春休 はるやす み帰省 きせい 中 ちゅう にスキー で右足 みぎあし を骨折 こっせつ して治療 ちりょう 中 ちゅう だったにもかかわらず、苦 くる しい訓練 くんれん に参加 さんか し頑張 がんば る森田 もりた の姿 すがた に三島 みしま は感心 かんしん し注目 ちゅうもく した[144] 。
3月30日 にち 、体験 たいけん 入隊 にゅうたい が無事 ぶじ 終了 しゅうりょう し、主任 しゅにん 教官 きょうかん や隊員 たいいん と「男 おとこ の涙 なみだ 」の別 わか れをした森田 もりた ら学生 がくせい 一 いち 行 ぎょう は貸 か し切 き りバスで大田 おおた 区 く 南馬込 みなみまごめ の三島 みしま 邸 てい に向 むか い、慰労 いろう 会 かい の夕食 ゆうしょく に招 まね かれた[144] 。1期生 きせい となった森田 もりた は三島 みしま への礼状 れいじょう に、「先生 せんせい のためには、いつでも自分 じぶん は命 いのち を捨 す てます」と速達 そくたつ で書 か き送 おく った[131] [155] 。それに対 たい し三島 みしま は、「どんな美辞麗句 びじれいく をならべた礼状 れいじょう よりも、あの一言 ひとこと には参 まい った」と森田 もりた に告 つ げた[131] [155] 。森田 もりた はこの頃 ころ 、北方領土 ほっぽうりょうど 返還 へんかん 運動 うんどう などに尽力 じんりょく していた[131] [155] 。
三島 みしま は、祖国 そこく 防衛 ぼうえい 隊 たい 構想 こうそう に政財界 せいざいかい の協力 きょうりょく を得 え るため、与良 よら ヱ に相談 そうだん していたが、この頃 ころ から持丸 もちまる 博 ひろし を通 つう じ、桜田 さくらだ 武 たけし (日本 にっぽん 経営 けいえい 者 しゃ 団体 だんたい 連盟 れんめい 代表 だいひょう 常任 じょうにん 理事 りじ )らへの接触 せっしょく を始 はじ め、初 はつ 面談 めんだん を持 も った。しかし、なかなか承諾 しょうだく を得 え られず、自衛隊 じえいたい 関係 かんけい 者 しゃ から三輪 みわ 良雄 よしお を通 つう じて説得 せっとく をすることをアドバイスされ、3月18日 にち 、三輪 みわ 良雄 よしお にその旨 むね を伝 つた えた[156] 。
4月 がつ 上旬 じょうじゅん 、堤 つつみ 清二 せいじ の手配 てはい により、五十嵐 いがらし 九十九 つくも (ドゴール の制服 せいふく 担当 たんとう )のデザインした制服 せいふく が完成 かんせい したのを祝 しゅく し、三島 みしま は論争 ろんそう ジャーナル組 ぐみ から成 な る祖国 そこく 防衛 ぼうえい 隊 たい 隊員 たいいん らと共 とも にその制服 せいふく で青梅 おうめ 市 し の愛宕 あたご 神社 じんじゃ を参拝 さんぱい し、満開 まんかい の桜 さくら 吹雪 ふぶき の下 した で記念 きねん 写真 しゃしん を撮 と った[132] [157] [158] 。
同月 どうげつ 中旬 ちゅうじゅん 、三島 みしま は桜田 さくらだ 武 たけし 、三輪 みわ 良雄 よしお 、藤原 ふじわら 岩 いわ 市 し と四 よん 者 しゃ 面談 めんだん した。桜田 さくらだ は前回 ぜんかい より理解 りかい を示 しめ し、民兵 みんぺい 組織 そしき を「体験 たいけん 入隊 にゅうたい 同好 どうこう 会 かい 」という無難 ぶなん な名称 めいしょう にするように指示 しじ し、中核 ちゅうかく 隊員 たいいん のみを無 む 名称 めいしょう で置 お いて「祖国 そこく 防衛 ぼうえい 隊 たい 」の任務 にんむ とすることで合意 ごうい した[157] 。この頃 ころ 、早稲田大学 わせだだいがく の校内 こうない には、「体験 たいけん 入隊 にゅうたい 募集 ぼしゅう 」の看板 かんばん が設置 せっち されるなど広 ひろ く人材 じんざい を求 もと め、応募 おうぼ してきた学生 がくせい を持丸 もちまる が一 いち 次 じ 面接 めんせつ 試験 しけん した[31] [122] 。
5月から、山本 やまもと 舜 しゅん 勝 かち 1佐 さ による祖国 そこく 防衛 ぼうえい 隊 たい の中核 ちゅうかく 要員 よういん への集中 しゅうちゅう 講義 こうぎ 、訓練 くんれん 支援 しえん が開始 かいし され、27日 にち には、北朝鮮 きたちょうせん 工作 こうさく 員 いん と思 おぼ しき遺体 いたい が秋田 あきた 県 けん 能代 のしろ 市 し の浜 はま 浅内 あさない に漂流 ひょうりゅう した「能代 のしろ 事件 じけん 」(1963年 ねん 4月 がつ )が扱 あつか われた[159] 。この事件 じけん が何 なに かの圧力 あつりょく で単 たん なる密入国 みつにゅうこく 事件 じけん として処理 しょり され、うやむやのままとなったことを知 し った三島 みしま は、溺死 できし 体 たい の写真 しゃしん をじっと見 み つめた後 のち 、「どうしてこんな重大 じゅうだい なことが、問題 もんだい にされずに放置 ほうち されるんだ!」と激昂 げっこう したという[159] 。
6月1日 にち 、三島 みしま と中核 ちゅうかく 要員 よういん は山本 やまもと 1佐 さ の指導 しどう の下 した 、市中 しちゅう で対 たい ゲリラ戦略 せんりゃく の総合 そうごう 演習 えんしゅう (張 は り込 こ み、潜入 せんにゅう 、尾行 びこう 、変装 へんそう など)を行 おこ なった[159] 。労務者 ろうむしゃ に成 な りすまして任務 にんむ をこなし、誰 だれ にも見破 みやぶ られないように山谷 さんや の玉 たま 姫 ひめ 公園 こうえん までたどり着 つ いた三島 みしま の疲 つか れ果 は てた真剣 しんけん な姿 すがた に、山本 やまもと 1佐 さ は深 ふか い感動 かんどう を覚 おぼ えたという[159] 。同月 どうげつ 15日 にち 、「全日本 ぜんにほん 学生 がくせい 国防 こくぼう 会議 かいぎ 」が結成 けっせい され、森田 もりた 必勝 ひっしょう が初代 しょだい 議長 ぎちょう に就任 しゅうにん 。三島 みしま は森田 もりた のため、この結成 けっせい 大会 たいかい で祝辞 しゅくじ を述 の べ万歳 ばんざい 三唱 さんしょう し、デモの時 とき もタクシーで随伴 ずいはん し、窓 まど から森田 もりた を激励 げきれい した[131] [144] 。
7月 がつ 25日 にち 、学生 がくせい らを引率 いんそつ した第 だい 2回 かい の体験 たいけん 入隊 にゅうたい が陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう 滝ヶ原 たきがはら 駐屯 ちゅうとん 地 ち で、8月 がつ 23日 にち まで行 おこな われた。この時 とき に伊藤 いとう 邦 くに 典 てん の紹介 しょうかい で小 しょう 賀 が 正義 まさよし と古賀 こが 浩靖 ひろやす (共 とも に神奈川大学 かながわだいがく 生 なま 、全国 ぜんこく 学生 がくせい 協議 きょうぎ 会 かい )が参加 さんか し、2期生 きせい となった[122] [139] 。
一方 いっぽう 、桜田 さくらだ 武 たけし (日経連 にっけいれん )からの支援 しえん 協力 きょうりょく が結局 けっきょく は中途半端 ちゅうとはんぱ な形 かたち で、バカにされたことから(最終 さいしゅう 的 てき に桜田 さくらだ は、「君 きみ 、私兵 しへい など作 つく ってはいかんよ」と、300万 まん 円 えん の投 な げ銭 せん をしたという)、三島 みしま のプライドはひどく傷 きず つき、民兵 みんぺい 組織 そしき を全 すべ て自費 じひ で賄 まかな うことにした[160] 。
組織 そしき 規模 きぼ を縮小 しゅくしょう せざるをえなくなった祖国 そこく 防衛 ぼうえい 隊 たい は、隊 たい の名称 めいしょう を万葉集 まんようしゅう 防人 さきもり 歌 うた の「今日 きょう よりは 顧 かえり みなくて 大君 おおきみ の 醜 みにく (しこ)の御 ご 楯 だて と 出 い で立 た つ吾 われ は」と、歌人 かじん ・橘 たちばな 曙覧 あけみ の「大 だい 皇 すめらぎ の 醜 みにく の御 ご 楯 だて と いふ物 もの は 如此る物 もの ぞと 進 すす め真前 まんまえ に」に2首 しゅ にちなんだ「楯 だて の会 かい 」と変 か えた。10月5日 にち に虎ノ門 とらのもん の国立 こくりつ 教育 きょういく 会館 かいかん で三島 みしま と初代 しょだい 学 がく 生長 せいちょう ・持丸 もちまる 博 ひろし 、中核 ちゅうかく 会員 かいいん 約 やく 50名 めい が「楯 だて の会 かい 」の正式 せいしき 結成 けっせい 式 しき が行 おこな われ、ある新聞 しんぶん がこれをスクープして伝 つた えた[139] [161] 。
10月21日 にち の国際 こくさい 反戦 はんせん デー の日 ひ 、三島 みしま と楯 だて の会 かい 会員 かいいん 、山本 やまもと 1佐 さ と陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 調査 ちょうさ 学校 がっこう の学生 がくせい らは、新 しん 左翼 さよく デモ(新宿 しんじゅく 騒乱 そうらん )の状況 じょうきょう を把握 はあく するため、デモ隊 たい の中 なか に潜入 せんにゅう し組織 そしき リーダー が誰 だれ かなどを調査 ちょうさ した[160] 。
火炎瓶 かえんびん の黒 くろ 煙 けむり や催涙 さいるい ガスが充満 じゅうまん する中 なか 、三島 みしま は目 め を真 ま っ赤 か に充血 じゅうけつ させながら身 み じろぎもせずに機動 きどう 隊 たい と全学 ぜんがく 連 れん の攻防 こうぼう 戦 せん を見 み つめていた[160] 。場所 ばしょ を銀座 ぎんざ に移動 いどう し、交番 こうばん の屋根 やね の上 うえ から、石 いし が飛 と び交 か う激 はげ しい市街 しがい 戦 せん を見 み ている三島 みしま の身体 しんたい が興奮 こうふん で小刻 こきざ みに震 ふる えているのを、すぐ隣 となり にいた山本 やまもと 1佐 さ は気 き づいた[160] 。この日 ひ 、六本木 ろっぽんぎ の防衛庁 ぼうえいちょう にも新 しん 左翼 さよく の社 しゃ 学 がく 同 どう が突入 とつにゅう しようとし、機動 きどう 隊 たい が猛烈 もうれつ な放水 ほうすい で応戦 おうせん するが正門 せいもん は突破 とっぱ されてしまった[162] 。
新 しん 左翼 さよく の暴動 ぼうどう を鎮圧 ちんあつ するための自衛隊 じえいたい 治安 ちあん 出動 しゅつどう の機会 きかい を予想 よそう した三島 みしま は、その時 とき に楯 だて の会 かい が斬 き り込 こ み隊 たい として自衛隊 じえいたい の手 て が及 およ ばないところを加勢 かせい し、それに乗 じょう じて自衛隊 じえいたい 国軍 こくぐん 化 か ・憲法 けんぽう 9条 じょう 改正 かいせい を超 ちょう 法規 ほうき 的 てき に実現 じつげん する計画 けいかく を構想 こうそう し始 はじ めた[31] [163] [164] 。この日 ひ の昼過 ひるす ぎ、赤坂 あかさか に設営 せつえい していた拠点 きょてん に一旦 いったん 引 ひ き揚 あ げた時 とき 、山本 やまもと 1佐 さ が持参 じさん のウィスキー を三島 みしま に勧 すす めると、「えっ、なんですか。この事態 じたい に酒 さけ とは!」と憤然 ふんぜん と席 せき を立 た ち去 さ ったという[160] 。
騒乱 そうらん の続 つづ く夜 よる 、会員 かいいん たちを拠点 きょてん に集結 しゅうけつ させた三島 みしま は、この日 ひ の総括 そうかつ の会 かい をここで持 も ちたいと山本 やまもと 1佐 さ に願 ねが い出 で た。まさに今 いま こそ決起 けっき 行動 こうどう に出 で るべきと主張 しゅちょう し詰 つ め寄 よ る会員 かいいん もいたが、まだ治安 ちあん 出動 しゅつどう はないと見込 みこ んだ山本 やまもと 1佐 さ は演習 えんしゅう 会 かい の解散 かいさん を進言 しんげん し、落胆 らくたん した三島 みしま は会員 かいいん たちを国立 こくりつ 劇場 げきじょう へ移動 いどう させていった[160] [161] 。
治安 ちあん 出動 しゅつどう イコール
政治 せいじ 条件 じょうけん と
私 わたし は
考 かんが へても
間違 まちがえ ひないと
思 おも ふ。でありますから、「
撤兵 てっぺい しないぞ」と
言 げん はれたら、どんな
政権 せいけん もかなふ
政権 せいけん はないんです。だから、「ぢや、おまへ、
撤兵 てっぺい するにはどうしたらいいんだ。
撤兵 てっぺい してもらふにはどうしたらいいんだ」。
「
憲法 けんぽう を
改正 かいせい して
軍隊 ぐんたい を
認 みと めなさい」と
言 げん つちやへばそれまでだ。これは
何 なに も
クーデター しなくてもできちやふ。
私 わたし は
悪 わる いことを
唆 そそのか すんぢやないけれども(笑)、それくらゐの
腹 はら がなければ、
自衛隊 じえいたい の
ゼネラル といふものはこれからやつていけないと
私 わたし は
思 おもえ つてる。だから、
遠 とお くのはうから
遠巻 とおま きにして
世論 せろん を
動 うご かさう、なんていふことを
考 かんが へるよりも、
本当 ほんとう のチャンスが
来 き たときにグッと
政治 せいじ 的 てき な
手 て を
打 う てるゼネラルがゐないといかんな。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「素人 しろうと 防衛 ぼうえい 論 ろん 」(防衛大学校 ぼうえいだいがくこう での講演 こうえん )[164]
11月10日 にち 、東大 とうだい 全共闘 ぜんきょうとう に軟禁 なんきん されている文学部 ぶんがくぶ 部長 ぶちょう の林 はやし 健太郎 けんたろう の解放 かいほう を求 もと めて、三島 みしま は阿川 あがわ 弘之 ひろゆき と共 とも に東大 とうだい に赴 おもむ き、林 はやし との面会 めんかい を求 もと めるが全共闘 ぜんきょうとう に拒絶 きょぜつ されて叶 かな わなかった(林 はやし 健太郎 けんたろう 監禁 かんきん 事件 じけん )。
12月21日 にち の山本 やまもと 1佐 さ によるゲリラ戦 せん の講義 こうぎ の時 とき 、三島 みしま は、「ゲリラとは、(人 ひと を欺 あざむ く)弱者 じゃくしゃ の戦術 せんじゅつ ではないですか?」と疑問 ぎもん を投 な げかけた[160] 。講義 こうぎ の休憩 きゅうけい 中 ちゅう 、森田 もりた 必勝 ひっしょう は山本 やまもと 1佐 さ に、「日本 にっぽん でいちばん悪 わる い奴 やつ は誰 だれ でしょう? 誰 だれ を殺 ころ せば日本 にっぽん のためにもっともいいのでしょうか?」と訊 たず ねたという[160] 。山本 やまもと 1佐 さ は、「死 し ぬ覚悟 かくご がなければ人 ひと は殺 ころ せない。私 わたし にはまだ真 しん の敵 てき が見 み えていない」と答 こた えた[160] 。
12月末 まつ 、三島 みしま 邸 てい に楯 だて の会 かい の中核 ちゅうかく 会員 かいいん と山本 やまもと 1佐 さ らが集 あつ まり、楯 だて の会 かい と綜合 そうごう 警備 けいび 保障 ほしょう 株式会社 かぶしきがいしゃ や猟 りょう 友 とも 会 かい との連携 れんけい 計画 けいかく が模索 もさく された[160] 。やがて話題 わだい が間接 かんせつ 侵略 しんりゃく などに及 およ び、「あなたは一体 いったい いつ起 た つのか」という主旨 しゅし で三島 みしま に問 と われた山本 やまもと 1佐 さ が、暴徒 ぼうと が皇居 こうきょ に乱入 らんにゅう して天皇 てんのう が侮辱 ぶじょく された時 とき と、治安 ちあん 出動 しゅつどう の際 さい だという主旨 しゅし で答 こた えると、「その時 とき は、あなたのもとで、中隊 ちゅうたい 長 ちょう をやらせてもらいます」と三島 みしま が哄笑 こうしょう して言 い ったという[160] 。
三島 みしま は、山本 やまもと 1佐 さ やそれに繋 つな がる旧 きゅう 陸軍 りくぐん 関係 かんけい 者 しゃ や政府 せいふ 高官 こうかん との接触 せっしょく を通 つう じ、治安 ちあん 出動 しゅつどう の可能 かのう 性 せい の感触 かんしょく を得 え て、以下 いか のようなクーデター計画 けいかく を構想 こうそう していた[31] [165] 。
治安 ちあん 出動 しゅつどう が
必至 ひっし となったとき、まず
三島 みしま と「
楯 だて の
会 かい 」
会員 かいいん が
身 み を
挺 てい してデモ
隊 たい を
排除 はいじょ し、
私 わたし (
山本 やまもと 1
佐 さ )の
同志 どうし が
率 ひき いる
東部 とうぶ 方面 ほうめん の
特別 とくべつ 班 はん も
呼応 こおう する。ここでついに、
自衛隊 じえいたい 主力 しゅりょく が
出動 しゅつどう し、
戒厳 かいげん 令 れい 状態 じょうたい 下 か で
首都 しゅと の
治安 ちあん を
回復 かいふく する。
万一 まんいち 、デモ
隊 たい が
皇居 こうきょ へ
侵入 しんにゅう した
場合 ばあい 、
私 わたし が
待機 たいき させた
自衛隊 じえいたい のヘリコプターで「
楯 だて の
会 かい 」
会員 かいいん を
移動 いどう させ、
機 き を
失 う せず、
断固 だんこ 阻止 そし する。
このとき
三島 みしま ら
十 じゅう 名 めい はデモ
隊 たい 殺傷 さっしょう の
責 せめ を
負 お い、
鞘 さや を
払 はら って
日本 にっぽん 刀 がたな をかざし、
自害 じがい 切腹 せっぷく に
及 およ ぶ。「
反 はん 革命 かくめい 宣言 せんげん 」に
書 か かれているように、「あとに
続 つづ く
者 もの あるを
信 しん じ」て、
自 みずか らの
死 し を
布石 ふせき とするのである。
三島 みしま 「
楯 だて の
会 かい 」の
決起 けっき によって
幕 まく が
開 ひら く
革命 かくめい 劇 げき は、
後 ご から
来 く る
自衛隊 じえいたい によって
完成 かんせい される。クーデターを
成功 せいこう させた
自衛隊 じえいたい は、
憲法 けんぽう 改正 かいせい によって、
国軍 こくぐん としての
認知 にんち を
獲得 かくとく して
幕 まく を
閉 と じる。
— 山本 やまもと 舜 しゅん 勝 しょう 「自衛隊 じえいたい 『影 かげ の部隊 ぶたい 』三島 みしま 由紀夫 ゆきお を殺 ころ した真実 しんじつ の告白 こくはく 」[165]
1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )1月 がつ 18日 にち 、反 はん 日本 にっぽん 共産党 きょうさんとう 系 けい の新 しん 左翼 さよく 学生 がくせい らが東京大学 とうきょうだいがく 安田 やすだ 講堂 こうどう を占拠 せんきょ する東大 とうだい 安田 やすだ 講堂 こうどう 事件 じけん が起 お きた。19日 にち 、警視庁 けいしちょう 機動 きどう 隊 たい と学生 がくせい らとの攻防 こうぼう 戦 せん を見 み ていた三島 みしま は、新 しん 左翼 さよく が時計 とけい 台 だい から飛 と び降 お り自決 じけつ して共産 きょうさん 主義 しゅぎ と日本 にっぽん 主義 しゅぎ が結 むす びつくことを防 ふせ ぐため、「ヘリコプターで催眠 さいみん ガスを撒 ま いて眠 ねむ らせてくれ」と警視庁 けいしちょう に電話 でんわ を入 い れた[124] 。
しかし、三島 みしま の危惧 きぐ は無用 むよう の老婆心 ろうばしん となり、予想 よそう に反 はん し誰 だれ も命 いのち を賭 か けるような意欲 いよく のある東大 とうだい 生 せい などいなかった[31] 。三島 みしま は、あっけなく投降 とうこう する全共闘 ぜんきょうとう に安堵 あんど すると同時 どうじ に失望 しつぼう し、最終 さいしゅう 的 てき には自分 じぶん たちとは価値 かち 観 かん が違 ちが うことを悟 さと って軽蔑 けいべつ するようになった[166] [167] [168] 。
2月 がつ 1日 にち 、論争 ろんそう ジャーナル組 ぐみ と日 にち 学 がく 同 どう との架 か け橋 はし 役 やく であった森田 もりた 必勝 ひっしょう が、日 にち 学 がく 同 どう よりも論争 ろんそう ジャーナル組 ぐみ 側 がわ に完全 かんぜん に傾 かたむ き、小川 おがわ 正洋 まさひろ (明治学院大学 めいじがくいんだいがく 法学部 ほうがくぶ )、野田 のだ 隆史 たかし 、田中 たなか 健一 けんいち 、鶴見 つるみ 友昭 ともあき 、西尾 にしお 俊一 しゅんいち の5名 めい と共 とも に日 にち 学 がく 同 どう を除籍 じょせき となった[139] [169] [注釈 ちゅうしゃく 24] 。この6名 めい は新宿 しんじゅく 区 く 十 じゅう 二 に 社 しゃ (西新宿 にししんじゅく 4丁目 ちょうめ )にあるアパート 小林 こばやし 荘 そう をたまり場 ば としていたため「十 じゅう 二 に 社 しゃ グループ」と呼 よ ばれ、テロル も辞 じ さない一匹狼 いっぴきおおかみ の集団 しゅうだん であった[139] [169] 。
2月 がつ 19日 にち から23日 にち まで、山本 やまもと 舜 しゅん 勝 かち 1佐 さ の指導 しどう の下 した 、板橋 いたばし 区 く の松月 しょうげつ 院 いん で合宿 がっしゅく し、楯 だて の会 かい の特別 とくべつ 訓練 くんれん が行 おこな われた[163] 。暖房 だんぼう もない厳寒 げんかん の本堂 ほんどう で、夜 よる は寝袋 ねぶくろ 、食事 しょくじ は持参 じさん の缶詰 かんづめ という過酷 かこく な状況 じょうきょう の中 なか 、皆 みな が寝静 ねしず まった後 のち 、三島 みしま は白 しろ い息 いき を吐 は きながら机 つくえ に向 む かって執筆 しっぴつ 活動 かつどう もしていたという[163] 。その後 うし ろ姿 すがた を見 み た山本 やまもと 1佐 さ は、「私 わたし はこの人 ひと となら死 し んでもいい」と思 おも った[163] 。
2月 がつ 25日 にち 、山本 やまもと 1佐 さ の旧 きゅう 陸軍 りくぐん 時代 じだい の同期生 どうきせい で三 さん 無 む 事件 じけん の協力 きょうりょく 者 しゃ であった自衛隊 じえいたい 員 いん Mを交 まじ えて、山本 やまもと 宅 たく で三島 みしま との会談 かいだん があった。Mは三島 みしま の『反 はん 革命 かくめい 宣言 せんげん 』の思想 しそう に大 おお いに共鳴 きょうめい していたが、〈有効 ゆうこう 性 せい は問題 もんだい ではない〉という部分 ぶぶん についてだけは、「行動 こうどう する以上 いじょう 勝 か たなければ意味 いみ がない」と反論 はんろん し、敵 てき に優 まさ る武器 ぶき (戦車 せんしゃ 、ミサイル )など、具体 ぐたい 的 てき な手段 しゅだん の有効 ゆうこう 性 せい が第 だい 一 いち だと論 ろん じた[163] 。
それに対 たい して三島 みしま は、「それでは問題 もんだい のたて方 かた がまるで違 ちが うんだ」と、先 ま ず「文化 ぶんか を守 まも る」という目標 もくひょう 意識 いしき の重要 じゅうよう 性 せい 、「日本 にっぽん 刀 がたな 」で戦 たたか うことの比喩 ひゆ 的 てき 意義 いぎ を説 と き、「実際 じっさい に、自 みずか らの命 いのち を賭 か けて斬 き り死 じ にすること、その行為 こうい があとにつづく者 もの をまた作 つく り出 だ すんだ」と、自 みずか らは安全 あんぜん 地帯 ちたい の発射 はっしゃ ボタン一 ひと つで大量 たいりょう 殺戮 さつりく をする物質 ぶっしつ 的 てき 近代 きんだい 武力 ぶりょく 意識 いしき への反論 はんろん を返 かえ した[163] 。
われわれは、
護 まも るべき
日本 にっぽん の
文化 ぶんか ・
歴史 れきし ・
伝統 でんとう の
最後 さいご の
保持 ほじ 者 しゃ であり、
最終 さいしゅう の
代表 だいひょう 者 しゃ であり、
且 か つその
精華 せいか であることを
以 もっ て
自 みずか ら
任 にん ずる。「よりよき
未来 みらい 社会 しゃかい 」を
暗示 あんじ するあらゆる
思想 しそう とわれわれは
先鋭 せんえい に
対立 たいりつ する。なぜなら
未来 みらい のための
行動 こうどう は、
文化 ぶんか の
成熟 せいじゅく を
否定 ひてい し、
伝統 でんとう の
高貴 こうき を
否定 ひてい し、かけがへのない
現在 げんざい をして、すべて
革命 かくめい への
過程 かてい に
化 か せしめるからである。
自分 じぶん 自 みずか らを
歴史 れきし の
化身 けしん とし、
歴史 れきし の
精華 せいか をここに
具現 ぐげん し、
伝統 でんとう の
美的 びてき 形式 けいしき を
体現 たいげん し、
自 みずか らを
最後 さいご の
者 もの とした
行動 こうどう 原理 げんり こそ、
神風 かみかぜ 特攻隊 とっこうたい の
行動 こうどう 原理 げんり であり、
特攻隊 とっこうたい 員 いん は「あとにつづく
者 もの あるを
信 しんじ ず」といふ
遺書 いしょ をのこした。「あとにつづく
者 もの あるを
信 しんじ ず」の
思想 しそう こそ、「よりよき
未来 みらい 社会 しゃかい 」の
思想 しそう に
真 しん に
論理 ろんり 的 てき に
対立 たいりつ するものである。なぜなら、「あとにつづく
者 もの 」とは、これも
亦 また 、
自 みずか らを
最後 さいご の
者 もの と
思 おも ひ
定 さだ めた
行動 こうどう 者 しゃ に
他 た ならぬからである。
有効 ゆうこう 性 せい は
問題 もんだい ではない。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「反 はん 革命 かくめい 宣言 せんげん 」[170]
3月1日 にち から、学生 がくせい を引率 いんそつ した第 だい 3回 かい の体験 たいけん 入隊 にゅうたい が陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう 滝ヶ原 たきがはら 駐屯 ちゅうとん 地 ち で29日 にち まで行 おこな われた。この第 だい 3回 かい 体験 たいけん 入隊 にゅうたい で、小川 おがわ 正洋 まさひろ が参加 さんか して3期生 きせい となった。9日 にち から15日 にち には、体験 たいけん 入隊 にゅうたい 経験 けいけん 者 しゃ (会員 かいいん )を対象 たいしょう とする上級 じょうきゅう のリフレッシャーコースの訓練 くんれん も行 おこな われ、「玩具 おもちゃ の兵隊 へいたい さん」と世間 せけん から呼 よ ばれていた楯 だて の会 かい の実態 じったい は、自衛隊 じえいたい の将校 しょうこう も驚 おどろ くほど精鋭 せいえい にされていった[60] [注釈 ちゅうしゃく 25] 。
ヘンリー・スコット=ストークス はこの体験 たいけん 入隊 にゅうたい を取材 しゅざい し、ロンドン の『ザ・タイムズ 』に記事 きじ 掲載 けいさい した。ストークスがリフレッシャーコースの森田 もりた 必勝 ひっしょう に、「なぜ楯 だて の会 かい に入 はい ったのか」と問 と うと、「三島 みしま に随 したが いていこうと思 おも った。……三島 みしま は天皇 てんのう とつながっているから」と答 こた えた[172] 。
4月 がつ 13日 にち 、ストークスの記事 きじ を読 よ んだロンドンのテムズ・テレビが、市ヶ谷 いちがや 会館 かいかん での楯 だて の会 かい の4月 がつ 例会 れいかい の取材 しゅざい に来 き て、訓練 くんれん の様子 ようす を撮影 さつえい した。三島 みしま は、ストークスや、テムズ・テレビのレポーター・ピーター・テーラーを自宅 じたく に招 まね いた[173] 。
4月 がつ 28日 にち の沖縄 おきなわ デーの日 ひ 、三島 みしま と山本 やまもと 1佐 さ は、新 しん 左翼 さよく 全学 ぜんがく 連 れん のゲリラ活動 かつどう や激 はげ しい渦巻 うずま きデモを視察 しさつ した。その後 ご 、三島 みしま は山本 やまもと 1佐 さ を皇居 こうきょ に面 めん する国立 こくりつ 劇場 げきじょう に連 つ れて行 い き、エレベーターで舞台 ぶたい 下 か の奈落 ならく を案内 あんない し、「奈落 ならく は、私 わたし の信頼 しんらい する友人 ゆうじん が管理 かんり しています。いつでもお使 つか い下 くだ さい」と言 い った[163] 。同月 どうげつ には、『自衛隊 じえいたい 二分 にぶん 論 ろん 』を発表 はっぴょう した[174] 。
三島 みしま は、体験 たいけん 入隊 にゅうたい の訓練 くんれん 中 ちゅう に知 し り合 あ った若 わか い自衛隊 じえいたい 幹部 かんぶ の中 なか に協力 きょうりょく 者 しゃ を見 み つけ出 だ そうとしていたが、三島 みしま に同調 どうちょう する幹部 かんぶ もこの時期 じき に出 で 始 はじ めていた[163] 。その中 なか の1人 ひとり は、山本 やまもと 1佐 さ の真意 しんい が解 わか らないと三島 みしま が漏 も らす言葉 ことば を聞 き き、山本 やまもと 1佐 さ に「もし、あなたの心 しん が変 か わったのなら、われわれも黙 だま っておりませんから、どうかそのつもりでいてください!」と電話 でんわ して来 く る者 もの もあった[163] 。
防衛大学校 ぼうえいだいがくこう を卒業 そつぎょう した将校 しょうこう とも交流 こうりゅう を求 もと め、親交 しんこう を深 ふか めようとしていた三島 みしま に対 たい する防衛庁 ぼうえいちょう 内局 ないきょく の圧力 あつりょく が、この春 はる 頃 ごろ から様々 さまざま なかたちであり、楯 だて の会 かい の訓練 くんれん の規制 きせい がはめられるようになって来 き ていた[60] 。官民 かんみん 一体 いったい となった行動 こうどう の模索 もさく をしていた三島 みしま の自衛隊 じえいたい 内部 ないぶ への苛立 いらだ ちが次第 しだい に強 つよ まり、表向 おもてむ きは自衛隊 じえいたい の内部 ないぶ 批判 ひはん はしなかったが、楯 だて の会 かい の会員 かいいん の間 あいだ では内局 ないきょく への罵倒 ばとう が繰 く り返 かえ された[60] 。
5月11日 にち 、港 みなと 区 く 愛宕 あたご の青松寺 せいしょうじ (三島 みしま の祖父 そふ ・平岡 ひらおか 定太郎 ていたろう の菩提寺 ぼだいじ )境内 けいだい の精進 しょうじん 料理 りょうり ・醍醐 だいご で、三島 みしま と山本 やまもと 1佐 さ ら自衛隊 じえいたい 幹部 かんぶ が会食 かいしょく し、新 しん 左翼 さよく の解放 かいほう 区 く 闘争 とうそう や国防 こくぼう 問題 もんだい の情勢 じょうせい を分析 ぶんせき した。この時 とき 、三島 みしま はボーガン の訓練 くんれん をする適切 てきせつ な場所 ばしょ はないか訊 たず ねたという[163] 。5月13日 にち 、三島 みしま は、東大 とうだい 教養 きょうよう 学部 がくぶ 教室 きょうしつ で開催 かいさい された全共闘 ぜんきょうとう との討論 とうろん 会 かい に出席 しゅっせき し、新 しん 左翼 さよく 学生 がくせい らと激論 げきろん を交 か わした(詳細 しょうさい は討論 とうろん 三島 みしま 由紀夫 ゆきお vs.東大 とうだい 全共闘 ぜんきょうとう ―美 び と共同 きょうどう 体 たい と東大 とうだい 闘争 とうそう を参照 さんしょう )。
5月から三 さん 島 とう は、楯 だて の会 かい の幹部 かんぶ 級 きゅう の7、8名 めい にも居合 いあい を習 なら わせ始 はじ め、9名 めい (持丸 もちまる 博 ひろし 、森田 もりた 必勝 ひっしょう 、倉持 くらもち 清 きよし 、福田 ふくだ 俊作 しゅんさく 、福田 ふくだ 敏夫 としお 、勝又 かつまた 武 たけし 校 こう 、原 はら 昭弘 あきひろ 、小川 おがわ 正洋 まさひろ 、小 しょう 賀 が 正義 まさよし )に日本 にっぽん 刀 がたな を渡 わた し、斬 き り込 こ み可能 かのう の「決死 けっし 隊 たい 」を作 つく った[175] [176] [177] 。5月23日 にち 、山本 やまもと 1佐 さ の下 した 、楯 だて の会 かい 会員 かいいん 100名 めい の特別 とくべつ 訓練 くんれん の初日 しょにち 。26日 にち まで訓練 くんれん が行 おこな われた。この少 すこ し前 まえ 、三島 みしま は伊沢 いさわ 甲子 きのえね 麿 まろ の仲介 ちゅうかい で、山本 やまもと 1佐 さ と共 とも に保利 ほり 茂 しげる 官房 かんぼう 長官 ちょうかん と会 あ った[176] 。
6月 がつ 下旬 げじゅん 、三島 みしま と山本 やまもと 1佐 さ と部下 ぶか 5名 めい の自衛 じえい 官 かん が山 やま の上 うえ ホテル のレストランの個室 こしつ で会食 かいしょく した。三島 みしま は、楯 だて の会 かい の皇居 こうきょ 死守 ししゅ の具体 ぐたい 的 てき な実 じつ 行動 こうどう の計画 けいかく について話 はな し、「すでに決死 けっし 隊 たい を作 つく っている」と山本 やまもと 1佐 さ に決断 けつだん を迫 せま った。5名 めい の自衛 じえい 官 かん らは三島 みしま に賛同 さんどう したが、山本 やまもと 1佐 さ は、「まず白兵戦 はくへいせん の訓練 くんれん をして、その日 ひ に備 そな えるべきだ。それも自 みずか ら突入 とつにゅう するのではなく、暴徒 ぼうと 乱入 らんにゅう を阻止 そし するために」と制 せい して賛同 さんどう しなかった[165] [176] 。
自衛 じえい 官 かん らが、「臆病者 おくびょうもの ! あなたはわれわれを裏切 うらぎ るのか!」と山本 やまもと 1佐 さ に詰 つ め寄 よ るのを三島 みしま が制止 せいし した[165] 。沈黙 ちんもく の後 のち 、三島 みしま は義憤 ぎふん を抑 おさ えた面持 おももち で、「皇居 こうきょ 突入 とつにゅう 、死守 ししゅ 」など三 さん ヶ条 かじょう が書 か かれた紙 かみ を灰皿 はいざら の上 うえ で燃 も やした[176] 。次 つぎ の訓練 くんれん の試案 しあん を山本 やまもと 1佐 さ が話 はな し終 お えた後 のち 、三島 みしま は総理 そうり 官邸 かんてい での演習 えんしゅう 計画 けいかく を提案 ていあん するが、自衛隊 じえいたい に批判 ひはん 的 てき なマスコミ の目 め を恐 おそ れた山本 やまもと 1佐 さ はすぐに「それは駄目 だめ です」と断 ことわ った[176] 。7月、山本 やまもと 1佐 さ が陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 調査 ちょうさ 学校 がっこう 副 ふく 校長 こうちょう に昇格 しょうかく し、次第 しだい に楯 だて の会 かい の指導 しどう 協力 きょうりょく に費 つい やす時間 じかん がなくなっていった[176] 。
この初夏 しょか の頃 ころ 、何人 なんにん かの将校 しょうこう 幹部 かんぶ (陸 りく 将 すすむ )と三島 みしま の間 あいだ で企図 きと されていたクーデター計画 けいかく が闇 やみ に葬 ほうむ られることになった[165] 。将校 しょうこう 幹部 かんぶ らは米 べい 軍 ぐん とパイプがあり、アメリカ側 がわ の了解 りょうかい を得 え て、自衛隊 じえいたい 国軍 こくぐん 化 か に向 む けた治安 ちあん 出動 しゅつどう を行 おこな うはずであったが、キッシンジャー が密 ひそ かに訪中 ほうちゅう の準備 じゅんび を始 はじ めアメリカが親中 しんちゅう 路線 ろせん に転換 てんかん したため(米 べい 中 ちゅう 和解 わかい 計画 けいかく )、日本 にっぽん 国軍 こくぐん 化 か が認 みと められない状況 じょうきょう となった[165] 。
7月 がつ 26日 にち から、学生 がくせい と会員 かいいん を引率 いんそつ した第 だい 4回 かい の体験 たいけん 入隊 にゅうたい が陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう 滝ヶ原 たきがはら 駐屯 ちゅうとん 地 ち で8月 がつ 23日 にち まで行 おこな われた。この頃 ころ から、楯 だて の会 かい の主要 しゅよう 古参 こさん 会員 かいいん の中 なか 辻 つじ 和彦 かずひこ 、万代 ばんだい 潔 きよし らと三島 みしま との間 あいだ の齟齬 そご が表面 ひょうめん 化 か 。三島 みしま の意 い に反 はん して、金銭 きんせん 感覚 かんかく や女性 じょせい 関係 かんけい がルーズだった中辻 なかつじ が財政難 ざいせいなん の論争 ろんそう ジャーナルの資金 しきん 源 げん を田中 たなか 清 きよし 玄 げん に求 もと めたことが決定的 けっていてき な亀裂 きれつ となり、8月 がつ 下旬 げじゅん に、中辻 なかつじ 、万代 よろずよ ら数 すう 名 めい が楯 だて の会 かい を退会 たいかい した[31] [175] [注釈 ちゅうしゃく 26] 。
10月12日 にち 、楯 だて の会 かい の10月 がつ 例会 れいかい で持丸 もちまる 博 ひろし (初代 しょだい 学 がく 生長 せいちょう )も正式 せいしき 退会 たいかい となった。中辻 なかつじ と親 した しい持丸 もちまる は、どちらの側 がわ に付 つ くか迷 まよ ったあげく、論争 ろんそう ジャーナルの編集 へんしゅう と楯 だて の会 かい の活動 かつどう の両方 りょうほう を辞 や めることに決 き めた[31] 。三島 みしま は、「楯 だて の会 かい の仕事 しごと に専念 せんねん してくれれば生活 せいかつ を保証 ほしょう する」と何 なん 度 ど も説得 せっとく して引 ひ き留 と めたが、持丸 もちまる はそれを辞退 じたい した[175] 。
持丸 もちまる の代 か わりに森田 もりた 必勝 ひっしょう が楯 だて の会 かい の学生 がくせい 長 ちょう となり、論争 ろんそう ジャーナル編集 へんしゅう 部 ぶ 内 ない に置 お いていた楯 だて の会 かい 事務所 じむしょ も森田 もりた の住 す むアパートに移転 いてん した[176] 。持丸 もちまる は、会 かい の事務 じむ を手伝 てつだ っていた松浦 まつうら 芳子 よしこ と婚約 こんやく していた。大事 だいじ な右腕 うわん だった持丸 もちまる を失 うしな った三島 みしま は山本 やまもと 1佐 さ に、「男 おとこ はやっぱり女 おんな によって変 か わるんですねえ」と悲 かな しみと怒 いか りの声 こえ でしんみり言 い ったという[176] 。
10月21日 にち の国際 こくさい 反戦 はんせん デーの日 ひ 、三島 みしま と楯 だて の会 かい 会員 かいいん は昨年 さくねん と同様 どうよう に、左翼 さよく デモ(10.21国際 こくさい 反戦 はんせん デー闘争 とうそう )の状況 じょうきょう を確認 かくにん するが、新 しん 左翼 さよく は機動 きどう 隊 たい に簡単 かんたん に鎮圧 ちんあつ された。もはや自衛隊 じえいたい の治安 ちあん 出動 しゅつどう と斬 き り込 こ み隊 たい ・楯 だて の会 かい の出 で る幕 まく はなく、憲法 けんぽう 改正 かいせい と自衛隊 じえいたい 国軍 こくぐん 化 か への道 みち がないことを認識 にんしき した[22] 。警察 けいさつ と自衛隊 じえいたい との相違 そうい を明確 めいかく 化 か するため、政府 せいふ (防衛庁 ぼうえいちょう )はこのチャンスにあえて自衛隊 じえいたい を治安 ちあん 出動 しゅつどう すべきであると考 かんが えていた三島 みしま にとって、失望 しつぼう 感 かん と憤慨 ふんがい は大 おお きかった[22] [60] 。三島 みしま は新宿 しんじゅく の街 まち を歩 ある きながら、「だめだよ、これでは。まったくだめだよ」と独 ひと り言 ごと を繰 く り返 かえ し、自暴自棄 じぼうじき になったように「だめだよ、これでは」と叫 さけ んだという[60] 。
三島 みしま と家族 かぞく ぐるみの付 つ き合 あ いがあった佐々淳行 さっさあつゆき によれば、このときの視察 しさつ は「(三島 みしま に)マスコミの場 ば で機動 きどう 隊 たい の応援 おうえん をしていただくようお願 ねが いせよ」との上司 じょうし の指示 しじ を受 う けた佐々 ささ の計 けい らいによるものであったが、戻 もど ってきた三島 みしま は「もう僕 ぼく らの出番 でばん はないよ。機動 きどう 隊員 たいいん たちは皆 みな 、白 しろ い歯 は を見 み せながら余裕綽々 よゆうしゃくしゃく 過激 かげき 派 は を捌 さば いている。僕 ぼく らの出番 でばん を奪 うば ってしまった佐々 ささ さん、貴方 あなた を恨 うら みますよ」と述 の べた。佐々 ささ は「もうゲバ闘争 とうそう は終 おわ りです。貴方 あなた も文学 ぶんがく の世界 せかい に戻 もど られては如何 いか ですか」と説得 せっとく したが、以後 いご 両者 りょうしゃ の間 あいだ で音信 いんしん は途絶 とだ えた[38] 。
10月25日 にち 、三島 みしま が少年 しょうねん 時代 じだい に書 か いた「花 はな ざかりの森 もり 」を激賞 げきしょう し、出征 しゅっせい 地 ち のジョホールバル にて終戦 しゅうせん 直後 ちょくご に拳銃 けんじゅう 自決 じけつ した蓮田 はすだ 善明 よしあき (享年 きょうねん 41)の25回忌 かいき が、中央 ちゅうおう 本線 ほんせん 沿線 えんせん ・荻窪 おぎくぼ の料亭 りょうてい ・桃山 ももやま で行 おこな われ[178] [179] 、その席上 せきじょう 、三島 みしま は、「私 わたし の唯一 ゆいいつ の心 しん のよりどころは蓮田 はすだ さんであって、いまは何 なん ら迷 まよ うところもためらうこともない」、「私 わたし も蓮田 はすだ さんのあのころの年齢 ねんれい に達 たっ した」と挨拶 あいさつ の辞 じ を述 の べていたという[180] [181] 。
10月31日 にち 、三島 みしま 宅 たく で行 おこな われた楯 だて の会 かい 班長 はんちょう 会議 かいぎ で、10・21が不発 ふはつ に終 お わったことで今後 こんご の計画 けいかく をどうするかが討議 とうぎ された。森田 もりた は、「楯 だて の会 かい と自衛隊 じえいたい で国会 こっかい を包囲 ほうい し、憲法 けんぽう 改正 かいせい を発議 はつぎ させたらどうだろうか」と提案 ていあん するが、武器 ぶき の調達 ちょうたつ の問題 もんだい や、国会 こっかい 会期 かいき 中 ちゅう などで実行 じっこう 困難 こんなん と三島 みしま は返答 へんとう した[182] 。
11月3日 にち の15時 じ から、国立 こくりつ 劇場 げきじょう 屋上 おくじょう で、陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう 前 ぜん 校長 こうちょう ・碇 いかり 井 い 準 じゅん 三 さん 元 げん 陸 りく 将 すすむ を観閲 かんえつ 者 しゃ に迎 むか えて、楯 だて の会 かい 結成 けっせい 一 いち 周年 しゅうねん パレードが行 おこな われた[183] 。演奏 えんそう は陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう 音楽 おんがく 隊 たい 。女優 じょゆう の村松 むらまつ 英子 えいこ や倍 ばい 賞 しょう 美津子 みつこ が花束 はなたば を贈呈 ぞうてい した。同 どう 劇場 げきじょう 2階 かい 大食 たいしょく 堂 どう でのパーティーでは、藤原 ふじわら 岩 いわ 市 し 元 もと 陸 りく 将 すすむ 、三輪 みわ 良雄 よしお 元 もと 防衛 ぼうえい 事務次官 じむじかん が祝辞 しゅくじ を述 の べ、三島 みしま が挨拶 あいさつ した[124] [183] 。
単 たん に、
軍隊 ぐんたい 的 てき 行動 こうどう であるが
故 ゆえ に
嫌悪 けんお する、
戦後 せんご の
風潮 ふうちょう は
私 わたし は
非常 ひじょう にある
意味 いみ で
偽善 ぎぜん であると
思 おも ってきたわけであります。ここで、
私 わたし は
決 けっ して
軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ とか、
ファシズム とかという
意味 いみ ではなしに、
日本人 にっぽんじん が
市民 しみん 生活 せいかつ のなかに、
自然 しぜん に
軍隊 ぐんたい 教養 きょうよう を
持 も っていつでも
銃 じゅう を
持 も って
立 た ちあがれる、
外的 がいてき な
侵入 しんにゅう に
際 さい しても
銃 じゅう をとって
立 た ちあがれるだけの、
訓練 くんれん をへた
人間 にんげん が
青年 せいねん のなかに
一人 ひとり でも
多 おお くならなければいかん、そこではじめて
我々 われわれ にも
自信 じしん をもって
文化 ぶんか ないし、
思想 しそう を
自分 じぶん のなかで
養 やしな い、
育 そだ てることができるんだと
思 おも ったことが、
楯 だて の
会 かい をつくった
動機 どうき であります。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「楯 だて の会 かい 1周年 しゅうねん 挨拶 あいさつ 」[10]
11月16日 にち 、新 しん 左翼 さよく による佐藤 さとう 首相 しゅしょう 訪米 ほうべい 阻止 そし 闘争 とうそう が行 おこな われるが、再 ふたた び機動 きどう 隊 たい に簡単 かんたん に鎮圧 ちんあつ され自衛隊 じえいたい の治安 ちあん 出動 しゅつどう は完全 かんぜん に絶望 ぜつぼう 的 てき となった。11月28日 にち 、三島 みしま は山本 やまもと 1佐 さ を招 まね いて自宅 じたく で「最終 さいしゅう 的 てき 計画 けいかく 案 あん 」の討議 とうぎ を開 ひら くが、山本 やまもと 1佐 さ から具体 ぐたい 策 さく が得 え られず終 お わった[183] 。12月8日 にち から4日間 にちかん 、三島 みしま は北朝鮮 きたちょうせん 武装 ぶそう ゲリラに対 たい する軍事 ぐんじ 事情 じじょう 視察 しさつ のために韓国 かんこく に行 い った[183] 。
12月22日 にち 、三島 みしま と楯 だて の会 かい は、陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 習志野 ならしの 駐屯 ちゅうとん 地 ち で例会 れいかい を開 ひら き、空挺 くうてい 団 だん で落下傘 らっかさん 降下 こうか の予備 よび 訓練 くんれん を行 おこ なった[173] 。訓練 くんれん 後 ご 、三島 みしま は憲法 けんぽう 改正 かいせい の緊急 きんきゅう 性 せい を説 と いた。これに基 もと づいて、 阿部 あべ 勉 つとむ (1期生 きせい )を班長 はんちょう とする「憲法 けんぽう 改正 かいせい 草案 そうあん 研究 けんきゅう 会 かい 」が楯 だて の会 かい 内 ない に組織 そしき されることが決 き まり、毎週 まいしゅう 水曜日 すいようび の夜 よる に3時 じ 間 あいだ 討議 とうぎ 会 かい を実施 じっし することとなった[184] [185] 。
12月1日 にち に三島 みしま は、翌年 よくねん 正月 しょうがつ に発表 はっぴょう する村上 むらかみ 一郎 いちろう との対談 たいだん で、現下 げんか の自衛隊 じえいたい には、二・二六事件 ににろくじけん のような革命 かくめい を起 お こせる体制 たいせい はなく、1佐 さ 以上 いじょう の将校 しょうこう でなければ何 なに も起 お こせない状態 じょうたい だと語 かた っていた[186] 。
1970年 ねん (昭和 しょうわ 45年 ねん )正月 しょうがつ 、山本 やまもと 舜 しゅん 勝 かち 1佐 さ や楯 だて の会 かい 会員 かいいん たちが集 あつ まった三島 みしま 邸 てい での新年 しんねん 会 かい で、民間 みんかん 防衛 ぼうえい の話 はなし に及 およ んだ際 さい 、三島 みしま が何気 なにげ なく、「自衛隊 じえいたい に刃 は を向 む けることもあり得 え るでしょうね」と発 はっ した[187] 。
1月 がつ 末 まつ 、三島 みしま は昨年 さくねん 12月 がつ に訪韓 ほうかん した際 さい に世話 せわ になった韓国 かんこく 陸軍 りくぐん の元 もと 少将 しょうしょう Rと山本 やまもと 舜 しゅん 勝 かち 1佐 さ とを招 まね いて会食 かいしょく 。Rの辞去 じきょ 後 ご 、三島 みしま が山本 やまもと 1佐 さ に、「(クーデターを)やりますか!」と問 と うが、山本 やまもと 1佐 さ は、「やるなら私 わたし を斬 き ってからにして下 くだ さい」と返答 へんとう した[187] 。この頃 ころ 三 さん 島 とう は、山本 やまもと 1佐 さ が「硬骨 こうこつ 」と評価 ひょうか している自衛隊 じえいたい 将校 しょうこう と接触 せっしょく していた[185] 。
3月1日 にち 、学生 がくせい と会員 かいいん を引率 いんそつ した第 だい 5回 かい の体験 たいけん 入隊 にゅうたい が陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう 滝ヶ原 たきがはら 駐屯 ちゅうとん 地 ち で、28日 にち まで行 おこな われた。この頃 ころ から、森田 もりた 必勝 ひっしょう (学生 がくせい 長 ちょう 、第 だい 1班 はん 班長 はんちょう )と三島 みしま は決起 けっき 計画 けいかく を話 はな し合 あ うようになるが、まだ具体 ぐたい 策 さく はなかった。同月 どうげつ 、三島 みしま は村松 むらまつ 剛 つよし に、「蓮田 はすだ 善明 よしあき は、おれに日本 にっぽん のあとをたのむといって出征 しゅっせい したんだよ」と呟 つぶや いた[98] 。
3月 がつ 末 まつ に突然 とつぜん 、三島 みしま は和服 わふく 姿 すがた で錦 にしき 袋 ふくろ に入 い れた日本 にっぽん 刀 がたな を携 たずさ えて山本 やまもと 1佐 さ 宅 たく を訪問 ほうもん した。山本 やまもと 1佐 さ は日本 にっぽん 刀 がたな の話題 わだい を出 だ さないようにしていたが、三島 みしま がその刀 かたな を自分 じぶん に提供 ていきょう して決意 けつい を促 うなが すつもりのような気 き がした[187] 。帰 かえ り際 ぎわ に三島 みしま は、「山本 やまもと 1佐 さ は冷 つめ たいですな」と言 い い、「やるなら制服 せいふく のうちに頼 たの みますよ」と山本 やまもと 1佐 さ は返 かえ した[187] 。
4月 がつ 3日 にち 、三島 みしま は千代田 ちよだ 区 く 内幸町 うちさいわいちょう 1-1の帝国 ていこく ホテル のコーヒーショップにおいて小 しょう 賀 が 正義 まさよし (第 だい 5班 はん 班長 はんちょう )に、最後 さいご まで行動 こうどう を共 とも にする意志 いし があるかを訊 たず ね、小 しょう 賀 が は承諾 しょうだく した[7] 。4月 がつ 10日 とおか 、三島 みしま は自宅 じたく に招 まね いた小川 おがわ 正洋 まさひろ (第 だい 7班 はん 班長 はんちょう )にも、「最終 さいしゅう 行動 こうどう 」に参加 さんか する意志 いし があるかどうか打診 だしん し、小川 おがわ も小 しょう 賀 が 同様 どうよう に沈思 ちんし 黙考 もっこう の末 すえ に承諾 しょうだく した[7] [18] 。
4月 がつ 下旬 げじゅん 、11年 ねん 前 まえ の1959年 ねん (昭和 しょうわ 34年 ねん )から毎号 まいごう 読 よ んでいた『蓮田 はすだ 善明 よしあき とその死 し 』(小 しょう 高根 たかね 二郎 じろう 著 ちょ )が3月刊行 かんこう されたため、三島 みしま はそれを携 たずさ え山本 やまもと 1佐 さ 宅 たく を訪問 ほうもん し、「私 わたし の今日 きょう は、この本 ほん によって決 き まりました」と献呈 けんてい した[187] 。5月、「憲法 けんぽう 改正 かいせい 草案 そうあん 研究 けんきゅう 会 かい 」のための資料 しりょう 『問題 もんだい 提起 ていき 』の第 だい 1回 かい 「新 しん 憲法 けんぽう における『日本 にっぽん 』の欠落 けつらく 」を三島 みしま は配布 はいふ した[188] [注釈 ちゅうしゃく 27] 。
5月 がつ 中旬 ちゅうじゅん 、三島 みしま 宅 たく に森田 もりた 必勝 ひっしょう 、小 しょう 賀 が 正義 まさよし 、小川 おがわ 正洋 まさひろ の3名 めい が集 あつ まった。楯 だて の会 かい と自衛隊 じえいたい が共 とも に武装 ぶそう 蜂起 ほうき して国会 こっかい に入 はい り、憲法 けんぽう 改正 かいせい を訴 うった えるという「最良 さいりょう の方法 ほうほう 」を討議 とうぎ するが、具体 ぐたい 的 てき な方法 ほうほう はまだ模索 もさく 中 ちゅう であった[7] 。6月2日 にち 、三島 みしま と楯 だて の会 かい は陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう 滝ヶ原 たきがはら 駐屯 ちゅうとん 地 ち で、上級 じょうきゅう 者 しゃ のリフレッシャーコースを、4日 にち まで行 おこ なった[171] 。この回 かい は食糧 しょくりょう を支給 しきゅう されず不眠 ふみん 不休 ふきゅう で青木 あおき ヶ原 げん 樹海 じゅかい を行軍 こうぐん する過酷 かこく な訓練 くんれん だった[171] 。
6月13日 にち 、三島 みしま 、森田 もりた 、小 しょう 賀 が 、小川 おがわ の4名 めい が港 みなと 区 く 赤坂 あかさか 葵 あおい 町 まち 3番地 ばんち (現 げん ・虎ノ門 とらのもん 2丁目 ちょうめ 10-4)のホテルオークラ 821号 ごう 室 しつ に集合 しゅうごう 。これまで接触 せっしょく してきた自衛隊 じえいたい 将校 しょうこう らにはもう期待 きたい できないことを悟 さと り、自分 じぶん たちだけで実行 じっこう する具体 ぐたい 的 てき な計画 けいかく を練 ね った[7] [18] [185] 。
三島 みしま は、自衛隊 じえいたい の弾薬 だんやく 庫 くら を占拠 せんきょ して武器 ぶき を確保 かくほ し爆破 ばくは すると脅 おど す、あるいは東部 とうぶ 方面 ほうめん 総監 そうかん を拘束 こうそく するかして自衛隊 じえいたい 員 いん を集結 しゅうけつ させて、国会 こっかい 占拠 せんきょ ・憲法 けんぽう 改正 かいせい を議決 ぎけつ させる計画 けいかく を提案 ていあん した[7] 。討議 とうぎ の結果 けっか 、東部 とうぶ 方面 ほうめん 総監 そうかん を拘束 こうそく する方法 ほうほう を取 と ることにし、楯 だて の会 かい 2周年 しゅうねん 記念 きねん パレードに総 そう 監 かん を招 まね いて、その際 さい に拘束 こうそく する案 あん などが検討 けんとう された[7] 。
6月21日 にち 、三島 みしま ら4名 めい は、千代田 ちよだ 区 く 駿河台 するがだい 1丁目 ちょうめ 1番地 ばんち の山 やま の上 うえ ホテル 206号 ごう 室 しつ に集合 しゅうごう 。三島 みしま から、市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち 内 ない のヘリポート を楯 だて の会 かい の体育 たいいく 訓練 くんれん 場所 ばしょ として借用 しゃくよう できる許可 きょか を得 え ることに成功 せいこう した旨 むね が報告 ほうこく された。そして、総 そう 監 かん 室 しつ がヘリポートから遠 とお いため、拘束 こうそく 相手 あいて を32連隊 れんたい 長 ちょう ・宮田 みやた 朋 とも 幸 こう 1佐 さ に変更 へんこう することが提案 ていあん され、全員 ぜんいん が賛同 さんどう した[7] 。
7月 がつ 5日 にち 、三島 みしま ら4名 めい は、山 やま の上 うえ ホテル207号 ごう 室 しつ に集合 しゅうごう 。決行 けっこう 日 び を11月の楯 だて の会 かい 例会 れいかい 日 び にすることに決 き め、例会 れいかい 後 ご のヘリポートでの訓練 くんれん 中 ちゅう に、三島 みしま が小 しょう 賀 が の運転 うんてん する車 くるま に武器 ぶき の日本 にっぽん 刀 がたな を積 つ んで32連隊 れんたい 長 ちょう 室 しつ に赴 おもむ き、宮田 みやた 連隊 れんたい 長 ちょう を監禁 かんきん する手順 てじゅん を決定 けってい した[7] 。
同月 どうげつ 、三島 みしま は保利 ほり 茂 しげる 官房 かんぼう 長官 ちょうかん と中曽根 なかそね 康弘 やすひろ 防衛庁 ぼうえいちょう 長官 ちょうかん に、防衛 ぼうえい に関 かん する文書 ぶんしょ を政府 せいふ への「建白 けんぱく 書 しょ 」として託 たく したが、中曽根 なかそね 防衛庁 ぼうえいちょう 長官 ちょうかん はそれを閣僚 かくりょう 会議 かいぎ で佐藤 さとう 栄作 えいさく 首相 しゅしょう に提出 ていしゅつ しなかった[189] 。
7月 がつ 11日 にち 、小 しょう 賀 が は三島 みしま から渡 わた された現金 げんきん 20万 まん 円 えん で中古 ちゅうこ の41年 ねん 式 しき 白 しろ 塗 ぬ りトヨタ・コロナ を久下 くげ 木 き モータースから購入 こうにゅう した[7] 。7月 がつ 下旬 げじゅん 、三島 みしま ら4名 めい は、千代田 ちよだ 区 く 紀尾井町 きおいちょう 4番地 ばんち のホテルニューオータニ のプールで、決起 けっき を共 とも にする楯 だて の会 かい メンバーをもう1人 にん 増 ふ やすことにし、誰 だれ にするか相談 そうだん した[7] 。この夏 なつ 、三島 みしま は3名 めい それぞれに8万 まん 円 えん を渡 わた し、北海道 ほっかいどう に慰安 いあん 旅行 りょこう させた[10] [18] 。
この頃 ころ 、三重 みえ 県 けん 四日市 よっかいち 市 し に帰省 きせい した森田 もりた は、旧知 きゅうち の上田 うえだ 茂 しげる に、「三島 みしま 由紀夫 ゆきお に会 あ って自分 じぶん の考 かんが え方 かた が理論 りろん 化 か できた。だから三島 みしま をひとりで死 し なせるわけにはいかん」と言 い った[169] 。8月28日 にち 、再 ふたた びホテルニューオータニのプールに集 あつ まった三島 みしま ら4名 めい は、古賀 こが 浩靖 ひろやす (第 だい 5班 はん 副 ふく 班長 はんちょう )を仲間 なかま に加 くわ えることを決定 けってい した[7] [10] 。
9月1日 にち 、「憲法 けんぽう 改正 かいせい 草案 そうあん 研究 けんきゅう 会 かい 」の帰 かえ り、森田 もりた と小 しょう 賀 が は新宿 しんじゅく 区 く 西新宿 にししんじゅく 3丁目 ちょうめ 8-1の深夜 しんや スナック 「パークサイド」に古賀 こが を誘 さそ い、「最終 さいしゅう 計画 けいかく 」を説明 せつめい して賛同 さんどう を得 え た[7] [29] 。2人 ふたり から、「三島 みしま 先生 せんせい と生死 せいし をともにできるか」と問 と われ、「浩 ひろし ちゃん、命 いのち をくれないか」と頼 たの まれた古賀 こが は、楯 だて の会 かい に入会 にゅうかい した時 とき からその覚悟 かくご ができていたため承諾 しょうだく し、同志 どうし に加 くわ えてくれたことを感謝 かんしゃ した[18] [29] [60] 。
9月9日 にち 、三島 みしま は銀座 ぎんざ 4丁目 ちょうめ のフランス料理 りょうり 店 てん に古賀 こが を招 まね き、計画 けいかく の具体 ぐたい 案 あん を聞 き かせ、決行 けっこう 日 び は11月25日 にち だと語 かた った[7] 。三島 みしま は、「自衛隊 じえいたい 員 いん 中 ちゅう に行動 こうどう を共 とも にするものがでることは不可能 ふかのう だろう、いずれにしても、自分 じぶん は死 し ななければならない」[7] 、「ここまで来 き たら、地獄 じごく の三 さん 丁目 ちょうめ だよ」と言 い った[29] 。
9月 がつ 10日 とおか 、三島 みしま と楯 だて の会 かい は陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう 滝ヶ原 たきがはら 駐屯 ちゅうとん 地 ち で、上級 じょうきゅう 者 しゃ のリフレッシャーコースを12日 にち まで行 おこ なった。9月15日 にち 、三島 みしま 、森田 もりた 、小 しょう 賀 が 、小川 おがわ 、古賀 こが の5名 めい は、千葉 ちば 県 けん 野田 のだ 市 し の興 きょう 風 ふう 館 かん で行 おこな われた戸隠 とがくし 流 りゅう 忍法 にんぽう 演武 えんぶ 会 かい (忍者 にんじゃ 大会 たいかい )を見物 けんぶつ し、帰途 きと に墨田 すみだ 区 く 両国 りょうこく 1丁目 ちょうめ 10-2のイノシシ 料理 りょうり 店 てん 「ももんじ屋 や 」で会食 かいしょく して同志 どうし 的 てき 結束 けっそく を固 かた めた[7] [29] 。
この頃 ころ 、三島 みしま は約 やく 4年 ねん 近 ちか く世話 せわ になった陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう 滝ヶ原 たきがはら 駐屯 ちゅうとん 地 ち の機関 きかん 紙 し に感謝 かんしゃ の言葉 ことば と複雑 ふくざつ な心境 しんきょう を綴 つづ った[190] 。
ここでは
終始 しゅうし 温 あたた かく
迎 むかえ へられ、
利害 りがい 関係 かんけい の
何 なに もからまない
真 しん の
人情 にんじょう と
信頼 しんらい を以つて
遇 ぐう され、
娑婆 しゃば ではついに
味 あじ はふことのない
男 おとこ の
涙 なみだ といふものを
味 あじ はつた。
私 わたし にとつてはここだけが
日本 にっぽん であつた。
娑婆 しゃば の
日本 にっぽん の
喪 も つたものの
悉 ことごと くがここにあつた。
日本 にっぽん の
男 おとこ の
世界 せかい の
厳 きび しさと
美 うつく しさがここだけに
活 い きてゐた。われわれは
直接 ちょくせつ 、
自分 じぶん の
家族 かぞく の
運命 うんめい を
気 き づかふやうに、
日本 にっぽん の
運命 うんめい について
語 かた り、
日本 にっぽん の
運命 うんめい について
憂 うれ へた。(
中略 ちゅうりゃく )ここは
私 わたし の
鍛錬 たんれん の
場所 ばしょ でもあり、
思索 しさく の
場所 ばしょ でもあつた。
私 わたし は、ここで
自己 じこ 放棄 ほうき の
尊 とうと さと
厳 きび しさを
教 きょう へられ、
思想 しそう と
行為 こうい の
一体化 いったいか を、
精神 せいしん と
肉体 にくたい の
綜合 そうごう のきびしい
本道 ほんどう を
教 きょう へられた。(
中略 ちゅうりゃく )
歴代 れきだい 連隊 れんたい 長 ちょう を
始 はじ め、
滝ヶ原 たきがはら 分 わか とん
地 ち の
方々 かたがた のすべてに、
私 わたし は
感謝 かんしゃ の
一語 いちご あるのみである。
同時 どうじ に、
二 に 六 ろく 時 じ 中 ちゅう 自衛隊 じえいたい の
運命 うんめい のみを
憂 うれ へ、その
未来 みらい のみを
馳 は せ、その
打開 だかい のみに
心 しん を
砕 くだ く、
自衛隊 じえいたい について「
知 し りすぎた」
男 おとこ になつてしまつた
自分 じぶん 自身 じしん の、ほとんど
狂 きょう 熱 ねつ 的 てき 心情 しんじょう を
自 みずか らあはれみもするのである。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「滝ヶ原 たきがはら 分 ぶん 屯 たむろ 地 ち は第 だい 二 に の我 わ が家 や 」[190]
9月にヘンリー・スコット・ストークス 宅 たく の夕食 ゆうしょく 会 かい に招 まね かれた三島 みしま は、食事 しょくじ 後 ご に暗 くら い面持 おもも ちで、日本 にっぽん から精神 せいしん 的 てき 伝統 でんとう が失 うしな われ物質 ぶっしつ 主義 しゅぎ がはびこってしまったと言 い い、「日本 にっぽん は緑色 みどりいろ の蛇 へび の呪 のろ いにかかっている 。日本 にっぽん の胸 むね には、緑色 みどりいろ の蛇 へび が喰 く いついている。この呪 のろ いから逃 のが れる道 みち はない 」という不思議 ふしぎ な喩 たと え話 ばなし をした[191] [注釈 ちゅうしゃく 28] 。三島 みしま は時々 ときどき 予言 よげん めいたことを突然 とつぜん 発 はっ することがあり、春 はる 頃 ごろ にも茶 ちゃ の間 ま で父 ちち ・梓 あずさ に日本 にっぽん の未来 みらい を案 あん ずる言葉 ことば を言 い っていた[192] 。
ある
晩 ばん 、
事件 じけん の
年 とし の
春 はる 頃 ごろ でしたか、
伜 せがれ は
茶 ちゃ の
間 ま で、「
日本 にっぽん は
変 へん なことになりますよ。ある
日 ひ 突然 とつぜん 米国 べいこく は
日本 にっぽん の
頭 あたま 越 ご しに
中国 ちゅうごく に
接触 せっしょく しますよ、
日本 にっぽん はその
谷間 たにま の
底 そこ から
上 うえ を
見上 みあ げてわずかに
話 はな し
合 あ いを
盗 ぬす み
聞 ぎ きできるにとどまるでしょう。わが
友 とも 台湾 たいわん はもはやたのむにたらずと、どこかに
行 い ってしまうでしょう。
日本 にっぽん は
東洋 とうよう の
孤児 こじ となって、やがて
人買 ひとか い商人 しょうにん の
商品 しょうひん に
転落 てんらく するのではないでしょうか。いまや
日本 にっぽん の
将来 しょうらい を
託 たく するに
足 た るのは、
実 じつ に
十 じゅう 代 だい の
若者 わかもの の
他 ほか はないのです」と
申 もう しました。これを
後 あと で
伜 せがれ のある
先輩 せんぱい に
話 はな しますと
自分 じぶん もあなたよりずーっと
早 はや い
四 よん 十 じゅう 三 さん 年 ねん の
春 はる に、
銀座 ぎんざ で
食事 しょくじ 中 ちゅう にまったく
同 おな じ
予言 よげん を
聞 き かされたものです、と
驚 おどろ いておりました。
— 平岡 ひらおか 梓 あずさ 「伜 せがれ ・三島 みしま 由紀夫 ゆきお 」[192]
9月25日 にち 、三島 みしま ら5名 めい は、新宿 しんじゅく 3丁目 ちょうめ 17番地 ばんち の伊勢丹 いせたん 会館 かいかん 後楽園 こうらくえん サウナ に集合 しゅうごう 。三島 みしま は楯 だて の会 かい 例会 れいかい の招集 しょうしゅう 方法 ほうほう を変更 へんこう することを提案 ていあん し、特 とく に11月の例会 れいかい は、自衛隊 じえいたい 関係 かんけい 者 しゃ を近親 きんしん や親戚 しんせき に持 も つ者 もの を除 のぞ いた隊員 たいいん に三島 みしま が直接 ちょくせつ 連絡 れんらく することを決 き め[7] 、就職 しゅうしょく や結婚 けっこん が決 き まっている者 もの も除 のぞ いた[18] 。10月初 はじ め、死 し ぬ前 まえ に故郷 こきょう の北海道 ほっかいどう の山河 さんが を見 み ておきたいと言 い う古賀 こが のため、三島 みしま は旅費 りょひ の半額 はんがく 1万 まん 円 えん を与 あた えた[29] 。
10月2日 にち 、三島 みしま ら5名 めい は、銀座 ぎんざ 2丁目 ちょうめ 6-9の中華 ちゅうか 料理 りょうり 店 てん 「第 だい 一 いち 楼 ろう 」に集合 しゅうごう 。11月の楯 だて の会 かい 例会 れいかい を午前 ごぜん 11時 じ に開 ひら いて、例会 れいかい 後 ご の市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち のヘリポートでの通常 つうじょう 訓練 くんれん を開始 かいし 後 ご 、三島 みしま と小 しょう 賀 が が葬儀 そうぎ 参列 さんれつ を理由 りゆう に退席 たいせき して、日本 にっぽん 刀 がたな を車 くるま に搬入 はんにゅう する手筈 てはず で32連隊 れんたい 長 ちょう を拘束 こうそく するという具体 ぐたい 的 てき 手順 てじゅん を決定 けってい した[7] 。
その行動 こうどう の際 さい 、ありのままを報道 ほうどう してもらえる信頼 しんらい できる記者 きしゃ 2名 めい を予 あらかじ めパレスホテル に待機 たいき させておき、一緒 いっしょ に車 くるま に同乗 どうじょう させ、32連隊 れんたい 隊舎 たいしゃ 前 まえ の車中 しゃちゅう で待 ま たせることも同時 どうじ に決定 けってい した[7] 。10月9日 にち 、北海道 ほっかいどう 旅行 りょこう 中 ちゅう の古賀 こが を除 のぞ いた4名 めい が「第 だい 一 いち 楼 ろう 」に再 ふたた び集合 しゅうごう し、計画 けいかく を再 さい 確認 かくにん した[7] 。
10月17日 にち 、三島 みしま は持丸 もちまる 博 ひろし を自宅 じたく に呼 よ び、1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )2月 がつ 25日 にち に作成 さくせい した血盟 けつめい 状 じょう を持 も って来 き てほしいと頼 たの み、著名 ちょめい した者 もの の多 おお くが脱退 だったい したので焼却 しょうきゃく したい旨 むね を伝 つた えた[122] [193] 。10月19日 にち 、三島 みしま ら5名 めい は10月 がつ 例会 れいかい の後 のち 、千代田 ちよだ 区 く 麹 こうじ 町 まち 1丁目 ちょうめ 4番地 ばんち の東条 とうじょう 会館 かいかん で、楯 だて の会 かい の制服 せいふく を着用 ちゃくよう して記念 きねん 撮影 さつえい を行 おこ なった[7] 。
10月23日 にち 、都内 とない の火葬 かそう 場 じょう や給電 きゅうでん 指令 しれい 所 しょ で楯 だて の会 かい の演習 えんしゅう を行 おこ なった。この演習 えんしゅう 前 まえ に市ヶ谷 いちがや 私 わたし 学会 がっかい 館 かん に集合 しゅうごう した会員 かいいん の前 まえ で、黒板 こくばん に「coup d'État(クーデター )」と無言 むごん で書 か いた三島 みしま は、都市 とし 機能 きのう をマヒ させるための具体 ぐたい 的 てき な場所 ばしょ を示 しめ した[171] [194] 。会員 かいいん たちは、いよいよ楯 だて の会 かい 全員 ぜんいん でのクーデターが始 はじ まるのだと思 おも ったという[171] 。この訓練 くんれん 後 ご 、三島 みしま は夜 よる 1人 にん で、山本 やまもと 1佐 さ 宅 たく を訪 たず ねた[19] 。この日 ひ の訪問 ほうもん を山本 やまもと 1佐 さ は、「赤垣 あかがき 源蔵 げんぞう 徳利 とっくり の別 わか れ」のようなものだったのではないかと回想 かいそう している[19] 。
10月27日 にち 、血盟 けつめい 状 じょう を、持丸 もちまる とともに劇団 げきだん 浪 なみ 曼劇場 じょう の庭 にわ で焼却 しょうきゃく した[193] 。しかし、持丸 もちまる はこれを渡 わた す前 まえ に、血盟 けつめい 状 じょう のコピーを内密 ないみつ にとっておいた[122] 。焼却 しょうきゃく 後 ご 、港 みなと 区 く 六本木 ろっぽんぎ の「アマンド 」でコーヒーを飲 の みながら三 さん 島 とう は持丸 もちまる に、「お前 まえ がやめた後 のち 、会 かい の性格 せいかく が変 か わったよ。これから(来年 らいねん から)は会 かい のかたちを変 か えようと思 おも う。お前 まえ も、会 かい のことはよく知 し っているので、外部 がいぶ からひとつ応援 おうえん してくれよ」と言 い ったという[122] [193] 。
11月3日 にち 、三島 みしま 、森田 もりた 、小 しょう 賀 が 、小川 おがわ 、古賀 こが の5名 めい は「アマンド」で待 ま ち合 あ わせ、六本木 ろっぽんぎ 4丁目 ちょうめ 5-3のサウナ「ミスティー」に集合 しゅうごう 。檄文 げきぶん と要求 ようきゅう 項目 こうもく の原案 げんあん を検討 けんとう した[29] 。この時 とき 、全員 ぜんいん 自決 じけつ するという計画 けいかく を三島 みしま は止 と めさせ、「死 し ぬことはやさしく、生 い きることはむずかしい。これに堪 こた えなければならない」と小 しょう 賀 が 、小川 おがわ 、古賀 こが の3名 めい に命 めい じた[29] 。
三島 みしま は、「今 いま まで死 し ぬ覚悟 かくご でやってきてくれた、その気持 きもち は嬉 うれ しく思 おも う。しかし、生 い きて連隊 れんたい 長 ちょう を護衛 ごえい し、連隊 れんたい 長 ちょう を自決 じけつ させないように連 つ れて行 い く任務 にんむ も誰 だれ かがやらなければならない。その任務 にんむ を古賀 こが 、小 しょう 賀 が 、小川 おがわ の3人 にん に頼 たの む、森田 もりた は介錯 かいしゃく をさっぱりとやってくれ、余 あま り苦 くる しませるな」と言 い った[7] 。
森田 もりた は、「俺 おれ たちは、生 い きているにせよ死 し んで行 い くにしろ一緒 いっしょ なんだ、またどこかで会 あ えるのだから」、「(われわれは一心 いっしん 同体 どうたい だから)あの世 よ で魂 たましい はひとつになるんだ」と言 い った[18] [29] [182] 。三島 みしま は前日 ぜんじつ の11月2日 にち 、銀座 ぎんざ の「浜 はま 作 さく 」に森田 もりた を呼 よ び出 だ し、「森田 もりた 、お前 まえ は生 い きろ。お前 まえ は恋人 こいびと がいるそうじゃないか」と自決 じけつ を止 と めるように説得 せっとく していた[10] [44] 。
しかし森田 もりた は、「親 おや とも思 おも っている三島 みしま 先生 せんせい が死 し ぬときに、自分 じぶん だけが生 い き残 のこ るわけにはいきません。先生 せんせい の死 し への旅路 たびじ に、是非 ぜひ 私 わたし をお供 きょう させて下 くだ さい」と押 お し切 き った[10] 。その後 ご 、小 しょう 賀 が 、小川 おがわ 、古賀 こが の3名 めい も、「お前 まえ も一緒 いっしょ に生 い きて先生 せんせい の精神 せいしん を継 つ ごう」と説得 せっとく し、三島 みしま も森田 もりた が自決 じけつ を思 おも い止 とど まることを期待 きたい したが、森田 もりた の決心 けっしん は揺 ゆ るがなかった[10] [31] 。
11月4日 にち 、三島 みしま と楯 だて の会 かい は陸上 りくじょう 自衛隊富士学校 じえいたいふじがっこう 滝ヶ原 たきがはら 駐屯 ちゅうとん 地 ち で、上級 じょうきゅう 者 しゃ のリフレッシャーコースを、6日 にち まで行 おこ なった。会員 かいいん たちは、この時 とき に鉄道 てつどう 爆破 ばくは の訓練 くんれん を受 う け、爆 ばく 弾 だん の設置 せっち 方法 ほうほう などを教 おそ わった。実際 じっさい に線路 せんろ を爆破 ばくは して、爆 ばく 音 おん と共 とも に線路 せんろ が粉々 こなごな になるのを見学 けんがく した[171] [194] 。
訓練 くんれん 終了 しゅうりょう 後 ご 、三島 みしま ら5名 めい は、御殿場 ごてんば 市 し 内 うち の御殿場 ごてんば 館 かん 別館 べっかん で開 ひら かれた慰労 いろう 会 かい で、他 た の会員 かいいん や自衛隊 じえいたい 員 いん らと密 ひそ かに別離 べつり を惜 お しみ、三島 みしま は全員 ぜんいん に正座 せいざ をして酒 さけ をついで廻 まわ って、「唐獅子 からじし 牡丹 ぼたん 」を歌 うた い、森田 もりた は小学 しょうがく 唱歌 しょうか 「花 はな 」と「加藤 かとう 隼 はやぶさ 戦闘 せんとう 隊 たい 」、小 しょう 賀 が は「白 しろ い花 はな の咲 さ く頃 ころ 」、小川 おがわ は「昭和 しょうわ 維新 いしん の歌 うた 」「知床 しれとこ 旅情 りょじょう 」を歌 うた い、古賀 こが は特攻隊 とっこうたい 員 いん の詩 し を朗読 ろうどく した[18] [193] 。
11月10日 にち 、森田 もりた 、小 しょう 賀 が 、小川 おがわ 、古賀 こが の4名 めい は、菊地 きくち 勝夫 かつお 1等 とう 陸 りく 尉 じょう との面会 めんかい を口実 こうじつ に、市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち に入 はい り、32連隊 れんたい 隊舎 たいしゃ 前 まえ を下見 したみ して駐車 ちゅうしゃ 場所 ばしょ を確認 かくにん した。11月12日 にち 、森田 もりた 、小川 おがわ 、小 しょう 賀 が の3名 めい は、東武百貨店 とうぶひゃっかてん で開催 かいさい された「三島 みしま 由紀夫 ゆきお 展 てん 」を見学 けんがく 。その夜 よる 、スナック「パークサイド」で、小川 おがわ は森田 もりた から介錯 かいしゃく を依頼 いらい されて承諾 しょうだく した[7] 。
11月14日 にち 、三島 みしま ら5名 めい は、サウナ「ミスティー」に集合 しゅうごう 。32連隊 れんたい 隊舎 たいしゃ 前 まえ で待機 たいき させる記者 きしゃ 2名 めい をNHK記者 きしゃ ・伊達 だて 宗 そう 克 かつ とサンデ さんで ー毎日 まいにち 記者 きしゃ ・徳岡 とくおか 孝夫 たかお にし、檄文 げきぶん と記念 きねん 写真 しゃしん を決起 けっき 当日 とうじつ に渡 わた す主旨 しゅし の説明 せつめい が三島 みしま からなされ、5名 めい で檄文 げきぶん の原案 げんあん を検討 けんとう した[7] 。
11月19日 にち 、三島 みしま ら5名 めい は、伊勢丹 いせたん 会館 かいかん 後楽園 こうらくえん サウナ休憩 きゅうけい 室 しつ に集合 しゅうごう 。32連隊 れんたい 長 ちょう を拘束 こうそく した後 のち の自衛隊 じえいたい の集合 しゅうごう までの時間 じかん や、三島 みしま の演説 えんぜつ などの時間 じかん 配分 はいぶん を打 う ち合 あ わせした[7] 。森田 もりた が「要求 ようきゅう が通 とお らない場合 ばあい は連隊 れんたい 長 ちょう を殺 ころ しても良 よ いか」と訊 たず ねると、「無傷 むきず で返 かえ さなければならない」と三島 みしま は答 こた えた[18] 。その後 ご 、スナック「パークサイド」で、古賀 こが は森田 もりた から、「俺 おれ の介錯 かいしゃく をしてくれるのは最大 さいだい の友情 ゆうじょう だよ」と言 い われた[29] 。
11月21日 にち 、決行 けっこう 当日 とうじつ の11月25日 にち に32連隊 れんたい 長 ちょう の在室 ざいしつ の有無 うむ を確認 かくにん するため、森田 もりた が三島 みしま の著書 ちょしょ 『行動 こうどう 学 がく 入門 にゅうもん 』を届 とど けることを口実 こうじつ に市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち に赴 おもむ くと、当日 とうじつ に宮田 みやた 朋 とも 幸 こう 32連隊 れんたい 長 ちょう が不在 ふざい であることが判明 はんめい した[7] 。三島 みしま ら5名 めい は、中華 ちゅうか 「第 だい 一 いち 楼 ろう 」に集合 しゅうごう 。森田 もりた の報告 ほうこく を受 う け協議 きょうぎ の結果 けっか 、拘束 こうそく 相手 あいて を、東部 とうぶ 方面 ほうめん 総監 そうかん に変更 へんこう することに決定 けってい した[7] 。三島 みしま はすぐに益田 ますだ 兼 けん 利 り 東部 とうぶ 方面 ほうめん 総監 そうかん に電話 でんわ を入 い れ、11月25日 にち 午前 ごぜん 11時 じ に面会 めんかい 約束 やくそく をとりつけた[7] 。
同日 どうじつ と翌 よく 11月 がつ 22日 にち 、森田 もりた ら4名 めい は三島 みしま から4千 せん 円 えん を受 う け取 と り、新宿 しんじゅく ステーションビル などにおいて、ロープ 、バリケード 構築 こうちく の際 さい に使 つか う針金 はりがね 、ペンチ、垂 た れ幕 まく 用 よう のキャラコ布 ぬの 、気 き つけ用 よう のブランデー 、水筒 すいとう などを購入 こうにゅう した。夜 よる 、小 しょう 賀 が は横浜 よこはま 市内 しない を森田 もりた とドライブ中 ちゅう 、「三島 みしま の介錯 かいしゃく ができない時 とき は頼 たの む」と森田 もりた から依頼 いらい されて承諾 しょうだく した[7] 。
11月23日 にち 、三島 みしま ら5名 めい は、千代田 ちよだ 区 く 丸 まる の内 うち 1丁目 ちょうめ 1番地 ばんち のパレスホテル 519号 ごう 室 しつ に集合 しゅうごう 。決起 けっき の最終 さいしゅう 準備 じゅんび (垂 た れ幕 まく 、檄文 げきぶん 、鉢巻 はちまき 、辞世 じせい の句 く など)と、一連 いちれん の行動 こうどう の予行 よこう 演習 えんしゅう を行 おこ なった。辞世 じせい の句 く は「うまくなくてもいい、自由 じゆう 奔放 ほんぽう に書 か け」と三島 みしま は言 い った[29] 。翌 よく 11月 がつ 24日 にち も、三島 みしま ら5名 めい はパレスホテルに集合 しゅうごう 。再度 さいど の予行 よこう 演習 えんしゅう をし、前日 ぜんじつ と合 あ わせて約 やく 8回 かい 練習 れんしゅう を行 おこ なった[7] 。
同日 どうじつ の昼 ひる 14時 じ 頃 ごろ 、三島 みしま は徳岡 とくおか 孝夫 たかお と伊達 だて 宗 そう 克 かつ に、「明日 あした 午前 ごぜん 11時 じ に腕章 わんしょう とカメラ を持 も ってくること、明日 あした 午前 ごぜん 10時 じ にまた連絡 れんらく する」という主旨 しゅし の電話 でんわ をし[7] 、15時 じ 頃 ごろ には、新潮社 しんちょうしゃ の担当 たんとう 編集 へんしゅう 者 しゃ ・小島 こじま 喜久江 きくえ に明日 あした 朝 あさ 10時 じ 30分 ふん に『天人 てんにん 五衰 ごすい 』の原稿 げんこう を自宅 じたく に取 と りに来 く るように電話 でんわ を入 い れた[26] 。
夕方 ゆうがた 16時 じ 頃 ごろ から、三島 みしま ら5名 めい は、新橋 しんばし 2丁目 ちょうめ 15-7の料亭 りょうてい 「末 すえ げん 」の奥 おく の間 あいだ (五 ご 番 ばん 八 はち 畳 じょう )で鳥 とり 鍋 なべ 料理 りょうり の「わ」のコース(1人 ひとり 15,000円 えん )とビール 7本 ほん で別 わか れの会食 かいしょく をした[7] [10] [195] 。18時 じ 頃 ごろ 、お店 みせ の豊 ゆたか さん(赤間 あかま 百合子 ゆりこ )がお酌 しゃく をしようとすると、三島 みしま は自分 じぶん でビールをつぎ、最後 さいご の乾杯 かんぱい をした[10] 。
食事 しょくじ 中 ちゅう は明日 あした の決起 けっき のことは話 はな さず、映画 えいが 女優 じょゆう や三島 みしま が映画 えいが 『人 ひと 斬 ぎ り 』で共演 きょうえん した俳優 はいゆう の勝 かつ 新太郎 しんたろう の話 はなし などの雑談 ざつだん をした[10] 。三島 みしま は、「いよいよとなるともっとセンチメンタルになると思 おも っていたがなんともない。結局 けっきょく センチメンタルになるのは我々 われわれ を見 み た第三者 だいさんしゃ なんだろうな」と言 い った[18] 。
食事 しょくじ が終 お わった20時 じ 頃 ごろ 、一同 いちどう は店 みせ を出 で て、小 しょう 賀 が の運転 うんてん する車 くるま で帰宅 きたく 。車中 しゃちゅう 三 さん 島 とう は、「総監 そうかん は立派 りっぱ な人 ひと だから申 もう し訳 わけ ないが目 め の前 まえ で自決 じけつ すれば判 わか ってもらえるだろう」と言 い った[182] 。また、もしも総 そう 監 かん 室 しつ に入 はい る前 まえ に自衛隊 じえいたい 員 いん らに察知 さっち され捕 つか まった場合 ばあい は、5人 にん 全員 ぜんいん で舌 した を噛 か んで死 し ぬしかないとも話 はな した[18] 。
大田 おおた 区 く 南馬込 みなみまごめ 4丁目 ちょうめ 32-8の自宅 じたく に帰宅 きたく した三島 みしま は、22時 じ 頃 ごろ に自宅 じたく 敷地 しきち 内 ない の両親 りょうしん 宅 たく に就寝 しゅうしん の挨拶 あいさつ に行 い き、父親 ちちおや から煙草 たばこ の吸 す い過 す ぎをたしなめられた[44] 。森田 もりた は西新宿 にししんじゅく 4丁目 ちょうめ 32-12の小林 こばやし 荘 そう 8号 ごう 室 しつ の下宿 げしゅく に帰宅 きたく 後 ご 、同居 どうきょ する楯 だて の会 かい 会員 かいいん の田中 たなか 健一 けんいち を誘 さそ って、近 ちか くの食堂 しょくどう 「三枝 みえ 」に行 い き、例会 れいかい の市ヶ谷 いちがや 会館 かいかん で徳岡 とくおか 孝夫 たかお と伊達 だて 宗 そう 克 かつ に渡 わた すべき封書 ふうしょ 2通 つう を託 たく した[169] 。
小川 おがわ と古賀 こが は、小 しょう 賀 が の戸塚 とつか 1丁目 ちょうめ 498番地 ばんち の大 だい 早 はや 館 かん の下宿 げしゅく に宿泊 しゅくはく した。その際 さい に3人 にん は介錯 かいしゃく のことを話 はな し合 あ い、小川 おがわ は、剣道 けんどう 経験 けいけん 豊富 ほうふ な小 しょう 賀 が に、森田 もりた の介錯 かいしゃく ができない場合 ばあい の代 か わりを依頼 いらい し、小 しょう 賀 が は承諾 しょうだく した。しかし3人 にん の間 あいだ では、介錯 かいしゃく は予定 よてい 者 しゃ が実行 じっこう できない時 とき には、三島 みしま 、森田 もりた を問 と わずに、残 のこ りの誰 だれ かが介錯 かいしゃく するという意思 いし であった[7] [注釈 ちゅうしゃく 29] 。
11月25日 にち 、小 しょう 賀 が ら3名 めい は午前 ごぜん 7時 じ に起床 きしょう 。古賀 こが は森田 もりた に「起 お こしてくれ」と頼 たの まれていたため、森田 もりた の下宿 げしゅく の廊下 ろうか にあるピンク電話 でんわ を鳴 な らした[29] [169] 。3名 めい は、朝食 ちょうしょく は取 と らず、目立 めだ たぬように制服 せいふく の上 うえ からコートやカーディガンを羽織 はお って、制帽 せいぼう はビニールの買物 かいもの 袋 ぶくろ に入 い れ、午前 ごぜん 8時 じ 50分 ふん 頃 ごろ 、小 しょう 賀 が の運転 うんてん するコロナに同乗 どうじょう し下宿 げしゅく を出発 しゅっぱつ した[7] [18] 。
森田 もりた は7時 じ に起床 きしょう し、9時 じ 頃 ごろ 、新宿 しんじゅく 西口 にしぐち 公園 こうえん 付近 ふきん の西口 にしぐち ランプ入口 いりくち で、コロナでやって来 き た小 しょう 賀 が ら3名 めい と合流 ごうりゅう した[7] 。一 いち 行 ぎょう は三島 みしま 邸 てい に向 むか い、荏原 えばら ランプ を出 で て、三島 みしま 邸 てい 近 ちか くの第 だい 二 に 京浜 けいひん 国道 こくどう を曲 ま がったあたりのガソリンスタンド に立 た ち寄 よ って洗車 せんしゃ 。その間 あいだ に各人 かくじん 故郷 こきょう の家族 かぞく への別 わか れの手紙 てがみ を投函 とうかん した[7] [10] [18] 。
三島 みしま は8時 じ に起床 きしょう し、コップ一 いち 杯 はい の水 みず だけを飲 の み、お手伝 てつだ いさんに小島 こじま 喜久江 きくえ に渡 わた す小説 しょうせつ 原稿 げんこう を預 あづ けた[12] 。10時 じ 頃 ごろ 、徳岡 とくおか 孝夫 たかお と伊達 だて 宗 そう 克 かつ に電話 でんわ を入 い れ、市ヶ谷 いちがや 会館 かいかん に午前 ごぜん 11時 じ に来 く るように指定 してい し、田中 たなか か倉田 くらた という者 もの が案内 あんない すると伝 つた えた[7] 。小 しょう 賀 が の運転 うんてん するコロナに同乗 どうじょう した一 いち 行 ぎょう が10時 じ 13分 ふん 頃 ごろ に三島 みしま 邸 てい に到着 とうちゃく した[7] 。
三島 みしま は玄関 げんかん に迎 むか えに来 き た小 しょう 賀 が に、小川 おがわ 、古賀 こが ら3名宛 なあ ての封筒 ふうとう 入 い りの命令 めいれい 書 しょ と現金 げんきん 3万 まん 円 えん ずつを手渡 てわた し、車中 しゃちゅう で読 よ むように命 めい じた[7] 。軍刀 ぐんとう 仕様 しよう にした日本 にっぽん 刀 がたな ・関 せき 孫 まご 六 ろく と革 かわ 製 せい アタッシュケースを提 さ げ、車 くるま までゆっくりと歩 ある いた三島 みしま は、「命令 めいれい 書 しょ はしかと判 わか ったか」と助手 じょしゅ 席 せき に乗 の り込 こ み、「命令 めいれい 書 しょ を読 よ んだな、おれの命令 めいれい は絶対 ぜったい だぞ」、「あと3時 じ 間 あいだ ぐらいで死 し ぬなんて考 かんが えられんな」などと言 い った[18] 。
一 いち 行 ぎょう を乗 の せたコロナは自衛隊 じえいたい 市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち へ向 む かった。秋晴 あきば れの空 そら の下 した 、白 しろ いコロナは環状 かんじょう 7号線 ごうせん に出 で て、第 だい 二 に 京浜 けいひん 国道 こくどう に入 はい り、品川 しながわ から中原 なかはら 街道 かいどう を経 へ て、荏原 えばら ランプから高速 こうそく 道路 どうろ 2号線 ごうせん に乗 の った[12] [20] 。10時 じ 40分 ふん 頃 ごろ 、コロナは飯倉 いいくら ランプ で高速 こうそく を降 お りた[12] [20] 。
赤坂 あかさか から青山 あおやま を経 へ て神宮 じんぐう 外苑 がいえん 前 まえ に出 で たが、まだ時間 じかん が早 はや かったため外苑 がいえん を2周 しゅう した[20] 。この時 とき 、三島 みしま は、「これがヤクザ映画 えいが なら、ここで義理 ぎり と人情 にんじょう の“唐獅子 からじし 牡丹 ぼたん ”といった音楽 おんがく がかかるのだが、おれたちは意外 いがい に明 あか るいなあ」と言 い った[29] 。古賀 こが は、「私 わたし たちに辛 つら い気持 きもち や不安 ふあん を起 おこ させないためだったのだろうか。まず先生 せんせい が歌 うた いはじめ、4人 にん も合唱 がっしょう した。歌 うた ったあと、なにかじーんとくるものがあった」と供述 きょうじゅつ している[29] 。
権 けん 田原坂 たばるざか から、右 みぎ に赤坂 あかさか 離宮 りきゅう 、左 ひだり に明治 めいじ 記念 きねん 館 かん を見 み て進行 しんこう し、学習 がくしゅう 院 いん 初等 しょとう 科 か 校舎 こうしゃ 近 ちか くに一時 いちじ 停車 ていしゃ した時 とき 、「我 わ が母校 ぼこう の前 まえ を通 とお るわけか。俺 おれ の子供 こども も現在 げんざい この時間 じかん にここに来 き て授業 じゅぎょう をうけている最中 さいちゅう なんだよ」と三島 みしま は言 い った[10] [18] 。コロナは四谷 よつや 見附 みつけ の交差点 こうさてん を直進 ちょくしん し、靖国 やすくに 通 どお り を突 つ っ切 き り、陸上 りくじょう 自衛隊 じえいたい 市ヶ谷 いちがや 駐屯 ちゅうとん 地 ち の正門 せいもん に入 はい っていった[10] 。
自衛隊 じえいたい 員 いん たちへ撒 ま いた檄文 げきぶん には、戦後 せんご 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ と日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう の批判 ひはん 、そして日米 にちべい 安保 あんぽ 体制 たいせい 化 か での自衛隊 じえいたい の存在 そんざい 意義 いぎ を問 と うて、決起 けっき および憲法 けんぽう 改正 かいせい による自衛隊 じえいたい の国軍 こくぐん 化 か を促 うなが す内容 ないよう が書 か かれていた[22] 。三島 みしま は最初 さいしょ の単身 たんしん 自衛隊 じえいたい 体験 たいけん 入隊 にゅうたい 直後 ちょくご の1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )5月 がつ 27日 にち の時点 じてん では、〈いまの段階 だんかい では憲法 けんぽう 改正 かいせい は必要 ひつよう ではないといふ考 こう へに傾 かたむ いてゐます〉と公 おおや けのインタビュー向 む けには応 こた えながらも、以下 いか のように述 の べている[141] 。
私 わたし は、
私 わたし の
考 かんが えが
軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ でもなければ、
ファシズム でもないと
信 しん じています。
私 わたし が
望 のぞ んでいるのは、
国軍 こくぐん を
国軍 こくぐん たる
正 ただ しい
地位 ちい に
置 お くことだけです。
国軍 こくぐん と
国民 こくみん のあいだの
正 ただ しいバランスを
設定 せってい することなんですよ。(
中略 ちゅうりゃく )
政府 せいふ がなすべきもっとも
重要 じゅうよう なことは、
単 たん なる
安保 あんぽ 体制 たいせい の
堅持 けんじ 、
安保 あんぽ 条約 じょうやく の
自然 しぜん 延長 えんちょう などではない。
集団 しゅうだん 保障 ほしょう 体制 たいせい 下 か におけるアメリカの
防衛 ぼうえい 力 りょく と、
日本 にっぽん の
自衛 じえい 権 けん の
独立 どくりつ 的 てき な
価値 かち を、はっきりわけてPRすることである。たとえば
安保 あんぽ 条約 じょうやく 下 か においても、どういうときには
集団 しゅうだん 保障 ほしょう 体制 たいせい のなかにはいる、どういうときには
自衛隊 じえいたい が
日本 にっぽん を
民族 みんぞく と
国民 こくみん の
自力 じりき で
守 まも りぬくかという“
限界 げんかい ”をはっきりさせることです。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「三島 みしま 帰郷 ききょう 兵 へい に26の質問 しつもん 」[141]
さらに三島 みしま は、〈いまの制度 せいど がそうさせるのか、陛下 へいか のお気持 きもち がそうさせるのか知 し らないが、外国 がいこく 使臣 ししん を羽田 はた で迎 むか えるときに陛下 へいか がわきに立 た って自衛隊 じえいたい の儀仗 ぎじょう を避 さ けられるということを聞 き いたとき、私 わたし は、なんともいえない気持 きもち がしました〉とも述 の べている[141] 。
また1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )11月の福田 ふくだ 恆 ひさし 存 そん との対談 たいだん では、高坂 こうさか 正 ただし 堯 の憲法 けんぽう への苦心 くしん を尊重 そんちょう しながらも、自分 じぶん は憲法 けんぽう に対 たい して〈現実 げんじつ 主義 しゅぎ の立場 たちば に立 た ちたい〉が、〈現状 げんじょう 肯定 こうてい 主義 しゅぎ 〉ではあってはならないと思 おも うとし、このまま日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 第 だい 9条 じょう を改正 かいせい しないまま〈解釈 かいしゃく 〉で〈縄抜 なわぬ け〉するという論理 ろんり 的 てき なトリックに三島 みしま は疑問 ぎもん を呈 てい しつつ、〈ぼくはもっと憲法 けんぽう を軽蔑 けいべつ している〉と述 の べ[196] 、憲法 けんぽう 改正 かいせい への法的 ほうてき 手続 てつづき (国会 こっかい の三 さん 分 ぶん の二 に と、過半数 かはんすう の国民 こくみん 投票 とうひょう という二 に 段 だん 構 かま え)のハードルの高 たか さに言及 げんきゅう しながら、憲法 けんぽう 第 だい 9条 じょう がクーデターでしか変 か えられないと語 かた っている[196] 。
このように、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 第 だい 9条 じょう の第 だい 2項 こう がある限 かぎ り、自衛隊 じえいたい は〈違憲 いけん の存在 そんざい 〉でしかないと見 み ていた三島 みしま は、『檄文 げきぶん 』や『問題 もんだい 提起 ていき 』のなかで、自民党 じみんとう の第 だい 9条 じょう 第 だい 2項 こう に対 たい する解釈 かいしゃく や、共産党 きょうさんとう や社会党 しゃかいとう が日米 にちべい 安保 あんぽ 破棄 はき を標榜 ひょうぼう しつつも第 だい 9条 じょう 護憲 ごけん を堅持 けんじ するという矛盾 むじゅん 姿勢 しせい を、〈日本人 にっぽんじん の魂 たましい の腐敗 ふはい 、道義 どうぎ の頽廃 たいはい の根本 こんぽん 原因 げんいん 〉をなしているものと見 み て、両者 りょうしゃ の国体 こくたい をないがしろにする姿勢 しせい を批判 ひはん している[22] [188] 。演説 えんぜつ の中 なか でも、自衛 じえい 官 かん らに、〈諸君 しょくん は武士 ぶし だろう、武士 ぶし ならば、自分 じぶん を否定 ひてい する憲法 けんぽう をどうして守 まも るんだ〉と絶叫 ぜっきょう し、ばらまいた『檄文 げきぶん 』のなかで〈生命 せいめい 尊重 そんちょう のみで、魂 たましい は死 し んでもよいのか。生命 せいめい 以上 いじょう の価値 かち なくして何 なに の軍隊 ぐんたい だ。今 いま こそわれわれは生命 せいめい 尊重 そんちょう 以上 いじょう の価値 かち の所在 しょざい を諸君 しょくん の目 め に見 み せてやる。それは自由 じゆう でも民主 みんしゅ 主義 しゅぎ でもない。日本 にっぽん だ。われわれの愛 あい する歴史 れきし と伝統 でんとう の国 くに 、日本 にっぽん だ〉と訴 うった えた[22] 。
三島 みしま の自決 じけつ の決心 けっしん に影響 えいきょう を与 あた えた動因 どういん の一 ひと つには、自決 じけつ 前年 ぜんねん の建国 けんこく 記念 きねん の日 ひ に、国会 こっかい 議事堂 ぎじどう 前 まえ で「覚醒 かくせい 書 しょ 」なる遺書 いしょ を残 のこ して世 よ を警 いまし め同胞 どうほう の覚醒 かくせい を促 うなが すべく焼身 しょうしん 自殺 じさつ した青年 せいねん 、江藤 えとう 小三郎 こさぶろう の自決 じけつ もあった。三島 みしま は『若 わか きサムラヒのための精神 せいしん 講話 こうわ 』において、〈私 わたし は、この焼身 しょうしん 自殺 じさつ をした江藤 えとう 小三郎 こさぶろう 青年 せいねん の「本気 ほんき 」といふものに、夢 ゆめ あるひは芸術 げいじゅつ としての政治 せいじ に対 たい する最 もっと も強烈 きょうれつ な批評 ひひょう を読 よ んだ一人 ひとり である〉と記 しる しており、この青年 せいねん の至誠 しせい と壮絶 そうぜつ な死 し が三島 みしま の出処 しゅっしょ 進退 しんたい に及 およ ぼしていた心情 しんじょう が看取 かんしゅ されている[197] 。
三島 みしま の自殺 じさつ には様々 さまざま な側面 そくめん から諸説 しょせつ が挙 あ げられ、その要因 よういん の一 ひと つとして、三島 みしま が少年 しょうねん 時代 じだい にレイモン・ラディゲ の夭折 ようせつ に憧 あこが れていたことなどや[198] 、『豊饒 ほうじょう の海 うみ 』で副 ふく 主人公 しゅじんこう ・本多 ほんだ の老醜 ろうしゅう を描 えが いていることなどから、自身 じしん の「老 お い」への忌避 きひ が推察 すいさつ される向 む きもある。新潮社 しんちょうしゃ の担当 たんとう 編集 へんしゅう 者 しゃ だった小島 こじま 千加子 ちかこ によると、『豊饒 ほうじょう の海 うみ 』執筆 しっぴつ 中 ちゅう に「年 とし をとることは滑稽 こっけい だね、許 ゆる せない」、「自分 じぶん が年 とし をとることを、絶対 ぜったい に許 ゆる せない」と三島 みしま が言 い っていたことがあるとされる[199] 。また月刊 げっかん 誌 し 『中央公論 ちゅうおうこうろん 』の編集 へんしゅう 長 ちょう であった粕谷 あらや 一希 かずき によると、三島 みしま は、「自分 じぶん が荷風 かふう みたいな老人 ろうじん になるところを想像 そうぞう できるか?」と言 い ったとされ(なお、三島 みしま と荷風 かふう とは系図 けいず 上 じょう では遠戚 えんせき 関係 かんけい にある)、その一方 いっぽう で、「作家 さっか はどんなに自己 じこ 犠牲 ぎせい をやっても世 よ の中 なか の人 ひと は自己 じこ 表現 ひょうげん だと思 おも うからな」とも言 い ったという[200] 。
しかし、三島 みしま の老 お いへの考 かんが えは一 いち 面 めん 的 てき ではなく、〈自分 じぶん の顔 かお と折合 おりあ いをつけながら、だんだんに年 とし をとつてゆくのは賢明 けんめい な方法 ほうほう である。六 ろく 十 じゅう か七 なな 十 じゅう になれば、いい顔 がお だと云 うん つてくれる人 ひと も現 げん はれるだらう〉とも述 の べており[201] 、〈室生 むろう 犀星 さいせい 氏 し の晩年 ばんねん は立派 りっぱ で、実 じつ に艶 つや に美 うつく しかつたが、その点 てん では日本 にっぽん に生 うま れて日本人 にっぽんじん たることは倖せである。老 お いの美学 びがく を発見 はっけん したのは、おそらく中世 ちゅうせい の日本人 にっぽんじん だけではないだろうか。(中略 ちゅうりゃく )スポーツ でも、五 ご 十 じゅう 歳 さい の野球 やきゅう 選手 せんしゅ といふものは考 かんが へられないが、七 なな 十 じゅう 歳 さい の剣道 けんどう 八 はち 段 だん は、ちやんと現役 げんえき の実力 じつりょく を持 も つてゐる〉とも語 かた っている[202] 。小島 こじま 千加子 ちかこ にも以前 いぜん には、「川端 かわばた 康成 やすなり 、佐藤 さとう 春夫 はるお などは、年 とし をとって精神 せいしん の美 うつく しさが滲 にじ み出 で て来 き た良 よ い例 れい 」とも言 い っていたという[203] 。
1969年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )10月 がつ に行 おこな われた学生 がくせい との対談 たいだん では、学生 がくせい が、三島 みしま が以前 いぜん から「夭折 ようせつ の美学 びがく 」ということをしばしば説 と いていたことに触 ふ れ、「死 し 」とかけ離 はな れては考 かんが えられない「美学 びがく 」について質問 しつもん された際 さい に以下 いか のように答 こた えている[204] 。
ギリシア人 じん は
美 うつく しく
生 い き
美 うつく しく
死 し ぬことを
望 のぞ んだといわれています。
美 うつく しく
死 し ぬということはつまり
私 わたし の
年齢 ねんれい ではもう
遅 おそ いのかもしれないけれども、
西郷 さいごう 隆盛 たかもり は
私 わたし は
美 うつく しく死 し んだと
思 おも っている。(
中略 ちゅうりゃく )
それじゃ
醜 みにく く
死 し ぬというのは
何 なに だろうと
思 おも うと、これはだんだんにいろいろな
世間 せけん 的 てき な
名誉 めいよ の
滓 かす がたまって、そして
床 ゆか の
中 なか でたれ
流 なが しになって
死 し ぬことです。
私 わたし はそれが
嫌 いや で
嫌 いや でおそろしくてたまらない。きっと
私 わたし もそうなるかもしれないですね。だからそれがおそろしいから、いろいろなことをやって、なるたけ
早 はや く
何 なに か
決着 けっちゃく がつくように
企 たくら んでいる。
あなたは
本気 ほんき に
死 し ぬ
気 き はなかったのだろうというけれども、
戦争 せんそう が
済 す んでからなかなかチャンスがないわけだ。とにかく
太宰 だざい さんみたいに
女 おんな と
一緒 いっしょ に
川 かわ へ
飛 と び
込 こ むのもいいだろうが、なかなかチャンスがない。
私 わたし と
一緒 いっしょ に
死 し んでくれる
女性 じょせい ――この
中 なか にそんな
女性 じょせい の
方 ほう でもおられればいいのですが、――そういう
志望 しぼう 者 しゃ がなかなか
現 あらわ れないのです。(笑)ですから
要 よう するにチャンスを
逸 いっ したということですな。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「国家 こっか 革新 かくしん の原理 げんり ――学生 がくせい とのティーチ・イン その二 に 」[204] 日時 にちじ 昭和 しょうわ 四 よん 十 じゅう 三 さん 年 ねん 十 じゅう 月 がつ 三 さん 日 にち 場所 ばしょ 早稲田大学 わせだだいがく 大隈 おおくま 講堂 こうどう 主催 しゅさい 早稲田大学 わせだだいがく 尚史 ひさし 会 かい
1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )3月 がつ の第 だい 3回 かい 自衛隊 じえいたい 体験 たいけん 入隊 にゅうたい 時 じ の学生 がくせい と雑談 ざつだん でも、「由紀夫 ゆきお 」という名前 なまえ は若 わか すぎる名前 なまえ だから、年 とし を取 と ったらシェークスピア (沙 すな 吉 きち 比 ひ 亜 あ )の尊称 そんしょう の「沙 すな 翁 おきな 」にあやかって「雪 ゆき 翁 おきな 」にするつもりだと言 い い、「えっ、先生 せんせい は若 わか くして死 し ぬんじゃないんですか」と学生 がくせい が驚 おどろ いて質問 しつもん すると、三島 みしま は苦虫 にがむし を噛 か み潰 つぶ したような渋 しぶ い表情 ひょうじょう に変 か わって横 よこ を向 む いてしまったという[205] 。このことから、44歳 さい の時点 じてん では、作品 さくひん 外 がい の実 じつ 人生 じんせい では長生 ながい きするつもりだったとも見 み られている[205] 。
なお、三島 みしま にはヒロイズムつまり英雄 えいゆう 的 てき 自己 じこ 犠牲 ぎせい に対 たい する憧 あこが れがあることがエッセイなどから散見 さんけん され、それも要因 よういん の一 ひと つに数 かぞ えられる。三島 みしま は、1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん )元旦 がんたん に『年頭 ねんとう の迷 まよ い』と題 だい して新聞 しんぶん に発表 はっぴょう した文章 ぶんしょう で、〈西郷 さいごう 隆盛 たかもり は五 ご 十 じゅう 歳 さい で英雄 えいゆう として死 し んだし、この間 あいだ 熊本 くまもと へ行 くだり つて神 かみ 風連 ふうれん を調 しら べて感動 かんどう したことは、一見 いっけん 青年 せいねん の暴挙 ぼうきょ と見 み られがちなあの乱 らん の指導 しどう 者 しゃ の一人 ひとり で、壮烈 そうれつ な最期 さいご を遂 と げた加屋 かや 霽堅 が、私 わたし と同年 どうねん で死 し んだといふ発見 はっけん であつた。私 わたし も今 いま なら、英雄 えいゆう たる最終 さいしゅう 年齢 ねんれい に間 あいだ に合 あい ふのだ〉と述 の べている[206] 。また、『行動 こうどう 学 がく 入門 にゅうもん 』のなかでは、以下 いか のように語 かた っている。
かつて
太陽 たいよう を
浴 あ びてゐたものが
日蔭 ひかげ に
追 つい ひやられ、かつて
英雄 えいゆう の
行為 こうい として
人々 ひとびと の
称賛 しょうさん を
博 はく したものが、いまや
近代 きんだい ヒューマニズム の
見地 けんち から
裁 さば かれるやうになつた。(
中略 ちゅうりゃく )
会社 かいしゃ の
社長 しゃちょう 室 しつ で
一 いち 日 にち に
百 ひゃく 二 に 十 じゅう 本 ほん も
電話 でんわ をかけながら、ほかの
商社 しょうしゃ と
競争 きょうそう してゐる
男 おとこ がどうして
行動 こうどう 的 てき であらうか?
後進 こうしん 国 こく へ
行 くだり つて
後進 こうしん 国 こく の
住民 じゅうみん たちをだまし
歩 ある き、
会社 かいしゃ の
収益 しゅうえき を
上 あ げてほめられる
男 おとこ がどうして
行動 こうどう 的 てき であらうか?
現代 げんだい 、
行動 こうどう 的 てき と
言 げん はれる
人間 にんげん には、たいていそのやうな
俗 ぞく 社会 しゃかい のかすがついてゐる。そして、この
世俗 せぞく の
垢 あか にまみれた
中 なか で、
人々 ひとびと は
英雄 えいゆう 類型 るいけい が
衰 おとろえ へ、
死 し に、むざんな
腐臭 ふしゅう を
放 はな つていくのを
見 み るのである。
青年 せいねん たちは、
自分 じぶん らがかつて
少年 しょうねん 雑誌 ざっし の
劇画 げきが から
学 まな んだ
英雄 えいゆう 類型 るいけい が、やがて
自分 じぶん が
置 お かれるべき
未来 みらい の
社会 しゃかい の
中 なか でむざんな
敗北 はいぼく と
腐敗 ふはい にさらされていくのを、
焦燥 しょうそう を
持 も つて
見守 みまも らなければならない。そして、
英雄 えいゆう 類型 るいけい を
滅 ほろ ぼす
社会 しゃかい 全体 ぜんたい に
向 こう かつて
否定 ひてい を
叫 さけ び、
彼 かれ ら
自身 じしん の
小 ちい さな
神 かみ を
必死 ひっし に
守 まも らうとするのである。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「行動 こうどう 学 がく 入門 にゅうもん 」[207]
そして、壮絶 そうぜつ な死 し に美 び を見出 みいだ すという傾向 けいこう は、平田 ひらた 弘史 ひろし の時代物 じだいもの 劇画 げきが を好 す きだと語 かた っていることなどからうかがえ[208] 、切腹 せっぷく に対 たい する官能 かんのう 的 てき な嗜好 しこう やこだわりも、自身 じしん が映画 えいが 制作 せいさく した小説 しょうせつ 『憂国 ゆうこく 』や、榊山 さかきやま 保 たもつ 名義 めいぎ でゲイ雑誌 ざっし に発表 はっぴょう した小説 しょうせつ 『愛 あい の処刑 しょけい 』から看取 かんしゅ される[209] 。切腹 せっぷく について三島 みしま と語 かた り合 あ ったことのある中 なか 康弘 やすひろ 通 どおり は、切腹 せっぷく に興味 きょうみ を持 も つ傾向 けいこう の人々 ひとびと は男女 だんじょ 問 と わず、「切腹 せっぷく の持 も つ精神 せいしん 的 てき 伝統 でんとう 、すなわち儀式 ぎしき 的 てき 厳粛 げんしゅく と崇高 すうこう な自己 じこ 犠牲 ぎせい の悲愴 ひそう 美 び を、思春期 ししゅんき の心 しん に刻 きざ みつけて以来 いらい 、条件 じょうけん 反射 はんしゃ のように、愛 あい と死 し の両極 りょうきょく を結 むす ぶ媒体 ばいたい として、切腹 せっぷく の意義 いぎ を把握 はあく している」とし[210] 、そういった人々 ひとびと でも、自殺 じさつ に切腹 せっぷく を選 えら ぶ人 ひと はあっても、「切腹 せっぷく したいから自殺 じさつ する人 ひと は、まず無 な い」と解説 かいせつ している[210] 。
なお、三島 みしま は1970年 ねん (昭和 しょうわ 45年 ねん )7月 がつ 7日 にち 付 づけ のサンケイ新聞 しんぶん 夕刊 ゆうかん の戦後 せんご 25周年 しゅうねん 企画 きかく 「私 わたし の中 なか の25年 ねん 」に、『果 は たし得 え てゐない約束 やくそく 』というエッセイを寄稿 きこう し、その中 なか で、自身 じしん の戦後 せんご 25年 ねん の〈空虚 くうきょ 〉を振 ふ り返 かえ り、それを〈鼻 はな をつまみながら通 とお りすぎた〉とし、以下 いか のようにその時代 じだい について語 かた っている[211] 。
二 に 十 じゅう 五 ご 年 ねん 前 まえ に
私 わたし が
憎 にく んだものは、
多少 たしょう 形 がた を
変 へん へはしたが、
今 いま もあひかはらずしぶとく
生 い き
永 なが らへてゐる。
生 い き
永 なが らへてゐるどころか、おどろくべき
繁殖 はんしょく 力 りょく で
日本 にっぽん 中 ちゅう に
完全 かんぜん に
浸透 しんとう してしまつた。それは
戦後 せんご 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ とそこから
生 しょう ずる
偽善 ぎぜん といふおそるべき
バチルス である。こんな
偽善 ぎぜん と
詐術 さじゅつ は、アメリカの
占領 せんりょう と
共 とも に
終 おわり はるだらう、と
考 かんが へてゐた
私 わたし はずいぶん
甘 あま かつた。おどろくべきことには、
日本人 にっぽんじん は
自 みずか ら
進 すす んで、それを
自分 じぶん の
体質 たいしつ とすることを
選 えら んだのである。
政治 せいじ も、
経済 けいざい も、
社会 しゃかい も、
文化 ぶんか ですら。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「果 は たし得 え てゐない約束 やくそく ―私 わたし の中 なか の二 に 十 じゅう 五 ご 年 ねん 」[211]
三島 みしま はその戦後 せんご 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を否定 ひてい しつつも〈そこから利益 りえき を得 え 、のうのうと暮 く らして来 き たといふことは、私 わたし の久 ひさ しい心 しん の傷 きず になつてゐる〉と告白 こくはく し、多 おお くの作品 さくひん を積 つ み重 かさ ねても、自身 じしん にとっては〈排泄 はいせつ 物 ぶつ を積 つ み重 かさ ねたのと同 おな じ〉で、〈その結果 けっか 賢明 けんめい になることは断 だん じてない。さうかと云 うん つて、美 うつく しいほど愚 おろ かになれるわけではない〉として最後 さいご の一節 いっせつ では以下 いか のような訣別 けつべつ を表明 ひょうめい している。この文章 ぶんしょう は、実質 じっしつ 的 てき な遺書 いしょ の一 ひと つとして、以降 いこう の三島 みしま 研究 けんきゅう や三島 みしま 事件 じけん 論 ろん において多 おお く引用 いんよう されている。
二 に 十 じゅう 五 ご 年間 ねんかん に
希望 きぼう を
一 ひと つ
一 ひと つ
失 しつ つて、もはや
行 い き
着 つ く
先 さき が
見 み えてしまつたやうな
今日 きょう では、その
幾多 いくた の
希望 きぼう がいかに
空疎 くうそ で、いかに
俗悪 ぞくあく で、しかも
希望 きぼう に
要 よう したエネルギーがいかに
厖大 ぼうだい であつたかに
唖然 あぜん とする。これだけのエネルギーを
絶望 ぜつぼう に
使 つかい つてゐたら、もう
少 すこ しどうにかなつてゐたのではないか。
私 わたし はこれからの
日本 にっぽん に
大 たい して
希望 きぼう をつなぐことができない。このまま
行 ぎょう つたら「
日本 にっぽん 」はなくなつてしまうのではないかといふ
感 かん を
日 ひ ましに
深 ふか くする。
日本 にっぽん はなくなつて、その
代 だい はりに、
無機 むき 的 てき な、からつぽな、
ニュートラル な、
中間色 ちゅうかんしょく の、
富裕 ふゆう な、
抜目 ぬけめ がない、
或 ある る
経済 けいざい 的 てき 大国 たいこく が
極東 きょくとう の
一角 いっかく に
残 のこ るのであらう。それでもいいと
思 おもえ つてゐる
人 ひと たちと、
私 わたし は
口 くち をきく
気 き にもなれなくなつてゐるのである。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「果 は たし得 え てゐない約束 やくそく ―私 わたし の中 なか の二 に 十 じゅう 五 ご 年 ねん 」[211]
ちなみに、三島 みしま が決起 けっき の時点 じてん ですでに死 し を決意 けつい していたことは、事件 じけん 前 まえ の9月 がつ に「楯 だて の会 かい 」メンバーの古賀 こが 浩靖 ひろやす に向 む かって、「自衛隊 じえいたい 員 いん 中 ちゅう に行動 こうどう を共 とも にするものがでることは不可能 ふかのう だろう、いずれにしても、自分 じぶん は死 し ななければならない」と語 かた っていたことから明 あき らかで[7] 、8月 がつ には「諌死 かんし 」という漢字 かんじ の読 よ みを「kanshi」とノート片 へん に書 か いて、ヘンリー・スコット・ストークス に渡 わた していることなどから、自決 じけつ がクーデター の実行 じっこう ではなく、「諫死 」(自 みずか ら死 し ぬことによって目上 めうえ の者 もの をいさめること)の意味合 いみあ いであったことがうかがえる[169] 。
林 はやし 房雄 ふさお は、三島 みしま が林 はやし との対談 たいだん 『対話 たいわ ・日本人 にっぽんじん 論 ろん 』(1966年 ねん )の中 なか で、政治 せいじ 家 か たちは詩人 しじん や文学 ぶんがく 者 しゃ が予見 よけん したことを、何 なん 十 じゅう 年 ねん も過 す ぎてからやっと気 き がつくと言 い ったことに触 ふ れながら[212] 、「三島 みしま 君 くん とその青年 せいねん 同志 どうし の諌死 かんし は、〈平和 へいわ 憲法 けんぽう 〉と〈経済 けいざい 大国 たいこく 〉という大 だい 嘘 うそ の上 うえ にあぐらをかき、この美 うつく しい――美 うつく しくあるべき日本 にっぽん という国 くに を、〈エコノミック・アニマル〉と〈フリー・ライダー〉(只 ただ 乗 の り屋 や )の醜悪 しゅうあく な巣窟 そうくつ にして、破滅 はめつ の淵 ふち への地 じ すべりを起 おこ させている〈精神 せいしん 的 てき 老人 ろうじん たち〉の惰眠 だみん をさまし、日本 にっぽん の地 じ すべりそのものをくいとめる最初 さいしょ で最後 さいご の、貴重 きちょう で有効 ゆうこう な人柱 ひとばしら である」と述 の べている[212] 。
また、三島 みしま の自決 じけつ への要因 よういん の一 ひと つとして欠 か かせないものには、三島 みしま の少年 しょうねん 期 き における文学 ぶんがく の師 し であり、精神 せいしん 的 てき 支柱 しちゅう の一人 ひとり でもあった蓮田 はすだ 善明 よしあき が敗戦 はいせん に際 さい し、国体 こくたい 護持 ごじ を念 ねん じてピストル自決 じけつ をとげたことの影響 えいきょう がある[213] (詳細 しょうさい は蓮田 はすだ 善明 よしあき と三島 みしま 由紀夫 ゆきお を参照 さんしょう )。1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )8月 がつ 19日 にち 、戦地 せんち のジョホールバル で蓮田 はすだ は、中条 ちゅうじょう 豊 ゆたか 馬 ば 大佐 たいさ が軍旗 ぐんき の決別 けつべつ 式 しき で天皇 てんのう を愚弄 ぐろう した発言 はつげん (敗戦 はいせん の責任 せきにん を天皇 てんのう に帰 かえ し、皇軍 こうぐん の前途 ぜんと を誹謗 ひぼう し、日本 にっぽん 精神 せいしん の壊滅 かいめつ を説 と いた)に憤怒 ふんぬ し、大佐 たいさ を射殺 しゃさつ し自身 じしん も自害 じがい した。三島 みしま は翌年 よくねん 11月 がつ 17日 にち に成城学園 せいじょうがくえん 素 もと 心 こころ 寮 りょう で行 おこな われた「蓮田 はすだ 善明 よしあき を偲 しの ぶ会 かい 」で、哀悼 あいとう の詩 し を献 けん じた[注釈 ちゅうしゃく 30] 。
三島 みしま と同 おな じ戦中 せんちゅう 派 は 世代 せだい であり知人 ちじん であった吉田 よしだ 満 みつる は、三島 みしま が生涯 しょうがい かけて取 と り組 く もうとした課題 かだい の基本 きほん にあるものは、「戦争 せんそう に死 し に遅 おく れた」事実 じじつ に胚胎 はいたい しているとし、終戦 しゅうせん の時 とき 、満 まん 20歳 さい であった三島 みしま を鑑 かんが みて、戦艦 せんかん 大和 やまと の海上 かいじょう 特攻 とっこう 戦 せん に参加 さんか し21歳 さい で戦死 せんし した臼 うす 淵 ふち 磐 いわ と三島 みしま に共通 きょうつう する精神 せいしん や、四国 しこく 沖 おき の上空 じょうくう で米 べい 軍機 ぐんき と交戦 こうせん し散華 さんげ した林 はやし 尹 いん 夫 おっと (遺 のこ された日記 にっき が『わがいのち月明 げつめい に燃 もえ ゆ 』として戦後 せんご 出版 しゅっぱん )と三島 みしま に共通 きょうつう する自己 じこ 凝視 ぎょうし の平静 へいせい さを見 み ながら、次 つぎ のように考察 こうさつ している[215] 。
出陣 しゅつじん する
先輩 せんぱい や
日本 にっぽん 浪 なみ 曼派の
同志 どうし たちのある
者 もの は、
直接 ちょくせつ 彼 かれ に
後事 こうじ を
託 たく する
言葉 ことば を
残 のこ して
征 せい ったはずである。
後事 こうじ を
託 たく されるということは、
戦争 せんそう の
渦中 かちゅう にある
青年 せいねん にとって、およそ
敗戦 はいせん 後 ご の
復興 ふっこう というような
悠長 ゆうちょう なものにはつながらず、
自分 じぶん もまた
本分 ほんぶん をつくして
祖国 そこく に
殉 じゅん ずることだけを
純粋 じゅんすい に
意味 いみ していた。(
中略 ちゅうりゃく )
われわれ
戦中 せんちゅう 派 は 世代 せだい は、
青春 せいしゅん の
頂点 ちょうてん において、「いかに
死 し ぬか」という
難問 なんもん との
対決 たいけつ を
通 とお してしか、「いかに
生 い きるか」の
課題 かだい の
追求 ついきゅう が
許 ゆる されなかった
世代 せだい である。そしてその
試練 しれん に、
馬鹿 ばか 正直 しょうじき にとりくんだ
世代 せだい である。
林 はやし 尹 いん 夫 おっと の
表現 ひょうげん によれば、――おれは、よしんば
殴 なぐ られ、
蹴 け とばされることがあっても、
精神 せいしん の
王国 おうこく だけは
放 はな すまい。それが
今 いま のおれにとり、
唯一 ゆいいつ の
修業 しゅうぎょう であり、おれにとって
過去 かこ と
未来 みらい に
一貫 いっかん せる
生 い き
方 かた を
学 まな ばせるものが、そこにあるのだ――と
自分 じぶん に
鞭打 むちう とうとする
愚直 ぐちょく な
世代 せだい である。
戦争 せんそう が
終 おわ ると、
自分 じぶん を
一方 いっぽう 的 てき な
戦争 せんそう の
被害 ひがい 者 しゃ に
仕立 した てて
戦争 せんそう と
縁 えん を
切 き り、いそいそと
古巣 ふるす に
帰 かえ ってゆく、そうした
保身 ほしん の
術 じゅつ を
身 み につけていない
世代 せだい である。
三島 みしま 自身 じしん 、
律義 りちぎ で
生真面目 きまじめ で、
妥協 だきょう を
許 ゆる せない
人 ひと であった。
— 吉田 よしだ 満 みつる 「三島 みしま 由紀夫 ゆきお の苦悩 くのう 」[215]
1992年 ねん 4月 がつ から1994年 ねん 1月 がつ までの1年 ねん 8か月 げつ 日本 にっぽん に滞在 たいざい していたというインド人 じん ビジネスマン のM.K.シャルマは、三島 みしま の行動 こうどう について、「彼 かれ (三島 みしま )は小説 しょうせつ 家 か としてこの世 よ でありとあらゆる栄光 えいこう を手 て に入 い れたが、戦時 せんじ に自分 じぶん が〈兵隊 へいたい にならなかった〉というコンプレックスから逃 のが れることはできなかった。兵役 へいえき を逃 のが れたことは男児 だんじ としての証明 しょうめい に欠 か けるだけでなく、彼 かれ にとって、民族 みんぞく の一人 ひとり としての資格 しかく に欠 か けることだったのだろう。この劣等 れっとう 感 かん は、名声 めいせい を手 て に入 い れれば入 い れるほど、彼 かれ の心 しん に強 つよ く自嘲 じちょう の念 ねん を与 あた えたのにちがいない」と述 の べている[216] 。
杉山 すぎやま 隆男 たかお は、三島 みしま が滝ヶ原 たきがはら 分 ぶん 屯 たむろ 地 ち の隊 たい 内 ない 誌 し 『たきがはら』に寄 よ せた一文 いちぶん の中 なか で自分 じぶん のことを、〈自衛隊 じえいたい について「知 し りすぎた」男 おとこ になつてしまつた〉[190] と言 い っていたことに触 ふ れつつ、「じっさい〈知 し りすぎた〉三島 みしま は、『檄 げき 』にも書 か きとめた通 とお り、〈アメリカは眞 しん の日本 にっぽん の自主 じしゅ 的 てき 軍隊 ぐんたい が日本 にっぽん の國土 こくど を守 まも ることを喜 よろこ ばないのは自明 じめい である〉という自衛隊 じえいたい の本質 ほんしつ を見抜 みぬ いていたがゆえに、自衛隊 じえいたい の今日 きょう ある姿 すがた を予見 よけん することができたのだろう」と述 の べ、杉山 すぎやま 自身 じしん も実際 じっさい に体験 たいけん して悟 さと った自衛隊 じえいたい 観 かん と重 かさ ねて以下 いか のように分析 ぶんせき している[217] 。
隊員 たいいん ひとりひとりが
訓練 くんれん や
任務 にんむ の
最前線 さいぜんせん で
小石 こいし を
積 つ み
上 あ げるようにどれほど
地道 じみち でひたむきな
努力 どりょく を
重 かさ ねようとも、アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを
後見人 こうけんにん にし、アメリカの
意向 いこう をうかがわざるを
得 え ない、すぐれて
政治 せいじ 的 てき 道具 どうぐ としての
自衛隊 じえいたい の
本質 ほんしつ と
限界 げんかい は、
戦後 せんご 二 に 十 じゅう 年 ねん が
六 ろく 十 じゅう 余 よ 年 ねん となり、
世紀 せいき が
新 あたら しくなっても
変 か わりようがないのである。(
中略 ちゅうりゃく )
私 わたし が
十 じゅう 五 ご 年 ねん かけて
思 おも い
知 し り、やはりそうだったのか、と
自 みずか らに
納得 なっとく させるしかなかったことを、
三島 みしま は
四 よん 年 ねん に
満 み たない
自衛隊 じえいたい 体験 たいけん の
中 なか でその
鋭 するど く
透徹 とうてつ した
眼差 まなざ しの
先 さき に
見据 みす えていた。もっとも
日本 にっぽん であらねばならないものが、
戦後 せんご 日本 にっぽん のいびつさそのままに、
根 ね っこの
部分 ぶぶん で、
日本 にっぽん とはなり
得 え ない。
三島 みしま の
絶望 ぜつぼう はそこから
発 はっ せられていたのではなかったのか。
— 杉山 すぎやま 隆男 たかお 「『兵士 へいし 』になれなかった三島 みしま 由紀夫 ゆきお 」[217]
舟橋 ふなばし 聖一 せいいち は、三島 みしま の死 し を「憤 いきどお りの死 し 」だとし、その死 し の意味 いみ について、「――わたしは思 おも う。表現 ひょうげん 力 りょく の極限 きょくげん は死 し につながることを――。表現 ひょうげん しても、表現 ひょうげん しても、その表現 ひょうげん 力 りょく が厚 あつ い壁 かべ によって妨 さまた げられる時 とき 、ペン を擲 なげう って死 し ぬほかはない」という見解 けんかい を示 しめ した[218] 。
島田 しまだ 雅彦 まさひこ は、三島 みしま が『文化 ぶんか 防衛 ぼうえい 論 ろん 』のような論文 ろんぶん を書 か き、そうした「イデオロギー を支 ささ えるべく言葉 ことば の伽藍 がらん 」を小説 しょうせつ において創作 そうさく しながら、その一方 いっぽう で「サブカルチャー の帝王 ていおう としてのポジション」を作 つく っていった理由 りゆう は、安保 あんぽ 反対 はんたい 左翼 さよく 全盛 ぜんせい の時代 じだい にイデオロギーをストレートに出 だ しても全面 ぜんめん 的 てき に支持 しじ が得 え られるはずもないため、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 的 てき に支持 しじ を取 と りつけなければならなかったからだと考察 こうさつ し[219] 、それは「戦後 せんご 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の守護神 しゅごじん 」という位置 いち を占 し めるようになった「戦後 せんご の天皇 てんのう そのものの隠喩 いんゆ 」を、三島 みしま 自 みずか らが体現 たいげん しようとしたのではないかと述 の べている[219] 。そしてそのやり方 かた は、石原 いしはら 慎太郎 しんたろう のように文学 ぶんがく 者 しゃ が政治 せいじ にかかわるという方向 ほうこう ではないが、「一人 ひとり で三島 みしま 党 とう みたいなものの勢力 せいりょく を伸 の ばしていく手口 てぐち 」であり、三島 みしま の意識 いしき の中 なか でイデオロギーと「有機 ゆうき 的 てき に矛盾 むじゅん なく結 むす びついていたのかもしれないという意味 いみ での政治 せいじ 」なのだと論 ろん じている[219] 。
また島田 しまだ は、今日 きょう の文学 ぶんがく が、「この日本 にっぽん を変 か えるとか、日本 にっぽん の政治 せいじ を変 か えるという政治 せいじ 的 てき な野心 やしん 」から遠 とお く離 はな れてしまったことに触 ふ れつつ、以下 いか のような見解 けんかい を述 の べている。
今 いま の
時点 じてん の
後学 こうがく で、
三島 みしま のやったことをとらえ
直 なお そうとすれば、もともとは
政治 せいじ に
敗北 はいぼく したもののジャンルであるとも
言 い われていた
文学 ぶんがく に
深 ふか くコミットしながら、しかしそれでも、
文学 ぶんがく サイドから
政治 せいじ への
逆転 ぎゃくてん さよならホームラン的 てき コミット、
文学 ぶんがく の
革命 かくめい が
社会 しゃかい の
革命 かくめい になるということをどこかで
信 しん じていたのではないか。むろんそれは
非常 ひじょう に
難 むずか しい。かつての
自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう の
担 にな い
手 て たちや、
大正 たいしょう デモクラシーの
担 にな い
手 て たち、
共産 きょうさん 主義 しゅぎ 運動 うんどう にコミットした
文学 ぶんがく 者 しゃ たちが
抱 だ いていた
理想 りそう 主義 しゅぎ は
持 も ち
得 え なかったかもしれないけれども、
苦 にが い
現実 げんじつ 認識 にんしき を
伴 ともな いつつ、
過去 かこ の
文学 ぶんがく 者 しゃ と
政治 せいじ のかかわり
方 かた の
一 いち 変形 へんけい を
三島 みしま に
認 みと めるのは
可能 かのう かもしれない。
— 島田 しまだ 雅彦 まさひこ 「三島 みしま 由紀夫 ゆきお 不在 ふざい の三 さん 十 じゅう 年 ねん 」[219]
田中 たなか 美代子 みよこ は、三島 みしま が遺稿 いこう 『壮年 そうねん の狂気 きょうき 』の中 なか で[220] 、〈現代 げんだい 一般 いっぱん の政治 せいじ 家 か ・実業 じつぎょう 家 か ・知識 ちしき 人 じん はそれほど正気 しょうき であり、それほど児戯 じぎ から遠 とお くにゐるだらうか〉と「三 さん 無 む 事件 じけん 」に触 ふ れながら反問 はんもん し、〈狂気 きょうき の問題 もんだい 提起 ていき は、正気 しょうき だと思 おもえ つてゐる人間 にんげん の狂気 きょうき をあばくところにある〉と記 しる していたことを挙 あ げながら、「実際 じっさい 〈檄 げき 〉の指摘 してき する沖縄 おきなわ 問題 もんだい もいまだに解決 かいけつ をみず、現 げん 憲法 けんぽう はいわばゴルディウスの結 むす び目 め であり、三島 みしま 事件 じけん は、内外 ないがい の情勢 じょうせい に照 て らし、改憲 かいけん の不可能 ふかのう を見極 みきわ めた故 ゆえ に、自 みずか ら〈文化 ぶんか 〉を体現 たいげん しつつ、〈政治 せいじ 〉と刺違 さしちが えた象徴 しょうちょう 的 てき 行動 こうどう だった」と考察 こうさつ している[221] 。
磯田 いそだ 光一 こういち は、三島 みしま のなかに、「戦後 せんご の安定 あんてい した社会 しゃかい のなかで風化 ふうか をつづける文化 ぶんか 状況 じょうきょう への反発 はんぱつ 、戦後 せんご 国家 こっか のはんでいる矛盾 むじゅん への挑戦 ちょうせん 」があり、それが「時代 じだい の価値 かち 観 かん に逆行 ぎゃっこう する道 みち を行 い く動因 どういん の一 ひと つ」になったと述 の べている[222] 。そして、その小説 しょうせつ 家 か の生涯 しょうがい がたとえ「三島 みしま 由紀夫 ゆきお 」という名 な の「仮面 かめん 劇 げき 」であったとしても、「その仮面 かめん のそなえていた妥協 だきょう を知 し らない歩 あゆ み」は、三島 みしま が唱 とな えた政治 せいじ 思想 しそう の評価 ひょうか に多 おお くの批判 ひはん や問題 もんだい が残 のこ されているにせよ、「その芸術 げいじゅつ 上 じょう の豊 ゆた かな達成 たっせい とともに、人間 にんげん の精神 せいしん 的 てき 価値 かち を証明 しょうめい しようとする誠実 せいじつ な試 こころ みの一 ひと つであった」として、「自身 じしん の行為 こうい を時代 じだい へのアンチテーゼ と意識 いしき していた三島 みしま は、その評価 ひょうか をのこされた人 ひと びとにゆだねたのである」としている[222] 。
死後 しご 46年 ねん 経 た った2017年 ねん (平成 へいせい 29年 ねん )1月 がつ に初 はつ 公表 こうひょう されたジョン・ベスター との対談 たいだん (自 じ 死 し の9か月 げつ 前 まえ の1970年 ねん 2月 がつ 19日 にち に実施 じっし )で三 さん 島 とう は、〈死 し がね、自分 じぶん の中 なか に完全 かんぜん にフィックスしたのはね、自分 じぶん の肉体 にくたい ができてからだと思 おも うんです。(中略 ちゅうりゃく )死 し の位置 いち が肉体 にくたい の外 そと から中 なか に入 はい ってきたような気 き がする〉、〈平和 へいわ 憲法 けんぽう です。あれが偽善 ぎぜん のもとです。(中略 ちゅうりゃく )憲法 けんぽう は、日本人 にっぽんじん に死 し ねと言 い っているんですよ〉と自身 じしん の死生 しせい 観 かん や文学 ぶんがく や憲法 けんぽう について触 ふ れ、行動 こうどう については自身 じしん を〈ピエロ 〉に喩 たと え、後世 こうせい に理解 りかい を委 ゆだ ねるかのような以下 いか の発言 はつげん をしている[223] [224] [225] [226] 。
僕 ぼく がやっていることが
写真 しゃしん に
出 で ます。あるいは、
週刊 しゅうかん 誌 し で
紹介 しょうかい されます。それはその
段階 だんかい においてみんなにわかるわけでしょう。ああ、あいつはこんなことをやっている、バカだねえ、と。でも、その「バカだねえ」ということを
幾 いく ら
説明 せつめい しても、
僕 ぼく をバカだと
思 おも った
人 ひと はバカだと
思 おも い
続 つづ けます。(
中略 ちゅうりゃく )ですから、
僕 ぼく は、
スタンダール じゃないけれども、happy few がわかってくれればいいんです。
僕 ぼく にとっては、
僕 ぼく の
小説 しょうせつ よりも
僕 ぼく の
行動 こうどう の
方 ほう が
分 わ かりにくいんだ、という
自信 じしん があるんです。(
中略 ちゅうりゃく )
僕 ぼく が
死 し んでね、50
年 ねん か100
年 ねん たつとね、「ああ、わかった」という
人 ひと がいるかもしれない。それでも
構 かま わない。
生 い きているというのは、
人間 にんげん はみんな
何 なん らかの
意味 いみ で
ピエロ です。これは
免 まぬか れない。
佐藤 さとう 首相 しゅしょう でもやっぱり
一種 いっしゅ のピエロですね。
生 い きている
人間 にんげん がピエロでないということはあり
得 え ないですね。
人間 にんげん がピエロというのは、ある意味 いみ で芝居 しばい をやらなくちゃ生 い きていけない。(ジョン・ベスターの問 と い)
芝居 しばい をやらなきゃ
生 い きていけないのは、きっと
神様 かみさま が
我々 われわれ を
人形 にんぎょう に
扱 あつか っているわけでしょう。
我々 われわれ は
人生 じんせい で
一 ひと つの
役割 やくわり を、puppet play(
パペット ・プレー)を
強 し いられているんですね
[注釈 ちゅうしゃく 31] 。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「ジョン・ベスターとの対談 たいだん 」(1970年 ねん 2月 がつ )[224] [225] [227]
生 い き残 のこ った3人 にん への公訴 こうそ は、嘱託 しょくたく 殺人 さつじん 、傷害 しょうがい 、監禁 かんきん 致傷 ちしょう 、暴力 ぼうりょく 行為 こうい 、職務 しょくむ 強要 きょうよう など刑事 けいじ 訴訟 そしょう 法 ほう の枠 わく 内 ない の外形 がいけい 的 てき なものに留 と まり、改憲 かいけん 論議 ろんぎ については、法廷 ほうてい 自体 じたい 意見 いけん を左右 さゆう し、支援 しえん 団体 だんたい (全国 ぜんこく 学 がく 協 きょう 、日本 にっぽん 青年 せいねん 協議 きょうぎ 会 かい 、11・25義挙 ぎきょ 正当 せいとう 裁判 さいばん 要求 ようきゅう 闘争 とうそう 実行 じっこう 委員 いいん 会 かい など)が三島 みしま の論文 ろんぶん 『問題 もんだい 提起 ていき 』を提出 ていしゅつ したにもかかわらず、弁護 べんご 団 だん も「現行 げんこう 憲法 けんぽう の批判 ひはん は司法 しほう 裁判所 さいばんしょ の関与 かんよ するところではない」として証拠 しょうこ 物件 ぶっけん とはしなかった[221] 。
大越 おおこし 護 まもる 弁護人 べんごにん は最終 さいしゅう 弁論 べんろん で、「国家 こっか のためにする緊急 きんきゅう 救助 きゅうじょ の法理 ほうり 」の適用 てきよう を主張 しゅちょう したが、櫛淵 くしぶち 理 り 裁判 さいばん 長 ちょう は、「国家 こっか 公共 こうきょう 機関 きかん の有効 ゆうこう な公的 こうてき 活動 かつどう を期待 きたい しえないだけの緊急 きんきゅう な事態 じたい が存在 そんざい していたとは到底 とうてい 認 みと められない」として被告 ひこく らは懲役 ちょうえき 4年 ねん の実刑 じっけい となった[注釈 ちゅうしゃく 32] 。なお、被告 ひこく らの裁判 さいばん 中 ちゅう の陳述 ちんじゅつ などは以下 いか のものである。
小 しょう 賀 が 正義 まさよし
「いまの世 よ の中 なか を見 み たとき、薄 うす っぺらなことばかり多 おお い。真実 しんじつ を語 かた ることができるのは、自分 じぶん の生命 せいめい をかけた行動 こうどう しかない。先生 せんせい (三島 みしま )からこのような話 はなし を聞 き く以前 いぜん から、自分 じぶん でもこう考 かんが えていた。憲法 けんぽう は占領 せんりょう 軍 ぐん が英文 えいぶん で起草 きそう した原案 げんあん を押 お しつけたもので、欺瞞 ぎまん と偽善 ぎぜん にみち、屈辱 くつじょく 以外 いがい のなにものでもない。(中略 ちゅうりゃく )日本人 にっぽんじん の魂 たましい を取戻 とりもど すことができるのではないかと考 かんが え、行動 こうどう した。しかし、社会 しゃかい 的 てき 、政治 せいじ 的 てき に効果 こうか があるとは思 おも わなかった。三島 みしま 先生 せんせい も『多 おお くの人 ひと は理解 りかい できないだろうが、いま犬死 いぬじに がいちばん必要 ひつよう だということを見 み せつけてやりたい』と話 はな されていた。われわれは軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 者 もの ではない。永遠 えいえん に続 つづ くべき日本 にっぽん の天皇 てんのう の地位 ちい を守 まも るために、日本人 にっぽんじん の意地 いじ を見 み せたのだ」[4]
「天皇 てんのう の地位 ちい は、天皇 てんのう が御 ご 存在 そんざい するが故 ゆえ に、歴史 れきし 的 てき に天皇 てんのう なのであって、大統領 だいとうりょう や議員 ぎいん を選 えら ぶように多数決 たすうけつ で決 き まるものではないのです。菊 きく は菊 きく であるからこそ菊 きく なのであって、どのようにしてもバラにすることはできないのと同様 どうよう に、天皇 てんのう を選挙 せんきょ やそれに類 るい するもので否定 ひてい することはできないのです。それなのに(国民 こくみん の)『総意 そうい に基 もと づく』とあるのは現行 げんこう 憲法 けんぽう が西洋 せいよう の民主 みんしゅ 概念 がいねん を誤 あやま って天皇 てんのう に当 あ てはめ、天皇 てんのう が国民 こくみん と対立 たいりつ するヨーロッパの暴君 ぼうくん のように描 えが き出 だ したアメリカ占領 せんりょう 軍 ぐん の日本 にっぽん 弱化 じゃっか の企 たくら みです。それ故 こ 、現行 げんこう 憲法 けんぽう を真 しん に日本人 にっぽんじん と自覚 じかく するならば黙 だま って見過 みす ごすわけにはできないはずです。三島 みしま 先生 せんせい と森田 もりた 大兄 たいけい の自決 じけつ は、この失 うしな われつつある大義 たいぎ のために行 おこ なった至純 しじゅん にして至高 しこう 、至尊 しそん な自己 じこ 犠牲 ぎせい の最高 さいこう の行為 こうい であります。『死 し 』は文化 ぶんか であるといった三島 みしま 先生 せんせい の言葉 ことば は、このことを指 さ していたのではないかと思 おも います」[113]
小川 おがわ 正洋 まさひろ
「自衛隊 じえいたい が治安 ちあん 出動 しゅつどう するまでの空白 くうはく を埋 う めるのが、楯 だて の会 かい の目的 もくてき だった。国 くに がみずからの手 て で日本 にっぽん の文化 ぶんか と伝統 でんとう を伝 つた え、国 くに を守 まも るのを憲法 けんぽう で保障 ほしょう するのは当然 とうぜん である」[4]
「三島 みしま 先生 せんせい の『右翼 うよく は理論 りろん でなく心情 しんじょう だ』という言葉 ことば はとてもうれしいものでした。自分 じぶん は他 た の人 ひと から比 くら べれば勉強 べんきょう も足 た りないし、活動 かつどう 経験 けいけん も少 すく ない。しかし、日本 にっぽん を思 おも う気持 きもち だけは誰 だれ にも負 ま けないつもりだ。三島 みしま 先生 せんせい は、如何 いか なるときでも学生 がくせい の先頭 せんとう に立 た たれ、訓練 くんれん を共 とも にうけました。共 とも に泥 どろ にまみれ、汗 あせ を流 なが して雪 ゆき の上 うえ をほふくし、その姿 すがた に感激 かんげき せずにはおられませんでした。これは世間 せけん でいう三島 みしま の道楽 どうらく でもなんでもない。また、文学 ぶんがく 者 しゃ としての三島 みしま 由紀夫 ゆきお でもない。(中略 ちゅうりゃく )楯 だて の会 かい の例会 れいかい を通 つう じ、先生 せんせい は『左翼 さよく と右翼 うよく との違 ちが いは“天皇 てんのう と死 し ”しかないのだ』とよく説明 せつめい されました。『左翼 さよく は積 つ み重 かさ ね方式 ほうしき だが我々 われわれ は違 ちが う。我々 われわれ はぎりぎりの戦 たたか いをするしかない。後世 こうせい は信 しん じても未来 みらい は信 しん じるな。未来 みらい のための行動 こうどう は、文化 ぶんか の成熟 せいじゅく を否定 ひてい するし、伝統 でんとう の高貴 こうき を否定 ひてい する。自分 じぶん 自 みずか らを、歴史 れきし の精華 せいか を具現 ぐげん する最後 さいご の者 もの とせよ。それが神風 かみかぜ 特攻隊 とっこうたい の行動 こうどう 原理 げんり “あとに続 つづ く者 もの ありと信 しんじ ず”の思想 しそう だ。(中略 ちゅうりゃく )武士 ぶし 道 どう とは死 し ぬことと見 み つけたりとは、朝 あさ 起 お きたらその日 ひ が最後 さいご だと思 おも うことだ。だから歴史 れきし の精華 せいか を具現 ぐげん するのは自分 じぶん が最後 さいご だと思 おも うことが、武士 ぶし 道 どう なのだ』と教 おし えてくださいました。(中略 ちゅうりゃく )私 わたし 達 たち が行動 こうどう したからといって、自衛隊 じえいたい が蹶起 けっき するとは考 かんが えませんでしたし、世 よ の中 なか が急 きゅう に変 か わることもあろうはずがありませんが、それでもやらねばならなかったのです」[113]
古賀 こが 浩靖 ひろやす
「戦後 せんご 、日本 にっぽん は経済 けいざい 大国 たいこく になり、物質 ぶっしつ 的 てき には繁栄 はんえい した反面 はんめん 、精神 せいしん 的 てき には退廃 たいはい しているのではないかと思 おも う。思想 しそう の混迷 こんめい の中 なか で、個人 こじん 的 てき 享楽 きょうらく 、利己 りこ 的 てき な考 かんが えが先 さき に立 た ち、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の美名 びめい で日本人 にっぽんじん の精神 せいしん をむしばんでいる。(中略 ちゅうりゃく )その傾向 けいこう をさらに推 お し進 すす めると、日本 にっぽん の歴史 れきし 、文化 ぶんか 、伝統 でんとう を破壊 はかい する恐 おそ れがある。(中略 ちゅうりゃく )この状況 じょうきょう をつくりだしている悪 あく の根源 こんげん は、憲法 けんぽう であると思 おも う。現 げん 憲法 けんぽう はマッカーサー のサーベル の下 した でつくられたもので、サンフランシスコ条約 じょうやく で形式 けいしき 的 てき に独立 どくりつ したとき、無効 むこう 宣言 せんげん をすべきであった」[4]
「現実 げんじつ には、日本 にっぽん にとって非常 ひじょう にむずかしい、重要 じゅうよう な時期 じき が、曖昧 あいまい な、呑気 のんき なかたちで過 す ぎ去 さ ろうとしており、現状 げんじょう 維持 いじ の生温 なまぬる い状況 じょうきょう の中 なか に日本 にっぽん 中 ちゅう は、どっぷりとつかって、これが、将来 しょうらい どのような意味 いみ を持 も っているかを深 ふか く、真剣 しんけん に探 さぐ ることなく過 す ぎ去 さ ろうとしていたことに、三島 みしま 先生 せんせい 、森田 もりた さんらが憤 いきどお らざるを得 え なかったことは確 たし かです」[113]
「狂気 きょうき 、気違 きちが い沙汰 ざた といわれたかもしれないが、いま生 い きている日本人 にっぽんじん だけに呼 よ びかけ、訴 うった えたのではない。三島 みしま 先生 せんせい は『自分 じぶん が考 かんが え、考 かんが え抜 ぬ いていまできることはこれなんだ』と言 い った。最後 さいご に話合 はなしあ ったとき、『いまこの日本 にっぽん に何 なに かが起 お こらなければ、日本 にっぽん は日本 にっぽん として立上 たちあ がることができないだろう、社会 しゃかい に衝撃 しょうげき を与 あた え、亀裂 きれつ をつくり、日本人 にっぽんじん の魂 たましい を見 み せておかなければならない、われわれがつくる亀裂 きれつ は小 ちい さいかもしれないが、やがて大 おお きくなるだろう』と言 い っていた。先生 せんせい は後世 こうせい に託 たく してあの行動 こうどう をとった」[182]
大越 おおこし 護 まもる 弁護人 べんごにん
「まれにみる鋭敏 えいびん な頭脳 ずのう の持主 もちぬし である三島 みしま の脳裏 のうり には、この美 うつく しい日本 にっぽん が、ガラガラと音 おと をたてて崩 くず れてゆく姿 すがた が、捉 とら えられていたに違 ちが いない。三島 みしま の畢生 ひっせい の大作 たいさく 『豊饒 ほうじょう の海 うみ 』これと同名 どうめい の月 つき の海 うみ は、その名 な の華麗 かれい さに似 に ず、死 し の海 うみ であり、廃墟 はいきょ の世界 せかい である。これと同様 どうよう 、三島 みしま の脳裏 のうり には、経済 けいざい 的 てき には益々 ますます 豊 ゆた かになる日本 にっぽん が、精神 せいしん 的 てき には月 つき の海 うみ のように荒廃 こうはい してしまうのが映 うつ っていた。われわれは、その危機 きき の一 ひと つを最近 さいきん 、連合赤軍 れんごうせきぐん の事件 じけん で示 しめ された。あの事件 じけん こそ、道義 どうぎ が根底 こんてい から失 うしな われていることを、最 もっと も端 はし 的 てき に示 しめ すものである。三島 みしま の親友 しんゆう である村松 むらまつ 剛 つよし は、その著書 ちょしょ 『三島 みしま 由紀夫 ゆきお ―その生 なま と死 し 』に、『日本人 にっぽんじん は繁栄 はんえい のぬるま湯 ゆ につかり、氏 し の頼 たの みとしていた自衛隊 じえいたい も、当 とう にはならなかった。どうしたらこの事態 じたい を動 うご かし得 え るか、氏 し は死 し をもって諌 いさ める道 みち を選 えら んだ』と書 か いている。こうして、三島 みしま と森田 もりた は、割腹 かっぷく 自決 じけつ をし、社会 しゃかい を覚醒 かくせい させようとした」[63]
三島 みしま が楯 だて の会 かい 会員 かいいん ・倉持 くらもち 清 きよし (1期生 きせい 、第 だい 2班 はん 班長 はんちょう )に宛 あ てた遺書 いしょ は、事件 じけん の日 ひ の夜 よる に、瑤子 ようこ 夫人 ふじん から倉持 くらもち 清 きよし に手渡 てわた された[97] [228] 。倉持 くらもち は、決起 けっき した会員 かいいん 4名 めい 同様 どうよう に三島 みしま から信頼 しんらい されていた人物 じんぶつ であった[111] [229] 。
三島 みしま は倉持 くらもち から仲人 なこうど を依頼 いらい され快諾 かいだく していたために、〈蹶起 けっき と死 し の破滅 はめつ の道 みち へ導 みちび くこと〉、〈許婚 きょこん 者 しゃ を裏切 うらぎり つて貴兄 きけい だけを行動 こうどう させること〉は不可能 ふかのう だったことを伝 つた え、人生 じんせい を生 い きてもらいたいことを遺言 ゆいごん した[111] 。
小生 しょうせい の
小 ちい さな
蹶起 けっき は、それこそ
考 かんが へに
考 かんが へた
末 すえ であり、あらゆる
条件 じょうけん を
参酌 さんしゃく して、
唯一 ゆいいつ の
活路 かつろ を
見出 みいだ したものでした。
活路 かつろ は
同時 どうじ に
明確 めいかく な
死 し を
予定 よてい してゐました。あれほど
左翼 さよく 学生 がくせい の
行動 こうどう 責任 せきにん のなさを
弾劾 だんがい してきた
小 しょう 生 せい としては、とるべき
道 みち は
一 ひと つでした。それだけに
人選 じんせん は
厳密 げんみつ を
極 きわ め、ごくごく
少 しょう 人数 にんずう で、できるだけ
犠牲 ぎせい を
少 すく なくすることを
考 かんが へるほかはありませんでした。
小生 しょうせい としても
楯 だて の
会 かい 会員 かいいん と
共 とも に
義 よし のために
起 た つことをどんなに
念願 ねんがん し、どんなに
夢 ゆめ みたことでせう。しかし、
状況 じょうきょう はすでにそれを
不可能 ふかのう にしてゐましたし、さうなつた
以上 いじょう 、
非 ひ 参加 さんか 者 しゃ には
何 なに も
知 し らせぬことが
情 じょう である、と
考 かんが へたのです。
小生 しょうせい は
決 けっ して
貴兄 きけい らを
裏切 うらぎり つたとは
思 おもえ つてをりません。(
中略 ちゅうりゃく )どうか
小生 しょうせい の
気持 きもち を
汲 く んで、
今後 こんご 、
就職 しゅうしょく し、
結婚 けっこん し、
汪洋 おうよう たる
人生 じんせい の
波 なみ を
抜手 ぬきて を
切 せつ つて
進 すす みながら、
貴兄 きけい が
真 しん の
理想 りそう を
忘 わす れずに
成長 せいちょう されることを
念願 ねんがん します。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「倉持 くらもち 清 きよし 宛 あ ての封書 ふうしょ 」(昭和 しょうわ 45年 ねん 11月)[111]
この倉持 くらもち への封書 ふうしょ と共 とも に同封 どうふう されていた楯 だて の会 かい 会員 かいいん 一同 いちどう 宛 あ ての遺書 いしょ は、事件 じけん 翌日 よくじつ 11月 がつ 26日 にち に代々木 よよぎ の聖徳 せいとく 山 さん 諦聴寺 たいちょうじ で営 いとな まれた森田 もりた 必勝 ひっしょう の通夜 つや の席 せき で、皆 みな に回 まわ し読 よ みされた[102] 。これを読 よ んだ会員 かいいん たちは、残 のこ された者 もの への三島 みしま の思 おも いやりが伝 つた わってきたと回想 かいそう している[102] [229] 。
たびたび、
諸君 しょくん の
志 こころざし をきびしい
言葉 ことば でためしたやうに、
小生 しょうせい の
脳裡 のうり にある
夢 ゆめ は、
楯 だて の
会 かい 会員 かいいん が
一丸 いちがん となつて、
義 ぎ のために
起 た ち、
会 かい の
思想 しそう を
実現 じつげん することであつた。それこそ
小生 しょうせい の
人生 じんせい 最大 さいだい の
夢 ゆめ であつた。
日本 にっぽん を
日本 にっぽん の
真 ま 姿 すがた に
返 かえ すために、
楯 だて の
会 かい はその
総力 そうりょく を
結集 けっしゅう して
事 こと に
当 あた るべきであつた。(
中略 ちゅうりゃく )
革命 かくめい 青年 せいねん たちの
空理空論 くうりくうろん を
排 はい し、われわれは
不言 ふげん 実行 じっこう を
旨 むね として、
武 たけ の
道 みち にはげんできた。
時 とき いたらば、
楯 だて の
会 かい の
真価 しんか は
全 ぜん 国民 こくみん の
目前 もくぜん に
証明 しょうめい される
筈 はず であつた。
しかるに、
時 とき 利 り あらず、われわれが、われわれの
思想 しそう のために、
全員 ぜんいん あげて
行動 こうどう する
機会 きかい は
失 うしな はれた。
日本 にっぽん はみかけの
安定 あんてい の
下 した に、
一 いち 日 にち 一 いち 日 にち 魂 たましい のとりかへしのつかぬ
癌 がん 症状 しょうじょう をあらはしてゐるのに、
手 て をこまぬいてゐなければならなかつた。もつともわれわれの
行動 こうどう が
必要 ひつよう なときに、
状況 じょうきょう はわれわれに
味方 みかた しなかつたのである。(
中略 ちゅうりゃく )
日本 にっぽん が
堕落 だらく の
淵 ふち に
沈 しず んでも、
諸君 しょくん こそは、
武士 ぶし の
魂 たましい を
学 まな び、
武士 ぶし の
錬成 れんせい を
受 う けた、
最後 さいご の
日本 にっぽん の
若者 わかもの である。
諸君 しょくん が
理想 りそう を
放棄 ほうき するとき、
日本 にっぽん は
滅 ほろ びるのだ。
私 わたし は
諸君 しょくん に、
男子 だんし たるの
自負 じふ を
教 きょう へようと、それのみ
考 かんが へてきた。
一度 いちど 楯 だて の
会 かい に
属 ぞく したものは、
日本 にっぽん 男児 だんじ といふ
言葉 ことば が
何 なに を
意味 いみ するか、
終生 しゅうせい 忘 わす れないでほしい、と
念願 ねんがん した。
青春 せいしゅん に
於 おい て
得 え たものこそ
終生 しゅうせい の
宝 たから である。
決 けっ してこれを
放棄 ほうき してはならない。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「楯 だて の会 かい 会員 かいいん たりし諸君 しょくん へ」(昭和 しょうわ 45年 ねん 11月)[230]
三島 みしま は自決 じけつ 1週間 しゅうかん 前 まえ の11月18日 にち 夜 よる に、大田 おおた 区 く 南馬込 みなみまごめ の自宅 じたく で古林 ふるばやし 尚 しょう による1時 じ 間 あいだ 余 あま りの対談 たいだん インタビューに応 おう じた。この時 とき 、話題 わだい が楯 だて の会 かい に及 およ ぶと〈いまにわかります〉と2、3度 ど 繰 く り返 かえ し、古林 ふるばやし が『豊饒 ほうじょう の海 うみ 』の次 つぎ の今後 こんご の予定 よてい を聞 き くと、〈いまのところ、次 つぎ のプランは何 なに もないんです〉と語 かた った[231] 。
古林 ふるばやし はこの日 ひ のことを振 ふ り返 かえ り、三島 みしま が、「ほんとうに、なんにも、予定 よてい がない」と言 い った時 とき の顔 かお を、「あれほど淋 さび しそうな顔 かお を、私 わたし はみたことがない」と語 かた り、三島 みしま が「敗戦 はいせん より妹 いもうと の死 し のほうが、ショックだったと書 か いたのは、ウソで、敗戦 はいせん は非常 ひじょう にショックだったのです。どうしていいのかわからなかった」とも言 い っていたと回想 かいそう している[232] 。
事件 じけん に参加 さんか した古賀 こが 浩靖 ひろやす の父親 ちちおや は事件 じけん 当時 とうじ 、「生長 せいちょう の家 いえ 」本部 ほんぶ の講師 こうし をし、古賀 こが 自身 じしん も入信 にゅうしん していた[7] [29] [注釈 ちゅうしゃく 33] 。出所 しゅっしょ 後 ご に古賀 こが に会 あ ったという元 もと 楯 だて の会 かい の会員 かいいん の伊藤 いとう 邦 くに 典 てん が、「あの事件 じけん で、何 なに があなたに残 のこ ったか」を訊 たず ねると、古賀 こが はただ掌 てのひら を上 うえ に向 む けて、何 なに かの重 おも さ(三島 みしま と森田 もりた の首 くび の重 おも さ)を持 も つようにしてじっとそれを見詰 みつ めていただけだったという[233] 。
1984年 ねん (昭和 しょうわ 59年 ねん )に発刊 はっかん された写真 しゃしん 週刊 しゅうかん 誌 し 『フライデー 』創刊 そうかん 号 ごう の「14年 ねん 目 め に発見 はっけん された衝撃 しょうげき 写真 しゃしん ―自決 じけつ の重 おも みをいま」に、三島 みしま の生首 なまくび のアップ写真 しゃしん が掲載 けいさい されたことを受 う け、未亡人 みぼうじん ・平岡 ひらおか 瑤子 ようこ が講談社 こうだんしゃ に強硬 きょうこう 抗議 こうぎ 、出版 しゅっぱん が差 さ し止 と められた。このことにつき平岡 ひらおか 瑤子 ようこ は、同年 どうねん 末 まつ に行 おこな われた伊達 だて 宗 そう 克 かつ と徳岡 とくおか 孝夫 たかお によるインタビューで、「フォト・ジャーナリズムのこのたびの行為 こうい は、(江戸 えど 時代 じだい の)晒 さら し首 くび です。晒 さら し首 くび は死刑 しけい 以上 いじょう の刑罰 けいばつ であることを、あの雑誌 ざっし の編集 へんしゅう に携った人々 ひとびと は、ご存 ぞん じなのでしょうか」と述 の べた[234] 。
市谷 いちたに 記念 きねん 館 かん でツアーガイドの仕事 しごと をしていた葛城 かつらぎ 奈海 によると、東部 とうぶ 方面 ほうめん 総監 そうかん 室 しつ (旧 きゅう 陸軍 りくぐん 大臣 だいじん 室 しつ )から天皇 てんのう の「御 ご 休憩 きゅうけい 所 しょ (旧 きゅう 便殿 びんでん の間 あいだ )」に向 む かって、両 りょう 部屋 へや の前 まえ の廊下 ろうか を移動 いどう して行 い く三島 みしま と森田 もりた 必勝 ひっしょう の霊 れい と思 おも われる「黒 くろ い影 かげ 」を見 み たことがあるという[35] 。
1949年 ねん (昭和 しょうわ 24年 ねん )に発生 はっせい した弘前大学 ひろさきだいがく 教授 きょうじゅ 夫人 ふじん 殺人 さつじん 事件 じけん では、三島 みしま 事件 じけん に影響 えいきょう を受 う けて1971年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )に真犯人 しんはんにん が名乗 なの り出 で たため、冤罪 えんざい で懲役 ちょうえき 囚 しゅう になっていた人物 じんぶつ は、後 のち に再審 さいしん が開 ひら かれ無罪 むざい 判決 はんけつ となった[235] 。
三島 みしま 事件 じけん の後 のち 、何人 なんにん かの高校生 こうこうせい が後追 あとお い自殺 じさつ をしたという新聞 しんぶん 記事 きじ があり、翌年 よくねん 1971年 ねん (昭和 しょうわ 46年 ねん )9月 がつ には、八王子 はちおうじ の高校生 こうこうせい が三島 みしま の著書 ちょしょ 2冊 さつ を抱 かか えて、校庭 こうてい でガソリンをかぶって焼身 しょうしん 自殺 じさつ した記事 きじ も毎日新聞 まいにちしんぶん で報道 ほうどう された[108] 。
俳優 はいゆう の高倉 たかくら 健 けん は三島 みしま 事件 じけん に触発 しょくはつ され、三島 みしま の映画 えいが を製作 せいさく する予定 よてい だったという[236] 。高倉 たかくら 健 けん と親 した しかった横尾 よこお 忠則 ただのり によると、具体 ぐたい 的 てき プランも煮詰 につ まり、高倉 たかくら 健 けん はロサンゼルス へ何 なん 度 ど も渡航 とこう していたとされ、「次第 しだい に健 けん さんのなかに三島 みしま さんが乗 の り移 うつ っていくかのようで、僕 ぼく は三島 みしま さんの霊 れい が高倉 たかくら 健 けん さんに映画 えいが を作 つく らせようとしているのだなと感 かん じていました」と横尾 よこお は述懐 じゅっかい している[236] 。ところが土壇場 どたんば で瑤子 ようこ 未亡人 みぼうじん の了解 りょうかい が得 え られず映画 えいが 製作 せいさく を断念 だんねん せざるを得 え なくなった。仕方 しかた なく高倉 たかくら 健 けん は横尾 よこお に電話 でんわ してきて、多磨 たま 霊園 れいえん に一緒 いっしょ の墓参 はかまい りに行 い きましょうと誘 さそ い、「カメラ を持 も ってきて下 くだ さい。一緒 いっしょ に撮 と りましょう」と言 い ったという[236] 。
三島 みしま 事件 じけん 前後 ぜんこう の日本 にっぽん に関 かん する社会 しゃかい 的 てき 出来事 できごと
編集 へんしゅう
三島 みしま 事件 じけん 前後 ぜんこう に勃発 ぼっぱつ した世界 せかい のクーデター・戦争 せんそう ・暗殺 あんさつ ・テロ
編集 へんしゅう
三島 みしま 事件 じけん を題材 だいざい ・ヒントにしている作品 さくひん
編集 へんしゅう
夕 ゆう やけ番長 ばんちょう 第 だい 15集 しゅう 「文武両道 ぶんぶりょうどう 」
原作 げんさく :梶原 かじはら 一 いち 騎 き 漫画 まんが :荘司 しょうじ としお
アキレス腱 あきれすけん を切 き ってスポーツ特待 とくたい 生 せい の道 みち を絶 た たれてしまった主人公 しゅじんこう ・赤城 あかぎ 忠治 ただはる の元 もと に級友 きゅうゆう であるインテリの青木 あおき 輝夫 てるお が三島 みしま 由紀夫 ゆきお の自殺 じさつ の知 し らせを告 つ げ、大 おお いにショックを受 う ける場面 ばめん が描 えが かれており、三島 みしま を尊敬 そんけい していた青木 あおき は「憂国 ゆうこく の切腹 せっぷく だよ。諌死 かんし だ!」と泣 な き叫 さけ び、劇 げき 中 ちゅう でも6頁 ぺーじ に渡 わた って三島 みしま の演説 えんぜつ から切腹 せっぷく に至 いた るまでの描写 びょうしゃ が描 えが かれている。 また、三島 みしま 事件 じけん を聞 き いて、日本 にっぽん の魂 たましい のために命 いのち を捨 す てた三島 みしま に感動 かんどう した赤城 あかぎ が「俺 おれ もその魂 たましい を追 お っかけるぜ!」と決意 けつい し、それを見 み た青木 あおき は「ああ、いま……かつて国定 くにさだ 忠治 ただはる を尊敬 そんけい していた男 おとこ が日本 にっぽん の生 う んだ巨大 きょだい なる知性 ちせい 、三島 みしま 由紀夫 ゆきお を志向 しこう したのだ」と感 かん じ、「自衛隊 じえいたい へいって三島 みしま 先生 せんせい は日本 にっぽん の魂 たましい をよびかけたがその死 し をかけた声 こえ をだれも聞 き いてくれなかった………が、だがよ、おれにゃ聞 き こえたぜ」と涙 なみだ ながらに語 かた る赤城 あかぎ の姿 すがた が描 えが かれている。
^ この建物 たてもの は1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )から1879年 ねん (明治 めいじ 12年 ねん )まで陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう 、戦争 せんそう 時 じ は大本営 だいほんえい 陸軍 りくぐん 部 ぶ 、陸軍 りくぐん 省 しょう 、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ などが置 お かれ、 大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん のメッカ でもあった[9] 。太平洋戦争 たいへいようせんそう の敗戦 はいせん 時 じ には、晴 はれ 気 き 誠 まこと 少佐 しょうさ 、吉本 よしもと 貞一 さだいち 大将 たいしょう などが割腹 かっぷく 自決 じけつ をし、極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん の法廷 ほうてい にも使用 しよう された場所 ばしょ でもある[9] 。
^ 玄関 げんかん で出迎 でむか えた沢本 さわもと 三 さん 佐 さ が、日本 にっぽん 刀 がたな の所持 しょじ について質問 しつもん したが、三島 みしま は例会 れいかい に使 つか う「指揮 しき 刀 がたな 」だと言 い った[6] [10] 。
^ 中村 なかむら 2佐 さ はその後 ご 、陸 りく 幕 まく 広報 こうほう 班長 はんちょう 、第 だい 32連隊 れんたい 長 ちょう 、総 そう 監 かん 部 ぶ 幕僚 ばくりょう 副長 ふくちょう 、久留 くる 米 べい の幹部 かんぶ 候補 こうほ 生 せい 学校 がっこう 校長 こうちょう を歴任 れきにん し、1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん )7月 がつ 、陸 りく 将 すすむ で定年 ていねん 退官 たいかん した[14] 。
^ ちなみに、山本 やまもと 舜 しゅん 勝 かち が最後 さいご に三島 みしま 宅 たく を訪問 ほうもん した際 さい 、形見 かたみ かのように、三島 みしま から恩賜 おんし の煙草 たばこ と楯 だて の会 かい の隊 たい 歌 か のレコードを貰 もら ったという[19] 。
^ このバルコニーは、かつて太田 おおた 道灌 どうかん が江戸城 えどじょう 防衛 ぼうえい のために展望 てんぼう 台 だい を置 お いた所 ところ でもある[9] 。
^ この「七生 しちしょう 報國 ほうこく 」という語 かたり は、楠木 くすのき 正季 まさすえ が兄 あに ・楠木 くすのき 正成 まさしげ と共 とも に自害 じがい した時 とき に発 はっ した言葉 ことば として『太平 たいへい 記 き 』で語 かた られている(正成 まさしげ も弟 おとうと のその言葉 ことば に同意 どうい )。
^ 「檄文 げきぶん 」では、自分 じぶん を否定 ひてい する憲法 けんぽう にぺこぺこする自衛 じえい 官 かん たちを〈自 みずか ら冒 おかせ 瀆 する者 もの 〉と表現 ひょうげん されている[22] 。
^ K陸 りく 曹はその当時 とうじ の心境 しんきょう を以下 いか のように述懐 じゅっかい している。
無性 むしょう にせつなくなってきた。
現 げん 憲法 けんぽう 下 か に
異邦 いほう 人 じん として
国民 こくみん から
長 なが い
間 あいだ 白眼 しろめ 視 し されてきた
我々 われわれ 自衛隊 じえいたい 員 いん は
祖国 そこく 防衛 ぼうえい の
任 にん に
当 あ たる
自衛隊 じえいたい の
存在 そんざい について、
大 だい なり
小 しょう なり、
隊員 たいいん 同士 どうし で
不満 ふまん はもっているはずなのに。まるで
学生 がくせい の
デモ の
行進 こうしん が
機動 きどう 隊 たい と
対決 たいけつ しているような
状況 じょうきょう であった。
少 すく なくとも
指揮 しき 命令 めいれい をふんでここに
集合 しゅうごう してきた
隊員 たいいん 達 たち である。(
中略 ちゅうりゃく )
部隊 ぶたい 別 べつ に
整列 せいれつ させ、
三島 みしま の
話 はなし を
聞 き かせるべきで、たとえ、
暴徒 ぼうと によるものであっても、いったん
命令 めいれい で
集合 しゅうごう をかけた
以上 いじょう 正規 せいき の
手順 てじゅん をふむべきだ。こんなありさまの
自衛隊 じえいたい が、
日本 にっぽん を
守 まも る
軍隊 ぐんたい であるとはおこがましいと
思 おも った。
— K陸 りく 曹の回想 かいそう [9]
^ 三島 みしま は楯 だて の会 かい の会員 かいいん に、「人間 にんげん が自分 じぶん の話 はな す言葉 ことば の真意 しんい を誤 あやま りなく伝 つた え、相手 あいて に正確 せいかく に理解 りかい してもらえる範囲 はんい は、せいぜい10人 にん が限界 げんかい だ」と、軍隊 ぐんたい の最小 さいしょう 単位 たんい の班 はん が何故 なぜ 10人 にん かという根拠 こんきょ の説明 せつめい をし、話 はな し手 て の表情 ひょうじょう ・呼吸 こきゅう ・息吹 いぶき がき手 きて に直接 ちょくせつ 伝 つた わる範囲 はんい の中 なか で普通 ふつう の肉声 にくせい で話 はな さない限 かぎ り、話 はなし の真意 しんい はなかなか伝 つた わらず、大勢 おおぜい を相手 あいて にして文明 ぶんめい の利器 りき のマイクを使 つか って声 こえ を張 は り上 あ げて演説 えんぜつ すると、そこには必 かなら ず虚飾 きょしょく と誇張 こちょう が入 はい り、本質 ほんしつ 的 てき に人 ひと の心 しん を動 うご かすことはできないという意味 いみ の話 はなし をしていた[23] 。
^ 徳岡 とくおか 孝夫 たかお は、演説 えんぜつ をき取 きと れる範囲 はんい で書 か き残 のこ したメモを、三島 みしま から託 たく された手紙 てがみ ・写真 しゃしん と共 とも に、と銀行 ぎんこう の貸 かし 金庫 きんこ に保管 ほかん しているという[28] 。
^ 文化 ぶんか 放送 ほうそう で、この事件 じけん を担当 たんとう した若手 わかて 記者 きしゃ ・三木 みき 明博 あきひろ は、その後 ご 同社 どうしゃ の社長 しゃちょう に就任 しゅうにん している。
^ この時 とき 、介錯 かいしゃく を三 さん 度 ど 失敗 しっぱい したことで、刀 かたな 先 さき がS字 じ 型 がた に曲 ま がってしまったとも言 い われる[34] 。
^ 1971年 ねん 4月 がつ 19日 にち の第 だい 二 に 回 かい および同年 どうねん 6月 がつ 21日 にち の第 だい 六 ろく 回 かい 公判 こうはん 記録 きろく によれば次 つぎ のように記録 きろく されている。「右肩 みぎかた の傷 きず は初太刀 しょだち の失敗 しっぱい である。森田 もりた 必勝 ひっしょう は三島 みしま 由紀夫 ゆきお が前 まえ に倒 たお れると予想 よそう して打 う ち下 お ろしたが、三島 みしま が後 うし ろに仰 の け反 ぞ った為 ため 、手許 てもと が狂 くる って肩 かた を切 き った。次 つぎ の太刀 たち は、三島 みしま が額 がく を床 ゆか につけて悶 もだ えて動 うご いている所 ところ を切 き らねばならないため首 くび の位置 いち が定 さだ まらず、床 ゆか と首 くび の位置 いち が近 ちか いから床 ゆか に刀 かたな が当 あ たってなかなか切断 せつだん できない。結果 けっか 、森田 もりた に代 か わって古賀 こが 正義 まさよし がもう一 いち 太刀 たち 振 ふ るった。」
また慶応義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく 病院 びょういん 法医学 ほういがく 解剖 かいぼう 室 しつ 教授 きょうじゅ ・斎藤 さいとう 銀次 ぎんじ 郎 ろう (当時 とうじ )による1970年 ねん 11月26日 にち の解剖 かいぼう 所見 しょけん の三島 みしま の切腹 せっぷく 傷 きず のように(「#検視 けんし ・物証 ぶっしょう ・逮捕 たいほ 容疑 ようぎ 」を参照 さんしょう )、ここまで腹部 ふくぶ に深 ふか く短刀 たんとう を突 つ き刺 さ した場合 ばあい には腹部 ふくぶ 内臓 ないぞう に分布 ぶんぷ する血管 けっかん 迷走 めいそう 神経 しんけい を刺戟 しげき して血管 けっかん 迷走 めいそう 神経 しんけい 反射 はんしゃ を起 おこ し、血管 けっかん の拡張 かくちょう により脳 のう 血 ち 流 りゅう が保 たも てなくなり失神 しっしん に陥 おちい る。さらに瞬時 しゅんじ に襲 おそ ってくる全身 ぜんしん の痙攣 けいれん と硬直 こうちょく により両脚 りょうきゃく が伸 の びきり、そのために上体 じょうたい は前 まえ のめりになるか後 うし ろにのけぞってしまう。だから切腹 せっぷく する者 もの の傍 かたわ らに押 お さえ役 やく を配 はい しておかなければ到底 とうてい 介錯 かいしゃく することはできないのである。
なお森田 もりた の割腹 かっぷく に関 かん して、三島 みしま および森田 もりた の空手 からて の師匠 ししょう であった中山 なかやま 正敏 まさとし が次 つぎ のように述 の べている。「目 め の前 まえ で 三島 みしま さんの死 し を見 み つめた上 うえ で、しかも三島 みしま さんの手 て から短刀 たんとう をもぎとり自分 じぶん の腹 はら に突 つ き立 た てたなぞということは到底 とうてい 信 しん じられないことであり、どんなに落 お ちついたしっかり者 しゃ でも出来 でき 得 え ない芸当 げいとう である。なんと驚 おどろ くべき気力 きりょく であり、何 なん と恐 おそれ るべき精神 せいしん 力 りょく であろうか。」(中山 なかやま 正敏 まさとし 「憂国 ゆうこく の烈士 れっし 森田 もりた 必勝 ひっしょう 君 くん を偲 しの ぶ」1971年 ねん 2月 がつ 1日 にち 付 づけ )以上 いじょう の事実 じじつ から判断 はんだん するに、森田 もりた 必勝 ひっしょう による三島 みしま 由紀夫 ゆきお の介錯 かいしゃく が失敗 しっぱい だったことは疑 うたが うまでもないもののそこには無理 むり からぬ理由 りゆう があったものと斟酌 しんしゃく すべきだろう。
^ 三島 みしま 自決 じけつ の3年 ねん 後 ご 、市ヶ谷 いちがや のとある企業 きぎょう の参与 さんよ となった山本 やまもと 舜 しゅん 勝 かち を持丸 もちまる 博 ひろし が訪 たず ね、「山本 やまもと さん、いい悪 わる いは別 べつ にして、三島 みしま 先生 せんせい があのような事件 じけん を起 お こしたのは、あなたに刺激 しげき されたせいかもしれませんよ」と言 い うと、山本 やまもと は下 した を向 む いたまま、「寝覚 ねざ めが悪 わる い。いまは三島 みしま さんの霊 れい を慰 なぐさ めながら、俳句 はいく 三昧 ざんまい の生活 せいかつ をしている」と答 こた えたという[60] 。
^ 寺尾 てらお 克美 かつみ によれば、歴代 れきだい の防衛庁 ぼうえいちょう 長官 ちょうかん で全 ぜん 責任 せきにん を取 と らなかったのは中曽根 なかそね だけで、「風見鶏 かざみどり 」さながら渡 わた り歩 ある いて総理 そうり 大臣 だいじん にまで登 のぼ りつめた後 のち 、「憲法 けんぽう 改正 かいせい ができないので〈専守防衛 せんしゅぼうえい 〉という〈政治 せいじ 的 てき 捏造 ねつぞう 語 ご 〉を唱 とな えて、その場 ば しのぎで今日 きょう まで国民 こくみん や近隣 きんりん 諸国 しょこく を誤魔化 ごまか して」きたとしている[15] 。そして寺尾 てらお 克美 かつみ は、後年 こうねん 自衛隊 じえいたい を退官 たいかん 後 ご 、加害 かがい 者 しゃ である三島 みしま の行為 こうい を「義挙 ぎきょ 」と総括 そうかつ し、憲法 けんぽう 改正 かいせい を訴 うった える日本 にっぽん 会議 かいぎ の活動 かつどう 家 か となった[15] 。
^ しかし、そんな司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう も自身 じしん の晩年 ばんねん には、三島 みしま の予言 よげん と同 おな じように、バブル期 き から平成 へいせい 時代 じだい の日本人 にっぽんじん の拝金 はいきん 主義 しゅぎ や倫理 りんり 喪失 そうしつ をしきりに嘆 なげ いて憂 うれ うようになった[39] 。
^ 櫻井 さくらい 秀 しげる 勲 くん は、「『ナルシシズムに腹 はら が立 た つ』といった若手 わかて 作家 さっか 」(柴田 しばた 翔 しょう のこと)を含 ふく め、三島 みしま の自決 じけつ 直後 ちょくご に批判 ひはん 的 てき コメントをした者 もの の何人 なんにん かは、生前 せいぜん は三島 みしま のことを「先生 せんせい !」と呼 よ んで媚 こ び「生 い きている間 あいだ は(三島 みしま を)尊敬 そんけい していた人 ひと たちである」と述 の べている[72] 。
^ この時 とき 、何人 なんにん かの編集 へんしゅう 者 しゃ がデスマスクを取 と ることを遺族 いぞく に訊 き いたが、必要 ひつよう ないだろうという返事 へんじ を受 う けて実行 じっこう されなかった[98] 。
^ その光景 こうけい を見 み た川端 かわばた 康成 やすなり が、「薔薇 ばら って怖 こわ いね」と増田 ますだ 貴光 たかみつ の耳元 みみもと で呟 つぶや いたという[99] 。
^ 本当 ほんとう は、「公 おおやけ 威 たけし さん、立派 りっぱ でしたよ」と倭文 しず 重 じゅう は言 い いたかったが、周 まわ りのお客 きゃく から芝居 しばい がかりと思 おも われそうで躊躇 ちゅうちょ してしまったのだという[100] 。
^ 雑誌 ざっし 『論争 ろんそう ジャーナル 』は、豊島 としま 区 く 高田 たかだ 本町 ほんちょう 2-1467のビルの一室 いっしつ をオフィスとする育 いく 誠 まこと 社 しゃ から発刊 はっかん された[131] 。
^ この当時 とうじ 、朝日新聞 あさひしんぶん は文化 ぶんか 大 だい 革命 かくめい に対 たい して礼賛 らいさん 一色 いっしょく であったが、他 た の新聞 しんぶん 報道 ほうどう では、中国 ちゅうごく 大陸 たいりく から香港 ほんこん まで泳 およ いで逃 に げてくる民衆 みんしゅう が、鱶 ふか の餌食 えじき になっているという記事 きじ もあったという[138] [139] 。
^ 「ヴィクトリア」の場所 ばしょ を、銀座 ぎんざ 8丁目 ちょうめ とする出典 しゅってん もある[145] 。
^ 日 にち 学 がく 同 どう の宮崎 みやざき 正弘 まさひろ は、森田 もりた らの除籍 じょせき 理由 りゆう を「共産 きょうさん 主義 しゅぎ に魂 たましい を売 う り渡 わた したため」と『日本 にっぽん 学生 がくせい 新聞 しんぶん 』に書 か いた[139] [169] 。
^ リフレッシャーコースは、2泊 はく 3日 にち で、3・6・9・11月 がつ に年 とし 4回 かい 行 おこな われた[171] 。
^ 楯 だて の会 かい の全員 ぜんいん の旅費 りょひ や滞在 たいざい 費 ひ 、食費 しょくひ や雑費 ざっぴ 、制服 せいふく 代 だい などの費用 ひよう はすべて、三島 みしま が賄 まかな っていたが、田中 たなか 清 きよし 玄 げん が「自分 じぶん は三島 みしま と楯 だて の会 かい のパトロンである」と財界 ざいかい で吹聴 ふいちょう していたことが三島 みしま の耳 みみ に入 はい ってきたことが、楯 だて の会 かい の名誉 めいよ を重 おも んじる三島 みしま の怒 いか りを買 か った[60] 。林 はやし 房雄 ふさお は、中 ちゅう 辻 つじ 和彦 かずひこ と万代 ばんだい 潔 きよし の退会 たいかい 問題 もんだい に触 ふ れ、楯 だて の会 かい 結成 けっせい 1周年 しゅうねん 記念 きねん パレードの前 まえ 々日 ひ あたりに、三島 みしま から、「あなたのお嫌 きら いな連中 れんちゅう はもういませんから、安心 あんしん して見 み に来 き てください」と電話 でんわ があったとして、以下 いか のように語 かた っている[130] 。
彼 かれ らは
小澤 おざわ 開 ひらく 作 さく 氏 し や
私 わたし を
感動 かんどう させたのと
同 おな じ
物語 ものがたり で、
青年 せいねん ぎらいの
三島 みしま 君 くん を
感動 かんどう させた。
少 すく なくとも
当初 とうしょ は
彼 かれ らは
見 み かけどおりに
純粋 じゅんすい で
誠実 せいじつ であったかもしれぬ。だが、
彼 かれ らは
結局 けっきょく 『
天人 てんにん 五衰 ごすい 』の
主人公 しゅじんこう のような
悪質 あくしつ の
贋物 にせもの だった。やがて
雑誌 ざっし も
出 で て、
後援 こうえん 者 しゃ が
増 ふ え、
多少 たしょう の
金 かね が
集 あつ まるにつれて、
急速 きゅうそく に
変質 へんしつ して
行 い った。(
中略 ちゅうりゃく )
ある“
大 だい 先輩 せんぱい ”の
一人 ひとり は、「ひどい
目 め にあったな。
結局 けっきょく 彼 かれ らは
戦後 せんご 派 は 青年 せいねん の
最悪 さいあく のタイプ、いわば
光 ひかり クラブの
連中 れんちゅう みたいな
奴 やつ らばかりだった」とまで
極言 きょくげん した。(
中略 ちゅうりゃく )「
楯 だて の
会 かい 」はいち
早 はや く
彼 かれ らを
除名 じょめい した。
三島 みしま 君 くん は
村松 むらまつ 剛 つよし 君 くん を
立会 たちあい 人 じん としてNとMに
破門 はもん と
絶縁 ぜつえん を
申 もう しわたした。その
激怒 げきど ぶりは
尋常 じんじょう ではなかった、と
村松 むらまつ 君 くん は
証言 しょうげん している。(
中略 ちゅうりゃく )『
楯 だて の
会 かい 』の
会員 かいいん は
何 なん 度 ど もフルイにかけられて
精選 せいせん された。(
中略 ちゅうりゃく )
前記 ぜんき NやMの
光 ひかり クラブ
派 は は
厳 きび しく
排除 はいじょ された。
— 林 はやし 房雄 ふさお 「悲 かな しみの琴 きん 」[130]
^ 7月 がつ 配布 はいふ の第 だい 2回 かい は「戦争 せんそう の放棄 ほうき 」、9月配布 はいふ の第 だい 3回 かい は「『非常 ひじょう 事態 じたい 法 ほう 』について」と続 つづ いた[185] 。
^ この「緑色 みどりいろ の蛇 へび 」の意味 いみ が何 なに なのか考 かんが え続 つづ けたヘンリー・スコット・ストークス は、1990年 ねん (平成 へいせい 2年 ねん )頃 ごろ に突然 とつぜん 、「米 あめりか ドル 」(緑色 みどりいろ の紙幣 しへい )のことだと解 わか ったと徳岡 とくおか 孝夫 たかお に告 つ げた[39] 。
^ 小川 おがわ 正洋 まさひろ はこの日 ひ に交際 こうさい していた女性 じょせい と入籍 にゅうせき し、そのことを2人 ふたり に告 つ げた[18] 。
^ 三島 みしま が蓮田 はすだ に献 けん じた哀悼 あいとう の句 く は、〈古代 こだい の雪 ゆき を愛 め でし 君 きみ はその身 み に古代 こだい を現 げん じて雲隠 くもがく れ玉 だま ひしに われ近代 きんだい に遺 のこ されて空 むな しく 靉靆の雪 ゆき を慕ひ その身 み は漠々 ばくばく たる 塵土 じんど に埋 うも れんとす〉[214] 。
^ なお、この後半 こうはん の続 つづ きでは以下 いか のように、自身 じしん の行動 こうどう に絡 から めて人間 にんげん の運命 うんめい について語 かた っている。
小林 こばやし 秀雄 ひでお が
言 い ってますけど、
人間 にんげん は
死 し んだとき
初 はじ めて
人間 にんげん になる。
人間 にんげん の
形 かたち をとると
言 い うんです。なぜかというと、
運命 うんめい がヘルプしますから。
運命 うんめい がなければ、
人間 にんげん は
人間 にんげん の
形 かたち をとれないんです。ところが、
生 い きているうちは、その
人間 にんげん の
運命 うんめい は
何 なに かわからないんですよ、
予言 よげん 者 しゃ でなければ。
運命 うんめい が
決定 けってい しなければ、その
人間 にんげん の
形 かたち は
完成 かんせい しないでしょう。それで、やっていることはみんなバカげたことに
見 み えるんですね。でも、
運命 うんめい が
芸術 げいじゅつ 家 か を
決定 けってい する。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「ジョン・ベスターとの対談 たいだん 」(1970年 ねん 2月 がつ )[227]
^ これに関 かん し、裁判 さいばん を傍聴 ぼうちょう していた三島 みしま の父 ちち ・平岡 ひらおか 梓 あずさ は、裁判 さいばん 長 ちょう が審理 しんり を離 はな れて独断 どくだん 的 てき な陽明学 ようめいがく 論 ろん や武士 ぶし 道 どう 論 ろん を展開 てんかい したことに疑問 ぎもん を呈 てい している[36] 。
^ なお、小 しょう 賀 が 正義 まさよし の母 はは も「生長 せいちょう の家 いえ 」に入信 にゅうしん していた[7] 。
^ 「終章 しゅうしょう 『三島 みしま 事件 じけん 』か『楯 だて の会 かい 事件 じけん 』か」(保阪 ほさか 2001 , pp. 303–322)
^ 高橋 たかはし 新太郎 しんたろう 「『楯 だて の会 かい 』事件 じけん 裁判 さいばん 」(旧 きゅう 事典 じてん 1976 , pp. 247–248)
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^ 「警視庁 けいしちょう 創立 そうりつ 140年 ねん 特別 とくべつ 展 てん みんなで選 えら ぶ警視庁 けいしちょう 140年 ねん の十 じゅう 大 だい 事件 じけん 」アンケート結果 けっか 第 だい 11位 い から50位 い まで 更新 こうしん 日 び :2016年 ねん 3月 がつ 31日 にち (警視庁 けいしちょう ホームページ)
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外国 がいこく 人 じん による三島 みしま 研究 けんきゅう 書 しょ
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