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八幡山はちまんやまはん

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八幡山はちまんやまはん(はちまんやまはん)は、武蔵むさしこく児玉こだまぐん八幡やはたさん現在げんざい埼玉さいたまけん本庄ほんじょう児玉こだままち八幡やはたさん)に存在そんざいしたはん居城きょじょう雉岡じょう竹谷たけたに松平まつへい時代じだいでは八幡はちまん山城やましろばれる)。児玉こだまぐん北部ほくぶ所在しょざいした本庄ほんじょうはんたいし、八幡山はちまんやまはん児玉こだまぐん南部なんぶ所在しょざいした。

はんふみ[編集へんしゅう]

小田原おだわら征伐せいばつ徳川とくがわ家康いえやす関東かんとうはいり、江戸城えどじょうおもとなると、家康いえやすまつ平家ひらかきよしを1まんせき児玉こだまぐん八幡やはたさんはいりょうし、たてはんさせた。こうしていえきよしちちせいはじめともなって八幡山はちまんやまじょう居住きょじゅうした。藩政はんせいちちきよしむね専任せんにんし、いえきよし天正てんしょう19ねん1591ねん)、九戸くのへ一揆いっき九戸くのへ政実まさみらん)の鎮圧ちんあつ関ヶ原せきがはらたたか従軍じゅうぐんし、尾張おわりこく清洲きよすしろしろばん担当たんとうした(ちちはんごとまかせたかたちになる)。そのいえきよし慶長けいちょう6ねん1601ねん)におん3まんせきて、三河みかわこく吉田よしだてんふうし、八幡山はちまんやまはん江戸えど時代じだいむかえるまえはいはんとなり、やく11ねんというみじかはんまくをとじた。

備考びこう[編集へんしゅう]

ちちせいはじめ藩政はんせいはんごと)をまかせて従軍じゅうぐんしていたため、せいはじめ藩主はんしゅ誤解ごかいされがちであるが、いえきよし藩主はんしゅであり、はんである(実質じっしつてき領主りょうしゅという意味いみではせいはじめふくまれるが、一時いちじてきなものである)。したがって、歴代れきだい藩主はんしゅくのは妥当だとうではなく、いえきよいちだいかぎりのはんということになる。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]