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本庄ほんじょうはん

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本庄ほんじょうはん(ほんじょうはん)は、武蔵むさしこく児玉こだまぐん本庄ほんじょう現在げんざい埼玉さいたまけん本庄ほんじょう)に存在そんざいしたはん居城きょじょう本庄ほんじょうじょう

はんふみ[編集へんしゅう]

天正てんしょう18ねん(1590ねん)5がつ小田原おだわら征伐せいばつこう北条ほうじょう本庄ほんじょう降伏ごうぶくしたのち武蔵むさしこく江戸えど徳川とくがわ家康いえやす入城にゅうじょうし、同年どうねん9がつ、その家臣かしんである小笠原おがさわらしんみね児玉こだまぐん北部ほくぶ国境こっきょう沿いに位置いちする本庄ほんじょうに1まんせき入部にゅうぶした。しんみね甲斐かい武田たけだ家臣かしんであったが織田おだ信長のぶなが甲州こうしゅう征伐せいばつ寝返ねがえり、本能寺ほんのうじへんによる信長のぶなが横死おうして、家康いえやす家臣かしんとなっていた。こうしてしんみね本庄ほんじょうじょうしん城主じょうしゅとして当地とうちおさめたが、入城にゅうじょうしてから8ねん慶長けいちょう3ねん(1598ねん)に死去しきょし、その家督かとくいだ小笠原おがさわら信之のぶゆき本庄ほんじょうはん初代はつよ藩主はんしゅとなり、後期こうき本庄ほんじょうじょうの2だい城主じょうしゅとなった。信之のぶゆき徳川とくがわ四天王してんのう筆頭ひっとう酒井さかい忠次ただつぐ三男さんなんであり、家康いえやすいのちによってしんみね養嗣子ようししとなっていた。慶長けいちょう17ねん(1612ねん)、信之のぶゆき下総しもうさこく古河ふるかわはん2まんせき加増かぞううつりふうされ、本庄ほんじょうはんはいはんとなり、本庄ほんじょうじょうはいじょうとなった。のこされた城下町じょうかまちは、中山道なかせんどう宿場しゅくばまちとしておおきく利用りようされることとなった。

歴代れきだい藩主はんしゅ[編集へんしゅう]

小笠原おがさわら

1まんせき譜代ふだい

  1. 小笠原おがさわらしんみね(のぶみね)
  2. 小笠原おがさわら信之のぶゆき(のぶゆき)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]