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勝浦かつうらはん

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勝浦かつうらはん(かつうらはん)は、上総かずさこく夷隅いすみぐん勝浦かつうら現在げんざい千葉ちばけん勝浦かちうら)を居所きょしょとしたはん江戸えど時代じだい前期ぜんきの1682ねん植村うえむらはいるが、1751ねん改易かいえきわって大岡おおおか忠光ただみつにゅうふうしたが、2にわたる加増かぞうけて1756ねんはんちょう武蔵むさしこく岩槻いわつきうつした(岩槻いわつきはん)。勝浦かつうら周辺しゅうへん岩槻いわつきはんりょうとして幕末ばくまつまでのこった。植村うえむら串浜くしはま串浜くしはま陣屋じんや陣屋じんや)をかまえ、大岡おおおかすみ名字みょうじ庚申山こうしんさん陣屋じんやいた。

歴史れきし

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勝浦藩の位置(千葉県内)
千葉
千葉ちば
大多喜
大多喜おおたき
一宮
一宮いちのみや
勝浦
勝浦かつうら
関連かんれん地図ちず千葉ちばけん[注釈ちゅうしゃく 1]

天和てんわ2ねん1682ねん)4がつ21にち上総かずさ安房あわ近江おうみ丹波たんばなどに所領しょりょうっていた植村うえむらただしあさは、あらたに2000せき加増かぞうされて1まん1000せきりょうする大名だいみょうとなり、勝浦かつうらはんたてはんした。植村うえむら本多ほんだ忠勝ただかつよせで、里見さとみ牽制けんせいなどで功績こうせきげた譜代ふだい大名だいみょうである。元禄げんろく10ねん1697ねん)2がつちゅうあさあと植村うえむらただしあさぐ。このとき、せいあさおとうと植村うえむらただしもとに1000せき分与ぶんよしている。せいあさあと植村うえむらひさしあさいだ。しかし寛延かんえい4ねん1751ねん)8がつ24にち分家ぶんけ植村うえむらせんきち朝比奈あさひなよしゆたか殺害さつがいされるという事件じけんこった。この事件じけん連座れんざにより、つねあさ所領しょりょう没収ぼっしゅうされて改易かいえきとなり、本家ほんけ大和やまとこく高取たかとりはんあるじ植村うえむらどうあずかりとなった。ただし、名跡みょうせきのみは養嗣子ようしし植村うえむら寿ひさしあさぐことをゆるされた。

勝浦かつうらはんりょう幕府ばくふ代官だいかん吉田よしだすけたち源之助げんのすけ)による支配しはいて、たかられき元年がんねん1751ねん)12月、徳川とくがわ家重いえしげ側近そっきんとして活躍かつやくした大岡おおおか忠光ただみつが5000せき加増かぞうで1まんせき大名だいみょうとしてはいった。忠光ただみつたかられき4ねん1754ねん)3がつ若年寄わかどしより栄進えいしんしたことから5000せき加増かぞうされた。たかられき6ねん1756ねん)5がつにも側用人そばようにん栄進えいしんしたことから5000せき加増かぞう合計ごうけい2まんせきとなり、大岡おおおか本拠ほんきょ武蔵むさしこく岩槻いわつきはんいた。勝浦かつうらりょう房総ぼうそうぶんりょうとして飛地とびちとなり、陣屋じんや番所ばんしょ拠点きょてんぐん奉行ぶぎょう常駐じょうちゅうし、代官だいかん支配しはいおよぼした。

夷隅いすみぐん筒森つつもりむら南方なんぽう大多喜おおたきまち)には奥山おくやまはやし存在そんざいし、奥山おくやま番所ばんしょにおいて管轄かんかつし、材木ざいもくなどの林産物りんさんぶつ産出さんしゅつした。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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植村うえむら

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1まん1000せき→1まんせき 譜代ふだい

  1. 植村うえむらただしあさ
  2. 植村うえむらただしあさ
  3. 植村うえむらひさしあさ

大岡おおおか

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1まんせき→1まん5000せき 譜代ふだい

  1. 大岡おおおか忠光ただみつ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 赤丸あかまる本文ほんぶんないはんりょうとして言及げんきゅうする土地とちあおまるはそれ以外いがい

出典しゅってん

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