1755年 ねん のリスボン地震 じしん による災禍 さいか を伝 つた える銅版 どうはん 画 が (en ) 挿絵 さしえ /同年 どうねん の作 さく 。
安政 あんせい の大 だい 地震 じしん 絵図 えず /1855年 ねん に発生 はっせい した安政 あんせい 江戸 えど 地震 じしん による災禍 さいか を伝 つた えている。
日本 にっぽん の岩手 いわて 県 けん 宮古 みやふる 市 し にある大 だい 津浪 つなみ 記念 きねん 碑 ひ /1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )に発生 はっせい した昭和 しょうわ 三陸 さんりく 地震 じしん の教訓 きょうくん を永 なが く後世 こうせい に伝 つた えるべく同年 どうねん に建立 こんりゅう された災害 さいがい 記念 きねん 碑 ひ 。
歴史 れきし 地震 じしん (れきしじしん)とは、歴史 れきし 時代 じだい に発生 はっせい した地震 じしん のうち、地震 じしん 計 けい を始 はじ めとする近代 きんだい 的 てき 観測 かんそく 機器 きき が存在 そんざい しなかった時代 じだい に属 ぞく するもので[ 1] 、なおかつ、記録 きろく で確 たし かめられるものをいう。それらは、古文書 こもんじょ や災害 さいがい 記念 きねん 碑 ひ という形 かたち で今日 きょう まで伝 つた えられてきた。英語 えいご には "historical earthquake " という語 かたり (cf. en ) があるが、日本語 にほんご の「歴史 れきし 地震 じしん 」よりやや広義 こうぎ かも知 し れない。
日本語 にほんご (専門 せんもん 用語 ようご )「歴史 れきし 地震 じしん 」において定義 ていぎ されている「歴史 れきし 」は、記録 きろく された人間 にんげん 社会 しゃかい の出来事 できごと の変遷 へんせん を指 さ すため、時期 じき 的 てき に該当 がいとう していようとも、伝 つた わっていながら信頼 しんらい するに足 た る記録 きろく の見当 みあ たらないものや、考古学 こうこがく 的 てき ・地球 ちきゅう 科学 かがく 的 てき 知見 ちけん (遺跡 いせき 発掘 はっくつ や地質 ちしつ 調査 ちょうさ を始 はじ めとする様々 さまざま な学問 がくもん から得 え られる情報 じょうほう と見解 けんかい )によってその発生 はっせい が推測 すいそく あるいは確認 かくにん されながら歴史 れきし として検証 けんしょう できないものは、歴史 れきし 地震 じしん と見 み なされない。つまり、確 たし かな記録 きろく の残 のこ っていることが「歴史 れきし 地震 じしん 」の定義 ていぎ 上 じょう の前提 ぜんてい である[ 2] [ * 1] 。
一方 いっぽう 、先史 せんし 時代 じだい (記録 きろく が残 のこ されるようになる以前 いぜん の時代 じだい )に発生 はっせい した地震 じしん は先史 せんし 地震 じしん といい[ 2] [ 3] 、地質 ちしつ 学 がく 的 てき 成果 せいか や考古学 こうこがく 的 てき 成果 せいか などがこれを証明 しょうめい し得 え る。なお、日本 にっぽん の歴史 れきし では、中央 ちゅうおう 政権 せいけん の勢力 せいりょく 範囲 はんい において古墳 こふん 時代 じだい 以前 いぜん を先史 せんし 時代 じだい としているが、地域 ちいき によって差異 さい が大 おお きく、例 たと えば蝦夷 えぞ 地 ち (北海道 ほっかいどう )は江戸 えど 時代 じだい 以降 いこう に歴史 れきし 時代 じだい が始 はじ まる[ 2] [ * 2] 。日本 にっぽん では1885年 ねん (明治 めいじ 18年 ねん )に地震 じしん 計 けい を始 はじ めとする近代 きんだい 的 てき 観測 かんそく 体制 たいせい の整備 せいび が開始 かいし されたため、歴史 れきし 地震 じしん は一般 いっぱん 的 てき に1884年 ねん (明治 めいじ 17年 ねん )以前 いぜん に発生 はっせい したものを指 さ す[ 4] 。また、先史 せんし 時代 じだい と歴史 れきし 時代 じだい の別 べつ 無 な く、さらには、歴史 れきし 的 てき (歴史 れきし 学 がく 的 まと )検証 けんしょう の有無 うむ を問 と わず、近代 きんだい 的 てき 観測 かんそく 機器 きき の登場 とうじょう 以前 いぜん に発生 はっせい した地震 じしん を総 そう じて古 こ 地震 じしん という[ 2] [ 5] 。
歴史 れきし 地震 じしん の調査 ちょうさ 研究 けんきゅう は、将来 しょうらい の発生 はっせい を想定 そうてい される地震 じしん の予測 よそく など、防災 ぼうさい 上 うえ 欠 か かすことのできないもので、巨大 きょだい 地震 じしん 発生 はっせい の再来 さいらい 間隔 かんかく などを論 ろん ずる地震 じしん 学 がく の一 いち 分野 ぶんや であり、ある地域 ちいき の地震 じしん 災害 さいがい の正確 せいかく な評価 ひょうか を行 おこな うためには、地震 じしん によって開放 かいほう されるエネルギーを見積 みつ もる必要 ひつよう があるが、計器 けいき 観測 かんそく が始 はじ まって以来 いらい の地震 じしん のみではデータの蓄積 ちくせき として不充分 ふじゅうぶん であり、古 こ 地震 じしん 学 がく の助 たす けを借 か りる必要 ひつよう 性 せい が生 しょう じる[ 6] 。
歴史 れきし 地震 じしん は歴史 れきし 研究 けんきゅう の一部 いちぶ を担 にな う考古学 こうこがく の知見 ちけん でもあり、地震 じしん 考古学 こうこがく の分野 ぶんや も開拓 かいたく されている[ 7] [ 8] 。
歴史 れきし 地震 じしん の研究 けんきゅう は古文書 こもんじょ の調査 ちょうさ から始 はじ まる。古文書 こもんじょ は国家 こっか の歴史 れきし を記 しる した正史 せいし から個人 こじん の日記 にっき など多種 たしゅ 多様 たよう であり、誤記 ごき 、誤植 ごしょく 、誇張 こちょう 、伝聞 でんぶん によるものなどを含 ふく み、その信頼 しんらい 性 せい に疑問 ぎもん 点 てん があるものも多 おお く、可能 かのう な限 かぎ り多 おお くの史料 しりょう を付 つ き合 あえ せ、検証 けんしょう する作業 さぎょう が要求 ようきゅう される[ 9] [ 10] 。また、偽書 ぎしょ も多 おお いが、ある目的 もくてき に対 たい して偽書 ぎしょ であっても、そこに記 しる された事項 じこう が全 すべ て偽 いつわ りであるとは限 かぎ らず、記 しる された天変地異 てんぺんちい が真実 しんじつ である可能 かのう 性 せい が否定 ひてい できない場合 ばあい もある。天変地異 てんぺんちい は発生 はっせい した当時 とうじ の人々 ひとびと にとっては誤魔化 ごまか すことができない真実 しんじつ であって、これを記 しる すことにより偽書 ぎしょ に真実味 しんじつみ を持 も たせる行為 こうい もあり得 え るからである[ 11] 。
戦乱 せんらん による社会 しゃかい 的 てき 混乱 こんらん 、火災 かさい による焼失 しょうしつ 、津波 つなみ による古文書 こもんじょ の流失 りゅうしつ など、地震 じしん 災害 さいがい 自体 じたい が過去 かこ の記録 きろく の喪失 そうしつ につながる場合 ばあい も少 すく なくない。例 たと えば房総 ぼうそう 沖 おき における慶長 けいちょう 津波 つなみ の記録 きろく が少 すく ないのは、その後 ご のより甚大 じんだい な元禄 げんろく 地震 じしん 津波 つなみ で失 うしな われた可能 かのう 性 せい があるとされる[ 12] 。また、宝永 ほうえい 地震 じしん 津波 つなみ により、尾鷲 おわせ や土佐 とさ 久礼 くれ 八幡宮 はちまんぐう でも古記 こき 録 ろく が流失 りゅうしつ し、これ以前 いぜん の歴史 れきし は不明 ふめい な点 てん が多 おお い[ 13] [ 14] [ 15] 。
今村 いまむら 明恒 あきつね は、日本 にっぽん の地震 じしん 活動 かつどう は、684-887年 ねん 、1586-1707年 ねん 、1847年 ねん 以降 いこう が旺盛 おうせい 期 き であり、貞 さだ 観 かん 津波 つなみ など特 とく に規模 きぼ が雄大 ゆうだい であったものはこの時期 じき に発生 はっせい していると述 の べている[ 16] 。
しかし、各 かく 時代 じだい の記録 きろく 密度 みつど が均質 きんしつ とは言 い えず、時代 じだい による記録 きろく の多寡 たか は見 み かけ上 じょう のものであり、人為 じんい 的 てき な影響 えいきょう である可能 かのう 性 せい もある[ 17] 。地震 じしん 記録 きろく が多 おお くみられる684-887年 ねん は、六 ろく 国史 こくし が編纂 へんさん された時代 じだい に相当 そうとう し、六 ろく 国史 こくし には天人 てんにん 相関 そうかん 思想 しそう を反映 はんえい して天変地異 てんぺんちい が好 この んで多 おお く収録 しゅうろく された背景 はいけい がある。887年 ねん 以降 いこう は地震 じしん の記録 きろく 量 りょう が急速 きゅうそく に減少 げんしょう するが、記録 きろく 欠落 けつらく 期間 きかん として認識 にんしき する必要 ひつよう があり[ 10] [ 18]
、室町 むろまち 時代 じだい から江戸 えど 時代 じだい 初期 しょき の検地 けんち ・刀 かたな 狩 かり でそれ以前 いぜん の地方 ちほう 文書 ぶんしょ が回収 かいしゅう ・処分 しょぶん されたらしいことも影響 えいきょう している[ 19] 。
また、記録 きろく の地域 ちいき 差 さ も大 おお きく、京都 きょうと 、鎌倉 かまくら 以外 いがい の地方 ちほう は中世 ちゅうせい 以前 いぜん の記録 きろく の現存 げんそん 自体 じたい が稀 まれ であり、地震 じしん の史料 しりょう 集 しゅう として活用 かつよう されている武者 むしゃ 史料 しりょう [ 20] や新 しん 収史 しゅうじ 料 りょう [ 21] などは、ただでさえ不完全 ふかんぜん な日本 にっぽん の歴史 れきし 記録 きろく の一部分 いちぶぶん を抜書 ぬきが きしたものに過 す ぎない点 てん を認識 にんしき しておく必要 ひつよう がある[ 10] 。
例 たと えば伊勢原 いせはら 断層 だんそう の調査 ちょうさ の結果 けっか 、その活動 かつどう 時期 じき は平安 へいあん 時代 じだい から江戸 えど 時代 じだい 初期 しょき という1000年 ねん もの幅 はば を持 も った推定 すいてい であったが、その地震 じしん が日本 にっぽん 三 さん 代 だい 実録 じつろく に記録 きろく された878年 ねん 相模 さがみ ・武蔵 むさし 地震 じしん に対比 たいひ されたことがある[ 22] 。しかし、この活動 かつどう 時期 じき には江戸 えど 時代 じだい 以前 いぜん の大幅 おおはば な記録 きろく 欠落 けつらく 期間 きかん が含 ふく まれ、記録 きろく に漏 も れた大 だい 地震 じしん である可能 かのう 性 せい も否定 ひてい はできない[ 10] 。
現代 げんだい のように時計 とけい を持 も たず厳密 げんみつ な時刻 じこく を求 もと めない時代 じだい では、発 はつ 震 ふるえ 時刻 じこく や地震動 じしんどう の継続 けいぞく 時間 じかん は記憶 きおく や感覚 かんかく に頼 たよ る部分 ぶぶん が多 おお く、江戸 えど 時代 じだい 以前 いぜん の日本 にっぽん のような干支 えと で表現 ひょうげん した時刻 じこく では分解能 ぶんかいのう が低 ひく く、2時 じ 間 あいだ 程度 ていど の不 ふ 確定 かくてい 性 せい を含 ふく むものとなる。不 ふ 定時 ていじ 法 ほう では日 ひ の入 いれ 、日 ひ の出 で の時刻 じこく とその前後 ぜんご の薄明 はくめい により一時 いちじ の時間 じかん も定時 ていじ 法 ほう とは異 こと なり、また標準時 ひょうじゅんじ の概念 がいねん が存在 そんざい しなかった時代 じだい ゆえに、現代 げんだい の時刻 じこく に換算 かんさん するには緯度 いど 、経度 けいど を考慮 こうりょ する必要 ひつよう が生 しょう じる。近世 きんせい 以前 いぜん では1日 にち の境 さかい が厳密 げんみつ に定 さだ められていたわけではなく、平安 へいあん 時代 じだい には丑 うし 刻 こく と寅 とら 刻 こく の間 あいだ (3時 じ 頃 ごろ )を1日 にち の境界 きょうかい としていた[ 23] 。
またしばしば、半時 はんとき 、あるいは数刻 すうこく といった、現代 げんだい の観測 かんそく からは信 しん じにくい、1 - 2時 じ 間 あいだ も地震動 じしんどう が継続 けいぞく したような表現 ひょうげん が記録 きろく にある。これは大 だい 地震 じしん による恐怖 きょうふ 感 かん が誇張 こちょう 的 てき な表現 ひょうげん を生 う んだとする見方 みかた もあるが、2011年 ねん の東北 とうほく 地方 ちほう 太平洋 たいへいよう 沖 おき 地震 じしん でも観測 かんそく されたように強 つよ い揺 ゆ れが数 すう 分間 ふんかん 継続 けいぞく した本震 ほんしん 発生 はっせい 以降 いこう 、数 すう 十 じゅう 分間 ふんかん 強 つよ い余震 よしん が続発 ぞくはつ し、直後 ちょくご の余震 よしん 活動 かつどう をも含 ふく めた時間 じかん を表 あらわ しているとも考 かんが えられる[ 24] 。
太陰暦 たいいんれき と太陽暦 たいようれき
世界 せかい 基準 きじゅん の存在 そんざい しない時代 じだい ゆえ、通常 つうじょう 、古記 こき 録 ろく は国 くに ・地域 ちいき ごとに異 こと なる個別 こべつ の年号 ねんごう でもって記 しる されている。
日本 にっぽん ・朝鮮 ちょうせん ・中国 ちゅうごく の場合 ばあい 、元号 げんごう の成立 せいりつ 以前 いぜん の時代 じだい には、時 とき の為政者 いせいしゃ (※少 すく なくとも改暦 かいれき ・改元 かいげん の権能 けんのう 者 しゃ )の治世 ちせい の何 なん 年 ねん 目 め かという記述 きじゅつ 法 ほう が採用 さいよう され、元号 げんごう の成立 せいりつ 以降 いこう の時代 じだい には、その元号 げんごう における何 なん 年 ねん 目 め かという記述 きじゅつ 法 ほう が採用 さいよう されている。当然 とうぜん 、日付 ひづけ は当時 とうじ の暦 こよみ である太陰暦 たいいんれき (今 いま でいう旧暦 きゅうれき )で記 しる されている。当時 とうじ の太陰暦 たいいんれき と現在 げんざい 広 ひろ く用 もち いられている太陽暦 たいようれき の日付 ひづけ (旧暦 きゅうれき と新暦 しんれき の日付 ひづけ )は根本 こんぽん 的 てき に違 ちが うため、必 かなら ずズレが生 しょう じる。ゆえに、和 わ 暦 れき の場合 ばあい など、「□○年 ねん ○月 がつ ○日 にち (西暦 せいれき 換算 かんさん :△年 とし △月 つき △日 にち )」(※□は元号 げんごう 、○は和 わ 暦 れき 〈太陰暦 たいいんれき 〉の年月日 ねんがっぴ 、△は西暦 せいれき 〈太陽暦 たいようれき 〉の年月日 ねんがっぴ )という記述 きじゅつ 法 ほう が、本来 ほんらい は必 かなら ずなされるべきである。実際 じっさい には「□○年 ねん (△年 とし )○月 がつ ○日 にち 」「□○年 ねん (△年 とし )△月 つき △日 にち 」「□○年 ねん (△年 とし )○月 がつ 」などという記述 きじゅつ 法 ほう が世 よ に蔓延 はびこ っているが、これらは「正確 せいかく でない」のではなく、誤解 ごかい や新 あら たな誤記 ごき の原因 げんいん となる間 あいだ 違 ちが った記述 きじゅつ 法 ほう である。歴史 れきし 地震 じしん 研究 けんきゅう 会 かい では、例 たと えば天正 てんしょう 地震 じしん の日付 ひづけ を「1586年 ねん 1月 がつ 18日 にち (天正 てんしょう 十 じゅう 三 さん 年 ねん 十 じゅう 一 いち 月 がつ 二 に 十 じゅう 九 きゅう 日 にち )」のように、和 わ 暦 れき は漢 かん 数字 すうじ を用 もち いて区別 くべつ するよう推奨 すいしょう している[ 25] 。
年 とし や月 つき の端境期 はざかいき に近 ちか い日付 ひづけ を別 べつ の暦 こよみ の日付 ひづけ に換算 かんさん すると、月 つき なら1〜2か月 げつ 、年 とし でも1年 ねん 、改 あらた まる(ズレる)場合 ばあい が多 おお い。例 たと えば、慶長 けいちょう 地震 じしん の発生 はっせい した日付 ひづけ は慶長 けいちょう 9年 ねん 12月16日 にち であるが、西暦 せいれき 換算 かんさん すると(慶長 けいちょう 9年 ねん 11月11日 にち がグレゴリオ暦 れき の1604年 ねん 12月31日 にち に相当 そうとう するので)1604年 ねん ではなく年 とし を跨 また いだ1605年 ねん の2月 がつ 3日 にち となる。
地震 じしん と改元 かいげん
元号 げんごう のある国 くに では、目 め を見張 みは る瑞相 ずいそう や治世 ちせい を危 あや うくするほど禍々 まがまが しい出来事 できごと があった場合 ばあい 、瑞相 ずいそう ならあやからんがため、凶事 きょうじ ならやり過 す ごす意図 いと などをもって、しばしば改元 かいげん が行 おこな われた。地震 じしん は、ときに瑞相 ずいそう (※厳密 げんみつ には仏教 ぶっきょう 圏 けん に限 かぎ る概念 がいねん )、ときに凶事 きょうじ の最 さい たるものと捉 とら えられ、改元 かいげん の理由 りゆう になった[ 26] 。一 ひと つの例 れい として、安政 あんせい 伊賀 いが 地震 じしん (伊賀上野 いがうえの 地震 じしん )・安政 あんせい 東海 とうかい 地震 じしん ・安政 あんせい 南海 なんかい 地震 じしん は嘉 よしみ 永 ひさし 7年 ねん に発生 はっせい したが、世 よ を安 やす んじるべく「安政 あんせい 」へ改元 かいげん されたことで、現在 げんざい では改元 かいげん 後 ご の元号 げんごう を冠 かん しているが、地震 じしん 発生 はっせい 当時 とうじ の記録 きろく 者 しゃ にとっては当然 とうぜん ながら「嘉 よしみ 永 ひさし 」の世 よ であり、「嘉 よしみ 永 なが 七 なな 年 ねん 」の出来事 できごと として記録 きろく されている[ 27] 。嘉 よしみ 永年 えいねん 間 あいだ の出来事 できごと に「安政 あんせい 」を冠 かん する整合 せいごう 性 せい については、明治 めいじ 改元 かいげん の際 さい にその年 とし (慶応 けいおう 4年 ねん )の正月 しょうがつ (旧暦 きゅうれき 1月 がつ 1日 にち )まで遡 さかのぼ ったうえでの改元 かいげん として処理 しょり された例 れい に倣 なら い、正 ただ しいと解釈 かいしゃく されている。
誤記 ごき
歴史 れきし 記録 きろく には日付 ひづけ の誤記 ごき や誤写 ごしゃ が少 すく なくない。例 たと えば、寛永 かんえい 4年 ねん 10月4日 にち (西暦 せいれき 換算 かんさん :1627年 ねん 11月11日 にち )では、『東宇和 ひがしうわ 郡 ぐん 沿革 えんかく 史 し 』に「地震 じしん のため道後 どうご 温泉 おんせん 埋没 まいぼつ す」、『旧 きゅう 記録 きろく 抄 しょう 』に伊那 いな 谷 たに で「大 だい 地震 じしん 、所々 ところどころ に潰 つぶせ 家 か があった」と記録 きろく され、さらに寛永 かんえい 4年 ねん 11月23日 にち (西暦 せいれき 換算 かんさん :1627年 ねん 12月30日 にち )には『泰平 たいへい 年表 ねんぴょう 』に「富士山 ふじさん 噴火 ふんか 、江戸 えど 降灰 こうかい 四 よん 日 にち 、其色黒 くろ 」と記録 きろく されているが、この記録 きろく を掲載 けいさい している『大 だい 日本 にっぽん 地震 じしん 史料 しりょう 』にそれぞれ武者 むしゃ 金吉 かねきち と大森 おおもり 房吉 ふさきち が「寳 たから 永 ひさし 四 よん 年 ねん (宝永 ほうえい 4年 ねん 、1707年 ねん )の誤写 ごしゃ なるべし」と註釈 ちゅうしゃく を付 つ けている[ 28] 。このような誤記 ごき は歴史 れきし 地震 じしん だけではなく、昭和 しょうわ 南海 なんかい 地震 じしん の際 さい に、地震 じしん 原簿 げんぼ への重複 じゅうふく 記載 きさい により実際 じっさい には発生 はっせい していない前震 ぜんしん が記載 きさい された例 れい もある[ 29] 。地震 じしん 学者 がくしゃ が資料 しりょう を編纂 へんさん している際 さい の誤 あやま りによっても生 しょう じている[ 30] 。
西暦 せいれき 表記 ひょうき の不 ふ 統一 とういつ
日本 にっぽん では発生 はっせい 年月日 ねんがっぴ の西暦 せいれき 表記 ひょうき 換算 かんさん はグレゴリオ暦 れき で一本 いっぽん 化 か されてきた[ 23] [ 31] [ 11] [ 32] 。一方 いっぽう 、西洋 せいよう で使用 しよう されていた暦 こよみ は1582年 ねん 10月4日 にち 以前 いぜん はユリウス暦 れき であった。グレゴリオ暦 れき とユリウス暦 れき では16世紀 せいき 末 すえ 頃 ごろ では最大 さいだい 10日 にち の差 さ が存在 そんざい し、日本 にっぽん の歴史 れきし 地震 じしん は慣例 かんれい 上 うえ グレゴリオ暦 れき 表記 ひょうき であったため、アメリカ海洋 かいよう 大気 たいき 庁 ちょう (NOAA) の地震 じしん カタログは1582年 ねん 以前 いぜん はユリウス暦 れき を基本 きほん としているのに対 たい し、日本 にっぽん の地震 じしん についてはグレゴリオ暦 れき (先発 せんぱつ グレゴリオ暦 れき )と統一 とういつ されていない[ 33] 。
当時 とうじ の西洋 せいよう 社会 しゃかい の歴史 れきし の上 うえ で実際 じっさい に使 つか われた暦 こよみ に換算 かんさん するのが望 のぞ ましいとの考 かんが えから、1582年 ねん 以前 いぜん はユリウス暦 れき 表記 ひょうき が望 のぞ ましいとする意見 いけん がある[ 34] 一方 いっぽう で、1582年 ねん 以前 いぜん はユリウス暦 れき は欧州 おうしゅう など一 いち 地方 ちほう で使用 しよう されていたのみであり世界 せかい 共通 きょうつう であったとは言 い えず、太陽 たいよう にリファーされたグレゴリオ暦 れき の方 ほう が便利 べんり ではないかとの意見 いけん もある[ 35] 。歴史 れきし 地震 じしん 研究 けんきゅう 会 かい では、1582年 ねん 以前 いぜん の地震 じしん の発生 はっせい 日時 にちじ はユリウス暦 れき 表記 ひょうき を推奨 すいしょう している[ 25] [ 36] 。
宝永 ほうえい 地震 じしん の震度 しんど 分布 ぶんぷ
古文書 こもんじょ にある記録 きろく から、その地域 ちいき の震度 しんど の推定 すいてい が可能 かのう となる。古文書 こもんじょ には「地震 じしん 」や「小 しょう 地震 じしん 」、「大 だい 地震 じしん 」といった記録 きろく が見 み られ、当時 とうじ はマグニチュード の概念 がいねん はなく、これは震度 しんど の大小 だいしょう を表 あらわ すものと解釈 かいしゃく される。「小 しょう 地震 じしん 」「地震 じしん 」「大 だい 地震 じしん 」などの記録 きろく が登場 とうじょう する頻度 ひんど と、近年 きんねん の観測 かんそく 記録 きろく との比較 ひかく から、それぞれの記録 きろく がどの程度 ていど の震度 しんど に相当 そうとう するかを見積 みつ もった研究 けんきゅう もある[ 37] [ 38] 。684年 ねん の白鳳 はくほう 地震 じしん や1707年 ねん の宝永 ほうえい 地震 じしん などの長 なが い地震動 じしんどう を伴 ともな う巨大 きょだい 地震 じしん では「未曾有 みぞう 」や「前代未聞 ぜんだいみもん 」などの記述 きじゅつ も見 み られる。
家屋 かおく の倒壊 とうかい についても「不 ふ 残 ざん 潰 つぶせ レ」、「半 はん 潰 つぶせ レ」、「事 こと ナシ」などの記録 きろく (宝永 ほうえい 地震 じしん における『谷 たに 陵 りょう 記 き 』)、また具体 ぐたい 的 てき に何 なん 軒 けん のうち、何 なん 軒 けん 潰 つぶ れの記録 きろく から倒壊 とうかい 率 りつ を求 もと めることが可能 かのう である。当時 とうじ の木造 もくぞう 家屋 かおく と現代 げんだい の建物 たてもの を単純 たんじゅん 比較 ひかく することはできないが、類似 るいじ した建物 たてもの の被害 ひがい 状況 じょうきょう を比較 ひかく することによりその都市 とし における推定 すいてい 震度 しんど が求 もと められる。また、墓石 はかいし 、石 いし 灯篭 どうろう 、土塀 どべい 、石垣 いしがき などの倒壊 とうかい 、破損 はそん 状 じょう 況 きょう 、地割 じわ れ、泥 どろ の噴出 ふんしゅつ などの現象 げんしょう 、および「大地 だいち 動 どう 震 ふるえ て歩行 ほこう する事 こと を得 え ず。」(『鸚鵡 おうむ 籠 かご 中 ちゅう 記 き 』)、「庭 にわ 中 ちゅう 水船 みずぶね 水 すい コボル、十分之中五分斗也」(『基 もと 煕 ひろし 公 おおやけ 記 き 』)などの記録 きろく も震度 しんど 推定 すいてい の材料 ざいりょう となる[ 39] [ 40] [ 42] 。
推定 すいてい 震度 しんど 分布 ぶんぷ から、おおよその震央 しんおう が推定 すいてい される。強震 きょうしん 域 いき の分布 ぶんぷ を近代 きんだい に発生 はっせい した地震 じしん と比較 ひかく することにより、おおよその震源 しんげん 域 いき の推定 すいてい が可能 かのう である。しかし記録 きろく の欠損 けっそん により正 ただ しい震央 しんおう や震源 しんげん 域 いき が不明 ふめい であるものも少 すく なくない。また、断層 だんそう の破壊 はかい 開始 かいし 点 てん である地震 じしん 学 がく 的 てき な震源 しんげん やその地上 ちじょう 投影 とうえい である震央 しんおう は地震 じしん 計 けい が無 な ければ定 さだ まらない。宝永 ほうえい 地震 じしん や安政 あんせい 東海 とうかい ・南海 なんかい 地震 じしん の様 よう な震源 しんげん 域 いき が広大 こうだい な巨 きょ 大 だい 地震 じしん では震央 しんおう 位置 いち は無意味 むいみ である上 うえ に誤解 ごかい を与 あた えることもある[ 43] 。
内陸 ないりく の地震 じしん では、地震 じしん 学 がく 的 てき 震央 しんおう に近 ちか い位置 いち では発 はつ 震 ふるえ 後家 ごけ が直 ただ ちに潰 つぶ れて圧死 あっし する場合 ばあい が多 おお くなると考 かんが えられるため、家屋 かおく 倒壊 とうかい 率 りつ ではなく死者 ししゃ 数 すう の分布 ぶんぷ から、より地震 じしん 学 がく 的 てき 震央 しんおう に近 ちか いものが推定 すいてい できるとの研究 けんきゅう もある[ 44] 。
地震 じしん 記録 きろく が乏 とぼ しい中世 ちゅうせい 以前 いぜん の地震 じしん の場合 ばあい 、単 たん にその地震 じしん 報告 ほうこく が発信 はっしん あるいは記録 きろく された、国府 こくふ や寺社 じしゃ などの位置 いち を震央 しんおう とみなしただけの例 れい も多 おお い。そして新 あら たな史料 しりょう が発見 はっけん されるとその推定 すいてい 震源 しんげん 域 いき が広 ひろ がり、地震 じしん 規模 きぼ も増大 ぞうだい していくことになる。つまり史料 しりょう 不足 ふそく のために規模 きぼ が過小 かしょう 評価 ひょうか されていたり、あるいは推定 すいてい 誤差 ごさ が大 おお きい可能 かのう 性 せい もある[ 10] 。
白鳳 はくほう 地震 じしん は古記 こき 録 ろく には飛鳥 あすか 周辺 しゅうへん と思 おも われる被害 ひがい の様相 ようそう と、伊 い 予 よ および土佐 とさ の地変 ちへん 、漠然 ばくぜん と諸国 しょこく に大 だい 被害 ひがい が発生 はっせい したと記 しる されているのみである。しかし、より詳細 しょうさい な記録 きろく を有 ゆう する宝永 ほうえい 地震 じしん や安政 あんせい 南海 なんかい 地震 じしん の記録 きろく と付 つ き合 あ わせることにより、ほぼ同様 どうよう の地殻 ちかく 変動 へんどう が生 しょう じているものと推定 すいてい され[ 45] 、さらに近代 きんだい 的 てき 観測 かんそく 記録 きろく を有 ゆう する1944年 ねん の東 ひがし 南海 なんかい 地震 じしん および1946年 ねん の南海 なんかい 地震 じしん の地盤 じばん 変動 へんどう の水準 すいじゅん 測量 そくりょう 結果 けっか を比較 ひかく することにより、繰 く り返 かえ し発生 はっせい している南海 なんかい 地震 じしん であると推定 すいてい された[ 46] 。さらに、東海 とうかい 地方 ちほう の遺跡 いせき の発掘 はっくつ 調査 ちょうさ による液状 えきじょう 化 か 痕 あと 、海岸 かいがん の地質 ちしつ 調査 ちょうさ からほぼ同 どう 時期 じき に東海 とうかい ・東 ひがし 南海 なんかい 地震 じしん も連動 れんどう したと推定 すいてい され、震源 しんげん 域 いき がさらに広 ひろ い可能 かのう 性 せい がある[ 8] 。
869年 ねん の貞 さだ 観 かん 地震 じしん は漠然 ばくぜん と陸奥 みちのく 国 こく 地 ち 大 だい 震動 しんどう 、津波 つなみ が内陸 ないりく まで遡上 そじょう したと読 よ める記録 きろく があり、歴史 れきし 資料 しりょう の調査 ちょうさ あるいは、仙台平野 せんだいへいや のトレンチ調査 ちょうさ により、9世紀 せいき 頃 ころ 、およびさらに幾 いく 層 そう かの有史 ゆうし 以前 いぜん の津波 つなみ 堆積 たいせき 物 ぶつ が内陸 ないりく まで達 たっ していることが明 あき らかになっていた[ 47] [ 48] [ 49] 。しかし明治 めいじ 三陸 さんりく 地震 じしん よりも甚大 じんだい な津波 つなみ が発生 はっせい したことを示唆 しさ するもので、ここまで内陸 ないりく に達 たっ する津波 つなみ 記録 きろく は近代 きんだい では存在 そんざい せず、この地震 じしん の実体 じったい は不明 ふめい な点 てん が多 おお いとされていた。産業 さんぎょう 技術 ぎじゅつ 総合 そうごう 研究所 けんきゅうじょ による数値 すうち 実験 じっけん 解析 かいせき によりM 8.4の巨大 きょだい 地震 じしん と推定 すいてい されたが[ 50] [ 51] 、東北 とうほく 地方 ちほう 太平洋 たいへいよう 沖 おき 地震 じしん の発生 はっせい はこの地震 じしん の全容 ぜんよう 解明 かいめい のきっかけとなり、ほぼ同 どう 域 いき の広 ひろ い範囲 はんい を震源 しんげん 域 いき とする類似 るいじ した地震 じしん であると考 かんが えられるようになった<[ 52] [ 53] 。
1099年 ねん の康 かん 和 かず 地震 じしん は、もともと摂津 せっつ 、大和 やまと の記録 きろく しか存在 そんざい せず畿内 きない 付近 ふきん が震央 しんおう とされていたが、土佐 とさ の田畑 たはた の沈降 ちんこう 記録 きろく が発見 はっけん され、より広 ひろ い範囲 はんい を震源 しんげん 域 いき とする南海 なんかい 地震 じしん と推定 すいてい されることとなった[ 54] 。しかし、その解釈 かいしゃく にも疑義 ぎぎ が唱 とな えられ、康 かん 和 かず 南海 なんかい 地震 じしん は存在 そんざい せず永長 ながおさ 地震 じしん が南海 なんかい 地震 じしん を含 ふく む可能 かのう 性 せい があるなど、新 あら たな知見 ちけん により解釈 かいしゃく の変更 へんこう もあり得 え る[ 55] 。
1703年 ねん の元禄 げんろく 地震 じしん は関東 かんとう 南部 なんぶ の広 ひろ い範囲 はんい に強 つよ い震動 しんどう と沿岸 えんがん に強大 きょうだい な津波 つなみ をもたらしているが、房総半島 ぼうそうはんとう の隆起 りゅうき 記録 きろく は1923年 ねん の関東 かんとう 地震 じしん に類似 るいじ し、これにより相模 さがみ トラフ のプレート間 あいだ 地震 じしん と推定 すいてい され、津波 つなみ 、隆起 りゅうき の規模 きぼ はより大 おお きいものであった[ 23] 。この4年 ねん 後 ご に宝永 ほうえい 地震 じしん が発生 はっせい するなど、過去 かこ においても巨大 きょだい 地震 じしん が時間 じかん 的 てき に接近 せっきん して続発 ぞくはつ する例 れい がしばしば見 み られる。
下地島 しもじしま の帯 おび 岩 がん 。八重山 やえやま 地震 じしん の津波 つなみ で打 う ち上 あ げられたとされる。
宝永 ほうえい 地震 じしん や安政 あんせい 地震 じしん などでは、地震 じしん 後 ご 暫 しばら くして強大 きょうだい な津波 つなみ が襲来 しゅうらい し、その回数 かいすう 、第 だい 何 なん 波 は が最大 さいだい であったか、津波 つなみ 襲来 しゅうらい の継続 けいぞく 時間 じかん など詳細 しょうさい な記録 きろく が残 のこ る。また、津波 つなみ の遡上 そじょう 範囲 はんい とその標高 ひょうこう および家屋 かおく の流失 りゅうしつ 範囲 はんい 、あるいは神社 じんじゃ 、寺院 じいん の石段 いしだん の浸水 しんすい の段数 だんすう などの記録 きろく により遡上 そじょう 高 だか を見積 みつ もることが可能 かのう である[ 24] [ 56] 。
沿岸 えんがん の浦 うら 々の津波 つなみ 遡上 そじょう 高 だか の分布 ぶんぷ から凡 およ その震源 しんげん 域 いき や断層 だんそう モデルの推定 すいてい も行 おこな われる[ 57] [ 58] 。
宝永 ほうえい 地震 じしん では済州 さいしゅう 島 とう や上海 しゃんはい に津波 つなみ が到達 とうたつ したと思 おも われる記録 きろく があり[ 59] 、安政 あんせい 東海 とうかい 地震 じしん や安政 あんせい 南海 なんかい 地震 じしん の津波 つなみ はサンフランシスコ の験 けん 潮 しお 所 しょ で記録 きろく されている[ 23] [ 60] 。
沿岸 えんがん で観測 かんそく された最大 さいだい の高 たか さと被害 ひがい の発生 はっせい した沿岸 えんがん 長 ちょう に基 もと づいて津波 つなみ の階級 かいきゅう m (0 - 4) が提案 ていあん されている[ 61] 。これに小規模 しょうきぼ で被害 ひがい は及 およ ぼさないが頻度 ひんど の高 たか い規模 きぼ として「-1」を加 くわ え、エネルギーと関連付 かんれんづ けた「今村 いまむら ・飯田 いいだ の津波 つなみ 規模 きぼ 階級 かいきゅう 」も提唱 ていしょう された[ 62] 。最大 さいだい の m = 4 とされているものは869年 ねん 貞 さだ 観 かん 地震 じしん 、1611年 ねん 慶長 けいちょう 三陸 さんりく 地震 じしん 、1707年 ねん 宝永 ほうえい 地震 じしん 、1771年 ねん 八重山 やえやま 地震 じしん 、1896年 ねん 明治 めいじ 三陸 さんりく 地震 じしん [ 63] 、2011年 ねん 東北 とうほく 地方 ちほう 太平洋 たいへいよう 沖 おき 地震 じしん [ 32] 、1700年 ねん カスケード地震 じしん 、1730年 ねん チリ地震 じしん 、1868年 ねん アリカ地震 じしん 、1877年 ねん イキケ地震 じしん 、1946年 ねん アリューシャン地震 じしん 、1960年 ねん チリ地震 じしん 、1964年 ねん アラスカ地震 じしん [ 64] などである。
地震 じしん 学 がく の研究 けんきゅう の必要 ひつよう 上 じょう 、あるいは将来 しょうらい の地震 じしん の発生 はっせい を予測 よそく する上 じょう で過去 かこ に発生 はっせい した地震 じしん の規模 きぼ を知 し ることは欠 か かせないものである。しかし地震 じしん 計 けい による観測 かんそく 記録 きろく を有 ゆう しない歴史 れきし 地震 じしん のマグニチュードは古文書 こもんじょ の記録 きろく や発掘 はっくつ 調査 ちょうさ 、地質 ちしつ 調査 ちょうさ による限定 げんてい 的 てき な情報 じょうほう から推定 すいてい するより他 た 無 な い。
1935年 ねん 、チャールズ・リヒター により、ウッド・アンダーソン式 しき 地震 じしん 計 けい で観測 かんそく された最大 さいだい 振幅 しんぷく に基 もと づく地震 じしん の規模 きぼ であるリヒター・スケール (ローカル・マグニチュード)M L が考案 こうあん された[ 65] 。これ以降 いこう 、表面 ひょうめん 波 は マグニチュード M s [ 66] 、実体 じったい 波 は マグニチュード m b [ 66] などが登場 とうじょう した。
1943年 ねん 、河 かわ 角 すみ 廣 ひろ は震央 しんおう からの距離 きょり 100km における平均 へいきん 震度 しんど を M K と定義 ていぎ し、歴史 れきし 地震 じしん においても古文書 こもんじょ の被害 ひがい 記録 きろく から震度 しんど が推定 すいてい され、規模 きぼ を表 あらわ すことが可能 かのう であるとした。また M K とリヒタースケールの間 あいだ には以下 いか の関係 かんけい があるとされた[ 67] 。
M
=
4.85
+
0.5
M
K
{\displaystyle M=4.85+0.5M_{K}}
I = 2 M - 4.605 log ⊿ - 0.00166 ⊿ - 0.32 ( I : 気象庁 きしょうちょう 震度 しんど 階級 かいきゅう , ⊿ : 震央 しんおう 距離 きょり [km] )
この推定 すいてい された河 かわ 角 かく マグニチュードは日本 にっぽん の地震 じしん において最大 さいだい のもので貞 さだ 観 かん 地震 じしん 、仁和 にわ 地震 じしん および明 あかり 応 おう 地震 じしん のM 8.6であった。これらの地震 じしん はM K = 7.5とされている。一方 いっぽう で、宝永 ほうえい 地震 じしん や安政 あんせい 東海 とうかい ・南海 なんかい 地震 じしん などではM K = 7. と小数点 しょうすうてん 以下 いか が不定 ふてい とされ、M K = 7を換算 かんさん してM 8.4とされていたが、何 いず れもこれらのM Kの根拠 こんきょ は示 しめ されていない。河 かわ 角 すみ 廣 ひろ はさらに過去 かこ の地震 じしん 記録 きろく から日本 にっぽん 各地 かくち の地震 じしん 地域 ちいき 係数 けいすう を定 さだ めた日本 にっぽん 初 はつ の地震 じしん ハザードマップである河 かわ 角 かく マップを作成 さくせい した[ 67] [ 68] 。
そのほかに震度 しんど 4, 5, 6の範囲 はんい の面積 めんせき とマグニチュードの関係 かんけい 式 しき も提唱 ていしょう されている[ 69] 。
M
=
l
o
g
S
5
+
3.2
{\displaystyle M=log\ S_{5}+3.2}
(S5 : 震度 しんど 5以上 いじょう の範囲 はんい [km2 ])
M
=
(
l
o
g
S
6
+
6.66
)
/
1.36
{\displaystyle M=(log\ S_{6}+6.66)/1.36}
(S6 : 震度 しんど 6以上 いじょう の範囲 はんい [km2 ])
メルカリ震度 しんど 階級 かいきゅう では以下 いか の式 しき が提唱 ていしょう されている[ 70] 。
I
=
8.16
+
1.45
M
−
2.46
l
n
r
{\displaystyle I=8.16+1.45\ M-2.46\ {\rm {ln}}\ r}
( I : メルカリ震度 しんど 階級 かいきゅう , r : 震央 しんおう 距離 きょり [km] )
宇佐美 うさみ (1970)はこの河 かわ 角 かく の規模 きぼ と気象庁 きしょうちょう マグニチュード の関係 かんけい を検討 けんとう したが、日本 にっぽん の歴史 れきし 地震 じしん のマグニチュードは最大 さいだい でも8.4 - 8.5程度 ていど とされた。この当時 とうじ は後述 こうじゅつ のモーメント・マグニチュードという概念 がいねん は存在 そんざい せず、世界 せかい 観測 かんそく 史上 しじょう 最大 さいだい 級 きゅう の1960年 ねん のチリ地震 じしん もM 8.5とされていた[ 71] 。
1977年 ねん 、金森 かなもり 博雄 ひろお は地震 じしん モーメント M 0 が地震 じしん のエネルギーと密接 みっせつ な関係 かんけい があることを見出 みいだ し[ 72] 、地震 じしん 断層 だんそう の規模 きぼ から誘導 ゆうどう されるモーメント・マグニチュード M w が考案 こうあん され、M 8を超 こ えても数値 すうち の飽和 ほうわ が無 な く巨大 きょだい 地震 じしん の規模 きぼ をより適切 てきせつ に表 あらわ すものとして今日 きょう では広 ひろ く用 もち いられる。しかしモーメント・マグニチュードを正確 せいかく に求 もと めるためには地球 ちきゅう 規模 きぼ の観測 かんそく 網 もう を必要 ひつよう とし、断層 だんそう の大 おお きさなど震源 しんげん パラメーターを決定 けってい するためには膨大 ぼうだい な計算 けいさん を必要 ひつよう とする。機器 きき 観測 かんそく 記録 きろく の存在 そんざい しない歴史 れきし 地震 じしん では、古記 こき 録 ろく から推定 すいてい される震度 しんど 分布 ぶんぷ や津波 つなみ の高 たか さを、ほぼ同 おな じ震源 しんげん 域 いき と推定 すいてい される近代 きんだい に発生 はっせい した地震 じしん の観測 かんそく 記録 きろく に基 もと づく断層 だんそう パラメータから類推 るいすい して、数値 すうち 実験 じっけん を繰 く り返 かえ し最適 さいてき 化 か された断層 だんそう モデルが仮定 かてい されてモーメント・マグニチュードが推定 すいてい される[ 73] 。しかし、情報 じょうほう 量 りょう は乏 とぼ しく断層 だんそう モデルを置 お く位置 いち を少 すこ し変 か えるなどパラメーターを多少 たしょう 変化 へんか させるだけでもマグニチュードは大 おお きく変化 へんか し、近似 きんじ の程度 ていど も悪 わる く精度 せいど は低 ひく い[ 74] 。
1700年 ねん のカスケード地震 じしん は当時 とうじ の北米 ほくべい 大陸 たいりく における地震 じしん 記録 きろく は現存 げんそん していないが、『田辺 たなべ 町 まち 大 だい 帳 ちょう 』、『大槌 おおつち 記録 きろく 抄 しょう 』など日本 にっぽん 各地 かくち における遠地 おんち 津波 つなみ の記録 きろく が存在 そんざい し[ 28] 、地震 じしん の発生 はっせい した凡 およ その日時 にちじ やマグニチュード M w 8.7 - 9.2 が推定 すいてい されている[ 75] 。その他 た 、チリ やペルー における地震 じしん 津波 つなみ も日本 にっぽん に襲来 しゅうらい した記録 きろく があり、その規模 きぼ からこれらのおおよそのマグニチュードの推定 すいてい が可能 かのう である。
中東 ちゅうとう には紀元前 きげんぜん 20世紀 せいき 以前 いぜん から地震 じしん の記録 きろく がある。紀元前 きげんぜん 2150年 ねん 頃 ころ のヨルダン のカラク 付近 ふきん の地震 じしん は旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ にあるソドムとゴモラ の滅亡 めつぼう との関連 かんれん も唱 とな えられている[ 76] 。このほかにも聖書 せいしょ にはシリア 付近 ふきん と考 かんが えられる地震 じしん の記述 きじゅつ があり、例 たと えばサムエル記 き 上 うえ 14・15およびマタイ 27・51、28・2などが挙 あ げられる。
紀元前 きげんぜん 2000年 ねん 頃 ころ には、シリア、およびトルクメニスタン でそれぞれ地震 じしん が発生 はっせい したとされる[ 77] 。
中国 ちゅうごく も古 ふる い記録 きろく を有 ゆう する国 くに の一 ひと つであり、夏 なつ 朝 あさ の紀元前 きげんぜん 1831年 ねん に泰山 たいざん 付近 ふきん で発生 はっせい したとされる泰山 たいざん 地震 じしん は『竹 たけ 書 しょ 紀年 きねん 』に記録 きろく され、中国 ちゅうごく で確認 かくにん される記録 きろく としては最古 さいこ のものである[ 78] [ 79] 。NOAA の地震 じしん 年表 ねんぴょう に登録 とうろく されているものとしては紀元前 きげんぜん 193年 ねん および紀元前 きげんぜん 186年 ねん の甘粛 かんせい 省 しょう における地震 じしん の記録 きろく がある[ 77] 。
138年 ねん に甘粛 かんせい 省 しょう で発生 はっせい した隴西地震 じしん は700km離 はな れた洛陽 らくよう に設置 せっち された張 ちょう 衡 の製作 せいさく による地 ち 動 どう 儀 ぎ が感知 かんち し、これは最古 さいこ の地震 じしん 計 けい の一 ひと つとされる[ 80] 。
中国 ちゅうごく では内陸 ないりく 部 ぶ の巨大 きょだい 地震 じしん の記録 きろく が多 おお く存在 そんざい し、直下 ちょっか 型 がた の巨大 きょだい 地震 じしん の様相 ようそう を呈 てい し、1556年 ねん の華 はな 県 けん 地震 じしん など数 すう 十 じゅう 万 まん 人 にん の死者 ししゃ を出 だ すような甚大 じんだい な被害 ひがい を伴 ともな うものがしばしば見 み られる。史上 しじょう 最大 さいだい 規模 きぼ とされる地震 じしん は1668年 ねん に山東 さんとう 省 しょう で発生 はっせい した郯城地震 じしん とされている。
ヨーロッパ で最古 さいこ の記録 きろく を持 も つのは古代 こだい ギリシア であり、紀元前 きげんぜん 1410年 ねん 頃 ごろ (紀元前 きげんぜん 1450年 ねん 頃 ころ とも)、紀元前 きげんぜん 550年 ねん 頃 ころ 、紀元前 きげんぜん 479年 ねん 、紀元前 きげんぜん 432年 ねん (古代 こだい ローマ )、紀元前 きげんぜん 426年 ねん 、紀元前 きげんぜん 373年 ねん 、紀元前 きげんぜん 330年 ねん 、紀元前 きげんぜん 282年 ねん 、紀元前 きげんぜん 227年 ねん 、および紀元前 きげんぜん 223年 ねん などに地震 じしん の記録 きろく がある[ 77] 。
紀元前 きげんぜん 17世紀 せいき ないし紀元前 きげんぜん 1450年 ねん 頃 ごろ 、サントリーニ島 とう の噴火 ふんか と地震 じしん はエ え ーゲ海 げかい に甚大 じんだい な津波 つなみ をもたらし、クレタ島 とう のフェストス宮殿 きゅうでん が崩壊 ほうかい したとされる。
1755年 ねん にポルトガル 沖 おき で発生 はっせい したリスボン地震 じしん は、西 にし ヨーロッパ 、北 きた アフリカの広 ひろ い範囲 はんい に強震 きょうしん をもたらし、大 だい 津波 つなみ 発生 はっせい の比較的 ひかくてき 稀 まれ な大西 おおにし 洋 ひろし 全体 ぜんたい に津波 つなみ が波及 はきゅう した[ 63] 。この地震 じしん による経済 けいざい など社会 しゃかい 的 てき 影響 えいきょう は多大 ただい なもので、これを機 き に地震 じしん 学 がく が発足 ほっそく した。
朝鮮半島 ちょうせんはんとう は地震 じしん の発生 はっせい が比較的 ひかくてき 少 すく なく津波 つなみ 記録 きろく もほとんどないと言 い われるが、実際 じっさい には古 ふる くからの地震 じしん の記録 きろく が存在 そんざい し、最古 さいこ のものとしては『三 さん 国史 こくし 記 き 』に2年 ねん に発生 はっせい した地震 じしん の記述 きじゅつ が見 み られる。以下 いか 被害 ひがい 記録 きろく があるものとして27年 ねん 、34年 ねん 、37年 ねん 、89年 ねん などと、京畿 けいき 道 どう 広州 こうしゅう における大 だい 地震 じしん 、家屋 かおく 倒壊 とうかい および液状 えきじょう 化 か の記録 きろく がある[ 28] 。『三 さん 国史 こくし 記 き 』や『高麗 こうらい 史 し 』『朝鮮 ちょうせん 王朝 おうちょう 実録 じつろく 』に記 しる された被害 ひがい 内容 ないよう などからマグニチュード6.0以上 いじょう と推定 すいてい されるものもあって[ 81] 、16世紀 せいき から17世紀 せいき にかけて比較的 ひかくてき 多 おお くの地震 じしん が発生 はっせい している。史上 しじょう 最大 さいだい 規模 きぼ とされる地震 じしん は1681年 ねん 6月 がつ 28日 にち の江原 えばら 道 みち 、襄 じょう 陽 ひ 郡 ぐん ・三 さん 陟 のぼる の地震 じしん (襄 じょう 陽 ひ 地震 じしん )とされ、推定 すいてい されるマグニチュードは7.0〜7.5で海 うみ 震 ふるえ や津波 つなみ と見 み られる記述 きじゅつ もあるという[ 81] 。
浅川 あさがわ 観音堂 かんのんどう 、宝永 ほうえい 津波 つなみ の犠牲 ぎせい 者 しゃ を供養 くよう するために建立 こんりゅう された観音堂 かんのんどう 。徳島 とくしま 県 けん 海陽 かいよう 町 まち 浅川 あさがわ 。
日本 にっぽん は最 もっと も詳細 しょうさい な記録 きろく が現存 げんそん している国 くに である。1892年 ねん (明治 めいじ 25年 ねん )に濃 こ 尾 お 地震 じしん を契機 けいき として震災 しんさい 予防 よぼう 調査 ちょうさ 会 かい が組織 そしき され1893年 ねん から関谷 せきや 清 きよし 景 けい らにより調査 ちょうさ 研究 けんきゅう が開始 かいし された[ 82] 、これらの調査 ちょうさ 結果 けっか は1904年 ねん に震災 しんさい 予防 よぼう 調査 ちょうさ 会 かい により集大成 しゅうたいせい として『大 だい 日本 にっぽん 地震 じしん 史料 しりょう 』が刊行 かんこう され[ 31] 、その後 ご も地震 じしん 史料 しりょう の収集 しゅうしゅう と研究 けんきゅう が継続 けいぞく され、武者 むしゃ 金吉 かねきち らにより『増 ぞう 訂 てい 大 だい 日本 にっぽん 地震 じしん 史料 しりょう 』(1941)や宇佐美 うさみ 龍夫 たつお らによる『新 あたらし 収 おさむ 日本 にっぽん 地震 じしん 史料 しりょう 』などが作成 さくせい された[ 28] [ 83] [ 84] [ 85] 。また、津波 つなみ に関 かん する歴史 れきし 資料 しりょう は『日本 にっぽん 被害 ひがい 津波 つなみ 総覧 そうらん 』(渡邉 わたなべ 偉夫 ひでお ,1985,1998)がある[ 10] 。
『日本書紀 にほんしょき 』の允恭天皇 いんぎょうてんのう 5年 ねん 条 じょう (416年 ねん と換算 かんさん されるがはっきりしない)に初 はじ めて地震 じしん の記録 きろく が登場 とうじょう する(允 まこと 恭 きょう 地震 じしん )。599年 ねん には、地震 じしん 被害 ひがい についての記録 きろく が初 はじ めてあらわれる(推古地震 じしん )。679年 ねん の筑紫 つくし 地震 じしん は、筑紫 つくし と震源 しんげん 域 いき が判明 はんめい する初 はつ の記録 きろく である。684年 ねん の白鳳 はくほう 地震 じしん は日本 にっぽん 最古 さいこ の巨大 きょだい 地震 じしん 、津波 つなみ の記録 きろく である。この白鳳 はくほう 地震 じしん を嚆矢 こうし とする南海 なんかい トラフ沿 ぞ いの巨大 きょだい 地震 じしん と推定 すいてい される一連 いちれん の地震 じしん はプレート間 あいだ 地震 じしん の繰 く り返 かえ しの記録 きろく としては世界 せかい 最長 さいちょう のものとされる。しかし、飛鳥 あすか 時代 ときよ には大和 やまと や筑紫 つくし など西日本 にしにほん と思 おも われる記録 きろく しかなく、断片 だんぺん 的 てき 、限定 げんてい 的 てき なものである。当時 とうじ の交通 こうつう 事情 じじょう に加 くわ え、関東 かんとう は、朝廷 ちょうてい にとって辺境 へんきょう とも言 い える土地 とち であり、さらに遠 とお くの東北 とうほく 地方 ちほう は「まつろわぬ」蝦夷 えぞ の力 ちから が強 つよ く、未 いま だ朝廷 ちょうてい の支配 しはい が完全 かんぜん には及 およ んでいなかったためと思 おも われる。
『日本 にっぽん 三 さん 代 だい 実録 じつろく 』では869年 ねん の貞 さだ 観 かん 地震 じしん など、陸奥 みちのく の地震 じしん も登場 とうじょう するが、地震 じしん 活動 かつどう が活発 かっぱつ な東北 とうほく 地方 ちほう の確 たし かな巨 きょ 大 だい 地震 じしん 記録 きろく はこれ以降 いこう 1611年 ねん の慶長 けいちょう 三陸 さんりく 地震 じしん まで確認 かくにん されておらず記録 きろく の空白 くうはく 域 いき となっており、僅 わず かに享 とおる 徳地 とくじ 震 しん など会津 あいづ の地震 じしん 記録 きろく が見 み られるのみである。
南海 なんかい トラフ沿 ぞ いや東北 とうほく 地方 ちほう 太平洋 たいへいよう 沖 おき の様 よう に、明 あきら 応 おう 地震 じしん 、宝永 ほうえい 地震 じしん および慶長 けいちょう 三陸 さんりく 地震 じしん 津波 つなみ などで従前 じゅうぜん の記録 きろく が失 うしな われたと考 かんが えられる場所 ばしょ においては[ 48] 、これ以前 いぜん の現地 げんち で記 しる された現存 げんそん 記録 きろく は極 きわ めて少 すく ないが、都 と で記 しる された『日本書紀 にほんしょき 』や『日本 にっぽん 三 さん 代 だい 実録 じつろく 』には古 ふる い巨大 きょだい 地震 じしん の記録 きろく があり、当時 とうじ は律令制 りつりょうせい が稼働 かどう し始 はじ め、国司 こくし らによって地方 ちほう の地震 じしん 被害 ひがい が報告 ほうこく されていたものと考 かんが えられている[ 17] 。
これら六 ろく 国史 こくし 時代 じだい 以降 いこう は正史 せいし が途絶 とだ え、鎌倉 かまくら 時代 ときよ には『吾妻 あづま 鏡 きょう 』などに地震 じしん の記録 きろく が登場 とうじょう するが、京都 きょうと や鎌倉 かまくら など一 いち 都市 とし における限定 げんてい 的 てき な記録 きろく のみとなり震源 しんげん 域 いき の推定 すいてい が困難 こんなん なものが多 おお い。室町 むろまち 時代 ときよ には『太平 たいへい 記 き 』などに地震 じしん の記録 きろく が登場 とうじょう するが[ 86] 、正平 しょうへい 地震 じしん 津波 つなみ の「俄 にわか に太山 たいざん の如なる潮 しお 漲 みなぎ 来 き て」など軍記物語 ぐんきものがたり ゆえに文学 ぶんがく 的 てき 、誇張 こちょう 的 てき な表現 ひょうげん も見 み られる。
江戸 えど 時代 じだい 以降 いこう は町人 ちょうにん らの記録 きろく も見受 みう けられるようになり全国 ぜんこく 各地 かくち の豊富 ほうふ な被害 ひがい 記録 きろく が残 のこ されている。しかし、依然 いぜん 、巨大 きょだい 地震 じしん の数 かず が多 おお いと考 かんが えられる北海道 ほっかいどう における記録 きろく は乏 とぼ しい。これは、先住民 せんじゅうみん のアイヌ が文字 もじ を持 も たなかったため、記録 きろく は口伝 くでん に頼 たよ るほかなかったことによる。また、文字 もじ を持 も っていた和人 わじん も江戸 えど 時代 じだい 、北海道 ほっかいどう の僻地 へきち までは住 す んでおらず、アイヌと和人 わじん の両者 りょうしゃ は敵対 てきたい 的 てき な関係 かんけい であった時代 じだい も長 なが かったため、情報 じょうほう が和人 わじん の元 もと に集 あつ まらなかったことも影響 えいきょう していると思 おも われる。この時代 じだい には、慰霊 いれい のため、地震 じしん の被害 ひがい 者 しゃ を供養 くよう した寺社 じしゃ などの施設 しせつ がいくつも建 た てられ、今 いま に残 のこ っているものも少 すく なくない。
明治維新 めいじいしん の後 のち 、1880年 ねん (明治 めいじ 13年 ねん )4月 がつ に、世界 せかい ではじめて、地震 じしん 学 がく を専門 せんもん とする学会 がっかい 「日本 にっぽん 地震 じしん 学会 がっかい 」が設立 せつりつ される。以後 いご 、日本 にっぽん で発生 はっせい した地震 じしん の数々 かずかず の記録 きろく と、西洋 せいよう 式 しき の学問 がくもん が組 く み合 あ わさり、日本 にっぽん の地震 じしん 研究 けんきゅう は発展 はってん していくこととなる。
古文書 こもんじょ を調査 ちょうさ した結果 けっか は武者 むしゃ 金吉 かねきち 『増 ぞう 訂 てい 大 だい 日本 にっぽん 地震 じしん 史料 しりょう 』全 ぜん 3巻 かん (1941 - 43年 ねん )・『日本 にっぽん 地震 じしん 史料 しりょう 』(1951年 ねん )[ * 3] や宇佐美 うさみ 龍夫 たつお 『日本 にっぽん 被害 ひがい 地震 じしん 総覧 そうらん 』[ * 4] [ 87] などとしてまとめられているが、史料 しりょう の吟味 ぎんみ 方法 ほうほう や推論 すいろん 過程 かてい の詳細 しょうさい が不明 ふめい なため原 はら 史料 しりょう を遡 さかのぼ って更 さら なる調査 ちょうさ や推論 すいろん には使 つか えないと言 い う指摘 してき [ 10] や研究 けんきゅう 用 よう データベースの不在 ふざい が指摘 してき されていた[ 88] [ 89] 。これらの問題 もんだい を解決 かいけつ するため2000年代 ねんだい から「歴史 れきし 地震 じしん 史料 しりょう 集 しゅう 電子 でんし データベース」の作成 さくせい が進 すす められている[ 90] 。
史料 しりょう の信憑 しんぴょう 性 せい
日本 にっぽん の歴史 れきし 地震 じしん の史料 しりょう 全文 ぜんぶん をまとめた「歴史 れきし 地震 じしん 史料 しりょう 集 しゅう 電子 でんし データベース」(古代 こだい 中世 ちゅうせい 地震 じしん 噴火 ふんか 史料 しりょう データ)[ 90] では信憑 しんぴょう 性 せい を、5段階 だんかい で評価 ひょうか している[ 91] 。
5段階 だんかい 評価 ひょうか
等級 とうきゅう A:基本 きほん 史料 しりょう (同 どう 時代 じだい 史料 しりょう )
等級 とうきゅう B:参考 さんこう 史料 しりょう (主 しゅ として近世 きんせい までに成立 せいりつ した史料 しりょう )
等級 とうきゅう C:主 しゅ として明治 めいじ 以降 いこう に書 か かれた文献 ぶんけん
等級 とうきゅう D:史料 しりょう としては使 つか えず削除 さくじょ すべきもの
等級 とうきゅう E:保留 ほりゅう 史料 しりょう (信頼 しんらい 性 せい がまだ確認 かくにん できていない史料 しりょう )
南北 なんぼく アメリカ大陸 あめりかたいりく の先住民 せんじゅうみん のほとんどは、文字 もじ の文化 ぶんか を持 も っておらず、そのため古 ふる くの地震 じしん の記録 きろく は乏 とぼ しい。南米 なんべい のペルー やチリ で地震 じしん の記録 きろく が現 あらわ れるのは15世紀 せいき 以降 いこう である。マヤ文字 もじ で書 か かれた、さらに古 ふる い記録 きろく があったのかもしれないが、スペイン人 じん を始 はじ めとする侵略 しんりゃく 者 しゃ のヨーロッパ人 じん によって破壊 はかい された可能 かのう 性 せい がある。ヨーロッパ人 じん たちはアメリカ大陸 あめりかたいりく の植民 しょくみん 地 ち 化 か において、現地 げんち の文化 ぶんか や文物 ぶんぶつ を徹底的 てっていてき に破壊 はかい した他 ほか 、先住民 せんじゅうみん に対 たい しても過酷 かこく な大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ を実行 じっこう して記録 きろく を伝 つた える者 もの も皆殺 みなごろ しにしていった。以降 いこう 、征服 せいふく 者 しゃ のヨーロッパ人 じん たちによる、西洋 せいよう の科学 かがく に基 もと づく詳細 しょうさい な記録 きろく が伝 つた えられていくこととなる。
1960年 ねん のチリ地震 じしん に代表 だいひょう されるようにペルー・チリ海溝 かいこう の沈 しず み込 こ み帯 たい は、南 みなみ アメリカプレート との境界 きょうかい でナスカプレート が低 てい 角 かく で沈 しず み込 こ み、プレート 間 あいだ の強 つよ い固着 こちゃく によりアスペリティ を形成 けいせい していると推定 すいてい され、プレート間 あいだ 地震 じしん と推定 すいてい される巨大 きょだい 地震 じしん の記録 きろく がしばしば見 み られる。これらの地震 じしん 津波 つなみ は太平洋 たいへいよう 全体 ぜんたい に波及 はきゅう したものと推定 すいてい され、日本 にっぽん における遠地 おんち 津波 つなみ の記録 きろく も存在 そんざい する。
ペルー地震 じしん は1471年 ねん に巨大 きょだい 地震 じしん の最古 さいこ の記録 きろく が現 あらわ れ、チリ地震 じしん は1520年 ねん から記録 きろく に登場 とうじょう するようになり、両国 りょうこく ともこれ以降 いこう 、巨大 きょだい 地震 じしん の記録 きろく が頻繁 ひんぱん に現 あらわ れている。年月日 ねんがっぴ まで判明 はんめい している地震 じしん としての最古 さいこ は1555年 ねん のペルー地震 じしん 。1960年 ねん の日本 にっぽん におけるチリ地震 じしん 津波 つなみ 被害 ひがい と同様 どうよう 、1730年 ねん のチリの地震 じしん 津波 つなみ が陸前 りくぜん に到達 とうたつ し、田畑 たはた を損 そん じた記録 きろく が『東 ひがし 藩 はん 史 し 稿 こう 』にある[ 28] 。
観測 かんそく 史上 しじょう 最大 さいだい 級 きゅう の1960年 ねん チリ地震 じしん と同 おな じ地域 ちいき で発生 はっせい した1575年 ねん バルディビア地震 じしん は、古記 こき 録 ろく および地質 ちしつ 調査 ちょうさ から、1960年 ねん とほぼ同 どう 規模 きぼ 、一部 いちぶ の研究 けんきゅう 者 しゃ によってはそれ以上 いじょう である可能 かのう 性 せい が指摘 してき され、さらに同 どう 地域 ちいき では平均 へいきん して約 やく 300年 ねん 毎 ごと に津波 つなみ 堆積 たいせき 物 ぶつ などの痕跡 こんせき を残 のこ すような大 だい 規模 きぼ な地震 じしん が繰 く り返 かえ されていることが示 しめ された[ 92] 。これ以外 いがい にも津波 つなみ 堆積 たいせき 物 ぶつ などの地質 ちしつ 調査 ちょうさ から、カスケード、スマトラ沖 おき 、南海 なんかい トラフ 、千島 ちしま 海溝 かいこう 、日本 にっぽん 海溝 かいこう 沿 ぞ いなど世界 せかい 各地 かくち のプレート境界 きょうかい の沈 しず み込 こ み帯 たい において、300 - 600年 ねん 程度 ていど の周期 しゅうき で特 とく に大 だい 規模 きぼ な地震 じしん が繰 く り返 かえ されていることが明 あき らかに成 な りつつある。
土佐 とさ の各地 かくち に白鳳 はくほう 地震 じしん に関 かん する口碑 こうひ が伝 つた わり、東北 とうほく 地方 ちほう の太平洋 たいへいよう 側 がわ 各地 かくち に貞 さだ 観 かん 地震 じしん 津波 つなみ と思 おも われる伝承 でんしょう が存在 そんざい する[ 93] 。しかし、白鳳 はくほう 地震 じしん に関 かん する口碑 こうひ は後世 こうせい に書 か き記 しる されたものもあり、土佐湾 とさわん の陥没 かんぼつ など信頼 しんらい 性 せい に疑 うたが いのあるものもある[ 94] 。
地震 じしん の文献 ぶんけん 記録 きろく は無 な くても北米 ほくべい 大陸 たいりく にはインディアン の間 あいだ に、カスケード地震 じしん 津波 つなみ と見 み られる洪水 こうずい のい伝 いつた えが存在 そんざい し[ 95] 、北海道 ほっかいどう にはアイヌ の間 あいだ で津波 つなみ に関 かん する伝承 でんしょう が存在 そんざい する[ 96] 。
^ 出典 しゅってん の定義 ていぎ するところでは「史料 しりょう が残 のこ っていることが前提 ぜんてい 」ということであるが、定義 ていぎ 上 じょう 「史料 しりょう 」には記録 きろく だけでなく遺物 いぶつ ・遺跡 いせき ・口頭 こうとう 伝承 でんしょう なども含 ふく まれ、「記録 きろく 」とは意味 いみ が大 おお きく異 こと なる。したがって、本 ほん 項 こう では狭義 きょうぎ で「確 たし かな記録 きろく の残 のこ っていることが前提 ぜんてい 」とした。このように、本 ほん 項 こう では「記録 きろく 」と「史料 しりょう 」を明確 めいかく に書 か き分 わ ける。
^ 出典 しゅってん は歴史 れきし 地震 じしん の範疇 はんちゅう を奈良 なら 時代 じだい 以降 いこう としているが、奈良 なら 時代 じだい の前 まえ の飛鳥 あすか 時代 ときよ を先史 せんし 時代 じだい と見 み なすことには無理 むり があるため、調整 ちょうせい した。
^ 『日本 にっぽん 地震 じしん 史料 しりょう 』は、本来 ほんらい 『増 ぞう 訂 てい 大 だい 日本 にっぽん 地震 じしん 史料 しりょう 』第 だい 4巻 かん として刊行 かんこう されるはずであったが、戦局 せんきょく の悪化 あっか などのために公刊 こうかん が遅 おく れていたものである。『日本 にっぽん 地震 じしん 史料 しりょう 』所収 しょしゅう 「日本 にっぽん 地震 じしん 史料 しりょう 完成 かんせい に際 さい して」参照 さんしょう 。
^ 初版 しょはん は『資料 しりょう 日本 にっぽん 被害 ひがい 地震 じしん 総覧 そうらん 』(1975年 ねん )。以後 いご 、『新編 しんぺん 日本 にっぽん 被害 ひがい 地震 じしん 総覧 そうらん 』(1987年 ねん )、『新編 しんぺん 日本 にっぽん 被害 ひがい 地震 じしん 総覧 そうらん [増補 ぞうほ 改訂 かいてい 版 ばん ] 416-1995』(1996年 ねん )、同 どう ・CD-ROM版 ばん (1997年 ねん )、『最新 さいしん 版 ばん 日本 にっぽん 被害 ひがい 地震 じしん 総覧 そうらん [416]-2001』(2003年 ねん )、『日本 にっぽん 被害 ひがい 地震 じしん 総覧 そうらん 599-2012』(2013年 ねん )とたびたび改版 かいはん を重 かさ ねている。
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