備前びぜんこく

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備前びぜん権守ごんもりから転送てんそう
備前びぜんこく

-備前びぜんこく
-山陽さんようどう
別称べっしょう 備州(びしゅう)[注釈ちゅうしゃく 1]
所属しょぞく 山陽さんようどう
相当そうとう領域りょういき 岡山おかやまけんひがし南部なんぶ香川かがわけん小豆しょうずぐん直島諸島なおしましょとう兵庫ひょうごけん赤穂あこう一部いちぶ福浦ふくうら[注釈ちゅうしゃく 2]
しょもと
国力こくりょく うえこく
距離きょり 近国きんごく
ぐんさとかず 8ぐん51さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
備前びぜん国府こくふ 岡山おかやまけん岡山おかやま備前びぜんこくちょうあと
備前びぜん国分寺こくぶんじ 岡山おかやまけん赤磐あかいわ備前びぜん国分寺こくぶんじあと
備前びぜん国分こくぶ尼寺あまでら 岡山おかやまけん赤磐あかいわ
一宮いちのみや 吉備津きびつ彦神しゃ岡山おかやまけん岡山おかやま
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備前びぜんこく(びぜんのくに)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。山陽さんようどうぞくする。

備前びぜん」の名称めいしょう[編集へんしゅう]

藤原ふじわらみや木簡もっかんには「吉備きび道前みちまえこく」と表記ひょうき平城京へいじょうきょうあと出土しゅつど木簡もっかん735ねん天平てんぺい7ねん)から747ねん天平てんぺい19ねん)までのあいださつ)に、「備前びぜんこく児嶋こじまぐん賀茂かもさとかもただしくん麻呂まろ調しらべしおさん」、「備前びぜんこく児嶋こじまぐん賀茂かもきょうさんいえれんおつこう調しらべしおいち」と表記ひょうき

領域りょういき[編集へんしゅう]

明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういきは、岡山おかやまけん玉野たまの備前びぜん瀬戸内せとうち赤磐あかいわ和気わきぐん全域ぜんいきおよび岡山おかやまだい部分ぶぶんきたのうち旭川あさひかわ以東いとうかつ建部たけべまち大田おおた以北いほく旭川あさひかわ以西いせいのうち、おおむ納所なっしょ川入かわいり東花尻ひがしはなじり西花尻にしはなじり平野ひらの延友のぶともより南西なんせい[注釈ちゅうしゃく 3]および真星まなぼし上高田かみたかだ山上さんじょう石妻いしづま杉谷すぎたに日近ひぢかい足守あしもり下足守しもあしもり高松稲荷たかまついなり平山ひらやま立田たつた加茂かもより南西なんせい[注釈ちゅうしゃく 4]みなみ大福だいふく古新田こしんでん妹尾せのお箕島みしま山田やまだ妹尾崎せのおざき[注釈ちゅうしゃく 5]のぞく)、倉敷くらしき一部いちぶ水島福崎みずしまふくさきまち水島東千鳥みずしまひがしちどりまち水島東常盤みずしまひがしときわまち水島東栄みずしまひがしさかえまち水島東弥生みずしまひがしやよいまち水島東寿みずしまひがしことぶきまち水島相生みずしまあいおいまち福田町浦田ふくだちょううらだ浦田うらた黒石くろいし粒浦つぶうら有城あるき藤戸町天城ふじとちょうあまき藤戸町藤戸ふじとちょうふじとより南東なんとう)、久米くめぐん美咲みさきまち一部いちぶ江与味えよみ)、加賀かがぐん吉備きび中央ちゅうおうまち一部いちぶ尾原おはら和田わだ富永とみなが加茂市場かもいちば高谷たかや平岡ひらおか上加茂かみかも広面ひろおもて以東いとう)、兵庫ひょうごけん赤穂あこう一部いちぶ福浦ふくうら)にあたる。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

吉備きびこくが7世紀せいき後半こうはん備前びぜんこく備中びっちゅうこく備後びんごこく分割ぶんかつされて成立せいりつされた。『和名わみょう類聚るいじゅうしょう』に「きびのみちのくち」としるされ、分割ぶんかつ吉備きびどうぞくいちこくだったと推定すいていされる。 このとき備前びぜんこくは、美作みさくこく領域りょういきと、連島つらじま児嶋こじまぐんさと)、小豆島しょうどしま直島諸島なおしましょとう北部ほくぶふくんでいた。

和銅わどう6ねん713ねん)4がつ3にちに、備前びぜんもり百済くだらおうみなみてん備前びぜんかいうえけんがともに上申じょうしんして、北部ほくぶの6ぐんえいおおぐん勝田かつたぐん苫田とまたぐん久米くめぐん真嶋ましまぐん大庭おおばぐんいて美作みさくこくもうけられた。

平地ひらちめぐまれ、治水ちすい水運すいうん手頃てごろおおきさのかわおおかったので、古代こだいから農業のうぎょう適地てきちであった。古墳こふん時代じだいからのてつ産地さんちであり、塩田えんでんづくりもまたふるい。さらに瀬戸内海せとないかいめんした海上かいじょう交通こうつう便びんのおかげで、経済けいざいてきゆたかであった。面積めんせきおおきくないが、律令制りつりょうせいではうえこく位置いちづけられた。

備前びぜんこく山陽さんようどう駅家えきやは、坂長さかちょう、珈磨、高月たかつきだかの4えきである(『延喜えんぎしき兵部ひょうぶ)。

平安へいあん時代じだいから鎌倉かまくら時代ときよには荘園しょうえん数多かずおおもうけられた。平安へいあん時代じだいから、すぐれた刀工とうこうあつまり、長船おさふね一文字ひともじなど様々さまざま流派りゅうはきたえたかたなは、備前びぜんぶつばれておもんじられた。やはり平安へいあん時代じだいからはじまって後々あとあとまで全国ぜんこく流通りゅうつうした商品しょうひんに、備前焼びぜんやきがある。当時とうじ備前びぜん中心ちゅうしんとなったまちは、福岡ふくおかであった。

室町むろまち時代ときよには播磨はりまこく本拠ほんきょとする赤松あかまつ守護しゅごにいただくようになった。赤松あかまつちからおとろえると、山名やまな勢力せいりょくび、両者りょうしゃたたかいのなかでしだいに国人くにびとそう成長せいちょうした。戦国せんごく時代じだいには守護しゅごだい浦上うらかみ主家しゅか赤松あかまつ勢力せいりょくして備前びぜんこく支配しはいしようとするも、山陰さんいんだい大名だいみょうとなっていた尼子あまこ晴久はるひさ美作みさくから南下なんかうごきをせ、備前びぜん西部せいぶちから松田まつだあま子方こかたくなど苦戦くせんしている。しかし、尼子あまこ衰退すいたいすると戦国せんごく時代じだい末期まっきには浦上うらかみ家臣かしん宇喜多うきた直家なおいえ主家しゅか凌駕りょうがするちからをつけ、ついには浦上うらかみして、備前びぜんこく美作みさくこく備中びっちゅうこく一部いちぶくわえた戦国せんごく大名だいみょうとなった。これ以後いご直家なおいえ居城きょじょうにした岡山おかやま備前びぜんこく中心ちゅうしんになった。

直家なおいえ死後しごいだ宇喜多うきた秀家ひでいえ関ヶ原せきがはらたたかやぶれたため、宇喜多うきた領国りょうごくはなくなった(秀家ひでいえ従兄弟いとこ宇喜多うきたかい石見いわみこく津和野つわの3まんせきあたえられた)。しゅうのち岡山おかやまじょうはいった小早川こばやかわ秀秋ひであき後嗣こうしたずになくなると、幕府ばくふ備前びぜんこく池田いけだ輝政てるまさ次男じなんちゅうまましあたえた。のち岡山おかやまには池田いけだ本家ほんけはいり、岡山おかやまはん幕末ばくまつまで備前びぜんこくいちえん周辺しゅうへん時期じきにより変動へんどう)を領国りょうごくとした。江戸えど時代じだい備前びぜんでは綿めん作付さくづけがひろがった。以前いぜんからすすんでいた児島こじま本州ほんしゅう本土ほんどとのあいだうみ干拓かんたくは、江戸えど時代じだいにいっそうすすみ、児島こじま本土ほんど地続じつづきになった。

幕府ばくふ調査ちょうさによる人口じんこうは、文政ぶんせい5ねん1822ねん)が31まん8,203にんであった。明治めいじ政府せいふ明治めいじ5ねん(1872ねん)の調査ちょうさによる人口じんこうは、33まん1,878にんであった。

中世ちゅうせい以降いこう小豆しょうずぐん直島諸島なおしましょとう北部ほくぶ讃岐さぬきこく守護しゅご天領てんりょう備前びぜんこく倉敷くらしき代官だいかんしょ津山つやまはん高松たかまつはん政治せいじてき支配しはいしゃ次々つぎつぎ変遷へんせん辿たどるうちに、備前びぜん讃岐さぬきかのれいせいこくとしての所属しょぞく曖昧あいまいなものとなり、最後さいご高松たかまつはんあずかりとなった宝永ほうえい5ねん1708ねん以降いこう事実じじつじょう讃岐さぬきこくとしてあつかわれるようになった。そのような状態じょうたいが300ねんあまつづいたが、明治維新めいじいしん1871ねん8がつ29にち明治めいじ4ねん7がつ14にち)14廃藩置県はいはんちけんによりきゅう高松たかまつはん区域くいきには香川かがわけん前身ぜんしんである高松たかまつけん設置せっちされ、直前ちょくぜんまで高松たかまつはん実効じっこう支配しはいけていた小豆しょうずぐん直島諸島なおしましょとうはこのときから正式せいしき香川かがわけん所属しょぞくとなった。

また、福浦ふくうら地元じもと住民じゅうみん要望ようぼう1963ねん昭和しょうわ38ねん)に兵庫ひょうごけん赤穂あこう編入へんにゅうされた。(備前福河びぜんふくかわえきこう参照さんしょう

近世きんせい以降いこう沿革えんかく[編集へんしゅう]

国内こくない施設しせつ[編集へんしゅう]

すべての座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
ぜん座標ざひょう出力しゅつりょく - KML

国府こくふ[編集へんしゅう]

備前びぜんこくちょうあと岡山おかやまけん岡山おかやま
こくちょうみや

備前びぜん国府こくふは、『和名わみょうしょう』・『ひろえあくたしょう』ではぐん所在しょざいえる。しかし実際じっさいには上道あがりみちぐん上道じょうとうさと所在しょざいられ、岡山おかやまちゅう国府市場こくふいちば付近ふきん想定そうていされる[1]

中枢ちゅうすうとなるくにちょう所在地しょざいちについては、たしかな遺構いこう検出けんしゅつされていないためさだかでない。一説いっせつには国府こくふ市場いちば今在家いまざいけ境界きょうかい国長くにおさみや付近ふきん比定ひていされ[1]同地どうちは「備前びぜんこくちょうあと」として岡山おかやまけん指定してい史跡しせき指定していされている(北緯ほくい3441ふん31.56びょう 東経とうけい13357ふん23.14びょう / 北緯ほくい34.6921000 東経とうけい133.9564278 / 34.6921000; 133.9564278 (備前びぜんこくちょうあと))。一方いっぽう、この「国長くにおさ」は中世ちゅうせいはじまる地名ちめいられることから、近年きんねんではやや東方とうほう国府市場こくふいちば中央ちゅうおう安定あんていほろ高地こうち比定ひていするせつ有力ゆうりょくされる[1]

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら[編集へんしゅう]

神社じんじゃ[編集へんしゅう]

延喜えんぎ式内しきないしゃ

延喜えんぎしきかみめいちょう』には、大社たいしゃ11しゃ小社しょうしゃ2520しゃけい2621しゃ記載きさいされている(「備前びぜんこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ1しゃ以下いかしめすもので、名神めいしん大社たいしゃである。
吉備津きびつ彦神しゃ岡山おかやまけん岡山おかやま

総社そうじゃ一宮いちのみや以下いか

中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』にもとづく一宮いちのみや以下いか一覧いちらん[1]

以上いじょうのほか、石上いしがみぬのたましい神社じんじゃ赤磐あかいわ石上いしがみ)も「全国ぜんこくいちみやかい」に加盟かめいして一宮いちのみや主張しゅちょうする。三宮さんのみや以下いかはない[1]

地域ちいき[編集へんしゅう]

ぐん[編集へんしゅう]

以下いかは、和銅わどう6ねん(713ねん)4がつ3にち美作みさくこくとして分割ぶんかつ

江戸えど時代じだいはん[編集へんしゅう]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

国司こくし[編集へんしゅう]

備前びぜんもり[編集へんしゅう]

備前びぜん権守ごんもり[編集へんしゅう]

備前びぜんかい[編集へんしゅう]

備前びぜんけんかい[編集へんしゅう]

備前びぜんじょう[編集へんしゅう]

備前びぜんけんじょう[編集へんしゅう]

守護しゅご[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら時代ときよ[編集へんしゅう]

室町むろまち時代ときよ[編集へんしゅう]

安土あづち桃山ももやま時代じだい[編集へんしゅう]

国人くにびと[編集へんしゅう]

赤坂あかさかぐん
上道あがりみちぐん
邑久おくぐん
ぐん
  • 松田まつだ - 金川かながわじょう一時いちじ備前びぜん守護しゅごつとめた西部せいぶ有力ゆうりょく大名だいみょう室町むろまち幕府ばくふ奉公ほうこうしゅ
  • 金光かねみつ - 石山いしやまじょう岡山おかやまじょう居城きょじょうとしたのは本来ほんらいこの金光かねみつであった。[2]
  • 税所さいしょ
津高つだかぐん
和気わきぐん
いわなしぐん
児島こじまぐん

戦国せんごく大名だいみょう[編集へんしゅう]

ゆたか大名だいみょう[編集へんしゅう]

武家ぶけ官位かんいとしての備前びぜんもり[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい以前いぜん[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

備前びぜんこく合戦かっせん[編集へんしゅう]

武術ぶじゅつ[編集へんしゅう]

忍術にんじゅつ[編集へんしゅう]

産物さんぶつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 別称べっしょう「備州」は備前びぜんこく備中びっちゅうこく備後びんごこく総称そうしょうとしての呼称こしょう
  2. ^ ただし、設置せっち当初とうしょ領域りょういきはこれよりもひろい。
  3. ^ 吉備きび地域ちいき住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっし地区ちく境界きょうかいについてはしょう
  4. ^ 足守あしもり地域ちいき高松たかまつ地域ちいき
  5. ^ 妹尾せのお地域ちいき

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 中世ちゅうせい諸国しょこく一宮いちのみやせい基礎きそてき研究けんきゅう』(岩田いわた書院しょいん、2000ねん)pp. 466-469。
  2. ^ 絵図えず岡山おかやまじょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]