みなもと

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みなもと

ささ竜胆りんどうささりんどう代表だいひょうてき家紋かもん
かくみなもとによってことなる。
氏姓しせい みなもと朝臣あそん
天皇てんのう皇子おうじ諸王しょおう
宮家みやけ諸王しょおう
種別しゅべつ すめらぎべつ
著名ちょめい人物じんぶつ 宇多うたはじめ:
佐々木ささきみちほまれ
乃木のぎ希典まれすけ
村上むらかみはじめ
みなもととおるおや
北畠きたばたけ親房ちかふさ
岩倉いわくら具視ともみ
清和せいわはじめ
みなもと頼朝よりとも(河内かわうちはじめ)
木曾きそ義仲よしなか(木曾きそはじめ)
源義経みなもとのよしつね(河内かわうちはじめ)
足利尊氏あしかがたかうじ(足利あしかが)
武田たけだ信玄しんげん(武田たけだ)
明智あけち光秀みつひで(土岐とき)
徳川とくがわ家康いえやす(新田にった)(自称じしょう
細川ほそかわまもる(細川ほそかわ)
そのみなもと人物じんぶつ一覧いちらん参照さんしょう
後裔こうえい 嵯峨さがはじめ
村上むらかみはじめ
清和せいわはじめ
花山はなやま源氏げんじ
宇多うたはじめ
正親町おおぎまちはじめ
など

その源氏げんじについては、じゅう一流いちりゅう参照さんしょう
凡例はんれい / Category:

みなもと(みなもとうじ/げんじ)は、日本にっぽん天皇てんのう皇子おうじ皇孫こうそんなかから臣籍しんせき降下こうかし、「みなもと(みなもと)」の本姓ほんせいさづけられた氏族しぞくす。嵯峨天皇さがてんのう以降いこうあらわれた。

せいカバネ)は朝臣あそんみなもと朝臣あそん(みなもとのあそん))。新撰しんせん姓氏せいしろく華族かぞく宗族そうぞく制度せいどにおける分類ぶんるいすめらぎべつ

概説がいせつ[編集へんしゅう]

皇族こうぞく臣籍しんせき降下こうか臣下しんかせきりること)のさいに「みなもと」のたまものせいけたもので、嵯峨天皇さがてんのうからかれた嵯峨さがはじめ清和せいわ天皇てんのうからの清和せいわはじめから、江戸えど時代じだい成立せいりつした正親町おおぎまちはじめいたるまですうひゃく年間ねんかんにかけてじゅういち系統けいとうじゅう一流いちりゅう)があるとされている。文献ぶんけんによってはこのほか淳和じゅんなはじめ淳和天皇じゅんなてんのう子孫しそんみなもとせいあたえられたものなど)が存在そんざいすることを明記めいきしているものもある[1]

おおくの源氏げんじいちだいだいのうちに朝廷ちょうてい高位こういめることはなくなったが、村上むらかみ天皇てんのう子孫しそんである村上むらかみはじめみなもとぼうながれ中院なかのいんりゅう)は上流じょうりゅう貴族きぞく地位ちいつづけ、たてひさななねん政変せいへん摂関せっかんえる権力けんりょくにしたみなもととおるおやや、後醍醐天皇ごだいごてんのうだいいち側近そっきんとして南朝なんちょう指揮しきした北畠きたばたけ親房ちかふさ明治めいじ政府せいふ重鎮じゅうちんとなった岩倉いわくら具視ともみしている。このほか宇多うたはじめ清和せいわはじめ花山はなやま源氏げんじなど一部いちぶ家系かけい堂上どうじょうとして存続そんぞくしている。

また源氏げんじ子孫しそん一部いちぶ受領じゅりょう在庁ざいちょうかんじんとなり、土着どちゃくして武士ぶしした。とく清和せいわはじめ源経基みなもとのつねもとながれ河内かわうちはじめは、鎌倉かまくら幕府ばくふひらいたみなもと頼朝よりともした。さらに、河内かわうちはじめながれを有力ゆうりょく氏族しぞく足利あしかが足利尊氏あしかがたかうじ室町むろまち幕府ばくふひらいたことで、武家ぶけ棟梁とうりょう認識にんしきされるようになった[注釈ちゅうしゃく 1]江戸えど幕府ばくふひらいた徳川とくがわ家康いえやすした三河みかわ松平まつだいらなども河内かわうちはじめ後裔こうえいしょうしている。

代表だいひょうてき家紋かもんである笹竜胆ささりんどう」は日本にっぽん最古さいこ家紋かもんであるとわれている。

せい代表だいひょうてきれいとして、たいら藤原ふじわらたちばなとあわせて「源平げんぺいふじたちばな」(四姓しせい)と総称そうしょうされている。

みなもと歴史れきし[編集へんしゅう]

皇族こうぞくからの臣籍しんせき降下こうか律令りつりょう成立せいりつ以前いぜんから存在そんざいしており、ふるくはおおやけカバネあたえられた諸氏しょしや、天武天皇てんむてんのう時代じだい真人まさとのカバネをあたえられた諸氏しょし奈良なら時代じだいたちばなや、ひかりじん天皇てんのう桓武かんむ天皇てんのう平城ひらじろ天皇てんのう子孫しそんなどが存在そんざいする。

ひろしひとし5ねん814ねん)に嵯峨天皇さがてんのう皇子おうじおんな8にん臣籍しんせき降下こうかし、みなもとせいあたえられたのが最初さいしょ源氏げんじである[2]。これらのたまものせいは、一定いっていとし以降いこうまれた子女しじょのうち、生母せいぼ家格かかくひくいものに一括いっかつしておこなわれた[3]。このたまものせい嵯峨さがみことのりべているように、朝廷ちょうてい歳費さいひ節約せつやく理由りゆうとされるせつ大勢おおぜいめていたが、上級じょうきゅう貴族きぞくとして皇室こうしつはんへいとすることが目的もくてきであるというせつもある[4]。しかし一部いちぶ氏族しぞくのぞいては没落ぼつらくしていくれいおおく、藩屏はんぺいとしての役割やくわり十分じゅうぶんたせるものではなかった[5]

みなもと」は皇室こうしつ源流げんりゅう)をおなじくするという意味いみであり、元々もともと中国ちゅうごくえびすじゅうろくこく時代じだいみなみすずかおう禿かぶろかみやぶ羌が、みなみすずか滅亡めつぼうきたたかしつかえたさいふとしたけみかどから禿かぶろかみつぶせばつきたたかし帝室ていしつせい)はみなもとおなじであるとしてみなもとせいあたえられ、みなもと名乗なのったことに由来ゆらいする[6]ほかにも、「みなもと」は「水元みずもと」であるというせつもある。たとえば、『和訓わくんしおり』(谷川たにがわきよし)では「みなもと、みなもとをよめり。水元みずもとなり」とある。また、『神代かみしろまき藻塩草もしおぐさ』(玉木たまき正英まさひで)では「みなもとくんすい元也もとなり」とある。

嵯峨天皇さがてんのうのち天皇てんのう度々たびたび皇族こうぞく源氏げんじとして臣籍しんせきくだしたことから、それぞれのとする天皇てんのうごとに集団しゅうだん形成けいせいし、けるようになった。これらの集団しゅうだん年号ねんごうにより「ひろしひとし嵯峨天皇さがてんのう)」、「延喜えんぎ醍醐天皇だいごてんのう)」などとばれる[7][8]。それぞれのあお天皇てんのうごうをもって嵯峨さがはじめ仁明にんみょうはじめ文徳ふみのり源氏げんじ清和せいわはじめ宇多うたはじめなどともばれるが、これはどう時代じだいてき使用しようされたことはなく、『国史こくし大系たいけい』の編纂へんさんにあたって使用しようされたのが最初さいしょである[8]

みなもとたまものせい開始かいしされて以降いこう仁明にんみょう文徳ふみのり光孝みつたか子孫しそんにはたいらたまものせいけた皇族こうぞくもおり、清和せいわ天皇てんのう時代じだいにはべつたまものせいおこなわれたが、みなもと氏姓しせいけたものはせいよりかくじょうとされた。そのたいらやそのたまものせい途絶とだえ、あらたにたまものせいされるさいには源氏げんじばかりとなった。源氏げんじなかもっとたか官位かんいつものは源氏げんじ長者ちょうじゃばれ、奨学しょうがくいん淳和じゅんないん別当べっとうね、あたえる権限けんげんっていた。村上むらかみはじめぼうりゅう繁栄はんえいすると、以降いこう嫡流ちゃくりゅうである久我くががほぼ独占どくせんするにいたったが、足利あしかが義満よしみつ源氏げんじ長者ちょうじゃとなって以降いこう現職げんしょく征夷大将軍せいいたいしょうぐんくことがおおくなり、江戸えど時代じだいにはほとんど将軍しょうぐん独占どくせん状態じょうたいとなった。

平安へいあん後期こうき以降いこう皇位こうい継承けいしょうとはかかわりのない皇子おうじ皇女おうじょたちは出家しゅっけする慣例かんれいまれたため、たまものせい源氏げんじはほとんど途絶とだえていた。江戸えど時代じだいはいって一家いっかまれた(広幡ひろはた)が、それを最後さいご源氏げんじたまものあずか途絶とだえた。明治めいじ時代じだいになると本姓ほんせいしょうすることが停止ていしされたため、みなもと存在そんざい認識にんしきされることはすくなくなった。みなもとせい本姓ほんせい源氏げんじ)の家系かけいはそれぞれべつ苗字みょうじごうしているため、現在げんざいみなもと」を「苗字みょうじ」として名乗なのれいおおくなく、推定すいてい人口じんこうは4,000にんほどである。

源氏げんじたまものせい実態じったい[編集へんしゅう]

天皇てんのう皇子おうじ降下こうかすることを、「一世いっせい源氏げんじ」といい、時服じふく月俸げっぽうはつじょうえ優遇ゆうぐうされた[3]一方いっぽう皇孫こうそんいたって臣籍しんせき降下こうかすることは「せい源氏げんじ」という。嵯峨天皇さがてんのうであるみなもとじょうみなもととおる仁明天皇にんみょうてんのうであるみなもとひやちち天皇てんのう意向いこう親王しんのうれいじゅんじて内裏だいりにおいて元服げんぷくおこなっており、親王しんのうじゅんじた待遇たいぐうけた。その陽成ようぜい天皇てんのう退位たいい後継こうけい選定せんてい藤原基経ふじわらのもとつねみなもととおる退しりぞけて光孝みつたか天皇てんのう即位そくいさせたさいには、すでに臣籍しんせき降下こうかしていたきゅうただしさだらがあらためてたまものせいけ、一世いっせい源氏げんじあつかいをけている[3]

光孝みつたか天皇てんのう崩御ほうぎょするとそのもとけい臣籍しんせき降下こうかしたみなもとじょうしょう復籍ふくせきさせて宇多天皇うだてんのうとして即位そくいさせるなど、おな天皇てんのうでも親王しんのう一世いっせい源氏げんじ区別くべつ明確めいかくせまられる事態じたい発生はっせいし、宇多天皇うだてんのう以降いこう儀式ぎしきしょでは親王しんのう元服げんぷく一世いっせい源氏げんじ元服げんぷくではことなる作法さほうしるされるようになる。しかし、その規模きぼちいさくしながらも内裏だいり元服げんぷくおこない、内蔵ないぞうりょうから饗宴きょうえん引出物ひきでもの用意よういされた醍醐天皇だいごてんのうであるみなもと高明こうめいみなもと兼明かねあきら元服げんぷくなどいちせいみなもと特殊とくしゅせい完全かんぜん排除はいじょされることはなかった(内蔵ないぞうりょう天皇てんのう私的してき支出ししゅつあつかかんであり、一世いっせい源氏げんじ元服げんぷく公的こうてき行事ぎょうじから天皇てんのう主催しゅさい私的してき行事ぎょうじえることで特殊とくしゅせい維持いじしたとみられる)。『源氏物語げんじものがたり』において、きりつぼみかどいちせいみなもとである光源氏ひかるげんじ元服げんぷくみずか主導しゅどうして、引出物ひきでものみずか準備じゅんびしている(費用ひようきりつぼみかど負担ふたんかんがえられる)のも、一世いっせい源氏げんじ特殊とくしゅせいえがかれた場面ばめんえる[9]。しかし后妃こうひ摂家せっけ出身しゅっしんであることが重視じゅうしされるようになると、皇子おうじおんな絶対ぜったいすう減少げんしょうし、母親ははおや身分みぶんたかいことで臣籍しんせき降下こうかする皇族こうぞく減少げんしょうしていく[3]村上むらかみ天皇てんのう以降いこう一世いっせい皇子おうじおんなたまものせいけることもなくなった[3]

すめらぎおやとしてたか地位ちいったみなもとでも、一部いちぶ家系かけいをのぞいてはその地位ちい子孫しそんつたえることはむずかしかった。天皇てんのうだいかさねていくにしたがい、父祖ふそだいみなもととは血縁けつえんはなれていくため、天皇てんのうの「ミウチ」としての関係かんけいうすれていくのがつねであった[10]。さらに臣籍しんせき降下こうかしたみなもとたちのはは身分みぶんひくいことも権勢けんせい維持いじするじょうでは致命ちめいてきであった[11]。3代目だいめ以降いこう上級じょうきゅう貴族きぞくでありつづけたれいすくなく、中央ちゅうおう下級かきゅう貴族きぞくとして細々こまごまびるか、受領じゅりょう階級かいきゅうとして地方ちほう赴任ふにんしそこで土着どちゃくして武士ぶしするか、完全かんぜん没落ぼつらくするかしかなかった[10]

公家くげ源氏げんじ[編集へんしゅう]

中央ちゅうおう貴族きぞくとしてさかえた源氏げんじとしては村上むらかみ天皇てんのう皇子おうじとするみなもとぼう中院なかのいんりゅうりゅうられる。ぼう具平親王ともひらしんのうであり、「せい源氏げんじ」であったが藤原ふじわら頼通よりみち養子ようしとなったことがあり、さらに藤原ふじわら道長みちなが家系かけい重層じゅうそうてき縁戚えんせき関係かんけいきずいたことで「御堂みどう末葉まつよう」、すなわち摂関せっかん御堂みどうりゅう)にじゅんずる家格かかく認識にんしきされるようになった[12]嫡流ちゃくりゅう久我くが清華せいかのひとつとして江戸えど時代じだいまで上流じょうりゅう貴族きぞく地位ちいつづけ、分家ぶんけ中院なかのいん大臣だいじん家格かかく保持ほじした。一門いちもん堂上どうじょうからはたてひさななねん政変せいへん権力けんりょく掌握しょうあくし「みなもとひろしりく」とばれたみなもととおるおやや、後醍醐天皇ごだいごてんのうだいいち側近そっきんとして南朝なんちょう指揮しきした北畠きたばたけ親房ちかふさ明治めいじ政府せいふ重鎮じゅうちんとなった岩倉いわくら具視ともみ輩出はいしゅつしている。また江戸えど時代じだい成立せいりつした清華せいか広幡ひろはたは、2代目だいめこうはたゆたかただし久我くがからむかえている。

このほか宇多うたはじめ清和せいわはじめ花山はなやま源氏げんじなど一部いちぶ家系かけい堂上どうじょうとして存続そんぞくしているが、いずれのいえ羽林はばやし半家はげひら堂上どうじょうであった。

堂上どうじょう源氏げんじ[編集へんしゅう]

明治めいじ時代じだいまで存続そんぞくした、みなもと堂上どうじょう一覧いちらん

武家ぶけ源氏げんじ[編集へんしゅう]

1183ねん時点じてん勢力せいりょくけん。ただしこのように明確めいかくかれていたわけではく、源氏げんじ同士どうしたいら同士どうしでも相克そうこく戦闘せんとうがあった。

みなもと後裔こうえいのうち、受領じゅりょう在庁ざいちょうかんじんとして土着どちゃくし、武士ぶしだん形成けいせいしたものは武家ぶけ源氏げんじばれる。とく清和せいわはじめはその代表だいひょうかくであり、源平げんぺい合戦かっせんなど、清和せいわはじめをしてみなもとしょうすることがおおい。源経基みなもとのつねもとてんけいらん鎮圧ちんあつこうげ、その源満仲みなもとのみつなか鎮守ちんじゅ将軍しょうぐんとなり、その後裔こうえい摂津せっつ源氏げんじ大和やまとはじめ河内かわうちはじめとにかれた。河内かわうちこく本拠地ほんきょちとした河内かわうちはじめ源義家みなもとのよしいえ八幡やはた太郎たろう)を輩出はいしゅつし、摂関せっかん家人かじんとして中央ちゅうおうとの関係かんけいきずき、受領じゅりょうにもにんじられる武家ぶけ貴族きぞくとなった。1180ねんうけたまわ寿ことぶきひさしらん源平げんぺい合戦かっせん)がこり、河内かわうちはじめ棟梁とうりょうであったみなもと頼朝よりともは5ねんほどかけてたいらほろぼし東日本ひがしにっぽん征服せいふくするにいたった。1192ねん征夷大将軍せいいたいしょうぐんにんじられ鎌倉かまくら最初さいしょ幕府ばくふ鎌倉かまくら幕府ばくふ)をひらいた。[13]以降いこう河内かわうちはじめは「武家ぶけ棟梁とうりょう」としてとらえられ、河内かわうちはじめからは石川いしかわはじめ石川いしかわ)、甲斐かいはじめ武田たけだ)、常陸ひたちはじめ佐竹さたけ)、下野しものはじめ足利あしかが)、上野うえのはじめ新田にった)などが分派ぶんぱしている。摂津せっつこく本拠地ほんきょちとした摂津せっつ源氏げんじからは多田ただはじめ美濃みのはじめその分派ぶんぱしている。足利あしかが室町むろまち幕府ばくふひらき、その一族いちぞくである細川ほそかわ畠山はたけやま山名やまななどはおおきな勢力せいりょくほこった。戦国せんごく時代じだいには足利あしかが支流しりゅう家系かけいはほとんど衰退すいたいしたものの、清和せいわはじめ新田しんでんりゅうしょうする徳川とくがわ江戸えど幕府ばくふひらき、島津しまつ細川ほそかわ佐竹さたけなどはだい大名だいみょうとして存続そんぞくした。

嵯峨さがはじめみなもととおるとする「とおるりゅう嵯峨さがはじめ」は、摂津せっつこく基盤きばんとした渡辺わたなべとその分流ぶんりゅう松浦まつうらなどを輩出はいしゅつした。また、宇多うたはじめなか武家ぶけとして近江おうみこく基盤きばんとした系統けいとう近江おうみはじめ佐々木ささき)としょうされ、佐々木ささきみちほまれ室町むろまち幕府ばくふ重臣じゅうしんとなったこともあり、六角ろっかく京極きょうごく守護しゅごとして勢力せいりょくきずいた。

みなもと一覧いちらん[編集へんしゅう]

嵯峨さがはじめ[編集へんしゅう]

52だい嵯峨天皇さがてんのう子孫しそんひろしひとしのち[14]詳細しょうさいは「嵯峨さがはじめ」を参照さんしょう

このうち源信みなもとのまことみなもとつねみなもととおる左大臣さだいじんとなり、平安へいあん時代じだい初期しょき朝廷ちょうてい一大いちだい勢力せいりょくをなした。また、みなもととおる系統けいとう地方ちほう土着どちゃくとして武家ぶけとなった。またみなもときよしひめ藤原ふじわらりょうぼうとつぎ、天皇てんのうむすめ摂関せっかんとつ先例せんれいとなった。

氏族しぞく渡辺わたなべ松浦まつうら蒲池かまちなど

仁明にんみょうはじめ[編集へんしゅう]

54だい仁明天皇にんみょうてんのう子孫しそんうけたまわのち[14]

仁明天皇にんみょうてんのうみなもとみなもとひかり右大臣うだいじんとなった。また、源光げんこう子孫しそんに、清和せいわはじめ源満仲みなもとのみつなかつまちちであり、嵯峨さがはじめみなもとつな渡辺わたなべつな)の養父ようふであるみなもとあつしがいた。ひとやすし親王しんのうもとやすし親王しんのう子息しそくすうにんみなもととなっているが、もとやすし親王しんのう子息しそくにはたいらとなったものもいる(仁明にんみょうたいら[15][16][17]

文徳ふみのり源氏げんじ[編集へんしゅう]

55だい文徳ふみのり天皇てんのう子孫しそんてんやすのち[14]詳細しょうさいは「文徳ふみのり源氏げんじ」を参照さんしょう

みなもとのうゆう右大臣うだいじんとなった。

氏族しぞく坂戸さかど

清和せいわはじめ[編集へんしゅう]

56だい清和せいわ天皇てんのう子孫しそんさだかんのち[14]詳細しょうさいは「清和せいわはじめ」を参照さんしょう

中央ちゅうおうでは光孝みつたか天皇てんのうへの皇統こうとう移行いこうにより、勢力せいりょくひろげることは出来できなかった。しかしだいろく皇子おうじさだじゅん親王しんのうろくまごおうけいもと系統けいとう武家ぶけとしてさかえ、まんなか長男ちょうなん頼光よりみつは、多田ただ神野かみの、そして、よんなん河内かわうちはじめみなもと頼信よりのぶみなもと頼義よりちか源義家みなもとのよしいえ武家ぶけ棟梁とうりょうとなり、その子孫しそんから鎌倉かまくら将軍家しょうぐんけ輩出はいしゅつしたことから武家ぶけ棟梁とうりょう家柄いえがらとされ、室町むろまち幕府ばくふおこした足利あしかがはじめとして、新田にった木曾きそ武田たけだ佐竹さたけ細川ほそかわ今川いまがわ土岐とき明智あけち浅野あさの南部なんぶ宍戸ししどなど多数たすう武家ぶけ清和せいわはじめ子孫しそんしょうした。また、徳川とくがわ島津しまつなど本来ほんらい清和せいわはじめではない一族いちぞく源氏げんじかりおかしたれいもある。

堂上どうじょう公家くげ竹内たけうち半家はげ)は、河内かわうちはじめ傍流ぼうりゅう源義光みなもとのよしみつだい4平賀ひらが盛義もりよし系統けいとうである[18]


陽成ようぜい源氏げんじ[編集へんしゅう]

57だい陽成ようぜい天皇てんのう子孫しそんもとけいのち[14]

清和せいわはじめとされる源経基みなもとのつねもと陽成ようぜい天皇てんのうまごとするせつがあり、このせつ賛意さんいしめ学者がくしゃもいるが、ひろ学界がっかい承認しょうにんするまでにはいたっていない(「さだじゅん親王しんのう」を参照さんしょう)。

光孝みつたか源氏げんじ[編集へんしゅう]

58だい光孝みつたか天皇てんのう子孫しそん[19]仁和にわのち[14]光孝みつたか天皇てんのう藤原基経ふじわらのもとつね後援こうえんけて即位そくいしたさいときおうとして内親王ないしんのう宣下せんげされていた皇女おうじょのぞすべての子女しじょ源氏げんじたまものせいした[3]。このうちみなもとじょうしょうとそのげん維城は皇族こうぞく復帰ふっきし、宇多天皇うだてんのう醍醐天皇だいごてんのうとして即位そくいしている[3]

だいいち皇子おうじであるちゅう親王しんのう曾孫そうそんかんしょう仏師ぶっしとなり、この系統けいとうから仏工ぶっこうかく流派りゅうは輩出はいしゅつした。(ななじょうふつしょ

宇多うたはじめ[編集へんしゅう]

59だい宇多天皇うだてんのう子孫しそん寛平かんぺいのち[14]

だいはち皇子おうじであるあつしじつ親王しんのうみなもと雅信まさのぶみなもと重信しげのぶ兄弟きょうだいはいずれも左大臣さだいじんとなった。みなもと重信しげのぶ子孫しそんじゅう世紀せいきはじめまで公卿くぎょう輩出はいしゅつした。みなもと雅信まさのぶ子孫しそんからもおおくの公卿くぎょう輩出はいしゅつし、鎌倉かまくら時代じだい以降いこう庭田にわた綾小路あやのこうじひとしかれ、明治維新めいじいしんいたるまで堂上どうじょうとしての地位ちいたもち、さかえた。

堂上どうじょう公家くげ庭田にわた羽林はばやし)、綾小路あやのこうじ羽林はばやし)、五辻いつつじ半家はげ)、大原おおはら羽林はばやし)、慈光寺じこうじ半家はげ

氏族しぞく佐々木ささき出雲いずもはじめなど諸氏しょし

醍醐だいごはじめ[編集へんしゅう]

60だい醍醐天皇だいごてんのう子孫しそん延喜えんぎのち[14]詳細しょうさいは「醍醐だいごはじめ」を参照さんしょう

だいじゅう皇子おうじみなもと高明こうめい左大臣さだいじんとなったがのち安和あわへんにて失脚しっきゃくした。高明こうめい異母いぼ兄弟きょうだいであるみなもと兼明かねあきら左大臣さだいじんのぼったがのち親王しんのう復帰ふっきさせられることで政治せいじ中枢ちゅうすうからわれた。高明こうめい三男さんなんみなもとしゅんけんけん大納言だいなごん四男よつおみなもとけいぼうけん中納言ちゅうなごんのぼり、しゅんけん子孫しそんからもみなもとたかしこくしゅんけん二男じなんけん大納言だいなごん)やみなもと俊明としあきたかしこくさんなん大納言だいなごん)をはじめおおくの公卿くぎょう輩出はいしゅつし、院政いんせいまでさかえた。 だいいち皇子おうじ克明こくめい親王しんのうには管弦かんげん名手めいしゅとして有名ゆうめいみなもと博雅ひろまさがいる。

氏族しぞく岡本おかもとかわしり

村上むらかみはじめ[編集へんしゅう]

62だい村上むらかみ天皇てんのう子孫しそんてんれきのち[14]詳細しょうさいは「村上むらかみはじめ」を参照さんしょう

だいなな皇子おうじ具平親王ともひらしんのう藤原ふじわら頼通よりみち猶子ゆうしとなった右大臣うだいじんみなもとぼう子孫しそん多数たすう公卿くぎょう輩出はいしゅつし、さかえた。ぼうみなもとしゅんぼうみなもと顕房あきふさ兄弟きょうだいはそれぞれ左大臣さだいじん右大臣うだいじんのぼった。しゅんぼうりゅう院政いんせいまでは公卿くぎょうしたが、以後いご没落ぼつらくした。顕房あきふさ嫡男ちゃくなんみなもと雅実まさみ源氏げんじはつ太政大臣だじょうだいじんとなり、その子孫しそんすうおおくの大臣だいじん輩出はいしゅつして村上むらかみはじめ嫡流ちゃくりゅうとなり、こと平安へいあん時代じだい末期まっきみなもととおるおや著名ちょめいである。室町むろまち時代ときよ足利あしかが将軍家しょうぐんけうばわれるまで源氏げんじ長者ちょうじゃ村上むらかみはじめ独占どくせんした。雅実まさみりゅうからは清華せいかひとつである久我くがをはじめ多数たすう堂上どうじょう分立ぶんりつし、明治維新めいじいしんいたるまで堂上どうじょう公家くげとしての地位ちいたもった。

堂上どうじょう公家くげ久我くが清華せいか)、中院なかのいん大臣だいじん)、ろくじょう羽林はばやし)、岩倉いわくら羽林はばやし)、千種ちくさ羽林はばやし)、久世くぜ羽林はばやし)、ひがし久世くせ羽林はばやし)、梅渓ばいけい羽林はばやし)、愛宕あたご羽林はばやし)、植松うえまつ羽林はばやし氏族しぞく北畠きたばたけなど

冷泉れいせん源氏げんじ[編集へんしゅう]

63だい冷泉れいせん天皇てんのう子孫しそん安和やすかずのち[14]

源氏げんじじゅう一流いちりゅうふくまれるが尊卑そんぴ分脈ぶんみゃくには冷泉れいせん源氏げんじ人物じんぶつ記載きさいされていない。冷泉れいせん天皇てんのうである花山はなやま天皇てんのうだいろく皇子おうじ清仁きよひと親王しんのう冷泉れいせん天皇てんのう養子ようしとなり、男子だんしのべしんおうたまものせいされて成立せいりつしたが、そのかんおうおうふくして以降いこう花山はなやま天皇てんのうの裔としてのあつかいをけた[20]

花山はなやま源氏げんじ[編集へんしゅう]

65だい花山はなやま天皇てんのう子孫しそん寛和ひろかずのち[14]

堂上どうじょう公家くげ白川しらかわはく王家おうけ半家はげ) - 神祇じんぎはく世襲せしゅうして神道しんとう統括とうかつ1961ねん絶家ぜっけ

三条さんじょうはじめ[編集へんしゅう]

67だい三条さんじょう天皇てんのうだいいち皇子おうじあつしあきら親王しんのう子孫しそん長和おさわのち[14]あつしあかりだい1王子おうじあつしさだ親王しんのう宗家そうけ系統けいとうだい4王子おうじもとひらた系統けいとうと、しんむね顕宗けんそうとうむね系統けいとうがある[21]

あつしさだ親王しんのうまごみなもととおる一旦いったんみなもと氏姓しせいけたが、おうふくしたのち世襲せしゅう王家おうけとなり、正親おうぎせい世襲せしゅうした[22]

後三条ごさんじょう源氏げんじ[編集へんしゅう]

71だい後三条ごさんじょう天皇てんのう子孫しそん延久のべひさのち[14]後三条ごさんじょうだいさん皇子おうじ輔仁親王しんのうであるみなもとゆうひとし元永もとなが2ねん1129ねん)にたまものせいされた[23]ゆうじん左大臣さだいじんまでのぼったが、子女しじょはなく、いえ断絶だんぜつした。『源平げんぺい盛衰せいすい』では、みなもと頼朝よりとも家臣かしん平家ひらか物語ものがたりにも登場とうじょうする田代たしろ信綱のぶつなゆうじんまごとしているが信憑しんぴょうせいひく[24]

こう白河しらかわはじめ[編集へんしゅう]

77だい後白河天皇ごしらかわてんのうだい皇子おうじ以仁王もちひとおう以仁王もちひとおう親王しんのう宣下せんげがなされず、ついにうけたまわ4ねん1180ねん)、さいかち親王しんのう名乗なの安徳天皇あんとくてんのうたいら政権せいけん排除はいじょとなえて源頼政みなもとのよりまさとともに挙兵きょへいした。そのさいこう白河しらかわいんからすめらぎせき剥奪はくだつされてを「みなもと以光」とあらためられ、土佐とさこくへの流罪るざい沙汰さたくだった。しかし追討ついとうぐんたれ、はいした(以仁王もちひとおう挙兵きょへい[25]

順徳じゅんとくはじめ[編集へんしゅう]

84だい順徳天皇じゅんとくてんのうだい皇子おうじちゅうなりおう子孫しそんと、だいろく皇子おうじぜんすべ親王しんのう子孫しそん該当がいとうする。

ちゅうなりおう彦仁子孫しそんえいひとし2ねん1294ねん)にみなもと氏姓しせいけた[26]ちゅうぼうけん中納言ちゅうなごんまご彦良参議さんぎのぼっている[26]

ぜんすべ親王しんのう子孫しそん四辻よつつじみやしょうしていたが、ぜんすべ親王しんのうまご善成よしなり文和ふみかず5ねん1356ねん)にみなもと氏姓しせいけ、四辻よつつじ家名かめいとした[27]血縁けつえんがある足利あしかが義満よしみつ応援おうえんけて左大臣さだいじんのぼったが、ただ一人ひとり男子だんし出家しゅっけし、以後いご途絶とだえている[27]

こう嵯峨さがはじめ[編集へんしゅう]

88だいこう嵯峨天皇さがてんのう子孫しそん

ぶんなが3ねん1266ねん)、こう嵯峨天皇さがてんのうだい皇子おうじ宗尊親王むねかたしんのうだい6だい鎌倉かまくら将軍しょうぐん退しりぞいたのち、その長男ちょうなんで7だい将軍しょうぐん就任しゅうにんしたおもんみやすしおうたいし、みなもとせいたまものあずかされて「みなもとおもんみやすし」となった[28]。しかし弘安ひろやす10ねん1287ねん)、鎌倉かまくら幕府ばくふおもんみやすしきょう追放ついほうし、わりに久明ひさあき親王しんのう将軍しょうぐんむかえるため、そのした準備じゅんびとして幕府ばくふ要請ようせいにより朝廷ちょうていよりおもんみやすしたいして親王しんのう宣下せんげがなされ、おもんみやすし皇族こうぞく復帰ふっきした[28]。また宗尊親王むねかたしんのうまごにあたるそうおさむ後醍醐天皇ごだいごてんのう猶子ゆうしとなってみなもとせいたまものあずかされている[29]

こう深草ふかくさはじめ[編集へんしゅう]

89だい後深草天皇ごふかくさてんのう皇子おうじで、鎌倉かまくら幕府ばくふ8だい将軍しょうぐんとなった久明ひさあき親王しんのう子孫しそん

久明ひさあき親王しんのうまもりくに親王しんのう(9だい将軍しょうぐん)・久良ひさよし親王しんのうみなもとせいたまものあずかされたとされる[注釈ちゅうしゃく 2]が、信憑しんぴょうせいひく[30]。また、久良ひさよし親王しんのうそうあきらこよみおう元年がんねん1338ねん)にみなもと氏姓しせいけ、けん大納言だいなごんのぼった[30]

後醍醐ごだいごはじめ[編集へんしゅう]

96だい後醍醐天皇ごだいごてんのう子孫しそん至徳しとく3ねん1386ねん)に宗良親王むねながしんのういんりょう親王しんのうみなもと氏姓しせいけたとされる。しかし『浪合なみあい』『信濃しなのみやでん』といった軍記ぐんきぶつにあるのみで、いんりょう親王しんのう実在じつざいせいふくめて信憑しんぴょうせいひく[31]

正親町おおぎまちはじめ[編集へんしゅう]

106だい正親町おおぎまち天皇てんのう子孫しそん正親町おおぎまち天皇てんのうまごはちじょうみや智仁ともひと親王しんのうである忠幸ただゆきおうは、尾張おわりはんあるじ徳川とくがわ義直よしなお猶子ゆうしとなって尾張おわりこくかったが、その京都きょうと復帰ふっきすることをねがた。寛文ひろふみ3ねん(1663ねん)にみなもと氏姓しせいけた[32]清華せいか家格かかくをもつ広幡ひろはたはじまりであり、忠幸ただゆきのあとは久我くがからの養子ようしいだ[32]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 軍記物語ぐんきものがたり太平たいへい』(1370ねんごろ完成かんせい)では、14世紀せいき前半ぜんはんからなかばに活躍かつやくした武将ぶしょう足利尊氏あしかがたかうじ新田にった義貞よしさだが、おのれを「みなもと嫡流ちゃくりゅう」と自覚じかくして行動こうどうしているという物語ものがたりになっている。しかし、21世紀せいき初頭しょとう研究けんきゅうでは、これは室町むろまち幕府ばくふ安定あんていしたのち過去かこ遡及そきゅうして出来でき認識にんしきであり、尊氏たかうじ義貞よしさだ自身じしんにはみなもと嫡流ちゃくりゅう武家ぶけ棟梁とうりょうという意識いしきすくなくとも幕府ばくふ成立せいりつ直後ちょくごにはなかったとかんがえられている(足利尊氏あしかがたかうじ#おけぶん伝説でんせつなども参照さんしょう)。
  2. ^ まもりくに親王しんのうは『尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく』、久明ひさあき親王しんのうは『本朝ほんちょうすめらぎたね紹運ろく』にみなもとせいたまものあずかされたとの記載きさいがある。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ 8』330-331ぺーじ、「源氏げんじ」の項目こうもくより。
  2. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 12-13.
  3. ^ a b c d e f g 中村なかむらみどり 2015, p. 61.
  4. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 12-15.
  5. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 14-15.
  6. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 21.
  7. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 16-21.
  8. ^ a b 赤坂あかさか恒明つねあき 2015, p. 268-267.
  9. ^ 江渡えと俊裕としひろ一世いっせい源氏げんじ元服げんぷくかんする試論しろん小口おぐち雅史まさし へん律令制りつりょうせい日本にっぽん古代こだい国家こっか』(どうなりしゃ、2018ねんISBN 978-4-88621-804-9
  10. ^ a b 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 15.
  11. ^ 中村なかむらみどり 2015, p. 74.
  12. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 124-132.
  13. ^ Sansom, George (1958). A History of Japan to 1334. Stanford University Press. pp. 241–242, 247–252. ISBN 0804705232 
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m 赤坂あかさか恒明つねあき 2015, p. 267.
  15. ^ 太田おおた 1923, p. 57.
  16. ^ はなわ & 川俣かわまた 1930, p. 419.
  17. ^ 太田おおた 1936, p. 4550.
  18. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 248-249.
  19. ^ 太田おおた 1934, p. 2233.
  20. ^ 赤坂あかさか恒明つねあき 2015, p. 259.
  21. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 121-123.
  22. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 123.
  23. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 201-202.
  24. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 202-203.
  25. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 205-206.
  26. ^ a b 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 207.
  27. ^ a b 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 208.
  28. ^ a b 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 208-209.
  29. ^ デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus『みなもと宗治むねはる』 - コトバンク
  30. ^ a b 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 209-210.
  31. ^ 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 210-211.
  32. ^ a b 倉本くらもと一宏かずひろ 2019, p. 212.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]