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太平御覽 : 逸民部五 - Chinese Text Project
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逸民いつみん

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1 逸民いつみん:
しょうあらわひとししょ》曰:褚伯だまもと璩,くれぐん錢塘ぜんどもじん也。としじゅうはちちち為之ためゆきこんにゅう前門ぜんもんはくだましたがえきさき門出かどでとげ往剡,きょ瀑布ばくふさん時人じじんおうなかざいやまさんじゅうねん隔絕かくぜつ人物じんぶつおうそうたちためくれぐんれい致之,はくだまとくやめとまこおりしん宿やどさい交數げん而退。やすしさく將軍しょうぐんおかちんまごあずかそうたちしょ曰:「聞褚先生せんせいかん,此子めつかげうん棲,こと王侯おうこうこう高木たかぎしょくゆうねん矣。折節おりふしこうけんなに以致もち其還さくこれにち,蹔紆きよしちりまたすなおじょためくつわせつ。」こたえ曰:「褚先生せんせいしたがえ白雲しらくもゆうきゅう矣。此子索然さくぜんおもんみとも松石まついしかい于孤ほうぜっみねしゃせきすうじゅうきんよう其來此,冀慰日夜にちやだん討芝かつらおとずれ荔蘿。わかおのれ窺煙臨滄しゅう矣,ともくんよくこれ,輒當さるたとえ。」ふとし即位そくいみことのりくれかい二郡以禮迎遣,またやましうえよくたがえ其志,敕於剡白せき山立やまだち太平たいへいかんきょ
また曰:あきらそう紹字うけたまわれつ平原ひらはら鬲人也。かくれ長廣ながひろぐん嶗山,みことのりせいため正員せいいん外郎ういろうしょうやまし就。其後あずかちぇおもえしょ曰:「しょくしゅうあわ而食しゅうぜんまいふるなお發議はつぎざいいまやすしとくいきだん耶?」そう紹弟けいためあおしゅう刺史ししやめにんそう紹隨かえり住江すみえじょうやまふとしいいけい曰:「きょうけい高尚こうしょう其事,また堯之がいしんちん雖不しょうせっゆうどおりゆめ。」乃遺そうちく如意にょい

2 逸民いつみん:
みなみ》曰:かく希林きりんたけ昌人まさと也。曾祖そうそこぼしすすむだかなおつかまつ希林きりんしょうもり家業かぎょうせい召一しょ就。そつこうむまた隱居いんきょつかまつ
また曰:からしひろしあきらぶんたちしょう就關康之やすゆき受業じゅぎょういたりせいひときょひんあずかあにどもしょいちちょうあにほろび,仍帳ほどこせれい甚多,つうゆうとく,而終みちおかせ螫。僑居かい稽,かい稽士だか其行,とうそうけいみな送金そうきんためおくきさきいたりしゃふく肯受,にんとい其故,とう曰:「ほん以兄しゅうぎゃく親友しんゆうこんじつ以足,あに亡者もうじゃあまりおく耶?」
また曰:もりきょうさんけいひとしくれぐん錢塘ぜんどもじん也。ちちどうきくしゅう從事じゅうじぜんだん棋。きょうさんしょう恬靜,閑意さかえ宦,頗涉文義ふみよし專修せんしゅうろうかい稽孔顗清つよしゆうたかしぶし一見いっけん而為交。ぐんいのちぬし簿しゅう從事じゅうじみなしょうやましあずかどうぐん顧歡どうちぎりはじめやすし東山ひがしやまひらきしゃ受學。ひとしけんもとちゅうたけりょうおう曄為かい稽,ひとしこうみかど儒士りゅう瓛入ひがしため曄講,瓛故往與ゆう,曰:「杜生もりお當今とうこんこれだい尚也なおや。」えいあきらじゅうねんあな珪、りくきよし、沈約ひょうこもきょうさんせいためたてまつあさ請,いたり,於會稽聚教授きょうじゅたてたけしはつせい員外いんがいさむらいろうきょうさん曰:「そうせいつりあにためしろ璧所かい?」やまし就。
また曰:あなどう徽,かい山陰さんいんじんまもりこころざしぎょうつかまつあずかもりきょうさんともぜんみち徽父ゆういたりぎょうどおりしんかくれ於四明山めいさん,嘗見谷中やなか有數ゆうすうひゃく斛錢,如瓦せき太守たいしゅおうそうけんあずかちょういとぐちしょ曰:「あなゆうたかしかん曾孫そうそん也,行動こうどうかそけ祗,とくしめぎまつかつら,引為ぬし簿とげ不可ふかこごめ,此古遺德いとく也。」みち徽少厲高ぎょうのう其家ふう隱居いんきょ南山なんざん終身しゅうしん都邑とゆうあきらおう嶷為あげしゅう,辟西曹書いたり鄉里ごうりはじめ慕之。
また曰:臧榮いとぐちきょうふとい莒人也。しょう,躬自灌園,以供祭祀さいしはは,掃灑堂宇どううおけむしろせきさくのぞむ輒拜こも焉。あまめずらし嘗先しょくじゅんあつし好學こうがくくく東西とうざいすすむためいちしょろくこころざしつていちひゃくいちじゅうかん隱居いんきょ京口きょうぐち教授きょうじゅひとしこうみかどためあげしゅう刺史ししせいさかえいとぐちためぬし簿いたけんもとちゅうつかさ褚彥かいけいだかみかどしょうじゅつ其美,以置かくさかえいとぐちいいじん曰:「むかしりょなおたてまつしょたけおう致齋くだくらいしゃく教誡きょうかい,并有れい敬之たかゆき。」いん甄明いたりどう,乃著《はい五經ごきょう序論じょろん》,つね以宣あまかのえ子日ねのひせい,其日ひね五經ごきょうはいごう披褐先生せんせいまた以飲酒亂しゅらんとくげんつねため誡。えいあきらろくねんそつはつさかえいとぐちあずかせき康之やすゆき俱隱在京ざいきょうこうごうためかくれ
また曰:つと天蓋てんがい,濮陽鄄城じん也。儒學じゅがくぜんさんれい》及《ろう》、《そう》。そうやすしはじめちゅうこう聚徒教學きょうがくかんむりかずらはば,蔬食じゅうねんあずかりゅう瓛俱於褚彥回たくこう授。ひとし隆昌りゅうしょう元年がんねんせいためたいがく博士はかせ就。はじめ安王やすおうはるかひかり及江ゆうじょ孝嗣たかしきょうためりつかん於鍾山下やました教授きょうじゅちょう士多したいたもん焉。當時とうじしょう其儒しゃりゅう瓛以きさき,聚徒こう授,おもんみつといちにん而已。以壽おわり
また曰:ろうめぐみあきらさとしとおだてせいさだかたゆう道術どうじゅつきょきむ華山かざんきゅう毒害どくがいめぐみあきらきょふくからし螫之ぞうめい匿跡,にん莫之そうあきらみかど召,いたりひとしこうみかどせいまたいたり文惠ふみえ太子たいしざいみや延方のぶかたいたり,仍又にわか金華きんかけいざお西下さいか,及就かい豐安とよやす旬日じゅんじつ,聞襖ぞくおこりおもんみ豐安とよやすどくぜん時人じじん以為ゆう先覺せんかくひとしたけみかど敕為りつかん
また曰:漁父ぎょふしゃ不知ふち姓名せいめいまた不知ふちなんもとじん也。ふとしかんまごはるためひろ太守たいしゅ落日らくじつ逍遙しょうようなぎさぎわいちけいふねしのげ隱顯いんけんにわか而漁ちちいたり神韻しんいんしょう灑,たれ長嘯ちょうしょうはる甚異,乃問:「ゆうぎょうり乎?」漁父ぎょふわらい而答曰:「其釣つりやすしうれぎょしゃ耶?」はるえきかい焉,とげ褰裳わたるすいいい曰:「竊觀先生せんせいゆう道者どうしゃ也,おわりあさ枻,またろうどめわれ聞黃金白かなしろ璧,じゅう利也としや高蓋たかふたさかえろう也。方今ほうこん王道おうどう文明ぶんめいもりざい海外かいがいかくれうろこ,靡然こうかぜえびすさん緝熙よしなにみそ其用わか是也これや。」漁父ぎょふ曰:「仆山海さんかい狂人きょうじんたちつとむわきまえ賤,無論むろんさかえとうと。」乃歌曰:「竹竿たけざお籊々,河水こうすい悠悠ゆうゆうしょう忘為らくむさぼえさ吞鉤;えびすめぐみ,聊以忘憂ぼうゆう。」於是悠然ゆうぜんざお而去。
また曰:顧歡けい怡,きょうしおかんじん也。いえかん賤,父祖ふそ并為農夫のうふ。歡獨好學こうがくねんろくななさい六甲ろっこういえひんちち使田中たなかすずめ,歡作《すずめ》而歸。すずめしょくいね過半かはんちちいかよく撻之,乃止。さと中有ちゅうう學舍がくしゃ,歡貧,受業じゅぎょう,於舍かべきさき倚聽,遺忘いぼうしゃゆうのりもえまつぶし讀書どくしょあるもえぬか自照じしょう。及長,篤志とくし倦。聞吳きょう東遷とうせん,邵玄のうでん經文きょうもんかりためしょしたがえ受業じゅぎょうどうぐん顧凱臨縣,而異諸子しょしあずかゆうしたがえあきらかみなりむねはかげん儒諸ははほろびみず漿不入口いりくちいおり於墓とげかくれつかまつ。於剡天台山てんだいざん開館かいかん,聚徒受業じゅぎょうしゃつねきんひゃくにん。歡早,讀詩いたりあいあい父母ちちははなまわが劬勞」,輒執しょ慟哭どうこくよし受學しゃはいたで莪》へんふくこう焉。
また曰:蔡薈きゅうあきらちんとめじんきよし玩不あずか俗人ぞくじん交。捴謂こう敩曰:「人稱にんしょうやすひん清白すずしろ曰夷,涅而緇曰しろいたり如蔡きゅうあかりしゃいいえびすしろ乎?」
また曰:じょはくちんぶんすわえ東陽とうようふとしまつじん也。しょうひんがくしょつね以竹若葉わかばあま蕉及地上ちじょうがくしょ山水さんすい暴出,漂溺たくしゃむら鄰皆奔走ほんそうはくちんるいゆか而坐,誦書輟。叔父おじ璠之あずかかお延之のぶゆきともぜんかえ袪蒙さんたて精舍しょうじゃこう授。はくちん往從がくせきじゅうねんきわむひろけいゆう學者がくしゃこれ太守たいしゅ瑯琊おうくもりせいくれぐんちょう淹并れい,辟伯めずらし應召おうしょう便びん退すさ。如此しゃじゅう焉。こう釋氏しゃくしろうそう兼明かねあきら道術どうじゅつとし嘗旱,はくちん筮之,如期而雨。舉動有禮ありのりきょく木之下きのした,趨而避之。つまばんふくおもめと曾參。たくみなみきゅう有山ありやまはくめずらしうつりきょかいあいだせいみな連理れんりもんぜんあずさじゅいちねん便びんごうだきしろすずめ一雙いっそう,棲其牖,論者ろんしゃ以為かくれ德之のりゆきかん也。
また曰:沈麟うんただしきょうたけ康人やすひと也。ちちけんそうらくやすれい。麟士よう俊敏しゅんびんねんななさい,聽叔父おじだけげんげんまろうどげんしょ遺失いしつたけなで其肩曰:「わか斯文しぶんぜっ,其在なんじ乎?」及長,はくどおりけい有高ありだか尚之なおゆきこころざしおやほろびきょつきれいふく闋忌,輒涕泣彌しゅんきょひんすだれ誦書,くちしゅいき鄉里きょうりごうためすだれ先生せんせい。嘗行,鄰人みとめ其所ちょ屐。麟士曰:「きょう屐耶?」そくはだし而返。鄰人とく屐,おく前者ぜんしゃかえこれ。麟士わらい而受そうぶんみかどれいなん尚之なおゆきしょうせん五經ごきょうおとずれ舉學けん以麟おうせんとくやめいたり尚之なおゆきふかあいせっ。及去,尚之なおゆきいい偃曰:「やまやぶかた奇士きし。沈麟叔度ながれ也。なんじ。」麟士つねしょよしゆう都下とかれきかんよん畢,乃嘆曰:「古人こじんまた何人なんにん哉!」少時しょうじたたえやまし歸鄉ききょうあずか人物じんぶつどおりあるすすむつかまつとう曰:「さかなかかししおり天下てんかいちちぎり聖人せいじんげんさとる所以ゆえんごとくつきちさきわれまこと能景よしかげぎょうすわ忘,なにためまれくわだてそん?」乃作《げん》以絕世ぜっせい隱居いんきょくれやまこうけいしたがえがくすうひゃくにんかく營屋宇,とめ其側。とき為之ためゆき曰:「くれ山中やまなかゆうけん開門かいもん教授きょうじゅきょなる。」
また曰:しょかずら璩罪褡玟,瑯琊じん也。きょ京口きょうぐち。璩幼ごとせい士關しかん康之やすゆきひろしわたるけいふくせい臧榮いとぐちさかえいとぐちちょすすむしょ》,しょう璩有はつ擿之こうぽうつぼとげひとしたてたけしはつこうまつこも璩于あかりみかどげん璩安まずし守道もちえつれいあつし,如其簡退,あげきよし厲俗,請辟ため從事じゅうじみかどもと。璩辭赴。ひねぐんしゃ朓為東海とうかい太守たいしゅしたきょうあげ其風がい,餉穀ひゃく斛。りょうたかしかんちゅう秀才しゅうさい就。璩性つとむ于誨さそえきさきせい就學しゅうがくしゃいたり居宅きょたくせま陋,以容太守たいしゅちょうともためおこりこうしゃ。璩處清正きよまさ妻子さいし慍之しょく旦夕たんせき孜孜ししこう誦不輟,時人じじんえき以此宗之むねゆき
また曰:りゅうめぐみ斐字せんぶん,彭城じん也。しょう博學はくがくのうぞくぶんおこりはり安成やすなり王法おうほう曹行さんぐん。嘗還けいひろゆう于匡さんぐう處士しょしちょうたかししゅうそうとく甚歡,とげゆう終焉しゅうえんこころざしいんつかまつきょ東林寺とうりんじまた於山きた構園いちしょごう曰:「はなれあかえん」。時人じじんいんいいはなれあか先生せんせい遠近えんきん欽慕きんぼ。簡文のこ以機つえ論者ろんしゃうんどお法師ほうし歿后,はたひゃくねんはじめゆうちょうりゅうもり矣。
また曰:范元琰字はく珪。きょちちときあい慕盡れいおやとうこれ。及長好學こうがくはくどおりけいけんしらげふつ祖母そぼ患癱,つね含吮。あずかひとごとつねおそれ傷物きずものきょ出城でしろ,雖獨居どっきょ如對賓客ひんきゃくしゃ莫不あらためようはばかこれいえひんおもんみ以園蔬為ぎょう。嘗出ぎょうじんぬすめ其菘,もと琰遽退すさはしははとい其故,以實こたえといぬすめしゃためだれこたえ曰:「むこうしょ退すさかしこ其愧はじこんけい其名,すなお泄也。」於是母子ぼしあるゆうわたるみぞぬすめ其筍しゃもと琰因はやしためきょう以度ぬすめしゃだい慚,一鄉無復草竊。ひとしたてたけしはつせいため曹虎ひら西にしさんぐんいたり。於是はじめ安王やすおうはるかひかりためあげしゅういいじょ孝嗣たかし曰:「曹虎さんぐんあにれいけんしょく?」よく以西いせい曹書聘之。かいはるかひかりはいはて時人じじん以為恨。

3 逸民いつみん:
みなみ》曰:阮孝いとぐちむねじょうじんちち彥之誡曰:「むべおもえ勖,以庇なんじ躬。」こたえ曰:「すなおついあか松子まつこ滄海そうかい,逐許よし於穹たにみみ。」へいきょいちしつ晨昏じょうしょう嘗出戶外こがいそとけいおうえん貴顯きけんこういとぐち顛覆てんぷく,聞其笳聲いたりもん,乃穿ませ逃迸。及宴誅,竟獲めんどきちゅうすすむにん昉欲往見肯。乃嘆曰:「其室雖邇,其人なんとお!」欽慕きんぼふうほまれしゃ莫不斂衽,もちちり而息也。
また曰:とうひろしけい通明みちあき丹陽たんようじんなまじゅうさい,讀葛ひろし神仙しんせんでん》曰:「おおせ青雲せいうん,睹白不覺ふかくためどお矣。」ひとし高祖こうそさくしょう,引為侍讀じどくえいあきらはつだつちょうふくかけしん武門ぶもん上表じょうひょう祿ろくみことのり乃許きょようきょくやまごう華陽かよう隱居いんきょたけみかど即位そくい有吉ありよしきょう征討せいとう大事だいじみな使咨問,時人じじんごうため山中さんちゅう宰相さいしょうあずかはり祚覆ぼつ,乃制曰:「えびすはじめにん誕,ひら叔坐ろんそらあにさとるあきらよう殿どのとげづくたん于宮。」及侯けいかたぶけおちい篡位,はてざいあきらよう殿どのみな如其ごと大同だいどうはつそつねんはちじゅう顏色かおいろ不變ふへん中有ちゅうう香氣こうき累日るいじつ氤氳,謚貞しろ先生せんせいゆうひじきさきかた》、《まくらちゅうじゅつ》及《本草ほんぞう》。
また曰:沈顗顗,興人こうじん也。せいゆういたりかいつね慕黃叔度、じょ孺子じゅしためじんまいどくしょいちしつ,罕見其面。したがえ叔勃貴顯きけんとうあさまいかえ賓客ひんきゃくむかえおくはまむせ,顗送迎そうげい不出ふしゅついき。勃乃嘆曰:「われ乃今とうと如賤也。」

4 逸民いつみん:
はりしょ曰:なに點字てんじ晳,いおりじん也。てん雖不出入でいり城府じょうふ,而遨ゆう於外,かんざしおびしばしゃ,躡草履ぞうりほしいまましんしょてき,致醉而歸。大夫たいふ慕從時人じじんいいつうかくれ

5 逸民いつみん:
こうしゅうしょ》曰:韋夐敬遠けいえんこう寬之ひろゆきけい也。こころざしなおえびす簡,あわ於榮ふとし經略けいりゃくおうぎょう,仄席もとめけん,備禮辟之,おわり不能ふのうおこりわたる敬重けいちょうむね即位そくい禮遇れいぐう逾厚,敕有日給にっきゅう河東かとうしゅいちごう逍遙しょうようこうとしななじゅう而卒。

6 逸民いつみん:
ひねしょ》曰:うまくるる要理ようり,扶風じんはつためはり邵陵おう綸學。綸舉へい援臺じょうとめしょまんかんよせくるるくるる肆意しいひろらんはたあまね,乃喟しか嘆曰:「われ聞貴爵位しゃくいしゃ以巢よしため桎梏しっこくあい山林さんりんしゃ以伊りょためかんこん乃稽もろてんあつしろん其義,またかくしたがえ其所このみ。」乃隱於茆さん,曰精ほら

URN: ctp:taiping-yulan/505