(Translated by https://www.hiragana.jp/)
太平御覽 : 皇王部二十 - Chinese Text Project
Follow us on Facebook to receive important updates Follow us on Twitter to receive important updates Follow us on sina.com's microblogging site to receive important updates Follow us on Douban to receive important updates
Chinese Text Project
-> -> -> すめらぎおうじゅう

すめらぎおうじゅう

Library Resources

西にしすすむせんみかど

Library Resources
1 西にしすすむせんみかど:
すすむしょ》曰:せんみかどいみな懿,なかたちかわ內溫けんこうけい里人さとびとせい司馬しば。其先出自しゅつじみかどだか之子ゆきこじゅうはじむためなつかん祝融しゅくゆうれきからおそれなつしょうせいじょ其職,及周,以夏かんため司馬しば。其後ほどはくきゅうちちしゅうせんおう以世かんかつひらじょかたすず以官ぞくいん而為すわえかんあいだ司馬しばのぼるためちょうすすむあずか諸侯しょこうしんはたほろびたてためいんおうかわ內。かん以其ためぐん子孫しそんとげ焉。のぼるはちせいなませい西にし將軍しょうぐんひとし叔平。ひとしなまあきら太守たいしゅりょうおおやけりょうせい潁川太守たいしゅしゅんもとこと俊生としおきょうちょういんぼうけんこうみかどそくぼうだい也。しょうゆうぶし聰明そうめい多大ただいりゃく博學はくがくあまね聞,ふく膺儒きょうかんまつ大亂たいらんつね慨然がいぜんゆう天下てんかしんみなみぐん太守たいしゅどうぐん楊俊ゆう知人ちじん鑒,みかど弱冠じゃっかん,以為非常ひじょううつわ尚書しょうしょ清河きよかわちぇ琰與みかどけいろうぜんまたいいろう曰:「きみおとうとさとあきらあきらまことつよしだんえいとくしょ及也。」かんけんやすろくねんぐん舉上けい椽。たけみかどためそら,聞而辟之。みかどかんうんかたほろよくこごめぶし曹氏,以風しびれ不能ふのう起居ききょたけ使じんよる往密とげみかどけん不動ふどう。及魏たけため丞相じょうしょうまた辟為文學ぶんがくじょう,敕行しゃ曰:「わかふくばん桓,便びんおさむこれ。」みかど懼而就職しゅうしょく。於是使與太よたゆうしょ,遷黃もんさむらいろうてんろう丞相じょうしょうひがし曹屬,ひろてんぬし簿こくすんでけん,遷太子中こなか庶子しょしまいあずかだいはかりごと,輒有奇策きさくため太子たいししょ信重のぶしげあずかひねぐんただししゅ鑠號ためよんとも。遷行ぐん司馬しばげん於魏たけ曰:「むかしひねはかりごと,以食ためくびこん天下てんかこう而食しゃぶたじゅうあまりまんけい國遠くにとお籌也。雖戎かぶとまきむべ且耕且守。」たかしたけおさむ,於是つとむのうせきこくくにようゆたか贍。及魏たけ薨於洛陽らくよう朝野ちょうや危懼きくみかど綱紀こうきごと,內外肅然しゅくぜん。乃奉あずさみやかえ鄴。ぶんみかど即位そくいふう河津かわづちんこうてん丞相じょうしょうちょうぶん受漢ぜん,以帝ため尚書しょうしょころてんとくぐんちゅうすすむふう安國やすくにきょうこうはつねんとくぐんかんやめ,遷侍ちゅう尚書しょうしょみぎ仆射,ねん天子てんしみなみじゅん觀兵かんぺいくれ疆。みかどとめ鎮許あきらあらためふうむこうけんこううたてなでぐん大將軍だいしょうぐんかりふしりょうへいせん加給かきゅうごとちゅうろく尚書しょうしょごとみかど固辭こじ天子てんし曰:「われ於庶ごと,以夜まましひる須臾しゅゆやすしいき。此非以為さかえ,乃為ぶんゆうみみ。」ろくねん天子てんしふくだいきょうふねせいいのちみかどきょもり,臨行,みことのり曰:「われふか以后ごとためねん以委きょう。曹參雖有戰功せんこう,而蕭なん為重ためしげ使つかいわれ西にし顧之ゆうまた乎!」天子てんし廣陵こうりょうかえ洛陽らくようみことのりみかど曰:「われひがしなでぐんとうそう西にしごとわれ西にしなでぐんとうそうひがしごと。」於是とめみかど鎮許あきら。及天子てんしやましあつ,召帝あずか曹真、ひねぐんとう於崇はな殿どの南堂みなみどう,并受顧命輔政。みことのり太子たいし曰:「有間あんまさんおおやけしゃまき勿疑。」あきらみかど即位そくいあらためふうまいこう。及孫けんかこえ江夏えなつ其將かずら瑾、ちょう霸并おさむじょうみかどとくしょぐん討權,はしこれ進擊しんげきはい瑾,ちょう霸,并首きゅうせんあまり。遷驃將軍しょうぐんふとし元年がんねんろくがつ天子てんしみことのりみかどたむろ於宛,とく荊、しゅうしょ軍事ぐんじはつしょくしょうはじめたちくだ也,ちょうぐう甚厚。みかど以達言行げんこうかたぶけたくみ不可ふかにん,驟諫聽,乃以たちりょう新城しんじょう太守たいしゅふうこうかりふしいたる於是れんくれかたしょくせん中國ちゅうごくみかど以書さとしいたるとくしょ大喜だいぎなおあずかけつみかど乃潛ぐんしん討。うえいさおじょうさんめん阻水,たち於城外為がいため木柵もくさくかたみかどわたりすいやぶ其柵,ちょくみやつこ城下じょうか八道はちどうおさむしゅんゆうろくにちいたるおい鄧賢,はた輔等開門かいもんたちしゅでん京師けいし。俘獲まん餘人よにんたびかえ于宛。乃勸のうくわきん浮費,みなみえつ焉。どきぐん新附しんぷみんめいちょうよくかくれぞくみかどあさ於京天子てんしおとずれ於帝。みかどたい曰:「ぞく以密もうたばした棄之。むべひろし大綱たいこうのり自然しぜん安樂あんらく。」またといとりこむべ討,何者なにものためさきたい曰:「中國ちゅうごく習水せん敢散きょ東關ひがしせき。凡攻てき,必先扼其のど而舂其心。なつこう東關ひがしせきぞくこころのどわかため陸軍りくぐん以向皖おとただししろ,引權東下ひがししもためすいせんぐんこうなつこうじょう其虛而擊,此神へいしたがえてん而墮,やぶこれ必矣。」天子てんし并然復命ふくめいみかどたむろ于宛。よんねん,遷大將軍だいしょうぐんだいとくかり鉞,あずか曹真しょく軍次ぐんじこうぐうはん明年みょうねんしょかずらあきら寇天すいかこえ將軍しょうぐん賈嗣、たいら於祁やま天子てんし曰:「西方にしかた有事ゆうじきみ莫可づけしゃ。」乃使みかど西にしたむろ長安ながやすとく雍、はりしゅうしょ軍事ぐんじみつるしゃ將軍しょうぐんちょう郃、きさき將軍しょうぐん曜、せいしょくまもるぐん戴凌、雍州刺史ししかく淮等討亮。とげ進軍しんぐんしきしゅきりおうしかあきら聞大ぐんちょくいたり,乃自そち眾將芟上邽之むぎしょしょうみな懼,みかど曰:「あきらおもんばかけつしょう,必安營自かたしかこう芟麥,われとくにち兼行けんこうあし矣。」於是卷甲まきこう晨夜赴之,あきらもちちり而遁。すすむかんあずかあきらしょうぐうみかどれつじん以待使つかいはたうしきんけいさそえこれへいざいせっ而亮退すさついいたり祁山。あきらたむろ鹵城,よりどころ南北なんぼくやま斷水だんすいため重圍じゅういみかどおさむ,拔其かこえあきらよい遁,つい擊破げきは,俘斬まんけい天子てんし使使ろうぐんぞうふう邑。ねんあきらまたそち眾十あまりまんはすだにるい于郿渭水南原なんばら天子てんしこれせいしょく將軍しょうぐんはたあきらとくまん,受帝節度せつどしょしょうよく往渭きたまちみかど曰:「百姓積聚皆在渭南,此必そう也。」とげ引軍而濟,背水はいすいためるいよしいいしょしょう曰:「あきらわか勇者ゆうしゃとう武功ぶこうやま而東。わか西上にしがみ五丈原ごじょうげんのりしょぐん無事ぶじ矣。」あきらはて上原うえはらはたきたわたり渭,みかど將軍しょうぐんしゅうとうたむろとげ以餌數日すうじつあきら不動ふどうとげ將軍しょうぐんえびす遵、雍州刺史ししかく淮共備陽とげあずかあきらかい于積せき,臨原而戰,あきらとくすすむかえ五丈原ごじょうげんかいゆうちょうほし墜亮るいみかど其必はいへい掎亮これひゃくきゅうなまくちせんあまりくだしゃろくじゅう餘人よにんさんねん,遷太じょう累增るいぞうふう邑。しょくしょう入寇にゅうこうみかど將軍しょうぐんうしきんげきはしこれせんあまりきゅうよんねん遼東りゃおとん太守たいしゅ公孫こうそんぶん懿反,せいみかどまい京師けいし天子てんし曰:「此不足ふそく以勞くんことよく必克,以相はんみみきみ其作なんけい?」たい曰:「棄城あずかはし上計あげ也。よりどころりょうすい以拒大軍たいぐんけい也。すわまもりじょうひらめ,此成とりこみみ。」天子てんし曰:「其計はた安出やすいで?」たい曰:「おもんみあかりしゃのう深度しんど彼我ひが,乃能ゆうしょわり棄,此非其所及也。こん懸軍けんぐん遠征えんせいはたいい不能ふのう持久じきゅう,必先こばめりょうすい而後もり,此中、したけい也。」天子てんし曰:「往還おうかんいく?」たい曰:「往ひゃくにちかえひゃくにちおさむひゃくにち,以ろくじゅうにち休息きゅうそくいちねんあし矣。」けいはつねんそちうしきんえびす遵等よんまんはつ京都きょうとくるま送出そうしゅつ西明さいみょうもんみことのりおとうとまことおくあつしたまもの以穀帛牛しゅ,敕郡もりてんのうやめみな往會焉。父老ふろう故舊こきゅううたげいん累日るいじつみかど嘆息たんそく悵然ちょうぜんゆうかんため曰:「天地あまちひらく辟,日月じつげつ重光しげみつ遭遇そうぐう際會さいかい,畢力遐方。はた掃群けがれかえ故鄉こきょう肅清しゅくせいまんそうひとしはちあらつげなりおいまちざいまい。」とげすすむけいちくえつ碣石,于遼すいぶん懿果すうまん,阻遼隧,けんかべ而守,南北なんぼくろくななじゅう,以拒みかどみかどもりへいちょう旗幟きし其南,ぞくつきするど赴之。乃泛ぶねせんずみ以出其北,あずかぞく營相逼,沈舟焚梁,はたりょうみずさくちょうかこえ,棄賊而向じょうたいらぞくへい其後,はて邀之。乃縱へいぎゃくげき大破たいはさんせんみなとしぞくじょうひらめ進軍しんぐんおさむこれはつぶん懿聞也,請救於孫けんけんまた出兵しゅっぺいはるか為之ためゆき聲援せいえん遺文いぶん懿書曰:「司馬しばこう善用ぜんようへい變化へんかわかかみしょむかいまえふかためおとうとこれ。」かい霖潦,大水おおみず平地ひらちすうしゃくぞく恃水,きこりさい自若じじゃく朝廷ちょうてい聞師ぐう,咸謂召還しょうかん天子てんし曰:「司馬しばこう臨危せいへんけいとりこ矣。」すんで而雨どめとげあいかこえおこり土山つちやま地道じみちだてつり橦,はつせき雨下うか晝夜ちゅうやおさむこれぶん懿大懼,乃使其所しょ相國しょうこくおうけん大夫たいふやなぎはじめ乞降,請解かこえめんばくもとけんとうみなこれぶん懿復さむらいちゅうまもるえんじ乞克おく儭。而守しゃ曰:「軍事ぐんじ大要たいようゆうのうせんとうたたかえ不能ふのうせんとうもり不能ふのうもりとうはし二事惟有降與死耳。なんじ肯面ばく,此為けつ就死也,須送にん。」ぶん懿攻みなみかこえ突出とっしゅつみかどたてへいげきはい于梁水上すいじょうときゆう兵士へいしさむこお,乞襦,みかどどるあずかある曰:「みゆき襦,以賜。」みかど曰:「襦者かんぶつ人臣じんしん無私むしほどこせ也。」とげはん天子てんし使者ししゃろうぐん于薊,ぞうふうしょく昆陽こや,并前けん。及齊おう即位そくい,遷侍ちゅうぶしとく中外ちゅうがいしょぐんろく尚書しょうしょごとあずか曹爽かくすべへいさんせんにんきょう朝政ちょうせいさらちょく殿中でんちゅうじょう輿こしいれ殿どの。爽欲使尚書しょうしょそうごとさきゆかりおのれ,乃言於天,徙帝ためだい司馬しば朝議ちょうぎ以為ぜんきさきだい司馬しばるい薨於,乃以みかどためふとでんいれ殿どの趨,さんはいけんくつ上殿かみどの,如漢しょうなん故事こじはちねんなつよんがつ,曹爽ようなん晏、鄧飏、ちょう謐之はかりごと,遷太きさき於永やすしみやせん朝政ちょうせい兄弟きょうだい并典きんへいおやとう,屢改制度せいどみかど不能ふのうきん,於是あずか爽有すき五月ごがつみかどしょうやましあずか政事せいじきゅうねんはるさんがつ黃門こうもんちょうとうわたしわきにわ才人さいじん石英せきえいとういちじゅういちにんあずか曹爽ため伎人。爽、晏謂みかどやましあつ有無うむくんしんあずかとう密謀みつぼう社稷しゃしょくゆう矣。みかどまたせん為之ためゆき備,爽之ぞくまた頗疑みかどかい河南かなんいんかつすすむ蒞荊しゅうらいこうみかどみかどいつわりやましあつ使つかいりょうさむらい婢,もちころもころも落,ゆびこうげん渴,婢進かゆみかど不能ふのうはいいんかゆみな流出りゅうしゅつ沾胸。かち曰:「眾情いいあかりこうきゅうふう發動はつどうなにみことたい乃爾!」みかど使ごえざいぞくせつとしろうだきやましざい旦夕たんせききみとうこごめ并州,并州きんえびすぜん為之ためゆき備。こわしょう,以子あきらおとうとけいためたく」。かち曰:「とうかえかたじけな本州ほんしゅう并州也。」みかど錯亂さくらん其辭曰:「きみかたいた并州。」かつふく曰:「とうかたじけな荊州。」みかど曰:「としろうあらかいくんごといまかえ本州ほんしゅう盛德せいとく壯烈そうれつこうたていさお勛!」かち退すさつげ爽曰:「司馬しばこうしかばねきょあまりかたちしんやめはなれ不足ふそくおもんばか矣。」他日たじつまたげん曰:「ふとしでん不可ふかふくずみれいじん愴然。」爽等ふく設備せつび嘉平かへいもと年春としはる正月しょうがつかぶとうま天子てんし高平たかひらりょう,爽兄弟きょうだいみなしたがえ太白たいはくかさねがつみかど於是ひょうそうえいやすしふとしきさきはい兄弟きょうだいときけいみかどためちゅうまもるぐん將兵しょうへいたむろ馬門まかどみかどれつじん闕下,けい爽門。爽帳とくげん世上せじょうろう,引弩はたみかどまごけんとめ曰:「こと可知かち。」さんちゅうさんとめみな引其ひじとくはつだいつかさみのり桓范赴爽,蔣濟げん於帝曰:「さとし囊往矣。」みかど曰:「爽與范內疏而さとし及,駑馬どばこい棧豆,必不能ふのうよう也。」於是かりつかさだかやわぶしぎょう大將たいしょう軍事ぐんじりょう爽營,いいやわら曰:「きみためしゅう勃矣。」いのちふとし仆王かんぎょうちゅうりょうぐん羲營。みかどおやそちふとしじょう蔣濟とう勒兵出迎でむかえ天子てんしたむろ於洛すい浮橋うきはし上奏じょうそう曰:「先帝せんていみことのり陛下へいかひとしおう及臣ます於御ゆかにぎしんひじ曰:ふか以后ごとためねんこん大將軍だいしょうぐん爽背棄顧いのちはいらん國典こくてん,內則僣擬,そとせんけんぐんかん要職ようしょくみなおけしょおや宿衛しゅくえい舊人きゅうじん,并見斥黜。根據こんきょばんきばたてほしいまま甚。また以黃もんちょう當為とういかんせんども交關,伺候しこう神器じんぎ天下てんか洶洶,にんふところ危懼きく陛下へいか便びん為寄ためよりすわあにとく久安ひさやす?此非先帝せんていみことのり陛下へいか及臣ます御床みとこ本意ほんい也。しん雖朽邁,敢忘前言ぜんげんむかしちょうだか極意ごくいはたただし以亡;りょ、霍早だんかん祚永のべ。此乃陛下へいかいん鑒,しん授命あき也。公卿くぎょう群臣ぐんしんみな以爽有無うむくんしん兄弟きょうだいむべてんへい宿衛しゅくえいひょう皇太后こうたいごう皇太后こうたいごう敕如そう施行しこうしん輒敕ぬししゃ及黃もんれいやめ爽、羲、くん吏兵,かく以本かんこう就第。わか稽留しゃ,以軍ほう從事じゅうじしん輒力やまし將兵しょうへいまいらくすい浮橋うきはし,伺察非常ひじょう。」爽不どおりかなでとめしゃ宿やど水南すいなんため鹿角かづのはつたむろへいすうせんにん以守。桓范はてすすむ爽奉天子てんしこうもとあきらつてげきせい天下でんかへい。爽不能ふのうよう,而夜さむらい中許なかゆるしまこと尚書しょうしょちんやすしまいみかど,以觀望かんぼうふうむねみかどすう過失かしつこととめ免官めんかんやすしかえ以報爽,すすむこれどおりそうみかどまた所信しょしん殿中でんちゅうこうじょういん大目おおめさとし爽,ゆびらくすいためちかい,爽意信之のぶゆき。桓范とう援引えんいん古今ここん,諫說まんはしおわり不能ふのうしたがえ,乃曰:「司馬しば公正きみまさとうよくだつわれけんみみわれとく以侯かえだいしつため富家ふうかおきな。」范拊膺曰:「すわきょうめつわれぞく矣!」とげどおりみかどそうすんで而有劾黃もんちょうとう,并發爽與なん晏等はんこと,乃收爽兄弟きょうだい及其とうあずかなに晏、ちょう謐、鄧飏、畢軌、まさる、桓范とう誅之。がつ天子てんし以帝ため丞相じょうしょうぞうふうはちけん,邑まんそうごとかたゆずる丞相じょうしょうふゆじゅうがつきゅうすずれい朝會ちょうかいはいかたゆずるきゅうすずねんはる正月しょうがつ天子てんしいのちみかどりつびょう於洛みかど以久やましにんあさ請,まいゆう大事だいじ天子てんしおやこうだい以咨おとずれ焉。さんねん天子てんし使けんだいおおとり臚、ふとし仆庾嶷持ぶしさついのちみかどため相國しょうこくふう安平あびらぐんおおやけかたゆずる受。六月ろくがつみかどやましはちがつくずし於京ねんななじゅうさんたけみかど受禪じゅぜんうえ尊號そんごう曰宣皇帝こうていりょう高原こうげんびょうしょう高祖こうそ

2 西にしすすむせんみかど:
おそれあずかすすむしょ》曰:うえ服膺ふくよう文藝ぶんげい,以儒もと立德りっとく,而雅ゆう霸之りょう。值魏たん祚,內外多難たなんはかりごと而鮮,舉必どくかつ知人ちじん拔善,あらわよう仄陋。おうはじめ、鄧艾、しゅうしん、賈越みなおこりかんもん,而著績於あさ經略けいりゃくざいいいどお矣。

3 西にしすすむせんみかど:
えん》曰:すすむせんみかど誅王りょうきさきやまし日見ひみりょう逼,みかどよび曰:「彥云彥云,りょう也。なるわが。」身上しんじょう便びんゆうしょ。賈逵またためたたりしょうとげ薨。はつりょうすんで賈逵びょうよび曰:「賈梁どうおうりょう忠臣ちゅうしんおもんみしかゆう神知しんち。」逵助焉。及永嘉之よしゆきみだれゆう覡見みかど,涕泗うん:「いえこくかたぶけくつがえ曹爽、なつほうげん訴怨とくしん也。」爽以ぜいぞく致誅,げんしたがえもち戮。

URN: ctp:taiping-yulan/95