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ヴィヴェーカーナンダ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィヴェーカーナンダ
1893ねんシカゴにて撮影さつえい
写真しゃしんしるされている文字もじは、本人ほんにんがベンガルひだり)と英語えいごみぎ)でしるしたものである。「one infinite pure and holy - beyond thought beyond qualities I bow down to thee.(純粋じゅんすいかつ神聖しんせいなるただいち無限むげん存在そんざい-我々われわれ思考しこう優越ゆうえつせい優秀ゆうしゅうせい)を超越ちょうえつしているなんじに、わたし帰依きえする。)」
生誕せいたん 1863ねん1がつ12にち
イギリスの旗 えいりょうインド
ベンガル管区かんく英語えいごばんコルカタシムラー・パッリー
死没しぼつ 1902ねん7がつ4にち(39さい
イギリス領インド帝国の旗 イギリスりょうインド帝国ていこく
ベンガル管区かんく英語えいごばんベールールのベールール僧院そういん英語えいごばん
職業しょくぎょう 宗教しゅうきょう社会しゃかい活動かつどう
署名しょめい
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ヴィヴェーカーナンダスワミ・ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda, ベンガル: স্বামী বিবেকানন্দ, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Shami Bibekanondo, 本名ほんみょう:ノレンドロナト・ドット(Narendranath Dutta, ベンガル: নরেন্দ্রনাথ দত্ত, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Nôrendronath Dhat-tha1863ねん1がつ12にち - 1902ねん7がつ4にち)は、インドヒンドゥーきょう出家しゅっけしゃヨーガ指導しどうしゃ社会しゃかい活動かつどうラーマクリシュナ弟子でし後継こうけいしゃであり、ラーマクリシュナ僧院そういんラーマクリシュナ・ミッション創設そうせつしゃである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ヒンドゥーきょう改革かいかく運動うんどう英語えいごばん、インドないでの社会しゃかい奉仕ほうし活動かつどう、インドがいへの布教ふきょう尽力じんりょくし、植民しょくみん時代じだいのインド英語えいごばん人々ひとびと民族みんぞくてき自覚じかくうながしてインドのナショナリズム高揚こうよう後押あとおしし、インドおよ欧米おうべい諸国しょこく人々ひとびと影響えいきょうおよぼした。

思想しそうてきにはシャンカラ系統けいとうヴェーダーンタ思想しそう一元論いちげんろん)で[1]、それをラーマクリシュナの思想しそうとして紹介しょうかいした。ネオ・ヒンドゥーイズム[注釈ちゅうしゃく 1]ネオ・ヴェーダーンタ英語えいごばんばれる思想家しそうか一人ひとり[2]ラーム・モーハン・ローイラビンドラナート・タゴールならんで、西洋せいよう近代きんだい吸収きゅうしゅうしたインドじん知識ちしきじんらによるインドの近代きんだいとヒンドゥーきょう伝統でんとう復興ふっこうのための改革かいかく運動うんどうベンガル・ルネッサンス英語えいごばん代表だいひょうする人物じんぶつである[3][4]。インドの伝統でんとう立脚りっきゃくしたかれ思想しそう格別かくべつあたらしいものはないが、すぐれた弁論べんろん人間にんげんてき魅力みりょくで、るいまれな感化かんかりょく発揮はっきした[5]あらたなインド社会しゃかいぞうもとめ、カースト貧富ひんぷちがいをえた多様たようなインド国民こくみん文化ぶんかてき基盤きばん構想こうそう[6]実務じつむめん実行じっこうりょくにもすぐれ、奉仕ほうし大切たいせつさをいてラーマクリシュナ・ミッションを運営うんえいし、インド社会しゃかい向上こうじょう寄与きよした[7]欧米おうべいでヒンドゥーきょう普遍ふへん宗教しゅうきょう理想りそうたか英語えいごりょくかたり、マックス・ミュラーロマン・ロラン欧米おうべいじん支持しじされ、欧米おうべいではヒンドゥーきょう代表だいひょうする人物じんぶつとみなされ、国内こくないではヒンドゥーきょうすくったと称賛しょうさんされたが、異物いぶつとみなされ批判ひはんけた[8]おもに、ヒンドゥーきょう伝統でんとうてきなヴェーダーンタ思想しそう依拠いきょするすぐれた世界せかい宗教しゅうきょうとして称揚しょうようする愛国あいこく主義しゅぎてき宗教しゅうきょう改革かいかくしゃとして評価ひょうかされてきた[9]一方いっぽう、そうした見方みかた評価ひょうか単純たんじゅんぎるとみなし、さい評価ひょうかこころみる研究けんきゅうもみられる[9]

インドの国民こくみんてき英雄えいゆうひょうされており、かれ誕生たんじょうの1がつ12にちは、インドではその業績ぎょうせき若者わかものかすべく、若者わかもののための全国ぜんこく青年せいねん英語えいごばん(ナショナル・ユース・デー)として祝日しゅくじつになっている[10]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ぜん半生はんせい[編集へんしゅう]

はは・ブヴァネーシュワリー・デーヴィー

1863ねん1がつ12にち、ノレンドロナト・ドット(以下いかノレンドロ)は、えいりょうインド帝国ていこく首都しゅとカルカッタ以下いかコルカタ)にまれた。カーストはシュードラ階層かいそうぞくするオクリン・カーヤストのだしである[11]ちちはビッショナト・ドット、はははブバネシュワリ・デビといい、ちち裕福ゆうふく進歩しんぽてき弁護士べんごしだった[11]

1879ねんに、ノレンドロはより高度こうど学究がっきゅうのために、コルカタのプレジデンシー・カレッジに入学にゅうがくした。1ねんに、スコティッシュ・チャーチ・カレッジで哲学てつがくまなんだ。教科きょうか課程かていあいだかれ西洋せいよう論理ろんりがくジョン・スチュアート・ミルスペンサー哲学てつがく非常ひじょう興味きょうみ[12]ヘーゲルなどの西洋せいよう哲学てつがく、ヨーロッパ諸国しょこく歴史れきし勉強べんきょうした。ロマン詩人しじんウィリアム・ワーズワースパーシー・ビッシュ・シェリーこのんだ[13]西欧せいおうてき教養きょうようにつけ、英語えいご堪能かんのうだった[11]

西洋せいよう学問がくもんまなんだが、かみかみ存在そんざいについての不審ふしん芽生めばはじめた。叔父おじ当時とうじ重要じゅうよう宗教しゅうきょう組織そしきおよ社会しゃかい改革かいかくグループであるブラフモ・サマージ(ブランモ協会きょうかい)の秘書ひしょ長年ながねんつとめており、ノレンドロ自身じしん協会きょうかい会員かいいんになっていた。しばらくのあいだ会衆かいしゅういのりや祈祷きとううたかれしんきつけていたが、しん宗教しゅうきょう体験たいけんることはできないとかんじるようになり、はなれた[14]。ヴィヴェーカーナンダとそのラーマクリシュナとの出会であいの経緯けいいについては諸説しょせつがある。[注釈ちゅうしゃく 2] そのころ、すでにブランモ協会きょうかいのケショブ・チョンドロ・シェンによって、カルカッタの言論げんろんかいには、ダクシネーシュワル・カーリー寺院じいんのラーマクリシュナの存在そんざいひろ紹介しょうかいされていた。ヴィヴェーカーナンダは、スコティッシュ・チャーチ・カレッジの学長がくちょうでありえい文学ぶんがく教授きょうじゅでもあった英国えいこくじんのハスティー(1887ねんわたりしるし)からラーマクリシュナのはなしいた。宗教しゅうきょう評論ひょうろん増原ますはら良彦よしひこ(ひろさちや)は、この逸話いつわは、民衆みんしゅうのヒンドゥーきょう伝統でんとう土俗どぞく田舎いなかのバラモンの系譜けいふにあるラーマクリシュナと、インドのなか西洋せいよう教育きょういくけたヴィヴェーカーナンダには、外国がいこくじんである英国えいこくじん仲立なかだちとなって接触せっしょくするほど思想しそうてき距離きょりがあったことを暗示あんじしている、とひょうしている[15]

ラーマクリシュナのしたでの修行しゅぎょう[編集へんしゅう]

ラーマクリシュナ
ヴィヴェーカーナンダ(1886ねん))

1882ねん、17さいはじめてラーマクリシュナい、それまでだれからも満足まんぞく返答へんとうられなかったい「あなたはかみたことがありますか」をげかけた[16]。ラーマクリシュナ「うん、わたし神様かみさまたよ。ここでおまえをているように、わたしには神様かみさまえるんだよ。それもじつにはっきりとね」とこたえた[16]。ノレンドロはこのこたえにおおきなおどろきとしんやすらぎをかんじ、この体験たいけんかれ宗教しゅうきょう体験たいけん契機けいきとなり、ラーマクリシュナのまで4年間ねんかんかれしたまなんだ[17]増原ますはら良彦よしひこは、ヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナの「人格じんかく帰依きえした」と形容けいようしている[15]。ラーマクリシュナのほうも、ヴィヴェーカーナンダを信頼しんらいし、まかせるにふさわしい人物じんぶつとみなした[18]

ラーマクリシュナは、タントラシヴァ、アドヴァイタ、イスラム神秘しんぴ主義しゅぎなど様々さまざま行法ぎょうほうおこなって修行しゅぎょうしたが、これらを弟子でしたちに実践じっせんさせることはなく、講話こうわ説教せっきょうもしなかった[13]

ノレンドロは納得なっとくできないことにはすぐに反論はんろんし、ラーマクリシュナのカーリー幻覚げんかくぎないのではないかとさえった。あるときノレンはラーマクリシュナが「かみ万物ばんぶつ宿やどる」とうのをいて、つぼやコップをはたきまわり、「これもかみか、あれもかみか」とふざけていた。するとラーマクリシュナはノレンにれて、かみせた。世界せかいかみそのものであり、つぼもコップもかみであるということをノレンドロはさとったという。ノレンにとっては偶像ぐうぞう崇拝すうはい迷信めいしんであるようにおもえ、よく論争ろんそうをした。やがて、ノレンドロは熱烈ねつれつ支持しじ賛同さんどうをもってラーマクリシュナをれた。[よう出典しゅってん]

1884ねんはじごろ心臓しんぞう発作ほっさによりちち死去しきょかれ一家いっか経済けいざいてき困窮こんきゅう見舞みまわれた。

ヴィヴェーカーナンダ(後列こうれつひだりから3番目ばんめ)とラーマクリシュナの弟子でしたち(1887ねん))

ラーマクリシュナは喉頭こうとうがんで、1886ねん8がつ15にち死去しきょした。ノレンドロは23さいだった。その、ノレンドロをふくむラーマクリシュナのおしえの中心ちゅうしんとなる弟子でしたちは、そうになって一切いっさい放棄ほうきするというちかいをて、バラーナガルのあばらみ、ラーマクリシュナの弟子でし富豪ふごうでもある家主やぬしによって、食事しょくじその生活せいかつほどこしをけた。[よう出典しゅってん]

托鉢たくはつ生活せいかつ[編集へんしゅう]

当時とうじのインドの飢饉ききん様子ようす(1876-1878ねんだい飢饉ききん

出家しゅっけしゃ(サンニャーシン)は遊行ゆぎょうたびるという伝統でんとうにしたがい、1890ねん7がつ托鉢たくはつ生活せいかつはじめた。コルコタをてベナレス、アヨーディヤー、ラクノウ、アグラ、ビリンダーバン、ヒマラヤと放浪ほうろうした[19]。ラーマクリシュナの信奉しんぽうしゃ教団きょうだん組織そしきはかったが失敗しっぱいわった[20]はんおう諸侯しょこう援助えんじょるようになり、1892ねんラージャスターンのアジット・シン (ケートリはんおう)英語えいごばん助言じょげんでスワミー・ヴィヴェーカーナンダを名乗なのるようになった[20]最初さいしょ弟子でしサラット・チャンドラ・グプタに出会であい、かれをサダーナンダとあらためて、ヴィヴェーカーナンダにしたがった[19]

この期間きかんに、ヴィヴェーカーナンダは貧民ひんみん小屋こやからはんおう宮殿きゅうでんまで様々さまざま場所ばしょ滞在たいざいした。かれはインド、当時とうじイギリスりょうインド帝国ていこく様々さまざま人々ひとびと親密しんみつせっし、ことなる宗教しゅうきょう文化ぶんか交流こうりゅうし、インドじんつよさとよわさを観察かんさつし、インドの荒廃こうはいにした。支配しはいしゃであるイギリスじんはインドのとみげその一部いちぶ本国ほんごく、インドがい消費しょうひし、インドに還元かんげんせず、なん見返みかえりももたらさないというてんで、それまでインドを支配しはいしたどのような征服せいふくしゃともことなっていた[21]。インドはゆたかな自然しぜんめぐまれていたが、イギリスの支配しはい搾取さくしゅ後進こうしんてき農業のうぎょう産業さんぎょう経済けいざい構造こうぞうによってだい部分ぶぶんのインドじん貧困ひんこん飢餓きがくるしみ、幾度いくどだい飢饉ききんおそわれていた[22]。ヴィヴェーカーナンダは、インド民衆みんしゅう状況じょうきょうつぎのように表現ひょうげんした[23]

くる疫病えきびょうコレラによる荒廃こうはいくに生命せいめいにくいいるマラリアだい天性てんせいとなった飢餓きがはん飢餓きがのような飢餓きががしばしば悲劇ひげき舞踏ぶとうおどる……さんおく人間にんげんしゅうかたまり外見がいけん人間にんげん近似きんじするにぎない―同国どうこくじん外国がいこく諸国しょこくみつけにされていのちくだかれ……なんの希望きぼうもなく、過去かこもなく、将来しょうらいもなく―…同胞どうほうとみ我慢がまんならない奴隷どれいにふさわしい邪悪じゃあく性格せいかく―……強者きょうしゃあしほこりをなめる一方いっぽう弱者じゃくしゃにはひどい仕打しうちをし―よわきものを自然しぜんらえる醜悪しゅうあく悪魔あくまてき迷信めいしんち、将来しょうらい希望きぼうもなく、―道義どうぎしん基準きじゅんもなく―こうしたさんおくみんがインドにあふれかえっている、同数どうすううじくさって臭気しゅうきはっする死骸しがいむらがるように―これがわれわれの姿すがたであり、イギリスじん官吏かんりにも当然とうぜんうつ姿すがたなのだ。[23]

このような絶望ぜつぼうてき状況じょうきょうで、ヴィヴェーカーナンダは観念かんねんてきおしえばかりをくインドじんおおいとかんじ、しんおしえだけをくのは無益むえきであるとおもうようになり、ラーマクリシュナが無駄むだおこないだと揶揄やゆした社会しゃかいてき実践じっせん必要ひつようせいかんじるようになった。社会しゃかい平等びょうどう西洋せいようまなび、西洋せいよう精神せいしんてきおしえをインドにまなぶべきだという信念しんねんまれた。

カンニヤークマリのヴィヴェーカーナンダ記念きねんいわ

1892ねんにインド大陸たいりく最南端さいなんたんカンニヤークマリ辿たどき、そこで瞑想めいそうにふけった。そのいわはカンニヤークマリのヴィヴェーカーナンダ記念きねんいわとして観光かんこうになっている[20]

当時とうじ、アメリカのシカゴ万国博覧会ばんこくはくらんかい万国ばんこく宗教しゅうきょう会議かいぎ英語えいごばん開催かいさいされることがまっており、ブラフモ・サマージなどからいくにん代表だいひょうえらばれていたが、正統せいとうヒンドゥーきょう関心かんしんつらぬいており、出席しゅっせきしようというひとはなかなかなかった[24]。ヴィヴェーカーナンダは、ラムナードやマイソールのはんおう、それにケートリはんおうアジット・シンなどの資金しきん援助えんじょて、ヒンドゥーきょう代表だいひょうして出席しゅっせきすることになり、これが人生じんせいおおきな転機てんきとなる[6][20][18]出席しゅっせき理由りゆうとしては、兄弟子あにでしつぎのようにかたっている。

いいですか、先輩せんぱい!このくにちゅうひろがっている極貧ごくひん状況じょうきょうにあって、人々ひとびと宗教しゅうきょう伝道でんどうすることにどんな意味いみがありますか。もしもわたしがこのくに貧困ひんこん苦悩くのうのぞくことに成功せいこうしたならば、そのときにこそわたし宗教しゅうきょうについてはなそうとおもいます[25]

インドの貧困ひんこんしゃ救済きゅうさいする方法ほうほう見出みいだそうとし、またラーマクリシュナの思想しそう伝道でんどう目指めざしての参加さんかだったとかんがえられている[25]

欧米おうべい外遊がいゆう[編集へんしゅう]

A group of men are sitting and looking forward
Five men are standing
(ひだり写真しゃしん) まゆみじょう万国ばんこく宗教しゅうきょう会議かいぎ参加さんかしゃ(1893ねん)。(ひだりから)ウィーラチャンド・ガンディー英語えいごばん(ジャイナきょう)、アナガーリカ・ダルマパーラ仏教ぶっきょう、セイロン)、ヴィヴェーカーナンダ(ヒンドゥーきょう[26]、(おそらく)ガストン・ボネーモリ英語えいごばん(キリストきょうプロテスタント歴史れきし、フランス)
(みぎ写真しゃしん) ひがしインドのグループとヴィヴェーカーナンダ。(ひだりから)ナラシマーチャーリヤ(シヴァ?)、ラクシュミー・ナーラーヤン(カーヤスタ英語えいごばん&アーリヤ・サマージ)、ヴィヴェーカーナンダ、H・ダルマパーラ、ウィーラチャンド・ガンディー[26]

ボンベイコロンボペナンシンガポール香港ほんこん長崎ながさき横浜よこはまて、バンクーバー上陸じょうりくし、シカゴまで列車れっしゃたびし、万国ばんこく宗教しゅうきょう会議かいぎのぞんだ[19][27]会議かいぎ当初とうしょ7がつ開始かいし予定よていだったのが9月に延期えんきされていたが、ヴィヴェーカーナンダはそれをらなかったため資金しきん枯渇こかつし、かみ智学ちがく協会きょうかい援助えんじょもとめたが、協会きょうかい信条しんじょうへの同意どういもとめられ拒否きょひしたため、援助えんじょけることはできなかった[28]会議かいぎへの参加さんか資格しかくがいずれかの宗派しゅうは教派きょうは代表だいひょうでなければならないという原則げんそくらなかったため、会議かいぎまえのアメリカでは非常ひじょう苦労くろうしたが、いくにんかのアメリカの人々ひとびとたすけをけ、会場かいじょうにたどりいた[29][27]

1893ねん万国ばんこく宗教しゅうきょう会議かいぎだいいちかい集会しゅうかいはじまった。ヴィヴェーカーナンダのほかに、インドからはかみ智学ちがく協会きょうかい、ブラフモ・サマージ、グジャラートしゅうジャイナきょう、セイロンから仏教ぶっきょう参加さんかした[18]会議かいぎはアメリカのキリスト教きりすときょうユニテリアン教会きょうかい中心ちゅうしんとなって企画きかくしたもので、全体ぜんたいてきイスラム教いすらむきょう参加さんかしゃ極端きょくたんすくなく、有力ゆうりょくメンバーはユニテリアンと思想しそうちかい「オリエンタル」なアジアの宗教しゅうきょうかたよっていた[30]。また、植民しょくみん支配しはいのインドでは、エリートたちは西欧せいおうのオリエンタリズムの影響えいきょうけ、インドを西欧せいおう比較ひかくするなかで「神秘しんぴせい」「精神せいしんせい」を強調きょうちょうし、ナショナリズムにかすことがもとめられる状況じょうきょうであった[30]

ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナのおしえを俯瞰ふかんしたというアドヴァイタ・ヴェーダーンタ一元論いちげんろん)を根幹こんかんとする6かい講演こうえんおこない、ラーマクリシュナのしょ宗教しゅうきょうにおける神秘しんぴ体験たいけん基盤きばんに、ヒンドゥーきょうとその普遍ふへん宗教しゅうきょうてき性質せいしつ普遍ふへん宗教しゅうきょう理想りそうについて、ヴェーダおしえの深遠しんえんさと宗教しゅうきょうたいする優位ゆういせい、その科学かがくせいについてかたった[31]万国ばんこく宗教しゅうきょう会議かいぎでの講演こうえん最初さいしょ布教ふきょう活動かつどうであり、インドのそとはじめられた。インドの民衆みんしゅう窮状きゅうじょうかたって救済きゅうさいうったえ、個人こじんてきたましい救済きゅうさいのみでなく、社会しゃかいてき物質ぶっしつてき救済きゅうさい目指めざ出家しゅっけしゃあたらしいかたしめした[32]高度こうど英語えいごりょく人目ひとめ容姿ようし説得せっとくりょくある魅力みりょくてきかたくちで、原稿げんこうをもたずにはなした[33]例外れいがいてき一介いっかい僧侶そうりょとしての参加さんかしたことがプラスにはたらいたこともあり、「普遍ふへん宗教しゅうきょう」の演説えんぜつ熱狂ねっきょうてき歓迎かんげいされ、欧米おうべい非常ひじょうたか評価ひょうかけ、とくヨーガとヴェーダーンタ哲学てつがく興味きょうみたせることに成功せいこうし、インド宗教しゅうきょう・アジア宗教しゅうきょう代表だいひょうする宗教しゅうきょうしゃ思想家しそうか位置いちづけられた[27][20]。インド国内こくないでは、ヴィヴェーカーナンダを「ヒンドゥーきょう救世主きゅうせいしゅ」とみなすひともいたひとし、その成功せいこう称賛しょうさんあつめた[32]

ヴィヴェーカーナンダの演説えんぜつ熱狂ねっきょうしたひとには、ブラフモ・サマージ創始そうししゃラム・モホン・ラエ(ラーム・モーハン・ローイ)影響えいきょうけたとわれるラルフ・ワルド・エマーソンりゅう超絶ちょうぜつ主義しゅぎ論者ろんしゃや、心霊しんれい主義しゅぎかみ智学ちがくニューソートクリスチャン・サイエンスなどの新興しんこうのカルトてき神秘しんぴ主義しゅぎてき宗教しゅうきょうのグループがおおかったとわれる[27][34]当時とうじのアメリカは、はん三位一体さんみいったい主義しゅぎかみ唯一ゆいいつせい主張しゅちょうしたキリスト教きりすときょうユニテリアンや、かみ智学ちがく協会きょうかいによる近代きんだいかみ智学ちがくなど、東洋とうよう宗教しゅうきょうたか関心かんしん宗教しゅうきょう神秘しんぴ思想しそうがあり、ユニテリアンは人間にんげん理性りせいちから自己じこ改善かいぜん能力のうりょく人間にんげん完全かんぜんなものになれる可能かのうせいつよしんじるなどヴィヴェーカーナンダの主張しゅちょうかさなる部分ぶぶんがあった[33]。また、1893ねん金融きんゆう恐慌きょうこうがあり、社会しゃかい不安ふあん貧困ひんこんひろがって人々ひとびと疲弊ひへいしていたことで、ヴィヴェーカーナンダの講演こうえん注目ちゅうもくあつめたのではないかとかんがえられる[33]。アメリカで、超絶ちょうぜつろんしゃ、ユニテリアンはインドの宗教しゅうきょう伝統でんとう仲介ちゅうかいしゃとなった[27]

渡米とべい途中とちゅうった日本にっぽん見聞けんぶんした、近代きんだい西洋せいよう様子ようすと、日本にっぽん仏教ぶっきょう寺院じいん古代こだいベンガル文字もじかれたサンスクリットマントラひとしられる極東きょくとうにまでおよんだインドの宗教しゅうきょう影響えいきょう感銘かんめいけ、しゃく宗演そうえんあしじつぜん平井ひらい金三きんぞうらとならんで仏教ぶっきょう部会ぶかい(Buddhist Congress)にも出席しゅっせきし、仏教ぶっきょうとヒンドゥーきょうはユダヤきょうとキリストきょう関係かんけい同様どうよう関係かんけいせいであること、仏陀ぶっだ思想しそう論理ろんりせいたかさや慈悲じひしんふかさについてあつかたった[35]。(なお、この万国ばんこく宗教しゅうきょう会議かいぎで、日本にっぽんしゃく宗演そうえんは、欧米おうべい世界せかい日本にっぽんぜん仏教ぶっきょうはじめて紹介しょうかいする。)

かれ伝道でんどう活動かつどうおもにインドがいおこなわれた[18]。1894ねんにアメリカでヴェーダーンタ協会きょうかい設立せつりつ[7]会議かいぎわるとアメリカからパリにって、1895ねんにイギリスのロンドンにって講演こうえんをした。2、3ねんあいだかれニューヨークロンドンにヴェーダーンタ協会きょうかい開設かいせつし、主要しゅよう大学だいがく講義こうぎおこなって注目ちゅうもくあつめた。ヴィヴェーカーナンダを歓迎かんげいしたのは、かれ常々つねづね批判ひはんしたキリスト教きりすときょう宣教師せんきょうしたちだった[20]

1895ねんまつにイギリスからアメリカにもどり、インドの宗教しゅうきょう哲学てつがくかんする講義こうぎつづけ、のちに『カルマ・ヨーガ』『バクティ・ヨーガ』『ジュニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ』としてまとめられ、ハーバード大学だいがくでの講義こうぎが『ヴェーダーンタ哲学てつがく』として出版しゅっぱんされた[29]。アメリカじん弟子でしもでき、クルパーナンダ、アブハヤーナンダ、ヨーガナンダ、シスター・ハリダーシーといったアメリカじん弟子でしくわわってインドで科学かがく組織そしきおしえ、活発かっぱつ東西とうざい交流こうりゅうおこなわれ、これがラーマクリシュナ・ミッションの運動うんどうにつながった[36]

1897ねんにはロンドンで講演こうえんかいひらいた。比較ひかく宗教しゅうきょうがくマックス・ミューラーかれオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくいくつかのカレッジに紹介しょうかいし、ヴィヴェーカーナンダからいたラーマクリシュナのはなしをまとめて『ラーマクリシュナの生涯しょうがいおしえ』を出版しゅっぱんした[37]。ここで出会であったイギリスじんたちは、ヴィヴェーカーナンダに感銘かんめいけてわたりしるし、ヒマラヤにアーシュラムをつくってんだ[37]。また、ヴィヴェーカーナンダはドイツにもまねかれ講演こうえんおこなった[37]

欧米おうべい一般いっぱん大衆たいしゅうからつよ印象いんしょうけ、西洋せいよう文明ぶんめいりょくと、女性じょせい教養きょうようたかさにおどろいた[37]

4ねんおよ欧米おうべいでの外遊がいゆう講義こうぎののち、1897ねんかれはインドに帰国きこくした。

帰国きこく[編集へんしゅう]

ヴィヴェーカーナンダ(前列ぜんれつひだりから1番目ばんめ)、ヴィヴェーカーナンダを献身けんしんてきささえたアメリカじん友人ゆうじんジョセフィン・マクラウド英語えいごばん前列ぜんれつみぎから2番目ばんめ)。1899ねん、ニューヨーク。
ヴィヴェーカーナンダの弟子でしシスター・ニヴェーディターと、ラーマクリシュナ・ミッションで聖母せいぼ崇敬すうけいされたラーマクリシュナのつまサーラダー・デーヴィーひだり)(1900ねんごろ
1900ねん写真しゃしん
ベールール僧院そういん

1897ねんに、ラーマクリシュナのおしえを具現ぐげんするためとして、ラーマクリシュナ・ミッションをおこした。これは、現代げんだいインドのヒンドゥー社会しゃかいにおけるもっとおおきな教育きょういく機関きかんの1つである。インドないでの活動かつどうは、伝道でんどうよりもむしろ、病院びょういん建設けんせつ学校がっこう経営けいえい出版しゅっぱんといった社会しゃかい奉仕ほうし活動かつどう中心ちゅうしんだった[38]

1898ねん11月に、かれ弟子でしであるアイルランドじんシスター・ニヴェーディター(マーガレット・ノーブル)の女学校じょがっこう開校かいこう、12月にはベルル僧院そういん(ラーマクリシュナ僧院そういん)が建立こんりゅうした。ラーマクリシュナ・ミッション、ラーマクリシュナ僧院そういん保守ほしゅてきなヒンドゥー正統せいとうからの批判ひはんもあった。ヴィヴェーカーナンダは1899ねん1がつから1900ねん12がつにかけて再度さいどアメリカ、ヨーロッパを外遊がいゆうした。

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナ・ミッションの組織そしき整備せいびし、社会しゃかい貢献こうけん活動かつどう布教ふきょう修行しゅぎょう平行へいこうしておこない、多忙たぼうであった。1901ねん、ヒマラヤのアーシュラムの創設そうせつ尽力じんりょくした。1902ねんには、インドを訪問ほうもんした岡倉おかくら天心てんしん親交しんこうむすんでいる[2]横山よこやま大観たいかん織田おだ得能とくのうなどの文化ぶんかじんとの交遊こうゆうもあり、日本にっぽんへのおよぼした精神せいしんてき影響えいきょうもみられる[7]

糖尿とうにょうびょう気管支きかんし喘息ぜんそく慢性まんせい不眠症ふみんしょうにひどくくるしめられ、健康けんこう状態じょうたい低下ていかしていった[39]1902ねん7がつ4にちあさ、コルカタの郊外こうがい自身じしん創設そうせつしたラーマクリシュナ僧院そういん前身ぜんしんであるベールール僧院そういんにて、講義こうぎ散歩さんぽ弟子でしへの遺言ゆいごんのち死亡しぼうした。39さいわかさであった[37]

思想しそう[編集へんしゅう]

基本きほんてきに、伝統でんとうてき一元論いちげんろん伝統でんとうてき正統せいとうヴェーダーンタ哲学てつがくてき観念かんねん立脚りっきゃくしており、青年せいねん時代じだい影響えいきょうけたブラフモ・サマージの普遍ふへん主義しゅぎてき思考しこう傾向けいこうがみられる[5]古典こてんてき一元論いちげんろん近代きんだいてき意義いぎあたえ、人々ひとびとれられるよう脚色きゃくしょくほどこして提示ていじした[40]

普遍ふへん宗教しゅうきょうとしてのヒンドゥーきょう[編集へんしゅう]

ヒンドゥーきょう[編集へんしゅう]

のラーマクリシュナは、まずしいそだちで満足まんぞく教育きょういくけておらず、サンスクリット知識ちしきもなく、英語えいごもわからず、教養きょうようとぼしかった[15]無邪気むじゃき子供こどものような性格せいかく人々ひとびとあいされ、易々いい神秘しんぴ体験たいけんはいることで注目ちゅうもくあつめた[15]。ラーマクリシュナは大欲たいよく肉欲にくよく性欲せいよく)をてることの重要じゅうようせい強調きょうちょうし、これはヴィヴェーカーナンダにがれた[12]。ラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダの関係かんけいは、パウロとキリストにもたとえられ、ヴィヴェーカーナンダはおしえにき、おしえた真理しんり布教ふきょうのみをみずからの使命しめいとし、設立せつりつした教団きょうだん名前なまえかんし、権威けんいともにその思想しそうかたった[12][41]。ラーマクリシュナは、様々さまざま宗教しゅうきょうでの神秘しんぴ体験たいけんつうじ、かく宗教しゅうきょうほうじられているかみは、最高さいこう唯一ゆいいつ絶対ぜったい存在そんざいかたちえて顕現けんげんしたものであり、それぞれの宗教しゅうきょうみちことなれどおな地点ちてん目指めざすものであるといた[42]かれはカーリー女神めがみ特別とくべつし、カーリー女神めがみこそがかみ主要しゅよう顕現けんげんであるとかんがえており、その宗教しゅうきょうしんは、慈悲じひふかははしんとしてのカーリー女神めがみへのバクティ中核ちゅうかく形成けいせいされ、タントラてき性格せいかくつことが近年きんねん解明かいめいされつつある[43][42]一方いっぽうかれによって宗教しゅうきょうみちはいったヴィヴェーカーナンダは、高度こうど教育きょういくはぐくまれた知性ちせいにより、「個我こがてき自己じこ絶対ぜったいしゃブラフマン完全かんぜん合一ごういつ」というシャンカラ系統けいとうヴェーダーンタ哲学てつがく伝統でんとうてき由緒ゆいしょただしい境地きょうち真理しんりいたっており、両者りょうしゃ思想しそうことなるめん[43]。ヴィヴェーカーナンダは、思想しそうてきにはあたらしい哲学てつがく体系たいけいつくったわけではない[1]ラーマクリシュナ・ミッション教義きょうぎは、ヴェーダーンタ哲学てつがく思想しそう中心ちゅうしんいたことでぜんインドてき基盤きばんつものになり、欧米おうべいにまでひろまることが可能かのうとなった[43]

ヴィヴェーカーナンダは万国ばんこく宗教しゅうきょう会議かいぎで、「ヒンドゥーきょうとは、世界せかい人々ひとびとにすべてを受容じゅようする寛容かんよう精神せいしんつたえる宗教しゅうきょうであり、そのことをさと宗教しゅうきょうでもある。それは、人間にんげんひとりひとりのうち存在そんざいする神性しんせいみとめ、人類じんるいみずからの神性しんせい自覚じかくすることをたすける普遍ふへん宗教しゅうきょうでもある。また、ヴェーダは、ヴェーダーンタ哲学てつがくから偶像ぐうぞう崇拝すうはい思想しそういたるまでの多岐たきにわたる思想しそう共通きょうつう基盤きばんであり、れいせい法則ほうそくあつめられている宝庫ほうこで、そのおしえは科学かがくとも矛盾むじゅんしない。また偶像ぐうぞう崇拝すうはいをも容認ようにんし、すべての宗教しゅうきょう真実しんじつであるとして、宗教しゅうきょうあいだ対話たいわもとめる宗教しゅうきょうでもある」といった内容ないようかたった[31]

ヴィヴェーカーナンダは、ヴェーダーンタは絶対ぜったいてき人格じんかくてきなものであり、それをいたひと権威けんい関係かんけいがあるものではなく、ただ真理しんりであり、属人ぞくじんてき権威けんいはむしろ真理しんりさまたげになるとした[44]すべての人々ひとびと無限むげん進歩しんぽ希望きぼうあたえるおしえであり、ひろく、おおきく、そして楽天的らくてんてきであるといた[44]

普遍ふへん宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

"Inspired Talks"' ヴィヴェーカーナンダの弟子でしよって作成さくせいされた。(1909ねん出版しゅっぱん

万国ばんこく宗教しゅうきょう会議かいぎ演説えんぜつでヒンドゥーきょうおしえをくことで、インドじんとしてのほこりをもどそうとしたが、インドがい人々ひとびと評価ひょうかされたのは普遍ふへん主義しゅぎほうである[45]。ヴィヴェーカーナンダは近代きんだいのヒンドゥーきょう普遍ふへん宗教しゅうきょうという要素ようそくわえたことで、ヒンドゥー・ナショナリズム非常ひじょうおおきな足跡あしあとのこした[45]

ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナの思想しそう哲学てつがく普遍ふへんというアレンジをくわえてひろめた[46]。ラーマクリシュナの、すべての宗教しゅうきょうほうじられるそれぞれのかみ最高さいこう唯一ゆいいつ絶対ぜったい存在そんざいかたちちが顕現けんげんであり、カーリー女神めがみこそが主要しゅよう顕現けんげんであるという思想しそう発展はってんさせ、しょ宗教しゅうきょうでの神秘しんぴ体験たいけん基盤きばんに、あらゆる宗教しゅうきょうひとつにするものであり、あらに世界せかいしょ宗教しゅうきょう対立たいりつしたり矛盾むじゅんしたりするものではなく、永遠えいえんなるひとつの宗教しゅうきょう様々さまざま局面きょくめんであり、存在そんざいするのはただひとつの宗教しゅうきょうだけであるとるべきとかんがえた[47]。この「いちなる普遍ふへん宗教しゅうきょう」の存在そんざい前提ぜんていとし、そのうえでそれぞれの宗教しゅうきょう存在そんざいとその意義いぎみとめるというのが、ヴィヴェーカーナンダの宗教しゅうきょうかんである[38]

いちなる普遍ふへん宗教しゅうきょう」というひとつの体系たいけい形成けいせいしようとしたというより、ヴェーダ優位ゆういせいたもったうえで、たがいに宗教しゅうきょうなかえる普遍ふへんてき要素ようそみとい、各々おのおの宗教しゅうきょうをよりいものにしていこうとびかけ、あらゆる宗教しゅうきょう尊重そんちょう理解りかい受容じゅよう推奨すいしょうした[48][38]

ナショナリズム[編集へんしゅう]

当時とうじ欧米おうべいに、ヒンドゥーきょう(ヒンドゥーイズム)を理解りかいしているひとはほとんどおらず、聖典せいてんんだひともなく、(仏教ぶっきょうなどのぞく)インドの宗教しゅうきょう文化ぶんか哲学てつがくあらわ漠然ばくぜんとした説明せつめいしがたい概念がいねん、またカースト制度せいどつおぞましい偶像ぐうぞう崇拝すうはいとしてめられていた[49][50]。ヴィヴェーカーナンダは、自身じしん出家しゅっけしゃとしての体験たいけんをふまえて、近代きんだい自然しぜん科学かがくおよ社会しゃかい発展はってん意識いしきしつつ、欧米おうべいじんにもれられるかたちでヒンドゥーきょう解説かいせつし、あらたな自己じこ概念がいねんあたえた[51]

ヴィヴェーカーナンダはヒンドゥーきょう本質ほんしつについて、アドヴァイタ・ヴェーダーンタにもとづいて明確めいかく説明せつめいおこない、その深遠しんえんさをしめした。あらゆる宗教しゅうきょう受容じゅようすべきといたうえで、もっとすぐれて深遠しんえん哲学てつがくアドヴァイタ・ヴェーダーンタ裏付うらづけられたヒンドゥーきょうこそがもっと素晴すばらしい宗教しゅうきょうであり哲学てつがくであり、インドじんはこれをほこりにおもい、また世界せかいひろめる義務ぎむがあると主張しゅちょうし、かれ世界せかいへの伝道でんどう使命しめいであるとかんがえていた[38]。インドの宗教しゅうきょうとナショナリズムをむすけ、インドじん民族みんぞくほこりをあた鼓舞こぶした[38]のちにヴィヴェーカーナンダの著書ちょしょんだインド独立どくりつちちマハトマ・ガンディーが「わたし祖国そこくたいするあいなんせんばいふかくなった」とかたっているように、ヴィヴェーカーナンダはインドじん精神せいしんてきバックボーンをつくり、独立どくりつ運動うんどう影響えいきょうあたえた[38][52]

インドじん過去かこ栄光えいこうにすがることなく、おとこらしく未来みらいひらくよううったえ、上層じょうそう階級かいきゅう肉体にくたいてきにも道徳的どうとくてきにも堕落だらくしているとし、民衆みんしゅうこそが唯一ゆいいつ希望きぼうであるとかんがえた[53]

かみ[編集へんしゅう]

かみついては、「創造そうぞうぬしではなく」「かれはあらゆるところ存在そんざいし、純粋じゅんすい無形むけい存在そんざいで、かつ全能ぜんのうで、慈悲じひそのものである」と説明せつめいした[31]

偶像ぐうぞう崇拝すうはい[編集へんしゅう]

偶像ぐうぞう崇拝すうはいについては、「べつおそろしいものではなく」「発達はったつしんたか霊的れいてき真理しんり理解りかいさせようとするこころみである」として是認ぜにん擁護ようごする立場たちばった[31][1]

カースト[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょうカースト関係かんけいしているようにえるが、そうではなく、「宗教しゅうきょうにおいてカーストはく、カーストはたんなる社会しゃかいてき制度せいどである」とべており、ダルマほう)をまもるもの、各々おのおのすぐれた職能しょくのうによる分業ぶんぎょうという社会しゃかい制度せいどとしてのカーストは自然しぜん秩序ちつじょであるとして肯定こうていし、カーストは存続そんぞくすべきとした[54][55]

かれいた独特どくとくのカーストは、元来がんらいヴァルナ制度せいどのもとで、そのひと特質とくしつと、そのひとサットヴァ英語えいごばんラジャス英語えいごばん・タマス(Tamas)というトリグナ(tri-Guṇa、3つのグナ、さん特性とくせい)のわせによってバラモンクシャトリヤヴァイシャシュードラのどれかまるとされ、これは遺伝いでんではないという[55]。カーストはあらゆる社会しゃかいにあり、カーストや儀式ぎしきわっていくが、本質ほんしつ原則げんそくわらないだろうとべている[55]

一方いっぽう社会しゃかい制度せいどとしてのカーストの劣化れっかしたわる側面そくめんまれにもとづくカーストを批判ひはんした[55]。ヴィヴェーカーナンダは社会しゃかい主義しゅぎしゃ自認じにんし、シャンカララーマーヌジャナーナクチャイタニヤ・マハープラブカビールといったインドの宗教しゅうきょうたち同様どうようにカーストがい不可ふかさわみん(パーリア、南部なんぶインドの最下さいかきゅうみん)への同情どうじょうしめし、支配しはいしゃのカーストが下位かいカーストをみつける行為こういいましめ、もっと抑圧よくあつされている不可ふかさわみん生活せいかつ向上こうじょうさせることが社会しゃかい進歩しんぽさせる唯一ゆいいつ方法ほうほうであるとかんがえた[55]

宗教しゅうきょう科学かがく[編集へんしゅう]

ヴェーダーンタは合理ごうりてき科学かがくてきおしえであり、ヒンドゥーきょう目標もくひょうは「多様たようせい二元にげんせいとを究極きゅうきょく単一たんいつせい到達とうたつする」ことで、自然しぜん科学かがく現代げんだい科学かがくおな目標もくひょうっていると主張しゅちょうした[44][31][56]

身心しんしん鍛錬たんれん[編集へんしゅう]

イギリスじんは、インドじんとインド社会しゃかい肉体にくたいてき道徳どうとくてき精神せいしんてき堕落だらくしているという脆弱ぜいじゃく神話しんわとなえてインド支配しはい正当せいとうしようとし、インドじん脆弱ぜいじゃく神話しんわ内面ないめんしていた。そのためインドじん知識ちしきじんたちは、筋肉きんにくてきキリスト教きりすときょう背景はいけいとする西洋せいよう身体しんたい鍛錬たんれん文化ぶんか英語えいごばん興味きょうみち、肉体にくたい強化きょうかして個人こじん社会しゃかい堕落だらくわれる状態じょうたい克服こくふくしようとし、またイギリスとの武力ぶりょく闘争とうそう闘士とうしそだてようとした[57]。ヴィヴェーカーナンダは西洋せいよう諸国しょこく外遊がいゆうからの帰国きこく、「インドじんにはてつ筋肉きんにくてつしんけている」として身体しんたい鍛錬たんれん文化ぶんか支持しじして「筋肉きんにくてきヒンドゥーきょう」ともえる立場たちばり、つぎのようにかえかたった[57][58]

もしもこのつみがあるとすれば、それはよわさである。すべてのよわさをけよ、よわさこそつみである。よわさはである……真実しんじつ試金石しきんせきとはこれだ。あなたを肉体にくたいてきに、知的ちてきに、そして精神せいしんてきよわめるものをすべてどくとして拒否きょひせよ、そのなかいのちはない。それは真実しんじつではありえない。[58]

こうしたかんがえは、バール・ガンガーダル・ティラクオーロビンド・ゴーシュらに影響えいきょうあたえた[57]

ヨーガ[編集へんしゅう]

イギリス支配しはいでのヒンドゥー・ナショナリズムたかまりのなかで、西洋せいよう影響えいきょうけ、西洋せいよう意識いしきしつつヒンドゥーきょうさい構築こうちくされた[59]。そうした状況じょうきょうした、ヴィヴェーカーナンダは万国ばんこく宗教しゅうきょう会議かいぎのち欧米おうべいでの講演こうえんとおし、欧米おうべい聴衆ちょうしゅうもとめるものをよくり、それにわせるかたちおしえをいていった[60]

バガヴァッド・ギーター』やヨーガ学派がくは思想しそうさい編成へんせいし、ヴェーダーンタさい解釈かいしゃくし、単純たんじゅんし、近代きんだいして、ヨーガのによっていた[60]ネオ・ヴェーダーンタ英語えいごばん)。ヨーガを「心理しんりてき統制とうせいによって、ひく自我じがたか自我じがとを結合けつごうすること」と定義ていぎしたうえで、「われわれをかみへみちびく、なんらかの仕方しかた修養しゅうよう(カルチャー)」 と非常ひじょうひろくとらえ、「しん科学かがく」として提示ていじした[59][61]人間にんげんを4つの類型るいけい分類ぶんるいし、その類型るいけいそれぞれにふさわしい4つのヨーガがあるとした[60]活動かつどうてき精神せいしん分析ぶんせきてき宗教しゅうきょうてき哲学てつがくてきというタイプそれぞれにうヨーガとして、カルマ・ヨーガ実践じっせんみち)、ラージャ・ヨーガ心身しんしん統一とういつみち)、バクティ・ヨーガ信愛しんあいみち)、ジュニャーナ・ヨーガ智慧ちえみち)を提示ていじし、これにより普遍ふへん宗教しゅうきょうとして幅広はばひろ宗教しゅうきょうてきニーズに対応たいおうした[60]。ヴィヴェーカーナンダのヨーガの最終さいしゅう目標もくひょうは、ジュニャーナ・ヨーガ(智慧ちえみち) であるとかんがえられているが、アメリカで人気にんきとなったのは実践じっせんてきなラージャ・ヨーガである[34]ロマン・ロランによれば、ひとびとは「世界せかい征服せいふく幼稚ようち不健全ふけんぜん秘密ひみつもとめてちからのヨーガ‐ラージャ・ヨーガ‐にびついた」、つまり神秘しんぴてきちから秘密ひみつ習得しゅうとく目指めざしてラージャ・ヨーガをおこなったという[60]

ヴィヴェーカーナンダは、あらゆる宗教しゅうきょう共通きょうつう要素ようそ感覚かんかく限定げんていえようとする努力どりょくだとした。自然しぜん背後はいごはたらおおいなるちからるのも、先祖せんぞ霊魂れいこん崇拝すうはいするのも、れい啓示けいじけるのも、さとひらいて永遠えいえん法則ほうそく理解りかいするのも、ちょう感覚かんかくてきなものにたいするかかわりだという。宗教しゅうきょう対象たいしょう絶対ぜったいあるいは無限むげんであるがゆえに人間にんげん理性りせい感覚かんかくおさまりきらず、物質ぶっしつまることもない。感覚かんかく限定げんていえ、無限むげんなるものと合一ごういつするのが最高さいこう理想りそうなのだと主張しゅちょうし、ヨーガは合一ごういつのための手段しゅだんであるとべた。[よう出典しゅってん]

エリザベス・ド・ミシェリスは、「近代きんだいてきヨーガ」(modern yoga)はヴィヴェーカーナンダにはじまったとており、B・マッドセンはヴィヴェーカーナンダのヨーガを「スピリチュアル科学かがくてきヨーガ」(spiritual scientific yoga)の分類ぶんるいしている[59]

ジュニャーナ・ヨーガ(智慧ちえみち[編集へんしゅう]

インドもん近郊きんこうのヴィヴェーカーナンダのぞう(ムンバイ)

ジュニャーナ・ヨーガは、実在じつざいをあるがままに普遍ふへんなる存在そんざい合一ごういつすることを目指めざす。自我じがとは迷盲であり、かみのみが実在じつざいであることをによって理解りかいしようとするのがこの哲学てつがくてきヨーガのみちである。このみちについてのヴィヴェーカーナンダのおしえはアドヴァイタ・ヴェーダーンタ、つまりシャンカラ思想しそう中心ちゅうしんになっている。かみとおくの天国てんごくかどこかにではなく、すべてのもののなかに、人間にんげんなかに、自分じぶんなかにいるということがヴェーダーンタ哲学てつがく主張しゅちょうであるとする。

ジュニャーナ・ヨーガの目的もくてきは、すべてはかみであるというおしえを外面がいめんだけ研究けんきゅうすることではなく、内面ないめんはいって合一ごういつることであるという。

バクティ・ヨーガ(信愛しんあいみち[編集へんしゅう]

ヴィヴェーカーナンダの坐像ざぞう(マイソール)

バクティ・ヨーガは、かみ夢中むちゅうになることによってちいさな「」をほろぼし、かみ合一ごういつすることを目指めざす。これはラーマクリシュナがこのんだみちでもある。バクティにも段階だんかいがあという。象徴しょうちょうたすけのもとにたましい浄化じょうか目指めざされるが、浄化じょうかなか最高さいこうのものは放棄ほうきであり、放棄ほうき最高さいこうあいからまれるとする。ヴィヴェーカーナンダはあい段階だんかい以下いかのようにけている。

  1. 平凡へいぼんあい(シャーンタ)
  2. 使つかいの主人しゅじんへのあい(ダーシャ)
  3. 友情ゆうじょう(ダキア)
  4. おや子供こどもたいする愛情あいじょう(ワーツサリア)
  5. 恋人こいびとあい(マドゥラ)

友人ゆうじん同士どうし平等びょうどうあいむすばれる。おや利害りがいはなれて子供こどものためをおもう。恋人こいびと相手あいてのためならすべてをつ。これは「」のえていく段階だんかいである。バクティはかみへのあいであり、かみ以外いがいのあらゆるもの(ふくむ)ではなく、かみのみをあいすることを理想りそうとする。

かみのみをあいせよということは、一切いっさいかみあらわれであるとする立場たちばからは、すべてをあいせよということになる。ヴィヴェーカーナンダはあいかみであり、宇宙うちゅう原動力げんどうりょくだともべた。宇宙うちゅう全体ぜんたいあいあらわれであり、あいするものとあいされるものという区分くぶん究極きゅうきょくてきには消滅しょうめつし、すべてが一体いったいとなったあいのみがのこるという。

カルマ・ヨーガ(実践じっせんみち[編集へんしゅう]

カルマはごう、または行為こういやくされる。ひとおこなすべてのはたらき、肉体にくたいの1つ1つのうごき、それぞれのおもいはしん実質じっしつうえ印象いんしょうのこし、それが表面ひょうめんあらわれずとも下層かそうにおいて潜在せんざい意識いしきとしてはたらくだけのちからつようになるという。かく瞬間しゅんかんにおける人間にんげん存在そんざいは、しんきざまれたこれらの印象いんしょう総計そうけいによってまるとし、行為こうい人間にんげん存在そんざいめるとかんがえた。カルマヨーガは行為こうい結果けっかから自由じゆう執着しゅうちゃくにより合一ごういつ目指めざす。

日常にちじょうてき仕事しごと重要じゅうようで、仕事しごとちからこす打撃だげきだとヴィヴェーカーナンダはいた。ぜん立場たちば文化ぶんかによって様々さまざま相対そうたいてきなものとされ、なに善行ぜんこうなのかはあまり重視じゅうしされない。ひとそれぞれが自分じぶんかれた立場たちばにあってその義務ぎむたすことが偉大いだいだとされるカルマ・ヨーガの共通きょうつう理想りそうは、利己りこてき動機どうきはなれた無私むしはたらきである。カルマ・ヨーガの行者ぎょうじゃ日常にちじょうはたらきで真理しんりるため、高名こうみょう宗教しゅうきょうとはなりにくいが、によって真理しんりたブッダ、あいにより真理しんりたキリストとおなじように偉大いだいだとヴィヴェーカーナンダは主張しゅちょうする。もっと平凡へいぼん生活せいかつなか偉大いだいなものがいるとするこのおしえは、民衆みんしゅうける社会しゃかいてき実践じっせんとも関係かんけいする。

ラージャ・ヨーガ(心身しんしん統一とういつみち[編集へんしゅう]

『ラージャ・ヨーガ』タイトルページ

ラージャ・ヨーガは、瞑想めいそうによりしん制御せいぎょして合一ごういつ目指めざすものであるとする。心身しんしん統一とういつ方法ほうほうで、精神せいしん肉体にくたい両方りょうほうはたらきかけるものであり、人間にんげん精神せいしんかかわるほかの3つのヨーガとはあつか対象たいしょうことなる[60]書籍しょせき『ラージャ・ヨーガ』は、ニューヨークでの講演こうえん記録きろくと「パタンジャリのヨーガ格言かくげんしゅう」からなり、全体ぜんたいとしておもにパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』のはち部門ぶもんくわしく解説かいせつされている[60]。『ヨーガ・スートラ』は以下いかの8つの段階だんかい合一ごういついたみちしるしている。

  1. きん戒(ヤマ
  2. 勧戒かんかいニヤマ
  3. すわほうアーサナ
  4. 調しらべいきプラーナーヤーマ
  5. せいかん(プラティヤーハーラ)
  6. しこりねん(ダーラナー)
  7. しずかおもんばかディヤーナ
  8. 三昧ざんまいサマーディ

ヴィヴェーカーナンダは、ラージャ・ヨーガはインドじんならではの精神せいしん科学かがくであり、集中しゅうちゅう研究けんきゅうであるとべている。『ヨーガ・スートラ』の解釈かいしゃくはそれまでより実践じっせんてきであり、プラーナ呼吸こきゅう)とプラーナーヤーマ調しらべいき)にかんしてハタ・ヨーガ生理学せいりがくてき要素ようそくわえられ、ヨーガを実践じっせんしプラーナを制御せいぎょすることで「ほとんど全能ぜんのう、ほとんど全知ぜんち」になることが可能かのうであると主張しゅちょうしている[60]かれの『ラージャ・ヨーガ』は、『ヨーガ・スートラ』、ヒンドゥーきょう伝承でんしょうブラフモ・サマージひとし近代きんだいヒンドゥーきょう思想しそう当時とうじ西洋せいよう科学かがくである物理ぶつりがく心理しんりがく解剖かいぼうがくとう、アメリカで人気にんきのあった自然しぜん魔術まじゅつ系譜けいふメスメリズム動物どうぶつ磁気じき療法りょうほう)、オカルティズム代替だいたい医療いりょうひとしざったものになっており、当時とうじのアメリカにいた精神せいしん治療ちりょういえ信仰しんこう治療ちりょう英語えいごばんいえ心霊しんれい主義しゅぎくだかみじゅつものニューソートクリスチャンサイエンティスト催眠さいみんじゅつものなども無意識むいしきプラーナ制御せいぎょしているとした[60]

メソッドの実践じっせん儀礼ぎれい身心しんしん技法ぎほう聖職せいしょくしゃたましい救済きゅうさい直接ちょくせつもとめるメソジストクエーカーきょうなどのキリスト教きりすときょう潮流ちょうりゅう背景はいけいに、実践じっせんてきなラージャ・ヨーガは、当時とうじのアメリカでたかみにのぼるための身心しんしん技法ぎほうとして人気にんきはくした[60]

ハタ・ヨーガ[編集へんしゅう]

ヴィヴェーカーナンダは西洋せいよう身体しんたい鍛錬たんれん文化ぶんか支持しじしたが、インドの伝統でんとうてきな、動的どうてき肉体にくたい鍛練たんれんてきハタ・ヨーガ実践じっせんについては、「実践じっせんはたいそうむずかしくて1にちまなぶことはできず、そして結局けっきょくれいせい成長せいちょうとはほとんど無関係むかんけいであるため、わたしたちのヨーガとはなん関係かんけいもない」として否定ひていてき立場たちばった[57]

社会しゃかいてき実践じっせん[編集へんしゅう]

アートマン本質ほんしつてきブラフマン同一どういつであるというシャンカラおしえをぎ、人間にんげんには内的ないてき偉大いだいさと神性しんせいがあるとし、ブラフマンを内包ないほうする人間にんげんへの奉仕ほうし本質ほんしつてきにブラフマンへの奉仕ほうしおなじであるとかんがえ、まずしい人々ひとびとへの奉仕ほうしは「貧者ひんじゃとしてのかみナーラーヤナ」の崇拝すうはいであるといた[1]

かみへのバクティ強調きょうちょうしたラーマクリシュナは社会しゃかいたい逃避とうひてきであり、当時とうじのインドでおこなわれていた社会しゃかい改革かいかく活動かつどう無駄むだ行為こういかんがえていたが、ヴィヴェーカーナンダは出家しゅっけしゃ現実げんじつ利害りがいしばられずに無私むし奉仕ほうし可能かのうであるとかんがえ、社会しゃかい奉仕ほうし僧院そういん修行しゅぎょう一環いっかんとして導入どうにゅうした[62][1]。これはキリスト教きりすときょう宣教師せんきょうし影響えいきょうけてのこととかんがえられている[1]。ヴィヴェーカーナンダは、ははしん子供こどもたちたる民衆みんしゅう悲惨ひさん境遇きょうぐうからたすけ、ははしん顕現けんげん見做みなせる母国ぼこく外国がいこく支配しはいから解放かいほうすることもできるとかんがえた[62]僧院そういんへの社会しゃかい奉仕ほうし導入どうにゅうは、僧院そういん一般いっぱん信者しんじゃ社会しゃかいてき関係かんけいにとって重要じゅうよう変革へんかくであり、ラーマクリシュナ・ミッションは社会しゃかい活動かつどうにいそしみ、上流じょうりゅう中間なかまそう支持しじ[62][1]

のヒンドゥーきょう宗教しゅうきょう改革かいかく運動うんどうへの評価ひょうか[編集へんしゅう]

ブラフモ・サマージ設立せつりつしゃラーム・モーハン・ローイは、インド宗教しゅうきょう改革かいかく運動うんどう嚆矢こうしとなり、「インド最初さいしょ近代きんだいじん」「近代きんだいインドのちち」ともばれた[63]。ブラフモ・サマージは、イスラム、キリストきょう、そして古代こだいウパニシャッドなか真理しんり普遍ふへんせいみとめ、当時とうじのヒンドゥーきょうゆがめられたものとして純粋じゅんすい古代こだい姿すがたもどすことを目指めざし、サティー[注釈ちゅうしゃく 3]などの悪習あくしゅう廃止はいしとインド社会しゃかい近代きんだい目指めざした[63]イスラム神秘しんぴ主義しゅぎ影響えいきょう幼少ようしょうつよけたローイは、インド思想しそう根底こんていにある輪廻りんねカルマしんじておらず、ヴィヴェーカーナンダは、ブラフモ・サマージの性格せいかく折衷せっちゅう主義しゅぎであり、むしろキリスト教きりすときょうちかいとひょうした[64]

ダヤーナンダ・サラスヴァティー英語えいごばん設立せつりつしたアーリヤ・サマージは、たんなるヴェーダ主義しゅぎであり、後期こうきのヒンドゥーきょう完全かんぜん無視むししているとした[65]

インド・ナショナリズムの運動うんどうおおきな影響えいきょうあたえたヘレナ・P・ブラヴァツキーらによるかみ智学ちがく協会きょうかいについては、疑似ぎじヒンドゥーきょうぎないとだんじた[65]

また、かみ智学ちがく協会きょうかいのオルコットと懇意こんいだったアナガーリカ・ダルマパーラ(セイロン)のしん仏教ぶっきょうについては、かみ智学ちがく西欧せいおう文献ぶんけん偏狭へんきょう混合こんごうぶつであるとかんがつよ批判ひはんした[28]

アカデミックな批評ひひょう[編集へんしゅう]

これまでおもに、ヒンドゥーきょう古代こだいヴェーダーンタ思想しそう依拠いきょするすぐれた世界せかい宗教しゅうきょうとして称賛しょうさんする、愛国あいこく主義しゅぎてき宗教しゅうきょう改革かいかくしゃとして評価ひょうかされてきた[9]人類じんるい学者がくしゃ杉本すぎもと良男よしおは「ヴィヴェーカーナンダはインドのヒンドゥーきょうにとって内部ないぶからは異物いぶつ外部がいぶからその代表だいひょうられる特異とくいな、しかし近代きんだい西欧せいおう世界せかいではあるしゅ典型てんけいてき役回やくまわりをえんじた人物じんぶつ」であり、かれ改革かいかくヒンドゥーきょうは「政治せいじてき知的ちてき植民しょくみん支配しはいをうけたエリートが、キリストきょうをモデルにしてみずからの『宗教しゅうきょう』のさい定義ていぎをへてその内部ないぶからの改革かいかくをめざす宗教しゅうきょうナショナリズムのひとつの典型てんけい」と解説かいせつしている[46]。ペンシルバニア大学だいがくのウィルヘルム・ハルプファスは、ヴィヴェーカーナンダは西洋せいよう世界せかいにおける確認かくにん承認しょうにん探求たんきゅう活動かつどう中心ちゅうしんてきモチーフにしていたとし、かれのインド思想しそうへの理解りかい複雑ふくざつなヴェーダーンタ思想しそう体系たいけいを「表面ひょうめんてき定型ていけいし」たものにすぎず、その基本きほんてき概念がいねんも「物質ぶっしつてき西洋せいようとスピリチュアルな東洋とうよう」の対立たいりつ図式ずしきであると、ややきびしい評価ひょうかをしている[66]。インド近代きんだい研究けんきゅうのビパン・チャンドラ(Bipan Chandra)は、近代きんだいインドの宗教しゅうきょう改革かいかく運動うんどうしゃは、古代こだいインドに黄金おうごん時代じだい見出みいだして過剰かじょう賛美さんびすることで、インドじん理性りせいてき科学かがくてき思考しこう後退こうたいさせ、近代きんだい科学かがく全面ぜんめんてき受容じゅよう現状げんじょう改善かいぜんさまたげたが、ヴィヴェーカーナンダも同様どうようだったとひょうしている[9]かれ思想しそうヒンドゥー至上しじょう主義しゅぎ理念りねんささえるものとして利用りようされてきたというめんみとめられる[7]

一方いっぽうベンガル・ルネッサンスを研究けんきゅうするデイヴィッド・コフ(David Kopf)は、西洋せいよう近代きんだい土着どちゃくインドといった図式ずしきてき対比たいひが、ベンガル・ルネッサンスのこころみを多面ためんてき理解りかいすることをはばみ、その普遍ふへん主義しゅぎてき側面そくめん軽視けいしさせていると単純たんじゅん見方みかた注意ちゅういうながし、「文化ぶんかナショナリストとして言及げんきゅうされるヴィヴェーカーナンダでさえも、もともとは、宗教しゅうきょうてき文化ぶんかてき統合とうごう基盤きばんとしてのネオ・ヴェーダーンタを、世界せかい提示ていじしたのである」とかたっている[9]。また、みなみアジアを研究けんきゅうする文化ぶんか人類じんるい学者がくしゃ外川そとかわ昌彦まさひこは、「ただ過去かこ栄光えいこうたたえるだけの復古ふっこ主義しゅぎには還元かんげんできないふところふかさをっていた」とし、ビパン・チャンドラの指摘してきはヒンドゥーきょう改革かいかく運動うんどうひとつの基調きちょうとして有意義ゆういぎではあるが、ヴィヴェーカーナンダについては検証けんしょう余地よちがあるとべている[67]

このように、ヴィヴェーカーナンダの思想しそう実践じっせんへの視点してん解釈かいしゃく評価ひょうか多様たようであり、従来じゅうらい見方みかた評価ひょうかだっしようとする研究けんきゅうもみられる[9]最近さいきんでは、かれのヴェーダ聖典せいてん古典こてん哲学てつがく理論りろん解釈かいしゃく問題もんだいおおいことも指摘してきされている[7]

影響えいきょう[編集へんしゅう]

インド[編集へんしゅう]

インドじんとして最初さいしょ最後さいごのインド総督そうとくチャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリーは、ヴィヴェーカーナンダは「ヒンドゥーきょうすくった」と評価ひょうかした[46]スバス・チャンドラ・ボースマハトマ・ガンディーラビンドラナート・タゴールたか評価ひょうかし、独立どくりつ運動うんどうとしてのオーロビンド・ゴーシュはヴィヴェーカーナンダに心酔しんすいしていた[46]。ヴィヴェーカーナンダのあらたなインド社会しゃかいぞう探求たんきゅうは、そののインド民族みんぞく運動うんどうにおいて、タゴールやガンディーらの国民こくみん統合とうごう宗教しゅうきょうかんする議論ぎろんにも影響えいきょうあたえたとおもわれる[6]

インドの18だい首相しゅしょうナレンドラ・モディは、日本にっぽんとインドの交流こうりゅう象徴しょうちょうとしてヴィヴェーカーナンダに幾度いくど言及げんきゅうし、すうせんねんにわたる偉大いだい力強ちからづよいインド文明ぶんめい体現たいげんする「インドのたましい」としてげている[68]

欧米おうべい[編集へんしゅう]

ロマン・ロラン

マックス・ミュラーパウル・ドイセンらのインド学者がくしゃ、アメリカのウィリアム・ジェイムズロバート・グリーン・インガーソル、フランスの文学ぶんがくしゃロマン・ロランなどの欧米おうべいじんおおきな影響えいきょうのこし、とくにマックス・ミュラーとロマン・ロランが熱狂ねっきょうてきだったことがられる[8]。マックス・ミュラーは古代こだい宗教しゅうきょうやイエス・キリスト、ロマン・ロランは人間にんげん主義しゅぎという自身じしん関心かんしん関連かんれんづけて、ヴィヴェーカーナンダによって普遍ふへんされたラーマクリシュナの思想しそうとその生涯しょうがい探求たんきゅうした[46]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

邦訳ほうやく
  • きる秘訣ひけつ斎藤さいとう わけ日本教文社にっぽんきょうぶんしゃ、1962ねん
  • 『ヴェーダーンタ哲学てつがく入門にゅうもん斎藤さいとうやく日本教文社にっぽんきょうぶんしゃ、1963ねん
  • 『スワミ・ヴィヴェーカーナンダ―その生涯しょうがい語録ごろく』 ヴィヴェーカーナンダ研究けんきゅうかい へん、ヴィヴェーカーナンダ生誕せいたんひゃくねん記念きねんかい、1963ねん
  • 『わが ヴェーダーンタ哲学てつがくきよしラーマクリシュナをかたる』 日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかい やく日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかい、1983ねん
  • 『カルマ・ヨーガ - スワミ・ヴィヴェーカーナンダ講演こうえんしゅう日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかいやく日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかい、1989ねん2がつ
  • 『バクティ・ヨーガ』 日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかいやくへん日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかい、1991ねん3がつ
  • 『ギャーナ・ヨーガ』(改版かいはん日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかいやく日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかい 1999ねん10がつ
  • 『ラージャ・ヨーガ』 日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかいやく日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかい 1997ねん3がつ
  • 『わが - スワミ・ヴィヴェーカーナンダ講演こうえんしゅう日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかいやく日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかい、1983ねん10がつ
  • 『シカゴ講演こうえんしゅう日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかいやく日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかい、1995ねん6がつ
  • 普遍ふへん宗教しゅうきょうへの階梯かいてい - スワミ・ヴィヴェカーナンダ講演こうえんしゅう大野おおの純一じゅんいちへんやく、コスモス・ライブラリー、1998ねん8がつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ヒンドゥーイズム=ヒンドゥーきょう
  2. ^ ブラーフマ・サマージをひきいたケショブ・チョンドロ・シェン(ケーシャブ・チャンドラ・セーン)は、1876ねん無名むめい聖者せいじゃラーマクリシュナを見出みいだして、その存在そんざいをカルカッタの言論げんろんかい紹介しょうかいした。
  3. ^ 寡婦かふおっと遺体いたいとも焼身しょうしん自殺じさつするヒンドゥーきょう習慣しゅうかん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  3. ^ 冨澤とみさわ 2013, p. 52.
  4. ^ 河原かわら 2014, p. 93.
  5. ^ a b 山下やました 2005, p. 325.
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  7. ^ a b c d e 山下やました 2005, p. 326.
  8. ^ a b 杉本すぎもと 2010, pp. 194–195.
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  10. ^ 平野ひらの久仁子くにこ インドの覚醒かくせい:ヴィヴェーカーナンダの思想しそう実践じっせん1 パドマ・ヨーガ通信つうしん NO.9 パドマ・ヨーガ・アシュラム、2006ねん6がつ28にち
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 外川そとかわ昌彦まさひこ「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおけるインド美術びじゅつとインド社会しゃかいぞう探求たんきゅう―ラジェンドロラル・ミットロを中心ちゅうしんとした19世紀せいきのインド知識ちしきじんみを背景はいけいとした」『アジア・アフリカ言語げんご文化ぶんか研究けんきゅうだい98かん東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがくアジア・アフリカ言語げんご文化ぶんか研究けんきゅう、2019ねん9がつ、43-84ぺーじNAID 120006776644 
  • 外川そとかわ昌彦まさひこ「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教しゅうきょうとナショナリズム―仏教ぶっきょうとヒンドゥーきょう関係かんけいとおしてた-」『みなみアジア研究けんきゅうだい29かん日本にっぽんみなみアジア学会がっかい、2017ねん、61-91ぺーじNAID 130007502522 
  • 河原かわはら和枝かずえ「ハイブリッド文化ぶんかとしてのヨーガ」『甲南女子大学こうなんじょしだいがく研究けんきゅう紀要きよう 人間にんげん科学かがくへんだい54かん甲南女子大学こうなんじょしだいがく、2017ねん、155-166ぺーじNAID 120006458467 
  • Om Books Editorial Team (2017). Swami Vivekananda. Om Books International 
  • 河原かわはら和枝かずえ「ヨガ : 文化ぶんかのグローバルをめぐって」『甲南女子大学こうなんじょしだいがく研究けんきゅう紀要きよう 人間にんげん科学かがくへんだい51かん甲南女子大学こうなんじょしだいがく、2014ねん、89-97ぺーじNAID 120005591277 
  • 冨澤とみさわかな「「インドのスピリチュアリティ」とオリエンタリズム : 19世紀せいきインド周辺しゅうへん用例ようれい考察こうさつ」『現代げんだいインド研究けんきゅうだい3かん人間にんげん文化ぶんか研究けんきゅう機構きこう地域ちいき研究けんきゅう推進すいしん事業じぎょう現代げんだいインド地域ちいき研究けんきゅう」、2013ねん、49-76ぺーじNAID 120005244643 
  • 杉本すぎもと良男よしお比較ひかくによる真理しんり追求ついきゅう : マックス・ミュラーとマダム・ブラヴァツキー」『国立こくりつ民族みんぞくがく博物館はくぶつかん調査ちょうさ報告ほうこくだい90かん国立こくりつ民族みんぞくがく博物館はくぶつかん、2010ねん、173-226ぺーじNAID 120003755699 
  • 平野ひらの久仁子くにこ「ヴィヴェーカーナンダのヒンドゥーきょう ―1893ねん万国ばんこく宗教しゅうきょう会議かいぎでの演説えんぜつをめぐって―」『みなみアジア研究けんきゅうだい21かん日本にっぽんみなみアジア学会がっかい、2009ねん、87-111ぺーじNAID 130004967290 
  • 2005、『ヒンドゥーきょう事典じてん』、東京とうきょうどう出版しゅっぱん
    • 山下やました博司ひろし 執筆しっぴつだい5しょう ヒンドゥーきょうきん現代げんだい世界せかい」。 
  • ビパン・チャンドラ英語えいごばん近代きんだいインドの歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2001ねん 
  • 臼田うすだ雅之まさゆきしまいわ坂田さかた貞二ていじへん)、2000、「ラーマクリシュナと近代きんだいインド」、『聖者せいじゃたちのインド』、春秋しゅんじゅうしゃ
  • 中村なかむらはじめ現代げんだいインドの思想しそう』(中村なかむらもと選集せんしゅう - 決定けっていばんだい32かん春秋しゅんじゅうしゃ、1997ねん6がつ、538ぺーじ
  • 斎藤さいとう昭俊あきとし近代きんだいインドの宗教しゅうきょう運動うんどう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1982ねん 
  • 早島はやしまかがみただし高崎たかさき直道なおみちはらみのる前田まえだせんがく、1982、「だい5しょう えいりょうインドにおける思想しそう運動うんどう」、『インド思想しそう』、東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい
  • 保田やすだ鶴治つるじ 『ヨーガの宗教しゅうきょう理念りねん平河ひらかわ出版しゅっぱんしゃ、1976ねん10がつ、317ぺーじ ISBN 4-89203-021-X
  • 増原ますはら良彦よしひこ宇野うの精一せいいち中村なかむらはじめ玉城たまきかん四郎しろうへん)、1967、「だい6しょう 近代きんだいインド思想しそう だい1せつ 神秘しんぴ思想しそう展開てんかい」、『講座こうざ 東洋とうよう思想しそう 1 インド思想しそう』、東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • スワミ・ニキラーナンダ 『スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯しょうがいたちばなどう正弘まさひろ三浦みうらあいあかりやく法律文化社ほうりつぶんかしゃ、1996ねん5がつ、425ぺーじ
  • ロマン・ロラン 「ヴィヴェカーナンダの生涯しょうがい普遍ふへんてき福音ふくいん」『ロマンロラン全集ぜんしゅう15』 宮本みやもとただししんやくみすず書房しょぼう、1980ねん2がつ、530ぺーじ
  • ロマン・ロラン 『新生しんせい印度いんど予言よげんしゃ - ヴィヴェカナンダの生活せいかつ近藤こんどう宗男むねお森本もりもと恒夫つねおどもやく日新にっしん書院しょいん、1941ねん、360ぺーじ
  • 『ヴィヴェカーナンダのことば』 大類おおるいじゅんやく東京とうきょうラーマクリシュナ・ヴェーダーンタ協会きょうかい
  • 『スワミ・ヴィヴェーカーナンダ - その生涯しょうがい語録ごろく』 ヴィヴェーカーナンダ研究けんきゅうかいへん、ヴィヴェーカーナンダ生誕せいたんひゃくねん記念きねんかい、1963ねん、219ぺーじ
  • 『スワミ・ヴィヴェカーナンダ語録ごろく』 ヴィヴェーカーナンダ研究けんきゅうかいやく、ヴィヴェーカーナンダ生誕せいたんひゃくねん記念きねんかい
  • れいせいたちの生涯しょうがい日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかい、1981ねん10がつ、301ぺーじ
  • スワミ・メダサーナンダ『スワミ・ヴィヴェカーナンダと日本にっぽん日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかい発行はっこう日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかい創立そうりつじゅう周年しゅうねん記念きねん 2009ねん6がつ 147ぺーじ
  • 『ラーマクリシュナ僧団そうだん三位一体さんみいったい理想りそう活動かつどう』 "The Holy Trinity and the Ideals and Activities of The Ramakrishna Order" 日本にっぽんヴェーダーンタ協会きょうかい 2001ねん6がつ3にち /改訂かいていばん 2007ねん6がつ10日とおか

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]