ヴィヴェーカーナンダ 、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ (Swami Vivekananda, ベンガル語 ご : স্বামী বিবেকানন্দ , ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ : Shami Bibekanondo , 本名 ほんみょう :ノレンドロナト・ドット(Narendranath Dutta, ベンガル語 ご : নরেন্দ্রনাথ দত্ত , ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ : Nôrendronath Dhat-tha )1863年 ねん 1月 がつ 12日 にち - 1902年 ねん 7月 がつ 4日 にち )は、インド のヒンドゥー教 きょう の出家 しゅっけ 者 しゃ 、ヨーガ 指導 しどう 者 しゃ 、社会 しゃかい 活動 かつどう 家 か 。ラーマクリシュナ の弟子 でし ・後継 こうけい 者 しゃ であり、ラーマクリシュナ僧院 そういん とラーマクリシュナ・ミッション の創設 そうせつ 者 しゃ である。
ヒンドゥー教 きょう 改革 かいかく 運動 うんどう (英語 えいご 版 ばん ) 、インド内 ない での社会 しゃかい 奉仕 ほうし 活動 かつどう 、インド外 がい への布教 ふきょう に尽力 じんりょく し、植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい のインド(英語 えいご 版 ばん ) で人々 ひとびと に民族 みんぞく 的 てき 自覚 じかく を促 うなが してインドのナショナリズム の高揚 こうよう を後押 あとお しし、インド及 およ び欧米 おうべい 諸国 しょこく の人々 ひとびと に影響 えいきょう を及 およ ぼした。
思想 しそう 的 てき にはシャンカラ の系統 けいとう のヴェーダーンタ 思想 しそう (不 ふ 二 に 一元論 いちげんろん )で、それを師 し ラーマクリシュナの思想 しそう として紹介 しょうかい した。ネオ・ヒンドゥーイズム[注釈 ちゅうしゃく 1] 、ネオ・ヴェーダーンタ (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれる思想家 しそうか の一人 ひとり で[2] 、ラーム・モーハン・ローイ やラビンドラナート・タゴール と並 なら んで、西洋 せいよう 近代 きんだい の知 ち を吸収 きゅうしゅう したインド人 じん 知識 ちしき 人 じん らによるインドの近代 きんだい 化 か とヒンドゥー教 きょう ・伝統 でんとう 復興 ふっこう のための改革 かいかく 運動 うんどう ベンガル・ルネッサンス (英語 えいご 版 ばん ) を代表 だいひょう する人物 じんぶつ である。インドの伝統 でんとう に立脚 りっきゃく した彼 かれ の思想 しそう に格別 かくべつ 新 あたら しいものはないが、優 すぐ れた弁論 べんろん と人間 にんげん 的 てき 魅力 みりょく で、類 るい まれな感化 かんか 力 りょく を発揮 はっき した。新 あら たなインド社会 しゃかい 像 ぞう を求 もと め、カースト や貧富 ひんぷ の違 ちが いを超 こ えた多様 たよう なインド国民 こくみん の文化 ぶんか 的 てき 基盤 きばん を構想 こうそう し、実務 じつむ 面 めん の実行 じっこう 力 りょく にも優 すぐ れ、奉仕 ほうし の大切 たいせつ さを説 と いてラーマクリシュナ・ミッションを立 た ち上 あ げ運営 うんえい し、インド社会 しゃかい の向上 こうじょう に寄与 きよ した。欧米 おうべい でヒンドゥー教 きょう と普遍 ふへん 宗教 しゅうきょう の理想 りそう を高 たか い英語 えいご 力 りょく で語 かた り、マックス・ミュラー やロマン・ロラン ら欧米 おうべい 人 じん に支持 しじ され、欧米 おうべい ではヒンドゥー教 きょう を代表 だいひょう する人物 じんぶつ とみなされ、国内 こくない ではヒンドゥー教 きょう を救 すく ったと称賛 しょうさん されたが、異物 いぶつ とみなされ批判 ひはん も受 う けた。主 おも に、ヒンドゥー教 きょう を伝統 でんとう 的 てき なヴェーダーンタ思想 しそう に依拠 いきょ する優 すぐ れた世界 せかい 宗教 しゅうきょう として称揚 しょうよう する愛国 あいこく 主義 しゅぎ 的 てき な宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 者 しゃ として評価 ひょうか されてきた。一方 いっぽう 、そうした見方 みかた ・評価 ひょうか を単純 たんじゅん 化 か が過 す ぎるとみなし、再 さい 評価 ひょうか を試 こころ みる研究 けんきゅう もみられる。
インドの国民 こくみん 的 てき 英雄 えいゆう と評 ひょう されており、彼 かれ の誕生 たんじょう 日 び の1月 がつ 12日 にち は、インドではその業績 ぎょうせき を若者 わかもの に生 い かすべく、若者 わかもの のための全国 ぜんこく 青年 せいねん 日 び (英語 えいご 版 ばん ) (ナショナル・ユース・デー)として祝日 しゅくじつ になっている[10] 。
母 はは ・ブヴァネーシュワリー・デーヴィー
1863年 ねん 1月 がつ 12日 にち 、ノレンドロナト・ドット(以下 いか ノレンドロ)は、英 えい 領 りょう インド帝国 ていこく の首都 しゅと カルカッタ (以下 いか コルカタ)に生 う まれた。カーストはシュードラ の階層 かいそう に属 ぞく するオクリン・カーヤストの出 だし である。父 ちち はビッショナト・ドット、母 はは はブバネシュワリ・デビといい、父 ちち は裕福 ゆうふく で進歩 しんぽ 的 てき な弁護士 べんごし だった。
1879年 ねん に、ノレンドロはより高度 こうど な学究 がっきゅう のために、コルカタのプレジデンシー・カレッジに入学 にゅうがく した。1年 ねん 後 ご に、スコティッシュ・チャーチ・カレッジで哲学 てつがく を学 まな んだ。教科 きょうか 課程 かてい の間 あいだ 、彼 かれ は西洋 せいよう 論理 ろんり 学 がく やジョン・スチュアート・ミル 、スペンサー の哲学 てつがく に非常 ひじょう に興味 きょうみ を持 も ち、ヘーゲル などの西洋 せいよう 哲学 てつがく 、ヨーロッパ諸国 しょこく の歴史 れきし を勉強 べんきょう した。ロマン派 は の詩人 しじん ウィリアム・ワーズワース とパーシー・ビッシュ・シェリー の詩 し を好 この んだ。西欧 せいおう 的 てき な教養 きょうよう を身 み につけ、英語 えいご も堪能 かんのう だった。
西洋 せいよう の学問 がくもん を学 まな んだが、神 かみ と神 かみ の存在 そんざい についての不審 ふしん が芽生 めば え始 はじ めた。叔父 おじ が当時 とうじ の重要 じゅうよう な宗教 しゅうきょう 組織 そしき 及 およ び社会 しゃかい 改革 かいかく グループであるブラフモ・サマージ (ブランモ協会 きょうかい )の秘書 ひしょ を長年 ながねん 務 つと めており、ノレンドロ自身 じしん も協会 きょうかい の会員 かいいん になっていた。しばらくの間 あいだ 、会衆 かいしゅう の祈 いの りや祈祷 きとう の歌 うた が彼 かれ の心 しん を惹 ひ きつけていたが、真 しん の宗教 しゅうきょう 体験 たいけん を得 え ることはできないと感 かん じるようになり、離 はな れた。ヴィヴェーカーナンダとその師 し ラーマクリシュナとの出会 であ いの経緯 けいい については諸説 しょせつ がある。[注釈 ちゅうしゃく 2] その頃 ころ 、すでにブランモ協会 きょうかい のケショブ・チョンドロ・シェンによって、カルカッタの言論 げんろん 界 かい には、ダクシネーシュワル・カーリー寺院 じいん のラーマクリシュナの存在 そんざい が広 ひろ く紹介 しょうかい されていた。ヴィヴェーカーナンダは、スコティッシュ・チャーチ・カレッジの学長 がくちょう であり英 えい 文学 ぶんがく 教授 きょうじゅ でもあった英国 えいこく 人 じん のハスティー(1887年 ねん 渡 わたり 印 しるし )からラーマクリシュナの話 はなし を聞 き いた。宗教 しゅうきょう 評論 ひょうろん 家 か の増原 ますはら 良彦 よしひこ (ひろさちや)は、この逸話 いつわ は、民衆 みんしゅう のヒンドゥー教 きょう の伝統 でんとう 、土俗 どぞく の田舎 いなか のバラモンの系譜 けいふ にあるラーマクリシュナと、インドの中 なか で西洋 せいよう 教育 きょういく を受 う けたヴィヴェーカーナンダには、外国 がいこく 人 じん である英国 えいこく 人 じん が仲立 なかだ ちとなって接触 せっしょく するほど思想 しそう 的 てき に距離 きょり があったことを暗示 あんじ している、と評 ひょう している。
ラーマクリシュナの下 した での修行 しゅぎょう [ 編集 へんしゅう ]
ラーマクリシュナ
ヴィヴェーカーナンダ(1886年 ねん ))
1882年 ねん 、17歳 さい で初 はじ めてラーマクリシュナ に会 あ い、それまで誰 だれ からも満足 まんぞく な返答 へんとう を得 え られなかった問 と い「あなたは神 かみ を見 み たことがありますか」を投 な げかけた。ラーマクリシュナ「うん、私 わたし は神様 かみさま を見 み たよ。ここでおまえを見 み ているように、私 わたし には神様 かみさま が見 み えるんだよ。それもじつにはっきりとね」と答 こた えた。ノレンドロはこの答 こた えに大 おお きな驚 おどろ きと心 しん の安 やす らぎを感 かん じ、この体験 たいけん が彼 かれ の宗教 しゅうきょう 体験 たいけん の契機 けいき となり、ラーマクリシュナの死 し まで4年間 ねんかん 彼 かれ の下 した で学 まな んだ。増原 ますはら 良彦 よしひこ は、ヴィヴェーカーナンダはラーマクリシュナの「人格 じんかく に帰依 きえ した」と形容 けいよう している。ラーマクリシュナの方 ほう も、ヴィヴェーカーナンダを信頼 しんらい し、後 ご を任 まか せるにふさわしい人物 じんぶつ とみなした。
ラーマクリシュナは、タントラ やシヴァ派 は 、アドヴァイタ、イスラム神秘 しんぴ 主義 しゅぎ など様々 さまざま な行法 ぎょうほう を行 おこな って修行 しゅぎょう したが、これらを弟子 でし たちに実践 じっせん させることはなく、講話 こうわ も説教 せっきょう もしなかった。
ノレンドロは納得 なっとく できないことにはすぐに反論 はんろん し、ラーマクリシュナの見 み たカーリー は幻覚 げんかく に過 す ぎないのではないかとさえ言 い った。ある時 とき ノレンはラーマクリシュナが「神 かみ は万物 ばんぶつ に宿 やど る」と言 い うのを聞 き いて、壺 つぼ やコップを叩 はた きまわり、「これも神 かみ か、あれも神 かみ か」とふざけていた。するとラーマクリシュナはノレンに触 ふ れて、神 かみ を見 み せた。世界 せかい は神 かみ そのものであり、壺 つぼ もコップも神 かみ であるということをノレンドロは悟 さと った という。ノレンにとっては偶像 ぐうぞう 崇拝 すうはい も迷信 めいしん であるように思 おも え、よく論争 ろんそう をした。やがて、ノレンドロは熱烈 ねつれつ な支持 しじ ・賛同 さんどう をもってラーマクリシュナを受 う け入 い れた。[要 よう 出典 しゅってん ]
1884年 ねん の初 はじ め頃 ごろ 、心臓 しんぞう 発作 ほっさ により父 ちち が死去 しきょ 。彼 かれ の一家 いっか は経済 けいざい 的 てき 困窮 こんきゅう に見舞 みま われた。
ヴィヴェーカーナンダ(後列 こうれつ 左 ひだり から3番目 ばんめ )とラーマクリシュナの弟子 でし たち(1887年 ねん ))
ラーマクリシュナは喉頭 こうとう 癌 がん で、1886年 ねん 8月 がつ 15日 にち に死去 しきょ した。ノレンドロは23歳 さい だった。その後 ご 、ノレンドロを含 ふく むラーマクリシュナの教 おし えの中心 ちゅうしん となる弟子 でし 達 たち は、僧 そう になって一切 いっさい を放棄 ほうき するという誓 ちか いを立 た て、バラーナガルのあばら家 や に住 す み、ラーマクリシュナの弟子 でし で富豪 ふごう でもある家主 やぬし によって、食事 しょくじ その他 た の生活 せいかつ の施 ほどこ しを受 う けた。[要 よう 出典 しゅってん ]
当時 とうじ のインドの飢饉 ききん の様子 ようす (1876-1878年 ねん の大 だい 飢饉 ききん )
出家 しゅっけ 者 しゃ (サンニャーシン)は遊行 ゆぎょう の旅 たび に出 で るという伝統 でんとう にしたがい、1890年 ねん 7月 がつ に托鉢 たくはつ 生活 せいかつ を始 はじ めた。コルコタを出 で てベナレス、アヨーディヤー、ラクノウ、アグラ、ビリンダーバン、ヒマラヤと放浪 ほうろう した。ラーマクリシュナの信奉 しんぽう 者 しゃ の教団 きょうだん の組織 そしき 化 か を図 はか ったが失敗 しっぱい に終 お わった。藩 はん 王 おう 諸侯 しょこう の援助 えんじょ を得 え るようになり、1892年 ねん ラージャスターンのアジット・シン (ケートリ藩 はん 王 おう ) (英語 えいご 版 ばん ) の助言 じょげん でスワミー・ヴィヴェーカーナンダを名乗 なの るようになった。最初 さいしょ の弟子 でし サラット・チャンドラ・グプタに出会 であ い、彼 かれ は名 な をサダーナンダと改 あらた めて、ヴィヴェーカーナンダに従 したが った。
この期間 きかん に、ヴィヴェーカーナンダは貧民 ひんみん の小屋 こや から藩 はん 王 おう の宮殿 きゅうでん まで様々 さまざま な場所 ばしょ に滞在 たいざい した。彼 かれ はインド、当時 とうじ のイギリス領 りょう インド帝国 ていこく の様々 さまざま な人々 ひとびと に親密 しんみつ に接 せっ し、異 こと なる宗教 しゅうきょう の文化 ぶんか と交流 こうりゅう し、インド人 じん の強 つよ さと弱 よわ さを観察 かんさつ し、インドの荒廃 こうはい を目 め にした。支配 しはい 者 しゃ であるイギリス人 じん はインドの富 とみ を吸 す い上 あ げその一部 いちぶ を本国 ほんごく 、インド外 がい で消費 しょうひ し、インドに還元 かんげん せず、何 なん の見返 みかえ りももたらさないという点 てん で、それまでインドを支配 しはい したどのような征服 せいふく 者 しゃ とも異 こと なっていた。インドは豊 ゆた かな自然 しぜん に恵 めぐ まれていたが、イギリスの支配 しはい 下 か で搾取 さくしゅ と後進 こうしん 的 てき な農業 のうぎょう 、産業 さんぎょう 経済 けいざい 構造 こうぞう によって大 だい 部分 ぶぶん のインド人 じん が貧困 ひんこん と飢餓 きが に苦 くる しみ、幾度 いくど も大 だい 飢饉 ききん に襲 おそ われていた。ヴィヴェーカーナンダは、インド民衆 みんしゅう の状況 じょうきょう を次 つぎ のように表現 ひょうげん した。
荒 あ れ狂 くる う疫病 えきびょう とコレラ による荒廃 こうはい 、国 くに の生命 せいめい にくいいるマラリア 、第 だい 二 に の天性 てんせい となった飢餓 きが と半 はん 飢餓 きが 、死 し のような飢餓 きが がしばしば悲劇 ひげき の舞踏 ぶとう を踊 おど る……三 さん 億 おく の人間 にんげん の集 しゅう 塊 かたまり 、外見 がいけん が人間 にんげん に近似 きんじ するに過 す ぎない―同国 どうこく 人 じん と外国 がいこく 諸国 しょこく に踏 ふ みつけにされて命 いのち を打 う ち砕 くだ かれ……なんの希望 きぼう もなく、過去 かこ もなく、将来 しょうらい もなく―…同胞 どうほう の富 とみ が我慢 がまん ならない奴隷 どれい にふさわしい邪悪 じゃあく な性格 せいかく ―……強者 きょうしゃ の足 あし の埃 ほこり をなめる一方 いっぽう で弱者 じゃくしゃ には手 て ひどい仕打 しう ちをし―弱 よわ きものを自然 しぜん に捕 と らえる醜悪 しゅうあく で悪魔 あくま 的 てき な迷信 めいしん に満 み ち、将来 しょうらい の希望 きぼう もなく、―道義 どうぎ 心 しん の基準 きじゅん もなく―こうした三 さん 億 おく の民 みん がインドにあふれかえっている、同数 どうすう の蛆 うじ が腐 くさ って臭気 しゅうき を発 はっ する死骸 しがい に群 むら がるように―これがわれわれの姿 すがた であり、イギリス人 じん 官吏 かんり の目 め にも当然 とうぜん 映 うつ る姿 すがた なのだ。
このような絶望 ぜつぼう 的 てき な状況 じょうきょう 下 か で、ヴィヴェーカーナンダは観念 かんねん 的 てき な教 おし えばかりを説 と くインド人 じん が多 おお いと感 かん じ、心 しん の教 おし えだけを説 と くのは無益 むえき であると思 おも うようになり、師 し ラーマクリシュナが無駄 むだ な行 おこな いだと揶揄 やゆ した社会 しゃかい 的 てき 実践 じっせん の必要 ひつよう 性 せい を感 かん じるようになった。社会 しゃかい の平等 びょうどう を西洋 せいよう に学 まな び、西洋 せいよう は精神 せいしん 的 てき な教 おし えをインドに学 まな ぶべきだという信念 しんねん が生 う まれた。
カンニヤークマリのヴィヴェーカーナンダ記念 きねん の岩 いわ
1892年 ねん にインド亜 あ 大陸 たいりく の最南端 さいなんたん のカンニヤークマリ に辿 たど り着 つ き、そこで瞑想 めいそう にふけった。その岩 いわ はカンニヤークマリのヴィヴェーカーナンダ記念 きねん の岩 いわ として観光 かんこう 地 ち になっている。
当時 とうじ 、アメリカのシカゴ万国博覧会 ばんこくはくらんかい で万国 ばんこく 宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ (英語 えいご 版 ばん ) が開催 かいさい されることが決 き まっており、ブラフモ・サマージなどから幾 いく 人 にん か代表 だいひょう が選 えら ばれていたが、正統 せいとう 派 は ヒンドゥー教 きょう は無 む 関心 かんしん を貫 つらぬ いており、出席 しゅっせき しようという人 ひと はなかなか出 で なかった。ヴィヴェーカーナンダは、ラムナードやマイソールの藩 はん 王 おう 、それにケートリ藩 はん 王 おう アジット・シンなどの資金 しきん 援助 えんじょ を得 え て、ヒンドゥー教 きょう を代表 だいひょう して出席 しゅっせき することになり、これが人生 じんせい の大 おお きな転機 てんき となる。出席 しゅっせき の理由 りゆう としては、兄弟子 あにでし に次 つぎ のように語 かた っている。
いいですか、先輩 せんぱい !この国 くに 中 ちゅう に広 ひろ がっている極貧 ごくひん の状況 じょうきょう 下 か にあって、人々 ひとびと に宗教 しゅうきょう を伝道 でんどう することにどんな意味 いみ がありますか。もしも私 わたし がこの国 くに の貧困 ひんこん と苦悩 くのう を取 と り除 のぞ くことに成功 せいこう したならば、その時 とき にこそ私 わたし は宗教 しゅうきょう について話 はな そうと思 おも います。
インドの貧困 ひんこん 者 しゃ を救済 きゅうさい する方法 ほうほう を見出 みいだ そうとし、またラーマクリシュナの思想 しそう の伝道 でんどう を目指 めざ しての参加 さんか だったと考 かんが えられている。
欧米 おうべい を外遊 がいゆう [ 編集 へんしゅう ]
ボンベイ 、コロンボ 、ペナン 、シンガポール 、香港 ほんこん 、長崎 ながさき 、横浜 よこはま を経 へ て、バンクーバー に上陸 じょうりく し、シカゴ まで列車 れっしゃ で旅 たび し、万国 ばんこく 宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ に臨 のぞ んだ。会議 かいぎ は当初 とうしょ 7月 がつ 開始 かいし 予定 よてい だったのが9月に延期 えんき されていたが、ヴィヴェーカーナンダはそれを知 し らなかったため資金 しきん が枯渇 こかつ し、神 かみ 智学 ちがく 協会 きょうかい に援助 えんじょ を求 もと めたが、協会 きょうかい の信条 しんじょう への同意 どうい を求 もと められ拒否 きょひ したため、援助 えんじょ を受 う けることはできなかった。会議 かいぎ への参加 さんか 資格 しかく がいずれかの宗派 しゅうは 、教派 きょうは の代表 だいひょう でなければならないという原則 げんそく も知 し らなかったため、会議 かいぎ 前 まえ のアメリカでは非常 ひじょう に苦労 くろう したが、幾 いく 人 にん かのアメリカの人々 ひとびと の助 たす けを受 う け、会場 かいじょう にたどり着 つ いた。
1893年 ねん に万国 ばんこく 宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ 第 だい 一 いち 回 かい 集会 しゅうかい が始 はじ まった。ヴィヴェーカーナンダの他 ほか に、インドからは神 かみ 智学 ちがく 協会 きょうかい 、ブラフモ・サマージ、グジャラート州 しゅう のジャイナ教 きょう 、セイロンから仏教 ぶっきょう が参加 さんか した。会議 かいぎ はアメリカのキリスト教 きりすときょう ユニテリアン 教会 きょうかい が中心 ちゅうしん となって企画 きかく したもので、全体 ぜんたい 的 てき にイスラム教 いすらむきょう の参加 さんか 者 しゃ が極端 きょくたん に少 すく なく、有力 ゆうりょく メンバーはユニテリアンと思想 しそう の近 ちか い「オリエンタル 」なアジアの宗教 しゅうきょう に偏 かたよ っていた。また、植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい 下 か のインドでは、エリートたちは西欧 せいおう のオリエンタリズムの影響 えいきょう を受 う け、インドを西欧 せいおう と比較 ひかく する中 なか で「神秘 しんぴ 性 せい 」「精神 せいしん 性 せい 」を強調 きょうちょう し、ナショナリズムに生 い かすことが求 もと められる状況 じょうきょう であった。
ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナの教 おし えを俯瞰 ふかん したというアドヴァイタ・ヴェーダーンタ (不 ふ 二 に 一元論 いちげんろん )を根幹 こんかん とする6回 かい の講演 こうえん を行 おこな い、ラーマクリシュナの諸 しょ 宗教 しゅうきょう における神秘 しんぴ 体験 たいけん を基盤 きばん に、ヒンドゥー教 きょう とその普遍 ふへん 宗教 しゅうきょう 的 てき 性質 せいしつ 、普遍 ふへん 宗教 しゅうきょう の理想 りそう について、ヴェーダ の教 おし えの深遠 しんえん さと他 た 宗教 しゅうきょう に対 たい する優位 ゆうい 性 せい 、その科学 かがく 性 せい について語 かた った。万国 ばんこく 宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ での講演 こうえん が最初 さいしょ の布教 ふきょう 活動 かつどう であり、インドの外 そと で始 はじ められた。インドの民衆 みんしゅう の窮状 きゅうじょう を語 かた って救済 きゅうさい を訴 うった え、個人 こじん 的 てき な魂 たましい の救済 きゅうさい のみでなく、社会 しゃかい 的 てき ・物質 ぶっしつ 的 てき な救済 きゅうさい も目指 めざ す出家 しゅっけ 者 しゃ の新 あたら しい在 あ り方 かた を示 しめ した。高度 こうど な英語 えいご 力 りょく と人目 ひとめ を引 ひ く容姿 ようし 、説得 せっとく 力 りょく ある魅力 みりょく 的 てき な語 かた り口 くち で、原稿 げんこう をもたずに話 はな した。例外 れいがい 的 てき に一介 いっかい の僧侶 そうりょ としての参加 さんか したことがプラスに働 はたら いたこともあり、「普遍 ふへん 宗教 しゅうきょう 」の演説 えんぜつ は熱狂 ねっきょう 的 てき に歓迎 かんげい され、欧米 おうべい で非常 ひじょう に高 たか い評価 ひょうか を受 う け、特 とく にヨーガ とヴェーダーンタ哲学 てつがく に興味 きょうみ を持 も たせることに成功 せいこう し、インド宗教 しゅうきょう ・アジア宗教 しゅうきょう を代表 だいひょう する宗教 しゅうきょう 者 しゃ ・思想家 しそうか と位置 いち づけられた。インド国内 こくない では、ヴィヴェーカーナンダを「ヒンドゥー教 きょう の救世主 きゅうせいしゅ 」とみなす人 ひと もいた等 ひとし 、その成功 せいこう は称賛 しょうさん を集 あつ めた。
ヴィヴェーカーナンダの演説 えんぜつ に熱狂 ねっきょう した人 ひと には、ブラフモ・サマージ の創始 そうし 者 しゃ ラム・モホン・ラエ(ラーム・モーハン・ローイ) に影響 えいきょう を受 う けたと言 い われるラルフ・ワルド・エマーソン 流 りゅう の超絶 ちょうぜつ 主義 しゅぎ 論者 ろんしゃ や、心霊 しんれい 主義 しゅぎ 、神 かみ 智学 ちがく 、ニューソート のクリスチャン・サイエンス などの新興 しんこう のカルト的 てき 神秘 しんぴ 主義 しゅぎ 的 てき 宗教 しゅうきょう のグループが多 おお かったと言 い われる。当時 とうじ のアメリカは、反 はん ・三位一体 さんみいったい 主義 しゅぎ で神 かみ の唯一 ゆいいつ 性 せい を主張 しゅちょう したキリスト教 きりすときょう のユニテリアン や、神 かみ 智学 ちがく 協会 きょうかい による近代 きんだい 神 かみ 智学 ちがく など、東洋 とうよう の宗教 しゅうきょう に高 たか い関心 かんしん を持 も つ宗教 しゅうきょう ・神秘 しんぴ 思想 しそう があり、ユニテリアンは人間 にんげん の理性 りせい の力 ちから 、自己 じこ 改善 かいぜん の能力 のうりょく 、人間 にんげん が完全 かんぜん なものになれる可能 かのう 性 せい を強 つよ く信 しん じるなどヴィヴェーカーナンダの主張 しゅちょう と重 かさ なる部分 ぶぶん があった。また、1893年 ねん に金融 きんゆう 恐慌 きょうこう があり、社会 しゃかい 不安 ふあん と貧困 ひんこん が広 ひろ がって人々 ひとびと が疲弊 ひへい していたことで、ヴィヴェーカーナンダの講演 こうえん は注目 ちゅうもく を集 あつ めたのではないかと考 かんが えられる。アメリカで、超絶 ちょうぜつ 論 ろん 者 しゃ 、ユニテリアンはインドの宗教 しゅうきょう ・伝統 でんとう の仲介 ちゅうかい 者 しゃ となった。
渡米 とべい の途中 とちゅう で立 た ち寄 よ った日本 にっぽん で見聞 けんぶん した、近代 きんだい 化 か ・西洋 せいよう 化 か の様子 ようす と、日本 にっぽん の仏教 ぶっきょう 寺院 じいん の古代 こだい ベンガル文字 もじ で書 か かれたサンスクリット語 ご のマントラ 等 ひとし に見 み られる極東 きょくとう にまで及 およ んだインドの宗教 しゅうきょう の影響 えいきょう に感銘 かんめい を受 う け、釈 しゃく 宗演 そうえん 、蘆 あし 津 つ 実 じつ 全 ぜん 、平井 ひらい 金三 きんぞう らと並 なら んで仏教 ぶっきょう 部会 ぶかい (Buddhist Congress)にも出席 しゅっせき し、仏教 ぶっきょう とヒンドゥー教 きょう はユダヤ教 きょう とキリスト教 きょう の関係 かんけい と同様 どうよう の関係 かんけい 性 せい であること、仏陀 ぶっだ の思想 しそう の論理 ろんり 性 せい の高 たか さや慈悲 じひ 心 しん の深 ふか さについて熱 あつ く語 かた った。(なお、この万国 ばんこく 宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ で、日本 にっぽん の釈 しゃく 宗演 そうえん は、欧米 おうべい 世界 せかい に日本 にっぽん の禅 ぜん 仏教 ぶっきょう を初 はじ めて紹介 しょうかい する。)
彼 かれ の伝道 でんどう 活動 かつどう は主 おも にインド外 がい で行 おこな われた。1894年 ねん にアメリカでヴェーダーンタ協会 きょうかい を設立 せつりつ 。会議 かいぎ が終 お わるとアメリカからパリに寄 よ って、1895年 ねん にイギリスのロンドンに行 い って講演 こうえん をした。2、3年 ねん の間 あいだ 、彼 かれ はニューヨーク とロンドン にヴェーダーンタ協会 きょうかい を開設 かいせつ し、主要 しゅよう な大学 だいがく で講義 こうぎ を行 おこな って注目 ちゅうもく を集 あつ めた。ヴィヴェーカーナンダを歓迎 かんげい したのは、彼 かれ が常々 つねづね 批判 ひはん したキリスト教 きりすときょう 宣教師 せんきょうし たちだった。
1895年 ねん 末 まつ にイギリスからアメリカに戻 もど り、インドの宗教 しゅうきょう と哲学 てつがく に関 かん する講義 こうぎ を続 つづ け、のちに『カルマ・ヨーガ』『バクティ・ヨーガ』『ジュニャーナ(ギャーナ)・ヨーガ』としてまとめられ、ハーバード大学 だいがく での講義 こうぎ が『ヴェーダーンタ哲学 てつがく 』として出版 しゅっぱん された。アメリカ人 じん の弟子 でし もでき、クルパーナンダ、アブハヤーナンダ、ヨーガナンダ、シスター・ハリダーシーといったアメリカ人 じん の弟子 でし が加 くわ わってインドで科学 かがく や組織 そしき を教 おし え、活発 かっぱつ な東西 とうざい 交流 こうりゅう が行 おこな われ、これがラーマクリシュナ・ミッションの運動 うんどう につながった。
1897年 ねん にはロンドンで講演 こうえん 会 かい を開 ひら いた。比較 ひかく 宗教 しゅうきょう 学 がく のマックス・ミューラー は彼 かれ をオックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく や幾 いく つかのカレッジに紹介 しょうかい し、ヴィヴェーカーナンダから聞 き いたラーマクリシュナの話 はなし をまとめて『ラーマクリシュナの生涯 しょうがい と教 おし え』を出版 しゅっぱん した。ここで出会 であ ったイギリス人 じん たちは、ヴィヴェーカーナンダに感銘 かんめい を受 う けて渡 わたり 印 しる し、ヒマラヤにアーシュラムを作 つく って住 す んだ。また、ヴィヴェーカーナンダはドイツにも招 まね かれ講演 こうえん を行 おこな った。
欧米 おうべい の一般 いっぱん 大衆 たいしゅう から強 つよ い印象 いんしょう を受 う け、西洋 せいよう の文明 ぶんめい 力 りょく と、女性 じょせい の教養 きょうよう の高 たか さに驚 おどろ いた。
4年 ねん に及 およ ぶ欧米 おうべい での外遊 がいゆう と講義 こうぎ ののち、1897年 ねん に彼 かれ はインドに帰国 きこく した。
ヴィヴェーカーナンダ(前列 ぜんれつ 左 ひだり から1番目 ばんめ )、ヴィヴェーカーナンダを献身 けんしん 的 てき に支 ささ えたアメリカ人 じん の友人 ゆうじん ジョセフィン・マクラウド (英語 えいご 版 ばん ) (前列 ぜんれつ 右 みぎ から2番目 ばんめ )。1899年 ねん 、ニューヨーク。
ヴィヴェーカーナンダの弟子 でし シスター・ニヴェーディター と、ラーマクリシュナ・ミッションで聖母 せいぼ と崇敬 すうけい されたラーマクリシュナの妻 つま サーラダー・デーヴィー (左 ひだり )(1900年 ねん 頃 ごろ )
1900年 ねん の写真 しゃしん
ベールール僧院 そういん
1897年 ねん に、ラーマクリシュナの教 おし えを具現 ぐげん するためとして、ラーマクリシュナ・ミッションを興 おこ した。これは、現代 げんだい インドのヒンドゥー社会 しゃかい における最 もっと も大 おお きな教育 きょういく 機関 きかん の1つである。インド内 ない での活動 かつどう は、伝道 でんどう よりもむしろ、病院 びょういん 建設 けんせつ 、学校 がっこう 経営 けいえい 、出版 しゅっぱん といった社会 しゃかい 奉仕 ほうし 活動 かつどう が中心 ちゅうしん だった。
1898年 ねん 11月に、彼 かれ の弟子 でし であるアイルランド人 じん のシスター・ニヴェーディター (マーガレット・ノーブル)の女学校 じょがっこう が開校 かいこう 、12月にはベルル僧院 そういん (ラーマクリシュナ僧院 そういん )が建立 こんりゅう した。ラーマクリシュナ・ミッション、ラーマクリシュナ僧院 そういん は保守 ほしゅ 的 てき なヒンドゥー正統 せいとう 派 は からの批判 ひはん もあった。ヴィヴェーカーナンダは1899年 ねん 1月 がつ から1900年 ねん 12月 がつ にかけて再度 さいど アメリカ、ヨーロッパを外遊 がいゆう した。
ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナ・ミッションの組織 そしき を整備 せいび し、社会 しゃかい 貢献 こうけん 活動 かつどう 、布教 ふきょう や修行 しゅぎょう も平行 へいこう して行 おこな い、多忙 たぼう であった。1901年 ねん 、ヒマラヤのアーシュラムの創設 そうせつ に尽力 じんりょく した。1902年 ねん には、インドを訪問 ほうもん した岡倉 おかくら 天心 てんしん と親交 しんこう を結 むす んでいる[2] 。横山 よこやま 大観 たいかん 、織田 おだ 得能 とくのう などの文化 ぶんか 人 じん との交遊 こうゆう もあり、日本 にっぽん への及 およ ぼした精神 せいしん 的 てき な影響 えいきょう もみられる。
糖尿 とうにょう 病 びょう 、気管支 きかんし 喘息 ぜんそく 、慢性 まんせい の不眠症 ふみんしょう にひどく苦 くる しめられ、健康 けんこう 状態 じょうたい は低下 ていか していった。1902年 ねん 7月 がつ 4日 にち の朝 あさ 、コルカタの郊外 こうがい に自身 じしん が創設 そうせつ したラーマクリシュナ僧院 そういん の前身 ぜんしん であるベールール僧院 そういん にて、講義 こうぎ 、散歩 さんぽ 、弟子 でし への遺言 ゆいごん の後 のち 、死亡 しぼう した。39歳 さい の若 わか さであった。
基本 きほん 的 てき に、伝統 でんとう 的 てき な不 ふ 二 に 一元論 いちげんろん ・伝統 でんとう 的 てき な正統 せいとう 派 は のヴェーダーンタ 哲学 てつがく 的 てき 観念 かんねん に立脚 りっきゃく しており、青年 せいねん 時代 じだい に影響 えいきょう を受 う けたブラフモ・サマージの普遍 ふへん 主義 しゅぎ 的 てき な思考 しこう 傾向 けいこう がみられる。古典 こてん 的 てき 一元論 いちげんろん に近代 きんだい 的 てき な意義 いぎ を与 あた え、人々 ひとびと に受 う け入 い れられるよう脚色 きゃくしょく を施 ほどこ して提示 ていじ した。
普遍 ふへん 宗教 しゅうきょう としてのヒンドゥー教 きょう [ 編集 へんしゅう ]
師 し のラーマクリシュナは、貧 まず しい育 そだ ちで満足 まんぞく な教育 きょういく を受 う けておらず、サンスクリット語 ご の知識 ちしき もなく、英語 えいご もわからず、教養 きょうよう は乏 とぼ しかった。無邪気 むじゃき な子供 こども のような性格 せいかく で人々 ひとびと に愛 あい され、易々 いい と神秘 しんぴ 体験 たいけん に入 はい り得 え ることで注目 ちゅうもく を集 あつ めた。ラーマクリシュナは大欲 たいよく 、肉欲 にくよく (性欲 せいよく )を捨 す てることの重要 じゅうよう 性 せい を強調 きょうちょう し、これはヴィヴェーカーナンダに受 う け継 つ がれた。ラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダの関係 かんけい は、パウロ とキリストにも喩 たと えられ、ヴィヴェーカーナンダは師 し の教 おし えに生 い き、師 し が教 おし えた真理 しんり の布教 ふきょう のみを自 みずか らの使命 しめい とし、設立 せつりつ した教団 きょうだん に師 し の名前 なまえ を冠 かん し、師 し の権威 けんい と共 とも にその思想 しそう を語 かた った。ラーマクリシュナは、様々 さまざま な宗教 しゅうきょう での神秘 しんぴ 体験 たいけん を通 つう じ、各 かく 宗教 しゅうきょう で奉 ほう じられている神 かみ は、最高 さいこう ・唯一 ゆいいつ ・絶対 ぜったい の存在 そんざい が形 かたち を変 か えて顕現 けんげん したものであり、それぞれの宗教 しゅうきょう は道 みち は異 こと なれど同 おな じ地点 ちてん を目指 めざ すものであると説 と いた。彼 かれ はカーリー女神 めがみ を特別 とくべつ 視 し し、カーリー女神 めがみ こそが神 かみ の主要 しゅよう な顕現 けんげん であると考 かんが えており、その宗教 しゅうきょう 心 しん は、慈悲 じひ 深 ふか い母 はは 神 しん としてのカーリー女神 めがみ へのバクティ を中核 ちゅうかく に形成 けいせい され、タントラ 的 てき な性格 せいかく を持 も つことが近年 きんねん 解明 かいめい されつつある。一方 いっぽう 、彼 かれ によって宗教 しゅうきょう の道 みち に入 はい ったヴィヴェーカーナンダは、高度 こうど な教育 きょういく で育 はぐく まれた知性 ちせい により、「個我 こが 的 てき な自己 じこ と絶対 ぜったい 者 しゃ ブラフマン の完全 かんぜん な合一 ごういつ 」というシャンカラ の系統 けいとう のヴェーダーンタ哲学 てつがく が説 と く伝統 でんとう 的 てき な由緒 ゆいしょ 正 ただ しい境地 きょうち ・真理 しんり に至 いた っており、両者 りょうしゃ の思想 しそう は異 こと なる面 めん を持 も つ。ヴィヴェーカーナンダは、思想 しそう 的 てき には新 あたら しい哲学 てつがく 体系 たいけい を作 つく ったわけではない。ラーマクリシュナ・ミッション の教義 きょうぎ は、ヴェーダーンタ哲学 てつがく を思想 しそう の中心 ちゅうしん に置 お いたことで全 ぜん インド的 てき な基盤 きばん を持 も つものになり、欧米 おうべい にまで広 ひろ まることが可能 かのう となった。
ヴィヴェーカーナンダは万国 ばんこく 宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ で、「ヒンドゥー教 きょう とは、世界 せかい の人々 ひとびと にすべてを受容 じゅよう する寛容 かんよう の精神 せいしん を伝 つた える宗教 しゅうきょう であり、そのことを悟 さと る宗教 しゅうきょう でもある。それは、人間 にんげん ひとりひとりの内 うち に存在 そんざい する神性 しんせい を認 みと め、人類 じんるい が自 みずか らの神性 しんせい を自覚 じかく することを助 たす ける普遍 ふへん 宗教 しゅうきょう でもある。また、ヴェーダ は、ヴェーダーンタ哲学 てつがく から偶像 ぐうぞう 崇拝 すうはい の思想 しそう に至 いた るまでの多岐 たき にわたる思想 しそう の共通 きょうつう 基盤 きばん であり、霊 れい 性 せい の法則 ほうそく が集 あつ められている宝庫 ほうこ で、その教 おし えは科学 かがく とも矛盾 むじゅん しない。また偶像 ぐうぞう 崇拝 すうはい をも容認 ようにん し、全 すべ ての宗教 しゅうきょう は真実 しんじつ であるとして、宗教 しゅうきょう 間 あいだ の対話 たいわ を求 もと める宗教 しゅうきょう でもある」といった内容 ないよう を語 かた った。
ヴィヴェーカーナンダは、ヴェーダーンタは絶対 ぜったい 的 てき 非 ひ 人格 じんかく 的 てき なものであり、それを説 と いた人 ひと の権威 けんい と関係 かんけい があるものではなく、ただ真理 しんり であり、属人 ぞくじん 的 てき な権威 けんい はむしろ真理 しんり の妨 さまた げになるとした。全 すべ ての人々 ひとびと に無限 むげん の進歩 しんぽ の希望 きぼう を与 あた える教 おし えであり、広 ひろ く、大 おお きく、そして楽天的 らくてんてき であると説 と いた。
普遍 ふへん 宗教 しゅうきょう [ 編集 へんしゅう ]
"Inspired Talks"' ヴィヴェーカーナンダの弟子 でし よって作成 さくせい された。(1909年 ねん 出版 しゅっぱん )
万国 ばんこく 宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ の演説 えんぜつ でヒンドゥー教 きょう の教 おし えを説 と くことで、インド人 じん としての誇 ほこ りを取 と り戻 もど そうとしたが、インド外 がい の人々 ひとびと に評価 ひょうか されたのは普遍 ふへん 主義 しゅぎ の方 ほう である。ヴィヴェーカーナンダは近代 きんだい のヒンドゥー教 きょう に普遍 ふへん 宗教 しゅうきょう という要素 ようそ を加 くわ えたことで、ヒンドゥー・ナショナリズム に非常 ひじょう に大 おお きな足跡 あしあと を残 のこ した。
ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナの思想 しそう ・哲学 てつがく に普遍 ふへん 化 か というアレンジを加 くわ えて広 ひろ めた。ラーマクリシュナの、全 すべ ての宗教 しゅうきょう で奉 ほう じられるそれぞれの神 かみ は最高 さいこう ・唯一 ゆいいつ ・絶対 ぜったい の存在 そんざい の形 かたち の違 ちが う顕現 けんげん であり、カーリー 女神 めがみ こそが主要 しゅよう な顕現 けんげん であるという思想 しそう を発展 はってん させ、師 し の諸 しょ 宗教 しゅうきょう での神秘 しんぴ 体験 たいけん を基盤 きばん に、あらゆる宗教 しゅうきょう は一 ひと つに帰 き するものであり、あらに世界 せかい の諸 しょ 宗教 しゅうきょう は対立 たいりつ したり矛盾 むじゅん したりするものではなく、永遠 えいえん なる一 ひと つの宗教 しゅうきょう の様々 さまざま な局面 きょくめん であり、存在 そんざい するのはただ一 ひと つの宗教 しゅうきょう だけであると見 み るべきと考 かんが えた。この「一 いち なる普遍 ふへん 宗教 しゅうきょう 」の存在 そんざい を前提 ぜんてい とし、そのうえでそれぞれの宗教 しゅうきょう の存在 そんざい とその意義 いぎ を認 みと めるというのが、ヴィヴェーカーナンダの宗教 しゅうきょう 観 かん である。
「一 いち なる普遍 ふへん 宗教 しゅうきょう 」という一 ひと つの体系 たいけい を形成 けいせい しようとしたというより、ヴェーダ の優位 ゆうい 性 せい を保 たも った上 うえ で、互 たが いに宗教 しゅうきょう の中 なか に見 み える普遍 ふへん 的 てき 要素 ようそ を認 みと め合 あ い、各々 おのおの の宗教 しゅうきょう をより良 よ いものにしていこうと呼 よ びかけ、あらゆる宗教 しゅうきょう の尊重 そんちょう 、理解 りかい 、受容 じゅよう を推奨 すいしょう した。
当時 とうじ の欧米 おうべい に、ヒンドゥー教 きょう (ヒンドゥーイズム)を理解 りかい している人 ひと はほとんどおらず、聖典 せいてん を読 よ んだ人 ひと もなく、(仏教 ぶっきょう など除 のぞ く)インドの宗教 しゅうきょう ・文化 ぶんか ・哲学 てつがく を表 あらわ す漠然 ばくぜん とした説明 せつめい しがたい概念 がいねん 、またカースト制度 せいど を持 も つおぞましい偶像 ぐうぞう 崇拝 すうはい として受 う け止 と められていた。ヴィヴェーカーナンダは、自身 じしん の出家 しゅっけ 者 しゃ としての体験 たいけん をふまえて、近代 きんだい の自然 しぜん 科学 かがく 及 およ び社会 しゃかい の発展 はってん を意識 いしき しつつ、欧米 おうべい 人 じん にも受 う け入 い れられる形 かたち でヒンドゥー教 きょう を解説 かいせつ し、新 あら たな自己 じこ 概念 がいねん を与 あた えた。
ヴィヴェーカーナンダはヒンドゥー教 きょう の本質 ほんしつ について、アドヴァイタ・ヴェーダーンタに基 もと づいて明確 めいかく な説明 せつめい を行 おこな い、その深遠 しんえん さを示 しめ した。あらゆる宗教 しゅうきょう を受容 じゅよう すべきと説 と いたうえで、最 もっと も優 すぐ れて深遠 しんえん な哲学 てつがく アドヴァイタ・ヴェーダーンタ に裏付 うらづ けられたヒンドゥー教 きょう こそが最 もっと も素晴 すば らしい宗教 しゅうきょう であり哲学 てつがく であり、インド人 じん はこれを誇 ほこ りに思 おも い、また世界 せかい に広 ひろ める義務 ぎむ があると主張 しゅちょう し、彼 かれ は世界 せかい への伝道 でんどう を使命 しめい であると考 かんが えていた。インドの宗教 しゅうきょう とナショナリズムを結 むす び付 つ け、インド人 じん に民族 みんぞく の誇 ほこ りを与 あた え鼓舞 こぶ した。後 のち にヴィヴェーカーナンダの著書 ちょしょ を読 よ んだインド独立 どくりつ の父 ちち マハトマ・ガンディー が「私 わたし の祖国 そこく に対 たい する愛 あい が何 なん 千 せん 倍 ばい も深 ふか くなった」と語 かた っているように、ヴィヴェーカーナンダはインド人 じん の精神 せいしん 的 てき バックボーンを作 つく り、独立 どくりつ 運動 うんどう に影響 えいきょう を与 あた えた。
インド人 じん に過去 かこ の栄光 えいこう にすがることなく、男 おとこ らしく未来 みらい を切 き り開 ひら くよう訴 うった え、上層 じょうそう 階級 かいきゅう は肉体 にくたい 的 てき にも道徳的 どうとくてき にも堕落 だらく しているとし、民衆 みんしゅう こそが唯一 ゆいいつ の希望 きぼう であると考 かんが えた。
神 かみ ついては、「創造 そうぞう 主 ぬし ではなく」「彼 かれ はあらゆる所 ところ に存在 そんざい し、純粋 じゅんすい 、無形 むけい の存在 そんざい で、かつ全能 ぜんのう で、慈悲 じひ そのものである」と説明 せつめい した。
偶像 ぐうぞう 崇拝 すうはい については、「別 べつ に恐 おそ ろしいものではなく」「未 み 発達 はったつ の心 しん に高 たか い霊的 れいてき な真理 しんり を理解 りかい させようとする試 こころ みである」として是認 ぜにん ・擁護 ようご する立場 たちば を取 と った。
宗教 しゅうきょう とカースト は関係 かんけい しているように見 み えるが、そうではなく、「宗教 しゅうきょう においてカーストは無 な く、カーストは単 たん なる社会 しゃかい 的 てき 制度 せいど である」と述 の べており、ダルマ (法 ほう )を守 まも るもの、各々 おのおの に優 すぐ れた職能 しょくのう による分業 ぶんぎょう という社会 しゃかい 制度 せいど としてのカーストは自然 しぜん の秩序 ちつじょ であるとして肯定 こうてい し、カーストは存続 そんぞく すべきとした[55] 。
彼 かれ が説 と いた独特 どくとく のカーストは、元来 がんらい のヴァルナ 制度 せいど のもとで、その人 ひと の特質 とくしつ と、その人 ひと が持 も つサットヴァ (英語 えいご 版 ばん ) ・ラジャス (英語 えいご 版 ばん ) ・タマス(Tamas )というトリグナ(tri-Guṇa 、3つのグナ、三 さん 特性 とくせい )の組 く み合 あ わせによってバラモン ・クシャトリヤ ・ヴァイシャ ・シュードラ のどれか決 き まるとされ、これは遺伝 いでん ではないという[55] 。カーストはあらゆる社会 しゃかい にあり、カーストや儀式 ぎしき は変 か わっていくが、本質 ほんしつ と原則 げんそく は変 か わらないだろうと述 の べている[55] 。
一方 いっぽう 、社会 しゃかい 制度 せいど としてのカーストの劣化 れっか した悪 わる い側面 そくめん 、生 う まれに基 もと づくカーストを批判 ひはん した[55] 。ヴィヴェーカーナンダは社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ を自認 じにん し、シャンカラ やラーマーヌジャ 、ナーナク 、チャイタニヤ・マハープラブ 、カビール といったインドの宗教 しゅうきょう 家 か たち同様 どうよう にカースト外 がい の不可 ふか 触 さわ 民 みん (パーリア、南部 なんぶ インドの最下 さいか 級 きゅう 民 みん )への同情 どうじょう を示 しめ し、支配 しはい 者 しゃ のカーストが下位 かい カーストを踏 ふ みつける行為 こうい を戒 いまし め、最 もっと も抑圧 よくあつ されている不可 ふか 触 さわ 民 みん の生活 せいかつ を向上 こうじょう させることが社会 しゃかい を進歩 しんぽ させる唯一 ゆいいつ の方法 ほうほう であると考 かんが えた[55] 。
宗教 しゅうきょう と科学 かがく [ 編集 へんしゅう ]
ヴェーダーンタは合理 ごうり 的 てき 、科学 かがく 的 てき な教 おし えであり、ヒンドゥー教 きょう の目標 もくひょう は「多様 たよう 性 せい と二元 にげん 性 せい とを経 へ て究極 きゅうきょく の単一 たんいつ 性 せい に到達 とうたつ する」ことで、自然 しぜん 科学 かがく 、現代 げんだい 科学 かがく と同 おな じ目標 もくひょう を持 も っていると主張 しゅちょう した。
イギリス人 じん は、インド人 じん とインド社会 しゃかい は肉体 にくたい 的 てき 、道徳 どうとく 的 てき 、精神 せいしん 的 てき に堕落 だらく しているという脆弱 ぜいじゃく 神話 しんわ を唱 とな えてインド支配 しはい を正当 せいとう 化 か しようとし、インド人 じん も脆弱 ぜいじゃく 神話 しんわ を内面 ないめん 化 か していた。そのためインド人 じん 知識 ちしき 人 じん たちは、筋肉 きんにく 的 てき キリスト教 きりすときょう を背景 はいけい とする西洋 せいよう の身体 しんたい 鍛錬 たんれん 文化 ぶんか (英語 えいご 版 ばん ) に興味 きょうみ を持 も ち、肉体 にくたい を強化 きょうか して個人 こじん と社会 しゃかい の堕落 だらく と言 い われる状態 じょうたい を克服 こくふく しようとし、またイギリスとの武力 ぶりょく 闘争 とうそう の闘士 とうし を育 そだ てようとした。ヴィヴェーカーナンダは西洋 せいよう 諸国 しょこく 外遊 がいゆう からの帰国 きこく 後 ご 、「インド人 じん には鉄 てつ の筋肉 きんにく と鉄 てつ の心 しん が欠 か けている」として身体 しんたい 鍛錬 たんれん 文化 ぶんか を支持 しじ して「筋肉 きんにく 的 てき ヒンドゥー教 きょう 」とも言 い える立場 たちば を取 と り、次 つぎ のように繰 く り返 かえ し語 かた った。
もしもこの世 よ に罪 つみ があるとすれば、それは弱 よわ さである。すべての弱 よわ さを避 さ けよ、弱 よわ さこそ罪 つみ である。弱 よわ さは死 し である……真実 しんじつ の試金石 しきんせき とはこれだ。あなたを肉体 にくたい 的 てき に、知的 ちてき に、そして精神 せいしん 的 てき に弱 よわ めるものをすべて毒 どく として拒否 きょひ せよ、その中 なか に命 いのち はない。それは真実 しんじつ ではありえない。
こうした考 かんが えは、バール・ガンガーダル・ティラク やオーロビンド・ゴーシュ らに影響 えいきょう を与 あた えた。
イギリス支配 しはい 下 か でのヒンドゥー・ナショナリズム の高 たか まりの中 なか で、西洋 せいよう の影響 えいきょう を受 う け、西洋 せいよう を意識 いしき しつつヒンドゥー教 きょう が再 さい 構築 こうちく された。そうした状況 じょうきょう の下 した 、ヴィヴェーカーナンダは万国 ばんこく 宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ の後 のち の欧米 おうべい での講演 こうえん を通 とお し、欧米 おうべい の聴衆 ちょうしゅう の求 もと めるものをよく読 よ み取 と り、それに合 あ わせる形 かたち で教 おし えを説 と いていった。
『バガヴァッド・ギーター 』やヨーガ学派 がくは の思想 しそう を再 さい 編成 へんせい し、ヴェーダーンタ を再 さい 解釈 かいしゃく し、単純 たんじゅん 化 か し、近代 きんだい 化 か して、ヨーガの名 な によって説 と いた(ネオ・ヴェーダーンタ (英語 えいご 版 ばん ) )。ヨーガを「心理 しんり 的 てき 統制 とうせい によって、低 ひく い自我 じが と高 たか い自我 じが とを結合 けつごう すること」と定義 ていぎ した上 うえ で、「われわれを神 かみ へみちびく、何 なん らかの仕方 しかた の修養 しゅうよう (カルチャー)」 と非常 ひじょう に広 ひろ くとらえ、「心 しん の科学 かがく 」として提示 ていじ した。人間 にんげん を4つの類型 るいけい に分類 ぶんるい し、その類型 るいけい それぞれにふさわしい4つのヨーガがあるとした。活動 かつどう 的 てき 、精神 せいしん 分析 ぶんせき 的 てき 、宗教 しゅうきょう 的 てき 、哲学 てつがく 的 てき というタイプそれぞれに合 あ うヨーガとして、カルマ・ヨーガ (実践 じっせん の道 みち )、ラージャ・ヨーガ (心身 しんしん 統一 とういつ の道 みち )、バクティ・ヨーガ (信愛 しんあい の道 みち )、ジュニャーナ・ヨーガ (智慧 ちえ の道 みち )を提示 ていじ し、これにより普遍 ふへん 宗教 しゅうきょう として幅広 はばひろ い宗教 しゅうきょう 的 てき ニーズに対応 たいおう した。ヴィヴェーカーナンダのヨーガの最終 さいしゅう 目標 もくひょう は、ジュニャーナ・ヨーガ(智慧 ちえ の道 みち ) であると考 かんが えられているが、アメリカで人気 にんき となったのは実践 じっせん 的 てき なラージャ・ヨーガである。ロマン・ロラン によれば、人 ひと びとは「世界 せかい 征服 せいふく の幼稚 ようち 不健全 ふけんぜん な秘密 ひみつ を求 もと めて力 ちから のヨーガ‐ラージャ・ヨーガ‐に飛 と びついた」、つまり神秘 しんぴ 的 てき な力 ちから の秘密 ひみつ と習得 しゅうとく を目指 めざ してラージャ・ヨーガを行 おこな ったという。
ヴィヴェーカーナンダは、あらゆる宗教 しゅうきょう に共通 きょうつう な要素 ようそ は感覚 かんかく の限定 げんてい を超 こ えようとする努力 どりょく だとした。自然 しぜん の背後 はいご に働 はたら く大 おお いなる力 ちから を見 み るのも、先祖 せんぞ の霊魂 れいこん を崇拝 すうはい するのも、霊 れい の啓示 けいじ を受 う けるのも、悟 さと り を開 ひら いて永遠 えいえん の法則 ほうそく を理解 りかい するのも、超 ちょう 感覚 かんかく 的 てき なものに対 たい する関 かか わりだという。宗教 しゅうきょう の対象 たいしょう は絶対 ぜったい あるいは無限 むげん であるがゆえに人間 にんげん の理性 りせい や感覚 かんかく に収 おさ まりきらず、物質 ぶっしつ に留 と まることもない。感覚 かんかく の限定 げんてい を超 こ え、無限 むげん なるものと合一 ごういつ するのが最高 さいこう の理想 りそう なのだと主張 しゅちょう し、ヨーガは合一 ごういつ のための手段 しゅだん であると述 の べた。[要 よう 出典 しゅってん ]
エリザベス・ド・ミシェリスは、「近代 きんだい 的 てき ヨーガ」(modern yoga)はヴィヴェーカーナンダに始 はじ まったと見 み ており、B・マッドセンはヴィヴェーカーナンダのヨーガを「スピリチュアル科学 かがく 的 てき ヨーガ」(spiritual scientific yoga)の名 な で分類 ぶんるい している。
ジュニャーナ・ヨーガ(智慧 ちえ の道 みち ) [ 編集 へんしゅう ]
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インド門 もん 近郊 きんこう のヴィヴェーカーナンダの像 ぞう (ムンバイ)
ジュニャーナ・ヨーガは、実在 じつざい をあるがままに見 み て普遍 ふへん なる存在 そんざい と合一 ごういつ することを目指 めざ す。自我 じが とは迷盲であり、神 かみ のみが実在 じつざい であることを知 ち によって理解 りかい しようとするのがこの哲学 てつがく 的 てき ヨーガの道 みち である。この道 みち についてのヴィヴェーカーナンダの教 おし えはアドヴァイタ・ヴェーダーンタ 、つまりシャンカラ の思想 しそう が中心 ちゅうしん になっている。神 かみ は遠 とお くの天国 てんごく かどこかにではなく、全 すべ てのものの中 なか に、人間 にんげん の中 なか に、自分 じぶん の中 なか にいるということがヴェーダーンタ哲学 てつがく の主張 しゅちょう であるとする。
ジュニャーナ・ヨーガの目的 もくてき は、全 すべ ては神 かみ であるという教 おし えを外面 がいめん だけ研究 けんきゅう することではなく、内面 ないめん に分 わ け入 はい って合一 ごういつ を知 し ることであるという。
バクティ・ヨーガ(信愛 しんあい の道 みち ) [ 編集 へんしゅう ]
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ヴィヴェーカーナンダの坐像 ざぞう (マイソール)
バクティ ・ヨーガは、神 かみ に夢中 むちゅう になることによって小 ちい さな「我 が 」を滅 ほろぼ し、神 かみ と合一 ごういつ することを目指 めざ す。これはラーマクリシュナが好 この んだ道 みち でもある。バクティにも段階 だんかい があという。象徴 しょうちょう や師 し の助 たす けのもとに魂 たましい の浄化 じょうか が目指 めざ されるが、浄化 じょうか の中 なか で最高 さいこう のものは放棄 ほうき であり、放棄 ほうき は最高 さいこう の愛 あい から生 う まれるとする。ヴィヴェーカーナンダは愛 あい の段階 だんかい を以下 いか のように分 わ けている。
平凡 へいぼん な愛 あい (シャーンタ)
召 め し使 つか いの主人 しゅじん への愛 あい (ダーシャ)
友情 ゆうじょう (ダキア)
親 おや の子供 こども に対 たい する愛情 あいじょう (ワーツサリア)
恋人 こいびと の愛 あい (マドゥラ)
友人 ゆうじん 同士 どうし は平等 びょうどう な愛 あい で結 むす ばれる。親 おや は利害 りがい を離 はな れて子供 こども のためを思 おも う。恋人 こいびと は相手 あいて のためなら全 すべ てを投 な げ打 う つ。これは「我 が 」の消 き えていく段階 だんかい である。バクティは神 かみ への愛 あい であり、神 かみ 以外 いがい のあらゆるもの(我 が を含 ふく む)ではなく、神 かみ のみを愛 あい することを理想 りそう とする。
神 かみ のみを愛 あい せよということは、一切 いっさい が神 かみ の顕 あらわ れであるとする立場 たちば からは、全 すべ てを愛 あい せよということになる。ヴィヴェーカーナンダは愛 あい は神 かみ であり、宇宙 うちゅう の原動力 げんどうりょく だとも述 の べた。宇宙 うちゅう 全体 ぜんたい は愛 あい の顕 あらわ れであり、愛 あい するものと愛 あい されるものという区分 くぶん は究極 きゅうきょく 的 てき には消滅 しょうめつ し、全 すべ てが一体 いったい となった愛 あい のみが残 のこ るという。
カルマ・ヨーガ(実践 じっせん の道 みち ) [ 編集 へんしゅう ]
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カルマは業 ごう 、または行為 こうい と訳 やく される。人 ひと が行 おこな う全 すべ ての働 はたら き、肉体 にくたい の1つ1つの動 うご き、それぞれの思 おも いは心 しん の実質 じっしつ の上 うえ に印象 いんしょう を残 のこ し、それが表面 ひょうめん に現 あらわ れずとも下層 かそう において潜在 せんざい 意識 いしき として働 はたら くだけの力 ちから を持 も つようになるという。各 かく 瞬間 しゅんかん における人間 にんげん の存在 そんざい は、心 しん に刻 きざ まれたこれらの印象 いんしょう の総計 そうけい によって決 き まるとし、行為 こうい が人間 にんげん の存在 そんざい を決 き めると考 かんが えた。カルマヨーガは行為 こうい の結果 けっか から自由 じゆう な無 む 執着 しゅうちゃく により合一 ごういつ を目指 めざ す。
日常 にちじょう 的 てき な仕事 しごと が重要 じゅうよう で、仕事 しごと は知 ち や力 ちから を呼 よ び起 お こす打撃 だげき だとヴィヴェーカーナンダは説 と いた。善 ぜん は立場 たちば や文化 ぶんか によって様々 さまざま な相対 そうたい 的 てき なものとされ、何 なに が善行 ぜんこう なのかはあまり重視 じゅうし されない。人 ひと それぞれが自分 じぶん の置 お かれた立場 たちば にあってその義務 ぎむ を果 は たすことが偉大 いだい だとされるカルマ・ヨーガの共通 きょうつう の理想 りそう は、利己 りこ 的 てき な動機 どうき を離 はな れた無私 むし の働 はたら きである。カルマ・ヨーガの行者 ぎょうじゃ は日常 にちじょう の働 はたら きで真理 しんり を得 え るため、高名 こうみょう な宗教 しゅうきょう 家 か とはなりにくいが、知 ち によって真理 しんり を得 え たブッダ、愛 あい により真理 しんり を得 え たキリストと同 おな じように偉大 いだい だとヴィヴェーカーナンダは主張 しゅちょう する。最 もっと も平凡 へいぼん な生活 せいかつ の中 なか に偉大 いだい なものがいるとするこの教 おし えは、民衆 みんしゅう に目 め を向 む ける社会 しゃかい 的 てき 実践 じっせん とも関係 かんけい する。
ラージャ・ヨーガ(心身 しんしん 統一 とういつ の道 みち ) [ 編集 へんしゅう ]
『ラージャ・ヨーガ』タイトルページ
ラージャ・ヨーガ は、瞑想 めいそう により心 しん を制御 せいぎょ して合一 ごういつ を目指 めざ すものであるとする。心身 しんしん 統一 とういつ の方法 ほうほう で、精神 せいしん と肉体 にくたい 両方 りょうほう に働 はたら きかけるものであり、人間 にんげん の精神 せいしん に関 かか わる他 ほか の3つのヨーガとは扱 あつか う対象 たいしょう が異 こと なる。書籍 しょせき 『ラージャ・ヨーガ』は、ニューヨークでの講演 こうえん の記録 きろく と「パタンジャリ のヨーガ格言 かくげん 集 しゅう 」からなり、全体 ぜんたい として主 おも にパタンジャリの『ヨーガ・スートラ 』の八 はち 部門 ぶもん が詳 くわ しく解説 かいせつ されている。『ヨーガ・スートラ』は以下 いか の8つの段階 だんかい を経 へ て合一 ごういつ に至 いた る道 みち を記 しる している。
禁 きん 戒(ヤマ )
勧戒 かんかい (ニヤマ )
坐 すわ 法 ほう (アーサナ )
調 しらべ 息 いき (プラーナーヤーマ )
制 せい 感 かん (プラティヤーハーラ)
凝 しこり 念 ねん (ダーラナー)
静 しずか 慮 おもんばか (ディヤーナ )
三昧 ざんまい (サマーディ )
ヴィヴェーカーナンダは、ラージャ・ヨーガはインド人 じん ならではの精神 せいしん 科学 かがく であり、集中 しゅうちゅう の研究 けんきゅう であると述 の べている。『ヨーガ・スートラ』の解釈 かいしゃく はそれまでより実践 じっせん 的 てき であり、プラーナ (呼吸 こきゅう )とプラーナーヤーマ (調 しらべ 息 いき )に関 かん してハタ・ヨーガ の生理学 せいりがく 的 てき 要素 ようそ が加 くわ えられ、ヨーガを実践 じっせん しプラーナを制御 せいぎょ することで「ほとんど全能 ぜんのう 、ほとんど全知 ぜんち 」になることが可能 かのう であると主張 しゅちょう している。彼 かれ の『ラージャ・ヨーガ』は、『ヨーガ・スートラ』、ヒンドゥー教 きょう の伝承 でんしょう 、ブラフモ・サマージ 等 ひとし の近代 きんだい ヒンドゥー教 きょう の思想 しそう 、当時 とうじ の西洋 せいよう 科学 かがく である物理 ぶつり 学 がく 、心理 しんり 学 がく 、解剖 かいぼう 学 がく 等 とう 、アメリカで人気 にんき のあった自然 しぜん 魔術 まじゅつ の系譜 けいふ のメスメリズム (動物 どうぶつ 磁気 じき 療法 りょうほう )、オカルティズム 、代替 だいたい 医療 いりょう 等 ひとし が混 ま ざったものになっており、当時 とうじ のアメリカにいた精神 せいしん 治療 ちりょう 家 いえ 、信仰 しんこう 治療 ちりょう (英語 えいご 版 ばん ) 家 いえ 、心霊 しんれい 主義 しゅぎ の降 くだ 神 かみ 術 じゅつ 者 もの 、ニューソート のクリスチャンサイエンティスト 、催眠 さいみん 術 じゅつ 者 もの なども無意識 むいしき にプラーナ を制御 せいぎょ しているとした。
メソッドの実践 じっせん や儀礼 ぎれい 、身心 しんしん 技法 ぎほう で非 ひ 聖職 せいしょく 者 しゃ が魂 たましい の救済 きゅうさい を直接 ちょくせつ 求 もと めるメソジスト やクエーカー教 きょう などのキリスト教 きりすときょう の潮流 ちょうりゅう を背景 はいけい に、実践 じっせん 的 てき なラージャ・ヨーガは、当時 とうじ のアメリカで高 たか みに上 のぼ るための身心 しんしん 技法 ぎほう として人気 にんき を博 はく した。
ヴィヴェーカーナンダは西洋 せいよう の身体 しんたい 鍛錬 たんれん 文化 ぶんか を支持 しじ したが、インドの伝統 でんとう 的 てき な、動的 どうてき ・肉体 にくたい 鍛練 たんれん 的 てき なハタ・ヨーガ の実践 じっせん については、「実践 じっせん はたいそうむずかしくて1日 にち で学 まな ぶことはできず、そして結局 けっきょく 、霊 れい 性 せい の成長 せいちょう とはほとんど無関係 むかんけい であるため、私 わたし たちのヨーガとは何 なん の関係 かんけい もない」として否定 ひてい 的 てき な立場 たちば を取 と った。
社会 しゃかい 的 てき 実践 じっせん [ 編集 へんしゅう ]
アートマン は本質 ほんしつ 的 てき にブラフマン と同一 どういつ であるというシャンカラ の教 おし えを受 う け継 つ ぎ、人間 にんげん には内的 ないてき な偉大 いだい さと神性 しんせい があるとし、ブラフマンを内包 ないほう する人間 にんげん への奉仕 ほうし は本質 ほんしつ 的 てき にブラフマンへの奉仕 ほうし と同 おな じであると考 かんが え、貧 まず しい人々 ひとびと への奉仕 ほうし は「貧者 ひんじゃ としての神 かみ ナーラーヤナ 」の崇拝 すうはい であると説 と いた。
神 かみ へのバクティ を強調 きょうちょう したラーマクリシュナは社会 しゃかい に対 たい し逃避 とうひ 的 てき であり、当時 とうじ のインドで行 おこな われていた社会 しゃかい 改革 かいかく 活動 かつどう を無駄 むだ な行為 こうい と考 かんが えていたが、ヴィヴェーカーナンダは出家 しゅっけ 者 しゃ は現実 げんじつ の利害 りがい に縛 しば られずに無私 むし の奉仕 ほうし が可能 かのう であると考 かんが え、社会 しゃかい 奉仕 ほうし を僧院 そういん の修行 しゅぎょう の一環 いっかん として導入 どうにゅう した。これはキリスト教 きりすときょう 宣教師 せんきょうし の影響 えいきょう を受 う けてのことと考 かんが えられている。ヴィヴェーカーナンダは、母 はは 神 しん の子供 こども たちたる民衆 みんしゅう を悲惨 ひさん な境遇 きょうぐう から助 たす け、母 はは 神 しん の顕現 けんげん と見做 みな せる母国 ぼこく を外国 がいこく の支配 しはい から解放 かいほう することもできると考 かんが えた。僧院 そういん への社会 しゃかい 奉仕 ほうし の導入 どうにゅう は、僧院 そういん と一般 いっぱん 信者 しんじゃ の社会 しゃかい 的 てき 関係 かんけい にとって重要 じゅうよう な変革 へんかく であり、ラーマクリシュナ・ミッションは社会 しゃかい 活動 かつどう にいそしみ、上流 じょうりゅう 中間 なかま 層 そう の支持 しじ を得 え た。
他 た のヒンドゥー教 きょう ・宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 運動 うんどう への評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
ブラフモ・サマージ の設立 せつりつ 者 しゃ ラーム・モーハン・ローイ は、インド宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 運動 うんどう の嚆矢 こうし となり、「インド最初 さいしょ の近代 きんだい 人 じん 」「近代 きんだい インドの父 ちち 」とも呼 よ ばれた。ブラフモ・サマージは、イスラム、キリスト教 きょう 、そして古代 こだい ウパニシャッド の中 なか に真理 しんり と普遍 ふへん 性 せい を認 みと め、当時 とうじ のヒンドゥー教 きょう を歪 ゆが められたものとして純粋 じゅんすい な古代 こだい の姿 すがた に戻 もど すことを目指 めざ し、サティー [注釈 ちゅうしゃく 3] などの悪習 あくしゅう の廃止 はいし とインド社会 しゃかい の近代 きんだい 化 か を目指 めざ した。イスラム神秘 しんぴ 主義 しゅぎ の影響 えいきょう を幼少 ようしょう 期 き に強 つよ く受 う けたローイは、インド思想 しそう の根底 こんてい にある輪廻 りんね とカルマ を信 しん じておらず、ヴィヴェーカーナンダは、ブラフモ・サマージの性格 せいかく は折衷 せっちゅう 主義 しゅぎ であり、むしろキリスト教 きりすときょう に近 ちか いと評 ひょう した。
ダヤーナンダ・サラスヴァティー (英語 えいご 版 ばん ) が設立 せつりつ したアーリヤ・サマージ は、単 たん なるヴェーダ主義 しゅぎ であり、後期 こうき のヒンドゥー教 きょう を完全 かんぜん に無視 むし しているとした。
インド・ナショナリズムの運動 うんどう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたヘレナ・P・ブラヴァツキー らによる神 かみ 智学 ちがく 協会 きょうかい については、疑似 ぎじ ヒンドゥー教 きょう に過 す ぎないと断 だん じた。
また、神 かみ 智学 ちがく 協会 きょうかい のオルコットと懇意 こんい だったアナガーリカ・ダルマパーラ (セイロン)の新 しん 仏教 ぶっきょう については、神 かみ 智学 ちがく と西欧 せいおう の文献 ぶんけん の偏狭 へんきょう な混合 こんごう 物 ぶつ であると考 かんが え強 つよ く批判 ひはん した。
アカデミックな批評 ひひょう [ 編集 へんしゅう ]
これまで主 おも に、ヒンドゥー教 きょう を古代 こだい ヴェーダーンタ思想 しそう に依拠 いきょ する優 すぐ れた世界 せかい 宗教 しゅうきょう として称賛 しょうさん する、愛国 あいこく 主義 しゅぎ 的 てき な宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 者 しゃ として評価 ひょうか されてきた。人類 じんるい 学者 がくしゃ の杉本 すぎもと 良男 よしお は「ヴィヴェーカーナンダはインドのヒンドゥー教 きょう にとって内部 ないぶ からは異物 いぶつ 、外部 がいぶ からその代表 だいひょう と見 み られる特異 とくい な、しかし近代 きんだい 非 ひ 西欧 せいおう 世界 せかい ではある種 しゅ 典型 てんけい 的 てき な役回 やくまわ りを演 えん じた人物 じんぶつ 」であり、彼 かれ の改革 かいかく ヒンドゥー教 きょう は「政治 せいじ 的 てき 、知的 ちてき な植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい をうけたエリートが、キリスト教 きょう をモデルにしてみずからの『宗教 しゅうきょう 』の再 さい 定義 ていぎ をへてその内部 ないぶ からの改革 かいかく をめざす宗教 しゅうきょう ナショナリズムのひとつの典型 てんけい 」と解説 かいせつ している。ペンシルバニア大学 だいがく のウィルヘルム・ハルプファスは、ヴィヴェーカーナンダは西洋 せいよう 世界 せかい における確認 かくにん や承認 しょうにん の探求 たんきゅう を活動 かつどう の中心 ちゅうしん 的 てき モチーフにしていたとし、彼 かれ のインド思想 しそう への理解 りかい は複雑 ふくざつ なヴェーダーンタ思想 しそう の体系 たいけい を「表面 ひょうめん 的 てき に定型 ていけい 化 か し」たものにすぎず、その基本 きほん 的 てき な概念 がいねん も「物質 ぶっしつ 的 てき な西洋 せいよう とスピリチュアルな東洋 とうよう 」の対立 たいりつ 図式 ずしき であると、やや厳 きび しい評価 ひょうか をしている。インド近代 きんだい 史 し 研究 けんきゅう 家 か のビパン・チャンドラ(Bipan Chandra )は、近代 きんだい インドの宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 運動 うんどう 者 しゃ は、古代 こだい インドに黄金 おうごん 時代 じだい を見出 みいだ して過剰 かじょう に賛美 さんび することで、インド人 じん の理性 りせい 的 てき ・科学 かがく 的 てき 思考 しこう を後退 こうたい させ、近代 きんだい 科学 かがく の全面 ぜんめん 的 てき な受容 じゅよう や現状 げんじょう の改善 かいぜん を妨 さまた げたが、ヴィヴェーカーナンダも同様 どうよう だったと評 ひょう している。彼 かれ の思想 しそう がヒンドゥー至上 しじょう 主義 しゅぎ の理念 りねん を支 ささ えるものとして利用 りよう されてきたという面 めん も認 みと められる。
一方 いっぽう ベンガル・ルネッサンスを研究 けんきゅう するデイヴィッド・コフ(David Kopf )は、西洋 せいよう 近代 きんだい と土着 どちゃく インドといった図式 ずしき 的 てき な対比 たいひ が、ベンガル・ルネッサンスの試 こころ みを多面 ためん 的 てき に理解 りかい することを阻 はば み、その普遍 ふへん 主義 しゅぎ 的 てき 側面 そくめん を軽視 けいし させていると単純 たんじゅん な見方 みかた に注意 ちゅうい を促 うなが し、「文化 ぶんか ナショナリストとして言及 げんきゅう されるヴィヴェーカーナンダでさえも、もともとは、宗教 しゅうきょう 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき 統合 とうごう の基盤 きばん としてのネオ・ヴェーダーンタを、世界 せかい に提示 ていじ したのである」と語 かた っている。また、南 みなみ アジアを研究 けんきゅう する文化 ぶんか 人類 じんるい 学者 がくしゃ の外川 そとかわ 昌彦 まさひこ は、「ただ過去 かこ の栄光 えいこう を讃 たた えるだけの復古 ふっこ 主義 しゅぎ には還元 かんげん できない懐 ふところ の深 ふか さを持 も っていた」とし、ビパン・チャンドラの指摘 してき はヒンドゥー教 きょう 改革 かいかく 運動 うんどう の一 ひと つの基調 きちょう として有意義 ゆういぎ ではあるが、ヴィヴェーカーナンダについては検証 けんしょう の余地 よち があると述 の べている。
このように、ヴィヴェーカーナンダの思想 しそう や実践 じっせん への視点 してん 、解釈 かいしゃく 、評価 ひょうか は多様 たよう であり、従来 じゅうらい の見方 みかた や評価 ひょうか を脱 だっ しようとする研究 けんきゅう もみられる。最近 さいきん では、彼 かれ のヴェーダ聖典 せいてん や古典 こてん 哲学 てつがく 理論 りろん の解釈 かいしゃく に問題 もんだい が多 おお いことも指摘 してき されている。
インド人 じん として最初 さいしょ で最後 さいご のインド総督 そうとく チャクラヴァルティー・ラージャゴーパーラーチャーリー は、ヴィヴェーカーナンダは「ヒンドゥー教 きょう を救 すく った」と評価 ひょうか した。スバス・チャンドラ・ボース 、マハトマ・ガンディー 、ラビンドラナート・タゴール も高 たか く評価 ひょうか し、独立 どくりつ 運動 うんどう 家 か としてのオーロビンド・ゴーシュ はヴィヴェーカーナンダに心酔 しんすい していた。ヴィヴェーカーナンダの新 あら たなインド社会 しゃかい 像 ぞう の探求 たんきゅう は、その後 ご のインド民族 みんぞく 運動 うんどう において、タゴールやガンディーらの国民 こくみん 統合 とうごう と宗教 しゅうきょう に関 かん する議論 ぎろん にも影響 えいきょう を与 あた えたと思 おも われる。
インドの18代 だい 首相 しゅしょう のナレンドラ・モディ は、日本 にっぽん とインドの交流 こうりゅう の象徴 しょうちょう としてヴィヴェーカーナンダに幾度 いくど も言及 げんきゅう し、数 すう 千 せん 年 ねん にわたる偉大 いだい で力強 ちからづよ いインド文明 ぶんめい を体現 たいげん する「インドの魂 たましい 」として取 と り上 あ げている。
ロマン・ロラン
マックス・ミュラー 、パウル・ドイセン らのインド学者 がくしゃ 、アメリカのウィリアム・ジェイムズ 、ロバート・グリーン・インガーソル 、フランスの文学 ぶんがく 者 しゃ ロマン・ロラン などの欧米 おうべい 人 じん に大 おお きな影響 えいきょう を残 のこ し、特 とく にマックス・ミュラーとロマン・ロランが熱狂 ねっきょう 的 てき だったことが知 し られる。マックス・ミュラーは古代 こだい 宗教 しゅうきょう やイエス・キリスト、ロマン・ロランは人間 にんげん 主義 しゅぎ という自身 じしん の関心 かんしん と関連 かんれん づけて、ヴィヴェーカーナンダによって普遍 ふへん 化 か されたラーマクリシュナの思想 しそう とその生涯 しょうがい を探求 たんきゅう した。
邦訳 ほうやく
『生 い きる秘訣 ひけつ 』 斎藤 さいとう 晌 訳 わけ 、日本教文社 にっぽんきょうぶんしゃ 、1962年 ねん
『ヴェーダーンタ哲学 てつがく 入門 にゅうもん 』 斎藤 さいとう 晌 訳 やく 、日本教文社 にっぽんきょうぶんしゃ 、1963年 ねん
『スワミ・ヴィヴェーカーナンダ―その生涯 しょうがい と語録 ごろく 』 ヴィヴェーカーナンダ研究 けんきゅう 会 かい 編 へん 、ヴィヴェーカーナンダ生誕 せいたん 百 ひゃく 年 ねん 記念 きねん 会 かい 、1963年 ねん
『わが師 し ヴェーダーンタ哲学 てつがく と聖 きよし ラーマクリシュナを語 かた る』 日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 訳 やく 、日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 、1983年 ねん
『カルマ・ヨーガ - スワミ・ヴィヴェーカーナンダ講演 こうえん 集 しゅう 』 日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 訳 やく 、日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 、1989年 ねん 2月 がつ
『バクティ・ヨーガ』 日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 訳 やく 編 へん 、日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 、1991年 ねん 3月 がつ
『ギャーナ・ヨーガ』(改版 かいはん ) 日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 訳 やく 、日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 1999年 ねん 10月 がつ
『ラージャ・ヨーガ』 日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 訳 やく 、日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 1997年 ねん 3月 がつ
『わが師 し - スワミ・ヴィヴェーカーナンダ講演 こうえん 集 しゅう 』日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 訳 やく 、日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 、1983年 ねん 10月 がつ
『シカゴ講演 こうえん 集 しゅう 』 日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 訳 やく 、日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 、1995年 ねん 6月 がつ
『普遍 ふへん 宗教 しゅうきょう への階梯 かいてい - スワミ・ヴィヴェカーナンダ講演 こうえん 集 しゅう 』 大野 おおの 純一 じゅんいち 編 へん 訳 やく 、コスモス・ライブラリー、1998年 ねん 8月 がつ
^ ヒンドゥーイズム=ヒンドゥー教 きょう 。
^ ブラーフマ・サマージを率 ひき いたケショブ・チョンドロ・シェン(ケーシャブ・チャンドラ・セーン)は、1876年 ねん に無名 むめい の聖者 せいじゃ ラーマクリシュナを見出 みいだ して、その存在 そんざい をカルカッタの言論 げんろん 界 かい に紹介 しょうかい した。
^ 寡婦 かふ が夫 おっと の遺体 いたい と共 とも に焼身 しょうしん 自殺 じさつ するヒンドゥー教 きょう の習慣 しゅうかん 。
外川 そとかわ 昌彦 まさひこ 「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおけるインド美術 びじゅつ 史 し とインド社会 しゃかい 像 ぞう の探求 たんきゅう ―ラジェンドロラル・ミットロを中心 ちゅうしん とした19世紀 せいき のインド知識 ちしき 人 じん の取 と り組 く みを背景 はいけい とした」『アジア・アフリカ言語 げんご 文化 ぶんか 研究 けんきゅう 』第 だい 98巻 かん 、東京外国語大学 とうきょうがいこくごだいがく アジア・アフリカ言語 げんご 文化 ぶんか 研究 けんきゅう 、2019年 ねん 9月 がつ 、43-84頁 ぺーじ 、NAID 120006776644 。
外川 そとかわ 昌彦 まさひこ 「スワーミー・ヴィヴェーカーナンダにおける宗教 しゅうきょう とナショナリズム―仏教 ぶっきょう とヒンドゥー教 きょう の関係 かんけい を通 とお して見 み た-」『南 みなみ アジア研究 けんきゅう 』第 だい 29巻 かん 、日本 にっぽん 南 みなみ アジア学会 がっかい 、2017年 ねん 、61-91頁 ぺーじ 、NAID 130007502522 。
河原 かわはら 和枝 かずえ 「ハイブリッド文化 ぶんか としてのヨーガ」『甲南女子大学 こうなんじょしだいがく 研究 けんきゅう 紀要 きよう 人間 にんげん 科学 かがく 編 へん 』第 だい 54巻 かん 、甲南女子大学 こうなんじょしだいがく 、2017年 ねん 、155-166頁 ぺーじ 、NAID 120006458467 。
Om Books Editorial Team (2017). Swami Vivekananda . Om Books International
河原 かわはら 和枝 かずえ 「ヨガ : 文化 ぶんか のグローバル化 か をめぐって」『甲南女子大学 こうなんじょしだいがく 研究 けんきゅう 紀要 きよう 人間 にんげん 科学 かがく 編 へん 』第 だい 51巻 かん 、甲南女子大学 こうなんじょしだいがく 、2014年 ねん 、89-97頁 ぺーじ 、NAID 120005591277 。
冨澤 とみさわ かな「「インドのスピリチュアリティ」とオリエンタリズム : 19世紀 せいき インド周辺 しゅうへん の用例 ようれい の考察 こうさつ 」『現代 げんだい インド研究 けんきゅう 』第 だい 3巻 かん 、人間 にんげん 文化 ぶんか 研究 けんきゅう 機構 きこう 地域 ちいき 研究 けんきゅう 推進 すいしん 事業 じぎょう 「現代 げんだい インド地域 ちいき 研究 けんきゅう 」、2013年 ねん 、49-76頁 ぺーじ 、NAID 120005244643 。
杉本 すぎもと 良男 よしお 「比較 ひかく による真理 しんり の追求 ついきゅう : マックス・ミュラーとマダム・ブラヴァツキー」『国立 こくりつ 民族 みんぞく 学 がく 博物館 はくぶつかん 調査 ちょうさ 報告 ほうこく 』第 だい 90巻 かん 、国立 こくりつ 民族 みんぞく 学 がく 博物館 はくぶつかん 、2010年 ねん 、173-226頁 ぺーじ 、NAID 120003755699 。
平野 ひらの 久仁子 くにこ 「ヴィヴェーカーナンダのヒンドゥー教 きょう ―1893年 ねん 万国 ばんこく 宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ での演説 えんぜつ をめぐって―」『南 みなみ アジア研究 けんきゅう 』第 だい 21巻 かん 、日本 にっぽん 南 みなみ アジア学会 がっかい 、2009年 ねん 、87-111頁 ぺーじ 、NAID 130004967290 。
2005、『ヒンドゥー教 きょう の事典 じてん 』、東京 とうきょう 堂 どう 出版 しゅっぱん
山下 やました 博司 ひろし 執筆 しっぴつ 「第 だい 5章 しょう ヒンドゥー教 きょう と近 きん ・現代 げんだい 世界 せかい 」。
ビパン・チャンドラ (英語 えいご 版 ばん ) 『近代 きんだい インドの歴史 れきし 』山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、2001年 ねん 。
臼田 うすだ 雅之 まさゆき 、島 しま 岩 いわ ・坂田 さかた 貞二 ていじ (編 へん )、2000、「ラーマクリシュナと近代 きんだい インド」、『聖者 せいじゃ たちのインド』、春秋 しゅんじゅう 社 しゃ
中村 なかむら 元 はじめ 『現代 げんだい インドの思想 しそう 』(中村 なかむら 元 もと 選集 せんしゅう - 決定 けってい 版 ばん 、第 だい 32巻 かん ) 春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、1997年 ねん 6月 がつ 、538頁 ぺーじ
斎藤 さいとう 昭俊 あきとし 『近代 きんだい インドの宗教 しゅうきょう 運動 うんどう 』吉川弘文館 よしかわこうぶんかん 、1982年 ねん 。
早島 はやしま 鏡 かがみ 正 ただし 、高崎 たかさき 直道 なおみち 、原 はら 実 みのる 、前田 まえだ 専 せん 学 がく 、1982、「第 だい 5章 しょう 英 えい 領 りょう インドにおける思想 しそう 運動 うんどう 」、『インド思想 しそう 史 し 』、東京 とうきょう 大学 だいがく 出版 しゅっぱん 会 かい
佐 さ 保田 やすだ 鶴治 つるじ 『ヨーガの宗教 しゅうきょう 理念 りねん 』 平河 ひらかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1976年 ねん 10月 がつ 、317頁 ぺーじ ISBN 4-89203-021-X
増原 ますはら 良彦 よしひこ 、宇野 うの 精一 せいいち 、中村 なかむら 元 はじめ 、玉城 たまき 康 かん 四郎 しろう (編 へん )、1967、「第 だい 6章 しょう 近代 きんだい インド思想 しそう 第 だい 1節 せつ 神秘 しんぴ 思想 しそう の展開 てんかい 」、『講座 こうざ 東洋 とうよう 思想 しそう 1 インド思想 しそう 』、東京 とうきょう 大学 だいがく 出版 しゅっぱん 会 かい
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スワミ・ニキラーナンダ 『スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯 しょうがい 』 橘 たちばな 堂 どう 正弘 まさひろ ・三浦 みうら 愛 あい 明 あかり 訳 やく 、法律文化社 ほうりつぶんかしゃ 、1996年 ねん 5月 がつ 、425頁 ぺーじ
ロマン・ロラン 「ヴィヴェカーナンダの生涯 しょうがい と普遍 ふへん 的 てき 福音 ふくいん 」『ロマンロラン全集 ぜんしゅう 15』 宮本 みやもと 正 ただし 清 しん 訳 やく 、みすず書房 しょぼう 、1980年 ねん 2月 がつ 、530頁 ぺーじ
ロマン・ロラン 『新生 しんせい 印度 いんど の予言 よげん 者 しゃ - ヴィヴェカナンダの生活 せいかつ 』 近藤 こんどう 宗男 むねお ・森本 もりもと 恒夫 つねお 共 ども 訳 やく 、日新 にっしん 書院 しょいん 、1941年 ねん 、360頁 ぺーじ
『ヴィヴェカーナンダのことば』 大類 おおるい 純 じゅん 他 た 訳 やく 、東京 とうきょう ラーマクリシュナ・ヴェーダーンタ協会 きょうかい
『スワミ・ヴィヴェーカーナンダ - その生涯 しょうがい と語録 ごろく 』 ヴィヴェーカーナンダ研究 けんきゅう 会 かい 編 へん 、ヴィヴェーカーナンダ生誕 せいたん 百 ひゃく 年 ねん 記念 きねん 会 かい 、1963年 ねん 、219頁 ぺーじ
『スワミ・ヴィヴェカーナンダ語録 ごろく 』 ヴィヴェーカーナンダ研究 けんきゅう 会 かい 訳 やく 、ヴィヴェーカーナンダ生誕 せいたん 百 ひゃく 年 ねん 記念 きねん 会 かい
『霊 れい 性 せい の師 し たちの生涯 しょうがい 』 日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 、1981年 ねん 10月 がつ 、301頁 ぺーじ
スワミ・メダサーナンダ『スワミ・ヴィヴェカーナンダと日本 にっぽん 』 日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 発行 はっこう 、日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 創立 そうりつ 五 ご 十 じゅう 周年 しゅうねん 記念 きねん 2009年 ねん 6月 がつ 147頁 ぺーじ
『ラーマクリシュナ僧団 そうだん の三位一体 さんみいったい と理想 りそう と活動 かつどう 』 "The Holy Trinity and the Ideals and Activities of The Ramakrishna Order" 日本 にっぽん ヴェーダーンタ協会 きょうかい 2001年 ねん 6月 がつ 3日 にち /改訂 かいてい 版 ばん 2007年 ねん 6月 がつ 10日 とおか
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