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伊豆いず踊子おどりこ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊豆いず踊子おどりこ
旧天城トンネル。主人公はこのトンネルの脇にあった天城峠の茶屋で、はじめて踊子と会話した。
きゅう天城あまぎトンネル主人公しゅじんこうはこのトンネルのわきにあった天城峠あまぎとうげ茶屋ちゃやで、はじめて踊子おどりこ会話かいわした。
わけだい The Dancing Girl of Izu
作者さくしゃ 川端かわばた康成やすなり
くに 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
ジャンル 短編たんぺん小説しょうせつ
発表はっぴょう形態けいたい 雑誌ざっし掲載けいさい
初出しょしゅつ情報じょうほう
初出しょしゅつ伊豆いず踊子おどりこ」-『文藝ぶんげい時代じだい1926ねん1がつごうだい3かんだい1ごう
ぞく伊豆いず踊子おどりこ」-『文藝ぶんげい時代じだい』1926ねん2がつごうだい3かんだい2ごう
刊本かんぽん情報じょうほう
出版しゅっぱんもと 金星かなぼしどう
出版しゅっぱん年月日ねんがっぴ 1927ねん3がつ20日はつか
装幀そうてい 吉田よしだ謙吉けんきち
ウィキポータル 文学ぶんがく ポータル 書物しょもつ
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伊豆いず踊子おどりこ銅像どうぞう

伊豆いず踊子おどりこ』(いずのおどりこ)は、川端かわばた康成やすなり短編たんぺん小説しょうせつ川端かわばた初期しょき代表だいひょうさくで、伊豆いずたびした19さいとき実体験じつたいけんもとにしている[1][2][3][4]孤独こどく憂鬱ゆううつ気分きぶんからのがれるため伊豆いず一人ひとりたび青年せいねんが、修善寺しゅぜんじとう天城峠あまぎとうげ下田しもだかう旅芸人たびげいにん一座いちざ道連みちづれとなり、踊子おどりこ少女しょうじょあわ恋心こいごころいだ旅情りょじょう哀歓あいかん物語ものがたり孤児こじ根性こんじょういがんでいた青年せいねん自我じがなやみや感傷かんしょうが、素朴そぼく清純せいじゅん無垢むく踊子おどりこしんによってきほぐされていく過程かていと、彼女かのじょとのかなしいわかれまでがえがかれている[5]

日本人にっぽんじんしたしまれている名作めいさくでもあり、いままでに6かい映画えいがされ、ヒロインである踊子おどりこかおる田中たなか絹代きぬよから吉永よしなが小百合さゆり山口やまぐち百恵ももえまで当時とうじアイドルてき女優じょゆうえんじている[4][6]

2022ねんれい4ねん時点じてんで、新潮しんちょう文庫ぶんこはんだけでもやく338まんげている[7]

発表はっぴょう経過けいか[編集へんしゅう]

1926ねん大正たいしょう15ねん)、雑誌ざっし文藝ぶんげい時代じだい』1がつごうだい3かんだい1ごう新年しんねん特別とくべつ創作そうさくごう)に「伊豆いず踊子おどりこ」、2がつごうだい3かんだい2ごう)に「ぞく伊豆いず踊子おどりこ」としてぶんされた[8]単行本たんこうぼん翌年よくねん1927ねん昭和しょうわ2ねん)3がつ20日はつか金星かなぼしどうより刊行かんこうされた[8][9]。なお、刊行かんこうさいしての校正こうせい作業さぎょう梶井かじい基次郎もとじろうがおこなった[10][11][12][13]

翻訳ほんやくばんエドワード・サイデンステッカーわけ英語えいごえいだい:The Izu Dancer)、Eiichi Hayashi、J. Martin Holmanやくえいだい:The Dancing Girl of Izu)をはじめ、ドイツどくだい:Die kleine Tänzerin von Izu、Die Tänzerin von Izu)、中国ちゅうごくちゅうだい伊豆いずてきまいおんな伊豆いずてきまいじょう)、ポルトガル(葡題:A pequena dançarina de Izu)、イタリアだい:La danzatrice di Izu)、韓国かんこくかんだい:이즈의 무희)、スペイン西にしだい:La danzarina de Izu)、オランダらんだい:De danseres uit Izu)、ロシアだいТанцовщица из Идзу)、フランス語ふらんすごふつだい:La danseuse d'Izu)、台湾たいわんたいだいしげるたいちゅうぶん)など世界せかい各国かっこく出版しゅっぱんされている[14]

あらすじ[編集へんしゅう]

20さいいちだかなまの「わたし」は、自分じぶん性質せいしつ孤児こじ根性こんじょういがんでいるときびしい反省はんせいかさね、その息苦いきぐるしい憂鬱ゆううつこたれず、1人ひとり伊豆いずへのたびる。「わたし」は、とう道中どうちゅう出会であった旅芸人たびげいにん一座いちざ1人ひとり踊子おどりこかれ、天城峠あまぎとうげトンネルけたのちかれらと一緒いっしょ下田しもだまでたびすることになった。一行いっこうひきいているのは踊子おどりこあにで、大島おおしまからかれらは家族かぞく旅芸人たびげいにんをしていた。

天城峠あまぎとうげ茶屋ちゃや老婆ろうばからいていた旅芸人たびげいにん見下みさげたはなしから、よる宿やど踊子おどりこおとこきゃくよごされるのかと「わたし」は心配しんぱいしてねむれなかったが、翌朝よくあさ朝湯あさゆにつかっている「わたし」にむかって、川向かわむこうの湯殿ゆどのから無邪気むじゃき裸身らしんせておおきくをふる踊子おどりこおさな姿すがたに、「わたし」のなやみはいっぺんにび、「子供こどもなんだ」と自然しぜんよろこびでわらいがこぼれた。

わたし」は、旅芸人たびげいにんいちぎょう素性すじょうちがいをにすることなく生身なまみ人間にんげん同士どうし交流こうりゅうをし、ひとあたたかさをはだかんじた。そして、踊子おどりこが「わたし」にせる無垢むく純情じゅんじょうしんからも、「わたし」はなやんでいた孤児こじ根性こんじょうからせるとかんじた。

下田しもだき、「わたし」は踊子おどりことその兄嫁あによめらを活動かつどう映画えいが)にれてこうとするが、踊子おどりこだけしか都合つごうがつかなくなると、母親ははおや兄嫁あによめはは)は踊子おどりこ懇願こんがんをふりきり、活動かつどうきを反対はんたいした。つぎ東京とうきょうかえらなければならない「わたし」は、よる1にんだけで活動かつどうった。くらまちとおくからかすかに踊子おどりこたた太鼓たいこおときこえてくるようで、わけもなくなみだがぽたぽたちた。

わかれの旅立たびだちの昨晩さくばんおそおんなたちをいて、踊子おどりこあにだけが「わたし」を下田しもだこう乗船じょうせんじょうまでおくりにた。乗船じょうせんじょうちかづくと、うみぎわ踊子おどりこがうずくまって「わたし」をっていた。2人ふたりだけになったあいだ踊子おどりこはただ「わたし」の言葉ことばにうなずくばかりで一言ひとこともなかった。「わたし」がふねもうとかえったとき踊子おどりこはさよならをおうとしたようだが、もう一度いちどうなずいてせただけだった。

ふねがずっととおざかってから、踊子おどりこはしけしろいものをはじめた。伊豆半島いずはんとう南端なんたん後方こうほうえてゆくまで、一心いっしんおき大島おおしまながめていた「わたし」は、船室せんしつよこにいた少年しょうねん親切しんせつ自然しぜんれ、いているのをられても平気へいきだった。「わたし」のあたまは「んだみず」のようになり、ながれるままのなみだがぽろぽろとこぼれて、のちには「なにのこらないようなあまこころよさ」だった。

登場とうじょう人物じんぶつ[編集へんしゅう]

年齢ねんれいかぞどし

わたし
20さいいちだか学生がくせい
学校がっこう制帽せいぼうで、こん飛白かすり着物きものはかまをはき、学生がくせいかばんかたにかけた格好かっこう伊豆いず一人ひとりたびをしている。湯川ゆかわはしちかくで旅芸人たびげいにんいちぎょう出会であう。ふたた天城あまぎななさと山道さんどう出会であ下田しもだまで一緒いっしょたびする。
鳥打帽とりうちぼうい、制帽せいぼうかばんにしまう。歯並はならびがわるい。東京とうきょうでは寄宿舎きしゅくしゃむ。
踊子おどりこかおる
14さい当初とうしょわたし」には17さいくらいにえる。旅芸人たびげいにん一座いちざ一員いちいん古風こふうったかみたまごがた凛々りりしいちいさいかお初々ういういしい乙女おとめ
わかきりのようにあしのよくびたしろ裸身らしん湯殿ゆどのから無邪気むじゃきをふる。五目並ごもくならつよい。うつくしい黒髪くろかみ前髪まえがみ桃色ももいろくししている。うつくしくひかくろがちのおおきいはなのようにわらう。尋常じんじょう小学校しょうがっこう2ねんまでは甲府こうふにいたが、家族かぞく大島おおします。小犬こいぬたび同行どうこうさせている。
おとこ栄吉えいきち
24さい踊子おどりこあに旅芸人たびげいにん旅芸人たびげいにんたちは大島おおしま波浮港はぶみなとからやってた。
栄吉えいきち東京とうきょうで、ある新派しんぱ役者やくしゃぐんくわわっていたことがある。実家じっか甲府こうふにあり、いえうしろ栄吉えいきちあにいでいる。おさないもうとにまで旅芸人たびげいにんをさせなければならない事情じじょうがあり、しんいためている。大島おおしまにはちいさないえを2つっていて、やまほういえにはじいさんがんでいる。
うえむすめ千代子ちよこ
19さい栄吉えいきちつま
流産りゅうざん早産そうざんで2子供こどもくした。2度目どめたびそら早産そうざんし、は1週間しゅうかん死去しきょ下田しもだでそのよんじゅうきゅうにちむかえる。
40じょ(おふくろ)
40だいくらい。千代子ちよこはは栄吉えいきち義母ぎぼ
かおる三味線しゃみせんおしえているが、かおるこえがわり最中さいちゅうなので、たかこえうたわせない。生娘きむすめかおるに、おとこさわるのをいやがる。くに甲府こうふにはみんという尋常じんじょう5年生ねんせい息子むすこもいる。
なかむすめ百合子ゆりこ
17さいやとわれている芸人げいにん大島おおしまうまれ。はにかみざかり。
茶屋ちゃやばば
天城あまぎななさと山道さんどう茶店ちゃみせばあさん。
いちだか制帽せいぼうの「わたし」を旦那だんなさまとび、旅芸人たびげいにんを「あんなもの」と軽蔑けいべつふくんだ口調くちょうはなす。
茶屋ちゃやじい
ばあさんのおっと
長年ながねん中風ちゅうぶわずらい、全身ぜんしん不随ふずいになっている。水死すいしひとのようにむくみ、ひとみ黄色きいろにごっている。この老人ろうじんには、川端かわばたが『じゅうろくさい日記にっき』でえがいた病身びょうしん祖父そふ心象しんしょう投影とうえいされていることがしばしば指摘してきされている[15][16]
紙屋かみや
宿やどで「わたし」とつ。かみるいおろしてまわ行商ぎょうしょうじん。60さいちかじいさん。
鳥屋とりや
40さい前後ぜんこうおとこ旅芸人たびげいにんいちぎょうまっている木賃宿きちんやどあいだりて鳥屋とりやをしている。
踊子おどりこたちにとりなべ御馳走ごちそうする。「水戸黄門みとこうもん漫遊まんゆう」のつづきをんでくれと踊子おどりこにせがまれるがり、「わたし」がかわりにそれをんで踊子おどりこかせる。
土方どかたふうおとこ
鉱夫こうふ
かえりの霊岸島れいがんじまきの下田しもだこう乗船じょうせんじょうで、「わたし」にこえをかけ、水戸みとかえ老婆ろうば上野うえのえきまでれてやってほしいとたのむ。
老婆ろうば
蓮台寺はすだいじ銀山ぎんざんはたらいていたせがれとそのよめスペイン風邪かぜくす。のこされたまご3にん故郷こきょう水戸みとえるため、乗船じょうせんじょうまで鉱夫こうふたちに付添つきそわれている。
少年しょうねん
河津かわづ工場こうじょうぬし息子むすこ東京とうきょうかえふねで「わたし」と出会であう。
いちだか入学にゅうがく準備じゅんびのために東京とうきょうむかっていた。いている「わたし」に海苔のりすしをくれ、ている学生がくせいマントへもぐりませあたためてくれる。

作品さくひん背景はいけい[編集へんしゅう]

川端かわばた康成やすなり自身じしん発言はつげんや、作品さくひん随筆ずいひつないからの文章ぶんしょう引用いんようは〈 〉にしています(論者ろんしゃ評者ひょうしゃ論文ろんぶんからの引用いんようとの区別くべつのため)。

川端かわばた康成やすなり伊豆いずたびしたのは、いちだか入学にゅうがく翌年よくねん1918ねん大正たいしょう7ねん)のあきで、りょうだれにもげずに出発しゅっぱつしたやく8にち(10がつ30にちから11月7にち)のはじめての一人ひとりたびであった[1][2][4][5][注釈ちゅうしゃく 1]川端かわばたはそこで、岡田おかだ文太ぶんたおっと松沢まつざわかなめ)こと、時田ときたかほる(踊子おどりこあに本名ほんみょうひきいる旅芸人たびげいにんいちぎょう道連みちづれになり、おさな踊子おどりこ加藤かとうたみ(松沢まつざわたみというせつもある)と出会であい、下田しもだこうからの帰京ききょう賀茂かもまるでは、蔵前くらまえこうこうげん東京とうきょう工大こうだい)の受験生じゅけんせい後藤ごとうはじめわせた[20][21][22][23]

踊子おどりこあにとはたびのち文通ぶんつうがあり、「横須賀よこすか甲州こうしゅうかた 時田ときたかほる」差出人さしだしにん川端かわばたて(いちだか寄宿舎きしゅくしゃみなみりょう4ばんて)の年賀状ねんがじょう大正たいしょう7ねん12月31にち消印けしいん)が現存げんそんしている[21]。なお、踊子おどりこ・たみのことは、たび翌年よくねんかれた川端かわばた処女しょじょさく『ちよ』(1919ねん)のなかにも部分ぶぶんてきえがかれている[5][19][24][25]

川端かわばたは、たびからやく7ねんのちに『伊豆いず踊子おどりこ』をいた。川端かわばた自作じさくについて、〈「伊豆いず踊子おどりこ」はすべていたとおりであつた。事実じじつそのままで虚構きょこうはない。あるとすれば省略しょうりゃくだけである〉とし、〈わたしたび小説しょうせつおさな出発しゅっぱつてんである〉とべている[26]。また、たび動機どうきについては以下いかのようにかたっている[1][2]

わたし高等こうとう学校がっこうりょう生活せいかつが、いちねんあいだはひどくいやだつた。中学ちゅうがくねんとき寄宿舎きしゅくしゃ勝手かってたがえつたからである。そして、わたし幼年ようねん時代じだいのこした精神せいしんやまい患ばかりがになつて、自分じぶんあわれむねん自分じぶんいやねんとにへられなかつた。それで伊豆いずくだりつた。 — 川端かわばた康成やすなりとうでのおも」(『少年しょうねんだい14しょうなか[1][2]

川端かわばたは、幼少ようしょう身内みうちをほとんどうしなっており、1さい7かげつ父親ちちおや、2さい7かげつ母親ははおや、7さい祖母そぼ、10さいあね、15さい祖父そふ死去しきょ孤児こじとなるというちがあったため、作中さくちゅうに〈孤児こじ根性こんじょう〉という言葉ことばてくる。また当時とうじ旅芸人たびげいにん河原かわはら乞食こじきさげすまれ、作中さくちゅうにもしめされているように物乞ものごのような身分みぶんの賤しいものとみなされていた[6][27]。しかし、そういった一般いっぱんてき見方みかたはなれた〈好意こうい信頼しんらい〉がかれらと川端かわばたあいだうまれた[1][2]

旅情りょじょうと、また大阪平野おおさかへいや田舎いなかしからないわたしに、伊豆いず田舎いなか風光ふうこうとが、わたししんをゆるめた。そして踊子おどりこかいつた。いはゆる旅芸人たびげいにん根性こんじょうなどとはもつかない、]のにおいひがある正直しょうじき好意こういわたしせられた。
いいじんだと、踊子おどりこげんつて、兄嫁あによめが肯つた、一言ひとことが、わたししんにぽたりと清々すがすがしくちかかつた。いいじんかとおもえつた。さうだ、いいじんだと自分じぶんこたえへた。平俗へいぞく意味いみでの、いいじんといふ言葉ことばが、わたしにはあかりであつた。から下田しもだまで、自分じぶんでもいいじんとしてみちづれになれたとおもふ、さうなれたことがうれしかつた。 — 川端かわばた康成やすなりとうでのおも」(『少年しょうねんだい14しょうなか[1][2]

伊豆いずたびから4ねん1922ねん大正たいしょう11ねん)のなつとう滞在たいざいした川端かわばたは、踊子おどりこたちとの体験たいけんや、大阪おおさか府立ふりつ茨木いばらぎ中学校ちゅうがっこうげん大阪おおさか府立ふりつ茨木高等学校いばらきこうとうがっこう)の寄宿舎きしゅくしゃでの下級生かきゅうせい小笠原おがさわら義人よしひととの同性愛どうせいあい体験たいけんを「とうでのおも」というもと稿こうにまとめた[1][2][28][29]

これは前年ぜんねん1921ねん大正たいしょう10ねん)に、伊藤いとう初代はつよ本郷ほんごう本郷ほんごう元町もとまちカフェ・エランのもと女給じょきゅう)との婚約こんやく破談はだん事件じけんきずついた川端かわばたが、以前いぜん自分じぶん無垢むく好意こうい愛情あいじょうせてくれたなつかしい踊子おどりこ加藤かとうたみや小笠原おがさわら義人よしひとおもし、初代しょだいからけた失恋しつれんくるしみをいやすためであった[1][2][15][29]。この原稿げんこう用紙ようし107まいの「とうでのおも」がもととなり、『伊豆いず踊子おどりこ』(1926ねん)、『少年しょうねん』(1948ねん-1949ねん)へ発展はってんしていった[2][3][5][30]

ちなみに、川端かわばたはカフェ・エランにかよはじめたころみせ眩暈げんうんおこしておく部屋へやかせてもらい、ちょうどそのとき伊藤いとう初代はつよ銭湯せんとうからもど隣室りんしつ着替きがえをするうし姿すがたて、〈こんなに子供こどもだつたのか〉と、そのおもいがけないおさな裸身らしんおどろくが、その瞬間しゅんかんやく1ねんまえ温泉おんせん踊子おどりこ加藤かとうたみの〈少女しょうじょ裸身らしん〉を〈子供こどもなんだ〉とおもったことを想起そうきしている[31][32][33][34]詳細しょうさい伊藤いとう初代はつよ#いちだかせい川端かわばた康成やすなりとの出会であ参照さんしょう)。

川端かわばた最初さいしょ伊豆いずたび以来いらい田方たがたぐんうえ狩野かのむらとう1656番地ばんちげん伊豆いずとう1656-1)にある「湯本ゆもとかん[35]1927ねん昭和しょうわ2ねん)までのやく10年間ねんかん毎年まいとしのように滞在たいざいするようになるが、1924ねん大正たいしょう13ねん)に大学だいがく卒業そつぎょうしてからの3、4ねんは、滞在たいざい期間きかん半年はんとしあるいは1ねん以上いじょう長引ながびくこともあった[29][36][37]単行たんこうほん刊行かんこうさい作業さぎょうをしているころとう転地てんち療養りょうよう梶井かじい基次郎もとじろう旅館りょかん湯川ゆかわ」を紹介しょうかいし、校正こうせいをやってもらったが、それを契機けいき梶井かじいやその同人どうじん淀野よどの隆三りゅうぞうらとしたしく交流こうりゅうするようになった[10][11][13]

作品さくひん評価ひょうか研究けんきゅう[編集へんしゅう]

川端かわばた康成やすなり自身じしん発言はつげんや、作品さくひん随筆ずいひつないからの文章ぶんしょう引用いんようは〈 〉にしています(論者ろんしゃ評者ひょうしゃ論文ろんぶんからの引用いんようとの区別くべつのため)。

伊豆いず踊子おどりこ』は川端かわばた康成やすなり初期しょき代表だいひょうする名作めいさくというだけでなく、川端かわばた作品さくひんなかでももっと人気にんきたかく、その評論ひょうろん膨大ぼうだいかずのぼ[9][25]。それらの論評ろんぴょうは、様々さまざまなニュアンスの差異さいちながら川端かわばた孤児こじちと青春せいしゅん体験たいけん視点してん伊藤いとう初代はつよとの婚約こんやく破談はだん事件じけんとのがらみから論考ろんこうするものや、主人公しゅじんこうかたりの構造こうぞう分析ぶんせきから作品さくひん世界せかいろんじるものなど多岐たきにわたっているが、川端かわばたという作家さっかかたさいの、この作品さくひんおもみやおおきさへの認識にんしきはみな共通きょうつうしている[9][25]

たけ西にし寛子ひろこは、『伊豆いず踊子おどりこ』は川端かわばた作品さくひんなかでは比較的ひかくてきさわやかなもので、そこでは「自力じりきえるものとの格闘かくとう真摯しんし若者わかものだけが経験けいけんする人生じんせい初期しょきのこのとの和解わかい」がかなめになっているとし[38]、この作品さくひんが「青春せいしゅん文学ぶんがく」とわれる理由りゆうを、「この和解わかい切実せつじつさ」にあると解説かいせつしている[38]。そしてわかれの場面ばめんの〈わたし〉のなみだは「感傷かんしょう」ではなくて、それまであった「過剰かじょう自意識じいしき」がはらわれたおもてわれであり、それゆえに〈わたし〉が、少年しょうねん親切しんせつ自然しぜんれ、ってかんじるような経験けいけんを、読者どくしゃもまた共有きょうゆうできうると考察こうさつしている[38]

奥野おくの健男たけおは、川端かわばたおさなくして肉親にくしん次々つぎつぎくし、死者ししゃしたしみ、両親りょうしんあたたかい庇護ひごのなかったさびしい孤児こじちがその作風さくふう影響えいきょうおよぼしていることをかんがみながら、川端かわばたしんにある、「このなかしいたげられ、差別さべつされ、いやしめられている人々ひとびととくにそういう少女しょうじょへのいとおしみというか、殆んど同一どういつするような感情かんじょう」が、文学ぶんがくおおきなモチーフになっているとし[6]、そういった川端かわばた要素ようそ顕著けんちょな『伊豆いず踊子おどりこ』を、「温泉おんせんまちのひなびた風土ふうどと、日本人にっぽんじんだれでもがしんそこいている(そこが日本人にっぽんじん不思議ふしぎさであるのだが)世間せけんからさげすまれている芸人げいにん、そのなか美少女びしょうじょへの殆んど判官はんがんびいきともえる憧憬どうけい同一どういつというたましい琴線きんせんれた名作めいさく」と高評こうひょうしている[6]

そして芸人げいにん徳川とくがわ時代ときよに「河原者かわらもの」とさげすまれた反面はんめん白拍子しらびょうしでたこう白河しらかわ法皇ほうおうが『梁塵りょうじんしょう』を編纂へんさんしたように、ふるくから芸人げいにん上流じょうりゅう貴族きぞくとは「不思議ふしぎ交歓こうかん」があり、のう狂言きょうげん歌舞伎かぶきなどが上流じょうりゅう階級かいきゅうにとりいられてきた芸能げいのう奥野おくの解説かいせつしつつ[6]、『伊豆いず踊子おどりこ』は、そういった「芸人げいにんたいする特別とくべつのひいき、さらには憧憬どうけいという日本人にっぽんじん古来こらいからの心情しんじょう」がかされ、その「秘密ひみつ心情しんじょう」は「日本にっぽんかくれた源泉げんせん」であるとろんじている[6]

北野きたの昭彦あきひこは、この奥野おくのろんを、かずある『伊豆いず踊子おどりころんなかでも日本にっぽん芸能げいのう、「旅芸人たびげいにんフォークロア」をよくまえているものとして敷衍ふえん[39]漂流ひょうりゅうしゃ芸人げいにん定住ていじゅうしゃとの関係かんけいせいマレビトである漂泊ひょうはく芸人げいにん来訪らいほうが「かみあるいは乞食こじき」のおとずれとして定住ていじゅうみんにとらえられ、芸能げいのうえんずるかれらの姿すがたに「かみ面影おもかげ」をみとめながらも「乞食こじき」とぶこともためらわない両者りょうしゃ関係かんけいせい発展はってんさせた論究ろんきゅう展開てんかいしながら[39]、「ことかい」へのくち象徴しょうちょうである〈とうげ〉や〈はし〉で旅芸人たびげいにんいちぎょう遍歴へんれきみん)と再会さいかいした〈わたし〉がトンネルけ、かれらと同行どうこうすることで「遍歴へんれきてき人生じんせい疑似ぎじ体験たいけん」をするが、げいたび日常にちじょうであるかれらと、それが日常にちじょうである〈わたし〉とは「べつ時空じくうきながら道連みちづれになっている」と解説かいせつしている[39]

また北野きたのは、この物語ものがたり進行しんこうするにつれ、主人公しゅじんこうが「むすめ芸人げいにんペルソナはずした少女しょうじょの〈よし〉」自体じたいかたることがおもとなり、小説しょうせつのタイトルどおり、踊子おどりこぞうそのものをかた展開てんかいになることに[39]踊子おどりこの〈わたし〉にたいするはにかみや羞らい、天真爛漫てんしんらんまんおさなさ、はなのような笑顔えがお、〈わたし〉のはかますそはらってくれたり下駄げたなおしてくれたりする甲斐甲斐かいがいしさなどをげながら、踊子おどりこ何気なにげない言葉ことばで、〈わたし〉が「本来ほんらい自己じこ回復かいふくしていたこと」にづくと解説かいせつ[39]、「〈わたし〉の踊子おどりこぞう」がその都度つど多面ためんてき変容へんようする」ことの意味いみユングの『コレーぞう心理しんりがくてき位相いそうについて』[40]きつつ説明せつめいしている[39]

彼女かのじょは、ユングもとかたてき形象けいしょうひとつとしてあげた「コレーぞう」にている。コレーとは、少女しょうじょはは花嫁はなよめ三重みえそうにおいてあらわれる永遠えいえん乙女おとめである。「コレーぞう未知みちわか少女しょうじょとして登場とうじょう」し[40]、「しばしば微妙びみょうなニュアンスをつのがおどである」[40] とされている。 — 北野きたの昭彦あきひこ「『伊豆いず踊子おどりこ』の〈もの乞ひ旅芸人たびげいにん〉の背後はいご――定住ていじゅう遍歴へんれき役者やくしゃ演劇えんげき青年せいねんむすめ芸人げいにん学生がくせい[39]

三島みしま由紀夫ゆきおは、川端かわばたぜん作品さくひんつうじる重要じゅうようなテーマである「処女しょじょ主題しゅだい」の端緒たんしょがあらわれている『伊豆いず踊子おどりこ』において、〈わたし〉が観察かんさつする踊子おどりこ様々さまざま描写びょうしゃの「静的せいてきな、また動的どうてきデッサンによつててきかくてられた処女しょじょ内面ないめん」が「一切いっさい読者どくしゃ想像そうぞうゆだねられてゐる」性質せいしつ指摘してき[41]、この特性とくせいのため、川端かわばたどう時代じだい作家さっかおちいったような「あさはかな近代きんだいてき心理しんり主義しゅぎ感染かんせん」をまぬかれかれていると考察こうさつしつつ[41]、「処女しょじょ内面ないめんは、本来ほんらい表現ひょうげん対象たいしょうたりうるものではない」として、以下いかのようにその「処女しょじょ主題しゅだい」を解説かいせつしている[41]

処女しょじょおかしたおとこは、けっして処女しょじょについてることはできない。処女しょじょおかさないおとこも、処女しょじょについて十分じゅうぶんることはできない。しからば処女しょじょといふものはそもそも存在そんざいしうるものであらうか。この可知かちにが認識にんしきひと川端かわばた抒情じょじょうといふのは、じつはこのにが認識にんしき可知かちのものへしすすめようとする精神せいしんある純潔じゅんけつ焦燥しょうそうなのである。
焦燥しょうそうであるために一見いっけんあいまい語法ごほう必要ひつようとされる。しかしこのあいまいさは正確せいかくなあいまいさだ。ここにいたつて、処女しょじょせい秘密ひみつは、芸術げいじゅつ作品さくひんがこの存在そんざいすることの秘密ひみつ形代かたしろ(かたしろ)になるのである。表現ひょうげんそのものの可知かち作用さようかんする表現ひょうげん努力どりょくがここからうまれる。 — 三島みしま由紀夫ゆきお「『伊豆いず踊子おどりこ』について」[41]

勝又かつまたひろしは、物語ものがたり導入どうにゅう天城峠あまぎとうげ茶屋ちゃやで〈到底とうてい生物せいぶつとはおもへないやま怪奇かいき〉のようなみにく老人ろうじん姿すがたえがかれる意味いみを、『雪国ゆきぐに』で主人公しゅじんこうが〈トンネル〉をけて駒子こまこうように、『伊豆いず踊子おどりこ』でも踊子おどりこうためにえなければならなかった「試練しれん」であり、「ことかい」へのくちである天城峠あまぎとうげの〈くらいトンネル〉をけることは「タイムマシンとしての儀式ぎしき」を暗示あんじさせるとして[16]、こういった川端かわばた文学ぶんがく幻想げんそうてきいちめんいずみ鏡花きょうか永井ながい荷風かふうともことなるてん説明せつめいして、幻想げんそう世界せかいつたえる「媒介ばいかいしゃ」(主人公しゅじんこう)が、鏡花きょうか場合ばあい物語ものがたり世界せかい同様どうよう稗史はいしてきなまま」で、荷風かふうは「近代きんだい住人じゅうにん」であり「知識ちしきじん全能ぜんのうてき存在そんざい」だが、川端かわばた場合ばあい川端かわばた自身じしんが「ことかい」の人物じんぶつであり「幽霊ゆうれいのような人物じんぶつ」「まれびと」だとしている[16]

天下てんかいちだかせいが、たまたまおにばんするトンネルをくぐけて、とおしまから舞姫まいひめ邂逅かいこうしてたましい浄化じょうかする物語ものがたりむのがかがみはなふうだが、ねた一人ひとりインテリ田舎いなか旅芸人たびげいにん関心かんしんって、現代げんだい都市としではうしなわれたふるきよき時代じだい純朴じゅんぼくむすめ発見はっけんして旅情りょじょうなぐさめるというのが荷風かふうしき、そして川端かわばた文学ぶんがく場合ばあいは、ことかいはむしろ主人公しゅじんこうがわにある。
わたし」は、トンネルのこうの人々ひとびとにとっては神秘しんぴてきまれびとであって、かれおとずれる先々さきざき歓迎かんげいされるが、そのことによって、健気けなげきる人々ひとびと祝福しゅくふくし、かれ自身じしんは、その民俗みんぞくてき約束やくそくしたがって、むら々の不幸ふこうを、汚濁おだくなるものをけてむらってかなければならない。それ伊豆いず踊子おどりこ』には、その結末けつまついたってもう一度いちど老人ろうじん登場とうじょうするのであろう。 — 勝又かつまたひろしひと文学ぶんがく――川端かわばた文学ぶんがくみなもときょう[16]

そして勝又かつまたは、この小説しょうせつ表面ひょうめんてきには「孤児こじ意識いしき脱却だっきゃく物語ものがたり」であるにもかかわらず、最後さいごにまた老人ろうじん登場とうじょうし、3にん孤児こじ道連みちづれにすることを村人むらびとから合掌がっしょう懇願こんがんされる箇所かしょに、川端かわばたの「孤児こじ宿命しゅくめい」が垣間見かいまみえるとし[16]、「〈孤児こじ根性こんじょう〉、〈息苦いきぐるしい〉孤児こじ意識いしきからは解放かいほうされたかもしれないが、孤児こじとしての宿命しゅくめいそのものはけっしてかれはなちはしなかったはず」だと解説かいせつしている[16]。また、三島みしま由紀夫ゆきお川端かわばたを「永遠えいえん旅人たびびと」としょうしたことや[42]川端かわばた処女しょじょさくからしょさくいたるまでられる心霊しんれいてき要素ようそかんがみながら[注釈ちゅうしゃく 2]、こうした「この定住ていじゅうたない」川端かわばたが、トンネルをえ「まれびととなって人界じんかいおとずれ」て、「踊子おどりこ純情じゅんじょう」をよりかがやかせられる特異とくいせい考察こうさつしている[16]

橋本はしもとおさむ恋愛れんあいてき観点かんてんから『伊豆いず踊子おどりこ』をとらえ、主人公しゅじんこう青年せいねん最後さいごつづける意味いみについて、「いやしい旅芸人たびげいにん」と「エリートのたまご」という「身分みぶん」の垣根かきねさえもえ、冷静れいせい相手あいてをじっと観察かんさつする余裕よゆうもなくなって「ただそのひとにひれすしかなくなってしまう、こいという感情かんじょう」を主人公しゅじんこう内心ないしんみとめたくなく、冷静れいせいわかれたつもりが、とおざかるふねむかってはしけから一心いっしんしろいハンカチを踊子おどりこ正直しょうじき姿すがたて、「プライドのたかい〈わたし〉は、ついにこいという感情かんじょうみとめた」と解説かいせつしている[27]

そして橋本はしもとは、主人公しゅじんこうが「ただ彼女かのじょといられて幸福こうふくだった」という真実しんじつ感情かんじょうみとめ、自分じぶんおなじエリートコースの少年しょうねんを「踊子おどりことつながる人間にんげんでもあるかのように」おもい、その好意こういつつまれわる結末けつまつ[27]、「こいという垣根かきねまえにして、そしてえられるはずの垣根かきねあしられ、自分じぶんというものをあらためて見詰みつめなければどうにもならないのだという、にが事実じじつ」をきつけられ、その「青春せいしゅん自意識じいしきのつらさ」をえがいているため『伊豆いず踊子おどりこ』は「永遠えいえん作品さくひん」となっているとひょうしている[27]

川嶋かわしまいたる細川ほそかわあきら)は、『伊豆いず踊子おどりこ』の底流ていりゅうに、みち伊藤いとう初代はつよ仮名かめい)の「面影おもかげ」があるとして、初代しょだいから婚約こんやく解消かいしょうされた川端かわばた動転どうてんつづった私小説ししょうせつ非常ひじょう』との関連かんれんせい看取かんしゅ[33]川端かわばた初代しょだいもとかう汽車きしゃなかわかれの手紙てがみ一心いっしんかえしているときとした財布さいふやマントをひろってくれ、〈ずのばん〉までしてくれた〈学生がくせい〉(高校こうこう受験生じゅけんせい)の好意こういあまえてゆだねる場面ばめんと、下田しもだこう踊子おどりこわかれたかえりの汽船きせんで、〈親切しんせつ〉な〈少年しょうねん〉のマントにつつまれて素直すなお共通きょうつうこう指摘してきしながら、「一見いっけん素朴そぼく青春せいしゅんあわおも」をえがいた『伊豆いず踊子おどりこ』は、「実生活じっせいかつにおける失恋しつれんという貴重きちょう体験たいけん代償だいしょうとしてまれた作品さくひん」だとして、踊子おどりこは、「古風こふうかみい、旅芸人たびげいにんをやつした、みちならなかった」と考察こうさつしている[33]

なお、川端かわばた本人ほんにんはこの川嶋かわしまいたる論考ろんこうかんし、〈まつたく作者さくしゃ意識いしきにはなかつた〉として、草稿そうこうとうでのおも」をいたときには伊藤いとう初代はつよのことが〈つよしんにあつた〉が、『伊豆いず踊子おどりこ』をいたとき初代しょだいは〈うかんでなかつた〉としている[26]。そして『非常ひじょう』での汽車きしゃ場面ばめんとの類似るいじ指摘してきされたことについては、以下いかのようにかたっている[26]

伊豆いず踊子おどりこ」のとき、「非常ひじょう」に受験生じゅけんせい好意こういいたのはわすれてゐた。細川ほそかわ川嶋かわしまいたる)にふたつをならべてみせられて、わたしはこれほどおどろいた批評ひひょうもめづらしいが、それよりもさらに、これはふたつとも事実じじつあつたとおりなので、いはば人生じんせいの「非常ひじょう」のときに、偶然ぐうぜん乗合のりあいきゃく受験生じゅけんせいが、わたしをいたはつてくれたのは、いつたいどういうことなのだらうか、とわたしかんがえさせられるのである。ふしぎである。 — 川端かわばた康成やすなり「『伊豆いず踊子おどりこ』の作者さくしゃ[26]

はやし武志たけしは、川端かわばた伊豆いず踊子おどりこったころには、中学ちゅうがく時代じだい後輩こうはい同性愛どうせいあいてき愛情あいじょうっていた小笠原おがさわら義人よしひと文通ぶんつうつづいていたことと、草稿そうこうとうでのおも」での踊子おどりこ記述きじゅつが、清野きよの少年しょうねん小笠原おがさわら義人よしひと)の「序曲じょきょくてきなものになっていることから、『伊豆いず踊子おどりこ』での「踊子おどりこぞうには小笠原おがさわら少年しょうねん心象しんしょうが「陰画いんがてき投影とうえいされているとしている[3][15]

事実じじつ川端かわばたおおくの作品さくひんで、少女しょうじょあるいはそれにちかおんな少年しょうねんのイメージをさがもとめている。それ清野きよの少年しょうねんおもかげしんいだ川端かわばたが、大正たいしょうななねん伊豆いずでのはつたび途中とちゅう実在じつざいおど清野きよの少年しょうねんのイメージをさがもとめ、大正たいしょうじゅういちねんの「とうでのおも執筆しっぴつに、清野きよの少年しょうねん登場とうじょう序曲じょきょくてき存在そんざいとしてのおど部分ぶぶんにおいて、「踊子おどりこ」に清野きよの少年しょうねんのイメージをオーバーラップさせていたとしても不思議ふしぎではない。すなわち、両性りょうせい混入こんにゅうによる「踊子おどりこ」の一方いっぽうからの中性ちゅうせいである。 — はやし武志たけし「『伊豆いず踊子おどりころん[15]

また、最終さいしゅう場面ばめんいている「わたし」をマントでつつんでくれた受験生じゅけんせい少年しょうねん描写びょうしゃも「清野きよの少年しょうねんのバリエーション」ではないかとはやし考察こうさつしている[15]

わかれの場面ばめんにおける主語しゅご問題もんだい[編集へんしゅう]

川端かわばた康成やすなり自身じしん発言はつげんや、作品さくひん随筆ずいひつないからの文章ぶんしょう引用いんようは〈 〉にしています(論者ろんしゃ評者ひょうしゃ論文ろんぶんからの引用いんようとの区別くべつのため)。

主人公しゅじんこう踊子おどりこ乗船じょうせんじょうわかれる場面ばめん以下いかのような一文いちぶんがあるが、主語しゅごはぶかれているため、〈さよなら〉をおうとしてめて、ただ〈うなづいた〉のが主人公しゅじんこう踊子おどりこのどちらであるのか、川端かわばたもと読者どくしゃからの質問しつもん多数たすうせられたという問題もんだいてんがあった[26]

わたし縄梯子なわばしごつかまらうとしてかえしつた、さよならをげんはうとしたが、それもして、もういちぺんただうなづいてせた。
川端かわばた康成やすなり伊豆いず踊子おどりこ

これについて川端かわばたは、主語しゅごは〈踊子おどりこ〉であるとし、以下いかのようにこたえている[26]

はじめ、わたしはこの質問しつもんおもひがけなかつた。踊子おどりこにきまつてゐるではないか。このみなとわかれの情感じょうかんからも、踊子おどりこがうなづくのでなければならない。このの「わたし」と踊子おどりことの様子ようすからしても、踊子おどりこであるのはあきらかではないか。「わたし」か踊子おどりこかとうたぐつたり迷つたりするのは、みがりないのではなからうか。「もういちぺんただうなづいた」で、「もういちぺん」とわざわざいたのは、そのまえに、踊子おどりこがうなづいたことをいてゐるからである。 — 川端かわばた康成やすなり「『伊豆いず踊子おどりこ』の作者さくしゃ[26]

そして川端かわばたは、問題もんだい箇所かしょをよくかえしてみると読者どくしゃ誤解ごかいあたえたのも、主語しゅごはぶいたためまどわせることになったかもしれないとしながらも、以下いかのように説明せつめいしている[26]

「さよならをげんはうとした」のも、「うなづいた」のも、「わたし」とられるのが、むしろ自然しぜんかもしれない。しかしそれなら、「わたしが」ではなくて「わたしは」としさうである。「わたしが」の「が」は、「さよならをげんはうとした」のが、わたしとは別人べつじん踊子おどりこであること、踊子おどりこといふ主格しゅかく省略しょうりゃくされてゐることをあんかんじさせないだらうか。 — 川端かわばた康成やすなり「『伊豆いず踊子おどりこ』の作者さくしゃ[26]

なお、英訳えいやくではこの部分ぶぶん主語しゅごが、“I”(わたし)と誤訳ごやくされてしまっている[26]。そして川端かわばたはあえて新版しんぱんでも、この主語しゅご補足ほそくしなかった理由りゆうについては、その部分ぶぶんをつけてむと、〈不用意ふようい粗悪そあく文章ぶんしょう〉で、〈主格しゅかくふだけではすまなくて、そこをなおさねばならぬ〉とおもえたことと、『伊豆いず踊子おどりこ』が〈わたし〉の視点してんかれた物語ものがたりであることの説明せつめいとして以下いかのようにかたっている[26]

伊豆いず踊子おどりこ」はすべて「わたし」がふういてあつて、踊子おどりこ心理しんり感情かんじょうも、わたし見聞みききした踊子おどりこのしぐさや表情ひょうじょう会話かいわだけでいてあつて、踊子おどりこがわからはなにひといてない。したがつて、「(踊子おどりこは)さよならをげんはうとしたが、それもして、」と、ここだけ踊子おどりこがわからいてあるのは、全体ぜんたいをやぶる表現ひょうげんである。(中略ちゅうりゃく
主格しゅかく一語いちごふだけですまなくて、旧作きゅうさくさんよんぎょうなおさねばならないとなると、わたし重苦おもくるしい嫌悪けんおにとらへられてしまふ。もし仔細しさいにみれば、全編ぜんぺんががたがたしてきたさうである。 — 川端かわばた康成やすなり「『伊豆いず踊子おどりこ』の作者さくしゃ[26]

こう本條ほんじょうは、この踊子おどりこ主格しゅかく問題もんだいかんする川端かわばたの、〈全体ぜんたいをやぶる表現ひょうげん〉という言及げんきゅうについて、〈わたし〉がふうくという「かたりの視点してん」をぜんへんとおして一貫いっかんさせるべきだったというのが川端かわばたの「反省はんせいてき自覚じかく」だったとし[43]、この小説しょうせつかるながすのではなく、〈わたし〉に同化どうか感情かんじょう移入いにゅうしながら「解釈かいしゃく処理しょり」をつづけた読者どくしゃにとっては、物語ものがたり終盤しゅうばんでいきなり、たったいち箇所かしょだけ、「語彙ごい統語とうご構造こうぞうあらわれた結束けっそくせいがかりにしたがかぎりにおいて、〈わたし以外いがい人物じんぶつ同化どうかした視点してんかたられたと解釈かいしゃくできる部分ぶぶん」が混入こんにゅうしているのは戸惑とまどいであり、その「かたりの視点してん」の整合せいごうせいづく認知にんち能力のうりょく読者どくしゃにとって、「川端かわばたおかした不用意ふようい視点してん転換てんかん」は、重大じゅうだい解釈かいしゃく問題もんだいとして顕在けんざいされるとろんじている[43]

三川みかわ智央ともおはこれにして、ややちがった論点ろんてんからこの視点してん転換てんかん問題もんだいをみて、通常つうじょうかたとしての〈わたし〉の次元じげんでならば、問題もんだい個所かしょは、「(踊子おどりこが)なにかをおうとしたようだが、……」あるいは「わかれのことばをおうとしたようだが……」というふう推測すいそくてき文言もんごんになるはずだとし[44]川端かわばたがほとんど無意識むいしきてきに〈(踊子おどりこは)さよならをげんはうとした〉と断定だんてい表現ひょうげんしたのは、主人公しゅじんこうの〈わたし〉が一種いっしゅの「狂気きょうき」の状態じょうたいにあり、「踊子おどりことのあいだ暴力ぼうりょくてきともいえる一方いっぽうてきコミュニケーション夢想むそうしているにほかならない」と解説かいせつしながら[44]、このことは同時どうじに、物語ものがたり世界せかいないの〈わたし〉と、「かたである〈わたし〉の自己じこ同一どういつせい崩壊ほうかい=〈わたし〉そのものの崩壊ほうかい」をも意味いみしていると論考ろんこうしている[44]

そして三川みかわは、この場面ばめんでは、踊子おどりことの「離別りべつ」とともに、「まるでそれを阻止そしするかのように〈わたし〉と踊子おどりこの「心理しんりてき一体化いったいか」がしめされるとし[44]、それはあくまで「現実げんじつ世界せかい解釈かいしゃくコードでは認識にんしき不能ふのうな『事実じじつ』」で、「〈わたし〉の踊子おどりこたいする一方いっぽうてき一体化いったいか夢想むそう」は「〈わたし〉の意識いしき肥大ひだいと『他者たしゃ』である踊子おどりこ抹殺まっさつ」が前提ぜんていとなっているが、読者どくしゃがわはその〈わたし〉の「暴力ぼうりょくせい」を「解釈かいしゃくコードのえ」により、「抒情じょじょうてき空間くうかん」といったものとして「物語ものがたり空間くうかんかろうじてれることになる」と考察こうさつしつつ[44]通常つうじょう意味いみでの「かた」という存在そんざいしてしまう作品さくひん自体じたい不安定ふあんてい構造こうぞうささえているちからを、「たがいにことなる志向しこうせいびた複数ふくすうの《かたり》の葛藤かっとうによってしょうじるダイナミズム=《かたり》のちから」とび、以下いかのようにさとしをまとめている[44]

すくなくとも『伊豆いず踊子おどりこ』は、自己じこの「過去かこ事実じじつ」を先行せんこうする物語ものがたり内容ないようとして「かた」という人格じんかくてきげんひょう主体しゅたい物語ものがたり行為こうい遂行すいこうするという一般いっぱんてき一人称いちにんしょう小説しょうせつ構造こうぞうなどには還元かんげんできない、むしろそのような主体しゅたい疎外そがいする「かたり」そのものの「ちから」によってささえられているのであり、多重たじゅうてきな「かたり」の葛藤かっとうによってしょうじた軌跡きせきとしてかたちあたえられているにぎないのだ。そこではすでに、物語ものがたり内容ないよう物語ものがたり言説げんせつたいする優位ゆういせいという仮構かこう崩壊ほうかいしてしまっている。 — 三川みかわ智央ともお「『伊豆いず踊子おどりこ再考さいこう――葛藤かっとうする〈かたり〉とわかれの場面ばめんにおける主語しゅご問題もんだい[44]

観光かんこう資源しげんとしての『伊豆いず踊子おどりこ[編集へんしゅう]

天城峠あまぎとうげにある川端かわばた康成やすなりのレリーフ

浄蓮じょうれんたきから本谷川ほんたにかわ沿ってのぼり、きゅう天城あまぎトンネルけて、河津川かわづがわ沿ってくだるルートは「踊子おどりこ歩道ほどう」として整備せいびされている[45]。「踊子おどりこ歩道ほどう」は2002ねん遊歩ゆうほひゃくせん選定せんていされた[45]

ほん谷川たにがわ狩野川かのがわ沿いにすぎやブナがしげはやしきゅう街道かいどうをしばらくあるくと踊子おどりこきょうぎたあたりのわさびさわがわ文学ぶんがくがある。この文学ぶんがくには、川端かわばた毛筆もうひつきによる〈みちつづらになつて、いよいよ天城峠あまぎとうげちかづいたとおもころ雨脚あまあしすぎ密林みつりんしろめながら、すさまじいはやさでふもとからわたしついつてた。…〉という作品さくひん冒頭ぼうとう部分ぶぶんきざまれており、左側ひだりがわいしぶみめん川端かわばた銅版どうはんせいレリーフ設置せっちされている。この文学ぶんがくは、1981ねん昭和しょうわ56ねん)5がつ1にちてられ除幕じょまくしきおこなわれた[46]

そこから天城あまぎトンネルを河津川かわづがわ沿いのみちくだっていくとある温泉おんせん旅館りょかん福田ふくだ」のとなりにも文学ぶんがくがある。こちらの文学ぶんがくは、川端かわばた存命ぞんめいちゅう1965ねん昭和しょうわ40ねん)11月12にち建立こんりゅうされた[47]いしぶみには川端かわばた直筆じきひつで、〈までは河津川かわづがわ渓谷けいこく沿うて三里さんりあまりの下里しもさとだつた。とうげえてからは、さんそらいろまでが南国なんごくらしくかんじられた。…〉の一節いっせつきざまれており、旅館りょかん入口いりくちにはブロンズ踊子おどりこぞうもある[23][47]

川端かわばたは、この「福田ふくだがわ文学ぶんがく除幕じょまくしきで、作中さくちゅう登場とうじょうする受験生じゅけんせい少年しょうねん〉のモデルだった後藤ごとうはじめ再会さいかい当時とうじ65さい)と47ねんぶりに再会さいかいした[26]後藤ごとうはじめは「賀茂かもまる」で川端かわばたった当時とうじのことを以下いかのように述懐じゅっかいしている[23][注釈ちゅうしゃく 3]

機関きかんしつまえせま部屋へやで、いろんなはなしをしました。旅芸人たびげいにんはなし印象いんしょうてきでした。空腹くうふくだというので、わたしはおやのこしらえてくれた弁当べんとうノリ巻のりまをすすめたんです。川端かわばたさんはそれをホオばりながら、「ぼくにはちちははもいないんだ」としんみりばなしました。そうして、わたしに「下宿げしゅくつからなかったら、相談そうだんたまえ」といってくれた。東京とうきょうくと、川端かわばたさんが「ちょうぶろにこう」とさそった。あつすぎたのでジャこうをひねってうめていると、イレズミをしたわかしゅろくにんはいってて「ぬるいぞッ」とどなった。わたしはむねがドキドキしたが、川端かわばたさんは顔色かおいろひとつえず、平然へいぜんとしていました。 — 後藤ごとうはじめ談話だんわ」(『実録じつろく 川端かわばた康成やすなり』)[23]
特急とっきゅうおどごう。ヘッドマークにも注目ちゅうもく

はつけいたきそばには「おどわたし」というブロンズぞうもあり、みちえき天城あまぎえつには文学ぶんがく博物館はくぶつかん昭和しょうわもり会館かいかん)がある。

1981ねん昭和しょうわ56ねん)10がつ1にちより、国鉄こくてつ(1987ねん4がつ1にち以降いこうJR東日本ひがしにっぽん伊豆急行いずきゅうこう伊豆箱根鉄道いずはこねてつどう直通ちょくつう特急とっきゅう列車れっしゃ名称めいしょうに、「おどごう名称めいしょう公募こうぼによりてられた。また、東海自動車とうかいじどうしゃ(1999ねん4がつ1にち以降いこう中伊豆なかいず東海とうかいバス)のボンネットバス愛称あいしょうには、「伊豆いず踊子おどりこごう」がてられるなど、「踊子おどりこ」は伊豆いず愛称あいしょうされている。

映画えいが[編集へんしゅう]

映画えいがにおいては、一部いちぶはんで、おきみなどの原作げんさくにない登場とうじょう人物じんぶつ設定せっていされるなど、原作げんさくとのちがいがある。

伊豆いず踊子おどりこ1954ねん
美空みそらひばり石濱いしはまあきら

テレビドラマ[編集へんしゅう]

関西かんさいテレビ制作せいさくフジテレビ系列けいれつ はくゆき劇場げきじょう
川端かわばた康成やすなり名作めいさくシリーズ
ぜん番組ばんぐみ 番組ばんぐみめい 番組ばんぐみ
伊豆いず踊子おどりこ
(1973ねん
日本にほんテレビけい 青春せいしゅんアニメ全集ぜんしゅう
(なし)
伊豆いず踊子おどりこ
テレビ東京てれびとうきょうけい 日本にっぽん名作めいさくドラマ
伊豆いず踊子おどりこ
(1993ねん

ラジオドラマ[編集へんしゅう]

舞台ぶたい[編集へんしゅう]

おもな収録しゅうろく刊行かんこうほん[編集へんしゅう]

単行本たんこうぼん[編集へんしゅう]

  • 伊豆いず踊子おどりこ』(金星かなぼしどう、1927ねん3がつ20日はつか
    • 装幀そうてい吉田よしだ謙吉けんきち湯本ゆもとかん一室いっしつ山桜やまざくら」の欄間らんま図柄ずがらはこ[注釈ちゅうしゃく 4])。B6ばんはこいれ
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「しろ満月まんげつ」「招魂しょうこんまつり一景いっけい」「孤児こじ感情かんじょう」「驢馬ろばつま」「葬式そうしき名人めいじん」「犠牲ぎせい花嫁はなよめ」「じゅうろくさい日記にっき」「あおうみくろうみ」「がつまぼろし」「伊豆いず踊子おどりこ
  • 伊豆いず踊子おどりこ』(金星かなぼしどう、1928ねん10がつ5にち
    • ※ 1927ねん昭和しょうわ2ねん刊行かんこうほん普及ふきゅうばん
  • 限定げんていばん伊豆いず踊子おどりこ』(江川えがわ書房しょぼう、1932ねん6がつ20日はつか限定げんてい180
  • 抒情じょじょう哀話あいわ 伊豆いず踊子おどりこ』(近代きんだい文芸ぶんげいしゃ、1933ねん4がつ10日とおか
    • 口絵くちえ写真しゃしん田中たなか絹代きぬよ
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「伊豆いず踊子おどりこ」「しろ満月まんげつ」「招魂しょうこんまつり一景いっけい」「孤児こじ感情かんじょう」「驢馬ろばつま」「葬式そうしき名人めいじん」「犠牲ぎせい花嫁はなよめ」「じゅうろくさい日記にっき」「あおうみくろうみ」「がつまぼろし
  • コルボオ叢書そうしょ伊豆いず踊子おどりこ』(野田のだ書房しょぼう、1938ねん1がつ31にち) 150限定げんてい
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「伊豆いず踊子おどりこ
  • 細川ほそかわ叢書そうしょ伊豆いず踊子おどりこ』(細川ほそかわ書店しょてん、1947ねん5がつ1にち) 2000限定げんてい
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「伊豆いず踊子おどりこ
  • 東鐵ひがしてつ文化ぶんか読本とくほんだい7ごう伊豆いず踊子おどりこ』(東京とうきょう鐵道てつどうきょく、1948ねん5がつ15にち非売品ひばいひん
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「伊豆いず踊子おどりこ
  • 伊豆いず踊子おどりこ』(小山こやま書店しょてん、1949ねん4がつ30にち
  • 伊豆いず踊子おどりこ』(細川ほそかわ書店しょてん、1951ねん3がつ15にち
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「伊豆いず踊子おどりこ
  • 雪国ゆきぐに伊豆いず踊子おどりこ』(新潮社しんちょうしゃ、1952ねん8がつ20日はつか
  • 伊豆いずたび』(中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1954ねん10がつ5にち
  • 新潮しんちょう青春せいしゅん文学ぶんがく叢書そうしょ伊豆いず踊子おどりこ』(新潮社しんちょうしゃ、1955ねん1がつ31にち
  • 伊豆いず踊子おどりこ』(講談社こうだんしゃロマンブックス、1964ねん5がつ10日とおか
  • 文庫ぶんこばん伊豆いず踊子おどりこ』(三笠みかさ文庫ぶんこ、1951ねん10がつ
    • 川端かわばた康成やすなり「あとがき」
  • 文庫ぶんこばん伊豆いず踊子おどりこ』(新潮しんちょう文庫ぶんこ、1950ねん8がつ20日はつか改版かいはん2003ねん5がつ5にち
  • 文庫ぶんこばん伊豆いず踊子おどりこ禽獣きんじゅう』(角川かどかわ文庫ぶんこ、1951ねん7がつ30にち改版かいはん1989ねん、1999ねん
    • 装幀そうてい杉浦すぎうら康平やすひら。カバーそう蓬田よもぎたやすひろ
    • 解説かいせつ進藤しんどう純孝すみたか川端かわばた康成やすなり――ひと文学ぶんがく」。古谷ふるやこうたけ作品さくひん解説かいせつ」。川端かわばた康成やすなり「『伊豆いず踊子おどりこについて』」。年譜ねんぷ
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「伊豆いず踊子おどりこ」「あおうみくろうみ」「驢馬ろばつま」「禽獣きんじゅう」「慰霊いれい」「二十歳はたち」「むすめごころ」「父母ちちはは
  • 文庫ぶんこばん伊豆いず踊子おどりこ温泉おんせん宿やど よんへん』(岩波いわなみ文庫ぶんこ、1952ねん2がつ改版かいはん2003ねん9がつ18にち
    • 装幀そうていせいきょうしゃ川端かわばた康成やすなり「あとがき」。りゃく年譜ねんぷ
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「じゅうろくさい日記にっき」「招魂しょうこんまつり一景いっけい」「伊豆いず踊子おどりこ」「あおうみくろうみ」「春景しゅんけいしょく」「温泉おんせん宿やど
  • 文庫ぶんこばん伊豆いず踊子おどりこはなのワルツ へん』(旺文社おうぶんしゃ文庫ぶんこ、1965ねん7がつ10日とおか
  • 文庫ぶんこばん伊豆いず踊子おどりこじゅうろくさい日記にっき』(講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、1972ねん11月)
    • 解説かいせつ年譜ねんぷ作成さくせい長谷川はせがわいずみ
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「伊豆いず踊子おどりこ」「じゅうろくさい日記にっき
  • 文庫ぶんこばん伊豆いず踊子おどりこ』(集英社しゅうえいしゃ文庫ぶんこ、1977ねん5がつ30にち改版かいはん1993ねん6がつ5にち
    • 解説かいせつ奥野おくの健男たけおあざやかな感覚かんかく表現ひょうげん」。橋本はしもとおさむ鑑賞かんしょう――『こい垣根かきね』」。年譜ねんぷ
    • ※ 2008ねん新装しんそうばんより、カバー装画そうが荒木あらきりょ
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「伊豆いず踊子おどりこ」「招魂しょうこんまつり一景いっけい」「じゅうろくさい日記にっき」「死体したい紹介しょうかいじん」「温泉おんせん宿やど
  • 文庫ぶんこばん伊豆いずたび』(中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1981ねん4がつ10日とおか改版かいはん2015ねん11月21にち
    • 解説かいせつ川端かわばたかおり男里おのさと文庫ぶんこ新版しんぱんによせて」
    • 収録しゅうろく作品さくひん:1954ねん10がつ中央公論社ちゅうおうこうろんしゃからの単行本たんこうぼんどう内容ないよう
  • 文庫ぶんこばん伊豆いず踊子おどりこ骨拾こつひろ』(講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、1999ねん3がつ10日とおか
    • 装幀そうてい菊地きくち信義のぶよし解説かいせつ羽鳥はとり徹哉てつや
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「骨拾こつひろい」「日向ひなた」「処女しょじょさくたたり」「篝火かがりび」「じゅうろくさい日記にっき」「あぶら」「葬式そうしき名人めいじん」「孤児こじ感情かんじょう」「伊豆いず踊子おどりこ」「父母ちちははへの手紙てがみ」「ちよ」
  • 英文えいぶんばん『The Dancing Girl of Izu and Other Stories』(わけ:J. Martin Holman)(Counterpoint Press、1998ねん
    • 収録しゅうろく作品さくひん伊豆いず踊子おどりこ(The Dancing Girl of Izu)、じゅうろくさい日記にっき(Diary of My Sixteenth Year)、あぶら(Oil)、葬式そうしき名人めいじん(The Master of Funerals)、骨拾こつひろい(Gathering Ashes)、ほか
  • ドイツばん『Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke』(わけオスカー・ベンル)(Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke)[54]

全集ぜんしゅう[編集へんしゅう]

  • 川端かわばた康成やすなり全集ぜんしゅうだい1かん 伊豆いず踊子おどりこ』(新潮社しんちょうしゃ、1969ねん5がつ25にち
    • カバー題字だいじ松井まつい如流菊判きくばん変形へんけいはこいれ口絵くちえ写真しゃしん2よう著者ちょしゃしょうかげ大雅たいが軼事いつじ富岡とみおか鉄斎てっさい
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「じゅうろくさい日記にっき」「招魂しょうこんまつり一景いっけい」「あぶら」「葬式そうしき名人めいじん」「篝火かがりび」「そらうご」「かえる往生おうじょう」「しろ満月まんげつ」「あおうみくろうみ」「伊豆いず踊子おどりこ」「春景しゅんけいしょく」「死者ししゃしょ」「文科ぶんか大学だいがく挿話そうわ」「死体したい紹介しょうかいじん」「温泉おんせん宿やど」「きょうつたいちぺーじ
  • 川端かわばた康成やすなり全集ぜんしゅうだい2かん 小説しょうせつ2』(新潮社しんちょうしゃ、1980ねん10がつ20日はつか
    • カバー題字だいじ東山ひがしやまいさおえびすよんろくばんはこいれ
    • 収録しゅうろく作品さくひん:「じゅうろくさい日記にっき」「招魂しょうこんまつり一景いっけい」「あぶら」「葬式そうしき名人めいじん」「篝火かがりび」「そらうご」「非常ひじょう」「孤児こじ感情かんじょう」「かえる往生おうじょう」「驢馬ろばつま」「あおうみくろうみ」「明日あした約束やくそく」「しろ満月まんげつ」「伊豆いず踊子おどりこ」「はる近眼きんがんきょう」「文科ぶんか大学だいがく挿話そうわ」「伊豆いずかえり」「きょうつたいちぺーじ」「温泉おんせんじょうこと」「祖母そぼ」「犠牲ぎせい花嫁はなよめ」「がつまぼろし」「霰」「南方なんぽう」「椿つばき」「春景しゅんけいしょく

映像えいぞう資料しりょう[編集へんしゅう]

漫画まんが[編集へんしゅう]

アンソロジー[編集へんしゅう]

派生はせい作品さくひん・オマージュ作品さくひん[編集へんしゅう]

出典しゅってん[55]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 川端かわばたはそのすこまえ同級生どうきゅうせい氷室ひむろ吉平きちへい文芸ぶんげい)から伊豆いず旅行りょこうでのとうはなしかされていたという[17]氷室ひむろ吉平きちへいいちだかの『校友こうゆうかい雑誌ざっし』になにかを投稿とうこうしてみないかと最初さいしょ川端かわばたすすめた人物じんぶつでもある[18][19]
  2. ^ たとえば処女しょじょさく『ちよ』では、〈自分じぶん幽霊ゆうれいえて、自身じしんさへこわれます〉、〈れいどもにちからき、うごかされてゐるまぼろしです〉と自身じしんかたっている[16][24]
  3. ^ 後藤ごとうはじめは、横浜よこはま電子でんし工業こうぎょう部品ぶひんつく会社かいしゃ社長しゃちょうとなった[23]
  4. ^ はこ図柄ずがらは、欄間らんまのほか湯本ゆもとかん旅客りょかくブラシや歯磨はみがれのまるかんとう見櫓みやぐら表紙ひょうし裏表紙うらびょうしには温泉おんせんみずをとおすかけい水槽すいそう川中島かわなかじまにあるブランコなどがえがかれており、踊子おどりこくし山女やまめおもわれるさかなぜんだけがあか色付いろづけされている。これらは川端かわばた滞在たいざい吉田よしだとうおとずれていちばんでスケッチしたという[10]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h とうでのおも」(草稿そうこう107まい、1922ねんなつ)。『少年しょうねんないへの引用いんよう作品さくひんどくかげいのち 1970, pp. 134–135, 137–138に抜粋ばっすい掲載けいさい
  2. ^ a b c d e f g h i 少年しょうねん」(人間にんげん 1948ねん5がつごう-1949ねん3がつごう)。小説しょうせつ10 1980, pp. 141–256に所収しょしゅう作家さっか自伝じでん 1994だい5、6、7、9回分かいぶん掲載けいさい
  3. ^ a b c 「『伊豆いず踊子おどりこ成立せいりつこう」(はやしたけし 1976, pp. 55–96
  4. ^ a b c しん感覚かんかく――『文藝ぶんげい時代じだい』の出発しゅっぱつ」(アルバム川端かわばた 1984, pp. 18–31)
  5. ^ a b c d さん 出世しゅっせさく伊豆いず踊子おどりこ』の慕情ぼじょう」(あい 1978, pp. 39–98)
  6. ^ a b c d e f 奥野おくの健男たけお解説かいせつ――あざやかな感覚かんかく表現ひょうげん」(踊子おどりこあつまりえい 1993, pp. 254–263)
  7. ^ 記者きしゃコラム「清流せいりゅう」 「だれらない」あなたの静岡しずおか新聞しんぶん、2022ねん5がつ27にち
  8. ^ a b 解題かいだい――伊豆いず踊子おどりこ」(小説しょうせつ2 1980, pp. 591–592)
  9. ^ a b c 馬場ばば重行しげゆき伊豆いず踊子おどりこ」(事典じてん 1998, pp. 49–53)
  10. ^ a b c 「『伊豆いず踊子おどりこ』の装幀そうていその」(文藝ぶんげい時代じだい 1927ねん5がつごう)。評論ひょうろん5 1982, pp. 29–42、作家さっか自伝じでん 1994所収しょしゅう
  11. ^ a b 梶井かじい基次郎もとじろう」(翰林かんりん 1934ねん9がつごう)。評論ひょうろん1 1982, pp. 321–325、いちくさいちはな 1991, pp. 175–177、随筆ずいひつしゅう 2013, pp. 249–252に所収しょしゅう
  12. ^ 梶井かじい基次郎もとじろう淀野よどの隆三りゅうぞうての書簡しょかん」(昭和しょうわ2ねん3がつ7にちづけ)。梶井かじい3かん 1966, pp. 243–245に所収しょしゅうどくかげいのち 1970, pp. 117–118に抜粋ばっすい掲載けいさい
  13. ^ a b とう日々ひび」(アルバム梶井かじい 1985, pp. 65–83)
  14. ^ 翻訳ほんやくしょ目録もくろく――伊豆いず踊子おどりこ」(雑纂ざっさん2 1983, pp. 649–651)
  15. ^ a b c d e 「『伊豆いず踊子おどりころん」(はやしたけし 1976, pp. 97–120
  16. ^ a b c d e f g h 勝又かつまたひろしひと作品さくひん――川端かわばた文学ぶんがくみなもときょう」(いちくさいちはな 1991, pp. 351–366)
  17. ^ だいいちしょう 出会であい」(秀子ひでこ 1983, pp. 5–44)
  18. ^ 青春せいしゅんかたる―よき、よきともめぐまれて―」(長谷川はせがわいずみとの対談たいだん)(『川端かわばた康成やすなりしゅう現代げんだい日本にっぽん文学ぶんがく16〉』月報げっぽう4 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、1969ねん11月)。あい 1978, pp. 193–210に所収しょしゅう
  19. ^ a b だいいちしょう かげのもとに――〈魔界まかい〉の淵源えんげん だい五節ごせち 上京じょうきょう伊豆いずへのたび」(森本もりもとうえ 2014, pp. 40–46)
  20. ^ 土屋つちやひろし天城あまぎ慕情ぼじょう――「伊豆いず踊子おどりこ」のモデルをたずねて』(しんとうしゃ、1978ねん11月)。森本もりもとうえ 2014, pp. 158–161、小谷野こやの 2013, pp. 93–94, 100
  21. ^ a b 川端かわばたかおり男里おのさと川端かわばた康成やすなり青春せいしゅん――発表はっぴょう資料しりょう書簡しょかん読書どくしょちょう、『しんはれ』(じゅうよんまい)による―」(文學ぶんがくかい 1979ねん8がつごう)。森本もりもとうえ 2014, pp. 158–159
  22. ^ もり晴雄はるお川端かわばた康成やすなり りゃく年譜ねんぷ」(太陽たいよう 2009, pp. 161–165)
  23. ^ a b c d e だいしょう 文壇ぶんだんへのデビュー――出世しゅっせさく伊豆いず踊子おどりこ』」(実録じつろく 1992, pp. 52–55)。文学ぶんがく大系たいけい 1990抜粋ばっすい掲載けいさい
  24. ^ a b 「ちよ」(校友こうゆうかい雑誌ざっし 1919ねん6がつ18にちだい277ごう)。小説しょうせつ21 1980, pp. 9–26、初恋はつこい小説しょうせつ 2016, pp. 289–309に所収しょしゅう
  25. ^ a b c 佐藤さとうまさる「『伊豆いず踊子おどりころん」(作品さくひん研究けんきゅう & 1969-03, pp. 65–83)
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m いちくさいちはな――『伊豆いず踊子おどりこ』の作者さくしゃ」(風景ふうけい 1967ねん5がつ-1968ねん11がつごう)。どくかげいのち 1970, pp. 355–409、評論ひょうろん5 1982, pp. 207–264、いちくさいちはな 1991, pp. 283–350、随筆ずいひつしゅう 2013, pp. 325–403に所収しょしゅう
  27. ^ a b c d 橋本はしもとおさむ鑑賞かんしょう――『こい垣根かきね』」(踊子おどりこあつまりえい 1993, pp. 264–272)
  28. ^ 「あとがき」(『川端かわばた康成やすなり全集ぜんしゅうだい5かん にじ新潮社しんちょうしゃ、1949ねん3がつ)。どくかげいのち 1970, pp. 101–128に所収しょしゅう
  29. ^ a b c 「あとがき」(『川端かわばた康成やすなり全集ぜんしゅうだい6かん 雪国ゆきぐに新潮社しんちょうしゃ、1949ねん6がつ)。どくかげいのち 1970, pp. 129–147に所収しょしゅう
  30. ^ だいしょう しん感覚かんかく誕生たんじょう――文壇ぶんだんへのみち だいよんせつ孤児こじ〉からの快癒かいゆ伊豆いず踊子おどりこ』」(森本もりもとうえ 2014, pp. 125–160)
  31. ^ 篝火かがりび」(しん小説しょうせつ 1924ねん3がつごう)。小説しょうせつ2 1980, pp. 83–104、初恋はつこい小説しょうせつ 2016, pp. 100–123、作家さっか自伝じでん 1994所収しょしゅう
  32. ^ 南方なんぽう」(『川端かわばた康成やすなり全集ぜんしゅうだい2かん 温泉おんせん宿やど新潮社しんちょうしゃ、1948ねん8がつ)。小説しょうせつ2 1980, pp. 493–544、初恋はつこい小説しょうせつ 2016, pp. 35–99に所収しょしゅう
  33. ^ a b c 川嶋かわしまいたる「『伊豆いず踊子おどりこ』をいろど女性じょせい」(うえした)(北海道大学ほっかいどうだいがく国文こくぶん学会がっかい 国語こくご国文こくぶん だい18・19ごう、20ごう、1961ねん3がつ、12月)。「だいさんしょう 精神せいしんきずあと―『みちもの』と『伊豆いず踊子おどりこ』―」(川嶋かわしま 1969, pp. 65–111)
  34. ^ 川西かわにし政明まさあき解説かいせつ」(随筆ずいひつしゅう 2013, pp. 465–481)
  35. ^ この宿やどは、2018ねん現在げんざい存在そんざいしている。http://www.yumotokan-izu.jp/
  36. ^ 伊豆いずこう――落花らっか流水りゅうすい」(風景ふうけい 1963ねん6がつごう)。『落花らっか流水りゅうすい』(新潮社しんちょうしゃ、1966ねん5がつ)、随筆ずいひつ3 1982, pp. 216–219、随筆ずいひつしゅう 2013, pp. 118–122
  37. ^ 川端かわばた康成やすなり「あとがき」(踊子おどりこ岩波いわなみ 2003)。評論ひょうろん5 1982, pp. 628–636
  38. ^ a b c たけ西にし寛子ひろこ川端かわばた康成やすなり じん作品さくひん」(踊子おどりこ新潮しんちょう 2003, pp. 179–187)
  39. ^ a b c d e f g 北野きたの 2007
  40. ^ a b c カール・グスタフ・ユング「コレーぞう心理しんりがくてき位相いそうについて」(『神話しんわがく入門にゅうもんカール・ケレーニイとの共著きょうちょ杉浦すぎうら忠夫ただおわけ晶文社しょうぶんしゃ、1975ねん5がつ晶文社しょうぶんしゃオンデマンド選書せんしょ、2007ねん1がつ)。ISBN 9784794910769
  41. ^ a b c d 三島みしま由紀夫ゆきお「『伊豆いず踊子おどりこ』について」(踊子おどりこ新潮しんちょう 2003, pp. 188–194)。「『伊豆いず踊子おどりこ』『温泉おんせん宿やど』『抒情じょじょう』『禽獣きんじゅう』について」として三島みしま27かん 2003, pp. 317–322に所収しょしゅう
  42. ^ 永遠えいえん旅人たびびと――川端かわばた康成やすなりひと作品さくひん」(別冊べっさつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 1956ねん4がつ・51ごう)。三島みしま29かん 2003, pp. 204–217に所収しょしゅう
  43. ^ a b 高本たかもと 1997
  44. ^ a b c d e f g 三川みかわ 1998
  45. ^ a b 天城あまぎ自然しぜん10せん探索たんさくマップ”. 伊豆いずくに観光かんこう協会きょうかい. 2021ねん12月19にち閲覧えつらん
  46. ^ 「『伊豆いず踊子おどりこ』としん文学ぶんがく」(図書としょ新聞しんぶん 1981ねん5がつ23にちごう論考ろんこう 1991, pp. 672–674に所収しょしゅう
  47. ^ a b だいいちへん 評伝ひょうでん川端かわばた康成やすなり――回帰かいき」(板垣いたがき 2016, pp. 97–110)
  48. ^ 昭和しょうわ8ねん」(80かい 2007, p. 21)
  49. ^ 昭和しょうわ8ねん」(85かい 2012, p. 24)
  50. ^ 「あこう――伊豆いず踊子おどりこ」(なつかし 1989
  51. ^ 美空みそらひばり――伊豆いず踊子おどりこ」(なつかし2 1990, p. 112)
  52. ^ 「『伊豆いず踊子おどりこ』――作者さくしゃとヒロイン」(別冊べっさつ小説しょうせつ新潮しんちょう 1963ねん7がつ15にちごう)。評論ひょうろん5 1982, pp. 190–191に所収しょしゅう
  53. ^ 付録ふろく写真しゃしん」(踊子おどりこあつまりえい 1993
  54. ^ 川端かわばた, 康成やすなり、Benl, Oscar『Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke』Carl Hanser、1968ねんhttps://ci.nii.ac.jp/ncid/BA08713409 
  55. ^ 恒川つねかわ茂樹しげき川端かわばた康成やすなり転生てんせい作品さくひん年表ねんぴょう引用いんよう・オマージュへん】」(転生てんせい 2022, pp. 261–267)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]