伊豆 いず の踊子 おどりこ の銅像 どうぞう
『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(いずのおどりこ)は、川端 かわばた 康成 やすなり の短編 たんぺん 小説 しょうせつ 。川端 かわばた の初期 しょき の代表 だいひょう 作 さく で、伊豆 いず を旅 たび した19歳 さい の時 とき の実体験 じつたいけん を元 もと にしている[1] [2] [3] [4] 。孤独 こどく や憂鬱 ゆううつ な気分 きぶん から逃 のが れるため伊豆 いず へ一人 ひとり 旅 たび に出 で た青年 せいねん が、修善寺 しゅぜんじ 、湯 ゆ ヶ島 とう 、天城峠 あまぎとうげ を越 こ え湯 ゆ ヶ野 の 、下田 しもだ に向 む かう旅芸人 たびげいにん 一座 いちざ と道連 みちづ れとなり、踊子 おどりこ の少女 しょうじょ に淡 あわ い恋心 こいごころ を抱 いだ く旅情 りょじょう と哀歓 あいかん の物語 ものがたり 。孤児 こじ 根性 こんじょう に歪 いが んでいた青年 せいねん の自我 じが の悩 なや みや感傷 かんしょう が、素朴 そぼく で清純 せいじゅん 無垢 むく な踊子 おどりこ の心 しん によって解 と きほぐされていく過程 かてい と、彼女 かのじょ との悲 かな しい別 わか れまでが描 えが かれている[5] 。
日本人 にっぽんじん に親 した しまれている名作 めいさく でもあり、今 いま までに6回 かい 映画 えいが 化 か され、ヒロイン である踊子 おどりこ ・薫 かおる は田中 たなか 絹代 きぬよ から吉永 よしなが 小百合 さゆり 、山口 やまぐち 百恵 ももえ まで当時 とうじ のアイドル 的 てき な女優 じょゆう が演 えん じている[4] [6] 。
2022年 ねん (令 れい 和 わ 4年 ねん )時点 じてん で、新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 版 はん だけでも約 やく 338万 まん 部 ぶ を売 う り上 あ げている[7] 。
1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )、雑誌 ざっし 『文藝 ぶんげい 時代 じだい 』1月 がつ 号 ごう (第 だい 3巻 かん 第 だい 1号 ごう ・新年 しんねん 特別 とくべつ 創作 そうさく 号 ごう )に「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」、2月 がつ 号 ごう (第 だい 3巻 かん 第 だい 2号 ごう )に「続 ぞく 伊豆 いず の踊子 おどりこ 」として分 ぶん 載 の された[8] 。単行本 たんこうぼん は翌年 よくねん 1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )3月 がつ 20日 はつか に金星 かなぼし 堂 どう より刊行 かんこう された[8] [9] 。なお、刊行 かんこう に際 さい しての校正 こうせい 作業 さぎょう は梶井 かじい 基次郎 もとじろう がおこなった[10] [11] [12] [13] 。
翻訳 ほんやく 版 ばん はエドワード・サイデンステッカー 訳 わけ の英語 えいご (英 えい 題 だい :The Izu Dancer)、Eiichi Hayashi、J. Martin Holman訳 やく (英 えい 題 だい :The Dancing Girl of Izu)をはじめ、ドイツ語 ご (独 どく 題 だい :Die kleine Tänzerin von Izu、Die Tänzerin von Izu)、中国 ちゅうごく 語 ご (中 ちゅう 題 だい :伊豆 いず 的 てき 舞 まい 女 おんな 、伊豆 いず 的 てき 舞 まい 孃 じょう )、ポルトガル語 ご (葡題:A pequena dançarina de Izu)、イタリア語 ご (伊 い 題 だい :La danzatrice di Izu)、韓国 かんこく 語 ご (韓 かん 題 だい :이즈의 무희)、スペイン語 ご (西 にし 題 だい :La danzarina de Izu)、オランダ語 ご (蘭 らん 題 だい :De danseres uit Izu)、ロシア語 ご (露 ろ 題 だい :Танцовщица из Идзу )、フランス語 ふらんすご (仏 ふつ 題 だい :La danseuse d'Izu)、台湾 たいわん 語 ご (台 たい 題 だい :繁 しげる 體 たい 中 ちゅう 文 ぶん )など世界 せかい 各国 かっこく で出版 しゅっぱん されている[14] 。
20歳 さい の一 いち 高 だか 生 なま の「私 わたし 」は、自分 じぶん の性質 せいしつ が孤児 こじ 根性 こんじょう で歪 いが んでいると厳 きび しい反省 はんせい を重 かさ ね、その息苦 いきぐる しい憂鬱 ゆううつ に堪 こた え切 き れず、1人 ひとり 伊豆 いず への旅 たび に出 で る。「私 わたし 」は、湯 ゆ ヶ島 とう の道中 どうちゅう で出会 であ った旅芸人 たびげいにん 一座 いちざ の1人 ひとり の踊子 おどりこ に惹 ひ かれ、天城峠 あまぎとうげ のトンネル を抜 ぬ けた後 のち 、彼 かれ らと一緒 いっしょ に下田 しもだ まで旅 たび することになった。一行 いっこう を率 ひき いているのは踊子 おどりこ の兄 あに で、大島 おおしま から来 き た彼 かれ らは家族 かぞく で旅芸人 たびげいにん をしていた。
天城峠 あまぎとうげ の茶屋 ちゃや の老婆 ろうば から聞 き いていた旅芸人 たびげいにん を見下 みさ げた話 はなし から、夜 よる 、湯 ゆ ヶ野 の の宿 やど で踊子 おどりこ が男 おとこ 客 きゃく に汚 よご されるのかと「私 わたし 」は心配 しんぱい して眠 ねむ れなかったが、翌朝 よくあさ 、朝湯 あさゆ につかっている「私 わたし 」に向 むか って、川向 かわむこ うの湯殿 ゆどの から無邪気 むじゃき な裸身 らしん を見 み せて大 おお きく手 て をふる踊子 おどりこ の幼 おさな い姿 すがた に、「私 わたし 」の悩 なや みはいっぺんに吹 ふ き飛 と び、「子供 こども なんだ」と自然 しぜん に喜 よろこ びで笑 わら いがこぼれた。
「私 わたし 」は、旅芸人 たびげいにん 一 いち 行 ぎょう と素性 すじょう の違 ちが いを気 き にすることなく生身 なまみ の人間 にんげん 同士 どうし の交流 こうりゅう をし、人 ひと の温 あたた かさを肌 はだ で感 かん じた。そして、踊子 おどりこ が「私 わたし 」に寄 よ せる無垢 むく で純情 じゅんじょう な心 しん からも、「私 わたし 」は悩 なや んでいた孤児 こじ 根性 こんじょう から抜 ぬ け出 だ せると感 かん じた。
下田 しもだ へ着 つ き、「私 わたし 」は踊子 おどりこ とその兄嫁 あによめ らを活動 かつどう (映画 えいが )に連 つ れて行 い こうとするが、踊子 おどりこ だけしか都合 つごう がつかなくなると、母親 ははおや (兄嫁 あによめ の母 はは )は踊子 おどりこ の懇願 こんがん をふりきり、活動 かつどう 行 い きを反対 はんたい した。次 つぎ の日 ひ に東京 とうきょう へ帰 かえ らなければならない「私 わたし 」は、夜 よる 1人 にん だけで活動 かつどう に行 い った。暗 くら い町 まち で遠 とお くから微 かす かに踊子 おどりこ の叩 たた く太鼓 たいこ の音 おと が聞 きこ えてくるようで、わけもなく涙 なみだ がぽたぽた落 お ちた。
別 わか れの旅立 たびだ ちの日 ひ 、昨晩 さくばん 遅 おそ く寝 ね た女 おんな たちを置 お いて、踊子 おどりこ の兄 あに だけが「私 わたし 」を下田 しもだ 港 こう の乗船 じょうせん 場 じょう まで送 おく りに来 き た。乗船 じょうせん 場 じょう へ近 ちか づくと、海 うみ 際 ぎわ に踊子 おどりこ がうずくまって「私 わたし 」を待 ま っていた。2人 ふたり だけになった間 あいだ 、踊子 おどりこ はただ「私 わたし 」の言葉 ことば にうなずくばかりで一言 ひとこと もなかった。「私 わたし 」が船 ふね に乗 の り込 こ もうと振 ふ り返 かえ った時 とき 、踊子 おどりこ はさよならを言 い おうとしたようだが、もう一度 いちど うなずいて見 み せただけだった。
船 ふね がずっと遠 とお ざかってから、踊子 おどりこ が艀 はしけ で白 しろ いものを振 ふ り始 はじ めた。伊豆半島 いずはんとう の南端 なんたん が後方 こうほう に消 き えてゆくまで、一心 いっしん に沖 おき の大島 おおしま を眺 なが めていた「私 わたし 」は、船室 せんしつ の横 よこ にいた少年 しょうねん の親切 しんせつ を自然 しぜん に受 う け入 い れ、泣 な いているのを見 み られても平気 へいき だった。「私 わたし 」の頭 あたま は「澄 す んだ水 みず 」のようになり、流 なが れるままの涙 なみだ がぽろぽろと零 こぼ れて、後 のち には「何 なに も残 のこ らないような甘 あま い快 こころよ さ」だった。
登場 とうじょう 人物 じんぶつ [ 編集 へんしゅう ]
年齢 ねんれい は数 かぞ え年 どし
私 わたし
20歳 さい 。一 いち 高 だか の学生 がくせい 。
学校 がっこう の制帽 せいぼう で、紺 こん 飛白 かすり の着物 きもの に袴 はかま をはき、学生 がくせい 鞄 かばん を肩 かた にかけた格好 かっこう で伊豆 いず の一人 ひとり 旅 たび をしている。湯川 ゆかわ 橋 はし の近 ちか くで旅芸人 たびげいにん の一 いち 行 ぎょう に出会 であ う。再 ふたた び天城 あまぎ 七 なな 里 さと の山道 さんどう で出会 であ い下田 しもだ まで一緒 いっしょ に旅 たび する。
湯 ゆ ヶ野 の で鳥打帽 とりうちぼう を買 か い、制帽 せいぼう は鞄 かばん にしまう。歯並 はなら びが悪 わる い。東京 とうきょう では寄宿舎 きしゅくしゃ に住 す む。
踊子 おどりこ (薫 かおる )
14歳 さい 。当初 とうしょ 「私 わたし 」には17歳 さい くらいに見 み える。旅芸人 たびげいにん 一座 いちざ の一員 いちいん 。古風 こふう に結 ゆ った髪 かみ に卵 たまご 形 がた の凛々 りり しい小 ちい さい顔 かお の初々 ういうい しい乙女 おとめ 。
若 わか 桐 きり のように足 あし のよく伸 の びた白 しろ い裸身 らしん で湯殿 ゆどの から無邪気 むじゃき に手 て をふる。五目並 ごもくなら べ が強 つよ い。美 うつく しい黒髪 くろかみ 。前髪 まえがみ に桃色 ももいろ の櫛 くし を挿 さ している。美 うつく しく光 ひか る黒 くろ 眼 め がちの大 おお きい眼 め 。花 はな のように笑 わら う。尋常 じんじょう 小学校 しょうがっこう 2年 ねん までは甲府 こうふ にいたが、家族 かぞく と大島 おおしま に引 ひ っ越 こ す。小犬 こいぬ を旅 たび に同行 どうこう させている。
男 おとこ (栄吉 えいきち )
24歳 さい 。踊子 おどりこ の兄 あに で旅芸人 たびげいにん 。旅芸人 たびげいにん たちは大島 おおしま の波浮港 はぶみなと からやって来 き た。
栄吉 えいきち は東京 とうきょう で、ある新派 しんぱ 役者 やくしゃ の群 ぐん に加 くわ わっていたことがある。実家 じっか は甲府 こうふ にあり、家 いえ の後 うしろ 目 め は栄吉 えいきち の兄 あに が継 つ いでいる。幼 おさな い妹 いもうと にまで旅芸人 たびげいにん をさせなければならない事情 じじょう があり、心 しん を痛 いた めている。大島 おおしま には小 ちい さな家 いえ を2つ持 も っていて、山 やま の方 ほう の家 いえ には爺 じい さんが住 す んでいる。
上 うえ の娘 むすめ (千代子 ちよこ )
19歳 さい 。栄吉 えいきち の妻 つま 。
流産 りゅうざん と早産 そうざん で2度 ど 子供 こども を亡 な くした。2度目 どめ の子 こ は旅 たび の空 そら で早産 そうざん し、子 こ は1週間 しゅうかん で死去 しきょ 。下田 しもだ の地 ち でその子 こ の四 よん 十 じゅう 九 きゅう 日 にち を迎 むか える。
40女 じょ (おふくろ)
40代 だい くらい。千代子 ちよこ の母 はは 。栄吉 えいきち の義母 ぎぼ 。
薫 かおる に三味線 しゃみせん を教 おし えているが、薫 かおる は声 こえ がわり の最中 さいちゅう なので、高 たか い声 こえ で歌 うた わせない。生娘 きむすめ の薫 かおる に、男 おとこ が触 さわ るのを嫌 いや がる。国 くに の甲府 こうふ 市 し には民 みん 次 じ という尋常 じんじょう 5年生 ねんせい の息子 むすこ もいる。
中 なか の娘 むすめ (百合子 ゆりこ )
17歳 さい 。雇 やと われている芸人 げいにん 。大島 おおしま 生 うま れ。はにかみ盛 ざか り。
茶屋 ちゃや の婆 ばば
天城 あまぎ 七 なな 里 さと の山道 さんどう の茶店 ちゃみせ の婆 ばあ さん。
一 いち 高 だか の制帽 せいぼう の「私 わたし 」を旦那 だんな さまと呼 よ び、旅芸人 たびげいにん を「あんな者 もの 」と軽蔑 けいべつ を含 ふく んだ口調 くちょう で話 はな す。
茶屋 ちゃや の爺 じい
婆 ばあ さんの夫 おっと 。
長年 ながねん 中風 ちゅうぶ を患 わずら い、全身 ぜんしん が不随 ふずい になっている。水死 すいし 人 ひと のようにむくみ、瞳 ひとみ は黄色 きいろ く濁 にご っている。この老人 ろうじん には、川端 かわばた が『十 じゅう 六 ろく 歳 さい の日記 にっき 』で描 えが いた病身 びょうしん の祖父 そふ の心象 しんしょう が投影 とうえい されていることがしばしば指摘 してき されている[15] [16] 。
紙屋 かみや
宿 やど で「私 わたし 」と碁 ご を打 う つ。紙 かみ 類 るい を卸 おろ して廻 まわ る行商 ぎょうしょう 人 じん 。60歳 さい 近 ちか い爺 じい さん。
鳥屋 とりや
40歳 さい 前後 ぜんこう の男 おとこ 。旅芸人 たびげいにん 一 いち 行 ぎょう が泊 と まっている木賃宿 きちんやど の間 あいだ を借 か りて鳥屋 とりや をしている。
踊子 おどりこ たちに鳥 とり 鍋 なべ を御馳走 ごちそう する。「水戸黄門 みとこうもん 漫遊 まんゆう 記 き 」の続 つづ きを読 よ んでくれと踊子 おどりこ にせがまれるが立 た ち去 さ り、「私 わたし 」が代 かわ りにそれを読 よ んで踊子 おどりこ に聞 き かせる。
土方 どかた 風 ふう の男 おとこ
鉱夫 こうふ 。
帰 かえ りの霊岸島 れいがんじま 行 い きの下田 しもだ 港 こう の乗船 じょうせん 場 じょう で、「私 わたし 」に声 こえ をかけ、水戸 みと へ帰 かえ る老婆 ろうば を上野 うえの 駅 えき まで連 つ れてやってほしいと頼 たの む。
老婆 ろうば
蓮台寺 はすだいじ の銀山 ぎんざん で働 はたら いていた倅 せがれ とその嫁 よめ をスペイン風邪 かぜ で亡 な くす。残 のこ された孫 まご 3人 にん と故郷 こきょう の水戸 みと へ帰 き えるため、乗船 じょうせん 場 じょう まで鉱夫 こうふ たちに付添 つきそ われている。
少年 しょうねん
河津 かわづ の工場 こうじょう 主 ぬし の息子 むすこ 。東京 とうきょう へ帰 かえ る船 ふね で「私 わたし 」と出会 であ う。
一 いち 高 だか 入学 にゅうがく 準備 じゅんび のために東京 とうきょう に向 むか っていた。泣 な いている「私 わたし 」に海苔 のり 巻 ま き すしをくれ、着 き ている学生 がくせい マント へもぐり込 こ ませ温 あたた めてくれる。
※川端 かわばた 康成 やすなり 自身 じしん の発言 はつげん や、作品 さくひん や随筆 ずいひつ 内 ない からの文章 ぶんしょう の引用 いんよう は〈 〉にしています(論者 ろんしゃ や評者 ひょうしゃ の論文 ろんぶん からの引用 いんよう 部 ぶ との区別 くべつ のため)。
川端 かわばた 康成 やすなり が伊豆 いず に旅 たび したのは、一 いち 高 だか 入学 にゅうがく の翌年 よくねん 1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )の秋 あき で、寮 りょう の誰 だれ にも告 つ げずに出発 しゅっぱつ した約 やく 8日 にち (10月 がつ 30日 にち から11月7日 にち )の初 はじ めての一人 ひとり 旅 たび であった[1] [2] [4] [5] [注釈 ちゅうしゃく 1] 。川端 かわばた はそこで、岡田 おかだ 文太 ぶんた 夫 おっと (松沢 まつざわ 要 かなめ )こと、時田 ときた かほる(踊子 おどりこ の兄 あに の本名 ほんみょう )率 ひき いる旅芸人 たびげいにん 一 いち 行 ぎょう と道連 みちづ れになり、幼 おさな い踊子 おどりこ ・加藤 かとう たみ(松沢 まつざわ たみという説 せつ もある)と出会 であ い、下田 しもだ 港 こう からの帰京 ききょう の賀茂 かも 丸 まる では、蔵前 くらまえ 高 こう 工 こう (現 げん ・東京 とうきょう 工大 こうだい )の受験生 じゅけんせい ・後藤 ごとう 孟 はじめ と乗 の り合 あ わせた[20] [21] [22] [23] 。
踊子 おどりこ の兄 あに とは旅 たび の後 のち も文通 ぶんつう があり、「横須賀 よこすか の甲州 こうしゅう 屋 や 方 かた 時田 ときた かほる」差出人 さしだしにん の川端 かわばた 宛 あ て(一 いち 高 だか の寄宿舎 きしゅくしゃ ・南 みなみ 寮 りょう 4番 ばん 宛 あ て)の年賀状 ねんがじょう (大正 たいしょう 7年 ねん 12月31日 にち 消印 けしいん )が現存 げんそん している[21] 。なお、踊子 おどりこ ・たみのことは、旅 たび の翌年 よくねん に書 か かれた川端 かわばた の処女 しょじょ 作 さく 『ちよ』(1919年 ねん )の中 なか にも部分 ぶぶん 的 てき に描 えが かれている[5] [19] [24] [25] 。
川端 かわばた は、旅 たび から約 やく 7年 ねん 経 へ た後 のち に『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』を書 か いた。川端 かわばた は自作 じさく について、〈「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」はすべて書 か いた通 とお りであつた。事実 じじつ そのままで虚構 きょこう はない。あるとすれば省略 しょうりゃく だけである〉とし、〈私 わたし の旅 たび の小説 しょうせつ の幼 おさな い出発 しゅっぱつ 点 てん である〉と述 の べている[26] 。また、旅 たび に出 で た動機 どうき については以下 いか のように語 かた っている[1] [2] 。
私 わたし は
高等 こうとう 学校 がっこう の
寮 りょう 生活 せいかつ が、
一 いち 、
二 に 年 ねん の
間 あいだ はひどく
嫌 いや だつた。
中学 ちゅうがく 五 ご 年 ねん の
時 とき の
寄宿舎 きしゅくしゃ と
勝手 かって が
違 たがえ つたからである。そして、
私 わたし の
幼年 ようねん 時代 じだい が
残 のこ した
精神 せいしん の
病 やまい 患ばかりが
気 き になつて、
自分 じぶん を
憐 あわ れむ
念 ねん と
自分 じぶん を
厭 いや ふ
念 ねん とに
堪 た へられなかつた。それで
伊豆 いず へ
行 くだり つた。
— 川端 かわばた 康成 やすなり 「湯 ゆ ヶ島 とう での思 おも ひ出 で 」(『少年 しょうねん 』第 だい 14章 しょう の中 なか )[1] [2]
川端 かわばた は、幼少 ようしょう 期 き に身内 みうち をほとんど失 うしな っており、1歳 さい 7か月 げつ で父親 ちちおや 、2歳 さい 7か月 げつ で母親 ははおや 、7歳 さい で祖母 そぼ 、10歳 さい で姉 あね 、15歳 さい で祖父 そふ が死去 しきょ し孤児 こじ となるという生 お い立 た ちがあったため、作中 さくちゅう に〈孤児 こじ 根性 こんじょう 〉という言葉 ことば が出 で てくる。また当時 とうじ 、旅芸人 たびげいにん は河原 かわはら 乞食 こじき と蔑 さげす まれ、作中 さくちゅう にも示 しめ されているように物乞 ものご い のような身分 みぶん の賤しいものとみなされていた[6] [27] 。しかし、そういった一般 いっぱん 的 てき な見方 みかた を離 はな れた〈好意 こうい と信頼 しんらい 〉が彼 かれ らと川端 かわばた の間 あいだ に生 うま れた[1] [2] 。
旅情 りょじょう と、また
大阪平野 おおさかへいや の
田舎 いなか しか
知 し らない
私 わたし に、
伊豆 いず の
田舎 いなか の
風光 ふうこう とが、
私 わたし の
心 しん をゆるめた。そして
踊子 おどりこ に
会 かい つた。いはゆる
旅芸人 たびげいにん 根性 こんじょう などとは
似 に もつかない、
野 の ]の
匂 におい ひがある
正直 しょうじき な
好意 こうい を
私 わたし は
見 み せられた。
いい
人 じん だと、
踊子 おどりこ が
言 げん つて、
兄嫁 あによめ が肯つた、
一言 ひとこと が、
私 わたし の
心 しん にぽたりと
清々 すがすが しく
落 お ちかかつた。いい
人 じん かと
思 おもえ つた。さうだ、いい
人 じん だと
自分 じぶん に
答 こたえ へた。
平俗 へいぞく な
意味 いみ での、いい
人 じん といふ
言葉 ことば が、
私 わたし には
明 あか りであつた。
湯 ゆ ヶ
野 の から
下田 しもだ まで、
自分 じぶん でもいい
人 じん として
道 みち づれになれたと
思 おも ふ、さうなれたことがうれしかつた。
— 川端 かわばた 康成 やすなり 「湯 ゆ ヶ島 とう での思 おも ひ出 で 」(『少年 しょうねん 』第 だい 14章 しょう の中 なか )[1] [2]
伊豆 いず の旅 たび から4年 ねん 後 ご の1922年 ねん (大正 たいしょう 11年 ねん )の夏 なつ も湯 ゆ ヶ島 とう に滞在 たいざい した川端 かわばた は、踊子 おどりこ たちとの体験 たいけん や、大阪 おおさか 府立 ふりつ 茨木 いばらぎ 中学校 ちゅうがっこう (現 げん ・大阪 おおさか 府立 ふりつ 茨木高等学校 いばらきこうとうがっこう )の寄宿舎 きしゅくしゃ での下級生 かきゅうせい ・小笠原 おがさわら 義人 よしひと との同性愛 どうせいあい 体験 たいけん を「湯 ゆ ヶ島 とう での思 おも ひ出 で 」という素 もと 稿 こう にまとめた[1] [2] [28] [29] 。
これは前年 ぜんねん の1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )に、伊藤 いとう 初代 はつよ (本郷 ほんごう 区 く 本郷 ほんごう 元町 もとまち のカフェ ・エランの元 もと 女給 じょきゅう )との婚約 こんやく 破談 はだん 事件 じけん で傷 きず ついた川端 かわばた が、以前 いぜん 自分 じぶん に無垢 むく な好意 こうい や愛情 あいじょう を寄 よ せてくれた懐 なつ かしい踊子 おどりこ ・加藤 かとう たみや小笠原 おがさわら 義人 よしひと を思 おも い出 だ し、初代 しょだい から受 う けた失恋 しつれん の苦 くる しみを癒 いや すためであった[1] [2] [15] [29] 。この原稿 げんこう 用紙 ようし 107枚 まい の「湯 ゆ ヶ島 とう での思 おも ひ出 で 」が元 もと となり、『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(1926年 ねん )、『少年 しょうねん 』(1948年 ねん -1949年 ねん )へ発展 はってん していった[2] [3] [5] [30] 。
ちなみに、川端 かわばた はカフェ・エランに通 かよ い始 はじ めた頃 ころ 、店 みせ で眩暈 げんうん を起 おこ して奥 おく の部屋 へや で寝 ね かせてもらい、ちょうどその時 とき に伊藤 いとう 初代 はつよ が銭湯 せんとう から戻 もど り隣室 りんしつ で着替 きが えをする後 うし ろ姿 すがた を見 み て、〈こんなに子供 こども だつたのか〉と、その思 おも いがけない幼 おさな い裸身 らしん に驚 おどろ くが、その瞬間 しゅんかん 、約 やく 1年 ねん 前 まえ に湯 ゆ ヶ野 の 温泉 おんせん で見 み た踊子 おどりこ ・加藤 かとう たみの〈少女 しょうじょ の裸身 らしん 〉を〈子供 こども なんだ〉と思 おも ったことを想起 そうき している[31] [32] [33] [34] (詳細 しょうさい は伊藤 いとう 初代 はつよ #一 いち 高 だか 生 せい ・川端 かわばた 康成 やすなり との出会 であ い を参照 さんしょう )。
川端 かわばた は最初 さいしょ の伊豆 いず の旅 たび 以来 いらい 、田方 たがた 郡 ぐん 上 うえ 狩野 かの 村 むら 湯 ゆ ヶ島 とう 1656番地 ばんち (現 げん ・伊豆 いず 市 し 湯 ゆ ヶ島 とう 1656-1)にある「湯本 ゆもと 館 かん 」[35] に1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )までの約 やく 10年間 ねんかん 毎年 まいとし のように滞在 たいざい するようになるが、1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )に大学 だいがく を卒業 そつぎょう してからの3、4年 ねん は、滞在 たいざい 期間 きかん が半年 はんとし あるいは1年 ねん 以上 いじょう に長引 ながび くこともあった[29] [36] [37] 。単行 たんこう 本 ほん 刊行 かんこう の際 さい の作業 さぎょう をしている頃 ころ 、湯 ゆ ヶ島 とう へ転地 てんち 療養 りょうよう に来 き た梶井 かじい 基次郎 もとじろう に旅館 りょかん 「湯川 ゆかわ 屋 や 」を紹介 しょうかい し、校正 こうせい をやってもらったが、それを契機 けいき に梶井 かじい やその同人 どうじん の淀野 よどの 隆三 りゅうぞう らと親 した しく交流 こうりゅう するようになった[10] [11] [13] 。
作品 さくひん 評価 ひょうか ・研究 けんきゅう [ 編集 へんしゅう ]
※川端 かわばた 康成 やすなり 自身 じしん の発言 はつげん や、作品 さくひん や随筆 ずいひつ 内 ない からの文章 ぶんしょう の引用 いんよう は〈 〉にしています(論者 ろんしゃ や評者 ひょうしゃ の論文 ろんぶん からの引用 いんよう 部 ぶ との区別 くべつ のため)。
『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』は川端 かわばた 康成 やすなり の初期 しょき を代表 だいひょう する名作 めいさく というだけでなく、川端 かわばた 作品 さくひん の中 なか でも最 もっと も人気 にんき が高 たか く、その評論 ひょうろん も膨大 ぼうだい な数 かず に上 のぼ る[9] [25] 。それらの論評 ろんぴょう は、様々 さまざま なニュアンスの差異 さい を持 も ちながら川端 かわばた の孤児 こじ の生 お い立 た ちと青春 せいしゅん 体験 たいけん の視点 してん 、伊藤 いとう 初代 はつよ との婚約 こんやく 破談 はだん 事件 じけん との絡 がら みから論考 ろんこう するものや、主人公 しゅじんこう の語 かた りの構造 こうぞう の分析 ぶんせき から作品 さくひん 世界 せかい を論 ろん じるものなど多岐 たき にわたっているが、川端 かわばた という作家 さっか を語 かた る際 さい の、この作品 さくひん の持 も つ重 おも みや大 おお きさへの認識 にんしき はみな共通 きょうつう している[9] [25] 。
竹 たけ 西 にし 寛子 ひろこ は、『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』は川端 かわばた 作品 さくひん の中 なか では比較的 ひかくてき 爽 さわ やかなもので、そこでは「自力 じりき を超 こ えるものとの格闘 かくとう に真摯 しんし な若者 わかもの だけが経験 けいけん する人生 じんせい 初期 しょき のこの世 よ との和解 わかい 」がかなめになっているとし[38] 、この作品 さくひん が「青春 せいしゅん の文学 ぶんがく 」と言 い われる理由 りゆう を、「この和解 わかい の切実 せつじつ さ」にあると解説 かいせつ している[38] 。そして別 わか れの場面 ばめん の〈私 わたし 〉の涙 なみだ は「感傷 かんしょう 」ではなくて、それまであった「過剰 かじょう な自意識 じいしき 」が吹 ふ き払 はら われた表 おもて われであり、それゆえに〈私 わたし 〉が、少年 しょうねん の親切 しんせつ を自然 しぜん に受 う け入 い れ、融 と け合 あ って感 かん じるような経験 けいけん を、読者 どくしゃ もまた共有 きょうゆう できうると考察 こうさつ している[38] 。
奥野 おくの 健男 たけお は、川端 かわばた が幼 おさな くして肉親 にくしん を次々 つぎつぎ と亡 な くし、死者 ししゃ に親 した しみ、両親 りょうしん の温 あたた かい庇護 ひご のなかった淋 さび しい孤児 こじ の生 お い立 た ちがその作風 さくふう に影響 えいきょう を及 およ ぼしていることを鑑 かんが みながら、川端 かわばた の心 しん にある、「この世 よ の中 なか で虐 しいた げられ、差別 さべつ され、卑 いや しめられている人々 ひとびと 、特 とく にそういう少女 しょうじょ へのいとおしみというか、殆んど同一 どういつ 化 か するような感情 かんじょう 」が、文学 ぶんがく の大 おお きなモチーフ になっているとし[6] 、そういった川端 かわばた の要素 ようそ が顕著 けんちょ な『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』を、「温泉 おんせん 町 まち のひなびた風土 ふうど と、日本人 にっぽんじん の誰 だれ でもが心 しん の底 そこ に抱 だ いている(そこが日本人 にっぽんじん の不思議 ふしぎ さであるのだが)世間 せけん からさげすまれている芸人 げいにん 、その中 なか の美少女 びしょうじょ への殆んど判官 はんがん びいき とも言 い える憧憬 どうけい と同一 どういつ 化 か という魂 たましい の琴線 きんせん に触 ふ れた名作 めいさく 」と高評 こうひょう している[6] 。
そして芸人 げいにん が徳川 とくがわ 時代 ときよ に「河原者 かわらもの 」と蔑 さげす まれた反面 はんめん 、白拍子 しらびょうし を愛 め でた後 こう 白河 しらかわ 法皇 ほうおう が『梁塵 りょうじん 秘 ひ 抄 しょう 』を編纂 へんさん したように、古 ふる くから芸人 げいにん と上流 じょうりゅう 貴族 きぞく とは「不思議 ふしぎ な交歓 こうかん 」があり、能 のう 、狂言 きょうげん 、歌舞伎 かぶき などが上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう にとりいられてきた芸能 げいのう 史 し を奥野 おくの は解説 かいせつ しつつ[6] 、『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』は、そういった「芸人 げいにん に対 たい する特別 とくべつ のひいき、さらには憧憬 どうけい という日本人 にっぽんじん の古来 こらい からの心情 しんじょう 」が生 い かされ、その「秘密 ひみつ の心情 しんじょう 」は「日本 にっぽん の美 び の隠 かく れた源泉 げんせん 」であると論 ろん じている[6] 。
北野 きたの 昭彦 あきひこ は、この奥野 おくの の論 ろん を、数 かず ある『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』論 ろん の中 なか でも日本 にっぽん の芸能 げいのう 史 し 、「旅芸人 たびげいにん フォークロア 」をよく踏 ふ まえているものとして敷衍 ふえん し[39] 、漂流 ひょうりゅう 者 しゃ の芸人 げいにん と定住 ていじゅう 者 しゃ との関係 かんけい 性 せい 、マレビト である漂泊 ひょうはく 芸人 げいにん の来訪 らいほう が「神 かみ あるいは乞食 こじき 」の訪 おとず れとして定住 ていじゅう 民 みん にとらえられ、芸能 げいのう を演 えん ずる彼 かれ らの姿 すがた に「神 かみ の面影 おもかげ 」を認 みと めながらも「乞食 こじき 」と呼 よ ぶこともためらわない両者 りょうしゃ の関係 かんけい 性 せい に発展 はってん させた論究 ろんきゅう を展開 てんかい しながら[39] 、「異 こと 界 かい 」への入 い り口 くち の象徴 しょうちょう である〈峠 とうげ 〉や〈橋 はし 〉で旅芸人 たびげいにん 一 いち 行 ぎょう (遍歴 へんれき 民 みん )と再会 さいかい した〈私 わたし 〉がトンネル を抜 ぬ け、彼 かれ らと同行 どうこう することで「遍歴 へんれき 的 てき 人生 じんせい の疑似 ぎじ 体験 たいけん 」をするが、芸 げい と旅 たび が日常 にちじょう である彼 かれ らと、それが非 ひ 日常 にちじょう である〈私 わたし 〉とは「別 べつ の時空 じくう を生 い きながら道連 みちづ れになっている」と解説 かいせつ している[39] 。
また北野 きたの は、この物語 ものがたり が進行 しんこう するにつれ、主人公 しゅじんこう が「娘 むすめ 芸人 げいにん のペルソナ を外 はず した少女 しょうじょ の〈美 よし 〉」自体 じたい を語 かた ることが主 おも となり、小説 しょうせつ のタイトル通 どお り、踊子 おどりこ 像 ぞう そのものを語 かた る展開 てんかい になることに触 ふ れ[39] 、踊子 おどりこ の〈私 わたし 〉に対 たい するはにかみや羞らい、天真爛漫 てんしんらんまん な幼 おさな さ、花 はな のような笑顔 えがお 、〈私 わたし 〉の袴 はかま の裾 すそ を払 はら ってくれたり下駄 げた を直 なお してくれたりする甲斐甲斐 かいがい しさなどを挙 あ げながら、踊子 おどりこ の何気 なにげ ない言葉 ことば で、〈私 わたし 〉が「本来 ほんらい の自己 じこ を回復 かいふく していたこと」に気 き づくと解説 かいせつ し[39] 、「〈私 わたし 〉の踊子 おどりこ 像 ぞう 」がその都度 つど 「多面 ためん 的 てき に変容 へんよう する」ことの意味 いみ をユング の『コレー 像 ぞう の心理 しんり 学 がく 的 てき 位相 いそう について』[40] を引 ひ きつつ説明 せつめい している[39] 。
彼女 かのじょ は、
ユング が
元 もと 型 かた 的 てき 形象 けいしょう の
一 ひと つとしてあげた「
コレー 像 ぞう 」に
似 に ている。コレーとは、
少女 しょうじょ 、
母 はは 、
花嫁 はなよめ の
三重 みえ の
相 そう において
現 あらわ れる
永遠 えいえん の
乙女 おとめ である。「コレー
像 ぞう は
未知 みち の
若 わか い
少女 しょうじょ として
登場 とうじょう 」し
[40] 、「しばしば
微妙 びみょう なニュアンスを
持 も つのが
踊 おど り
子 こ である」
[40] とされている。
— 北野 きたの 昭彦 あきひこ 「『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』の〈物 もの 乞ひ旅芸人 たびげいにん 〉の背後 はいご ――定住 ていじゅう と遍歴 へんれき 、役者 やくしゃ と演劇 えんげき 青年 せいねん 、娘 むすめ 芸人 げいにん と学生 がくせい 」[39]
三島 みしま 由紀夫 ゆきお は、川端 かわばた の全 ぜん 作品 さくひん に通 つう じる重要 じゅうよう なテーマである「処女 しょじょ の主題 しゅだい 」の端緒 たんしょ があらわれている『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』において、〈私 わたし 〉が観察 かんさつ する踊子 おどりこ の様々 さまざま な描写 びょうしゃ の「静的 せいてき な、また動的 どうてき なデッサン によつて的 てき 確 かく に組 く み立 た てられた処女 しょじょ の内面 ないめん 」が「一切 いっさい 読者 どくしゃ の想像 そうぞう に委 ゆだ ねられてゐる」性質 せいしつ を指摘 してき し[41] 、この特性 とくせい のため、川端 かわばた は同 どう 時代 じだい の他 た 作家 さっか が陥 おちい ったような「浅 あさ はかな似 に 非 ひ 近代 きんだい 的 てき 心理 しんり 主義 しゅぎ の感染 かんせん 」を免 まぬかれ かれていると考察 こうさつ しつつ[41] 、「処女 しょじょ の内面 ないめん は、本来 ほんらい 表現 ひょうげん の対象 たいしょう たりうるものではない」として、以下 いか のようにその「処女 しょじょ の主題 しゅだい 」を解説 かいせつ している[41] 。
処女 しょじょ を
犯 おか した
男 おとこ は、
決 けっ して
処女 しょじょ について
知 し ることはできない。
処女 しょじょ を
犯 おか さない
男 おとこ も、
処女 しょじょ について
十分 じゅうぶん に
知 し ることはできない。しからば
処女 しょじょ といふものはそもそも
存在 そんざい しうるものであらうか。この
不 ふ 可知 かち の
苦 にが い
認識 にんしき 、
人 ひと が
川端 かわばた 氏 し の
抒情 じょじょう といふのは、
実 じつ はこの
苦 にが い
認識 にんしき を
不 ふ 可知 かち のものへ
押 お しすすめようとする
精神 せいしん の
或 ある る
純潔 じゅんけつ な
焦燥 しょうそう なのである。
焦燥 しょうそう であるために
一見 いっけん あいまい な
語法 ごほう が
必要 ひつよう とされる。しかしこのあいまいさは
正確 せいかく なあいまいさだ。ここにいたつて、
処女 しょじょ 性 せい の
秘密 ひみつ は、
芸術 げいじゅつ 作品 さくひん がこの
世 よ に
存在 そんざい することの
秘密 ひみつ の
形代 かたしろ (かたしろ)になるのである。
表現 ひょうげん そのものの
不 ふ 可知 かち の
作用 さよう に
関 かん する
表現 ひょうげん の
努力 どりょく がここから
生 うま れる。
— 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』について」[41]
勝又 かつまた 浩 ひろし は、物語 ものがたり の導入 どうにゅう 部 ぶ の天城峠 あまぎとうげ の茶屋 ちゃや で〈到底 とうてい 生物 せいぶつ とは思 おも へない山 やま の怪奇 かいき 〉のような醜 みにく い老人 ろうじん の姿 すがた が描 えが かれる意味 いみ を、『雪国 ゆきぐに 』で主人公 しゅじんこう が〈トンネル 〉を抜 ぬ けて駒子 こまこ に会 あ うように、『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』でも踊子 おどりこ に会 あ うために越 こ えなければならなかった「試練 しれん 」であり、「異 こと 界 かい 」への入 い り口 くち である天城峠 あまぎとうげ の〈暗 くら いトンネル 〉を抜 ぬ けることは「タイムマシン としての儀式 ぎしき 」を暗示 あんじ させるとして[16] 、こういった川端 かわばた 文学 ぶんがく の幻想 げんそう 的 てき な一 いち 面 めん が泉 いずみ 鏡花 きょうか や永井 ながい 荷風 かふう とも異 こと なる点 てん を説明 せつめい して、幻想 げんそう 世界 せかい を伝 つた える「媒介 ばいかい 者 しゃ 」(主人公 しゅじんこう )が、鏡花 きょうか の場合 ばあい は物語 ものがたり 世界 せかい 同様 どうよう 「稗史 はいし 的 てき なまま」で、荷風 かふう は「近代 きんだい の住人 じゅうにん 」であり「知識 ちしき 人 じん 、全能 ぜんのう 的 てき 存在 そんざい 」だが、川端 かわばた の場合 ばあい は川端 かわばた 自身 じしん が「異 こと 界 かい 」の人物 じんぶつ であり「幽霊 ゆうれい のような人物 じんぶつ 」「まれびと 」だとしている[16] 。
天下 てんか の
一 いち 高 だか 生 せい が、たまたま
鬼 おに の
番 ばん するトンネルを
潜 くぐ り
抜 ぬ けて、
遠 とお い
島 しま から
来 き た
舞姫 まいひめ に
邂逅 かいこう して
魂 たましい を
浄化 じょうか する
物語 ものがたり と
読 よ むのが
鏡 かがみ 花 はな 風 ふう だが、
世 よ を
拗 す ねた
一人 ひとり の
インテリ が
田舎 いなか の
旅芸人 たびげいにん に
関心 かんしん を
持 も って、
現代 げんだい 都市 とし では
失 うしな われた
古 ふる きよき
時代 じだい の
純朴 じゅんぼく な
娘 むすめ を
発見 はっけん して
旅情 りょじょう を
慰 なぐさ めるというのが
荷風 かふう 式 しき 、そして
川端 かわばた 文学 ぶんがく の
場合 ばあい は、
異 こと 界 かい はむしろ
主人公 しゅじんこう の
側 がわ にある。
「
私 わたし 」は、トンネルの
向 む こうの
人々 ひとびと にとっては
神秘 しんぴ 的 てき な
まれびと であって、
彼 かれ は
訪 おとず れる
先々 さきざき で
歓迎 かんげい されるが、そのことによって、
健気 けなげ に
生 い きる
人々 ひとびと を
祝福 しゅくふく し、
彼 かれ 自身 じしん は、その
民俗 みんぞく 的 てき 約束 やくそく に
従 したが って、
村 むら 々の
不幸 ふこう を、
汚濁 おだく なるものを
身 み に
受 う けて
村 むら を
去 さ って
行 い かなければならない。それ
故 こ 『
伊豆 いず の
踊子 おどりこ 』には、その
結末 けつまつ に
至 いた ってもう
一度 いちど 老人 ろうじん が
登場 とうじょう するのであろう。
— 勝又 かつまた 浩 ひろし 「人 ひと の文学 ぶんがく ――川端 かわばた 文学 ぶんがく の源 みなもと 郷 きょう 」[16]
そして勝又 かつまた は、この小説 しょうせつ が表面 ひょうめん 的 てき には「孤児 こじ 意識 いしき 脱却 だっきゃく の物語 ものがたり 」であるにもかかわらず、最後 さいご にまた老人 ろうじん が登場 とうじょう し、3人 にん の孤児 こじ を道連 みちづ れにすることを村人 むらびと から合掌 がっしょう で懇願 こんがん される箇所 かしょ に、川端 かわばた の「孤児 こじ の宿命 しゅくめい 」が垣間見 かいまみ えるとし[16] 、「〈孤児 こじ 根性 こんじょう 〉、〈息苦 いきぐる しい〉孤児 こじ 意識 いしき からは解放 かいほう されたかもしれないが、孤児 こじ としての宿命 しゅくめい そのものは決 けっ して彼 かれ を解 と き放 はな ちはしなかったはず」だと解説 かいせつ している[16] 。また、三島 みしま 由紀夫 ゆきお が川端 かわばた を「永遠 えいえん の旅人 たびびと 」と称 しょう したことや[42] 、川端 かわばた の処女 しょじょ 作 さく から諸 しょ 作 さく に至 いた るまで見 み られる心霊 しんれい 的 てき な要素 ようそ を鑑 かんが みながら[注釈 ちゅうしゃく 2] 、こうした「この世 よ に定住 ていじゅう の地 ち を持 も たない」川端 かわばた が、トンネルを越 こ え「まれびととなって人界 じんかい を訪 おとず れ」て、「踊子 おどりこ の純情 じゅんじょう 」をより輝 かがや かせられる特異 とくい 性 せい を考察 こうさつ している[16] 。
橋本 はしもと 治 おさむ は恋愛 れんあい 的 てき な観点 かんてん から『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』を捉 とら え、主人公 しゅじんこう の青年 せいねん が最後 さいご に泣 な き続 つづ ける意味 いみ について、「いやしい旅芸人 たびげいにん 」と「エリートの卵 たまご 」という「身分 みぶん の差 さ 」の垣根 かきね さえも越 こ え、冷静 れいせい に相手 あいて をじっと観察 かんさつ する余裕 よゆう もなくなって「ただその人 ひと にひれ伏 ふ すしかなくなってしまう、恋 こい という感情 かんじょう 」を主人公 しゅじんこう が内心 ないしん 認 みと めたくなく、冷静 れいせい に別 わか れたつもりが、遠 とお ざかる船 ふね に向 むか ってはしけ から一心 いっしん に白 しろ いハンカチを振 ふ る踊子 おどりこ の正直 しょうじき な姿 すがた を見 み て、「プライドの高 たか い〈私 わたし 〉は、ついに恋 こい という感情 かんじょう を認 みと めた」と解説 かいせつ している[27] 。
そして橋本 はしもと は、主人公 しゅじんこう が「ただ彼女 かのじょ といられて幸福 こうふく だった」という真実 しんじつ の感情 かんじょう を認 みと め、自分 じぶん と同 おな じエリートコースの少年 しょうねん を「踊子 おどりこ とつながる人間 にんげん でもあるかのように」思 おも い、その好意 こうい に包 つつ まれ終 お わる結末 けつまつ は[27] 、「恋 こい という垣根 かきね を目 め の前 まえ にして、そして越 こ えられるはずの垣根 かきね に足 あし を取 と られ、自分 じぶん というものを改 あらた めて見詰 みつ めなければどうにもならないのだという、苦 にが い事実 じじつ 」を突 つ きつけられ、その「青春 せいしゅん の自意識 じいしき のつらさ」を描 えが いているため『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』は「永遠 えいえん の作品 さくひん 」となっていると評 ひょう している[27] 。
川嶋 かわしま 至 いたる (細川 ほそかわ 皓 あきら )は、『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』の底流 ていりゅう に、みち子 こ (伊藤 いとう 初代 はつよ の仮名 かめい )の「面影 おもかげ 」があるとして、初代 しょだい から婚約 こんやく 解消 かいしょう された川端 かわばた の動転 どうてん を綴 つづ った私小説 ししょうせつ 『非常 ひじょう 』との関連 かんれん 性 せい を看取 かんしゅ し[33] 、川端 かわばた が初代 しょだい の元 もと へ向 む かう汽車 きしゃ の中 なか で別 わか れの手紙 てがみ を一心 いっしん に読 よ み返 かえ している時 とき に落 お とした財布 さいふ やマントを拾 ひろ ってくれ、〈寝 ね ずの番 ばん 〉までしてくれた〈学生 がくせい 〉(高校 こうこう の受験生 じゅけんせい )の好意 こうい に甘 あま えて身 み を委 ゆだ ねる場面 ばめん と、下田 しもだ 港 こう で踊子 おどりこ と別 わか れた帰 かえ りの汽船 きせん で、〈親切 しんせつ 〉な〈少年 しょうねん 〉のマントに包 つつ まれて素直 すなお に泣 な く共通 きょうつう 項 こう を指摘 してき しながら、「一見 いっけん 素朴 そぼく な青春 せいしゅん の淡 あわ い思 おも い出 で 」を描 えが いた『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』は、「実生活 じっせいかつ における失恋 しつれん という貴重 きちょう な体験 たいけん を代償 だいしょう として生 う まれた作品 さくひん 」だとして、踊子 おどりこ は、「古風 こふう な髪 かみ を結 ゆ い、旅芸人 たびげいにん に身 み をやつした、みち子 こ に他 た ならなかった」と考察 こうさつ している[33] 。
なお、川端 かわばた 本人 ほんにん はこの川嶋 かわしま 至 いたる の論考 ろんこう に関 かん し、〈まつたく作者 さくしゃ の意識 いしき にはなかつた〉として、草稿 そうこう 「湯 ゆ ヶ島 とう での思 おも ひ出 で 」を書 か いた時 とき には伊藤 いとう 初代 はつよ のことが〈強 つよ く心 しん にあつた〉が、『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』を書 か いた時 とき に初代 しょだい は〈浮 うか んで来 こ なかつた〉としている[26] 。そして『非常 ひじょう 』での汽車 きしゃ の場面 ばめん との類似 るいじ を指摘 してき されたことについては、以下 いか のように語 かた っている[26] 。
「
伊豆 いず の
踊子 おどりこ 」の
時 とき 、「
非常 ひじょう 」に
受験生 じゅけんせい の
好意 こうい を
書 か いたのは
忘 わす れてゐた。
細川 ほそかわ 氏 し (
川嶋 かわしま 至 いたる )に
二 ふた つをならべてみせられて、
私 わたし はこれほどおどろいた
批評 ひひょう もめづらしいが、それよりもさらに、これは
二 ふた つとも
事実 じじつ あつた
通 とお りなので、いはば
人生 じんせい の「
非常 ひじょう 」の
時 とき に、
二 に 度 ど 、
偶然 ぐうぜん の
乗合 のりあい 客 きゃく の
受験生 じゅけんせい が、
私 わたし をいたはつてくれたのは、いつたいどういうことなのだらうか、と
私 わたし は
考 かんが えさせられるのである。ふしぎである。
— 川端 かわばた 康成 やすなり 「『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』の作者 さくしゃ 」[26]
林 はやし 武志 たけし は、川端 かわばた が伊豆 いず で踊子 おどりこ に会 あ った頃 ころ には、中学 ちゅうがく 時代 じだい の後輩 こうはい で同性愛 どうせいあい 的 てき 愛情 あいじょう を持 も っていた小笠原 おがさわら 義人 よしひと と文通 ぶんつう が続 つづ いていたことと、草稿 そうこう 「湯 ゆ ヶ島 とう での思 おも ひ出 で 」での踊子 おどりこ の記述 きじゅつ が、清野 きよの 少年 しょうねん (小笠原 おがさわら 義人 よしひと )の「序曲 じょきょく 」的 てき なものになっていることから、『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』での「踊子 おどりこ 」像 ぞう には小笠原 おがさわら 少年 しょうねん の心象 しんしょう が「陰画 いんが 」的 てき に投影 とうえい されているとしている[3] [15] 。
事実 じじつ 、
川端 かわばた は
多 おお くの
作品 さくひん で、
少女 しょうじょ あるいはそれに
近 ちか い
女 おんな に
少年 しょうねん のイメージを
探 さが し
求 もと めている。それ
故 こ 、
清野 きよの 少年 しょうねん の
俤 おもかげ を
心 しん に
抱 いだ く
川端 かわばた が、
大正 たいしょう 七 なな 年 ねん の
伊豆 いず での
初 はつ 旅 たび の
途中 とちゅう 、
実在 じつざい の
踊 おど り
子 こ に
清野 きよの 少年 しょうねん のイメージを
探 さが し
求 もと め、
大正 たいしょう 十 じゅう 一 いち 年 ねん の「
湯 ゆ ヶ
島 とう での
思 おも ひ
出 で 」
執筆 しっぴつ 時 じ に、
清野 きよの 少年 しょうねん 登場 とうじょう の
序曲 じょきょく 的 てき 存在 そんざい としての
踊 おど り
子 こ の
部分 ぶぶん において、「
踊子 おどりこ 」に
清野 きよの 少年 しょうねん のイメージをオーバーラップさせていたとしても
不思議 ふしぎ ではない。
即 すなわ ち、
両性 りょうせい 混入 こんにゅう による「
踊子 おどりこ 」の
一方 いっぽう からの
中性 ちゅうせい 化 か である。
— 林 はやし 武志 たけし 「『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』論 ろん 」[15]
また、最終 さいしゅう 場面 ばめん で泣 な いている「私 わたし 」をマントで包 つつ んでくれた受験生 じゅけんせい の少年 しょうねん の描写 びょうしゃ も「清野 きよの 少年 しょうねん のバリエーション」ではないかと林 はやし は考察 こうさつ している[15] 。
別 わか れの場面 ばめん における主語 しゅご の問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
※川端 かわばた 康成 やすなり 自身 じしん の発言 はつげん や、作品 さくひん や随筆 ずいひつ 内 ない からの文章 ぶんしょう の引用 いんよう は〈 〉にしています(論者 ろんしゃ や評者 ひょうしゃ の論文 ろんぶん からの引用 いんよう 部 ぶ との区別 くべつ のため)。
主人公 しゅじんこう と踊子 おどりこ が乗船 じょうせん 場 じょう で別 わか れる場面 ばめん に以下 いか のような一文 いちぶん があるが、主語 しゅご が省 はぶ かれているため、〈さよなら〉を言 い おうとして止 と めて、ただ〈うなづいた〉のが主人公 しゅじんこう と踊子 おどりこ のどちらであるのか、川端 かわばた の元 もと へ読者 どくしゃ からの質問 しつもん が多数 たすう 寄 よ せられたという問題 もんだい 点 てん があった[26] 。
私 わたし が縄梯子 なわばしご に捉 つか まらうとして振 ふ り返 かえし つた時 じ 、さよならを言 げん はうとしたが、それも止 よ して、もう一 いち ぺんただうなづいて見 み せた。
—川端 かわばた 康成 やすなり 「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」
これについて川端 かわばた は、主語 しゅご は〈踊子 おどりこ 〉であるとし、以下 いか のように答 こた えている[26] 。
はじめ、
私 わたし はこの
質問 しつもん が
思 おも ひがけなかつた。
踊子 おどりこ にきまつてゐるではないか。この
港 みなと の
別 わか れの
情感 じょうかん からも、
踊子 おどりこ がうなづくのでなければならない。この
場 ば の「
私 わたし 」と
踊子 おどりこ との
様子 ようす からしても、
踊子 おどりこ であるのは
明 あき らかではないか。「
私 わたし 」か
踊子 おどりこ かと
疑 うたぐ つたり迷つたりするのは、
読 よ みが
足 た りないのではなからうか。「もう
一 いち ぺんただうなづいた」で、「もう
一 いち ぺん」とわざわざ
書 か いたのは、その
前 まえ に、
踊子 おどりこ がうなづいたことを
書 か いてゐるからである。
— 川端 かわばた 康成 やすなり 「『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』の作者 さくしゃ 」[26]
そして川端 かわばた は、問題 もんだい の箇所 かしょ をよく読 よ み返 かえ してみると読者 どくしゃ に誤解 ごかい を与 あた えたのも、主語 しゅご を省 はぶ いたため惑 まど わせることになったかもしれないとしながらも、以下 いか のように説明 せつめい している[26] 。
「さよならを
言 げん はうとした」のも、「うなづいた」のも、「
私 わたし 」と
取 と られるのが、むしろ
自然 しぜん かもしれない。しかしそれなら、「
私 わたし が」ではなくて「
私 わたし は」としさうである。「
私 わたし が」の「が」は、「さよならを
言 げん はうとした」のが、
私 わたし とは
別人 べつじん の
踊子 おどりこ であること、
踊子 おどりこ といふ
主格 しゅかく が
省略 しょうりゃく されてゐることを
暗 あん に
感 かん じさせないだらうか。
— 川端 かわばた 康成 やすなり 「『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』の作者 さくしゃ 」[26]
なお、英訳 えいやく ではこの部分 ぶぶん の主語 しゅご が、“I”(私 わたし )と誤訳 ごやく されてしまっている[26] 。そして川端 かわばた はあえて新版 しんぱん でも、この主語 しゅご を補足 ほそく しなかった理由 りゆう については、その部分 ぶぶん が気 き をつけて読 よ むと、〈不用意 ふようい な粗悪 そあく な文章 ぶんしょう 〉で、〈主格 しゅかく を補 ほ ふだけではすまなくて、そこを書 か き直 なお さねばならぬ〉と思 おも えたことと、『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』が〈私 わたし 〉の視点 してん で書 か かれた物語 ものがたり であることの説明 せつめい として以下 いか のように語 かた っている[26] 。
「
伊豆 いず の
踊子 おどりこ 」はすべて「
私 わたし 」が
見 み た
風 ふう に
書 か いてあつて、
踊子 おどりこ の
心理 しんり や
感情 かんじょう も、
私 わたし が
見聞 みき きした
踊子 おどりこ のしぐさや
表情 ひょうじょう や
会話 かいわ だけで
書 か いてあつて、
踊子 おどりこ の
側 がわ からはなに
一 ひと つ
書 か いてない。したがつて、「(
踊子 おどりこ は)さよならを
言 げん はうとしたが、それも
止 よ して、」と、ここだけ
踊子 おどりこ 側 がわ から
書 か いてあるのは、
全体 ぜんたい をやぶる
表現 ひょうげん である。(
中略 ちゅうりゃく )
主格 しゅかく の
一語 いちご を
補 ほ ふだけですまなくて、
旧作 きゅうさく の
三 さん 四 よん 行 ぎょう を
書 か き
直 なお さねばならないとなると、
私 わたし は
重苦 おもくる しい
嫌悪 けんお にとらへられてしまふ。もし
仔細 しさい にみれば、
全編 ぜんぺん ががたがたして
来 きた さうである。
— 川端 かわばた 康成 やすなり 「『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』の作者 さくしゃ 」[26]
高 こう 本條 ほんじょう 治 ち は、この踊子 おどりこ の主格 しゅかく 問題 もんだい に関 かん する川端 かわばた の、〈全体 ぜんたい をやぶる表現 ひょうげん 〉という言及 げんきゅう について、〈私 わたし 〉が見 み た風 ふう に書 か くという「語 かた りの視点 してん 」を全 ぜん 篇 へん 通 とお して一貫 いっかん させるべきだったというのが川端 かわばた の「反省 はんせい 的 てき 自覚 じかく 」だったとし[43] 、この小説 しょうせつ を軽 かる く読 よ み流 なが すのではなく、〈私 わたし 〉に同化 どうか し感情 かんじょう 移入 いにゅう しながら「解釈 かいしゃく 処理 しょり 」を続 つづ けた読者 どくしゃ にとっては、物語 ものがたり の終盤 しゅうばん でいきなり、たった一 いち 箇所 かしょ だけ、「語彙 ごい 統語 とうご 構造 こうぞう に表 あらわ れた結束 けっそく 性 せい の手 て がかりに従 したが う限 かぎ りにおいて、〈私 わたし 〉以外 いがい の人物 じんぶつ と同化 どうか した視点 してん で語 かた られたと解釈 かいしゃく できる部分 ぶぶん 」が混入 こんにゅう しているのは戸惑 とまど いであり、その「語 かた りの視点 してん 」の不 ふ 整合 せいごう 性 せい に気 き づく認知 にんち 能力 のうりょく を持 も つ読者 どくしゃ にとって、「川端 かわばた が犯 おか した不用意 ふようい な視点 してん 転換 てんかん 」は、重大 じゅうだい な解釈 かいしゃく 問題 もんだい として顕在 けんざい 化 か されると論 ろん じている[43] 。
三川 みかわ 智央 ともお はこれに比 ひ して、やや違 ちが った論点 ろんてん からこの視点 してん 転換 てんかん 問題 もんだい をみて、通常 つうじょう の語 かた り手 て としての〈私 わたし 〉の次元 じげん でならば、問題 もんだい 個所 かしょ は、「(踊子 おどりこ が)何 なに かを言 い おうとしたようだが、……」あるいは「別 わか れのことばを言 い おうとしたようだが……」という風 ふう に推測 すいそく 的 てき な文言 もんごん になるはずだとし[44] 、川端 かわばた がほとんど無意識 むいしき 的 てき に〈(踊子 おどりこ は)さよならを言 げん はうとした〉と断定 だんてい 表現 ひょうげん したのは、主人公 しゅじんこう の〈私 わたし 〉が一種 いっしゅ の「狂気 きょうき 」の状態 じょうたい にあり、「踊子 おどりこ との間 あいだ に暴力 ぼうりょく 的 てき ともいえる一方 いっぽう 的 てき なコミュニケーション を夢想 むそう しているにほかならない」と解説 かいせつ しながら[44] 、このことは同時 どうじ に、物語 ものがたり 世界 せかい 内 ない の〈私 わたし 〉と、「語 かた り手 て である〈私 わたし 〉の自己 じこ 同一 どういつ 性 せい の崩壊 ほうかい =〈私 わたし 〉そのものの崩壊 ほうかい 」をも意味 いみ していると論考 ろんこう している[44] 。
そして三川 みかわ は、この場面 ばめん では、踊子 おどりこ との「離別 りべつ 」と共 とも に、「まるでそれを阻止 そし するかのように〈私 わたし 〉と踊子 おどりこ の「心理 しんり 的 てき な一体化 いったいか 」が示 しめ されるとし[44] 、それはあくまで「現実 げんじつ 世界 せかい の解釈 かいしゃく コードでは認識 にんしき 不能 ふのう な『事実 じじつ 』」で、「〈私 わたし 〉の踊子 おどりこ に対 たい する一方 いっぽう 的 てき な一体化 いったいか の夢想 むそう 」は「〈私 わたし 〉の意識 いしき の肥大 ひだい 化 か と『他者 たしゃ 』である踊子 おどりこ の抹殺 まっさつ 」が前提 ぜんてい となっているが、読者 どくしゃ 側 がわ はその〈私 わたし 〉の「暴力 ぼうりょく 性 せい 」を「解釈 かいしゃく コードの組 く み替 か え」により、「抒情 じょじょう 的 てき 空間 くうかん 」といったものとして「物語 ものがたり 空間 くうかん を辛 かろ うじて受 う け入 い れることになる」と考察 こうさつ しつつ[44] 、通常 つうじょう の意味 いみ での「語 かた り手 て 」という存在 そんざい を打 う ち消 け してしまう作品 さくひん 自体 じたい の不安定 ふあんてい な構造 こうぞう を支 ささ えている力 ちから を、「互 たが いに異 こと なる志向 しこう 性 せい を帯 お びた複数 ふくすう の《語 かた り》の葛藤 かっとう によって生 しょう じるダイナミズム=《語 かた り》の力 ちから 」と呼 よ び、以下 いか のように諭 さとし をまとめている[44] 。
少 すく なくとも『
伊豆 いず の
踊子 おどりこ 』は、
自己 じこ の「
過去 かこ の
事実 じじつ 」を
先行 せんこう する
物語 ものがたり 内容 ないよう として「
語 かた り
手 て 」という
人格 じんかく 的 てき 言 げん 表 ひょう 主体 しゅたい が
物語 ものがたり 行為 こうい を
遂行 すいこう するという
一般 いっぱん 的 てき な
一人称 いちにんしょう 小説 しょうせつ の
構造 こうぞう などには
還元 かんげん できない、むしろそのような
主体 しゅたい を
疎外 そがい する「
語 かた り」そのものの「
力 ちから 」によって
支 ささ えられているのであり、
多重 たじゅう 的 てき な「
語 かた り」の
葛藤 かっとう によって
生 しょう じた
軌跡 きせき として
形 かたち を
与 あた えられているに
過 す ぎないのだ。そこでは
既 すで に、
物語 ものがたり 内容 ないよう の
物語 ものがたり 言説 げんせつ に
対 たい する
優位 ゆうい 性 せい という
仮構 かこう は
崩壊 ほうかい してしまっている。
— 三川 みかわ 智央 ともお 「『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』再考 さいこう ――葛藤 かっとう する〈語 かた り〉と別 わか れの場面 ばめん における主語 しゅご の問題 もんだい 」[44]
観光 かんこう 資源 しげん としての『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』[ 編集 へんしゅう ]
天城峠 あまぎとうげ にある川端 かわばた 康成 やすなり のレリーフ
浄蓮 じょうれん の滝 たき から本谷川 ほんたにかわ に沿 そ って登 のぼ り、旧 きゅう 天城 あまぎ トンネル を抜 ぬ けて、河津川 かわづがわ に沿 そ って下 くだ るルートは「踊子 おどりこ 歩道 ほどう 」として整備 せいび されている[45] 。「踊子 おどりこ 歩道 ほどう 」は2002年 ねん に遊歩 ゆうほ 百 ひゃく 選 せん に選定 せんてい された[45] 。
本 ほん 谷川 たにがわ (狩野川 かのがわ )沿 ぞ いに杉 すぎ やブナが繁 しげ る林 はやし の旧 きゅう 街道 かいどう をしばらく歩 ある くと踊子 おどりこ 橋 きょう を過 す ぎたあたりのわさび 沢 さわ の側 がわ に文学 ぶんがく 碑 ひ がある。この文学 ぶんがく 碑 ひ には、川端 かわばた の毛筆 もうひつ 書 が きによる〈道 みち がつづら折 お り になつて、いよいよ天城峠 あまぎとうげ に近 ちか づいたと思 おも ふ頃 ころ 、雨脚 あまあし が杉 すぎ の密林 みつりん を白 しろ く染 そ めながら、すさまじい早 はや さで麓 ふもと から私 わたし を追 つい つて来 き た。…〉という作品 さくひん の冒頭 ぼうとう 部分 ぶぶん が刻 きざ まれており、左側 ひだりがわ の碑 いしぶみ 面 めん に川端 かわばた の銅版 どうはん 製 せい のレリーフ も設置 せっち されている。この文学 ぶんがく 碑 ひ は、1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん )5月 がつ 1日 にち に建 た てられ除幕 じょまく 式 しき が行 おこな われた[46] 。
そこから天城 あまぎ トンネルを抜 ぬ け河津川 かわづがわ 沿 ぞ いの道 みち を下 くだ っていくとある湯 ゆ ヶ野 の 温泉 おんせん の旅館 りょかん 「福田 ふくだ 屋 や 」の隣 となり にも文学 ぶんがく 碑 ひ がある。こちらの文学 ぶんがく 碑 ひ は、川端 かわばた 存命 ぞんめい 中 ちゅう の1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )11月12日 にち に建立 こんりゅう された[47] 。碑 いしぶみ には川端 かわばた の直筆 じきひつ で、〈湯 ゆ ヶ野 の までは河津川 かわづがわ の渓谷 けいこく に沿 そ うて三里 さんり 余 あま りの下里 しもさと だつた。峠 とうげ を越 こ えてからは、山 さん や空 そら の色 いろ までが南国 なんごく らしく感 かん じられた。…〉の一節 いっせつ が刻 きざ まれており、旅館 りょかん の入口 いりくち にはブロンズ の踊子 おどりこ 像 ぞう もある[23] [47] 。
川端 かわばた は、この「福田 ふくだ 屋 や 」側 がわ の文学 ぶんがく 碑 ひ の除幕 じょまく 式 しき で、作中 さくちゅう に登場 とうじょう する受験生 じゅけんせい 〈少年 しょうねん 〉のモデルだった後藤 ごとう 孟 はじめ (再会 さいかい 当時 とうじ 65歳 さい )と47年 ねん ぶりに再会 さいかい した[26] 。後藤 ごとう 孟 はじめ は「賀茂 かも 丸 まる 」で川端 かわばた と会 あ った当時 とうじ のことを以下 いか のように述懐 じゅっかい している[23] [注釈 ちゅうしゃく 3]
機関 きかん 室 しつ の
前 まえ の
狭 せま い
部屋 へや で、いろんな
話 はなし をしました。
旅芸人 たびげいにん の
話 はなし が
印象 いんしょう 的 てき でした。
空腹 くうふく だというので、わたしは
親 おや のこしらえてくれた
弁当 べんとう の
ノリ巻 のりま きをすすめたんです。
川端 かわばた さんはそれをホオばりながら、「ぼくには
父 ちち も
母 はは もいないんだ」としんみり
話 ばなし ました。そうして、わたしに「
下宿 げしゅく が
見 み つからなかったら、
相談 そうだん に
来 き たまえ」といってくれた。
東京 とうきょう に
着 つ くと、
川端 かわばた さんが「
朝 ちょう ぶろに
行 い こう」と
誘 さそ った。
熱 あつ すぎたのでジャ
口 こう をひねってうめていると、
イレズミ をした
若 わか い
衆 しゅ が
五 ご 、
六 ろく 人 にん はいって
来 き て「ぬるいぞッ」とどなった。わたしは
胸 むね がドキドキしたが、
川端 かわばた さんは
顔色 かおいろ ひとつ
変 か えず、
平然 へいぜん としていました。
— 後藤 ごとう 孟 はじめ 「談話 だんわ 」(『実録 じつろく 川端 かわばた 康成 やすなり 』)[23]
特急 とっきゅう 「踊 おど り子 こ 」号 ごう 。ヘッドマークにも注目 ちゅうもく 。
初 はつ 景 けい 滝 たき そばには「踊 おど り子 こ と私 わたし 」というブロンズ像 ぞう もあり、道 みち の駅 えき 天城 あまぎ 越 えつ え には文学 ぶんがく 博物館 はくぶつかん (昭和 しょうわ の森 もり 会館 かいかん )がある。
1981年 ねん (昭和 しょうわ 56年 ねん )10月 がつ 1日 にち より、国鉄 こくてつ (1987年 ねん 4月 がつ 1日 にち 以降 いこう JR東日本 ひがしにっぽん )伊豆急行 いずきゅうこう ・伊豆箱根鉄道 いずはこねてつどう 直通 ちょくつう 特急 とっきゅう 列車 れっしゃ の名称 めいしょう に、「踊 おど り子 こ 」号 ごう の名称 めいしょう が公募 こうぼ により充 あ てられた。また、東海自動車 とうかいじどうしゃ (1999年 ねん 4月 がつ 1日 にち 以降 いこう は中伊豆 なかいず 東海 とうかい バス )のボンネットバス の愛称 あいしょう には、「伊豆 いず の踊子 おどりこ 号 ごう 」が充 あ てられるなど、「踊子 おどりこ 」は伊豆 いず の地 ち で愛称 あいしょう 化 か されている。
映画 えいが においては、一部 いちぶ の版 はん で、おきみなどの原作 げんさく にない登場 とうじょう 人物 じんぶつ が設定 せってい されるなど、原作 げんさく との違 ちが いがある。
伊豆 いず の踊子 おどりこ (1954年 ねん )美空 みそら ひばり と石濱 いしはま 朗 あきら
新派 しんぱ 『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』
新派 しんぱ 『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』
『贋作 がんさく 伊豆 いず の踊子 おどりこ 2010』劇団 げきだん ドガドガプラス公演 こうえん
おもな収録 しゅうろく 刊行 かんこう 本 ほん [ 編集 へんしゅう ]
『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(金星 かなぼし 堂 どう 、1927年 ねん 3月 がつ 20日 はつか )
装幀 そうてい :吉田 よしだ 謙吉 けんきち (湯本 ゆもと 館 かん の一室 いっしつ 「山桜 やまざくら 」の欄間 らんま の図柄 ずがら の函 はこ [注釈 ちゅうしゃく 4] )。B6判 ばん 。函 はこ 入 いれ
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「白 しろ い満月 まんげつ 」「招魂 しょうこん 祭 まつり 一景 いっけい 」「孤児 こじ の感情 かんじょう 」「驢馬 ろば に乗 の る妻 つま 」「葬式 そうしき の名人 めいじん 」「犠牲 ぎせい の花嫁 はなよめ 」「十 じゅう 六 ろく 歳 さい の日記 にっき 」「青 あお い海 うみ 黒 くろ い海 うみ 」「五 ご 月 がつ の幻 まぼろし 」「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」
『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(金星 かなぼし 堂 どう 、1928年 ねん 10月 がつ 5日 にち )
※ 1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )刊行 かんこう 本 ほん の普及 ふきゅう 版 ばん 。
限定 げんてい 版 ばん 『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(江川 えがわ 書房 しょぼう 、1932年 ねん 6月 がつ 20日 はつか ) 限定 げんてい 180部 ぶ
『抒情 じょじょう 哀話 あいわ 伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(近代 きんだい 文芸 ぶんげい 社 しゃ 、1933年 ねん 4月 がつ 10日 とおか )
口絵 くちえ 写真 しゃしん :田中 たなか 絹代 きぬよ
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」「白 しろ い満月 まんげつ 」「招魂 しょうこん 祭 まつり 一景 いっけい 」「孤児 こじ の感情 かんじょう 」「驢馬 ろば に乗 の る妻 つま 」「葬式 そうしき の名人 めいじん 」「犠牲 ぎせい の花嫁 はなよめ 」「十 じゅう 六 ろく 歳 さい の日記 にっき 」「青 あお い海 うみ 黒 くろ い海 うみ 」「五 ご 月 がつ の幻 まぼろし 」
コルボオ叢書 そうしょ 『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(野田 のだ 書房 しょぼう 、1938年 ねん 1月 がつ 31日 にち ) 150部 ぶ 限定 げんてい
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」
細川 ほそかわ 叢書 そうしょ 『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(細川 ほそかわ 書店 しょてん 、1947年 ねん 5月 がつ 1日 にち ) 2000部 ぶ 限定 げんてい
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」
東鐵 ひがしてつ 文化 ぶんか 読本 とくほん 第 だい 7号 ごう 『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(東京 とうきょう 鐵道 てつどう 局 きょく 、1948年 ねん 5月 がつ 15日 にち ) 非売品 ひばいひん
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」
『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(小山 こやま 書店 しょてん 、1949年 ねん 4月 がつ 30日 にち )
『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(細川 ほそかわ 書店 しょてん 、1951年 ねん 3月 がつ 15日 にち )
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」
『雪国 ゆきぐに ・伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1952年 ねん 8月 がつ 20日 はつか )
『伊豆 いず の旅 たび 』(中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1954年 ねん 10月 がつ 5日 にち )
新潮 しんちょう 青春 せいしゅん 文学 ぶんがく 叢書 そうしょ 『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1955年 ねん 1月 がつ 31日 にち )
『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(講談社 こうだんしゃ ロマンブックス、1964年 ねん 5月 がつ 10日 とおか )
文庫 ぶんこ 版 ばん 『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(三笠 みかさ 文庫 ぶんこ 、1951年 ねん 10月 がつ )
文庫 ぶんこ 版 ばん 『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ 、1950年 ねん 8月 がつ 20日 はつか 。改版 かいはん 2003年 ねん 5月 がつ 5日 にち )
文庫 ぶんこ 版 ばん 『伊豆 いず の踊子 おどりこ ・禽獣 きんじゅう 』(角川 かどかわ 文庫 ぶんこ 、1951年 ねん 7月 がつ 30日 にち 。改版 かいはん 1989年 ねん 、1999年 ねん )
装幀 そうてい :杉浦 すぎうら 康平 やすひら 。カバー装 そう 獲 え :蓬田 よもぎた やすひろ
解説 かいせつ :進藤 しんどう 純孝 すみたか 「川端 かわばた 康成 やすなり ――人 ひと と文学 ぶんがく 」。古谷 ふるや 鋼 こう 武 たけ 「作品 さくひん 解説 かいせつ 」。川端 かわばた 康成 やすなり 「『伊豆 いず の踊子 おどりこ について』」。年譜 ねんぷ 。
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」「青 あお い海 うみ 黒 くろ い海 うみ 」「驢馬 ろば に乗 の る妻 つま 」「禽獣 きんじゅう 」「慰霊 いれい 歌 か 」「二十歳 はたち 」「むすめごころ 」「父母 ちちはは 」
文庫 ぶんこ 版 ばん 『伊豆 いず の踊子 おどりこ ・温泉 おんせん 宿 やど 他 た 四 よん 篇 へん 』(岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ 、1952年 ねん 2月 がつ 。改版 かいはん 2003年 ねん 9月 がつ 18日 にち )
装幀 そうてい :精 せい 興 きょう 社 しゃ 。川端 かわばた 康成 やすなり 「あとがき」。略 りゃく 年譜 ねんぷ 。
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「十 じゅう 六 ろく 歳 さい の日記 にっき 」「招魂 しょうこん 祭 まつり 一景 いっけい 」「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」「青 あお い海 うみ 黒 くろ い海 うみ 」「春景 しゅんけい 色 しょく 」「温泉 おんせん 宿 やど 」
文庫 ぶんこ 版 ばん 『伊豆 いず の踊子 おどりこ ・花 はな のワルツ 他 た 二 に 編 へん 』(旺文社 おうぶんしゃ 文庫 ぶんこ 、1965年 ねん 7月 がつ 10日 とおか )
文庫 ぶんこ 版 ばん 『伊豆 いず の踊子 おどりこ ・十 じゅう 六 ろく 歳 さい の日記 にっき 』(講談社 こうだんしゃ 文庫 ぶんこ 、1972年 ねん 11月)
解説 かいせつ ・年譜 ねんぷ 作成 さくせい :長谷川 はせがわ 泉 いずみ
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」「十 じゅう 六 ろく 歳 さい の日記 にっき 」
文庫 ぶんこ 版 ばん 『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(集英社 しゅうえいしゃ 文庫 ぶんこ 、1977年 ねん 5月 がつ 30日 にち 。改版 かいはん 1993年 ねん 6月 がつ 5日 にち )
解説 かいせつ :奥野 おくの 健男 たけお 「鮮 あざ やかな感覚 かんかく 表現 ひょうげん 」。橋本 はしもと 治 おさむ 「鑑賞 かんしょう ――『恋 こい の垣根 かきね 』」。年譜 ねんぷ 。
※ 2008年 ねん 新装 しんそう 版 ばん より、カバー装画 そうが :荒木 あらき 飛 ひ 呂 りょ 彦
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」「招魂 しょうこん 祭 まつり 一景 いっけい 」「十 じゅう 六 ろく 歳 さい の日記 にっき 」「死体 したい 紹介 しょうかい 人 じん 」「温泉 おんせん 宿 やど 」
文庫 ぶんこ 版 ばん 『伊豆 いず の旅 たび 』(中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、1981年 ねん 4月 がつ 10日 とおか 。改版 かいはん 2015年 ねん 11月21日 にち )
解説 かいせつ :川端 かわばた 香 かおり 男里 おのさと 「文庫 ぶんこ 新版 しんぱん によせて」
収録 しゅうろく 作品 さくひん :1954年 ねん 10月 がつ の中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ からの単行本 たんこうぼん と同 どう 内容 ないよう 。
文庫 ぶんこ 版 ばん 『伊豆 いず の踊子 おどりこ ・骨拾 こつひろ い 』(講談社 こうだんしゃ 文芸 ぶんげい 文庫 ぶんこ 、1999年 ねん 3月 がつ 10日 とおか )
装幀 そうてい :菊地 きくち 信義 のぶよし 。解説 かいせつ :羽鳥 はとり 徹哉 てつや
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「骨拾 こつひろ い」「日向 ひなた 」「処女 しょじょ 作 さく の祟 たた り」「篝火 かがりび 」「十 じゅう 六 ろく 歳 さい の日記 にっき 」「油 あぶら 」「葬式 そうしき の名人 めいじん 」「孤児 こじ の感情 かんじょう 」「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」「父母 ちちはは への手紙 てがみ 」「ちよ」
英文 えいぶん 版 ばん 『The Dancing Girl of Izu and Other Stories』(訳 わけ :J. Martin Holman)(Counterpoint Press、1998年 ねん )
収録 しゅうろく 作品 さくひん :伊豆 いず の踊子 おどりこ (The Dancing Girl of Izu)、十 じゅう 六 ろく 歳 さい の日記 にっき (Diary of My Sixteenth Year)、油 あぶら (Oil)、葬式 そうしき の名人 めいじん (The Master of Funerals)、骨拾 こつひろ い(Gathering Ashes)、ほか
ドイツ語 ご 版 ばん 『Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke』(訳 わけ :オスカー・ベンル )(Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke)[54]
『川端 かわばた 康成 やすなり 全集 ぜんしゅう 第 だい 1巻 かん 伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(新潮社 しんちょうしゃ 、1969年 ねん 5月 がつ 25日 にち )
カバー題字 だいじ :松井 まつい 如流 。菊判 きくばん 変形 へんけい 。函 はこ 入 いれ 。口絵 くちえ 写真 しゃしん 2葉 よう :著者 ちょしゃ 小 しょう 影 かげ 、大雅 たいが 軼事 いつじ (富岡 とみおか 鉄斎 てっさい )
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「十 じゅう 六 ろく 歳 さい の日記 にっき 」「招魂 しょうこん 祭 まつり 一景 いっけい 」「油 あぶら 」「葬式 そうしき の名人 めいじん 」「篝火 かがりび 」「空 そら に動 うご く灯 ひ 」「蛙 かえる 往生 おうじょう 」「白 しろ い満月 まんげつ 」「青 あお い海 うみ 黒 くろ い海 うみ 」「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」「春景 しゅんけい 色 しょく 」「死者 ししゃ の書 しょ 」「文科 ぶんか 大学 だいがく 挿話 そうわ 」「死体 したい 紹介 しょうかい 人 じん 」「温泉 おんせん 宿 やど 」「狂 きょう つた一 いち 頁 ぺーじ 」
『川端 かわばた 康成 やすなり 全集 ぜんしゅう 第 だい 2巻 かん 小説 しょうせつ 2』(新潮社 しんちょうしゃ 、1980年 ねん 10月 がつ 20日 はつか )
カバー題字 だいじ :東山 ひがしやま 魁 いさお 夷 えびす 。四 よん 六 ろく 判 ばん 。函 はこ 入 いれ
収録 しゅうろく 作品 さくひん :「十 じゅう 六 ろく 歳 さい の日記 にっき 」「招魂 しょうこん 祭 まつり 一景 いっけい 」「油 あぶら 」「葬式 そうしき の名人 めいじん 」「篝火 かがりび 」「空 そら に動 うご く灯 ひ 」「非常 ひじょう 」「孤児 こじ の感情 かんじょう 」「蛙 かえる 往生 おうじょう 」「驢馬 ろば に乗 の る妻 つま 」「青 あお い海 うみ 黒 くろ い海 うみ 」「明日 あした の約束 やくそく 」「白 しろ い満月 まんげつ 」「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」「春 はる を見 み る近眼 きんがん 鏡 きょう 」「文科 ぶんか 大学 だいがく 挿話 そうわ 」「伊豆 いず の帰 かえ り」「狂 きょう つた一 いち 頁 ぺーじ 」「温泉 おんせん 場 じょう の事 こと 」「祖母 そぼ 」「犠牲 ぎせい の花嫁 はなよめ 」「五 ご 月 がつ の幻 まぼろし 」「霰」「南方 なんぽう の火 ひ 」「椿 つばき 」「春景 しゅんけい 色 しょく 」
ホーム社 しゃ MANGA BUNGOシリーズ『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』(ホーム社 しゃ 、2010年 ねん 9月 がつ 10日 とおか )
『昭和 しょうわ の文学 ぶんがく ――ジュニア版 ばん 世界 せかい の名作 めいさく 8』(国土 こくど 社 しゃ 、1965年 ねん 9月 がつ 15日 にち )
英文 えいぶん 版 ばん 『The Izu Dancer』(訳 わけ :エドワード・G・サイデンステッカー 、Leon Picon)(Tuttle classics、1964年 ねん 、2004年 ねん )
収録 しゅうろく 作品 さくひん :川端 かわばた 康成 やすなり 「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」(The Izu Dancer)、井上 いのうえ 靖 やすし 「ある偽作 ぎさく 家 か の生涯 しょうがい 」(The Counterfeiter)、井上 いのうえ 靖 やすし 「姨捨 おばすて 」(Obasute)、井上 いのうえ 靖 やすし 「満月 まんげつ 」(The Full Moon)
英文 えいぶん 版 ばん 『Oxford Book of Japanese Short Stories (Oxford Books of Prose & Verse) 』(編集 へんしゅう :Theodore W. Goossen。訳 わけ :Jay Rubin)(Oxford and New York: Oxford University Press,、1997年 ねん )
派生 はせい 作品 さくひん ・オマージュ作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
※出典 しゅってん は[55]
^ 川端 かわばた はその少 すこ し前 まえ 、同級生 どうきゅうせい の氷室 ひむろ 吉平 きちへい (文芸 ぶんげい 部 ぶ )から伊豆 いず 旅行 りょこう での湯 ゆ ヶ島 とう の話 はなし を聞 き かされていたという[17] 。氷室 ひむろ 吉平 きちへい は一 いち 高 だか の『校友 こうゆう 会 かい 雑誌 ざっし 』に何 なに かを投稿 とうこう してみないかと最初 さいしょ に川端 かわばた に勧 すす めた人物 じんぶつ でもある[18] [19] 。
^ 例 たと えば処女 しょじょ 作 さく 『ちよ』では、〈自分 じぶん が幽霊 ゆうれい に見 み えて、自身 じしん さへ怖 こわ れます〉、〈霊 れい どもに力 ちから で生 い き、動 うご かされてゐる幻 まぼろし です〉と自身 じしん を語 かた っている[16] [24] 。
^ 後藤 ごとう 孟 はじめ は、横浜 よこはま で電子 でんし 工業 こうぎょう 部品 ぶひん を作 つく る会社 かいしゃ 社長 しゃちょう となった[23] 。
^ 函 はこ の図柄 ずがら は、欄間 らんま のほか湯本 ゆもと 館 かん 旅客 りょかく の歯 は ブラシや歯磨 はみが き入 い れの丸 まる い缶 かん 、湯 ゆ ヶ島 とう の火 ひ の見櫓 みやぐら 。表紙 ひょうし ・裏表紙 うらびょうし には温泉 おんせん 湯 ゆ や水 みず をとおす筧 かけい や水槽 すいそう 、川中島 かわなかじま にあるブランコなどが描 えが かれており、踊子 おどりこ の櫛 くし と山女 やまめ と思 おも われる魚 さかな の膳 ぜん だけが赤 あか に色付 いろづ けされている。これらは川端 かわばた 滞在 たいざい 時 じ に吉田 よしだ が湯 ゆ ヶ島 とう を訪 おとず れて一 いち 晩 ばん でスケッチしたという[10] 。
^ a b c d e f g h 「湯 ゆ ヶ島 とう での思 おも ひ出 で 」(草稿 そうこう 107枚 まい 、1922年 ねん 夏 なつ )。『少年 しょうねん 』内 ない への引用 いんよう 作品 さくひん 。独 どく 影 かげ 自 じ 命 いのち 1970 , pp. 134–135, 137–138に抜粋 ばっすい 掲載 けいさい
^ a b c d e f g h i 「少年 しょうねん 」(人間 にんげん 1948年 ねん 5月 がつ 号 ごう -1949年 ねん 3月 がつ 号 ごう )。小説 しょうせつ 10 1980 , pp. 141–256に所収 しょしゅう 。作家 さっか の自伝 じでん 1994 に第 だい 5、6、7、9回分 かいぶん 掲載 けいさい
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^ a b c 「新 しん 感覚 かんかく 派 は ――『文藝 ぶんげい 時代 じだい 』の出発 しゅっぱつ 」(アルバム川端 かわばた 1984 , pp. 18–31)
^ a b c d 「三 さん 出世 しゅっせ 作 さく 『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』の慕情 ぼじょう 」(愛 あい と美 び 1978 , pp. 39–98)
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^ a b 「梶井 かじい 基次郎 もとじろう 」(翰林 かんりん 1934年 ねん 9月 がつ 号 ごう )。評論 ひょうろん 1 1982 , pp. 321–325、一 いち 草 くさ 一 いち 花 はな 1991 , pp. 175–177、随筆 ずいひつ 集 しゅう 2013 , pp. 249–252に所収 しょしゅう
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^ a b 「湯 ゆ ヶ島 とう の日々 ひび 」(アルバム梶井 かじい 1985 , pp. 65–83)
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^ a b c d e f g h 勝又 かつまた 浩 ひろし 「人 ひと と作品 さくひん ――川端 かわばた 文学 ぶんがく の源 みなもと 郷 きょう 」(一 いち 草 くさ 一 いち 花 はな 1991 , pp. 351–366)
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^ 土屋 つちや 寛 ひろし 『天城 あまぎ 路 ろ 慕情 ぼじょう ――「伊豆 いず の踊子 おどりこ 」のモデルを訪 たず ねて』(新 しん 塔 とう 社 しゃ 、1978年 ねん 11月)。森本 もりもと ・上 うえ 2014 , pp. 158–161、小谷野 こやの 2013 , pp. 93–94, 100
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^ a b c d e 「第 だい 二 に 章 しょう 文壇 ぶんだん へのデビュー――出世 しゅっせ 作 さく 『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』」(実録 じつろく 1992 , pp. 52–55)。文学 ぶんがく 大系 たいけい 1990 に抜粋 ばっすい 掲載 けいさい
^ a b 「ちよ」(校友 こうゆう 会 かい 雑誌 ざっし 1919年 ねん 6月 がつ 18日 にち ・第 だい 277号 ごう )。小説 しょうせつ 21 1980 , pp. 9–26、初恋 はつこい 小説 しょうせつ 2016 , pp. 289–309に所収 しょしゅう
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^ a b c d e f g h i j k l m 「一 いち 草 くさ 一 いち 花 はな ――『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』の作者 さくしゃ 」(風景 ふうけい 1967年 ねん 5月 がつ -1968年 ねん 11月 がつ 号 ごう )。独 どく 影 かげ 自 じ 命 いのち 1970 , pp. 355–409、評論 ひょうろん 5 1982 , pp. 207–264、一 いち 草 くさ 一 いち 花 はな 1991 , pp. 283–350、随筆 ずいひつ 集 しゅう 2013 , pp. 325–403に所収 しょしゅう
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^ 「あとがき」(『川端 かわばた 康成 やすなり 全集 ぜんしゅう 第 だい 5巻 かん 虹 にじ 』新潮社 しんちょうしゃ 、1949年 ねん 3月 がつ )。独 どく 影 かげ 自 じ 命 いのち 1970 , pp. 101–128に所収 しょしゅう
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^ 「南方 なんぽう の火 ひ 」(『川端 かわばた 康成 やすなり 全集 ぜんしゅう 第 だい 2巻 かん 温泉 おんせん 宿 やど 』新潮社 しんちょうしゃ 、1948年 ねん 8月 がつ )。小説 しょうせつ 2 1980 , pp. 493–544、初恋 はつこい 小説 しょうせつ 2016 , pp. 35–99に所収 しょしゅう
^ a b c 川嶋 かわしま 至 いたる 「『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』を彩 いろど る女性 じょせい 」(上 うえ ・下 した )(北海道大学 ほっかいどうだいがく 国文 こくぶん 学会 がっかい 国語 こくご 国文 こくぶん 第 だい 18・19号 ごう 、20号 ごう 、1961年 ねん 3月 がつ 、12月)。「第 だい 三 さん 章 しょう 精神 せいしん の傷 きず あと―『みち子 こ もの』と『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』―」(川嶋 かわしま 1969 , pp. 65–111)
^ 川西 かわにし 政明 まさあき 「解説 かいせつ 」(随筆 ずいひつ 集 しゅう 2013 , pp. 465–481)
^ この宿 やど は、2018年 ねん 現在 げんざい も存在 そんざい している。http://www.yumotokan-izu.jp/
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^ a b c d 三島 みしま 由紀夫 ゆきお 「『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』について」(踊子 おどりこ ・新潮 しんちょう 2003 , pp. 188–194)。「『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』『温泉 おんせん 宿 やど 』『抒情 じょじょう 歌 か 』『禽獣 きんじゅう 』について」として三島 みしま 27巻 かん 2003 , pp. 317–322に所収 しょしゅう
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^ 「美空 みそら ひばり――伊豆 いず の踊子 おどりこ 」(なつかし2 1990 , p. 112)
^ 「『伊豆 いず の踊子 おどりこ 』――作者 さくしゃ とヒロイン」(別冊 べっさつ 小説 しょうせつ 新潮 しんちょう 1963年 ねん 7月 がつ 15日 にち 号 ごう )。評論 ひょうろん 5 1982 , pp. 190–191に所収 しょしゅう
^ 「付録 ふろく 写真 しゃしん 」(踊子 おどりこ ・集 あつまり 英 えい 1993 )
^ 川端 かわばた , 康成 やすなり 、Benl, Oscar『Die Tänzerin von Izu ; Tausend Kraniche ; Schneeland ; Kyoto : ausgewählte Werke 』Carl Hanser、1968年 ねん 。https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA08713409 。
^ 恒川 つねかわ 茂樹 しげき 「川端 かわばた 康成 やすなり 〈転生 てんせい 〉作品 さくひん 年表 ねんぴょう 【引用 いんよう ・オマージュ篇 へん 】」(転生 てんせい 2022 , pp. 261–267)
掌編 しょうへん 小説 しょうせつ 短編 たんぺん 小説 しょうせつ 中編 ちゅうへん 小説 しょうせつ
死体 したい 紹介 しょうかい 人 じん -浅草 あさくさ の九官鳥 きゅうかんちょう - 化粧 けしょう と口笛 くちぶえ - 学校 がっこう の花 はな - 浅草 あさくさ 祭 さい - 旅 たび への誘 さそ ひ - 故 こ 園 えん - 東海道 とうかいどう - 再婚 さいこん 者 しゃ - 少年 しょうねん - 眠 ねむ れる美女 びじょ
長編 ちょうへん 小説 しょうせつ 詩 し 評論 ひょうろん ・随筆 ずいひつ 関連 かんれん 項目 こうもく 関連 かんれん カテゴリ
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