御殿ごてん御茶屋おちゃや

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御殿ごてん御茶屋おちゃやから転送てんそう
葛飾かつしか北斎ほくさいとみだけさんじゅうろくけい 東海道とうかいどう品川しながわ御殿山ごてんやま
東海道とうかいどうめんした御殿山ごてんやまには、17世紀せいき将軍家しょうぐんけ品川しながわ御殿ごてんかれた

御殿ごてん(ごてん)および御茶屋おちゃや(おちゃや)は、江戸えど時代じだい将軍しょうぐん大御所おおごしょおよび世子せいし江戸えど近郊きんこう旅行りょこう外出がいしゅつするさい利用りようするため、江戸えど幕府ばくふ江戸城えどじょうそと各地かくち設置せっちした施設しせつである。宿泊しゅくはくようとしたものが「御殿ごてん」、小規模しょうきぼなものが「御茶屋おちゃや」とよばれた。

御殿ごてん御茶屋おちゃや区別くべつは、南関東みなみかんとうではおおむ明瞭めいりょうであったが、美濃みの近江おうみひとしでは御茶屋おちゃや御殿ごてんしょうされ、曖昧あいまいだった[1]

南関東みなみかんとう以外いがいでは駿しゅんまめ以西いせい京都きょうといた街道かいどう沿いと北関東きたかんとう日光にっこう方面ほうめん)に分布ぶんぷした。また、幕府ばくふにならって大名だいみょう設置せっちした御殿ごてん御茶屋おちゃやもあった[1]


概要がいよう[編集へんしゅう]

目的もくてき

御殿ごてん御茶屋おちゃや設置せっち利用りようする目的もくてきは、旅行りょこうようレクリエーションよう大別たいべつされた。上洛じょうらく駿府すんぷ往復おうふく日光にっこうしゃさんなどの旅行りょこうでの利用りようがあり、江戸えど - 京都きょうと日光にっこうあいだかく経路けいろ沿いに設置せっちされた[1]一方いっぽう鷹狩たかがりなどのレクリエーションでも、御殿ごてん御茶屋おちゃやきゅうはくすることがあった。

徳川とくがわ家康いえやす時期じきには、ひがし東金とうがね御殿ごてん千葉ちばけん)、きたしのべ埼玉さいたまけん)と50kmけんにまでたっし、なんにち滞在たいざいして実施じっししたことがあった。また、家康いえやす鷹狩たかがり名目めいもく民情みんじょう視察しさつ土豪どごう懐柔かいじゅう必要ひつよう入物いれもの非公式ひこうしき引見いんけんとう政治せいじじょう意図いとがあったという[1]徳川とくがわ家光いえみつ時期じきでは、ほとんどが日帰ひがえりの休憩きゅうけいしょとして利用りようされ、江戸城えどじょうより15kmけん配置はいちされていた[1]

記録きろく

御殿ごてん御茶屋おちゃや記録きろくは、くに絵図えず確認かくにんできる[注釈ちゅうしゃく 1]御殿ごてん御茶屋おちゃや記録きろくは「正保しょうほうこく絵図えず」で多数たすう確認かくにんできるが、「元禄げんろくこく絵図えず」では御殿ごてんかずすくなくなり、記載きさいがないか「御殿ごてんあと」としるされているという[1]

廃止はいし

御殿ごてん御茶屋おちゃや廃止はいしされる主要しゅよう理由りゆうとしては、家康いえやす死去しきょにより駿府すんぷ往復おうふく幕政ばくせい基礎きそかたまって上洛じょうらく必要ひつようがなくなったことや、信仰しんこうじょう理由りゆう綱吉つなよし時期じきから鷹狩たかがりがおこなわれなくなったこと、また幕府ばくふ財政ざいせい窮乏きゅうぼうし、御殿ごてん御茶屋おちゃや維持いじ困難こんなんになったこととうげられる[1]とくに、あかりれき3ねん1657ねん)のあかりれき大火たいか焼失しょうしつした江戸城えどじょう再建さいけんには、中原なかはら御殿ごてんえつたに御殿ごてんひとしはいされ、江戸城えどじょう移築いちくされた[1][注釈ちゅうしゃく 2]

関東かんとう御殿ごてん御茶屋おちゃや[編集へんしゅう]

東海道とうかいどうすじ[編集へんしゅう]

東海道とうかいどう中原なかはら街道かいどうすじ御殿ごてん御茶屋おちゃや
徳川とくがわ家宣いえのぶ時期じき設置せっちされ、明治維新めいじいしん廃止はいしよしはじめ家斉いえなりなどがゆう利用りようしたという。
徳川とくがわ家康いえやす入国にゅうこく設置せっちされ、元禄げんろく15ねん1702ねん)に廃止はいしされた(その御殿山ごてんやまとして利用りようされた)。家康いえやす家光いえみつゆう利用りようしたという。正保しょうほうこく絵図えずでは「御殿ごてん」、元禄げんろくこく絵図えずには「御殿ごてんあと」と記録きろくされている。
元和がんわ元年がんねん1615ねん廃止はいし
とおる11ねん1726ねん鈴ヶ森すずがもり八幡やはた境内けいだいにあったという。
寛文ひろふみ年間ねんかんころあったという。

中原なかはらがい道筋みちすじ[編集へんしゅう]

稲毛いなげ御殿ごてん御茶屋おちゃや御殿ごてんとも。

中山道なかせんどうすじ[編集へんしゅう]

小石川こいしかわ御殿ごてんとも、もとたてはやし綱吉つなよし別邸べってい正徳まさのり3ねん1713ねん廃止はいし
浦和うらわ宿やど幕府ばくふ直轄ちょっかつりょう通称つうしょう天領てんりょう)であった。 徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ鷹狩たかがりきゅうはくしょ雅名がめいで「御殿ごてん」とばれたものであるが、当時とうじ浦和うらわ宿やど中心ちゅうしんであった常盤ときわまちきゅう浦和うらわ宿やど上町うえまちげん浦和うらわ常盤ときわ1丁目ちょうめ)には早期そうき御殿ごてんである浦和うらわ御殿ごてんもうけられた。このことが、浦和うらわ宿やどおこりとされている。それ以前いぜん調しらべ神社じんじゃ玉蔵たまくらいん門前もんぜまちとしてさかえていた。 しかし、近隣きんりん鴻巣こうのす宿やどぶんろく2ねん1593ねん)に鴻巣こうのす御殿ごてん建設けんせつされたのちの慶長けいちょう16ねん1611ねんごろには施設しせつ廃止はいしされ、以後いご幕府ばくふ直営ちょくえいはやしとして管理かんりされるようになった。
ぶんろく2ねん(1593ねん)には、家康いえやす秀忠ひでただ家光いえみつ徳川とくがわ将軍しょうぐん3だい鷹狩たかがりちょう逗留とうりゅうするための鴻巣こうのす御殿ごてんてられた[14]。この御殿ごてん寛永かんえい8ねん(1631ねん)を最後さいご利用りよう途絶とだえ、あかりれき3ねん(1657ねん)にあかりれき大火たいかきると焼失しょうしつした江戸城えどじょう再建さいけんのための資材しざいとして解体かいたいされたとも[14]元禄げんろく年間ねんかん老朽ろうきゅうのためこわされたともわれている[15]。その御殿ごてんあとには同地どうちおさめていた小池こいけ子孫しそんにより東照宮とうしょうぐう建立こんりゅうされた[14]

甲州こうしゅうがい道筋みちすじ[編集へんしゅう]

1590ねんけん、1646ねん焼失しょうしつ府中ふちゅう本町ほんまちにある「御殿山ごてんやま」とばれる富士山ふじさんえる景勝けいしょう[注釈ちゅうしゃく 3]新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう[注釈ちゅうしゃく 4]御殿ごてんで、発掘はっくつされたのは1646ねん焼失しょうしつした(『武蔵むさし名勝めいしょう図会ずえ』)[注釈ちゅうしゃく 5][6][7]もの。家康いえやす[注釈ちゅうしゃく 6]秀忠ひでただ家光いえみつ鷹狩たかがり[8]あゆりょう[注釈ちゅうしゃく 7]をしたさい休憩きゅうけい宿泊しゅくはくをしたという御殿ごてんあと[注釈ちゅうしゃく 8]発掘はっくつ[10]御殿ごてんあとくに史跡しせき追加ついか指定していされた[注釈ちゅうしゃく 9]。なお、元和がんわ3ねん(1617ねん)に家康いえやすかみひつぎ久能山くのうざんから日光にっこううつしたさいかみひつぎは3がつ21にちから翌日よくじつにかけて府中ふちゅう御殿ごてん逗留とうりゅうし、各種かくしゅ法要ほうようおこなわれた[11]府中ふちゅう御殿ごてん茶屋ちゃやとしても使用しようされ、みず御殿ごてんざか[12]とお多摩川たまがわいたみち現在げんざいでも「御茶屋おちゃや街道かいどう」とばれている[13]

日光にっこう奥州おうしゅうがい道筋みちすじ[編集へんしゅう]

板橋いたばし御殿ごてんともいった。
元禄げんろく年間ねんかんころ浅草あさくさ観音かんのんどう背後はいごにあったという。
天和てんわ6ねんころ廃止はいし
のべたから8ねん1680ねん廃止はいし。はじめこうとき御茶屋おちゃやもうけられ、のち家綱いえつな日光にっこうしゃさんさい御殿ごてんとして再建さいけんされた[14]
寛永かんえい年間ねんかん廃止はいし
寛永かんえい年間ねんかん廃止はいし
えつたに御殿ごてん慶長けいちょう9ねん1604ねん)に徳川とくがわ家康いえやすによってもうけられた。えつたに御殿ごてん現在げんざい越谷こしがや増林ましばやしにあった御茶屋おちゃや御殿ごてん現在げんざい越谷こしがや御殿ごてんまち移築いちくして「えつたに御殿ごてん」としょうした。このあたりは元荒川もとあらかわ沿いのてい湿地しっち地帯ちたいで、むかし野鳥やちょうおおく、家康いえやす秀忠ひでただもしばしばこの御殿ごてん宿泊しゅくはくし、民情みんじょう視察しさつねて鷹狩たかがりをかさねていた。しかし、あかりれき3ねん1がつ18にち1657ねん3月2にち)から1がつ20日はつか3月4にち)のあかりれき大火たいか焼失しょうしつした江戸城えどじょう再建さいけん利用りようするため、御殿ごてん解体かいたいされて江戸城えどじょうまるうつされた[11]一帯いったい一部いちぶのぞ畑地はたちとして開発かいはつされたが「御殿ごてん」のはその地名ちめいとしてのこり、住居じゅうきょ表示ひょうじ施行しこうさいに「御殿ごてんまち」として地名ちめい現在げんざいのこっている[12]
今市いまいち宿やどには、寛永かんえい9ねん1632ねん)までに御殿ごてんもうけられた。如来寺にょらいじ浄土じょうど)の寺院じいん境内けいだいにあり[3]山門さんもんとはべつ御殿ごてん専用せんよう御成門おなりもんもうけられていた[4]今市いまいち御殿ごてんは、『徳川とくがわ実紀みき』によると秀忠ひでただ元和がんわ8ねん(1622ねん)、寛永かんえい5ねん(1628ねん)、家光いえみつ寛永かんえい年間ねんかんから慶安けいあん元年がんねん(1648ねん)、家綱いえつな慶安けいあん2ねん(1649ねん)で、日光にっこうしゃさんきゅう泊地はくちとして利用りようされた[5]今市いまいち御殿ごてんは、寛永かんえい9ねん(1632ねん)までに如来寺にょらいじ境内けいだいもうけられた。このとし家康いえやすの17回忌かいきで、それまでに日光にっこうしゃさんすうかいおこなわれていたが、まだ専用せんようきゅうはく施設しせつはなかったため、てら建造けんぞうぶつきゅうはくした。今市いまいち御殿ごてん寛永かんえい9ねん - 寛文ひろふみ5ねん(1665ねん)のあいだ利用りようされた。御殿ごてん維持いじ修繕しゅうぜん幕府ばくふおこない、寛永かんえい11ねん(1634ねん)、13ねん、17ねん慶安けいあん元年がんねん(1648ねん)、2ねん、と5かい修復しゅうふくされている。寛文ひろふみ5ねん1665ねん)に御殿ごてん如来寺にょらいじ下賜かしされ、ひろし2ねん1742ねん)に焼失しょうしつしたが、御殿ごてん再建さいけんはされなかった。ひろし2ねん以降いこう日光にっこうしゃさんが2かいおこなわれているが、如来寺にょらいじ休憩きゅうけいしたという[6]

日光にっこう御成おなり道筋みちすじ[編集へんしゅう]

寛永かんえい年間ねんかん廃止はいし

水戸みと街道かいどう佐倉さくら街道かいどう東金とうがね御成おなりがい道筋みちすじ[編集へんしゅう]

ひろし元年がんねん1741ねん)に焼失しょうしつ
げん船橋ふなばし東照宮とうしょうぐうあと周辺しゅうへんにあったという。

  現在げんざい千葉ちば地方裁判所ちほうさいばんしょ

  設置せっち廃止はいしとも詳細しょうさい不明ふめい

寛永かんえい元年がんねん廃止はいし
1613ねん設置せっち寛永かんえい元年がんねん1624ねん廃止はいし現在げんざい千葉ちば県立けんりつ東金とうがね高等こうとう学校がっこう

その[編集へんしゅう]

愛知あいちけん小牧おまき[編集へんしゅう]

尾張おわり徳川とくがわ御殿ごてん別荘べっそう)の1つ。

滋賀しがけん[編集へんしゅう]

滋賀しがけんには小堀こぼりとおしゅうてたお茶屋ちゃやが4つあった。


脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ くに絵図えずは、江戸えど幕府ばくふしょ大名だいみょうめいじて作成さくせいさせたこくごとの地図ちずであり、正保まさやす元年がんねん1644ねん)のいのちによるものを「正保しょうほうこく絵図えず」、元禄げんろく9ねん(1696ねん)のいのちによるものを「元禄げんろくこく絵図えず」としょうした[2]
  2. ^ 当時とうじ幕府ばくふ財政ざいせい窮乏きゅうぼうしていたことは、幕府ばくふ江戸城えどじょう再築さいちく多額たがく費用ひようようし、日光にっこうしゃさんへの支出ししゅつ容易よういでなかったこと大島おおしま延次郎のぶじろうにより論証ろんしょうされていることからもうかがえる[3]
  3. ^ 府中ふちゅうがけせんハケ)のうえにある。
  4. ^ 旧蹟きゅうせき 御殿ごてんあと みょうこういん西方せいほうにあり、東北とうほく平地ひらちにつづき、西南せいなんさんたけばかりのこうがけにして眺望ちょうぼうよし、そのした水田すいでんなり、ひろさおよそひゃくもとおかさつきなり、此地は太古たいことうこく国造くにのみやつこじゅう旧蹟きゅうせきなり」[5]
  5. ^ そもそも々この殿御とのご造営ぞうえいはじめは、小田原おだわら落城らくじょう豊臣とよとみ太閤たいこうよりせきはちしゅうまいらせしより、神君しんくんすわしろぼくたまいてこうじょうさだめあり、近国きんごく并に近郷きんごう工匠こうしょうめいたまいてこうしろ修理しゅうりみぎり府中ふちゅう川越かわごしに畋猟(でんりょう)のもうけをなして旅館りょかん造営ぞうえいすべし、府中ふちゅうふるえより府庁ふちょうねて聞召されければ、そのきゅういとなむべきむねたいいのちあり。そのころ太閤たいこう奥州おうしゅう下向げこうありしかば、帰陣きじんまえみやつこ畢すべしとて、近隣きんりんきんさとだいたくみ下知げじありて、不日ふじつにして御殿ごてんづくり畢すとうん
  6. ^ 慶長けいちょう15ねん(1610ねん)10がつ16にち滞在たいざい
  7. ^ 家康いえやすは、将軍しょうぐん即位そくい鷹狩たかがりあゆりょうさいに、頻繁ひんぱん府中ふちゅう御殿ごてん滞在たいざいした[9]
  8. ^ 1646ねん大火たいかにより焼失しょうしつしたもの。
  9. ^ 武蔵むさし国府こくふあと包括ほうかつ

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h 中島なかじま義一ぎいち徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ御殿ごてん歴史れきし地理ちりてき考察こうさつだい1ほう)-南関東みなみかんとう場合ばあい-(多田ただ文男ふみお先生せんせい喜寿きじゅ記念きねん)」」『駒澤こまざわ地理ちり』14ごう駒澤大学こまざわだいがく、1978ねん、177-197ぺーじ 
  2. ^ 中島なかじま新吾しんご対馬つしまはん元禄げんろくこく絵図えずについて」『対馬つしま歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかんほうだい25ごう対馬つしま歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかん、2002ねん 
  3. ^ 大島おおしま延次郎のぶじろう日光にっこうしゃまいり」『日本にっぽん交通こうつう論叢ろんそう国際こくさい交通こうつう文化ぶんか協会きょうかい、1939ねん 
  4. ^ 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう 石戸宿いしとしゅくむら 御茶屋おちゃやあと.
  5. ^ 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう 府中ふちゅう宿本しゅくほんまち御殿ごてんあと.
  6. ^ 府中ふちゅう史談しだんかい7がつ講座こうざ府中ふちゅう御殿ごてんについて」
  7. ^ 家康いえやす府中ふちゅう御殿ごてん江戸えどりのころ
  8. ^ 家康いえやす鷹狩たかがりを再現さいげん府中ふちゅう武蔵むさし国府こくふあと御殿ごてん地区ちくで」”. msn産経さんけいニュース. (2012ねん11月24にち). https://web.archive.org/web/20121124172039/http://sankei.jp.msn.com/region/news/121124/tky12112420510004-n1.htm [リンク]
  9. ^ 国司こくしかん府中ふちゅう御殿ごてん遺跡いせき保存ほぞんまる」『府中ふちゅうかんきょう市民しみん会々あいあいほう』2010ねんあきごう 
  10. ^ 家康いえやすのタカ御殿ごてん発見はっけん東京とうきょう府中ふちゅう遺構いこう発掘はっくつ. 朝日新聞あさひしんぶん. (2010ねん5がつ14にち). http://www.asahi.com/national/update/0514/TKY201005140249.html [リンク]
  11. ^ 府中ふちゅうごう⼟のもり博物館はくぶつかんだより al museo No.122” (PDF) (2017ねん12月20にち). 2022ねん4がつ11にち閲覧えつらん
  12. ^ 御殿ごてんざか[リンク]
  13. ^ 府中ふちゅうナビ 「お茶屋ちゃや街道かいどう[リンク]
  14. ^ 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう 千住せんじゅまち二町目にちょうめ 御殿ごてんあと.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう
    • 府中ふちゅう宿本しゅくほんまち舊跡きゅうせき御殿ごてんあと」『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こうまきノ92多磨たまぐんノ4、内務省ないむしょう地理ちりきょく、1884ねん6がつNDLJP:763988/80 
    • 千住せんじゅまち二町目にちょうめ」『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こうまきノ136足立あだちぐんノ2、内務省ないむしょう地理ちりきょく、1884ねん6がつNDLJP:763997/30 
    • 石戸宿いしとしゅくむら御茶屋おちゃやあと」『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こうまきノ151足立あだちぐんノ17、内務省ないむしょう地理ちりきょく、1884ねん6がつNDLJP:764000/5 
  • 平成へいせい26年度ねんどはちがい歴史れきし講演こうえんかい御成おなり街道かいどう八街やまち記録きろくしゅう  八街やまち郷土きょうど資料しりょうかん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]