御殿 ・御茶屋
概要 [編集 ]
目的
記録
廃止
関東 の御殿 ・御茶屋 [編集 ]
東海道 筋 [編集 ]
徳川 家康 の入国 後 に設置 され、元禄 15年 (1702年 )に廃止 された(その後 は御殿山 として利用 された)。家康 ・家光 が御 遊 に利用 したという。正保 国 絵図 では「御殿 」、元禄 国 絵図 には「御殿 跡 」と記録 されている。
不入斗 御殿 (荏原 郡 不入斗 村 )
寛文 年間 ころあったという。
中原 街 道筋 [編集 ]
稲毛 御殿 、御茶屋 御殿 とも。
中山道 筋 [編集 ]
浦和 宿 は幕府 直轄 領 (通称 :天領 )であった。徳川 将軍家 の鷹狩 の休 泊 所 は雅名 で「御殿 」と呼 ばれたものであるが、当時 の浦和 宿 の中心 地 であった常盤 町 (旧 ・浦和 宿 上町 、現 ・浦和 区 常盤 1丁目 )には早期 の御殿 である浦和 御殿 が設 けられた。このことが、浦和 宿 の興 りとされている。それ以前 は調 神社 や玉蔵 院 の門前 町 として栄 えていた。 しかし、近隣 の鴻巣 宿 で文 禄 2年 (1593年 )に鴻巣 御殿 が建設 されたのちの慶長 16年 (1611年 )頃 には施設 は廃止 され、以後 は幕府 直営 の御 林 として管理 されるようになった。
文 禄 2年 (1593年 )には、家康 ・秀忠 ・家光 の徳川 将軍 3代 が鷹狩 に来 て長 逗留 するための鴻巣 御殿 が建 てられた[14]。この御殿 は寛永 8年 (1631年 )を最後 に利用 は途絶 え、明 暦 3年 (1657年 )に明 暦 の大火 が起 きると焼失 した江戸城 再建 のための資材 として解体 されたとも[14]、元禄 年間 に老朽 化 のため取 り壊 されたとも言 われている[15]。その後 、御殿 跡 には同地 を治 めていた小池 氏 の子孫 により東照宮 が建立 された[14]。
甲州 街 道筋 [編集 ]
- 1590
年 建 、1646年 焼失 。府中 市 本町 にある「御殿山 」と呼 ばれる富士山 が見 える景勝 地 [注釈 3](新編 武蔵 風土記 稿 )[注釈 4]の御殿 で、発掘 されたのは1646年 に焼失 した(『武蔵 名勝 図会 』)[注釈 5][6][7]もの。家康 [注釈 6]・秀忠 ・家光 が鷹狩 [8]・鮎 漁 [注釈 7]をした際 に休憩 や宿泊 をしたという御殿 跡 [注釈 8]を発掘 し[10]、御殿 跡 は国 の史跡 に追加 指定 された[注釈 9]。なお、元和 3年 (1617年 )に家康 の神 柩 を久能山 から日光 へ遷 した際 、神 柩 は3月 21日 から翌日 にかけて府中 御殿 に逗留 し、各種 法要 が行 われた[11]。府中 御殿 は茶屋 としても使用 され、水 を汲 む御殿 坂 [12]を通 り多摩川 へ至 る道 は現在 でも「御茶屋 街道 」と呼 ばれている[13]。
日光 ・奥州 街 道筋 [編集 ]
王子 御殿 (王子 村 )
板橋 御殿 ともいった。
元禄 年間 ころ浅草 観音 堂 背後 にあったという。
隅田川 御殿 (木 母 寺内 )
天和 6年 ころ廃止 。
六 月 御茶屋 (足立 郡 六月 村 )
寛永 年間 廃止
舎人 御茶屋 (足立 郡 舎人 村 )
寛永 年間 廃止
越 ヶ谷 御殿 は慶長 9年 (1604年 )に徳川 家康 によって設 けられた。越 ヶ谷 御殿 は現在 の越谷 市 増林 にあった御茶屋 御殿 を現在 の越谷 市 御殿 町 に移築 して「越 ヶ谷 御殿 」と称 した。この辺 りは元荒川 沿 いの低 湿地 地帯 で、昔 は野鳥 が多 く、家康 や秀忠 もしばしばこの御殿 に宿泊 し、民情 視察 を兼 ねて鷹狩 りを重 ねていた。しかし、明 暦 3年 1月 18日 (1657年 3月2日 )から1月 20日 (3月4日 )の明 暦 の大火 で焼失 した江戸城 の再建 に利用 するため、御殿 は解体 されて江戸城 二 の丸 に移 された[11]。一帯 は一部 を除 き畑地 として開発 されたが「御殿 」の名 はその地名 として残 り、住居 表示 施行 の際 に「御殿 町 」として地名 が現在 に残 っている[12]。
今市 宿 には、寛永 9年 (1632年 )までに御殿 が設 けられた。如来寺 (浄土 )の寺院 境内 にあり[3]、山門 とは別 に御殿 専用 の御成門 が設 けられていた[4]。今市 御殿 は、『徳川 実紀 』によると秀忠 期 の元和 8年 (1622年 )、寛永 5年 (1628年 )、家光 期 の寛永 年間 から慶安 元年 (1648年 )、家綱 期 の慶安 2年 (1649年 )で、日光 社 参 の休 泊地 として利用 された[5]。今市 御殿 は、寛永 9年 (1632年 )までに如来寺 境内 に設 けられた。この年 は家康 の17回忌 で、それまでに日光 社 参 は数 回 行 われていたが、まだ専用 の休 泊 施設 はなかったため、寺 の建造 物 で休 泊 した。今市 御殿 は寛永 9年 -寛文 5年 (1665年 )の間 に利用 された。御殿 の維持 ・修繕 は幕府 が行 い、寛永 11年 (1634年 )、13年 、17年 、慶安 元年 (1648年 )、2年 、と5回 修復 されている。寛文 5年 (1665年 )に御殿 は如来寺 に下賜 され、寛 保 2年 (1742年 )に焼失 したが、御殿 の再建 はされなかった。寛 保 2年 以降 、日光 社 参 が2回 行 われているが、如来寺 で休憩 したという[6]。
日光 御成 道筋 [編集 ]
川口 御茶屋 (足立 郡 川口 宿 )
寛永 年間 廃止
水戸 街道 ・佐倉 街道 ・東金 御成 街 道筋 [編集 ]
現 船橋 東照宮 跡 周辺 にあったという。
千葉 御殿 (下総 国 千葉 町 )
千葉 御茶屋 御殿 (下総 国 宇津 志野 )
土気 御殿 (上総 国土 気 宿 )
寛永 元年 廃止
- 1613
年 に設置 、寛永 元年 (1624年 )廃止 。現在 千葉 県立 東金 高等 学校 。
その他 [編集 ]
愛知 県 小牧 市 [編集 ]
小牧 御殿 (上 街道 小牧 宿 )
尾張 徳川 家 の御殿 (別荘 )の1つ。
滋賀 県 [編集 ]
脚注 [編集 ]
注釈 [編集 ]
- ^
国 絵図 は、江戸 幕府 が諸 大名 に命 じて作成 させた国 ごとの地図 であり、正保 元年 (1644年 )の命 下 によるものを「正保 国 絵図 」、元禄 9年 (1696年 )の命 下 によるものを「元禄 国 絵図 」と称 した[2]。 - ^
当時 幕府 の財政 が窮乏 していたことは、幕府 が江戸城 の再築 に多額 の費用 を要 し、日光 社 参 への支出 が容易 でなかった事 が大島 延次郎 により論証 されていることからもうかがえる[3]。 - ^
府中 崖 線 (ハケ)の上 にある。 - ^ 「
旧蹟 御殿 跡 妙 光 院 の西方 にあり、東北 は平地 につづき、西南 は三 丈 ばかりの高 崖 にして眺望 よし、その下 は水田 なり、廣 さおよそ百 歩 許 の丘 皐 なり、此地は太古 当 国 の国造 住 し旧蹟 なり」[5] - ^ 「
抑 々この地 に御 殿御 造営 の初 めは、小田原 落城 後 豊臣 太閤 より関 八 州 の地 を参 らせしより、神君 御 坐 城 の地 を卜 し給 いて江 城 に御 定 めあり、近国 并に近郷 の工匠 に命 じ給 いて江 城 御 修理 の砌 、府中 、川越 に畋猟(でんりょう)の設 けをなして旅館 を造営 すべし、府中 は古 えより府庁 の地 と兼 ねて聞召されければ、その旧 地 へ営 むべき旨 の台 命 あり。その頃 太閤 奥州 下向 ありしかば、帰陣 の前 に造 畢すべしとて、近隣 近 里 の大 匠 へ御 下知 ありて、不日 にして御殿 造 畢すと云 」 - ^
慶長 15年 (1610年 )10月 16日 に滞在 。 - ^
家康 は、将軍 即位 後 も鷹狩 や鮎 漁 の際 に、頻繁 に府中 御殿 に滞在 した[9]。 - ^ 1646
年 の大火 により焼失 したもの。 - ^
武蔵 国府 跡 に包括 。
出典 [編集 ]
- ^ a b c d e f g h
中島 義一 「徳川 将軍家 御殿 の歴史 地理 的 考察 (第 1報 )-南関東 の場合 -(多田 文男 先生 喜寿 記念 )」」『駒澤 地理 』14号 、駒澤大学 、1978年 、177-197頁 。 - ^
中島 新吾 「対馬 藩 の元禄 国 絵図 について」『対馬 歴史 民俗 資料 館 報 』第 25号 、対馬 歴史 民俗 資料 館 、2002年 。 - ^
大島 延次郎 「日光 社 参 」『日本 交通 史 論叢 』国際 交通 文化 協会 、1939年 。 - ^
新編 武蔵 風土記 稿 石戸宿 村 御茶屋 蹟 . - ^
新編 武蔵 風土記 稿 府中 宿本 町 御殿 跡 . - ^
府中 市 史談 会 7月 講座 「府中 御殿 について」 - ^
家康 の府中 御殿 と江戸 入 りの頃 - ^ “
家康 の鷹狩 りを再現 「府中 市 の武蔵 国府 跡 御殿 地 地区 で」”. msn産経 ニュース. (2012年 11月24日 )[リンク切 れ] - ^ 「
国司 館 ・府中 御殿 遺跡 の保存 決 まる」『府中 かんきょう市民 の会々 報 』2010年 秋 号 。 - ^ “
家康 のタカ狩 り御殿 発見 か東京 ・府中 で遺構 発掘 ”.朝日新聞 . (2010年 5月 14日 )[リンク切 れ] - ^ “
府中 市 郷 ⼟の森 博物館 だより al museo No.122” (PDF) (2017年 12月20日 ). 2022年 4月 11日 閲覧 。 - ^
御殿 坂 [リンク切 れ] - ^
府中 ナビ 「お茶屋 街道 」[リンク切 れ] - ^
新編 武蔵 風土記 稿 千住 町 二町目 御殿 跡 .
参考 文献 [編集 ]
新編 武蔵 風土記 稿 平成 26年度 八 街 歴史 講演 会 「御成 街道 と八街 」記録 集 八街 市 郷土 資料 館
関連 項目 [編集 ]
外部 リンク[編集 ]
御茶屋 御殿 - ニッポン城 めぐり- “【
埼玉 県 北本 市 】徳川 将軍 が来 た!「御茶屋 御殿 跡 (おちゃやごてんあと)」の発掘 調査 を実施 ~徳川 三 代 にわたって使用 された休憩 施設 の一部 を確認 ~”. PR TIMES (2021年 7月 28日 ). 2022年 3月 21日 閲覧 。