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[[1941ねん]]からギリシャで発行はっこうされていたきゅう1[[ドラクマ]]紙幣しへい肖像しょうぞう使用しようされていた。
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== 関連かんれん項目こうもく ==
* [[天文学てんもんがくしゃ一覧いちらん#紀元前きげんぜん天文学てんもんがくしゃ|紀元前きげんぜん天文学てんもんがくしゃ]]


== 脚注きゃくちゅう ==
== 脚注きゃくちゅう ==
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*『たかし著作ちょさくしゅう だいかん 哲学てつがく余話よわ』[[勁草書房しょぼう]] 1963ねん {{ASIN|B000JBFR3U}}
*『たかし著作ちょさくしゅう だいかん 哲学てつがく余話よわ』[[勁草書房しょぼう]] 1963ねん {{ASIN|B000JBFR3U}}
*{{Cite |和書わしょ | author = 河井かわい徳治とくじ | title = スピノザ『エチカ』| date = 2011| publisher = [[あきらよう書房しょぼう]]| series = 哲学てつがくしょ概説がいせつシリーズ ; 2| ref = harv }}
*{{Cite |和書わしょ | author = 河井かわい徳治とくじ | title = スピノザ『エチカ』| date = 2011| publisher = [[あきらよう書房しょぼう]]| series = 哲学てつがくしょ概説がいせつシリーズ ; 2| ref = harv }}

== 関連かんれん項目こうもく ==
* [[天文学てんもんがくしゃ一覧いちらん#紀元前きげんぜん天文学てんもんがくしゃ|紀元前きげんぜん天文学てんもんがくしゃ]]


== 外部がいぶリンク ==
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2024ねん5がつ18にち (土) 14:31時点じてんにおける最新さいしんばん

アリストテレス
生誕せいたん 紀元前きげんぜん384ねん
死没しぼつ 紀元前きげんぜん322ねん
時代じだい 古代こだい哲学てつがく
地域ちいき 西洋せいよう哲学てつがく
学派がくは 逍遙しょうよう学派がくは
アリストテレス主義しゅぎ
研究けんきゅう分野ぶんや 論理ろんりがく
自然しぜんがく
生物せいぶつがく動物どうぶつがく
形而上学けいじじょうがく
倫理りんりがく
政治せいじがく
修辞しゅうじがく
演劇えんげき
おも概念がいねん ぜん
中庸ちゅうよう (ギリシア哲学てつがく)
理性りせい
アイテール
よん原因げんいんせつ
三段論法さんだんろんぽう
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アリストテレス(アリストテレース、古希こき: Ἀριστοτέλης[注釈ちゅうしゃく 1]: Aristotelēsぜん384ねん - ぜん322ねん[1])は、古代こだいギリシア哲学てつがくしゃである。

プラトン弟子でしであり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋せいよう最大さいだい哲学てつがくしゃ一人ひとりとされる。知的ちてき探求たんきゅうつまり科学かがくてき探求たんきゅう全般ぜんぱんした当時とうじ哲学てつがくを、倫理りんりがく自然しぜん科学かがくはじめとした学問がくもんとして分類ぶんるいし、それらの体系たいけいきずいた業績ぎょうせきから「まんがく」ともばれる[2]とく動物どうぶつかんする体系たいけいてき研究けんきゅう古代こだい世界せかいでは東西とうざいるいない。様々さまざま著書ちょしょのこし、イスラーム哲学てつがく中世ちゅうせいスコラがく、さらには近代きんだい哲学てつがく論理ろんりがく多大ただい影響えいきょうあたえた。また、マケドニアおうアレクサンドロス3せい通称つうしょうアレクサンドロス大王だいおう)の家庭かてい教師きょうしであったことでもられる。

アリストテレスは、人間にんげん本性ほんしょうが「あいする」ことにあるとかんがえた。ギリシャではこれをフィロソフィア[注釈ちゅうしゃく 2]ぶ。フィロは「あいする」、ソフィアは「」を意味いみする。この言葉ことばがヨーロッパの各国かっこく言語げんごで「哲学てつがく」を意味いみする言葉ことば語源ごげんとなった。著作ちょさくしゅう日本語にほんごはんで17かんおよぶが、内訳うちわけ形而上学けいじじょうがく倫理りんりがく論理ろんりがくといった哲学てつがく関係かんけいのほか、政治せいじがく宇宙うちゅうろん天体てんたいがく自然しぜんがく物理ぶつりがく)、気象きしょうがく博物はくぶつ学的がくてきなものから分析ぶんせきてきなもの、その生物せいぶつがく詩学しがく演劇えんげきがく、および現在げんざいでいう心理しんりがくなどもふくまれており多岐たきにわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアとんでいた。アリストテレスのいう「哲学てつがく」とは知的ちてき欲求よっきゅうたす知的ちてき行為こういそのものと、その行為こうい結果けっか全体ぜんたいであり、現在げんざい学問がくもんのほとんどがかれの「哲学てつがく」の範疇はんちゅうふくまれている[3]

名前なまえ由来ゆらいギリシアの「Ἀριστος」(最高さいこうの)と「τελος 」(目的もくてき)から [4]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

幼少ようしょう[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん384ねんトラキア地方ちほうのスタゲイロス(のスタゲイラ)にて出生しゅっしょう。スタゲイロスはカルキディケ半島はんとうちいさなギリシアじん植民しょくみんまちで、当時とうじマケドニア王国おうこく支配しはいにあった。ちちはニコマコスといい、マケドニアおうアミュンタス3せい侍医じいであったという。幼少ようしょうにして両親りょうしんくし、義兄ぎけいプロクセノスを後見人こうけんにんとして少年しょうねんごす。このため、マケドニアの首都しゅとペラから後見人こうけんにん居住きょじゅうであるしょうアジアのアタルネウスに移住いじゅうしたとも推測すいそくされているが、明確めいかくなことはつたわっていない。

アカデメイア[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん367ねん、17-18さいにして、「ギリシアの学校がっこう」とペリクレスうたったアテナイのぼり、そこでプラトン主催しゅさい学園がくえんアカデメイア入門にゅうもんした。修業しゅうぎょう時代じだいのアリストテレスについては真偽しんぎさだかならぬさまざまなはなしつたえられているが、一説いっせつには、おや遺産いさんつぶした挙句あげく扶持ぶちのために軍隊ぐんたいはいるも挫折ざせつし、除隊じょたい医師いし(くすし)としててようとしたがうまくかず、それでプラトンのもんたたいたのだとものもいた[5]。いずれにせよ、かれはそこで勉学べんがくはげみ、プラトンが死去しきょするまでの20ねんちか年月としつき学徒がくととしてアカデメイアのもんまることになる。アリストテレスはプラトンから「学校がっこう精神せいしん」とひょうされたともつたえられ、ときには教師きょうしとして後進こうしん指導しどうすることもあったと想像そうぞうされている。紀元前きげんぜん347ねんにプラトンがくなると、そのおいたるスペウシッポス学頭がくとうえらばれる。この時期じき、アリストテレスは学園がくえんしてアテナイをる。アリストテレスが学園がくえんった理由りゆうには諸説しょせつあるが、デモステネスらのはんマケドニアいきおいづいていた当時とうじのアテナイは、マケドニアとえんふか在留ざいりゅう外国がいこくじんにとって困難こんなん情況じょうきょうにあったことも理由りゆうのひとつとわれている[6]。そのアカデメイアは、529ねんひがしマ帝国まていこく皇帝こうていユスティニアヌス1せい在位ざいい 527ねん - 565ねん)によって閉鎖へいさされるまでつづいた。

アカデメイアをったアリストテレスは、アカデメイア時代じだい学友がくゆうしょうアジアのアッソスの僭主せんしゅであるヘルミアスのまねきにおうじてアッソスのまち移住いじゅうし、ここでヘルミアスのめいにあたるピュティアスと結婚けっこんした。その紀元前きげんぜん345ねんにヘルミアスがペルシア帝国ていこくによって捕縛ほばくされるとなんのがれるためにアッソスの対岸たいがん位置いちするレスボスとうミュティレネ移住いじゅうした[7]。ここではアリストテレスはおも生物せいぶつがく研究けんきゅういそしんでいた。

アレクサンドロス大王だいおうとリュケイオン[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん342ねん、42さいごろ、マケドニアおうフィリッポス2せい招聘しょうへいにより、当時とうじ13さいであった王子おうじアレクサンドロス(アレクサンドロス大王だいおう)の師傅しふとなった。アリストテレスは首都しゅとペラからはなれたところにミエザの学園がくえんつくり、弁論べんろんじゅつ文学ぶんがく科学かがく医学いがく、そして哲学てつがくおしえた[8]。ミエザの学園がくえんにはアレクサンドロスのほかにも貴族きぞく階級かいきゅう子弟していかれ学友がくゆうとしておおまなんでおり、のちにかれらはマケドニア王国おうこく中核ちゅうかくにな存在そんざいとなっていった。

おしアレクサンドロスがおう即位そくい紀元前きげんぜん336ねん)した翌年よくねん紀元前きげんぜん335ねん、49さいごろ、アテナイにもどり、自身じしん指示しじによりアテナイ郊外こうがい学園がくえんリュケイオン」を開設かいせつした(リュケイオンとは、アテナイ東部とうぶ郊外こうがいの、アポロン・リュケイオスの神域しんいきたる土地とちす)。弟子でしたちとは学園がくえん歩廊ほろう(ペリパトス)を逍遥しょうよう(そぞろあるき、散歩さんぽ)しながら議論ぎろんわしたため、かれの学派がくは逍遥しょうよう学派がくは(ペリパトス学派がくは)とばれた。このリュケイオンもまた、529ねんにユスティニアヌス1せいによって閉鎖へいさされるまで、アカデメイアと対抗たいこうしながら存続そんぞくした。

紀元前きげんぜん323ねんアレクサンドロス大王だいおうぼっすると、広大こうだいなアレクサンドロス帝国ていこく政情せいじょう不安ふあんおちいり、マケドニアの支配しはいりょくおおきく減退げんたいした。これにともなってアテナイではマケドニアじんたいする迫害はくがいこったため、紀元前きげんぜん323ねん、61さいごろ母方ははかた故郷こきょうであるエウボイアとうカルキスせた。しかし、そこでやまいたおれ(あるいはどく人参にんじんをあおったとも)、紀元前きげんぜん322ねん、62さい死去しきょしている。

思想しそう[編集へんしゅう]

アリストテレスの著作ちょさく元々もともと550かんほどあったともされるが、そのうち現存げんそんしているのはやく3ぶんの1である。ほとんどが講義こうぎのためのノート、あるいは自分じぶんようみとめた研究けんきゅうノートであり、公開こうかい想定そうていしていなかったため簡潔かんけつ文体ぶんたいかれている。この著作ちょさくはリュケイオンにのこされていたものの、アレクサンドリア図書館としょかん建設けんせつされ資料しりょう収集しゅうしゅうしはじめると、その資料しりょうしょうアジアにかくされ、そのままわすられた。この資料しりょうはおよそ2世紀せいき紀元前きげんぜん1世紀せいきさい発見はっけんされ、リュケイオンにもどされた。この資料しりょうはペリパトス学派がくはの11代目だいめがくあたまであるロドスとうアンドロニコスによって紀元前きげんぜん30ねんごろ整理せいり編集へんしゅうされた。それが現在げんざい、『アリストテレス全集ぜんしゅう』と呼称こしょうされている文献ぶんけんである。したがって、われわれにのこされている記述きじゅつはアリストテレスが意図いとしたものとことなっている可能かのうせいたかい。

キケロらの証言しょうげんによれば、プラトン同様どうよう、アリストテレスもいくつか対話たいわへんいたようであるが、まとまったかたちつてそんしているものはない。

アリストテレスは、「論理ろんりがく」があらゆる学問がくもん成果せいかれるための「道具どうぐ」(オルガノン)であることを前提ぜんていとしたうえで、学問がくもん体系たいけいを「理論りろん」(テオリア)、「実践じっせん」(プラクシス)、「制作せいさく」(ポイエーシス)にさんふんし、理論りろんがくを「自然しぜんがく」、「形而上学けいじじょうがく」、実践じっせんがくを「政治せいじがく」、「倫理りんりがく」、制作せいさくがくを「詩学しがく」に分類ぶんるいした。

アリストテレスの哲学てつがくには現在げんざいではおおくのあやまりがあるが、その誤謬ごびゅうおおさにもかかわらずその知的ちてき巨人きょじんさゆえに、あるいはキリスト教きりすときょうとのむすびつきにおいて宗教しゅうきょうてき権威けんいけがられたため、かれ知的ちてき体系たいけい全体ぜんたい中世ちゅうせいつううたがわれることなく崇拝すうはい対象たいしょうとなった。これがのちにガリレオ・ガリレイ悲劇ひげき要因よういんともなる。中世ちゅうせい知的ちてき世界せかいはアリストテレスがあまりにもおおきな権威けんいたがゆえにあやまれる権威けんい主義しゅぎてき体系たいけいおこなわれた。しかし、そのこれが崩壊ほうかいすることで近代きんだい科学かがく基礎きそ確立かくりつというかたち人間にんげん歴史れきしおおきく進歩しんぽした。アリストテレスの総体そうたいてき哲学てつがく領域りょういき構成こうせいしていた個別こべつ学問がくもんがそのそとし、独立どくりつした学問がくもんとして自律じりつ成立せいりつすることで、巨視的きょしてきにはこれが中世ちゅうせい以降いこう近世きんせい現代げんだいいたるまでつづいてきた学問がくもん歴史れきしとなる。アリストテレスのあやまりの原因げんいんは、もっぱら思弁しべんもとづきあたまつくげた理論りろん部分ぶぶんで、事実じじつ立脚りっきゃくしておらずそれが原因げんいん近代きんだい科学かがくによってくずれたが、その事実じじつ見出みいだしてゆくこと(Fact finding)」が原理げんりとなったとする立花たちばなたかし見解けんかいがある[3]

論理ろんりがく[編集へんしゅう]

アリストテレスのプラトンは、対話たいわによって真実しんじつ追究ついきゅうしていく問答もんどうほう哲学てつがく唯一ゆいいつ方法ほうほうろんとしたが、アリストテレスは経験けいけんてき事象じしょうもと演繹えんえきてき真実しんじつみちび分析ぶんせきろん重視じゅうしした。このような手法しゅほう論理ろんりがくとして三段論法さんだんろんぽうなどのかたち体系たいけいされた。

アリストテレスの死去しきょしたのち、かれの論理ろんりがく成果せいかは『オルガノン』 (Organon) 6かんとして集大成しゅうたいせいされ、これをもと中世ちゅうせい学徒がくと論理ろんりがく研究けんきゅうおこなった。

自然しぜんがくだい哲学てつがく[編集へんしゅう]

アリストテレスによる自然しぜんがくかんする論述ろんじゅつは、物理ぶつりがく天文学てんもんがく気象きしょうがく動物どうぶつがく植物しょくぶつがくとう多岐たきにわたる。

プラトンは「イデア」こそがしん実在じつざいであるとした(実在じつざい形相ぎょうそうせつ)が、アリストテレスは、かんてきかつ形相ぎょうそう質料しつりょう不可分ふかぶん結合けつごうした「個物こぶつ」こそが基本きほんてき実在じつざいだいいち実体じったい)であり、それらに適応てきおうされる「るい概念がいねん」をだい実体じったいとした(個物こぶつ形相ぎょうそうせつ)。さまざまな物体ぶったい特性とくせい決定けっていづけているのは、「あつし」と「ひや」、「いぬい」と「湿しめ」の対立たいりつする性質せいしつわせであり、これらの基礎きそには空気くうきみずよんだい元素げんそ想定そうていされている。これはエンペドクレスの4元素げんそろん基礎きそとしているが、より現実げんじつ事象じしょう感覚かんかく知見ちけんざしたものとなっている。

アリストテレスの宇宙うちゅうろんは、同心円どうしんえんによるしょ球状きゅうじょう階層かいそうてきかさなりの無限むげんだいてき天球てんきゅう構造こうぞうをしたものとしてろんじている。世界せかい中心ちゅうしん地球ちきゅうがあり、その外側そとがわつき水星すいせい金星かなぼし太陽たいよう、その惑星わくせいらの運行うんこういきにそれぞれてられた各層かくそう天球てんきゅうがあるとした構成こうせい呈示ていじする。これらの天球てんきゅうそうは、前述ぜんじゅつの4元素げんそとはことなる完全かんぜん元素げんそであるだい5元素げんそアイテール」(エーテル)に帰属きぞくする元素げんそからるとする。そして「その天球てんきゅうアイテール」ちゅう存在そんざいするがゆえに、太陽たいようふくめたそれらのしょ天体てんたいしょ惑星わくせい)は、それぞれの天球てんきゅうないじょう永遠えいえん円運動えんうんどうしているとした。くわえてそれらの天外てんがいそううえには、さらに無数むすうほし々、いわゆる諸々もろもろ恒星こうせいいているべつ天球てんきゅうがあり、しょ天球てんきゅうおおいかぶさるかたちで周回しゅうかいてん運動うんどうをしている。さらにまた、そのさい上位じょういなる天外てんがいそうじょうには「不動ふどうどうしゃ」である世界せかい全体ぜんたいかかわる「だいいちどうしゃ」が存在そんざいし、すべての運動うんどう究極きゅうきょく原因げんいんしゃ)がまさにそれであるとする。(これはそうじて、アリストテレスの天界てんかい宇宙うちゅうろんともなるが、あとにつづく『形而上学けいじじょうがく』(自然しぜんがくのちしょ)においては、その「だいいちどうしゃ」を かれは、「かみ」ともんでいる。)

アリストテレスの自然しぜんがく研究けんきゅうなかもっと顕著けんちょ成果せいかげているのは生物せいぶつがくとく動物どうぶつがく研究けんきゅうである。生物せいぶつがくでは、自然しぜん発生はっせいせつをとっている[3]。その研究けんきゅう特徴とくちょう系統的けいとうてきかつ網羅もうらてき経験けいけん事実じじつ収集しゅうしゅうである。かずひゃくしゅにわたる生物せいぶつ詳細しょうさい観察かんさつし、かなりおおくのたね解剖かいぼうにも着手ちゃくしゅしている。とくに、海洋かいよう生息せいそくする生物せいぶつ記述きじゅつ詳細しょうさいなものである。また、にわとり受精卵じゅせいらんあなけ、発生はっせい過程かていくわしく観察かんさつしている。 一切いっさい生物せいぶつプシュケーまれ: ψぷさいυうぷしろんχかいηいーた和訳わやくでは霊魂れいこんとする)をゆうしており、これをもっ無生物むせいぶつ区別くべつされるとした。この場合ばあいのプシュケーは生物せいぶつ形相ぎょうそうであり(『ペリ・プシュケース』だい2かんだい1しょう)、栄養えいよう摂取せっしゅ能力のうりょく感覚かんかく能力のうりょく運動うんどう能力のうりょく思考しこう能力のうりょくによって規定きていされる(『ペリ・プシュケース』だい2かんだい2しょう)。また、感覚かんかく運動うんどう能力のうりょくをもつ生物せいぶつ動物どうぶつ、もたない生物せいぶつ植物しょくぶつ二分にぶんする生物せいぶつ分類ぶんるいほう提示ていじしている(ただし、『動物どうぶつだい6かんだい1しょうでは、植物しょくぶつ動物どうぶつ中間ちゅうかんにいるような生物せいぶつ存在そんざい示唆しさしている)。

さらに、人間にんげん理性りせい作用さようする理性りせいヌース・ポイエーティコン〕、受動じゅどう理性りせい〔ヌース・パテーティコン〕)によって現象げんしょう認識にんしきするので、動物どうぶつとは区別くべつされる、としている。

二元にげんてき宇宙うちゅうぞうについて[編集へんしゅう]

アリストテレス自然しぜんがくでは、月下げっか世界せかいみず空気くうきよん元素げんそよりり、それらは相互そうごうつわることが可能かのうとしている。このつきよりつね転化てんかして生成せいせい変化へんか消滅しょうめつかえ世界せかいは「地上ちじょうかい」とばれる。それにたいしてつきとそれよりさきのエーテルよりなる世界せかいではけっして転化てんかすることがなく、生成せいせい消滅しょうめつられない。この不変ふへん世界せかいは「天上てんじょうかい」とばれる。アリストテレスはそれぞれの世界せかいべつ法則ほうそくしたがっているとかんがえた。このかんがかた二元にげんてき宇宙うちゅうぞうろん)とばれている[9]

このアリストテレスによる二元にげんてき宇宙うちゅうぞうは、バビロニアでの日食にっしょく月食げっしょくなどの現象げんしょうが「地上ちじょう物体ぶったい作用さようする」というかんがかたむすびついて、「地上ちじょうかい出来事できごとには必然ひつぜんてき天上てんじょうかい作用さようしている」というかんがかた基本きほんとなった。月齢げつれいによるうみ干満かんまんくもりのでもはな太陽たいよう方向ほうこう植物しょくぶつなどから、当時とうじ人々ひとびとからればこれは当然とうぜんであった[10]。このかんがえは、地上ちじょうかい出来事できごと原因げんいん天上てんじょうかい(つまりほしうごき)にもとめる占星術せんせいじゅつがく)が隆盛りゅうせいするもとともなった。プトレマイオスはこの法則ほうそくせい綿密めんみつさぐるためにかれ著書ちょしょアルマゲスト」で、将来しょうらい惑星わくせいうごきを(誤差ごさおおきかったが)計算けいさんして予測よそくできる宇宙うちゅうモデルをはじめて構築こうちくした。そして著書ちょしょ「テトラビブロス」では、天上てんじょうかいおよぼす地上ちじょうかいへの影響えいきょう法則ほうそくせいさぐろうとした。これは実証じっしょうがくてき学問がくもんだった。

ところが、占星術せんせいじゅつ天上てんじょうかいによる地上ちじょうかいへの影響えいきょうがはっきりしないまま、ほしうごきを「未来みらいしめ予兆よちょう」ととらえるほしうらない(ホロスコープ)として、幅広はばひろ民衆みんしゅうひろがっていった[10]他方たほう、この人々ひとびとひろがったほしうらないは、12世紀せいき以降いこうエフェメリス天体てんたいれき)やアルマナック(生活せいかつれき)という惑星わくせいふく天体てんたい正確せいかく運行うんこうというつよ需要じゅよう喚起かんきし、のち天文学てんもんがく発展はってんする動機どうきともなった[11]

天上てんじょうかいおよぼす地上ちじょうかいへの影響えいきょう法則ほうそくせいさぐろうとしたれいとして、16世紀せいきのデンマークの天文学てんもんがくしゃチコ・ブラーエがある。かれうらないほしがく研究けんきゅうしゃでもあり、かれ精巧せいこう天文てんもん観測かんそく装置そうちつくった動機どうきひとつとして、天上てんじょうかい地上ちじょうかいへの影響えいきょう法則ほうそく正確せいかくとらえられないのは観測かんそく精度せいどらないとかんがえたことがある[11]。そして天上てんじょうかいおよぼす地上ちじょうかいへの影響えいきょうもっとあらわれるもののひとつとして気象きしょうげた。かれ天文てんもん観測かんそくしながら1582ねんの10がつから1597ねんの4がつまで、15年間ねんかんにわたってヴェーンとう気象きしょう観測かんそく記録きろくのこしている。これはうらないぼし気象きしょうがく検証けんしょうのためとおもわれている[11]

ヨハネス・ケプラー占星術せんせいじゅつしゃとしても有名ゆうめいであり、かれ著書ちょしょ調停ちょうていしゃ』でも1592 ねんから1609ねんまでの16 年間ねんかんにわたって気象きしょう観測かんそく継続けいぞくして、そのあいだ観測かんそくされたほししょう天候てんこう異常いじょう関係かんけい実例じつれいをいくつもしるしている[11]。また著書ちょしょ調和ちょうわ』のなかでも「ひたすら天候てんこう観察かんさつし、そういう天候てんこうこすほししょう考察こうさつをしたかからであった。すなわち、惑星わくせいごうになるか、一般いっぱん占星術せんせいじゅつひろぬのしたほししょうになると、そのたびにまって大気たいき状態じょうたいみだれるのをわたしみとめてきた。」とべている[11]

この「天上てんじょうかい」と「地上ちじょうかい」というかんがかた終焉しゅうえんするのは、ニュートンによる万有引力ばんゆういんりょく法則ほうそく発見はっけんによってである。この法則ほうそくによって天上てんじょうかい地上ちじょうかいとにおな法則ほうそく適用てきようできることがわかった。この法則ほうそく天上てんじょうかい地上ちじょうかい区別くべつり、これをかれ万有引力ばんゆういんりょく(universal gravitation)と名付なづけた。

このようにアリストテレスの二元にげんてき宇宙うちゅうぞうは、後世こうせいおおきな影響えいきょうあたえた。

形而上学けいじじょうがくだいいち哲学てつがく[編集へんしゅう]

原因げんいんについて[編集へんしゅう]

アリストテレスのプラトンは、感覚かんかくかい超越ちょうえつしたイデアが個物こぶつからはなれて実在じつざいするというイデアろんとなえたが、アリストテレスはイデアろん批判ひはんして、個物こぶつ内在ないざいするエイドス(形相ぎょうそう)とヒュレー(質料しつりょう)の概念がいねん提唱ていしょうした。

また、アリストテレスは、世界せかい生起せいきする現象げんしょう原因げんいんには「質料しつりょういん」と「形相ぎょうそういん」があるとし、後者こうしゃをさらに「動力どうりょくいん作用さよういん)」、「形相ぎょうそういん」、「目的もくてきいん」の3つにけて、都合つごう4つの原因げんいん(アイティア aitia)があるとした(よん原因げんいんせつ)(『形而上学けいじじょうがく』Aまき自然しぜんがくだい2かんだい3しょうとう)。

事物じぶつなんでできているかが「質料しつりょういん」、そのものの実体じったいであり本質ほんしつであるのが「形相ぎょうそういん」、運動うんどう変化へんかこすはじめげん(アルケー・キネーセオース)は「動力どうりょくいん」(ト・ディア・ティ)、そして、それが目指めざしている終局しゅうきょく(ト・テロス)が「目的もくてきいん」(ト・フー・ヘネカ)である。存在そんざいしゃ動態どうたいてきたとき、潜在せんざいてきには可能かのうであるものが、素材そざいとしての可能かのうたい(デュナミス)であり、それと、すでに生成せいせいしたもので思考しこう具体ぐたいしたげん実態じったい(エネルゲイア)とを区別くべつした。

万物ばんぶつ可能かのうたいからげん実態じったいへの生成せいせいのうちにあり、質料しつりょうをもたない純粋じゅんすい形相ぎょうそうとして最高さいこう現実げんじつせいそなえたものは、「かみ」(不動ふどうどうしゃ)とばれる。イブン・スィーナー中世ちゅうせいイスラム哲学てつがくもの神学しんがくしゃや、トマス・アクィナスひとし中世ちゅうせいキリスト教きりすときょう神学しんがくしゃは、この「かみ概念がいねん影響えいきょうけ、かれらの宗教しゅうきょうキリスト教きりすときょうイスラム教いすらむきょう)のかみヤハウェアッラーフ)と同一どういつした。

範疇はんちゅうろん[編集へんしゅう]

アリストテレスは、述語じゅつご(AはBであるというときのBにあたる)の種類しゅるいを、範疇はんちゅうとして下記かきのように区分くぶんする。すなわち「実体じったい」「性質せいしつ」「りょう」「関係かんけい」「能動のうどう」「受動じゅどう」「場所ばしょ」「時間じかん」「姿勢しせい」「所有しょゆう」(『カテゴリーろんだい4しょう)。ここでいう「実体じったい」は普遍ふへんしゃであって、たねるいをあらわし、述語じゅつごとしてももちいられる(だい実体じったい)。これにたいして、述語じゅつごとしてはもちいられない基体きたいとしてのだいいち実体じったいがあり、形相ぎょうそう質料しつりょう両者りょうしゃからなる個物こぶつがこれに対応たいおうする。

倫理りんりがく[編集へんしゅう]

アリストテレスは、倫理りんりがく創始そうしした[12]一定いっていしょ人々ひとびとらすためには慣習かんしゅう道徳どうとく規範きはんまれる[13]古代こだいギリシャではそれぞれのポリスがその母体ぼたいであったのだが、アリストテレスは、エートス(しょ)の基底きていとなるものがなにかをい、人間にんげん存在そんざいにとってもとめるにあたいするもの(ぜん)がかずあるなかで、それらを統括とうかつする究極きゅうきょくぜん(最高さいこうぜん)をあきらかにし、基礎きそける哲学てつがく実践じっせん哲学てつがくとして確立かくりつした[13]

アリストテレスによると、人間にんげん営為えいいにはすべて目的もくてきぜん)があり、それらの目的もくてきさい上位じょういには、それ自身じしん目的もくてきである「最高さいこうぜん」があるとした。人間にんげんにとって最高さいこうぜんとは、幸福こうふく、それも卓越たくえつせいアレテー)における活動かつどうのもたらす満足まんぞくのことである。幸福こうふくとは、たんに快楽かいらくることだけではなく、政治せいじ実践じっせんし、または、人間にんげん霊魂れいこんが、固有こゆう形相ぎょうそうである理性りせい発展はってんさせることが人間にんげん幸福こうふくであるといた(幸福こうふく主義しゅぎ)。

また、理性りせいてききるためには、中庸ちゅうようまもることが重要じゅうようであるともいた。中庸ちゅうようたるのは、

  • 恐怖きょうふ平然へいぜんかんしては勇敢ゆうかん
  • 快楽かいらく苦痛くつうかんしては節制せっせい
  • 財貨ざいかかんしては寛厚かんこう豪華ごうか豪気ごうき)、
  • 名誉めいよかんしては矜持きょうじ
  • いかりにかんしては温和おんわ
  • 交際こうさいかんしては親愛しんあい真実しんじつ機知きち

である。ただし、羞恥しゅうち情念じょうねんであってもとくではなく、羞恥しゅうちかりげんてきにだけよきものであり、とくにおいてはみにく行為こういそのものがゆるされないとした。

また、各々おのおのにふさわしいまえ配分はいぶんする配分はいぶんてき正義せいぎ幾何きかがくてき比例ひれい)と、そこなわれた均衡きんこう回復かいふくするための裁判官さいばんかんてき矯正きょうせいてき正義せいぎ算術さんじゅつてき比例ひれい)、これにくわえて〈等価とうか交換こうかんてき正義せいぎとを区別くべつした。

アリストテレスの倫理りんりがくは、ダンテ・アリギエーリにもおおきな影響えいきょうあたえた。ダンテは『帝政ていせいろん』において『ニコマコス倫理りんりがく』を継承けいしょうしており、『かみきょく地獄じごくへんにおける地獄じごく階層かいそう構造こうぞうも、この『倫理りんりがく』の分類ぶんるいっている。 なお、かれ著作ちょさくである『ニコマコス倫理りんりがく』の「ニコマコス」とは、アリストテレスのちち名前なまえであり、名前なまえでもあるニコマスから命名めいめいされた。

政治せいじがく[編集へんしゅう]

アリストテレスは『政治せいじがく』をあらわしたが、政治せいじがく倫理りんりがく延長線えんちょうせんじょうかんがえた。「人間にんげん政治せいじてき生物せいぶつである」とかれは定義ていぎする。自足じそくして、共同きょうどう必要ひつようのないものはかみであり、共同きょうどうできないものは野獣やじゅうである。両者りょうしゃとはことなって、人間にんげんはあくまでも社会しゃかいてき存在そんざいである。国家こっかのありかた王制おうせい貴族きぞくせい、ポリティア、その逸脱いつだつとしての僭主せんしゅせい、寡頭せい民主みんしゅせい区分くぶんされる。王制おうせいは、ちち息子むすこ貴族きぞくせいおっとつま、ポリティアはあにおとうと関係かんけいにその原型げんけいをもつとわれる(ニコマコス倫理りんりがく)。

アリストテレス自身じしんは、ひと見渡みわたせる小規模しょうきぼのポリスを理想りそうとしたが、アレクサンドロス大王だいおう登場とうじょう退場たいじょう舞台ぶたいとなったこの時代じだい情勢じょうせい世界国家せかいこっか形成けいせいかっており、古代こだいギリシアの伝統でんとうてき都市とし国家こっか体制たいせい過去かこのものとなりつつあった。

文学ぶんがく[編集へんしゅう]

アリストテレスによれば、芸術げいじゅつ創作そうさく活動かつどう基本きほんてき原理げんり模倣もほうミメーシス)である。文学ぶんがく言語げんご使用しようしての模倣もほうであり、理想りそうぞう模倣もほう悲劇ひげき成立せいりつには必要ひつよう不可欠ふかけつである。作品さくひん受容じゅよう目的もくてき心情しんじょう浄化じょうかとしてのカタルシスであり、悲劇ひげき効果こうか急転きゅうてん(ペリペテイア)と、人物じんぶつ再認さいにん(アナグノーリシス)との巧拙こうせつによるという。古典こてんてきさくげきじゅつさん一致いっち法則ほうそくは、かれの『詩学しがく』にその根拠こんきょもとめている。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

アリストテレスは、紀元前きげんぜん4世紀せいきに、アテナイに創建そうけんされた学園がくえんリュケイオン」での教育きょういくようのテキストと、専門せんもんけの論文ろんぶん種類しゅるい著作ちょさくあらわしたとされているが、前者ぜんしゃはいずれも散逸さんいつしたため、今日きょう伝承でんしょうされているアリストテレスの著作ちょさくはいずれも後者こうしゃ専門せんもんけに著述ちょじゅつした論文ろんぶんである。

現在げんざいの『アリストテレス全集ぜんしゅう』は、ロドスとう出身しゅっしん学者がくしゃであり逍遥しょうよう学派がくは(ペリパトス)のだい11だい学頭がくとうでもあったアンドロニコス紀元前きげんぜん1世紀せいきにローマで編纂へんさんした遺稿いこう原型げんけいとなっている。ただし、プラトン場合ばあいおなじく、このなかにも(逍遙しょうよう学派がくは(ペリパトス)の後輩こうはいたちさくや、後世こうせい創作そうさくといった)アリストテレスのによらない偽書ぎしょがいくつかざっている。

ルネサンスいたり、15-16世紀せいきごろから印刷いんさつじゅつ印刷いんさつぎょう確立かくりつ発達はったつするにともない、アリストテレスの著作ちょさく様々さまざま印刷いんさつ工房こうぼうから出版しゅっぱんされ、一般いっぱん普及ふきゅうするようになった。

現在げんざいは、1831ねん出版しゅっぱんされた、ドイツ文献ぶんけん学者がくしゃイマヌエル・ベッカー校訂こうていプロイセン王立おうりつアカデミー刊行かんこうによる『アリストテレス全集ぜんしゅう』、通称つうしょうベッカーばん」が、標準ひょうじゅんてき底本ていほんとなっている。これはかくページが左右さゆうだんみ(分割ぶんかつ)になっているギリシャ原文げんぶん書籍しょせきである。現在げんざいでも、アリストテレス著作ちょさく訳文やくぶんには、「984a1」といった数字すうじとアルファベットが付記ふきされることがおおいが、これは「ベッカーばん」のページすう左右さゆうらん区別くべつひだりらんはa、みぎらんはb)・ぎょうすうあらわしている。

なお、現在げんざい『アリストテレス全集ぜんしゅう』にふくまれている作品さくひんうち、『アテナイじんくにせい』だけは、1890ねんエジプト発見はっけんされ、だいえい博物館はくぶつかんられたパピルス写本しゃほんから復元ふくげんされたものであり、「ベッカーばん」にはふくまれておらず、その追加ついかされたものである。

テキストの伝来でんらいについて[編集へんしゅう]

[14] 3世紀せいきディオゲネス・ラエルティオスの『哲学てつがくしゃ列伝れつでん』ではアリストテレスの著作ちょさく143書名しょめいげ、そのなかに『正義せいぎについて』『詩人しじんについて』『哲学てつがくについて』『政治せいじについて』『グリュロス(弁論べんろんじゅつについて)』『ネリントス』『ソフィスト』『メネクセノス』『エロースについて』『饗宴きょうえん』など、おそらくプラトンの対話たいわへんならってかれた公開こうかいてき著作ちょさく存在そんざいしていた。それらは現在げんざいではほとんうしなわれ、部分ぶぶんてき著作ちょさくしゃ引用いんようなどで断片だんぺんられるのみである。

また『哲学てつがくしゃ列伝れつでん』では現代げんだいまでつたわっている『形而上学けいじじょうがく』や『トピカ』などの主著しゅちょいているが、5・6世紀せいきごろとされるつてヘシュキオス英語えいごばんの『オノマトロゴイ』ではそれらをふくめた拡充かくじゅうされた著作ちょさくリストをげている。この事実じじつはディオゲネスにられた著作ちょさくぐん系統けいとうと、伝来でんらい系統けいとう存在そんざいしていることを示唆しさしており、『オノマトロゴイ』の時代じだいにはそれらがひとつとして統合とうごうされていたことがかんがえられる。

ストラボンの『ゲオグラピカ』のつたえるところによれば、アリストテレスは自分じぶんあつめた文庫ぶんこ(ビブリオテーケー)をテオプラストスゆずり、テオプラストスはコリスコスののネレウスにゆずった。ネレウスはしょうアジアのスケプシスげんトルコりょうクルシュンル・テペ)にかえり、かれ後継こうけいしゃたちにゆずったが、後継こうけいしゃたちは学問がくもんつうじておらず文庫ぶんこ封印ふういんしたままにしてけることがなかった。ペルガモンアッタロスあさおうたちが自分じぶんたちの文庫ぶんこのために書籍しょせき収集しゅうしゅうしていることをり、うばわれることをおそれたひとたちはそれを地下ちかくらかくし、その破損はそんすすんでしまった。そのに、ぜん1世紀せいきのアテナイの富豪ふごう書籍しょせき収集しゅうしゅうであったアペリコン英語えいごばんにそれらを売却ばいきゃくした。アペリコンはそれをなにとか修復しゅうふくしておおやけにしたが、十分じゅうぶん出来できとはえずペリパトス哲学てつがくしゃたちはまともに勉強べんきょうもできない状況じょうきょうであった。アペリコンの死後しご、ローマのスッラがアテナイを占領せんりょうし、アペリコンの文庫ぶんこをローマへとかえり、それを専門せんもんテュラニオン英語えいごばんゆだねた。

プルタルコスの『対比たいひ列伝れつでん・スッラでん』ではそのつづきの顛末てんまつしるされている。文庫ぶんこにはアリストテレスとテオプラトスの書物しょもつだい部分ぶぶんふくまれていたが、テュラニオンがそのだい部分ぶぶん整理せいりした。そしてロドスのアンドロニコスがそれを転写てんしゃすることをゆるされ、おおやけにしいまおこなわれている著作ちょさく目録もくろくかたちにでまとめげた。ここにおいてようやくペリパトス哲学てつがくしゃたちもアリストテレスやテオプラストスの著作ちょさく精確せいかくることが出来できるようになり、それ以前いぜん同派どうは哲学てつがくしゃたちはその機会きかいがなかった。

アンドロニコスは転写てんしゃした資料しりょう内容ないようおうじて分類ぶんるいし、独自どくじ配列はいれつしてこれを公刊こうかんした。この形式けいしき中世ちゅうせいにおいてアリストテレス全集ぜんしゅう方式ほうしきにおいてもがれている。ピロポノスは『自然しぜんがく註解ちゅうかい』において、シドンのポエトスは自然しぜんがくから学問がくもんはじめるべきだと主張しゅちょうしたが、かれであるアンドロニコスは論理ろんりがくをもってはじめるべきだとしたとつたえている。現在げんざいのアリストテレス全集ぜんしゅう形式けいしきにおいて、論理ろんりがくもろしょ(オルガノン)が劈頭へきとうかれるのはアンドロニコスに由来ゆらいするということをかんがえることができる。

公開こうかいてき著作ちょさく対話たいわへん[編集へんしゅう]

アリストテレス自身じしん多数たすうひとせることを想定そうていして公開こうかいした著作ちょさく多数たすうあった。ほとんどが散逸さんいつしてしまったが、後世こうせいつたわっている引用いんよう証言しょうげんなどの断片だんぺんから、ある程度ていど内容ないようることが出来できるものもある。[14][15][16]

  • 『エウデモス』または『たましいについて』 プラトンの『パイドン』にならってかれた対話たいわへんである。エウデモスはアリストテレスのアカデメイアでの学友がくゆうであり、かれディオンシュライクサイでの戦争せんそう参加さんかして戦死せんしした。アリストテレスはかれ記念きねんして“エウデモス”のかんした著作ちょさくき、霊魂れいこん不滅ふめつろんじた。エウデモスぼつぜん357ねん)まもなくかれたものと推測すいそくされ、アリストテレスの著作ちょさく制作せいさく年代ねんだい唯一ゆいいつ確定かくていできるものである。
  • 哲学てつがくのすすめ』 原題げんだいプロトレプティコス”は「勧奨かんしょう」を意味いみする。イアンブリコス同名どうめいしょだい部分ぶぶん引用いんようされているので、ほぼ全編ぜんぺんさい構成こうせいすることができる。一説いっせつによれば、当時とうじアテナイにはプラトンのアカデメイアのほかイソクラテス弁論べんろんじゅつ学校がっこうがあったが、イソクラテスはアカデメイアを批判ひはんして『アンティドシス英語えいごばん』を公表こうひょうした。『哲学てつがくのすすめ』はそれにたいする反論はんろんともわれている。
  • 哲学てつがくについて』 のちに『自然しぜんがく』や『形而上学けいじじょうがくΛらむだまきべられているような世界せかい構成こうせいおよび絶対ぜったいしゃについての議論ぎろんおこなわれている。知恵ちえ(ソフィア)の意味いみ変遷へんせん霊魂れいこん自然しぜん世界せかいからかみ探求たんきゅうするふたつの方法ほうほうアイテールさかいにおいて円運動えんうんどうおこない、純粋じゅんすい純粋じゅんすい認識にんしきおこな天体てんたいてき知性ちせいてき存在そんざいであるかみ々について、最後さいごにアイテールがたましい知性ちせい素材そざいとなるだい元素げんそであることについて、よっつの論点ろんてんべる。
  • 『グリュロス』 クセノポングリュロスのためかれた弁論べんろんじゅつかんする対話たいわへん著作ちょさくもっと初期しょきぞくする。
  • 詩人しじんについて』 詩人しじんについての伝記でんき逸話いつわ収録しゅうろくしたものとかんがえられる。『詩学しがく』においても言及げんきゅうされている。
  • 饗宴きょうえん』 あるいは「酩酊めいていについて」。プラトンの『饗宴きょうえん』と同名どうめいだが内容ないよう宴席えんせきでのいなどについてかたっている。
  • おうであることについて』 『アレクサンドロス』とおなじくマケドニア王国おうこく王子おうじ教師きょうしとして招聘しょうへいされたのちに、アレクサンドロスのためにかれたもの。
  • 『アレクサンドロス、あるいは植民しょくみんしゃについて』
  • 『ソフィスト』
  • 『ネリントス』
  • 恋愛れんあいろん
  • とみについて』
  • いのりについて』
  • まれのよさについて』
  • 快楽かいらくについて』
  • 教育きょういくについて』
  • 政治せいじ
  • 正義せいぎについて』

論理ろんりがく[編集へんしゅう]

自然しぜんがく[編集へんしゅう]

生物せいぶつ動物どうぶつがく[編集へんしゅう]

形而上学けいじじょうがく[編集へんしゅう]

倫理りんりがく[編集へんしゅう]

政治せいじがく[編集へんしゅう]

レトリックと詩学しがく[編集へんしゅう]

偽書ぎしょ[編集へんしゅう]

ほとんどはペリパトス逍遙しょうよう学派がくは)の後輩こうはいたちのによる著作ちょさくである。

後世こうせいへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

テオプラトスの没後ぼつご、アリストテレスの主要しゅようテキストははやくもしつでんし、ペリパトス目立めだった研究けんきゅうしゃあらわれなかったが、ローマ時代じだいはいるとテキストがさい発見はっけんされ公刊こうかんされた。ペリパトスでは2世紀せいきアスパシオス広範囲こうはんい注解ちゅうかいほどこしたことがられ、ボエティウスによりたびたび言及げんきゅうされているが、現在げんざいではニコマコス倫理りんりがく一部分いちぶぶんしか残存ざんそんしていない。3世紀せいき前半ぜんはんには学頭がくとうであったアフロディシアスのアレクサンドロス本格ほんかくてき注解ちゅうかいあらわした。そのすぐれた内容ないようから“注解ちゅうかいしゃ”と呼称こしょうされるようになったが、これがペリパトス直系ちょっけいによる最後さいご主要しゅよう研究けんきゅう成果せいかというものであった。それ以後いごテミスティオスのように独自どくじ研究けんきゅうしゃもあったが、おもにネオ・プラトニストによってアリストテレスの研究けんきゅうおこなわれた。ポルピュリオスのアリストテレス論理ろんりがく入門にゅうもんしょエイサゴーゲー』は、ラテン語らてんごやアラビアにも翻訳ほんやくされて東西とうざい世界せかい影響えいきょうおよぼした。アテナイ学派がくはではシュリアノスが『形而上学けいじじょうがく』について(批判ひはんてきに)注解ちゅうかいし、キリキアのシンプリキオスは『自然しぜんがく』について浩瀚こうかん注解ちゅうかいのこした。アカデメイア閉鎖へいさかたわらにアレクサンドリア学派がくはアンモニオスしょうオリュンピオドロスらが、プラトンにたいするのとまさるともおとらない熱意ねついもってアリストテレスを研究けんきゅうした。そこにはピロポノスエリアス英語えいごばんといったキリスト教徒きりすときょうと子弟していもいた。アレクサンドリアの学校がっこう閉鎖へいさのちは、コンスタンティノープルがギリシャけんにおける哲学てつがく中心ちゅうしんとなり、12世紀せいきにはエフェソスのミカエルエウストラティオスといった註解ちゅうかいしゃあらわれた。

後世こうせいまんがく」としょうされるように、アリストテレスのもたらした知識ちしき体系たいけい網羅もうらてきであり、当時とうじとしては完成かんせいたかく、偉大いだいなものであった。しかし、アリストテレスの学説がくせつおおくはマ帝国まていこく崩壊ほうかい混乱こんらんによって、西にしヨーロッパではいったんほとんどがわすられた。ただし、6世紀せいきボエティウスが『範疇はんちゅうろん』と『命題めいだいろん』をラテン語らてんごやくしており[17]、これによってわずかにアリストテレスの学説がくせつつたえられ、中世ちゅうせいのアリストテレス研究けんきゅう端緒たんしょとなった。一方いっぽう西にしヨーロッパで衰退すいたいしたアリストテレスの学説がくせつは、東方とうほうビザンツ帝国ていこくにおいてはよく維持いじされた。12世紀せいき皇帝こうていアレクシオス1せい皇女おうじょアンナ・コムネナ自身じしんしるした歴史れきししょアレクシアス(アレクシオス1せいでん』の序文じょぶんみずからについて「アリストテレスのしょがくとプラトンの対話たいわ作品さくひん精読せいどく」したとしるしている[18][19]。529ねんにユスティニアヌス1せいによってリュケイオンが閉鎖へいさされたのちは、サーサーンあさペルシア移住いじゅうしたネストリウスキリスト教徒きりすときょうとによって知識ちしき保持ほじされつづけた。かれらはペルシア南西なんせいジュンディーシャープール移住いじゅうし、国王こくおうホスロー1せい庇護ひごのもとでこの時期じきにアリストテレスの著作ちょさくのギリシアからシリアへの翻訳ほんやくおこなわれている。こうした文献ぶんけんは、830ねんアッバースあさだい7だいカリフ・マームーンが、バグダード設立せつりつした知恵ちえかん収集しゅうしゅうされ、シリアやギリシアからアラビアへの翻訳ほんやくおこなわれた[20]。このだい翻訳ほんやく事業じぎょうによってやくされたアリストテレスの著作ちょさくはイスラム文明ぶんめい巨大きょだい影響えいきょうあたえ、イスラム科学かがく隆盛りゅうせいいしずえきずいた。なかでも、イブン・スィーナーはアリストテレスの影響えいきょうおおきくけており、アリストテレス哲学てつがくとイスラム科学かがくとの橋渡はしわたしの役割やくわりたした。

こうして保持ほじされ進化しんかしたアリストテレス哲学てつがくは、1150ねんから1210ねんにかけてアラビアからラテン語らてんごにいくつかのアリストテレスの著作ちょさく翻訳ほんやくされた[21]ことにより、ヨーロッパにさい導入どうにゅうされた。アリストテレスの学説がくせつスコラがくおおきな影響えいきょうあたえ、13世紀せいきトマス・アクィナスによる神学しんがくへの導入どうにゅうて、中世ちゅうせいヨーロッパの学者がくしゃたちから支持しじされることになる。しかし、アリストテレスの諸説しょせつ妥当だとう部分ぶぶんだけでなく、混入こんにゅうした誤謬ごびゅうまでもが批判ひはん支持しじされることになった。

たとえば、現代げんだい物理ぶつりがく生物せいぶつがくかかわせつでは、レウキッポスデモクリトスの「原子げんしろん」や「のう知的ちてき活動かつどう中心ちゅうしん」というせつたいする、アリストテレスの「よん元素げんそろん」や「のう血液けつえきやす機関きかん」というせつとう信奉しんぽうされつづけることになり、中世ちゅうせいいたるまでこの学説がくせつ異論いろんとなえるものてこなかった。

さらに、ガリレオ・ガリレイ太陽たいよう中心ちゅうしんせつ地動説ちどうせつ)をめぐって生涯しょうがいアリストテレス学派がくは対立たいりつし、結果けっかとして裁判さいばんにまでまれることになった。当時とうじのアリストテレス学派がくはは、望遠鏡ぼうえんきょうを「アリストテレスを侮辱ぶじょくする悪魔あくま道具どうぐ」となし、のぞくことすらこばんだともわれる。古代こだいギリシアにおいておおいに科学かがく進歩しんぽさせたアリストテレスのせつが、時代じだいにはぎゃくにそれをおくらせてしまったという皮肉ひにく事態じたいまねいたことになる。またちか時代じだいインディオ奴隷どれい正当せいとうする根拠こんきょとして『政治せいじがく』が利用りようされた(バリャドリッド論争ろんそう[22]

ただ、その哲学てつがくにおけるアリストテレスの影響えいきょうわすれてはならない。たとえば、エドムント・フッサールであった哲学てつがくしゃフランツ・ブレンターノは、志向しこうせいという概念がいねん自分じぶん発見はっけんしたものではなく、アリストテレスやスコラ哲学すこらてつがくがすでにっていたものであることを強調きょうちょうしている[23]

エピソード[編集へんしゅう]

ウニるいせいかたちるいとタコノマクラるいがもっている口器こうきアリストテレスの提灯ちょうちんぶ。アリストテレスがこの口器こうき構造こうぞう調しらべて記録きろくしていることから、そのがつけられた[24]

中世ちゅうせいヨーロッパには、アリストテレスがつんいになり美女びじょせた、という伝承でんしょうがあった[25]アリストテレスとフィリス)。

A・E・ヴァン・ヴォークトのSF作品さくひんAの世界せかい』のAはアリストテレスのことで、一般いっぱん意味いみろんから言葉ことばである。

1941ねんからギリシャで発行はっこうされていたきゅう1ドラクマ紙幣しへい肖像しょうぞう使用しようされていた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ "アリストテレス". 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ). コトバンクより2022ねん3がつ14にち閲覧えつらん
  2. ^ 哲学てつがくしゃ群像ぐんぞう101」p36 木田きだはじめへん 新書しんしょかん 2003ねん5がつ5にち初版しょはん発行はっこう
  3. ^ a b c 立花たちばなたかしのうきわめる』(2001ねん3がつ1にち 朝日あさひ文庫ぶんこ
  4. ^ Behind the Name: Meaning, Origin and History of the Name Aristotle”. behindthename.com. 2011ねん6がつ20日はつか閲覧えつらん
  5. ^ 山本やまもと光雄みつお 『ギリシア・ローマ哲学てつがくしゃ物語ものがたり講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2003ねん、154ぺーじISBN 9784061596184
  6. ^ 中畑なかはたただしこころざし「プラトンとアリストテレス」(『哲学てつがく歴史れきし だい1かん 哲学てつがく誕生たんじょう古代こだいI〕』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、2008ねん、p641)
  7. ^ G・W・F・ヘーゲル『哲学てつがく講義こうぎⅡ』河出かわで文庫ぶんこ、2016ねん、P.329ぺーじ 
  8. ^ 数学すうがく理科りか法則ほうそく定理ていりしゅう』アントレックス、2009ねん、150、151ぺーじ
  9. ^ 世界せかい見方みかた転換てんかん1 天文学てんもんがく復興ふっこう天地てんちがく提唱ていしょう. みすず書房しょぼう. (2014) 
  10. ^ a b つつみさとし. (2018). 気象きしょうがく気象きしょう予報よほう発達はったつ. 丸善まるぜん出版しゅっぱん. ISBN 978-4-621-30335-1. OCLC 1061226259. https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b302957.html 
  11. ^ a b c d e 世界せかい見方みかた転換てんかん3 世界せかい一元化いちげんか天文学てんもんがく改革かいかく. みすず書房しょぼう. (2014) 
  12. ^ 河井かわい徳治とくじ 2011, p. 1.
  13. ^ a b 河井かわい徳治とくじ 2011, p. 2.
  14. ^ a b 世界せかい名著めいちょ8『アリストテレス』. 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ. (1979) 
  15. ^ 世界せかい古典こてん文学ぶんがく全集ぜんしゅう16アリストテレス. 筑摩書房ちくましょぼう. (1966/08) 
  16. ^ Aristoteles.; アリストテレス. (2018). Chosaku danpenshū : 2. Uchiyama, Katsutoshi., Kanzaki, Shigeru., Nakahata, Masashi., Kunikata, Eiji., 内山うちやま勝利しょうり., 神崎かんざきしげる.. Tōkyō: Iwanamishoten. ISBN 978-4-00-092790-1. OCLC 1078647540. https://www.worldcat.org/oclc/1078647540 
  17. ^ 「キリストきょう歴史れきし」p75 小田おだかき雅也まさや 講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ 1995ねん5がつ10日とおかだい1さつ
  18. ^ アンナ・コムニニ(アンナ・コムネナ) ちょ相野あいのようさん やく『アレクシアス』ゆうしょかん、2019ねん p1
  19. ^ 井上いのうえ浩一こういち歴史れきしがくなぐさめ アンナ・コムネナの生涯しょうがい作品さくひん白水しろみずしゃ、2020ねん p137
  20. ^ 医学いがく歴史れきし」p140 梶田かじたあきら 講談社こうだんしゃ 2003ねん9がつ10日とおかだい1さつ
  21. ^ 「キリストきょう歴史れきし」p102 小田おだかき雅也まさや 講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ 1995ねん5がつ10日とおかだい1さつ
  22. ^ ルイス・ハンケ 『アリストテレスとアメリカ・インディアン』佐々木ささき昭夫あきおやく岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、1974ねん
  23. ^ フランツ・ブレンターノ『経験けいけんてき立場たちばからの心理しんりがく』(Psychologie vom empirischen Standpunkt.)
  24. ^ 「ところで、ウニのくちはじめとおわりは連続れんぞくてきであるが、外見がいけん連続れんぞくてきでなく、まわりにかわってない提灯ちょうちんている」(アリストテレース動物どうぶつじょう島崎しまざき三郎さぶろうわけ岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ あお604-10〉、1998ねん12月16にち、p. 174ぺーじISBN 4-00-386011-Xhttp://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/38/X/3860110.html 
  25. ^ 藤代ふじしろ幸一こういちアリストテレスのわら美女びじょうまられた哲学てつがくしゃ創造そうぞうしゃ、1972ねんhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12218052 NDLJP:12218052

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

政治せいじがくだいいちかん
『カテゴリーろん』(対訳たいやくばん)
命題めいだいろん』(対訳たいやくばん)
『トポスろん』(だいいちかん)(対訳たいやくばん)