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人力車じんりきしゃ

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日本にっぽん人力車じんりきしゃ(1897ねん

人力車じんりきしゃ(じんりきしゃ、人力じんりき)とは、ひとちからひと輸送ゆそうするために設計せっけいされたくるま

日本にっぽんでは、おも明治めいじ大正たいしょう移動いどう手段しゅだんとしもちいられた[1]現在げんざいでは「観光かんこう人力車じんりきしゃ」が観光かんこうなどで使つかわれている[2]

概要がいよう

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フィンランドクオピオ人力車じんりきしゃ

車軸しゃじく両側りょうがわに1つずつ車輪しゃりんち、うえ乗客じょうきゃくすわ台座だいざ雨避あまよけとなるおおいをそなえ、台座だいざとつながれた俥夫(しゃふ)がいてすすむ。一部いちぶには手押ておしゃのようにうしろからしてすすくるまもあった。

日本語にほんごでは、りゃくして人力じんりき(じんりき)、力車りきしゃ(りきしゃ)。車夫しゃふはまた車力しゃりき(しゃりき)ともった。また英語えいごのRickshaw(リクショー)は「リキシャ」を語源ごげんとする日本語にほんご由来ゆらい英単語えいたんご

人力車じんりきしゃかんするくるま文字もじすべとも表記ひょうきした。俥の本来ほんらいシャンチーこまである「 (ヂィー)」に使つかわれるだけの漢字かんじであったが、明治めいじ以降いこう日本にっぽんにおいて中国ちゅうごくにそのような漢字かんじがあることに気付きづかずに、人力車じんりきしゃあらわすためにつくられた国字こくじ一種いっしゅである(中国ちゅうごく元々もともとあった漢字かんじ字体じたい暗合あんごうしたものであるので、正確せいかくには国字こくじではない)。そのため「俥」(くるま)一文字ひともじだけで人力車じんりきしゃあらわしている。このほかに、明治めいじ時代じだいごろ表記ひょうきではくるまへんみぎじょうひとを、そのしたちからいたごうれいもあった[3]

人力車じんりきしゃには乗客じょうきゃく一人ひとりりのものや二人ふたりりのものなどがあるが、日本にっぽん普及ふきゅうしたのは一人ひとりりのものが圧倒的あっとうてきおおかった。また車夫しゃふ通常つうじょう1人ひとりだが、とくいそぎの場合ばあいなどは2人ふたり以上いじょういたり、ときにはしたり、交代こうたい要員よういん車夫しゃふ併走へいそうしたりすることもあった。

日本にっぽんにおける人力車じんりきしゃ

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旅客りょかく輸送ゆそうとして

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1870ねん明治めいじ3ねん和泉いずみかなめすけ発明はつめいしたとわれる。江戸えど時代じだい以前いぜんには存在そんざいせず、わりに輿こしかご使つかわれていた。馬車ばしゃ馬車ばしゃ鉄道てつどう大砲たいほう荷車にぐるまかせる軍馬ぐんばのために街道かいどう道路どうろ状況じょうきょう整地せいち舗装ほそうなど整備せいびされ普及ふきゅうした。その鉄道てつどう自動車じどうしゃ普及ふきゅうにより、都市としけんでは1926ねんころ地方ちほうでも1935ねんころをピークに減少げんしょうし、戦後せんご車両しゃりょう払底ふってい燃料ねんりょうなんという事情じじょうからわずかに復活ふっかつしたことがあるが、現在げんざいでは一般いっぱんてき交通こうつう運送うんそう手段しゅだんとしての人力車じんりきしゃ存在そんざいしていない。

東京とうきょう銀座ぎんざ7丁目ちょうめに、日本にっぽん唯一ゆいいつという芸者げいしゃ送迎そうげい専用せんよう人力車じんりきしゃくるま宿やど日吉ひよしぐみ」がある[4]日吉ひよしぐみきゅう地名ちめい日吉ひよしまちにちなんだで、所属しょぞく車夫しゃふひさ映画えいがあげまん』にも登場とうじょうし、ほろおおわれた一人ひとりよう人力車じんりきしゃ芸者げいしゃおく場面ばめんえがかれた[5]

また、車椅子くるまいす着脱ちゃくだつしき装着そうちゃくして人力車じんりきしゃスタイルにし、障害しょうがいしゃ高齢こうれいしゃ移動いどうたすける補助ほじょ装置そうち開発かいはつされている[6]

道路どうろ交通こうつうほう

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後述こうじゅつ法令ほうれい」も参照さんしょうけい車両しゃりょうとなるため歩道ほどうじょう自転車じてんしゃどうじょうちゅう停車ていしゃはできない(東京とうきょう浅草あさくさ車道しゃどうじょうには人力車じんりきしゃ専用せんよう駐車ちゅうしゃスペースがあり駐車ちゅうしゃ禁止きんし除外じょがいとなっている)。

保存ほぞん

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昭和しょうわ初期しょきまでは一般いっぱんてき存在そんざいした庶民しょみんてき車両しゃりょうであるため、交通こうつう博物館はくぶつかん2006ねん5月14にち移転いてんため閉鎖へいさ)をはじめ、各地かくち博物館はくぶつかん資料しりょうかんなどで保存ほぞんされている。ただし、展示てんじされている人力車じんりきしゃには修復しゅうふくされたものや展示てんじのためにあらたに製造せいぞうされたものもある。

観光かんこうようとして

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現在げんざいおも観光かんこうでの遊覧ゆうらん目的もくてき営業えいぎょうおこなわれている。人力車じんりきしゃ観光かんこう最初さいしょもちいたのは1970ねん飛騨高山ひだたかやまのごくらくしゃである。のち京都きょうと鎌倉かまくらなどでテレビ番組ばんぐみとう度々たびたび紹介しょうかいされて、各地かくち普及ふきゅうした。当初とうしょ京都きょうとといった風雅ふうが街並まちなみがのこ観光かんこうまた浅草あさくさなどの人力車じんりきしゃ似合にあ下町したまちでの営業えいぎょうはじまり、次第しだい伊東いとう温泉おんせん道後どうご温泉おんせんといった温泉おんせんがいや、大正たいしょう時代じだいふうなどレトロ街並まちなみがのこ門司もじこう有名ゆうめい観光かんこうである中華ちゅうかがいなどにひろがっていった。観光かんこう名所めいしょをコースで遊覧ゆうらんし、車夫しゃふ観光かんこうガイドとして解説かいせつしてくれるものが一般いっぱんてきである。車夫しゃふ服装ふくそうは、腹掛はらがけに股引ももひ法被はっぴというのがおおい。

現在げんざい観光かんこうよう人力車じんりきしゃ営業えいぎょうおこなわれている地域ちいき以下いかとおりである。

観光かんこう人力車じんりきしゃ乗車じょうしゃ料金りょうきんは10ふん程度ていど移動いどう時間じかんちゅう観光かんこう案内あんないふくめた初乗はつの運賃うんちん1人ひとりたり1000 - 2000えんから15ふん・30ふん・60ふん貸切かしきりなど様々さまざまである。2人ふたりりのものに3にん乗車じょうしゃすることも可能かのうであるが、相当そうとうおもさになることから、観光かんこう人力車じんりきしゃでは料金りょうきんしとするものがおおい。到着とうちゃくしたのち観光かんこうきゃくへの観光かんこう案内あんない時間じかんちゅう駐輪場ちゅうりんじょうしょ整備せいびきゃくにおける待機たいき場所ばしょ整備せいびおくれているといった課題かだいがある。

観光かんこう人力車じんりきしゃほか結婚式けっこんしきまつりなどでの演出えんしゅつや、歌舞伎かぶき役者やくしゃの「おり」などに使用しようされることがある。

人力車じんりきしゃ製造せいぞう

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観光かんこう人力車じんりきしゃ博物館はくぶつかん展示てんじよう人力車じんりきしゃ製造せいぞうつづけられている。製造せいぞう台数だいすうおおいメーカーとしては静岡しずおかけん伊東いとう株式会社かぶしきがいしゃ升屋ますや製作所せいさくしょ

人力じんりきくるまについて

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コルカタのリキシャ 2004ねん撮影さつえい
1895ねん上海しゃんはい二人ふたり男性だんせいった一輪車いちりんしゃ体重たいじゅうおおきな車輪しゃりん直接ちょくせつかかるメリットがあるものの、ひがしインド会社かいしゃ社員しゃいんしるした内容ないようによれば、バランスをとる必要ひつようがあってあぶないと欠点けってんべている[9]

アジア各国かっこく輸出ゆしゅつされ、とくにインドでは、明治めいじ40年代ねんだい年間ねんかん1まんだい日本にっぽんから輸出ゆしゅつされ、リキシャなどの名前なまえ地元じもと根付ねついていたものの、そのおおくはサイクルリクシャーオートリクシャーえられた。

日本にっぽん

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平安へいあん時代じだい以降いこう貴族きぞく人力じんりき輦車手車てぐるまがある。これは車輪しゃりんがついたかご前後ぜんご人間にんげんちから移動いどうさせるものである。そのかたかつかご輿こしでもはこばれた。

韓国かんこく

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軺軒

香港ほんこん人力車じんりきしゃ

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1874ねん日本にっぽんから輸入ゆにゅうされた人力車じんりきしゃ運用うんよう開始かいしした。広東かんとんみして「人力車じんりきしゃ ヤンリッチェー」とんだ。1920年代ねんだいにはやく2000だい運用うんようされていた。 1980年代ねんだいは、香港ほんこんとうきゅうりゅう半島はんとうスターフェリーなどに観光かんこうよう人力車じんりきしゃがあった。2013ねん時点じてんでライセンスは3めいっていたが、乗車じょうしゃ電話でんわ予約よやく必要ひつようであった。しかし、2021ねんまつ新型しんがたコロナと車夫しゃふ高齢こうれい(70さい)による健康けんこう状態じょうたい悪化あっか理由りゆうとして、最後さいご一人ひとり廃業はいぎょうした。本物ほんもの人力車じんりきしゃわって、香港ほんこんとうのスターフェリーから市内しない観光かんこう路線ろせん(H1)で、オープントップのかいてバス人力車じんりきしゃのデザインをれた「人力車じんりきしゃ觀光かんこうともえ[10]というものがあり、人力車じんりきしゃおなじようなほろ後方こうほうけられている。

インドの人力車じんりきしゃ

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  • 1919ねんコルカタ正式せいしき交通こうつう手段しゅだんとして認定にんていする。
  • 1972ねん以降いこう、コルカタではいくつかのとおりで人力車じんりきしゃ禁止きんしされた。
  • 1982ねん当局とうきょくは1まん2000だい以上いじょう人力車じんりきしゃ押収おうしゅうし、廃棄はいきした。
  • 1992ねん調査ちょうさでは、3まんだい以上いじょう人力車じんりきしゃ営業えいぎょうちゅうで、そのうち6000だい違法いほう車両しゃりょう許可きょか車両しゃりょうであった。
  • あたらしい許可きょか1945ねん以降いこうされていない。

インドでは、しばしばリキシャはリクシャとも発音はつおんされる。人力車じんりきしゃ運転うんてんしゅをリクシャワーラーまたはリクシャプーラーとう。

料金りょうきんは1かい移動いどうにつき2、3ドルである。リクシャワーラーのほとんどは簡易かんい宿舎しゅくしゃみ、仕送しおくりをするために節約せつやくしている[11]

2005ねん8がつ西にしベンガル共産きょうさん政府せいふ完全かんぜん人力車じんりきしゃ計画けいかく発表はっぴょうしたが、リクシャワーラーの抗議こうぎストライキ終始しゅうしした[12]

2009ねん現在げんざい、かなりのかず人力車じんりきしゃがコルカタにまだのこっており、やく8000だい、2まんにん車夫しゃふがいるとされる。リクシャワーラーの組合くみあいは、人力車じんりきしゃ禁止きんしつよ反対はんたいしている。

歴史れきし

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孔子こうし問答もんどう小兒しょうにろん」(1680ねん)の挿絵さしえ
20世紀せいき初頭しょとうニュージャージーしゅう当時とうじ富裕ふゆうそうは、障害しょうがいとは関係かんけいなく、車椅子くるまいすって、それを召使めしつかいにさせることがあった。
タイコーサマ
Les Deux Carrosses by Claude Gillot, 1707
人力車じんりきしゃ 日本にっぽん1886ねん シルバープリントに彩色さいしき
人力車じんりきしゃ 日本にっぽん1897ねん

16世紀せいき中国ちゅうごくかれた『三国志さんごくし演義えんぎ』では、椅子いすそなえた手押ておしゃったしょかずらあきらえがかれているという。オランダひと作家さっかアルノルドゥス・モンタヌスによる1669ねん著書ちょしょでも日本にっぽんえがいたなかに、「タイコーサマ」なる女性じょせいしょかずらあきら同様どうよう手押ておしゃっているものがある。それが日本にっぽん実在じつざいしていたものかは不明ふめいだが、そのころまでには人力車じんりきしゃようなものの存在そんざい欧州おうしゅうにはつたわっていたことうかがえる。

1707ねんフランスひと画家がかクロード・ジローClaude Gillot)が発表はっぴょうした「Les Deux Carrosses」(直訳ちょくやく:「だいくるま」)には、人力車じんりきしゃによくものえがかれている。、ヨーロッパやアメリカでは、日本にっぽんのように複数ふくすうじんせるものではなかったが、富裕ふゆうそう車椅子くるまいすり、召使めしつかいにさせるなどしていた。

明治めいじ初年しょねん(ほぼ1868ねん)のものとして、外国がいこくじん車夫しゃふ日本人にっぽんじんえる人力車じんりきしゃ静岡しずおか田子たごうら橋上はしがみにいる写真しゃしんが、ドイツボン大学だいがく保存ほぞんされていることがわかった[13]

自動車じどうしゃ普及ふきゅうとも日本にっぽんではすたれてき、地域ちいきでも自転車じてんしゃ使つかったサイクルリクシャーや、オートバイを使つかったオートリクシャーえられてった。

人力車じんりきしゃ発明はつめい

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1848ねんころアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく鍛冶たんや職人しょくにんアルバート・トルマン(Albert Tolman)によって宣教師せんきょうしものとしてウースターつくられたというせつ1869ねんころ来日らいにちアメリカじん宣教師せんきょうしジョナサン・ゴーブル(またはジョナサン・スコビー(Jonathan Scobie))が病弱びょうじゃくつまため考案こうあんして横浜よこはま使つかっていたというせつもあるが、記録きろくじょうでは日本にっぽん和泉いずみかなめすけ高山たかやまみゆきすけ鈴木すずき徳次郎とくじろうの3めい発明はつめいしゃとして明治めいじ政府せいふから認定にんていされている[14]。3めい東京とうきょう馬車ばしゃから着想ちゃくそうて1869ねん(明治めいじ2ねん)に人力車じんりきしゃ完成かんせいさせ、翌年よくねん1869ねん(明治めいじ3ねん)に日本橋にほんばし開業かいぎょうしたとされる。 ただし、1899ねん2がつ10日とおかだい13かい帝国ていこく議会ぎかい衆議院しゅうぎいん)では「人力車じんりきしゃ発明はつめいじん年金ねんきん給与きゅうよ建議けんぎあん」が提出ていしゅつされていたが和泉いずみらが発明はつめいしゃかどうかで議論ぎろんとなっていた。これは「なに人力車じんりきしゃとするか」の争点そうてんもあったが当時とうじおおくの山師やましいたるふくめた自称じしょうしゃおおかったためでもある。前後ぜんごするが1895ねん3がつにも、新聞しんぶん論説ろんせつにおいて、発明はつめいじんたいする議論ぎろんがあがっている。

様々さまざま文献ぶんけんからの発明はつめいしゃと、それにたいする意見いけんべた文献ぶんけん資料しりょう事実じじつを、つぎしるす。

  • 各種かくしゅ出願しゅつがん和泉いずみかなめすけ2めい
  • 新聞しんぶん投書とうしょ広瀬ひろせぼう
    • 明治めいじ事物じぶつ起源きげんでは、発明はつめいしゃ詐称さしょうした山師やましであろうとかんがえられている。
  • 新聞しんぶん投書とうしょ高山たかやまみゆき鈴木すずきいさお(=油屋あぶらやとくみぎ衛門えもん
    • 日本にっぽん工業こうぎょう文化ぶんかでは、松兵衛まつべえしょうくるま改良かいりょうしたものであるとかんがえられている。
  • 工業こうぎょうこころざしりょうさいわいすけくるまこう)、田中たなかほおによる共同きょうどう発明はつめい
    • 横浜よこはま沿革えんかくでは、これを、引用いんようしている。
    • 斉藤さいとうちょ人力車じんりきしゃでは、さいわいすけ=高山たかやまみゆきすけであり高山たかやまは、田中たなかとともに車体しゃたい改良かいりょうをしたとかんがえられている。
  • 愛知あいち新聞しんぶん1872ねん11月31ごう))東京とうきょうはちまちほり 八百屋やおや音吉おときち
    • 斉藤さいとうちょ人力車じんりきしゃでは、音吉おときち=鈴木すずき徳次郎とくじろう可能かのうせい指摘してきしたうえで、「ニさん有志ゆうしシ」が和泉いずみ高山こうざんである可能かのうせい指摘してきしている。
  • 日本にっぽん工業こうぎょう文化ぶんか名古屋なごや与助よすけ
  • 官設かんせつ歴史れきし編纂へんさんしょ東大とうだい史料しりょう編纂へんさんしょ前身ぜんしん)から東京とうきょう府知事ふちじへの質問しつもんじょう1878ねん))小林こばやし要吉ようきち
    • 小林こばやし発明はつめいしたとされるが相違そういないかどうかの質問しつもんたいして、東京とうきょう勧業かんぎょうは、1869ねん和泉いずみかなめすけら3めい発明はつめい1873ねん12月に大蔵省おおくらしょう出願しゅつがんされたが専売せんばい特許とっきょあたえておらず、また小林こばやし発明はつめいしたというはなしいたことがいと回答かいとう
  • だい13かい帝国ていこく議会ぎかい速記そっきろく(1899ねん2がつ10日とおか西田にしだ虎次郎とらじろう
    • 京橋きょうばし区内くない酒井さかい善次郎ぜんじろうめいからの請願せいがんしょによれば、和泉いずみらではなく西田にしだこそがしん発明はつめいしゃであるとされた。
    • 建議けんぎあん提出ていしゅつしゃは、発明はつめいしゃ和泉いずみ補助ほじょしゃ高山たかやま鈴木すずき実地じっち製作せいさくしゃ西田にしだであるとした。建議けんぎあんにおいても「……およこうじん西田にしだ虎次郎とらじろう発明はつめいがかりリ」としるされている。
    • 1900ねん3がつ20日はつかしょうくんきょくからの下賜かしでは、西田にしだは、はずされている。
    • 1877ねん内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかい出品しゅっぴんされた人力車じんりきしゃにも「こうじん西田にしだ虎次郎とらじろう」とある。

日本にっぽんでの普及ふきゅう発明はつめい利益りえき

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博多はかたえきまえきゃくちする人力車じんりきしゃ
人力じんりき車夫しゃふ扮装ふんそうをした皇太子こうたいし時代じだいエドワード8せい (イギリスおう)。1922ねん

当時とうじ日本にっぽん発明はつめいされた人力車じんりきしゃは、それまで使つかわれていたかごよりはやかったのと、うまよりも人間にんげん労働ろうどうコストのほうがはるかにやすかったため、すぐに人気にんき交通こうつう手段しゅだんになった。明治めいじ4ねん旧暦きゅうれき12がつ人力車じんりきしゃかずは、東京とうきょう府下ふかで4まんだい京都きょうとすうじゅうだい静岡しずおか草津くさつ1だい[15]

1870ねん東京とうきょう発明はつめいしゃられる前記ぜんき3めい人力車じんりきしゃ製造せいぞう販売はんばい許可きょかあたえた。条件じょうけんとして人力車じんりきしゃ華美かびにしないこと、事故じここした場合ばあいには処罰しょばつするむねがあった。この許可きょかをもって「人力車じんりきしゃそう行司ぎょうじ」としょうした。人力車じんりきしゃあらたに購入こうにゅうする場合ばあいにはこの3めいいずれかから許可きょかをもらうこととなったが、後述こうじゅつのとおりすうねん有名ゆうめい無実むじつとなってしまう。同年どうねん人力車じんりきしゃ運転うんてん免許めんきょしょう発行はっこう開始かいしされている。

人力車じんりきしゃ安全あんぜんせいたかさと運賃うんちんやすさ、玄関げんかんさきまでとどけられるという小回こまわりのさが大衆たいしゅうけて急速きゅうそく普及ふきゅう[16]、1872ねんまでに、東京とうきょう市内しないに1まんだいあったかご完全かんぜん姿すがたし、ぎゃく人力車じんりきしゃは4まんだいまで増加ぞうかして、日本にっぽん代表だいひょうてき公共こうきょう輸送ゆそう機関きかんになった。これによりしょくうしなったかごかきいたるは、おおくが人力車じんりきしゃ車夫しゃふ転職てんしょくした。1876ねんには東京とうきょう府内ふないで2まん5038だい記録きろくされている[17]19世紀せいきすえ日本にっぽんには20まんだい人力車じんりきしゃがあったという[18]人力じんりき車夫しゃふ明治めいじ都市とし流民りゅうみんした下層かそう社会しゃかい細民さいみん主要しゅよう家業かぎょうとなり、明治めいじ20年代ねんだいには東京とうきょう市内しないに4まんにんあまり存在そんざいしたが、その都市とし交通こうつう発達はったつによりかず減少げんしょうさせていった[19]。また、人力じんりき車夫しゃふなかには女性じょせいもいたといわれている[16]初期しょき人力車じんりきしゃは、はこ車輪しゃりんけただけの単純たんじゅん構造こうぞうであったが、日進月歩にっしんげっぽ改良かいりょうされて、凸凹でこぼこどうでもえうるスプリングきの車輪しゃりん登場とうじょうするようになり、はゴムわり、その空気くうきりのゴムタイヤへと改良かいりょうされていった[16]

また、1870年代ねんだいなかばより中国ちゅうごく中心ちゅうしんとして東南とうなんアジアインドいたるアジア各地かくちへの輸出ゆしゅつはじまり、とく東京とうきょう銀座ぎんざ秋葉あきば商店しょうてんかまえた秋葉あきば大助だいすけはほろや泥除どろよけのある現在げんざいるような人力車じんりきしゃ考案こうあんし、性能せいのうたかぜいらした装飾そうしょくてき人力車じんりきしゃ制作せいさくし、そのおおくを輸出ゆしゅつしておおきなとみた。他方たほう当初とうしょ人力車じんりきしゃ製造せいぞう使用しよう許可きょかされた和泉いずみたちは激増げきぞうする車夫しゃふたちすべてから使用しようりょうることができず、また当時とうじ特許とっきょ制度せいど(「専売せんばいりゃく規則きそく」)の不備ふび使つかいにくさもあいまってほとんど利益りえきげることができなかった。この事実じじつが、のち日本にっぽん本格ほんかくてき特許とっきょ制度せいど誕生たんじょうをうながした。

日本にっぽんでは、1895ねん京都きょうと電気でんき鉄道てつどう開業かいぎょう皮切かわきりに、かく都市とし電車でんしゃ導入どうにゅうされた。首都しゅとけんでも1899ねん大師だいし電気でんき鉄道てつどうげん京急けいきゅう大師線だいしせん)が開業かいぎょうするが、人力じんりき車夫しゃふ反対はんたいにより部分ぶぶん開業かいぎょうとなった[20]東京とうきょうで1903ねん市電しでん開業かいぎょうに4まん3せんにんいた車夫しゃふは、2ねんには2まん6せんにんになり、人力車じんりきしゃ急速きゅうそく姿すがたしていった[21]。1903ねん6がつ12にち大阪おおさか人力じんりき車夫しゃふは、巡航じゅんこうせん市内しない河川かせん運航うんこう反対はんたいして休業きゅうぎょう土佐堀とさぼり青年せいねん会館かいかん集会しゅうかいひらき、一部いちぶ巡航じゅんこうせん襲撃しゅうげきした[22]大量たいりょう失業しつぎょう見舞みまわれた車夫しゃふは、1905ねん日比谷ひびや焼打やきうち事件じけんなど、この時期じき都市とし騒擾そうじょう市電しでんくなどの敵意てきいせた[21]。1908ねん4がつ上旬じょうじゅん警視庁けいしちょうろう車夫しゃふ鑑札かんさつ取上とりあげに反対はんたいする東京とうきょうろう車夫しゃふ救済きゅうさいかい結成けっせいされた[23]。1909ねん人力車じんりきしゃ車輪しゃりんがゴム車輪しゃりんとなり、賃借ちんしゃくりょう値上ねあがりし、くるま営業えいぎょうしている車夫しゃふ廃業はいぎょうがふえた[24]。1912ねん4-5月ころ、空気くうきタイヤ人力車じんりきしゃ登場とうじょうし、10月24にち新車しんしゃ高額こうがく賃借ちんしゃくりょうをおそれた車夫しゃふ300にん警視庁けいしちょう使用しよう制限せいげん嘆願たんがんした[25]。 1914ねん東京とうきょうえき竣工しゅんこうすると500だいゆうする組合くみあい結成けっせいされた。当時とうじえきからりたひと使つか唯一ゆいいつもの人力車じんりきしゃであっただけに、1人ひとりで1ヶ月かげつ200えんやく100ねん現代げんだいにおいて80まんえん前後ぜんこう)ほどの収入しゅうにゅうがあったことがつたわる[26]大正たいしょう時代じだいにはさらにタクシー出現しゅつげんし、人力車じんりきしゃ衰退すいたいちをかけた。大正たいしょう時代じだいには人力車じんりきしゃ姿すがたはほとんどえなくなった[16]

そのは、観光かんこう明治めいじ時代じだい文化ぶんかであった人力車じんりきしゃ復活ふっかつするうごきがて、観光かんこうきゃくけにサービスを提供ていきょうするようになった[16]

アジア各地かくちへの展開てんかい

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1880ねんころ人力車じんりきしゃインド導入どうにゅうされる。最初さいしょシムラー、20ねんおくれてコルカタ(=カルカッタ)にあらわれる。インドでは、まず中国人ちゅうごくじん運搬うんぱん装置そうち商人しょうにん使つかはじめた1914ねんにその中国人ちゅうごくじんたちが人力車じんりきしゃ乗物のりものとして使用しようできるように許可きょか申請しんせいした。

そのあとすぐに、人力車じんりきしゃ東南とうなんアジアおおくの大都市だいとしられるようになる。おおくの場合ばあい人力車じんりきしゃ運転うんてんしゅは、都市とし移住いじゅうしてきた地方ちほう労働ろうどうしゃ最初さいしょにありつく仕事しごとであった。

中国ちゅうごくでは日本にっぽんせい人力車じんりきしゃ爆発ばくはつてきひろまり、「つつみしゃ」「ようしゃ」の別名べつめいでもばれていた。さらに国産こくさん人力車じんりきしゃ工場こうじょう各地かくちてられ、全土ぜんど人力車じんりきしゃひろまった。上海しゃんはいには大小だいしょう100をえる人力車じんりきしゃ工場こうじょうがあったとされる。

法令ほうれい

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動力どうりょく

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日本にっぽん道路どうろ交通こうつうほうでは、人力車じんりきしゃけい車両しゃりょうあつかいである。ただし、電動でんどう内燃ないねん機関きかんきのものは、原則げんそくとして原動機げんどうきづけ自転車じてんしゃまたは自動車じどうしゃあつかいとなる。ただしそのなかでも、一定いってい基準きじゅんたす電動でんどう荷車にぐるまとうけい車両しゃりょうあつかいとなる。

電動でんどうアシスト人力車じんりきしゃなるものが開発かいはつされており、これもけい車両しゃりょうあつかいとなる(電動でんどうアシスト自転車じてんしゃことなり補助ほじょ動力どうりょく基準きじゅん規定きていがない。よって、人力じんりき割合わりあいが0%でも基準きじゅんたせばけい車両しゃりょうあつかいとなる)。

交通こうつう方法ほうほう

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原則げんそくとして車道しゃどう通行つうこうしなければならない。自転車じてんしゃ普通ふつう自転車じてんしゃあつかいではないため、歩道ほどう徐行じょこうないし通行つうこう自転車じてんしゃどう通行つうこうはできない。ただし路側ろそくたいじゅうせん歩行ほこうしゃよう路側ろそくたいのぞく)、車道しゃどう自転車じてんしゃレーンについては普通ふつう自転車じてんしゃ専用せんよう通行つうこうたいふくめ、通行つうこう適用てきようとなる。

その

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関連かんれん資料しりょう

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文学ぶんがく

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映画えいが

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書籍しょせき

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  • 鎌倉かまくらには青木あおきさんがいる 老舗しにせ人力車じんりきしゃ昭和しょうわから平成へいせいけぬける』青木あおきのぼるかたり)、有限ゆうげん会社かいしゃ1ミリ (2018/4/2)
  • 人力車じんりきしゃ研究けんきゅう齊藤さいとう俊彦としひこ三樹みき書房しょぼう (2014/6/1)
  • たましい人力車じんりきしゃ門司もじこうつなぐいのちいのち長尾ながおおさむこころざしくさむらぶんしゃ(2011/6/1)
  • 『シドモア日本にっぽん紀行きこう: 明治めいじ人力車じんりきしゃツアー』エリザ.R.シドモア、講談社こうだんしゃ (2002/3/8)

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 浅井あさいけんなんじみちみちがわかる辞典じてん』(初版しょはん日本にっぽん実業じつぎょう出版しゅっぱんしゃ、2001ねん11がつ10日とおかISBN 4-534-03315-X 
  • 江村えむら栄一えいいち, 中村なかむら政則まさのり, 青木あおき美智男みちお ほか『国権こっけん民権みんけん相剋そうこく三省堂さんせいどう日本にっぽん民衆みんしゅう歴史れきし〉、1974ねんNCID BN01003950https://iss.ndl.go.jp/books/R100000074-I000292650-00 
  • 斎藤さいとう俊彦としひこ人力車じんりきしゃ産業さんぎょう技術ぎじゅつセンター、1979ねんdoi:10.11501/12067288NCID BN00538147NDLJP:12067288 

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてん人力車じんりきしゃ
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