日本 にっぽん の人力車 じんりきしゃ (1897年 ねん )
人力車 じんりきしゃ (じんりきしゃ、人力 じんりき 俥 )とは、人 ひと の力 ちから で人 ひと を輸送 ゆそう するために設計 せっけい された車 くるま 。
日本 にっぽん では、主 おも に明治 めいじ ・大正 たいしょう 期 き に移動 いどう 手段 しゅだん とし用 もち いられた[ 1] 。現在 げんざい では「観光 かんこう 人力車 じんりきしゃ 」が観光 かんこう 地 ち などで使 つか われている[ 2] 。
フィンランド 、クオピオ の人力車 じんりきしゃ 。
車軸 しゃじく の両側 りょうがわ に1つずつ車輪 しゃりん を持 も ち、上 うえ に乗客 じょうきゃく が座 すわ る台座 だいざ と雨避 あまよ けとなる覆 おお いを備 そな え、台座 だいざ とつながれた柄 え を俥夫 (しゃふ)が曳 ひ いて進 すす む。一部 いちぶ には手押 てお し車 しゃ のように後 うし ろから押 お して進 すす む車 くるま もあった。
日本語 にほんご では、略 りゃく して人力 じんりき (じんりき)、力車 りきしゃ (りきしゃ)。車夫 しゃふ はまた車力 しゃりき (しゃりき)とも言 い った。また英語 えいご のRickshaw(リクショー)は「リキシャ」を語源 ごげん とする日本語 にほんご 由来 ゆらい の英単語 えいたんご 。
人力車 じんりきしゃ に関 かん する車 くるま の文字 もじ は全 すべ て俥 とも表記 ひょうき した。俥の字 じ は本来 ほんらい はシャンチー の駒 こま である「俥 (ヂィー)」に使 つか われるだけの漢字 かんじ であったが、明治 めいじ 以降 いこう の日本 にっぽん において中国 ちゅうごく にそのような漢字 かんじ があることに気付 きづ かずに、人力車 じんりきしゃ を表 あらわ すために作 つく られた国字 こくじ の一種 いっしゅ である(中国 ちゅうごく に元々 もともと あった漢字 かんじ の字体 じたい に暗合 あんごう したものであるので、正確 せいかく には国字 こくじ ではない)。そのため「俥」(くるま)一文字 ひともじ だけで人力車 じんりきしゃ を表 あらわ している。この他 ほか に、明治 めいじ 時代 じだい 頃 ごろ の表記 ひょうき では車 くるま 編 へん の右 みぎ 上 じょう に人 ひと を、その下 した に力 ちから を書 か いた合 ごう 字 じ を書 か く例 れい もあった[ 3] 。
人力車 じんりきしゃ には乗客 じょうきゃく が一人 ひとり 乗 の りのものや二人 ふたり 乗 の りのものなどがあるが、日本 にっぽん で普及 ふきゅう したのは一人 ひとり 乗 の りのものが圧倒的 あっとうてき に多 おお かった。また車夫 しゃふ は通常 つうじょう 1人 ひとり だが、特 とく に急 いそ ぎの場合 ばあい などは2人 ふたり 以上 いじょう で引 ひ いたり、時 とき には押 お したり、交代 こうたい 要員 よういん の車夫 しゃふ が併走 へいそう したりすることもあった。
1870年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん )和泉 いずみ 要 かなめ 助 すけ が発明 はつめい したと言 い われる。江戸 えど 時代 じだい 以前 いぜん には存在 そんざい せず、代 か わりに輿 こし や駕 が 籠 かご が使 つか われていた。馬車 ばしゃ や馬車 ばしゃ 鉄道 てつどう 、大砲 たいほう や荷車 にぐるま を曳 ひ かせる軍馬 ぐんば のために街道 かいどう の道路 どうろ 状況 じょうきょう が整地 せいち ・舗装 ほそう など整備 せいび され普及 ふきゅう した。その後 ご 、鉄道 てつどう 、自動車 じどうしゃ の普及 ふきゅう により、都市 とし 圏 けん では1926年 ねん 頃 ころ 、地方 ちほう でも1935年 ねん 頃 ころ をピークに減少 げんしょう し、戦後 せんご 、車両 しゃりょう の払底 ふってい ・燃料 ねんりょう 難 なん という事情 じじょう から僅 わず かに復活 ふっかつ したことがあるが、現在 げんざい では一般 いっぱん 的 てき な交通 こうつう ・運送 うんそう 手段 しゅだん としての人力車 じんりきしゃ は存在 そんざい していない。
東京 とうきょう 銀座 ぎんざ 7丁目 ちょうめ に、日本 にっぽん で唯一 ゆいいつ という芸者 げいしゃ 送迎 そうげい 専用 せんよう の人力車 じんりきしゃ の車 くるま 宿 やど 「日吉 ひよし 組 ぐみ 」がある[ 4] 。日吉 ひよし 組 ぐみ は旧 きゅう 地名 ちめい の日吉 ひよし 町 まち にちなんだ名 な で、所属 しょぞく の車夫 しゃふ ・久 ひさ は映画 えいが 『あげまん 』にも登場 とうじょう し、幌 ほろ で覆 おお われた一人 ひとり 用 よう の人力車 じんりきしゃ で芸者 げいしゃ を送 おく る場面 ばめん が描 えが かれた[ 5] 。
また、車椅子 くるまいす に着脱 ちゃくだつ 式 しき の持 も ち手 て を装着 そうちゃく して人力車 じんりきしゃ スタイルにし、障害 しょうがい 者 しゃ や高齢 こうれい 者 しゃ の移動 いどう を助 たす ける補助 ほじょ 装置 そうち が開発 かいはつ されている[ 6] 。
後述 こうじゅつ 「法令 ほうれい 」も参照 さんしょう 。軽 けい 車両 しゃりょう となるため歩道 ほどう 上 じょう や自転車 じてんしゃ 道 どう 上 じょう に駐 ちゅう 停車 ていしゃ はできない(東京 とうきょう 浅草 あさくさ の車道 しゃどう 上 じょう には人力車 じんりきしゃ 専用 せんよう の駐車 ちゅうしゃ スペースがあり駐車 ちゅうしゃ 禁止 きんし 除外 じょがい となっている)。
昭和 しょうわ 初期 しょき までは一般 いっぱん 的 てき に存在 そんざい した庶民 しょみん 的 てき な車両 しゃりょう であるため、交通 こうつう 博物館 はくぶつかん (2006年 ねん 5月14日 にち に移転 いてん の為 ため 閉鎖 へいさ )をはじめ、各地 かくち の博物館 はくぶつかん や資料 しりょう 館 かん などで保存 ほぞん されている。ただし、展示 てんじ されている人力車 じんりきしゃ には修復 しゅうふく されたものや展示 てんじ のために新 あら たに製造 せいぞう されたものもある。
現在 げんざい は主 おも に観光 かんこう 地 ち での遊覧 ゆうらん 目的 もくてき に営業 えいぎょう が行 おこな われている。人力車 じんりきしゃ を観光 かんこう に最初 さいしょ に用 もち いたのは1970年 ねん の飛騨高山 ひだたかやま のごくらく舎 しゃ である。後 のち に京都 きょうと や鎌倉 かまくら などでテレビ番組 ばんぐみ 等 とう で度々 たびたび 紹介 しょうかい されて、各地 かくち に普及 ふきゅう した。当初 とうしょ は京都 きょうと といった風雅 ふうが な街並 まちな みが残 のこ る観光 かんこう 地 ち 、又 また は浅草 あさくさ などの人力車 じんりきしゃ の似合 にあ う下町 したまち での営業 えいぎょう が始 はじ まり、次第 しだい に伊東 いとう 温泉 おんせん 、道後 どうご 温泉 おんせん といった温泉 おんせん 街 がい や、大正 たいしょう 時代 じだい 風 ふう などレトロ の街並 まちな みが残 のこ る門司 もじ 港 こう 、有名 ゆうめい 観光 かんこう 地 ち である中華 ちゅうか 街 がい などに広 ひろ がっていった。観光 かんこう 名所 めいしょ をコースで遊覧 ゆうらん し、車夫 しゃふ が観光 かんこう ガイドとして解説 かいせつ してくれるものが一般 いっぱん 的 てき である。車夫 しゃふ の服装 ふくそう は、腹掛 はらが けに股引 ももひ き法被 はっぴ というのが多 おお い。
現在 げんざい 、観光 かんこう 用 よう 人力車 じんりきしゃ の営業 えいぎょう が行 おこな われている地域 ちいき は以下 いか の通 とお りである。
観光 かんこう 人力車 じんりきしゃ の乗車 じょうしゃ 料金 りょうきん は10分 ふん 程度 ていど の移動 いどう 時間 じかん 中 ちゅう に観光 かんこう 案内 あんない を含 ふく めた初乗 はつの り運賃 うんちん が1人 ひとり 当 あ たり1000 - 2000円 えん から15分 ふん ・30分 ふん ・60分 ふん ・貸切 かしきり など様々 さまざま である。2人 ふたり 乗 の りのものに3人 にん 乗車 じょうしゃ することも可能 かのう であるが、相当 そうとう な重 おも さになることから、観光 かんこう 人力車 じんりきしゃ では料金 りょうきん を割 わ り増 ま しとするものが多 おお い。到着 とうちゃく した後 のち の観光 かんこう 客 きゃく への観光 かんこう 案内 あんない 時間 じかん 中 ちゅう の駐輪場 ちゅうりんじょう 所 しょ の整備 せいび 、客 きゃく 待 ま ち時 じ における待機 たいき 場所 ばしょ の整備 せいび が遅 おく れているといった課題 かだい がある。
観光 かんこう 人力車 じんりきしゃ の他 ほか 、結婚式 けっこんしき や祭 まつり などでの演出 えんしゅつ や、歌舞伎 かぶき 役者 やくしゃ の「お練 ね り」などに使用 しよう されることがある。
観光 かんこう 人力車 じんりきしゃ や博物館 はくぶつかん 展示 てんじ 用 よう の人力車 じんりきしゃ 製造 せいぞう が続 つづ けられている。製造 せいぞう 台数 だいすう の多 おお いメーカーとしては静岡 しずおか 県 けん 伊東 いとう 市 し の株式会社 かぶしきがいしゃ 升屋 ますや 製作所 せいさくしょ 。
コルカタのリキシャ 2004年 ねん 撮影 さつえい
1895年 ねん 上海 しゃんはい 、二人 ふたり の男性 だんせい が乗 の った一輪車 いちりんしゃ 。体重 たいじゅう が大 おお きな車輪 しゃりん に直接 ちょくせつ かかるメリットがあるものの、東 ひがし インド会社 かいしゃ の社員 しゃいん が記 しる した内容 ないよう によれば、バランスをとる必要 ひつよう があって危 あぶ ないと欠点 けってん を述 の べている[ 9] 。
アジア各国 かっこく へ輸出 ゆしゅつ され、特 とく にインドでは、明治 めいじ 40年代 ねんだい 、年間 ねんかん 1万 まん 台 だい が日本 にっぽん から輸出 ゆしゅつ され、リキシャ などの名前 なまえ で地元 じもと に根付 ねつ いていたものの、その後 ご 、多 おお くはサイクルリクシャー 、オートリクシャー に置 お き換 か えられた。
平安 へいあん 時代 じだい 以降 いこう 、貴族 きぞく が乗 の る人力 じんりき の輦車 、手車 てぐるま がある。これは車輪 しゃりん がついた篭 かご を前後 ぜんご の人間 にんげん の力 ちから で移動 いどう させるものである。その他 た 、肩 かた に担 かつ ぐ駕 が 籠 かご 、輿 こし でも運 はこ ばれた。
軺軒
1874年 ねん に日本 にっぽん から輸入 ゆにゅう された人力車 じんりきしゃ が運用 うんよう を開始 かいし した。広東 かんとん 語 ご 読 よ みして「人力車 じんりきしゃ ヤンリッチェー」と呼 よ んだ。1920年代 ねんだい には約 やく 2000台 だい が運用 うんよう されていた。
1980年代 ねんだい は、香港 ほんこん 島 とう 、九 きゅう 龍 りゅう 半島 はんとう のスターフェリー 乗 の り場 ば などに観光 かんこう 用 よう の人力車 じんりきしゃ があった。2013年 ねん の時点 じてん でライセンスは3名 めい が持 も っていたが、乗車 じょうしゃ は電話 でんわ 予約 よやく が必要 ひつよう であった。しかし、2021年 ねん 末 まつ に新型 しんがた コロナと車夫 しゃふ の高齢 こうれい 化 か (70歳 さい )による健康 けんこう 状態 じょうたい 悪化 あっか を理由 りゆう として、最後 さいご の一人 ひとり が廃業 はいぎょう した。本物 ほんもの の人力車 じんりきしゃ に代 か わって、香港 ほんこん 島 とう のスターフェリー乗 の り場 ば から市内 しない 観光 かんこう 路線 ろせん (H1)で、オープントップの二 に 階 かい 建 だ てバス に人力車 じんりきしゃ のデザインを取 と り入 い れた「人力車 じんりきしゃ 觀光 かんこう 巴 ともえ 士 し 」[ 10] というものがあり、人力車 じんりきしゃ と同 おな じような幌 ほろ が後方 こうほう に付 つ けられている。
1919年 ねん 、コルカタ 市 し が正式 せいしき な交通 こうつう 手段 しゅだん として認定 にんてい する。
1972年 ねん 以降 いこう 、コルカタではいくつかの通 とお りで人力車 じんりきしゃ が禁止 きんし された。
1982年 ねん 、市 し 当局 とうきょく は1万 まん 2000台 だい 以上 いじょう の人力車 じんりきしゃ を押収 おうしゅう し、廃棄 はいき した。
1992年 ねん の調査 ちょうさ では、3万 まん 台 だい 以上 いじょう の人力車 じんりきしゃ が営業 えいぎょう 中 ちゅう で、そのうち6000台 だい が違法 いほう 車両 しゃりょう や未 み 許可 きょか 車両 しゃりょう であった。
新 あたら しい許可 きょか は1945年 ねん 以降 いこう 出 だ されていない。
インドでは、しばしばリキシャはリクシャとも発音 はつおん される。人力車 じんりきしゃ の運転 うんてん 手 しゅ をリクシャワーラーまたはリクシャプーラーと言 い う。
料金 りょうきん は1回 かい の移動 いどう につき2、3ドルである。リクシャワーラーのほとんどは簡易 かんい な宿舎 しゅくしゃ に住 す み、仕送 しおく りをするために節約 せつやく している[ 11] 。
2005年 ねん 8月 がつ に西 にし ベンガル共産 きょうさん 政府 せいふ は完全 かんぜん に人力車 じんりきしゃ を締 し め出 だ す計画 けいかく を発表 はっぴょう したが、リクシャワーラーの抗議 こうぎ とストライキ に終始 しゅうし した[ 12] 。
2009年 ねん 現在 げんざい 、かなりの数 かず の人力車 じんりきしゃ がコルカタにまだ残 のこ っており、約 やく 8000台 だい 、2万 まん 人 にん の車夫 しゃふ がいるとされる。リクシャワーラーの組合 くみあい は、人力車 じんりきしゃ の禁止 きんし に強 つよ く反対 はんたい している。
「孔子 こうし 問答 もんどう ‧小兒 しょうに 論 ろん 」(1680年 ねん )の挿絵 さしえ
20世紀 せいき 初頭 しょとう のニュージャージー州 しゅう 。当時 とうじ の富裕 ふゆう 層 そう は、障害 しょうがい とは関係 かんけい なく、車椅子 くるまいす に乗 の って、それを召使 めしつか いに押 お させる事 こと があった。
タイコーサマ
Les Deux Carrosses by Claude Gillot, 1707
人力車 じんりきしゃ 日本 にっぽん 、1886年 ねん シルバープリントに彩色 さいしき 。
人力車 じんりきしゃ 日本 にっぽん 、1897年 ねん
16世紀 せいき に中国 ちゅうごく で書 か かれた『三国志 さんごくし 演義 えんぎ 』では、椅子 いす を備 そな えた手押 てお し車 しゃ に乗 の った諸 しょ 葛 かずら 亮 あきら が描 えが かれているという。オランダ 人 ひと 作家 さっか アルノルドゥス・モンタヌス による1669年 ねん の著書 ちょしょ でも日本 にっぽん を描 えが いた絵 え の中 なか に、「タイコーサマ」なる女性 じょせい が諸 しょ 葛 かずら 亮 あきら 同様 どうよう の手押 てお し車 しゃ に乗 の っているものがある。それが日本 にっぽん に実在 じつざい していたものかは不明 ふめい だが、その頃 ころ までには人力車 じんりきしゃ の様 よう なものの存在 そんざい が欧州 おうしゅう には伝 つた わっていた事 こと が窺 うかが える。
1707年 ねん にフランス 人 ひと 画家 がか クロード・ジロー (Claude Gillot )が発表 はっぴょう した「Les Deux Carrosses」(直訳 ちょくやく :「二 に 台 だい の車 くるま 」)には、後 ご の人力車 じんりきしゃ によく似 に た乗 の り物 もの が描 えが かれている。他 た 、ヨーロッパやアメリカでは、日本 にっぽん のように複数 ふくすう 人 じん を載 の せるものではなかったが、富裕 ふゆう 層 そう が車椅子 くるまいす に乗 の り、召使 めしつか いに押 お させるなどしていた。
明治 めいじ 初年 しょねん (ほぼ1868年 ねん )のものとして、外国 がいこく 人 じん が乗 の り車夫 しゃふ が日本人 にっぽんじん と見 み える人力車 じんりきしゃ が静岡 しずおか の田子 たご の浦 うら 橋上 はしがみ にいる写真 しゃしん が、ドイツ のボン大学 だいがく に保存 ほぞん されていることがわかった[ 13] 。
自動車 じどうしゃ の普及 ふきゅう と共 とも に日本 にっぽん では廃 すた れて行 い き、他 た の地域 ちいき でも自転車 じてんしゃ を使 つか ったサイクルリクシャー や、オートバイを使 つか ったオートリクシャー に置 お き換 か えられて行 い った。
1848年 ねん 頃 ころ にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の鍛冶 たんや 職人 しょくにん アルバート・トルマン (Albert Tolman)によって宣教師 せんきょうし の乗 の り物 もの としてウースター で作 つく られたという説 せつ 、1869年 ねん 頃 ころ に来日 らいにち アメリカ人 じん 宣教師 せんきょうし ジョナサン・ゴーブル (またはジョナサン・スコビー (Jonathan Scobie))が病弱 びょうじゃく の妻 つま の為 ため に考案 こうあん して横浜 よこはま で使 つか っていたという説 せつ もあるが、記録 きろく 上 じょう では日本 にっぽん の和泉 いずみ 要 かなめ 助 すけ 、高山 たかやま 幸 みゆき 助 すけ 、鈴木 すずき 徳次郎 とくじろう の3名 めい が発明 はつめい 者 しゃ として明治 めいじ 政府 せいふ から認定 にんてい されている[ 14] 。3名 めい は東京 とうきょう で見 み た馬車 ばしゃ から着想 ちゃくそう を得 え て1869年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん )に人力車 じんりきしゃ を完成 かんせい させ、翌年 よくねん 1869年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん )に日本橋 にほんばし で開業 かいぎょう したとされる。
ただし、1899年 ねん 2月 がつ 10日 とおか の第 だい 13回 かい 帝国 ていこく 議会 ぎかい (衆議院 しゅうぎいん )では「人力車 じんりきしゃ 発明 はつめい 人 じん ニ年金 ねんきん 給与 きゅうよ ノ建議 けんぎ 案 あん 」が提出 ていしゅつ されていたが和泉 いずみ らが発明 はつめい 者 しゃ かどうかで議論 ぎろん となっていた。これは「何 なに を人力車 じんりきしゃ とするか」の争点 そうてん もあったが当時 とうじ 、多 おお くの山師 やまし 達 いたる も含 ふく めた自称 じしょう 者 しゃ が多 おお かったためでもある。前後 ぜんご するが1895年 ねん 3月 がつ にも、都 と 新聞 しんぶん 論説 ろんせつ において、発明 はつめい 人 じん に対 たい する議論 ぎろん があがっている。
様々 さまざま な文献 ぶんけん からの発明 はつめい 者 しゃ と、それに対 たい する意見 いけん を述 の べた文献 ぶんけん 、資料 しりょう 、事実 じじつ を、次 つぎ に記 しる す。
(各種 かくしゅ 出願 しゅつがん )和泉 いずみ 要 かなめ 助 すけ 、他 た 2名 めい
(都 と 新聞 しんぶん 投書 とうしょ )広瀬 ひろせ 某 ぼう
明治 めいじ 事物 じぶつ 起源 きげん では、発明 はつめい 者 しゃ を詐称 さしょう した山師 やまし であろうと考 かんが えられている。
(都 と 新聞 しんぶん 投書 とうしょ )高山 たかやま 幸 みゆき 、鈴木 すずき 徳 いさお (=油屋 あぶらや 徳 とく 右 みぎ 衛門 えもん )
日本 にっぽん 工業 こうぎょう 文化 ぶんか 史 し では、松兵衛 まつべえ の小 しょう 車 くるま を改良 かいりょう したものであると考 かんが えられている。
(工業 こうぎょう 志 こころざし 料 りょう )幸 さいわい 助 すけ (車 くるま 工 こう )、田中 たなか 古 こ 朴 ほお による共同 きょうどう 発明 はつめい
横浜 よこはま 沿革 えんかく 誌 し では、これを、引用 いんよう している。
斉藤 さいとう 著 ちょ 人力車 じんりきしゃ では、幸 さいわい 助 すけ =高山 たかやま 幸 みゆき 助 すけ であり高山 たかやま は、田中 たなか とともに車体 しゃたい 改良 かいりょう をしたと考 かんが えられている。
(愛知 あいち 新聞 しんぶん (1872年 ねん 11月31号 ごう ))東京 とうきょう 八 はち 町 まち 堀 ほり 八百屋 やおや の音吉 おときち
斉藤 さいとう 著 ちょ 人力車 じんりきしゃ では、音吉 おときち =鈴木 すずき 徳次郎 とくじろう の可能 かのう 性 せい を指摘 してき した上 うえ で、「ニ三 さん 有志 ゆうし ト議 ぎ シ」が和泉 いずみ 、高山 こうざん である可能 かのう 性 せい を指摘 してき している。
(日本 にっぽん 工業 こうぎょう 文化 ぶんか 史 し )名古屋 なごや の与助 よすけ
(官設 かんせつ 歴史 れきし 編纂 へんさん 所 しょ (東大 とうだい 史料 しりょう 編纂 へんさん 所 しょ の前身 ぜんしん )から東京 とうきょう 府知事 ふちじ への質問 しつもん 状 じょう (1878年 ねん ))小林 こばやし 要吉 ようきち
小林 こばやし が発明 はつめい したとされるが相違 そうい ないかどうかの質問 しつもん に対 たい して、東京 とうきょう 府 ふ 勧業 かんぎょう 課 か は、1869年 ねん に和泉 いずみ 要 かなめ 助 すけ ら3名 めい が発明 はつめい 。1873年 ねん 12月に大蔵省 おおくらしょう に出願 しゅつがん されたが専売 せんばい 特許 とっきょ を与 あた えておらず、また小林 こばやし が発明 はつめい したという話 はなし は聞 き いたことが無 な いと回答 かいとう 。
第 だい 13回 かい 帝国 ていこく 議会 ぎかい 速記 そっき 録 ろく (1899年 ねん 2月 がつ 10日 とおか )西田 にしだ 虎次郎 とらじろう
京橋 きょうばし 区内 くない の酒井 さかい 善次郎 ぜんじろう 他 た 五 ご 名 めい からの請願 せいがん 書 しょ によれば、和泉 いずみ らではなく西田 にしだ こそが真 しん の発明 はつめい 者 しゃ であるとされた。
建議 けんぎ 案 あん 提出 ていしゅつ 者 しゃ は、発明 はつめい 者 しゃ が和泉 いずみ 。補助 ほじょ 者 しゃ が高山 たかやま 、鈴木 すずき 。実地 じっち 製作 せいさく 者 しゃ が西田 にしだ であるとした。建議 けんぎ 案 あん においても「……及 およ び工 こう 人 じん 西田 にしだ 虎次郎 とらじろう ノ発明 はつめい ニ係 がかり リ」と記 しる されている。
1900年 ねん 3月 がつ 20日 はつか の賞 しょう 勲 くん 局 きょく からの下賜 かし では、西田 にしだ は、外 はず されている。
1877年 ねん の内国 ないこく 勧業 かんぎょう 博覧 はくらん 会 かい に出品 しゅっぴん された人力車 じんりきしゃ にも「工 こう 人 じん ・西田 にしだ 虎次郎 とらじろう 」とある。
日本 にっぽん での普及 ふきゅう と発明 はつめい の利益 りえき [ 編集 へんしゅう ]
博多 はかた 駅 えき 前 まえ で客 きゃく 待 ま ちする人力車 じんりきしゃ
人力 じんりき 車夫 しゃふ の扮装 ふんそう をした皇太子 こうたいし 時代 じだい のエドワード8世 せい (イギリス王 おう ) 。1922年 ねん
当時 とうじ の日本 にっぽん で発明 はつめい された人力車 じんりきしゃ は、それまで使 つか われていた駕 が 籠 かご より速 はや かったのと、馬 うま よりも人間 にんげん の労働 ろうどう コストのほうがはるかに安 やす かったため、すぐに人気 にんき の交通 こうつう 手段 しゅだん になった。明治 めいじ 4年 ねん 旧暦 きゅうれき 12月 がつ 、人力車 じんりきしゃ の数 かず は、東京 とうきょう 府下 ふか で4万 まん 台 だい 、京都 きょうと 数 すう 十 じゅう 台 だい 、静岡 しずおか ・草津 くさつ 1台 だい [ 15] 。
1870年 ねん 、東京 とうきょう 府 ふ は発明 はつめい 者 しゃ と見 み られる前記 ぜんき 3名 めい に人力車 じんりきしゃ の製造 せいぞう と販売 はんばい の許可 きょか を与 あた えた。条件 じょうけん として人力車 じんりきしゃ は華美 かび にしないこと、事故 じこ を起 お こした場合 ばあい には処罰 しょばつ する旨 むね があった。この許可 きょか をもって「人力車 じんりきしゃ 総 そう 行司 ぎょうじ 」と称 しょう した。人力車 じんりきしゃ を新 あら たに購入 こうにゅう する場合 ばあい にはこの3名 めい の何 いず れかから許可 きょか をもらうこととなったが、後述 こうじゅつ のとおり数 すう 年 ねん で有名 ゆうめい 無実 むじつ となってしまう。同年 どうねん 、人力車 じんりきしゃ の運転 うんてん 免許 めんきょ 証 しょう の発行 はっこう が開始 かいし されている。
人力車 じんりきしゃ は安全 あんぜん 性 せい の高 たか さと運賃 うんちん の安 やす さ、玄関 げんかん 先 さき まで届 とど けられるという小回 こまわ りの良 よ さが大衆 たいしゅう に受 う けて急速 きゅうそく に普及 ふきゅう し、1872年 ねん までに、東京 とうきょう 市内 しない に1万 まん 台 だい あった駕 が 籠 かご は完全 かんぜん に姿 すがた を消 け し、逆 ぎゃく に人力車 じんりきしゃ は4万 まん 台 だい まで増加 ぞうか して、日本 にっぽん の代表 だいひょう 的 てき な公共 こうきょう 輸送 ゆそう 機関 きかん になった。これにより職 しょく を失 うしな った駕 が 籠 かご かき達 いたる は、多 おお くが人力車 じんりきしゃ の車夫 しゃふ に転職 てんしょく した。1876年 ねん には東京 とうきょう 府内 ふない で2万 まん 5038台 だい と記録 きろく されている[ 17] 。19世紀 せいき 末 すえ の日本 にっぽん には20万 まん 台 だい を越 こ す人力車 じんりきしゃ があったという[ 18] 。人力 じんりき 車夫 しゃふ は明治 めいじ 期 き 都市 とし に流民 りゅうみん した下層 かそう 社会 しゃかい の細民 さいみん の主要 しゅよう な家業 かぎょう となり、明治 めいじ 20年代 ねんだい には東京 とうきょう 市内 しない に4万 まん 人 にん 余 あまり も存在 そんざい したが、その後 ご 都市 とし 交通 こうつう の発達 はったつ により数 かず を減少 げんしょう させていった[ 19] 。また、人力 じんりき 車夫 しゃふ の中 なか には女性 じょせい もいたといわれている。初期 しょき の人力車 じんりきしゃ は、箱 はこ に車輪 しゃりん を取 と り付 つ けただけの単純 たんじゅん な構造 こうぞう であったが、日進月歩 にっしんげっぽ で改良 かいりょう されて、凸凹 でこぼこ 道 どう でも耐 た えうるスプリング付 つ きの車輪 しゃりん が登場 とうじょう するようになり、木 き 輪 わ はゴム輪 わ に変 か わり、その後 ご 空気 くうき 入 い りのゴムタイヤへと改良 かいりょう されていった。
また、1870年代 ねんだい 半 なか ばより中国 ちゅうごく を中心 ちゅうしん として東南 とうなん アジア やインド に至 いた るアジア各地 かくち への輸出 ゆしゅつ が始 はじ まり、特 とく に東京 とうきょう 銀座 ぎんざ に秋葉 あきば 商店 しょうてん を構 かま えた秋葉 あきば 大助 だいすけ はほろや泥除 どろよ けのある現在 げんざい 見 み るような人力車 じんりきしゃ を考案 こうあん し、性能 せいのう を高 たか め贅 ぜい を凝 こ らした装飾 そうしょく 的 てき な人力車 じんりきしゃ を制作 せいさく し、その多 おお くを輸出 ゆしゅつ して大 おお きな富 とみ を得 え た。他方 たほう 、当初 とうしょ 人力車 じんりきしゃ の製造 せいぞう と使用 しよう を許可 きょか された和泉 いずみ たちは激増 げきぞう する車夫 しゃふ たちすべてから使用 しよう 料 りょう を取 と ることができず、また当時 とうじ の特許 とっきょ 制度 せいど (「専売 せんばい 略 りゃく 規則 きそく 」)の不備 ふび ・使 つか いにくさもあいまってほとんど利益 りえき を上 あ げることができなかった。この事実 じじつ が、後 のち に日本 にっぽん に本格 ほんかく 的 てき な特許 とっきょ 制度 せいど の誕生 たんじょう をうながした。
日本 にっぽん では、1895年 ねん の京都 きょうと 電気 でんき 鉄道 てつどう 開業 かいぎょう を皮切 かわき りに、各 かく 都市 とし で電車 でんしゃ が導入 どうにゅう された。首都 しゅと 圏 けん でも1899年 ねん に大師 だいし 電気 でんき 鉄道 てつどう (現 げん 京急 けいきゅう 大師線 だいしせん )が開業 かいぎょう するが、人力 じんりき 車夫 しゃふ の反対 はんたい により部分 ぶぶん 開業 かいぎょう となった[ 20] 。東京 とうきょう で1903年 ねん の市電 しでん 開業 かいぎょう 時 じ に4万 まん 3千 せん 人 にん いた車夫 しゃふ は、2年 ねん 後 ご には2万 まん 6千 せん 人 にん になり、人力車 じんりきしゃ は急速 きゅうそく に姿 すがた を消 け していった[ 21] 。1903年 ねん 6月 がつ 12日 にち 、大阪 おおさか の人力 じんりき 車夫 しゃふ は、巡航 じゅんこう 船 せん の市内 しない 河川 かせん 運航 うんこう に反対 はんたい して休業 きゅうぎょう 、土佐堀 とさぼり 青年 せいねん 会館 かいかん で集会 しゅうかい を開 ひら き、一部 いちぶ は巡航 じゅんこう 船 せん を襲撃 しゅうげき した[ 22] 。大量 たいりょう 失業 しつぎょう に見舞 みま われた車夫 しゃふ は、1905年 ねん の日比谷 ひびや 焼打 やきうち 事件 じけん など、この時期 じき の都市 とし 騒擾 そうじょう で市電 しでん を焼 や くなどの敵意 てきい を見 み せた[ 21] 。1908年 ねん 4月 がつ 上旬 じょうじゅん 、警視庁 けいしちょう の老 ろう 車夫 しゃふ 鑑札 かんさつ 取上 とりあ げに反対 はんたい する東京 とうきょう 老 ろう 車夫 しゃふ 救済 きゅうさい 会 かい が結成 けっせい された[ 23] 。1909年 ねん 、人力車 じんりきしゃ の車輪 しゃりん がゴム車輪 しゃりん となり、賃借 ちんしゃく 料 りょう が値上 ねあ がりし、借 か 車 くるま で営業 えいぎょう している車夫 しゃふ の廃業 はいぎょう がふえた[ 24] 。1912年 ねん 4-5月ころ、空気 くうき タイヤ人力車 じんりきしゃ が登場 とうじょう し、10月24日 にち 、新車 しんしゃ の高額 こうがく 賃借 ちんしゃく 料 りょう をおそれた車夫 しゃふ 300人 にん が警視庁 けいしちょう に使用 しよう 制限 せいげん を嘆願 たんがん した[ 25] 。
1914年 ねん 、東京 とうきょう 駅 えき が竣工 しゅんこう すると500台 だい を有 ゆう する組合 くみあい が結成 けっせい された。当時 とうじ は駅 えき から降 お りた人 ひと が使 つか う唯一 ゆいいつ の乗 の り物 もの が人力車 じんりきしゃ であっただけに、1人 ひとり で1ヶ月 かげつ 200円 えん (約 やく 100年 ねん 後 ご の現代 げんだい において80万 まん 円 えん 前後 ぜんこう )ほどの収入 しゅうにゅう があったことが伝 つた わる[ 26] 。
大正 たいしょう 時代 じだい にはさらにタクシー が出現 しゅつげん し、人力車 じんりきしゃ の衰退 すいたい に追 お い打 う ちをかけた。大正 たいしょう 時代 じだい には人力車 じんりきしゃ の姿 すがた はほとんど見 み えなくなった。
その後 ご は、観光 かんこう 地 ち で明治 めいじ 時代 じだい の文化 ぶんか であった人力車 じんりきしゃ を復活 ふっかつ する動 うご きが出 で て、観光 かんこう 客 きゃく 向 む けにサービスを提供 ていきょう するようになった。
1880年 ねん 頃 ころ 、人力車 じんりきしゃ はインド に導入 どうにゅう される。最初 さいしょ はシムラー 、20年 ねん 遅 おく れてコルカタ (=カルカッタ)に現 あらわ れる。インドでは、まず中国人 ちゅうごくじん の運搬 うんぱん 装置 そうち の商人 しょうにん が使 つか い始 はじ めた1914年 ねん にその中国人 ちゅうごくじん たちが人力車 じんりきしゃ を乗物 のりもの として使用 しよう できるように許可 きょか を申請 しんせい した。
そのあとすぐに、人力車 じんりきしゃ は東南 とうなん アジア の多 おお くの大都市 だいとし で見 み られるようになる。多 おお くの場合 ばあい 、人力車 じんりきしゃ の運転 うんてん 手 しゅ は、都市 とし に移住 いじゅう してきた地方 ちほう 労働 ろうどう 者 しゃ の最初 さいしょ にありつく仕事 しごと であった。
中国 ちゅうごく では日本 にっぽん 製 せい の人力車 じんりきしゃ が爆発 ばくはつ 的 てき に広 ひろ まり、「黄 き 包 つつみ 車 しゃ 」「洋 よう 車 しゃ 」の別名 べつめい でも呼 よ ばれていた。さらに国産 こくさん の人力車 じんりきしゃ 工場 こうじょう が各地 かくち に建 た てられ、全土 ぜんど に人力車 じんりきしゃ が広 ひろ まった。上海 しゃんはい には大小 だいしょう 100を超 こ える人力車 じんりきしゃ 工場 こうじょう があったとされる。
日本 にっぽん の道路 どうろ 交通 こうつう 法 ほう では、人力車 じんりきしゃ は軽 けい 車両 しゃりょう の扱 あつか いである。ただし、電動 でんどう 機 き や内燃 ないねん 機関 きかん 付 つ きのものは、原則 げんそく として原動機 げんどうき 付 づけ 自転車 じてんしゃ または自動車 じどうしゃ 扱 あつか いとなる。ただしその中 なか でも、一定 いってい の基準 きじゅん を満 み たす電動 でんどう 荷車 にぐるま 等 とう は軽 けい 車両 しゃりょう 扱 あつか いとなる。
電動 でんどう アシスト人力車 じんりきしゃ なるものが開発 かいはつ されており、これも軽 けい 車両 しゃりょう 扱 あつか いとなる(電動 でんどう アシスト自転車 じてんしゃ と異 こと なり補助 ほじょ 動力 どうりょく 基準 きじゅん は規定 きてい がない。よって、人力 じんりき の割合 わりあい が0%でも基準 きじゅん を満 み たせば軽 けい 車両 しゃりょう 扱 あつか いとなる)。
原則 げんそく として車道 しゃどう を通行 つうこう しなければならない。自転車 じてんしゃ や普通 ふつう 自転車 じてんしゃ 扱 あつか いではないため、歩道 ほどう の徐行 じょこう ないし通行 つうこう 、自転車 じてんしゃ 道 どう の通行 つうこう はできない。ただし路側 ろそく 帯 たい (二 に 重 じゅう 線 せん の歩行 ほこう 者 しゃ 用 よう 路側 ろそく 帯 たい を除 のぞ く)、車道 しゃどう の自転車 じてんしゃ レーン については普通 ふつう 自転車 じてんしゃ 専用 せんよう 通行 つうこう 帯 たい も含 ふく め、通行 つうこう 適用 てきよう となる。
『鎌倉 かまくら には青木 あおき さんがいる 老舗 しにせ 人力車 じんりきしゃ 、昭和 しょうわ から平成 へいせい を駆 か けぬける』青木 あおき 登 のぼる (語 かた り)、有限 ゆうげん 会社 かいしゃ 1ミリ (2018/4/2)
『人力車 じんりきしゃ の研究 けんきゅう 』齊藤 さいとう 俊彦 としひこ 、三樹 みき 書房 しょぼう (2014/6/1)
『魂 たましい の人力車 じんりきしゃ ー門司 もじ 港 こう つなぐ命 いのち と受 う け継 つ ぐ命 いのち 』長尾 ながお 修 おさむ 志 こころざし 、叢 くさむら 文 ぶん 社 しゃ (2011/6/1)
『シドモア日本 にっぽん 紀行 きこう : 明治 めいじ の人力車 じんりきしゃ ツアー』エリザ.R.シドモア、講談社 こうだんしゃ (2002/3/8)
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