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陸軍りくぐん飛行ひこう戦隊せんたい

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飛行ひこう戦隊せんたいから転送てんそう

飛行ひこう戦隊せんたい(ひこうせんたい、きゅう字体じたい飛行ひこう戰隊せんたい󠄁)は、陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいこと大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいにおける部隊ぶたい編制へんせい単位たんいひとつ。通称つうしょう戦隊せんたい帝国ていこく陸軍りくぐんにおける軍隊ぐんたい符号ふごうちゅう略字りゃくじFRないしF

1930年代ねんだい後半こうはん従来じゅうらい飛行ひこう連隊れんたいから飛行ひこう戦隊せんたい改編かいへんされて以降いこうささえ事変じへんにちちゅう戦争せんそう)・ノモンハン事件じけん太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)を敗戦はいせんいたるまで、陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい(ほかに陸軍りくぐん航空こうくうたいりく空軍くうぐん空軍くうぐんりくわしとも呼称こしょう)において中核ちゅうかくとなる実戦じっせん部隊ぶたい編制へんせい単位たんいであった。

なお、「飛行ひこう戦隊せんたい」はあくまで「陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい」において基本きほんとなった「編制へんせい単位たんい」であり、「陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい自体じたいにはほかにも独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたいといったかく飛行ひこう部隊ぶたい」が多数たすう存在そんざいしている。そのため、「帝国ていこく陸軍りくぐん航空こうくう戦力せんりょく自体じたい」をしめ場合ばあいは「陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい」と呼称こしょうすることが適当てきとうとなるほんこうでは「飛行ひこう戦隊せんたい」のみならず関連かんれん部隊ぶたいなど、「陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい自体じたいについて詳述しょうじゅつする。

沿革えんかく

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飛行ひこうだい5連隊れんたいにて編成へんせいされ戦地せんち従軍じゅうぐんちゅう飛行ひこうだい2大隊だいたいだい1中隊ちゅうたい中隊ちゅうたいちょう加藤かとう建夫たけお大尉たいい、1938ねん5がつ)。1938ねん8がつ1にち飛行ひこうだい2大隊だいたいだい1中隊ちゅうたいだい2中隊ちゅうたい独立どくりつ飛行ひこうだい9中隊ちゅうたい飛行ひこうだい6連隊れんたいにて編成へんせい)の3中隊ちゅうたい合同ごうどうして飛行ひこうだい64戦隊せんたい編成へんせいされた

日本にっぽんぐん航空こうくう部隊ぶたいは、観測かんそく気球ききゅう装備そうび運用うんよう目的もくてきとし1904ねん明治めいじ37ねん)に編成へんせいされ同年どうねんにち戦争せんそう従事じゅうじした臨時りんじ気球ききゅうたい原点げんてんとする。これはよく1905ねん明治めいじ38ねん)に気球ききゅうはんとなり、さらに1907ねん明治めいじ40ねん)には気球ききゅうたい改編かいへんされ交通こうつうへい旅団りょだん隷下れいかとなった。

飛行機ひこうき編成へんせいされた実戦じっせん部隊ぶたいとしては、だいいち世界せかい大戦たいせんにちどく戦争せんそうした1914ねん大正たいしょう3ねん)の青島ちんたおたたかはじめて実戦じっせん投入とうにゅうされた臨時りんじ航空こうくうたい青島ちんたお派遣はけん航空こうくうたい)が日本にっぽん陸海りくかいぐんはつ実戦じっせん飛行ひこう部隊ぶたいとなる。1915ねん大正たいしょう4ねん)12がつ10日とおかには臨時りんじでない常設じょうせつ飛行ひこう部隊ぶたいとして、日本にっぽん航空こうくう発祥はっしょうである所沢ところざわ陸軍りくぐん飛行場ひこうじょうにて航空こうくう大隊だいたい編成へんせいされ、1917ねん大正たいしょう6ねん)にはけい6大隊だいたい保有ほゆうしていた。1919ねん大正たいしょう8ねん)に官衙かんがたる陸軍りくぐん航空こうくう設立せつりつ1925ねん大正たいしょう14ねん)に陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶ昇格しょうかくし、同時どうじ航空こうくう兵科へいか独立どくりつした[註 1]

1920年代ねんだいから航空こうくう部隊ぶたいさらなる拡張かくちょうはじめていた帝国ていこく陸軍りくぐんは、1922ねん大正たいしょう11ねん)に従来じゅうらい航空こうくう大隊だいたい飛行ひこう大隊だいたい改称かいしょう、さらに1925ねんには飛行ひこう連隊れんたい(FR)に昇格しょうかくされ1930ねん昭和しょうわ5ねん)にはけい8連隊れんたいおよび気球ききゅうたい保有ほゆうしていた。実戦じっせん飛行ひこう部隊ぶたいとしては飛行ひこう連隊れんたいそのものが出征しゅっせいするのではなく、飛行ひこう連隊れんたいない編成へんせいされた飛行ひこう大隊だいたいないし独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたい(Fcs)が動員どういんされる。

1930年代ねんだい後半こうはんソビエト赤軍せきぐん赤色あかいろ空軍くうぐん)を仮想かそうてきとした研究けんきゅうなかで、航空こうくう兵力へいりょくおぎな効率こうりつてき航空こうくう部隊ぶたい運用うんようほうとして空地くうち分離ぶんり方式ほうしき検討けんとうされた。これは従来じゅうらい飛行ひこう連隊れんたいから整備せいび補給ほきゅうなどの支援しえん部門ぶもん)をはなし、飛行ひこう部門ぶもんそら)だけを高速こうそく前線ぜんせん基地きち展開てんかいさせるという構想こうそうである。この構想こうそう実現じつげんするために1937ねん昭和しょうわ12ねん)から満州まんしゅう所在しょざい飛行ひこう連隊れんたい空地くうち分離ぶんりすすめられ、飛行ひこう部門ぶもん飛行ひこう戦隊せんたいFR / F)と、支援しえん部門ぶもん飛行場ひこうじょう大隊だいたい(ab)が編成へんせいされた。日本にっぽん本土ほんど飛行ひこう連隊れんたいについても飛行ひこう戦隊せんたい飛行場ひこうじょう大隊だいたいへの改編かいへんおこなわれたが、本土ほんど部隊ぶたい固定こていてき防空ぼうくう任務にんむ予定よていしていたために、かく飛行ひこう戦隊せんたい隷下れいか飛行場ひこうじょう大隊だいたいかれ、従来じゅうらい実質じっしつ変化へんかしなかった(内地ないちがた戦隊せんたい)。教育きょういく飛行ひこう部隊ぶたいについては飛行ひこう戦隊せんたい編制へんせい基本きほんもちいられず、教育きょういく飛行ひこう連隊れんたい(1944ねん前後ぜんこうより教育きょういく飛行ひこうたい改称かいしょう)が基本きほん単位たんいだった。

1938ねん昭和しょうわ13ねん)には陸軍りくぐん航空こうくう総監そうかん設置せっちされ(航空こうくう総監そうかん以下いか部員ぶいん陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶけん)、同年どうねん分離ぶんり独立どくりつした陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう筆頭ひっとうとする航空こうくう関連かんれん学校がっこう管轄かんかつした。

太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんにはけい46戦隊せんたいゆうしており、大戦たいせんちゅう1943ねん昭和しょうわ18ねん)にも空地くうち分離ぶんり改良かいりょうおこなわれたが(#編制へんせい)、飛行ひこう戦隊せんたい編制へんせい変化へんかはありつつも陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい基本きほんてき部隊ぶたい単位たんいとして維持いじされ、敗戦はいせんまでにはけい92戦隊せんたいのぼった。

なお、帝国ていこく陸軍りくぐん空挺くうてい部隊ぶたい落下傘らっかさん部隊ぶたい)である挺進ていしんだん隷下れいか挺進ていしん連隊れんたい滑空かっくう歩兵ほへい連隊れんたいなど)では、挺進ていしんへい輸送ゆそうグライダー曳航えいこうおこな飛行ひこう部隊ぶたいとして、挺進ていしん飛行ひこう戦隊せんたい(RFR)・滑空かっくう飛行ひこう戦隊せんたい(KFR)が編成へんせいされともに挺進ていしん飛行ひこうだんRFB)にぞくし、1944ねんまつにはだい1挺進ていしん集団しゅうだん隷属れいぞくした。

編制へんせい

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飛行ひこう戦隊せんたい編制へんせいとして、部隊ぶたいちょうたる戦隊せんたいちょう在籍ざいせきする本部ほんぶ戦隊せんたい本部ほんぶ)を筆頭ひっとうに、基本きほんは3中隊ちゅうたいFc飛行ひこう中隊ちゅうたい[註 2] から構成こうせいされ、本部ほんぶ戦隊せんたいちょう)は飛行場ひこうじょう大隊だいたい隷下れいか中間ちゅうかん整備せいび担当たんとうする整備せいび中隊ちゅうたいおよび、飛行場ひこうじょう警備けいび担当たんとうする警備けいび中隊ちゅうたい)を事実じじつじょう隷属れいぞくし、またかく中隊ちゅうたいちょう戦闘せんとう整備せいび担当たんとうする整備せいびはん隷属れいぞくしていた。

飛行ひこうだい25戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたいちょう尾崎おざき中和ちゅうわ大尉たいい)の一式いっしきせんはやぶさがた(キ43-II)

飛行ひこう分科ぶんか戦闘せんとう」の戦隊せんたい1個いっこ中隊ちゅうたい編制へんせいは、編隊へんたい最小さいしょう単位たんいとなる1個いっこ分隊ぶんたい分隊ぶんたいちょう僚機けい2)が2分隊ぶんたいあつまり1個いっこ小隊しょうたいしょう隊長たいちょう以下いかけい4)を、その小隊しょうたいが3あつまり1個いっこ中隊ちゅうたい中隊ちゅうたいちょう以下いかけい12)であった。これは陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいロッテ戦法せんぽうシュヴァルム戦法せんぽう)をドイツ空軍くうぐんから伝授でんじゅされ使用しようはじめた1942ねん後半こうはん以降いこう標準ひょうじゅんてき編制へんせいであり、それまでは最小さいしょう編隊へんたいが3となるケッテをもとに12からなる中隊ちゅうたい編成へんせいしていた(#定数ていすう参照さんしょう)。

  • 飛行ひこう戦隊せんたい本部ほんぶ
    • だい1中隊ちゅうたい - かく小隊しょうたい - かく分隊ぶんたい
      • 整備せいびはん
    • だい2中隊ちゅうたい - かく小隊しょうたい - かく分隊ぶんたい
      • 整備せいびはん
    • だい3中隊ちゅうたい - かく小隊しょうたい - かく分隊ぶんたい
      • 整備せいびはん
  • 飛行場ひこうじょう大隊だいたい本部ほんぶ
    • 整備せいび中隊ちゅうたい
      • 指揮しき小隊しょうたい - かく分隊ぶんたい
    • 警備けいび中隊ちゅうたい
飛行ひこうだい11戦隊せんたいよんしきせん疾風しっぷういちがたきのえ(キ84-Iかぶと

しかし1943ねん9がつ飛行場ひこうじょう大隊だいたい大幅おおはば改編かいへんともに、飛行ひこう分科ぶんか戦闘せんとう戦隊せんたいには同年どうねん9がつ以降いこう、「中隊ちゅうたい編制へんせい」にわりあらたに「飛行ひこうたい編制へんせい」がかれた。従来じゅうらい中隊ちゅうたい編制へんせい機材きざい整備せいび管理かんり人事じんじ個々ここ中隊ちゅうたいごとに独立どくりつしており、損耗そんこう移動いどうはげしい「戦闘せんとう戦隊せんたいにおいては不都合ふつごうがあった。飛行ひこうたい編制へんせいとは従来じゅうらい中隊ちゅうたい垣根かきねはらい、これを統一とういつ一元化いちげんかした飛行ひこうたい新設しんせつするものであり、これは戦隊せんたい本部ほんぶ直属ちょくぞくとし、飛行ひこうたい自体じたい指揮しきかんとしては飛行ひこう隊長たいちょう新設しんせつ戦隊せんたいちょう先任せんにん将校しょうこう任命にんめいした。また、かく中隊ちゅうたい隷属れいぞくしていた整備せいびはん整備せいび小隊しょうたいとなり、同時どうじ戦隊せんたい本部ほんぶ隷下れいかとなった整備せいびたい本部ほんぶのもとへと移行いこうされた。これにより機材きざい一元いちげん管理かんりおこなわれ、整備せいびはん整備せいびいん地上ちじょう勤務きんむしゃふく大勢おおぜい人事じんじまで掌握しょうあく指揮しきしなければならなかった中隊ちゅうたいちょう労苦ろうく軽減けいげんされた。

この改編かいへんにより「戦闘せんとう戦隊せんたいにおける部隊ぶたい編制へんせい単位たんいじょうの「中隊ちゅうたい」は廃止はいしされ、編制へんせいひょうからくなり統一とういつした「飛行ひこうたい」となったものの[註 3]おおくの戦隊せんたいでは機材きざい管理かんり人事じんじにおいては飛行ひこうたい編制へんせい適用てきようするものの中隊ちゅうたい呼称こしょう使用しよう、ないし中隊ちゅうたい編制へんせい自体じたいもどされることおおかった。具体ぐたいてき呼称こしょうとしては、一般いっぱんてきには従来じゅうらいの「中隊ちゅうたいしょうだい1中隊ちゅうたいだい2中隊ちゅうたいだい3中隊ちゅうたいとう)を踏襲とうしゅうしたほかは、「飛行ひこうたいしょうだい1飛行ひこうたいだい2飛行ひこうたいだい3飛行ひこうたいとう)、「たいしょうだい1たいだい2たいだい3たいとう)が使用しようされており、なかには無線むせん電話でんわひとしにおいて使用しようされるコールサインねた愛称あいしょうちか名称めいしょう飛行ひこうだい47戦隊せんたいの「あさひたいだい1中隊ちゅうたい相当そうとう)・富士ふじたいだい2中隊ちゅうたい相当そうとう)・さくらたいだい3中隊ちゅうたい相当そうとう)」、飛行ひこうだい244戦隊せんたいの「そよかぜたいだい1中隊ちゅうたい相当そうとう)・とっぷうたいだい2中隊ちゅうたい相当そうとう)・みかづきたいだい3中隊ちゅうたい相当そうとう)」とう)の使用しようもされている。

  • (「戦闘せんとう」)飛行ひこう戦隊せんたい本部ほんぶ
    • 飛行ひこうたい
      • 中隊ちゅうたい) - かく小隊しょうたい - かく分隊ぶんたい
      • 中隊ちゅうたい) - かく小隊しょうたい - かく分隊ぶんたい
      • 中隊ちゅうたい) - かく小隊しょうたい - かく分隊ぶんたい
    • 整備せいびたい本部ほんぶ
      • 指揮しき小隊しょうたい - かく分隊ぶんたい
      • 整備せいび小隊しょうたい
      • 整備せいび小隊しょうたい
      • 整備せいび小隊しょうたい
  • 飛行場ひこうじょう大隊だいたい本部ほんぶ
    • 補給ほきゅう中隊ちゅうたい
    • 警備けいび中隊ちゅうたい

大戦たいせん後期こうきになると、外地がいち部隊ぶたい中心ちゅうしんかさなる損害そんがいとどこお補給ほきゅうのため消耗しょうもう部隊ぶたい維持いじ困難こんなんになる戦隊せんたいおおくなり、それら部隊ぶたい後方こうほううつ戦隊せんたいいん空中くうちゅう勤務きんむしゃ地上ちじょう勤務きんむしゃ)と装備そうび補充ほじゅうけたり、戦隊せんたいどく中隊ちゅうたいどくたいなどと統合とうごうされ戦力せんりょく回復かいふくたすのが一般いっぱんてきであったが、ニューギニアのたたか末期まっきフィリピン防衛ぼうえいせん末期まっきではその戦力せんりょく回復かいふく絶望ぜつぼうてきとなり、また大勢おおぜいからなる戦隊せんたいいん後方こうほう退却たいきゃく不可能ふかのうとして貴重きちょう空中くうちゅう勤務きんむしゃのみが装備そうびはた輸送ゆそう脱出だっしゅつし、整備せいびいん地上ちじょう勤務きんむしゃ現地げんち歩兵ほへい部隊ぶたい改編かいへんされ壊滅かいめつ解散かいさんした戦隊せんたい存在そんざいした(空中くうちゅう勤務きんむしゃ脱出だっしゅつもままならず地上ちじょう戦死せんししたれいおおい)。

飛行ひこう分科ぶんか

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飛行ひこうだい53戦隊せんたいしきふくせんほふりゅうへいがたひのと装備そうび(キ45あらためへい

飛行ひこう戦隊せんたい中心ちゅうしんに、陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいかく飛行ひこう部隊ぶたいには以下いか飛行ひこう分科ぶんか分科ぶんか)および相当そうとう装備そうび機種きしゅまっていた。

けい爆撃ばくげきより近接きんせつ航空こうくう支援しえん(「地上ちじょう攻撃こうげき」)に比重ひじゅういている
しゅ任務にんむ航空こうくう作戦さくせんだい規模きぼ地上ちじょう作戦さくせん密接みっせつした戦略せんりゃく偵察ていさつ
しゅ任務にんむ地上ちじょうぐん密接みっせつした戦術せんじゅつ偵察ていさつ。「偵察ていさつ戦隊せんたいではぐん偵・じききょう混用こんようすることがおお
輸送ゆそう任務にんむ陸軍りくぐん航空こうくう輸送ゆそう輸送ゆそう飛行ひこう中隊ちゅうたい担当たんとうであり、本来ほんらい実戦じっせん飛行ひこう部隊ぶたいたる飛行ひこう戦隊せんたい任務にんむではなく、編成へんせいされた輸送ゆそう戦隊せんたい大戦たいせん後期こうきの2戦隊せんたいほどにまる
しゅ任務にんむたいせん哨戒しょうかいならびに爆雷ばくらい攻撃こうげき大戦たいせん後期こうきおも独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたいたいもうけられた分科ぶんかで、「偵察ていさつぐん偵・じききょう)」から改編かいへんされた部隊ぶたいおおい。確実かくじつ戦果せんかとしては独立どくりつ飛行ひこうだい73中隊ちゅうたい装備そうびきゅうきゅうしきぐん)による「ブルヘッド撃沈げきちんなど。
また揚陸ようりくかん強襲きょうしゅう揚陸ようりくかん)である特殊とくしゅせんあきつまる」をたいせんよう護衛ごえい空母くうぼとしても使用しようするため、分科ぶんかたいせん」の独立どくりつ飛行ひこうだい1中隊ちゅうたい装備そうびさんしき連絡れんらく)が編成へんせいされ、いわゆる艦載かんさいとして運用うんようされている

部隊ぶたい時期じきによってはこれらかく分科ぶんか機種きしゅたばねることもあった。おも大戦たいせん後期こうきにおいてはさらなる戦闘せんとうたい増強ぞうきょう要求ようきゅうからじゅうばくけいばく襲撃しゅうげきから「戦闘せんとう」へ分科ぶんかうたてした操縦そうじゅうしゃ部隊ぶたいおおく、また戦闘せんとうたい落下らっかタンクわりにばくだんだん搭載とうさいし、戦闘せんとう爆撃ばくげきとして臨時りんじけいばく襲撃しゅうげきたいとして使用しようされることもめずらしくなかった[註 4]

偵察ていさつたいとりわけ「つかさ偵」は戦略せんりゃく偵察ていさつ任務にんむ特殊とくしゅせいおおきな需要じゅようから、部隊ぶたい戦隊せんたい戦隊せんたい1個いっこ中隊ちゅうたいどくちゅうどくたい)の改編かいへん吸収きゅうしゅう統合とうごうとくはげしく複雑ふくざつであった[1]

定数ていすう

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飛行ひこう戦隊せんたい保有ほゆうする機体きたい定数ていすうは、時期じき部隊ぶたい装備そうび機種きしゅにもよるが、おおむね太平洋戦争たいへいようせんそう当時とうじ1個いっこ中隊ちゅうたい飛行ひこう分科ぶんか戦闘せんとう」では12、「じゅうばく」・「けいばく」・「つかさ偵」・「偵察ていさつ」では9で、戦隊せんたいとしてはやく24~36+αあるふぁ本部ほんぶ予備よびなど)が一般いっぱんてきであった。これは中隊ちゅうたい編制へんせいから飛行ひこうたい編制へんせい改編かいへんされた、大戦たいせん後期こうきの「戦闘せんとう戦隊せんたい基本きほん同様どうようとなる。

また部隊ぶたいによっては帳簿ちょうぼじょう定数ていすうふくまれない員数いんずうがい機体きたいとして、廃棄はいき修復しゅうふくはた鹵獲ろかく保有ほゆうしている。

戦隊せんたいちょう

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当時とうじ日本にっぽんでは「軍神ぐんしん加藤かとう少将しょうしょう」としてもっと有名ゆうめいだったエース、「加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい」こと飛行ひこうだい64せん隊長たいちょう加藤かとう建夫たけお中佐ちゅうさどう戦隊せんたいのピスト(空中くうちゅう勤務きんむしゃひかえしょ)でだい3中隊ちゅうたいちょう安間あんま克巳かつみ大尉たいいらとくつろぐ姿すがた
小林こばやし照彦てるひこ 1944ねん昭和しょうわ19ねん)11がつまつ帝国ていこく陸軍りくぐん史上しじょう最年少さいねんしょうまん24さい階級かいきゅう陸軍りくぐん大尉たいい

飛行ひこう戦隊せんたいちょう戦隊せんたいちょうで、階級かいきゅう大佐たいさ中佐ちゅうさ少佐しょうさ大尉たいい補職ほしょくする。戦隊せんたいでも飛行ひこう分科ぶんかによってちがいはあるが、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんまえごろまでは大佐たいさ中佐ちゅうさ少佐しょうさ一般いっぱんてきで、太平洋戦争たいへいようせんそうぜん中期ちゅうきには中佐ちゅうさ少佐しょうさおおくなり、後期こうきには大尉たいい任命にんめいされることがめずらしくなくなっている[註 5]

帝国ていこく陸軍りくぐん陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい)においては「指揮しきかん率先そっせん」の伝統でんとうから、戦隊せんたいちょう階級かいきゅう分科ぶんかわず原則げんそくてきに「空中くうちゅう指揮しきかん」であり、みずか戦隊せんたい装備そうびする第一線だいいっせん搭乗とうじょう隷下れいか本部ほんぶ僚機や中隊ちゅうたい飛行ひこうたいひきい、積極せっきょくてき空中くうちゅう指揮しき戦闘せんとうおこなうものとされた。そのため飛行ひこうだい64戦隊せんたい加藤かとう建夫たけお中佐ちゅうさみや英夫ひでお少佐しょうさ飛行ひこうだい244戦隊せんたい小林こばやし照彦てるひこ少佐しょうさ飛行ひこうだい22戦隊せんたい岩橋いわはしゆずるさん少佐しょうさなどを筆頭ひっとうすくなくないエース・パイロットたる戦隊せんたいちょう輩出はいしゅつしていると同時どうじに、多数たすう戦死せんしもの負傷ふしょうしゃしており、大戦たいせん末期まっきには貴重きちょう中堅ちゅうけん空中くうちゅう指揮しきかん温存おんぞんするために戦隊せんたいちょう出撃しゅつげきひかえるよう、そのむねれい上級じょうきゅう部隊ぶたいからされていた戦隊せんたい多々たたあった。一方いっぽうで、「じゅうばく」・「けいばく」の場合ばあい戦隊せんたいちょうかならずしも操縦そうじゅうしゃとしての教育きょういくけたものがなるものではなく、その場合ばあい隷下れいかちゅう隊長たいちょうなど指揮しきかん同乗どうじょうしての空中くうちゅう指揮しきおこなう。れいとして1941ねん7がつきゅうななしきじゅうばく運用うんようする飛行ひこうだい98戦隊せんたいちょうとなった臼井うすい茂樹しげき大佐たいさ過去かこ駐在ちゅうざい武官ぶかん参謀さんぼう本部ほんぶ勤務きんむ)は、同年どうねん12がつビルマ攻略こうりゃくせんラングーンばくげき任務にんむにおいて機上きじょう戦死せんししている。

さらに「指揮しきかん率先そっせん」は飛行ひこう戦隊せんたいまらず、上級じょうきゅう部隊ぶたいである飛行ひこうだん団長だんちょう飛行ひこう団長だんちょう)でもめずらしいものではなかった。飛行ひこうだん戦術せんじゅつ単位たんい部隊ぶたいであるため、戦隊せんたいちょうほどの頻度ひんどではなくとも飛行ひこう団長だんちょう空中くうちゅう指揮しきかんとして、飛行ひこうだん司令しれい配備はいびされているだい一線いっせんないし隷下れいか部隊ぶたい搭乗とうじょうないし同乗どうじょうし、隷下れいか飛行ひこう部隊ぶたいひき空中くうちゅう指揮しきるものとされていた。とく戦闘せんとう戦隊せんたいをメインとする「戦闘せんとう飛行ひこうだん」ではそれが常識じょうしきであり、操縦そうじゅうしゃ出身しゅっしんかつ大佐たいさ中佐ちゅうさきゅう古参こさん高級こうきゅう将校しょうこうたる団長だんちょうおおくが操縦そうじゅうにぎ実戦じっせん出撃しゅつげきしている。れいとして独立どくりつだい15飛行ひこう団長だんちょう今川いまがわ一策いっさく少将しょうしょうだい12飛行ひこう団長だんちょう川原かわはら八郎はちろう大佐たいさだい14飛行ひこう団長だんちょう寺西てらにし多美たみわたる中佐ちゅうさ[註 6]だい16飛行ひこう団長だんちょう新藤しんどうつねみぎ衛門えもん中佐ちゅうさなどがり、なかでも16FBちょう新藤しんどう中佐ちゅうさ本土ほんど防空ぼうくうせんにおいてB-29を1確実かくじつ撃墜げきついしている。

なお、これらの「指揮しきかん率先そっせん」の伝統でんとうアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐんイギリス空軍くうぐんでも同様どうようであり、飛行ひこう戦隊せんたい相当そうとうする飛行ひこうたいべいえい)、飛行ひこうだん相当そうとうする航空こうくうぐんべい)の指揮しきかんみずからが出撃しゅつげき日本にっぽんぐん航空こうくう部隊ぶたい干戈かんかまじえている。いちれいとして、帝国ていこく陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい一式いっしきせんげた裏付うらづけれている多数たすう確実かくじつ戦果せんかちゅう高級こうきゅう指揮しきかんとしては、だい5ばくげき航空こうくうだん司令しれいかんウォーカーじゅんしょう隷下れいかだい43ばくげき航空こうくうぐんリンドバーグ少佐しょうさ同乗どうじょう爆撃ばくげき任務にんむ空中くうちゅう指揮しきちゅう飛行ひこうだい11戦隊せんたい攻撃こうげき撃墜げきついB-17[2]だい468ちょうじゅうばくげき航空こうくうぐん司令しれいフォールカー大佐たいさだい1野戦やせん補充ほじゅう飛行ひこうたいおよびだい17錬成れんせい飛行ひこうたい攻撃こうげき撃墜げきつい、B-29) [3]だい348戦闘せんとう航空こうくうぐん司令しれいカービィ大佐たいさ(アメリカぐん主要しゅようエース、飛行ひこうだい77戦隊せんたい攻撃こうげき撃墜げきついP-47[4]だい530ばくげき航空こうくうぐん司令しれいミルトン中佐ちゅうさ飛行ひこうだい64戦隊せんたい攻撃こうげき撃墜げきついP-51[5]だい1とくにん航空こうくうぐん司令しれいゲイティ大佐たいさ飛行ひこうだい64戦隊せんたい攻撃こうげき撃墜げきつい、P-47)[6]だい1とくにん航空こうくうぐん司令しれいコクラン大佐たいさ飛行ひこうだい50戦隊せんたい攻撃こうげき墜落ついらく寸前すんぜん状態じょうたいまで被弾ひだん帰還きかん上級じょうきゅう部隊ぶたいより以後いご空戦くうせん参加さんか禁止きんし命令めいれい受領じゅりょう、P-51)[7] などがあり、さらにこのほかべいえい飛行ひこう隊長たいちょうおおくを撃墜げきついしている。

上級じょうきゅう部隊ぶたい

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飛行ひこう戦隊せんたい筆頭ひっとうかく飛行ひこう部隊ぶたい上級じょうきゅう部隊ぶたいとして、おも以下いか部隊ぶたい存在そんざいし「陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい」を組織そしきしていた。

飛行ひこうだん

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かくとなる飛行ひこう戦隊せんたいが2以上いじょうあつまり、旅団りょだん相当そうとうするだんである飛行ひこうだん(FB)を編成へんせいした。1935ねん昭和しょうわ10ねん)の組織そしき改編かいへんまれた部隊ぶたいである。ちょう団長だんちょう飛行ひこう団長だんちょう)で少将しょうしょう大佐たいさ中佐ちゅうさクラスが補職ほしょくし、司令しれいすうめい部員ぶいんようした。

かく飛行ひこうだんのうち「独立どくりつ(s)」の称呼しょうこかんする独立どくりつ飛行ひこうだん(FBs)は、飛行ひこう師団しだんではなくさらなる上級じょうきゅう部隊ぶたい#航空こうくうぐん高級こうきゅう指揮しきかん直属ちょくぞくとなる部隊ぶたいである。

また、おも練習れんしゅう飛行ひこうたい(RF)・教育きょういく飛行ひこうたい(FRK)・錬成れんせい飛行ひこうたい(FRL)といったかく教育きょういく飛行ひこう部隊ぶたい隷下れいかにもつ飛行ひこうだんとして、教育きょういく飛行ひこうだん(KFB)も編成へんせいされている。

飛行ひこう師団しだん

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さらに飛行ひこうだんが2以上いじょうあつまり戦略せんりゃくてき単位たんい師団しだんである飛行ひこう師団しだん(FD)を編成へんせいした。1942ねん昭和しょうわ17ねん)4がつ以前いぜん飛行ひこう師団しだん飛行ひこう集団しゅうだん(FC)としょうしており、飛行ひこう師団しだんはこれを改称かいしょうしたものである。中核ちゅうかくとなる飛行ひこう戦隊せんたいのほかに支援しえん部隊ぶたいである航空こうくう地区ちく司令しれい(FTB、飛行場ひこうじょう大隊だいたい飛行場ひこうじょう中隊ちゅうたい隷属れいぞく)、航空こうくう通信つうしんだん司令しれい(FTB、航空こうくう通信つうしん連隊れんたい(FTR)を隷属れいぞく)などを隷属れいぞくしている。ちょう師団しだんちょう飛行ひこう団長だんちょう[註 7]中将ちゅうじょう補職ほしょくし、司令しれい参謀さんぼうちょう大佐たいさきゅう)1めい参謀さんぼうすうめい高級こうきゅう副官ふっかん兵器へいき部長ぶちょう経理けいり部長ぶちょう軍医ぐんい部長ぶちょうなど部員ぶいんようした。

このほか、隷下れいか教育きょういく飛行ひこうだんなどをもつ飛行ひこう師団しだんじゅんずる教育きょういく部隊ぶたいとして、航空こうくう師団しだん(KD)や教育きょういく飛行ひこう師団しだん(KFD)も編成へんせいされている。

1944ねん6がつ航空こうくう総監そうかん管轄かんかつしていた学校がっこうこうこうおよびかくしょうこうのぞく)は軍隊ぐんたい改編かいへんされ、明野あけの陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう代表だいひょうされる主要しゅようかく陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう教導きょうどう飛行ひこう師団しだん(KFD)となり、当初とうしょ教導きょうどう航空こうくうぐんKFA同年どうねん12がつよりだい6航空こうくうぐん改編かいへん)に隷属れいぞくした。なお、熊谷くまがい陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう教導きょうどう飛行ひこう師団しだんとならず上記じょうき航空こうくう師団しだんだい52航空こうくう師団しだん)となっている。のちに明野あけの常陸ひたち教導きょうどう飛行ひこうたい[註 8]飛行ひこう戦隊せんたい前者ぜんしゃだい111戦隊せんたい後者こうしゃだい112戦隊せんたい)となった。

戦闘せんとう飛行ひこう集団しゅうだん

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戦闘せんとう大量たいりょう集中しゅうちゅう運用うんよう戦闘せんとう戦隊せんたい戦闘せんとう飛行ひこうだんおも集中しゅうちゅう配備はいび)する飛行ひこう師団しだんじゅんずる部隊ぶたいとして、大戦たいせん後期こうきのフィリピン防衛ぼうえい戦時せんじだい30戦闘せんとう飛行ひこう集団しゅうだんが、さい末期まっき本土ほんど防空ぼうくう戦時せんじだい20戦闘せんとう飛行ひこう集団しゅうだん編成へんせいされた。ちょう集団しゅうだんちょう戦闘せんとう飛行ひこう集団しゅうだんちょう飛行ひこう集団しゅうだんちょう)で中将ちゅうじょう少将しょうしょう補職ほしょくし、司令しれいく。飛行ひこう師団しだん改編かいへんまえ旧称きゅうしょうたる飛行ひこう集団しゅうだんとはことなるものの、軍隊ぐんたい符号ふごうおなじくFC

  • だい20戦闘せんとう飛行ひこう集団しゅうだん(20FC)
  • だい30戦闘せんとう飛行ひこう集団しゅうだん(30FC)

航空こうくうぐん

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1942ねん6がつ以降いこうには、上述じょうじゅつ飛行ひこう師団しだん[註 9]たばねるぐんとして航空こうくうぐん(FA)が編成へんせいされる。ちょう司令しれいかん航空こうくうぐん司令しれいかん)で中将ちゅうじょう補職ほしょくし、司令しれいかれ参謀さんぼうちょう高級こうきゅう参謀さんぼう参謀さんぼうすうめい高級こうきゅう副官ふっかん兵器へいき部長ぶちょう経理けいり部長ぶちょう軍医ぐんい部長ぶちょう法務ほうむ部長ぶちょう部員ぶいんようす。

航空こうくうそうぐん

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さらに大戦たいせん末期まっき1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつには、おも日本にっぽん本土ほんど防空ぼうくう任務にんむとするぜん陸軍りくぐん飛行ひこう部隊ぶたい統轄とうかつするそうぐんとして、官衙かんがである陸軍りくぐん航空こうくう総監そうかん改編かいへんした天皇てんのうちょく隷の航空こうくうそうぐん(FSA)が編成へんせいされた。ちょう司令しれいかん航空こうくうそうぐん司令しれいかん)で大将たいしょう補職ほしょくし、司令しれい参謀さんぼうちょう参謀さんぼう副長ふくちょう高級こうきゅう参謀さんぼう参謀さんぼうすうめい兵器へいき部長ぶちょう経理けいり部長ぶちょう軍医ぐんい部長ぶちょう法務ほうむ部長ぶちょう筆頭ひっとうに、部員ぶいん司令しれいやく700にんちか人員じんいんようした。

  • 航空こうくうそうぐん(FSA) - 北東ほくとう方面ほうめんのぞ日本にっぽん本土ほんど朝鮮ちょうせん

独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたい独立どくりつ飛行ひこうたい

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陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい中核ちゅうかくである飛行ひこう戦隊せんたいのほか、おも以下いか実戦じっせん飛行ひこう部隊ぶたい多数たすう編成へんせいされており帝国ていこく陸軍りくぐん屋台骨やたいぼねささえていた。これらは基本きほんてき飛行ひこう戦隊せんたい飛行ひこうだん隷属れいぞくせず、さらなる上級じょうきゅう部隊ぶたい高級こうきゅう指揮しきかん直属ちょくぞくとなる「独立どくりつ(s)」の称呼しょうこかんする部隊ぶたいである。

独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたい

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独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたいFcsどく中隊ちゅうたいどくちゅう)は、やく1個いっこ飛行ひこう中隊ちゅうたい定数ていすうはおおよそ10前後ぜんこう)で編成へんせいされ飛行ひこう師団しだん飛行ひこう集団しゅうだん)や航空こうくうぐん直属ちょくぞくする。ちょう中隊ちゅうたいちょう少佐しょうさ大尉たいい補職ほしょく独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたい編制へんせい小規模しょうきぼゆえにとく機動きどうてき運用うんようされ、その任務にんむせいから飛行ひこう分科ぶんかつかさ偵」・「偵察ていさつぐん偵・じききょう)」・「たいせん」がおおかった。

飛行ひこう戦隊せんたい支援しえん部隊ぶたいとしては飛行場ひこうじょう大隊だいたいてられるのにたいし、規模きぼちいさい独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたいには飛行場ひこうじょう中隊ちゅうたい(ac)がおもてられていた。

独立どくりつ飛行ひこうたい

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1941ねん7がつには、上記じょうき独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたいを2以上いじょうたばね、航空こうくうぐん飛行ひこうだん飛行ひこう集団しゅうだん)に直属ちょくぞくする実戦じっせん部隊ぶたいである独立どくりつ飛行ひこうたいFsどくたい)が編成へんせいされている。ちょう隊長たいちょう飛行ひこう隊長たいちょう)で大佐たいさ中佐ちゅうさ補職ほしょくし、本部ほんぶいた。

一方いっぽうで、大戦たいせん後期こうき編成へんせいされた独立どくりつ飛行ひこうたい規模きぼちいさく特殊とくしゅなものになっており、1944ねんまつサイパンとうおよびテニアンとうのアメリカ陸軍りくぐん航空こうくうぐん飛行場ひこうじょう長距離ちょうきょり夜間やかん奇襲きしゅう爆撃ばくげきするため、浜松はままつ教導きょうどう飛行ひこう師団しだんにて編成へんせいされただい2独立どくりつ飛行ひこうたい新海しんかい希典まれすけ少佐しょうさ飛行ひこう隊長たいちょうとし9きゅうななじゅうばくを、ごう作戦さくせんにて義烈ぎれつ空挺くうていたい輸送ゆそうてき飛行場ひこうじょう強行きょうこう着陸ちゃくりく敢行かんこうしただい3独立どくりつ飛行ひこうたいは、諏訪部すわべ忠一ただかず大尉たいい飛行ひこう隊長たいちょうとし12きゅうななじゅうばく装備そうび運用うんようしていた。

部隊ぶたいマーク

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部隊ぶたいマークとして「矢印やじるしはす矢印やじるし)」をえが飛行ひこうだい64戦隊せんたい一式いっしきせんはやぶさがた(キ43-II)。ほん写真しゃしん機体きたい映画えいが加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい』に「出演しゅつえん」させるため、明野あけの陸軍りくぐん飛行ひこう学校がっこう保有ほゆうだい64戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたいの「しろ矢印やじるし」をえがきなおしたものである
部隊ぶたいマークとして「稲妻いなづまかみなり電光でんこう)」をえが飛行ひこうだい11戦隊せんたいよんしきせん疾風しっぷういちがたきのえ(キ84-Iかぶと)。だい11戦隊せんたいはそのマークから「稲妻いなづま部隊ぶたい」とうたわれていた

陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい飛行ひこう戦隊せんたい挺進ていしん飛行ひこう戦隊せんたい[註 10]独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたい独立どくりつ飛行ひこうたい飛行ひこうだん司令しれい)・練習れんしゅう飛行ひこうたい教育きょういく飛行ひこうたい錬成れんせい飛行ひこうたいじききょう飛行ひこうたい野戦やせん補充ほじゅう飛行ひこうたい司令しれい飛行ひこうはん[註 11]飛行ひこう学校がっこう航空こうくう学校がっこう航空こうくう士官しかん学校がっこう特別とくべつ攻撃こうげきたいなど、航空機こうくうきゆうする大半たいはん軍隊ぐんたいおよび官衙かんが学校がっこう[註 12]職種しょくしゅわず部隊ぶたいマーク戦隊せんたいマーク・戦隊せんたい標識ひょうしき部隊ぶたい標識ひょうしき部隊ぶたいあきら)をゆうし、これを機体きたいえがいていた(描画びょうが場所ばしょ視認しにんせいさから垂直すいちょく尾翼びよくおおく、大掛おおがかりなものは機体きたい側面そくめん機首きしゅ水平すいへい尾翼びよくにもえがかれていた)。

部隊ぶたいマークは隊員たいいん関係かんけいしゃ自前じまえ考案こうあんすることが大半たいはんであり、これらはフランス空軍くうぐんはんった帝国ていこく陸軍りくぐん公認こうにんのもので各々おのおの所属しょぞく識別しきべつする重要じゅうよう標識ひょうしきであると同時どうじに、隊員たいいん士気しき団結だんけつしんたかめる存在そんざいとして重要じゅうようされていた。なかには派手はで個性こせいてき意匠いしょうおおかったことから、いわゆるノーズアート相当そうとうする側面そくめんもあった。

いちれいとして、部隊ぶたいマークに「矢印やじるしはす矢印やじるし)」をもち一式いっしきせんはやぶさ垂直すいちょく尾翼びよくえがいていた「加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい」こと飛行ひこうだい64戦隊せんたいにて、当時とうじ整備せいび班長はんちょうとしてざいたいしていた新美にいみ市郎いちろうもと少佐しょうさはマーク考案こうあん当時とうじ回顧かいこ以下いか証言しょうげんのこしている。

はやぶさ機種きしゅ改変かいへんして、どうやらせんちかいらしい、戦隊せんたいマークをつくらにゃいかんなあってことになって、安間あんまさん(だい3中隊ちゅうたいちょう安間あんま克己かつみ大尉たいい)とぼく空中くうちゅう勤務きんむしゃと、整備せいび下士官かしかんあつまってわさわさやってたんだけど、この矢印やじるしならえがきやすいし、格好かっこうもいいから、これにしようってことになってね

— 新美にいみ市郎いちろう中尉ちゅういだい64戦隊せんたいだい3中隊ちゅうたい整備せいび班長はんちょう[8]

海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたいではきわめて簡素かんそかつ地味じみ識別しきべつ記号きごう片仮名かたかな漢字かんじ英字えいじ数字すうじとう組合くみあわせ)をもって所属しょぞくあらわしており、ごくわずかな例外れいがいのぞき、陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいにおける部隊ぶたいマークに相当そうとうする瀟洒しょうしゃ文化ぶんか存在そんざいしない。陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいでも、レイテ島れいてとうたたかから沖縄おきなわせんまでだいななろく海軍かいぐん航空こうくうたい指揮しきたたかった飛行ひこうだい7戦隊せんたいは、従来じゅうらいのアラビア数字すうじの7を図案ずあんしたマーキングをはいして、「7-77」のように、海軍かいぐんしき所属しょぞく戦隊せんたい番号ばんごうだけの識別しきべつ符号ふごう採用さいようしていた。それよりさき台湾たいわんおき航空こうくうせんからだいななろく海軍かいぐん航空こうくうたい指揮しきたたかった飛行ひこうだい98戦隊せんたいは「508」のように、3けた番号ばんごうのみを表示ひょうじしていた[9]

なお、2020ねん3がつまで存在そんざいした航空こうくう自衛隊じえいたい偵察ていさつ航空こうくうたいがテールマーク(部隊ぶたいマーク)として使用しようしている「ひかりとレンズ」の意匠いしょうは、偵察ていさつ航空こうくうたい初代しょだい司令しれい偵察ていさつ航空こうくう隊長たいちょう)である生井いくいきよし2とう空佐くうさ発案はつあんによって、生井いくい2がかつてぞくした帝国ていこく陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい飛行ひこうだい33戦隊せんたい部隊ぶたいマークがモチーフとなっている[10]生井いくい最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん少佐しょうさ飛行ひこうだい33戦隊せんたいだい1中隊ちゅうたいちょう戦隊せんたいちょう、エース・パイロット)。

中隊ちゅうたいしょく

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飛行ひこうだい50戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたい所属しょぞく一式いっしきせんはやぶさいちがたへい(キ43-Iへい)。部隊ぶたいマーク(「電光でんこう」)・スピナー・カウリング先端せんたん中隊ちゅうたいしょくの「黄色おうしょく」でえがく(1943ねん)。垂直すいちょく尾翼びよくの「こう」の文字もじ操縦そうじゅうしゃ考案こうあん記入きにゅうした機体きたい愛称あいしょう[註 13]
飛行ひこうだい25戦隊せんたいだい2中隊ちゅうたいちょう尾崎おざき中和ちゅうわ大尉たいい)の一式いっしきせんはやぶさがた(キ43-II)。部隊ぶたいマークとして垂直すいちょく尾翼びよく白色はくしょくえんられた中隊ちゅうたいしょく赤色あかいろの「おび」、また機体きたい番号ばんごう「71」を、さらに「中隊ちゅうたいちょう標識ひょうしき」として部隊ぶたいマークと同様どうようしろえんあかたい胴体どうたい後部こうぶえがいている
飛行ひこうだい73戦隊せんたい所属しょぞくよんしきせん疾風しっぷういちがたきのえ(キ84-Iかぶと)。部隊ぶたいマークとして垂直すいちょく尾翼びよく赤色あかいろの「3ほんストライプ」、また方向ほうこうかじ下端かたん黄色きいろ中隊ちゅうたいしょくけ、さらに機体きたい番号ばんごうしたけた)「91」をえがいている

これら部隊ぶたいマークのなかでも、飛行ひこう戦隊せんたいでは中隊ちゅうたい飛行ひこうたいごとにマークを色分いろわけすることがおおかった(中隊ちゅうたいしょく)。飛行ひこうだい104戦隊せんたいのようにマークではなく、垂直すいちょく尾翼びよく上端じょうたん主翼しゅよくはし・スピナーをけた部隊ぶたい飛行ひこうだい244戦隊せんたいのように戦隊せんたい本部ほんぶのみ垂直すいちょく尾翼びよく全面ぜんめんあかり、中隊ちゅうたいしょくけはしゅあしカバーの機体きたい番号ばんごうにとどめ、マークは共通きょうつうしろとした部隊ぶたいなど例外れいがい存在そんざいする。

れいとしてだい64戦隊せんたいでは「はす矢印やじるし」を戦隊せんたい本部ほんぶは「コバルトブルー[註 14]」、だい1中隊ちゅうたいは「しろ」、だい2中隊ちゅうたいは「あか」、だい3中隊ちゅうたいは「」で、飛行ひこうだい50戦隊せんたいでは「電光でんこう」を戦隊せんたい本部ほんぶは「あお」、だい1中隊ちゅうたいは「あか」、だい2中隊ちゅうたいは「」、だい3中隊ちゅうたいは「しろ」で区別くべつしていた。なお、だい50戦隊せんたいエース・パイロットである穴吹あなぶきさとし軍曹ぐんそう自称じしょうしていた異名いみょう白色はくしょく電光でんこう戦闘せんとう穴吹あなぶき」は、穴吹あなぶき原隊げんたいであるだい1中隊ちゅうたい中隊ちゅうたいしょく白色はくしょく」・部隊ぶたいマーク「電光でんこう」・飛行ひこう分科ぶんか戦闘せんとう」に由来ゆらいする。

また、だい50戦隊せんたい太平洋戦争たいへいようせんそう中期ちゅうき以降いこう)や飛行ひこうだい72戦隊せんたいのように、部隊ぶたいマークにのみならずプロペラスピナーや、エンジンカウリング先端せんたんをも中隊ちゅうたいしょくける戦隊せんたい存在そんざいした。

中隊ちゅうたい廃止はいしされ飛行ひこうたい編制へんせいとなった大戦たいせんちゅう後期こうきの「戦闘せんとう戦隊せんたいにおいても(#編制へんせい)、機材きざい統一とういつ運用うんようはするが中隊ちゅうたい呼称こしょう使用しようないし事実じじつじょう中隊ちゅうたい編制へんせい復活ふっかつする場合ばあいおおかったため、中隊ちゅうたいしょく自体じたい継続けいぞくして使用しようする部隊ぶたいもある。

種類しゅるい

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たいごう「5」をローマ数字すうじ「V」としえがいた飛行ひこうだい5戦隊せんたいしきせんいちがた(キ100-I)
たいごう「81」を瀟洒しょうしゃにアレンジ・図案ずあんした部隊ぶたいマークをえがいた飛行ひこうだい81戦隊せんたいいち〇〇しき偵「新司しんじ偵」さんがたきのえ(キ46-IIIかぶと
墜落ついらくした飛行ひこうだい81戦隊せんたい所属しょぞくいち〇〇しき偵の垂直すいちょく尾翼びよく回収かいしゅう記念きねん撮影さつえいおこなニュージーランド空軍くうぐんだい488飛行ひこう隊員たいいん尾翼びよくにはだい81戦隊せんたい部隊ぶたいマークがえがかれている
たいごう「244」を瀟洒しょうしゃにアレンジ・図案ずあんし、さらに「ほし」をかさねた部隊ぶたいマークをえがいた飛行ひこうだい244戦隊せんたい本部ほんぶ小隊しょうたい戦隊せんたいちょう小林こばやし照彦てるひこ大尉たいいじょう)のさんしきせん飛燕ひえんいちがたへい(キ61-Iへい
折鶴おりづる」を図案ずあんした飛行ひこうだい54戦隊せんたい一式いっしきせんはやぶささんがた(キ43-III)
補充ほじゅうの「ホ」を「とり」のように図案ずあんしただい1野戦やせん補充ほじゅう飛行ひこうたいいち〇〇しき偵「新司しんじ偵」さんがたきのえ(キ46-IIIかぶと)。戦後せんごさい塗装とそうであり原隊げんたいだい1野戦やせん補充ほじゅう飛行ひこうたい偵察ていさつたい赤色あかいろではなく白色はくしょくえがいた
落下傘らっかさん」を図案ずあんした挺進ていしん部隊ぶたい自体じたい部隊ぶたいマークを使用しようした、挺進ていしん部隊ぶたいぞくする飛行ひこう部隊ぶたい挺進ていしん飛行ひこう戦隊せんたいとう)のきゅうななしき輸送ゆそう(キ34)
釜茹かまゆ髑髏しゃれこうべ」をえがいただい58たけたい部隊ぶたいあきら

部隊ぶたいマークのデザインは多種たしゅ多様たようであり、また部隊ぶたいほこりでもあるために(部隊ぶたいによっては)意匠いしょうらされたものもおおい。れいとして以下いかのような意匠いしょう使用しようされていたがこれらはかならずしも固定こていされていたものではなく、時期じき在地ざいちといった都合つごうによって意匠いしょう変更へんこうする部隊ぶたいどう部隊ぶたい複数ふくすうのマークをもちいる部隊ぶたいめずらしくなく、帝国ていこく陸軍りくぐんにはすうひゃく単位たんい部隊ぶたいマークが存在そんざいしていた。

  • 稲妻いなづまでん)/電光でんこう - 11戦隊せんたい、31戦隊せんたい、50戦隊せんたいどく48ちゅうほか
  • おび/ストライプ - 25戦隊せんたい、34戦隊せんたい、59戦隊せんたい、72戦隊せんたい、73戦隊せんたいどく10ちゅうどく47ちゅう、3どくたい、1ほか
  • 矢印やじるし - 29戦隊せんたい、64戦隊せんたい、77戦隊せんたい、85戦隊せんたい、101戦隊せんたい、103戦隊せんたい、183戦隊せんたいほか
  • ほし - 60戦隊せんたい、62戦隊せんたい
  • つばめ飛燕ひえん) - 2戦隊せんたいどく101ちゅう、115きょうれんほか
  • 菊水きくすいもん - 22戦隊せんたいどく16ちゅう、3きょうたいほか
  • にちあきら - 28戦隊せんたい、44戦隊せんたい1こうぐんつかさはんほか
  • たいごう部隊ぶたい番号ばんごう)の図案ずあん - 6戦隊せんたい、12戦隊せんたい14戦隊せんたい、19戦隊せんたい、20戦隊せんたい、24戦隊せんたい、33戦隊せんたい、47戦隊せんたい、51戦隊せんたい、52戦隊せんたい、53戦隊せんたいだい62戦隊せんたい、63戦隊せんたい、68戦隊せんたい、70戦隊せんたい、74戦隊せんたい、104戦隊せんたい244戦隊せんたいどく71ちゅう、21だんほか
  • 組織そしきめいたいめい部隊ぶたい名称めいしょう)の図案ずあん - こうこうあきらこうはまこう宇飛こう大刀たちこう岐阜ぎふこう常陸ひたちきょう、1ほか

上記じょうきいちれいのみならずさらに自由じゆうなマークも大量たいりょう考案こうあんされており、れいとして以下いかのようなとく複雑ふくざつ派手はで個性こせいてきなマークも存在そんざいした。

また、だい64戦隊せんたいは「はす矢印やじるし」の採用さいようまえわし意匠いしょうした「あかわし」をきゅうせんきゅうななせんに、独立どくりつ飛行ひこうだい47中隊ちゅうたい垂直すいちょく尾翼びよくの「ストライプ」とともに「どもえ」をしきせん鍾馗しょうき」の操縦そうじゅうせきよこえがいていた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ それまでは整備せいびには工兵こうへい空中くうちゅう勤務きんむしゃには歩兵ほへい騎兵きへい砲兵ほうへいなど様々さまざま兵科へいかからの出向しゅっこうしゃたずさわっていた。
  2. ^ 太平洋戦争たいへいようせんそう初期しょきまで2中隊ちゅうたい編制へんせいだっただい59戦隊せんたい戦闘せんとう)、だい81戦隊せんたいつかさ偵)ほか、また戦闘せんとう集中しゅうちゅう運用うんようのために4中隊ちゅうたい編制へんせいとなったフィリピン防衛ぼうえいせん従軍じゅうぐんだい200戦隊せんたい戦闘せんとう)など、かならずしも3中隊ちゅうたい編制へんせいでない戦隊せんたいすくなからず存在そんざいした。また、分遣ぶんけんたいとして1個いっこ中隊ちゅうたい戦隊せんたいから一時いちじてきはな遠隔えんかくにて独立どくりつ飛行ひこう中隊ちゅうたいてき運用うんようをされる戦隊せんたい多々たたあった。
  3. ^ 戦後せんご出版しゅっぱんされたおおくの軍事ぐんじ関連かんれん書物しょもつなどでは、大戦たいせん後期こうき飛行ひこうたい編成へんせい飛行ひこう戦隊せんたいについて詳述しょうじゅつしてるにもかかわらず、本来ほんらい誤用ごよう旧称きゅうしょうである中隊ちゅうたい飛行ひこう中隊ちゅうたい)と呼称こしょうをしていることおおくこれが浸透しんとうしている。
  4. ^ 1944ねん昭和しょうわ19ねん)2がつえい海軍かいぐん駆逐くちくかんパスファインダー大破たいは戦果せんかだい64戦隊せんたい、1943ねん12月にべい海軍かいぐん輸送ゆそうせん3せき命中めいちゅうだん戦果せんかだい68戦隊せんたいなど。
  5. ^ 陸軍りくぐん最年少さいねんしょうの24さいだい244せん隊長たいちょうとなった小林こばやし照彦てるひこ大尉たいい有名ゆうめい
  6. ^ 陸士りくし36陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう校歌こうか作詞さくししゃ
  7. ^ 飛行ひこう集団しゅうだんちょう集団しゅうだんちょう飛行ひこう集団しゅうだんちょう)。
  8. ^ 空中くうちゅう勤務きんむしゃ教官きょうかんじょきょうを、地上ちじょう勤務きんむしゃこう中心ちゅうしん機体きたいこう機材きざい使用しよう
  9. ^ なお、だい5航空こうくうぐん隷下れいか飛行ひこう師団しだんようせず飛行ひこうだん直属ちょくぞくしている。
  10. ^ 挺進ていしん連隊れんたい部隊ぶたいマーク「落下傘らっかさん共用きょうようしている。
  11. ^ 飛行ひこうだん飛行ひこう集団しゅうだん)・航空こうくうぐん航空こうくうそうぐんおよび、方面ほうめんぐんそうぐん防衛ぼうえいそう司令しれいなどの高級こうきゅう司令しれい司令しれい人員じんいん輸送ゆそう連絡れんらくもちいる航空機こうくうき運用うんよう
  12. ^ 官衙かんがなかでも陸軍りくぐん航空こうくう審査しんさ飛行ひこう実験じっけんきゅう飛行ひこう実験じっけん実験じっけんたい)はマークをゆうさず、わりに機体きたい番号ばんごう数字すうじえがいた。
  13. ^ 穴吹あなぶきさとしは「吹雪ふぶき」・「きみふう」の愛称あいしょうけている。
  14. ^ 矢印やじるし自体じたいしろで、えんをコバルトブルーとすることがおおかった。
  15. ^ とら千里せんり往って千里せんりかえる」の中国ちゅうごくどく18ちゅう駐屯ちゅうとん)の故事こじから。
  16. ^ 部隊ぶたいマークから連想れんそうされた「タコはち」の愛称あいしょう一方いっぽう、その図案ずあんから「つばさえた8」ともしょうされる。
  17. ^ どう特攻隊とっこうたいには、装備そうびよんしきせん疾風しっぷう」の機体きたいはしから機首きしゅいたるまで側面そくめん全体ぜんたい赤色あかいろの「矢印やじるし」をえがき、さらに「必沈」の文字もじ記入きにゅうした大変たいへん派手はでなパーソナルマークでられるこう埜徳伍長ごちょう操縦そうじゅうしゃとしてた。

出典しゅってん

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  1. ^ いかり義朗よしろう新司しんじ偵 キ46 技術ぎじゅつ開発かいはつ戦歴せんれき光人みつひとしゃ、1997ねん 
  2. ^ 梅本うめもと (2010a), p.80
  3. ^ 梅本うめもと (2010a), p.113
  4. ^ 梅本うめもと (2010a), pp.94-95
  5. ^ 梅本うめもと (2010a), p.61
  6. ^ 梅本うめもと (2010a), p.118
  7. ^ 梅本うめもと (2010a), p.68
  8. ^ 梅本うめもとひろしだい大戦たいせんはやぶさのエース』 だい日本にっぽん絵画かいが、2010ねん7がつ、p.13
  9. ^ 神野かみの正美まさみ台湾たいわんおき航空こうくうせん光人みつひとしゃ、2004ねん11月、pp.90-91、なお、同書どうしょp.276に1945ねん1がつ2にちおこなわれた飛行ひこうだい7戦隊せんたいのサイパンとう攻撃こうげき写真しゃしん掲載けいさいされている。
  10. ^ 偵察ていさつ航空こうくうたいOB親睦しんぼくかい テールマークの由来ゆらい 2017ねん10がつ18にち閲覧えつらん
  11. ^ いち〇〇しき司令しれい偵察ていさつ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ 戦史せんし叢書そうしょ陸軍りくぐん航空こうくう軍備ぐんび運用うんよう(1)昭和しょうわじゅうさんねん初期しょきまで』 あさくも新聞しんぶんしゃ、1971ねん
  • 同上どうじょう陸軍りくぐん航空こうくう軍備ぐんび運用うんよう(2)昭和しょうわじゅうななねん前記ぜんきまで』 1974ねん
  • 同上どうじょう陸軍りくぐん航空こうくう軍備ぐんび運用うんよう(3)終戦しゅうせんまで』 1976ねん
  • 梅本うめもとひろし (2010a),『だい大戦たいせんはやぶさのエース』 だい日本にっぽん絵画かいが、2010ねん8がつ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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