夏目 なつめ 漱石 そうせき (なつめ そうせき、1867年 ねん 2月 がつ 9日 にち 〈慶応 けいおう 3年 ねん 1月 がつ 5日 にち 〉 - 1916年 ねん 〈大正 たいしょう 5年 ねん 〉12月9日 にち )は、日本 にっぽん の小説 しょうせつ 家 か 、英文 えいぶん 学者 がくしゃ 。武蔵 むさし 国 こく 江戸 えど 牛込 うしごめ 馬場下 ばばした 横町 よこちょう (現 げん :東京 とうきょう 都 と 新宿 しんじゅく 区 く 喜久井 きくい 町 まち )出身 しゅっしん 。本名 ほんみょう は夏目 なつめ 金之助 きんのすけ ( なつめ きんのすけ ) 。俳号 はいごう は愚 ぐ 陀仏。
明治 めいじ 末期 まっき から大正 たいしょう 初期 しょき にかけて活躍 かつやく し、今日 きょう に通用 つうよう する言文 げんぶん 一致 いっち の現代 げんだい 書 か き言葉 ことば を作 つく った近代 きんだい 日本 にっぽん 文学 ぶんがく の文豪 ぶんごう のうちの一人 ひとり 。代表 だいひょう 作 さく は、『吾輩 わがはい は猫 ねこ である 』『坊 ぼ っちゃん 』『三四郎 さんしろう 』『それから 』『こゝろ 』『明暗 めいあん 』など。明治 めいじ の文豪 ぶんごう として日本 にっぽん の千 せん 円 えん 紙幣 しへい の肖像 しょうぞう にもなった。講演 こうえん 録 ろく に「私 わたし の個人 こじん 主義 しゅぎ 」がある。漱石 そうせき の私邸 してい に門下生 もんかせい が集 あつ まった会 かい は木曜 もくよう 会 かい と呼 よ ばれた。
大学 だいがく 時代 じだい に正岡子規 まさおかしき と出会 であ い、俳句 はいく を学 まな んだ。帝国 ていこく 大学 だいがく (のちの東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 、現在 げんざい の東京大学 とうきょうだいがく )英文 えいぶん 科 か 卒業 そつぎょう 後 ご 、松山 まつやま で愛媛 えひめ 県 けん 尋常 じんじょう 中学校 ちゅうがっこう 教師 きょうし 、熊本 くまもと で第 だい 五 ご 高等 こうとう 学校 がっこう 教授 きょうじゅ などを務 つと めたあと、イギリス へ留学 りゅうがく 。大 だい ロンドン のカムデン区 く 、ランベス区 く などに居住 きょじゅう した。帰国 きこく 後 ご は東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 講師 こうし として英 えい 文学 ぶんがく を講 こう じ、講義 こうぎ 録 ろく には『文学 ぶんがく 論 ろん 』がある。南 みなみ 満 まん 洲 しゅう 鉄道 てつどう 株式会社 かぶしきがいしゃ (満 まん 鉄 てつ )総裁 そうさい 、鉄道 てつどう 院 いん 総裁 そうさい 、東京 とうきょう 市長 しちょう 、貴族 きぞく 院 いん 議員 ぎいん などを歴任 れきにん した官僚 かんりょう 出身 しゅっしん の政治 せいじ 家 か 中村 なかむら 是 ただし 公 おおやけ の親友 しんゆう としても知 し られる。
夏目 なつめ 漱石 そうせき 誕生 たんじょう 之 の 地 ち 碑 ひ
夏目 なつめ 漱石 そうせき の母 はは ・千枝 ちえだ
夏目 なつめ 金之助 きんのすけ は、1867年 ねん 2月 がつ 9日 にち (慶応 けいおう 3年 ねん 1月 がつ 5日 にち )に江戸 えど の牛込 うしごめ 馬場下 ばばした (現在 げんざい の東京 とうきょう 都 と 新宿 しんじゅく 区 く 喜久井 きくい 町 まち )にて、名主 なぬし の夏目 なつめ 小 しょう 兵衛 ひょうえ 直 ちょく 克 かつ ・千枝 ちえだ 夫妻 ふさい の末子 まっし (五男 いつお )として出生 しゅっしょう した。父 ちち の直 ちょく 克 かつ は江戸 えど の牛込 うしごめ から高田馬場 たかだのばば までの一帯 いったい を治 おさ めていた名主 なぬし で、公務 こうむ を取 と り扱 あつか い、大抵 たいてい の民事 みんじ 訴訟 そしょう もその玄関 げんかん 先 さき で裁 さば くほどで、かなりの権力 けんりょく を持 も ち、生活 せいかつ も豊 ゆた かだった[ 1] 。ただし、母 はは の千枝 ちえだ は子沢山 こだくさん の上 うえ に高齢 こうれい で出産 しゅっさん したことから「面目 めんぼく ない」と恥 は じたといわれている。
名 な の「金之助 きんのすけ 」は、生 う まれた日 ひ が庚申 こうしん の日 ひ に当 あ たり、この日 ひ に生 う まれた赤子 あかご は大 だい 泥棒 どろぼう になるという迷信 めいしん があったことから厄除 やくよ けの意味 いみ で「金 かね 」の字 じ が入 い れられたものである。また、3歳 さい 頃 ごろ には疱瘡 ほうそう (天然痘 てんねんとう )に罹患 りかん し、このときできた痘痕 いも は目立 めだ つほどに残 のこ ることとなった。
金之助 きんのすけ の祖父 そふ ・夏目 なつめ 直 ただし 基 もと は道楽者 どうらくもの で浪費 ろうひ 癖 へき があり、死 し ぬ時 とき も酒 さけ の上 うえ で頓死 とんし したと言 い われるほどの人 ひと であったため、夏目 なつめ 家 か の財産 ざいさん は直 ちょく 基 もと 一 いち 代 だい で傾 かたむ いてしまった[ 1] 。しかし父 ちち ・直 ちょく 克 かつ の努力 どりょく の結果 けっか 、夏目 なつめ 家 か は相当 そうとう の財産 ざいさん を得 え ることができた。とはいえ、当時 とうじ は明治維新 めいじいしん 後 ご の混乱 こんらん 期 き であり、夏目 なつめ 家 か は名主 なぬし として没落 ぼつらく しつつあったのか、金之助 きんのすけ は生後 せいご すぐに四谷 よつや の古道具 ふるどうぐ 屋 や (一説 いっせつ には八百屋 やおや )に里子 さとご に出 だ された。夜中 よなか まで品物 しなもの の隣 となり に並 なら んで寝 ね ているのを見 み た姉 あね が不憫 ふびん に思 おも い、実家 じっか へ連 つ れ戻 もど したと伝 つた わる。
5、6歳 さい 頃 ごろ の金之助 きんのすけ
金之助 きんのすけ はその後 ご 、1868年 ねん (明治 めいじ 元年 がんねん )11月、塩原 しおばら 昌之 まさゆき 助 すけ のところへ養子 ようし に出 だ された。塩原 しおばら は直 ちょく 克 かつ に書生 しょせい 同様 どうよう にして仕 づか えた男 おとこ であったが、見 み どころがあるように思 おも えたので、直 ちょく 克 かつ は同 おな じ奉公人 ほうこうにん の「やす」という女 おんな と結婚 けっこん させ、新宿 しんじゅく の名主 なぬし の株 かぶ を買 か ってやった[ 2] 。しかし、昌之 まさゆき 助 すけ の女性 じょせい 問題 もんだい が発覚 はっかく するなど塩原 しおばら 家 か は家庭 かてい 不和 ふわ になり、金之助 きんのすけ は7歳 さい の時 とき 、養母 ようぼ とともに一時 いちじ 生家 せいか に戻 もど った。一時期 いちじき 、漱石 そうせき は実 じつ 父母 ちちはは のことを祖父母 そふぼ と思 おも い込 こ んでいたという。
養父母 ようふぼ の離婚 りこん により金之助 きんのすけ は9歳 さい のとき生家 せいか に戻 もど るが、実父 じっぷ と養父 ようふ の対立 たいりつ により21歳 さい まで夏目 なつめ 家 か への復籍 ふくせき が遅 おく れた。このように、漱石 そうせき の幼少 ようしょう 期 き は波乱 はらん に満 み ちていた。この養父 ようふ には、漱石 そうせき が朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ に入社 にゅうしゃ してから、金 かね の無心 むしん をされるなど実父 じっぷ が死 し ぬまで関係 かんけい が続 つづ いた。養父母 ようふぼ との関係 かんけい は、後 ご の自伝 じでん 的 てき 小説 しょうせつ 『道草 みちくさ 』の題材 だいざい にもなっている。
1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )、浅草 あさくさ 寿 ことぶき 町 まち 戸田 とだ 学校 がっこう 下等 かとう 小学 しょうがく 第 だい 八 はち 級 きゅう に入学 にゅうがく 後 ご 、金之助 きんのすけ は市ヶ谷 いちがや 学校 がっこう を経 へ て錦 にしき 華 はな 小学校 しょうがっこう へと転校 てんこう を繰 く り返 かえ したが、錦 にしき 華 はな 小学校 しょうがっこう へ移 うつ った理由 りゆう は東京 とうきょう 府 ふ 第 だい 一 いち 中学 ちゅうがく への入学 にゅうがく が目的 もくてき であったともされている。
12歳 さい の時 とき 、東京 とうきょう 府 ふ 第 だい 一 いち 中学 ちゅうがく 正則 せいそく 科 か (府立 ふりつ 一 いち 中 ちゅう 、現在 げんざい の都立 とりつ 日比谷 ひびや 高校 こうこう )[ 注釈 ちゅうしゃく 1] に入学 にゅうがく した。この当時 とうじ の第 だい 一 いち 中学 ちゅうがく には正則 せいそく 科 か と変則 へんそく 科 か があり、正則 せいそく 科 か では大学 だいがく 予備 よび 門 もん (のちの旧制 きゅうせい 第一高等学校 だいちこうとうがっこう )受験 じゅけん に必須 ひっす であった英語 えいご の授業 じゅぎょう が行 おこな われていなかったこと、また漢学 かんがく ・文学 ぶんがく を志 こころざ すため、2年 ねん ほどの在籍 ざいせき で1881年 ねん (明治 めいじ 14年 ねん )に中退 ちゅうたい し、漢学 かんがく 私塾 しじゅく 二松學舍 にしょうがくしゃ (現在 げんざい の二松學舍大学 にしょうがくしゃだいがく )に入学 にゅうがく した。ただし、長兄 ちょうけい ・夏目 なつめ 大助 だいすけ に咎 とが められるのを嫌 きら い、中退 ちゅうたい 後 ご も弁当 べんとう を持 も って一 いち 中 ちゅう に通 かよ うふりをしていた。なお、中学 ちゅうがく 中退 ちゅうたい の直前 ちょくぜん には実母 じつぼ の千枝 ちえだ が死去 しきょ しており、そのショックと二松學舎 にしょうがくしゃ への入学 にゅうがく とは漱石 そうせき の内面 ないめん でかなり深 ふか くつながっていたのではないかと指摘 してき されている[ 3] 。
しかし、長兄 ちょうけい ・大助 おおすけ が文学 ぶんがく を志 こころざ すことに反対 はんたい したためもあり、二松學舎 にしょうがくしゃ も一 いち 年 ねん で中退 ちゅうたい した。大助 だいすけ は病気 びょうき で大学南 だいがくみなみ 校 こう を中退 ちゅうたい し、警視庁 けいしちょう で翻訳 ほんやく 係 がかり をしていたが、出来 でき のよかった末弟 ばってい の金之助 きんのすけ を見込 みこ み、大学 だいがく を出 だ させて立身出世 りっしんしゅっせ をさせることで、夏目 なつめ 家 か 再興 さいこう の願 ねが いを果 は たそうとしていた。
2年 ねん 後 ご の1883年 ねん (明治 めいじ 16年 ねん )、金之助 きんのすけ は英語 えいご を学 まな ぶため、神田駿河台 かんだするがだい の英学 えいがく 塾 じゅく 成立 せいりつ 学舎 がくしゃ [ 注釈 ちゅうしゃく 2] に入学 にゅうがく し、頭角 とうかく を現 あらわ した。
大学 だいがく 予備 よび 門 もん 時代 じだい の漱石 そうせき
1884年 ねん (明治 めいじ 17年 ねん )、無事 ぶじ に大学 だいがく 予備 よび 門 もん 予 よ 科 か に入学 にゅうがく した。大学 だいがく 予備 よび 門 もん 受験 じゅけん 当日 とうじつ 、隣席 りんせき の友人 ゆうじん に答 こた えをそっと教 おし えてもらっていたことも幸 さいわ いした。その友人 ゆうじん は不 ふ 合格 ごうかく であった。大学 だいがく 予備 よび 門 もん 時代 じだい の下宿 げしゅく 仲間 なかま には、後 のち に満 まん 鉄 てつ 総裁 そうさい となる中村 なかむら 是 ただし 公 おおやけ がいる。予備 よび 門 もん 時代 じだい の金之助 きんのすけ は「成立 せいりつ 学舎 がくしゃ 」の出身 しゅっしん 者 しゃ らを中心 ちゅうしん に、中村 なかむら 是 ただし 公 おおやけ 、太田 おおた 達人 たつひと 、佐藤 さとう 友 とも 熊 ぐま 、橋本 はしもと 左 ひだり 五郎 ごろう 、中川 なかがわ 小 しょう 十郎 じゅうろう らとともに「十 じゅう 人 にん 会 かい 」を組織 そしき している。
1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )、大学 だいがく 予備 よび 門 もん は第 だい 一 いち 高等 こうとう 中学校 ちゅうがっこう に改称 かいしょう された。その年 とし 、金之助 きんのすけ は虫垂炎 ちゅうすいえん を患 わずら い、予 よ 科 か 二 に 級 きゅう の進級 しんきゅう 試験 しけん が受 う けられず是 ぜ 公 こう とともに落第 らくだい した。その後 ご 、江東 こうとう 義 ぎ 塾 じゅく などの私立 しりつ 学校 がっこう で教師 きょうし をするなどして自活 じかつ した。以後 いご 、学業 がくぎょう に励 はげ み、ほとんどの教科 きょうか において首席 しゅせき であった。特 とく に英語 えいご が頭抜 ずぬ けて優 すぐ れていた[ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。
夏目 なつめ 漱石 そうせき 句碑 くひ 「木屋 こや 町 まち に宿 やど をとりて川向 かわむかい の御 ご 多 た 佳 けい さんに 春 はる の川 かわ を 隔 へだ てて 男女 だんじょ 哉」(京都 きょうと 市 し 中京 ちゅうきょう 区 く 御池 みいけ 通 どおり 木屋 こや 町東 まちひがし 入 にゅう ル)。
1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )、金之助 きんのすけ は同窓生 どうそうせい として漱石 そうせき に多大 ただい な文学 ぶんがく 的 てき ・人間 にんげん 的 てき 影響 えいきょう を与 あた えることになる俳人 はいじん ・正岡子規 まさおかしき と出会 であ った。子規 しき が手 て がけた漢詩 かんし や俳句 はいく などの文集 ぶんしゅう 『七草 ななくさ 集 しゅう 』が学友 がくゆう らの間 あいだ で回覧 かいらん された時 とき 、金之助 きんのすけ がその批評 ひひょう を巻末 かんまつ に漢文 かんぶん で書 か いたことから、本格 ほんかく 的 てき な友情 ゆうじょう が始 はじ まった。この時 とき に初 はじ めて漱石 そうせき という号 ごう を使 つか った。漱石 そうせき の名 な は、唐 とう 代 だい の『晋 すすむ 書 しょ 』にある故事 こじ 「漱石 そうせき 枕 まくら 流 りゅう 」(石 いし に漱〔くちすす〕ぎ流 なが れに枕 まくら す)から取 と ったもので、負 ま け惜 お しみの強 つよ いこと、変 か わり者 もの の例 たと えである。「漱石 そうせき 」は子規 しき の数多 かずおお いペンネーム のうちの一 ひと つであったが、後 のち に漱石 そうせき は子規 しき からこれを譲 ゆず り受 う けている。
同年 どうねん 9月 がつ 、房州 ぼうしゅう (房総半島 ぼうそうはんとう )を旅 たび した時 とき の模様 もよう を漢文 かんぶん でしたためた紀行 きこう 『木屑 きくず 録 ろく 』の批評 ひひょう を子規 しき に求 もと めるなど、徐々 じょじょ に交流 こうりゅう が深 ふか まっていった。漱石 そうせき の優 すぐ れた漢文 かんぶん 、漢詩 かんし を見 み て子規 しき は驚 おどろ いたという。以後 いご 、子規 しき との交流 こうりゅう は、漱石 そうせき がイギリス留学 りゅうがく 中 ちゅう の1902年 ねん (明治 めいじ 35年 ねん )に子規 しき が没 ぼっ するまで続 つづ いた。
帝国 ていこく 大学 だいがく 時代 じだい の漱石 そうせき (1892年 ねん 12月 がつ )
1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )、創設 そうせつ 間 あいだ もなかった帝国 ていこく 大学 だいがく (のちの東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく )英文 えいぶん 科 か に入学 にゅうがく した。この英文 えいぶん 科 か は明治 めいじ 20年 ねん に新設 しんせつ されたばかりで、明治 めいじ 23年 ねん に入学 にゅうがく したのは漱石 そうせき だけで、2年 ねん 上 じょう に先輩 せんぱい が1人 にん いるだけであり、3年 ねん 後輩 こうはい に土井 どい 晩翠 ばんすい がいる[ 4] 。この頃 ころ から厭世 えんせい 主義 しゅぎ ・神経 しんけい 衰弱 すいじゃく に陥 おちい り始 はじ めたともいわれる。1887年 ねん (明治 めいじ 20年 ねん )の3月 がつ に長兄 ちょうけい ・大助 おおすけ と死別 しべつ 。同年 どうねん 6月 がつ に次兄 じけい ・夏目 なつめ 栄之助 えいのすけ と死別 しべつ した。さらに直後 ちょくご の1891年 ねん (明治 めいじ 24年 ねん )には三 さん 兄 けい ・夏目 なつめ 和三郎 わさぶろう の妻 つま の登 とう 世 よ と死別 しべつ し、次々 つぎつぎ に近親 きんしん 者 しゃ を亡 な くしたことも影響 えいきょう している。漱石 そうせき は登 とう 世 よ に恋心 こいごころ を抱 だ いていたとも言 い われ(江藤 えとう 淳 あつし 説 せつ )、心 しん に深 ふか い傷 きず を受 う け、登 とう 世 よ に対 たい する気持 きも ちをしたためた句 く を何 なん 十 じゅう 首 しゅ も詠 よ んでいる。
翌年 よくねん 、特待 とくたい 生 せい に選 えら ばれ、J・M・ディクソン 教授 きょうじゅ の依頼 いらい で『方丈 ほうじょう 記 き 』の英訳 えいやく などをした。1892年 ねん (明治 めいじ 25年 ねん )、兵役 へいえき 逃 のが れ のために分家 ぶんけ し、貸費 たいひ 生 せい であったため、北海道 ほっかいどう 岩内 いわうち 町 まち に籍 せき を移 うつ した[ 5] 。同年 どうねん 5月 がつ あたりから東京 とうきょう 専門 せんもん 学校 がっこう (現在 げんざい の早稲田大学 わせだだいがく )の講師 こうし をして自 みずか ら学費 がくひ を稼 かせ ぎ始 はじ めた。
漱石 そうせき と子規 しき は早稲田 わせだ の辺 あた りを一緒 いっしょ に散歩 さんぽ することもあり、その様 よう を子規 しき は自 みずか らの随筆 ずいひつ 『墨汁 ぼくじゅう 一 いち 滴 てき 』で「この時余 じよ が驚 おどろ いた事 こと は漱石 そうせき は我々 われわれ が平生 へいぜい 喰 くえ ふ所 しょ の米 べい はこの苗 なえ の実 み である事 こと を知 し らなかったといふ事 こと である」と述 の べている。
7月 がつ 7日 にち 、大学 だいがく の夏期 かき 休業 きゅうぎょう を利用 りよう して、松山 まつやま に帰省 きせい する子規 しき とともに、初 はじ めての関西 かんさい 方面 ほうめん の旅 たび に出 で る。夜行 やこう 列車 れっしゃ で新橋 しんばし を経 た ち、8日 にち に京都 きょうと に到着 とうちゃく して二 に 泊 はく し、10日 とおか 神戸 こうべ で子規 しき と別 わか れて11日 にち に岡山 おかやま に到着 とうちゃく した。岡山 おかやま では、次兄 じけい ・栄之助 えいのすけ の妻 つま であった小勝 こかつ の実家 じっか 、片岡 かたおか 機 き 邸 てい に1か月 げつ あまり逗留 とうりゅう した。この間 あいだ 、7月 がつ 19日 にち 、松山 まつやま の子規 しき から、学年 がくねん 末 まつ 試験 しけん に落第 らくだい したので退学 たいがく すると記 しる した手紙 てがみ が届 とど いた。漱石 そうせき は、その日 ひ の午後 ごご 、翻意 ほんい を促 うなが す手紙 てがみ を書 か き送 おく り、「鳴 な くならば 満月 まんげつ になけ ほととぎす」の一句 いっく を添 そ えた。その後 ご 、8月 がつ 10日 とおか 、岡山 おかやま を立 た ち、松山 まつやま の子規 しき の元 もと に向 む かった。子規 しき の家 いえ で、のちに漱石 そうせき を職業 しょくぎょう 作家 さっか の道 みち へ誘 さそ うことになる当時 とうじ 15歳 さい の高浜 たかはま 虚子 きょし と出会 であ った。子規 しき は1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )3月 がつ 、大学 だいがく を中退 ちゅうたい した。
高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう 教師 きょうし の漱石 そうせき (1894年 ねん 3月 がつ )
1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )、漱石 そうせき は帝国 ていこく 大学 だいがく を卒業 そつぎょう し文学 ぶんがく 部長 ぶちょう 外山 とやま 正一 しょういち の推薦 すいせん [ 6] で高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう の英語 えいご 教師 きょうし となる。校長 こうちょう は嘉納 かのう 治五郎 じごろう で、面接 めんせつ の際 さい に教育 きょういく 者 しゃ として学生 がくせい の模範 もはん になれと言 い われ「私 わたし にはとても勤 つと まりかねる」と返答 へんとう している[ 7] 。夏目 なつめ にとって英語 えいご の指導 しどう には負担 ふたん を感 かん じるものはなかったが、自身 じしん が考究 こうきゅう してきたのが英 えい 文学 ぶんがく であり英語 えいご 学 がく ではない事 こと や、教育 きょういく 者 しゃ を育成 いくせい する師範 しはん 学校 がっこう の学生 がくせい の「模範 もはん 」であるべき者 もの としての資質 ししつ に葛藤 かっとう があり[ 8] 、また恋愛 れんあい 問題 もんだい があったり1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )2月 がつ には血痰 けったん が出 で て結核 けっかく 検査 けんさ を受 う けるなど[ 9] 、極度 きょくど の神経 しんけい 衰弱 すいじゃく ・強迫 きょうはく 観念 かんねん にかられるようになる。菅 かん 虎雄 とらお の勧 すす めで12月の暮 く れに鎌倉 かまくら の円覚寺 えんかくじ で釈 しゃく 宗演 そうえん の下 した に参禅 さんぜん をするなどして治療 ちりょう を図 はか るも、効果 こうか は得 え られなかった。
愛媛 えひめ 県 けん 尋常 じんじょう 中学校 ちゅうがっこう 教師 きょうし の漱石 そうせき (1896年 ねん 3月 がつ )
1895年 ねん (明治 めいじ 28年 ねん )、東京 とうきょう から逃 に げるように高等 こうとう 師範 しはん 学校 がっこう を辞職 じしょく し、菅 かん 虎雄 とらお の斡旋 あっせん で愛媛 えひめ 県 けん 尋常 じんじょう 中学校 ちゅうがっこう (旧制 きゅうせい 松山 まつやま 中学 ちゅうがく 、現在 げんざい の松山東 まつやまひがし 高校 こうこう )に英語 えいご 教師 きょうし として赴任 ふにん した[ 10] 。松山 まつやま は子規 しき の故郷 こきょう であり、ここで2か月 げつ あまり静養 せいよう を取 と った。この頃 ころ 、子規 しき とともに俳句 はいく に精進 しょうじん し、数々 かずかず の佳作 かさく を残 のこ している。赴任 ふにん 中 ちゅう は愚 ぐ 陀仏庵 あん に下宿 げしゅく したが、52日間 にちかん に渡 わた って正岡子規 まさおかしき も居候 いそうろう した時期 じき があり、俳句 はいく 結社 けっしゃ 「松風 まつかぜ 会 かい 」に参加 さんか し句会 くかい を開 ひら いた。これはのちの漱石 そうせき の文学 ぶんがく に影響 えいきょう を与 あた えたと言 い われている。
1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )、熊本 くまもと 市 し の第 だい 五 ご 高等 こうとう 学校 がっこう (熊本大学 くまもとだいがく の前身 ぜんしん )の英語 えいご 教師 きょうし に赴任 ふにん した(月給 げっきゅう 100円 えん )。親族 しんぞく の勧 すす めもあり貴族 きぞく 院 いん 書記官 しょきかん 長 ちょう ・中根 なかね 重一 しげかず の長女 ちょうじょ ・鏡子 きょうこ と結婚 けっこん するが、3年 ねん 目 め に鏡子 きょうこ は慣 な れない環境 かんきょう と流産 りゅうざん のためヒステリー 症 しょう が激 はげ しくなり白川 しらかわ 井川淵 いがわぶち に投身 とうしん を図 はか るなど順風 じゅんぷう 満 まん 帆 ほ な夫婦 ふうふ 生活 せいかつ とはいかなかった。家庭 かてい 面 めん 以外 いがい では漱石 そうせき は俳壇 はいだん でも活躍 かつやく し、名声 めいせい を上 あ げていった。
1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )、寺田 てらだ 寅彦 とらひこ ら五 ご 高 だか の学生 がくせい たちが漱石 そうせき を盟主 めいしゅ に俳句 はいく 結社 けっしゃ の紫 むらさき 溟吟社 しゃ を興 おこ し、俳句 はいく の指導 しどう をした。同社 どうしゃ は多 おお くの俳人 はいじん を輩出 はいしゅつ し、九州 きゅうしゅう ・熊本 くまもと の俳壇 はいだん に影響 えいきょう を与 あた えた[ 11] 。
1900年 ねん 7月 がつ 頃 ごろ [ 12] 、イギリス留学 りゅうがく に当 あ たり熊本 くまもと 市 し 冨 とみ 重 じゅう 写真 しゃしん 館 かん で撮影 さつえい した送別 そうべつ 写真 しゃしん 。前列 ぜんれつ 右 みぎ が漱石 そうせき 、左 ひだり が奥 おく 太一郎 たいちろう 、後列 こうれつ 左 ひだり が遠山 とおやま 参 まいり 良 りょう 、右 みぎ は五 ご 高 だか 生徒 せいと 木村 きむら 鎮太[ 12] 。
ロンドン 滞在 たいざい 時 じ の夏目 なつめ 漱石 そうせき の最後 さいご の家 いえ 。ランベス区 く #関係 かんけい 者 しゃ も参照 さんしょう
1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )5月 がつ 、文部省 もんぶしょう より英語 えいご 教育 きょういく 法 ほう 研究 けんきゅう のため(英 えい 文学 ぶんがく の研究 けんきゅう ではない)、英国 えいこく 留学 りゅうがく を命 めい じられた。9月10日 にち に日本 にっぽん を出発 しゅっぱつ [ 14] 。最初 さいしょ の文部省 もんぶしょう への申 さる 報 ほう 書 しょ (報告 ほうこく 書 しょ )には「物価高 ぶっかだか 真 ま ニ生活 せいかつ 困難 こんなん ナリ十 じゅう 五 ご 磅(ポンド)ノ留学 りゅうがく 費 ひ ニテハ窮乏 きゅうぼう ヲ感 かんじ ズ」と、官給 かんきゅう の学費 がくひ には問題 もんだい があった。メレディス やディケンズ をよく読 よ み漁 あさ った。大学 だいがく の講義 こうぎ は授業 じゅぎょう 料 りょう を「拂 はらい (はら)ヒ聴ク価値 かち ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン の英 えい 文学 ぶんがく の聴講 ちょうこう をやめて、『永日 えいじつ 小品 しょうひん 』にも出 で てくるシェイクスピア 研究 けんきゅう 家 か のウィリアム・クレイグ (William James Craig)の個人 こじん 教授 きょうじゅ を受 う け、また『文学 ぶんがく 論 ろん 』の研究 けんきゅう に勤 いそ しんだが、英 えい 文学 ぶんがく 研究 けんきゅう への違和感 いわかん がぶり返 かえ し、再 ふたた び神経 しんけい 衰弱 すいじゃく に陥 おちい り始 はじ めた。「夜 よる 下宿 げしゅく ノ三 さん 階 かい ニテツクヅク日本 にっぽん ノ前途 ぜんと ヲ考 こう フ……」と述 の べ、何 なん 度 ど も下宿 げしゅく を転々 てんてん とした。このロンドンでの滞在 たいざい 中 ちゅう に、ロンドン塔 とう を訪 おとず れた際 さい の随筆 ずいひつ 『倫敦 ろんどん 塔 とう 』が書 か かれている。
1901年 ねん (明治 めいじ 34年 ねん )、化学 かがく 者 しゃ の池田 いけだ 菊苗 きくなえ と2か月 げつ 間 あいだ 同居 どうきょ することで新 あら たな刺激 しげき を受 う け、下宿 げしゅく に一人 ひとり 籠 こも って研究 けんきゅう に没頭 ぼっとう し始 はじ めた。その結果 けっか 、今 いま まで付 つ き合 あ いのあった留学生 りゅうがくせい との交流 こうりゅう も疎遠 そえん になり、文部省 もんぶしょう への申 さる 報 ほう 書 しょ を白紙 はくし のまま本国 ほんごく へ送 おく り、土井 どい 晩翠 ばんすい によれば下宿 げしゅく 屋 や の女性 じょせい 主人 しゅじん が心配 しんぱい するほどの「驚 おどろ くべき御 ご 様子 ようす 、猛烈 もうれつ の神経 しんけい 衰弱 すいじゃく 」に陥 おちい った。1902年 ねん (明治 めいじ 35年 ねん )9月 がつ に芳賀 はが 矢一 やいち らが訪 おとず れた際 さい には「早 はや めて帰朝 きちょう (帰国 きこく )させたい、多少 たしょう 気 き がはれるだろう、文部省 もんぶしょう の当局 とうきょく に話 はな そうか」と話 はなし が出 で たためか、「夏目 なつめ 発狂 はっきょう 」の噂 うわさ が文部省 もんぶしょう 内 ない に流 なが れた。漱石 そうせき は急遽 きゅうきょ 帰国 きこく を命 めい じられ、同年 どうねん 12月 がつ 5日 にち にロンドンを発 た つことになった。帰国 きこく 時 じ の船 ふね には、ドイツ 留学 りゅうがく を終 お えた精神 せいしん 科 か 医 い ・斎藤 さいとう 紀一 きいち がたまたま同乗 どうじょう していた[ 15] 。精神 せいしん 科 か 医 い の同乗 どうじょう を知 し った漱石 そうせき の親族 しんぞく は、これを漱石 そうせき が精神病 せいしんびょう を患 わずら っているためであろうと、いよいよ心配 しんぱい したという[ 16] 。
当時 とうじ の漱石 そうせき 最後 さいご の下宿 げしゅく の反対 はんたい 側 がわ には、1984年 ねん (昭和 しょうわ 59年 ねん )に恒松 つねまつ 郁生 いくお によって「ロンドン漱石 そうせき 記念 きねん 館 かん 」が設立 せつりつ された。漱石 そうせき の下宿 げしゅく 、出会 であ った人々 ひとびと 、読 よ んだ書籍 しょせき などを展示 てんじ し一般 いっぱん 公開 こうかい されていたが、イギリスの欧州 おうしゅう 連合 れんごう (EU)離脱 りだつ への動 うご きによる影響 えいきょう で、2016年 ねん 9月 がつ 末 まつ をもって閉館 へいかん [ 17] 。漱石 そうせき ファンからの強 つよ い要望 ようぼう で、2019年 ねん 5月 がつ 8日 にち 、ロンドン南郊 なんこう のサリー州 しゅう にある恒松 つねまつ 宅 たく の一部 いちぶ を改装 かいそう して再開 さいかい された[ 18] 。
帰国 きこく 後 ご の漱石 そうせき が居住 きょじゅう した千駄木 せんだぎ の邸宅 ていたく (現在 げんざい は博物館 はくぶつかん 明治 めいじ 村 むら へ移築 いちく )。漱石 そうせき の前 まえ は森 もり 鷗外 が住 す んでいた。
1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )1月 がつ 20日 はつか に英国 えいこく 留学 りゅうがく から帰国 きこく した[ 19] 。3月3日 にち 、東京 とうきょう の本郷 ほんごう 区 く 駒込 こまごめ 千駄木 せんだぎ 町 まち 57番地 ばんち に転入 てんにゅう (現在 げんざい の文京 ぶんきょう 区 く 向丘 むこうがおか 2-20-7、千駄木 せんだぎ 駅 えき 徒歩 とほ 約 やく 10分 ふん 。現在 げんざい は日本医科大学 にほんいかだいがく 同窓 どうそう 会館 かいかん 。敷地 しきち 内 ない に記念 きねん 碑 ひ あり)。同月 どうげつ 末 まつ 、籍 せき を置 お いていた第 だい 五 ご 高等 こうとう 学校 がっこう 教授 きょうじゅ を辞任 じにん した。同年 どうねん 4月 がつ 、第一高等学校 だいちこうとうがっこう と東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく の講師 こうし になった(年俸 ねんぽう は高校 こうこう 700円 えん 、大学 だいがく 800円 えん )。当時 とうじ の一 いち 高校 こうこう 長 ちょう は、親友 しんゆう の狩野 かの 亨吉 こうきち であった[ 注釈 ちゅうしゃく 4] 。
東京帝大 とうきょうていだい では小泉 こいずみ 八雲 やくも の後任 こうにん として教鞭 きょうべん を執 と ったが、前任 ぜんにん 者 しゃ であった八雲 やくも の、一度 いちど 口 くち を開 あ けばたちまち教室 きょうしつ 全体 ぜんたい を詩的 してき 空気 くうき に包 つつ み込 こ み酔 よ わせてしまうような講義 こうぎ に対 たい し、漱石 そうせき の分析 ぶんせき 的 てき な硬 かた い講義 こうぎ は不評 ふひょう で、学生 がくせい による八雲 やくも 留任 りゅうにん 運動 うんどう が起 お こったり、不平 ふへい 不満 ふまん を陰口 かげぐち にされて貶 けな されるなどした。川田 かわた 順 じゅん のように「ヘルン先生 せんせい のいない文科 ぶんか に学 まな ぶことはない」と法科 ほうか に転 てん じた学生 がくせい もいた。
また、当時 とうじ の一 いち 高 だか での受 う け持 も ちの生徒 せいと に藤村 ふじむら 操 みさお がおり、ある授業 じゅぎょう 中 ちゅう に態度 たいど の悪 わる さを漱石 そうせき に叱責 しっせき された数日 すうじつ 後 ご 、華厳 けごん 滝 たき に入水 じゅすい 自殺 じさつ してしまい、それに伴 ともな い一 いち 高 だか の生徒 せいと や同僚 どうりょう の教師 きょうし 達 たち だけでなく、事件 じけん に衝撃 しょうげき を受 う けた知識 ちしき 人 じん 達 たち の間 あいだ で「漱石 そうせき が藤村 ふじむら を死 し に追 お いやった」と謂 い われのない噂 うわさ が囁 ささや かれる事 こと となった。漱石 そうせき は、藤村 ふじむら に関 かん し『吾輩 わがはい は猫 ねこ である 』に冗談 じょうだん めかして言及 げんきゅう する[ 注釈 ちゅうしゃく 5] 一方 いっぽう で、『草枕 くさまくら 』の中 なか で言及 げんきゅう ・批評 ひひょう を行 おこな っている[ 注釈 ちゅうしゃく 6] 。
こうした職場 しょくば での風評 ふうひょう 被害 ひがい に苛 さいな まれて苦悩 くのう した結果 けっか 、とうとう漱石 そうせき は神経 しんけい 衰弱 すいじゃく を患 わずら ってしまい、授業 じゅぎょう 中 ちゅう や家庭 かてい において頻繁 ひんぱん に癇癪 かんしゃく を起 お こしては暴 あば れまわるようになり、欠席 けっせき ・代講 だいこう が増 ふ え、妻 つま とも約 やく 2か月 げつ 別居 べっきょ した。1904年 ねん (明治 めいじ 37年 ねん )にはある程度 ていど 落 お ち着 つ きを取 と り戻 もど し、明治大学 めいじだいがく の講師 こうし も務 つと めた(月給 げっきゅう 30円 えん )。
『吾輩 わがはい は猫 ねこ である』『坊 ぼ っちゃん』などを執筆 しっぴつ [ 編集 へんしゅう ]
千駄木 せんだぎ 邸 てい 書斎 しょさい の漱石 そうせき (1906年 ねん )
その年 とし の暮 く れ、高浜 たかはま 虚子 きょし から神経 しんけい 衰弱 すいじゃく の治療 ちりょう の一環 いっかん で創作 そうさく を勧 すす められ、処女 しょじょ 作 さく になる『吾輩 わがはい は猫 ねこ である 』を執筆 しっぴつ した。初 はじ めて子規 しき 門下 もんか の会 かい 「山 やま 会 かい 」で発表 はっぴょう され、好評 こうひょう を博 はく した。1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )1月 がつ 、『ホトトギス 』に1回 かい の読 よ み切 き りとして掲載 けいさい されたが、好評 こうひょう のため続編 ぞくへん を執筆 しっぴつ した。この頃 ころ から作家 さっか として生 い きていくことを熱望 ねつぼう し始 はじ め、その後 ご 『倫敦 ろんどん 塔 とう 』『坊 ぼう つちやん 』と立 た て続 つづ けに作品 さくひん を発表 はっぴょう し、人気 にんき 作家 さっか としての地位 ちい を固 かた めていった。漱石 そうせき の作品 さくひん は世俗 せぞく を忘 わす れ、人生 じんせい をゆったりと眺 なが めようとする低徊 ていかい 趣味 しゅみ (漱石 そうせき の造語 ぞうご )的 てき 要素 ようそ が強 つよ く、当時 とうじ の主流 しゅりゅう であった自然 しぜん 主義 しゅぎ とは対立 たいりつ する余裕 よゆう 派 は と呼 よ ばれた。
1906年 ねん (明治 めいじ 39年 ねん )、漱石 そうせき の家 いえ には小宮 こみや 豊隆 とよたか や鈴木 すずき 三重吉 みえきち 、森田 もりた 草平 そうへい などが出入 でい りしていたが、作家 さっか としての名声 めいせい が高 たか まるにつれて来客 らいきゃく が多 おお くなり、仕事 しごと に支障 ししょう をきたしはじめ、鈴木 すずき が毎週 まいしゅう の面会 めんかい 日 び を木曜日 もくようび と定 さだ めた。この日 ひ は誰 だれ が来 き てもよいことにしたので、漱石 そうせき の書斎 しょさい は多 おお くの門下生 もんかせい が集 あつ まって語 かた り合 あ うサロンのような場 ば になり、やがて「木曜 もくよう 会 かい 」と呼 よ ばれるようになった(1906年 ねん 10月 がつ 8日 にち 付 づけ 書簡 しょかん によれば、10月11日 にち から。)。
漱石 そうせき が東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 総長 そうちょう の濱尾 はまお 新 しん へ宛 あ てた辞表 じひょう (1907年 ねん )
1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )2月 がつ 、一切 いっさい の教職 きょうしょく を辞 じ し、池辺 いけべ 三山 さんざん に請 こ われて朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ に入社 にゅうしゃ した(月給 げっきゅう 200円 えん )。この当時 とうじ 、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう で販売 はんばい 数 すう を急 きゅう 拡大 かくだい させていた新聞 しんぶん 各社 かくしゃ は終戦 しゅうせん による部数 ぶすう 低下 ていか を回避 かいひ するため本格 ほんかく 文学 ぶんがく の掲載 けいさい に傾斜 けいしゃ しており、漱石 そうせき は読売 よみうり と大阪 おおさか 朝日 あさひ の両方 りょうほう から入社 にゅうしゃ を申 もう し込 こ まれていた。大阪 おおさか 朝日 あさひ の入社 にゅうしゃ 条件 じょうけん は関西 かんさい に転居 てんきょ することが含 ふく まれていたため漱石 そうせき が難色 なんしょく を示 しめ し、東京 とうきょう 朝日 あさひ で入社 にゅうしゃ の上 うえ 、大阪 おおさか と東京 とうきょう の両紙 りょうし で連載 れんさい を行 おこな うことが取 と り決 き められた。また、当時 とうじ 京都 きょうと 帝国 ていこく 大学 だいがく 文科 ぶんか 大学 だいがく 初代 しょだい 学長 がくちょう (現在 げんざい の文学 ぶんがく 部長 ぶちょう に相当 そうとう )になっていた狩野 かの 亨吉 こうきち からの英文 えいぶん 科 か 教授 きょうじゅ への誘 さそ いがあったがこれも断 ことわ り、本格 ほんかく 的 てき に職業 しょくぎょう 作家 さっか としての道 みち を歩 あゆ み始 はじ めた。
同年 どうねん 6月 がつ 、職業 しょくぎょう 作家 さっか としての初 はじ めての作品 さくひん 『虞美人草 ぐびじんそう 』の連載 れんさい を開始 かいし 。執筆 しっぴつ 途中 とちゅう に、神経 しんけい 衰弱 すいじゃく や胃病 いびょう に苦 くる しめられた。1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )3月 がつ 23日 にち に平塚 ひらつか 明子 あきこ (平塚 ひらつか らいてう) と栃木 とちぎ 県 けん 塩原 しおばら で心中 しんちゅうの 未遂 みすい 事件 じけん を起 お こした門下 もんか の森田 もりた 草平 そうへい の後始末 あとしまつ に奔走 ほんそう した(塩原 しおばら 事件 じけん )。
1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )、親友 しんゆう だった南 みなみ 満州 まんしゅう 鉄道 てつどう 総裁 そうさい ・中村 なかむら 是 ただし 公 おおやけ の招 まね きで満州 まんしゅう ・朝鮮 ちょうせん を旅行 りょこう した。この旅行 りょこう の記録 きろく は『朝日新聞 あさひしんぶん 』に「満 まん 韓 かん ところどころ」として連載 れんさい される。
同年 どうねん 10月 がつ 、満 まん 韓 かん 旅行 りょこう からの帰途 きと 、大阪 おおさか で暮 く らす長谷川 はせがわ 如是閑 にょぜかん を訪 たず ねる。この折 おり 、浜寺 はまでら の料理 りょうり 店 てん にも行 い く。[ 20]
『三四郎 さんしろう 』『それから』『門 もん 』の前期 ぜんき 三 さん 部 ぶ 作 さく [ 編集 へんしゅう ]
『漱石 そうせき 全集 ぜんしゅう 第 だい 八 はち 巻 かん 行人 こうじん 』より(1912年 ねん 10月 がつ )
1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )6月 がつ 、『三四郎 さんしろう 』『それから 』に続 つづ く前期 ぜんき 三 さん 部 ぶ 作 さく の3作 さく 目 め にあたる『門 もん 』を執筆 しっぴつ 途中 とちゅう に胃潰瘍 いかいよう で長与 ながよ 胃腸 いちょう 病院 びょういん (長與 ながよ 胃腸 いちょう 病院 びょういん )に入院 にゅういん した。
同年 どうねん 8月 がつ 、療養 りょうよう のため門下 もんか の松根東洋城 まつねとうようじょう の勧 すす めで伊豆 いず の修善寺 しゅぜんじ に出 で かけ、菊屋 きくや 旅館 りょかん で転地 てんち 療養 りょうよう した。しかしそこで胃 い 疾患 しっかん になり、800 gにも及 およ ぶ大 だい 吐血 とけつ を起 お こし、生死 せいし の間 あいだ を彷徨 ほうこう う危篤 きとく 状態 じょうたい に陥 おちい った。これが「修善寺 しゅぜんじ の大患 たいかん 」 と呼 よ ばれる事件 じけん である。
この時 とき の一時 いちじ 的 てき な「死 し 」を体験 たいけん したことは、その後 ご の作品 さくひん に影響 えいきょう を与 あた えることとなった。漱石 そうせき 自身 じしん も『思 おも い出 だ すことなど 』で、この時 とき のことに触 ふ れている。最 さい 晩年 ばんねん の漱石 そうせき は「則 のり 天 てん 去 さ 私 わたし 」を理想 りそう としていたが、この時 とき の心境 しんきょう を表 あらわ したものではないかと言 い われる。『硝子 がらす 戸 ど の中 なか 』では、本音 ほんね に近 ちか い真情 しんじょう の吐露 とろ が見 み られる。同年 どうねん 10月 がつ 、容態 ようだい が落 お ち着 つ き、長与 ながよ 病院 びょういん に戻 もど り再 さい 入院 にゅういん した。その後 ご も胃潰瘍 いかいよう などの病気 びょうき に何 なん 度 ど も苦 くる しめられた。
『彼岸 ひがん 過 か 迄 まで 』『行人 こうじん 』『こゝろ』の後期 こうき 三 さん 部 ぶ 作 さく [ 編集 へんしゅう ]
早稲田南 わせだみなみ 町 まち の邸宅 ていたく 「漱石 そうせき 山 やま 房 ぼう 」における晩年 ばんねん の漱石 そうせき (1915年 ねん 7月 がつ )
1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )8月 がつ 、関西 かんさい での講演 こうえん 直後 ちょくご 、胃潰瘍 いかいよう が再発 さいはつ し、大阪 おおさか の大阪 おおさか 胃腸 いちょう 病院 びょういん に入院 にゅういん した。東京 とうきょう に戻 もど った後 のち は、痔 じ にかかり通院 つういん した。
1912年 ねん (大正 たいしょう 元年 がんねん )9月 がつ 、痔 じ の再 さい 手術 しゅじゅつ を受 う けた。同年 どうねん 12月 がつ には、『行人 こうじん 』も病気 びょうき のため初 はじ めて執筆 しっぴつ を中絶 ちゅうぜつ した。
1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )は、神経 しんけい 衰弱 すいじゃく 、胃潰瘍 いかいよう で6月 がつ 頃 ごろ まで悩 なや まされた。
1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん )9月 がつ 、4度目 どめ の胃潰瘍 いかいよう で病臥 びょうが した。晩年 ばんねん は病 やまい との闘 たたか いを続 つづ けながらの執筆 しっぴつ が続 つづ いた。作品 さくひん は人間 にんげん のエゴイズム を追 お い求 もと めていき、後期 こうき 三 さん 部 ぶ 作 さく と呼 よ ばれる『彼岸 ひがん 過 か 迄 まで 』『行人 こうじん 』『こゝろ 』へと繋 つな がっていく。
夏目 なつめ 漱石 そうせき の墓 はか (雑司ヶ谷 ぞうしがや 霊園 れいえん )
1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )3月 がつ 、京都 きょうと へ旅行 りょこう し、そこで5度目 どめ の胃潰瘍 いかいよう で倒 たお れた。6月3日 にち より『吾輩 わがはい は猫 ねこ である』執筆 しっぴつ 当時 とうじ の環境 かんきょう に回顧 かいこ し、『道草 みちくさ 』の連載 れんさい を開始 かいし した[ 21] 。1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )には糖尿 とうにょう 病 びょう にも悩 なや まされた。その年 とし 、辰野 たつの 隆 たかし の結婚式 けっこんしき に出席 しゅっせき して後 ご の12月9日 にち 、腹腔 ふくこう 内 ない 出血 しゅっけつ [ 22] を起 お こし『明暗 めいあん 』執筆 しっぴつ 途中 とちゅう に自宅 じたく で死去 しきょ した。50歳 さい 没 ぼつ (49歳 さい 10か月 げつ )。
最期 さいご の言葉 ことば は、寝間着 ねまき の胸 むね をはだけながら叫 さけ んだ「ここに水 みず をかけてくれ、死 し ぬと困 こま るから」であったという。だが、四 よん 女 じょ ・愛子 いとしご が泣 な き出 だ してそれを妻 つま である鏡子 きょうこ が注意 ちゅうい したときに漱石 そうせき がなだめて「いいよいいよ、もう泣 な いてもいいんだよ」と言 い ったことが、最期 さいご の言葉 ことば ともされる[ 注釈 ちゅうしゃく 7] 。
死 し の翌日 よくじつ 、遺体 いたい は東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 医学部 いがくぶ 解剖 かいぼう 室 しつ において長與 ながよ 又郎 またろう によって解剖 かいぼう された。その際 さい に摘出 てきしゅつ された脳 のう と胃 い は寄贈 きぞう された。脳 のう は、現在 げんざい もエタノールに漬 つ けられた状態 じょうたい で東京大学 とうきょうだいがく 医学部 いがくぶ に保管 ほかん されている。重 おも さは1,425グラムであった。戒名 かいみょう は文献 ぶんけん 院 いん 古道 ふるみち 漱石 そうせき 居士 こじ 。遺体 いたい は落合 おちあい 斎場 さいじょう で荼毘 だび に付 ふ され、墓所 はかしょ は東京 とうきょう 都 と 豊島 としま 区 く 南池袋 みなみいけぶくろ の雑司ヶ谷 ぞうしがや 霊園 れいえん (1種 しゅ 14号 ごう 1側 がわ 3番 ばん )。
D千 せん 円 えん 券 けん
1984年 ねん (昭和 しょうわ 59年 ねん )から2004年 ねん (平成 へいせい 16年 ねん )まで発行 はっこう された日本銀行 にっぽんぎんこう 券 けん D千 せん 円 えん 券 けん に肖像 しょうぞう が採用 さいよう された。
1867年 ねん (慶応 けいおう 3年 ねん )1月 がつ 5日 にち - 江戸 えど 牛込 うしごめ 馬場下 ばばした 横町 よこちょう (現 げん ・東京 とうきょう 都 と 新宿 しんじゅく 区 く 喜久井 きくい 町 まち )に父 ちち ・夏目 なつめ 小 しょう 兵衛 ひょうえ 直 ちょく 克 かつ 、母 はは ・千枝 ちえだ の五 ご 男 おとこ として生 う まれる。夏目 なつめ 家 か は代々 だいだい 名主 なぬし であったが、当時 とうじ 家運 かうん が衰 おとろ えていたため、生後 せいご 間 あいだ もなく四谷 よつや の古道具 ふるどうぐ 屋 や に里子 さとご に出 だ されたものの、すぐに連 つ れ戻 もど される。
1868年 ねん (明治 めいじ 元年 がんねん )11月 - 新宿 しんじゅく の名主 なぬし ・塩原 しおばら 昌之 まさゆき 助 すけ の養子 ようし となり、塩原 しおばら 姓 せい を名乗 なの る。
1869年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん ) - 養父 ようふ ・昌之 まさゆき 助 すけ 、浅草 あさくさ の添年寄 としより となり浅草 あさくさ 三間 みま 町 まち へ移転 いてん 。
1870年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん ) - 種痘 しゅとう がもとで疱瘡 ほうそう を病 や み、顔 かお に瘢痕 はんこん (あばた)が残 のこ る[ 注釈 ちゅうしゃく 8] 。「一 ひと つ夏目 なつめ の鬼瓦 おにがわら 」という数 かぞ え歌 うた に作 つく られるほど、痘痕 いも は目立 めだ った。
1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん ) - 養父 ようふ ・昌之 まさゆき 助 すけ と養母 ようぼ ・やすが不和 ふわ になり、一時 いちじ 喜久井 きくい 町 まち の生家 せいか に引 ひ き取 と られた。浅草 あさくさ 寿 ことぶき 町 まち 戸田 とだ 学校 がっこう 下等 かとう 小学 しょうがく 第 だい 八 はち 級 きゅう (のち台東 たいとう 区立 くりつ 精華 せいか 小学校 しょうがっこう 。現 げん ・台東 たいとう 区立 くりつ 蔵前 くらのまえ 小学校 しょうがっこう )に入学 にゅうがく 。
1876年 ねん (明治 めいじ 9年 ねん ) - 養母 ようぼ が塩原 しおばら 家 か を離縁 りえん され、塩原 しおばら 家 か 在籍 ざいせき のまま養母 ようぼ とともに生家 せいか に移 うつ った。市ケ谷 いちがや 柳 やなぎ 町 まち 市ケ谷 いちがや 学校 がっこう (現 げん ・新宿 しんじゅく 区立 くりつ 愛 あい 日 び 小学校 しょうがっこう )に転校 てんこう 。
11、12歳 さい 頃 ごろ の金之助 きんのすけ
大学 だいがく 予備 よび 門 もん 時代 じだい の金之助 きんのすけ (1886年 ねん )
1884年 ねん (明治 めいじ 17年 ねん ) - 小石川 こいしかわ 極楽 ごくらく 水 すい の新福寺 しんぷくじ 二 に 階 かい に橋本 はしもと 左 ひだり 五郎 ごろう と下宿 げしゅく 。自炊 じすい 生活 せいかつ をしながら成立 せいりつ 学舎 がくしゃ に通学 つうがく 。
1885年 ねん (明治 めいじ 18年 ねん ) - 中村 なかむら 是 ただし 公 おおやけ 、橋本 はしもと 左 ひだり 五郎 ごろう ら約 やく 10人 にん と猿楽 さるがく 町 まち の末富 すえとみ 屋 や に下宿 げしゅく 。
1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )7月 がつ - 腹膜炎 ふくまくえん のため落第 らくだい 。この落第 らくだい が転機 てんき となり、のち卒業 そつぎょう まで首席 しゅせき を通 とお す。中村 なかむら 是 ただし 公 おおやけ と本所 ほんじょ 江東 こうとう 義 ぎ 塾 じゅく の教師 きょうし となり、塾 じゅく の寄宿舎 きしゅくしゃ に転居 てんきょ 。
1887年 ねん (明治 めいじ 20年 ねん ) - 3月に長兄 ちょうけい ・大助 おおすけ 、6月 がつ に次兄 じけい ・栄之助 えいのすけ がともに肺病 はいびょう のため死去 しきょ 。急性 きゅうせい トラホーム を患 わずら い、自宅 じたく に帰 かえ る。夏 なつ に初 はじ めての富士 ふじ 登山 とざん 。
1888年 ねん (明治 めいじ 21年 ねん )
1月 がつ - 塩原 しおばら 家 か より復籍 ふくせき し、夏目 なつめ 姓 せい に戻 もど る。
7月 がつ - 第 だい 一 いち 高等 こうとう 中学校 ちゅうがっこう 予 よ 科 か を卒業 そつぎょう 。
9月 - 英 えい 文学 ぶんがく 専攻 せんこう を決意 けつい し本科 ほんか 一部 いちぶ に入学 にゅうがく 。
1889年 ねん (明治 めいじ 22年 ねん )
1月 がつ - 正岡子規 まさおかしき との親交 しんこう が始 はじ まる。
5月 - 子規 しき の『七草 ななくさ 集 しゅう 』の批評 ひひょう を書 か き、初 はじ めて“漱石 そうせき ”の筆名 ひつめい を用 もち いる。
1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )
1891年 ねん の金之助 きんのすけ 。富士 ふじ 登山 とざん の記念 きねん に撮影 さつえい
帝国 ていこく 大学 だいがく 時代 じだい の漱石 そうせき (1892年 ねん 6月 がつ )
漱石 そうせき の松山 まつやま 時代 じだい における寓居 ぐうきょ 「愚 ぐ 陀仏庵 あん 」
第 だい 五 ご 高等 こうとう 学校 がっこう 教授 きょうじゅ 時代 じだい の漱石 そうせき
第一高等学校 だいちこうとうがっこう 本館 ほんかん 玄関 げんかん 前 まえ の漱石 そうせき (1907年 ねん 2月 がつ )
1903年 ねん (明治 めいじ 36年 ねん )
4月 がつ - 第一高等学校 だいちこうとうがっこう 講師 こうし になり、東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく 文科 ぶんか 大学 だいがく 講師 こうし を兼任 けんにん 。
10月 - 三 さん 女 じょ ・栄子 えいこ 誕生 たんじょう 。水彩 すいさい 画 が を始 はじ め、書 しょ もよくした。
1904年 ねん (明治 めいじ 37年 ねん )4月 がつ - 明治大学 めいじだいがく 講師 こうし を兼任 けんにん 。
1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )1月 がつ - 『吾輩 わがはい は猫 ねこ である 』を『ホトトギス 』に発表 はっぴょう (翌年 よくねん 8月 がつ まで断続 だんぞく 連載 れんさい )。
12月 - 四 よん 女 じょ ・愛子 あいこ 誕生 たんじょう 。
1906年 ねん (明治 めいじ 39年 ねん )4月 がつ - 『坊 ぼう つちやん 』を『ホトトギス 』に発表 はっぴょう 。
1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )
1月 がつ - 『野分 のわけ 』を『ホトトギス』に発表 はっぴょう 。
4月 がつ - 一切 いっさい の教職 きょうしょく を辞 じ し、朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ に入社 にゅうしゃ 。職業 しょくぎょう 作家 さっか としての道 みち を歩 あゆ み始 はじ める。
6月 がつ - 長男 ちょうなん ・純 じゅん 一 いち 誕生 たんじょう 。『虞美人草 ぐびじんそう 』を『朝日新聞 あさひしんぶん 』に連載 れんさい ( - 10月 がつ )。
9月 - 牛込 うしごめ 区 く 早稲田南 わせだみなみ 町 まち 7番地 ばんち に転居 てんきょ 。[ 25]
1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )
1月『坑夫 こうふ 』( - 4月 がつ )、6月『文鳥 ぶんちょう 』、7月『夢 ゆめ 十 じゅう 夜 や 』( - 8月 がつ )、9月『三四郎 さんしろう 』( - 12月)を『朝日新聞 あさひしんぶん 』に連載 れんさい 。
12月 - 次男 じなん ・伸六 しんろく 誕生 たんじょう 。
1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )3月 がつ - 養父 ようふ から金 かね を無心 むしん され、そのような事件 じけん が11月まで続 つづ いた。
1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )
3月 - 五 ご 女 じょ ・雛 ひな 子 こ 誕生 たんじょう 。
6月 がつ - 胃潰瘍 いかいよう のため内幸町 うちさいわいちょう の長与 ながよ 胃腸 いちょう 病院 びょういん に入院 にゅういん 。
8月 がつ - 療養 りょうよう のため修善寺 しゅぜんじ 温泉 おんせん に転地 てんち 。同月 どうげつ 24日 にち 夜 よる 、大 だい 吐血 とけつ があり、一時 いちじ 危篤 きとく 状態 じょうたい に陥 おちい る。
10月 - 長与 ながよ 病院 びょういん に入院 にゅういん 。
1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )
2月 がつ 21日 にち - 文部省 もんぶしょう からの文学 ぶんがく 博士 はかせ 号 ごう 授与 じゅよ を辞退 じたい [ 26] 。
8月 がつ - 朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ 主催 しゅさい の講演 こうえん 会 かい のために明石 あかし 、和歌山 わかやま 、堺 さかい 、大阪 おおさか に行 い き、大阪 おおさか で胃潰瘍 いかいよう が再発 さいはつ し、湯川 ゆかわ 胃腸 いちょう 病院 びょういん に入院 にゅういん 。
11月29日 にち - 五 ご 女 じょ ・雛 ひな 子 こ 、原因 げんいん 不明 ふめい の突然 とつぜん 死 し 。のちの漱石 そうせき の遺体 いたい 解剖 かいぼう の遠因 えんいん となる。
1913年 ねん (大正 たいしょう 2年 ねん )
1月 がつ - ひどいノイローゼ が再発 さいはつ 。
3月 - 胃潰瘍 いかいよう 再発 さいはつ 。5月下旬 げじゅん まで自宅 じたく で病臥 びょうが した。北海道 ほっかいどう から東京 とうきょう に再 さい 転籍 てんせき する。
「漱石 そうせき 山 やま 房 ぼう 」書斎 しょさい の漱石 そうせき (1914年 ねん )
1914年 ねん (大正 たいしょう 3年 ねん )
4月 がつ - 『こゝろ 』を『朝日新聞 あさひしんぶん 』に連載 れんさい ( - 8月 がつ )。
11月 - 「私 わたし の個人 こじん 主義 しゅぎ 」を学習 がくしゅう 院 いん 輔仁会 かい で講演 こうえん 。
1915年 ねん (大正 たいしょう 4年 ねん )
1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )
1月 がつ - リウマチの治療 ちりょう のため、湯 ゆ ヶ原 ばら 天野 あまの 屋 や の中村 なかむら 是 ただし 公 おおやけ のもとに転地 てんち 。
5月 - 『明暗 めいあん 』を『朝日新聞 あさひしんぶん 』に連載 れんさい ( - 12月)。
12月9日 にち - 午後 ごご 7時 じ 前 まえ 、胃潰瘍 いかいよう により死去 しきょ 。戒名 かいみょう ・文献 ぶんけん 院 いん 古道 ふるみち 漱石 そうせき 居士 こじ 。
1984年 ねん (昭和 しょうわ 59年 ねん )11月 - 千 せん 円 えん 札 さつ に肖像 しょうぞう が採用 さいよう される。
作品 さくひん の著作 ちょさく 権 けん はすでに消滅 しょうめつ し、パブリックドメイン となっている。
吾輩 わがはい は猫 ねこ である (1905年 ねん 1月 がつ - 1906年 ねん 8月 がつ 、『ホトトギス』/1905年 ねん 10月 がつ - 1907年 ねん 5月 がつ 、大倉 おおくら 書店 しょてん ・服部 はっとり 書店 しょてん )
坊 ぼう つちやん (1906年 ねん 4月 がつ 、『ホトトギス』/1907年 ねん 、春陽 しゅんよう 堂 どう 刊 かん 『鶉 うずら 籠 かご 』収録 しゅうろく )
草枕 くさまくら (1906年 ねん 9月 がつ 、『新 しん 小説 しょうせつ 』/『鶉 うずら 籠 かご 』収録 しゅうろく )
二 に 百 ひゃく 十 じゅう 日 にち (1906年 ねん 10月 がつ 、『中央公論 ちゅうおうこうろん 』/『鶉 うずら 籠 かご 』収録 しゅうろく )
野分 のわけ (1907年 ねん 1月 がつ 、『ホトトギス』/1908年 ねん 、春陽 しゅんよう 堂 どう 刊 かん 『草 くさ 合 あい 』収録 しゅうろく )
虞美人草 ぐびじんそう (1907年 ねん 6月 がつ - 10月、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/1908年 ねん 1月 がつ 、春陽 しゅんよう 堂 どう )
坑夫 こうふ (1908年 ねん 1月 がつ - 4月 がつ 、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/『草 くさ 合 あい 』収録 しゅうろく )
三四郎 さんしろう (1908年 ねん 9 - 12月、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/1909年 ねん 5月 がつ 、春陽 しゅんよう 堂 どう )
それから (1909年 ねん 6 - 10月、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/1910年 ねん 1月 がつ 、春陽 しゅんよう 堂 どう )
門 もん (1910年 ねん 3月 がつ - 6月 がつ 、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/1911年 ねん 1月 がつ 、春陽 しゅんよう 堂 どう )
彼岸 ひがん 過 か 迄 まで (1912年 ねん 1月 がつ - 4月 がつ 、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/1912年 ねん 9月 がつ 、春陽 しゅんよう 堂 どう )
行人 こうじん (1912年 ねん 12月 - 1913年 ねん 11月、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/1914年 ねん 1月 がつ 、大倉 おおくら 書店 しょてん )
こゝろ (1914年 ねん 4月 がつ - 8月 がつ 、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/1914年 ねん 9月 がつ 、岩波書店 いわなみしょてん )
道草 みちくさ (1915年 ねん 6月 がつ - 9月、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/1915年 ねん 10月 がつ 、岩波書店 いわなみしょてん )
明暗 めいあん (1916年 ねん 5月 がつ - 12月、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/1917年 ねん 1月 がつ 、岩波書店 いわなみしょてん )
倫敦 ろんどん 塔 とう (1905年 ねん 1月 がつ 、『帝国 ていこく 文学 ぶんがく 』/1906年 ねん 、大倉 おおくら 書店 しょてん ・服部 はっとり 書店 しょてん 刊 かん 『漾虚集 しゅう 』収録 しゅうろく )
幻影 げんえい の盾 たて (1905年 ねん 4月 がつ 、『ホトトギス』/『漾虚集 しゅう 』)
琴 きん のそら音 ね (1905年 ねん 7月 がつ 、『七 なな 人 にん 』/『漾虚集 しゅう 』収録 しゅうろく )
一夜 いちや (1905年 ねん 9月 がつ 、『中央公論 ちゅうおうこうろん 』/『漾虚集 しゅう 』収録 しゅうろく )
薤 らっきょう 露 ろ 行 ゆき (かいろこう)(1905年 ねん 9月 がつ 、『中央公論 ちゅうおうこうろん 』/『漾虚集 しゅう 』収録 しゅうろく )
趣味 しゅみ の遺伝 いでん (1906年 ねん 1月 がつ 、『帝国 ていこく 文学 ぶんがく 』/『漾虚集 しゅう 』収録 しゅうろく )
文鳥 ぶんちょう (1908年 ねん 6月 がつ 、『大阪 おおさか 朝日 あさひ 』/1910年 ねん 、春陽 しゅんよう 堂 どう 刊 かん 『四 よん 篇 へん 』収録 しゅうろく )
夢 ゆめ 十 じゅう 夜 や (1908年 ねん 7月 がつ - 8月 がつ 、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/『四 よん 篇 へん 』収録 しゅうろく )
永日 えいじつ 小品 しょうひん (1909年 ねん 1月 がつ - 3月、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/『四 よん 篇 へん 』収録 しゅうろく )
評論 ひょうろん
文学 ぶんがく 論 ろん (1907年 ねん 5月 がつ 、大倉 おおくら 書店 しょてん ・服部 はっとり 書店 しょてん )
文学 ぶんがく 評論 ひょうろん (1909年 ねん 3月 がつ 、春陽 しゅんよう 堂 どう )
随筆 ずいひつ
・ 満 まん 韓 かん ところどころ(1909年 ねん )
・ 韓 かん 満所 まんしょ 感 かん (1909年 ねん )
思 おも ひ出 だ す事 こと など (1910年 ねん - 1911年 ねん 、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/1911年 ねん 8月 がつ 、春陽 しゅんよう 堂 どう 刊 かん 『切抜 きりぬき 帖 じょう より』収録 しゅうろく )
硝子 がらす 戸 ど の中 なか (1915年 ねん 1月 がつ - 2月 がつ 、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/1915年 ねん 3月 がつ 、岩波書店 いわなみしょてん )
点頭 てんとう 録 ろく (1916年 ねん )
講演 こうえん
現代 げんだい 日本 にっぽん の開化 かいか (1911年 ねん 、和歌山 わかやま 県 けん 会 かい 議事堂 ぎじどう /1911年 ねん 11月、朝日新聞 あさひしんぶん 合資 ごうし 会社 かいしゃ 刊 かん 『朝日 あさひ 講演 こうえん 集 しゅう 』収録 しゅうろく )
私 わたし の個人 こじん 主義 しゅぎ (1914年 ねん )。他 た に「道楽 どうらく と職業 しょくぎょう 」「中味 なかみ と形式 けいしき 」「文芸 ぶんげい と道徳 どうとく 」などがある。
紀行 きこう
カーライル博物館 はくぶつかん (1905年 ねん 、『学 がく 鐙 あぶみ 』/『漾虚集 しゅう 』収録 しゅうろく )
満 まん 韓 かん ところどころ(1909年 ねん 10月 がつ - 12月、『朝日新聞 あさひしんぶん 』/『四 よん 篇 へん 』収録 しゅうろく )
句集 くしゅう ・詩集 ししゅう
漱石 そうせき 俳句 はいく 集 しゅう (1917年 ねん 11月、岩波書店 いわなみしょてん )
漱石 そうせき 詩集 ししゅう 印譜 いんぷ 附 ふ (1919年 ねん 6月 がつ 、岩波書店 いわなみしょてん )
新体詩 しんたいし
従軍 じゅうぐん 行 ぎょう (1904年 ねん 5月 がつ 、『帝国 ていこく 文学 ぶんがく 』10巻 かん 5号 ごう )
画 が
漱石 そうせき 全集 ぜんしゅう (1993年 ねん - 1999年 ねん 、岩波書店 いわなみしょてん 、全 ぜん 28巻 かん ・別巻 べっかん 1)。2016年 ねん 12月より新版 しんぱん 刊 かん
吾輩 わがはい は猫 ねこ である
倫敦 ろんどん 塔 とう ほか・坊 ぼう つちやん
草枕 くさまくら ・二 に 百 ひゃく 十 じゅう 日 にち ・野分 のわけ
虞美人草 ぐびじんそう
坑夫 こうふ ・三四郎 さんしろう
それから・門 もん
彼岸 ひがん 過 か 迄 まで
行人 こうじん
心 しん
道草 みちくさ
明暗 めいあん
小品 しょうひん
英 えい 文学 ぶんがく 研究 けんきゅう
文学 ぶんがく 論 ろん
文学 ぶんがく 評論 ひょうろん
評論 ひょうろん ほか
俳句 はいく ・詩歌 しか
漢 かん 詩文 しぶん
日記 にっき ・断片 だんぺん 上 じょう
日記 にっき ・断片 だんぺん 下 か
ノート
書簡 しょかん 上 じょう
書簡 しょかん 中 ちゅう
書簡 しょかん 下 か
別冊 べっさつ 上 じょう
別冊 べっさつ 中 ちゅう
別冊 べっさつ 下 か
総 そう 索引 さくいん
漱石 そうせき 文学 ぶんがく 全集 ぜんしゅう (1982年 ねん - 1983年 ねん 、集英社 しゅうえいしゃ 、全 ぜん 10巻 かん )
夏目 なつめ 漱石 そうせき 全集 ぜんしゅう (1987年 ねん - 1988年 ねん 、ちくま文庫 ぶんこ 、全 ぜん 10巻 かん )
旧版 きゅうばん 「夏目 なつめ 漱石 そうせき 全集 ぜんしゅう 筑摩 ちくま 全集 ぜんしゅう 類聚 るいじゅう 」 (筑摩書房 ちくましょぼう 、全 ぜん 10巻 かん ・別巻 べっかん 1)
漱石 そうせき 新聞 しんぶん 小説 しょうせつ 復刻 ふっこく 全集 ぜんしゅう (1999年 ねん 、ゆまに書房 しょぼう 、全 ぜん 11巻 かん )
漱石 そうせき 雜誌 ざっし 小説 しょうせつ 復刻 ふっこく 全集 ぜんしゅう (2001年 ねん 、ゆまに書房 しょぼう 、全 ぜん 5巻 かん )
漱石 そうせき 評論 ひょうろん ・講演 こうえん 復刻 ふっこく 全集 ぜんしゅう (2002年 ねん 、ゆまに書房 しょぼう 、全 ぜん 8巻 かん )
夏目 なつめ 家 か の系図 けいず によると、夏目 なつめ 家 か の先祖 せんぞ は清和 せいわ 源 はじめ 氏 し 満 まん 快 かい 流 りゅう の夏目 なつめ 氏 し の一族 いちぞく であり、三河 みかわ 国 こく 徳川 とくがわ 氏 し の家臣 かしん であった夏目 なつめ 吉信 よしのぶ (広次 ひろつぐ )とは先祖 せんぞ 夏目 なつめ 国平 くにへい を同 おな じくする同族 どうぞく に当 あ たる。夏目 なつめ 家 か の先祖 せんぞ は武田 たけだ 家 か に仕 つか え、甲斐 かい 国 こく 八代 やしろ 郡 ぐん 夏目 なつめ 邑を賜 たま わり、それから数 すう 代 だい 後 ご に武田 たけだ 勝頼 かつより が没落 ぼつらく したため、当時 とうじ の当主 とうしゅ 夏目 なつめ 信頼 しんらい は武蔵 むさし 国 こく 埼玉 さいたま 郡 ぐん 岩槻 いわつき 邑に移 うつ り、太田 おおた 氏 し 房 ぼう に仕 つか え、その後 ご 岩槻 いわつき 藩 はん を領 りょう した高力 こうりき 清 きよし 長 ちょう に仕 つか えた。子 こ の氏 し 正 せい は病気 びょうき のために隠退 いんたい して郷士 ごうし となり、豊島 としま 郡 ぐん 牛 うし 籠 かご 村 むら にうつった。1702年 ねん (元禄 げんろく 15年 ねん )旧暦 きゅうれき 4月 がつ 、氏 し 正 せい の子 こ 夏目 なつめ 兵衛 ひょうえ 直情 ちょくじょう の時 とき 、名主 なぬし に任 にん じられたという[ 1] 。ただし渡辺 わたなべ 三男 みつお は旗本 はたもと 夏目 なつめ 氏 し や高力 こうりき 氏 し の系図 けいず と比較 ひかく して世代 せだい 数 すう が少 すく なすぎることや、通 つう 字 じ に連続 れんぞく 性 せい がないなど、夏目 なつめ 家系 かけい 図 ず には不審 ふしん な点 てん があるとしている。
夏目 なつめ 家 か は苗字 みょうじ 帯刀 たいとう を許 ゆる され、奉行 ぶぎょう 所 しょ に入 はい る際 さい のみ刀 かたな をはずすという待遇 たいぐう を認 みと められていた。現在 げんざい も新宿 しんじゅく 区 く に存在 そんざい する“夏目 なつめ 坂 ざか ”は、漱石 そうせき の父 ちち ・直 ちょく 克 かつ により名付 なづ けられた。生誕 せいたん の地 ち の碑 いしぶみ も坂 さか に面 めん している。
家紋 かもん (定紋 じょうもん )が“井桁 いげた に菊 きく ”であることから町名 ちょうめい を喜久井 きくい 町 まち としたのも、直 ちょく 克 かつ であった[ 注釈 ちゅうしゃく 10] 。なお、漱石 そうせき 自身 じしん の家紋 かもん は「菊 きく 菱 ひし 」である。これは漱石 そうせき が長男 ちょうなん でないため、分家 ぶんけ の証 あかし として用 もち いていると考 かんが えられる(本家 ほんけ と分家 ぶんけ は違 ちが う家紋 かもん を用 もち いるのが通常 つうじょう である)。
父 ちち ・直 ちょく 克 かつ 、母 はは ・千枝 ちえだ (ちゑ)に五 ご 男 なん 一 いち 女 じょ があり、漱石 そうせき は五 ご 男 なん である。千枝 ちえだ は直 ちょく 克 かつ の後妻 ごさい であり、伊豆 いず 橋 きょう という新宿 しんじゅく の遊女 ゆうじょ 屋 や の娘 むすめ だった。『夏目 なつめ 漱石 そうせき 人 じん と作品 さくひん 3』 11頁 ぺーじ によると、「遊女 ゆうじょ 屋 や は当時 とうじ はそれほど卑(いや)しい職業 しょくぎょう とみなされず、一種 いっしゅ の社交 しゃこう 場 じょう とされていた。その家族 かぞく は店 みせ と別 べつ に住 す み、遊芸 ゆうげい や茶 ちゃ の湯 ゆ をして過 す ごすというふうで、趣味 しゅみ 的 てき な生活 せいかつ をしていたのである。しかし直 ちょく 克 かつ はやはり世間体 せけんてい を考 かんが えに入 い れた。そこで千枝 ちえ の姉 あね の嫁入 よめい り先 さき の、芝 しば の薩摩 さつま 藩 はん お出入 でい りの炭 すみ 問屋 とんや 高橋 たかはし 長 ちょう 左衛門 さえもん の妹 いもうと として結婚 けっこん したが、表向 おもてむ きは四谷 よつや 大番 おおばん 町 まち の鍵屋 かぎや という質屋 しちや から嫁 とつ いだことにしていた。そのため漱石 そうせき は、終生 しゅうせい 母 はは の実家 じっか は質屋 しちや だと思 おも い込 こ んでいたらしいという。直 ちょく 克 かつ と先妻 せんさい との間 あいだ に二女 じじょ (異母 いぼ 姉 あね )がいる。
三 さん 兄 けい ・和 かず 三郎 さぶろう (夏目 なつめ 直 ただし 矩 のり )の孫 まご に、芸能 げいのう プロダクション経営 けいえい 者 しゃ でVISAカード のCFで漱石 そうせき 役 やく を演 えん じた夏目 なつめ 太郎 たろう (新田 にった 太郎 たろう )がいる[ 31] [ 32] [ 33] 。
三 さん 兄 けい ・和 かず 三郎 さぶろう (夏目 なつめ 直 ただし 矩 のり )の別 べつ の孫 まご に朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ 員 いん (『週刊 しゅうかん 朝日 あさひ 』副 ふく 編集 へんしゅう 長 ちょう 、『アサヒカメラ 』編集 へんしゅう 長 ちょう 、『図書 としょ 』編集 へんしゅう 長 ちょう 、『美術 びじゅつ 図書 としょ 』編集 へんしゅう 長 ちょう などを歴任 れきにん )の角田 つのだ 秀雄 ひでお [ 34] 。
妻 つま - 夏目 なつめ 鏡子 きょうこ との間 あいだ に2男 なん 5女 じょ 。
次女 じじょ ・恒子 つねこ は、『其面影 おもかげ 』を著 あらわ している。
四 よん 女 じょ ・愛子 あいこ は、津田 つだ 青楓 せいふう の少女 しょうじょ 像 ぞう のモデルとなっている。
五 ご 女 じょ ・雛 ひな 子 こ は1歳 さい で亡 な くなっている。その臍 ほぞ の緒 いとぐち が発見 はっけん され、東北大学 とうほくだいがく が購入 こうにゅう している[ 35] 。
子供 こども らの生年月日 せいねんがっぴ は次 つぎ のようになっている。
明治 めいじ 32年 ねん (1899年 ねん )5月 がつ 31日 にち - 長女 ちょうじょ 筆 ひつ 子 こ 誕生 たんじょう 。下記 かき 参照 さんしょう 。
明治 めいじ 34年 ねん (1901年 ねん )1月 がつ 26日 にち - 次女 じじょ 恒子 つねこ 誕生 たんじょう 。江副 えぞえ 家 か に嫁 とつ ぐも離婚 りこん 、昭和 しょうわ 11年 ねん (1936年 ねん )に病死 びょうし する。
明治 めいじ 36年 ねん (1903年 ねん )11月3日 にち - 三 さん 女 じょ 栄子 えいこ 誕生 たんじょう 。生涯 しょうがい 独身 どくしん を貫 つらぬ き母 はは の世話 せわ をした。昭和 しょうわ 54年 ねん (1979年 ねん )に死去 しきょ する。
明治 めいじ 38年 ねん (1905年 ねん )12月14日 にち - 四 よん 女 じょ 愛子 あいこ 誕生 たんじょう 。仲地 なかち 家 か に嫁 とつ ぐ。昭和 しょうわ 56年 ねん (1981年 ねん )に死去 しきょ する。
明治 めいじ 40年 ねん (1907年 ねん )6月 がつ 5日 にち - 長男 ちょうなん 純一 じゅんいつ 誕生 たんじょう 。個別 こべつ 記事 きじ を参照 さんしょう 。
明治 めいじ 41年 ねん (1908年 ねん )12月17日 にち - 次男 じなん 伸六 しんろく 誕生 たんじょう 。個別 こべつ 記事 きじ を参照 さんしょう 。
明治 めいじ 43年 ねん (1910年 ねん )3月 がつ 2日 にち - 五 ご 女 じょ 雛 ひな 子 こ 誕生 たんじょう 。明治 めいじ 44年 ねん (1911年 ねん )11月29日 にち に1歳 さい で死去 しきょ 。
長男 ちょうなん - 夏目 なつめ 純一 じゅんいち (バイオリニスト)
孫 まご - 夏目 なつめ 房 ぼう 之 の 介 かい (漫画 まんが 批評 ひひょう 家 か ・エッセイスト、純一 じゅんいつ の長男 ちょうなん )
曾孫 そうそん - 夏目 なつめ 倫 りん 之 の 介 かい (ライター・エディター、房 ぼう 之 の 介 かい の長男 ちょうなん )
夏目 なつめ 漱石 そうせき 書 しょ 五言 ごごん 絶句 ぜっく 「芳 よし 菲看漸 やや 饒 にょう 韶景蕩 とろけ 詩情 しじょう 却愧丹青 たんせい 枝 えだ 春風 しゅんぷう 描不成 なり 」
漱石 そうせき の門下生 もんかせい とされる者 もの には、作家 さっか だけでなく、様々 さまざま な分野 ぶんや の学者 がくしゃ ・教育 きょういく 者 しゃ ・文化 ぶんか 人 じん が含 ふく まれている。彼 かれ らによって漱石 そうせき の影響 えいきょう は広汎 こうはん な文化 ぶんか 領域 りょういき に及 およ び、大正 たいしょう 後期 こうき から昭和 しょうわ 初期 しょき の知識 ちしき 人 じん の間 あいだ でスタンダードな価値 かち 観 かん を形成 けいせい した。そこで、戸坂 とさか 潤 じゅん はこの時期 じき に「漱石 そうせき 文化 ぶんか 」が成立 せいりつ していた[ 37] とし、その発信 はっしん 源 げん となった門下生 もんかせい の集団 しゅうだん は本多 ほんだ 顕彰 あきら によって漱石 そうせき 山脈 さんみゃく と命名 めいめい されている[ 38] 。門下 もんか の画家 がか とされる津田 つだ 青楓 せいふう の「漱石 そうせき 山 やま 房 ぼう と其弟子 でし 達 たち 」[ 39] が彼 かれ らの姿 すがた を描 えが いた絵画 かいが として有名 ゆうめい で、以下 いか の顔 かお ぶれが見 み られる。
また、以下 いか の作家 さっか も漱石 そうせき 門下 もんか とされている。
更 さら に、以下 いか の学者 がくしゃ ・教育 きょういく 者 しゃ ・文化 ぶんか 人 じん も漱石 そうせき に師事 しじ していた。
漱石 そうせき は彼 かれ らと、自分 じぶん の後継 こうけい 者 しゃ を養成 ようせい するという意味 いみ での師弟 してい 関係 かんけい を結 むす んでいたわけではない。漱石 そうせき が教員 きょういん だった時期 じき の教 おし え子 ご もかなりの割合 わりあい を占 し めているが、多 おお くは木曜 もくよう の面会 めんかい 日 び (所謂 いわゆる 「木曜 もくよう 会 かい 」)を中心 ちゅうしん に客 きゃく としてやって来 き た青年 せいねん で、漱石 そうせき との交流 こうりゅう を通 つう じて強 つよ い感化 かんか を受 う け、門下 もんか を称 しょう するに至 いた ったものである。ただ、漱石 そうせき は木曜 もくよう 会 かい においてもほとんど対等 たいとう の立場 たちば で彼 かれ らと議論 ぎろん しており、徳田 とくた 秋声 しゅうせい は自分 じぶん が師事 しじ した尾崎 おざき 紅葉 こうよう と比 くら べ「漱石 そうせき 氏 し の場合 ばあい は事情 じじょう が少 すこ し違 ちが って、厳密 げんみつ な意味 いみ の師弟 してい 関係 かんけい とはいへない、各人 かくじん は相当 そうとう 自由 じゆう な態度 たいど でゐられたやうに思 おも ふ」という[ 43] 。門下生 もんかせい の一人 ひとり とされる阿部 あべ 次郎 じろう も次 つぎ のように述 の べている。
「若 も し門下生 もんかせい とは、先生 せんせい と正式 せいしき に師弟 してい の約 やく を結 むす んだ者 もの を意味 いみ するならば、自分 じぶん は先生 せんせい には門下生 もんかせい なるものが全 まった くなかったと云 うん ひたい。固 もと より先生 せんせい の周囲 しゅうい には多 おお くの若 わか い人達 ひとたち が集 たか ってゐた。先生 せんせい と此等の人達 ひとたち との間 あいだ には、先輩 せんぱい 及 およ び後輩 こうはい として、今日 きょう の日本 にっぽん の文壇 ぶんだん では他 た に見 み られないほどの親 した しみがあった。併し此等の人達 ひとたち は、先生 せんせい がその道 みち を伝 つた へるために、特 とく に簡抜 かんばつ された人達 ひとたち ではなかった。(中略 ちゅうりゃく )先生 せんせい は唯 ただ その寛容 かんよう な心 しん を以 もっ て、自然 しぜん にその門 もん に集 つど って来 く る青年 せいねん を接見 せっけん して、之 これ と話 はなし をしたり、その相談 そうだん に預 あず かったり、時 とき としてはその世話 せわ をされたりしたに過 す ぎなかった。所謂 いわゆる 先生 せんせい の門下生 もんかせい となるには、唯 ただ 先生 せんせい の風 かぜ を慕 した って、木曜日 もくようび にその家 いえ の客 きゃく となれば足 た りたのである。先生 せんせい と所謂 いわゆる 門下生 もんかせい との関係 かんけい は最初 さいしょ はこれほどの意味 いみ に過 す ぎない。(中略 ちゅうりゃく )先生 せんせい はいつも独立 どくりつ を重 おも んぜられる人 ひと であったから、所謂 いわゆる 門下生 もんかせい に対 たい して自分 じぶん の意見 いけん を強制 きょうせい するやうなことは殆んどないやうに見受 みう けられた。さうして実際 じっさい 先生 せんせい と所謂 いわゆる 門下生 もんかせい との間 あいだ には、随分 ずいぶん 激 はげ しい意見 いけん の扞格 かんかく があった。」[ 44]
また、阿部 あべ 次郎 じろう が挙 あ げている漱石 そうせき 門下 もんか のリストには、白樺 しらかんば 派 は の武者小路 むしゃのこうじ 実篤 さねあつ や志賀 しが 直哉 なおや も含 ふく まれており、長尾 ながお 剛 つよし も彼 かれ らを事実 じじつ 上 じょう の弟子 でし としている[ 45] 。彼 かれ らは文壇 ぶんだん に先輩 せんぱい や師 し を持 も たないというポリシーを持 も っており、漱石 そうせき 門下 もんか を自称 じしょう することはなかったが、当時 とうじ の文壇 ぶんだん で漱石 そうせき を最 もっと も尊敬 そんけい していることを自認 じにん していて、漱石 そうせき も彼 かれ らに目 め をかけていた。彼 かれ らを上記 じょうき の門下生 もんかせい と区別 くべつ して、「直接 ちょくせつ の門下生 もんかせい ではなかった」とする見解 けんかい もある[ 46] が、漱石 そうせき 本人 ほんにん にそのような区分 くぶん 意識 いしき があったわけではない。
門下生 もんかせい のうち、鈴木 すずき 三重吉 みえきち ・小宮 こみや 豊隆 とよたか ・森田 もりた 草平 そうへい ・安倍 あべ 能成 よしなり は漱石 そうせき と親炙 しんしゃ の度合 どあ いが特 とく に強 つよ く、木曜 もくよう 会 かい を中心 ちゅうしん になって仕切 しき っていたので、「漱石 そうせき 門下 もんか の四天王 してんのう 」と称 しょう されている。中 なか でも小宮 こみや 豊隆 とよたか は漱石 そうせき に最 もっと も愛 あい されていたと言 い われ、漱石 そうせき 没 ぼつ 後 ご もその権威 けんい 化 か に努 つと めたことから「漱石 そうせき 神社 じんじゃ の神主 かんぬし 」と揶揄 やゆ されることもあった。第 だい 五 ご 高等 こうとう 学校 がっこう 時代 じだい から漱石 そうせき と深 ふか い信頼 しんらい 関係 かんけい にあった寺田 てらだ 寅彦 とらひこ は門下生 もんかせい 中 ちゅう でも別格 べっかく 扱 あつか いされており、一番 いちばん 弟子 でし と呼 よ ばれることも多 おお い[ 45] 。一方 いっぽう 、野上 のかみ 弥生子 やよこ は木曜 もくよう 会 かい に出席 しゅっせき したことがなく、漱石 そうせき と直接 ちょくせつ 会 あ ったのは数 すう 回 かい だけだったが、瀬沼 せぬま 茂樹 しげき や 大岡 おおおか 昇平 しょうへい から「漱石 そうせき の最 もっと も正統 せいとう な継承 けいしょう 者 しゃ 」と評 ひょう されている[ 47] 。また、漱石 そうせき 文学 ぶんがく の多様 たよう な性格 せいかく のうち、「反 はん 自然 しぜん 主義 しゅぎ の文学 ぶんがく 伝統 でんとう は芥川 あくたがわ 龍之介 りゅうのすけ に、倫理 りんり 性 せい は志賀 しが 直哉 なおや に、浪漫 ろうまん 性 せい は内田 うちだ 百閒 ひゃっけん に」継承 けいしょう されたという見解 けんかい もある[ 48] 。これらの作家 さっか のうち、一般 いっぱん 的 てき 人気 にんき が最 もっと も高 たか いのは芥川 あくたがわ であり、学術 がくじゅつ 面 めん では阿部 あべ 次郎 じろう ・安倍 あべ 能成 よしなり ・和 かず 辻 つじ 哲郎 てつろう が大正 たいしょう 教養 きょうよう 主義 しゅぎ を主導 しゅどう して戦前 せんぜん のアカデミズムに大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたことから、戸坂 とさか 潤 じゅん はこの四 よん 人 にん を「漱石 そうせき 文化 ぶんか の代表 だいひょう 者 しゃ 」としている[ 37] 。出版 しゅっぱん 業界 ぎょうかい において「漱石 そうせき 文化 ぶんか 」を普及 ふきゅう させた最大 さいだい の功労 こうろう 者 しゃ が岩波 いわなみ 茂雄 しげお である。
なお、漱石 そうせき は朝日新聞 あさひしんぶん を、目 め をかけた新進 しんしん を世 よ に出 だ す場 ば ともしており、作家 さっか としては無名 むめい であった森田 もりた 草平 そうへい や中 ちゅう 勘助 かんすけ に『煤煙 ばいえん (小説 しょうせつ ) 』『銀 ぎん の匙 さじ 』を連載 れんさい させ、それが彼 かれ らの出世 しゅっせ 作 さく となった。大正 たいしょう 3(1914)年 ねん 、『こころ』の後 のち の長編 ちょうへん の連載 れんさい を、それまで短編 たんぺん しか発表 はっぴょう していなかった志賀 しが 直哉 なおや に依頼 いらい したのも同様 どうよう の配慮 はいりょ による。志賀 しが はそれを受 う けて長編 ちょうへん 執筆 しっぴつ に取 と り組 く んだが、書 か き悩 なや んで辞退 じたい することになり、漱石 そうせき はその穴埋 あなう めを武者小路 むしゃのこうじ 実篤 さねあつ ・野上 のかみ 弥生子 やよこ らに依頼 いらい している。そのとき武者小路 むしゃのこうじ が発表 はっぴょう した「死 し 」は、彼 かれ が最初 さいしょ にまとまった金 かね を得 え た作 さく となった[ 49] 。(ただ、志賀 しが は書 が き悩 なや みながらも長編 ちょうへん 執筆 しっぴつ を放棄 ほうき せず、昭和 しょうわ 12(1937)年 ねん にようやく完成 かんせい させた。これが彼 かれ の唯一 ゆいいつ の長編 ちょうへん 『暗夜 あんや 行路 こうろ 』である)。また漱石 そうせき は明治 めいじ 42(1909)年 ねん 、「朝日 あさひ 文芸 ぶんげい 欄 らん 」を創設 そうせつ して批評 ひひょう 活動 かつどう の場 ば とし、森田 もりた 草平 そうへい ・小宮 こみや 豊隆 とよたか に編集 へんしゅう を担当 たんとう させた。そこでこの二人 ふたり や阿部 あべ 次郎 じろう ・安倍 あべ 能成 よしなり らが反 はん 自然 しぜん 主義 しゅぎ の論陣 ろんじん を張 は って注目 ちゅうもく されたが、紙面 しめん を私物 しぶつ 化 か しているという批判 ひはん が朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ 内 ない で発生 はっせい し、明治 めいじ 44年 ねん に廃止 はいし された。
大正 たいしょう 4(1915)年 ねん の初夏 しょか 、津 つ 末 まつ ミサオという作家 さっか 志望 しぼう の女性 じょせい が名古屋 なごや から漱石 そうせき の家 いえ を訪 おとず れたが、漱石 そうせき は彼女 かのじょ の文才 ぶんさい を評価 ひょうか せず、「地元 じもと の両親 りょうしん の元 もと で暮 く らし続 つづ けたほうがよい」と勧 すす めた。彼女 かのじょ はその後 ご もたびたび木曜 もくよう 会 かい に出席 しゅっせき していたが、大正 たいしょう 4年 ねん 10月 がつ 6日 にち 、霞ヶ浦 かすみがうら で投身 とうしん 自殺 じさつ を図 はか り、二 に 日 にち 後 ご の時事新報 じじしんぽう に「新 あたら しき
女 おんな の入水 じゅすい 、夏目 なつめ 漱石 そうせき の門 もん に学 まな び、才媛 さいえん の評 ひょう あり」という記事 きじ が漱石 そうせき の談話 だんわ と共 とも に掲載 けいさい された(後 のち に未遂 みすい と判明 はんめい )[ 50] 。漱石 そうせき にとっては来客 らいきゃく という以上 いじょう の関係 かんけい ではなかったが、マスコミは門下生 もんかせい とみなしており、阿部 あべ 次郎 じろう の言葉 ことば にある「所謂 いわゆる 門下生 もんかせい 」の性格 せいかく を裏付 うらづ けるものとなっている。
1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )10月 がつ 18日 にち 付 づけ の『東京 とうきょう 朝日新聞 あさひしんぶん 』に掲載 けいさい された随筆 ずいひつ 『満 まん 韓 かん の文明 ぶんめい 』の記事 きじ において、漱石 そうせき は以下 いか の通 とお り記述 きじゅつ している[ 51] 。
此 こ の
度 たび 旅行 りょこう して
感心 かんしん したのは、
日本人 にっぽんじん は
進取 しんしゅ の
気性 きしょう に
富 と んで
居 い て、
貧乏 びんぼう 世帯 せたい ながら
分相応 ぶんそうおう に
何処 どこ 迄 まで も
発展 はってん して
行 い くと
云 い う
事実 じじつ と
之 これ に
伴 ともな う
経営 けいえい 者 しゃ の
気概 きがい であります。
満 まん 韓 かん を
遊歴 ゆうれき して
見 み ると
成 なり 程 ほど 日本人 にっぽんじん は
頼 よりゆき 母 はは しい
国民 こくみん だと
云 い う
気 き が
起 おこ ります。
従 したがえ つて
何処 どこ へ
行 くだり つても
肩身 かたみ が
広 ひろ くつて
心持 こころもち が
宜 よろし いです。
之 これ に
反 はん して
支 ささえ 那 な 人 じん や
朝鮮 ちょうせん 人 じん を
見 み ると
甚 はなは だ
気 き の
毒 どく になります。
幸 さいわ いにして
日本人 にっぽんじん に
生 うま れていて
仕合 しあわ せだと
思 おも いました。
— 満 まん 韓 かん の文明 ぶんめい
8日 にち 後 ご の10月 がつ 26日 にち に伊藤 いとう 博文 ひろぶみ がハルビン駅 えき で暗殺 あんさつ された伊藤 いとう 博文 ひろぶみ 暗殺 あんさつ 事件 じけん の後 のち 、11月6日 にち 付 づけ の『満 まん 洲 しゅう 日日 ひび 新聞 しんぶん 』に掲載 けいさい された随筆 ずいひつ 『韓 かん 満所 まんしょ 感 かん (下 した )』の記事 きじ では、漱石 そうせき は以下 いか の通 とお り記述 きじゅつ している[ 52] [ 53] 。
歴遊 れきゆう の
際 さい もう
一 ひと つ
感 かん じた
事 こと は、
余 よ は
幸 こう にして
日本人 にっぽんじん に
生 うま れたと
云 うん ふ
自覚 じかく を
得 え た
事 こと である。
内地 ないち に
跼蹐 きょくせき (きょくせき)してゐる
間 あいだ は、
日本人 にっぽんじん 程 ほど 憐 あわ れな
国民 こくみん は
世界中 せかいじゅう にたんとあるまいといふ
考 こう に
始終 しじゅう 圧迫 あっぱく されてならなかつたが、
満 まん 洲 しゅう から
朝鮮 ちょうせん へ
渡 わたり つて、わが
同胞 どうほう が
文明 ぶんめい 事業 じぎょう の
各 かく 方面 ほうめん に
活躍 かつやく して
大 おお いに
優越 ゆうえつ 者 しゃ となつてゐる
状態 じょうたい を
目撃 もくげき して、
日本人 にっぽんじん も
甚 はなは だ
頼 よりゆき 母 はは しい
人種 じんしゅ だとの
印象 いんしょう を
深 ふか く
頭 あたま の
中 なか に
刻 きざ みつけられた。
同時 どうじ に、
余 よ は
支 ささえ 那 な 人 じん や
朝鮮 ちょうせん 人 じん に
生 うま れなくつて、まあ
善 よ かつたと
思 おもえ つた。
彼等 かれら を
眼前 がんぜん に
置 お いて
勝者 しょうしゃ の
意気 いき 込 こみ を
以 もっ て
事 こと に
当 あた るわが
同胞 どうほう は、
真 しん に
運命 うんめい の
寵児 ちょうじ と
云 うん はねばならぬ。
— 韓 かん 満所 まんしょ 感 かん
『韓 かん 満所 まんしょ 感 かん 』は2013年 ねん に発掘 はっくつ された随筆 ずいひつ であるが、比較 ひかく 文学 ぶんがく 者 しゃ の平川 ひらかわ 祐 ゆう 弘 ひろし は、「漱石 そうせき は植民 しょくみん 地 ち 帝国 ていこく の英国 えいこく と張 は り合 あ う気持 きも ちが強 つよ かったせいか、ストレートに日本 にっぽん の植民 しょくみん 地 ち 化 か 事業 じぎょう を肯定 こうてい し、在外 ざいがい 邦人 ほうじん の活動 かつどう を賀 が している。日 にち 韓 かん 併合 へいごう に疑義 ぎぎ を呈 てい した石黒 いしぐろ 忠悳 ただのり や上田 うえだ 敏 さとし のような政治 せいじ 的 てき 関心 かんしん は示 しめ していない。正直 しょうじき に『余 よ は幸 こう にして日本人 にっぽんじん に生 うま れたと云 うん ふ自覚 じかく を得 え た』『余 よ は支 ささえ 那 な 人 じん や朝鮮 ちょうせん 人 じん に生 うま れなくつて、まあ善 よ かつたと思 おもえ つた』と書 か いている。『まあ』に問題 もんだい はあろうが、ともかくも日本 にっぽん 帝国 ていこく 一員 いちいん として発展 はってん を賀 が したのだ」と評 ひょう している[ 54] [ 55] 。
伊藤 いとう 博文 ひろぶみ 暗殺 あんさつ 事件 じけん への反応 はんのう [ 編集 へんしゅう ]
1909年 ねん (明治 めいじ 42年 ねん )11月5日 にち 付 づけ の『満 まん 洲 しゅう 日日 ひび 新聞 しんぶん 』に掲載 けいさい された漱石 そうせき の随筆 ずいひつ 『韓 かん 満所 まんしょ 感 かん (上 うえ )』の記事 きじ において、伊藤 いとう 博文 ひろぶみ の暗殺 あんさつ 事件 じけん に触 ふ れており、「昨夜 さくや 久 ひさ し振 ぶ りに寸 すん 閑を偸(ぬす)んで満 まん 洲 しゅう 日日 ひにち へ何 なに か消息 しょうそく を書 か かうと思 おも ひ立 た つて、筆 ふで を執 と りながら二 に 三 さん 行 ぎょう 認 みと め出 だ すと、伊藤 いとう 公 こう が哈爾浜 はま で狙撃 そげき されたと云 うん ふ号外 ごうがい が来 き た。哈爾浜 はま は余 よ がつい先達 せんだつ て見物 けんぶつ (けぶ)に行 くだり つた所 しょ で、公 おおやけ の狙撃 そげき されたと云 うん ふプラツトフオームは、現 げん に一 いち ケ月 かげつ 前 まえ (ぜん)に余 よ の靴 くつ の裏 うら を押 お し付 つ けた所 ところ だから、希有 けう の兇変 きょうへん と云 うん ふ事実 じじつ 以外 いがい に、場所 ばしょ の連想 れんそう からくる強 つよ い刺激 しげき を頭 あたま に受 う けた」[ 53] などとしたうえで「余 よ の如 ごと き政治 せいじ 上 じょう の門外漢 もんがいかん は(中略 ちゅうりゃく )報道 ほうどう するの資格 しかく がないのだから極 きわ めて平凡 へいぼん な便 たよ り丈 たけ (だけ)に留 と めて置 お く」などと書 か いており、伊藤 いとう 博文 ひろぶみ の暗殺 あんさつ 事件 じけん に対 たい する感想 かんそう が綴 つづ られている。
漱石 そうせき は、歳 とし を重 かさ ねるごとに病気 びょうき がちとなり、トラホーム 、神経 しんけい 衰弱 すいじゃく 、痔 じ 、糖尿 とうにょう 病 びょう 、命取 いのちと りとなった胃潰瘍 いかいよう まで、多数 たすう の病気 びょうき を抱 かか えていた。『硝子 がらす 戸 ど の中 なか 』のように直接 ちょくせつ 自身 じしん の病気 びょうき に言及 げんきゅう した作品 さくひん 以外 いがい にも、『吾輩 わがはい は猫 ねこ である』の苦 く 沙弥 さや 先生 せんせい が胃弱 いじゃく だったり、『明暗 めいあん 』が痔 じ の診察 しんさつ の場面 ばめん で始 はじ まっていたりするなど、小説 しょうせつ にも自身 じしん の病気 びょうき を下敷 したじ きにした描写 びょうしゃ がみられる。「秋風 あきかぜ やひびの入 はい りたる胃 い の袋 ふくろ 」など、病気 びょうき を題材 だいざい にした句 く も多数 たすう ある。
酒 さけ は飲 の めなかったが、胃弱 いじゃく であるにもかかわらずビーフステーキ や中華 ちゅうか 料理 りょうり などの脂 あぶら っこい食事 しょくじ を好 この んだ[ 注釈 ちゅうしゃく 13] 。大 だい の甘党 あまとう で、療養 りょうよう 中 ちゅう には当時 とうじ 貴重 きちょう 品 ひん だったアイスクリーム を欲 ほ しがり、ついには家族 かぞく に無断 むだん で業務 ぎょうむ 用 よう アイスクリーム製造 せいぞう 機 き を取 と り寄 よ せ、妻 つま と大 だい 喧嘩 けんか になったこともある。当時 とうじ 出回 でまわ り始 はじ めたジャム もお気 き に入 い りで、毎日 まいにち のように舐 な め、医師 いし に止 と められるほどだったという[ 注釈 ちゅうしゃく 14] 。
胃弱 いじゃく が原因 げんいん で頻繁 ひんぱん に放屁 ほうひ をしたが、その音 おと が破 やぶ れ障子 しょうじ に風 ふう が吹 ふ きつける音 おと にそっくりだったことから、「破 やぶ 障子 しょうじ 」なる落款 らっかん を作 つく り、使用 しよう していたことがある。
また、漱石 そうせき は天然痘 てんねんとう (疱瘡 ほうそう )にかかっており、自分 じぶん の容姿 ようし に劣等 れっとう 感 かん を抱 だ いていた。しかし当時 とうじ は写真 しゃしん 家 か が修正 しゅうせい を加 くわ えることがよく行 おこな われており、今 いま 残 のこ っている写真 しゃしん には漱石 そうせき が気 き にしていた「あばた」の跡 あと が見受 みう けられない。
精神 せいしん 医学 いがく 上 じょう の研究 けんきゅう 対象 たいしょう [ 編集 へんしゅう ]
漱石 そうせき は、神経 しんけい 衰弱 すいじゃく やうつ病 びょう あるいは統合 とうごう 失調 しっちょう 症 しょう を患 わずら っていたとされている[ 注釈 ちゅうしゃく 15] [ 56] 。このことが当時 とうじ のエリート層 そう の一員 いちいん であり、最上級 さいじょうきゅう のインテリ でもあった漱石 そうせき の生涯 しょうがい および作品 さくひん に対 たい していかに影響 えいきょう を及 およ ぼしているのかが、精神 せいしん 医学 いがく 者 しゃ の病 やまい 跡 あと 学 がく 上 うえ の研究 けんきゅう 対象 たいしょう となっており、実際 じっさい にこれを主題 しゅだい としたいくつかの学術 がくじゅつ 論文 ろんぶん が発表 はっぴょう されている。
望 のぞ まれぬ末子 まっし として江戸 えど の町方 まちかた 名主 なぬし の家 いえ に生 う まれ、薄幸 はっこう な少年 しょうねん 時代 じだい を過 すご した漱石 そうせき が反 はん 官 かん 的 てき (国家 こっか に反抗 はんこう する姿勢 しせい )な態度 たいど を貫 つらぬ いたことに対 たい して、津和野 つわの 藩 はん 典 てん 医 い の長男 ちょうなん として早 はや くから家族 かぞく 中 ちゅう の期待 きたい と愛情 あいじょう により育 そだ てられた森 もり 鷗外 は死 し ぬまで大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん をはじめ国家 こっか 官僚 かんりょう の職 しょく を歴任 れきにん し、官 かん 側 がわ の人間 にんげん であり続 つづ けた、という対照 たいしょう がある。夏目 なつめ 漱石 そうせき は「余裕 よゆう 派 は 」、森 もり 鷗外は「高踏 こうとう 派 は 」と呼 よ ばれた。
しかし、その一方 いっぽう では二 に 人 にん とも「自然 しぜん 主義 しゅぎ 文学 ぶんがく の姿勢 しせい 」とははっきりした距離 きょり を保 たも ちながら洋 よう の東西 とうざい を問 と わぬ広 ひろ い知識 ちしき をもって文学 ぶんがく 活動 かつどう を進 すす め、歪 いが んでいく近代 きんだい 化 か における価値 かち 観 かん の主流 しゅりゅう においても自分 じぶん たちの認識 にんしき をしっかりと見据 みす え、後続 こうぞく の文学 ぶんがく 世代 せだい に相応 そうおう の影響 えいきょう を与 あた えた。
なお、鷗外が1890年 ねん から1年 ねん ほど過 す ごし、『文 ぶん づかひ』などを執筆 しっぴつ した千駄木 せんだぎ の邸宅 ていたく は、後 のち にロンドンより帰国 きこく した漱石 そうせき が1903年 ねん から約 やく 3年 ねん 居住 きょじゅう して『吾輩 わがはい は猫 ねこ である』を著 あらわ した場所 ばしょ でもあったが、現在 げんざい 、同 どう 邸 やしき は愛知 あいち 県 けん 犬山 いぬやま 市 し の博物館 はくぶつかん 明治 めいじ 村 むら に移築 いちく 保存 ほぞん されている[ 57] 。
「晩年 ばんねん の漱石 そうせき は修善寺 しゅぜんじ の大患 たいかん を経 へ て心境 しんきょう 的 てき な変化 へんか に至 いた った」とは、のちの多 おお くの批評 ひひょう 家 か ・研究 けんきゅう 家 か によって語 かた られた論評 ろんぴょう である。また、この心境 しんきょう を表 あらわ す漱石 そうせき 自身 じしん の言葉 ことば として「則 のり 天 てん 去 さ 私 わたし 」という語句 ごく が広 ひろ く知 し られ、『広辞苑 こうじえん 』にも紹介 しょうかい されている。しかしながら、この「則 のり 天 てん 去 さ 私 わたし 」という語 かたり は漱石 そうせき 自身 じしん が文章 ぶんしょう に残 のこ したわけではなく、漱石 そうせき の発言 はつげん を弟子 でし たちが書 か き残 のこ したものであり、その意味 いみ は必 かなら ずしも明確 めいかく ではない。
この点 てん については、小宮 こみや 豊隆 とよたか の書 か いたもの、とりわけ『夏目 なつめ 漱石 そうせき 』(1938)も改 あらた めて精査 せいさ する必要 ひつよう がある[ 注釈 ちゅうしゃく 16] 。
留学 りゅうがく 時 じ の指導 しどう 教授 きょうじゅ 探 さが し[ 編集 へんしゅう ]
熊本 くまもと 在住 ざいじゅう の英国 えいこく 人 じん 宣教師 せんきょうし グレース・ノット の母親 ははおや と親 した しくなり、また渡航 とこう の船 ふね でも相談 そうだん していることは彼 かれ の日記 にっき にある[要 よう 出典 しゅってん ] 。
漱石 そうせき の作品 さくひん には、順序 じゅんじょ の入 い れ替 か え、当 あ て字 じ など言葉 ことば 遊 あそ び の多用 たよう が見 み られる。漱石 そうせき 以前 いぜん に使 つか った形跡 けいせき が見 み られない造 みやつこ 単語 たんご や一般 いっぱん 的 てき に使 つか われている漢字 かんじ とは異 こと なる別種 べっしゅ の綴 つづ りがある。現在 げんざい 、下記 かき の「浪漫 ろうまん 」「沢山 だくさん 」のように一般 いっぱん 用語 ようご 化 か されたものも多 おお いが、漢字 かんじ 検定 けんてい の上級 じょうきゅう 問題 もんだい として用 もち いられることも多 おお い。
例 れい
単簡 たんかん (簡単 かんたん )
笑 わらい 談 だん (冗談 じょうだん )
八 はち 釜 がま しい(やかましい)
非道 ひどう い(ひどい)
浪漫 ろうまん (ロマン)
沢山 たくさん (たくさん)
月並 つきな み(つきなみ)[ 58] 東大 とうだい 予備 よび 門 もん 時代 じだい の同窓生 どうそうせい 正岡子規 まさおかしき が旧派 きゅうは が毎月 まいつき の一 いち 日 にち に行 おこな う句会 くかい を「月並 つきなみ 俳句 はいく 」と呼 よ んだことから。転 てん じて「ありきたりで面白 おもしろ みに欠 か けるもの」という意味 いみ として定着 ていちゃく 。
案 あん 排 はい (あんばい)[ 59] 普通 ふつう は「塩梅 あんばい 」や「案 あん 配 はい 」と書 か く。ATOK などのワープロ で変換 へんかん しても候補 こうほ として出 で てこない。
烈 れつ 敷 じき (はげしく)[ 60] 普通 ふつう は「激 はげ しく」。そもそも引用 いんよう 元 もと の「坑夫 こうふ 」は「鉱夫 こうふ 」と書 か くのが普通 ふつう 。
「兎 うさぎ に角 かく 」(とにかく)のように一般 いっぱん 的 てき な用法 ようほう として定着 ていちゃく したものもあると言 い われている。しかし、漱石 そうせき が生 い きた時代 じだい は現在 げんざい では使 つか われない当 あ て字 じ が多 おお く用 もち いられており、たとえば「バケツ」を「馬尻 うまじり 」と書 か くのも当時 とうじ としてはごく一般 いっぱん 的 てき であり、「単簡 たんかん 」などは当時 とうじ の軍隊 ぐんたい 用語 ようご であるなど、漱石 そうせき 固有 こゆう の当 あ て字 じ や言葉 ことば 遊 あそ びであるということは、漱石 そうせき 以前 いぜん の全 すべ ての資料 しりょう を確認 かくにん しない限 かぎ り、確定 かくてい はできない。
「新陳代謝 しんちんたいしゃ 」「反射 はんしゃ 」「無意識 むいしき 」「価値 かち 」「電力 でんりょく 」「肩 かた が凝 こご る」などは漱石 そうせき の造語 ぞうご であると言 い われているが、実際 じっさい には漱石 そうせき よりも古 ふる い用例 ようれい がある。一 いち 例 れい としては、漱石 そうせき が「肩 かた が凝 こご る 」という言葉 ことば を作 つく ったとする説 せつ があるが、18世紀 せいき 末 まつ 頃 ごろ (江戸 えど 時代 じだい 後期 こうき )からの歌舞伎 かぶき 、滑稽本 こっけいぼん に用例 ようれい が見 み られる。学術 がくじゅつ 的 てき に「漱石 そうせき の造語 ぞうご 」であると言 い える言葉 ことば はまだ一語 いちご も確認 かくにん されていないが、「浪漫 ろうまん 」については『教育 きょういく と文芸 ぶんげい 』中 ちゅう に「適当 てきとう の訳 わけ 字 じ がないために私 わたし が作 つく って浪漫 ろうまん 主義 しゅぎ として置 お きました」との記述 きじゅつ がある[ 注釈 ちゅうしゃく 17] 。
日本人 にっぽんじん が作 つく った漢詩 かんし の中 なか には平仄 ひょうそく が合 あ っていても中国 ちゅうごく 語 ご での声調 せいちょう まで意識 いしき していないものもあるため、中国 ちゅうごく 語 ご で吟 ぎん じられた場合 ばあい には優 すぐ れた漢詩 かんし とされにくい場合 ばあい がある。しかし、漱石 そうせき の漢詩 かんし は中国 ちゅうごく 語 ご で吟 ぎん じられても美 うつく しい[ 61] とされ、2006年 ねん (平成 へいせい 17年 ねん )には『中国 ちゅうごく 語 ご で聞 き く 夏目 なつめ 漱石 そうせき 漢詩 かんし 選 せん 』(耕 こう 文 ぶん 社 しゃ )というCDつきの書籍 しょせき も出版 しゅっぱん されている。
漱石 そうせき の漢詩 かんし についての先駆 せんく 的 てき 研究 けんきゅう 書 しょ としては、吉川 よしかわ 幸次郎 こうじろう 『漱石 そうせき 詩 し 注 ちゅう 』(1967年 ねん (昭和 しょうわ 42年 ねん ))があるが[ 62] 、これは漱石 そうせき の造詣 ぞうけい が深 ふか かった禅 ぜん の用語 ようご などに関 かん しては注釈 ちゅうしゃく がないなどの不備 ふび があるとされている(『週刊 しゅうかん 読書 どくしょ 人 じん 』勝又 かつまた 浩 ひろし )。またそれに先立 さきだ ち、1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )、娘 むすめ 婿 むこ の松岡 まつおか 讓 ゆずる が『漱石 そうせき の漢詩 かんし 』[ 注釈 ちゅうしゃく 18] を出版 しゅっぱん している。2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )に作家 さっか の古井 ふるい 由吉 よしきち により『漱石 そうせき の漢詩 かんし 』[ 63] が発表 はっぴょう された[ 注釈 ちゅうしゃく 19] 。禅 ぜん の観点 かんてん から注釈 ちゅうしゃく されたものとしては飯田 いいだ 利行 としゆき 『新訳 しんやく 漱石 そうせき 詩集 ししゅう 』[ 64] がある。ほかに和田 わだ 利男 としお 『漱石 そうせき の漢詩 かんし 』[ 65] がある。2016年 ねん 1月 がつ 25日 にち に二松学舎大学 にしょうがくしゃだいがく が、漱石 そうせき 直筆 じきひつ の漢 かん 詩文 しぶん 屏風 びょうぶ を古書 こしょ 店 てん から購入 こうにゅう したと発表 はっぴょう した。屏風 びょうぶ は2枚 まい 折 お り1対 つい 、1枚 まい が縦 たて 1m62、横 よこ 80cm。内容 ないよう は『禅林 ぜんりん 句集 くしゅう 』から春夏秋冬 しゅんかしゅうとう の場面 ばめん が選 えら ばれていた[ 66] 。
早稲田南 わせだみなみ 町 まち の漱石 そうせき 山 やま 房 ぼう は第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう に空襲 くうしゅう で焼失 しょうしつ したが、小宮 こみや 豊隆 とよたか が館長 かんちょう を務 つと めた縁 えん で蔵書 ぞうしょ ・日記 にっき 等 とう の自筆 じひつ 資料 しりょう の大半 たいはん が東北大学 とうほくだいがく 付属 ふぞく 図書館 としょかん に移動 いどう されており焼失 しょうしつ を免 まぬか れている。東北大学 とうほくだいがく では「夏目 なつめ 漱石 そうせき ライブラリ」として研究 けんきゅう 者 しゃ へ公開 こうかい している。近年 きんねん では原稿 げんこう 用紙 ようし の劣化 れっか が進 すす んでいるため、2019年 ねん にはデジタルアーカイブとして保存 ほぞん する資金 しきん をクラウドファンディング で調達 ちょうたつ した[ 67] 。
神奈川 かながわ 近代文学館 きんだいぶんがくかん では遺族 いぞく から提供 ていきょう された書画 しょが や落款 らっかん 印 しるし の画像 がぞう を「Web版 ばん 夏目 なつめ 漱石 そうせき デジタル文学 ぶんがく 館 かん 」として公開 こうかい している。
日本 にっぽん での絶大 ぜつだい な名声 めいせい に比較 ひかく すると、欧米 おうべい での知名度 ちめいど はそれほど高 たか いとは言 い えないものの、英語 えいご 圏 けん では主要 しゅよう な作品 さくひん のいくつかが訳 やく されており、一定 いってい の評価 ひょうか を得 え ている。
1960年代 ねんだい に、英国 えいこく 人 じん アラン・ターニー による『草枕 くさまくら 』の英訳 えいやく "The Three Cornered World" が刊行 かんこう された。これはカナダ のピアニストのグレン・グールド が愛読 あいどく するところとなり、晩年 ばんねん に、自 みずか らラジオ番組 ばんぐみ で一部分 いちぶぶん を朗読 ろうどく したことがある[ 68] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の批評 ひひょう 家 か のスーザン・ソンタグ は、「死後 しご の生 なま マシャード・デ・アシス」(『書 か くこと、ロラン・バルトについて』所収 しょしゅう )の中 なか で漱石 そうせき について、「ヨーロッパ中心 ちゅうしん の世界 せかい 文学 ぶんがく 観 かん が端 はし に押 お しやってしまったもうひとりの多才 たさい な天才 てんさい 、夏目 なつめ 漱石 そうせき 」と評 ひょう している。
イギリス の批評 ひひょう 家 か で、2005年 ねん に『倫敦 ろんどん 塔 とう 』の翻訳 ほんやく "The Tower of London" を刊行 かんこう したダミアン・フラナガンは、漱石 そうせき をシェイクスピア やゲーテ などに並 なら ぶ世界 せかい 的 てき な文豪 ぶんごう であると評価 ひょうか したうえで、イギリスなど欧米 おうべい ではほとんど漱石 そうせき が認知 にんち されておらず、その理由 りゆう として、川端 かわばた 康成 やすなり や三島 みしま 由紀夫 ゆきお のような「日本 にっぽん らしさ」が漱石 そうせき には感知 かんち されないためではないかとしている。しかしフラナガンによれば、漱石 そうせき は単 たん に「日本 にっぽん 文学 ぶんがく 」を代表 だいひょう するのみならず、人間 にんげん や心 しん の普遍 ふへん 性 せい を探求 たんきゅう した世界 せかい 文学 ぶんがく であり、現在 げんざい はそのように認知 にんち されていないが、シェイクスピアが世界 せかい 的 てき な評価 ひょうか を得 え るに至 いた ったのは、レッシング やゲーテなどドイツ・ロマン派 は によるところが大 おお きいことを引用 いんよう しながら賞賛 しょうさん している[ 69] 。
アメリカの比較 ひかく 文学 ぶんがく 者 しゃ ジェイ・ルービン (Jay Rubin)の英訳 えいやく "Sanshiro A Novel" (トロント大学 だいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく )に添付 てんぷ された自身 じしん 執筆 しっぴつ の評論 ひょうろん "SANSHIRO AND SOSEKI: A Critical Essay" は『三四郎 さんしろう 』論 ろん として包括 ほうかつ 的 てき で優 すぐ れている。漱石 そうせき 全集 ぜんしゅう の本文 ほんぶん を厳密 げんみつ に引用 いんよう ・英訳 えいやく するルビンの姿勢 しせい には、漱石 そうせき が世界 せかい 文学 ぶんがく の仲間入 なかまい りをしていることを如実 にょじつ に感 かん じさせる。ルビンは他 ほか にも『坑夫 こうふ 』などを英訳 えいやく している。
中国 ちゅうごく ・台湾 たいわん ・韓国 かんこく ではよく知 し られており、多 おお くの作品 さくひん が中国 ちゅうごく 語 ご や韓国 かんこく 語 ご に訳 やく されている。中国語 ちゅうごくご 圏 けん では周作 しゅうさく 人 じん により紹介 しょうかい されて以来 いらい 、多 おお くの読書 どくしょ 人 じん に愛 あい されてきた。韓国 かんこく でも古 ふる くから漱石 そうせき 作品 さくひん が親 した しまれてきたが、1990年代 ねんだい 以降 いこう 特 とく に人気 にんき が高 たか まり、「漱石 そうせき ブーム」と言 い われるほどになった。
作品 さくひん における差別 さべつ 表現 ひょうげん 問題 もんだい [ 編集 へんしゅう ]
『坑夫 こうふ 』における「芋 いも 中 ちゅう の穢 けがれ 多 おお 」(芋 いも の中 なか で最下 さいか 等 とう のもの、の意 い )との表現 ひょうげん が問題 もんだい 視 し され、角川書店 かどかわしょてん はこの語 かたり を伏字 ふせじ にしたが、巻末 かんまつ の注 ちゅう で「特殊 とくしゅ 部落 ぶらく の人々 ひとびと への蔑称 べっしょう 」と記述 きじゅつ したためにかえって問題 もんだい となり、1981年 ねん 初 はじ めに部落 ぶらく 解放 かいほう 同盟 どうめい から糾弾 きゅうだん された[ 70] 。このくだりは、『夏目 なつめ 漱石 そうせき 全集 ぜんしゅう 4』(ちくま文庫 ぶんこ )でも「芋 いも 中 ちゅう のヽヽ」と伏字 ふせじ になっている。
その他 た 、1994年 ねん 3月 がつ には『坊 ぼう つちやん』における「小使 こづかい 」(学校 がっこう 用務員 ようむいん )の語 かたり がNHK-FM放送 ほうそう の朗読 ろうどく の時間 じかん に問題 もんだい となり、「それだから中学校 ちゅうがっこう の小使 こづかい なんぞをしてるんだ」などの文章 ぶんしょう をそのまま読 よ み上 あ げたうえで、朗読 ろうどく 終了 しゅうりょう 後 ご にアナウンサーが弁解 べんかい したことがある[ 71] 。しかし、1994年 ねん 4月 がつ からの『吾輩 わがはい は猫 ねこ である』では「盲 めくら ( めくら ) 」「跛 ちんば ( びっこ ) 」などの表現 ひょうげん が問題 もんだい となり、これらの語 かたり は飛 と ばして朗読 ろうどく された[ 71] 。
また、漱石 そうせき は1913年 ねん から1914年 ねん にかけて、播州 ばんしゅう 坂越 さこし の岩崎 いわさき 太郎 たろう 次 じ と名乗 なの る者 もの から缶 かん 入 い りの茶 ちゃ を贈 おく られ、富士 ふじ 登山 とざん の絵 え に賛 さん をしてくれ、赤穂 あこう 義士 ぎし に関 かん する俳句 はいく を書 か いてくれとねだられたが断 ことわ ったことがある[ 72] 。すると岩崎 いわさき は「書 か かないなら茶 ちゃ を返 かえ せ」としつこく要求 ようきゅう を繰 く り返 かえ した[ 72] 。漱石 そうせき は岩崎 いわさき の言動 げんどう にあきれて「何 なに (ど)うも穢 けがれ 多 た か猶 なお 太 ふとし 人 じん でもなけりや、こんな鄙 ひな 嗇(けち)なことは云 うん はなかろう」と疑 うたが い、播州 ばんしゅう 近 ちか くの男 おとこ に岩崎 いわさき の地元 じもと を調 しら べさせた。すると「坂越 さこし と云 うん ふは播州 ばんしゅう でも素封 そほう 家 か の揃 そろい つて居 い る所 ところ ださうだ」との回答 かいとう であった[ 73] [ 74] 。
現在 げんざい は、作者 さくしゃ が故人 こじん でありかつ文学 ぶんがく 作品 さくひん であることから、これらが差別 さべつ 用語 ようご であることを認 みと めたうえで、そのまま掲載 けいさい されていることが多 おお い。このような取 と り扱 あつか いは他 た の故人 こじん の作家 さっか でも同様 どうよう であることが多 おお い[ 注釈 ちゅうしゃく 20] 。なお漱石 そうせき には「穢 けがれ 多 た 寺 てら (えたでら)へ嫁 とつ ぐ憐 あわ れや年 とし の暮 くれ 」の句 く もある[ 75] 。
漱石 そうせき が英語 えいご 教師 きょうし をしていたときに、“I love you.”を「我 わが 君 きみ を愛 あい す」と生徒 せいと が訳 やく したので、漱石 そうせき は「月 つき が綺麗 きれい ですね」とロマンチックに訳 やく せと教 おし えた、という逸話 いつわ がある。
ただし漱石 そうせき の著作 ちょさく や記録 きろく にはそのような話 はなし は残 のこ されておらず、また漱石 そうせき や彼 かれ に近 ちか しい人 ひと からそれを聞 き いたという文献 ぶんけん ・記録 きろく も存在 そんざい しない[ 76] 。
また似 に たような話 はなし は1970年代 ねんだい 末 まつ にも存在 そんざい し、そちらでは「月 つき がとっても青 あお いなあ」[ 77] ・「月 つき がとっても青 あお いから」[ 78] と訳 やく したとされている[ 79] 。しかし典拠 てんきょ が不明 ふめい で[ 80] 、1970年代 ねんだい 頃 ごろ から言 い われ始 はじ めた逸話 いつわ であることから、これは後世 こうせい の者 もの による創作 そうさく で、今 いま では都市 とし 伝説 でんせつ になったとされている[ 76] 。
映画 えいが
テレビドラマ
アニメーション
その他 た
CM
夏目 なつめ 太郎 たろう (新田 にった 太郎 たろう )-(2008年 ねん )VISAカードのCFで漱石 そうせき 役 やく を演 えん じる
「文化 ぶんか 人 じん 切手 きって (第 だい 1次 じ )」1950年 ねん 4月 がつ 10日 とおか 発行 はっこう 、8円 えん 切手 きって 。
「20世紀 せいき デザイン切手 きって シリーズ 第 だい 1集 しゅう 」1999年 ねん 8月 がつ 23日 にち 発行 はっこう 。10種 しゅ シート中 ちゅう の50円 えん 切手 きって 2種 しゅ に『吾輩 わがはい は猫 ねこ である』および『坊 ぼ っちゃん』初 はつ 版本 はんぽん 表紙 ひょうし 、シート背景 はいけい に漱石 そうせき の肖像 しょうぞう 。[ 81]
「近代 きんだい 俳句 はいく のふるさと 松山 まつやま 」2009年 ねん 9月 がつ 1日 にち 発行 はっこう 。80円 えん 切手 きって 5種 しゅ のうちの1種 しゅ に漱石 そうせき の句 く 「送 おく 子規 しき 御 ご 立 た ちやるか 御 ご 立 た ちやれ 新酒 しんしゅ 菊 きく の花 はな 」。[ 82]
^ 当時 とうじ は学校 がっこう のあった地名 ちめい をとって一ツ橋 ひとつばし 中学 ちゅうがく ないし一ツ橋 ひとつばし 尋常 じんじょう 中学 ちゅうがく とも呼 よ ばれた。
^ 現在 げんざい の成立 せいりつ 学園 がくえん とは無関係 むかんけい 。
^ スコットランド 出身 しゅっしん のジェームズ・マードック にかわいがられ、教室 きょうしつ 以外 いがい でも先生 せんせい の家 いえ に招 まね かれて教 おし えられ、「マードックさんは僕 ぼく の先生 せんせい だ。……英国 えいこく 人 じん もあんな人 ひと 許 もと (ばかり)だと結構 けっこう だが」と野間 のま 真 しん 綱 つな 宛 あ ての書簡 しょかん に書 か いたり、マードックの『日本 にっぽん 史 し 』に推薦 すいせん 文 ぶん を書 か いたりしている(平川 ひらかわ 祐 ゆう 弘 ひろし 『漱石 そうせき の師 し マードック先生 せんせい 』講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 1884年 ねん )。
^ 狩野 かの 宛 あて 書簡 しょかん に「洋行 ようこう 中 ちゅう に英国 えいこく 人 じん は馬鹿 ばか だと感 かん じて帰 き つて来 き た。日本人 にっぽんじん が英国 えいこく 人 じん を真似 まね ろ\/と云 うん ふのは何 なに を真似 まね ろと云 うん ふのか今 いま 以 もっ て分 わ からない」と書 か いている。
^ この様子 ようす ではいつまで嘆願 たんがん をしていても、とうてい見込 みこみ がないと思 おも い切 き った武 たけ 右 みぎ 衛門 えもん 君 くん は突然 とつぜん かの偉大 いだい なる頭蓋骨 ずがいこつ を畳 たたみ の上 うえ に圧 あつ しつけて、無言 むごん の裡 うら に暗 あん に訣別 けつべつ の意 い を表 あらわ した。主人 しゅじん は「帰 かえ るかい」と云 ゆ った。武 たけ 右 みぎ 衛門 えもん 君 くん は悄然 しょうぜん として薩摩下駄 さつまげた を引 ひ きずって門 もん を出 で た。可 か 愛想 あいそ に。打 だ ちゃって置 お くと巌 いわお 頭 あたま の吟 ぎん でも書 か いて華厳 けごん 滝 たき から飛 と び込 こ むかも知 し れない。
「しかし愚 ぐ じゃないか、知 し りもしないところへ、いたずらに艶 つや 書 しょ を送 おく るなんて、まるで常識 じょうしき をかいてるじゃないか」 「いたずらは、たいがい常識 じょうしき をかいていまさあ。救 すく っておやんなさい。功徳 くどく になりますよ。あの容子 ようす じゃ華厳 けごん の滝 たき へ出掛 でか けますよ 」
^ 夏目 なつめ 漱石 そうせき 『草枕 くさまくら 』新潮社 しんちょうしゃ 、1950年 ねん 11月25日 にち 、155-156頁 ぺーじ 。 昔 むかし し巌 いわお 頭 あたま の吟 ぎん を遺 のこ して、五 ご 十 じゅう 丈 たけ の飛瀑 ひばく を直下 ちょっか して急湍 きゅうたん に赴 おもむ いた青年 せいねん がある。余 よ の視 み るところにては、彼 かれ の青年 せいねん は美 び の一 いち 字 じ のために、捨つべからざる命 いのち を捨 す てたるものと思 おも う。死 し そのものは洵 まこと に壮烈 そうれつ である、ただその死 し を促がすの動機 どうき に至 いた っては解 かい しがたい。されども死 し そのものの壮烈 そうれつ をだに体 たい し得 え ざるものが、いかにして藤村 ふじむら 子 こ の所作 しょさ を嗤い得 え べき。彼 かれ らは壮烈 そうれつ の最後 さいご を遂 とげ ぐるの情趣 じょうしゅ を味 あじ い得 え ざるが故 ゆえ に、たとい正当 せいとう の事情 じじょう のもとにも、とうてい壮烈 そうれつ の最後 さいご を遂 と げ得 う べからざる制限 せいげん ある点 てん において、藤村 ふじむら 子 こ よりは人格 じんかく として劣等 れっとう であるから、嗤う権利 けんり がないものと余 よ は主張 しゅちょう する。
^ 夏目 なつめ 伸六 しんろく の『父 ちち ・漱石 そうせき とその周辺 しゅうへん 』によれば次 つぎ のよう。ふと眼 め を開 あ けた父 ちち の最期 さいご の言葉 ことば は、
「何 なに か喰 く いたい」
という、この期 き に及 およ んで未 いま だに満 みた し得 え ぬ食欲 しょくよく への切実 せつじつ な願望 がんぼう だったのである。で、早速 さっそく 、医者 いしゃ の計 はから いで一 いち 匙 さじ の葡萄酒 ぶどうしゅ が与 あた えられることになったが、
「うまい」
父 ちち は最後 さいご の望 のぞ みをこの一 いち 匙 さじ の葡萄酒 ぶどうしゅ のなかに味 あじ わって、又 また 静 しず かに眼 め を閉 と じたのである。
^ 彼 かれ は其所で疱瘡 ほうそう をした。大 おお きくなつて聞 き くと、種痘 しゅとう が元 もと で、本 ほん 疱瘡 ほうそう を誘 さそ ひ出 だ したのだといふ話 はなし であつた。彼 かれ は暗 くら い簾 すだれ 子 こ のうちで転 ころ げ廻 めぐ つた。身 み の肉 にく を所 ところ 嫌 いや はず掻 か きむしつて泣 な き叫 さけ んだ。〉「道草 みちくさ 」(39)
^ 茂木 もき 健一郎 けんいちろう 所蔵 しょぞう 。『アナザースカイ 』(日本 にほん テレビ ) 2009年 ねん 7月 がつ 3日 にち 放映 ほうえい 分 ぶん にて披露 ひろう 。100万 まん 円 えん で購入 こうにゅう したそうである。
^ 『硝子 がらす 戸 ど の中 なか 』に関連 かんれん する記述 きじゅつ あり。喜久井 きくい 町 まち #地名 ちめい の由来 ゆらい 参照 さんしょう 。
^ 松岡 まつおか 陽子 ようこ マックレイン の息子 むすこ (米国 べいこく 籍 せき )は、息子 むすこ (つまり漱石 そうせき の玄孫 げんそん )のミドルネームに Soseki と命名 めいめい した。
^ 菊池 きくち 寛 ひろし との親交 しんこう が深 ふか かったことで、「父 ちち ・夏目 なつめ 漱石 そうせき 」(文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 社 しゃ )を発表 はっぴょう した。
^ 門下生 もんかせい が集 あつ まれば必 かなら ず牛鍋 ぎゅうなべ を囲 かこ む。羊羹 ようかん 、お汁粉 しるこ 、ケーキなど甘 あま いものが好 す きで、特 とく にお気 き に入 い りは自家製 じかせい アイスクリームだった。胃弱 いじゃく のためには大量 たいりょう の鶏肉 とりにく を使 つか ったスープを飲 の んでいたという。なぜか鳥類 ちょうるい のもらい物 もの も多 おお かった。シャモ、カモ、山鳥 やまどり 、キジなどで、知人 ちじん 宅 たく での雁 かり の料理 りょうり に舌鼓 したつづみ を打 う ったこともあったらしい(河内 かわうち 一郎 いちろう 『漱石 そうせき 、ジャムを舐 な める』新潮 しんちょう 文庫 ぶんこ )
^ 「吾輩 わがはい は-」には1か月 げつ に8缶 かん も舐 な めたとの記述 きじゅつ がある。
^ 医師 いし の松本 まつもと 健次郎 けんじろう は「漱石 そうせき 非 ひ 精神病 せいしんびょう 説 せつ 」を主張 しゅちょう している。漱石 そうせき の精神病 せいしんびょう 説 せつ の根拠 こんきょ は熊本 くまもと の五 ご 高 だか を辞職 じしょく する時 とき に出 だ された神経 しんけい 衰弱 すいじゃく の診断 しんだん 書 しょ と、妻 つま 、夏目 なつめ 鏡子 きょうこ の回想 かいそう 記 き 『漱石 そうせき の思 おも ひ出 で 』などに描 えが かれた漱石 そうせき の言動 げんどう の記述 きじゅつ や、同書 どうしょ で東大 とうだい 精神 せいしん 科 か の呉 ご 秀三 しゅうぞう が、漱石 そうせき を診断 しんだん し、鏡子 きょうこ に漱石 そうせき が病気 びょうき であると告 つ げたという記述 きじゅつ があることであるが、辞職 じしょく のために、五 ご 高 だか に提出 ていしゅつ した診断 しんだん 書 しょ も書 か いた呉 ご は、漱石 そうせき が親 した しい菅 かん 虎雄 とらお の親友 しんゆう であり、また夏目 なつめ 家 か の家庭 かてい 医 い 、尼子 あまこ 四郎 しろう とも親 した しかった。当時 とうじ 、実家 じっか に戻 もど っていた、鏡子 きょうこ を、尼子 あまこ を通 とお した依頼 いらい で呉 ご が説得 せっとく した言葉 ことば が、鏡子 きょうこ のなかで漱石 そうせき が精神病 せいしんびょう 者 しゃ であるという記憶 きおく に変 か わっていったのではないかと主張 しゅちょう している。『漱石 そうせき の思 おも ひ出 で 』の記述 きじゅつ を引用 いんよう しただけの漱石 そうせき の病 やまい 跡 あと 学 がく は学問 がくもん 的 てき でないと主張 しゅちょう している。『漱石 そうせき の精神 せいしん 界 かい 』松本 まつもと 健次郎 けんじろう (著 ちょ ) 金剛 こんごう 出版 しゅっぱん (1981/01) ISBN 4772401377
^ 山下 やました 浩 ひろし 、初 はつ 校 こう ゲラを通 とお してみた小宮 こみや 豊隆 とよたか の『夏目 なつめ 漱石 そうせき 』 を参照 さんしょう 。
^ これより前 まえ に漱石 そうせき が使用 しよう した例 れい としては「同時 どうじ にスコット一派 いっぱ の浪漫 ろうまん 派 は を生 う まんがために存在 そんざい した時期 じき である。」(『野分 のわけ 』11章 しょう 、1907年 ねん 1月 がつ )が最 もっと も早 はや い。また翌年 よくねん の講演 こうえん 『創作 そうさく 家 か の態度 たいど 』では「浪漫 ろうまん 派 は 」「浪漫 ろうまん 主義 しゅぎ 」の語句 ごく が多 おお く用 もち いられている。
^ 初版 しょはん は十字屋 じゅうじや 書店 しょてん 。昭和 しょうわ 41年 ねん (1966年 ねん )に、朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ で新装 しんそう 再刊 さいかん 。
^ たとえば押韻 おういん の問題 もんだい について全 まった く踏 ふ まえていないなどの問題 もんだい があるとされる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
^ 夏目 なつめ 漱石 そうせき 他 た 著 ちょ の小説 しょうせつ 文庫 ぶんこ 版 ばん の巻末 かんまつ 参照 さんしょう
^ a b c 『夏目 なつめ 漱石 そうせき 人 じん と作品 さくひん 3』 9頁 ぺーじ
^ 『夏目 なつめ 漱石 そうせき 人 じん と作品 さくひん 3』 13頁 ぺーじ
^ 佐古 さこ 純一郎 じゅんいちろう 「夏目 なつめ 漱石 そうせき と二松學舎 にしょうがくしゃ 」『二松學舎 にしょうがくしゃ 百 ひゃく 年 ねん 史 し 』1977年 ねん 、289-291頁 ぺーじ 。
^ 東北大学 とうほくだいがく 附属 ふぞく 図書館 としょかん ・夏目 なつめ 漱石 そうせき ライブラリ「漱石 そうせき の生涯 しょうがい -学生 がくせい 時代 じだい 」[1]
^ 夏目 なつめ 漱石 そうせき は兵役 へいえき 逃 のが れのため北海道 ほっかいどう に転籍 てんせき したと聞 き いたが、そのことについて書 か かれた本 ほん はあるか。|レファレンス協同 きょうどう データベース
^ 森下 もりした 恭 きょう 光 こう 「教師 きょうし 夏目 なつめ 金之助 きんのすけ の研究 けんきゅう (四 よん )」(明星大学 めいせいだいがく 教育 きょういく 学 がく 研究 けんきゅう 紀要 きよう (第 だい 15) 2000年 ねん )[2] P.35、PDF-P.2
^ このさい嘉納 かのう は「そう正直 しょうじき に断 こと わられると、ますますあなたに来 き ていただきたくなった」と応 おう じ夏目 なつめ を離 はな さなかった。夏目 なつめ 漱石 そうせき 「私 わたし の個人 こじん 主義 しゅぎ 」(1914年 ねん )、青空 あおぞら 文庫 ぶんこ [3] [4]
^ 森下 もりした 恭 きょう 光 こう 「教師 きょうし 夏目 なつめ 金之助 きんのすけ の研究 けんきゅう (四 よん )」(明星大学 めいせいだいがく 教育 きょういく 学 がく 研究 けんきゅう 紀要 きよう (第 だい 15) 2000年 ねん )[5] P.P.36-37、PDF-P.P.3-4
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1部 ぶ ISBN 4106001268 、2部 ぶ ISBN 4106001276 、3部 ぶ ISBN 410600447X 、4部 ぶ ISBN 4106005050 、5部 ぶ ISBN 4106005751 、数 すう 回 かい を残 のこ し(作者 さくしゃ の死 し で)未完 みかん となった。
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