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三國演義 - 維基百科,自由的百科全書 とべいたり內容

さんこく演義えんぎ

維基百科ひゃっか自由じゆうてき百科全書ひゃっかぜんしょ
さんこく演義えんぎ
作者さくしゃ貫中かんちゅう
類型るいけい歷史れきし小說しょうせつ
かたりげんちゅう文書ぶんしょ面語めんご
文字もじちゅうぶん
出版しゅっぱん時間じかん14世紀せいき 編輯維基數據
出版しゅっぱん地點ちてん中國ちゅうごく
さんこく演義えんぎ
正體しょうたい さんこく演義えんぎ
簡化 さんこくえんじ

さんこく演義えんぎ》,ぜんめいため三國志さんごくし通俗つうぞく演義えんぎ》,またたたえさく三國志さんごくし演義えんぎ》、《三國志さんごくしでん》、《三國みくにつたえ》、《さんこくぜんつて》、《三國みくに英雄ひでおこころざしでん》,中國ちゅうごく文學ぶんがく史上しじょうだい一部いちぶ長篇ちょうへん歷史れきし演義えんぎあきらかい小說しょうせつ[1]:156作者さくしゃ一般被認為是もとすえあきらはつてき貫中かんちゅう[2]根據こんきょ三國志さんごくし》、《三國志さんごくし平話へいわあらためうつし小說しょうせつ中國ちゅうごく古典こてん小說しょうせつよんだい名著めいちょこれいちよんだい奇書きしょこれいち[3]

起源きげんあずか版本はんぽん

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せいざい閱讀文章ぶんしょうてきりゅうせきはねちょうさんにん日本にっぽん

三國故事在中國民間流行久遠。ずいあさ大業おおわざ拾遺しゅうい記載きさいずい煬帝かん曹操そうそう譙溪げきみずちてきざつおどけとうはつりゅうともいくふみどおりゆうしょかずらのうはしなまなかたちてき故事こじたとえそうもと時代じだい盛行せいこう都市としゆうらく場之ばの說話せつわ題材だいざい多樣たよう作品さくひん眾多,其中さい歡迎かんげい就是取材しゅざい於三こく時代じだい歷史れきしせつさんふん[4]:8そうもと時代じだいそく搬上舞台ぶたいはじめ元老げんろうてき東京とうきょうゆめはなろく記載きさい霍四きわむせつさんふんこれごときむもと演出えんしゅつてきさん國劇こくげきたち30多種たしゅもとえいむねいたり年間ねんかん出現しゅつげんしんやすおそれしょかんてきぜんあい三國志さんごくし平話へいわ》。もとすえあきらはつ貫中かんちゅう綜合そうごう民間みんかん傳說でんせつ戲曲ぎきょくはなしほん結合けつごう三國志さんごくしとう史書ししょ根據こんきょたい社會しゃかい人生じんせいてきからださとる創作そうさくりょうさんこく演義えんぎ》。たいさんこく演義えんぎなりしょゆう直接ちょくせつ影響えいきょうてき史書ししょ主要しゅよう三國志さんごくし》(包括ほうかつ裴松ちゅう)、《こう漢書かんしょ》、《どおりかんかずどおりかん綱目こうもく[5]

日本にっぽん學者がくしゃ中川なかがわさとしところ整理せいりてきばん本譜ほんぷけい

さんこく演義えんぎ主要しゅようばん本有ほんゆう

  1. 明代あきよよしみやすし元年がんねん(1522ねんじょ刊本かんぽん三國志さんごくし通俗つうぞく演義えんぎ》(そく學界がっかいしょたたえよしみやすしほん,簡稱「ちょう尚德なおのりほん」)[4]:18
  2. 明代あきよこころざしでんほんしんこく按鑑ぜんぞう批評ひひょう三國志さんごくしでん
  3. 明代あきよたくわれひょうほんたくわれ先生せんせい批評ひひょう三國志さんごくし
  4. しんだいりゅうおうひょうほんりゅうおう批閱三國志さんごくし
  5. しんだいもうはじめひょうあらためほんよんだい奇書きしょだい一種いっしゅ

現存げんそん最早もはや刊本かんぽん明朝みょうちょうよしみやすし年刊ねんかんこくてき俗稱ぞくしょうよしみやすしほん」,全書ぜんしょ24かんまたゆう弘治こうじこくほんてき三國志さんごくし通俗つうぞく演義えんぎ》,文字もじ素樸そぼく,內容較平えき。此外かえゆうよしみやすしじゅうななねん(1548ねん逢春刊本かんぽん,僅存一部いちぶほんぞう西にしはんきばあいおもえ哥利修道院しゅうどういん圖書館としょかんかえゆう萬曆金陵周曰校刊本。[6]いたり清朝せいちょうかん年間ねんかんもう綸、もうはじめ父子ふしべん正史せいしごとぞう文字もじおさむあらためなり今日きょう通行つうこうてき120かいほんさんこく演義えんぎ》,俗稱ぞくしょうもうほん」。

近代きんだい較著めいてきこうちゅう本有ほんゆう小林こばやしさんこく演義えんぎこうちゅう》、沈伯しゅんこうほんさんこく演義えんぎ》,其中沈伯しゅんこうほんさんこく演義えんぎ校正こうせいりょう原本げんぽんちゅうてき大量たいりょう技術ぎじゅつせい錯誤さくごたちななはちひゃくしょ[7]いた中國ちゅうごく學術がくじゅつかい同行どうこう高度こうど評價ひょうか歷史れきし學者がくしゃちんりょう評論ひょうろんためまでこんためとめさいこのみてきさんこく演義えんぎ版本はんぽん」,しょうため「沈本」,ただし也被批評ひひょうゆうかけしつ[8]

小說しょうせつさんこく演義えんぎ》,本來ほんらいおう該稱ため三國志さんごくし演義えんぎ》,いんため它是正史せいし三國志さんごくしこれ演義えんぎせつなりさんこく演義えんぎなり其義[4]:13

ざいだい符合ふごう歷史れきし真實しんじつ前提ぜんてい合理ごうり虛構きょこうほそぶし古往今來こおうこんらい世界せかい各國かっこく創作そうさく歷史れきし小說しょうせつ共同きょうどう方法ほうほう,如《さんこく演義えんぎ》般取材しゅざい於歷史上しじょう有名ゆうめい時代じだいなみ且由眾多じんざい相當そうとう長時間ちょうじかんうら共同きょうどう創作そうさく小說しょうせつ表現ひょうげんとくゆうため突出とっしゅつ,也尤ため自然しぜんいん史實しじつあずか虛構きょこう關係かんけいけつ不能ふのう簡單かんたん以「ななふん實事じつごとさんふん虛構きょこう」一句話來概括和說明[4]:14-15

作者さくしゃ

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普遍ふへんみとめためさんこく演義えんぎてき作者さくしゃため貫中かんちゅう也有やゆういち些說法認ほうにんためさんこく演義えんぎ貫中かんちゅうてき老師ろうしほどこせたいあんごうちょただし有明ありあけかく考證こうしょう

特色とくしょく

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すわざい四輪車上的諸葛亮

さんこく演義えんぎこれはた史書ししょ三國志さんごくし》內容及思想しそうよし),以通俗つうぞくえき懂方しき解說かいせつえんじ)而成作品さくひん,內容だい根據こんきょ三國志さんごくし》及三國志さんごくしちゅうしか而,すんでしか小說しょうせつ也有やゆうしょう虛構きょこうじょうぶし[9]:21。《さんこく演義えんぎ描寫びょうしゃてきしたがえひがしかんすえねんいた西にしすすむ初年しょねんきんひゃくねんあいだてき歷史れきし反映はんえいりょうさんこく時代じだいてき政治せいじ軍事ぐんじ鬥爭以及かくるい社會しゃかい矛盾むじゅんてき滲透しんとうあずか轉化てんかざいたいさんこく態度たいどじょうみことりゅうはん曹鄙ただし民間みんかんてき主要しゅよう傾向けいこう,以りゅう集團しゅうだん作為さくい描寫びょうしゃてき中心ちゅうしんかくれ含著人民じんみんたいかんしつ復興ふっこうてき希望きぼう皇室こうしつ正統せいとう思想しそう,儘管這些きゅうゆう觀點かんてんやめよう於今。14世紀せいきてき貫中かんちゅうざい敍述じょじゅつさんこく演義えんぎ故事こじなみ特別とくべつ考證こうしょう時代じだい,而是憑個人こじん時代じだいかん描寫びょうしゃ結果けっか,《さんこく演義えんぎ初期しょき版本はんぽんちゅう,竟然出現しゅつげんほん印刷いんさつ書籍しょせき,儘管印刷いんさつじゅつざいさら久之ひさゆきざい發明はつめい[9]:22

清人きよひともう父子ふし批改さんこく演義えんぎ明代あきよ流傳りゅうでんらいてき版本はんぽんちゅう不實ふじつそしもち怪力かいりきらんしんしょ刪除かんただし魯迅ろじんざい中國ちゅうごく小說しょうせつてき歷史れきしてき變遷へんせんしょう:「いんためさんこくてき事情じじょうぞうだいさま紛亂ふんらんまたぞうすわえかんさま簡單かんたん;恰是簡不しげるてき於作小說しょうせつ。而且さんこくてき英雄えいゆうさとしじゅつ武勇ぶゆう非常ひじょうどうじん所以ゆえんじん歡取らいさく小說しょうせつてき材料ざいりょう。」

而書ちゅうまたこくりょうきんひゃく人物じんぶつ形象けいしょう,其中さいため成功せいこうてきゆうしょかずらあきら曹操そうそうせきはねりゅうとうひとしょかずらあきら作者さくしゃしんちゅうてきけんしょうてき化身けしん具有ぐゆうきく盡瘁じんすい而後やめてき高風こうふうあきらぶし具有ぐゆう經世濟民けいせいさいみんさいみやつこ太平たいへいもりてき雄心ゆうしんたけしこころざし,而且作者さくしゃかえよびふう喚雨、かみみょうさんてき奇異きい本領ほんりょう曹操そうそうそく造成ぞうせいいちやすしきょうわが天下てんかじんきゅうきょう天下でんかじんてき奸雄かんゆうすんでゆうざい大略たいりゃくまたざん暴奸いつわりいち政治せいじ野心やしん陰謀いんぼういえせきたけしもう剛毅ごうき」、「義重よししげ如山」,ただし主要しゅよう個人こじんおん怨為前提ぜんていりゅう備則造成ぞうせいためじんみんあいぶつれいけん下士かし知人ちじんぜんにんてき仁君じんくん典型てんけい恰好かっこうかず曹操そうそう相反あいはん)。

而當ちゅうてき戰爭せんそう手法しゅほう多樣たよう讀者どくしゃ往往おうおうかんじいた一場場刀光血影的戰爭場面。其中,かんわたりたたかえあかかべたたかえとう戰爭せんそうてき描寫びょうしゃみとめため波瀾はらん起伏きふく、跌宕跳躍ちょうやく使つかいじん讀來おどろきしんどうたまはた史書ししょ上所かみところぼつゆうてきじょうぶし描寫びょうしゃとくじゅうふん細緻さいちぜん33かいうつしりょうしたがえ桃園ももぞのゆいよしいた曹操そうそう統一とういつ北方ほっぽうてき24ねん,71かいはんうつしりょうりゅう三顧さんこちがやいおりいたしょかずらあきら五丈原ごじょうげんてき27ねん,而以てき46ねんただようりょう15かいはん就草そうおさむじょう

よし於《さんこく演義えんぎ在民ざいみんあいだてき流傳りゅうでん範圍はんい影響えいきょう程度ていどいい中國ちゅうごく古代こだい歷史れきし小說しょうせつちゅうどくいちてき,這就造成ぞうせいりょう普通ふつうみん眾,甚至一部分專家學者對東漢末年至三國時期,也就小說しょうせつしょ描述てき歷史れきし時期じきてき概況がいきょう事件じけん人物じんぶつ缺乏けつぼう正確せいかくてき常識じょうしきしたがえぼうたね程度ていどじょうせつ小說しょうせつさんこく演義えんぎてき內容在國ざいこく人心じんしんちゅうやめけい占據せんきょりょう真實しんじつ歷史れきしてき地位ちい,這種現象げんしょうざい近來きんらいてきでんかげ文學ぶんがく作品さくひんなかゆうしょ反映はんえい民間みんかん也一直對這類現象有不少爭論。

非凡ひぼんてき敘事才能さいのう全景ぜんけいしきてき戰爭せんそう描寫びょうしゃ特徵とくちょう性格せいかくてき藝術げいじゅつ典型てんけいあさちかてき文言もんごん構成こうせいりょうさんこく演義えんぎてき主要しゅよう特色とくしょく

かい

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  • やぶはばころせ閹宦(とも2かい
    • だいいちかい えん桃園ももぞの豪傑ごうけつさんゆい はば英雄えいゆうくびりついさお
    • だいかい ちょうつばさとくいかむちとくなんこくしゅうとはかりごと誅宦豎
  • おさむりょぬのじょただしたくとも7かい
    • だいさんかい ぬるあきらただしたくしかちょうげん 饋金たま肅說りょぬの
    • だいよんかい はいかんみかどひねとめ踐位 はかりごとただしぞくはじめとくけんじがたな
    • だいかい はつ矯詔しょ鎮應曹公 やぶせき兵三ひょうぞうえいせんりょぬの
    • だいろくかい 焚金闕董たくぎょう兇 匿玉璽孫けんやく
    • だいななかい 袁紹いわかわせん公孫こうそん まごけんまたがこうげきりゅうひょう
    • だいはちかい おうつかさたくみ使連環れんかんけい ただしたいだい鬧鳳てい
    • だいきゅうかい じょ暴凶りょぬのじょつかさ はん長安ながやす傕聽賈詡
  • 曹操そうそうはつあととも5かい
    • だいじゅうかい 勤王きんのうしつあが舉義 ほうちちかたき曹操そうそうきょう
    • だいじゅういちかい りゅうすめらぎ叔北うみすくいあなとおる りょゆたかこう濮陽やぶ曹操そうそう
    • だいじゅうかい とうきょう三讓徐州 曹孟とく大戰たいせんりょぬの
    • だいじゅうさんかい 傕郭汜大交兵 楊奉ただしうけたまわそうすくい
    • だいじゅうよんかい 曹孟とくうつりこうもと りょたてまつさきじょう夜襲やしゅうじょぐん
  • まご崛起(とも1かい
    • だいじゅうかい ふとし慈酣鬥小霸王 まごはく大戰たいせんげん白虎びゃっこ
  • 曹操そうそう苦戰くせんとりこりょぬのとも4かい
    • だいじゅうろくかい りょたてまつせん戟轅もん 曹孟とくはい淯水
    • だいじゅうななかい 袁公だいおこりななぐん 曹孟とく會合かいごうさんしょう
    • だいじゅうはちかい 賈文りょうてき決勝けっしょう なつほうあつし拔矢啖睛
    • だいじゅうきゅうかい 邳城曹操そうそう鏖兵 しろもんろうりょぬの殞命
  • 密謀みつぼう誅曹(とも5かい
    • だいじゅうかい 曹阿瞞許田打たうちかこえ ただしこくしゅうと內閣受詔
    • だいじゅういちかい 曹操そうそうさけろん英雄えいゆう せきこう賺城くるま
    • だいじゅうかい 袁曹かくおこり三軍さんぐん せきちょうきょうとりこおうりゅうしょう
    • だいじゅうさんかい 祢正ひらはだかころもののしぞく よしふとしどく遭刑
    • だいじゅうよんかい 國賊こくぞくぎょう兇殺 すめらぎ敗走はいそうとう袁紹
  • せき羽附はつけ曹,まごけんうけたまわあにとも5かい
    • だいじゅうかい たむろ土山つちやませき公約こうやくさんこと すくい白馬しろうま曹操そうそうかい重圍じゅうい
    • だいじゅうろくかい 袁本はつはいへいおりしょう せきくもちょうかけしるしふうきん
    • だいじゅうななかい 美髯びぜんこう千里せんりはし單騎たんき かんことぶきこう五關斬六將
    • だいじゅうはちかい 蔡陽兄弟きょうだいしゃくうたぐ かい古城こじょうぬししん聚義
    • だいじゅうきゅうかい しょう霸王いか于吉 碧眼へきがんすわりょう江東こうとう
  • 掃清袁氏,統一とういつ北方ほっぽうとも4かい
    • だいさんじゅうかい せんかんわたり本初ほんしょはいこうがらすはじめとくしょうかて
    • だいさんじゅういちかい 曹操そうそうくらていやぶ本初ほんしょ げんとく荊州りゅうひょう
    • だいさんじゅうかい だつ冀州袁尚そうほこさき けつ漳河もと攸獻けい
    • だいさんじゅうさんかい 曹丕じょうらんおさめ甄氏 かくよしみのこけいじょう遼東りゃおとん
  • りゅう備三おとずれしょかずら出山でやまとも7かい
    • だいさんじゅうよんかい 蔡夫じんへだたへい聽密 りゅうすめらぎ叔躍だんけい
    • だいさんじゅうかい げんとくみなみ漳逢かくれたんぶく新野あらたのぐう英主えいしゅ
    • だいさんじゅうろくかい げん德用とくようけいかさね樊城 もとじきはしうまこもしょかずら
    • だいさんじゅうななかい 司馬しば徽再こも名士めいし りゅうげんとく三顧さんこくさいおり
    • だいさんじゅうはちかい じょう三分隆中決策 せん長江ちょうこうまごほうかたき
    • だいさんじゅうきゅうかい 荊州じょう公子こうしさんもとめけい はくもち坡軍はつ用兵ようへい
    • だいよんじゅうかい 蔡夫じんけんじ荊州 しょかずらあきら火燒ひたき新野しんの
  • 長坂ながさか坡(とも2かい
    • だいよんじゅういちかい りゅうげんとく攜民渡江とのえ ちょうりゅう單騎たんきすくいぬし
    • だいよんじゅうかい ちょうつばさとくだい鬧長ざかきょう りゅうしゅう敗走はいそうかん津口つくち
  • あかかべたたかえとも8かい
    • だいよんじゅうさんかい しょかずらあきら舌戰ぜっせんぐん儒 魯子けいりょくはい眾議
    • だいよんじゅうよんかい 孔明こうめいようさとしげきしゅうまごけんけつけいやぶ曹操そうそう
    • だいよんじゅうかい さん江口えぐち曹操そうそうおりへい ぐんえいかい蔣幹ちゅうけい
    • だいよんじゅうろくかい ようはかりごと孔明こうめい けんじ密計みっけいぶた受刑じゅけい
    • だいよんじゅうななかい 闞澤みつけんじいつわりくだしょ 龐統たくみ授連たまきはかる
    • だいよんじゅうはちかい えん長江ながえ曹操そうそう くさりせんせんきた軍用ぐんようたけし
    • だいよんじゅうきゅうかい 七星壇諸葛祭風 三江口周瑜縱火
    • だいじゅうかい しょかずらあきらさとしさんはなよう せきくも長義ながよししゃく曹操そうそう
  • さんしゅう瑜(とも7かい
    • だいじゅういちかい 曹仁大戰たいせんひがしくれへい 孔明こうめい一氣周公瑾
    • だいじゅうかい しょかずらあきらさとし魯肅 ちょうりゅうけいかつらよう
    • だいじゅうさんかい せきくも長義ながよししゃくかんます まごなかはかりごと大戰たいせんちょうぶんとお
    • だいじゅうよんかい くれこくふとし佛寺ぶつじ新郎しんろう りゅうすめらぎ叔洞ぼうぞくけい
    • だいじゅうかい げんとくさとしげきまご夫人ふじん 孔明こうめい二氣周公瑾
    • だいじゅうろくかい 曹操そうそうだいうたげどうすずめだい 孔明こうめい三氣周公瑾
    • だいじゅうななかい しばくわこう臥龍がりょうちょう 耒陽けん鳳雛ほうすう理事りじ
  • せんちょうとも2かい
    • だいじゅうはちかい うまはじめおこりきょうへいゆき恨 曹阿瞞割ひげ棄袍
    • だいじゅうきゅうかい もと褚裸ころもちょう 曹操そうそう抹書あいだかんとげ
  • りゅう備入がわとも6かい
    • だいろくじゅうかい ちょう永年えいねんはんなん楊修 龐士もと西にししょく
    • だいろくじゅういちかい ちょうくも截江だつ阿斗あと まごけん遺書いしょ退すさろう
    • だいろくじゅうかい 涪關楊高授首 おさむ雒城そうこう
    • だいろくじゅうさんかい しょかずらあきら痛哭つうこく龐統 ちょうつばさ德義とくぎしゃくいわおがお
    • だいろくじゅうよんかい 孔明こうめいじょうけい捉張にん 楊阜借へいやぶうまちょう
    • だいろくじゅうかい ちょう大戰たいせんかやもえせき りゅう備自りょうえきしゅうまぎ
  • せんあいこえたて嗣(とも4かい
    • だいろくじゅうろくかい せきくもちょうたんかたな赴會 ふく皇后こうごう為國ためくに捐生
    • だいろくじゅうななかい 曹操そうそう平定へいていかん中地なかじ ちょうりょうふるえ逍遙しょうよう
    • だいろくじゅうはちかい あまやすし百騎劫魏營 ひだり慈擲はいおどけ曹操そうそう
    • だいろくじゅうきゅうかい ぼくしゅうえきかん輅知 討漢ぞくしんぶし
  • 爭奪そうだつかんちゅうとも4かい
    • だいななじゅうかい たけしちょうさとし瓦口かわらぐちろうちゅうけいだつてんとろけやま
    • だいななじゅういちかい うらないたいやまちゅういっまちろう よりどころかんすいちょうくも寡勝眾
    • だいななじゅうかい しょかずらあきらさとしかんちゅう 曹阿瞞兵退すさはすだに
    • だいななじゅうさんかい げんとくしんかんちゅうおう くもちょうおさむ拔襄ぐん
  • 荊州しつせきこうとも4かい
    • だいななじゅうよんかい 龐令あかり抬櫬決死けっしせん せきくもちょう放水ほうすい淹七ぐん
    • だいななじゅうかい せきくもちょう刮骨療毒 りょ明白めいはくころも渡江とのえ
    • だいななじゅうろくかい じょ公明こうめい大戰たいせん沔水 せきくもちょう敗走はいそうむぎじょう
    • だいななじゅうななかい だま泉山いずみやませきこうあらわせい 洛陽らくようじょう曹操そうそうかんしん
  • 篡漢,しょくしょうみかどとも3かい
    • だいななじゅうはちかい ふうやましかみ でん遺命いめい奸雄かんゆうすうおわり
    • だいななじゅうきゅうかい けい逼弟曹植 侄陷叔劉ふうふくほう
    • だいはちじゅうかい 曹丕廢帝はいてい篡炎りゅう かんおうただしぞくだいみつる
  • えびすりょう大敗たいはいりゅう備託とも6かい
    • だいはちじゅういちかい きゅうけいかたきちょうぐうがい ゆきおとうと恨先ぬしきょうへい
    • だいはちじゅうかい まごけんくだ受九すず さきしゅせいくれしょうろくぐん
    • だいはちじゅうさんかい せん猇亭さきしゅとくかたきじん 守江もりえ口書くちがきせいはい大將たいしょう
    • だいはちじゅうよんかい りくへりくだ營燒ななひゃくさと 孔明こうめいたくみぬのはちじん
    • だいはちじゅうかい りゅうさきおものこみことのりたく孤兒こじ しょかずらあきら安居あんきょひらめ
    • だいはちじゅうろくかい なんちょうあつしはた宓逞てんべん やぶ曹丕じょもりようおさむ
  • ななとりこはじめとも4かい
    • だいはちじゅうななかい せいみなみ寇丞しょうだいきょう こうてんへい蠻王はつ受執
    • だいはちじゅうはちかい わたり瀘水さいばくばんおう 識詐くださんとりこはじめ
    • だいはちじゅうきゅうかい 武鄉たけさとこうよんばんようけい 南蠻なんばんおう遭擒
    • だいきゅうじゅうかい きょじゅうろくやぶ蠻兵 しょうふじかぶとななとりこはじめ
  • ろく祁山,孔明こうめいびょう逝(とも15かい
    • だいきゅうじゅういちかい さい瀘水かんしょうはん 中原なかはらたけしこう上表じょうひょう
    • だいきゅうじゅうかい ちょうりゅうりょくはた しょかずらあきらさとし三城みき
    • だいきゅうじゅうさんかい きょうはくやくくだ孔明こうめい 武鄉たけさとこうののしおうあきら
    • だいきゅうじゅうよんかい しょかずらあきらじょうゆきやぶ羌兵 司馬しば懿克とりこはじめたち
    • だいきゅうじゅうかい 馬謖ばしょくこばめ諫失がいてい たけこう彈琴だんきん退すさなかたち
    • だいきゅうじゅうろくかい 孔明こうめい揮淚馬謖ばしょくにちいて馬謖ばしょく しゅう斷髮だんぱつ賺曹きゅう
    • だいきゅうじゅうななかい 討魏國武くにたけこうさい上表じょうひょう やぶ曹兵きょう維詐けんじしょ
    • だいきゅうじゅうはちかい おいかんぐんおうそう受誅 かさねひねくらたけしこうかち
    • だいきゅうじゅうきゅうかい しょかずらあきら大破たいはへい 司馬しば入寇にゅうこう西にししょく
    • だいいちひゃくかい かんへいこう寨破曹真 たけこうじんはずかしめなかたち
    • だいいちひゃくいちかい 隴上しょかずら妝神 奔劍かくちょう郃中けい
    • だいいちひゃくかい 司馬しば懿占北原きたはら渭橋 しょかずらあきらづくりうしりゅう
    • だいいちひゃくさんかい 上方かみがただに司馬しば受困 五丈原諸葛禳星
    • だいいちひゃくよんかい 隕大ほしかん丞相じょうしょうてん 木像もくぞうとくきも
    • だいいちひゃくかい たけこうあずかふくにしき囊計 ぬし拆取うけたまわ露盤ろばん
  • きゅう中原なかはらとも10かい
    • だいいちひゃくろくかい 公孫こうそんふちへいはいじょうひら 司馬しば懿詐びょう賺曹爽
    • だいいちひゃくななかい ぬしせいかえり司馬しば きょう維兵はい牛頭山うしずやま
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  • やぶ西にししょくとも3かい
    • だいいちひゃくじゅうろくかい 鍾會ぶんへいかん中道なかみち たけしこうあらわせいじょうぐんやま
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  • 司馬しば篡魏,さんふんかえりすすむとも2かい
    • だいいちひゃくじゅうきゅうかい かり投降とうこうたくみけいなりきょばなし さい受禪じゅぜんさまにんにくあし
    • だいいちひゃくじゅうかい こももりあずかろうしょうけんじしんはかりごと くだまごあきらさんふんかえり一統いっとう

故事こじ大綱たいこう

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故事こじ背景はいけいよしこうもと184ねんひがしかんまつねんはばみだれ開始かいしいたりこうもと280ねん西にしすすむ統一とういつきょう96ねん歷史れきし,以儒政治せいじ道德どうとく觀念かんねんため核心かくしん主旨しゅし同時どうじもめあい千百年來廣大民眾心理,表現ひょうげんたい昏君賊臣ぞくしん大亂たいらん天下でんかてき痛恨つうこんたい明君めいくんりょうしんきよしひら世界せかいてき渴慕。

はばおこりよし

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ひがしかんたてやすし元年がんねん(168ねんきゅうがつ宦官かんがん曹節おうはじめとうひと專橫せんおう大將軍だいしょうぐん竇武あずかふとしでんちんしげるいん憎惡ぞうお意圖いとじょがいりょう事跡じせきはいはん消滅しょうめつ[9]:34かん桓帝かんれいみかど昏庸無道むどうちょうしん宦官かんがん,疏遠りょうしん,致使朝政ちょうせい腐敗ふはい百姓ひゃくしょう生活せいかつ困苦こんくれいみかどちょうかく自稱じしょう曾遇仙人せんにんこうとくてんしょがくどく有效ゆうこうびょう方法ほうほう後來こうらいくもゆう四方しほう給人きゅうにんびょうびょうてき方法ほうほうたいゆう宗教しゅうきょう色彩しきさいただしざいぼう些因素的すてき作用さよう,這使聲名せいめいどお播),藉此聚眾おこりごとよく推翻ひがしかん爆發ばくはつ農民のうみんだい暴動ぼうどう——はばおこりよし

ざい大將軍だいしょうぐんなんしんおびりょう軍隊ぐんたい剿滅そうめつりょうはばぐんこれまた發生はっせいりょうじゅうつねさむらいこれらん。這時かんれいみかどやめかんしょうみかどりゅうべん即位そくいなんしんよくころせ皇宮こうぐううら所有しょゆう宦官かんがんはん宦官かんがんさそえころせ袁紹かず曹操そうそうたいりょう大臣だいじん衝入皇宮こうぐうころせぜっ宦官かんがんかえ誤殺ごさつしょうとめ鬍鬚てきおとこじんしょうみかどあずかちんとめおうりゅうきょう於慌らんちゅう逃出皇宮こうぐう

ただしたくみだれ

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かくみち諸侯しょこうぶんあたまひろ找,最終さいしゅうゆかりりょうしゅう刺史ししただしたく找到しょうみかどあずかひねとめおうただしたく自恃じじすくい有功ゆうこう,趁機專權せんけんろうせいはいしょうみかどあらためりつひねとめおうためかんけんじみかどただしたく橫行おうこう殘害ざんがい忠良ただよし,引起大臣だいじん憤怒ふんぬ曹操そうそうぎょうとげただしたく失敗しっぱい逃走とうそうかりつて聖旨せいし,召各諸侯しょこう結盟けつめい勤王きんのう反抗はんこうただしたくはなつよしはいりょぬのじゅうはち諸侯しょこうざい袁紹りつりょうころせむかい首都しゅと洛陽らくようさこ使つかいただしたくこう皇帝こうてい遷都せんと長安ながやすただしたく後來こうらいあずか義子ぎしりょぬのそう美女びじょてんりょぬのざいおうまこと勸誘かんゆうころせりょうただしたく

群雄ぐんゆう逐鹿ちくろく

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ちょうすな太守たいしゅまごけん於洛發現はつげんりょうつて國玉くだまよく私藏しぞうおこりらい。袁紹だいいか,逼孫けん交出だま璽。まごけん肯,逃回にげまわちょうすな途中とちゅう荊州りゅうひょう襲擊しゅうげきまごかたため此與りゅうおもてゆい怨,後發こうはつへい進攻しんこう荊州,りょう於戰ちゅうざい河北かわきた,袁紹あずか公孫こうそん互爭土地とち爆發ばくはつさかい橋之はしのせん最後さいごただしたくかり天子てんし詔書しょうしょ和解わかいざい停戰ていせん同時どうじかくみち諸侯しょこう如劉備等ただしざい建立こんりゅうおこり自己じこてき實力じつりょく曹操そうそうこう賢才けんさい建立こんりゅうおこり一支強悍軍隊,準備じゅんび霸占中原なかはら

統一とういつ中原なかはら

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曹操そうそう奉迎ほうげいかんけんじみかど擁護ようごかんしつ,於もとあきらけん新都しんと,「はさみ天子てんし以令諸侯しょこう」,剿滅そうめつ中原なかはら群雄ぐんゆうりょぬのちょう袁術とうにちやや強大きょうだいしょう中原なかはら後來こうらいあずか袁紹ざいかんわたりたたかえなか,以寡てき眾,大敗たいはい袁紹。曹操そうそう繼續けいぞく揮軍北上ほくじょうめつ袁氏、はいがらすひらた遼東りゃおとん統一とういつ北方ほっぽう曹操そうそうひらく疆拓建立こんりゅうこくてき基礎きそ

まごさく立業たちわざ

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まごさく父親ちちおやまごけん戰死せんしよくしげる家業かぎょうしょう江東こうとう父親ちちおやてき遺物いぶつでん國玉くだま璽,あずか淮南ワイナン袁術交換こうかん兵馬へいばまごさく掌握しょうあく兵馬へいばまたゆう追隨ついずいさきちちてきろうしょうゆいはい兄弟きょうだいしゅう智謀ちぼう幫助,はつへい江東こうとうけい多年たねん苦戰くせんおわり於稱霸,すわ江東こうとうため後來こうらい建立こんりゅうこくこう基礎きそりょうまごさくぐうとげ重傷じゅうしょうほろびゆかりおとうとおとうとまごけん繼承けいしょうもとぎょうまごけんゆうしゅう瑜、ちょうあきらとうのうしん勇將ゆうしょう扶持ふち,穩坐江東こうとう勢力せいりょく逐漸強大きょうだい

りゅう備扶かん

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頤和園長えんちょうろう彩繪さえちゅうてきさんえいせんりょぬの

りゅうあずかせきはねちょう曾在桃園ももぞのゆいだて誓言せいげん忠心ちゅうしん輔助かんしつ,拯救天下でんか蒼生そうせいりゅう討伐とうばつはば有功ゆうこういた縣令けんれい官職かんしょく後來こうらいりゅう備投奔公孫こうそん就任しゅうにん平原ひらはら太守たいしゅ,曾相やく討伐とうばつただしたく,於とらろうせきまえあずかせきちょう二人ふたり大戰たいせんりょぬの曹操そうそうちち曹嵩じょしゅう刺史ししとうけん部下ぶかちょうところころせおこりへいおさむじょしゅうゆきはじとうけんもとめすけりゅう備來いたじょしゅうきょうじょとうけん抵擋曹操そうそう大軍たいぐん曹操そうそう退すさへいとうけんまえはたじょしゅう交與りゅう備,りゅう就任しゅうにんじょしゅうまきりょぬの曹操そうそうはい,逃到じょしゅうとう奔劉備。りゅう備慷慨收とめりょぬの後來こうらいちょう惹怒りょぬのりょぬのはんだつじょしゅう。袁術りつへいりゅう備,りょぬの便びん以轅もんしゃ戟的方式ほうしきすくいりょうりゅう備,りゅう備與曹操そうそうれんしゅ消滅しょうめつりょぬのりゅう備同朝廷ちょうてい大臣だいじん密謀みつぼうじょ掉專けんよく篡位てき曹操そうそうりょう事情じじょう暴露ばくろりゅう備又叛曹みさお斬殺ざんさつ曹將しゃかぶとだつじょしゅうりゅう備在じょしゅう曹操そうそうはい,逃去とう奔袁紹,また叛袁紹,ざいなんじみなみ建立こんりゅう實力じつりょく曹操そうそうさいつぎ於汝みなみ大敗たいはいりゅう備,さこ使つかいりゅう備逃往荊しゅうとうもたれりゅうひょうりゅうひょうゆずるりゅう鎮守ちんじゅ新野しんの,以抵こうしょうようみなみせいてき曹操そうそうりゅう三顧さんこちがやいおりいたあしさとしはかりごとてきしょかずらあきら輔佐ほさ,如魚とくすい

あかかべたたかえ

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頤和えんちょうろう彩繪さえてき江東こうとう赴會じょうぶし

曹操そうそうふう丞相じょうしょう統一とういつ北方ほっぽう,舉兵みなみせい荊州。りゅう備於新野あらたの兩度りょうどころせ退ずさ曹軍,ただしかれ眾我寡,ただとく放棄ほうきじょうせりみなみ退すさ荊州。りゅうひょうやめ,荊州よし幼子おさなごりゅうせっかん長子ちょうしりゅう留守るす江夏えなつりゅう備攜みん渡江とのえいたじょうしろがいもとむりゅう琮讓すすむじょうりゅう拒絕きょぜつりゅう後來こうらい投降とうこう曹操そうそう,荊州落入曹操そうそう手中しゅちゅうりゅう琮也ころせりゅう備不とくやめ南下なんかいた江夏えなつとうもたれりゅう琦,途中とちゅう遭曹ぐんついころせ百姓ひゃくしょう死傷ししょう無數むすう,雖然途中とちゅう曾有很多はかりごとすすむ放棄ほうき軍民ぐんみん百姓ひゃくしょう),ただし仁義じんぎてきりゅう備說什麼いんも就是放棄ほうき們。

ため抵擋曹操そうそう兇猛きょうもうてきらいいきおいりゅう派遣はけんしょかずらあきらぜん江東こうとうせつふくまごけん結盟けつめいこう曹。しょかずらあきら舌戰ぜっせんぐん儒、さとしげきまごけん龐統たくみ使連環れんかんけい孔明こうめいたくみ東風こちしゅうあかかべたてぶた使つかい苦肉くにくけいしゅう瑜不ようしょかずらあきらざいくれこくつぎそう加害かがいしょかずらあきらただしぼつ成功せいこう。其中さいだしめいてき就是くさせんしゅう瑜暫放下ほうかころせしょかずらあきらてき念頭ねんとう專心せんしんさく劃對づけ曹操そうそう最終さいしゅうりゅう備與まごけんてきれんぐんあかかべたたかえちゅうようおさむ大敗たいはい曹操そうそうだい全勝ぜんしょう曹操そうそう敗走はいそうはなよう

荊州爭奪そうだつ

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あかかべ大戰たいせんまごけんりゅう備相そう荊州。しゅう瑜領へいあずか曹軍大戰たいせんかち以為自己じこやめけいおさむ荊州,りょう曹軍ちゅうしょかずらあきら調ちょうとら離山はなれやまけい,荊州落入りゅう備手ちゅうくれぐん苦戰くせんいちしょまごけん不滿ふまん派遣はけん魯肅ぜん往荊しゅうむこうりゅう備討還荊州。りゅう備多ざいしょかずらあきらてきすすむせつ推辭交出荊州,せつとうりゅう琦死交出荊州。りゅう琦病逝後,りゅう備又せつ取得しゅとくようさい交出荊州。まごけんしゅう瑜無奈,つぎそう辦法奪取だっしゅ荊州。しゅう瑜使美人びじんけいほしかたりゅう備到ひがしめとまごけんいもうとためつまじつため扣留りゅう備在ひがしくれ,逼諸かずらあきら交出荊州以交換こうかんぬしこうひがしくれ招親,ろうかりなりしんりゅう備不ただし取得しゅとくまごけんいもうとためつまかえ安全あんぜんかえしかい荊州,結果けっかしょくこくてきひょうせつ:「しゅうろう妙計みょうけいやす天下でんか,賠了夫人ふじんまたおりへい。」しゅう瑜使けいはかりごと屢屢しょかずらあきら識破,とく成功せいこう最終さいしゅうしょかずら亮三りょうぞうしゅう瑜,しゅう瑜嘔而死,臨死りんしまえかえだい喊三ごえ:「すんでせい瑜,なにせいあきら!」

うまちょうかん

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ざい西にし北方ほっぽうもうしょううまちょうため曹操そうそう殺害さつがいてき父親ちちおやうまあがむくいかたき聯合れんごうかんとげ、羌族きょうへい討伐とうばつ曹操そうそううまちょう潼關渭水これ戰中せんちゅう大敗たいはい曹操そうそう曹操そうそうわりひげ棄袍、くら惶逃だっ曹操そうそう採納さいのうはかりごと賈詡離間りかんけい成功せいこう使つかいちょうかんとげにん互相猜疑さいぎ最後さいごだいどう干戈かんかうまちょう曹操そうそうはい,逃去とうかんちゅうちょうかんとげくだ曹操そうそうりゅう備欲ようおさむ西川にしかわりゅうあきらこうちょう魯求すくえちょう魯派ちょうかやもえせきおさむりゅう備,りゅう人馬じんば出張しゅっちょう抵禦ちょう結果けっかうまちょうちょう挑燈夜戰やせんだいさんひゃくかいあいりゅう備把這一切いっさいざいうら,很惜ざいてきりゅう心裡しんり很想ちょう納入のうにゅう自己じこてき軍隊ぐんたい所以ゆえんしょかずらあきらまた使つかいりょう離間りかんけいゆずるちょう最終さいしゅう投降とうこうりゅう備,なりためとらじょうはたこれいち

りゅう備稱みかど

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しゅう瑜死ひがしあずかりゅう關係かんけいあくれつただしだいどう干戈かんかくれぐんあずか曹軍開戰かいせんざい濡須、ごう淝之せん中有ちゅううかつゆうはいざい荊州,しょかずらあきらすすむせつりゅう備發へい進攻しんこう西川にしかわ奪取だっしゅともえしょくりゅう備打はいりゅうあきらだつとく西川にしかわまたしたがえ曹操そうそう手中しゅちゅう奪取だっしゅかんちゅうりゅう備自ふうかんちゅうおうよう有益ゆうえきしゅう全部ぜんぶ部分ぶぶん荊州,ため建立こんりゅうしょくかんこう基礎きそいたり此,天下てんかかなえあし而三:りゅう備跨ゆう荊、えき曹操そうそうしょう中原ちゅうげんしん佔關、隴;まごけんすわ江東こうとう後來こうらい曹操そうそう病死びょうし次子じし曹丕篡漢,ひがしかんれきひゃくねん而亡。曹丕あらため國號こくごうためりゅう備聞訊,ざいともえしょくしょうみかど國號こくごう仍為かんたたえしょくかん

せきちょうこれ

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まごけん仍然いちしんよう荊州,決定けっていはつへい荊州,なみざいあずかりゅう備談ばんいた江夏えなつかつらようちょうすなせきはねおさむ曹仁もりてき樊城まごけんあずか曹操そうそう聯合れんごう派遣はけん大將たいしょうりょこうむおさむ荊州,りょこうむ白衣はくい渡江とのえ混入こんにゅう荊州。せきはね得知とくちちゅうりょう調ちょうとら離山はなれやまけいとくやめ退ずさもりむぎじょうなみ人前ひとまえ成都せいともとめりゅう備派援兵えんぺいくれぐん包圍ほういむぎじょうはたせきはねこまざい城中じょうちゅうせきはね突圍,ちゅうふくとりこせきはね押往ひがしくれやすしねがい投降とうこうまごけんりょこうむ斬首ざんしゅりょこうむいんこう受賞じゅしょうただしざい酒席しゅせきじょう突然とつぜんかん靈魂れいこんたいずいそく暴死ぼうし曹操そうそうふうまごけんためみなみあきらこうりゅう備痛しつ荊州、義弟ぎていせききんふかかん悲憤ひふんよくおこりへいおさむひがしくれためせき復仇ふっきゅうりょうちょうざいねむ夢中むちゅう部下ぶか范疆、ちょういたる暗殺あんさつ兩人りょうにん逃往ひがしくれりゅう備因過度かど悲傷ひしょう昏迷こんめい過去かこ,醒後聽諸かずらあきらすすむ阻,一意孤行要為關張復仇。

えびすりょうたたかえ

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りゅう備大ぐん一路いちろぜい如破ちく連敗れんぱいくれぐんころせせきかたきじんはんあきらうまただしおうしかよしでんじんまごけんはたちょうかたきじん范疆、ちょういたる交劉備處ただしりゅう備仍しか怒氣どきいきようめつくれじょうきゅうなかてきまごけん用人ようにんうたぐはい書生しょせいりくへりくだためだいとく號令ごうれいひがしくれ三軍さんぐんりゅう備因連勝れんしょう大意たいい大軍たいぐん布陣ふじん於樹りんちゅうはん兵家へいかだいりくへりくだ以火おさむ火燒ひたきれんななひゃくうらしょくぐん大敗たいはいりくへりくだいんふか怕曹丕會趁吳ぐんついころせ慘敗ざんぱいてきしょくぐんはつへいおさむひがしくれいん放棄ほうき追擊ついげきしょくぐんはて不出ふしゅつりくへりくだしょりょうぐん果然かぜん進攻しんこうひがしくれはんくれぐんしょはい

りゅう備敗ぐん抵達しろみかどじょうりゅう備因過度かど悲傷ひしょう而病たおせいのちたれ旦夕たんせき臨終りんじゅうまえたく於諸かずらあきらせつ如若りゅうぜん昏庸無能むのうしょかずらあきらはい掉劉ぜん自立じりつ皇帝こうていしょかずらあきら誓言せいげんよう忠心ちゅうしんほうこたえりゅう備的知遇ちぐうおんつきしん協力きょうりょく輔佐ほさりゅうぜんただしふくかんしつ

ななとりこはじめ

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曹丕趁機聯合れんごう四路兵馬殺向蜀漢,包括ほうかつひがしくれ南蠻なんばん羌族あずかはじめたちしょかずらあきらちょうもり關口せきぐち使つかい羌兵進攻しんこうのべ製造せいぞううたぐへい使つかい南蠻なんばんうたぐ進攻しんこうはじめたちいたりいわおうつししんじすすむはじめたち退すさへいちょうくももり關口せきぐち,抵禦ぐん。此四路兵馬不期而退,ただあまひがし一路かずみち孤軍こぐんただ退ずさへい最後さいごしょかずらあきら善言ぜんげんてき鄧芝ぜん往東くれ成功せいこうせつふくまごけん再度さいどあずかしょく漢和かんわこう結盟けつめいきょうこう曹魏。

南蠻なんばんおうはじめはん叛,しょかずらあきらおやりょう大軍たいぐんぜん往不平定へいてい南蠻なんばんしょかずらあきらななとりこななたてはじめ使つかいはじめふかかん懊悔,決心けっしん永遠えいえんくだしょくかん

ろく祁山

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曹丕びょう逝,ゆかり其子曹叡つぎしょかずら亮一りょういち祁山,原本げんぽんはたちょく逼長やすいん馬謖ばしょく丟失がいてい而後敗北はいぼく,二次北伐糧盡而退,まごけん於東おひがしくれしょうみかど國號こくごうくれざいしょくかんしょかずらあきら上奏じょうそうりゅうぜん出師すいしだいさん討伐とうばつこく決心けっしん完成かんせいりゅう備匡ふくかんしつてきのこねがい數次すうじげきはいぐん及擊ころせ大將たいしょうちょう郃,ただし年數ねんすうはたつき,而且しょくかん實力じつりょく不足ふそく討伐とうばつこくしょかずらあきら決定けっていはた平生へいぜいしょがく授予きた期間きかんおさむくだてきはたざいきょうしょかずらあきらあずか司馬しば鬥智,雙方そうほう僵持やめひさし最終さいしゅうしょかずらあきらいん於操ろうざい五丈原ごじょうげんやまい逝。臨終りんじゅうまえしょかずらあきら準備じゅんび一樽木雕像嚇跑以為諸葛亮未死的司馬懿,そう時間じかんゆずるしょくぐん撤退てったい

しょかずらあきら大將たいしょうのべ不滿ふまんしょかずらあきらてきやすはい意圖いと奪取だっしゅぐんけん繼續けいぞくきたさら惜燒毀棧どう攔截自家じか軍隊ぐんたい歸路きろ及攻みなみていただししょかずらあきら生前せいぜんはやゆう布置ふちのべころせ

司馬しば篡魏

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ざいこく,曹睿死後しご曹芳つぎ司馬しば發動はつどうだかたいらりょう政變せいへん奪取だっしゅりょう掌握しょうあく大權たいけんてき曹爽てき兵權へいけん,曹爽ころせ司馬しば懿病死後しご,其子司馬しば司馬しばあきら繼續けいぞく掌握しょうあく國大こくだいけんつねゆう篡位てき野心やしん司馬しば兄弟きょうだいはいりょう曹芳,だて曹髦ためみかど司馬しばいん患眼疾病しっぺい司馬しばあきらどく攬大けん。曹髦よくじょ國賊こくぞく司馬しばあきらりょう司馬しばあきら部下ぶかなりずみ殺害さつがい司馬しばあきらまた假裝かそう悲傷ひしょうはた弒君罪名ざいめい推到なりずみ身上しんじょうはたなりずみ斬首ざんしゅ司馬しばあきらだて曹奐ためみかど

さんこくかえりすすむ

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きょう繼承けいしょうしょかずらあきらのこねがい繼續けいぞくきょうへいあずかこく作戰さくせんこうぬしりゅうぜん昏庸,聽信讒言ざんげんしるべ致姜維失敗しっぱいまたはいりょうきょう維兵けんきょう維為逃避とうひ奸臣かんしん加害かがい屯田とんでんくつちゅうしょう鄧艾しょくかん大亂たいらんはつへい進攻しんこう。鄧艾大軍たいぐんこぼし山越やまごえみねおわり於抵達成たっせい城前しろまえりゅうぜん不戰ふせん而降,しょくかん滅亡めつぼうきょう維為復興ふっこうしょくかんじょうしょう鍾會あずか鄧艾ごうよく聯合れんごうじょ掉鄧もぐさはかりごと劃重けんしょくかん。鍾會よくじょ司馬しばあきらりょう事情じじょう揭發,司馬しばあきら派兵はへいかこえおさむ鍾會きょう。鍾會於亂したきょう維身重傷じゅうしょう感歎かんたん無法むほう完成かんせいしょかずらあきらのこねがい便びん拔劍ばっけん自刎じふん

ざいひがしくれまごけん死後しごみや內亂。しょかずらつとむ專權せんけんまごたかしところころせまごたかしまご先後せんごどく攬大けんまご綝存篡位しんなみはいりょうくれぬしまごあきらあらためりつまごきゅうためみかどまごきゅうつねふところゆう攘除國賊こくぞくまご綝之しん聯合れんごうひがしろうしょうひのとたてまつじょ掉孫綝,奪回だっかい大權たいけんひがしくれ安寧あんねいなみ長久ちょうきゅう

ざいこく司馬しば昭之あきゆき司馬しばえん受禪じゅぜん篡位しょうみかどあらため國號こくごうためすすむふみしょう西にしすすむこく滅亡めつぼう西にしすすむ起用きようろうしょうもりあずか進攻しんこうひがしくれけい一場惡戰後打敗吳軍。くれぬしまごあきら投降とうこうひがしくれ滅亡めつぼう經過けいかきんひゃくねん戰亂せんらんさんこく時代じだい終結しゅうけつ司馬しばさんふん歸一きいつ建立こんりゅう西にしすすむ統一とういつ天下でんか

あずか史書ししょ記載きさいてき差異さい

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頤和園長えんちょうろう彩繪さえちゅうてき桃園ももぞのさんゆい繪畫かいが
頤和えんちょうろうなかはじめとくけんじがたなてき彩繪さえ

さんこく演義えんぎ是正ぜせい三國志さんごくし演義えんぎ清朝せいちょう史學しがくあきらがくまこと批評ひひょう:「たださんこく演義えんぎのりななふん實事じつごとさんふん虛構きょこう,以致かんしゃ往往おうおう為之ためゆき惑亂わくらん。」(かたりやくななふん史實しじつさんふん虛構きょこうしるべ致讀しゃ往往おうおうため其所混淆こんこう惑亂わくらん。)[4]:14演義えんぎうら許多きょた精彩せいさいてきじょうぶし千古せんこ傳說でんせつ,受地方ちほう野史やし傳奇でんき逸史いっし傳聞でんぶん影響えいきょうごくふか

みんはつよん運動うんどうはん傳統でんとう學者がくしゃ積極せっきょくきよしきよし三國志さんごくし》,以對しょかずらあきらせきはねりゅう傳統でんとう正面しょうめん人物じんぶつ進行しんこうさい評價ひょうかえびすてき魯迅ろじんとう革新かくしん學者がくしゃ也帶あたましたがえしゃくさんこく演義えんぎ》,而中華人民共和國ちゅうかじんみんきょうわこく建立こんりゅう于澄きよし真實しんじつ歷史れきし中國ちゅうごく大陸たいりく學者がくしゃざい改革かいかく開放かいほうぜんつね繼承けいしょうはん傳統でんとう學者がくしゃたいしょかずらあきらせきはねとう人物じんぶつ解釋かいしゃく援引えんいん三國志さんごくし》駁斥《さんこく演義えんぎ》。

對數たいすう演義えんぎ總體そうたいじょう而言,《あずまあまね列國れっこくこころざしさい重視じゅうし史實しじつ根據こんきょ,《さんこく演義えんぎつぎ,《ずいから演義えんぎさいつぎ

はばみだれ

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  • 太平たいへいようじゅつみなみはなろうせんため虛構きょこう人物じんぶつ事實じじつじょうちょうかくおう該得いた于吉つてきゅうみやたかしてき太平たいへいきよしりょうしょ》,いん此南はなでんきゅうはりかく太平たいへいようじゅつため虛構きょこうげきじょう
  • りゅう:僅隨どう鄒靖討伐とうばつはばぐん並無ならびな記載きさい援助えんじょあおしゅう穎川えいせん等地とうち(《三國志さんごくし·さきおもでんうんれいみかどまつはばおこりしゅうぐんかく舉義へいさきぬしりつ其屬したがえこうじょう鄒靖討黃はばぞく有功ゆうこうじょやすじょう。……ころ大將軍だいしょうぐんなんしんじょう毌丘あつしまい丹陽たんよう募兵ぼへいさきおもあずか俱行,いたり邳遇ぞく力戰りきせん有功ゆうこうじょためみつすすむ。)
  • はば將領しょうりょう程遠ほどとおこころざし、鄧茂、裴元紹、こうのぼるとうはばぐん將領しょうりょうみなぞく虛構きょこう
  • ちょうしゃたたかえ朝廷ちょうていぐんためすめらぎはじめかさしゅ兩人りょうにん對抗たいこうはば將領しょうりょうなみざいなみちょうたからちょうはり(《こう漢書かんしょ·すめらぎはじめかさしゅ儁列でんろくじゅういちうん:儁前あずかぞくざいせん戰敗せんぱいかさいんしんちょうしゃなみざい引大眾圍じょうかさへいしょうぐんちゅうみなおそれ,乃召ぐん吏謂曰:「へいゆうへん不在ふざい眾寡。こんぞくくさゆい營,やすためふうわかいんよるたてしょう,必大おどろきらんわれ出兵しゅっぺいげき四面しめん俱合,たんこうなり也。」其夕とげ大風おおふうかさみ乃約敕軍みなたば苣乘じょう使つかいするどあいだかこえがいたて大呼たいこ城上じょうかみ舉燎おうかさいん而奔其陣,ぞくおどろきらん奔走ほんそうかいみかどじょう曹操そうそう將兵しょうへいてきいたりかさみみさおあずかしゅ儁合へいさらせん大破たいは斬首ざんしゅすうまんきゅうふうだけごうこうかさ、儁乘かつすすむ討汝みなみひねこくはばついなみざい於陽翟,げき彭脫於西はななみやぶこれぞくくださんぐん悉平。)
  • あてじょうたたかえそうきょうため兩次りょうじだい一次為黃巾軍波才、彭脫兩人りょうにん殘存ざんそん兵力へいりょく,且為まごけんしょやぶだいざいかんただしちょうひろし朝廷ちょうていぐんそくためしゅ儁、荊州刺史ししじょ璆、南陽なんよう太守たいしゅしん頡(だいいち:《三國志さんごくし·まごやぶとりこ討逆でんうんかんくるま將軍しょうぐんすめらぎはじめかさちゅうろうはたしゅ儁將へい討擊。儁表請堅ためぐん司馬しば鄉里きょうり少年しょうねんしたがえざいした邳者みなねがいしたがえけんまたつのしょしょうたび及淮、泗精へいごうせんもとじんあずか儁併りょく奮擊,しょむかいまえなんじ、潁賊(そくちょうしゃたたかえあまり眾)こまさこはしあてじょうけんとういちめん登城とじょう先入せんにゅう,眾乃ありとげ大破たいはだい:《こう漢書かんしょ·すめらぎはじめかさしゅ儁列でんろくじゅういちうんぞくさら以趙ひろためそち,眾浸もりとげじゅうあまりまんよりどころあてじょう。儁與荊州刺史ししじょ璆及しん頡合へいまんはちせんにんかこえひろし,……儁因きゅうげきひろしこれぞくあまりそちかんただしふくよりどころあてこばめ儁。……しゅんいんげき大破たいは。)
  • ちょうはりちょうたから兩人りょうにんみなためすめらぎはじめかさしょころせ,而非ちょうたからしゅ斬殺ざんさつ(《こう漢書かんしょ·すめらぎはじめかさしゅ儁列でんろくじゅういちうんかさあずかかくおとうとはりせん於廣むね。……大破たいははり,……かさみふくあずか鉅鹿太守たいしゅ馮翊かくのりおさむかくおとうとたから於下おしたきょくまたこれ。)

ただしたく方面ほうめん

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  • ただしたく討伐とうばつせん討伐とうばつただしたく地方ちほうれんぐん一般認為共有十三路,分別ふんべつこう將軍しょうぐん袁術,冀州まきかん馥,しゅう刺史ししあな,兗州刺史ししりゅうかわ太守たいしゅおうただし,勃海太守たいしゅ袁紹,ちんとめ太守たいしゅちょう邈,ひがしぐん太守たいしゅはし山陽さんよう太守たいしゅ袁遺廣陵こうりょう太守たいしゅちょうすすむすみきたしょうあわびしんちょうすな太守たいしゅまごけん以及奮武將軍しょうぐん曹操そうそうざい三國志さんごくし·みかどれつ舉諸軍馬ぐんば記載きさいため:「はつひら元年がんねんはる正月しょうがつ將軍しょうぐん袁術、冀州まきかん馥、しゅう刺史ししあな伷、兗州刺史ししりゅう岱、かわ太守たいしゅおうただし、勃海太守たいしゅ袁紹、ちんとめ太守たいしゅちょう邈、ひがしぐん太守たいしゅきょう瑁、山陽さんよう太守たいしゅ袁遺、すみきたしょうあわびしん同時どうじ俱起へい,觽各すうまん,推紹ため盟主めいしゅふとしぎょう奮武將軍しょうぐん。」《どおりかんだいじゅうきゅうかん·かん·こうけんじ皇帝こうてい·はつひら元年がんねんのり記載きさいため:「はる正月しょうがつ關東かんとうしゅうぐんみなおこりへい以討ただしたく,推渤うみ太守たいしゅ袁紹ため盟主めいしゅ。紹自ごうしゃ將軍しょうぐんしょしょうみなばん授官ごう。紹與かわ太守たいしゅおうただしたむろかわ內,冀州まきかん馥留鄴,きゅう其軍かてしゅう刺史ししあな伷屯潁川,兗州刺史ししりゅう岱、ちんとめ太守たいしゅちょう邈、邈弟廣陵こうりょう太守たいしゅちょうひがしぐん太守たいしゅきょう瑁、山陽さんよう太守たいしゅ袁遺、すみきたしょうあわびしんじあずか曹操そうそう俱屯さんなつめ將軍しょうぐん袁術たむろ魯陽,眾名すうまん。……荊州刺史ししおうあずかちょうすな太守たいしゅまごけん……またみなおこりへいおう睿不ひさしころせ)。」這條記載きさい可能かのう所謂いわゆるじゅうさん說法せっぽうてき史料しりょう證據しょうこ所謂いわゆる無論むろん演義えんぎちゅうてきじゅうはち諸侯しょこう討董,かえ有史ゆうしじつ依據いきょてきじゅう三路討董地方聯軍都屬於後人附會。另外參與さんよ討董てき地方ちほうかん頗多,ただ一般因其未能正式會盟而不被列舉,而各自かくじ討董事跡じせきまた散見さんけん於《こう漢書かんしょ》、《三國志さんごくし列傳れつでんちゅう,《どおりかんゆうしょそうゆいしたぶんややさくれつ舉:ひねこくそうもとひねおうりゅうちょう潁川太守たいしゅみん西河にしかわ太守たいしゅちぇひとしひとしまたおこりへいはんただしいん參與さんよかいめい不在ふざいめいれつちゅう河南かなんいんしゅしょあさちゅうこう棄官反對はんたいただしたく而起へい。《九州きゅうしゅう春秋しゅんじゅう記載きさいあおしゅう刺史ししこげつとむ同盟どうめい,俱入京畿けいき」,ただしこれはばぐんざいあおしゅう復興ふっこう,「不能ふのう」,而後びょうそつ
  • 絞殺こうさつからひめじゅんぞく虛構きょこうからひめざいただしたく死後しごてきかくみだれかんけんじみかどせっかいふうひろのう王妃おうひ
  • てん歷史れきしじょう並無ならびなてん蟬其じん文學ぶんがく作品さくひんちゅうてきてん蟬,最早もはやゆかりそうきむもと民間みんかん藝人げいにん創造そうぞうけいおどけげき小說しょうせつ充實じゅうじつ原型げんけいためただしたくてきいちめいさむらい婢,りょぬの曾與此女私通しつう演義えんぎちゅうおおとりただしてい擲戟事件じけんのりよし另一個小事件移花接木而成。(《三國志さんごくし·りょぬのでんうんたく以遇じん無禮ぶれいおそれじんはかりごとおのれぎょうとめつね以布韂。しかたくせいつよし而褊,忿不おもえなん,嘗小失意しつい拔手ぬきて戟擲ぬのぬのけんとし避之,ためたく顧謝,たくまたかいよしかげ怨卓。たくつね使つかいぬのもり中合なかごうぬのあずかたくさむらい婢私どおりおそれごと發覺はっかくこころやす。)
  • しげる掩護えんごまごけん撤退てったいしげ掩護えんごまごけんためりょう抵擋じょさかえ而不はなつよし正史せいし也無記載きさいしげるはなゆうしょころせ。查《三國志さんごくし·まごけんでん》及資どおり鑒等史書ししょ可知かち,袁術きゅうまごけんはつかてそうあずかまごけん遭襲、突圍ちゅうあか幘換しげあたま盔、ゆかりしげ引開おいへい、逃一命いちめいとう事實じじつただし先後せんご順序じゅんじょ卻與《演義えんぎ不同ふどう[4]:17。《三國志さんごくしてき描述まごけんはたあか幘傳あずかしげるしげるついへいぜい眾,はたあか幘套ざいふんぜんやきばしらじょうかたりょうついへいとく以脫したがえ此以さい此人記載きさい。按史しょ記載きさいまごけん戰敗せんぱいざいさき,袁術不發ふはつぐんかてざい,二者沒有因果關係;ただし於《演義えんぎちゅう,二者先後順序卻被顛倒,使つかい袁術不發ふはつぐんかてなりまごけんへいはい原因げんいん[4]:17。而《演義えんぎちゅうそくしげるみとめためまごけんてきあか幘過於顯主動しゅどう提出ていしゅつ交換こうかん頭巾ずきんてき要求ようきゅうなみはたあか幘套ざい廢墟はいきょちゅうはしらじょう意欲いよくぶん散華さんげ注意ちゅういりょく以求ふくげきただしふくげき失敗しっぱい而被はなゆうじん。另《こころざしちゅう記載きさいまごけんさきためじょさかえしょはい,而後組織そしき反擊はんげきげきはいただしたくぐんなみはたはなつよし梟首きょうしゅ演義えんぎちゅうのりはなゆう一路擊殺諸侯聯軍各色龍套「大將たいしょう」以為せき勇武ゆうぶ做鋪墊。
  • うしうし輔逃跑的原因げんいんぐんちゅう大亂たいらん,一些人背叛牛輔,而牛輔還以為ごと個人こじんはん叛,しょ以與其親しん攴胡あかとうろくにんたいざい逃跑,途中とちゅうあかむさぼざいがいうし輔,はた其首おく長安ながやす。《演義えんぎあらためためうし輔因ためてきりょぬのざいたいざい逃跑,かえうつしあかりょう其首こう交給りょぬの
  • じょさかえただしたくぐんたい關東かんとうぐんちゅう戰功せんこうさいあや炳的せんはたしか而在さんこく演義えんぎちゅう,卻將れついれ重要じゅうようてき地位ちい草草そうそうたい。曾擊退げきたいあずかただしたくぐん交戰こうせんてき曹操そうそう跟孫けん,阻擋ざいまえてき就是じょさかえ。這一仗,曹操そうそう慘敗ざんぱい,甚至自己じこてきせんたおせかえよう曹洪支援しえん馬匹ばひつしか而羅ぬきちゅういちぴつ「交馬すうごう,(なつこうあつしとげじょさかえ於馬。」史實しじつじょうじょさかえ於李かくみだれ時期じきてき新豐しんゆたかたたかえ戰死せんしざい亂軍らんぐんなかまごけんたいただしたくぐんいく乎是ひゃくせんひゃくしょう唯一ゆいいつ輸的一場いちじょう,就是たいじょうじょさかえ,也是以孫けんてき慘敗ざんぱいさくゆい
  • ざい正史せいしじょうすんでただしたく女婿じょせい,也未にん其軍さらぼつおうまことしょただしたくおうまことかんけんじみかどついとい毒殺どくさつかんしょうみかどいち事後じご事蹟じせきしょう
  • えびす病死びょうしなみほどひろしところころせ
  • ちょうみや正史せいしためかん朝司あさじ,曾大りょく支持しじただしたくはいしょうみかどりゅうべんあらためりつけんじみかどりゅうきょう演義えんぎあらためなり ひのとかんためかんちょう尚書しょうしょただしたくはいしょうみかど出面でづら痛罵つうばただしたく反對はんたい廢帝はいていだいいかてきただしたくれい處決しょけつ

袁紹方面ほうめん

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  • ぶんみにく三國志さんごくしちゅう曹操そうそう輜重しちょう棄置路上ろじょう使つかいぶんみにく兵士へいし搶奪,造成ぞうせい混亂こんらん,而被曹操そうそう未滿みまん600てき兵力へいりょく突襲,於亂ぐんちゅう。而殺死文しぶんみにくしゃ記載きさいすすむあさ二王におう尺牘せきとくあずか宋朝そうちょう史家しかひろしてき容齋ようさい隨筆ずいひつこうよりどころみとめためぶんみにくざいみなみ坡時跟顏一樣為關羽手殺於萬眾之中,ただしぼつひっさげいたぶんみにくこれためがおりょうほうかたき而來,《山西さんせいとおるこころざし也有やゆう類似るいじ記載きさい。(《三國志さんごくし·みかどうん白馬はくば輜重しちょう就道。しょしょう以為てき如還營。荀攸曰:「此所以餌てき如何いかこれ!」紹騎將文まさふみみにくあずかりゅう備將ろくせん前後ぜんこういたりしょしょうふくしろ:「上馬かみうま。」おおやけ曰:「也。」ゆうごろいたりややおおあるぶんおもむき輜重しちょうおおやけ曰:「矣。」乃皆上馬かみうまどき不滿ふまんろくひゃくとげたてへいげき大破たいはみにく。《二王におう尺牘せきとくうん:(せきはね)覓跡もとめこうとげがおりょう於白,誅文みにく於南坡,丞相じょうしょう曹操そうそう厚恩こうおん滿まんゆうしょほうまいとめしょたまものものつき在府ざいふふうはりふくもちだい慈,俯垂鑒照。《容齋ようさい隨筆ずいひつうんせきはねしゅころせ袁紹しょうがおりょうぶんみにくまん眾之ちゅう。《山西さんせいとおるこころざしうん:(せきはねかおりょう於白,誅文みにく於南坡)
  • 高覽こうらん投降とうこう曹操そうそうさい記載きさい下落げらく。而非演義えんぎちゅう,於汝みなみ斬殺ざんさつりゅうかむちょうくもところころせ
  • 麴義於界きょうたたかえあずかちょうくもたん挑。而是ざい袁紹げきはい公孫こうそん瓚的過程かていちゅう屢立功勞こうろう,恃功而驕引起袁紹不滿ふまんいん此被ころせ。(《三國志さんごくし·袁紹でん》引《英雄えいゆううん:麴義恃功而驕ほしいまま,紹乃ころせこれ。《こう漢書かんしょ·袁紹でんまたうん。)

かんまつ時代じだい

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  • じゅうつねさむらい:《こう漢書かんしょまきいちはちちゅう記載きさいかんれいみかどちょうしんてきちゅうつねさむらいためちょうゆずるちょうただしなつかくまさるまごあきら畢嵐ぐりかさだんこうのぞむちょうきょうかん悝、そうのりとう12にん演義えんぎちゅうのりためちょうゆずるちょうただしふうだん珪、曹節、ほうらんあしなえせきほどなつ惲、かくまさるとう10にん,其中曹節ほうらん二人雖然實有其人,ただしはやざいはばらんぜん死亡しぼう
  • りゅう正史せいしりゅう備拜しょくためなみ演義えんぎうらはいしょく友人ゆうじんていげんため[9]:24
  • ちょうつばさとく正史せいしちょうえきとくなみ演義えんぎうらてきつばさとく。(《三國志さんごくし·ちょうでんうんちょうえきとく,涿郡じん也,しょうあずかせきはね俱事さきぬし演義えんぎあやまさくつばさとく可能かのう印刷いんさつ錯,いんためよしみやすしほん依然いぜんさくえきとく」。且宋もと以後いごゆかり於說しょ藝人げいにんしたがえつばさ德之のりゆきせつ社會しゃかい普遍ふへんみとめためちょうつばさとく,以至於四庫全書從翼德說而不從宋代古本益德說)
  • 桃園ももぞのゆいよし正史せいし並無ならびなうつしいたりゅうせきはねちょうさんにんゆうゆいはいただひっさげいたりゅう備待せきちょう二人ふたりおんわか兄弟きょうだい」。
  • 著名ちょめい兵器へいきめい兵器へいき雌雄しゆうそうまたけんあおりゅう偃月刀えんげつとうたけはちへびほこ倚天けんあお釭劍、ほうたかしさんとんが兩刃りょうばがたなてつ脊蛇ほこてつ蒺藜こつ朵等ため虛構きょこうよう以描じゅつ人物じんぶつ性格せいかく偃月刀えんげつとう一般いっぱん練習れんしゅうようてき大刀たちゆかり於過じゅう不適合ふてきごう戰場せんじょう使用しようたけ八蛇矛在稍近的兩晉時期有實戰記載[10]。而方てん戟是ずいとう以後いござい出現しゅつげんてき武器ぶき
  • ちょうむちとくためりゅう所為しょいいんとくこばめりゅう備,りゅう備將とく郵縛つえ(《三國志さんごくし·さきおもでんうんとく郵以公事こうじいたけんさきぬしもとめ謁,不通ふつう直入なおいりばくとく郵,つえひゃくかい綬系其頸ちょ枊,棄官亡命ぼうめい。)[4]:22-23
  • ちょうげん:此人ため并州刺史しし而非荊州刺史しし長期ちょうき鎮守ちんじゅ北部ほくぶ邊境へんきょうかりもんうまひとちょうりょう最早もはやそくため其部ただしたくすすむきょうてき荊州刺史ししため後來こうらいまごけん逼死てきおう
  • 曹操そうそうけんじななほしがたな虛構きょこう故事こじ演義えんぎちゅう曹操そうそうけんじがたな刺殺しさつただしたく未遂みすいじつ曹操そうそうみとめためただしたくおわり必敗,連夜れんやせん逃回にげまわ鄉里きょうり。(《三國志さんごくし·みかどうんたくひょうふとしため驍騎こうじょうほしあずかけいことふとし乃變えき姓名せいめいあいだぎょうひがしまた引王沈等ちょしょうんふとし以卓おわり必覆はいとげ就拜,逃歸にげかえ鄉里きょうり。)
  • ちんみや捉放曹:「捉放曹」一事於史有載,ただし另有其人,姓名せいめいやめ不可ふかかんがえちんみやひがしぐんじん,《三國志さんごくしせき於他てき最早もはや記載きさい引《せつすすむ時任ときとうひがしぐん太守たいしゅてき曹操そうそうりょう兗州まきいん此陳みやおうとうざい曹操そうそう任命にんめいためひがしぐん太守たいしゅてき191ねん開始かいし跟隨曹操そうそう不可能ふかのう「捉放曹」。(《三國志さんごくし·みかどうんふとし乃變えき姓名せいめいあいだぎょうひがしだしせきちゅう牟,ためてい長所ちょうしょうたぐまいけん,邑中ある竊識ため請得かいまた引《うんちゅう牟疑ほろびじんかかわ於縣。ときじょうまたやめたくしょただこう曹心ふとし,以世かたみだれむべかかわ天下てんかゆう鉨,いんしろれいしゃく。)
  • 曹操そうそうころせりょはくおご一家いっかゆう三種さんしゅ不同ふどうてき版本はんぽん分別ふんべつ記載きさい於《三國志さんごくし·みかど》引《りゃく》、《かずまごもり雜記ざっき》。《りゃく中呂ちゅうろはくおごなみ不在ふざいりょはくおごてきおびただしどう賓客ひんきゃくようこう曹操そうそう曹操そうそう反擊はんげきころせ。《のりせつりょはくおごてき五個兒子對曹操禮遇備至,ただし曹操そうそうせいせいうたぐ,於夜ばんころせりょうりょはちにん。《まごもり雜記ざっきのりせつ曹操そうそう聽到食器しょっきてき聲音こわねあやまかいたいかたようたいづけ自己じこいん此趁よるころせりょうたいかたこれ很悲つうせつりょうやすしわがまけじん,毋人。」演義えんぎがかり綜合そうごう這些記載きさいなみ曹操そうそうためはんてき基調きちょう改編かいへん而成てき版本はんぽん
  • 曹操そうそうはつげき討董たくためひがしぐん太守たいしゅきょう所為しょい。(《三國志さんごくし·みかど》引《英雄えいゆううんひがしぐん太守たいしゅきょう瑁詐さく京師けいし三公移書與州郡,ちんたく罪惡ざいあくくも逼迫ひっぱく以自すくえくわだてもち義兵ぎへいかいこく患難。」)
  • はなつよし地位ちいはなつよし史實しじつ職位しょくいじょう地位ちい演義えんぎ描述だい於胡軫。
  • はなつよしあわびただしあわびしんなみぼつ有名ゆうめいためあわびちゅうてきおとうとおとうとまたぼっゆう擅自派兵はへい襲擊しゅうげきはなつよし,而鮑ちゅうてき原型げんけいためあわびしんおとうとあわび
  • はなつよしはんおおとりはんおおとりただし三國演義中的虛構人物。
  • せきはねゆたかしゅはなつよしはなつよしためまごけんてき軍隊ぐんたいしょころせ,而且梟首きょうしゅ。(《三國志さんごくし·まごやぶとりこ討逆でんうんけんふくしょうおさむへい合戰かっせん於陽じん大破たいはたくぐんふくろう其都とくはなゆうとう。)
  • さんえいせんりょぬの虛構きょこうげきじょうりょぬの實際じっさいうえただしまごけん擊退げきたい。(せき於孫けんげきはいりょぬの,《こう漢書かんしょ·ただしたくでんゆう詳細しょうさい記載きさい明年みょうねんまごけんおさむごうそつしんたむろやなけんじんたくはたえびす軫、りょぬのおさむこれぬのあずか軫不相能あいのうぐんちゅうおどろきおそれ士卒しそつ散亂さんらんけん追擊ついげき,軫、ぬの敗走はいそう。……けんすすむ洛陽らくようせん城門じょうもんさらげきりょぬのぬのふくやぶはし。)
  • ちょうくも大戰たいせんぶんみにくすくい公孫こうそん虛構きょこうげきじょうちょうくもため鄉里きょうりこう推,りつりょう家鄉かきょう子弟していへいとうもたれ公孫こうそん瓚。(《三國志さんごくし·ちょうくもでんせき於趙くもてき記載きさいひゃくよんじゅう,裴松引《くも別傳べつでん充實じゅうじつりょうちょうくもてき形象けいしょうよりどころくも別傳べつでん記載きさいくも身長しんちょうはちしゃく姿すがたがお雄偉ゆうい為本ためもとぐんしょ舉,はたしたがえ吏兵まい公孫こうそん瓚。)
  • 連環れんかんけい:《三國志さんごくしなお記載きさいてん其人,ただしりょぬのかくあずかただしたくさむらい婢有しみ。(前文ぜんぶんてんせき於王まこと聯合れんごうりょぬのころせただしたく,《三國志さんごくし·りょぬのでんうんさきつかさおうまこと以布しゅうさと壯健そうけんあつせっおさめこうぬのまいまことちんたくいくころせじょうときまことあずかぼくしゃまごみず密謀みつぼう誅卓,以告ぬの使ため內應。ぬの曰:「奈如父子ふしなに!」まこと曰:「きみせいりょほん骨肉こつにくいまゆうひまなにいい父子ふし?」ぬのとげもととげたく。《三國志さんごくし·ただしたくでんまたうんつかさおうまこと尚書しょうしょぼくしゃまごみずたくはたりょぬの共謀きょうぼう誅卓。天子てんしゆうやまししんいよいよ大會たいかい未央みお殿どのぬの使どうぐんじょう肅等,はたおやへいじゅう餘人よにんにせちょ韂士ふくもりわきもんぬのふところ詔書しょうしょたくいたり,肅等かくたくたくおどろきよびぬの所在しょざいぬの曰「ゆうみことのり」,とげころせたくえびすさんぞく。)

群雄割據ぐんゆうかっきょ

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  • まごけんよし於只たいいくめい隨從ずいじゅう追擊ついげきてきぐんなかりょう伏兵ふくへい射殺しゃさつ於死於峴山。(《三國志さんごくし·まごやぶとりこ討逆でんうんはつたいらさんねんじゅつ使けんせい荊州,げきりゅうひょうひょうぎゃく於樊、鄧之あいだけん擊破げきはついわたりかんすいとげかこえじょうたんうまぎょう峴山,ためぐんしょ射殺しゃさつ。)
  • りょこうりょこうかくゆう其人,曾埋伏まいふくなみ射殺しゃさつまごけん演義えんぎ增加ぞうか後來こうらいりょこうほど斬殺ざんさつてき虛構きょこうげきじょう
  • うまあが勤王きんのううまあがほんため政府せいふぐん落草ため寇,割據かっきょ一方いっぽう曾勤おうなみあずかただしたく聯合れんごうただし後繼こうけいてきかくぼつのうこたえおうあが私事しじ要求ようきゅううまあがざい聯合れんごうりゅうとうはつへいおさむ。該戰相關そうかん記載きさいちゅうなみぼつゆうひっさげいたうまちょううまちょうれんころせこうむおうかたはたまたぞく虛構きょこう
  • ちょうとらひねせい:演義えんぎちゅうためぞく大將たいしょうずいせんまごけんちょうとら曾和そわすすむかんとうたんじゅうごうちょくいたまごさく射殺しゃさつひね生後せいごあずかかんとう力戰りきせんいたちからおびえてきちょうとら嚇到ずいそくかんとう砍死。演義えんぎちゅういんためちょうとらちんなまひさげまえじんほろび所以ゆえん後來こうらい增設ぞうせつ在江あるえ夏作なつさくらんてきちょうたけしちんまごかく正史せいし上張うわばりとらちんなまかくゆう其人,曾盤よりどころじょうりゅうひょう蒯越、龐季ぜん勸降かんこうなみぼつゆうずい作戰さくせんなみかんとうまごさく斬殺ざんさつてきろく
  • えびすあか:此人ため西域せいいきえびすじん名字みょうじおうため「攴胡あか」,正史せいしうつしあか如何いかふくろううし輔之くびさいぼつ記載きさい
  • やぶりゅうくびこうためまごけんいもうとじょこれはは
  • しゅう瑜活捉ふとしこれけい正史せいしぼつゆう記載きさいぞく虛構きょこう
  • しゅう瑜夾おさむおうあきら正史せいしあずかしゅう瑜無せき
  • しゅう進言しんげん以奇へい大破たいはおうあきら正史せいしためまごせい提出ていしゅつけいさくしゅう瑜沒參與さんよ
  • ろう演義えんぎちゅうただ記載きさいまごさくりつ擊破げきは並無ならびな正史せいししょ砍斷馬鞍まぐらてん做掉まごさくまごさくおさむふくこと
  • いつわりやぶりょ虛構きょこう
  • なりかど正史せいしあずかえつずいりょぬのじょ袁紹おさむちょうつばめりょぬのよりどころじょしゅうなりかど繼續けいぞくため其效りょく曹操そうそうおさむ邳,りょぬのじょうよく逆襲ぎゃくしゅう曹操そうそう卻反遭曹みさおげきはいなりれん此戰曹軍とりこ演義えんぎあらためなりりょぬの丟兗しゅうしょうらく進一しんいちしゃ
  • 薛蘭、ふう:薛蘭、ふう正史せいしいんいぬい之子ゆきこせい復仇ふっきゅうなみ聯合れんごう曹軍いちおこり擊破げきは戰死せんし演義えんぎあらためなりふう跟投奔曹操そうそうひさてきもうしょうもと褚單挑,もと斬殺ざんさつ;薛蘭敗走はいそうしょうりょけんしゃ
  • 郝萌正史せいし記載きさいりょぬのいれぬしじょしゅうだいりゅう備後びんごひさ發動はつどう叛亂はんらんずいそくこうじゅんはら郝萌ぞく曹性聯合れんごう擺平,並無ならびなのちめん掩護えんごおう楷、もと汜時まきちょうとりこなみおく交曹みさお斬首ざんしゅてき虛構きょこうげきじょう
  • 曹性正史せいし曹性曾助だか順平じゅんぺい郝萌叛亂はんらん,而後事蹟じせきしょう。雖然なつほうあつしかく實在じつざいせんりょぬのぐん流矢ながれやしゃ瞎一ただし瞎夏ほうあつし一眼的人已經失考,ずいちょなつほうあつし憤怒ふんぬほうかたき一槍刺死曹性劇情亦作虛構。
  • とうけん形象けいしょうあずか史實しじつ。於《演義えんぎちゅうこれかずしげるおやてきろうこのみじん實際じっさいじょうとうけん剛直ごうちょくおもね直言ちょくげんはんじょう
  • 臧霸あずかりょぬの同盟どうめい關係かんけい而非ぞく,且曹みさお跟呂ぬの爭奪そうだつ兗州他人たにん不在ふざい兗州。
  • ほふじょしゅう演義えんぎうら曹操そうそうただほふりょういちじょしゅう實際じっさいじょう曹操そうそうほふじょしゅうただいち
  • とら吞狼けい當時とうじ荀彧留守るす鄄城,曹操そうそうあずかりょぬの交戰こうせんせつ退すさおさむ鄄城てきかくみつぐあずかほどなつほうあつしちから三城みき後來こうらい曹操そうそう打算ださん奪取だっしゅじょしゅう消滅しょうめつりょぬのただ阻止そし曹操そうそう進攻しんこうじょしゅう企圖きと
  • きのれいきのれい正史せいし僅有おうりょぬの邀和りゅう備罷へいげん(そくながえもんしゃこと)こと並無ならびな演義えんぎしょじゅつ跟劉備屬大將たいしょうせきたんさんじゅうかいごうぶん勝負しょうぶこう袁術けんじ疏不みつおやけい後來こうらいあずかちょうたん挑十餘合被張飛刺殺的事。
  • 兄弟きょうだい手足てあし妻子さいし如衣ふくりゅう備並ぼつゆう古人こじんげん也沒せつ此話。
  • ちょうりょうくだ:三國演義中張遼在白門樓上表現剛烈,ののしりょぬのため匹夫ひっぷ」,大呼たいこ曹操そうそうため國賊こくぞく」,如歸。曹操そうそうれい絞殺こうさつりょぬのりゅう備、せきはねためちょうりょうもとめじょう曹操そうそう便びんまちちょうりょう以上いじょうまろうどれいちょうりょうかん恩情おんじょう,於是投降とうこう正史せいしうらちょうりょうざいりょぬのへいはい邳後,就直接ちょくせつ投降とうこう曹操そうそう,《三國志さんごくし·ちょうりょうでん》:「ふとしやぶりょぬの於下おした邳,りょうはた其眾降」。
  • りゅうやすしころせつまじゅんぞく虛構きょこうりゅうやすしまたため虛構きょこう
  • すめらぎ叔劉備:三國演義顯示劉備的地位(ざい三國志さんごくし平話へいわ》就將りゅう備稱ためりゅうすめらぎ叔」),ためりゅう備編づくりりょう一份完整的十八代家譜,はい一排劉備就變成了皇叔。史實しじつじょうりゅうまさるまとりゅうさだいんためぼつゆう朝廷ちょうてい規定きてい獻納けんのう酎金,而失侯爵こうしゃく資格しかく後來こうらいまた經歷けいれき戰亂せんらん政治せいじ紛爭ふんそうはややめ式微しきびぞく不明ふめいただのう確認かくにんりゅう備是かんしつ胄;ただしやから份不とく而知。
  • 禰衡演義えんぎうらざいちょう投降とうこう(199ねんこれざいとうもたれ曹操そうそう實際じっさいじょう禰衡やめほろび。禰衡ただぜんひょうあなとおる,楊修;ただし惡評あくひょうひねぐん司馬しばあきら,荀彧ちょうとおる,荀攸,かくよしみほど昱,ちょうりょうもと褚,のりらくしんりょけん滿まんちょう,于禁,じょあきらなつほうあつし曹仁ぼつ禰衡評論ひょうろん後來こうらい禰衡これはしいた曹操そうそう面前めんぜんはだかころも也沒ののし曹操そうそうざい正史せいし,禰衡演奏えんそうりょうりょうさん撾》これ就在曹操そうそう面前めんぜんだつかん所有しょゆうてきころもかわ演義えんぎあらためうつし吏)制服せいふくさいげき就走じんこう曹操そうそうようおく禰衡りゅうおもてしょてき原因げんいん禰衡げきてき事情じじょう,而是禰衡拿棰ざい曹操そうそう營門まえののし曹操そうそうざいおくはし後來こうらい事實じじつじょう些人いん禰衡品行ひんこう而有心機しんき歡送かんそうかいらいさくろう禰衡,而且荀彧當時とうじ不在ふざいじょう後來こうらい禰衡ののしまつりはいてき鬼神きじん,而是ののし其「こうざいしょ

かんわたりたたかえ

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  • しゅれいみちあきらりゅう備騙はしまん兵馬へいばしゅれいため名望めいぼう僅次於じょあきらとう五子良將的優秀將領,なみ擔任たんにんりゅう備的かんぐん及被りゅう備欺騙。みちあきらざい正史せいしてき名字みょうじためみち[11]
  • じょしゅうくるまかぶとりゅう所為しょい
  • ちょうさとしとりこりゅうりゅう備軍確實かくじつげきはいめいためりゅう岱的曹軍將領しょうりょうただし人並ひとなみ參與さんよ討伐とうばつただしたくてき兗州刺史ししりゅう岱。兗州刺史ししりゅう岱在討伐とうばつはばあまりとうあずかあわび信一しんいちどうぐうがい
  • 土山つちやまやくさんことせきはね戰敗せんぱいとりこゆう土山つちやまやくさんこと」。
  • あかうさぎあかうさぎざいりょぬの戰敗せんぱい不知ふちこう
  • せきはね誅顏あずかぶんみにくぶんみにく於曹ぐん亂軍らんぐんちゅう,三國志中殺死文醜者不明。すすむあさ二王におう尺牘せきとく》、宋朝そうちょう著名ちょめい史家しかひろしてき容齋ようさい隨筆ずいひつ史料しりょうこうよりどころみとめためせきはねしゅころせ袁紹しょうがおりょうぶんみにくまん眾之ちゅう」,地方ちほう山西さんせいとおるこころざし》也採取さいしゅ這種說法せっぽうがおりょうざい三國志中明確是關羽所殺。せきはねため回報かいほう曹操そうそうあずか袁軍對戰たいせんがおりょう旗幟きし便びんはく衝鋒,ざい萬軍之中砍下顏良人頭。
  • まごさく:遭刺きゃく暗算あんざん不治ふち,而刺きゃくまえくれぐん太守たいしゅもとみつぎまとやつあずかもんきゃくなみ于吉嚇死。[12]
頤和えんまとせきくもちょう千里せんりはし單騎たんき壁畫へきが
  • 五關斬六將虛構きょこうげきじょうせきはねはなれひらき曹操そうそうぼつゆう經過けいか五關ごせき,而被てきろくしょうあなしゅうはじめひろしかんぶく卞喜おうしょくはた史書ししょ記載きさい
  • じゅん于瓊さけよいあやまこと曹操そうそうぐん成功せいこう偷襲じゅん于瓊もりてきがらすかてくら為真ためざにごとただしぼっゆうじゅん于瓊かつよいしゅかんごと而被曹軍偷襲てき記載きさい
  • 袁譚これ曹洪斬殺ざんさつ正史せいしため曹純精銳せいえいとらひょう梟首きょうしゅ,而とらひょうざい演義えんぎちゅういちひさげ
  • 袁尚射殺しゃさつふみきよしじょあきらてき副將ふくしょうきよしざい河北かほく平定へいてい受封ため列侯れっこう,《三國志さんごくしぼつゆう此人てき單獨たんどく傳記でんき,裴松ちゅう引王沈《しょ記載きさいざいけんやすじゅうよんねん(209ねん病死びょうし
  • もとこれもと攸系曹操そうそう直接ちょくせつしたれいしょなみためもと褚所ころせ
  • のこけいじょう遼東りゃおとん虛構きょこうげきじょうかくよしみ暴斃而亡,ぼつとめにんなんけいさく
  • 馮禮正史せいし鎮守ちんじゅ鄴城暗中あんちゅうくだ曹,原本げんぽん打算ださん開城かいじょう引曹ぐんいれ,卻被しんはい發覺はっかくしんはいはたけい就計しょう入城にゅうじょうてき曹軍さんひゃくにん全部ぜんぶころせ演義えんぎあらためなり馮禮むさぼさけあやまことしんはい重罰じゅうばつ,馮禮いきどお而降曹並こう曹操そうそうけんじ挖地どうおさむ鄴之けいずいそくしんはい發覺はっかくしんはい於是はた地道じみち出口でぐちじゅうゆずる馮禮とう人死ひとじに於地どう內。
  • 古城こじょう蔡陽ひがしかんけんめい古城こじょうしゃ。蔡陽あずかりゅう交戰こうせんへいはいころせしょうじょう不明ふめい
  • ちょうくも臥牛山がぎゅうさん歸順きじゅんはやざいりゅう備為公孫こうそん客將かくしょうちょうくもやめ追隨ついずいりゅう備。あるせつ期間きかんちょうくも一度以兄喪辭歸鄉里,まちりゅう備投奔袁紹兩人りょうにんじゅう逢,再度さいど追隨ついずいりゅう備。
  • ちょうくもころせちょうたけしだつてきちょうたけしため虛構きょこう人物じんぶつてきらいみなもと不明ふめい,且僅於劉備躍だんけい故事こじちゅう,此外さい記載きさいちょうたけしちんまごてき現實げんじつ原型げんけいため對抗たいこうりゅうひょうてき荊州ごうきょうちょうとらひねせい

あかかべたたかえ

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  • 內事けつもんちょうあきら外事がいじけつといしゅう虛構きょこう正史せいし及野みなうんまごさくたくちょうあきら而無しゅう瑜。[13]
  • まごけんむくいかたき討伐とうばつ演義えんぎうらまごけんいのちしゅう瑜為だいとくそう水陸すいりく軍兵ぐんびょう。三國志裡孫權御駕親征,しゅう瑜只前部ぜんぶだいとく
  • 鄧龍正史せいしざいけんやすじゅういちねん(西元にしもと206ねん)命令めいれいりつすう千人進攻周瑜鎮守的柴桑但被周瑜擊敗並擒獲;演義えんぎあらためなりけんやすじゅうさんねん(西元にしもと208ねん) あずかひね一同いちどうせんまごけん,鄧龍ごう投降とうこうまごけんひさてきあまやすしおやしゅ斬殺ざんさつ
  • 演義えんぎためあまやすしついうえ直接ちょくせつ梟首きょうしゅ正史せいしまごけんぞく騎兵きへい馮則おいじょう斬殺ざんさつなみ梟首きょうしゅ
  • じょ庶之さとしじょざい正史せいしじょう記載きさい
  • じょ庶進曹營曹操そうそうみなみせいじょ庶跟ずいりゅう備南逃,亂軍らんぐんちゅうじょはは俘,じょ庶告べつりゅう備進曹營。所以ゆえんじょ眾說:「じょ庶母ため曹公所得しょとくりゅう備遣庶歸きたほしため天下てんかしゃじょじんじょう也,曹公またむべまこと。」ゆずるじょ庶與靳允形成けいせい對比たいひたいりゅう備放じょ庶走てき決定けっていみとめためじゅうふん恰當。からだ人情にんじょう違背いはい人倫じんりんつね所以ゆえんまたみとめため曹操そうそう也應該放靳允はし
  • じょ一言ひとこと不發ふはつ:其母ぼつゆう自殺じさつじょ庶最かんいたりちゅうすすむ,曾經勸進かんじん曹丕だいかんしょうみかど
  • 火燒ひたきはくもち新野しんの火燒ひたきはくもちりゅう所為しょい當時とうじしょかずらあきら出山でやま鎮:而火しょうしん野並のなみ記錄きろく
  • ちょうじんなつほうらんなつほうらんためちょうくもてき同鄉どうきょう朋友ほうゆうひろしもち坡之せんためちょうくもしょとりこちょうくも推薦すいせん其成ためぐんせい
  • のべ挺身ていしん砍死守門すもん將士しょうしよくゆずるりゅう備進じょう虛構きょこう
  • 長坂ながさかななしんななおうため長坂ながさかちょうくも護送ごそうりゅう備家しょう撤退てったいじつゆう其事,ただしななしんななため誇張こちょう描寫びょうしゃ
  • りゅう備摔阿斗あと虛構きょこう
  • 糜夫じんとべおうしか夫人ふじん於建やすねん事蹟じせきしょう
  • ちょう繡之ちょう繡不ちょうくもころせ[14],而是病死びょうしあるいん曹丕胞兄曹昂これかたき自殺じさつ
  • いかほえ長坂ながさかきょう:該是ちょうさき斷橋だんきょうさいだいたけ曹操そうそうとう人並ひとなみ未到みとうじょう
  • りゅうぐうがいけんじ荊州曹操そうそう任命にんめいためあおしゅう刺史ししふう列侯れっこうなみころせこう曹操そうそうためりょう表彰ひょうしょうてき功績こうせきさら遷為諫議大夫たいふ
  • しょかずらあきら舌戰ぜっせんぐんただ記載きさいりょうしょかずらあきらめんまごけんただしひがしくれ主戰しゅせん及主しょうそうもりしょかずらあきら使いちためぶし使ため遊說ゆうぜい
  • しゅう瑜智さん蔣幹みのる蔣幹あかかべ戰後せんごゆうせつしゅう瑜不なり,而且せい史上しじょうてき蔣幹也非演義えんぎしょうつしてき般無よう
  • しゅう瑜群えいかいまいけん作歌さっか虛構きょこう
  • さとしげきしゅうしゅうほんやめそうせんきょう曹植當時とうじひつじさくどうすずめだい》,所謂いわゆる曹操そうそうよく佔東くれ二喬之事乃民間傳聞,とうあさ詩人しじんもりまきざいあかかべいちちゅううつしどう:「東風こちあずかしゅうろう便びんどうすずめはるふかくさりきょうたかし)。」からあさやめゆう此傳。其後はんらいげん於「攬二喬於東南兮,らく朝夕ちょうせきあずかともいち事實じじつじょう三國志さんごくしうら全文ぜんぶん記載きさいりょうどうすずめだい》,卻沒ゆう這兩じゅんがかり後人こうじん偽作ぎさく
  • くさせんなみ此事,相似そうじ事件じけん發生はっせいざい曹操そうそうあずかまごけん濡須たたかえまごけん使用しようりょう此計。
  • 苦肉くにくけいかくゆうぶたいつわりくだただし苦肉くにくけいおう
  • しゅう瑜反あいだけいころせ蔡瑁ちょうまこと虛構きょこう。蔡瑁降曹後歷任れきにん從事じゅうじちゅうろう司馬しばちょうみずこうじょうふう爵為かんていこう。而ちょうまことのりざいくだ曹後,史書ししょ便びん記載きさい
  • しゅう看破かんぱ蔡中、蔡和いつわりくだ虛構きょこう
  • もうせってのひら水軍すいぐんため虛構きょこう故事こじ
  • りゅうこれじゅんぞく虛構きょこう事實じじつじょうりゅう馥是病死びょうしため曹操そうそうしょころせ,逝世ぜん也立りょう大功たいこう曾於そおごうこえ築城ちくじょう牆,死後しごひさまごけんおさむ形成けいせいあいこえたたかえだいいち),ゆかり當時とうじ戰役せんえきもたれ此防牆,使つかいいたまごけんこう而返,當時とうじてきごうこえ人民じんみんたい馥更ついねんただし其子りゅうひろしおうためりゅうやすしりゅう馥跟りゅうひろしてき關係かんけいおうためまご關係かんけい
  • 闞澤闞澤ためひがしくれ重臣じゅうしん受孫けん尊重そんちょうてき人物じんぶつしたがえ參與さんよ軍事ぐんじ行動こうどう
  • 龐統けんじ連環れんかんけい連環れんかん曹操そうそうけつさく龐統參與さんよあかかべたたかえ
  • 孔明こうめいもとめ東風こちじゅんぞく虛構きょこう江東こうとう冬至とうじ時日じじつ有東うとう南風みなみかぜ
  • はなひろしどうちょうくもちょうせきはねざい曹操そうそう退路たいろ埋伏まいふくため事情じじょうぶし地方ちほうかん山西さんせいとおるこころざし》僅記載きさいせき於華よう釋放しゃくほうりょう曹操そうそう一事いちじ。而劉備意圖いとつめかいへいはいてき曹操そうそうやめ曹操そうそう跑掉。
  • あかかべたたかえりゅう備之いさお:《そうだけだん》:『あかかべやぶ曹,げんとくこう最大さいだいこうあきられつでん》:『あずか曹公せん於赤かべ大破たいは。』[15]みさおでん》;『こういたりあかかべあずか備戰不利ふり。』而不言ふげんしゅう瑜及魯肅。(つて)俱言あずか備並りょくちんひさししょしょかずらでんまたげんけんへいさんまんじょ[16],備得ようあずか曹公交戰こうせん大破たいは其軍,のり當日とうじつ戰功せんこういまりつじゅうしゅう瑜,あずかちんひさしこころざし甚合。』
  • あかかべおさむ:乃黃ぶたしょひっさげたて安中あんなかずいしゅう瑜拒曹公於赤かべけんさくおさむ
  • あまやすしうまのべちょう虛構きょこううまのべあずかちょう顗在けんやす九年倒戈降曹後不見正史記載。
  • かんとう刺殺しさつこげさわしゅうやすしちょうみなみ虛構きょこう

さんこく鼎立ていりつまえ

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  • 荊州歷史れきしじょういん荊南四郡早已投降劉備,ゆかり魯肅斡旋あっせん使まごけんいでみなみぐんなみ承認しょうにんりゅう占領せんりょう荊南よんぐん而實ぎわじょうてき領土りょうど交易こうえきただゆうみなみぐん
  • みなみぐんそうぼつゆう發生はっせいしゅう瑜死まごけんはたみなみぐんきゅうりゅう備。
  • 荊南やくりゅう備征荊南,四郡太守望風而降。ただし三國志さんごくしてき裴松ちゅうゆうきむりょうたけりょう太守たいしゅため備所おさむこうてき記載きさい
  • ちょうくもこばめめと樊氏ちょうくも以趙はんせり暫時ざんじ投降とうこうきょこころ叵測,怕受到ちょうはん牽連。
  • ちゅうせんせきただしずいちょうすな太守たいしゅかんげんどうくだしか而韓げん也沒のべころせ
  • まごりゅうれんこんまご夫人ふじんあずかりゅう備的こんごとただ政治せいじせいれん姻之いちまご夫人ふじん後來こうらい確實かくじつ回歸かいきひがしくれただし三國志さんごくしぼつゆうとうこう自盡じじんてき
  • ろうただし正史せいし並無ならびな記載きさいちゅう年齡ねんれい。《三國志さんごくし·しょくしょじゅういちてき傳記でんき雖有「はね聞黃ちゅうため將軍しょうぐんいか曰:『大丈夫だいじょうぶおわりあずか老兵ろうへい同列どうれつ!』」てき記載きさいただしざい當時とうじ老兵ろうへいため詈語あずかろうかわ」、「へいとう類同るいどう未必みひつゆびわたる年齡ねんれい
  • しゅう建議けんぎ軟禁なんきんりゅう:《演義えんぎうらしゅう瑜用「りゅう備以梟雄きょうゆう姿すがたゆうせきちょうちょうくもはたさらけんしょかずらようはかりごと,必非ひさこごめじんしゃすすむ諫孫けんしか而史じつちゅうしゅう瑜僅言及げんきゅうりゅう備、せきはねちょうさんにんてき危險きけんせいぼつひさげしょかずらあきらかずちょうくも當時とうじしょかずらあきらかえしょうひさげ及,にち名聲めいせいざいややややつい上關かみのせきちょういたり曹操そうそうとく望蜀ぼうしょくりゅう曄已はたしょかずらあきらあきら於治こくあずかせきはねちょういさむかんむり三軍さんぐんなみ舉。
  • 賠了夫人ふじんまたおりへいしゅう瑜沒けんじ美人びじんけいまごけん政治せいじせいれん姻嫁いもうと
  • しょかずらあきらかずちょうくもげきはい邢道さかえ:邢道さかえじゅんぞく虛構きょこうてき人物じんぶつ,也就ぼつ可能かのうあずかしょかずら大軍たいぐん交戰こうせんりょう
  • さんしゅうしゅう出征しゅっせい西にししょくぜんやめ史籍しせきじょうゆう記載きさいしゅう瑜與しょかずらあきらゆうにんなん衝突しょうとつ
  • しゅう瑜之しゅう瑜在しょく途中とちゅう病死びょうし於巴おか
  • ちょうしゅうちょうしゅう瑜是龐統しょかずらあきら
  • しゅう瑜與孔明こうめいしたがえあかかべたたかえ結束けっそくいたしゅう瑜病逝的兩年りょうねんあいだしょかずらあきらせいざいれいりょう一帶いったい
  • うまちょうきょうへいあずか史實しじつ相反あいはんうまちょうおこりへいざいさきへいはいうまあがぐうがいうまあがあずかかんとげ反目はんもくとめ長子ちょうしちょうすべりょう軍隊ぐんたい自己じこそくたい眷投こう曹操そうそうきょ鄴城,にんかんあさまもるじょううまちょうかんとげきょうへいはん叛後,うまあがあずか其二そのじきゅううまてつため曹操そうそうしょころせ
  • 楊柏真正しんしょう名字みょうじ楊白演義えんぎしょじゅつてき「楊柏」,さらぼつゆう演義えんぎ虛構きょこうてきあにちょう楊松
  • かんとげかんとげはん曹後なみぼつゆう投降とうこう曹操そうそう,而手ひじ也沒うまちょう砍去(最後さいござい羌胡てき地盤じばんため部將ぶしょう蔣石とうしょころせよしみやすしほん註釋ちゅうしゃくかんとげざい投降とうこう曹操そうそううまおっところせ[17]),死時しにどき享年きょうねんやくななじゅうさい[18]演義えんぎはん曹時自稱じしょうよんじゅうさい」。
  • 婁圭ため南陽なんようじんきょうちょうひと,於《三國志さんごくし·ちぇ琰傳》「南陽なんようもと攸、婁圭」ゆう記載きさい。此人ざい正史せいしちゅうため曹操そうそうてき幕僚ばくりょうざいうまちょうみだれ平定へいてい曹操そうそう殺害さつがいなみ突然とつぜん出現しゅつげんざい戰場せんじょうじょうきょう曹操そうそうよう冰水ちくすなじょうまた突然とつぜん消失しょうしつてき神秘しんぴ隱士いんし
  • わりひげ棄袍戰況せんきょう確實かくじつ激烈げきれつ曹操そうそう也有やゆうはい仗。敗走はいそうぐんこころつぶせしょしょうみな惶懼,十分じゅうぶん落魄らくはくただしかんわりひげ棄袍。ちょうよううしひつじ引誘西にしりょうへいれい曹操そうそうとく以逃だつのり為真ためざにごと
  • うまちょうじんとおる正史せいし評價ひょうかとおるためいさむかんむり三軍さんぐん」,並無ならびなあずかうまちょう交手じんてき記載きさいとおるざい二年前迎接曹仁撤出南郡途中病死。
  • もと褚裸ころもせんうまちょうぼつゆう記載きさいただ有馬ありまちょうあずか曹操そうそう談判だんぱんほんよく襲擊しゅうげき曹操そうそうただし曹操そうそう身邊しんぺんてきもと褚一瞪,便びんぼつゆうづけしょ實行じっこう
  • ちょうまつけんじおうためりゅう詢問ちょうまつしょくちゅうてきへい馬糧ばりょうぜにとう情況じょうきょう,於是ちょうまつせいりょう地圖ちずきゅうりゅう備。
  • 落鳳坡ちょうつとむやめ遭劉備軍とりこころせ龐統親臨しんりん前線ぜんせんとくぐん進攻しんこう雒城どき中流ちゅうりゅう死去しきょ。落鳳坡實ぎわなみ存在そんざいざいさんこく演義えんぎちゅう,落鳳坡在四川しせん雒城。ざいさんこく演義えんぎ前身ぜんしん三國志さんごくし平話へいわちゅう,「雒城」ぜんうつしさく落城らくじょう[4]:28-29
  • 霍峻:霍峻せい史上しじょう以數ひゃくにん鎮守ちんじゅかやもえせきりゅうあきら部將ぶしょうこうそん、扶禁りつぐんらいおさむ結果けっかはん遭霍たかしげきはいなみこうそん演義えんぎかやもえせき守將しゅしょう雖仍霍峻,ただしためりょう引出これてきちょうせんちょうなみぼつひっさげいた霍峻こうそんやぶ扶禁こと
  • うまちょうせんちょううまちょうわたしうつししんきゅうりゅう請求せいきゅうとうもたれ並無ならびな小說しょうせつちゅうちょう和馬かずまちょう大戰たいせんりょう百餘回合不分勝負,しょかずらあきら招降一事いちじ
  • 荀攸:荀攸いんいきどおいたり病死びょうし,而是ずい曹操そうそう出征しゅっせい

さんこく成立せいりつとき

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  • ふとし慈之じつ於赤かべ戰前せんぜん兩年りょうねんおおやけもと206ねん病歿びょうぼつ,而非於公もと215ねんざいごうこえたたかえちゅう戰死せんし
  • ふとしとおる真正しんしょう名字みょうじためたいとおる演義えんぎ所說しょせつてきふとしとおる」。
  • ちんたけし正史せいし記載きさい龐德ちんたけしちんたけし戰死せんし於濡須但未知みち何人なんにんしょころせせんほう卡在じゅえだ一事いちじ
  • せいかんちゅうせいかんちゅうてきそう指揮しきりゅう備,法正のりまさ參謀さんぼう
  • かんさん實際じっさいじょう幫過曹操そうそうざん,而漢中之なかのせん爆發ばくはつかん輅只ゆう8さい
  • いむがおいむがおねがい投降とうこう而寧受斬,ちょう而釋なみまちため賓客ひんきゃく。於りゅうあきら投降とうこうなみぼつゆうさい記載きさい。而並演義えんぎちゅうなりためりゅうてき大將たいしょうなみざいかん中之なかのせんなりためただしてき副將ふくしょう及立大功たいこう
  • 孟子もうしけいはじめたちひょう原子はらこたかしいんよう避諱りゅう叔父おじ名字みょうじりゅうけい」,所以ゆえんあらためひょうため」,而不けい」。
  • おうさけよいあやまこと耿紀韋晃發動はつどう叛亂はんらん射殺しゃさつおう必確ゆう其事,ただし正史せいし記載きさい其嗜しゅあやまこと
  • けいだつてんとろけやま純粹じゅんすい虛構きょこうなつほういさおまたぞく虛構きょこう人物じんぶつ
  • ちゅうかんひろしかんひろしざい正史せいしじょう救出きゅうしゅつ綁架てきなつほうあつし及向曹操そうそう建議けんぎ實行じっこう屯田とんでんせい,其為かんげんおとうと及被ちゅう斬殺ざんさつけい演義えんぎ虛構きょこう
  • ちょうくもかんすいすくいただしちゅう逾期ちょうくも找沒找到,卻遇いた曹軍,便びん且戰且退かい營寨,而後りつそら營計(空城そらじょうけい)。ぼつゆうちゅうこうてき記載きさい,曹軍しょう領有りょうゆう哪些またしょう
  • じょあきら背水はいすいいちせんじゅんぞく虛構きょこう
  • しょかずらあきらさとしかんちゅうしょかずらあきら留守るす成都せいとせめ內政つとむ補給ほきゅうちゅうげきころせなつほうふかしりゅう備就れいよりどころもり險要けんよう不出ふしゅつせんちょくいた曹操そうそう強攻きょうこうしたくだり退すさへい
  • ちょう郃力すすむなつこうふち勿中ほう正之まさゆきけい史料しりょうなみ記載きさいちょう郃勸諫之ごとはんたおせりゅう備軍ざいはし馬谷うまだに放火ほうかしょうてき寨,なつほうふかしもりみなみかこえちょう郃守ひがしかこえちょう郃被りゅう備軍せんいたり不利ふりなつほうふかしただこのみぶんへいきゅうちょう郃,最後さいご根據こんきょ太平たいへい御覽ごらん記載きさいなつほうふかしためりょうすくい火燒ひたき掉的防禦ぼうぎょ工事こうじただしこう譟攻,偷襲而亡。
  • かみなりどうあずからんこれかみなりどう跟張郃交戰時せんじころせ,而是ずいらん軍隊ぐんたいあずか曹洪交戰こうせん曹洪ころせらんのりため曹洪ところやぶ陰平かげひら氐人きょうはししょころせ曹彰しょころせ。(《三國志さんごくし·しょ·みかど記載きさい:「りゅう備遣ちょううまちょうらんとうたむろべん曹洪こばめこれ。……曹洪やぶらん其將にん夔等。三月さんがつちょううまちょうはしかんちゅう陰平かげひら氐強はしらんつて其首。」)
  • とら大將たいしょうりゅう備並ぼつゆうふうとら大將たいしょう」,ただゆうしょうせきちょううまちょうちゅう並列へいれつためまえみぎひだりこう將軍しょうぐん。五虎將是因為三國志中把關羽、ちょううまちょうちゅうちょうくもてき傳記でんきざいどういちしょう後世こうせい穿鑿せんさく附會ふかい
  • しゅうくらあずかえびすはん虛構きょこう人物じんぶつ歷史れきしじょうぼつゆう記載きさいえびすはん可能かのうゆびしょくしょうはん
  • せきはねたんかたな赴會魯肅邀請せきはね談判だんぱん雙方そうほう軍馬ぐんば駐在ちゅうざいひゃくそと,僅雙かた將領しょうりょう攜帶たんかたなあずかかい各自かくじよりどころりょくそう。魯肅なみ設計せっけい埋伏まいふくせきはね也沒ゆう恃強はさみ魯肅。
  • とらおんなやす肯嫁いぬせきはね拒絕きょぜつ兒女じじょれん姻並はずかしめののし使者ししゃせつてきばなし歷史れきし上關うわせき確實かくじつ拒絕きょぜつりょうまごけんあいだてき兒女じじょれん姻之ごとただしひさげ及過此話,而是ののしみちむじなたいひがしくれ人的じんてき貶稱),とうわがめつりょう樊城これわがかいかえ你滅りょう」。
  • 刮骨療傷確實かくじつゆう此事。《三國志さんごくし·しょくしょ·せきはねでん記載きさい:「はね嘗為流矢ながれやしょちゅうぬき其左ひじそう雖愈,まいいたりかげほねつね疼痛とうつう曰:「有毒ゆうどくどくにゅう於骨,とうやぶひじさくはじめ,刮骨どくしかこう此患乃除みみ。」はね便びんしんひじれい劈之。どきてき請諸しょう飲食いんしょく相對そうたいひじ流離りゅうりみつる於盤,而羽わりあぶ引酒,言笑げんしょう自若じじゃく。」,ただしせき羽中はなかてき時間じかん原因げんいんしょうまた也沒ゆう和馬かずまりょう棋的說法せっぽうみさおがたなてき醫師いしまた不明ふめい
  • みず淹七ぐんじつゆう其事,いんため當時とうじつよしつよしこうした大雨おおあめ使つかいいたかんすい泛溢而成,ただし當時とうじ于禁俘後並無ならびなこうかんこごめひざもとめにょうてき記載きさい同時どうじ于禁てき將軍しょうぐんしょくやめひだり將軍しょうぐんなみ小說しょうせつちゅうてきせいみなみ將軍しょうぐん。(《三國志さんごくし·しょ·于禁でん》:遷左將軍しょうぐんかりふし鉞,ふん邑五ひゃくふういち列侯れっこう。)
  • 龐德てき隸屬れいぞく:龐德はややめずい曹仁征戰せいせん樊城,なみ小說しょうせつちゅう于禁ななぐんてき先鋒せんぽう。(《三國志さんごくし·しょ·龐德でんほうおとまもるひらきとう以宛叛,とくはた所領しょりょうあずか曹仁どもおさむ拔宛おとひらけとげみなみたむろ樊,討關樊下しょしょう以德けいざいかんちゅう,頗疑。)
  • でんひとしすすむ糜芳くだひとしせいめいひとしでん可能かのう史書ししょでん抄出しょうしゅつ錯的衍字えんじひとしじつあずか糜芳ぶんへだたりょう誤判ごはん大勢おおぜいやめざい涕泣ていきゅう投降とうこう;糜芳そく備妥うししゅ開城かいじょうなみくれぐんためあずか其一しんしゃ
  • せきはねむぎじょうこばめちんひさしなみ記載きさい明確めいかくこばめただしゆうかん以偽くだはかりごと突圍てき戴。而在其他じゅうよん史的してき記載きさいちゅう南北なんぼくあさ當時とうじ世人せじん普遍ふへん知道ともみちせきねがい投降とうこう忠誠ちゅうせい殉節。[19]
  • たまいずみあらわきよしついいのちりょこうむたまいずみあらわきよし改編かいへんとうだい玉泉寺ぎょくせんじけんてら故事こじりょこうむ確實かくじつ奪取だっしゅ荊州ひさ便びんただし正史せいし記載きさい其死いん
  • しょかずら瑾勸りゅう備退へい正史せいししょかずら瑾是以書信しょしん勸告かんこくりゅう備,而非おやいたしょくかんじん營勸せつまたぼっゆうちょうあきらうたぐ其將かいひがしくれことまごけんかい說子せつこ瑜之まけなおまけ瑜也いん當時とうじゆう謠言ようげんしょかずら瑾暗どおりりゅう備。
  • はな佗之
    • 三國志さんごくし·かたわざでん記載きさいはな佗是曹操そうそうしょただしいんため頭痛ずつうひらきがたなこと於220ねんしょ,而是於208ねんしょ原因げんいん曹操そうそう發病はつびょう要求ようきゅうはな佗來はな佗騙曹操そうそうせつ其妻發病はつびょうこれ捉到,拿去拷刑。押獄吏ごくりてき姓名せいめい未知みち主要しゅよう拷刑如同。荀彧もとめじょう曹操そうそう仍然ころせこれはな佗死,曹沖夭折ようせつ曹操そうそうざい後悔こうかい處刑しょけいはな佗。《演義えんぎはな佗給ぞうことぶき12ねんりょう,而且還ためせきみさおがたな治療ちりょう
    • みん國史こくしがくちんとらつとむてき論文ろんぶん《三國志曹沖華佗傳與佛教故事》みとめためはな佗史其人,其刮こつ療毒、預言よげんちんのぼるこれ乃至ないし曹操そうそう殺害さつがいとう事跡じせきみなため附會ふかい印度いんど古代こだいかみ傳說でんせつ虛構きょこう而成。
  • 曹操そうそうあたま疼病曹操そうそう確實かくじつゆうへんあたま疼,歷史れきしじょう三國志さんごくし·はな佗傳》描述びょうじょうこころらん目眩めまい」,也有やゆうひね琳「ぶん癒頭ふうてき逸事いつじただし逝世病因びょういん未知みち
  • せきたいらせきはね長子ちょうし義子ぎしずい臨軍。

さんこく鼎立ていりつのち

[編輯へんしゅう]
  • せききょう弱冠じゃっかんきん20さい)就因ためざいだか而出にんりょうさむらいちゅうちゅうかんぐん,於えびすりょうたたかえこうすうねん死去しきょ
  • せきさく只見ただみ於野ちゅう
  • ちょうつと:雖稱夭,ただし有留ありどめちょう
  • あまやすし忠之ただゆき兩人りょうにんみなざいえびすりょう戰前せんぜんさんねん(220ねん病死びょうし
  • しゅしかこれ實在じつざいえびすりょう戰中せんちゅうためまごけんりつりょう戰功せんこう截斷せつだんりゅう備退病死びょうし於249ねん
  • はんあきらこれ實在じつざいえびすりょう戰中せんちゅうためまごけんりつりょう戰功せんこう,砍殺馮習とうひと病死びょうし於234ねんじょしゅしかあずかはんあきらがいまたゆうめいくれこく將領しょうりょううつし於夷りょうこれせん
  • うまただしひがしくれひがしうまただしさんこく時期じきゆううまただしおうしか芳和よしかずじんころせ,而是捉了せきこれさい也沒記載きさい
  • おうしかかおるでんひとしりゅう備處事實じじつじょうおうしか芳和よしかずじん也沒ゆうようかいらいしょくこくてき打算ださん
  • 范疆ちょういたる:范彊あずかちょういたるころせちょうとう奔東くれこれさい記載きさい,而不りゅう備殺
  • 習珍習宏:《じょう記載きさい習珍にんれいりょうぐん北部ほくぶじょう,曾在せきはい死後しご其弟習宏けいいつわりくだまごけんなみわたし攏絡樊伷。後原こしはらしょくはたはん濬攻,習珍、習宏兄弟きょうだいたたかえいた最後さいご一刻卻仍兵敗,習珍自殺じさつ而習ひろし雖投くれただし終身しゅうしん不為ふためまごけんけんじ一策いっさく演義えんぎなみぼつゆうひっさげいた習珍ためせきはねぶし一事亦無習宏此人。
  • しろみかどじょうたくりゅう臨終りんじゅうたくあずかしょかずらあきらいわお二人ふたりただし仍然ゆうたいしょかずらあきらせつ:「きみさいじゅうばい曹丕,必能安國やすくにおわりてい大事だいじわか嗣子しし輔,輔之;如其不才ふさいくん。」主要しゅよう情況じょうきょう雷同らいどう
  • はちじんはちじんしょかずらあきら所作しょさてき兵法ひょうほうじん所謂いわゆる八陣是為天覆陣、じんふうあげじんくもたれじんりゅうじんとらつばさじんとりしょうじん及蛇わだかまじんまい陣形じんけいよしさんじゅうたいへいしょ組成そせいすすむあさたからてきすすむ》以及きたたかし酈道もとてきみずけいちゅうまたゆう記載きさいただししんかいせきじん迷宮めいきゅう
  • ちょうりょうこれじつため病死びょうし,而非ひのとたてまつ射殺しゃさつ
  • まごせい史上しじょうまご韶「身長しんちょうはちしゃく貌都みやび」,且非常ひじょう重視じゅうし軍事ぐんじ諜報ちょうほう,受到まごけんあお睞,あずか演義えんぎ描述「としおさなごくゆうきもいさむかず偏執へんしゅう性格せいかくゆうしょ出入でいり
  • 安居あんきょひらめじゅんぞく虛構きょこう
  • 鄧芝正史せいしちゅう鄧芝確實かくじつおとずれまごけん準備じゅんび威嚇いかく鄧芝,鄧芝そう衝進烹嚇まごけんとうみやこただし小說しょうせつ創作そうさくじょうぶし
  • ななとりこはじめ:《三國志さんごくしじょうぼつゆう記載きさいななとりこはじめただしかんすすむ春秋しゅんじゅう》及《華陽かようこくこころざし中有ちゅううせつななとりこななたて」,ただし具體ぐたい過程かていぼつゆう記載きさいきょう且歷史上しじょうてきはじめためごくゆう聲望せいぼうてき南中なんちゅうごうきょうはじめため南中なんちゅうよんだいせいいちなみ蠻夷ばんい首長しゅちょう,而祝融しゅくゆうはじめゆう鄂煥楊鋒鹿しか大王だいおう朶思大王だいおうおびらいほらぬし金環きんかんさんゆいただし荼那おもねかい兀突こつせわしきばちょうとう南蠻なんばんぐん將領しょうりょう小說しょうせつしょ創作そうさくちょううまただしため南蠻なんばん女將おかみしょとりこまたため虛構きょこうじょうぶし參與さんよ叛亂はんらんてきこうじょうざい正史せいしちゅうため叟族酋長しゅうちょう最後さいごころせざい演義えんぎちゅうためしょくかんぐんもり而倖そん
  • うまちょう:於公もと222ねん守成しゅせい病死びょうし於公もと225ねん病死びょうし
  • りゅうひさしりゅうさとし:《さんこく演義えんぎうらせつりゅうひさしりゅうさとしくれ夫人ふじんせいてき,《三國志さんごくしじょうただこうりゅうひさししゅ庶弟,ひさげ及是くれ夫人ふじん所生しょせい。《三國志さんごくしまたせつりゅうさとししゅ庶弟也,あずかなが異母いぼ」,所以ゆえんりゅうさとしてき生母せいぼまたあずかりゅうひさしてき生母せいぼ不同ふどう

しょくかん曹魏

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  • ろく祁山しょかずらあきら,而只ゆうだい一次和第四次出祁山。
  • せききょうえつきちじゅんぞく虛構きょこうえつきちまたぜんぞく虛構きょこう人物じんぶつ
  • 譙周すすむ阻諸かずらあきら停止ていしきた虛構きょこう,譙周反對はんたいしょかずらあきらきた
  • ちょうくもちからしょうじゅんぞく虛構きょこうかんいさおひとしはたまたぜんぞく虛構きょこう人物じんぶつ
  • ほどけいこまちょうくもじゅんぞく虛構きょこうときしょかずらあきらいのちちょうくも擔任たんにんへんぐんしゅそちむねざい引誘ぐん主力しゅりょく,卻被ぐんしゅそち曹真げきはいぐん主力しゅりょくそくゆかりちょうりつりょうちょくしょかずらあきら大破たいはしょかずらあきらぜんほこさき馬謖ばしょく於街ていまたしょかずらあきらいのちせききょうちょうつとすくいちょうくも一事いちじ
  • なつこうおもてりんきゅう,也不なつこうふち,而是なつほうあつし確實かくじつ參與さんよりょう抵禦しょかずらあきらきたせめ鎮守ちんじゅ長安ながやすただしぼっゆうはいきゅうしょかずらあきらてき記載きさいさらぼつゆうとう奔過羌胡。
  • しょかずらあきらさとし三城みき:三郡望風歸降,きょう智勇ちゆうりょくこうしょかずらあきら故事こじまたぞく虛構きょこう
  • うま逃入羌胡じゅんぞく虛構きょこうざい曹魏かいかこえこれ和南わなみやす太守たいしゅ受到重罰じゅうばつ
  • りょういとぐちりょうけん兄弟きょうだい相關そうかんにん兄弟きょうだい
  • 司馬しばやぶ馬謖ばしょくじつためちょう所為しょい司馬しば指揮しきある授計。
  • こう出師すいしひょうみとめため後人こうじんにせたくいやしょかずらあきら著作ちょさくなおゆう爭議そうぎ
  • 司馬しば懿與しょかずらあきらしょかずらあきらあたまさんきたときぐんなみ司馬しばすべりょう
  • じょあきらこれ實際じっさい於公もと227ねん病死びょうしなみ於公もと228ねん參與さんよ討伐とうばつはじめたち而被はじめたちしゃ
  • 空城そらじょうけいまちてい戰敗せんぱいぐんなみたいしょくぐん進行しんこう追擊ついげきしょかずらあきらただ曾把西にしけんてきみん眾與かてくさ遷移せんい而已。且當時とうじぐん主將しゅしょう也非司馬しば懿,而是ちょう郃。空城そらじょうけいかくおきこうてき故事こじかくおきごとちゅうだいさんこと),裴松ちゅう三國志さんごくし引用いんよう目的もくてき駁斥該故事こじ不實ふじつ
  • 曹真曹真病死びょうし於洛
  • ののしおうあきらおうあきら病死びょうし於228ねんなみずいぐんせん
  • はじめたちみだれさるふけかずじょあきらぼつ參與さんよさるふけしたがえ於三國志記載的樊城之戰一事,背叛はいはんりゅうふう投降とうこう曹魏これ朝廷ちょうていだつ兵權へいけんやすろう於南さいぼつ記載きさい,而申いんため攔孟たちみち有功ゆうこう司馬しば懿召去京師けいし轉任てんにんためろうせん將軍しょうぐん,而央ばんてきさんこく演義えんぎまた虛構きょこう司馬しば懿平はじめたちみだれしょさるさるふけ原因げんいん不可ふか信任しんにん反覆はんぷく無常むじょう
  • 火燒ひたき上方かみがただに虛構きょこう
  • はたあきらこれ正史せいしゆう參加さんか討伐とうばつ步度ほど跟討しょく戰爭せんそうただしなみ演義えんぎしょじゅついん其中しょかずらあきらけい而戰はん而活いたしょかずらあきら(いたりしょう西元にしもと238ねんかえ在世ざいせい)これ
  • ちょう郃之じつため司馬しば強迫きょうはくちょう郃追げき而非ちょう郃自ねがい
  • ななほしとうぞくいのち虛構きょこう
  • しょかずら嚇跑かつなかたちかくゆう此事,不能ふのうしょうじつしょかずらあきらのこけい,《かんすすむ春秋しゅんじゅうてき記載きさいしょかずらあきらしょくぐん不發ふはつ悄然しょうぜん撤退てったい司馬しば懿有しょ發覺はっかくぐんつい趕。りょうぐんしょう近時きんじしょくかん將軍しょうぐんきょうれいちょう楊儀反旗はんき做勢佯攻,司馬しば懿不敢逼ちかただこう退すさへいしょくぐん入谷いりたにしか後發こうはつ當時とうじざいしょくちゅう就傳ひらけりょうしょかずら嚇走せいなかたちてき笑話しょうわ
  • のべはん叛,うま誅殺ちゅうさつのべあずか楊儀不和ふわ,互控はん叛、へいえびすしょうむこう蔣琬とうひと懷疑かいぎのべ以致のべ眾叛おやはなれへいはいころせ。楊儀いん事後じご待遇たいぐうたい蔣琬不滿ふまん妄語もうご遭費禕告發こくはつざい自殺じさつ

さん國末くにすえねん

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  • きょう維自くだのち將軍しょうぐん歷史れきしじょうきょう維不いんちょう戰死せんしくだのち將軍しょうぐん;而是よししょくちゅう百姓及大臣不滿其北伐失敗,さい自己じこ上書うわがきこうあるじくだのち將軍しょうぐん
  • なつこうこれ歷史れきしじょうぼつゆう記載きさいなつこう霸的死因しいん,按照《三國志さんごくし·せきちょううまちょうつたえなつこう霸獲おくりなざいけい耀さんねん(260ねんしゅついおくりなせきちょうとう將之まさゆきまえおもんみついふうしょう。而非演義えんぎちゅうざい洮陽戰中せんちゅうりょう鄧艾てき空城そらじょうけい而被らんしゃ
  • にわかなんしょうほこにわかなにしょうほこりょう個人こじん演義えんぎあやま作為さくいどう一個人いっこじんざい正史せいしおうためかく淮所ころせ自殺じさつ[20]
  • 突圍きょう維伐これあずかやす一同いちどう鎮守ちんじゅ麴山,演義えんぎちゅう遭郭淮命副將ふくしょうちんやすしりょうへいおさむ歆撞重圍じゅういきょう維令じんおく歆入かわやしなえびょう。而句やす於麴山城やましろちゅうとう援兵えんぺいいたり,乃開門かいもんくだ。《三國志さんごくしのり韶與やすとういた援兵えんぺい而降はたかく淮、ちんやすし
  • かくこれ實際じっさいかく淮於こうもと255ねん病死びょうしなみ演義えんぎちゅうついころせきょう維時ちゅうりょうきょう維射てき而死。きょう射殺しゃさつかく淮的じょうぶし可能かのう改編かいへんしゅうしょ·おうゆうでんちゅう斛律こう射殺しゃさつおうつよしてきじょうぶし
  • 閻宇なみ非勢ひせい無能むのうてき人物じんぶつ
  • きょうこれきょう維並自殺じさつほろび,而是ざい鍾會みだれちゅうあずか鍾會戰死せんし。而姜維死ろくじゅうさい演義えんぎちゅうてきじゅうきゅうさい
  • あきらこれしょくこく滅亡めつぼう,鄧艾聽說あきらこれ奸險てき小人こども打算ださんころせりょうあきら賄賂わいろ鄧艾おやしん而逃一死いっし[21],此後ぼつゆうてき蹤影。演義えんぎちゅうため司馬しばあきられいしのげおそしょ
  • まごあきらてき寵臣ちょうしん岑昏正史せいし記載きさい其官いたりきゅうきょうまもるじょうくらいぼつゆうせつ其為宦官かんがん
  • まんとめひらたろうげんこれ演義えんぎじょう僅寫三人忠諫而被まごあきら殺害さつがい史上しじょうまごあきら先後せんごためしちょ以毒しゅ鴆殺まん彧、とめひらたなり事後じごまん彧在苦悶くもん自殺じさつとめひらめいち個月かげつゆう。而樓げん也在まごあきらみことのりれい自殺じさつ
  • 鐵索てっさく長江ちょうこう岑昏提議ていぎせい史上しじょうわれいた西にしすすむおう造船ぞうせん要求ようきゅうまごあきら派兵はへいちゅうもりとくさいおやけい鐵索てっさく長江ちょうこう抵禦西にしすすむ水軍すいぐん[22]
  • えびすあか:此為「攴胡あかてき誤讀ごどく,而「攴胡あかゆびためいちさけべあかてきがつささええびすじん(「攴胡」ためつきささええびす」簡寫,《三國志さんごくししょ敘述てき意思いしため攴胡じんあか),したがえ三國志さんごくしぶんあかとう其金たから斬首ざんしゅおく長安ながやすためしょう
  • せきはね出世しゅっせねん:《演義えんぎ記載きさいせき生年せいねんためこうもと162ねんただし許多きょた學者がくしゃせつせき羽生はぶ於農れき160ねん6がつ24にち。1678ねんおうしゅだん修復しゅうふく古井こび留意りゅういいたせきはね磚,こくゆう祖父そふ父親ちちおやりょうひょう及生そつ年月としつきとうかえ說明せつめいせき家庭かてい狀況じょうきょう,也證じつりょうせき出生しゅっしょう於農れき160ねん6がつ24にち
  • 丞相じょうしょう:《演義えんぎざいけん安上あんじょうはん時期じき(196ねん—208ねん開始かいし稱呼しょうこ曹操そうそうため丞相じょうしょうおいげんよしみやすしほんだいじゅう八回或毛版第十四回曹操當大將軍之後許褚的對話「ねがい精兵せいびょうまんりゅう備、りょぬのあたまけんじ丞相じょうしょう。」,其中よしみやすしほん補註ほちゅう:「人稱にんしょうため丞相じょうしょう」,ただしょう大將軍だいしょうぐん」。こうけんやすさんねん(198ねんざいにん丞相じょうしょう。」實際じっさいじょうはやざいかんあいみかどもとことぶきねんぜん1ねんしょう丞相じょうしょう改稱かいしょうだいつかさ」,にち以「つかさなりため三公みつきみいちしょく曹操そうそうかく實在じつざい196ねん擔任たんにん大將軍だいしょうぐん後來こうらいためりょう應對おうたい要求ようきゅうざいゆずる大將軍だいしょうぐんいちしょくきゅう袁紹,なみあらためにんそらぎょうしゃ將軍しょうぐんけんやすじゅうさんねん(208ねんざいくだりはいさん公職こうしょくなみ自任じにん丞相じょうしょうあずかけんやすさんねん一說いっせつ[23]
  • のべてき出身しゅっしん:211ねんけんやすじゅうろくねん),のべ以私へい份跟ずい主君しゅくんりゅう備入しょくざいしょく攻略こうりゃくちゅうすうゆう戰功せんこうはいためきばもん將軍しょうぐんかん中之なかのせんこれりゅう備提拔魏のべもりかんちゅうこうなりためきた大將たいしょうなみりゅう備收ちょうすなころせかんげんとうりゅう備。
  • りくへりくだ年紀としのり:《演義えんぎ記載きさいりくへりくだざいえびすりょうたたかえただゆうじゅうななさいそくなま於公もと194ねんただししたがえ三國志さんごくし記載きさい其出生年せいねん份則ためこうもと182ねんいん此他ざいえびすりょう戰時せんじやめよんじゅうさい同時どうじなみ演義えんぎちゅう描述ぼつゆうたいへい經驗けいけん演義えんぎちゅうはやざいまごけん即位そくいはつ登場とうじょうなみ參與さんよあかかべたたかえ樊城たたかえひとしそく演義えんぎ本身ほんみ就對りくへりくだ年齡ねんれい描述存在そんざいほら
  • 廖化來歷らいれき:廖化おこりはつためせきおも簿從來じゅうらい參與さんよはばたたかえただし演義えんぎうつし廖化超過ちょうかきゅうじゅうさいしたがえ184ねん參與さんよはばみだれ出現しゅつげんいたり264ねん),おおやけもと261ねんけい耀よんねん),みやこまもるしょかずら開始かいしすべりょう朝政ちょうせいみぎしゃ將軍しょうぐん廖化むねあずかそうどうむねあずか一同到諸葛瞻住所拜訪。むねあずかせつ:「われとうねんななじゅうしょ竊已ただししょう一死いっしみみ」,推估廖化死時しにどき莫約ななじゅうとし
  • 地理ちりだい搬家太白山たいはくさんうついた祁山てきつくりあたりはたちんくらうついたまちていてき南方なんぽう,甚至山移やまうつりいた褒斜どう北面ほくめんはすだにつくりあるうつりいた五丈原ごじょうげん附近ふきんかえゆう長坂ながさか坡並やまおかめい,而汜水せきとらろうせきじつどう一關卡的兩個名稱,而非兩個りゃんこ不同ふどうてきせきなみ虛構きょこうじょしゅうじょうしょうせき
  • 行政ぎょうせい區劃くかく錯誤さくごえきしゅうざいからあさほうゆう西川にしかわ稱號しょうごう——らいけんみなみ西川にしかわ節度せつど使三川みかわてき前身ぜんしんけん南道みなみどうてき領地りょうちざい相當そうとう於三こく時期じきてきともえしょく。三國時全國的一級行政區為州,全國ぜんこく也只ゆうじゅうしゅう所以ゆえん演義えんぎちゅうてき西川にしかわじゅうよんしゅう說法せっぽう不成立ふせいりつよりどころこう漢書かんしょ·ぐんこくこころざし》,「じゅうよんしゅうとうさくじゅうよんけん」,ゆび作為さくいえきしゅう主體しゅたい部分ぶぶんてきかんちゅうぐんともえぐんこうかんぐんしょくぐん犍為ぐんぐんてき轄縣すう
  • 西にししょくてき稱呼しょうこ西にししょくこれあずますすむ譙縱政權せいけん正式せいしき稱呼しょうこ宋朝そうちょう以後いご文學ぶんがく以西いせいしょくゆびともえしょく地區ちく,其中以西いせいしょくせんゆびしょくかんもの極少きょくしょう
  • ついふう糜夫人為じんい皇后こうごう歷史れきしじょうりゅうぜんなみぼつゆうついふう糜夫人為じんい皇后こうごう
  • しゅう謀略ぼうりゃく推薦すいせんちょうちょうあきらちょうひろし)、けいとりこふとしへいやぶおうあきらひとしため虛構きょこう
  • りゅう備善哭實際じっさいじょうりゅう備鮮しょう哭過,《三國志さんごくししょくしょさきおもでんしょ記載きさいりゅう備其しょうかたりごとぜん下人げにん喜怒きどかたち於色。」ぞく剛毅ごうき木訥ぼくとつてきじん
  • まんにんてき:《演義えんぎちゅうごうしょうりょくてきまんにんしゃ眾多,僅水きょう先生せんせいしょうせきちょうちょうくもみなまんにんてき」,ちょうたてまつ也讚「ちょうくもゆう萬夫不當ばんぷふとういさむ」,其他如許褚、邢道さかえいむがおかんいさお……,許多きょた武將ぶしょう也都ゆう萬夫不當ばんぷふとう」、「萬夫ばんぷ莫敵」これるいてき稱號しょうごうただし這大ただ演義えんぎてき藝術げいじゅつ創作そうさく,其中かえゆう很多人物じんぶつ本身ほんみ就是虛構きょこうてき史實しじつちゅうほまれためまんにんてきてきただゆうせきちょうにん而已。
  • 四大しだいとくだいとく僅為臨時りんじせい職務しょくむなみ長期ちょうき官職かんしょく歷史れきしじょう這四人只有陸遜當過大都督,實際じっさいじょうはた這四人並ひとなみひさげてき背景はいけいらいげん於他們既まごけんてき心腹しんぷくあいはたまた國家こっかてき重臣じゅうしんただし演義えんぎただ體現たいげんりょう後者こうしゃ
  • ひがしくれ消失しょうしつ:《演義えんぎ重點じゅうてん描寫びょうしゃ所有しょゆう跟蜀かんゆうせきてき戰爭せんそう歷史れきし上夷かみえびすりょう戰後せんごひがしかずしょくかん修好しゅうこう就沒ゆう開戰かいせん直接ちょくせつしるべ致《演義えんぎこれいく乎沒怎麼ひっさげいたひがしくれ
  • たかしこれせん,《演義えんぎちゅうただし凡有しょくかん參與さんよてき戰爭せんそう描述非常ひじょう詳細しょうさい,如夷りょうたたかえようろくかいしょかずらあきらきたようじゅうかい,七擒孟獲用了四回。而主戰場せんじょうくれしょ如濡須口たたかえ,曹丕伐くれいしていたたかえごうこえ新城しんじょうたたかえ,芍陂これやく西陵せいりょうたたかえ東興とうこうたたかえただよう一回就是根本沒有提到,へんはばしるべ致東くれ給人きゅうにんおもえ進取しんしゅてき印象いんしょう
  • 時間じかん問題もんだい演義えんぎちゅうたい時間じかんてき概念がいねん相當そうとう模糊もこ,如晉篡魏これてき一回就是描述晉滅吳之戰,しか而這あいだちょうたちせいせい15ねん。而歷史れきし記載きさいじょう很短てきあかかべたたかえ卻整せいようりょうはちかいらい描寫びょうしゃ
  • 虛構きょこう人物じんぶつ:如てん卞喜しゅうくらせきさくひとしひとしざい史書ししょちゅうぼつ出現しゅつげんてき人物じんぶつしょうさんこく虛構きょこう人物じんぶつれつひょう

藝術げいじゅつ成就じょうじゅ

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さんこく演義えんぎせい於塑づくり人物じんぶつ形象けいしょうのう通過つうか敘述人物じんぶつてき行動こうどう舉止らい反映はんえい人物じんぶつ獨特どくとく個性こせい。如しょかずらあきらりゅう曹操そうそうせきはねちょうとうはややめ深入ふかいり民心みんしん性格せいかく突出とっしゅつちょんよりゆき貫中かんちゅうがたごえ生動せいどう逼真てき描寫びょうしゃれい讀者どくしゃ如見じょけん其人,如聞其聲。

ぜん描寫びょうしゃ戰爭せんそう場面ばめん和政かずまさそうさとし鬥,描述かくせんごと精彩せいさい絕倫ぜつりん,如親れき其境みょうさらしゅはじめたん挑場めん,突顯武將ぶしょう於沙じょうじょうてき勇猛ゆうもう威武いぶあずか英雄えいゆう形象けいしょう

結構けっこうひろしえら緊密きんみつ全書ぜんしょ人物じんぶつ眾多,とういとぐちまがえしげるじょうぶし複雜ふくざつおもんみ作者さくしゃのう以蜀かんため中心ちゅうしんつめ緊魏しょくくれさんこくあいだてき衝突しょうとつ矛盾むじゅんうつしらい井井せいせいゆうじょう脈絡みゃくらくきよし晰,規模きぼ宏大こうだい

かたりげん方面ほうめん夾用文言もんごん白話はくわ明快めいかい生動せいどうすんで吸收きゅうしゅう古代こだい文言もんごんてき精華せいかまた適當てきとうてき通俗つうぞくのうぶん甚深,げん甚俗」,おさむ雅俗がぞくどもしょう藝術げいじゅつ效果こうか

文化ぶんか影響えいきょう

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さけろん英雄えいゆう

さんこく演義えんぎさんこく時期じき故事こじ傳說でんせつたい東亞とうあ文化ぶんか形成けいせいりょう深遠しんえんてき影響えいきょうさいおそざいばんとう三國故事已流傳民間,しょうかくれゆう驕兒きょうじ》「ある謔張えびすあるわらい鄧艾ども」;よりどころ東京とうきょうゆめはなろくきたそうやめ出現しゅつげんせつさんふんてきせん霍四きわむきたそう民間みんかんせつ三國故事已經表現出「みことりゅう貶曹」てき傾向けいこうひがしてきひがし坡志りんせつ:「ぬりちまたちゅう小兒しょうにうすれつ,其家しょいや,輒與ぜにれい聚坐聽說はなしいたりせつさん國事こくじ,聞劉げんとくはいひそみゆう涕者;聞曹みさおはいそく唱快。以是君子くんし小人こどもさわひゃくせい。」

中國ちゅうごく古代こだいゆうせきさんこくてきうた就不しょうまい舉,以三國故事為內容的ひょうしょおどけげき其他口頭こうとう文學ぶんがく作品さくひんそうきゅう。而且這些作品さくひんさんこく演義えんぎてきしょう互借かん傳承でんしょう形成けいせいりょう獨特どくとくてきるい文化ぶんかぐんちょくいた今日きょうてきかくるいさんこく故事こじげきしゅう漫畫まんが書籍しょせきかえ經久つねひさおとろえ。《さんこく演義えんぎ》及三こく故事こじたい中國ちゅうごく文化ぶんかてき影響えいきょういたりこん仍隨しょざいひと們處於競そう環境かんきょうある奮鬥階段かいだん可能かのうかい以三こくてき場景じょうけい人物じんぶつ關係かんけい作為さくい考量こうりょう。其間てき褒貶ほうへん爭論そうろん也一直沒有停止過,ただし無論むろん褒貶ほうへんてき結論けつろん如何いかにん們對三國中人文精神的認可已經根深蒂固,なんせつかいゆう較大あらためかんよりどころせつせいふとしつとむなんじ哈赤ざい1570年代ねんだいおこりおさむあきらつねざいすわ騎馬きばじょう繫部漢文かんぶんばんさんこく自修じしゅう漢文かんぶん

個別こべつてきこうざいゆう些與《さんこく演義えんぎ故事こじ相關そうかんてき地區ちくあるぞくぐんちゅう,三國文化的烙印更是明顯,如諸かずら姓氏せいしかわ地區ちくとう明朝みんちょうためひさげだか宦官かんがん修養しゅうようなみさくきえ曾於そお北京ぺきんむらさき禁城きんじょう刻印こくいん書籍しょせきよし宦官かんがんりゅうわかしゃくちゅうこころざししょれつ宮中きゅうちゅうしるし書目しょもくろく可知かち當時とうじしょしるし小說しょうせつただゆう三國志さんごくし通俗つうぞく演義えんぎ》,宦官かんがん們最あい讀物よみもの[4]:2

中國ちゅうごく流傳りゅうでんゆういちばなし:「しょうみずろう讀三こく」,ゆびねんけいじん該讀《みず滸傳》,いやのり容易よういかいせいてんそう思想しそうじょうへん壞;而老ねんじんおう該讀さんこくいんため其中人物じんぶつぜん於用けい使つかいいつわりしょこころせきおもんばか、勾心鬥角,作為さくいおう該「天命てんめいてき老人ろうじんおう該安晚年ばんねん不能ふのうせいてんそうちょざんけい別人べつじんたい自己じこ身心しんしん無益むえき[らいみなもと請求せいきゅう]

なつこころざしきよし教授きょうじゅざい人的じんてき文學ぶんがく一文いちぶん引用いんようさんこく演義えんぎだいじゅうきゅうかいりゅうやすしころせつま餵肉てき故事こじ同情どうじょう舊時きゅうじ婦女ふじょてき悲慘ひさん命運めいうん

さんこく演義えんぎ》也留りょうすくな成語せいご,如桃えんゆいよし青梅あおうめさけろん英雄えいゆう三顧さんこちがやいおりくさせん、賠了夫人ふじんまたおりへいしょくちゅう大將たいしょうさんふん天下でんか不毛ふもうらくおもえしょく……とうとう

いち俚語りご也與《さんこく演義えんぎゆうせき,如「さんしゅうかわたくみしょういちしょかずらあきら」、「せつ曹操そうそう曹操そうそういた」、「しゅう瑜打ぶたいちねがいいちねがい挨」,とうとう

另外,《さんこく演義えんぎたい後世こうせいてき文化ぶんか作品さくひん影響えいきょう深遠しんえん,如《ずいから演義えんぎとう

えびすてきたいさんこく演義えんぎてき文學ぶんがく水平すいへいゆう很大てき批評ひひょう

ただしえびすてき充分じゅうぶん肯定こうていさんこく演義えんぎざいあかりきよ以來いらいすうひゃくねんてき國民こくみん教育きょういく史上しじょうてき地位ちい

たい日本にっぽんてき影響えいきょう

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江戶えど時代じだい日本にっぽん於1689ねんいたり1692ねん元祿げんろくねんいたりねん出版しゅっぱんさんこく演義えんぎにちぶん翻譯ほんやくほん通俗つうぞく三國志さんごくし》,譯者やくしゃため湖南こなみぶんさん京都きょうと天龍寺てんりゅうじわだちあずかつきどう筆名ひつめい),だい一本全文翻譯成日文之外國小說,也是ままし滿まんぶん翻譯ほんやくほん於1650ねん出版しゅっぱん世上せじょうだいほんさんこく演義えんぎ譯本やくほん[9]:20明治めいじ時代じだい以後いご幸田こうだ露伴ろはん(1927ねん)、吉川よしかわ英治えいじとう文學ぶんがく各自かくじたい此書校訂こうてい翻譯ほんやく及改うつし[9]:20

さんこく演義えんぎ描寫びょうしゃ3世紀せいき故事こじ描寫びょうしゃ方式ほうしき卻是14世紀せいき風格ふうかく正因まさより如此,小說しょうせつちゅうりゅう備、せきはねちょうとう人物じんぶつ及其えいいさみ事蹟じせき,很易きゅう讀者どくしゃぞう日本にっぽん戰國せんごく時代じだい織田おだ信長のぶなが豐臣とよとみ秀吉ひでよしとう人物じんぶつ親切しんせつ[9]:22-23

中國ちゅうごくてきさんこく演義えんぎざい日本にっぽん戰國せんごく時代じだいつねとうさく軍事ぐんじ政策せいさくてき指南しなんれい如:ざい三方みかた原之はらのせん德川とくがわ家康いえやすこうほうしょかずらあきらてき空城そらじょうけいゆずる武田たけだ信玄しんげんちゅうけい

而人物的ぶってき描寫びょうしゃ也讓じんちょ迷,れい如:どうため戰國せんごく時代じだいてき陸奧みちのくこく大名だいみょう津輕つがる為信ためのぶ相當そうとう崇拜すうはいせきはね,也學演義えんぎちゅうせきはねとめちょう鬍鬚,喻為津輕つがるてき美髯びぜんこう

たい現代げんだいてき影響えいきょう

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現時げんじろん東方とうほうある西方せいほうてき機構きこうゆうしょう以《さんこく演義えんぎてき故事こじ教訓きょうくんらい做商ぎょう政策せいさくれい如,香港ほんこんてき馮兩つとむ出版しゅっぱんりょういち輯十ほんてきさんこく啟示けいじろく》,教導きょうどう商家しょうか如何いかさんこく演義えんぎ策略さくりゃく運用うんよう於商じょうじょう,以及日本にっぽん松下電器まつしたでんきそう辦人松下まつした幸之助こうのすけ也是運用うんようさんこく演義えんぎ》內容於しょうじょういんこう教育きょういく訓練くんれんじょう

きむいさお鹿しかかなえ》曾透過とうかさんこく演義えんぎたいおもかく韋小たからてき啟發けいはつ,突顯傳統でんとう小說しょうせつあずか戲曲ぎきょくたい中國ちゅうごく基層きそう人民じんみんてき影響えいきょうりょく。韋小たから識字しきじたい歷史れきし認識にんしき全部ぜんぶ戲曲ぎきょくざい剎國きょうすけ菲亞だつけん便びん想起そうき曹操そうそうはさみ天子てんし以令諸侯しょこうてききょうだん(另外就是かん曾對せつなんじ擔任たんにん攝政せっしょうおうてき事蹟じせき)。これたいおう使用しようしばくわちょうこうてききょうだん

毛澤東もうたくとう閱讀《さんこく演義えんぎちゅう所載しょさいてき政治せいじ軍事ぐんじ故事こじなみざい實際じっさい行動こうどうちゅう參考さんこう使用しよう[24]

香港ほんこん郵政ゆうせい於2021ねん3がつ以《さんこく演義えんぎためだい發行はっこう一套特別郵票及相關集郵品。[25]

衍生作品さくひん

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かげ作品さくひん

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はな動畫どうが作品さくひん

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せき日本にっぽん韓國かんこくはくてきさんこく題材だいざい動畫どうが,請參考さんこうさんこく題材だいざい藝術げいじゅつれつひょう」。

ゆかり台灣たいわんはくてき動畫どうがでんかげさんこく演義えんぎ》於1978ねん上映じょうえいしるべえんじ蔡明欽。

ゆかり中國ちゅうごく大陸たいりくはくてき36しゅう動畫どうがだいはなしさんこく》於2000ねん播出。

ゆかり中國ちゅうごく大陸たいりくはくてき39しゅう動畫どうがQばんさんこく》於2003ねん播出;52しゅう《Qばんさんこくさんしょうきょう》於2012ねん播出;《Qばん三國之三小強大電影》於2014ねん上映じょうえい

ゆかり中國ちゅうごく大陸たいりく日本にっぽん合作がっさくはくてき52しゅう動畫どうがさんこく演義えんぎ》於2009ねん播出。

ゆかり中國ちゅうごく大陸たいりくはくてき108しゅう動畫どうがおくから劇場げきじょう-さんこく演義えんぎ》於2010ねん播出。

ゆかり中國ちゅうごく大陸たいりくはくてき124しゅう動畫どうがくちすいさんこくだい一季いっき於2014ねん播出;だい二季にき46しゅう於2017ねん播出。

ゆかり中國ちゅうごく大陸たいりくはくてき52しゅう動畫どうがしゅおおやけざい哪》於2015ねん播出。

ゆかり中國ちゅうごく大陸たいりくはくてき60しゅう3D動畫どうがさんこく演義えんぎだい一季いっき於2017ねん播出;だい二季にきさんこく演義えんぎ-逐鹿ちくろく中原なかはら》40しゅう於2019ねん播出。

ゆかり中國ちゅうごく大陸たいりくはくてき12しゅう動畫どうがさんこく小人こどもしょ》於2020ねん播出。

ゆかり中國ちゅうごく大陸たいりくはくてき13しゅう動畫どうが《如果歷史れきしいちぐん喵》だい亂世らんせいさんこくへん》於2020ねん播出。

ゆかり中國ちゅうごく大陸たいりくはくてき22しゅう動畫どうがさんこく演義えんぎぜんつて》於2021ねん播出。

模型もけい

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ゆかり日本にっぽん萬代ばんだい改編かいへんほんさくてき模型もけい系列けいれつBB戰士せんしさんこくでん》,だい歡迎かんげい

漫畫まんが

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さんこく演義えんぎ中國ちゅうごくでんいた日本にっぽん日本人にっぽんじんゆう其喜歡。1939ねんいたり1940ねん吉川よしかわ英治えいじ發表はっぴょう衍生小說しょうせつ三國志さんごくしざいほう連載れんさい,該小說しょうせつ以《演義えんぎため底本ていほんただし糾正りょうようりゅうはん傾向けいこう,刪減神話しんわ成分せいぶん,備受日本にっぽん讀者どくしゃあい。《さんこく演義えんぎあらため編成へんせい漫畫まんがある動畫どうがしたすうじゅうれい橫山よこやま光輝みつてる三國志さんごくし》,でんにゅう日本にっぽん,《さんこく演義えんぎ普遍ふへんしょうため三國志さんごくし演義えんぎ》,ゆうしょう日本人にっぽんじん受到早期そうき湖南こなん山人さんじんにちぶん譯本やくほん吉川よしかわ英治えいじ衍生小說しょうせつ影響えいきょう習慣しゅうかん簡稱ため三國志さんごくし》。よし於《三國志さんごくし》(其實さんこく演義えんぎ》)題材だいざい日本にっぽん頗受歡迎かんげいじょう略稱りゃくしょうこうため流傳りゅうでんしるべ部分ぶぶんじん仍舊以為日本にっぽん地區ちくしょしょう三國志さんごくしため正史せいし香港ほんこん漫畫まんがちんぼう也有やゆう以三こく改編かいへんてきおおとり燎原りょうげん》。同樣どうよう也是香港ほんこん漫畫まんがこころざしきよし曾到日本にっぽん推出《三國志さんごくし漫畫まんが日本にっぽん漫畫まんが山原やまはら義人よしひとてきりゅうおおかみでんとう改編かいへん漫畫まんが也很受歡迎かんげい。另外也是日本にっぽん漫畫まんがおう欣太,曾在作品さくひん蒼天そうてん航路こうろだいいちかんてき作者さくしゃ手記しゅき,敘述ためりょう西にしすすむちんひさしてき三國志さんごくし》及もとすえあきらはつ貫中かんちゅうてきさんこく演義えんぎ》做敘ごとじょうてきぶんにわこうれい,而創作そうさく出來できてき具有ぐゆう音樂おんがくげき風格ふうかくてきさんこく漫畫まんがげきじょう內容じゅうふん精彩せいさい。此外《たいなみきゃくしょかずら孔明こうめい》於2019ねん12月31にちおこりざい《Comic DAYS》(講談社こうだんしゃ開始かいし連載れんさい

遊戲ゆうぎ

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せき發布はっぷいたりいまてきさんこく題材だいざい遊戲ゆうぎ作品さくひん,請參考さんこう三國題材電子遊戲列表」。めんじょうゆう許多きょた電子でんし遊戲ゆうぎ以三國作こくさく背景はいけい著名ちょめいてきゆう日本にっぽん光榮こうえいとく三國志さんごくし系列けいれつ·さんこく無雙むそう系列けいれつ、《決戰けっせんII》、《三國志さんごくし戰記せんき》、《三國志さんごくし英傑えいけつでんかず孔明こうめいでん》及《曹操そうそうでんとうじょりょう橫山よこやま光輝みつてる三國志さんごくし》推出相近すけちか三國志さんごくし系列けいれつ戰略せんりゃく遊戲ゆうぎがい也有やゆう吞食天地てんち故事こじ形式けいしき遊戲ゆうぎ分別ふんべつ於任天堂てんどう遊戲ゆうぎ電腦でんのうじょう出現しゅつげん,其中《吞食天地てんちII あかかべたたかえ後來こうらい台灣たいわんかいらい,以中ぶん藍本らんぽん推出。台灣たいわんさとしかんむり公司こうしまた出過ですぎさんこく演義えんぎ》1いたり3だい戰略せんりゃく遊戲ゆうぎただしいたりょうだい3だいいんため當年とうねん日本にっぽん光榮こうえい公司こうしてき三國志さんごくし系列けいれつ遊戲ゆうぎ無論むろんざい畫面がめん質素しっそ及娛らくせいひとしどお先進せんしん台灣たいわん版本はんぽん,致使だいさんだいさんこく演義えんぎふとし受到歡迎かんげいしか而,《さんこく演義えんぎもと使用しようちゅうぶん版本はんぽんゆうべつ於當ねん任天堂にんてんどう遊戲ゆうぎ和光わこうさかえ出品しゅっぴんてき三國遊戲只有日文和英文版本界面,仍然ゆう一定いってい影響えいきょうりょくよりどころせついんため台灣たいわん遊戲ゆうぎてき成功せいこうさい吸引きゅういんいた光榮こうえい公司こうしはた三國志さんごくしだい1いたり3しゅう電腦でんのう遊戲ゆうぎ翻譯ほんやくなりちゅうぶん版本はんぽんおどけ。2001ねん中國ちゅうごく大陸たいりく發行はっこう傲世さんこく遊戲ゆうぎ,而台わん宇峻おくなぎさ開發かいはつてき幻想げんそうさんこく系列けいれつさら推出ぶんばん,另外台灣たいわんまた出過ですぎさんこくぐんえいでん系列けいれつ、《のきながえけん外傳がいでん-かんくも》、《三國志さんごくしちょうくもでん》及《さんこくせんとう電腦でんのう遊戲ゆうぎ,此外以三こくためだいてきあみからま遊戲ゆうぎのりかちすう

而今,智慧ちえがたしゅ時代じだい來臨らいりん遊戲ゆうぎ銷量及熱もん程度ていどした於主遊戲ゆうぎあずか電腦でんのう遊戲ゆうぎ許多きょたしょうしょうじゅんさんこく演義えんぎてき通俗つうぞくせいため主題しゅだい開發かいはついち系列けいれつ相關そうかんてき遊戲ゆうぎ使つかいとくさんこく主題しゅだいてき遊戲ゆうぎざいゆう市場いちば數量すうりょう頗多,包含ほうがん三國志さんごくし拼圖大戰たいせん逆轉ぎゃくてんさんこくさんこく無雙むそうBlastさんこく大戰たいせんとうとう,而在PC平台ひらだい飽受好評こうひょうてき三國志さんごくし曹操そうそうでん也被中國ちゅうごくもうともせい作為さくいしゅばんざいもう路上ろじょう流傳りゅうでん甚廣,三國演義的影響度未隨著時代而縮小,はん而因もうてき影響えいきょう,而使どくさら加廣かひろため人知じんち

參考さんこう文獻ぶんけん

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引用いんよう

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  2. ^ 演義えんぎ以史ためよりどころ強調きょうちょう忠義ちゅうぎ」;ちょじゅう描寫びょうしゃ戰爭せんそう講述こうじゅつかんすえはばみだれいたりたかししょくさんこく鼎立ていりついた西にしすすむ統一とういつきんひゃく年間ねんかん歷史れきしこくりょう眾多英雄えいゆう人物じんぶつ。該書敘事「よりどころ正史せいしさい小說しょうせつ證文しょうもんつう好尚こうしょう。」《百川ももかわ書志しょし
  3. ^ 維基文庫ぶんこなかてき相關そうかん文獻ぶんけんさんこく演義えんぎ じょ
  4. ^ 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 きむ文京ぶんきょうしる,邱嶺、かおるれいよりどころ東方とうほう書店しょてん1993ねんにちぶん初版しょはんやくひとしようこう. 《さんこく演義えんぎてき世界せかい》. 北京ぺきん: 商務しょうむしるししょかん. 2010. ISBN 978-7-100-07335-6. 
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  7. ^ さい谈重しんこう三国演义的几个问题. [2012-11-28]. (原始げんし內容そん於2014-04-19). 
  8. ^ 关于《沈伯しゅんこうさんこくえんじ义》てき几点しょう. [2012-11-28]. (原始げんし內容そん於2014-04-20). 
  9. ^ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 きむ文京ぶんきょうしるはやしよし琪譯. 《三國志さんごくしてき世界せかいひがしかん與三よそうこく時代じだい》. 新北しんきた: 臺灣たいわん商務しょうむしるししょかん. 2018. 
  10. ^ すすむしょ》:「ちんやすし左手ひだりてななしゃく大刀たち右手みぎてたけはちへびほこ。」
  11. ^ 三國志さんごくし·ちょうげんでん
  12. ^ ゆう些版ほん記載きさいまごさくもとみつぎきゃく刺傷ししょうおどろきいか而死,而不上述じょうじゅつてきじょうぶし
  13. ^ 三國志さんごくし·くれしょ·ちょうあきらでん》:「(まごさく臨亡,以弟(まごけんたくちょうあきら,(ちょうあきらりつぐん僚立而輔。」《くれれき》:「(まごさくいいちょうあきら曰:『わかなかはかりごとまごけんにんごとしゃくんちょうあきら便びんこれせいふくかつとしなる西にしまたところおもんばか。』」
  14. ^ 此非《さんこく演義えんぎじょうぶし,而是民間みんかんひょうしょ傳說でんせつ。《さんこく演義えんぎちゅうてきちょう繡在投降とうこう曹操そうそうさい登場とうじょう
  15. ^ 三國志さんごくしさきおもでん》:あずか曹公せん於赤かべ大破たいは,焚其ふねせんさきおもあずかくれぐん水陸すいりく並進へいしんついいたりみなみぐん
  16. ^ 《三國志諸葛亮傳》:けんすんで宿やどふくおおせ備,また睹亮みやび,甚敬重けいちょうそくへいさんまんにん以助備。
  17. ^ 三國志さんごくし通俗つうぞく演義えんぎ·うまはじめおこりせんしょう·註》「こうけんやすじゅうねんがつかんとげふねしょころせねん。」
  18. ^ 三國志さんごくし·たけみかど》裴注引《てんりゃく
  19. ^ みなみひとししょ·まきさんじゅう·列傳れつでんだいじゅういち·薛淵戴僧せい桓康いんりゃくこげ曹虎》:きょうすすむ陳平ちんぺいかんさとし退すさ闕關殉節ただし
  20. ^ 三國志さんごくし·かく淮傳》
  21. ^ 三國志さんごくし·ただしまことでん》:及鄧あいいたるしょく,聞皓奸險,おさむ閉,はたころせこれ,而皓あつまいないもぐさ左右さゆうとくめん
  22. ^ すすむしょ·われ彥傳》:どきおう濬將造船ぞうせん於蜀,彥覺,請增兵ぞうへいため備,あきらしたがえ,彥乃輒為鐵鎖てっさ橫斷おうだん。及師臨境,えんこうしょしろみなもちふうくだあるおさむ而拔,ただ堅守けんしゅだい眾攻不能ふのうかつ,乃退しゃれい
  23. ^ 三國志さんごくし·みかど記載きさい:「(たてやすしじゅうさんねんはる正月しょうがつおおやけかえ鄴,さく玄武げんぶ以肄ふねかんやめさんおおやけかんおけ丞相じょうしょう大夫たいふなつろくがつ,以公ため丞相じょうしょう。」
    こう漢書かんしょ·こうけんじみかどだいきゅう:「(けんやすじゅうさんねんろくがつ癸巳きし曹操そうそうため丞相じょうしょう。」
  24. ^ 毛澤東もうたくとうあずかさんこく演義えんぎ. [2020-05-22]. (原始げんし內容そん於2020-05-28). 
  25. ^ 特別とくべつ郵票—「中國ちゅうごく古典こてん文學ぶんがく名著めいちょ — 《さんこく演義えんぎ》」 (PDF). [2021-02-26]. (原始げんし內容 (PDF)そん檔於2021-04-21). 

らいみなもと

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維基文庫中的相關文本:よしみやすしほん三國志さんごくし通俗つうぞく演義えんぎ

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