米長よねながたま

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は▲9はちたままで】
987654321 
         いち
         
         さん
         よん
         
     ろく
 ぎん きむ     なな
たま きむ      はち
こうかつら       きゅう

米長よねながたま(よねながぎょく)は、将棋しょうぎ用語ようごひとつ。米長よねなが邦雄くにお永世えいせい棋聖きせい多用たようしたことからそのいた。米長よねながはこれにより、のち2000ねん(1999年度ねんど)の将棋しょうぎ大賞たいしょう升田ますだ幸三こうぞうしょう受賞じゅしょうしている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

米長よねながたまばれているかたちは、固定こていてき戦法せんぽうかこかたというものではなく、終盤しゅうばんいちあらそいにおいて、玉将ぎょくしょう香車きょうしゃうえげすることにより手数てかずかせいだり、こま入手にゅうしゅによって相手あいてだまへのめろしょうじることなどによる逆転ぎゃくてん目的もくてきとするものである。

このはやげにより、たまがいわゆる「ゼット」の状態じょうたい絶対ぜったいまない状態じょうたい)になることが非常ひじょうおおく、弟子でし先崎まっさきがくは「いまでこそ『ゼット』の感覚かんかく棋士きしにとって常識じょうしきとなっているが、(米長よねなが活躍かつやくした)当時とうじにはかった感覚かんかくである。だからあれだけてたのだ」という趣旨しゅし発言はつげんをしている。

後年こうねん米長よねながによれば、着想ちゃくそうのきっかけは飛車ひしゃ名手めいしゅ大山おおやま康晴やすはるとのたまあたま位取くらいどせん。▲7ったうえで、たまはやげしてからたたかうと発想はっそうである。この場合ばあいきょ飛車ひしゃがわが7すじ制圧せいあつしていること、およびやはり後手ごての9すじ香車きょうしゃまもりの香車きょうしゃであることから、はしめの脅威きょうい比較的ひかくてきひくく、かくすじ飛車ひしゃからあらかじげておくことのまさるとのことである[1]

現在げんざいではとくきょ飛車ひしゃでのぎんかんむりけいがこにおいて玉将ぎょくしょう香車きょうしゃ直上ちょくじょう先手せんて場合ばあい9はち後手ごて場合ばあい1いたかたち、もしくはその着手ちゃくしゅのことを場合ばあいおおい。

香車きょうしゃ守備しゅびりょくたまそこなうかたちとなり、はしめがになるが、8なな銀将ぎんしょうがあるため、あまりおおきな欠点けってんではないといえる。しかし、のようなかたちでは、側面そくめん守備しゅびかたいものではないので、注意ちゅうい必要ひつようである。また、すこわったかたちであるため、定跡じょうせきはずれた変則へんそくてき対局たいきょくあらわれやすい。

また広義こうぎには対局たいきょくちゅう予想よそうがいたま一手いって米長よねながたまときがある。

しん米長よねながたま[編集へんしゅう]

米長よねなが邦雄くにお
987654321 
こうかつらぎんきむ きむぎんかつらこういち
  おう   かく 
さん
         よん
         
        ろく
 なな
 かく      はち
こうかつらぎんきむたまきむぎんかつらこうきゅう

2012ねん1がつ14にちにおけるだいいちかい将棋しょうぎでんおうせんコンピュータ将棋しょうぎボンクラーズ対戦たいせんした米長よねながは、初手しょて▲7ろくたいし2△6たまし、これを米長よねなが自身じしんしん米長よねながたましょうした。ボナンザ開発かいはつしゃ保木ほうき邦仁くにひとが、ボナンザけいのソフトにたいして有効ゆうこうとして米長よねなが紹介しょうかいしたものであり、その意図いとはソフトの序盤じょばんデータを無効むこうすることにある[2]序盤じょばん米長よねながあつみをきずいたが、中盤ちゅうばん一瞬いっしゅんすきいたボンクラーズが勝利しょうりした。

2011ねん12月21にちのプレマッチ(しでコンピュータ有利ゆうり)でも、米長よねながは2△6たましており、事前じぜんにこの「秘策ひさく」をてる趣向しゅこう懸賞けんしょう問題もんだい日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめいより出題しゅつだいされた[3]。プレマッチでやぶれた米長よねながたいし、保木ほうきは「(本番ほんばんで)△6たまはやめてしい」とつたえる[4]が、この優秀ゆうしゅうさをみとめていた米長よねながはききいれなかった。

ボンクラーズとの練習れんしゅう将棋しょうぎを100きょく以上いじょうした米長よねながは、ボンクラーズの初手しょて▲7ろくたいしては2△6たま最善さいぜん主張しゅちょうし、一部いちぶメディアに奇策きさくひょうされたことにかえ反発はんぱつしており、今後こんご評価ひょうかちたいとしている[5]

この「しん米長よねながたま」の名前なまえは1983ねん昭和しょうわ58ねん)1がつ大山おおやま康晴やすはる王将おうしょうだい32王将おうしょうせんだい2きょく後手ごてきょ飛車ひしゃがわかく-たまあたま位取くらいどり、先手せんて▲6ろくぎんがた位取くらいど飛車ひしゃ後手ごて4よん地点ちてんうすくなったので、▲5からぎんを5地点ちてん進出しんしゅつしたため、△3さんたまけるかたちになったこのたま位置いちを「しん米長よねながたまとでもんでくれ」としたもの。どうシリーズではだい4きょくでも同様どうようの▲7ななたまがた将棋しょうぎし、勝利しょうりした米長よねなが最終さいしゅうてきにシリーズをせいして王将おうしょう奪取だっしゅした。

米長よねなが邦雄くにお ごま
987654321 
こうかつら   きむかくかつらこういち
  ぎん     
   きむおうさん
    ぎん  よん
  ぎん   
       ろく
かく   なな
   きむ ぎんたま はち
こうかつら   きむ かつらこうきゅう

米長よねながはその前年ぜんねん1982ねん6がつに『かく決戦けっせんだいこま落(近代きんだい将棋しょうぎ企画きかく)「櫛田くした陽一よういち名人めいじん」vs「米長よねなが邦雄くにお棋王きおう」』できょ飛車ひしゃ相手あいてに△2すためにたまを2から3さんたまとしている。この△2-△3さんたまがた王将おうしょうせん同年どうねん選手権せんしゅけん決勝けっしょうでも披露ひろうしており、対峙たいじした後手ごてばん優勝ゆうしょうした真部まなべ一男かずお同年どうねんでの戦記せんきタイトルに「せん しん米長よねながたまたたかう」(『将棋しょうぎ世界せかい』1983ねん5がつごう p156~161)とけている。このときの戦型せんけい後手ごて真部まなべはや石田いしだ後手ごて米長よねながが▲6はちたま石田いしだふうじをせたので、真部まなべきょ飛車ひしゃ将棋しょうぎえたものだった。ちんだま#中段ちゅうだんだまの「難攻不落なんこうふらくぎんじん」も参照さんしょう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 原田はらだ泰夫やすお (監修かんしゅう)、荒木あらき一郎いちろう (プロデュース)、森内もりうち俊之としゆきら(へん)、2004、『日本にっぽん将棋しょうぎ用語ようご事典じてん』、東京とうきょうどう出版しゅっぱん ISBN 4-490-10660-2 pp. 166-168
  2. ^ 米長よねなが p. 62
  3. ^ 日本にっぽん将棋しょうぎ連盟れんめい将棋しょうぎ名人めいじん400ねんさいクイズ。2可能かのうは30とおりしかないが、応募おうぼしゃの439めいちゅう正解せいかいは4めいであった(でんおうせん最新さいしん情報じょうほう 2011.12.24)。
  4. ^ 米長よねなが p. 176、柿木かきのき将棋しょうぎ開発かいはつしゃ柿木かきのき義一ぎいち証言しょうげん
  5. ^ 米長よねなが p. 136

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]