茶 ちゃ を点 た てる様子 ようす 。写真 しゃしん は、盆 ぼん と鉄瓶 てつびん を使 つか った簡略 かんりゃく 的 てき な点茶 てんちゃ の例 れい 。
茶道 さどう (さどう、ちゃどう)は、湯 ゆ を沸 わ かし、茶 ちゃ を練 ねり (ね)るか点 てん (た)てる、あるいは淹 い れ、茶 ちゃ を振 ふ る舞 ま う日本 にっぽん 伝統 でんとう の行為 こうい (茶 ちゃ の儀式 ぎしき )。また、それを基本 きほん とした様式 ようしき と芸道 げいどう 。
元来 がんらい 「茶 ちゃ 湯 ゆ (さのゆ、ちゃのゆ)」といった。千利休 せんのりきゅう は「数寄 すき 道 どう 」、古田 ふるた 織部 おりべ は「茶 ちゃ 湯 ゆ 」と呼 よ んでいたが、小堀 こぼり 遠 とお 州 しゅう は「茶 ちゃ の道 みち 」という呼 よ んで「道 みち 」の字 じ が使 つか われ始 はじ め、やがて江戸 えど 時代 じだい 17世紀 せいき 後半 こうはん には茶道 さどう (さどう)とも呼 よ ばれるようになった(『茶話 ちゃばなし 指 ゆび 月 がつ 集 しゅう 』『南方 なんぽう 録 ろく 』など)。表千家 おもてせんけ や千家 せんげ 以外 いがい の多 おお くの流派 りゅうは では「さどう」、裏千家 うらせんけ では「ちゃどう」と読 よ む。「茶道 さどう 」の英語 えいご 訳 やく としては tea ceremony (ティーセレモニー) [ 1] のほか、茶道 さどう の表千家 おもてせんけ と裏千家 うらせんけ ではそれぞれ the way of tea(ザ ウェイ オブ ティー)[ 2] 、chanoyu [ 3] を用 もち いている。岡倉 おかくら 覚三 かくぞう (天心 てんしん )は英文 えいぶん の著書 ちょしょ The Book of Tea (『茶 ちゃ の本 ほん 』)において、Teaism と tea ceremony という用語 ようご を使 つか い分 わ けている。
主客 しゅかく の一体 いったい 感 かん を旨 むね とし、茶碗 ちゃわん に始 はじ まる茶道具 ちゃどうぐ や茶室 ちゃしつ の床 ゆか の間 あいだ にかける禅 ぜん 語 かたり などの掛 か け物 もの は個々 ここ の美術 びじゅつ 品 ひん である以上 いじょう に全体 ぜんたい を構成 こうせい する要素 ようそ として一体 いったい となり、茶事 ちゃじ として進行 しんこう するその時間 じかん 自体 じたい が総合 そうごう 芸術 げいじゅつ とされる。
現在 げんざい 一般 いっぱん に、茶道 さどう といえば抹茶 まっちゃ を用 もち いる茶道 さどう のことだが、江戸 えど 期 き に成立 せいりつ した煎茶 せんちゃ を用 もち いる煎茶 せんちゃ 道 どう も含 ふく む。
広間 ひろま の茶室 ちゃしつ の例 れい 道具 どうぐ は左 ひだり から風炉 ふろ と釜 がま 、建水 けんすい 、柄杓 ひしゃく 立 りつ と柄杓 ひしゃく 、水 みず 指 ゆび 、煙草 たばこ 盆 ぼん と火入 ひいれ ・灰吹 はいふき 。床 ゆか の間 あいだ には掛物 かけもの (一 いち 行 ぎょう 書 しょ 「明月 めいげつ 和水 わすい 流 りゅう 」)と花 はな 入 いれ 、香合 こうごう を飾 かざ る。
草庵 そうあん 風 ふう 茶室 ちゃしつ の例 れい (高台寺 こうだいじ 遺 のこ 芳 よし 庵 あん )
草庵 そうあん 風 ふう 茶室 ちゃしつ の例 れい (如庵 )
初 はじ めて中国 ちゅうごく から体系 たいけい 的 てき に茶 ちゃ の知識 ちしき を持 も ち込 こ んだ書物 しょもつ は唐 とう の陸 りく 羽 わ (733年 ねん - 804年 ねん )の書 か いた『茶 ちゃ 経 けい 』と言 い われている。この本 ほん には、茶 ちゃ の木 き の育 そだ て方 かた 、収穫 しゅうかく 方法 ほうほう と道具 どうぐ 、たてかた、飲 の み方 かた 、歴史 れきし などが詳 くわ しく書 か かれ、奈良 なら 時代 じだい の729年 ねん と749年 ねん には宮廷 きゅうてい や東大寺 とうだいじ で行 くだり 茶 ちゃ の儀 ぎ が行 おこな われたとされている。
諸説 しょせつ はあるものの茶 ちゃ を飲 の む習慣 しゅうかん は奈良 なら 時代 じだい から平安 へいあん 時代 じだい までには始 はじ まったとされ、当時 とうじ 、中国 ちゅうごく 茶 ちゃ は現代 げんだい の烏龍茶 うーろんちゃ に似 に た微 ほろ 発酵 はっこう 茶 ちゃ と考 かんが えられている。この茶 ちゃ の色 いろ こそが現代 げんだい 日本人 にっぽんじん のいうところの茶色 ちゃいろ である。また、茶 ちゃ を飲 の む方式 ほうしき も、中国 ちゅうごく の唐 とう の方式 ほうしき を伝 つた える団 だん 茶 ちゃ 、すなわち茶 ちゃ の葉 は を圧搾 あっさく して煉瓦 れんが のように固 かた めたものを削 けず って用 もち いるものであった[ 4] 。当時 とうじ は茶 ちゃ を薬用 やくよう 、または仏事 ぶつじ 用 よう として用 もち いており[ 4] 、必要 ひつよう 量 りょう のみを煎 せん じて飲 の んだと考 かんが えられている。従来 じゅうらい この飲茶 やむちゃ 習慣 しゅうかん は根付 ねつ かず廃 すた れてしまったと考 かんが えられていたが、最近 さいきん では貴族 きぞく や僧 そう の間 あいだ で継続 けいぞく 的 てき に愛好 あいこう されていたと考 かんが えられている。
儀礼 ぎれい に茶 ちゃ を用 もち いた早 はや い例 れい は、天台 てんだい 大師 だいし 智 さとし 顗 の忌日 きじつ に行 おこな う「比叡 ひえい 霜月 しもつき 会 かい (ひえいしもつきえ)」である。源 みなもと 為 ため 憲 けん の『三宝 さんぽう 絵詞 えことば 』は、延 のべ 暦 れき 17年 ねん (798)に最澄 さいちょう が比叡山 ひえいざん で天台 てんだい 大師 だいし 智 さとし 顗 を偲 しの んで十 じゅう 日間 にちかん に渡 わた る法華経 ほけきょう の講説 こうせつ を行 おこな い、講 こう を終 お えた11月24日 にち の天台 てんだい 大師 だいし 供 きょう では智 さとし 顗の「霊 れい 応 おう 図 ず 」を掛 か け、その前 まえ に茶 ちゃ と菓子 かし を供 そな えた、という。[ 5]
現在 げんざい 行 おこな われている抹茶 まっちゃ の方式 ほうしき を伝 つた えたのは、鎌倉 かまくら 時代 ときよ に日本 にっぽん に禅宗 ぜんしゅう を伝 つた えた建仁寺 けんにんじ の栄西 えいさい である。仁 じん 安 やす 3年 ねん (1168)に宗 むね から持 も ち帰 かえ った茶 ちゃ の種 たね を肥前 ひぜん と筑前 ちくぜん の境 さかい にある背振 せふり 山 やま に植 う えた[ 4] 。また、これがやがて博多 はかた の崇 たかし 福 ぶく 寺 てら を経由 けいゆ して京都 きょうと 栂尾 つがお の明恵 あきえ 上人 しょうにん にも贈 おく られ、上人 しょうにん がそれを山中 さんちゅう に植 う えたのが栂尾 つがお 茶 ちゃ の起源 きげん である[ 4] 。この栂尾 つがお 茶 ちゃ は後 のち に宇治 うじ の茶園 ちゃえん が盛 さか んになるまでは本場 ほんば の茶 ちゃ という意味 いみ で本 ほん 茶 ちゃ と呼 よ ばれ、それ以外 いがい の土地 とち でできた茶 ちゃ は非 ひ 茶 ちゃ といわれた[ 4] 。
茶 ちゃ の栽培 さいばい が普及 ふきゅう すると茶 ちゃ を飲 の む習慣 しゅうかん が一般 いっぱん に普及 ふきゅう していった。栄西 えいさい は1214年 ねん に茶 ちゃ とともに茶 ちゃ の徳 とく をたたえた『喫茶 きっさ 養生 ようじょう 記 き 』を源実朝 みなもとのさねとも に献上 けんじょう したり、茶 ちゃ の飲 の みかたや栽培 さいばい 法 ほう を伝 つた えていくなどした[ 4] 。これらは武士 ぶし 階級 かいきゅう に茶 ちゃ が広 ひろ まる足 あし がかりとなった。
また、道元 どうげん は中国 ちゅうごく の禅 ぜん 寺 てら の清規 しんぎ を基 もと に『永 えい 平 ひら 清規 しんぎ 』を著 あらわ したが、その中 なか には「茶 ちゃ 礼 れい 」という茶 ちゃ を供 きょう する際 さい の儀礼 ぎれい 、作法 さほう が説 と かれている。1223年 ねん には加藤 かとう 四郎 しろう 左衛門 さえもん が宋 そう で陶器 とうき の技術 ぎじゅつ を学 まな び、帰国 きこく 後 ご 尾張 おわり に藤四郎 とうしろう 焼 しょう の窯 かま を開 ひら いた。また、1267年 ねん には南浦 みなみうら 紹明 が中国 ちゅうごく の径山寺 きんざんじ から日本 にっぽん に初 はじ めて台子 だいす を持 も ち帰 かえ った。
鎌倉 かまくら 時代 ときよ 最 さい 末期 まっき 、後醍醐天皇 ごだいごてんのう や光 ひかり 厳 げん 天皇 てんのう の宮廷 きゅうてい で闘 たたかえ 茶 ちゃ という、飲 の んだ茶 ちゃ の本 ほん 非 ひ (本 ほん 茶 ちゃ と非 ひ 茶 ちゃ )や産地 さんち を飲 の み当 あ てる一種 いっしゅ の博打 ばくち が催 もよお され[ 4] 、建 たて 武 たけし の新政 しんせい ・南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい ・室町 むろまち 時代 ときよ には庶民 しょみん や武士 ぶし の間 あいだ でも流行 りゅうこう し(『二 に 条 じょう 河原 かわはら の落書 らくがき 』)、あまりの流行 りゅうこう に武家 ぶけ 法 ほう で禁 きん じられるほどだった(『建 たて 武 たけし 式目 しきもく 』)。また、本場 ほんば 中国 ちゅうごく の茶器 ちゃき 「唐物 とうぶつ 」がもてはやされ、大金 たいきん を使 つか って蒐集 しゅうしゅう し、これを使用 しよう して盛大 せいだい な茶会 ちゃかい を催 もよお すことが大名 だいみょう の間 あいだ で流行 りゅうこう した(これを「唐物 とうぶつ 数寄 すき 」と呼 よ ぶ)。この流行 りゅうこう は応仁 おうにん の乱 らん で茶会 ちゃかい どころではなくなる15世紀 せいき 後半 こうはん まで続 つづ いた。これに対 たい し、足利 あしかが 義政 よしまさ の茶 ちゃ の師匠 ししょう である村田 むらた 珠 たま 光 こう が茶会 ちゃかい での博打 ばくち や飲酒 いんしゅ を禁止 きんし し、亭主 ていしゅ と客 きゃく との精神 せいしん 交流 こうりゅう を重視 じゅうし する茶会 ちゃかい のあり方 かた を説 と いた。これがわび茶 ちゃ の源流 げんりゅう となっていく。
1472年 ねん 、義政 よしまさ は息子 むすこ に将軍 しょうぐん 位 い を譲 ゆず り東山 ひがしやま に隠棲 いんせい した。その隠居 いんきょ 所 しょ に建 た てられた東 あずま 求 もとむ 堂 どう に、同 どう 仁斎 じんさい と呼 よ ばれる日本 にっぽん 最古 さいこ の書院 しょいん 茶 ちゃ の湯 ゆ 形式 けいしき の茶室 ちゃしつ がある。この四畳半 よじょうはん の簡素 かんそ な小 しょう 部屋 へや で禁欲 きんよく 的 てき な茶 ちゃ 礼 れい と、同朋 どうほう 衆 しゅ として知 し られる唐物 とうぶつ 数寄 すき の人々 ひとびと のによる中国 ちゅうごく 渡来 とらい の美術 びじゅつ 品 ひん の鑑 かん 評 ひょう 会 かい が融合 ゆうごう し、書院 しょいん 茶 ちゃ の湯 ゆ として展開 てんかい した[ 6] 。
一方 いっぽう で平安 へいあん 初期 しょき 以来 いらい の団 だん 茶 ちゃ 系統 けいとう の茶 ちゃ も寺 てら 家 か の間 あいだ では続 つづ いていたと考 かんが えられ、これがやがて煎茶 せんちゃ の勃興 ぼっこう にいたる。
わび茶 ちゃ はその後 ご 、堺 さかい の町衆 まちしゅう である武野 むの 紹鷗 、その弟子 でし の千利休 せんのりきゅう によって安土 あづち 桃山 ももやま 時代 じだい に完成 かんせい されるに至 いた った。利休 りきゅう のわび茶 ちゃ は武士 ぶし 階層 かいそう にも広 ひろ まり、蒲生 がもう 氏 し 郷 きょう 、細川 ほそかわ 三 さん 斎 とき 、牧村 まきむら 兵部 ひょうぶ 、瀬田 せた 掃部 、古田 ふるた 織部 おりべ 、芝山 しばやま 監 かん 物 ぶつ 、高山 たかやま 右近 うこん ら「利休 りきゅう 七 なな 哲 あきら 」と呼 よ ばれる弟子 でし たちを生 う んでいく。
一方 いっぽう で、戦国 せんごく 時代 じだい が終 お わりを告 つ げるとともに、平和 へいわ な世 よ で成熟 せいじゅく しつつある文化 ぶんか を反映 はんえい し、わび茶 ちゃ から発展 はってん した武家 ぶけ 茶道 さどう が登場 とうじょう した。大名 だいみょう 茶 ちゃ などとも呼 よ ばれ、町衆 まちしゅう の茶道 さどう とは異 こと なり、武家 ぶけ の礼法 れいほう を取 と り入 い れた格式 かくしき を持 も つ芸術 げいじゅつ として各 かく 藩 はん の上級 じょうきゅう 武士 ぶし に取 と り入 い れられ、全国 ぜんこく 各地 かくち に茶道 さどう が広 ひろ まるとともに、国 くに 焼 しょう と呼 よ ばれる陶磁器 とうじき の生産 せいさん の振興 しんこう にも寄与 きよ した。古田 ふるた 織部 おりべ (織部 おりべ 流 りゅう )、小堀 こぼり 遠 とお 州 しゅう (遠 とお 州 しゅう 流 りゅう ・小堀 こぼり 遠 どお 州 しゅう 流 りゅう など)、片桐 かたぎり 石 いし 州 しゅう (石 いし 州 しゅう 流 りゅう 諸派 しょは ) 、織田 おだ 有 ゆう 楽 らく (有楽 うらく 流 りゅう )など、武家 ぶけ 茶道 さどう にも様々 さまざま な流派 りゅうは があるが、特 とく に小堀 こぼり 遠 とお 州 しゅう に代表 だいひょう されるきれい寂 さ び のように、王朝 おうちょう 文化 ぶんか を取 と り入 い れつつも、華 はな やかでない寂 さ びた美 び を見出 みいだ すようなこれまでにない茶道 さどう が確立 かくりつ された。また、江戸 えど 時代 じだい 、将軍 しょうぐん のもとで行 おこな われた茶道 さどう を「柳営 りゅうえい 茶道 さどう 」といい、2代 だい 将軍 しょうぐん 徳川 とくがわ 秀忠 ひでただ には古田 ふるた 織部 おりべ 、3代 だい 将軍 しょうぐん 徳川 とくがわ 家光 いえみつ には小堀 こぼり 遠 とお 州 しゅう 、4代 だい 以降 いこう には主 おも に片桐 かたぎり 石 いし 州 しゅう を祖 そ とする石 いし 州 しゅう 流 りゅう 伊佐 いさ 派 は が茶道 さどう 指南 しなん 役 やく として就 つ き、茶道 さどう 文化 ぶんか の発展 はってん に貢献 こうけん した。現代 げんだい においても、石 いし 州 しゅう 流 りゅう 伊佐 いさ 派 は 、小堀 こぼり 遠 どお 州 しゅう 流 りゅう 、御家流 おいえりゅう 、鎮信流 りゅう が柳営 りゅうえい 会 かい において茶会 ちゃかい を開 ひら き、武家 ぶけ 茶道 さどう の伝統 でんとう を継承 けいしょう している。
江戸 えど 時代 じだい 前期 ぜんき までの茶 ちゃ の湯 ゆ 人口 じんこう は、主 おも に大名 だいみょう ・豪商 ごうしょう などが中心 ちゅうしん のものであり、主 おも に、織部 おりべ 流 りゅう ・遠 とお 州 しゅう 流 りゅう ・石 いし 州 しゅう 流 りゅう であったが、江戸 えど 中期 ちゅうき に町人 ちょうにん 階級 かいきゅう が経済 けいざい 的 てき 勃興 ぼっこう するとともに飛躍 ひやく 的 てき に増加 ぞうか した。これらの町人 ちょうにん 階級 かいきゅう を主 おも とする新 あら たな茶 ちゃ の湯 ゆ 参入 さんにゅう 者 しゃ を迎 むか え入 い れたのが、元々 もともと 町方 まちかた の出自 しゅつじ である三 さん 千 せん 家 いえ を中心 ちゅうしん とする千家 せんげ 系 けい の流派 りゅうは である。この時 とき 、大量 たいりょう の門弟 もんてい をまとめるために、現在 げんざい では伝統 でんとう 芸能 げいのう において一般 いっぱん に見 み られる組織 そしき 形態 けいたい :家元 いえもと 制度 せいど が確立 かくりつ した。また、表千家 おもてせんけ 7代 だい 如心斎 とき 天然 てんねん 、裏千家 うらせんけ 8代 だい 又 また 玄 げん 斎 とき 一 いち 燈 とう 、如心斎 とき の高弟 こうてい 、江戸 えど 千 せん 家 いえ 初代 しょだい 川上 かわかみ 不 ふ 白 しろ などによって、大勢 おおぜい の門弟 もんてい に対処 たいしょ するための新 あら たな稽古 けいこ 方法 ほうほう として、七 なな 事 こと 式 しき が考案 こうあん された。これらの努力 どりょく によって茶 ちゃ の湯 ゆ は、庄屋 しょうや 、名主 なぬし や商人 しょうにん などの習 なら い事 ごと として日本 にっぽん 全国 ぜんこく に広 ひろ く普及 ふきゅう したのである。ただ、同時 どうじ に茶 ちゃ の湯 ゆ の大衆 たいしゅう 化 か に拍車 はくしゃ がかかり、遊芸 ゆうげい 化 か が進 すす んでしまった結果 けっか 、千利休 せんのりきゅう の茶 ちゃ の湯 ゆ から遠 とお ざかってしまったという弊害 へいがい もある。「わび・さび 」に対 たい する理解 りかい も次第 しだい に変質 へんしつ し、美 うつく しい石 いし 灯籠 どうろう を「完璧 かんぺき すぎる」とわざと打 う ち欠 か いたり、割 わ れて接 つ いだ茶碗 ちゃわん を珍重 ちんちょう するなど、大衆 たいしゅう には理解 りかい し難 がた い振 ふ る舞 ま いもあって、庶民 しょみん の間 あいだ で「茶人 ちゃじん 」が「変人 へんじん 」の隠語 いんご となる事態 じたい も招 まね いた(禅 ぜん の極端 きょくたん 化 か にも共通 きょうつう する過度 かど の精神 せいしん 主義 しゅぎ であるし、「粋 いき な自分 じぶん 」を誇示 こじ する、本来 ほんらい の茶道 さどう とは外 はず れた行為 こうい でもある)。
他方 たほう でこのような遊芸 ゆうげい 化 か の傾向 けいこう に対 たい して、本来 ほんらい の茶道 さどう の目的 もくてき である「人 ひと をもてなす際 さい に現 あらわ れる心 しん の美 うつく しさ」が強調 きょうちょう されるようになる。この際 さい に大徳寺 だいとくじ 派 は の臨済宗 りんざいしゅう 寺院 じいん が大 おお きな役割 やくわり を果 は たし、利休 りきゅう 流 りゅう 茶道 さどう の根本 こんぽん とされる「和敬 わけい 清 きよし 寂 さび 」という標語 ひょうご もこの過程 かてい で生 う み出 だ された。各 かく 流派 りゅうは による点前 てまえ の形態 けいたい や茶会 ちゃかい 様式 ようしき の体系 たいけい 化 か といった様式 ようしき の整備 せいび に加 くわ えて、「人 ひと をもてなす事 こと の本質 ほんしつ とは」と言 い った茶道 さどう 本来 ほんらい の精神 せいしん を見直 みなお すことによって、現在 げんざい 「茶道 さどう 」と呼 よ んでいる茶 ちゃ の湯 ゆ が完成 かんせい したのである。
江戸 えど 末期 まっき になると、武家 ぶけ の教養 きょうよう として作法 さほう が確立 かくりつ されてしまっている抹茶 まっちゃ の茶 ちゃ の湯 ゆ を嫌 きら い、気軽 きがる に楽 たの しめる茶 ちゃ を求 もと める声 こえ が町衆 まちしゅう から出 で てきた。同 どう 時期 じき に、単 たん なる嗜好 しこう 品 ひん と化 か してしまった煎茶 せんちゃ の現状 げんじょう を憂 うれ い、煎茶 せんちゃ に「道 みち 」を求 もと める声 こえ があがった。これらの声 こえ をくみ上 あ げる形 かたち で、江戸 えど 時代 じだい 中期 ちゅうき に黄檗宗 おうばくしゅう 万福寺 まんぷくじ の元 もと 僧 そう 売 うり 茶 ちゃ 翁 おう (高 こう 遊 ゆう 外 がい )が行 おこな っていた煎茶 せんちゃ に改 あらた めて煎茶 せんちゃ の作法 さほう を定 さだ めたのが煎茶 せんちゃ 道 どう である。煎茶 せんちゃ 道 どう は漢詩 かんし の文人 ぶんじん 文化 ぶんか を中心 ちゅうしん に広 ひろ まり様式 ようしき 確立 かくりつ されていった。煎茶 せんちゃ を好 この んだ著名 ちょめい 人 じん として江戸 えど 初期 しょき の石川 いしかわ 丈山 じょうざん 、中期 ちゅうき に上田 うえだ 秋成 あきなり 、後期 こうき には頼 よりゆき 山陽 さんよう の名 な が挙 あ げられる。当初 とうしょ は「煎 せんじ (に)る茶 ちゃ 」であった煎茶 せんちゃ だが中国 ちゅうごく での流行 りゅうこう の影響 えいきょう や茶 ちゃ 葉 は 生産 せいさん の改良 かいりょう を受 う けて「掩(だ)し茶 ちゃ 」に変 か わっている。
明治 めいじ 時代 じだい になると、封建 ほうけん 制度 せいど が崩壊 ほうかい し、諸 しょ 藩 はん に庇護 ひご されていた各 かく 流派 りゅうは が財政 ざいせい 的 てき に困難 こんなん に陥 おちい るようになったが、その反面 はんめん 、藩主 はんしゅ とその茶道 さどう 頭 あたま 、家老 がろう など限 かぎ られた人 ひと しか嗜 たしな むことのなかった武家 ぶけ 茶道 さどう を一般 いっぱん に開放 かいほう する動 うご きにつながった。小堀 こぼり 遠 どお 州 しゅう 流 りゅう 12世 せい 家元 いえもと の小堀 こぼり 宗 はじめ 舟 ふね は3000石 せき の旗本 はたもと であったが、明治維新 めいじいしん 後 ご は大徳寺 だいとくじ 龍光 りゅうこう 院 いん や孤 こ 篷庵 を拠点 きょてん として西日本 にしにほん 各地 かくち にきれい寂 さ びの茶道 さどう の普及 ふきゅう に努 つと めた。また、わび茶 ちゃ においても、裏千家 うらせんけ 13代 だい 円 えん 能 のう 斎 とき 鉄 てつ 中 ちゅう は一時 いちじ 東京 とうきょう に居 きょ を移 うつ して茶道 さどう 再興 さいこう に努 つと めた。この努力 どりょく の甲斐 かい あって有力 ゆうりょく 財界 ざいかい 人 じん の関心 かんしん を呼 よ び、茶道 さどう が女子 じょし の教養 きょうよう 科目 かもく として組 く み込 こ まれた。このため茶道 さどう は、本来 ほんらい のわび茶 ちゃ とは別 べつ の「女子 じょし の教養 きょうよう 」としての要素 ようそ も獲得 かくとく し、千 せん 家 いえ では今 いま では美 うつく しい着物 きもの 姿 すがた での華 はな やかな茶会 ちゃかい が当 あ たり前 まえ になっている。また明治 めいじ の同 どう 時期 じき に鳥尾 とりお 得 とく 庵 あん 、田中 たなか 仙 せん 樵 きこり (後 のち に大 だい 日本 にっぽん 茶道 さどう 学会 がっかい を創設 そうせつ )は、利休 りきゅう が千 せん 家 いえ 三 さん 流派 りゅうは など各 かく 流派 りゅうは へ茶道 さどう を分 わ けたのではなく元々 もともと 一 ひと つの流 りゅう であったと唱 とな え、多 おお くの流儀 りゅうぎ の茶人 ちゃじん 達 たち の旧幕 きゅうばく 時代 じだい からの伝承 でんしょう を一堂 いちどう に集 あつ めて研究 けんきゅう し、その成果 せいか を一般人 いっぱんじん へ発表 はっぴょう することで日本 にっぽん の茶道 さどう を再 ふたた び創 つく り出 だ そうとした。
こうした家元 いえもと が広 ひろ く庶民 しょみん 層 そう を対象 たいしょう に茶 ちゃ の湯 ゆ を教 おし え広 ひろ め、それを経済 けいざい 基盤 きばん として確立 かくりつ するのは大正 たいしょう 時代 じだい 以降 いこう と考 かんが えられるが、明治 めいじ 期 き の上層 じょうそう 階級 かいきゅう においては、旧 きゅう 大名 だいみょう や近世 きんせい からの豪商 ごうしょう に加 くわ えて新 あら たに台頭 たいとう した維新 いしん の功臣 こうしん 、財閥 ざいばつ 関係 かんけい 者 しゃ らの「近代 きんだい 数寄者 すきしゃ 」とよばれる人々 ひとびと が茶 ちゃ の湯 ゆ の復興 ふっこう をひと足早 あしはや く先導 せんどう した[ 7] 。彼 かれ らの茶 ちゃ の湯 ゆ は「貴紳 きしん の茶 ちゃ の湯 ゆ 」と呼 よ ばれ、家元 いえもと の教 おし えに従 したが って実践 じっせん する「流儀 りゅうぎ の茶 ちゃ の湯 ゆ 」と趣 おもむき を異 こと にし、自 みずか らの趣味 しゅみ によって独自 どくじ の茶 ちゃ の湯 ゆ を楽 たの しむことを特徴 とくちょう とした[ 7] 。
ボストン美術館 びじゅつかん 中国 ちゅうごく 日本 にっぽん 部 ぶ に勤務 きんむ していた岡倉 おかくら 覚三 かくぞう (天心 てんしん )がアメリカで The Book of Tea (『茶 ちゃ の本 ほん 』)を1906年 ねん (明治 めいじ 39年 ねん )に出版 しゅっぱん 紹介 しょうかい した。この出版 しゅっぱん は欧米 おうべい 文化 ぶんか 人 じん の関心 かんしん を呼 よ んだ。岡倉 おかくら は同書 どうしょ において、茶道 さどう を「世界 せかい 的 てき に認 みと められている唯一 ゆいいつ のアジア的 てき 儀礼 ぎれい 」であると位置付 いちづ け、西洋 せいよう において「午後 ごご のお茶 ちゃ 」(afternoon tea )が重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たしていることを指摘 してき している[ 8] 。
戦後 せんご 、知識 ちしき 層 そう から多 おお くの伝統 でんとう 技芸 ぎげい が戦前 せんぜん ・戦中 せんちゅう のナショナリズム 醸成 じょうせい に加担 かたん したとみなされ、茶道 さどう の家元 いえもと も「権力 けんりょく 者 しゃ に近 ちか づき、特配 とくはい をうけていた」などと批判 ひはん 、追及 ついきゅう された。一方 いっぽう 、急速 きゅうそく に進 すす む「アメリカ化 か 」による日本 にっぽん 文化 ぶんか 喪失 そうしつ に対 たい して危機 きき 感 かん を持 も つ人々 ひとびと もあった。1947年 ねん 、京都大学 きょうとだいがく の久松 ひさまつ 真一 しんいち は茶道 さどう を「喫茶 きっさ を契機 けいき として創造 そうぞう せられた、芸術 げいじゅつ 、道徳 どうとく 、哲学 てつがく 、宗教 しゅうきょう など文化 ぶんか のあらゆる部面 ぶめん を含 ふく んだ総合 そうごう 文化 ぶんか 体系 たいけい である」とする言説 げんせつ を唱 とな えた。裏千家 うらせんけ をはじめとする茶道 さどう 界 かい はこの言説 げんせつ を取 と り入 い れ、日本 にっぽん 固有 こゆう の文化 ぶんか の保存 ほぞん という存在 そんざい 意義 いぎ を茶道 さどう に浸透 しんとう させていった[ 9] 。戦後 せんご は海外 かいがい にも茶道 さどう は広 ひろ まり、茶道 さどう の大衆 たいしゅう 化 か は世界 せかい 的 てき レベルとなっている。
1980年代 ねんだい 初 はじ め頃 ごろ には、日本 にっぽん の茶道 さどう の所作 しょさ は中国 ちゅうごく 茶 ちゃ (茶 ちゃ 芸 げい )に用 もち いられるようになった。現在 げんざい の中国 ちゅうごく 茶 ちゃ (茶 ちゃ 芸 げい )の「茶巾 ちゃきん をたたむ」所作 しょさ は、日本 にっぽん の茶道 さどう の影響 えいきょう の表 あらわ れであるといえる。[要 よう 出典 しゅってん ]
千利休 せんのりきゅう 像 ぞう (長谷川 はせがわ 等伯 とうはく 筆 ふで )
流派 りゅうは と言 い うべきか定 さだ かではないが以下 いか のような呼 よ び習 なら わしがあった。
この時期 じき の創始 そうし と伝 つた えられ現存 げんそん するものには以下 いか がある。
千利休 せんのりきゅう と同 どう 時期 じき の創始 そうし による流派 りゅうは [ 編集 へんしゅう ]
多 おお くは武野 むの 紹鷗 の門人 もんじん か千利休 せんのりきゅう の直弟子 じきでし を創始 そうし 者 しゃ とするものであり、利休 りきゅう の影響 えいきょう はうけつつも「宗旦 そうたん 流 りゅう 」とは異 こと なる独自 どくじ の茶 ちゃ 風 ふう を形成 けいせい している。今日 きょう 、武家 ぶけ 茶道 さどう と呼 よ ばれる流派 りゅうは の多 おお くはここに見 み ることができる。武家 ぶけ 茶道 さどう は学校 がっこう 茶道 さどう や花嫁 はなよめ 修行 しゅぎょう などに取 と り入 い れられていないため人口 じんこう は少 すく ないが、その一方 いっぽう で近 きん 現代 げんだい における茶道 さどう の大衆 たいしゅう 化 か の影響 えいきょう が少 すく ないため、江戸 えど 時代 じだい 以前 いぜん の武家 ぶけ の作法 さほう を基礎 きそ とした伝統 でんとう が多 おお く残 のこ っている[ 10] 。
江戸 えど 幕府 ばくふ 3代 だい 将軍 しょうぐん 徳川 とくがわ 家光 いえみつ の茶道 さどう 指南 しなん 役 やく である大名 だいみょう 茶人 ちゃじん 小堀 こぼり 遠 とお 州 しゅう を流 ながれ 祖 そ とし、子孫 しそん や門人 もんじん に伝 つた わる系統 けいとう 。侘 わ び寂 さ びに端正 たんせい な美 び を加 くわ えた「きれい寂 さ び」と呼 よ ばれる美意識 びいしき を重視 じゅうし する[ 11] 。
千家 せんげ の本家 ほんけ である堺 さかい 千 せん 家 いえ (さかいせんけ)は千利休 せんのりきゅう の実子 じっし である千 せん 道 みち 安 やす が継 ままし いだが、後継 こうけい の子 こ なく断絶 だんぜつ した。
いわゆる「宗旦 そうたん 流 りゅう (そうたんりゅう)」であり、三 さん 千 せん 家 いえ の他 ほか に、宗旦 そうたん 四天王 してんのう の系譜 けいふ である松尾 まつお 流 りゅう 、庸 いさお 軒 のき 流 りゅう 、宗 そう 徧流、普 ひろし 斎 とき 流 りゅう や久田 ひさた 流 りゅう なども含 ふく む。宗旦 そうたん 流 りゅう は、江戸 えど 時代 じだい 初期 しょき に、少 しょう 庵 あん の子 こ である千 せん 宗旦 そうたん とその弟子 でし 達 たち に対 たい して用 もち いられた呼称 こしょう 。侘 わ びに徹 てっ することを旨 むね とする茶 ちゃ 禅 ぜん 一味 いちみ の傾向 けいこう が強 つよ かったが、現在 げんざい では華 はな やかな着物 きもの や道具 どうぐ による芸能 げいのう 要素 ようそ が強 つよ い。
千家 せんげ 流 りゅう 以外 いがい で上記 じょうき より時代 じだい が新 あたら しい流派 りゅうは 。また、活動 かつどう は確認 かくにん できるが系譜 けいふ 未 み 確認 かくにん の流派 りゅうは 。
茶道 さどう に明 あか るい人 ひと のことを(ちゃじん、さじん)という。著名 ちょめい な茶人 ちゃじん については茶人 ちゃじん 人物 じんぶつ 一覧 いちらん を参照 さんしょう 。
茶事 ちゃじ
茶事 ちゃじ とは少 しょう 人数 にんずう のあらかじめ招待 しょうたい された客 きゃく を対象 たいしょう にして亭主 ていしゅ が行 おこな う密接 みっせつ な茶会 ちゃかい であり、ひとつ椀 わん で同 おな じ濃 こ 茶 ちゃ を回 まわ して飲 の んでゆく。昼食 ちゅうしょく として懐石 かいせき を供 きょう してから茶 ちゃ をふるまう正午 しょうご の茶事 ちゃじ が最 もっと も基本 きほん 的 てき な形 かたち とされるが、趣 おもむき によって夏場 なつば の涼 すず しい時間 じかん に行 おこな う「朝 あさ の茶事 ちゃじ 」。秋冬 あきふゆ の長 なが い夜 よる をゆっくりと過 す ごす「夜 よる 咄し」などの茶事 ちゃじ も行 おこな われることもある。趣 おもむき によって、屋外 おくがい を茶室 ちゃしつ に見立 みた てる野点 のだて (のだて)や、テーブル・椅子 いす を用 もち いる立礼 りつれい (りゅうれい)の茶事 ちゃじ も行 おこな われる。
大 だい 寄 よ せ
大 だい 寄 よ せの茶会 ちゃかい とは、多数 たすう の客 きゃく を対象 たいしょう にして行 おこな う茶会 ちゃかい である。炭手前 すみてまえ ・懐石 かいせき は省略 しょうりゃく されることもあり、道具 どうぐ の拝見 はいけん を省略 しょうりゃく することも多 おお い。催事 さいじ の添 そ え釜 がま として行 おこな われることもあり、月例 げつれい 行事 ぎょうじ として月 つき 釜 がま を開催 かいさい したり、市民 しみん 茶会 ちゃかい や大 だい 茶会 ちゃかい と銘打 めいう って多数 たすう の流派 りゅうは が参加 さんか し、複数 ふくすう の茶席 ちゃせき を設 もう けて並行 へいこう してもてなすこともある。客 きゃく としてはもっとも気軽 きがる な催 もよお しの一 ひと つだが、亭主 ていしゅ としては晴 は れがましい披露 ひろう の場 ば でもある。
献上 けんじょう 茶事 ちゃじ
献 けんじ 茶 ちゃ とも呼 よ ぶ。神社 じんじゃ 仏閣 ぶっかく 寺院 じいん の御前 ごぜん で行 おこな う茶事 ちゃじ 。貴人 きじん 茶碗 ぢゃわん で神仏 しんぶつ へ茶 ちゃ を奉 ほう じる。参加 さんか は一般 いっぱん も含 ふく む場合 ばあい がほとんどだが、茶席 ちゃせき は別 べつ に用意 ようい されており、お守 まも りやお札 さつ を渡 わた す場合 ばあい もある。
口切 くちき り茶事 ちゃじ
10月 がつ 末 まつ - 11月初旬 しょじゅん に家元 いえもと で行 おこな う年 とし 初 はじ めの茶事 ちゃじ 、5月に摘 つ んだ茶 ちゃ 葉 は を茶 ちゃ 壺 つぼ にいれ、保管 ほかん した壺 つぼ の封 ふう を切 き り、臼 うす を回 まわ して抹茶 まっちゃ にする。篩 ふるい にかけ濃 こ 茶 ちゃ 薄茶 うすちゃ の味 あじ をみる茶事 ちゃじ で、流派 りゅうは の1年 ねん を占 うらな う重要 じゅうよう な茶事 ちゃじ となる。
茶道 さどう に関係 かんけい する音楽 おんがく 作品 さくひん [ 編集 へんしゅう ]
「宇治 うじ 巡 めぐ り」(地歌 じうた ・箏曲 そうきょく )
文化 ぶんか 文政 ぶんせい の頃 ころ 、京都 きょうと で活躍 かつやく した盲人 もうじん 音楽家 おんがくか 、松浦 まつうら 検校 けんぎょう が作曲 さっきょく した手事 てごと (てごと)もの地歌 じうた 曲 きょく 。箏 そう の手付 てつき は八 はち 重 じゅう 崎 さき 検校 けんぎょう 。「喜 き 撰 せん 」「雁 かり が音 ね 」など、多数 たすう の茶 ちゃ の銘 めい を詠 よ み込 こ み四季 しき の順 じゅん に配列 はいれつ しつつ、春夏秋冬 しゅんかしゅうとう の茶 ちゃ の名産 めいさん 地 ち 宇治 うじ を巡 めぐ り歩 ある くという風流 ふうりゅう な趣向 しゅこう の曲 きょく 。大曲 おおまがり で二 に 箇所 かしょ の手事 てごと (楽器 がっき だけで奏 そう される器楽 きがく 間奏 かんそう 部 ぶ )も音楽 おんがく 的 てき に凝 こ ったもので、転調 てんちょう も頻繁 ひんぱん に現 あらわ れ、技術 ぎじゅつ 的 てき にもなかなか難 むずか しい曲 きょく 。「松浦 まつうら の四 よっ つ物 ぶつ (四 よん 大名 だいみょう 曲 きょく )」のひとつとされている。
「茶 ちゃ 音頭 おんど 」 (地歌 じうた ・箏曲 そうきょく )
文化 ぶんか 文政 ぶんせい 時代 じだい 、京都 きょうと で活躍 かつやく した盲人 もうじん 音楽家 おんがくか 、菊岡 きくおか 検校 けんぎょう が作曲 さっきょく 、八重 やえ 崎 さき 検校 けんぎょう が箏 そう の手付 てつき をした手事 てごと もの地歌 じうた 曲 きょく 。「茶 ちゃ の湯 ゆ 音頭 おんど 」と呼 よ ぶ流派 りゅうは もある。「音頭 おんど 」は本来 ほんらい 雅楽 ががく 用語 ようご であり、のち近世 きんせい 邦楽 ほうがく 全般 ぜんぱん において広 ひろ く使 つか われ、この曲 きょく も民謡 みんよう とは関係 かんけい ないので注意 ちゅうい が必要 ひつよう 。俳人 はいじん 横井 よこい 也有 やゆう の「女 おんな 手前 てまえ 」から抜粋 ばっすい した歌詞 かし で、多数 たすう の茶道具 ちゃどうぐ を詠 よ み込 こ みつつ男女 だんじょ の仲 なか がいつまでも続 つづ くよう願 ねが った内容 ないよう 。三味線 しゃみせん の調 しらべ 弦 つる が「六 ろく 下 さ がり」という非常 ひじょう に特殊 とくしゅ なもので、独特 どくとく な響 ひび きがこの曲 きょく 独自 どくじ の雰囲気 ふんいき を作 つく り出 だ しており、歌 うた の節 ふし も凝 こ っている一方 いっぽう で手事 てごと が長 なが く、八重 やえ 崎 さき 検校 けんぎょう の箏 そう 手付 てつき も巧 だく みで合奏 がっそう 音楽 おんがく としてもよくできているので、現代 げんだい でも演奏 えんそう 会 かい でよく取 と り上 あ げられる曲 きょく である。お手前 てまえ の伴奏 ばんそう として演奏 えんそう されることもある。
「上方 かみがた 舞 まい 」(地唄 じうた 舞 まい )においても好 この んで舞 ま われ、いくつかの流派 りゅうは ごとの振 ふ り付 つ けがあるが、どれも袱紗 ふくさ を使用 しよう したり、茶道 さどう の所作 しょさ をいれたりする特徴 とくちょう のあるものである。
「宇治 うじ 茶 ちゃ 」(上方 かみがた 歌 か ・端 はし 唄 うた ・うた沢 ざわ )
日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい に、日本人 にっぽんじん によって茶 ちゃ の生産 せいさん と普及 ふきゅう が進 すす められた。1911年 ねん に尾崎 おざき 市三 いちぞう が光州 こうしゅう 市 し 無 む 等 とう 山 やま 証 しょう 心 こころ 寺 てら 付近 ふきん に無 む 等 とう 茶園 ちゃえん を作 つく り、1913年 ねん に小川 おがわ が全羅北道 ぜんらほくどう 井 い 邑市 に小川 おがわ 茶園 ちゃえん を作 つく った[ 14] 。また、1930年代 ねんだい から高等 こうとう 女学校 じょがっこう と女子 じょし 専門 せんもん 学校 がっこう で日本 にっぽん 式 しき 茶道 さどう が教育 きょういく された[ 15] 。朝鮮 ちょうせん で日本 にっぽん 式 しき 茶道 さどう が普及 ふきゅう し茶 ちゃ の消費 しょうひ が増加 ぞうか し、茶 ちゃ の供給 きょうきゅう を増 ふ やすために1939年 ねん に尼崎 あまがさき 関西 かんさい ペイント株式会社 かぶしきがいしゃ (京 きょう 城 じょう 化学 かがく )が全羅南道 ぜんらなんどう 宝 たから 城 ぐすく 郡 ぐん に宝 たから 城 じょう 茶園 ちゃえん を作 つく った[ 14] 。
1960年代 ねんだい 以後 いご 、茶 ちゃ に対 たい する関心 かんしん が新 あら たにおこり始 はじ めた。1979年 ねん に韓国 かんこく 茶人 ちゃじん 会 かい (한국차인회)が創立 そうりつ され、1984年 ねん に韓国 かんこく 茶人 ちゃじん 連合 れんごう 会 かい (한국차인연합회)に改編 かいへん された。また、1982年 ねん 2月 がつ 6日 にち に全国 ぜんこく 大学 だいがく 茶会 ちゃかい 連合 れんごう 会 かい (전국대학다회연합회)が、1983年 ねん に韓国 かんこく 茶道 さどう 協会 きょうかい (한국다도협회)が、1989年 ねん には韓国 かんこく 茶 ちゃ 文化 ぶんか 協会 きょうかい (한국차문화협회)が設立 せつりつ された[ 15] 。ほとんどは日本 にっぽん の茶道 さどう の模倣 もほう のようである[ 16] 。1983年 ねん に韓国 かんこく 茶道 さどう 協会 きょうかい は茶道 さどう 博物館 はくぶつかん を開館 かいかん した[ 15] 。2001年 ねん に釜山 ぷさん 女子大 じょしだい 学校 がっこう が茶道 さどう 学科 がっか を新設 しんせつ した[ 15] 。成 なり 均 ひとし 館 かん 大 だい 学校 がっこう や誠 まこと 信 しん 女子大 じょしだい 学校 がっこう (ko:성신여자대학교 )の特殊 とくしゅ 大学院 だいがくいん には茶道 さどう 専攻 せんこう が開設 かいせつ されている[ 15] 。
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