大日本帝国だいにっぽんていこく

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大日本帝國だいにっぽんていこくから転送てんそう
大日本帝国だいにっぽんていこく
だい日本にっぽんみかど󠄁くに
紀元前きげんぜん660ねん2がつ11にち明治めいじ5ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい342ごう) - [1][2]
日本の国旗 日本の国章
事実じじつじょう国旗こっきくにしょうじゅんじる紋章もんしょう
くに標語ひょうご: 箇条かじょう誓文せいもんなど
国歌こっか: きみ
日本の位置
大日本帝国だいにっぽんていこく (1910-1945)
公用こうよう 日本語にほんご事実じじつじょう
首都しゅと 平安京へいあんきょう→(東京とうきょう奠都てんと)→
東京とうきょう東京とうきょう
天皇てんのう
1846ねん - 1867ねん 孝明天皇こうめいてんのう
1867ねん - 1912ねん明治天皇めいじてんのう
1912ねん - 1926ねん大正天皇たいしょうてんのう
1926ねん - 1947ねん昭和しょうわ天皇てんのう
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
1885ねん - 1888ねん伊藤いとう博文ひろぶみ
1946ねん - 1947ねん吉田よしだしげる
面積めんせき
昭和しょうわ初期しょき領土りょうど675,400km²
人口じんこう
1920ねん大正たいしょう9ねん[3]77,700,000にん
1933ねん昭和しょうわ8ねん90,396,034にん
1935ねん昭和しょうわ10ねん国勢調査こくせいちょうさ97,700,000にん
1940ねん昭和しょうわ15ねん[3]105,200,000にん
変遷へんせん
日米にちべい和親わしん条約じょうやく 1854ねん3月31にちよしみひさし7ねん3月3にち
日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく1858ねん7がつ29にち安政あんせい5ねん6月19にち
明治維新めいじいしん1868ねん明治めいじ元年がんねん
大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう発布はっぷ1889ねん明治めいじ22ねん2がつ11にち
だい世界せかい大戦たいせん敗戦はいせん1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ15にち
日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこう1947ねん昭和しょうわ22ねん5月3にち
通貨つうか日本円にほんえん
台湾たいわん銀行ぎんこうけん
朝鮮ちょうせん銀行ぎんこうけん
時間じかんたいUTC +9(日本にっぽん標準時ひょうじゅんじ
現在げんざい日本の旗 日本にっぽん
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん
ロシアの旗 ロシアみなみ樺太からふと千島ちしま列島れっとう
大韓民国の旗 大韓民国だいかんみんこく朝鮮ちょうせん
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく朝鮮ちょうせん
  1. ^ 紀元きげん神話しんわ伝承でんしょうによる。明治めいじ5ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい342ごう。なおこの布告ふこく現在げんざいにおける効力こうりょくについては議論ぎろんがある。
  2. ^ 大日本帝国だいにっぽんていこく」の国号こくごうもちいられたのはおそくとも1935ねん外務省がいむしょう決定けっていから1947ねんまで。
  3. ^ a b Taeuber, Irene B.; Beal, Edwin G. (January 1945). “The Demographic Heritage of the Japanese Empire”. Annals of the American Academy of Political and Social Science (Sage Publications) 237: 65. doi:10.1177/000271624523700108. JSTOR 1025496. 

大日本帝国だいにっぽんていこく(だいにほんていこく、だいにっぽんていこく、きゅう字体じたいだい日本にっぽんみかど󠄁くに英語えいご: Empire of Japan)とは、大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう時代じだい使用しようされた日本にっぽん国号こくごうの1つ[1]日本にっぽん海外かいがい領土りょうどとう総称そうしょうあるいは別称べっしょうとしても使用しようされた。江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ)に外交がいこう文書ぶんしょ使用しようされはじめ、公式こうしきには1947ねん昭和しょうわ22ねん)まで使用しようされていた。ただし、古来こらいより現在げんざいまで一貫いっかんして日本にっぽん正式せいしき国号こくごう法的ほうてき確定かくていしておらず、「大日本帝国だいにっぽんていこく」もまた正式せいしき国号こくごうではない(後述こうじゅつ)。

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうにおける日本にっぽん領土りょうどは、現在げんざい日本にっぽんこく領土りょうどくわえて、千島ちしま列島れっとう台湾たいわんみなみ樺太からふと朝鮮ちょうせん関東かんとうしゅう南洋なんよう諸島しょとうなどをふくみ、こうした植民しょくみん租借そしゃく委任いにん統治とうちりょう外地がいちばれ、現在げんざいでは他国たこく一部いちぶ独立どくりつこくとなっている。どう憲法けんぽうプロイセン立憲りっけん君主くんしゅせいはんとして1890ねん明治めいじ23ねん11月29にち施行しこうされ、だい世界せかい大戦たいせん敗戦はいせん1947ねん昭和しょうわ22ねん5月3にち日本国にっぽんこく憲法けんぽう施行しこうともな失効しっこうするまで効力こうりょくゆうした[2]

以下いか国号こくごうとしての大日本帝国だいにっぽんていこく解説かいせつし、また大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう日本にっぽんについて記述きじゅつする。

国名こくめい[編集へんしゅう]

憲法けんぽう原本げんぽんでの国名こくめい

経緯けいい[編集へんしゅう]

ヤマト王権おうけん成立せいりつ漢字かんじ文化ぶんかれられるとはじ中国ちゅうごく朝鮮ちょうせんがわ呼称こしょうである「やまと」を自国じこく表記ひょうきとして使用しようすることがおおかったが、やがて自国じこくを「日本にっぽん」、あるいは「やまと」を「」と表記ひょうきすることがえ、701ねん大宝たいほう元年がんねん)の大宝たいほう律令りつりょうでは日本にっぽん国号こくごう使用しようされた[3]。「やまと」や「日本にっぽん」に「だい」をかんする慣習かんしゅう古代こだいから国内こくないけの美称びしょうとして存在そんざいするが、対外たいがい文書ぶんしょにおいては江戸えど時代じだい末期まっき幕末ばくまつ)までられなかった[4]。「帝國ていこく」という文字もじそのものはずいだい文中ぶんちゅうもんえき』や日本書紀にほんしょきなど古典こてんにも散見さんけんされる表現ひょうげんであったが、いずれも「とくをもっておさめるくに」あるいは天皇てんのう所在しょざい意味いみするかたりであり、近代きんだい国家こっか語義ごぎとしての国家こっか政体せいたい表示ひょうじするものではなかった[5]後者こうしゃ語義ごぎとしての「帝国ていこく」のかたり江戸えど時代じだい後期こうきにオランダKeizerdomの翻訳ほんやくのために採用さいようされた造語ぞうごであり[注釈ちゅうしゃく 1]、それ以前いぜん時代じだい漢語かんごとして定着ていちゃくした言葉ことばではなかった[6]国学こくがく系統けいとうでは「皇国こうこく」というかたり比較的ひかくてき早期そうきから使つかわれているものの「帝国ていこく」というかたり幕末ばくまつまでられなかった[6]

対外たいがいてき国号こくごうに「だい」をかんしたり「帝國ていこく」を使用しようするようになったのはいずれも幕末ばくまつのことであり、1854ねんよしみなが7ねん)にアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく批准ひじゅんし、開国かいこく皮切かわきりとなった日米にちべい和親わしん条約じょうやくでは、前文ぜんぶんにおいて「帝國ていこく日本にっぽん」(英文えいぶんでは"Empire of Japan")の国号こくごうはじめて使つかわれた(かく条文じょうぶんでは「日本國にっぽんこく Japan」表記ひょうき[7]。また、同年どうねんイギリス批准ひじゅんしたにちえい和親わしん条約じょうやくでは、条約じょうやく正式せいしき名称めいしょうでは「日本にっぽんこく日本にっぽん国大こくだいれつ顛国約定やくじょう)」としたが[8]本文ほんぶんの「日本にっぽん大君おおきみ」を英文えいぶんでは"His Imperial Highness the Emperor of Japan"と表記ひょうき[9]日本にっぽんがわやくぶん概要がいよう)では江戸えど幕府ばくふを「大日本帝國だいにっぽんていこく政府せいふ」と表記ひょうきした[10]

さらに、1858ねん7がつ29にち安政あんせい5ねん6がつ19にち米国べいこく調印ちょういんした日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやくでは、本文ほんぶんに「帝國ていこくだい日本にっぽん」の国号こくごう使つかわれた[11]ほか、脇坂わきさか中務なかつかさ大輔だいすけ肩書かたがきを「大日本帝國だいにっぽんていこく外國がいこく事務じむ老中ろうじゅう」とした[12]同様どうように、10月9にち安政あんせい5ねん9がつ3にちフランス調印ちょういんしたにちふつ修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやくでも、本文ほんぶんは「日本にっぽんこく」だったが[13]間部まべ下総しもうさまもる脇坂わきさか中務なかつかさ大輔だいすけはやはり「大日本帝國だいにっぽんていこく外国がいこく事務じむ老中ろうじゅう」の肩書かたがき花押かおうのこしている[14]万延元年遣米使節正使せいし新見にいみただしきょう副使ふくしむらかきはんただし監察かんさつ小栗おぐり忠順ただまさ1860ねん万延まんえん元年がんねん)、日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく批准ひじゅんした安政あんせいねん条約じょうやく批准ひじゅん条約じょうやく交換こうかん証書しょうしょ[15]うえで、日本にっぽんがわを「大日本帝國だいにっぽんていこく 大君おおきみ全権ぜんけん」としるした。

このように、江戸えど幕府ばくふ開国かいこくに「大日本帝國だいにっぽんていこく」の国号こくごう使つかはじめたが、国号こくごう表記ひょうき条約じょうやくによってまちまちであり「日ノ本ひのもと」「日本にっぽん」「日本にっぽんこく」「帝國ていこく日本にっぽん」「帝國ていこくだい日本にっぽん」「日本にっぽん帝國ていこく」「だい日本にっぽんすめらぎ御國みくに」などの表記ひょうき使用しようされ、一定いっていしなかった[16][17]

明治天皇めいじてんのう1868ねん1がつ3にち慶応けいおう3ねん12月9にち)、王政おうせい復古ふっこ宣言せんげん。1871ねん明治めいじ4ねん)に鋳造ちゅうぞうされた国璽こくじには「だい日本にっぽん國璽こくじ」ときざまれ、1874ねん明治めいじ7ねん)の改鋳かいちゅうさいしてもしるしぶん変更へんこうされず、今日きょういたるまで使用しようされている。1873ねん明治めいじ6ねん)6がつ30にちざい日本にっぽんオランダ公使こうしからのらい翰文邦訳ほうやくで「大日本帝國だいにっぽんていこく天皇陛下てんのうへいか祝辞しゅくじ陳述ちんじゅつス(大日本帝国だいにっぽんていこく天皇陛下てんのうへいか祝辞しゅくじ陳述ちんじゅつす)」と記述きじゅつされ[18]、1889ねん明治めいじ22ねん)2がつ11にちには大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう明治めいじ憲法けんぽう帝国ていこく憲法けんぽう)が発布はっぷされ、1890ねん明治めいじ23ねん)11月29にち、この憲法けんぽう施行しこうされるにあたり大日本帝國だいにっぽんていこくという国号こくごうしょうした。はじ伊藤いとう博文ひろぶみ明治天皇めいじてんのう提出ていしゅつした憲法けんぽうあんでは日本にっぽん帝國ていこくであったが、憲法けんぽうあん審議しんぎする枢密院すうみついん会議かいぎ席上せきじょう寺島てらしまはじめのりふく議長ぎちょうが、皇室こうしつ典範てんぱんあんだい日本にっぽんとあるので文体ぶんたい統一とういつするために憲法けんぽうだい日本にっぽんあらためることを提案ていあん。これにたいして憲法けんぽう起草きそうしゃ井上いのうえあつし書記官しょきかんちょうは、国名こくめいだいかんするのはみずか尊大そんだいにするきらいがあり、内外ないがい発表はっぴょうする憲法けんぽうだいくべきでないとして反対はんたいした。結局けっきょく枢密院すうみついん議長ぎちょうであった伊藤いとう博文ひろぶみ裁定さいていにより「大日本帝國だいにっぽんていこく」にめられた[19]

だい日本にっぽんという表記ひょうきは「オオヤマト」としては古来こらいからもちいられており、明治めいじ時代じだい国名こくめいとしてはじめて使用しようされたというわけではない。一方いっぽう帝國ていこく」はずいだいの『文中ぶんちゅうもんえき』を初出しょしゅつとし「とくもっおさめるくに」とされた[20]。『日本書紀にほんしょき』にも「帝國ていこく」に「みかど」のくんてた用例ようれいがあるが[21]天皇てんのう所在しょざい意味いみする用語ようごであり、今日きょうの「帝国ていこく」とはかならずしも一致いっちしなかった[22]一方いっぽうで、天皇てんのう統治とうちするくにという意味いみで「皇国こうこく」「スメラミクニ」(すめらぎ御国みくに)が使つかわれていた。これらは政治せいじ思想しそう主義しゅぎ規模きぼとうもとづく「Empire」(帝国ていこくとは本来ほんらい一線いっせんかくしていたが、幕末ばくまつ以降いこう欧米おうべい列強れっきょう影響えいきょうけ、日本にっぽんがわも"Empire"の訳語やくごとしての「帝国ていこく」を意識いしきするようになった[6]

帝国ていこく憲法けんぽうはん公式こうしき英訳えいやく伊東いとう巳代治みよじわけ)では「Empire of Japan」とやくされ「だい」の意味合いみあいはなかった。当時とうじ国名こくめいへのこだわりがなく、帝国ていこく憲法けんぽう同時どうじ制定せいていされた皇室こうしつ典範てんぱんでは日本にっぽん帝國ていこくだい日本にっぽんこく表記ひょうきし、外交がいこう文書ぶんしょでは日本にっぽん日本にっぽんこくともしょうしており、国内こくないけの公文書こうぶんしょでも同様どうようであった。その世界せかい情勢じょうせい悪化あっかなどにより国名こくめいへの面子めんつたいするこだわりが表面ひょうめんした1935ねん昭和しょうわ10ねん)7がつ外務省がいむしょう外交がいこう文書ぶんしょじょう大日本帝國だいにっぽんていこく表記ひょうき統一とういつすることを決定けっていした[23]国号こくごう参照さんしょう

だい世界せかい大戦たいせん日本にっぽん政府せいふ1946ねん2がつ8にち連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい (GHQ/SCAP) に提出ていしゅつした憲法けんぽう改正かいせい要綱ようこうでは国名こくめいについて「大日本帝國だいにっぽんていこく」と記載きさいしていたが、2がつ13にち、GHQ/SCAP民政みんせい局長きょくちょうコートニー・ホイットニーにより憲法けんぽう改正かいせい要綱ようこう受理じゅり通知つうちとGHQ/SCAP草案そうあん吉田よしだしげる外務がいむ大臣だいじんおよ松本まつもと烝治国務大臣こくむだいじんらに手交しゅこうされ、その草案そうあんかりやく以降いこう国名こくめい日本にっぽんこく記載きさいされるようになり、のち国号こくごうかんして1946ねん7がつ23にち時点じてんにおけるだい1吉田よしだ内閣ないかく公式こうしき見解けんかいとして「従来じゅうらい現行げんこう憲法けんぽう当時とうじ大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう)においてもとくくに国号こくごう一定いっていする意味いみで「大日本帝国だいにっぽんていこく」といふ名称めいしょうもちいゐられたものとはかんがえていない」ものとされた[24]

その1947ねん昭和しょうわ22ねん)5がつ3にち施行しこうされた日本国にっぽんこく憲法けんぽうにより日本にっぽん憲法けんぽうじょう日本にっぽんこく」の名称めいしょうもちいることとなるが、現在げんざいにおいてなお日本にっぽん正式せいしき名称めいしょう規定きていする法令ほうれいとう存在そんざいせず、国号こくごう呼称こしょうについては慣習かんしゅうによるものとされている[25]

通称つうしょう[編集へんしゅう]

日本にっぽん水準すいじゅん原点げんてんしるべ上部じょうぶエンタブラチュアフリーズ部分ぶぶんきくもんともみぎから「大日本帝國だいにっぽんていこく」ときざまれている。

通称つうしょうでは帝国ていこくび、また皇国こうこくともしょうした。日本海にほんかい海戦かいせんでの「皇國こうこく興廢こうはい此ノいちせんざいリ(皇国こうこく興廃こうはいこのいちせんり)」が有名ゆうめい日本にっぽん日本にっぽんこく通称つうしょうとしてだけでなく公文書こうぶんしょにも使用しようされた。

現在げんざい帝国ていこく」の文字もじ公的こうてき機関きかんしるされているのは東京とうきょう千代田ちよだ所在しょざいする日本にっぽん水準すいじゅん原点げんてんしるべのみである。民間みんかんでは帝国ていこくデータバンク帝国ていこく劇場げきじょう通称つうしょう帝劇ていげき」)、帝国ていこくホテル帝国ていこく書院しょいん帝国ていこく制帽せいぼうげんテイボー)、帝国石油ていこくせきゆ帝国ていこく酸素さんそなどがある。

2004ねん平成へいせい16ねん)に東京とうきょう地下鉄ちかてつ東京とうきょうメトロ)が運営うんえいいだかつての営団えいだん地下鉄ちかてつも、運営うんえいしゃ正式せいしき名称めいしょう帝国ていこく首都しゅと意味いみする「帝都ていと」をかんした帝都ていと高速度こうそくど交通こうつう営団えいだんであった。京王けいおう電鉄でんてつ社名しゃめい変更へんこうまえは「京王帝都電鉄けいおうていとでんてつ」(だい東急とうきゅう解体かいたいさいきゅう京王けいおう電気でんき軌道きどうきゅう小田急電鉄おだきゅうでんてつ帝都ていとせん帝都ていと電鉄でんてつ)だった路線ろせん設立せつりつしたことによる名称めいしょう)、警備けいび会社かいしゃではテイケイが「帝国ていこく警備けいび保障ほしょう」、帝人ていじんが「帝国ていこく人造じんぞう絹糸けんし」などと、それぞれ「帝国ていこく」をかんしていた。

東京大学とうきょうだいがく京都大学きょうとだいがくなどの帝国ていこく大学だいがくれいもとづいて設立せつりつされた大学だいがくは、現在げんざいにおいてもきゅうみかどだいばれる。また、同様どうように「だい日本にっぽん」の文字もじ使用しようされている企業きぎょうもある(れい大日本印刷だいにほんいんさつだい日本にっぽん除虫菊じょちゅうぎく)。

国土こくど[編集へんしゅう]

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう日本にっぽん国土こくどは、完全かんぜん領有りょうゆうけんゆうする領土りょうどのほか、領土りょうどじゅんじる区域くいきとして、他国たこくからけた租借そしゃく国際こくさい連盟れんめい統治とうち委任いにんされた委任いにん統治とうち区域くいきがあった。このほか行政ぎょうせいけんおよ国民こくみんへの裁判さいばんけんゆうする一部いちぶ統治とうち区域くいきがあった。

首都しゅと[編集へんしゅう]

明治めいじ憲法けんぽうにおいては、關東大震災かんとうだいしんさい直後ちょくご詔書しょうしょ大正たいしょう12ねん9がつ12にち詔書しょうしょ)で「東京とうきょう帝國ていこく首都しゅと」とされている。東京とうきょう大日本帝国だいにっぽんていこく首都しゅととして帝都ていとしょうされ、宮城みやぎきゅうじょう皇居こうきょ)が所在しょざいし、内閣ないかく各省かくしょう枢密院すうみついん大審院だいしんいん位置いちし、帝国ていこく議会ぎかいひらかれ、戦時せんじには大本営だいほんえいかれた。

その一方いっぽう元来がんらいからの「みやこ」は、維新いしん初期しょき政情せいじょう背景はいけい天皇てんのうひがしぎょう東京とうきょう奠都てんととされた経緯けいいから、京都きょうととしての地位ちい継続けいぞくし、高御座たかみくら京都きょうと御所ごしょ安置あんちされ即位そくいれい大嘗祭だいじょうさいおこなわれていた[26]。また広島ひろしまは、にちしん戦争せんそうなか天皇てんのう行在所あんざいしょ大本営だいほんえいかれ、帝国ていこく議会ぎかいひらかれたので、臨時りんじ首都しゅとつとめたともえる。なお、太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)で本土ほんど決戦けっせんになる場合ばあい天皇てんのう大本営だいほんえい長野ながのけん松代まつだいまち地下ちかごう松代まつだい大本営だいほんえい)にうつ予定よていであったが、当初とうしょ天皇てんのう自身じしん反対はんたいしたことり、本土ほんど決戦けっせんおこなわれることなく終戦しゅうせんしたため実現じつげんしなかった。

領土りょうど[編集へんしゅう]

大日本帝国だいにっぽんていこく国土こくど昭和しょうわ)1. 内地ないち、2. 台湾たいわん、2'. 新南しんなん群島ぐんとう、3. 樺太からふと、4. 朝鮮ちょうせん以上いじょう領土りょうど)、5. 関東かんとうしゅう、6. まんてつ附属ふぞく、7. 南洋なんよう群島ぐんとう
大日本帝国だいにっぽんていこく地形ちけい(1918ねん11月)

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう明治めいじ憲法けんぽう)の形質けいしつ観点かんてんでは、明治めいじ憲法けんぽうには領土りょうど規定きていがなく、ヘルマン・ロエスレルあん段階だんかい領土りょうど自明じめいのものであり、また国体こくたいかかわり議院ぎいんぞくさないものだとして領土りょうど規定きていえたのであるが、実際じっさいにはロエスエルの認識にんしきとはことなり日本にっぽん領土りょうどきた樺太からふと北海道ほっかいどう)もみなみ琉球りゅうきゅう)も対外たいがい政策せいさく不安定ふあんていなかにあった。明治めいじ政府せいふにとって好都合こうつごうであったことはたしかで、露骨ろこつなものとしては「わが憲法けんぽう領土りょうどニ就イテ規定きていスルしょナシ、諸國しょこく憲法けんぽうある領土りょうど列擧れっきょスルト甚タレリ、サレハわがざいリテハ、領土りょうど獲得かくとく憲法けんぽう改正かいせい手續てつづきようセス」(上杉うえすぎ慎吉しんきちしん稿こう憲法けんぽうじゅつよし」1924ねんP.143)とほぐされていた[27]

比較ひかく法学ほうがく観点かんてんでは、当時とうじ国法こくほうがく観点かんてんでは「国土こくど」という確定かくていされた領域りょういき国土こくどがくによって理論りろんてき整除せいじょされ、その結果けっか憲法けんぽう記述きじゅつすることが慣行かんこうとなっていた。1831ねんのベルギー憲法けんぽう、1848ねんプロイセン憲法けんぽう、1871ねんドイツ帝国ていこく憲法けんぽうのようにだいいちじょう国土こくど条項じょうこう記述きじゅつするのが通例つうれいで、領土りょうど条項じょうこういた憲法けんぽうはなんらかの事情じじょうがあり、そのてん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう異例いれいであった。石村いしむらおさむはこのてんについて江戸えど時代じだいにおける長期ちょうき鎖国さこく体制たいせい地政学ちせいがくてき特性とくせい着目ちゃくもくする。西欧せいおうがた植民しょくみん経営けいえい特徴とくちょうは、自国じこくほうがおよぶ範囲はんい限定げんてい殖民しょくみん会社かいしゃ軍備ぐんび司法しほう行政ぎょうせい外交がいこう特権とっけん付与ふよすることで、国家こっか直接ちょくせつ植民しょくみん支配しはいわずらわしさから解放かいほうされることになり、そこでは軍事ぐんじ警察けいさつりょくによる暴力ぼうりょくてき支配しはい権力けんりょく不可欠ふかけつであり、法的ほうてきには内地ないち区分くぶんされた(外地がいち)という枠組わくぐみが形成けいせいされるにいたった。19世紀せいきのヨーロッパは国家こっか主権しゅけん欠落けつらくした空間くうかん宗主そうしゅこく主権しゅけんおよぶことを想定そうていしながら、直接的ちょくせつてき責任せきにんのがれの法理ほうり適用てきようされることを期待きたいして「外地がいち」(overseas territories)という領土りょうどつくしたとする[28]

領土りょうど完全かんぜん領有りょうゆうけんゆうする区域くいきであり、内地ないち樺太からふとのち内地ないち編入へんにゅう)、台湾たいわん朝鮮ちょうせんからなる。このほかいち遼東りゃおとん半島はんとう領土りょうどとしたことがあった。かく領土りょうど来歴らいれき下記かきとおり。領土りょうど面積めんせき最大さいだい675,000km2[29]かく領土りょうど概要がいよう下記かきとおり。

内地ないち
日本にっぽん列島れっとうおよ周辺しゅうへん島嶼とうしょからなり、現在げんざい日本にっぽんこく領土りょうどとほぼ一致いっちする。内地ないち来歴らいれき以下いかとおり。
このほか以下いか島々しまじま内地ないち編入へんにゅうした。
樺太からふと
にちおとずれるひとしふるくは鎌倉かまくら時代ときよから日本にっぽんとのかかわり(参照さんしょう蝦夷えぞ管領かんりょう安東あんどう)があり、江戸えど時代じだい松前まさきはん陣屋じんやアイヌなどとの交易こうえき場所ばしょ参照さんしょう場所ばしょ請負うけおいせい#うん上屋うわや)などももうけられていたが、幕末ばくまつ混乱こんらん樺太からふととうかり規則きそくなどの不平等ふびょうどう条約じょうやくロシアとの雑居ざっきょとされたのち、1875ねん千島ちしま樺太からふと交換こうかん条約じょうやくによりロシアに譲渡じょうと。1905ねんにち戦争せんそう樺太からふと作戦さくせん)で占領せんりょうし、同年どうねんポーツマス条約じょうやくにち講和こうわ条約じょうやく明治めいじ38ねんみことのりれい号外ごうがい)により北緯ほくい50以南いなん割譲かつじょうさせ回復かいふく。1943ねん内地ないち編入へんにゅうした(昭和しょうわ18ねん法律ほうりつだい85ごう)。樺太からふとちょう参照さんしょう
だいよんだい台湾たいわん総督そうとく児玉こだま源太郎げんたろう
台湾たいわん
台湾たいわん本島ほんとう澎湖とうにちしん戦争せんそう占領せんりょうし、1895ねん下関しものせき条約じょうやくにちしん講和こうわ条約じょうやく明治めいじ28ねんみことのりれい号外ごうがい)により、清国きよくに割譲かつじょうさせて獲得かくとく。1938ねん新南しんなん群島ぐんとう(現在げんざい南沙なんさ諸島しょとう)台湾たいわんこう雄市ゆういち編入へんにゅうした(昭和しょうわ14ねん台湾たいわん総督そうとくれいだい31ごう台湾たいわん総督そうとく告示こくじだい122ごう)。日本にっぽん統治とうち時代じだい台湾たいわんこう参照さんしょう
遼東りゃおとん半島はんとう奉天ほうてん半島はんとう
にちしん戦争せんそう占領せんりょうし、1895ねん下関しものせき条約じょうやくにより清国きよくに割譲かつじょうさせて獲得かくとくしたが、さんこく干渉かんしょうけて、同年どうねんちゅう奉天ほうてん半島はんとう還付かんぷせきスル条約じょうやく明治めいじ28ねんみことのりれい号外ごうがい)により返還へんかんした。このあいだ、ごく短期たんきではあるが、領土りょうどであった。
朝鮮ちょうせん
1910ねん韓国かんこく併合へいごうせきスル条約じょうやく明治めいじ43ねん条約じょうやくだい3ごう)により領土りょうどくわえ、韓國かんこく國號こくごうあらため朝鮮ちょうせんしょうスルノけん明治めいじ43ねんみことのりれいだい318ごう)により朝鮮ちょうせん改称かいしょうした。日本にっぽん統治とうち時代じだい朝鮮ちょうせんこう参照さんしょう

租借そしゃく[編集へんしゅう]

租借そしゃく領土りょうどとはことなり、潜在せんざい主権しゅけんを租貸こくゆうし、租借そしゃく期限きげんがあり、また在来ざいらい住民じゅうみん日本にっぽん国籍こくせきあたえられない。中国ちゅうごくから関東かんとうしゅう一時いちじにかわしゅう青島ちんたお)を租借そしゃくした。

関東かんとうしゅう
遼東りゃおとん半島はんとう先端せんたん大連たいれん旅順りょじゅん近辺きんぺん。ロシアの租借そしゃくだったが、にち戦争せんそう占領せんりょう。1905ねん、ポーツマス条約じょうやくにより清国きよくに承諾しょうだく条件じょうけん租借そしゃくけんゆずけ、にちしんあいだ滿まんしゅうせきスル條約じょうやく明治めいじ39ねんみことのりれい号外ごうがい)により清国きよくに承諾しょうだく租借そしゃくした。租借そしゃく期限きげんは1923ねんまでだったが、1915ねん中華民国ちゅうかみんこくとのみなみ滿まんしゅう及東部内ぶないこうむせきスル條約じょうやく大正たいしょう4ねん条約じょうやくだい3ごう)により1997ねんまで延長えんちょうされた。1932ねんまんしゅうこく成立せいりつともない、まんしゅうこく一部いちぶ租借そしゃくする形式けいしき改定かいていした(ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくにより1945ねん失効しっこう)。
にかわしゅう
山東さんとう半島はんとう南岸なんがん青島ちんたお近辺きんぺんドイツ帝国ていこく租借そしゃくだったが、だいいち世界せかい大戦たいせん占領せんりょう。1920ねん同盟どうめい聯合れんごうこく獨逸どいつこくトノ平和へいわ條約じょうやく大正たいしょう8ねん条約じょうやくだい1ごう)により租借そしゃくとするが、2ねん山東さんとう懸案けんあん解決かいけつせきスル條約じょうやく大正たいしょう11ねん条約じょうやくだい3ごう)により中華民国ちゅうかみんこく返還へんかん

委任いにん統治とうち区域くいき[編集へんしゅう]

南洋なんよう群島ぐんとう
西太平洋にしたいへいよう赤道せきどう以北いほくひろ範囲はんい散在さんざいする島々しまじま。ドイツりょうであったが、だいいち世界せかい大戦たいせん占領せんりょう、1920ねん同盟どうめい聯合れんごうこく獨逸どいつこくトノ平和へいわ條約じょうやく大正たいしょう8ねん条約じょうやくだい1ごう)により、国際こくさい連盟れんめい委任いにんもとづき統治とうちする委任いにん統治とうち区域くいきとした。日本にっぽん国際こくさい連盟れんめい脱退だったいすると、連盟れんめいとの関係かんけいにおける委任いにん統治とうち根拠こんきょうすくなったが、1933ねん3がつ16にち帝国ていこく国際こくさい連盟れんめい脱退だったい南洋なんよう委任いにん統治とうち帰趨きすうかんする帝国ていこく政府せいふ方針ほうしん決定けっていけん」を閣議かくぎ決定けっていし、委任いにん統治とうちはヴェルサイユ条約じょうやくでの批准ひじゅん事項じこうであることをたてつづ委任いにん統治とうちおこなった。なお国際こくさい連盟れんめいへの統治とうちかんする年次ねんじ報告ほうこくは1938ねんまでっている。

一部いちぶ統治とうち区域くいき[編集へんしゅう]

みなみまんしゅう鉄道てつどう初代しょだい総裁そうさい後藤ごとう新平しんぺい
みなみまんしゅう鉄道てつどう附属ふぞくまんてつ附属ふぞく
みなみまんしゅう鉄道てつどうまんてつ)の線路せんろ両側りょうがわすうじゅうメートル程度ていど地帯ちたいおよえき周辺しゅうへん市街地しがいち鉱山こうざんひとしからなる。まんてつかんするロシアの権利けんりを1905ねんポーツマス条約じょうやくゆずけたさいに、その一部いちぶとして鉄道てつどう附属ふぞくにおける行政ぎょうせいけん獲得かくとくした。行政ぎょうせいけんほか治外法権ちがいほうけんもとづき日本人にっぽんじんかんする裁判さいばんけんゆうした。1937ねん行政ぎょうせいけんまんしゅうこく移譲いじょうするとともに、治外法権ちがいほうけん撤廃てっぱいした(昭和しょうわ12ねん条約じょうやくだい15ごう)。
租界そかい
専管せんかん租界そかいを1897ねん杭州こうしゅう蘇州そしゅうに、1898ねん天津てんしんかんこうに、1901ねん重慶たーちんに、それぞれ開設かいせつした。また、上海しゃんはい共同きょうどう租界そかい参加さんかしていた。北京ぺきんには正式せいしき租界そかいではないが、事実じじつじょう共同きょうどう租界そかいとして機能きのうした公使館こうしかん区域くいきがあった。このほかすなふくしゅう厦門あもい租界そかい設置せっちする権限けんげんがあったが設置せっちしなかった。租界そかいでは行政ぎょうせいけん行使こうしするほか、治外法権ちがいほうけんもとづき日本人にっぽんじんかんする裁判さいばんけんゆうした。1943ねん中華民国ちゅうかみんこくひろしちょうめい政権せいけん)にたい租界そかい還付かんぷ治外法権ちがいほうけん撤廃てっぱいした(昭和しょうわ18ねん条約じょうやくだい1ごうどうだい2ごう)。

住民じゅうみん[編集へんしゅう]

大日本帝国だいにっぽんていこく人口じんこう密度みつど(大正たいしょう9)。
大日本帝国だいにっぽんていこく人口じんこう密度みつど(昭和しょうわ15)。

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう日本にっぽん大日本帝国だいにっぽんていこく国籍こくせきゆうするもの日本人にっぽんじん日本にっぽん国民こくみん日本にっぽん臣民しんみんといった。大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうでは日本にっぽん臣民しんみん名称めいしょう使用しようされている。国籍こくせき要件ようけん国籍こくせきほう明治めいじ32ねん法律ほうりつだい66ごう)で規定きていされた。したのいずれにぞくするかによってほう制度せいどじょうことなるあつかいをけることがあった。

国民こくみん[編集へんしゅう]

内地ないちじん
内地ないちじんとは戸籍こせきほう明治めいじ31ねん法律ほうりつだい12ごう)の適用てきようける国民こくみんである。現在げんざい日本にっぽん国民こくみんにほぼ相当そうとうする。内地ないちじんには華族かぞく士族しぞく平民へいみんべつがあり、華族かぞく貴族きぞくいん議員ぎいんたる資格しかくゆうするなど特殊とくしゅ地位ちいにあったが、士族しぞく平民へいみんあいだ差異さいはなく、法的ほうてきにも1914ねん大正たいしょう3ねん)にぞくせき記載きさい撤廃てっぱいされた。1947ねん戸籍こせきほう改正かいせいにより、これらのべつ完全かんぜん消滅しょうめつした。
樺太からふとじん
樺太からふとじん樺太からふと在来ざいらい住民じゅうみんであり、樺太からふと施行しこうスヘキ法令ほうれいせきスルけん明治めいじ40ねん法律ほうりつだい25ごう)などの法令ほうれいでは土人どじんばれた。また樺太からふと土人どじんともいう。樺太からふとじん日本にっぽん国籍こくせきゆうしなかったというせつ百瀬ももせ掲書)もあるが、当時とうじ憲法けんぽうがくしょでは日本にっぽん国籍こくせきゆうするものとしていた(美濃部みのべ掲書)。樺太からふとじんのうち8わりちかくが樺太からふとアイヌであり、ニヴフウィルタ当時とうじ通称つうしょうはオロッコぞく)などがいた。1932ねん樺太からふとアイヌが内地ないちじんになり(昭和しょうわ7ねんみことのりれいだい373ごう)、は1943ねん樺太からふと内地ないち編入へんにゅう昭和しょうわ18ねん法律ほうりつだい85ごう)のさい内地ないちじんになった。
台湾たいわんじん
台湾たいわんじん台湾たいわん在来ざいらい住民じゅうみんである。本島ほんとうじんともいう。1895ねん台湾たいわん割譲かつじょうさい大日本帝国だいにっぽんていこく国民こくみんになった。戸籍こせきほう適用てきようけず、みんせきというせきゆうした。本島ほんとうじんのうち9わりかん民族みんぞく、1わり高砂たかさごぞくである。行政ぎょうせいじょう日本にっぽんこくとの平和へいわ条約じょうやく発効はっこうにより日本にっぽん国籍こくせき喪失そうしつしたものとしてあつかわれたが、判例はんれいじょう日本にっぽんこく中華民国ちゅうかみんこくとのあいだ平和へいわ条約じょうやく発効はっこうにより日本にっぽん国籍こくせき喪失そうしつしたとされている(平和へいわ条約じょうやく国籍こくせき離脱りだつしゃ)。
朝鮮ちょうせんじん
朝鮮ちょうせんじん朝鮮ちょうせん在来ざいらい住民じゅうみんである。1910ねん韓国かんこく併合へいごうさい大日本帝国だいにっぽんていこく国民こくみんになった。戸籍こせきほう適用てきようけず、みんせきというせきゆうした。朝鮮ちょうせんじんのうちきゅう大韓たいかん帝国ていこく皇族こうぞく王公おうこうぞく一部いちぶりょうはん韓国かんこく併合へいごう功績こうせきのあったもの朝鮮ちょうせん貴族きぞくふうじられた。これらの人々ひとびとは1947ねん外国がいこくじん登録とうろくれいにより、外国がいこくじんあつかいの朝鮮ちょうせんせきまれ、1952ねん日本にっぽんこくとの平和へいわ条約じょうやく発効はっこうにより日本にっぽん国籍こくせききゅう大日本帝国だいにっぽんていこくせき)を喪失そうしつした(平和へいわ条約じょうやく国籍こくせき離脱りだつしゃ)。

法令ほうれいとうでは、台湾たいわん戸籍こせきれい(1905ねん)、みんせきほう(1909ねん大韓たいかん帝国ていこく)のち朝鮮ちょうせん戸籍こせきれい(1923ねん)などにもとづく台湾たいわん戸籍こせき朝鮮ちょうせん戸籍こせき所属しょぞくする「帝国ていこく臣民しんみん」であり、内地ないちじんを「戶籍こせきほう適用てきようヲ受クルしゃ」としょうしたのにたいして、内地ないちじん以外いがい日本にっぽん国民こくみん総称そうしょうして「戶籍こせきほう適用てきようヲ受ケザルしゃ」などとった(れい: 兵役へいえきほう23じょうどう52じょう)。なお、公式こうしき文書ぶんしょでも、「内地ないちじん」、「台湾たいわんじん」、「朝鮮ちょうせんじん」などと表記ひょうきされた[30]

国民こくみん以外いがい[編集へんしゅう]

正式せいしき領土りょうどとされなかった統治とうち区域くいき在来ざいらい住民じゅうみんは、日本にっぽん国籍こくせきあたえられず、国民こくみんとしてあつかわれなかった。

国際こくさい連盟れんめいからの委任いにん統治とうち区域くいきであった南洋なんよう群島ぐんとう在来ざいらい住民じゅうみん島民とうみんといった。島民とうみん国籍こくせきがなかった。島民とうみんだい部分ぶぶんカナカぞくであり、チャモロぞくがいた。

租借そしゃくである関東かんとうしゅうまんてつ附属ふぞく在来ざいらい住民じゅうみん当初とうしょ清国きよくにせきのち中華民国ちゅうかみんこくせきて、1932ねんまんしゅうこく建国けんこくされたのちには暫行みんせきほう(1940ねんまんしゅう国籍こくせきじゅんじるもの)[31]導入どうにゅうされた。内国ないこく台湾たいわん朝鮮ちょうせんからの移住いじゅうしゃ内国ないこく戸籍こせき台湾たいわん朝鮮ちょうせんみんせきじゅう登録とうろくされるなどした。租界そかい在来ざいらい住民じゅうみんきよし国籍こくせき中華民国ちゅうかみんこくせきとみなされた。これらのだい部分ぶぶんかん民族みんぞくである。

統治とうち機構きこう[編集へんしゅう]

明治めいじ憲法けんぽう統治とうち機構きこう

日本にっぽんは1890ねん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう以下いか明治めいじ憲法けんぽう施行しこうともない、立憲りっけん君主くんしゅ国家こっか移行いこうした。明治めいじ憲法けんぽうじょう国家こっか元首げんしゅである天皇てんのう統治とうちけん全体ぜんたい掌握しょうあくする建前たてまえであったが(憲法けんぽうだい4じょう)、実質じっしつじょう国家こっかかく機関きかん権限けんげん分掌ぶんしょうしていた。これは「統治とうち構造こうぞう割拠かっきょせい」といわれる[32][33][34]。「明治めいじ憲法けんぽう体制たいせいにおいては、天皇てんのうは、親政しんせいをとらず、内閣ないかくとう輔弼ほひつしたがって名目めいもくてき統括とうかつしゃとして権力けんりょく行使こうしする存在そんざいであった」「かく輔弼ほひつ機関きかん分立ぶんりつてき割拠かっきょてきであったため、その調整ちょうせい事実じじつじょう元老げんろうゆだねられていたが、元老げんろう消滅しょうめつともない、実質じっしつてき統治とうち中心ちゅうしん不在ふざいとなってしまった」[35]戦前せんぜん統治とうち構造こうぞうにおける割拠かっきょせいについてはあらためて言及げんきゅうするまでもなかろう。明治めいじ22ねん内閣ないかく官制かんせい連帯れんたい責任せきにんせい採用さいよう統帥とうすいけん独立どくりつ枢密院すうみついん貴族きぞくいん存在そんざい等々とうとう幾多いくた障壁しょうへき内閣ないかく一体いったいせい確保かくほ阻害そがいしていた」[36]のである。

内閣ないかく宮中きゅうちゅう[編集へんしゅう]

統治とうちけんかんする天皇てんのう権限けんげん国務大臣こくむだいじん輔弼ほひつ補佐ほさ)にもとづいて行使こうしされた(憲法けんぽうだい55じょう)。内閣ないかく国務大臣こくむだいじん組織そしきされ(内閣ないかく官制かんせいだい1じょう)、帝国ていこく憲法けんぽうじょう天皇てんのう大権たいけんとされた権限けんげん原則げんそくとして内閣ないかく決定けっていもとづいておこなわれた。

内閣ないかく総理そうり大臣だいじん国務大臣こくむだいじん首班しゅはんであり、重要じゅうよう決定けってい事項じこう天皇てんのう報告ほうこくし、その了解りょうかいもとづいて行政ぎょうせい統制とうせいした(内閣ないかく官制かんせいだい2じょう)。内閣ないかく総理そうり大臣だいじん選任せんにん方法ほうほうについては、明文めいぶん規定きていはなく、元老げんろう(のち重臣じゅうしん)とばれる有力ゆうりょくしゃたちが内閣ないかく総理そうり大臣だいじんえらんだ。

天皇てんのう実際じっさい役割やくわりは、内閣ないかく決定けっていしたがってこれに形式けいしきてき裁可さいかあたえて国家こっか意思いし確定かくていすることであった。ただし、天皇てんのうたんなる傀儡かいらいではなく、当時とうじのイギリス国王こくおうなど立憲りっけん君主くんしゅ同様どうよう政治せいじじょう決定けってい関与かんよしていた(伊藤いとうゆう)。天皇てんのう側近そっきんには、侍従じじゅうちょう内大臣ないだいじんなどがおり、とく内大臣ないだいじん昭和しょうわ天皇てんのう政治せいじ秘書ひしょとして活動かつどうした。その皇室こうしつ事務じむについては宮内みやうち大臣だいじん輔弼ほひつした。なお、内大臣ないだいじん宮内みやうち大臣だいじん国務大臣こくむだいじんではなく内閣ないかく関与かんよしない。 天皇てんのう帝国ていこく憲法けんぽうさだめるとお立憲りっけん主義しゅぎおもんじ、国政こくせい直接ちょくせつ関与かんよし、自身じしん意志いしのみによってこれを左右さゆうすることをゆるさなかった。

帝国ていこく議会ぎかい枢密院すうみついん[編集へんしゅう]

立法りっぽうけんは、天皇てんのう帝国ていこく議会ぎかい協賛きょうさん同意どうい)にもとづいてった(憲法けんぽうだい5じょう)。帝国ていこく議会ぎかい貴族きぞくいん衆議院しゅうぎいん二院にいんせいであり、貴族きぞくいん皇族こうぞく華族かぞくみことのりにん議員ぎいんもと官僚かんりょうなど)で組織そしきされ、衆議院しゅうぎいん公選こうせんされた議員ぎいんから組織そしきされた(憲法けんぽうだい33じょうだい34じょうだい35じょう)。

帝国ていこく議会ぎかい法律ほうりつ制定せいていについて協賛きょうさん同意どうい)する権限けんげんった(憲法けんぽうだい37じょう)。国民こくみん権利けんり義務ぎむかかわる事項じこう原則げんそくとして法律ほうりつによらなければ(すなわち帝国ていこく議会ぎかい同意どういがなければ)侵害しんがいされなかった(憲法けんぽうだい2しょう)。また、帝国ていこく議会ぎかい毎年まいとし予算よさんたいしても協賛きょうさんけんった(憲法けんぽうだい64じょう)。予算よさん不成立ふせいりつ場合ばあい前年度ぜんねんど予算よさん施行しこうされるが(憲法けんぽうだい71じょう)、前年度ぜんねんど予算よさんでは行政ぎょうせいりたないため、帝国ていこく議会ぎかい予算よさん審議しんぎ内閣ないかく死命しめいせいすることとなり、これにより政党せいとうないかくへのみちひらかれた。ただし、立憲りっけん諸国しょこく比較ひかくすれば、以下いかてん議会ぎかい権限けんげんよわかった。

  • 政府せいふ法律ほうりつさだめのない事項じこうにつき独立どくりつ命令めいれいにより法規ほうきさだめる権限けんげんゆうした(憲法けんぽうだい9じょう)。
  • 国際こくさい条約じょうやく締結ていけつかんして帝国ていこく議会ぎかい協賛きょうさん不要ふようであった(憲法けんぽうだい12じょう)。
  • 教育きょういく関係かんけい規定きていは、国民こくみん権利けんり義務ぎむかかわる事項じこうであっても、法律ほうりつではなくみことのりれいさだめられる慣習かんしゅうがあり、帝国ていこく議会ぎかい協賛きょうさん不要ふようであった。
  • 皇室こうしつ典範てんぱん改正かいせいについては帝国ていこく議会ぎかい協賛きょうさん不要ふようであった(憲法けんぽうだい74じょう)。
  • 憲法けんぽう改正かいせいについては帝国ていこく議会ぎかい発案はつあんけんがなかった(憲法けんぽうだい73じょう)。

もっとも、これらの事項じこうかんしても政府せいふ自由じゆう裁量さいりょうできるものではなく、帝国ていこく議会ぎかいわりに枢密院すうみついん審議しんぎ必要ひつようがあった。枢密院すうみついん天皇てんのう諮詢しじゅん相談そうだん)をけて重要じゅうよう国務こくむ審議しんぎする機関きかんにすぎないが(憲法けんぽうだい56じょう)、これらの事項じこうかんして事実じじつじょう拒否きょひけんゆうした。枢密院すうみついん行政ぎょうせいへの関与かんよきんじられたが(枢密院すうみついん官制かんせいだい8じょう)、しばしば政府せいふ干渉かんしょうした。

裁判所さいばんしょ[編集へんしゅう]

司法しほうけん天皇てんのう委任いにんにより裁判所さいばんしょおこなった(憲法けんぽうだい57じょう)。民事みんじ刑事けいじ裁判さいばんについては、大審院だいしんいん頂点ちょうてんとする通常つうじょう裁判所さいばんしょ裁判さいばんしたが(裁判所さいばんしょ構成こうせいほう)、欧州おうしゅう大陸たいりくがた司法しほう制度せいどならって、行政ぎょうせい訴訟そしょう特別とくべつ行政ぎょうせい裁判所さいばんしょあつかった(憲法けんぽうだい61じょう行政ぎょうせい裁判さいばんほう)。

陸海りくかいぐん[編集へんしゅう]

東郷とうごう平八郎へいはちろう

陸海りくかいぐん統帥とうすい憲法けんぽうだい11じょう)は国務大臣こくむだいじん輔弼ほひつそとかれ、統帥とうすい担当たんとうした(統帥とうすいけん独立どくりつ)。統帥とうすい陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ海軍かいぐん軍令ぐんれい並立へいりつし、戦時せんじ両者りょうしゃかたちだけ統合とうごうして大本営だいほんえいかれた。統帥とうすい内閣ないかくないで天皇てんのう決定けっていもとめる帷幄上奏いあくじょうそうけんという特権とっけんゆうした。陸軍りくぐん大臣だいじん海軍かいぐん大臣だいじんは、国務大臣こくむだいじんであるとともに統帥とうすい機関きかんとしての地位ちいゆうし、やはり帷幄上奏いあくじょうそうけん行使こうししたほか、帷幄上奏いあくじょうそうつうじて統帥とうすいかんするみことのりれい決定けっていもとめ、これに副署ふくしょする権限けんげんゆうした。このみことのりれい総理そうり大臣だいじん副署ふくしょようしなかったが、1907ねん公式こうしきれい制定せいていによってすべてのみことのりれい総理そうり大臣だいじん副署ふくしょ必要ひつようになると、みことのりれいとはべつに「軍令ぐんれい」というほう形式けいしき新設しんせつし(明治めいじ40ねん軍令ぐんれいだい1ごう)、陸海りくかいぐん大臣だいじんのみが副署ふくしょする権限けんげんたもった。

この統帥とうすいけん独立どくりつによって陸海りくかいぐんたいするシビリアンコントロール機能きのうせず、その結果けっか軍部ぐんぶ独走どくそう助長じょちょうし、国内こくない混乱こんらんおよしょ外国がいこくとの軍事ぐんじてき衝突しょうとつをいたずらにひろめる結果けっかとなった[37]

外地がいち統治とうち[編集へんしゅう]

内地ないち以外いがい国土こくど総称そうしょうして外地がいちあるいは植民しょくみん殖民しょくみん)などという。外地がいちには朝鮮ちょうせん総督そうとく台湾たいわん総督そうとく樺太からふとちょう関東かんとうちょう南洋なんようちょうといった官庁かんちょうかれ、統治とうち委任いにんされた。これら外地がいち官庁かんちょう要職ようしょく内地ないちじんめられていた。外地がいち官庁かんちょうさだめる法令ほうれいは、法律ほうりつ相当そうとうする規定きていであっても帝国ていこく議会ぎかい協賛きょうさんようしなかった。外地がいちにも日本にっぽん内地ないちじゅんじた地方ちほう自治じち制度せいど導入どうにゅうされ、朝鮮ちょうせんじん台湾たいわんじん[38]ふくめた外地がいち住民じゅうみんによる地方ちほう議会ぎかい議員ぎいん公選こうせんせいおこなわれていた。

国際こくさい連盟れんめい常任じょうにん理事りじこく[編集へんしゅう]

大日本帝国だいにっぽんていこくは1920ねん1がつ10日とおか発足ほっそくした国際こくさい連盟れんめい常任じょうにん理事りじこくであり、1933ねん3がつ27にち正式せいしきには1935ねん3がつ27にち)に脱退だったいするまでおおきな役割やくわりたしてきた[39]

軍事ぐんじ[編集へんしゅう]

ロシア内戦ないせん占領せんりょう[編集へんしゅう]

ロシア革命かくめい反対はんたいしてこった内戦ないせん日本にっぽん関与かんよし、以下いか地域ちいき占領せんりょうした。

きた樺太からふと
シベリア出兵しゅっぺいとき発生はっせいしたあまみなと事件じけんけ、1920ねん7がつから1925ねん5がつ15にちまでのやく5年間ねんかん日本にっぽんサガレンしゅう派遣はけんぐんによる保障ほしょう占領せんりょうしたにあった。1925ねん大正たいしょう14ねん)1がつ20日はつかにち国交こっこう樹立じゅりつともなって撤退てったい
シベリア
シベリア出兵しゅっぺい占領せんりょうし、傀儡かいらい政権せいけん樹立じゅりつ画策かくさくするものの、国際こくさいてき批判ひはんびて撤収てっしゅう

だい世界せかい大戦たいせんでの占領せんりょう[編集へんしゅう]

1870ねんから1942ねんまでの軍事ぐんじ勢力せいりょく版図はんと(ロシア出兵しゅっぺい南洋なんよう諸島しょとうとうふくまず 概観がいかん勢力せいりょく範囲はんいは1938ねん時点じてんで 1,984,000㎢[40]とする研究けんきゅうがある。

にちちゅう戦争せんそうちゅうの1940ねんにフランスりょうインドシナに進軍しんぐんし、1941ねんにはイギリスやオランダ、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくたいして宣戦せんせん布告ふこく米國べいこく英國えいこくたいスル宣戰せんせん詔書しょうしょ)をおこな太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつ日本にっぽん東亜とうあしん秩序ちつじょをもとにだい東亜とうあ共栄きょうえいけん建設けんせつ目標もくひょうかかげ、これらのくに植民しょくみん本格ほんかくてき進出しんしゅつ占領せんりょう拡大かくだいした。

占領せんりょうでの政権せいけん樹立じゅりつ[編集へんしゅう]

まんしゅう事変じへん進出しんしゅつした中国ちゅうごく大陸たいりくや、だい東亜とうあ戦争せんそうべいえいふつらん植民しょくみんだった地域ちいき次々つぎつぎ占領せんりょうすると、次々つぎつぎ独立どくりつ政権せいけん樹立じゅりつした。しかし連合れんごうこく反撃はんげき日本にっぽん敗戦はいせんにより、独立どくりつ宣言せんげん無効むこうとされたくにおおい。

中国ちゅうごく大陸たいりく
フランスりょうインドシナ
アメリカ自治領じちりょうフィリピン
イギリスりょうビルマ
  • ビルマ国の旗 ビルマこく(1943ねん8がつ1にち - 1945ねん3がつ27にち
イギリスりょうインド

その[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1789ねん寛政かんせい元年がんねん刊行かんこうのヨーロッパ地誌ちし泰西たいせい輿地よち図説ずせつ』(朽木くちきあきらつな)で、オランダ「Keizerdom」の訳語やくごとして「帝國ていこく」がはじめて登場とうじょうした[5]。1810ねん文化ぶんか7ねん刊行かんこうらん辞典じてんわけかぎ』(藤林ふじばやしあつしどう)でも、「帝国ていこく」が訳語やくごとして採用さいようされた[5]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 大日本帝国だいにっぽんていこく(だいにっぽんていこく)の意味いみ - goo国語こくご辞書じしょ”. goo辞書じしょ. 2021ねん12がつ10日とおか閲覧えつらん
  2. ^ ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう
  3. ^ 前野まえのみち 2006, p. 27-28.
  4. ^ 前野まえのみち 2006, p. 28-30.
  5. ^ a b c 長沼ながぬま美香子みかこ 2015, p. 40-42.
  6. ^ a b c 前野まえのみち 2006, p. 44.
  7. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  8. ^ 水野みずの筑後ちくごまもる永井ながいいわすすむゼームス、スチルリング (1854ねん10がつ14にち). “日本にっぽん國大こくだいれつ顛國約定やくじょうにちえい和親わしん条約じょうやく”. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション. 2022ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  9. ^ Sir James Stirling, Mezio-no Chekfu-no Kami, Nagai Evan Ocho (1854ねん10がつ14にち). “Anglo-Japanese Friendship Treaty”. wikisource. 2022ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  10. ^ 日本にっぽん國大こくだいれつ顛國約定やくじょうにちえい和親わしん条約じょうやく”. データベース「世界せかい日本にっぽん. 政策せいさく研究けんきゅう大学院だいがくいん大学だいがく東京大学とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ (1854ねん10がつ14にち). 2022ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  11. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション
  12. ^ 幕末ばくまつ将軍家しょうぐんけぎんしるしつかる 国家こっか元首げんしゅ意思いししめ”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん (2019ねん12月12にち). 2018ねん8がつ20日はつか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん
  13. ^ 水野みずの筑後ちくごまもる永井ながい玄蕃げんばあたま井上いのうえ信濃しなのまもるほり織部おりべただし岩瀬いわせ肥後守ひごのかみ野々山ののやまかねぞうバロン、グロス (1858ねん10がつ9にち). “日本國にっぽんこく佛蘭西ふらんすこく修好しゅうこう通商つうしょう條約じょうやく”. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション. 2022ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  14. ^ 有利ゆうりひろし一郎いちろう (2019ねん1がつ). “にちふつ修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく、その内容ないようとフランスがわ文献ぶんけんから交渉こうしょう経過けいか(8) ~にちふつ外交がいこう通商つうしょう交渉こうしょう草創そうそう”. 財務省ざいむしょう. 2022ねん3がつ18にち閲覧えつらん
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  24. ^ 昭和しょうわ21ねん7がつ23にち提出ていしゅつ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん田中たなかさんがいいちめい提出ていしゅつ憲法けんぽう改正かいせいあんかんする質問しつもん主意しゅいしょたいする答弁とうべんしょ』。
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  26. ^ 旧都きゅうとについてはきゅう皇室こうしつ典範てんぱん(昭和しょうわ22ねん5がつ2にち廃止はいし)だい11じょうでは「卽位そくいれい大嘗祭だいじょうさい京都きょうとニ於テぎょうフ」と規定きていされてんけんうえ配慮はいりょされていた。このてんにつき伊藤いとう博文ひろぶみ皇室こうしつ典範てんぱんかい」は「維新いしんのち明治めいじ元年がんねん8がつ27にち即位そくいれい挙行きょこうせられ臣民しんみんさい祖宗そそうのこてん仰望ぎょうぼうすることをたり13ねんしゃ京都きょうとちゅうまる旧都きゅうと荒廃こうはいを嘆惜したまひ大礼たいれいくだりしゃよろしく此のおいてすへしとのむねありみことのりしてみや闕を修理しゅうりせしめたまへり本条ほんじょう京都きょうとおい即位そくいれい大嘗祭だいじょうさいくだりふことをていむるは大礼たいれいおもんし遺訓いくんつとむまたほんわすれさるのあかりにするなり」と説明せつめいしている。枢密院すうみついん議長ぎちょう伊藤いとうはくちょ帝国ていこく憲法けんぽう皇室こうしつ典範てんぱんかい」(国家こっか学会がっかい刊行かんこう 明治めいじ22.6.1)P.157-158
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  28. ^ 植民しょくみん法制ほうせい形成けいせい-序説じょせつ-」石村いしむらおさむ専修大学せんしゅうだいがく法科ほうか大学院だいがくいん だい6かいひがしアジアほうあきら学会がっかいシンポジウム)[4]
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  31. ^ ただしまんしゅうこくには国籍こくせきほう存在そんざいしなかったため、法的ほうてきな「まんしゅう国民こくみん」は存在そんざいしなかった。まんしゅうこく#国籍こくせきほう存在そんざい参照さんしょうのこと。
  32. ^ この概念がいねん先駆せんくつじ清明きよあきである。だいいち論文ろんぶん統治とうち構造こうぞうにおける割拠かっきょせいもといん」の初出しょしゅつは『国家こっか学会がっかい雑誌ざっし』58かん1ごう昭和しょうわ19ねん)、「新版しんぱん日本にっぽん官僚かんりょう制度せいど研究けんきゅう」1969ねんじょⅲ~ⅳページ。
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 前野まえのみち国号こくごうる「日本にっぽん」の自己じこ意識いしき」『言語げんご文化ぶんか研究けんきゅう叢書そうしょだい5かん名古屋大学なごやだいがく大学院だいがくいん国際こくさい言語げんご文化ぶんか研究けんきゅう、2006ねん3がつ31にち、27-62ぺーじdoi:10.18999/lancrs.5.27ISSN 1347-1600NAID 120000974760 
  • 長沼ながぬま美香子みかこだいえい帝国ていこくという近代きんだい」『言語げんごたいだい14かん言語げんごたい研究けんきゅうかい東京とうきょう、2015ねん3がつ、25-49ぺーじdoi:10.15083/0002004075ISSN 1348-7418全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:00117892 
  • 我国わがくに国号こくごう問題もんだいせきスル資料しりょう外務省がいむしょう記録きろく条約じょうやく調印ちょういん批准ひじゅん実施じっし其他ノ先例せんれい雑件ざっけん外務省がいむしょう条約じょうやくきょくだいいち昭和しょうわ11ねん5がつ アジア歴史れきし資料しりょうセンター所収しょしゅう[7]レファレンスコード「B04013401600」で検索けんさく可能かのう
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]