この
記事 きじ には
複数 ふくすう の問題 もんだい があります。
改善 かいぜん や
ノートページ での
議論 ぎろん にご
協力 きょうりょく ください。
渤海
大震 たいしん 国 こく 渤海
渤海の最大 さいだい 版図 はんと (830年代 ねんだい )
渤海 (ぼっかい、朝鮮 ちょうせん 語 ご :발해 パレ、中国 ちゅうごく 語 ご : 渤海、 満 まん 洲 しゅう 語 ご : ᡦᡠᡥᠠᡳ [要 よう 出典 しゅってん ] 、ロシア語 ご : Бохай 、698年 ねん [9] - 926年 ねん )は、現 げん 中国 ちゅうごく 東北 とうほく 部 ぶ から朝鮮半島 ちょうせんはんとう 北部 ほくぶ 、現 げん ロシア の沿海 えんかい 地方 ちほう にかけて、かつて存在 そんざい した国家 こっか 。靺鞨族 ぞく の大 だい 祚栄 により建国 けんこく され[10] 、周囲 しゅうい との交易 こうえき で栄 さか え、唐 とう からも「海 うみ 東 ひがし の盛 もり 国 こく 」(『新 しん 唐 とう 書 しょ 』)と呼 よ ばれたが、最後 さいご は契 ちぎり 丹 に (遼 りょう )によって滅 ほろ ぼされた。
「渤海 」の名 な は本来 ほんらい 、遼東 りゃおとん 半島 はんとう と山東 さんとう 半島 はんとう の内側 うちがわ にあり黄河 こうが が注 つ ぎ込 こ む湾 わん 状 じょう の海域 かいいき のことである。初代 しょだい 国王 こくおう 大 だい 祚栄 が、この渤海の沿岸 えんがん で現在 げんざい の河北 かほく 省 しょう 南部 なんぶ にあたる渤海郡 ぐん の名目 めいもく 上 じょう の王 おう (渤海郡 ぐん 王 おう )に封 ふう ぜられたことから、本来 ほんらい の渤海からやや離 はな れたこの国 くに の国号 こくごう となった。
渤海と新 しん 羅 ら の領域 りょういき 。
690年 ねん に即位 そくい した則 のり 天武 てんむ 后 きさき が執政 しっせい した時期 じき は羈縻支配 しはい 地域 ちいき に対 たい する収奪 しゅうだつ が激 はげ しくなり、唐 とう によって営州 都 と 督 とく 府 ふ の管轄 かんかつ 下 か にあった松 まつ 漠 ばく 都 と 督 とく 府 ふ (現在 げんざい の遼寧 りょうねい 省 しょう 朝陽 あさひ 市 し )の支配 しはい 地域 ちいき に強制 きょうせい 移住 いじゅう させられていた契 ちぎり 丹 に が暴動 ぼうどう を起 お こした。この混乱 こんらん に乗 じょう じて、粟 あわ 末 まつ 靺鞨人 じん は指導 しどう 者 しゃ 乞乞仲 なか 象 ぞう の指揮 しき の下 した で高句麗 こうくり の残党 ざんとう と共 とも に、松 まつ 漠 ばく 都 と 督 とく 府 ふ の支配 しはい 下 か から脱出 だっしゅつ し、その後 ご 、彼 かれ の息子 むすこ 大 だい 祚栄 の指導 しどう の下 した に高句麗 こうくり の故 こ 地 ち へ進出 しんしゅつ 、東 ひがし 牟山(現在 げんざい の吉林 きつりん 省 しょう 延 のべ 辺 べ 朝鮮 ちょうせん 族 ぞく 自治 じち 州 しゅう 敦 あつし 化 か 市 し )に都城 みやこのじょう を築 きず いて震 ふるえ 国 こく を建 た てた。「震 しん 」という国名 こくめい は『易 えき 経 けい 』にある「帝 みかど は震 ふるえ より出 で ず」から付 つ けたものであり「辰 たつ 」に通 つう じ「東方 とうほう 」(正確 せいかく には東南東 とうなんとう と南東 なんとう の間 あいだ )を意味 いみ することから渤海の支配 しはい 層 そう が中国 ちゅうごく 的 てき 教養 きょうよう を持 も っていたことが窺 うかが える[11] 。この地 ち は後 のち に「旧 きゅう 国 くに 」と呼 よ ばれる。大 だい 祚栄は唐 とう (武周 ぶしゅう )の討伐 とうばつ を凌 しの ぎながら勢力 せいりょく を拡大 かくだい し、唐 とう で712年 ねん に玄 げん 宗 むね 皇帝 こうてい が即位 そくい すると、713年 ねん に唐 とう に入朝 にゅうちょう することにより、崔 ちぇ 忻 が冊 さつ 封 ふう 使 し として派遣 はけん され、大 だい 祚栄が「渤海郡 ぐん 王 おう 」に冊 さつ 封 ふう された。渤海国 こく の名称 めいしょう は漢 かん 代 だい 以来 いらい 河北 かほく 省 しょう の海岸 かいがん 地方 ちほう に置 お かれた渤海郡 ぐん の名称 めいしょう をとって渤海郡 ぐん 王 おう に冊 さつ 封 ふう したことによるが、当時 とうじ もとの渤海郡 ぐん にあたる地方 ちほう は滄州 と呼 よ ばれており、既 すで に渤海郡 ぐん の名 な はない。そのことはかつて高句麗 こうくり が遼東 りゃおとん 郡 ぐん 王 おう に、新 しん 羅 ら が楽 らく 浪 なみ 郡 ぐん 王 おう に、百済 くだら が帯 おび 方 かた 郡 ぐん 王 おう に冊 さつ 封 ふう されていたように、旧名 きゅうめい によって爵号 としたものであり、それによってこれが中国 ちゅうごく の国土 こくど であることを明 あき らかにしようとしたものである[12] 。
2代 だい 大 だい 武芸 ぶげい は仁 じん 安 やす と言 い う独自 どくじ の元号 げんごう を用 もち いて独立 どくりつ 色 しょく を明確 めいかく にし、唐 とう と対立 たいりつ して一時 いちじ 山東 さんとう 半島 はんとう の登 のぼり 州 しゅう (現在 げんざい の山東 さんとう 省 しょう 煙 けむり 台 うてな 市 し 蓬莱 ほうらい 区 く )を占領 せんりょう したこともあった。また唐 とう ・新 しん 羅 ら ・黒水 くろみず 靺鞨 と対抗 たいこう するために日本 にっぽん へ使者 ししゃ を送 おく っている。渤海国 こく の高 こう 斉 ひとし 徳 とく (大使 たいし の高 こう 仁義 じんぎ は到着 とうちゃく 直後 ちょくご に死亡 しぼう )率 ひき いる渤海使節 しせつ が神 かみ 亀 ひさし 4年 ねん (727年 ねん )に到着 とうちゃく して平城京 へいじょうきょう に入 はい り、翌年 よくねん の神 かみ 亀 かめ 5年 ねん に国書 こくしょ と貢物 みつぎもの を聖武天皇 しょうむてんのう に奉呈 ほうてい したことを端緒 たんしょ として、この通交 つうこう は渤海滅亡 めつぼう の延長 えんちょう 4年 ねん (926年 ねん )まで続 つづ いた(渤海使 し ・遣 や 渤海使 し )。軍事 ぐんじ 的 てき な同盟 どうめい の用 よう はなさなかったものの、渤海国 こく の毛皮 けがわ [13] や人参 にんじん 、日本 にっぽん の綾 あや 絹 きぬ などが交易 こうえき された。
大 だい 武芸 ぶげい が没 ぼっ するとその子 こ 大 だい 欽茂 が即位 そくい し大 だい 興 きょう と改元 かいげん した。父 ちち 武 たけ 王 おう の唐 とう との対立 たいりつ した政策 せいさく を改 あらた め文治 ぶんじ 政治 せいじ へと転換 てんかん する。唐 とう へ頻繁 ひんぱん に使節 しせつ を派遣 はけん (渤海時代 じだい を通 つう じて132回 かい )し恭順 きょうじゅん の態度 たいど を示 しめ すと共 とも に、唐 から 文化 ぶんか の流入 りゅうにゅう を積極 せっきょく 的 てき に推進 すいしん し、漢籍 かんせき の流入 りゅうにゅう を図 はか ると同時 どうじ に留学生 りゅうがくせい を以前 いぜん にも増 ま して送 おく り出 だ すようになった。これらの政策 せいさく を評価 ひょうか した唐 とう は大 だい 欽茂に初 はじ めて「渤海国王 こくおう 」と従来 じゅうらい より高 たか い地位 ちい を冊 さつ 封 ふう している。この他 た 旧 きゅう 国 こく (東 ひがし 牟山)から上京 かみぎょう 龍泉 りゅうせん 府 ふ (現在 げんざい の黒竜江 こくりゅうこう 省 しょう 牡丹 ぼたん 江 え 市 し 寧 やすし 安 やす 市 し 渤海鎮)への遷都 せんと を実施 じっし し、五 ご 京 きょう を整備 せいび する等 ひとし の地方 ちほう 行政 ぎょうせい 制度 せいど を整備 せいび するなど唐 とう 制 せい を積極 せっきょく 的 てき に採 と り入 い れるなどし、国力 こくりょく の発展 はってん が見 み られた。
このようにして渤海発展 はってん の基礎 きそ が築 きず かれたが、大 だい 欽茂治世 ちせい 末期 まっき から国勢 こくせい の不振 ふしん が見 み られるようになった。大 だい 欽茂が没 ぼっ すると問題 もんだい は深刻 しんこく 化 か し、その後 ご 王位 おうい 継承 けいしょう に混乱 こんらん が生 しょう じ、族 ぞく 弟 おとうと の大 だい 元義 もとよし が即位 そくい 後 ご 、国人 くにびと により殺害 さつがい される事件 じけん が生 しょう じた。その後 ご は大 だい 欽茂の嫡系の大 だい 華 はな 璵 が即位 そくい するが短命 たんめい に終 お わり、続 つづ いて大 だい 嵩 かさ 璘 が即位 そくい し、混乱 こんらん した渤海国内 こくない を安定 あんてい に向 む かわせる政策 せいさく を採用 さいよう した。大 だい 嵩 かさ 璘は唐 とう への恭順 きょうじゅん と日本 にっぽん との通 つう 好 このみ という外交 がいこう 問題 もんだい に力 ちから を注 そそ ぎ、渤海の安定 あんてい と発展 はってん の方向 ほうこう 性 せい を示 しめ したが、治世 ちせい 十 じゅう 余 よ 年 ねん で没 ぼっ してしまう。大 だい 嵩 かさ 璘没後 ご は大 だい 元 もと 瑜 、大言 たいげん 義 ぎ 、大明 だいめい 忠 ただし と短命 たんめい な王 おう が続 つづ いた。この6代 だい の王 おう の治世 ちせい は合計 ごうけい して二 に 十 じゅう 数 すう 年 ねん でしかなく、文治 ぶんじ 政治 せいじ の平和 へいわ は継続 けいぞく したが、国勢 こくせい の根本 こんぽん 的 てき な改善 かいぜん を見 み ることができなかった。
国勢 こくせい が衰退 すいたい した渤海であるが、大明 だいめい 忠 ちゅう が没 ぼっ し、大 だい 祚栄の弟 おとうと である大野 おおの 勃の4世 せい の孫 まご 大仁 おおひと 秀 しげる が即位 そくい すると中興 ちゅうこう する。大仁 おおひと 秀 しげる が即位 そくい した時代 じだい 、渤海が統治 とうち する各 かく 部族 ぶぞく が独立 どくりつ する傾向 けいこう が高 たか まり、それが渤海政権 せいけん の弱体 じゃくたい 化 か を招来 しょうらい した。唐 とう は安史 やすし の乱 らん 後 ご の混乱 こんらん と地方 ちほう に対 たい する統制 とうせい の弛緩 しかん のなかで周辺 しゅうへん 諸国 しょこく に対 たい する支配 しはい 体制 たいせい も弱体 じゃくたい 化 か していき、黒水 くろみず 都 と 督 とく 府 ふ を9世紀 せいき 初頭 しょとう に解体 かいたい した。大仁 おおひと 秀 しげる はその政治 せいじ 的 てき 空白 くうはく を埋 う めるように、拂 はらい 涅部・虞 おそれ 類 るい 部 ぶ ・鉄 てつ 利部 かがぶ ・越 えつ 喜 き 部 ぶ を攻略 こうりゃく 、東平 とうへい 府 ふ ・定理 ていり 府 ふ ・鉄 てつ 利府 りふ ・懐 ふところ 遠 とお 府 ふ ・安 やす 遠 とお 府 ふ などの府 ふ 州 しゅう を設置 せっち した。また黒水 くろみず 部 ぶ も影響 えいきょう 下 か に入 はい り、黒水 くろみず 部 ぶ が独自 どくじ に唐 とう に入朝 にゅうちょう することはなくなった、その状態 じょうたい は渤海の滅亡 めつぼう 直前 ちょくぜん まで続 つづ き、渤海は「海 うみ 東 ひがし の盛 もり 国 こく 」と称 しょう されるようになった。
その子 こ の大 だい 彝 つね 震 ふるえ の時代 じだい になると、軍事 ぐんじ 拡張 かくちょう 政策 せいさく から文治 ぶんじ 政治 せいじ への転換 てんかん が見 み られた。唐 とう との関係 かんけい を強化 きょうか し、留学生 りゅうがくせい を大量 たいりょう に唐 とう に送 おく り唐 とう からの文物 ぶんぶつ 導入 どうにゅう を図 はか った。渤海の安定 あんてい した政治 せいじ 状況 じょうきょう 、経済 けいざい と文化 ぶんか の発展 はってん は、続 つづ く大 だい 虔 けん 晃 あきら 、大 だい 玄 げん 錫 すず の代 だい まで保持 ほじ されていた。
10世紀 せいき になると渤海の宗主 そうしゅ 国 こく である唐 とう が藩 はん 鎮同士 どうし の抗 こう 争 そう 、宦官 かんがん の専横 せんおう 、朋党 ほうとう の抗争 こうそう により衰退 すいたい し、更 さら に農民 のうみん 反乱 はんらん により崩壊 ほうかい 状態 じょうたい となった。その結果 けっか 中国 ちゅうごく の史書 ししょ から渤海の記録 きろく が見出 みいだ されなくなる。大 だい 玄 げん 錫 すず に続 つづ いて即位 そくい した大 だい 瑋瑎 、それに続 つづ く大 だい 諲譔 の時代 じだい になると権力 けんりょく 抗争 こうそう で渤海の政治 せいじ は不安定 ふあんてい 化 か するようになった。唐 とう が滅 ほろ びた後 のち 、西 にし のシラムレン河 かわ 流域 りゅういき において耶律阿保 あぼ 機 き によって建国 けんこく された契 ちぎり 丹 に 国 こく (のちの遼 りょう )の侵攻 しんこう を受 う け渤海は926年 ねん に滅亡 めつぼう 、契 ちぎり 丹 に は故 こ 地 ち に東 ひがし 丹 に 国 こく を設置 せっち して支配 しはい した。渤海に侵攻 しんこう した契 ちぎり 丹 に の軍 ぐん には、幽 かそけ 州 しゅう などから契 ちぎり 丹 に に流入 りゅうにゅう した人々 ひとびと が加 くわ わっていたとわかっているらしい(「燕 つばめ 雲 くも 地域 ちいき の漢人 かんど と滅亡 めつぼう 以降 いこう の渤海人 じん ―〈陳 ひね 万 まん 墓誌 ぼし 〉〈耶律宗 むね 福 ぶく 墓誌 ぼし 〉〈高 こう 爲 ため 裘墓誌 し 〉など遼 りょう 代 だい 石刻 せっこく をてがかりに」 『渤海の古城 こじょう と国際 こくさい 交流 こうりゅう 』勉 つとむ 誠 まこと 出版 しゅっぱん 2021年 ねん 3月 がつ )。東 ひがし 丹 に 国 こく の設置 せっち と縮小 しゅくしょう に伴 ともな い、数 すう 度 ど にわたって遺 のこ 民 みん が渤海再興 さいこう を試 こころ みるが、契 ちぎり 丹 に (遼 りょう )の支配 しはい 強化 きょうか によってすべて失敗 しっぱい に終 お わり、その都度 つど 多 おお くは遼 りょう の保有 ほゆう する遼 りょう 西 にし や遼東 りゃおとん の各 かく 地域 ちいき へ移住 いじゅう させられ、または残留 ざんりゅう し、一部 いちぶ は高麗 こうらい へ亡命 ぼうめい し、一部 いちぶ は故 こ 地 ち の北方 ほっぽう へ戻 もど った。なお、1990年代 ねんだい 、渤海滅亡 めつぼう を10世紀 せいき の白頭山 はくとうさん の噴火 ふんか と関連 かんれん づけた説 せつ が登場 とうじょう したが、その後 ご 、噴火 ふんか の時期 じき が渤海滅亡 めつぼう 後 ご であることが判明 はんめい し、この説 せつ は消 き えた。この説 せつ がもてはやされた背景 はいけい には、地球 ちきゅう 温暖 おんだん 化 か をはじめとする環境 かんきょう 問題 もんだい への関心 かんしん と、史料 しりょう が少 すく なく突如 とつじょ 滅亡 めつぼう した渤海に人々 ひとびと がロマン を掻 か き立 た てられたことにある[14] 。
渤海における唐 とう の制度 せいど は、契 ちぎり 丹 に が中原 なかはら 化 か していくに際 さい し参考 さんこう にされ、遼 りょう の国 くに 制 せい の特色 とくしょく とされる両面 りょうめん 官 かん 制度 せいど に影響 えいきょう を与 あた えたといわれる。黒水 くろみず 靺鞨(女 おんな 真 しん )が建 た てた金 きむ 王朝 おうちょう (1115年 ねん - 1234年 ねん )において、旧領 きゅうりょう に残 のこ った渤海遺 のこ 民 みん は厚遇 こうぐう され、官職 かんしょく につく者 もの や、王家 おうけ に嫁 とつ ぐ者 もの もいた。金 かね を滅 ほろ ぼした元 もと の代 だい では、華北 かほく の渤海人 じん は「漢人 かんど (元朝 がんちょう )(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 」として支配 しはい を受 う ける。その後 ご 、女 おんな 真 しん は満 まん 洲 しゅう として再 ふたた び台頭 たいとう するが、渤海の名称 めいしょう は東 ひがし アジア史 し から姿 すがた を消 け した。
滅亡 めつぼう と高麗 こうらい への亡命 ぼうめい [ 編集 へんしゅう ]
928年 ねん 、929年 ねん になると、渤海人 じん の高麗 こうらい への来 らい 投 とう が相次 あいつ ぎ、東 ひがし 丹 に 国 こく 西 にし 遷時にあたるため、東 ひがし 丹 に 国 こく 西 にし 遷に抵抗 ていこう する者 もの あるいは圧迫 あっぱく を受 う けた者 もの と推測 すいそく される。その後 ご 、契 ちぎり 丹 に 滅亡 めつぼう まで、継続 けいぞく 的 てき に渤海遺 のこ 民 みん の亡命 ぼうめい 記録 きろく があり、934年 ねん の大光 おおみつ 顕 あきら 亡命 ぼうめい の際 さい に数 すう 万 まん 人 にん 、979年 ねん に数 すう 万 まん 人 にん 、契 ちぎり 丹 に の大 だい 延 のべ 琳反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ 時 じ には契 ちぎり 丹 に 人 じん も含 ふく む500人 にん 以上 いじょう が亡命 ぼうめい しており、最後 さいご の来 らい 投 とう は1116年 ねん 末 まつ から1117年頭 ねんとう にかけて契 ちぎり 丹 に から来 き 投 とう した100人 にん 弱 じゃく である。契 ちぎり 丹 に 滅亡 めつぼう 時 じ に、渤海遺 のこ 民 みん の高 こう 永昌 えいしょう が遼東 りゃおとん の東京 とうきょう に拠 よ って大 だい 渤海 を称 しょう したが、金 きむ に潰 つぶ され、最後 さいご に来 き 投 とう した渤海人 じん はこの余 よ 党 とう とみられる[15] 。
三上 みかみ 次男 つぐお は、渤海滅亡 めつぼう 直前 ちょくぜん に渤海人 じん の高麗 こうらい への亡命 ぼうめい が相次 あいつ いでいることから、渤海宮廷 きゅうてい で内紛 ないふん が勃発 ぼっぱつ していたことを指摘 してき している[15] 。日野 ひの 開 ひらく 三郎 さぶろう は、東 ひがし 丹 に 国 こく の遼東 りゃおとん 移 うつり 治 ち 後 ご 、旧 きゅう 渤海領 りょう に2つの地方 ちほう 政権 せいけん が誕生 たんじょう したと推測 すいそく し、上京 かみぎょう 龍泉 りゅうせん 府 ふ に拠 よ ったのが後 こう 渤海 、西京 にしぎょう 鴨 かも 緑 みどり 府 ふ に拠 よ ったのが大光 おおみつ 顕 あきら 政権 せいけん とした。後 こう 渤海の主権 しゅけん 者 しゃ は大 だい 諲譔 の弟 おとうと 、大光 たいこう 顕 あきら 政権 せいけん は大光 おおみつ 顕 あらわ であるが、後 こう 渤海と大光 たいこう 顕 あきら 政権 せいけん が別個 べっこ の政権 せいけん であるか否 ひ かは決 けっ し難 がた いが、大 だい 諲譔の弟 おとうと と大光 たいこう 顕 あらわ とが宮廷 きゅうてい の内紛 ないふん の対立 たいりつ 者 しゃ である可能 かのう 性 せい はある[16] 。ただし、後 こう 渤海に関 かん する研究 けんきゅう は、異 こと なる時期 じき 、異 こと なる地域 ちいき の史料 しりょう を寄 よ せ集 あつ めて拡大 かくだい 解釈 かいしゃく して想定 そうてい されている。後 こう 渤海のものとされた史料 しりょう は、現在 げんざい では東 ひがし 丹 に 国 こく の史料 しりょう とみなされている。来 らい 投 とう 者 しゃ の職 しょく 官 かん は、文官 ぶんかん は司政 しせい 、礼 れい 部 ぶ 卿 きょう 、工 こう 部 ぶ 卿 きょう であり、武官 ぶかん は左右 さゆう 衛 まもる 将軍 しょうぐん 、左 ひだり 首 くび 衛 まもる 少将 しょうしょう などである。司政 しせい は国 くに の政務 せいむ 執行 しっこう 機関 きかん である政 せい 堂 どう 省 しょう の次官 じかん 、礼 れい 部 ぶ ・工 こう 部 ぶ の二 に 卿 きょう は、政 せい 堂 どう 省 しょう に属 ぞく する6つの最高 さいこう 行政 ぎょうせい 機関 きかん のうちの礼 れい 部 ぶ および工 こう 部 ぶ の長官 ちょうかん であり、左右 さゆう 衛 まもる 将軍 しょうぐん は禁衛 きんえい 守護 しゅご を任官 にんかん された南北 なんぼく 左右 さゆう 衛 まもる の将軍 しょうぐん とみられ、来 らい 投 とう 者 しゃ は、いずれも中央 ちゅうおう 政府 せいふ あるいは禁衛 きんえい の大官 たいかん ・将軍 しょうぐん である。来 らい 投 とう 者 しゃ の姓 せい は、大和 やまと 鈞 ひとし 、大元 おおもと 鈞 ひとし 、大福 だいふく 謨、大 だい 審理 しんり など王族 おうぞく の大 だい 氏 し が多 おお く、来 らい 投 とう 者 しゃ のうち、中央 ちゅうおう 政府 せいふ 高官 こうかん は王族 おうぞく とみられるため、事件 じけん の重大 じゅうだい さを窺 うかが わせ、来 らい 投 とう 者 しゃ に率 ひき いられた民 みん も、500人 にん 、100戸 こ 、1000戸 こ など数 かず は少 すく なくない[18] 。
『遼 りょう 史 し 』巻 まき 七 なな 五 ご 耶律羽 わ 之 の 伝 つて には、遼 りょう が渤海国 こく を滅 ほろぼ したのち、故 こ 地 ち と民 みん を基盤 きばん につくった傀儡 かいらい 国 こく 東 ひがし 丹 に 国 こく の宰相 さいしょう 耶律羽 わ 之 の が、東 ひがし 丹 に 国 こく の民 みん を遼東 りゃおとん に移 うつ すことを説 と いた上書 うわがき の一節 いっせつ があり、その上書 うわがき には、太 ふとし 祖 そ が渤海の内紛 ないふん に乗 じょう じて出兵 しゅっぺい 、戦 たたか わずして勝利 しょうり し、渤海を滅 ほろ ぼしたとする意味 いみ があり、簡略 かんりゃく な一 いち 句 く であるが、渤海政治 せいじ 史 し にとって極 きわ めて重大 じゅうだい であり、これこそ内紛 ないふん の事実 じじつ を裏書 うらがき きし、あるいは内紛 ないふん を具体 ぐたい 的 てき に伝 つた えたものといえる[19] 。近年 きんねん は耶律羽 わ 之 の 墓誌 ぼし が発見 はっけん されている。
渤海昔 むかし 畏 かしこ 南朝 なんちょう 、阻險自衛 じえい 、居 きょ 忽 ゆるがせ 汗 あせ 城 じょう 。今 いま 去 さ 上京 じょうきょう 遼 りょう 邈、既 すんで 不為 ふため 用 よう 、又 また 不 ふ 罷 やめ 戍、果 はて 何 なん 為 ため 哉、先帝 せんてい 因 いん 彼 かれ 離 はなれ 心 しん 、乘 じょう 釁而動 どう 、故 こ 不戰 ふせん 而克。天授 てんじゅ 人 じん 與 あずか 、彼 かれ 一時 いちじ 也。 渤海は
昔 むかし 、
南朝 なんちょう (
中国 ちゅうごく の
王朝 おうちょう )をおそれ、阻険によって
自 みずか ら
衛 まもる り、
忽 ゆるがせ 汗 あせ 城 じょう (いまの
黒竜江 こくりゅうこう 省 しょう 東京 とうきょう 城 じょう )に
居 い る。いま
上京 じょうきょう (
遼 りょう の
首都 しゅと 、すなわち
上京 じょうきょう 臨潢
府 ふ )をさること
遼 りょう 邈にして
既 すで に
用 よう をなさず。…
先帝 せんてい (
遼 りょう の
太 ふとし 祖 そ )
彼 かれ の
離 はなれ 心 しん により、釁に
乗 じょう じて
動 うご く、
故 ゆえ に
戦 たたか わずして
克 か つ。
天 てん 、
人 ひと と
彼 かれ とを
一時 いちじ に授くるなり
[21] 。
— 遼 りょう 史 し 、巻 まき 七 なな 五 ご 中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:遼 りょう 史 し /卷 まき 75
高 こう 麗 うらら は、亡命 ぼうめい 渤海人 じん に対 たい してあまりよい処遇 しょぐう をしておらず、渤海の世子 せいし を称 しょう した大光 おおみつ 顕 あきら に対 たい して、王 おう 継 つぎ という姓名 せいめい を与 あた え、王室 おうしつ 戸籍 こせき に編入 へんにゅう 、都 と に近 ちか い白州 はくしゅう の長官 ちょうかん に任命 にんめい し、祖先 そせん の祭祀 さいし をおこなわせたが、高麗 こうらい は、帰順 きじゅん した豪族 ごうぞく をその地 ち の長官 ちょうかん に任命 にんめい し、支配 しはい を委 ゆだ ねるのが一般 いっぱん 的 てき であったことから、この待遇 たいぐう も亡命 ぼうめい 渤海人 じん を白州 しらす に移住 いじゅう させて、大光 たいこう 顕 あらわ を実質 じっしつ 的 てき な統治 とうち 者 しゃ に任 にん じたとみられるが、新 しん 羅 ら のように王室 おうしつ と婚姻 こんいん を結 むす ぶあるいは官僚 かんりょう として任用 にんよう するなどの実質 じっしつ 的 てき 優遇 ゆうぐう はない[15] 。新 しん 羅 ら の場合 ばあい 、670年 ねん に高句麗 こうくり 王族 おうぞく の安勝 あんがち (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) が来 らい 投 とう すると、これを高句麗 こうくり 王 おう 、ついで報徳 ほうとく 王 おう に冊 さつ 封 ふう 、金 きむ 馬 うま 渚 なぎさ に高句麗 こうくり を復興 ふっこう させて、新来 しんらい 高句麗 こうくり 人 じん の受皿 うけざら にした[22] 。680年 ねん 、新 しん 羅 ら は安勝 あんがち に王 おう 妹 いもうと を娶 めと らせ、高句麗 こうくり 王家 おうけ と新 しん 羅 ら 王家 おうけ の結合 けつごう を図 はか り、683年 ねん には新 しん 羅 ら 王家 おうけ と同 おな じ金 きん 姓 せい を賜 たまわ り、王 おう 都 みやこ 慶州 けいしゅう に居住 きょじゅう させ、安勝 あんがち を新 しん 羅 ら の貴族 きぞく とし、自国 じこく の貴族 きぞく として高句麗 こうくり 王 おう 統 みつる を維持 いじ させている[22] 。
また、亡命 ぼうめい 渤海人 じん を失 しつ 土人 どじん 、遠 とお 人 じん と呼 よ び、異域 いいき の民 みん とみなした史料 しりょう の存在 そんざい も明 あき らかとなっており、高麗 こうらい 時代 じだい の大 だい 氏 し の子孫 しそん は、文官 ぶんかん より劣 おと る武官 ぶかん ・胥吏 としてのみしか記録 きろく に登場 とうじょう しない[15] 。また、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 南部 なんぶ に移住 いじゅう させられた亡命 ぼうめい 渤海人 じん の居住 きょじゅう 地 ち は部 ぶ 曲 きょく あるいは所 ところ であり、部 ぶ 曲 きょく あるいは所 ところ とは、郡 こおり 県 けん に隷属 れいぞく し、特定 とくてい の役 やく を課 か された行政 ぎょうせい 区画 くかく であり、その住民 じゅうみん の身分 みぶん は一般 いっぱん 良人 りょうじん より低 ひく い[15] 。
高麗 こうらい 亡命 ぼうめい 後 ご の大 だい 氏 し の動向 どうこう が最初 さいしょ に記録 きろく に登場 とうじょう するのは、10世紀 せいき 末 まつ から11世紀 せいき 初 はつ の三 さん 次 じ にわたる契 ちぎり 丹 に の高麗 こうらい 侵攻 しんこう であるが、『高麗 こうらい 史 し 』によると、第 だい 一 いち 次 じ 高麗 こうらい 契 ちぎり 丹 に 戦争 せんそう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) において、大道 おおみち 秀 しげる が契 ちぎり 丹 に 軍 ぐん を安 やす 戒鎮で阻止 そし するのに活躍 かつやく 、第 だい 二 に 次 じ 高麗 こうらい 契 ちぎり 丹 に 戦争 せんそう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) では、西京 にしぎょう の防衛 ぼうえい に従事 じゅうじ したが、保身 ほしん をはかる同僚 どうりょう に欺 あざむ かれて、契 ちぎり 丹 に に降伏 ごうぶく している。また、第 だい 二 に 次 じ 高麗 こうらい 契 ちぎり 丹 に 戦争 せんそう では、大 だい 懐 ふところ 徳 とく が郭 かく 州 しゅう の攻防 こうぼう 戦 せん において戦死 せんし しているが、大道 おおみち 秀 しげる は『遼 りょう 史 し 』に「高麗 こうらい 礼 れい 部 ぶ 郎 ろう 中 ちゅう 渤海陀失」とあるため、明 あき らかに渤海系 けい であるが、大 だい 懐 ふところ 徳 とく も同様 どうよう とみられる。大道 おおみち 秀 しげる の肩書 かたがき は、『遼 りょう 史 し 』に「礼 れい 部 ぶ 郎 ろう 中 ちゅう 」という文官 ぶんかん として登場 とうじょう するが、高麗 こうらい の記録 きろく が伝 つた える中 なか 郎 ろう 将 はた 、そして将軍 しょうぐん という武官 ぶかん を採 と るべきであり、最初 さいしょ から武官 ぶかん を本来 ほんらい の肩書 かたがき として帯 お びた武臣 ぶしん とみられ、大 だい 懐 ふところ 徳 とく も同様 どうよう であり、高麗 こうらい 初期 しょき の大 だい 氏 し は武臣 ぶしん の地位 ちい であると判断 はんだん される。
高麗 こうらい 中期 ちゅうき になると、1181年 ねん に慶大 けいだい 升 ます に対 たい する反乱 はんらん 計画 けいかく の密告 みっこく 者 しゃ として、令 れい 史 し 同 どう 正 せい 大 だい 公器 こうき なる人物 じんぶつ が記録 きろく に登場 とうじょう するが、大公 たいこう 器 き の肩書 かたがき は、中央 ちゅうおう 官 かん 司 し の胥吏 の散 ち 職 しょく であり、両 りょう 班 はん の一翼 いちよく をなす武臣 ぶしん より一段 いちだん 低 ひく い政治 せいじ 、社会 しゃかい 経済 けいざい 的 てき 境遇 きょうぐう にあることが確認 かくにん できる。
1218年 ねん に大 だい 集成 しゅうせい なる人物 じんぶつ が記録 きろく に登場 とうじょう する。崔 ちぇ 忠 ただし 献 けんじ は、武臣 ぶしん 政権 せいけん の安定 あんてい 策 さく として、武臣 ぶしん の歓心 かんしん を買 か うため、大 だい 集成 しゅうせい などを借 か 将軍 しょうぐん (散 ち 職 しょく の将軍 しょうぐん )に昇進 しょうしん させており、高麗 こうらい 中期 ちゅうき においても、大 まさる 氏 し は武臣 ぶしん の地位 ちい であることがわかる。その後 ご 、大 だい 集成 しゅうせい は、武臣 ぶしん 政権 せいけん の執権 しっけん 者 しゃ 崔 ちぇ 瑀 との結 むす びつきから権勢 けんせい を伸 の ばし、1232年 ねん に大 だい 集成 しゅうせい の娘 むすめ が崔 ちぇ 瑀の後妻 ごさい に迎 むか えられ、外戚 がいせき の地位 ちい につき、モンゴルの高麗 こうらい 侵攻 しんこう の回避 かいひ と崔 ちぇ 瑀の政権 せいけん 維持 いじ に役割 やくわり を果 は たした。15世紀 せいき 成立 せいりつ の『世 よ 宗 むね 実録 じつろく 地理 ちり 志 こころざし 』の黄海 こうかい 道 どう 条 じょう によると、牛 うし 峯 みね 県 けん には亡 ほろび 姓 せい (高麗 こうらい 時代 じだい にはその地 ち に土着 どちゃく していたが、李 り 朝 ちょう 初 はじ めまでに他所 よそ に移動 いどう し、存在 そんざい しなくなった姓氏 せいし )として崔 ちぇ 氏 し および大 だい 氏 し がみえ、高麗 こうらい 時代 じだい には、崔 ちぇ 氏 し および大 だい 氏 し も牛 うし 峯 みね 県 けん におり、大 だい 集成 しゅうせい の本来 ほんらい の出身 しゅっしん 地 ち は牛 うし 峯 みね 県 けん とみられ、大 だい 集成 しゅうせい の栄達 えいたつ の背景 はいけい には、崔 ちぇ 忠 ただし 献 けんじ と同郷 どうきょう という要素 ようそ が推測 すいそく され、崔 ちぇ 瑀の威勢 いせい に依 よ 付 ふ したものとみられる。崔 ちぇ 瑀の後継 こうけい 者 しゃ である崔 ちぇ 沆 は、政権 せいけん 掌握 しょうあく 過程 かてい における金 きむ 敉 との対立 たいりつ に際 さい し、継母 けいぼ 大 だい 氏 し (大 だい 集成 しゅうせい の娘 むすめ )が金 きむ 敉を支援 しえん したことを怨 うら み、1250年 ねん と1251年 ねん に、継母 けいぼ 大 だい 氏 し (大 だい 集成 しゅうせい の娘 むすめ )および族 ぞく 党 とう に大 だい 弾圧 だんあつ を加 くわ え、大 だい 集成 しゅうせい の族 ぞく 党 とう を全羅道 ぜんらどう へと配流 はいる させた。
武臣 ぶしん 政権 せいけん の末期 まっき には、モンゴルの高麗 こうらい 侵攻 しんこう と関連 かんれん し、大金 おおかね 就 が登場 とうじょう する。1253年 ねん 、大金 おおかね 就は校 こう 尉 じょう の肩書 かたがき で、牛 うし 峯 みね 別 べつ 抄 しょう 30余人 よにん を率 ひき い、金 きむ 郊・興 きょう 義 よし 両 りょう 駅 えき 間 あいだ においてモンゴル帝国 ていこく 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) と交戦 こうせん 、6年 ねん 後 ご には開城 かいじょう に侵攻 しんこう したモンゴル帝国 ていこく 軍 ぐん を撃退 げきたい している。この事例 じれい から、大金 おおかね 就もまた武臣 ぶしん の地位 ちい (しかも比較的 ひかくてき 低 ひく い)であることがわかり、大金 おおかね 就の率 ひき いた牛 うし 峯 みね 別 べつ 抄 しょう は、牛 うし 峯 みね 県 けん で組織 そしき された編成 へんせい 軍 ぐん であり、牛 うし 峯 みね 県 けん 所在 しょざい の大 だい 氏 し の一員 いちいん として、大金 おおかね 就が指導 しどう にあたったと推測 すいそく される。
李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 初期 しょき に編纂 へんさん が進 すす められた『新 しん 増 ぞう 東国 とうごく 輿地 よち 勝 しょう 覧 らん 』巻 まき 三 さん 二慶尚道金海都護府姓氏条に、慶 けい 尚 なお 道金 どうきん 海 かい 都 みやこ 護 まもる 府 ふ 所属 しょぞく の部 ぶ 曲 きょく の姓氏 せいし として、田 た 氏 し および大 だい 氏 し が記 しる され、『新 しん 増 ぞう 東国 とうごく 輿地 よち 勝 しょう 覧 らん 』巻 まき 二 に 四慶尚道醴泉郡姓氏条には、李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 初期 しょき までに他所 よそ から移住 いじゅう した者 もの とみられる大 だい 氏 し が、所在地 しょざいち 名 めい 「亏尒谷 だに 」(朝鮮 ちょうせん 語 ご : 우니곡 )を付 ふ して記 しる されており[28] 、「亏尒谷 だに 」(朝鮮 ちょうせん 語 ご : 우니곡 )は、大 まさる 氏 し の移住 いじゅう 前 まえ の本来 ほんらい の居住 きょじゅう 地 ち を意味 いみ し、醴泉郡 ぐん に隣接 りんせつ する尚 なお 州 しゅう 所属 しょぞく の亏尒谷所 たにどころ に該当 がいとう する。李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん 後期 こうき に編纂 へんさん された大 だい 集成 しゅうせい の後裔 こうえい とされる大 だい 氏 し の『永 えい 順大 じゅんだい 氏 し 族 ぞく 譜 ふ 』は、慶 けい 尚道 なおみち 尚 なお 州 しゅう 永 えい 順 じゅん 面 めん (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) を本 ほん 貫 ぬき としているが、永 えい 順 じゅん 面 めん は、『高麗 こうらい 史 し 』巻 まき 五七地理志二慶尚道尚州牧条に「諺 ことわざ 伝 でん 、州 しゅう 北面 ほくめん 林下 りんか 村人 むらびと 姓 せい 太 たい 者 しゃ 、捕 と 賊 ぞく 有功 ゆうこう 、陞其村 むら 、為永 ためなが 順 じゅん 県 けん 」とあり、それを、『増補 ぞうほ 文献 ぶんけん 備考 びこう (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) 』巻 まき 五 ご 二 に 帝 みかど 系 けい 考 こう ・付 づけ 氏族 しぞく ・太 ふとし 氏 し 条 じょう の永 えい 順大 じゅんだい 氏 し の部分 ぶぶん では、「高麗 こうらい 時 じ 、永 えい 順 じゅん 部 ぶ 曲 きょく 民 みん 、有 ゆう 太 ふとし 姓 せい 者 しゃ 、捕 と 賊 ぞく 有功 ゆうこう 、陞部曲 きょく 為 ため 県 けん 」としており、林下 りんか 村 むら も部 ぶ 曲 きょく と推測 すいそく され、高麗 こうらい 時代 じだい の部 ぶ 曲 きょく あるいは所 ところ は、地方 ちほう 行政 ぎょうせい 制度 せいど の一環 いっかん をなす行政 ぎょうせい 区画 くかく であるが、郡 こおり 県 けん の下 した に隷属 れいぞく 、住民 じゅうみん 全体 ぜんたい が国家 こっか の課 か した特定 とくてい の役 やく を世襲 せしゅう 的 てき ・集団 しゅうだん 的 てき に義務 ぎむ づけられた政治 せいじ 的 てき 、社会 しゃかい 経済 けいざい 的 てき に郡 こおり 県 けん とその住民 じゅうみん より低 ひく い境遇 きょうぐう におかれ、金 きむ 、銀 ぎん 、銅 どう 、鉄 てつ 、磁器 じき 、瓦 かわら 、炭 すみ ・墨 すみ 、紙 かみ 、紬 つむぎ 、絹 きぬ 、茶 ちゃ 、ショウガ 、ワカメ 、塩 しお 、魚類 ぎょるい などの物品 ぶっぴん の生産 せいさん ・貢 みつぎ 納 おさめ が義務 ぎむ づけられていた。
北村 きたむら 秀人 ひでと は、10世紀 せいき 初 はつ の高麗 こうらい が進 すす めた渤海遺 のこ 民 みん の受容 じゅよう を、渤海を朝鮮 ちょうせん の歴史 れきし の一環 いっかん として位置 いち づける立場 たちば から、渤海の併合 へいごう ・吸収 きゅうしゅう による、朝鮮 ちょうせん 史上 しじょう 最初 さいしょ の本格 ほんかく 的 てき 統一 とういつ だとする見解 けんかい が、主 おも に北朝鮮 きたちょうせん 学界 がっかい で主張 しゅちょう されているが、そうした見解 けんかい は十分 じゅうぶん な裏付 うらづ けがない、と評 ひょう しており、「記録 きろく に現 あら われる当時 とうじ の大 だい 氏 し の実例 じつれい をみると、いずれの時期 じき の亡命 ぼうめい 者 しゃ の場合 ばあい も、高麗 こうらい での政治 せいじ 的 てき 、社会 しゃかい 経済 けいざい 的 てき な地位 ちい ・境遇 きょうぐう は、どちらかというと、低 ひく く劣 おと ったものであったことが窺 うかが える。こうしてみると、高麗 こうらい の歴史 れきし 展開 てんかい における渤海系 けい 民 みん の比重 ひじゅう や意義 いぎ などの評価 ひょうか に関 かん しても慎重 しんちょう さが求 もと められることになろう」と述 の べている。
金 きむ 毓黻 は、「渤海」は「靺鞨」の近 きん 変 へん 音 おん であると指摘 してき している[32] 。また、武則 たけのり 天 てん が乞乞仲 なか 象 ぞう を「震 ふるえ 国 こく 公 おおやけ 」に、乞四比 ひ 羽 わ を「許 もと 国 こく 公 おおやけ 」に冊 さつ 封 ふう した称号 しょうごう とを合 あ わせて考 かんが えるべきという指摘 してき があり、音韻 おんいん 学 がく 的 まと には「許 もと 」「震 しん 」が「靺鞨」の別称 べっしょう である「粛慎 」の諧音 (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 、すなわち、許 もと 震 ふるえ =粛慎の同音 どうおん 異義 いぎ 語 ご である可能 かのう 性 せい が指摘 してき されている[33] 。
支配 しはい 原理 げんり ・支配 しはい 機構 きこう [ 編集 へんしゅう ]
中国 ちゅうごく 史料 しりょう から、渤海には唐 とう 制 せい の三省 みつよし 六 ろく 部 ぶ に相当 そうとう する政 せい 堂 どう ・宣 せん 詔 みことのり ・中台 ちゅうたい 三 さん 省 しょう と忠 ただし ・仁 ひとし ・義 よし ・智 さとし ・礼 れい ・信 しん の六 ろく 部 ぶ 、御 ご 史 し 台 だい にあたる中正 ちゅうせい 台 だい 、国子 くにこ 監 かん にあたる冑 かぶと 子 こ 監 かん 、九 きゅう 寺 てら にあたる七 なな 寺 てら (宗 そう 属 ぞく 寺 てら ・太 ふとし 常 つね 寺 てら ・司 つかさ 賓 まろうど 寺 てら ・大農 だいのう 寺 てら ・司 つかさ 蔵 ぞう 寺 てら ・司 つかさ 膳 ぜん 寺 てら ・殿中 でんちゅう 寺 てら )などの中央 ちゅうおう 政治 せいじ 機関 きかん があり、唐 とう の十 じゅう 六 ろく 衛 まもる (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) に相当 そうとう する十 じゅう 衛 まもる という中央 ちゅうおう の軍事 ぐんじ 組織 そしき があり、さらには京 きょう ・府 ふ ・州 しゅう ・県 けん という地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区分 くぶん まであったことが判明 はんめい している[34] 。さらにこれらの国家 こっか 機構 きこう を支 ささ える官僚 かんりょう には、唐 とう にならって、一 いち 秩から八 はち 秩までの官 かん 品 ひん が与 あた えられており、渤海は、その政治 せいじ 組織 そしき ・支配 しはい 機構 きこう の上 うえ では唐 とう に酷似 こくじ しており、そうした膨大 ぼうだい な組織 そしき を有機 ゆうき 的 てき に結 むす びつける政治 せいじ 原理 げんり もまた、唐 とう の均 ひとし 田制 たせい ・府 ふ 兵制 へいせい ・租庸調 そようちょう 制 せい を基礎 きそ とする中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 的 てき 律令 りつりょう 体制 たいせい を模倣 もほう したものと推測 すいそく される[34] 。実際 じっさい 、「渤海、使 つかい を遣 つか わし、唐 から 礼 れい 及 およ び三国志 さんごくし ・晋 すすむ 書 しょ ・三 さん 十 じゅう 六 ろく 国 こく 春秋 しゅんじゅう を写 うつ さんことを求 もと む。これを許 ゆる す」(『唐 とう 会 かい 要 よう 』巻 まき 三 さん 十 じゅう 六 ろく )、「初 はじ め其 そ の王 おう 、しばしば諸王 しょおう を遣 つか わし、京師 けいし の太 ふとし 学 がく に詣 まい り、古今 ここん の制度 せいど を習識せしむ」(『新 しん 唐 とう 書 しょ 』巻 まき 二 に 百 ひゃく 十 じゅう 九 きゅう ・渤海伝 でん )などの史料 しりょう の事実 じじつ から、渤海が唐 とう の律令 りつりょう を採用 さいよう していたことはほぼ確実 かくじつ である[34] 。また、「その王 おう はもと大 だい をもって姓 せい と為 な す。右 みぎ 姓 せい は高 こう ・張 ちょう ・楊・賓 まろうど ・烏 がらす ・李 り と曰 のたま い、数 すう 種 しゅ に過 す ぎず。部 ぶ 曲 きょく ・奴婢 ぬひ の姓 せい なき者 しゃ は皆 みな その主 おも に従 したが う」(『契 ちぎり 丹 に 国 こく 志 こころざし 』巻 まき 二 に 十 じゅう 六 ろく ・渤海伝 でん )、「代 だい 以大氏 し 為 ため 酋長 しゅうちょう 」(『五 ご 代 だい 会 かい 要 よう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 』巻 まき 三 さん 十 じゅう ・渤海伝 でん )、「俗 ぞく に王 おう を謂 ゆ いて可 か 毒 どく 夫 おっと と曰 のたま う…その命 いのち を教 きょう と為 な す」(『新 しん 唐 とう 書 しょ 』巻 まき 二 に 百 ひゃく 十 じゅう 九 きゅう ・渤海伝 でん )などの史料 しりょう 、諸 しょ 書 しょ に散見 さんけん する都 みやこ 督 ただし ・節度 せつど 使 し ・刺史 しし ・県 けん 丞 すすむ などの官 かん 名 めい もまた、渤海が王族 おうぞく と少数 しょうすう の有力 ゆうりょく 氏族 しぞく 出身 しゅっしん の官僚 かんりょう 貴族 きぞく によって支配 しはい されていた律令 りつりょう 体制 たいせい 的 てき 国家 こっか であったことを裏付 うらづ ける[34] 。
橋本 はしもと 増吉 ますきち は、「官制 かんせい では唐 とう の尚書 しょうしょ 省 しょう に当 あた るものを政 せい 堂 どう 省 しょう 、門下 もんか 省 しょう に当 あた るを宣 せん 詔 みことのり 省 しょう 、中書 ちゅうしょ 省 しょう に当 あた るを中台 ちゅうたい 省 しょう となし、六 ろく 都 と に相当 そうとう するものには左 ひだり 司政 しせい の下 した の忠 ちゅう 仁義 じんぎ の三 さん 部 ぶ と、右 みぎ 司政 しせい の下 した の智 さとし 禮 れい 信 しん の三 さん 部 ぶ とがあり、唐 とう の御 ご 史 し 台 だい の代 かわ りに中正 ちゅうせい 台 だい 、殿中 でんちゅう 省 しょう の代 かわ りに殿中 でんちゅう 寺 てら 、宗 そう 正 ただし 寺 てら の代 かわ りに宗 むね 属 ぞく 寺 てら というのをおき、その他 た 武官 ぶかん の左右 さゆう 猛 もう 賁、熊 くま 衛 まもる 、羆 ひぐま 衛 まもる 、南北 なんぼく 左右 さゆう 衛 まもる の各 かく 大将軍 だいしょうぐん 、将軍 しょうぐん など一々 いちいち 唐 とう 制 せい に模 も したものである。尚 なお 日本 にっぽん に来 き た渤海使者 ししゃ の官 かん 命 いのち には唐 とう 書 しょ に漏 も れたものもあるが、是 ぜ 等 とう を総合 そうごう して考 かんがえ うるに、彼等 かれら が唐 とう 制 せい に模倣 もほう した程度 ていど は、この頃 ころ の日本 にっぽん の大寶 たいほう 令 れい などより遥 はるか に進 すす んで、殆 ほとん ど全 まった く自己 じこ の創意 そうい とか、自国 じこく の特色 とくしょく とかを忘却 ぼうきゃく していたのである。これは前 まえ にも述 の べた通 とお り固有 こゆう のものをもっていなかった為 ため である」と指摘 してき している。
中央 ちゅうおう 統治 とうち 機構 きこう [ 編集 へんしゅう ]
地方 ちほう 統治 とうち 機構 きこう に関 かん しては唐 とう の制度 せいど を模倣 もほう しており、『新 しん 唐 とう 書 しょ 』の記載 きさい によれば三省 みつよし ・六 ろく 部 ぶ ・一 いち 台 だい ・一院 いちいん ・一 いち 監 かん ・一 いち 局 きょく の行政 ぎょうせい 機構 きこう が存在 そんざい しており、名称 めいしょう こそ異 こと なるが、唐 とう の三省 みつよし を模倣 もほう した行政 ぎょうせい 機構 きこう が設置 せっち されていた[注釈 ちゅうしゃく 1] 。しかし唐 とう の制度 せいど をそのまま移植 いしょく したのではなく、渤海の現状 げんじょう に基 もと づき、機構 きこう を簡略 かんりゃく 化 か し、唐 とう の二 に 十 じゅう 四 よん 司 つかさ を十 じゅう 二 に 司 し に圧縮 あっしゅく して編成 へんせい しているのも特徴 とくちょう である。
宣 せん 詔 みことのり 省 しょう
唐 とう の門下 もんか 省 しょう に相当 そうとう し、中台 ちゅうたい 省 しょう が提出 ていしゅつ した政令 せいれい を審議 しんぎ した。長官 ちょうかん は左 ひだり 相 しょう であり、品 しな 秩は正 せい 二 に 品 ひん である。その下 した に左 ひだり 平 たいら 章 あきら 政事 せいじ が置 お かれ、属官 ぞっかん として侍 さむらい 中 ちゅう がいた。
中台 ちゅうたい 省 しょう
唐 とう の中書 ちゅうしょ 省 しょう に相当 そうとう し、政令 せいれい の草案 そうあん 起草 きそう と修訂 しゅうてい を担当 たんとう した。長官 ちょうかん は右 みぎ 相 しょう であり、品 しな 秩は正 せい 二 に 品 ひん である。その下 した に右 みぎ 平 たいら 章 あきら 政事 せいじ が置 お かれ、属官 ぞっかん として内 うち 史 し がいた。
政 せい 堂 どう 省 しょう
唐 とう の尚書 しょうしょ 省 しょう に相当 そうとう し、政令 せいれい の執行 しっこう を担当 たんとう する行政 ぎょうせい 機関 きかん の頂点 ちょうてん に位置 いち していた。長官 ちょうかん は大 だい 内相 ないしょう であり、品 しな 秩は正 せい 二 に 品 ひん の上位 じょうい であった。助手 じょしゅ として左右 さゆう の司政 しせい が置 お かれ、左右 さゆう 平 たいら 章 あきら 事 ごと の下 した に位置 いち していた。属官 ぞっかん には左右 さゆう のニ允 まこと がいた。下部 かぶ に六 ろく 部 ぶ を設置 せっち し統括 とうかつ していた。
忠 ちゅう 部 ぶ
唐 とう の吏部 に相当 そうとう し、文官 ぶんかん の採用 さいよう ・考課 こうか ・勲 くん 封 ふう を職責 しょくせき としていた。
仁部 にぶ
唐 とう の戸部 とべ に相当 そうとう し、土地 とち ・銭 ぜに 穀 こく を職責 しょくせき としていた。
義 ぎ 部 ぶ
唐 とう の礼 れい 部 ぶ に相当 そうとう し、儀礼 ぎれい ・祭祀 さいし ・貢 みつぎ 挙 きょ を職責 しょくせき としていた。
礼 れい 部 ぶ
唐 とう の刑部 おさかべ に相当 そうとう し、最高 さいこう 司法 しほう 機関 きかん を職責 しょくせき としていた。
智 さとし 部 ぶ
唐 とう の兵部 ひょうぶ に相当 そうとう し、武官 ぶかん 人事 じんじ ・地図 ちず 作成 さくせい ・車馬 しゃば 武器 ぶき の管理 かんり を職責 しょくせき としていた。
信 しん 部 ぶ
唐 とう の工 こう 部 ぶ に相当 そうとう し、交通 こうつう ・水利 すいり ・建築 けんちく 及 およ び技術 ぎじゅつ 者 しゃ の管理 かんり を職責 しょくせき としていた。
中正 ちゅうせい 台 だい
唐 とう の御 ご 史 し 台 だい に相当 そうとう し、最高 さいこう 監察 かんさつ 機構 きこう であった。長官 ちょうかん を大中 おおなか 正 ただし と称 しょう し、唐 とう の御 ご 史 し 大夫 たいふ に相当 そうとう している。
殿中 でんちゅう 寺 てら
唐 とう の殿中 でんちゅう 省 しょう に相当 そうとう し、王室 おうしつ の衣食住 いしょくじゅう や行幸 ぎょうこう などの生活 せいかつ 諸般 しょはん の管理 かんり を担当 たんとう した。長官 ちょうかん を大 だい 令 れい と称 しょう し、唐 とう の殿中 でんちゅう 監 かん に相当 そうとう する従 したがえ 三 さん 品 ひん であった。
宗 そう 属 ぞく 寺 てら
唐 とう の宗 そう 正 ただし 寺 てら に相当 そうとう し、王族 おうぞく の宗 むね 親族 しんぞく 籍 せき を初 はじ めとする事務 じむ 管理 かんり を担当 たんとう した。長官 ちょうかん を大 だい 令 れい と称 しょう し、唐 とう の宗 そう 正 ただし 卿 きょう に相当 そうとう する従 したがえ 三 さん 品 ひん であった。
文 ぶん 籍 せき 院 いん
唐 とう の秘書 ひしょ 省 しょう に相当 そうとう し、経籍 けいせき ・図書 としょ の管理 かんり を担当 たんとう した。長官 ちょうかん を文 ぶん 籍 せき 院 いん 監 かん と称 しょう し、唐 とう の秘書 ひしょ 督 とく に相当 そうとう する従 したがえ 三 さん 品 ひん であった。日本 にっぽん に派遣 はけん された19次 じ 遣 や 日 ひ 大使 たいし の李 り 承 うけたまわ 英 えい の官 かん 名 めい が「文 ぶん 籍 せき 院 いん 述作 じゅっさく 郎 ろう 」とあり、唐 とう の述作 じゅっさく 局 きょく に相当 そうとう する「述作 じゅっさく 局 きょく 」或 ある いは「述作 じゅっさく 署 しょ 」が設置 せっち されていたことが窺 うかが える。
太 ふと 常 つね 寺 てら
唐 とう でも同名 どうめい の太 ふと 常 つね 寺 てら が存在 そんざい している。礼楽 れいがく ・郊廟・社稷 しゃしょく の管理 かんり を担当 たんとう した。長官 ちょうかん は太 ふと 常 つね 卿 きょう と称 しょう され、正 せい 三 さん 品 ひん であった。
司 つかさ 賓 まろうど 寺 てら
唐 とう の鴻 おおとり 臚寺 に相当 そうとう し、外交 がいこう と周辺 しゅうへん の少数 しょうすう 民族 みんぞく 関連 かんれん 業務 ぎょうむ を担当 たんとう した。長官 ちょうかん は司 つかさ 賓 まろうど 卿 きょう と称 しょう され、唐 とう の鴻 おおとり 臚卿に相当 そうとう する従 したがえ 三 さん 品 ひん であった。
大農 だいのう 寺 てら
唐 とう の司 つかさ 農 みのり 寺 てら に相当 そうとう し、農業 のうぎょう 及 およ び営田、穀倉 こくそう の事務 じむ ・管理 かんり を担当 たんとう した。長官 ちょうかん は大農 だいのう 卿 きょう と称 しょう され、唐 とう の司 つかさ 農 みのり 卿 きょう に相当 そうとう する従 したがえ 三 さん 品 ひん であった。
司 つかさ 蔵 ぞう 寺 てら
唐 とう の太 たい 府 ふ 寺 てら に相当 そうとう し、財務 ざいむ 、貿易 ぼうえき の事務 じむ ・管理 かんり を担当 たんとう した。長官 ちょうかん は司 つかさ 蔵 ぞう 令 れい と称 しょう され、唐 とう の太 たい 府 ふ 寺 てら 卿 きょう に相当 そうとう する従 したがえ 三 さん 品 ひん であった。
司 つかさ 膳 ぜん 寺 てら
唐 とう の光 ひかり 禄 ろく 寺 てら に相当 そうとう し、王 おう 廷の酒食 しゅしょく の担当 たんとう した。長官 ちょうかん は司 つかさ 膳 ぜん 令 れい と称 しょう され、唐 とう の光 ひかり 禄 ろく 卿 きょう に相当 そうとう する従 したがえ 三 さん 品 ひん であった。
冑 かぶと 子 こ 監 かん
唐 とう の国子 くにこ 監 かん に相当 そうとう し、渤海国内 こくない の教育 きょういく を担当 たんとう した。長官 ちょうかん は冑 かぶと 子 こ 監 かん 長 ちょう と称 しょう され、唐 とう の祭 まつり 酒 しゅ に相当 そうとう した。
地方 ちほう 統治 とうち 機構 きこう [ 編集 へんしゅう ]
渤海の行政 ぎょうせい 区分 くぶん
全国 ぜんこく は5京 きょう (首都 しゅと )15府 ふ 62州 しゅう の行政 ぎょうせい 区分 くぶん に分 わ けられ、京 きょう の下 した に府 ふ 、府 ふ の下 した に州 しゅう が置 お かれた。
上京 かみぎょう 龍泉 りゅうせん 府 ふ (現在 げんざい の中国 ちゅうごく 黒竜江 こくりゅうこう 省 しょう 牡丹 ぼたん 江 え 市 し 寧 やすし 安 やす 市 し 渤海鎮東京 とうきょう 城 じょう ) - 首都 しゅと 。龍 りゅう 州 しゅう ・湖 みずうみ 州 しゅう ・渤州を管轄 かんかつ 。
竜 りゅう 州 しゅう - 府 ふ 治 ち が設 もう けられた。
湖 みずうみ 州 しゅう - 忽 ゆるがせ 汗 あせ 海 うみ (現在 げんざい の鏡 かがみ 泊 とまり 湖 こ )付近 ふきん とされている。
渤州 - 牡丹 ぼたん 江 え 市 し 南部 なんぶ の城址 じょうし に比定 ひてい されている。管轄 かんかつ 県 けん は貢 みつぎ 珍 ちん 県 けん のみが現在 げんざい に伝 つた わっている。
東京 とうきょう 龍 りゅう 原 はら 府 ふ (吉林 きつりん 省 しょう 琿春市 し 八 はち 連 れん 城 じょう に比定 ひてい ) - 周囲 しゅうい 16km、南北 なんぼく 3.5km、東西 とうざい 4.5kmの方形 ほうけい で37カ所 かしょ の宮殿 きゅうでん を擁 よう していた。沃沮 の故 こ 地 ち に設 もう けられ、上京 かみぎょう 府 ふ の東南 とうなん に位置 いち し「柵 しがらみ 城府 じょうふ 」とも言 い った。慶州 けいしゅう ・塩 しお 州 しゅう ・穆 きよし 州 しゅう ・賀 が 州 しゅう を管轄 かんかつ 。
慶州 けいしゅう - 府 ふ 治 ち が設 もう けられ、龍 りゅう 原 げん ・永安 えいあん ・烏山 からすやま ・壁谷 かべや ・熊山 くまやま ・白楊 はくよう の6県 けん を管轄 かんかつ 。
塩 しお 州 しゅう - 現在 げんざい のポシェト湾岸 わんがん のクラスキノ 南方 なんぽう のクラスキノ土 ど 城 じょう 遺跡 いせき に比定 ひてい され、日本 にっぽん への出発 しゅっぱつ 港 こう が設 もう けられていた。下部 かぶ に海陽 かいよう ・接 せっ 海 うみ ・格 かく 川 がわ ・龍川 りゅうがわ の4県 けん を管轄 かんかつ 。
穆 きよし 州 しゅう - 府 ふ の南方 なんぽう 120里 さと に位置 いち し、会 かい 農 のう ・水 みず 岐・順化 じゅんか ・美 よし 県 けん の4県 けん を管轄 かんかつ 。
賀 が 州 しゅう - 位置 いち は不明 ふめい であるが、洪 ひろし 賀 が ・送 おく 誠 まこと ・吉 よし 理 さとし ・石山 いしやま の各 かく 県 けん を管轄 かんかつ 。
中京 ちゅうきょう 顕徳 けんとく 府 ふ (吉林 きつりん 省 しょう 和 かず 竜 りゅう 市 し ) - 上京 かみぎょう 府 ふ の南方 なんぽう に位置 いち した。盧 の 州 しゅう ・顕 あきら 州 しゅう ・鉄 くろがね 州 しゅう ・湯 ゆ 州 しゅう ・栄 さかえ 州 しゅう ・興 おき 州 しゅう の6州 しゅう を管轄 かんかつ 。
顕 あきら 州 しゅう - 府 ふ 治 ち が設 もう けられ、金 きむ 徳 いさお ・常楽 じょうらく ・永 えい 豊 ゆたか ・鶏 にわとり 山 やま ・長 ちょう 寧 やすし の5県 けん を管轄 かんかつ 。
盧 の 州 しゅう - 中京 ちゅうきょう 府 ふ の東方 とうほう 130里 さと に位置 いち し、稲 いね の産地 さんち として史書 ししょ に記録 きろく がある。下部 かぶ に山陽 さんよう ・杉 すぎ 盧 の (さんろ)・漢 かん 陽 ひ ・白 はく 巖 いわお ・霜 しも 巖 いわお の5県 けん を管轄 かんかつ 。
鉄 てつ 州 しゅう - 中京 ちゅうきょう 府 ふ の西北 せいほく 100里 さと に位置 いち し、位 い 城 じょう ・河端 かわばた ・蒼 あおい 山 やま ・龍 りゅう 珍 ちん の4県 けん を管轄 かんかつ 。
湯 ゆ 州 しゅう - 中京 ちゅうきょう 府 ふ の西北 せいほく 100里 さと に位置 いち し、霊峰 れいほう ・常豊 つねとよ ・白石 はくせき ・均 ひとし 谷 たに ・嘉 よしみ 利 り の5県 けん を管轄 かんかつ 。
栄 さかえ 州 しゅう - 中京 ちゅうきょう 府 ふ の東北 とうほく 150里 さと に位置 いち し、崇 たかし 山 さん ・潙水・緑 みどり 城 じょう の3県 けん を管轄 かんかつ 。
興 おき 州 しゅう - 中京 ちゅうきょう 府 ふ の西南 せいなん 300里 さと に位置 いち し、盛 もり 吉 きち ・蒜山 ひるぜん (さんざん)・鉄山 てつざん の3県 けん を管轄 かんかつ 。
南京 なんきん 南海 なんがい 府 ふ (北朝鮮 きたちょうせん 北 きた 青 あお 郡 ぐん 付近 ふきん ) - 沃沮 の故 こ 地 ち に設 もう けられ、渤海の南端 なんたん に位置 いち し、沃州・晴 はれ 州 しゅう ・椒 はじかみ 州 しゅう の3州 しゅう を管轄 かんかつ 。
沃州 - 府 ふ 治 ち が設 もう けられ、沃沮・鷲 わし 巖 いわお (じゅがん)・龍山 たつやま ・浜 はま 海 かい ・昇平 しょうへい ・霊泉 れいせん の6県 けん を管轄 かんかつ 。
晴 はれ 州 しゅう - 南京 なんきん 府 ふ の西北 せいほく 120里 さと に位置 いち し、天 てん 晴 はれ ・神 かみ 陽 よう ・蓮池 はすいけ ・狼 おおかみ 山 やま ・仙 せん 巖 いわお の5県 けん を管轄 かんかつ 。
椒 はじかみ 州 しゅう - 南京 なんきん 府 ふ の西南 せいなん 200里 さと に位置 いち し、椒 はじかみ 山 さん ・貊嶺・澌泉・尖山 せんざん ・巖 いわお 淵 ふち の5県 けん を管轄 かんかつ 。
西京 にしぎょう 鴨 かも 緑 みどり 府 ふ (吉林 きつりん 省 しょう 臨江市 し ) - 高句麗 こうくり の故 こ 地 ち に設 もう けられ、「若 わか 忽 ゆるがせ 州 しゅう 」とも称 しょう された。神州 しんしゅう ・桓州・豊 ゆたか 州 しゅう ・正 せい 州 しゅう の4州 しゅう を管轄 かんかつ 。
神州 しんしゅう - 府 ふ 治 ち が設 もう けられ、神 かみ 鹿 しか ・神化 しんか ・剣 けん 門 もん の3県 けん を管轄 かんかつ 。
桓州 - 西京 にしぎょう 府 ふ の西南 せいなん 200里 さと に位置 いち し、桓都・神郷 しんごう ・淇水 きすい の3県 けん を管轄 かんかつ 。
豊 ゆたか 州 しゅう - 西京 にしぎょう 府 ふ の東北 とうほく 210里 さと に位置 いち し、州 しゅう 府 ふ は吉林 きつりん 省 しょう 安 やす 図 ず 県 けん の仰 おおせ 臉山城 じょう に比定 ひてい されている。下部 かぶ に安 あん 豊 ゆたか ・渤恪・隰壌・硤石の4県 けん を管轄 かんかつ 。
正 せい 州 しゅう - 富 とみ 爾 なんじ 河 かわ の流域 りゅういき に位置 いち し、東 ひがし 那 な 県 けん らを管轄 かんかつ 。
長嶺 ながみね 府 ふ
高句麗 こうくり の故 こ 地 ち に設 もう けられ、営州道 どう の要所 ようしょ に位置 いち した。現在 げんざい の樺 かば 甸市 の蘇 そ 密 ひそか 城 じょう を府 ふ 城 じょう とし、瑕 きず 州 しゅう 、河 かわ 州 しゅう の2州 しゅう が設 もう けられた。
瑕 きず 州 しゅう が府 ふ 治 ち であり、河 かわ 州 しゅう は現在 げんざい の梅 うめ 河口 かわくち 市 し に比定 ひてい されている。
扶余府 ふ
夫 おっと 余 あまり の故 こ 地 ち に設 もう けられ、扶州、仙 せん 州 しゅう が設 もう けられていた。
扶州は府 ふ 治 ち が設 もう けられ扶余、布 ぬの 多 た 、顕 あらわ 義 ぎ 、鵲 かささぎ 川 がわ の4県 けん を管轄 かんかつ していた。
仙 せん 州 しゅう は強 つよ 師 し 、新 しん 安 やす 、漁 りょう 谷 だに の3県 けん を管轄 かんかつ していた。
鄚頡府 ふ
夫 おっと 余 あまり の故 こ 地 ち に設 もう けられ、鄚州、高州 たかす が設 もう けられていた。
鄚州は府 ふ 治 ち が設 もう けられ、現在 げんざい の昌 あきら 図 ず 県 けん の八 はち 面 めん 城 じょう に比定 ひてい されており、粤喜、万 まん 安 やす の2県 けん を管轄 かんかつ していた。
高州 たかす に関 かん しての領 りょう 県 けん については記録 きろく が残 のこ っていない。
定理 ていり 府 ふ
挹婁 の故 こ 地 ち に設 もう けられ、定 じょう 州 しゅう 、潘 はん 州 しゅう が設 もう けられていた。
定 てい 州 しゅう は府 ふ 治 ち が設 もう けられ、現在 げんざい の依 よ 蘭 あららぎ 県 けん 城 しろ に比定 ひてい され、定理 ていり 、平 ひら 邱、巖城 いわき 、慕美、安 やす 夷 えびす の5県 けん を管轄 かんかつ していた。
潘 はん 州 しゅう は潘 はん 水 みず 、安定 あんてい 、保 ほ 山 さん 、能 のう 利 り の4県 けん を管轄 かんかつ していた。
安 やす 辺 あたり 府 ふ
挹婁の故 こ 地 ち に設 もう けられ、現在 げんざい の双 そう 鴨 かも 山 やま 市 し 宝 たから 清 きよし 県 けん 、富 とみ 錦 にしき 市 し 一帯 いったい に比定 ひてい され、安 やす 州 しゅう 、瓊州(けいしゅう)を管轄 かんかつ していた。
安 やす 州 しゅう は府 ふ 治 ち が設 もう けられていたが、瓊州同様 どうよう 詳細 しょうさい については不明 ふめい である。
率 りつ 賓 まろうど 府 ふ
率 りつ 賓 まろうど の故 こ 地 ち に設 もう けられ、綏芬河 かわ 流域 りゅういき に位置 いち し、華 はな 州 しゅう 、益 えき 州 しゅう 、建 けん 州 しゅう が設 もう けられていた。
華 はな 州 しゅう は府 ふ 治 ち が設 もう けられ、現在 げんざい の黒竜江 こくりゅうこう 省 しょう 東 あずま 寧 やすし 市 し 大城 おおしろ 子 こ に比定 ひてい されている。
建 けん 州 しゅう は現在 げんざい のウスリースク (双 そう 城 しろ 子 こ )に比定 ひてい されている。
東平 とうへい 府 ふ
拂 はらい 涅 の故 こ 地 ち に設 もう けられ、伊 い 州 しゅう 、蒙 こうむ 州 しゅう 、沱州、黒 くろ 州 しゅう 、比 ひ 州 しゅう が設 もう けられていた。
蒙 こうむ 州 しゅう が現在 げんざい の寧 やすし 城 ぐすく 県 けん に比定 ひてい されていたこと以外 いがい 、詳細 しょうさい は不明 ふめい である。
鉄 てつ 利府 りふ
鉄 てつ 利 り の故 こ 地 ち に設 もう けられ、現在 げんざい のウスリー江 え 以東 いとう の日本海 にほんかい 沿岸 えんがん 部 ぶ に比定 ひてい されている。
下部 かぶ に広州 こうしゅう 、汾州、蒲 かばの 州 しゅう 、海 うみ 州 しゅう 、義 よし 州 しゅう 、帰 き 州 しゅう の6州 しゅう は設 もう けられていたが、詳細 しょうさい は不明 ふめい である。
安 やす 遠 とお 府 ふ
越 えつ 喜 き の故 こ 地 ち に設 もう けられ、率 りつ 賓 まろうど 州 しゅう の北 きた 、興 きょう 凱湖 の東 ひがし に位置 いち し、寧 やすし 州 しゅう 、郿州、慕州、常 つね 州 しゅう の4州 しゅう が設 もう けられていた。
寧 やすし 州 しゅう が府 ふ 治 ち であったが、それ以外 いがい に関 かん しては不明 ふめい である。
懐 ふところ 遠 とお 府 ふ
越 えつ 喜 き の故 こ 地 ち に設 もう けられ、安 やす 遠 とお 府 ふ の北 きた 、鉄 てつ 利府 りふ の南 みなみ に位置 いち し、達 いたる 州 しゅう 、越 こし 州 しゅう 、懐 ふところ 州 しゅう 、紀州 きしゅう 、富 とみ 州 しゅう 、美 よし 州 しゅう 、福 ふく 州 しゅう 、邪 よこしま 州 しゅう 、芝 しば 州 しゅう の9州 しゅう が設 もう けられていた。
達 いたる 州 しゅう は懐 ふところ 福 ぶく 、豹 ひょう 山 さん 、乳 ちち 水 すい などを管轄 かんかつ していた。
富 とみ 州 しゅう は富 とみ 寿 ことぶき 、新興 しんこう 、優 ゆう 富 とみ などを管轄 かんかつ していた。
美 よし 州 しゅう は山河 さんが 、黒河 くろかわ 、麓 ふもと 河 かわ などを管轄 かんかつ していた。
独奏 どくそう 州 しゅう
独奏 どくそう 州 しゅう とは府 ふ に統括 とうかつ されず、京師 けいし に直接 ちょくせつ 上奏 じょうそう できる州 しゅう である。
渤海では郢州、銅 どう 州 しゅう 、涑州が独奏 どくそう 州 しゅう として記録 きろく に残 のこ り、王室 おうしつ に直属 ちょくぞく していた。
郢州は延 のべ 慶 けい 、白 はく 巖 いわお の2県 けん を統括 とうかつ していた。
銅 どう 州 しゅう は上京 じょうきょう の南 みなみ 、現在 げんざい のハルバ嶺 みね 一帯 いったい に比定 ひてい され、花山 はなやま 県 けん などを管轄 かんかつ していた。
涑州は現在 げんざい の吉林 きつりん 市 し 付近 ふきん に比定 ひてい されている。
上記 じょうき 州 しゅう 以外 いがい に『遼 りょう 史 し 』に記録 きろく されている集 あつまり 州 しゅう (奉 たてまつ 集 あつまり 県 けん を管轄 かんかつ )、麓 ふもと 州 しゅう (麓 ふもと 郡 ぐん 、麓 ふもと 波 は 、雲山 くもやま の3県 けん を管轄 かんかつ )を加 くわ えることで62州 しゅう となり、『新 しん 唐 とう 書 しょ 』に記載 きさい される62州 しゅう に合致 がっち する。しかし前記 ぜんき の地方 ちほう 統治 とうち 機構 きこう は渤海存続 そんぞく 期間 きかん において絶対 ぜったい 的 てき な制度 せいど ではなく、『遼 りょう 史 し 』の地理 ちり 志 こころざし に「安寧 あんねい 郡 ぐん 」や「龍 りゅう 河 かわ 郡 ぐん 」という記録 きろく もあり、渤海前期 ぜんき には見 み られなかった「郡 ぐん 」が出現 しゅつげん していることからも明 あき らかである。このほか政治 せいじ ・軍事 ぐんじ 上 じょう の理由 りゆう から唐 とう 制 せい に倣 なら い節度 せつど 使 し を設 もう けている。『遼 りょう 史 し 』太 ふとし 祖 そ 紀 き ・下 した に節度 せつど 使 し 来朝 らいちょう の記録 きろく があり、節度 せつど 使 し 存在 そんざい の傍証 ぼうしょう といえる。
橋本 はしもと 増吉 ますきち は、「五 ご 京 きょう を設 もう けた理由 りゆう は陰陽 いんよう 五 ご 行 ぎょう 説 せつ や、遊牧 ゆうぼく 生活 せいかつ 者 しゃ に多 おお い、夏 なつ 冬 ふゆ 移 うつり 居 きょ の風 ふう の影響 えいきょう もあろうが、更 さら に全国 ぜんこく を十 じゅう 五 ご 府 ふ 六 ろく 十 じゅう 二 に 州 しゅう に分 わ けていたことにより、大 だい 領域 りょういき が可 か なり周到 しゅうとう なる地方 ちほう 行政 ぎょうせい を受 う けていたことを知 し るに足 た ると思 おも う」と指摘 してき している。
渤海では唐 とう 制 せい の16衛 まもる に倣 なら い左右 さゆう 猛 もう 賁、左右 さゆう 熊 ぐま 衛 まもる 、左右 さゆう 羆 ひぐま 衛 まもる 、南 みなみ 左右 さゆう 衛 まもる 、北 きた 左右 さゆう 衛 まもる の10衛 まもる が中央 ちゅうおう に設 もう けられていた。また地方 ちほう には府 ふ 兵制 へいせい が確立 かくりつ されていたと考 かんが えられている。しかし渤海後期 こうき になると、府 ふ 兵制 へいせい が次第 しだい に崩壊 ほうかい し、左右 さゆう の神 かみ 策 さく 軍 ぐん 、左右 さゆう 三軍 さんぐん が設置 せっち された。これらは唐 とう の北 きた 衙六軍 ぐん との関連 かんれん が認 みと められ、渤海王室 おうしつ が設置 せっち した常備 じょうび 軍 ぐん であった。
唐 とう の軍事 ぐんじ 制度 せいど を模倣 もほう したものであることは『新 しん 唐 とう 書 しょ 』の記載 きさい によれば、以下 いか の通 とお りである。
其武員 いん 有 ゆう 左右 さゆう 猛 もう 賁、熊 くま 衛 まもる 、羆 ひぐま 衛 まもる 、南 みなみ 左右 さゆう 衛 まもる 、北 きた 左右 さゆう 衛 まもる 、各 かく 大將軍 だいしょうぐん 一 いち 、將軍 しょうぐん 一 いち 。大 だい 抵憲象 ぞう 中國 ちゅうごく 制度 せいど 如此。
(渤海の)
武 たけ 員 いん には、
左右 さゆう の
猛 もう 賁(
衛 まもる )
熊 くま 衛 まもる ・
羆 ひぐま 衛 まもる と、
南 みなみ 左 ひだり (
衛 まもる )・(
南 みなみ )
右 みぎ 衛 まもる と
北 きた 左 ひだり (
衛 まもる )・(
北 きた )
右 みぎ 衛 まもる (の
十 じゅう 衛 まもる )があり、それぞれ
大将軍 だいしょうぐん 一 いち 人 にん 、
将軍 しょうぐん 一 いち 人 にん が
置 お かれた。(渤海の
官制 かんせい の)
手本 てほん がたいてい
中国 ちゅうごく の
制度 せいど に
倣 なら ったものであるというのは、かこくごとしである
[38] 。
— 新 しん 唐 とう 書 しょ 、渤海伝 でん 中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:新 しん 唐 とう 書 しょ /卷 まき 219#渤海
渤海の司法 しほう 制度 せいど に関 かん しては、唐 とう の文 ぶん 宗 むね の時代 じだい に大 だい 彝 つね 震 ふるえ の治世 ちせい には法律 ほうりつ の運用 うんよう 面 めん で国内 こくない が安定 あんてい していた事 こと を示 しめ す史料 しりょう があり、渤海は法律 ほうりつ 面 めん でも整備 せいび が進 すす んでいた事 こと の傍証 ぼうしょう となっている。律令 りつりょう 格式 かくしき は他 た の統治 とうち 方式 ほうしき 同様 どうよう に唐 とう 制 せい を模倣 もほう したものと考 かんが えられている。
司法 しほう 機関 きかん としては中正 ちゅうせい 台 だい 、礼 れい 部 ぶ 、大 だい 理 り 寺 てら が任務 にんむ に当 あた った。
中正 ちゅうせい 台 だい
渤海最高 さいこう の監察 かんさつ 機関 きかん であり、長官 ちょうかん の大 だい 中正 ちゅうせい は官民 かんみん の監督 かんとく の他 ほか 、王室 おうしつ 内部 ないぶ の粛清 しゅくせい や、礼 れい 部 ぶ 、大 だい 理 り 寺 てら と重要 じゅうよう 案件 あんけん を審議 しんぎ する権限 けんげん を有 ゆう していた。
礼 れい 部 ぶ
渤海最高 さいこう の司法 しほう 機関 きかん であり、徒 と 隷、勾覆、関 せき 禁 きん の政令 せいれい を職責 しょくせき としていた。
大 だい 理 り 寺 てら
渤海最高 さいこう の裁判 さいばん 機関 きかん であり、訴訟 そしょう を担当 たんとう すると共 とも に、礼 れい 部 ぶ とともに裁判 さいばん 員 いん の人選 じんせん を行 おこな っていた。
陸上 りくじょう 交通 こうつう [ 編集 へんしゅう ]
陸上 りくじょう 交通 こうつう は上京 かみぎょう 府 ふ を中心 ちゅうしん に全国 ぜんこく の京 きょう ・府 ふ ・州 しゅう ・県 けん に放射状 ほうしゃじょう に道路 どうろ が整備 せいび されていた。その交通 こうつう 路 ろ は現在 げんざい の道路 どうろ 、鉄道 てつどう に沿 そ ったものと考 かんが えられている。またこれらの中央 ちゅうおう からの道路 どうろ 以外 いがい にも、5京 きょう と旧 きゅう 国 くに の間 あいだ にも道路 どうろ が整備 せいび されていた。
道路 どうろ の中 なか で最 もっと も重要 じゅうよう なのは「営州道 どう 」と称 しょう されるものである。これは渤海から唐 とう に向 む かう朝貢 ちょうこう 使 し などが使用 しよう するものであり、営州 (現在 げんざい の朝陽 あさひ 市 し )であり、唐 とう が東北 とうほく 地区 ちく を支配 しはい する要所 ようしょ とされていた地域 ちいき であり、燕 つばめ 郡 ぐん 城 じょう (現在 げんざい の義 ぎ 県 けん )、安東 あんどう 都 みやこ 護 まもる 府 ふ (現在 げんざい の遼 りょう 陽 ひ 市 し )、新城 しんじょう (現在 げんざい の撫 なで 順 じゅん 市 し 付近 ふきん )、長嶺 ながみね 府 ふ (現在 げんざい の樺 かば 甸市付近 ふきん の蘇 そ 密 ひそか 城 じょう )を経 へ て上京 じょうきょう に至 いた る1200km弱 じゃく のルートである。
新 しん 羅 ら への交通 こうつう は南京 なんきん 府 ふ を中心 ちゅうしん とする「新 しん 羅 ら 道 みち 」が存在 そんざい していた。『三 さん 国史 こくし 記 き 』地理 ちり 志 こころざし には「新 しん 羅 ら の泉井 いずい 郡 ぐん より柵 しがらみ 城府 じょうふ に至 いた る、凡 およ そ三 さん 十 じゅう 九 きゅう 駅 えき 」との記載 きさい があり、泉井 いずい 郡 ぐん (現在 げんざい の江原 えばら 道 みち の元山 もとやま 市 し )より柵 しがらみ 城府 じょうふ 、則 のり ち上京 かみぎょう 府 ふ までの道路 どうろ の整備 せいび 状 じょう 況 きょう をうかがい知 し ることが出来 でき る。この他 ほか 契 ちぎり 丹 に との交通 こうつう には扶余府 ふ を起点 きてん とする「契 ちぎり 丹 に 道 どう 」が設 もう けられていた。
渤海の海上 かいじょう 交通 こうつう は唐 とう 、新 しん 羅 ら 、日本 にっぽん への通交 つうこう に利用 りよう されていた。唐 とう への交通 こうつう は『新 しん 唐 とう 書 しょ 』地理 ちり 志 こころざし に登 のぼり 州 しゅう より渤海への交通 こうつう 路 ろ が記録 きろく されており、登 のぼり 州 しゅう (現在 げんざい の蓬莱 ほうらい 市 し )を起点 きてん に亀 かめ 歆島(現在 げんざい の砣磯島 とう )を経 へ て烏 がらす 湖 みずうみ 海 うみ (現在 げんざい の渤海海峡 かいきょう )を渡 わた り、更 さら に烏 がらす 骨 こつ 江 こう (現在 げんざい の愛 あい 河 かわ )を遡上 そじょう し西京 にしぎょう 府 ふ に至 いた る「朝貢 ちょうこう 道 どう 」と称 しょう される道程 どうてい が示 しめ されている。
新 しん 羅 ら への海上 かいじょう 交通 こうつう であるが、南海 なんがい 府 ふ の吐号浦 うら (現在 げんざい の鏡 かがみ 城 ぐすく 郡 ぐん )から朝鮮半島 ちょうせんはんとう の東 ひがし 沿岸 えんがん を南下 なんか するルートと、西京 にしぎょう 府 ふ から鴨 かも 緑 みどり 江 こう に沿 そ って海上 かいじょう に進 すす み、更 さら に朝鮮半島 ちょうせんはんとう 西 にし 沿岸 えんがん を南下 なんか するというルートが存在 そんざい していた。しかし王 おう 都 と から距離 きょり のある西 にし ルートは東 ひがし ルートほど活発 かっぱつ に利用 りよう されることはなかったようである。
日本 にっぽん への海上 かいじょう 交通 こうつう は「日本 にっぽん 道 どう 」とよばれるものである。起点 きてん は上京 かみぎょう 府 ふ を基点 きてん とし陸路 りくろ 塩 しお 州 しゅう (現在 げんざい のロシア連邦 れんぽう クラスキノ )に至 いた りそこから海上 かいじょう を進 すす むというものである。現地 げんち クラスキノのポシェト湾 わん 近 ちか くには、主 おも 発 はつ 拠点 きょてん の塩 しお 州 しゅう 城跡 じょうせき と推定 すいてい されるクラスキノ土 ど 城 じょう 遺跡 いせき がある[39] 。海路 かいろ は大 おお まかに3ルートに分類 ぶんるい することが出来 でき る。その一 ひと つが「筑紫 つくし 路 ろ 」であり、塩 しお 州 しゅう を出発 しゅっぱつ した船 ふね は朝鮮半島 ちょうせんはんとう 東 ひがし 沿岸 えんがん を南下 なんか し、対馬海峡 つしまかいきょう を経 へ て筑紫 つくし の大津 おおつ 浦 うら (現在 げんざい の福岡 ふくおか )に至 いた るルートである。当時 とうじ の日本 にっぽん 朝廷 ちょうてい は外交 がいこう を管轄 かんかつ する大宰府 だざいふ を筑前 ちくぜん に設置 せっち していたため、渤海使 し に対 たい しこのルートの使用 しよう を指定 してい していたが、距離 きょり が長 なが くまた難破 なんぱ の危険 きけん が大 おお きいルートであった。第 だい 2のルートが「南海 なんかい 路 ろ 」と称 しょう されるルートである。南海 なんがい 府 ふ の吐号浦 うら を起点 きてん とし、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 東 ひがし 沿岸 えんがん を南下 なんか し、対馬海峡 つしまかいきょう を渡 わた り筑紫 つくし に至 いた るルートであるが、776年 ねん に暴風雨 ぼうふうう により使節 しせつ の乗 の った船団 せんだん が遭難 そうなん 、120余 よ 名 めい の死者 ししゃ を出 だ してからは使用 しよう されていない。第 だい 3のルートが「北 きた 路 ろ 」であり、塩 しお 州 しゅう を出発 しゅっぱつ した後 のち 、日本海 にほんかい を一気 いっき に東南 とうなん に渡海 とかい し、能登 のと 、加賀 かが 、越前 えちぜん 、佐渡 さわたり に至 いた るルートである。当初 とうしょ は航海 こうかい 知識 ちしき の欠如 けつじょ から海難 かいなん 事故 じこ が発生 はっせい したが、その後 ご は晩秋 ばんしゅう から初冬 しょとう にかけて大陸 たいりく から流 なが れる西北 せいほく 風 ふう を利用 りよう し、翌年 よくねん の夏 なつ の東南 とうなん 風 ふう を利用 りよう しての航海 こうかい 術 じゅつ が確立 かくりつ したことから海難 かいなん 事故 じこ も大幅 おおはば に減少 げんしょう し、また航海 こうかい 日数 にっすう の短縮 たんしゅく も実現 じつげん した。
大 だい 祚栄 が震 ふるえ 国 こく を建国 けんこく した当初 とうしょ は、武則 たけのり 天 てん が夷狄 いてき から収奪 しゅうだつ する方策 ほうさく を執 と っていたため唐 とう と対立 たいりつ していた。そのため当初 とうしょ は突厥 や新 しん 羅 ら との通 つう 好 このみ による唐 とう の牽制 けんせい を外交 がいこう 方針 ほうしん の基本 きほん にしていたが、唐 とう の中 ちゅう 宗 むね が即位 そくい すると、張 ちょう 行 こう 芨 を派遣 はけん ・招慰し両国 りょうこく の関係 かんけい 改善 かいぜん の転機 てんき をもたらした。大 だい 祚栄もこの招慰を受 う け入 い れ、王子 おうじ を唐 とう に入 にゅう 侍 さむらい させ、唐 とう に従属 じゅうぞく する政治 せいじ 的 てき 地位 ちい を確認 かくにん した。713年 ねん には唐 とう は大 だい 祚栄を「左 ひだり 驍衛員外 いんがい 大将軍 だいしょうぐん 渤海郡 ぐん 王 おう 」に封 ふう じ、同時 どうじ に渤海は羈縻 体制 たいせい 下 か に入 はい る、その後 ご は「渤海国王 こくおう 」と「渤海郡 ぐん 王 おう 」と冊 さつ 封 ふう の官 かん 称 しょう に変化 へんか はあったが、原則 げんそく として唐 とう の滅亡 めつぼう までこの関係 かんけい は維持 いじ された。
招慰を受 う けた渤海は質 しつ 子 こ の制度 せいど に基 もと づき、子弟 してい を唐 とう に遣 つかわ している。大 だい 祚栄の嫡子 ちゃくし であった大門 おおもん 芸 げい が派遣 はけん されたのが初 はつ 見 み であるが、渤海からの質 しつ 子 こ は単 たん なる人質 ひとじち としてではなく、皇帝 こうてい の謁見 えっけん 、賜 たまもの 宴 えん を受 う け、時 とき には皇太子 こうたいし の加冠 かかん や謁陵、時節 じせつ の朝 あさ 儀 ぎ などに列席 れっせき するなどの待遇 たいぐう を受 う け、また唐 とう にて客死 かくし した場合 ばあい は位階 いかい の追贈 ついぞう や物品 ぶっぴん の下賜 かし を受 う けるなどの良好 りょうこう な待遇 たいぐう を受 う けている。これは渤海との関係 かんけい が良好 りょうこう であったためと考 かんが えられる。
この他 た 渤海は唐 とう の藩 はん 属 ぞく として定期 ていき 的 てき に方 かた 物 ぶつ を献上 けんじょう し朝貢 ちょうこう を行 おこな っていた。朝貢 ちょうこう の際 さい には「土 ど 貢 みつぎ 」を献上 けんじょう すると同時 どうじ に国内 こくない 状況 じょうきょう を奏上 そうじょう していた。この他 ほか 、元旦 がんたん や各 かく 節句 せっく に「賀 が 正使 せいし 」と献 けんじ 礼 れい の使節 しせつ を派遣 はけん した。これらの使節 しせつ はほぼ毎年 まいとし の派遣 はけん が記録 きろく に残 のこ されており、また1年 ねん に2~3度 ど も使節 しせつ 派遣 はけん を行 おこな っていることが知 し られており、渤海は自治 じち 政権 せいけん を確立 かくりつ すると同時 どうじ に、羈縻体制 たいせい 下 か での外交 がいこう 関係 かんけい を継続 けいぞく していた。
渤海は、唐 から 文化 ぶんか の移入 いにゅう に努 つと め、遣唐使 けんとうし を派遣 はけん するとともに留学生 りゅうがくせい を送 おく り、唐 とう の学問 がくもん を学 まな ばせており、国内 こくない でも唐 とう の官制 かんせい を模 も した三 さん 官 かん 六 ろく 省 しょう の組織 そしき を作 つく り上 あ げ、律令 りつりょう 体制 たいせい を導入 どうにゅう している。一方 いっぽう 、唐 とう とは異 こと なる独自 どくじ の年号 ねんごう を使用 しよう するなど、唐 とう と一定 いってい の距離 きょり を置 お く側面 そくめん も見 み られる[40] :1 。
なお唐 から 滅亡 めつぼう 後 ご は、渤海は中原 なかはら 王朝 おうちょう との外交 がいこう 関係 かんけい を継続 けいぞく している。
698年 ねん の渤海(当時 とうじ は「震 しん 」)建国 けんこく 当初 とうしょ は東 ひがし 突厥 の躍進 やくしん 期 き に当 あ たっており、営州 の反乱 はんらん の後 のち 、東 ひがし 突厥第 だい 二 に 可 か 汗 あせ 国 こく の第 だい 2代 だい 阿 おもね 史 し 那 な 默 だま 啜 すす は唐 とう を支援 しえん し契 ちぎり 丹 に を攻撃 こうげき するなど、東北 とうほく アジアに於 お ける軍事 ぐんじ 的 てき に優勢 ゆうせい な地位 ちい を占 し めていた。建国 けんこく 間 あいだ もない不安定 ふあんてい な渤海は、唐 とう による侵攻 しんこう に備 そな え、使者 ししゃ を東 ひがし 突厥に派遣 はけん しその支持 しじ を獲得 かくとく している。その代償 だいしょう として渤海は東 ひがし 突厥の属国 ぞっこく としての地位 ちい を甘受 かんじゅ することになり、東 ひがし 突厥から派遣 はけん される吐屯 (トゥドゥン)により渤海は統制 とうせい と貢 みつぎ 賦 ふ の権限 けんげん を与 あた えられることになった。
その後 ご 唐 とう との関係 かんけい が改善 かいぜん され、唐 とう が大 だい 祚栄 を冊 さつ 封 ふう するに至 いた ると東 ひがし 突厥との関係 かんけい が疎遠 そえん となったが、大 だい 武芸 ぶげい が即位 そくい し唐 とう と対立 たいりつ した際 さい 、東 ひがし 突厥の支援 しえん を得 え られなかった事 こと で関係 かんけい 悪化 あっか は確定 かくてい 的 てき となり、唐 とう との和解 わかい と同時 どうじ に東 ひがし 突厥と断交 だんこう している。
734年 ねん 、東 ひがし 突厥は渤海に使者 ししゃ を派遣 はけん し、契 ちぎり 丹 に と奚 の挟撃 きょうげき を打診 だしん されるが、渤海はこの要求 ようきゅう を拒否 きょひ 、更 さら に使者 ししゃ を抑留 よくりゅう し唐 とう に移送 いそう し処理 しょり を委任 いにん するという行動 こうどう に出 で て東 ひがし 突厥との関係 かんけい 悪化 あっか は決定的 けっていてき なものとなった。その後 ご 、東 ひがし 突厥は内紛 ないふん と唐 とう との闘争 とうそう により急速 きゅうそく に勢力 せいりょく を衰退 すいたい させ、渤海との紛争 ふんそう を起 お こす余力 よりょく は無 な くなり、745年 ねん に回 かい 紇 により東 ひがし 突厥は滅亡 めつぼう した。
契 ちぎり 丹 に との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
渤海建国 けんこく に当 あ たっては営州 の反乱 はんらん と契 ちぎり 丹 に の反 はん 唐 から 活動 かつどう により、大 だい 祚栄 が独立 どくりつ する契機 けいき を生 しょう じたことから、両者 りょうしゃ には特別 とくべつ な関係 かんけい が存在 そんざい していたと推測 すいそく される。720年 ねん に唐 とう が渤海に対 たい し契 ちぎり 丹 に 及 およ び奚 への攻撃 こうげき を打診 だしん した際 さい に、唐 とう の冊 さつ 封 ふう 体制 たいせい 下 か の渤海は出兵 しゅっぺい の義務 ぎむ を有 ゆう していたにもかかわらず、これを拒否 きょひ していることからも推測 すいそく されるものである。
しかし唐 とう との関係 かんけい が改善 かいぜん されるに反比例 はんぴれい し、渤海と契 ちぎり 丹 に の関係 かんけい は冷却 れいきゃく 化 か の一途 いっと を辿 たど った。それは渤海後期 こうき に扶余府 ふ 一帯 いったい に契 ちぎり 丹 に の侵入 しんにゅう を防 ふせ ぐべく常備 じょうび 軍 ぐん を駐留 ちゅうりゅう させた記録 きろく からも窺 うかが えるものである。当然 とうぜん 渤海は契 ちぎり 丹 に 人 じん の反逆 はんぎゃく 者 しゃ の亡命 ぼうめい を受 う け入 い れるようになり、契 ちぎり 丹 に 王室 おうしつ の轄底が渤海へ亡命 ぼうめい した記録 きろく などもある。それでも『新 しん 唐 とう 書 しょ 』で渤海の風俗 ふうぞく を「高麗 こうらい 、契 ちぎり 丹 に と略 りゃく 等 ひと し」と表現 ひょうげん されるように文化 ぶんか 的 てき な親密 しんみつ さは相当 そうとう なものであり、両者 りょうしゃ の経済 けいざい 的 てき 、文化 ぶんか 的 てき な交流 こうりゅう は持続 じぞく され、それは契 ちぎり 丹 に 道 どう と称 しょう される重要 じゅうよう な対外 たいがい 交通 こうつう 路 ろ の地位 ちい を占 し めていた。
渤海末 まつ 年 ねん 、渤海の勢力 せいりょく は衰退 すいたい し、926年 ねん には契 ちぎり 丹 に 人 じん による国家 こっか 、遼 りょう により滅 ほろ ぼされ、その故 こ 地 ち には東 ひがし 丹 に 国 こく が建国 けんこく された。
新 しん 羅 ら との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
最大 さいだい 領域 りょういき 時代 じだい の渤海国 こく と新 しん 羅 ら
698年 ねん に震 ふるえ 国 こく が建国 けんこく された際 さい に新 しん 羅 ら はかつての百済 くだら 全土 ぜんど 及 およ び高句麗 こうくり の一部 いちぶ を領有 りょうゆう すると共 とも に、北進 ほくしん 政策 せいさく を採用 さいよう して渤海の安定 あんてい を脅 おびや かすようになった。またその渤海は唐 とう と対立 たいりつ しており、唐 とう の脅威 きょうい を抑 おさ え、同時 どうじ に新 しん 羅 ら の北進 ほくしん を牽制 けんせい するため新 しん 羅 ら に接近 せっきん する政策 せいさく を採用 さいよう した。当初 とうしょ は新 しん 羅 ら の藩屏 はんぺい と称 しょう し、新 しん 羅 ら の五 ご 品 ひん の官職 かんしょく である大 だい 阿 おもね 飡 を授位されている。しかしその後 ご 渤海と唐 とう の関係 かんけい が好転 こうてん するに従 したが い、渤海と新 しん 羅 ら の関係 かんけい は変質 へんしつ し、大 だい 武芸 ぶげい の時代 じだい になると高句麗 こうくり の故 こ 地 ち の回収 かいしゅう が目標 もくひょう となり両国 りょうこく 関係 かんけい は緊張 きんちょう 、それは721年 ねん に新 しん 羅 ら が北辺 ほくへん に長城 ちょうじょう を築城 ちくじょう したことに現 あらわ れている。
渤海と唐 とう が「登 のぼり 州 しゅう の役 やく 」で対立 たいりつ した際 さい 、新 しん 羅 ら は唐 とう の出兵 しゅっぺい の求 もと めに応 おう じ渤海を攻撃 こうげき したが、悪天候 あくてんこう に阻 はば まれ新 しん 羅 ら 軍 ぐん は大 だい 損害 そんがい を蒙 こうむ っている。この出来事 できごと は新 しん 羅 ら の北進 ほくしん 政策 せいさく を抑制 よくせい すると共 とも に、唐 とう と新 しん 羅 ら の対立 たいりつ を政治 せいじ 的 てき に解消 かいしょう させる効果 こうか をももたらした。新 しん 羅 ら はこの功績 こうせき により唐 とう から寧 やすし 海 うみ 大使 たいし の地位 ちい を与 あた えられ、浿 江 こう 以南 いなん の高句麗 こうくり の故 こ 地 ち 統治 とうち を正式 せいしき に承認 しょうにん させることに成功 せいこう したが、同時 どうじ に渤海を牽制 けんせい する役割 やくわり をも担 にな うこととなり、渤海と新 しん 羅 ら は厳然 げんぜん と対立 たいりつ することとなった。
新 しん 羅 ら との対立 たいりつ という状況 じょうきょう に際 さい し、渤海は日本 にっぽん と通 つう 好 このみ することで新 しん 羅 ら を背後 はいご から牽制 けんせい することを画策 かくさく した。安史 やすし の乱 らん に際 さい し、渤海は日本 にっぽん と共同 きょうどう して新 しん 羅 ら 挟撃 きょうげき を計画 けいかく したが、これは藤原仲麻呂 ふじわらのなかまろ の乱 らん により計画 けいかく が頓挫 とんざ したことで、軍事 ぐんじ 的 てき 解決 かいけつ の姿勢 しせい を放棄 ほうき し、以降 いこう は政治 せいじ 的 てき 解決 かいけつ を模索 もさく するようになる。新 しん 羅 ら 側 がわ から790年 ねん に一吉 かずよし 飡 (7品 ひん )の伯 はく 魚 ぎょ を、812年 ねん に級 きゅう 飡 (9品 ひん )の崇 たかし 正 ただし を渤海に派遣 はけん していることは、政治 せいじ 的 てき な安定 あんてい を模索 もさく した結果 けっか であり、新 しん 羅 ら 道 みち の発展 はってん を創出 そうしゅつ することになる。
この良好 りょうこう な関係 かんけい も、大仁 おおひと 秀 しげる が即位 そくい して渤海の領土 りょうど 拡張 かくちょう を目指 めざ すようになると、再 ふたた び両国 りょうこく の均衡 きんこう は崩壊 ほうかい することになる。826年 ねん には新 しん 羅 ら の憲 けん 徳王 とくおう が浿 江 こう に300里 さと の長城 ちょうじょう を築城 ちくじょう したことからも情勢 じょうせい の変化 へんか を読 よ み取 と ることができる。
次 つぎ に両国 りょうこく の関係 かんけい が好転 こうてん するのは10世紀 せいき の契 ちぎり 丹 に の勃興 ぼっこう という外的 がいてき 要因 よういん による。渤海は契 ちぎり 丹 に に対抗 たいこう すべく新 しん 羅 ら との和解 わかい を図 はか る。しかし当時 とうじ の新 しん 羅 ら は国勢 こくせい が衰退 すいたい し、既 すで に後 こう 三 さん 国 こく の時代 じだい に入 はい っており、軍事 ぐんじ 的 てき に渤海を支援 しえん し契 ちぎり 丹 に に対抗 たいこう する力 ちから は無 な く、そればかりか渤海の苦境 くきょう に乗 じょう じ浿 江 こう 以北 いほく への侵攻 しんこう を行 おこな った。新 しん 羅 ら は一 いち 面 めん で渤海に同調 どうちょう するそぶりを見 み せ、反面 はんめん 遼 りょう に使者 ししゃ を送 おく り方 かた 物 ぶつ を献 けん じるという二 に 面 めん 性 せい の外交 がいこう を展開 てんかい した。遼 りょう が王 おう 都 と の忽 ゆるがせ 汗 あせ 城 じょう を包囲 ほうい した際 さい には、新 しん 羅 ら は渤海に出兵 しゅっぺい し、更 さら にこの軍功 ぐんこう により耶律阿保 あぼ 機 き により褒賞 ほうしょう を受 う けている。
新 しん 羅 ら と渤海は没交渉 ぼっこうしょう であり、史料 しりょう 上 じょう では全 ぜん 時代 じだい を通 つう じて新 しん 羅 ら から渤海へ2回 かい の使節 しせつ の派遣 はけん が確認 かくにん されるだけであるが、韓国 かんこく では記録 きろく が逸失 いっしつ したに過 す ぎないという主張 しゅちょう もあるが、李 り 成 しげる 市 し は「そうした解釈 かいしゃく の余地 よち はほとんどない」として以下 いか の2つの理由 りゆう を挙 あ げている
『新 しん 唐 とう 書 しょ 』巻 まき 二 に 二 に 〇・東夷 あずまえびす 伝 でん ・新 しん 羅 ら 、『太平 たいへい 広 こう 記 き 』巻 まき 四 よん 八 はち 一 いち ・新 しん 羅 ら 条 じょう の長人 ながと 記事 きじ (渤海 (国 くに )#新 しん 羅 ら 人 じん の渤海認識 にんしき )は、8世紀 せいき から9世紀 せいき の新 しん 羅 ら ・渤海国境 こっきょう 付近 ふきん の政策 せいさく と新 しん 羅 ら 人 じん の渤海人 じん に対 たい するイメージ を象徴 しょうちょう しており、渤海人 じん に対 たい する異形 いぎょう のイメージと新 しん 羅 ら が渤海国境 こっきょう 付近 ふきん に強大 きょうだい な軍事 ぐんじ 施設 しせつ である西北 せいほく の浿江鎮典、東北 とうほく の関門 かんもん を設置 せっち したことから、新 しん 羅 ら と渤海に頻繁 ひんぱん な交渉 こうしょう を推定 すいてい することはできない[41] 。
渤海衰退 すいたい 期 き から新 しん 羅 ら と渤海の国境 こっきょう 付近 ふきん で靺鞨族 ぞく が出没 しゅつぼつ ・交易 こうえき を求 もと めた歴史 れきし があり、886年 ねん に渤海所属 しょぞく の2つの部族 ぶぞく が新 しん 羅 ら の北 きた 鎮に対 たい して、直接 ちょくせつ の接触 せっしょく を避 さ けながら、文字 もじ を記 しる した木片 もくへん を持 も って通交 つうこう を申 もう し出 で る事件 じけん があり[注釈 ちゅうしゃく 2] 、日常 にちじょう 的 てき な交渉 こうしょう があるならば、このような形式 けいしき の申 もう し出 で は有 あ り得 え ず、新 しん 羅 ら と渤海の没交渉 ぼっこうしょう を反映 はんえい しており[43] 、敵対 てきたい する新 しん 羅 ら 国境 こっきょう 付近 ふきん の靺鞨族 ぞく を管理 かんり ・統制 とうせい することは渤海の国家 こっか 存立 そんりつ に係 かか る事案 じあん であり、濊 族 ぞく (後 ご の靺鞨族 ぞく )は古来 こらい より魚類 ぎょるい ・毛皮 けがわ を遥 はる か中国 ちゅうごく 内陸 ないりく 部 ぶ まで、もたらす遠隔 えんかく 交易 こうえき を生業 せいぎょう とする狩猟 しゅりょう ・漁労 ぎょろう の民 みん であり、渤海の対外 たいがい 交易 こうえき は、これらを生業 せいぎょう にする靺鞨族 ぞく の交易 こうえき を国家 こっか 的 てき に編成 へんせい したのであり、靺鞨族 ぞく を包摂 ほうせつ ・統合 とうごう した渤海王権 おうけん は新 しん 羅 ら と隣接 りんせつ する靺鞨族 ぞく の他 た 地域 ちいき との交易 こうえき を管理 かんり ・統制 とうせい することは政治 せいじ 的 てき 安定 あんてい とって必須 ひっす であり、従 したが って、渤海滅亡 めつぼう 後 ご に高麗 こうらい と旧 きゅう 渤海人 じん と過剰 かじょう な交渉 こうしょう が金 きむ の建国 けんこく まで展開 てんかい されるなど渤海衰退 すいたい 期 き からの新 しん 羅 ら と渤海国境 こっきょう 付近 ふきん の交渉 こうしょう 活発 かっぱつ 化 か は、渤海の衰退 すいたい ・滅亡 めつぼう によってもたらされた現象 げんしょう であることが推察 すいさつ される[43] 。
渤海の存続 そんぞく 期間 きかん 全体 ぜんたい を俯瞰 ふかん するに、渤海と新 しん 羅 ら の両国 りょうこく は対立 たいりつ の歴史 れきし と捉 とら える事 こと が可能 かのう である。
新 しん 羅 ら 人 じん の渤海への認識 にんしき [ 編集 へんしゅう ]
田中 たなか 俊明 としあき や李 り 成 しげる 市 し や古畑 ふるはた 徹 とおる によると、8世紀 せいき の唐 とう の記録 きろく には、新 しん 羅 ら 人 じん が新 しん 羅 ら の東北 とうほく 境 さかい の住民 じゅうみん である渤海人 じん のことを、黒毛 くろげ で身 み を覆 おお い、人 ひと を食 く らう長人 ながと 、ととらえていたことをうかがわせる記述 きじゅつ があり、この異人 いじん 視 し は渤海・新 しん 羅 ら 両国 りょうこく の没交渉 ぼっこうしょう からくる恐怖 きょうふ 感 かん を示 しめ し、それだけの異域 いいき であったことの証左 しょうさ であり、新 しん 羅 ら および渤海の辺境 へんきょう 地帯 ちたい の地域 ちいき 住民 じゅうみん に対 たい して、これだけの異域 いいき 観 かん がみられることから、渤海・新 しん 羅 ら 両国 りょうこく の乖離 かいり した意識 いしき は明確 めいかく であり、渤海・新 しん 羅 ら の同族 どうぞく 意識 いしき はうかがいようもないと指摘 してき している[44] 。長人 ながと 記事 きじ とは、『新 しん 唐 とう 書 しょ 』巻 まき 二 に 二 に 〇・東夷 あずまえびす 伝 でん ・新 しん 羅 ら 、『太平 たいへい 広 こう 記 き 』巻 まき 四 よん 八 はち 一 いち ・新 しん 羅 ら 条 じょう の以下 いか の記事 きじ である。
新 しん 羅 ら 、弁 べん 韓 かん 苗裔 びょうえい 也。居 きょ 漢 かん 樂 らく 浪 なみ 地 ち 、橫 よこ 千里 せんり 、縱 たて 三 さん 千里 せんり 、東 ひがし 拒 こばめ 長人 ながと 、東南 とうなん 日本 にっぽん 、西 にし 百濟 くだら 、南 みなみ 瀕 ひん 海 かい 、北 きた 高 だか 麗 うらら 。(中略 ちゅうりゃく )長人 ながと 者 しゃ 、人類 じんるい 長 ちょう 三 さん 丈 たけ 、鋸 のこ 牙 きば 鉤 かぎ 爪 つめ 、黑毛 くろげ 覆 くつがえ 身 み 、不 ふ 火食 かしょく 、噬禽獸 じゅう 、或 ある 搏人以食、得 とく 婦人 ふじん 、以治衣服 いふく 。其國連山 れんざん 數 すう 十 じゅう 里 り 、有 ゆう 峽 かい 、固 かた 以鐵闔、號 ごう 關門 かんもん 、新 しん 羅 ら 常 つね 屯 たむろ 弩 いしゆみ 士 し 數 すう 千 せん 守 もり 之 の 。
新 しん 羅 ら (
中略 ちゅうりゃく )
東 ひがし は
長人 ながと を
拒 こばめ つ。(
中略 ちゅうりゃく )
長人 ながと なる
者 もの は、
人 ひと の
類 るい にして
長三 ちょうぞう 丈 たけ 、
鋸 のこ 牙 きば 鉤 かぎ 爪 つめ 、
黒毛 くろげ もて
身 み を
覆 おお う。
火食 かしょく せず、
禽獣 きんじゅう を噬う。
或 ある いは
人 ひと を搏え
以 もっ て
食 く らう。
婦人 ふじん を
得 え て、
以 もっ て
衣服 いふく を
治 おさ めしむ。
其 そ の
国 くに 、
連山 れんざん 数 すう 十 じゅう 里 り 、
峡 かい あり。
固 かた むるに
鉄 てつ 闔を
以 もっ てし、
関門 かんもん と
号 ごう す。
新 しん 羅 ら 、
常 つね に
弩 いしゆみ 士 し 数 すう 千 せん を
屯 たむろ し
之 これ を
守 まも る
[46] 。
— 新 しん 唐 とう 書 しょ 、巻 まき 二 に 二 に 〇・東夷 あずまえびす 伝 でん ・新 しん 羅 ら 中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:新 しん 唐 とう 書 しょ /卷 まき 220#新 しん 羅 ら
新 しん 羅 ら 國 こく 、東南 とうなん 與 あずか 日本 にっぽん 鄰、東 ひがし 與 あずか 長人 ながと 國 こく 接 せっ 。長 ちょう 人身 じんしん 三 さん 丈 たけ 、鋸 のこ 牙 きば 鉤 かぎ 爪 つめ 、不 ふ 火食 かしょく 、逐禽獸 じゅう 而食之 の 、時 とき 亦 また 食 しょく 人 じん 。裸 はだか 其軀、黑毛 くろげ 覆 くつがえ 之 これ 。其境限 げん 以連山 れんざん 數 すう 千里 せんり 、中有 ちゅうう 山峽 やまかい 、固 かた 以鐵門 もん 、謂 いい 之 の 鐵 てつ 關 せき 。常 つね 使 つかい 弓 ゆみ 弩 いしゆみ 數 すう 千 せん 守 もり 之 の 、由 ゆかり 是 ぜ 不 ふ 過 か 。
新 しん 羅 ら 国 こく (
中略 ちゅうりゃく )
東 ひがし (
北 きた )は
長人 ながと 国 こく と
接 せっ す。
長人 ながと の
身 み は
三 さん 丈 たけ 、
鋸 のこ 牙 きば 鉤 かぎ 爪 つめ 、
火食 かしょく せず。
禽獣 きんじゅう を
逐 お いて
之 これ を
食 く らう、
時 とき に
亦 また た
人 ひと を
食 く らう。
其 そ の軀を
裸 はだか にし、
黒毛 くろげ もて
之 これ を
覆 おお う。其(
新 しん 羅 ら )の
境 さかい 限 げん は
連山 れんざん 数 すう 千 せん (
十 じゅう )
里 さと を
以 もっ てす。
中 なか ごろ
山峡 やまかい 有 あ り、
固 かた むるに
鉄 てつ 門 もん を
以 もっ てし、
之 これ を
鉄 てつ 関 せき と
謂 い う。
常 つね に
弓 ゆみ 弩 いしゆみ 数 すう 千 せん をして
之 これ を
守 まも らしむ、
是 ぜ に
由 よ りて
過 す ぎず
[41] 。
— 太平 たいへい 広 こう 記 き 、巻 まき 四 よん 八 はち 一 いち ・新 しん 羅 ら 条 じょう 中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:太平 たいへい 廣 こう 記 き /卷 まき 第 だい 481#新 しん 羅 ら
李 り 成 しげる 市 し は、「関門 かんもん 」或 ある いは「鉄 てつ 関城 せきじょう 」は新 しん 羅 ら 東北 とうほく の井 い 泉 いずみ 郡 ぐん に位置 いち しており、そこには「炭 すみ 項 こう 関門 かんもん 」乃至 ないし は「鉄 てつ 関城 せきじょう 」という軍事 ぐんじ 施設 しせつ があり、そこに隣接 りんせつ する東 ひがし の集団 しゅうだん は渤海領域 りょういき 民 みん 以外 いがい にはあり得 え ず、長人 ながと は井 い 泉 いずみ 郡 ぐん 以北 いほく の渤海人 じん とみて間違 まちが いなく、長人 ながと は新 しん 羅 ら 辺境 へんきょう の軍事 ぐんじ 的 てき 緊張 きんちょう に密接 みっせつ に関係 かんけい しており、長人 ながと の異形 いぎょう 、食 しょく 人 じん 描写 びょうしゃ からみて、長人 ながと が恐怖 きょうふ の対象 たいしょう となっており、長人 ながと の人間 にんげん とは異 こと なる身体 しんたい 的 てき 特徴 とくちょう 、食 しょく 人 じん 描写 びょうしゃ 、人間 にんげん の女性 じょせい を捕 と らえて衣服 いふく を作 つく らせるという記事 きじ は異形 いぎょう 異類 いるい の伝承 でんしょう であり、一般 いっぱん 的 てき に異 い 民族 みんぞく は、人間 にんげん と異 こと なる身体 しんたい 的 てき 特徴 とくちょう をもつ異形 いぎょう とされ、敵対 てきたい 者 しゃ は或 ある いは自 みずか らの理解 りかい を越 こ えたコスモロジー を持 も つ人 ひと は、人間 にんげん でなく動物 どうぶつ 或 ある いは妖怪 ようかい の類 るい であることが指摘 してき され[47] 、18世紀 せいき の『択 よ 里志 さとし 』は朝鮮半島 ちょうせんはんとう 東北 とうほく について以下 いか 記 しる しており、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 東北 とうほく の厳 きび しい自然 しぜん 環境 かんきょう は、飲食 いんしょく ・衣類 いるい の欠乏 けつぼう に及 およ んでおり人々 ひとびと は犬 いぬ の毛皮 けがわ をまとっており、長人 ながと 記事 きじ の「黒毛 くろげ もて身 み を覆 おお う」や「婦人 ふじん を得 え て、以 もっ て衣服 いふく を治 おさ めしむ」内容 ないよう は、18世紀 せいき に至 いた っても衣服 いふく の類 るい が欠乏 けつぼう していた朝鮮半島 ちょうせんはんとう 東北 とうほく 部 ぶ の実情 じつじょう を仮託 かたく して創作 そうさく されたとみなすこともでき、長人 ながと は、朝鮮半島 ちょうせんはんとう 東北 とうほく の人々 ひとびと の習俗 しゅうぞく に根 ね ざし、日常 にちじょう 的 てき な没交渉 ぼっこうしょう と軍事 ぐんじ 的 てき 緊張 きんちょう が加味 かみ されて醸成 じょうせい された新 しん 羅 ら 人 じん の幻影 げんえい の所産 しょさん であり、「新 しん 羅 ら 人 じん にとって国境 こっきょう を接 せっ する渤海人 じん とは、異形 いぎょう であり、恐怖 きょうふ の対象 たいしょう 」「渤海人 じん を恐怖 きょうふ の対象 たいしょう とするにいたった両者 りょうしゃ の長期間 ちょうきかん にわたる没交渉 ぼっこうしょう と軍事 ぐんじ 的 てき 緊張 きんちょう が、こうした説話 せつわ の醸成 じょうせい に深 ふか くかかわっていた」と指摘 してき している[48] 。
以北 いほく 、
山川 やまかわ 危険 きけん にして、
風俗 ふうぞく 勁悍なり、
土 ど 寒 さむ く
地 ち 痩 や せ、
穀 こく は
惟 おもんみ だ
粟 あわ 麦 むぎ のみ、
粳 うるち 稲 いね 少 すく なく、
綿 めん 絮
無 な し、
土人 どじん は
狗 いぬ 皮 がわ を
以 もっ て
冬 ふゆ を
禦 ふせ ぐ、
性 せい 飢寒 きかん を
堪 こた えること
一 いち に
女 おんな 真 しん の
如 ごと し、
山 やま に
貂 てん 參 まいり 饒 にょう く、
民 みん は
貂 てん 參 さん を
以 もっ て
南 みなみ 商 しょう の
綿布 めんぷ と
換 か え、
方 ほう に
衣 ころも 袴 はかま を
得 え んとす、
然 しか るに
富 とみ 厚 あつ に
非 ひ ざる
者 しゃ は
能 あた わざる也
[48] 。
— 択 よ 里志 さとし
李 り 孝 たかし 珩(朝鮮 ちょうせん 語 ご : 이효형 、釜山 ぷさん 大学 だいがく )は、「李 り 成 しげる 市 し は『新 しん 唐 とう 書 しょ 』長人 ながと 傳承 でんしょう 記事 きじ を分析 ぶんせき して、渤海と新 しん 羅 ら の間 あいだ に交渉 こうしょう がなかったことを明 あき らかにした」と評 ひょう している[49] 。
回 かい 紇 (ウイグル)は鉄 てつ 勒諸 しょ 部 ぶ の一 ひと つであり、バイカル湖 こ 南方 なんぽう で遊牧 ゆうぼく を中心 ちゅうしん に生活 せいかつ していた。8世紀 せいき 半 なか ばに東 ひがし 突厥 を滅 ほろ ぼし、また唐 とう を支援 しえん して安史 やすし の乱 らん を平定 へいてい するなどの軍事 ぐんじ 活動 かつどう を行 おこな うと同時 どうじ に、経済 けいざい 活動 かつどう も活発 かっぱつ に行 おこな われ、渤海とは経済 けいざい ・文化 ぶんか 方面 ほうめん での交流 こうりゅう が行 おこな われていた。回 かい 紇 商人 しょうにん の足跡 あしあと は上京 かみぎょう 府 ふ 以外 いがい にも、率 りつ 賓 まろうど 府 ふ のような辺境 へんきょう 地域 ちいき でも遺物 いぶつ から認 みと められ、古 こ ウスリーク城 じょう からは突厥文字 もじ が刻字 こくじ された回 かい 紇 人 ひと の遺跡 いせき が、沿海州 えんかいしゅう のチャピゴウ河 かわ 岸 きし の渤海寺院 じいん 跡 あと から出土 しゅつど した景 けい 教 きょう の陶 すえ 牌 ぱい からも回 かい 紇 人 ひと の渤海に於 お ける活動 かつどう を示 しめ している。しかしその文化 ぶんか ・経済 けいざい 交流 こうりゅう も840年 ねん に回 かい 鶻 (回 かい 紇 )の政権 せいけん 崩壊 ほうかい により消滅 しょうめつ した。
黒水 くろみず 靺鞨との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
渤海建国 けんこく 当初 とうしょ は黒水 くろみず 靺鞨諸 しょ 部 ぶ は独立 どくりつ した勢力 せいりょく を有 ゆう しており、また唐 とう との対立 たいりつ と、周辺 しゅうへん 諸 もろ 部 ぶ に対 たい する支配 しはい 強化 きょうか を推 お し進 すす める渤海は黒水 くろみず 靺鞨に対 たい し懐柔 かいじゅう 策 さく を採用 さいよう した。当初 とうしょ は突厥 の支配 しはい を受 う けていた黒水 くろみず 靺鞨であるが、次第 しだい に突厥の支配 しはい を脱 だっ し唐 とう へ帰属 きぞく する路線 ろせん への転換 てんかん を図 はか った。722年 ねん に首長 しゅちょう の倪属利 り 稽 が朝見 ちょうけん し、勃利州 しゅう 刺史 しし に冊 さつ 封 ふう され黒水 くろみず 府 ふ を設置 せっち するに至 いた ると、唐 とう と黒水 くろみず 靺鞨による渤海挟撃 きょうげき を危惧 きぐ した大 だい 武芸 ぶげい は黒水 くろみず 靺鞨に出兵 しゅっぺい している。
大 だい 欽茂 が即位 そくい すると唐 とう との大幅 おおはば な関係 かんけい 改善 かいぜん が見 み られ、必然 ひつぜん 的 てき に黒水 くろみず 靺鞨との緊張 きんちょう 状態 じょうたい の緩和 かんわ を見 み るに至 いた った。大仁 おおひと 秀 しげる の時代 じだい になると、渤海により海 うみ 北 きた 諸 しょ 部 ぶ の討伐 とうばつ が行 おこな われ、黒水 くろみず 靺鞨は渤海に服属 ふくぞく し、独自 どくじ に唐 とう に朝見 ちょうけん を行 おこな うことはなくなったが、渤海の統治 とうち に対 たい する反乱 はんらん が発生 はっせい し、黒水 くろみず 靺鞨中心 ちゅうしん 部 ぶ に渤海の行政 ぎょうせい 機構 きこう を設置 せっち し、直接 ちょくせつ 統治 とうち を行 おこな う事 こと は最後 さいご まで実現 じつげん しなかった。
渤海末期 まっき の9世紀 せいき になると、黒水 くろみず 靺鞨は新 しん 羅 ら との連盟 れんめい を模索 もさく するなど自立 じりつ の道 みち を探 さぐ るようになり、また渤海の衰退 すいたい により黒水 くろみず 靺鞨に対 たい する統治 とうち が弱体 じゃくたい 化 か したことで、最終 さいしゅう 的 てき には渤海の従属 じゅうぞく 的 てき 地位 ちい を脱 だっ し、924年 ねん には後 こう 唐 とう に使節 しせつ を送 おく るようになった。
日本 にっぽん との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
大 だい 武芸 ぶげい が神 かみ 亀 ひさし 4年 ねん (727年 ねん )に日本 にっぽん に使者 ししゃ を派遣 はけん してきたことから、日本 にっぽん と渤海との交渉 こうしょう が始 はじ まる。渤海にとってこの交渉 こうしょう は、日本 にっぽん と結 むす びつくことによって、対立 たいりつ していた黒水 くろみず 靺鞨 や新 しん 羅 ら を軍事 ぐんじ 的 てき に牽制 けんせい することを狙 ねら ったものであり[40] :1 、唐 とう に対抗 たいこう するため奈良 なら 時代 じだい から日本 にっぽん に接触 せっしょく した。唐 とう から独立 どくりつ した政権 せいけん を確立 かくりつ した渤海であるが、大 だい 武芸 ぶげい の時代 じだい には唐 とう と対立 たいりつ していた。その当時 とうじ の周辺 しゅうへん 情勢 じょうせい は黒水 くろみず 部 ぶ は唐 とう と極 きわ めて親密 しんみつ な関係 かんけい にあり、新 しん 羅 ら もまた唐 とう に急速 きゅうそく に接近 せっきん しており渤海は国際 こくさい 的 てき な孤立 こりつ を深 ふか めていた。この状況 じょうきょう 下 か 、大 だい 武芸 ぶげい は新 しん 羅 ら と対立 たいりつ していた日本 にっぽん の存在 そんざい に注目 ちゅうもく した。727年 ねん 、渤海は高 こう 仁義 じんぎ ら[50] を日本 にっぽん に派遣 はけん し日本 にっぽん との通 つう 好 このみ を企画 きかく する。この初 はじ めての渤海使 し は、大使 たいし の高 こう 仁義 じんぎ らは往路 おうろ で死亡 しぼう 、生 い き残 のこ った高 こう 斉 ひとし 徳 とく ら8名 めい が出羽 いずは 国 こく から上京 じょうきょう し、12月に聖武天皇 しょうむてんのう に拝謁 はいえつ した。この年 とし 引田 ひきた 虫 むし 麻呂 まろ ら62名 めい を送 おく 渤海客 きゃく 使 し として派遣 はけん するなど軍事 ぐんじ 同盟 どうめい 的 てき な交流 こうりゅう が形成 けいせい された。しかし渤海と唐 とう の関係 かんけい 改善 かいぜん が実現 じつげん すると、日本 にっぽん との関係 かんけい は軍事 ぐんじ 的 てき な性格 せいかく から文化 ぶんか 交流 こうりゅう 的 てき 、商業 しょうぎょう 的 てき な性格 せいかく を帯 お びるようになり、その交流 こうりゅう は926年 ねん 渤海滅亡 めつぼう 時 じ までの200年間 ねんかん 継続 けいぞく した。
日本海 にほんかい 側 がわ の、金沢 かなざわ 、敦賀 つるが 、秋田 あきた 城 じょう などからは渤海との交流 こうりゅう を示 しめ す遺物 いぶつ が発掘 はっくつ されている。
日本 にっぽん の朝廷 ちょうてい は、渤海が「自身 じしん は高句麗 こうくり の後身 こうしん である」と名乗 なの ったことから、かつて滅亡 めつぼう 前後 ぜんこう に辞 じ を低 ひく くして日本 にっぽん に遣 や 使 つかい してきた高句麗 こうくり との関係 かんけい を想起 そうき し、結果 けっか 、渤海を自分 じぶん より下位 かい の朝貢 ちょうこう 国 こく とみなした[40] :1 。日本 にっぽん と渤海の関係 かんけい は、表面 ひょうめん 的 てき には日本 にっぽん が上位 じょうい ・渤海が下位 かい であり、渤海は朝貢 ちょうこう 国 こく の立場 たちば を甘 あま んじて受 う けていた[40] :5 。ただし、時代 じだい によってその態度 たいど は微妙 びみょう に異 こと なっており、宝 たから 亀 ひさし ・延 のべ 暦 れき 年間 ねんかん には日本 にっぽん 側 がわ の国書 こくしょ から高句麗 こうくり とのつながりを示 しめ す文言 もんごん が消 き えて、代 か わりに自尊 じそん 的 てき な表現 ひょうげん が出現 しゅつげん し、唐風 とうふう 文化 ぶんか に対 たい する関心 かんしん が高 たか かった弘 ひろし 仁 ひとし 年間 ねんかん には渤海が唐風 とうふう 文化 ぶんか の積極 せっきょく 的 てき 摂取 せっしゅ に努 つと めていることを評価 ひょうか し、日本 にっぽん の天皇 てんのう が渤海の王 おう に親 した しみを抱 だ いていることを示 しめ すものになっている[51] 。また、初期 しょき の頃 ころ は渤海使 し の帰国 きこく に合 あ わせて遣 や 渤海使 し を返 かえし 使 し として派遣 はけん するのが恒例 こうれい であったが、宝亀 ほうき 年間 ねんかん 以降 いこう はその原則 げんそく が崩 くず れてきたこともあり、渤海使 し は国書 こくしょ と共 とも に中台 ちゅうたい 省 しょう 牒を持参 じさん し、日本 にっぽん 側 がわ も遣 や 渤海使 し に国書 こくしょ と太政官 だじょうかん 牒 を持 も たせるようになった[52] 。
渤海は日本 にっぽん に対 たい して朝貢 ちょうこう をしたが、当時 とうじ の日本 にっぽん の国力 こくりょく では、毎年 まいとし の朝貢 ちょうこう に対 たい して回 かい 賜 たまもの を行 おこな う能力 のうりょく は無 な く、天 てん 長 ちょう 元年 がんねん (824年 ねん )に、渤海に対 たい して使者 ししゃ 派遣 はけん の間隔 かんかく を12年 ねん に1度 ど にするという制限 せいげん が設 もう けられた。日本海 にほんかい 沿岸 えんがん 諸国 しょこく にこの制限 せいげん を通達 つうたつ した文書 ぶんしょ には、「小 しょう の大 だい に事 ごと へること、上 うえ の下 した を待 まて すること、年期 ねんき ・礼 れい 数 すう 、限 かぎ り無 な かるべからず」と、大国 たいこく が小国 しょうこく との交渉 こうしょう に制限 せいげん をつけるのは当然 とうぜん のことだと、かなり高 こう 圧 あつ 的 てき に述 の べている[40] :4 。しかし、渤海使 し はこの12年 ねん に1度 ど という約束 やくそく を平気 へいき で破 やぶ って、数 すう 年 ねん おきに使者 ししゃ を派遣 はけん しており、その目的 もくてき は朝廷 ちょうてい との国交 こっこう にあるのではなく、到着 とうちゃく 地 ち の日本海 にほんかい 沿岸 えんがん でおこなう密 みつ 貿易 ぼうえき の利益 りえき にあったとみられる[40] :4 。渤海は年期 ねんき 違反 いはん に際 さい して、「日本 にっぽん を慕 した う気持 きも ちが強 つよ すぎて、派遣 はけん 間隔 かんかく が空 あ いてしまうことに耐 た えられない」「かつては無 む 制限 せいげん の使者 ししゃ 派遣 はけん が認 みと められていた」という2点 てん を強 つよ く主張 しゅちょう し、日本 にっぽん としても、自分 じぶん を慕 した ってやってくると言 い っている渤海を無下 むげ にもできず、「大国 たいこく のトップである天皇 てんのう は、渤海に憐 あわ れみを示 しめ すべき」という考 かんが えに基 もとづ き、渤海の無理 むり な主張 しゅちょう を受 う け入 い れることも度々 たびたび あった[40] :5 。
咸和 十 じゅう 一 いち 年 ねん 閏 うるう 九 きゅう 月 がつ 二 に 十 じゅう 五 ご 日 にち 付 づけ 太政官 だじょうかん 宛 あて 中台 ちゅうたい 省 しょう 牒(渤海の三省 みつよし の1つである中台 ちゅうたい 省 しょう の牒 )の写 うつ しによれば、渤海使 し は105人 にん の人員 じんいん で構成 こうせい されており、105人 にん の内訳 うちわけ は、使 つかい 頭 あたま 1人 にん (政 せい 堂 どう 省 しょう 左 ひだり 允 まこと ・賀 が 福 ぶく 延 のべ )、嗣使1人 にん (王 おう 宝 たから 璋 あきら )、判官 ほうがん 2人 にん (高文 たかふみ 暄、烏 がらす 孝 こう 慎 まき )、録 ろく 事 ごと 3人 にん (高 こう 文宣 ふみのぶ 、高 こう 平信 へいしん 、安 あん 寛 ひろし 喜 き )、訳語 やくご 2人 にん (季 き 節 ぶし 憲 けん 、高 こう 鷹 たか 順 じゅん )、史生 ふみお 2人 ふたり (王 おう 禄 ろく 昇 のぼり 、李 り 朝 ちょう 清 しん )、天文 てんもん 生 せい 1人 にん (晋 すすむ 昇 のぼり 堂 どう )、大 だい 首領 しゅりょう 65人 にん 、梢 こずえ 工 こう 28人 にん である。渤海使 し の圧倒的 あっとうてき 多数 たすう を占 し める首領 しゅりょう とは、渤海の在地 ざいち 社会 しゃかい に支配 しはい 者 しゃ として君臨 くんりん する靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく の首長 しゅちょう であり、渤海王権 おうけん は靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく の首長 しゅちょう を包摂 ほうせつ 、国家 こっか 的 てき に再 さい 編成 へんせい することにより、渤海の国家 こっか 集権 しゅうけん 的 てき 支配 しはい を可能 かのう とし、渤海は靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく の首長 しゅちょう を制度 せいど 的 てき 組織 そしき 化 か 、日本 にっぽん 外交 がいこう に恒常 こうじょう 的 てき に参画 さんかく させた[53] 。『延喜 えんぎ 式 しき 』大蔵省 おおくらしょう 賜 たまもの 蕃 しげる 客 きゃく 例 れい 条 じょう に規定 きてい される渤海使 し の構成 こうせい 員 いん と回 かい 賜 たまもの 品 ひん は、渤海王 おう (絹 きぬ 30疋、絁 30疋、糸 いと 300絇、綿 めん 300屯 たむろ )、大使 たいし (絹 きぬ 10疋、絁20疋、糸 いと 50絇、綿 めん 100屯 たむろ )、副使 ふくし (絁20疋、糸 いと 30絇、綿 めん 各 かく 70屯 たむろ )、判官 ほうがん (絁各15疋、糸 いと 各 かく 20絇、綿 めん 各 かく 50屯 たむろ )、録 ろく 事 ごと (絁各10疋、綿 めん 各 かく 30屯 たむろ )、訳語 やくご (絁各5疋、綿 めん 各 かく 20屯 たむろ )、史生 ふみお (絁各5疋、綿 めん 各 かく 20屯 たむろ )、首領 しゅりょう (絁各5疋、綿 めん 各 かく 20屯 たむろ )であり、首領 しゅりょう たちは渤海使 し として来日 らいにち すると回 かい 賜 たまもの 品 ひん が与 あた えられ、分量 ぶんりょう は渤海に対 たい する回 かい 賜 たまもの 総量 そうりょう の半分 はんぶん を占 し めた[53] 。
『新 しん 唐 とう 書 しょ 』渤海伝 でん は「大 だい 暦 こよみ 中 ちゅう 、二 に 十 じゅう 五 ご 來 らい 、以日本 にっぽん 舞 まい 女 おんな 十 じゅう 一獻 いっこん 諸 しょ 朝 あさ 」と記 しる し、唐 とう の大 だい 暦 こよみ 年間 ねんかん (766年 ねん ~779年 ねん )に渤海国 こく が日本 にっぽん の舞 まい 女 おんな 11人 にん を唐 とう に献上 けんじょう したことを伝 つた えている。
日本 にっぽん は渤海との交渉 こうしょう に関連 かんれん する記録 きろく が非常 ひじょう に多 おお く、『続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 』『日本 にっぽん 後 ご 紀 き 』『続 ぞく 日本 にっぽん 後 ご 紀 き 』『日本 にっぽん 文徳 ふみのり 天皇 てんのう 実録 じつろく 』『日本 にっぽん 三 さん 代 だい 実録 じつろく 』などの歴史 れきし 書 しょ は渤海が存在 そんざい していた同 どう 時代 じだい の史料 しりょう であり、さらに木簡 もっかん や金石 かねいし 文 あや などが相当 そうとう 数 すう あり、渤海史 し 研究 けんきゅう に重要 じゅうよう な一 いち 次 じ 史料 しりょう を多 おお く保有 ほゆう している。渤海と日本 にっぽん との外交 がいこう 関係 かんけい は渤海が34回 かい (35回 かい とする説 せつ もある)、日本 にっぽん が13回 かい 使者 ししゃ を派遣 はけん している[54] 。『三 さん 国史 こくし 記 き 』には、倭 やまと を除 のぞ けば、新 しん 羅 ら の歴史 れきし の中 なか で、日本 にっぽん との公式 こうしき 交渉 こうしょう は10回 かい しか残 のこ しておらず、これだけでも渤海と日本 にっぽん の緊密 きんみつ 性 せい は証明 しょうめい されて余 あま りある[55] 。
農業 のうぎょう では考古学 こうこがく の成果 せいか より渤海全域 ぜんいき での鉄器 てっき の使用 しよう 、牛 ぎゅう 耕 こう の利用 りよう が確認 かくにん されている。これらの農 のう 器具 きぐ を利用 りよう し、渤海では五穀 ごこく と称 しょう される麻 あさ 、黍 きび (もちきび)、稷 きび (きび)、麦 むぎ 、菽 まめ が広 ひろ く栽培 さいばい されていた。これ以外 いがい に忽 ゆるがせ 汗水 あせみず 流域 りゅういき の荏(えごま )、盧 の 城 じょう の稲 いね 、丸 まる 都 と の李 り 、楽 らく 游 ゆう の梨 なし など各地 かくち で特徴 とくちょう ある作物 さくもつ が栽培 さいばい されていたことが知 し られている。また前後 ぜんご 時代 じだい の記録 きろく を見 み ると葵 あおい 菜 さい の栽培 さいばい や、渤海の使節 しせつ が来日 らいにち した際 さい に渤海人 じん の好 この む大 だい 韮 にら を用意 ようい した記録 きろく からも、様々 さまざま な野菜 やさい が栽培 さいばい されていたことを窺 うかが い知 し る事 こと が出来 でき る。また、渤海の在 あ った時代 じだい は有数 ゆうすう の満 まん 洲 しゅう 南部 なんぶ が温暖 おんだん だった時期 じき であり、この事 こと も農業 のうぎょう に寄与 きよ した。
渤海では馬 うま の飼育 しいく が重視 じゅうし されていた。これは軍事 ぐんじ 的 てき な需要 じゅよう の他 ほか 、駅 えき 站交通 こうつう や貿易 ぼうえき 需要 じゅよう からもかなりの数 かず が生産 せいさん されていたことが知 し られている。また豚 ぶた 、牛 うし 、羊 ひつじ などの飼育 しいく も盛 さか んであり、それらは渤海人 じん の墳墓 ふんぼ の中 なか からそれらの骨 ほね が発掘 はっくつ されることからも十分 じゅうぶん に窺 うかが える。
渤海の漁業 ぎょぎょう は相当 そうとう の技術 ぎじゅつ 発展 はってん を遂 と げており、唐 とう へ奉献 ほうけん した方 かた 物 ぶつ の中 なか に「鯨 くじら 魚 ぎょ 睛」と称 しょう される鯨 くじら の眼球 がんきゅう が含 ふく まれていたことから規模 きぼ の大 おお きい捕鯨 ほげい までを可能 かのう とする段階 だんかい に達 たっ していた。また各地 かくち の特産 とくさん 品 ひん として湄 沱湖(現在 げんざい の興 きょう 凱湖 )の鯽 (フナ)や、忽 ゆるがせ 汗 あせ 海 うみ (現在 げんざい の鏡 かがみ 泊 とまり 湖 こ )の「湖 みずうみ 鯽 」などが記録 きろく に残 のこ っており、この他 た 文 ぶん 昌 あきら 魚 ぎょ (鯉 こい の一種 いっしゅ )、鰉 ひがい 魚 ぎょ (チョウザメ )、鮭 さけ (鮭 さけ )、斑 むら 魚 ぎょ 、鯔 ぼら 魚 ぎょ などが記録 きろく に残 のこ っている。
渤海の在 あ った地域 ちいき は鉄 てつ を豊富 ほうふ に産出 さんしゅつ する地域 ちいき であり、全域 ぜんいき から多数 たすう の鉄製 てつせい 農具 のうぐ が出土 しゅつど しており、かなり冶金 やきん 手工業 しゅこうぎょう が発展 はってん していたと考 かんが えられる。
唐 とう への朝貢 ちょうこう 記録 きろく には鷹 たか や鶻 が進貢 しんこう されており、特 とく に海 うみ 東 ひがし 青 あお は鷹狩 たかが り の珍品 ちんぴん とされ、貴重 きちょう な貢 みつぎ 者 しゃ として唐 とう へ献上 けんじょう されていた。他 ほか にも太白山 たいはくさん (現在 げんざい の長 ちょう 白山 はくさん )の兎 うさぎ や扶余 の鹿 しか などは特産 とくさん 品 ひん として『新 しん 唐 とう 書 しょ 』に記録 きろく されている。
日本 にっぽん との関係 かんけい で重要 じゅうよう な地位 ちい をしめたものが貂 てん である。地理 ちり 的 てき に農耕 のうこう は難 むずか しく、渤海王 おう から天皇 てんのう に対 たい しては、トラ ・ヒグマ ・ヒョウ の毛皮 けがわ や人参 にんじん (朝鮮人参 ちょうせんにんじん )・蜜 みつ が送 おく られ、日本 にっぽん に来 き た渤海使 し には、特別 とくべつ に毎日 まいにち シカ 二 に 頭 とう が準備 じゅんび されており、肉食 にくしょく を好 この んでいることから、渤海が狩猟 しゅりょう ・採集 さいしゅう を基盤 きばん とした社会 しゃかい であったことがうかがえる[40] :1 。
E.I. ゲルマン(英語 えいご : E. I. Gelman 、ロシア語 ご : Е. И. Гельман 、ロシア科学 かがく アカデミー極東 きょくとう 支部 しぶ 歴史 れきし ・考古学 こうこがく ・民俗 みんぞく 学 がく 研究所 けんきゅうじょ )は、渤海の施 ほどこせ 釉土器 き と陶磁器 とうじき の起源 きげん が唐 とう にあるとしながらも、唐 から 三彩 さんさい と施 ほどこせ 釉土器 き とは異 こと なる特色 とくしょく があるといい、渤海に三彩 さんさい が定着 ていちゃく することができたのは、安史 やすし の乱 らん 後 ご に、中国 ちゅうごく で三彩 さんさい の生産 せいさん がほとんど破綻 はたん し、その職人 しょくにん が仕事 しごと を見 み つけて渤海へと渡 わた り、これが渤海の三彩 さんさい の起源 きげん であり、渤海の粘土 ねんど は質 しつ が異 こと なるため、渤海で生産 せいさん された三彩 さんさい は特徴 とくちょう を持 も つようになり、渤海で生産 せいさん された三彩 さんさい は「渤海三彩 さんさい 」と呼 よ ぶことができると主張 しゅちょう している[56] 。
エ・ヴェ・シャフクノフ(極東 きょくとう 連邦 れんぽう 大学 だいがく 、英語 えいご : E. V. Shavkunov 、ロシア語 ご : Эрнст Владимирович Шавкунов )は、クラスキノ土 ど 城 じょう から出土 しゅつど した渤海瓦 かわら には顕著 けんちょ な高句麗 こうくり 瓦 かわら の特徴 とくちょう や影響 えいきょう は見 み られないと指摘 してき している[57] 。
商品 しょうひん 経済 けいざい が発展 はってん していく中 なか で渤海では貨幣 かへい が使用 しよう されていたと考 かんが えられている(極少 きょくしょう 数 すう 枚 まい ながら開 ひらけ 元 もと 通宝 つうほう が出土 しゅつど している[58] )。それは大 だい 武芸 ぶげい が日本 にっぽん に送 おく った国書 こくしょ の中 なか で「皮 かわ 幣 ぬさ 」の文字 もじ を使用 しよう していること、873年 ねん に日本 にっぽん で貿易 ぼうえき を行 おこな った際 さい に、賜 たまもの 銭 ぜに を得 え て日本 にっぽん の物産 ぶっさん を購入 こうにゅう していること、滅亡 めつぼう に際 さい して耶律阿保 あぼ 機 き が「獲 え る所 ところ の器 うつわ 、幣 ぬさ 」を将士 しょうし に分 わ け与 あた えたことからも物々交換 ぶつぶつこうかん の段階 だんかい を超 こ え、貨幣 かへい が流通 りゅうつう していた事 こと を示 しめ すものと考 かんが えられている。
渤海社会 しゃかい は靺鞨の小 しょう 部族 ぶぞく を単位 たんい として構成 こうせい され、部族 ぶぞく 長 ちょう は首領 しゅりょう と称 しょう され支配 しはい 構造 こうぞう に組 く み込 こ まれた。首領 しゅりょう は、渤海王権 おうけん に自己 じこ の産物 さんぶつ を貢 みつげ 納 おさめ し、王権 おうけん との交易 こうえき によって必要 ひつよう な物資 ぶっし を入手 にゅうしゅ し、渤海王権 おうけん は首領 しゅりょう から得 え た産物 さんぶつ を日本 にっぽん や唐 とう との交易 こうえき に使用 しよう 、必要 ひつよう な物資 ぶっし を入手 にゅうしゅ した[59] 。例 たと えば、絹 きぬ 、絹糸 けんし 、金襴 きんらん (英語 えいご 版 ばん ) 、水銀 すいぎん 、銅 どう 、水晶 すいしょう 、樹脂 じゅし 、柘榴 ざくろ 石 せき 、クルミ でつくられた扇子 せんす など、渤海で不足 ふそく している製品 せいひん を自国 じこく 製品 せいひん と日本 にっぽん で交換 こうかん した[60] 。
「国 くに を挙 あ げて内属 ないぞく し、子 こ を遣 つか わして来朝 らいちょう し、命 いのち を祗みて章 しょう を奉 まつ り、礼 れい 違 ちが う者 もの なし」 (『白 はく 氏 し 文集 ぶんしゅう 』巻 まき 52「渤海王子 おうじ 加 か 官制 かんせい 」)というように、 渤海は唐 とう に臣従 しんじゅう して[61] 、何 なん 度 ど となく使者 ししゃ を送 おく り、それに付随 ふずい して留学生 りゅうがくせい を唐 とう へ送 おく り文化 ぶんか を吸収 きゅうしゅう させ、持 も ち帰 かえ らせた。この事 こと により渤海の上層 じょうそう 部 ぶ は儒教 じゅきょう 的 てき な教養 きょうよう を得 え 、それを元 もと に国政 こくせい に当 あ たったと思 おも われる。738年 ねん には、『唐 から 礼 れい 』、『三国志 さんごくし 』、『晋 すすむ 書 しょ 』、『十 じゅう 六 ろく 国 こく 春秋 しゅんじゅう 』の書写 しょしゃ を唐 とう に願 ねが い出 で るなど、「渤海は晏寧にして遠 とお く華 はな 風 ふう を慕 した う」(『文苑 ぶんえん 英華 えいか 』巻 まき 471「渤海王 おう 大 だい 彝 つね 震 ふるえ に与 あずか うる書 しょ 」)ように、渤海が唐 から 文化 ぶんか に対 たい する強 つよ い憧憬 どうけい を持 も ち、官 かん 司 し 制 せい や地方 ちほう 行政 ぎょうせい 組織 そしき 、首都 しゅと 上京 じょうきょう のように唐 とう の長安 ながやす 城 じょう を真似 まね た都城 みやこのじょう の建設 けんせつ など、唐 とう の制度 せいど に倣 なら った律令 りつりょう 国家 こっか の建設 けんせつ が推進 すいしん された[61] 。また、773年 ねん には、「中華 ちゅうか の文物 ぶんぶつ を慕 した う」(『冊 さつ 府 ふ 元 もと 亀 かめ 』巻 まき 41・寛 ひろし 怒 いか )あまり渤海の人質 ひとじち が皇帝 こうてい の袞竜 を盗 ぬす む事件 じけん が起 お こる[61] 。宗教 しゅうきょう 的 てき には仏教 ぶっきょう の信奉 しんぽう が篤 あつ く、首都 しゅと 上京 じょうきょう の遺跡 いせき からは多 おお くの寺 てら ・仏教 ぶっきょう 関係 かんけい の建物 たてもの が発見 はっけん されている。渤海文化 ぶんか は唐 とう の影響 えいきょう が非常 ひじょう に強 つよ いが、靺鞨 文化 ぶんか の継承 けいしょう もされており、他 た には高句麗 こうくり 文化 ぶんか の影響 えいきょう も窺 うかが える、三 みっ つの文化 ぶんか から独自 どくじ の文化 ぶんか を作 つく り出 だ している。
前述 ぜんじゅつ したように日本 にっぽん との通 つう 使 し も行 おこな われており、初期 しょき は新 しん 羅 ら ・唐 とう に対 たい する軍事 ぐんじ 的 てき な牽制 けんせい の意味合 いみあ いが強 つよ かったが後半 こうはん になると儀礼 ぎれい 的 てき ・商業 しょうぎょう 的 てき な意味合 いみあ いが強 つよ くなっていった。実態 じったい は別 べつ として渤海からの使節 しせつ を日本 にっぽん は朝貢 ちょうこう であると認識 にんしき しており、日本 にっぽん 側 がわ は渤海側 がわ の使者 ししゃ を大 おお いに歓待 かんたい をしており、この財政 ざいせい 的 てき 負担 ふたん がふくらんだために後期 こうき では12年 ねん に1回 かい と回数 かいすう の制限 せいげん も行 おこな われている(遣 や 渤海使 し )。また、その際 さい に日本 にっぽん との文化 ぶんか 交流 こうりゅう が積極 せっきょく 的 てき に行 おこな われている。一 いち 例 れい として菅原 すがわら 道真 みちざね と渤海の使者 ししゃ との間 あいだ で漢詩 かんし の応酬 おうしゅう が行 おこな われたとの記録 きろく がある[62] 。
首都 しゅと 上京 かみぎょう 龍泉 りゅうせん 府 ふ は、中央 ちゅうおう に宮殿 きゅうでん 、周 まわ りに城壁 じょうへき 、周囲 しゅうい 16kmと、ほぼ平城京 へいじょうきょう と同 おな じ規模 きぼ である[63] 。井上 いのうえ 和人 かずと は、この都 と の衛星 えいせい 写真 しゃしん を分析 ぶんせき し、平城京 へいじょうきょう 造営 ぞうえい と同 おな じ物差 ものさ し を使 つか っているという見解 けんかい を示 しめ した[63] 。したがって、上京 かみぎょう 龍泉 りゅうせん 府 ふ は、長 なが らく中国 ちゅうごく の長安 ながやす を真似 まね たものだと思 おも われていたが、平城京 へいじょうきょう の造営 ぞうえい は710年 ねん 、首都 しゅと 上京 じょうきょう は755年 ねん なので、727年 ねん に初 はじ めて来日 らいにち した渤海使 し が日本 にっぽん から都 と 造 づく りを学 まな んだ可能 かのう 性 せい がある[63] 。
渤海の教育 きょういく 制度 せいど は唐 とう 制 せい に倣 なら ったものであったと推察 すいさつ される。日本 にっぽん に派遣 はけん された渤海使 し の随員 ずいいん のなかに大小 だいしょう さまざまな録 ろく 事 ごと 官 かん が設 もう けられており、また渤海滅亡 めつぼう 後 ご に建国 けんこく された東 ひがし 丹 に 国 こく に広 ひろ く博士 はかせ や助 じょ 教 きょう が設置 せっち されていたことから、これら官職 かんしょく に類似 るいじ するものが渤海にも設置 せっち され、それは唐 とう 制 せい に類似 るいじ するものであったことを窺 うかが わせる。
また上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう では女子 じょし に対 たい する教育 きょういく も実施 じっし されていた。これは貞恵 さだえ 公主 こうしゅ や貞 さだ 孝 こう 公主 こうしゅ の墓碑 ぼひ に「女 おんな 師 し 」の文字 もじ があることから推察 すいさつ されている。
これらの教育 きょういく 制度 せいど により育成 いくせい された人材 じんざい は、一部 いちぶ が唐 とう に留学 りゅうがく し、科挙 かきょ に及第 きゅうだい する者 もの を輩出 はいしゅつ するなど、相当 そうとう な教育 きょういく 水準 すいじゅん を有 ゆう していたと考 かんが えられる。
渤海国 こく の公用 こうよう 語 ご は初 はじ め靺鞨語 ご が使用 しよう されていた[4] 。
『新 しん 唐 とう 書 しょ 』渤海伝 でん には以下 いか の記事 きじ がある。
俗 ぞく 謂 いい 王 おう 曰「可 か 毒 どく 夫 おっと 」、曰「聖王 せいおう 」、曰「基 もと 下 か 」。其命爲 ため 「教 きょう 」。
俗称 ぞくしょう では
王 おう (を
名付 なづ けて)
可 か 毒 どく 夫 おっと 、あるいは
聖 ひじり 主 ぬし 、あるいは
基 もと 下 か といった。(
王 おう の)
命令 めいれい を
教 きょう という
[64] 。
— 新 しん 唐 とう 書 しょ 、渤海伝 でん 中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:新 しん 唐 とう 書 しょ /卷 まき 219#渤海
ロシア の研究 けんきゅう 者 しゃ のエ・ヴェ・シャフクノフ(極東 きょくとう 連邦 れんぽう 大学 だいがく 、英語 えいご : E. V. Shavkunov 、ロシア語 ご : Эрнст Владимирович Шавкунов )の研究 けんきゅう によれば、渤海語 ご で王 おう をいう「可 か 毒 どく 夫 おっと 」はおそらくツングース系 けい 満 まん 洲 しゅう 語 ご の「卡達拉 ひしげ 」(満 まん 洲 しゅう 語 ご : ᡴᠠᡩᠠᠯᠠ᠊ 、kadala-、カダラ:管理 かんり するの意 い )やツングース系 けい ナナイ語 ご の「凱泰」(カイタイ)と関係 かんけい があり、その本来 ほんらい の意味 いみ は年長 ねんちょう の管理 かんり 者 しゃ の意味 いみ であろうという。また、渤海人 じん と靺鞨人 じん の名前 なまえ の最後 さいご に「蒙 こうむ 」の字 じ がついていることがあるが(烏 がらす 借 か 芝 しば 蒙 こうむ 、己 おのれ 珎蒙、慕思蒙 こうむ など)、これは靺鞨語 ご の重要 じゅうよう な膠着 こうちゃく 語尾 ごび の一 ひと つを示 しめ しており、ツングース系 けい 民族 みんぞく は氏族 しぞく を「木 き 昆 こん (満 まん 洲 しゅう 語 ご : ᠮᡠᡴᡡᠨ 、 転写 てんしゃ :mukūn)」「謀 はかりごと 克 かつ 」と称 しょう しているが、「蒙 こうむ 」の音 おと が「木 き 」や「謀 はかりごと 」の音 おと と近 ちか いことを考 かんが えると、この「蒙 こうむ 」の音 おと はその人 ひと が属 ぞく する氏族 しぞく を表 あらわ す音節 おんせつ であろうと推測 すいそく できると述 の べている[65] 。
しかしその後 ご 、言語 げんご の漢 かん 化 か が進 すす んで次第 しだい に漢語 かんご が公用 こうよう 語 ご となった[66] 。漢語 かんご が使用 しよう された証拠 しょうこ として渤海使 し が来日 らいにち したときに春日 かすが 宅 たく 成 しげる や伊勢 いせ 興 きょう 房 ぼう らのように豊富 ほうふ な入唐 にっとう 経験 けいけん があり、それらの経験 けいけん によって培 つちか われた実用 じつよう の漢語 かんご に習熟 しゅうじゅく した人物 じんぶつ が渤海通訳 つうやく を務 つと めていたことなどが挙 あ げられ[67] 、渤海通訳 つうやく が使用 しよう していた言語 げんご である漢語 かんご を渤海使 し はこれを再度 さいど の通訳 つうやく を介 かい することなくそのまま理解 りかい し会話 かいわ した[68] 。渤海を構成 こうせい する靺鞨人 じん や高句麗 こうくり 人 じん は、それぞれ独自 どくじ の言語 げんご を有 ゆう しており、このような場合 ばあい は、優位 ゆうい にたつ種族 しゅぞく の言語 げんご を共通 きょうつう 言語 げんご とする方法 ほうほう もあるが、外部 がいぶ の権威 けんい ある言語 げんご を異 こと なる種族 しゅぞく 間 あいだ の共通 きょうつう 言語 げんご にすることもあり、渤海を建国 けんこく したのは唐 とう に居住 きょじゅう していた靺鞨人 じん であることから、その指導 しどう 層 そう は漢語 かんご が話 はな せたとみられ、これを異 こと なる種族 しゅぞく の意思 いし 疎通 そつう に使用 しよう していたと考 かんが えられ、漢語 かんご には当時 とうじ 異 こと なる言語 げんご を話 はな す渤海の人々 ひとびと を納得 なっとく させるだけの権威 けんい があった[68] 。その他 た 、渤海国 こく に属 ぞく する高 こう 麗人 れいじん 、突厥人 じん 、契 ちぎり 丹 に 人 じん 、室 しつ 韋人 、回 かい 紇人 などはそのまま自己 じこ の言語 げんご を使用 しよう していた[69] 。
漢語 かんご が公用 こうよう 語 ご であった根拠 こんきょ として以下 いか のことが挙 あ げられる。
873年 ねん 3月 がつ に薩摩 さつま に漂着 ひょうちゃく した渤海人 じん 崔 ちぇ 宗 そう 佐 たすく ・大 だい 陳 ひね 潤 じゅん ら一 いち 行 ぎょう は、はじめ「言語 げんご 難 なん 通 どおり 、問答 もんどう 何 なん 用 よう 」という状態 じょうたい であり、日本人 にっぽんじん と口頭 こうとう による意思 いし 疎通 そつう ができず、筆談 ひつだん で自分 じぶん 達 たち は渤海の遣唐使 けんとうし であると示 しめ したが、太宰府 だざいふ は「大 だい 唐 から 通事 つうじ 張 ちょう 建 たて 忠 ただし 」を派遣 はけん して事情 じじょう 聴取 ちょうしゅ をおこない、間違 まちが いなく渤海国 こく 入唐 にっとう 使 し であることがあきらかにされた[注釈 ちゅうしゃく 3] [注釈 ちゅうしゃく 4] 。これは崔 ちぇ 宗 そう 佐 たすく ・大 だい 陳 ひね 潤 じゅん ら一 いち 行 ぎょう が、漢語 かんご をもって通訳 つうやく する大 だい 唐 から 通事 つうじ 張 ちょう 建 たて 忠 ただし の言葉 ことば は理解 りかい できたこと、つまり崔 ちぇ 宗 そう 佐 たすく ・大 だい 陳 ひね 潤 じゅん ら一 いち 行 ぎょう は漢語 かんご が話 はな せたということであり、渤海国 こく 使 つかい 人 じん と名乗 なの っている者 もの に対 たい して、また太宰府 だざいふ も朝廷 ちょうてい の指示 しじ に従 したが い漂着 ひょうちゃく 者 しゃ を「渤海国人 くにびと 」と確認 かくにん した上 うえ で「大 だい 唐 から 通事 つうじ 」を遣 つか わし、漂着 ひょうちゃく 者 しゃ を「渤海国人 くにびと 」と認 みと めたにもかかわらず、渤海語 ご 通訳 つうやく 者 しゃ を遣 つか わしておらず、太宰府 だざいふ すなわち朝廷 ちょうてい の、漢語 かんご は渤海側 がわ とも話 はな し合 あ える言語 げんご と認 みと めていたこと、漢語 かんご は渤海人 じん と通 つう じる言語 げんご と認 みと めていたことが分 わ かる[70] [71] 。
日本 にっぽん に渤海使 し がくると、日本 にっぽん では渤海通事 つうじ が指名 しめい され通訳 つうやく したが、通訳 つうやく に指名 しめい された伊勢 いせ 興 きょう 房 ぼう は862年 ねん 7月 がつ に高岳親王 たかおかしんのう に従 したが い入唐 にっとう した経歴 けいれき があり、伊勢 いせ 興 きょう 房 ぼう は高岳親王 たかおかしんのう とともに長安 ながやす に赴 おもむ いたが864年 ねん 10月 がつ 9日 にち に、高岳親王 たかおかしんのう の命 いのち により一人 ひとり 淮南 ワイナン に却廻し、往路 おうろ のところどころに預 あづ けた寄附 きふ 功徳 くどく の雑 ざつ 物 ぶつ を受 う け取 と り広州 こうしゅう に向 む かったが、高岳親王 たかおかしんのう を待 ま たずに865年 ねん 6月 がつ に福 ふく 州 しゅう から唐 から 商人 しょうにん 李 り 延 のべ 孝 こう の船 ふね に乗 の り、宗 そう 叡 あきら とともに帰国 きこく した。伊勢 いせ 興 きょう 房 ぼう は在 ざい 唐 とう 4年 ねん におよび、しかも一人 ひとり で長安 ながやす から広州 こうしゅう に向 む かっていることを考慮 こうりょ するならば、伊勢 いせ 興 きょう 房 ぼう は漢語 かんご に通暁 つうぎょう していたと考 かんが えられ、通訳 つうやく に任命 にんめい されたのもその能力 のうりょく を買 か われたからとみられる[72] 。
渤海通事 つうじ に指名 しめい された大和 やまと 有 ゆう 卿 きょう の経歴 けいれき は詳 つまび らかではないが、実質 じっしつ 的 てき に最後 さいご の遣唐使 けんとうし となった承 うけたまわ 和 わ の遣唐使 けんとうし の漢語 かんご 訳語 やくご に任 にん じられた人物 じんぶつ に大和 やまと 真人 まさと 耳 みみ 主 ぬし がおり、この大和 やまと 有 ゆう 卿 きょう と大和 やまと 真人 まさと 耳 みみ 主 ぬし は同 どう 一人物 いちじんぶつ とみられ、大和 やまと 真人 まさと 耳 みみ 主 ぬし は839年 ねん 8月 がつ 25日 にち に唐 とう から帰国 きこく したが、漢語 かんご に通暁 つうぎょう している人物 じんぶつ とみられること[73] 。
渤海通訳 つうやく を養成 ようせい した秦 はた 朝 ちょう 元 もと は『懐 ふところ 風 ふう 藻 も 』所載 しょさい の弁 べん 正 ただし の略伝 りゃくでん によると大宝 たいほう 年中 ねんじゅう に遣唐使 けんとうし に従 したが い入唐 にっとう した留学 りゅうがく 僧 そう 弁 べん 正 ただし の子 こ であり、唐 とう で生 う まれて718年 ねん に帰国 きこく し、733年 ねん には再度 さいど 入唐 にっとう 判官 ほうがん として渡 わたり 唐 とう し、玄 げん 宗 むね にも謁見 えっけん したこともあり、秦 はた 朝 ちょう 元 もと が唐 とう で出生 しゅっしょう した事実 じじつ から漢語 かんご に堪能 かんのう であったことは疑 うたが いない。同 おな じく渤海通訳 つうやく を養成 ようせい した陽 ひ 侯 こう 真 ま 身 み は『和名 わみょう 類聚 るいじゅう 抄 しょう 』『令 れい 集 しゅう 解 かい 』に引 ひ かれている『楊氏漢語 かんご 抄 しょう 』が陽 ひ 侯 こう 真 ま 身 み によるものであることから漢語 かんご に通暁 つうぎょう した人物 じんぶつ であると考 かんが えられ、このように渤海通訳 つうやく の師 し は漢語 かんご に通暁 つうぎょう した人物 じんぶつ であること[74] 。
唐 とう の三省 みつよし に擬 ぎ して宣 せん 詔 みことのり ・中台 ちゅうたい ・政 せい 堂 どう の三省 みつよし が置 お かれ、政 せい 堂 どう 省 しょう の下 した に六 ろく 部 ぶ が置 お かれたように渤海は唐 とう の律令制 りつりょうせい を導入 どうにゅう し、律令制 りつりょうせい 国家 こっか をめざしたが、それは7世紀 せいき 末 まつ から8世紀 せいき 初期 しょき の国家 こっか 生成 せいせい 期 き に靺鞨諸 しょ 部内 ぶない の部落 ぶらく と呼 よ ばれる大小 だいしょう の地域 ちいき に割拠 かっきょ する在地 ざいち 首長 しゅちょう である首領 しゅりょう を通 とお して百姓 ひゃくしょう =住民 じゅうみん を支配 しはい し、その支配 しはい は靺鞨社会 しゃかい を解体 かいたい させることなく、適応 てきおう しやすい形 かたち で唐 とう の律令制 りつりょうせい をはめ込 こ んで再編 さいへん し、独自 どくじ の中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 体制 たいせい を形成 けいせい しようとするものであったことから、律令制 りつりょうせい 国家 こっか を指向 しこう した渤海の支配 しはい 者 しゃ 層 そう が国家 こっか 統一 とういつ の手段 しゅだん として漢語 かんご を導入 どうにゅう したと考 かんが えられること[75] 。
春日 かすが 宅 たく 成 しげる は、20年 ねん 近 ちか くの間 あいだ に連続 れんぞく して4回 かい 通訳 つうやく に任命 にんめい されており、これは記録 きろく に残 のこ っている限 かぎ りにおいてなので、実際 じっさい にはもっと多 おお かったのかもしれないが、春日 かすが 宅 たく 成 なり の経歴 けいれき からは中国 ちゅうごく との結 むす びつきが知 し られる。春日 かすが 宅 たく 成 なり は838年 ねん 5月 がつ 7日 にち 出航 しゅっこう の遣唐使 けんとうし 船 せん で入唐 にっとう し、その後 ご 春太郎 はるたろう という中国 ちゅうごく 名 めい を名乗 なの り一 いち 行 ぎょう と別 べつ 行動 こうどう をとった人物 じんぶつ である。春日 かすが 宅 たく 成 なり が帰国 きこく の途 と についたのは847年 ねん 6月 がつ 9日 にち であるから約 やく 9年間 ねんかん 唐 とう に在住 ざいじゅう したことになる。29回 かい 目 め の来日 らいにち 渤海使 し は、前回 ぜんかい との期間 きかん が短 みじか すぎるという理由 りゆう で入京 にゅうきょう が許 ゆる されず、日本 にっぽん に対 たい する国書 こくしょ も贈物 おくりもの (珍 ちん 翫椚謂 いい 酒盃 しゅはい など)も朝廷 ちょうてい は受 う け取 と らなかったが、通訳 つうやく 者 しゃ だった春日 かすが 宅 たく 成 しげる は、贈物 おくりもの について「かつて自分 じぶん は大 だい 唐 とう で数々 かずかず の珍宝 ちんぽう を見 み てきたが、これほどまでに奇 き 怪 かい なものは見 み たことがない」と述 の べており[注釈 ちゅうしゃく 5] 、このような発言 はつげん ができるのは、春日 かすが 宅 たく 成 なり が並々 なみなみ ならぬ中国 ちゅうごく 通 どおり であり、長期 ちょうき にわたる唐 から 滞在 たいざい により可能 かのう だったためである。春日 かすが 宅 たく 成 なり が優 すぐ れた漢語 かんご 話者 わしゃ であり、それゆえ通訳 つうやく に任命 にんめい されたことは、渤海使 し との交渉 こうしょう では漢語 かんご が使用 しよう されていた蓋然性 がいぜんせい を示唆 しさ している[76] 。
『扶桑 ふそう 略記 りゃっき 』九 きゅう 二 に 〇年 ねん (延喜 えんぎ 二 に 〇)三 さん 月 がつ 七 なな 日 にち 「明 あきら 経 けい 学生 がくせい 刑部 おさかべ 高名 こうみょう 参内 さんだい 。令 れい 問 とい 漢語 かんご 者 しゃ 事 ごと 。高名 こうみょう 奏 そう 云々 うんぬん 。行事 ぎょうじ 所 しょ 召得、漢語 かんご 者 しゃ 大蔵 おおくら 三 さん 常 つね 。即 そく 召之於蔵人所 くろうどどころ 。令 れい 高名 こうみょう 申 さる 云 うん 。其語能否 のうひ 。奏 そう 会 かい 。三常唐語尤可広博云々。勅 みことのり 従 したがえ 公卿 くぎょう 定 てい 申 さる 。以三 さん 常 つね 令 れい 為 ため 通事 つうじ 。[注釈 ちゅうしゃく 6] 」とある。これは、対 たい 渤海通訳 つうやく の選定 せんてい について明 あかり 経 けい 学生 がくせい である高名 こうみょう を呼 よ び、「漢語 かんご 」熟達 じゅくたつ 者 しゃ のことを聞 き きただし、だれにするかを決 き めた、ということを述 の べるものである[77] 。明 あかり 経 けい 学生 がくせい とは、大 だい 学寮 がくりょう 本科 ほんか である儒学 じゅがく 科 か の学生 がくせい のことであり、大 だい 学寮 がくりょう は中国 ちゅうごく 文化 ぶんか 摂取 せっしゅ による中央 ちゅうおう 官僚 かんりょう 養成 ようせい のための教育 きょういく 機関 きかん として設置 せっち されており、そこで学 まな ばれる外国 がいこく 語 ご は当然 とうぜん 漢語 かんご である。特 とく に入学 にゅうがく 当初 とうしょ は専門 せんもん 教官 きょうかん である音 おと 博士 はかせ 二人 ふたり による中国語 ちゅうごくご 音 おん たる漢音 かんおん の授業 じゅぎょう が、一般 いっぱん 基 もと 徒 と 教養 きょうよう 科目 かもく として学生 がくせい に義務 ぎむ づけられており、漢音 かんおん 教育 きょういく は中国 ちゅうごく 文化 ぶんか 摂取 せっしゅ 上 じょう 不可欠 ふかけつ のものであるだけに、7世紀 せいき 末 まつ の大 だい 学寮 がくりょう 設置 せっち 以来 いらい 一貫 いっかん 重視 じゅうし された。大 だい 学寮 がくりょう における漢語 かんご の位置 いち づけや、大 だい 学寮 がくりょう の学生 がくせい たる高名 こうみょう に「漢語 かんご 」に通 つう じた者 もの は誰 だれ かと問 と うたことや、その高名 こうみょう の言 げん によって大蔵 おおくら 三 さん 常 つね が「漢語 かんご 」=「唐 とう 語 ご 」通訳 つうやく に任命 にんめい された[77] 。そして、「何故 なぜ 、渤海使 し に応対 おうたい する通訳 つうやく として漢語 かんご に通暁 つうぎょう していた人物 じんぶつ を任命 にんめい したのか」という疑問 ぎもん が生 しょう じるが、これに対 たい しては、春日 かすが 宅 たく 成 しげる や張 ちょう 建 たて 忠 ただし の検討 けんとう を踏 ふ まえると、大蔵 おおくら 三 さん 常 つね が渤海語 ご に(も)通暁 つうぎょう していた可能 かのう 性 せい などに思 おも いを馳 は せるべきでなく、漢語 かんご が日本 にっぽん 渤海間 あいだ の使用 しよう 言語 げんご だったからと答 こた えるべきであり、そもそも、大蔵 おおくら 三 さん 常 つね の場合 ばあい 、大 だい 学寮 がくりょう の学生 がくせい を介 かい しての紹介 しょうかい 、「漢語 かんご 」力 ちから を問題 もんだい にしている点 てん など、当初 とうしょ からすべて話題 わだい となっているのは漢語 かんご 力 りょく である[77] 。
一方 いっぽう 、相手 あいて は渤海なのだから春日 かすが 宅 たく 成 しげる は渤海語 ご を話 はな したのでないか、という疑問 ぎもん も生 しょう じるが、春日 かすが 宅 たく 成 なり の渤海語 ご 能力 のうりょく について述 の べる史書 ししょ は一 ひと つとしてなく、当時 とうじ の通訳 つうやく を取 と り巻 ま く状況 じょうきょう を鑑 かんが みると、その可能 かのう 性 せい は極端 きょくたん に低 ひく い[78] 。8世紀 せいき から9世紀 せいき 、唐 から 文化 ぶんか は東 ひがし アジア諸国 しょこく に万 まん 遍 へん なく浸透 しんとう しており、日本 にっぽん ・渤海・新 しん 羅 ら は中国 ちゅうごく 文化 ぶんか 摂取 せっしゅ に努 つと めており、さらに、日本 にっぽん 外交 がいこう において渤海は中国 ちゅうごく はもとより新 しん 羅 ら よりも軽 かる い存在 そんざい であり、そのような国際 こくさい 状勢 じょうせい において、中国 ちゅうごく 周辺 しゅうへん 諸国 しょこく における最 さい 重要 じゅうよう 外国 がいこく 語 ご は中国語 ちゅうごくご 以外 いがい にはなく、日本 にっぽん の場合 ばあい 、政治 せいじ ・外交 がいこう ・文化 ぶんか 的 てき に渤海語 ご は中国語 ちゅうごくご はおろか新 しん 羅 ら 語 ご に比 ひ しても低 ひく い価値 かち しかなかった[78] 。例 たと えば、国家 こっか 最高 さいこう の教育 きょういく 機関 きかん である大 だい 学寮 がくりょう で組織 そしき 的 てき かつ積極 せっきょく 的 てき に行 おこな われていたのは中国語 ちゅうごくご 音 おん の学習 がくしゅう であり、渤海語 ご 学習 がくしゅう に関 かん して唯一 ゆいいつ 述 の べる史書 ししょ も[注釈 ちゅうしゃく 7] 、当時 とうじ 日本 にっぽん では本格 ほんかく 的 てき な渤海語 ご 学習 がくしゅう が行 おこな われておらず、渤海語 ご 通訳 つうやく もいなかったことを思 おも わしめるものであり、さらに、春日 かすが 宅 たく 成 なり が渤海語 ご 能力 のうりょく ゆえに通訳 つうやく に任命 にんめい されたのなら、それを明示 めいじ 或 ある いは暗示 あんじ する語句 ごく が若干 じゃっかん なりとも残 のこ されているはずであり、渤海語 ご の必要 ひつよう 度 ど 及 およ び史書 ししょ から「春日 かすが 宅 たく 成 なり は渤海語 ご を身 み につけていたから通訳 つうやく に任 にん じられた」とは到底 とうてい 言 い えないことだけは確 たし かである[78] 。
873年 ねん 3月 がつ に薩摩 さつま に漂着 ひょうちゃく した渤海人 じん 崔 ちぇ 宗 そう 佐 たすく ・大 だい 陳 ひね 潤 じゅん ら一 いち 行 ぎょう の取 と り調 しら べに当 あ たり、大宰府 だざいふ には渤海語 ご のできる通訳 つうやく 者 しゃ がいないため、次善 じぜん 策 さく として「大 だい 唐 から 通事 つうじ 張 ちょう 建 たて 忠 ただし 」を派遣 はけん した、という解釈 かいしゃく も考 かんが えうる。日本 にっぽん 朝廷 ちょうてい は773年 ねん 来朝 らいちょう の第 だい 8回 かい 渤海使 し 以降 いこう 、776年 ねん 来朝 らいちょう の第 だい 9回 かい 渤海使 し 、779年 ねん 来朝 らいちょう の第 だい 11回 かい 渤海使 し に対 たい して、大宰府 だざいふ に来着 らいちゃく するよう要求 ようきゅう している[79] 。大宰府 だざいふ に来着 らいちゃく することを指示 しじ しているからには、大宰府 だざいふ に渤海使 し に対応 たいおう できる通訳 つうやく が用意 ようい されていたはずであり、渤海人 じん と口語 こうご で意思 いし 疎通 そつう できる人物 じんぶつ がいたはずであるが、渤海人 じん と口語 こうご で意思 いし 疎通 そつう できる言語 げんご が渤海語 ご であるならば、渤海語 ご 通訳 つうやく 者 しゃ を派遣 はけん しなかったのか、という疑問 ぎもん が生 しょう じる。この場合 ばあい 、「大 だい 唐 から 通事 つうじ 」は渤海語 ご 能力 のうりょく も具 そな えていたという解釈 かいしゃく も一 いち 応 おう は成 な り立 た つが、もし張 ちょう 建 けん 忠 ちゅう が渤海語 ご 能力 のうりょく において派遣 はけん されたのであれば、何故 なぜ 張 ちょう 建 けん 忠 ちゅう を「渤海(語 かたり )通事 つうじ 」と呼 よ ばなかったのか、中国 ちゅうごく 語 ご 能力 のうりょく を示 しめ す「大 だい 唐 とう 」は文面 ぶんめん に示 しめ されているにもかかわらず、渤海語 ご に関 かん する語句 ごく が皆無 かいむ であるという解 と きがたい疑問 ぎもん が残 のこ される[79] 。従 したが って、張 ちょう 建 たて 忠 ただし は渤海語 ご 通訳 つうやく 者 しゃ としてではなく、あくまでも「大 だい 唐 から 通事 つうじ 」として派遣 はけん されたと解釈 かいしゃく するのが妥当 だとう であり、「大 だい 唐 から 通事 つうじ 」派遣 はけん は間接 かんせつ 的 てき ながらも大宰府 だざいふ に渤海語 ご 通訳 つうやく 者 しゃ がいなかったことを反映 はんえい している[79] 。
810年 ねん 5月 、帰国 きこく を目前 もくぜん にした渤海使 し の一員 いちいん である首領 しゅりょう の高 こう 多 た 仏 ふつ が使節 しせつ から一人 ひとり 離脱 りだつ して、越前 えちぜん 国 こく にとどまり、亡命 ぼうめい した。その後 ご 、高 こう 多 た 仏 ふつ は越 えつ 中国 ちゅうごく に移 うつ されて、史生 ふみお の羽栗 はぐり 馬 ば 長 ちょう と習語生 せい らに渤海語 ご を教習 きょうしゅう した。日本 にっぽん 朝廷 ちょうてい が渤海語 ご を学習 がくしゅう させた意図 いと は、渤海語 ご を母語 ぼご とする者 もの を師 し としての通訳 つうやく 養成 ようせい とみられるが、渤海語 ご 通訳 つうやく 養成 ようせい のためにわざわざ羽栗 はぐり 馬 ば 長 ちょう などを越 えつ 中国 ちゅうごく まで派遣 はけん し、高 こう 多 た 仏 ふつ から渤海語 ご を学 まな ばせたのかという疑問 ぎもん が生 しょう じる[80] 。
当時 とうじ 、渤海使 し の来日 らいにち は14回 かい に達 たっ し、日本 にっぽん からの遣 や 渤海使 し も14回 かい に達 たっ する日本 にっぽん と渤海の密接 みっせつ な交流 こうりゅう 、当時 とうじ の日本 にっぽん が渤海使 し の来日 らいにち を制限 せいげん しようとしたが渤海との交流 こうりゅう 継続 けいぞく の意思 いし は十分 じゅうぶん あること、日本 にっぽん と渤海の海上 かいじょう 交通 こうつう は比較的 ひかくてき 安全 あんぜん であることを鑑 かんが みると、渤海語 ご が日本 にっぽん 渤海間 あいだ の外交 がいこう 用 よう 言語 げんご である場合 ばあい 、すでに日本 にっぽん 側 がわ にはしかるべき渤海語 ご 通訳 つうやく 者 しゃ がいたはずであり、その渤海語 ご 通訳 つうやく 者 しゃ を師 し として渤海語 ご を学 まな ぶことができたのでないか[80] 。
度々 どど の渤海使 し の来航 らいこう 或 ある いは送 おく ・遣 や 渤海使 し の派遣 はけん からして、日本 にっぽん には渤海人 じん から渤海語 ご を学習 がくしゅう する機会 きかい があるのではないか。第 だい 15回 かい 渤海使 し は10月1日 にち 来日 らいにち 、次 つぎ 年 ねん の5月18日 にち 離日 りにち 、約 やく 8か月 げつ 近 ちか く日本 にっぽん に滞在 たいざい している[80] 。
日本 にっぽん 朝廷 ちょうてい が渤海語 ご 通訳 つうやく 者 しゃ の養成 ようせい を意図 いと していた場合 ばあい 、渤海へ留学生 りゅうがくせい の派遣 はけん もできたはずである。例 たと えば、当時 とうじ 、日本語 にほんご を学 まな ぶ留学生 りゅうがくせい 「新 しん 羅 ら 学 まなぶ 語 ご 」が新 しん 羅 ら から派遣 はけん されていた。従 したが って、その意志 いし さえあれば日本 にっぽん は渤海に渤海語 ご 学習 がくしゅう 者 しゃ を派遣 はけん できたはずである[80] 。
渤海から個人 こじん 的 てき に「慕化来 らい (入 いれ )朝 あさ 」してきた場合 ばあい をも含 ふく め、1・2・3の手段 しゅだん による渤海語 ご 習得 しゅうとく を示唆 しさ する史料 しりょう は一 ひと つとしてないが、たまたま記録 きろく がなかっただけであると解釈 かいしゃく するのも可能 かのう であり、1の場合 ばあい 、渤海使 し の滞在 たいざい 期間 きかん は必 かなら ずしも長 なが くないため、機会 きかい がなかったという解釈 かいしゃく も可能 かのう であるが、羽栗 はぐり 馬 ば 長 ちょう などを越 えつ 中国 ちゅうごく まで派遣 はけん して渤海語 ご を学習 がくしゅう させた理由 りゆう は釈然 しゃくぜん とせず、種々 しゅじゅ の疑問 ぎもん は「渤海語 ご は日本 にっぽん 渤海間 あいだ の外交 がいこう 使用 しよう 語 ご であった」という前提 ぜんてい に発 はっ しており、この隘路 あいろ を解 と くには「外交 がいこう 用 よう 言語 げんご として渤海語 ご は中国 ちゅうごく 語 ご とどのような関係 かんけい にあるのか」ということにつきる[80] 。日本 にっぽん における外国 がいこく 語 ご 学習 がくしゅう 上 じょう の必要 ひつよう 性 せい 或 ある いは日本 にっぽん における外国 がいこく 語 ご 教授 きょうじゅ のあり方 かた 或 ある いは日本語 にほんご と渤海語 ご が外交 がいこう 交渉 こうしょう において使用 しよう されていたことを示 しめ す史料 しりょう が存在 そんざい しないことから、中国 ちゅうごく 語 ご が渤海語 ご よりはるかに上位 じょうい に位置 いち していたことは確実 かくじつ であるが、日本人 にっぽんじん 官僚 かんりょう の渤海語 ご 学習 がくしゅう がおこなわれたことや、長期 ちょうき にわたる日本 にっぽん と渤海の外交 がいこう 接触 せっしょく において、必然 ひつぜん 的 てき に日本 にっぽん と渤海双方 そうほう に日本語 にほんご ・渤海語 ご に通 つう じた者 もの がでてきたことは疑 うたが いなく、正式 せいしき の外交 がいこう 用 よう 言語 げんご でなくとも、日本 にっぽん と渤海の外交 がいこう 交渉 こうしょう や交流 こうりゅう の場 ば では渤海語 ご が使用 しよう されている蓋然性 がいぜんせい も否定 ひてい できない[80] 。従 したが って、「正式 せいしき な日本 にっぽん 渤海間 あいだ の外交 がいこう 用 よう 言語 げんご としては第 だい 一 いち に中国語 ちゅうごくご が用 もち いられた。ただし、時 とき に応 おう じて例外 れいがい 的 てき に渤海語 ご が用 もち いられることもあった」=「中国語 ちゅうごくご 主 ぬし 、渤海語 ご 副 ふく 」という原則 げんそく が導 みちび かれる[80] 。
建国 けんこく 当初 とうしょ より、陸続 りくつづ きの隣国 りんごく である唐 とう の影響 えいきょう を直接的 ちょくせつてき ・全面 ぜんめん 的 てき に受 う けた渤海は、日本 にっぽん 以上 いじょう に中国語 ちゅうごくご は身近 みぢか であり、重要 じゅうよう な言語 げんご であったとみられる[81] 。日本 にっぽん 渤海間 あいだ の外交 がいこう 交渉 こうしょう において、日本 にっぽん 側 がわ だけが中国 ちゅうごく 語 ご を外交 がいこう 用 よう 言語 げんご に使用 しよう したとは考 かんが えにくいことから、「渤海国 こく 側 がわ も中国語 ちゅうごくご を用 もち いた、渤海通訳 つうやく も中国語 ちゅうごくご を用 もち いた」、即 すなわ ち「日本 にっぽん 渤海間 あいだ の外交 がいこう 用 よう 音声 おんせい 言語 げんご は中国語 ちゅうごくご であった」と考 かんが えざるをえない[81] 。日本 にっぽん 渤海間 あいだ の外交 がいこう 交渉 こうしょう において、中国 ちゅうごく 語 ご が使用 しよう されていることは、8世紀 せいき から9世紀 せいき における日本 にっぽん と渤海の交流 こうりゅう の言語 げんご 面 めん において中国 ちゅうごく 語 ご が圧倒的 あっとうてき 優勢 ゆうせい であることを反映 はんえい するものであり、当時 とうじ の東 ひがし アジア情勢 じょうせい は中国 ちゅうごく を中心 ちゅうしん に動 うご いていたことから当然 とうぜん の帰結 きけつ であり、現代 げんだい の国際 こくさい 社会 しゃかい において、英語 えいご 圏 けん 以外 いがい の言語 げんご を異 こと にする小国 しょうこく 間 あいだ では、しばしばば第三国 だいさんごく の言語 げんご である英語 えいご が使用 しよう されるが、8世紀 せいき から9世紀 せいき における中国 ちゅうごく 語 ご と日本語 にほんご ・渤海語 ご との関係 かんけい は、現代 げんだい の英語 えいご と英語 えいご 以外 いがい の使用 しよう 者 しゃ の少 すく ない系統 けいとう のあい異 こと なる二 ふた つの言語 げんご 関係 かんけい に例 たと えることができる[81] 。
日本 にっぽん 渤海間 あいだ の外交 がいこう 交渉 こうしょう において、音声 おんせい 言語 げんご は第 だい 一 いち に中国語 ちゅうごくご 、時 とき として日本語 にほんご ・渤海語 ご を使用 しよう したということと、書記 しょき 言語 げんご は漢文 かんぶん 即 すなわ ち中国 ちゅうごく 語 ご であることは矛盾 むじゅん せず、言語 げんご において音声 おんせい 言語 げんご と書記 しょき 言語 げんご は表裏 ひょうり の関係 かんけい にあるため当然 とうぜん であり、日本 にっぽん と渤海間 あいだ における使用 しよう 言語 げんご は中国語 ちゅうごくご であるという結論 けつろん に達 たっ し、書記 しょき 言語 げんご が完全 かんぜん に漢文 かんぶん 即 すなわ ち中国 ちゅうごく 語 ご の領域 りょういき に属 ぞく していた8世紀 せいき から9世紀 せいき の日本 にっぽん ・渤海・新 しん 羅 ら の東 ひがし アジア諸国 しょこく における共通 きょうつう 音声 おんせい 言語 げんご は中国語 ちゅうごくご であると判断 はんだん できる[82] 。音声 おんせい 言語 げんご と書記 しょき 言語 げんご は表裏 ひょうり の関係 かんけい にあり、当時 とうじ の日本 にっぽん や新 しん 羅 ら のように、音声 おんせい 言語 げんご は自国 じこく 語 ご 、正式 せいしき の書記 しょき 言語 げんご は原則 げんそく として中国 ちゅうごく 語 ご (漢文 かんぶん )ということは有 あ りうるが、あくまでも自国 じこく 内 ない に限 かぎ り、中国 ちゅうごく 文化 ぶんか 圏 けん の書記 しょき 言語 げんご を同 おな じくする国家 こっか 相互 そうご 間 あいだ の交流 こうりゅう において、書記 しょき 言語 げんご は中国語 ちゅうごくご 、音声 おんせい 言語 げんご は各国 かっこく 語 ご 使用 しよう ということは一般 いっぱん 的 てき に考 かんが え難 がた く[82] 、日本 にっぽん と渤海間 あいだ の使用 しよう 言語 げんご が中国 ちゅうごく 語 ご であることを鑑 かんが みると、新 しん 羅 ら は渤海と同様 どうよう に唐 とう に近接 きんせつ する唐 とう の冊 さつ 封 ふう 国 こく であることから、新 しん 羅 ら と渤海間 あいだ 或 ある いは新 しん 羅 ら と日本 にっぽん 間 あいだ でも中国語 ちゅうごくご が使用 しよう されていた可能 かのう 性 せい も有 あ りうる[82] 。『続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 』によると[注釈 ちゅうしゃく 8] 、新 しん 羅 ら 語 ご も渤海語 ご と同様 どうよう にその学習 がくしゅう は地方 ちほう で臨時 りんじ 一時 いちじ 的 てき におこなわれていたようにみられ、新 しん 羅 ら 語 ご が外交 がいこう 用 よう 言語 げんご として広 ひろ くは使用 しよう されていないことを示 しめ している[82] 。これは、中央 ちゅうおう 政府 せいふ において新 しん 羅 ら 語 ご は組織 そしき 的 てき ・恒常 こうじょう 的 てき に学 まな ばれたこともなければ、その通訳 つうやく の常置 じょうち もなかったこと、即 すなわ ち、日本 にっぽん と新 しん 羅 ら 間 あいだ の外交 がいこう 用 よう 言語 げんご も中国語 ちゅうごくご であることを示唆 しさ しており、このことは8世紀 せいき から9世紀 せいき における東 ひがし アジア のリングワ・フランカ が中国 ちゅうごく 語 ご であることを意味 いみ し、日本 にっぽん と渤海間 あいだ の交流 こうりゅう における第 だい 二 に 言語 げんご が日本語 にほんご ・渤海語 ご であると推察 すいさつ されることを鑑 かんが みると、東 ひがし アジアにおける中国 ちゅうごく 以外 いがい の国家 こっか 間 あいだ 、即 すなわ ち日本 にっぽん ・渤海・新 しん 羅 ら 間 あいだ においては、日本語 にほんご ・渤海語 ご ・新 しん 羅 ら 語 ご なども時 とき と場合 ばあい において外交 がいこう 交渉 こうしょう において使用 しよう されていたと推察 すいさつ される[82] 。
日本 にっぽん 朝廷 ちょうてい は、第 だい 21回 かい 渤海使 し 、第 だい 25回 かい 渤海使 し 、第 だい 28回 かい 渤海使 し 、第 だい 29回 かい 渤海使 し などに対 たい して宣命 せんみょう を与 あた えており、これは漢字 かんじ で書 か かれているとはいえ、日本語 にほんご 文 ぶん が外交 がいこう 文書 ぶんしょ に用 もち いられたことを示 しめ している[83] 。また、それは日本語 にほんご 音 おん で読 よ み上 あ げられたはずであり、音声 おんせい 言語 げんご で外交 がいこう 用 よう 言語 げんご として日本語 にほんご が実現 じつげん されたことを示唆 しさ しているが、その程度 ていど の使用 しよう を、さらに、渤海使 し が内容 ないよう を理解 りかい できたかどうかも定 さだ かではない宣命 せんみょう を、正式 せいしき な外交 がいこう 用 よう 言語 げんご と呼 よ ぶのはやや無理 むり とみられる。なお、宣命 せんみょう に対応 たいおう する漢字 かんじ 表記 ひょうき の渤海語 ご 文 ぶん の存在 そんざい の報告 ほうこく はない[83] 。
渤海は広大 こうだい な支配 しはい 領域 りょういき に割拠 かっきょ する多 おお くの民族 みんぞく を統一 とういつ していく手段 しゅだん として漢語 かんご の導入 どうにゅう をはかったとみられるが、表記 ひょうき 文字 もじ としては当時 とうじ の東 ひがし アジア で一般 いっぱん 的 てき であった漢字 かんじ を利用 りよう しており、1949年 ねん に吉林 きつりん 省 しょう 敦 あつし 化 か 県 けん 六 ろく 頂山 いただきやま から発見 はっけん された大 だい 欽茂の次女 じじょ である貞恵 さだえ 公主 こうしゅ の墓誌 ぼし や1980年 ねん に延 のべ 辺 べ 朝鮮 ちょうせん 族 ぞく 自治 じち 州 しゅう 和 かず 竜 りゅう 県 けん 竜頭山 りゅうとうざん から発見 はっけん された貞恵 さだえ 公主 こうしゅ の妹 いもうと の貞 さだ 考 こう 公主 こうしゅ の墓誌 ぼし などは優 すぐ れた駢儷 べんれい 体 たい の漢文 かんぶん で書 か かれ、来日 らいにち した渤海使 し がもたらした王 おう 啓 あきら や中台 ちゅうたい 省 しょう 牒なども漢文 かんぶん で書 か かれており、王 おう 文 ぶん 矩 のり や裴頲をはじめとした渤海使 し の多 おお くが優 すぐ れた漢詩 かんし を残 のこ していることから渤海人 じん が漢字 かんじ を熟知 じゅくち していたことは確実 かくじつ であり[84] 、渤海の皇后 こうごう 、公主 こうしゅ の墓誌 ぼし は現在 げんざい のところ4つ発見 はっけん されているが全 すべ て漢文 かんぶん で書 か かれており、墓誌 ぼし は墓碑 ぼひ と異 こと なり、墓 はか のなかに納 おさ めることから、文章 ぶんしょう を見 み るのは埋葬 まいそう に立 た ち会 あ う人々 ひとびと だけであり、それが読者 どくしゃ として想定 そうてい され、皇后 こうごう ・公主 こうしゅ の埋葬 まいそう にたちあう支配 しはい 層 そう が共通 きょうつう に読 よ めるのが漢字 かんじ ・漢文 かんぶん であった[68] 。
上京 じょうきょう 遺跡 いせき から出土 しゅつど した文字 もじ 瓦 かわら には、漢字 かんじ を簡略 かんりゃく 化 か した渤海の文字 もじ が記録 きろく されているが、独自 どくじ の文字 もじ の存在 そんざい は確認 かくにん されておらず、同 どう 時期 じき にユーラシア で使用 しよう されていた突厥文字 もじ 、ウイグル文字 もじ 、ソクド文字 もじ などが渤海で使用 しよう された形跡 けいせき もなく[68] 、金 きむ 毓黻 は、上京 じょうきょう 遺跡 いせき の瓦 かわら に刻 こく された文字 もじ を「その(字 じ )体 からだ は、とくに異 こと なっていて、海 うみ とかかわりがあると思 おも う」として、「これは、日本 にっぽん の漢字 かんじ の中 なか に『辻 つじ 』があり、化学 かがく の中 なか に『鉀鉀(カリウム )』、『﨨(亜鉛 あえん )』などの字 じ があるように、おそらく固有 こゆう の漢字 かんじ では用 よう が足 た りない場合 ばあい に、別 べつ に新 あたら しい字 じ を作 つく って、その不便 ふべん を救 すく ったのである」とし、渤海人 じん 自 みずか ら「漢字 かんじ を補充 ほじゅう 」したとして、「もしこの少数 しょうすう の奇異 きい な字 じ があることによって、ついに渤海人 じん が、別 べつ に新 あたら しい字 じ を作 つく り、漢字 かんじ を棄 す てて用 もち いなかったといえば、それはかえって人 ひと を誤解 ごかい させることになる。契 ちぎり 丹 に と女 おんな 真 しん は、ともに別 べつ に字 じ を作 つく った。しかし、後世 こうせい にまで長 なが く伝 つた えることができず、したがって間 ま もなくその字 じ を使用 しよう しなくなってしまった。渤海は建国 けんこく した後 のち 、唐 とう の文教 ぶんきょう に染 そ まって、漢字 かんじ をよく用 もち いたので、別 べつ に新 あたら しい文字 もじ を作 つく る機会 きかい が少 すく なかった。そこで契 ちぎり 丹 に と女 おんな 真 しん を例 れい とすることはできない」と指摘 してき している[85] 。
エ・ヴェ・シャフクノフは、上京 じょうきょう 遺 のこ 址 し の瓦 かわら にある文字 もじ を新 しん 羅 ら の吏読 りと の方法 ほうほう を採用 さいよう して創作 そうさく した独自 どくじ 文字 もじ であり、「(この文字 もじ は)中国人 ちゅうごくじん の漢字 かんじ に比 くら べて渤海人 じん の言語 げんご 規範 きはん と言語 げんご 特質 とくしつ にいっそう適応 てきおう し」、「広 ひろ い渤海の都邑 とゆう の民衆 みんしゅう が各種 かくしゅ 貿易 ぼうえき の契約 けいやく や保証 ほしょう を結 むす ぶ際 さい 、あるいは公文書 こうぶんしょ にこれらの文字 もじ が採用 さいよう された」が、「漢語 かんご と漢字 かんじ とは主 おも に宮廷 きゅうてい 内 ない と官吏 かんり の狭 せま い範囲 はんい でのみ使用 しよう された」と主張 しゅちょう しているが、朱 しゅ 国 こく 忱 まこと (黒竜江 こくりゅうこう 省 しょう 文物 ぶんぶつ 考古 こうこ 研究所 けんきゅうじょ )と魏 ぎ 国 こく 忠 ちゅう (黒竜江 こくりゅうこう 省 しょう 社会 しゃかい 科学 かがく 院 いん 歴史 れきし 研究所 けんきゅうじょ 渤海研究 けんきゅう 室 しつ )は「残念 ざんねん ながら、エ・ヴェ・シャフクノフ氏 し の説 せつ は主観 しゅかん に基 もと づく憶測 おくそく を免 まぬか れず、しかも何 なん らかの証拠 しょうこ による自説 じせつ の証明 しょうめい もできていない」と批判 ひはん している[86] 。
各国 かっこく の研究 けんきゅう 者 しゃ は、この上京 じょうきょう 遺 のこ 址 し の瓦 かわら に刻 こく された文字 もじ について研究 けんきゅう を進 すす めているが結論 けつろん は一致 いっち しておらず、現存 げんそん 史料 しりょう では、国内外 こくないがい の各地 かくち で発見 はっけん され、記録 きろく された渤海の文字 もじ 瓦 かわら の文字 もじ は、1文字 もじ ずつ刻 きざ まれ、300字 じ ほどになり、それらの少数 しょうすう の文字 もじ と符合 ふごう を除 のぞ くと、大 だい 多数 たすう の文字 もじ はみな正式 せいしき な漢字 かんじ であり、これらの漢字 かんじ の大 だい 部分 ぶぶん は今日 きょう 使用 しよう されている漢字 かんじ と同一 どういつ である[87] 。しかし奇異 きい で見分 みわ けにくい文字 もじ がわずかにあり、最新 さいしん の研究 けんきゅう では、この少数 しょうすう の奇異 きい で判読 はんどく しがたい文字 もじ のうち、相当 そうとう 数 すう が俗字 ぞくじ と古 こ 字 じ と略字 りゃくじ であり、俗字 ぞくじ では、「&#x#051;」が「興 きょう 」とあるが、すでに321年 ねん の東 あずま 晋 すすむ の墳墓 ふんぼ の磚 には「&#x#051;」とあらわれているように実際 じっさい は渤海人 じん の発明 はつめい した文字 もじ ではない[87] 。古 こ 字 じ では「佛 ふつ 」を「仏 ふつ 」とするが、『正字 せいじ 通 どおり 』には「古文 こぶん の佛 ふつ 字 じ 、宋 そう の張子 はりこ 賢 けん の言 ごん く、京口 きょうぐち の甘露 かんろ 寺 てら の鉄 てつ 鑊に文 ぶん 有 あ り。梁 はり の天 てん 監 かん に仏殿 ぶつでん を造 つく る」とあるようにこれも渤海人 じん の創造 そうぞう ではなく、略字 りゃくじ では「環 たまき 」や「瓌」を「&#x#003;」と書 か き、また「鳥 とり 」を「」と書 か くなどの事例 じれい や字形 じけい が似 に ているために誤 あやま って書 か かれた文字 もじ もあり、「舍 しゃ 」を「舎 しゃ 」と誤 あやま った例 れい 、「計 けい 」を「」と誤 あやま った例 れい 、「男 おとこ 」を「」や「」と誤 あやま った例 れい などがある[88] 。
渤海人 じん が自 みずか らの言語 げんご の特殊 とくしゅ 音 おん や必要 ひつよう 性 せい からいくつかの新 しん 漢字 かんじ を作成 さくせい し、本来 ほんらい の漢字 かんじ を補充 ほじゅう して渤海の言語 げんご 表現 ひょうげん に応 こた えた可能 かのう 性 せい はあり、その事情 じじょう は日本人 にっぽんじん が漢字 かんじ を使用 しよう する過程 かてい で作成 さくせい した特殊 とくしゅ な漢字 かんじ の場合 ばあい とよく似 に ており、渤海の末期 まっき に日本 にっぽん を訪 おとず れた二人 ふたり の使者 ししゃ は、各々 おのおの 「𪱶(⿴井 い 木 き )」と「𬑽(⿴井石 いせき )」という名前 なまえ であり、当時 とうじ の日本 にっぽん はこの文字 もじ を理解 りかい できず、紀 きの 長谷 ながたに 雄 つよし は「未 いま だ文字 もじ を知 し らずと雖も、呼 よ びて云 い う。𪱶は、木 き ノヅブリ丸 まる (まろ)。𬑽は、石 いし ノザブリ丸 まる (まろ)」と読 よ み、「異国 いこく (渤海)の作 さく 字 じ なり。当時 とうじ の会釈 えしゃく を以 もっ て之 これ を読 よ む。神妙 しんみょう と謂 い うべき者 もの なり。異国 いこく の人 ひと (渤海の使者 ししゃ )聞 き きて之 これ に感 かん 」じたと述 の べており、まさに渤海人 じん が新 あら たに創造 そうぞう した文字 もじ であるが、これらの文字 もじ は漢字 かんじ の系列 けいれつ 下 か あるいはその範囲 はんい にある文字 もじ であり、これらの文字 もじ は他 た の漢字 かんじ から離 はな れて単独 たんどく で使 つか われることがなく、それらの文字 もじ を独立 どくりつ の文字 もじ とみなすべきでなく、渤海人 じん が創造 そうぞう した本来 ほんらい の漢字 かんじ を補充 ほじゅう する漢字 かんじ である[89] 。
ロシアのウスリースク で出土 しゅつど した突厥文字 もじ の石刻 せっこく から、渤海には独自 どくじ の文字 もじ があったとする主張 しゅちょう もあるが、朱 しゅ 国 こく 忱 まこと と魏 ぎ 国 こく 忠 ちゅう は「これは真 しん に『蟻 あり を見 み て象 ぞう と言 い う(針小棒大 しんしょうぼうだい )』ような意見 いけん である。実 じつ は、その石刻 せっこく は渤海に来 き て交易 こうえき した回 かい 鶻人 が遺 のこ したものである。渤海と回 かい 鶻の関係 かんけい には限界 げんかい があった。双方 そうほう はともに領域 りょういき を接 せっ することなく、また隷属 れいぞく ・主従 しゅうじゅう の関係 かんけい もないのに、どうして渤海人 じん が、このようなよく知 し らない、またいつも見 み ることのない文字 もじ を受容 じゅよう し使用 しよう できるのであろうか」と批判 ひはん している[90] 。
渤海の姓氏 せいし は、王家 おうけ の大 だい 氏 し を含 ふく めて57姓 せい であり、渤海の姓氏 せいし の構造 こうぞう は、まず渤海王族 おうぞく の大 だい 氏 し 、その次 つぎ は中原 なかはら から流 なが れた漢人 かんど の豪族 ごうぞく 右 みぎ 姓 せい 、さらに靺鞨 と一部 いちぶ の高句麗 こうくり 貴族 きぞく の右 みぎ 姓 せい 、最後 さいご に漢 かん 化 か した靺鞨平民 へいみん と高句麗 こうくり 平民 へいみん と中原 なかはら から流 なが れた漢 かん 族 ぞく 平民 へいみん の庶姓からなり、渤海の姓氏 せいし は靺鞨、高句麗 こうくり 、漢 かん 族 ぞく の姓氏 せいし からなる[91] 。渤海人 じん の姓名 せいめい には、形容 けいよう 美 び 、叡智 えいち への祈願 きがん 、徳性 とくせい 美 び への追求 ついきゅう 、福 ぶく 禄 ろく 寿 ことぶき への憧憬 どうけい 、儒学 じゅがく ・仏教 ぶっきょう への尊崇 そんすう がみられ、中国 ちゅうごく の影響 えいきょう を受 う けている[91] 。
渤海王国 おうこく の完成 かんせい は官制 かんせい ととどまらず、王 おう 都 みやこ に居住 きょじゅう する人々 ひとびと の姓名 せいめい をも唐 から 風化 ふうか させ、その変化 へんか は王族 おうぞく から臣下 しんか の上層 じょうそう 部 ぶ 、そして下部 かぶ から地方 ちほう 社会 しゃかい へと浸透 しんとう した[92] 。姓 せい ばかりでなく、名 な が靺鞨の固有 こゆう 語 ご 音 おん からそれを漢字 かんじ の好字 こうじ を採用 さいよう して、漢 かん 訳 やく するか意訳 いやく した三 さん 文字 もじ の姓名 せいめい に改 あらた まった。大 だい 祚栄 の父 ちち の名 な は乞乞仲 なか 象 ぞう とその音 おと を漢字 かんじ 表記 ひょうき されたが、則 のり 天武 てんむ 后 きさき から震 ふるえ 国 こく 公 おおやけ に封 ふう ぜられると「大 だい 」の姓 せい を名乗 なの ることになり、子 こ の大 だい 祚栄はみごとに唐様 からよう の姓名 せいめい である[92] 。しかし、まだ名 な のみは靺鞨の固有 こゆう 語 ご 音 おん を守 まも る傾向 けいこう は消 き えておらず、大 だい 武芸 ぶげい の嫡男 ちゃくなん は大 だい 都 みやこ 利行 としゆき (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) といい、都 みやこ 利行 としゆき とは靺鞨の固有 こゆう 語 ご 音 おん であり、大 だい 武芸 ぶげい の大臣 だいじん の味 あじ 勃計(722年 ねん )、大 だい 武芸 ぶげい の弟 おとうと の大昌 だいしょう 勃価(中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) (725年 ねん )などは、まだ固有 こゆう 音 おん の漢字 かんじ 表記 ひょうき の傾向 けいこう がみられる[92] 。この傾向 けいこう は王族 おうぞく を筆頭 ひっとう とする社会 しゃかい の上層 じょうそう ばかりでなく首領 しゅりょう 層 そう にもみられ、大 だい 首領 しゅりょう の烏 がらす 借 か 芝 しば 蒙 こうむ (725年 ねん )や使者 ししゃ の烏 がらす 那 な 達 たち 利 り (730年 ねん )は、烏 がらす という靺鞨にみられる一文字 ひともじ 姓 せい であるが、名 な の借 か 芝 しば 蒙 こうむ や那 な 達 たち 利 り のように未 み 音 おと の蒙 こうむ や利 り をもつ人物 じんぶつ が靺鞨諸 しょ 族 ぞく の遣唐使 けんとうし にしばしばみられたように、名 な にはいまだ固有 こゆう 性 せい を残 のこ していた[92] 。しかし、741年 ねん に渤海の遣唐使 けんとうし の失 しつ 阿 おもね 利 り が黒水 くろみず 靺鞨 の阿 おもね 布 ぬの 利 り とともに入唐 にっとう して以後 いご は固有 こゆう 色 しょく のある人名 じんめい は遣唐使 けんとうし のなかにみられず[92] 、渤海人 じん 特有 とくゆう の姓名 せいめい は消 き え、唐様 からよう の姓名 せいめい へと統一 とういつ される[91] 。
『松 まつ 漠 ばく 紀 き 聞 』にみえる金 きむ 初 はじめ の渤海人 じん 社会 しゃかい に関 かん する記事 きじ に、旧 きゅう 王族 おうぞく である大 まさる 氏 し の他 ほか に有力 ゆうりょく 氏族 しぞく として高 こう 氏 し 、張 ちょう 氏 し 、楊氏、竇氏、烏 がらす 氏 し 、李 り 氏 し の六 ろく 氏 し が挙 あ げられている。一方 いっぽう 、渤海が存在 そんざい した同 どう 時代 じだい の諸 しょ 史料 しりょう に登場 とうじょう する有力 ゆうりょく 氏族 しぞく の姓氏 せいし は、最 もっと も多 おお いのが大 だい 氏 し 、次 つ いで高 こう 氏 し 、李 り 氏 し 、王 おう 氏 し 、烏 がらす 氏 し 、楊氏、賀 が 氏 し と続 つづ くが、『松 まつ 漠 ばく 紀 き 聞 』にみえる張 ちょう 氏 し と竇氏が渤海時代 じだい にはほとんどみえず、渤海時代 じだい に多 おお い王 おう 氏 し は『松 まつ 漠 ばく 紀 き 聞 』に登場 とうじょう しない[93] 。張 ちょう 氏 し は、『金 きむ 史 ふみ 』張 ちょう 浩 ひろし 伝 でん に本姓 ほんせい は高 こう であり、張 ちょう 浩 ひろし (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) の曾祖 そうそ ・張 ちょう 霸 の時 とき に遼 りょう に仕 つか えて張 ちょう 氏 し に改 あらた めたことが記 しる されており、金代 かなだい に活躍 かつやく した張 ちょう 氏 し はもとは高 こう 氏 し を称 しょう しており、渤海時代 じだい に張 ちょう 氏 し が登場 とうじょう しないのも不思議 ふしぎ ではない[93] 。竇氏について、金 きむ 毓黻 は『渤海国 こく 志 こころざし 長編 ちょうへん (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) 』において、渤海時代 じだい に比較的 ひかくてき 多 おお くみえる賀 が 氏 し の誤 あやま りである可能 かのう 性 せい を指摘 してき している。王 おう 氏 し は、王 おう 庭 にわ 筠 をはじめ、金代 かなだい にも有力 ゆうりょく 氏族 しぞく として存在 そんざい するが、王 おう 庭 にわ 筠 の墓誌 ぼし にその祖 そ が太 ふとし 原 はら 王 おう 氏 し 出身 しゅっしん であると記 しる されているように、金代 かなだい においては渤海人 じん というより漢人 かんど として意識 いしき されていたために、『松 まつ 漠 ばく 紀 き 聞 』は、王 おう 氏 し を渤海の有力 ゆうりょく 氏族 しぞく のなかに数 かぞ えなかった可能 かのう 性 せい がある[93] 。有力 ゆうりょく 氏族 しぞく が中国 ちゅうごく 風 ふう 姓名 せいめい をもって史料 しりょう にはじめて登場 とうじょう するのは高 こう 氏 し および李 り 氏 し が大 だい 武芸 ぶげい 時代 じだい 、王 おう 氏 し ・烏 がらす 氏 し ・楊氏が大 だい 欽茂時代 じだい であるが、大 だい 欽茂時代 じだい に渤海の支配 しはい 領域 りょういき がほぼ定 さだ まり、中国 ちゅうごく 文化 ぶんか および中国 ちゅうごく の制度 せいど を導入 どうにゅう して国家 こっか 体制 たいせい を整備 せいび し、かかる状況 じょうきょう 下 か で支配 しはい 者 しゃ 層 そう は中国 ちゅうごく 風 ふう の教養 きょうよう を身 み に着 つ けるとともに中国 ちゅうごく 風 ふう 姓名 せいめい を称 しょう するようになる。同 どう 時期 じき に有力 ゆうりょく 氏族 しぞく 以外 いがい で中国 ちゅうごく 風 ふう 姓名 せいめい をもつ者 もの は少数 しょうすう であることから、有力 ゆうりょく 氏族 しぞく のもつ中国 ちゅうごく 風 ふう 姓名 せいめい は権威 けんい の象徴 しょうちょう 、あるいは唐 とう の貴族 きぞく 制 せい では、姓 せい によるランク付 づ けがおこなわれており、渤海においてもそれが意識 いしき されていた可能 かのう 性 せい がある[93] 。
史料 しりょう の乏 とぼ しい渤海史 し 研究 けんきゅう にとって、国家 こっか 構造 こうぞう ・社会 しゃかい 構造 こうぞう の解明 かいめい は至難 しなん であるが、注目 ちゅうもく されるのは、『類聚 るいじゅう 国史 こくし 』巻 まき 一 いち 九 きゅう 三 さん ・殊 こと 俗 ぞく 部 ぶ ・渤海上 じょう ・延 のべ 歴 れき 十 じゅう 五 ご 年 ねん 四 よん 月 がつ 戊子 ぼし 条 じょう の記事 きじ である[94] 。
渤海国 こく 者 しゃ 、高麗 こうらい 之 の 故 こ 地 ち 也。天命 てんめい 開 ひらき 別 べつ 天皇 てんのう 七 なな 年 ねん 、高麗 こうらい 王 おう 高 だか 氏 し 、為 ため 唐 とう 所 しょ 滅 めつ 也。後 こう 以天之 の 真宗 しんしゅう 豊 ゆたか 祖父 そふ 天皇 てんのう 二 に 年 ねん 、大 だい 祚栄始 はじめ 建 けん 渤海国 こく 、和銅 わどう 六 ろく 年 ねん 、受唐冊立 さくりつ 其国。延 のべ 袤二 に 千里 せんり 、無 む 州 しゅう 県 けん 館 たて 駅 えき 、処 しょ 々有村 ありむら 里 さと 。皆 みな 靺鞨部落 ぶらく 。其百姓 ひゃくしょう 者 しゃ 、靺鞨多 た 、土人 どじん 少 しょう 。皆 みな 以土人為 じんい 村長 そんちょう 。大村 おおむら 曰都督 とく 、次 じ 曰刺史 し 。其下百姓 ひゃくしょう 皆 みな 曰首領 りょう 。土地 とち 極寒 ごっかん 、不 ふ 宜 むべ 水田 すいでん 。俗 ぞく 頗知書 しょ 。自 じ 高 こう 氏 し 以来 いらい 、朝貢 ちょうこう 不 ふ 絶 ぜっ 。 — 類聚 るいじゅう 国史 こくし 、巻 まき 一 いち 九 きゅう 三 さん ・殊 こと 俗 ぞく 部 ぶ ・渤海上 じょう ・延 のべ 歴 れき 十 じゅう 五 ご 年 ねん 四 よん 月 がつ 戊子 ぼし 条 じょう 中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:日本 にっぽん 後 ご 紀 き /卷 まき 第 だい 四 よん
『類聚 るいじゅう 国史 こくし 』殊 こと 俗 ぞく 部 ぶ ・渤海上 じょう に『日本 にっぽん 後 ご 紀 き 』編者 へんしゃ が渤海初期 しょき の粟 あわ 末 まつ 社会 しゃかい を首領 しゅりょう 中心 ちゅうしん に描 えが く記事 きじ があり、『続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 』の引 ひ く渤海使 し に託 たく した渤海への外交 がいこう 文書 ぶんしょ に、相手 あいて を渤海国王 こくおう に次 つ いで「官吏 かんり ・百姓 ひゃくしょう 」または「首領 しゅりょう ・百姓 ひゃくしょう 」とする表現 ひょうげん などにより、「首領 しゅりょう 」と呼 よ ばれる存在 そんざい とその配下 はいか の大 だい 多数 たすう の「百姓 ひゃくしょう 」を基礎 きそ とした渤海社会 しゃかい の成 な り立 た ちが分 わ かる。石井 いしい 正敏 まさとし は、『類聚 るいじゅう 国史 こくし 』巻 まき 一 いち 九 きゅう 三 さん ・殊 こと 俗 ぞく 部 ぶ ・渤海上 じょう ・延 のべ 歴 れき 十 じゅう 五 ご 年 ねん 四 よん 月 がつ 戊子 ぼし 条 じょう 記事 きじ が『日本 にっぽん 後 ご 紀 き 』の逸文 いつぶん であること、その編者 へんしゃ による渤海新出 しんで の条 じょう における沿革 えんかく 記事 きじ であることを明 あき らかにしたが、この記事 きじ は、渤海建国 けんこく 年 ねん を決定 けってい する情報 じょうほう が含 ふく まれているだけでなく、渤海の地方 ちほう 社会 しゃかい 構造 こうぞう が記 しる され、渤海史 し 研究 けんきゅう にとって最 さい 重要 じゅうよう 史料 しりょう の一 ひと つである[94] 。しかし、その読解 どっかい は難 むずか しく、とりわけ「其下百姓 ひゃくしょう 皆 みな 曰首領 りょう 。」の一節 いっせつ が難解 なんかい なため、多 おお くの研究 けんきゅう 者 しゃ が読解 どっかい に挑戦 ちょうせん 、様々 さまざま な首領 しゅりょう 論 ろん を展開 てんかい している[94] 。「大村 おおむら 曰都督 とく 、(大村 おおむら は都 と 督 とく と曰 のたま い、)、」以下 いか の解釈 かいしゃく は意見 いけん が分 わ かれており、一 ひと つは李 り 龍 りゅう 範 はん (朝鮮 ちょうせん 語 ご : 이용범 、東国 とうごく 大学 だいがく )および金 きむ 鍾圓 (朝鮮 ちょうせん 語 ご : 김종원 、英語 えいご : Kim Chong-won 、釜山 ぷさん 大学 だいがく )の解釈 かいしゃく であり、大村 おおむら (長官 ちょうかん 都 と 督 とく ) - 次 つぎ 村 むら (長官 ちょうかん 刺史 しし ) - 其下(長官 ちょうかん 首領 しゅりょう )の三 さん 級 きゅう から成 な る地方 ちほう 行政 ぎょうせい 組織 そしき を説明 せつめい したものとするが、最後 さいご の部分 ぶぶん の解釈 かいしゃく は、李 り 龍 りゅう 範 はん は、其 そ の下 した の百姓 ひゃくしょう の長 ちょう を首領 しゅりょう と呼 よ んだと解 かい し、金 きむ 鍾圓 は、其 そ の下 した の長 ちょう を百姓 ひゃくしょう が首領 しゅりょう と呼 よ んだと解 かい す[95] 。もう一 ひと つは朴 ほお 時 じ 亨 とおる および鈴木 すずき 靖 やすし 民 みん の解釈 かいしゃく であり、大村 おおむら - 次 つぎ 村 むら の二 に 級 きゅう であり、「其下百姓 ひゃくしょう 曰首領 りょう 。」は、それらの治下 ちか にある百姓 ひゃくしょう が都 と 督 とく 、刺史 しし を総称 そうしょう して首領 しゅりょう と呼 よ んだと解 げ するが、鈴木 すずき 靖 やすし 民 みん は、この記事 きじ 以外 いがい の渤海使 し 関係 かんけい 史料 しりょう から都 みやこ 督 ただし 、刺史 しし の下位 かい の地方 ちほう 長官 ちょうかん として首領 しゅりょう が存在 そんざい することを論 ろん じており、この点 てん は李 り 龍 りゅう 範 はん および金 きむ 鍾圓 と意見 いけん を同 おな じくする[95] 。
渤海史 し 研究 けんきゅう 者 しゃ は、唐 とう 代 だい 史料 しりょう の周辺 しゅうへん 諸国 しょこく および周辺 しゅうへん 諸 しょ 民族 みんぞく 関係 かんけい 記事 きじ に頻出 ひんしゅつ する「首領 しゅりょう 」の用例 ようれい から、「中国 ちゅうごく から四 よん 夷 えびす の首長 しゅちょう 層 そう を指 さ す語 かたり 」「いわゆる王 おう にあたる一 いち 国 こく ・一種 いっしゅ 族 ぞく の首長 しゅちょう か、それにつぐ有数 ゆうすう の首長 しゅちょう 層 そう ないし政治 せいじ 的 てき 支配 しはい 層 そう を指 さ す中国 ちゅうごく 王朝 おうちょう 側 がわ の用語 ようご であり、かれらは中国 ちゅうごく からよりその支配 しはい 領域 りょういき を府 ふ や州 しゅう として認 みと められ、そのまま都 と 督 とく ・刺史 しし に任命 にんめい される存在 そんざい [96] 」「中国 ちゅうごく の正史 せいし の四 よん 夷 えびす 伝 でん や『冊 さつ 府 ふ 元 もと 亀 かめ 』外 そと 臣 しん 部 ぶ にはしばしば首領 しゅりょう なる呼称 こしょう が見 み られるが、これは異 い 民族 みんぞく の長 なが に対 たい して中国 ちゅうごく 側 がわ が附 ふ した一般 いっぱん 的 てき な名称 めいしょう であり、これは渤海あるいは靺鞨に限 かぎ らない[97] [注釈 ちゅうしゃく 9] 」という理解 りかい をしてきた[98] 。
727年 ねん 、最初 さいしょ の渤海使 し が上陸 じょうりく 地 ち で大使 たいし などを失 うしな い、平城京 へいじょうきょう に入 はい った時 とき の代表 だいひょう は「首領 しゅりょう 」であり、841年 ねん の渤海使 し の構成 こうせい を宮内庁 くないちょう 書 しょ 陵 りょう 部 ぶ 蔵 ぞう 壬生 みぶ 家 か 文書 ぶんしょ の中台 ちゅうたい 省 しょう 牒(渤海の三省 みつよし の1つである中台 ちゅうたい 省 しょう の牒 )写 うつ しにみると、105人 にん 中 ちゅう 「首領 しゅりょう 」(大 だい 首領 しゅりょう )が65人 にん と半数 はんすう を超 こ え、716年 ねん 以後 いご の唐 とう への「朝貢 ちょうこう 使 し 」にも「首領 しゅりょう 」(大 だい 首領 しゅりょう )がしばしば加 くわ わっている[99] :4 。「首領 しゅりょう 」とは渤海の固有 こゆう 語 ご ではなく国際 こくさい 語 ご としての漢語 かんご であり、渤海各地 かくち の多様 たよう な集団 しゅうだん の支配 しはい 者 しゃ を指 さ すが、地域 ちいき 集団 しゅうだん の多数 たすう の住民 じゅうみん を組織 そしき し、生産 せいさん 物 ぶつ を管理 かんり ・分配 ぶんぱい して統制 とうせい し、渤海国 こく に服属 ふくぞく して以後 いご も生産 せいさん ・経済 けいざい 活動 かつどう の維持 いじ を主 おも とする伝統 でんとう 的 てき な支配 しはい 秩序 ちつじょ をそのまま承認 しょうにん され、外交 がいこう ・交易 こうえき にも関 かか わったとみられる[99] :4 。824年 ねん 、藤原 ふじわら 緒 いとぐち 嗣 が渤海使 し の本質 ほんしつ を「実 じつ にこれ商 しょう 旅 たび 」と非難 ひなん して以後 いご は、派遣 はけん を12年 ねん に1回 かい と制限 せいげん したが、その後 ご も一 いち 行 ぎょう の過半数 かはんすう を首領 しゅりょう が占 し めており、首領 しゅりょう たちは自 みずか らの支配 しはい 地 ち で獲得 かくとく した毛皮 けがわ などの特産 とくさん 物 ぶつ を交易 こうえき 品 ひん として携 たずさ え、上陸 じょうりく 地 ち の北陸 ほくりく など日本海 にほんかい 側 がわ 、平城京 へいじょうきょう あるいは平安京 へいあんきょう の客 きゃく 館 かん などで公私 こうし の交易 こうえき をおこなっており、日本 にっぽん から渤海へ贈 おく られた「回 かい 賜 たまもの 品 ひん 」の大半 たいはん は首領 しゅりょう に与 あた えられることが規定 きてい されていたた(『延喜 えんぎ 式 しき 』大蔵省 おおくらしょう )[99] :4 。渤海から唐 とう への遣唐使 けんとうし は、王族 おうぞく 、首領 しゅりょう 、臣 しん ・官吏 かんり に分 わ けられ、うち首領 しゅりょう (大 だい 首領 しゅりょう )は8世紀 せいき 前半 ぜんはん までで、以後 いご 姿 すがた を消 け すが、この変化 へんか は渤海の靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく 支配 しはい の拡大 かくだい 過程 かてい と対応 たいおう 関係 かんけい にあり、首領 しゅりょう たちは地方 ちほう 官制 かんせい の整備 せいび にともない、府 ふ 、州 しゅう 、県 けん レベルの官吏 かんり への身分 みぶん 上昇 じょうしょう を遂 と げた。渤海は朝貢 ちょうこう の最初 さいしょ 期 き から唐 とう に「就市 =公的 こうてき 交易 こうえき 」を要請 ようせい し、毎年 まいとし 、市 し での名馬 めいば の交易 こうえき 、鷹 たか 鷂 はいたか の歳 とし 貢 みつげ 、王子 おうじ らによる熟 じゅく 銅 どう の交易 こうえき などの交易 こうえき 本位 ほんい の外交 がいこう を続 つづ けたが、その主要 しゅよう な担 にな い手 て が首領 しゅりょう 層 そう である[99] :5 。渤海政権 せいけん は首領 しゅりょう 層 そう の盛 さか んな生産 せいさん ・流通 りゅうつう 機能 きのう を対外 たいがい 的 てき 交易 こうえき 活動 かつどう に包摂 ほうせつ 、利用 りよう し、首領 しゅりょう を頂点 ちょうてん とする社会 しゃかい 秩序 ちつじょ ・社会 しゃかい 経済 けいざい 的 てき 組織 そしき をもとに、中華 ちゅうか 式 しき の支配 しはい 機構 きこう や律令制 りつりょうせい を組 く み合 あ わせて国家 こっか の骨格 こっかく をつくり、渤海は首領 しゅりょう 層 そう が荷 にな った交易 こうえき 活動 かつどう を外交 がいこう との絡 がら みで活用 かつよう した国家 こっか という一 いち 面 めん を特質 とくしつ として指摘 してき できる[99] :7 。
浜田 はまだ 耕 こう 策 さく は、首領 しゅりょう とは「種族 しゅぞく の頭 あたま 」の意味 いみ に解釈 かいしゃく され、種族 しゅぞく の構成 こうせい 員 いん 間 あいだ には、擬制 ぎせい 的 てき 血縁 けつえん 関係 かんけい を紐帯 ちゅうたい として結合 けつごう されていたと推測 すいそく し[100] 、首領 しゅりょう にはそれぞれの種族 しゅぞく に固有 こゆう の語 かたり 音 おん の名称 めいしょう があり、これが中国 ちゅうごく の統治 とうち 者 しゃ や記録 きろく 者 しゃ からみれば、「首領 しゅりょう 」と漢 かん 訳 やく される[100] 。「首領 しゅりょう 」の種族 しゅぞく 語 ご 音 おん を音 おと 写 うつ して種族 しゅぞく 固有 こゆう の音 おと を残 のこ した表記 ひょうき では、靺鞨諸 しょ 族 ぞく の後身 こうしん に当 あ たる契 ちぎり 丹 に の語 かたり 音 おん では、「舎利 しゃり 」がこれに相当 そうとう し、契 ちぎり 丹 に の歴史 れきし を叙述 じょじゅつ した『遼 りょう 史 し 』巻 まき 一 いち 一 いち 六 ろく の「国語 こくご 解 かい 」の「舎利 しゃり 」とは「契 ちぎり 丹 に の豪 ごう 民 みん の頭巾 ずきん を要 よう 裹する者 もの 、牛 うし 駝十 じゅう 頭 とう 、馬 うま 百 ひゃく 疋を納 おさめ むれば乃 すなわ ち官 かん を給 きゅう す、名 な づけて舎利 しゃり という」とある「舎利 しゃり 」であり[100] 、『五 ご 代 だい 会 かい 要 よう (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) 』巻 まき 三 さん 十 じゅう ・渤海には渤海の建国 けんこく の祖 そ たる乞乞仲 なか 象 ぞう を「大 だい 舎利 しゃり 乞乞仲 なか 象 ぞう 」と記録 きろく し、舎利 しゃり とは首領 しゅりょう を意味 いみ する靺鞨語 ご の音 おと 写 うつし 表記 ひょうき であり、『冊 さつ 府 ふ 元 もと 亀 かめ 』巻 まき 九 きゅう 七 なな 五 ご には、741年 ねん 2月 がつ に越 えつ 喜 き 靺鞨 の「部落 ぶらく の烏 がらす 舎利 しゃり 」が唐 とう に賀 が 正使 せいし として派遣 はけん されたと記録 きろく され、『冊 さつ 府 ふ 元 もと 亀 かめ 』九 きゅう 七 なな 一 いち にも「其部落与舎利 しゃり 」と記録 きろく されており、『新 しん 唐 とう 書 しょ 』巻 まき 四 よん 三 さん 下 か の地理 ちり 志 こころざし には、安東 あんどう 都 みやこ 護 まもる 府 ふ に統括 とうかつ された九 きゅう 都 と 督 とく 府 ふ の一 ひと つに舎利 しゃり 州都 しゅうと 督 とく 府 ふ があり、『契 ちぎり 丹 に 国 こく 志 こころざし 』巻 まき 二 に にも「舎利 しゃり 萴刺」や「萴骨舎利 しゃり 」などと、人名 じんめい の接尾 せつび や接頭 せっとう にあらわれており、舎利 しゃり は靺鞨に広 ひろ くみられる種族 しゅぞく 語 ご の音 おと 写 うつし であることが頷 うなづ ける、と指摘 してき している[100] 。これに対 たい して河内 かわうち 春 はる 人 じん は、舎利 しゃり を渤海の在地 ざいち 首長 しゅちょう である首領 しゅりょう と同音 どうおん 異字 いじ であるとする見解 けんかい があるが、唐 とう は、首領 しゅりょう という語句 ごく を新 しん 羅 ら [注釈 ちゅうしゃく 10] および国内 こくない の地域 ちいき 集団 しゅうだん 指導 しどう 者 しゃ [注釈 ちゅうしゃく 11] に対 たい しても用 もち いており、「舎利 しゃり 」を中国人 ちゅうごくじん が「首領 しゅりょう 」と書 か きとったとするのは難 むずか しい、と指摘 してき しており、『遼 りょう 史 し 』国語 こくご 解 かい には、「契 ちぎり 丹 たん 豪 ごう 民 みん 耍裹頭巾 ずきん 者 しゃ 、納 おさめ 牛 うし 駝十 じゅう 頭 とう 、馬 うま 百 ひゃく 疋、乃給官 かん 名 めい 曰舎利 しゃり 。[101] 」とあり、契 ちぎり 丹 に に属 ぞく して家畜 かちく を一定 いってい 数 すう 納 おさ める者 もの に舎利 しゃり を授 さづ けられたことがわかり、『資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん 』長 ちょう 興 きょう 三 さん 年 ねん 三 さん 月 がつ 条 じょう には、「有 ゆう 契 ちぎり 丹 に 舎利 しゃり 萴剌與惕隱、皆 みな 為 ため 趙 ちょう 德 いさお 鈞 ひとし 所 しょ 擒 とりこ 。舎利 しゃり ・惕隱、皆 みな 契 ちぎり 丹 に 管 かん 軍 ぐん 頭目 とうもく 之 の 称 しょう 」とあり、舎利 しゃり は契 ちぎり 丹 に における軍事 ぐんじ 指導 しどう 者 しゃ であることがわかり、契 ちぎり 丹 に や靺鞨において首長 しゅちょう を指 さ す言葉 ことば は、唐 から 初 はつ までテュルク語 ご で勇者 ゆうしゃ をあらわすバガトル からくる「莫賀弗 どる 」「莫弗 」「瞞咄 」であり、「莫賀弗 どる 」が軍事 ぐんじ 指導 しどう 者 しゃ の意味 いみ を有 ゆう し、舎利 しゃり も軍事 ぐんじ 指導 しどう 者 しゃ であるならば、同 どう 一 いち 階層 かいそう である蓋然性 がいぜんせい が高 たか く、「莫賀弗 どる 」と「舎利 しゃり 」が同 どう 一 いち 階層 かいそう であることを示 しめ す史料 しりょう は存在 そんざい しないが、唐 から 初 はつ まで「莫賀弗 どる 」と称 しょう された首長 しゅちょう は、その後 ご 、政治 せいじ 的 てき 整備 せいび から「舎利 しゃり 」という官 かん を有 ゆう するようになったと考 かんが えたい、と述 の べている[102] 。
渤海の生業 せいぎょう は、高句麗 こうくり および南部 なんぶ 靺鞨は農耕 のうこう 、北部 ほくぶ 靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく は狩猟 しゅりょう が中核 ちゅうかく であり、北部 ほくぶ 靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく 地域 ちいき は、『類聚 るいじゅう 国史 こくし 』沿革 えんかく 記事 きじ にみえる、中央 ちゅうおう から派遣 はけん される支配 しはい 層 そう 「土人 どじん 」と一般 いっぱん 民衆 みんしゅう である靺鞨とがわけられ、間接 かんせつ 支配 しはい がおこなわれていた[103] 。こういう形態 けいたい の場合 ばあい 、「土人 どじん 」と靺鞨が同族 どうぞく 意識 いしき をもって融合 ゆうごう するのは難 むずか しく、渤海建国 けんこく 以来 いらい の支配 しはい 層 そう である高句麗 こうくり 人 じん および南部 なんぶ 靺鞨が融合 ゆうごう することは有 あ りえても、被 ひ 支配 しはい 層 そう である北部 ほくぶ 靺鞨と高句麗 こうくり 人 じん および南部 なんぶ 靺鞨は融合 ゆうごう せず、北部 ほくぶ 靺鞨から反発 はんぱつ があった場合 ばあい 、渤海は分裂 ぶんれつ しかねないが、そのような事態 じたい は渤海末期 まっき まで発生 はっせい しておらず、それは、渤海支配 しはい 層 そう が被 ひ 支配 しはい 層 そう である北部 ほくぶ 靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく の支持 しじ を得 え ていたからであり、「首領 しゅりょう 制 せい 」という渤海独自 どくじ の在地 ざいち 支配 しはい 方式 ほうしき に要因 よういん がある[103] 。「首領 しゅりょう 制 せい 」という用語 ようご をはじめて使用 しよう したのは鈴木 すずき 靖 やすし 民 みん である。鈴木 すずき 靖 やすし 民 みん は、首領 しゅりょう は靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく の「部落 ぶらく 」と呼 よ ばれる地域 ちいき に割拠 かっきょ する在地 ざいち 首長 しゅちょう であり、伝統 でんとう 的 てき な旧来 きゅうらい の在地 ざいち 支配 しはい 権 けん をそのまま承認 しょうにん され、部落 ぶらく 成員 せいいん たる「百姓 ひゃくしょう 」を統 すべ 属 ぞく 、かつ地方 ちほう 官 かん 人 じん をはじめとする官僚 かんりょう や外交 がいこう 使節 しせつ 随員 ずいいん にもなった、と理解 りかい した。換言 かんげん すれば、渤海王権 おうけん は、靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく を支配 しはい するにあたり、その在地 ざいち 社会 しゃかい を解体 かいたい することなく、在地 ざいち 首長 しゅちょう を「首領 しゅりょう 」と名 な づけて支配 しはい 権 けん を認 みと め、「首領 しゅりょう 」を官僚 かんりょう や外交 がいこう 使節 しせつ 随員 ずいいん という形 かたち で渤海国家 こっか のなかに包摂 ほうせつ 、国家 こっか 的 てき に再 さい 編成 へんせい することにより、はじめて人民 じんみん 支配 しはい を貫徹 かんてつ することができたのであり、渤海は首領 しゅりょう 層 そう を媒介 ばいかい にして靺鞨の人々 ひとびと を間接 かんせつ 支配 しはい し、首領 しゅりょう 層 そう も利益 りえき 維持 いじ のために呼応 こおう した、と考 かんが えた[104] 。鈴木 すずき 靖 やすし 民 みん は、こうした渤海国 こく の国家 こっか および社会 しゃかい を特徴 とくちょう づける首領 しゅりょう の特有 とくゆう のあり方 かた を媒介 ばいかい とした、間接 かんせつ 支配 しはい 体制 たいせい を「首領 しゅりょう 制 せい 」と呼 よ ぶことを提唱 ていしょう した[103] 。河上 かわかみ 洋 ひろし は、高句麗 こうくり の城 しろ 支配 しはい 体制 たいせい のあり方 かた と『類聚 るいじゅう 国史 こくし 』沿革 えんかく 記事 きじ にみえる渤海社会 しゃかい のあり方 かた との類似 るいじ 性 せい を指摘 してき し、渤海の地方 ちほう 支配 しはい 体制 たいせい は高句麗 こうくり と継承 けいしょう 関係 かんけい にあると考 かんが え、高句麗 こうくり の在地 ざいち 首長 しゅちょう の官 かん 「可 か 邏達」が渤海の「首領 しゅりょう 」に相当 そうとう すると推定 すいてい し、渤海は在地 ざいち 勢力 せいりょく を解体 かいたい することなく、在地 ざいち 勢力 せいりょく に依拠 いきょ して支配 しはい を及 およ ぼしたと主張 しゅちょう した[104] 。大隅 おおすみ 晃弘 あきひろ は、鈴木 すずき 靖 やすし 民 みん と河上 かわかみ 洋 ひろし の渤海の在地 ざいち 支配 しはい 体制 たいせい 理解 りかい を支持 しじ し、渤海の靺鞨支配 しはい の進展 しんてん と「首領 しゅりょう 制 せい 」の成立 せいりつ を関連 かんれん づけ、唐 とう あるいは日本 にっぽん との交易 こうえき によって得 え られる首領 しゅりょう の利益 りえき の大 おお きさを指摘 してき し、渤海が交易 こうえき を独占 どくせん したうえで首領 しゅりょう をその利 り に与 あずか らせたことが渤海王権 おうけん の支配 しはい 貫徹 かんてつ の主 しゅ 要因 よういん であったとの見解 けんかい を示 しめ した[104] 。石井 いしい 正敏 まさとし は、承 うけたまわ 和 わ 九 きゅう 年 ねん 来日 らいにち 渤海使 し がもたらした咸和 十 じゅう 一 いち 年 ねん 閏 うるう 九 きゅう 月 がつ 二 に 十 じゅう 五 ご 日 にち 付 づけ 太政官 だじょうかん 宛 あて 中台 ちゅうたい 省 しょう 牒(渤海の三省 みつよし の1つである中台 ちゅうたい 省 しょう の牒 )には、渤海使 し 一 いち 行 ぎょう 105人 にん の内訳 うちわけ を明記 めいき してあり、「使 つかい 頭 あたま (大使 たいし )一人 ひとり 、嗣使(副使 ふくし )一人 ひとり 、判官 ほうがん 二 に 人 にん 、録 ろく 事 ごと 三 さん 人 にん 、訳語 やくご 二人 ふたり 、史生 ふみお 二人 ふたり 、天文 てんもん 生 せい 一 いち 人 にん 、大 だい 首領 しゅりょう 六 ろく 五 ご 人 にん 、梢 こずえ 工 こう 二 に 八 はち 人 にん 」とあることから、大 だい 首領 しゅりょう は、小 しょう 首領 しゅりょう といったものとの対称 たいしょう ではなく、首領 しゅりょう の美称 びしょう であろう、と指摘 してき しており、その65人 にん という数値 すうち が渤海の州 しゅう 数 すう と一致 いっち することから、鈴木 すずき 靖 やすし 民 みん は「(首領 しゅりょう )支配 しはい 下 か の土地 とち からの産物 さんぶつ が(日本 にっぽん への)朝貢 ちょうこう 物 ぶつ となって徴集 ちょうしゅう されたのではなかろうか」「首領 しゅりょう が一 いち 州 しゅう につき一人 ひとり といった割合 わりあい で選抜 せんばつ され」たのではなかろうかと論 ろん じている[105] 。李 り 成 しげる 市 し は、「首領 しゅりょう とは、渤海領域 りょういき 内 ない の靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく の中 なか でも在地 ざいち 社会 しゃかい に支配 しはい 者 しゃ として君臨 くんりん する者 もの たちで、渤海王権 おうけん は彼 かれ らを包摂 ほうせつ し、これを国家 こっか 的 てき に再編 さいへん することによって集権 しゅうけん 的 てき な支配 しはい を可能 かのう にしていたと推定 すいてい されている」と指摘 してき しており、首領 しゅりょう が日本 にっぽん への遣 や 使 つかい に参加 さんか していた背景 はいけい には、元来 がんらい 、靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく はそれぞれ単独 たんどく で唐 とう あるいは新 しん 羅 ら などの周辺 しゅうへん 諸 しょ 地域 ちいき と交易 こうえき をおこなっていたが、8世紀 せいき 半 なか ば以降 いこう 、靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく は渤海王権 おうけん に包摂 ほうせつ され、対外 たいがい 活動 かつどう を停止 ていし したが[106] 、渤海王権 おうけん に包摂 ほうせつ された靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく の活動 かつどう は渤海の対外 たいがい 戦略 せんりゃく に拘束 こうそく されざるを得 え なくなり、さらに、渤海は8世紀 せいき 以降 いこう 、一貫 いっかん して新 しん 羅 ら とは敵対 てきたい 戦略 せんりゃく をとり、新 しん 羅 ら との通交 つうこう を途絶 とぜつ したことにより、狩猟 しゅりょう ・漁撈 ぎょろう を生業 せいぎょう とし、遠隔 えんかく 交易 こうえき に従事 じゅうじ していた靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく の行動 こうどう を著 いちじる しく狭 せば め[106] 、地域 ちいき 的 てき に新 しん 羅 ら と隣接 りんせつ する南部 なんぶ の靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく にとって、新 しん 羅 ら との交易 こうえき は歴史 れきし を有 ゆう する活動 かつどう であり、これを補 おぎな うかのように渤海は、靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく を積極 せっきょく 的 てき に唐 とう あるいは日本 にっぽん への遣 や 使 つかい に参加 さんか させることにより、靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく の従前 じゅうぜん の権益 けんえき を保証 ほしょう した、と主張 しゅちょう している[106] 。金 きむ 鍾圓 (朝鮮 ちょうせん 語 ご : 김종원 、英語 えいご : Kim Chong-won 、釜山 ぷさん 大学 だいがく )は、『類聚 るいじゅう 国史 こくし 』の記録 きろく を在 ざい 唐 から 学問 がくもん 僧 そう 永 えい 忠 ただし の見聞 けんぶん 録 ろく の一部 いちぶ とし、高句麗 こうくり 遺 のこ 民 みん が比較的 ひかくてき 多 おお い地域 ちいき では州 しゅう 県 けん 制 せい が施行 しこう されていたであろうが、靺鞨族 ぞく が集団 しゅうだん で居住 きょじゅう する地域 ちいき では部族 ぶぞく 制 せい (部族 ぶぞく 自治 じち 制 せい )が施行 しこう されていた、とみた[107] 。金 きむ 東 ひがし 宇 (朝鮮 ちょうせん 語 ご : 김동우 、国立 こくりつ 春川 はるかわ 博物館 はくぶつかん (英語 えいご 版 ばん ) )は、渤海の首領 しゅりょう を地方 ちほう 官 かん 、官僚 かんりょう 、そして遣 や 日 にち 使 し の下級 かきゅう 随行 ずいこう 員 いん の三 さん 者 しゃ に区分 くぶん し、宣 せん 王 おう 大仁 おおひと 秀 しげる 以後 いご 、下級 かきゅう 随行 ずいこう 員 いん のように首領 しゅりょう の地位 ちい が下落 げらく した理由 りゆう は、中央 ちゅうおう の首領 しゅりょう は政治 せいじ 制度 せいど が次第 しだい に整備 せいび されるにつれ、首領 しゅりょう の称号 しょうごう に代 か わり別 べつ の官職 かんしょく 名 めい や官爵 かんしゃく 名 めい で呼 よ ばれ、地方 ちほう の首領 しゅりょう は、その独立 どくりつ 的 てき 地位 ちい に以前 いぜん よりも制約 せいやく が加 くわ わったからだとした[108] 。宋 そう 基 はじめ 豪 ごう (朝鮮 ちょうせん 語 ご : 송기호 、英語 えいご : Song Ki-ho 、ソウル大学 だいがく )は、渤海の首領 しゅりょう は中央 ちゅうおう 政府 せいふ から官職 かんしょく や官 かん 品 ひん を受 う けない勢力 せいりょく で、独自 どくじ 性 せい を強 つよ く維持 いじ していた在地 ざいち 支配 しはい 者 しゃ であって、官職 かんしょく 体制 たいせい 外 がい にあったとみた[109] 。朴 ぼく 真 しん 淑 よし (朝鮮 ちょうせん 語 ご : 박진숙 、忠南大学 ちゅうなんだいがく )は、首領 しゅりょう は現地 げんち 人 じん である都 と 督 とく と刺史 しし のもとに置 お かれた存在 そんざい であって、地方 ちほう 民 みん を統治 とうち する一定 いってい の権利 けんり を付与 ふよ された地方 ちほう の末端 まったん 官吏 かんり とし、都 みやこ 督 ただし ・刺史 しし および県 けん 丞 すすむ と同 おな じく、首領 しゅりょう もまた中央 ちゅうおう より任命 にんめい されたであろうとみた[110] [111] 。朴 ほお 時 じ 亨 とおる は、百姓 ひゃくしょう は「一般 いっぱん にいう庶民 しょみん 」であり、首領 しゅりょう は「特別 とくべつ な現任 げんにん 官職 かんしょく のない、いわば後世 こうせい における朝鮮 ちょうせん の『両 りょう 班 はん 』にあたる」と主張 しゅちょう している[112] [113] 。張 ちょう 博 ひろし 泉 いずみ と程 ほど 妮娜 は、百姓 ひゃくしょう のなかにあって、土人 どじん と靺鞨人 じん の地位 ちい には差 さ があり、「首領 しゅりょう 」とは、氏族 しぞく 長 ちょう あるいは部落 ぶらく 長 ちょう を指 さ し、都 みやこ 督 ただし および刺史 しし とは、「首領 しゅりょう 」の上位 じょうい の地方 ちほう 長官 ちょうかん のことであり、一般 いっぱん に都 みやこ 督 ただし および刺史 しし らは品 しな 階 かい 身分 みぶん の貴族 きぞく であった、と指摘 してき している[114] [115] 。
李 り 成 しげる 市 し は、渤海を独自 どくじ のエスニック・アイデンティティ(民族 みんぞく 意識 いしき )をもつ高句麗 こうくり 人 じん と靺鞨からなる多 た 民族 みんぞく 国家 こっか とする見解 けんかい を示 しめ したうえで、渤海は、従来 じゅうらい より独自 どくじ の対外 たいがい 交易 こうえき をおこなっていた靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく を包摂 ほうせつ するにあたり、独自 どくじ 外交 がいこう を遮断 しゃだん する代 か わりに、在地 ざいち 首長 しゅちょう である首領 しゅりょう を渤海の対 たい 唐 とう および対 たい 日 にち 使節 しせつ 団 だん に恒常 こうじょう 的 てき に参加 さんか させることにより、対外 たいがい 交易 こうえき の便宜 べんぎ および安全 あんぜん を供与 きょうよ して靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく を懐柔 かいじゅう し、靺鞨に対 たい する対外 たいがい 通交 つうこう の管理 かんり こそが渤海の国家 こっか 支配 しはい の要諦 ようたい であるとし、対外 たいがい 通交 つうこう は単 たん に経済 けいざい 的 てき 行為 こうい であるばかりか政治 せいじ 支配 しはい の根幹 こんかん に関 かか わり、渤海の対 たい 日 にち 遣 や 使 つかい 団 だん である渤海使 し が760年代 ねんだい を境 さかい に経済 けいざい 目的 もくてき 化 か しているようにみえるのも、こうした渤海の靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく 支配 しはい のあらわれであると主張 しゅちょう した[104] 。李 り 成 しげる 市 し の「首領 しゅりょう 制 せい 」は、渤海の北部 ほくぶ 靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく 支配 しはい の進展 しんてん と渤海使 し の経済 けいざい 目的 もくてき 化 か の時期 じき とが重 かさ なること、渤海使 し の使節 しせつ 団 だん の過半数 かはんすう を首領 しゅりょう が占 し めており、日本 にっぽん からの回 かい 賜 たまもの 総量 そうりょう の半分 はんぶん 以上 いじょう が首領 しゅりょう にわたること、狩猟 しゅりょう および漁撈 ぎょろう 民 みん はその生産 せいさん 物 ぶつ を農耕 のうこう 民 みん との交換 こうかん の必要 ひつよう 性 せい があることから交易 こうえき 民 みん でもあること、渤海と同様 どうよう に東夷 あずまえびす 諸 しょ 族 ぞく の世界 せかい に建国 けんこく した高句麗 こうくり および新 しん 羅 ら も多 た 民族 みんぞく 状況 じょうきょう を有 ゆう し、自律 じりつ 性 せい のある諸 しょ 民族 みんぞく を統合 とうごう する原理 げんり として中国 ちゅうごく 文明 ぶんめい を導入 どうにゅう したこと、日本海 にほんかい 側 がわ の靺鞨がその前身 ぜんしん の一 ひと つである濊 以来 いらい の遠隔 えんかく 地 ち 交易 こうえき 民 みん であること、渤海国 こく の衰退 すいたい 期 き に新 しん 羅 ら 国境 こっきょう 付近 ふきん の靺鞨が独自 どくじ に新 しん 羅 ら との交易 こうえき を求 もと めたこと、渤海滅亡 めつぼう 後 ご における旧 きゅう 渤海領域 りょういき の女 おんな 真 しん 族 ぞく も高麗 こうらい 王朝 おうちょう と活発 かっぱつ に交易 こうえき したことなどを根拠 こんきょ としており、この仮説 かせつ に従 したが うならば、渤海は交易 こうえき 保証 ほしょう ができている間 あいだ は、北部 ほくぶ 靺鞨諸 しょ 部族 ぶぞく の安定 あんてい 支配 しはい ができたことになる[103] 。古畑 ふるはた 徹 とおる は、「首領 しゅりょう 制 せい を基礎 きそ とする多 た 民族 みんぞく 国家 こっか としての渤海という捉 とら え方 かた は、この地域 ちいき における民族 みんぞく と国家 こっか のあり方 かた の歴史 れきし 的 てき 変遷 へんせん のなかに位置 いち づいていて、非常 ひじょう に説得 せっとく 力 りょく のあるものになっている。いいかえれば、渤海の首領 しゅりょう 制 せい は、李 り 氏 し によって東夷 あずまえびす 諸 しょ 族 ぞく の大 おお きな歴史 れきし の流 なが れのなかに位置 いち づけられたことで、渤海の国家 こっか ・社会 しゃかい を理解 りかい するうえでの最 もっと も有力 ゆうりょく な仮説 かせつ に成長 せいちょう したと評 ひょう してよかろう」と述 の べている[104] 。
石井 いしい 正敏 まさとし は、「其下百姓 ひゃくしょう 皆 みな 曰首領 りょう 」を「其ノ下 しも ノ百姓 ひゃくしょう ヲ、ミナ首領 しゅりょう ト曰フ」と訓 くん じて、「百姓 ひゃくしょう 」を百官 ひゃっかん =役人 やくにん の意 い とし、都 みやこ 督 ただし ・刺史 しし という村長 そんちょう の下 した の役人 やくにん =靺鞨人 じん 首長 しゅちょう を首領 しゅりょう と総称 そうしょう した、という解釈 かいしゃく を提示 ていじ し、首領 しゅりょう 制 せい を支持 しじ している[116] 。一方 いっぽう 、李 り 成 しげる 市 し が強調 きょうちょう する在地 ざいち 首長 しゅちょう 自体 じたい が渤海使 し の一員 いちいん となって来日 らいにち したとすることには否定 ひてい 的 てき であり、渤海使 し の史料 しりょう に登場 とうじょう する首領 しゅりょう は、日本 にっぽん の遣唐使 けんとうし でいえば、知 ち 乗船 じょうせん 事 ごと 、造 みやつこ 舶都匠 たくみ 、船 ふね 師 し 、水 みず 手長 てなが 、船 ふね 匠 たくみ 、柂師 、挟 はさみ 杪 、射手 しゃしゅ などに該当 がいとう し、幹部 かんぶ クラスより下 した の下級 かきゅう 役人 やくにん の総称 そうしょう と解 かい し、首領 しゅりょう は在地 ざいち 首長 しゅちょう 層 そう の総称 そうしょう だけでなく、中央 ちゅうおう 政府 せいふ および地方 ちほう 政府 せいふ をとわず下級 かきゅう 官 かん 人 じん 層 そう の汎称 はんしょう ではないかという理解 りかい を提示 ていじ しており、首領 しゅりょう の国家 こっか 交易 こうえき 団 だん への再編 さいへん を渤海の国家 こっか 支配 しはい の要諦 ようたい とみなす首領 しゅりょう 制 せい 論 ろん には批判 ひはん 的 てき である[116] 。古畑 ふるはた 徹 とおる は、「この石井 いしい 氏 し の論理 ろんり 展開 てんかい は確 たし かに見事 みごと であるが、氏 し 自身 じしん が述 の べるように、日本 にっぽん では『百姓 ひゃくしょう 』の語 かたり は一貫 いっかん して普遍 ふへん 的 てき 被 ひ 支配 しはい 身分 みぶん の呼称 こしょう として使用 しよう され、役人 やくにん の意味 いみ に解 げ する同 どう 時代 じだい 事例 じれい がないという大 おお きな欠陥 けっかん が存在 そんざい する。石井 いしい 氏 し は『類聚 るいじゅう 国史 こくし 』渤海沿革 えんかく 関係 かんけい 記事 きじ の『百姓 ひゃくしょう 』を渤海における用例 ようれい とみる可能 かのう 性 せい も指摘 してき するが、日本 にっぽん の人々 ひとびと に対 たい して渤海の『首領 しゅりょう 』を解説 かいせつ する文章 ぶんしょう に渤海独自 どくじ の用語 ようご が使 つか われ、これについて何 なん の説明 せつめい もないというのはいかにも不自然 ふしぜん である。その意味 いみ で、この石井 いしい 氏 し の解釈 かいしゃく も未 いま だ決定 けってい 打 だ とはいえない」と評 ひょう している[116] 。
森田 もりた 悌 は、「首領 しゅりょう 」について、二 に 度 ど にわたって論 ろん じているが、前説 ぜんせつ と後 こう 説 せつ では見解 けんかい が異 こと なり、前説 ぜんせつ は、咸和 十 じゅう 一 いち 年 ねん 閏 うるう 九 きゅう 月 がつ 二 に 十 じゅう 五 ご 日 にち 付 づけ 太政官 だじょうかん 宛 あて 中台 ちゅうたい 省 しょう 牒(渤海の三省 みつよし の1つである中台 ちゅうたい 省 しょう の牒 )にみえる「六 ろく 十 じゅう 五 ご 人 にん 大 だい 首領 しゅりょう 」記事 きじ から、首領 しゅりょう を渤海使 し の水 みず 手 しゅ と解 かい し、水 みず 手 しゅ は一般 いっぱん に百姓 ひゃくしょう =庶民 しょみん であることから、首領 しゅりょう はその本義 ほんぎ を離 はな れ、渤海内 ない で百姓 ひゃくしょう クラスを指 さ す用語 ようご に変質 へんしつ したと考 かんが え、「其下百姓 ひゃくしょう 皆 みな 曰首領 りょう 」記事 きじ を、「ソノ下 か ノ百姓 ひゃくしょう ヲ皆 みな 、首領 しゅりょう ト曰フ」と訓 くん じ、百姓 ひゃくしょう =首領 しゅりょう と解 かい し、換言 かんげん すれば、百姓 ひゃくしょう =一般 いっぱん 庶民 しょみん 説 せつ であり、首領 しゅりょう 制 せい 論 ろん とは対立 たいりつ する[117] 。後 こう 説 せつ は、「其下百姓 ひゃくしょう 皆 みな 曰首領 りょう 」記事 きじ を、百姓 ひゃくしょう =首領 しゅりょう と解 げ する見解 けんかい は維持 いじ するが、渤海に編戸 あみど 制 せい がおこなわれており、複数 ふくすう の自然 しぜん 家族 かぞく から成 な る戸 と を統率 とうそつ する戸主 こしゅ は庶民 しょみん 階層 かいそう に属 ぞく することを根拠 こんきょ にして、首領 しゅりょう =戸主 こしゅ という新 しん 見解 けんかい を提示 ていじ し、戸 と を戸口 とぐち や部 ぶ 曲 きょく および奴婢 ぬひ が属 ぞく する大 だい 組織 そしき と解 かい し、官吏 かんり と解 ほぐ さない点 てん を除 のぞ けば、首領 しゅりょう =戸主 こしゅ 説 せつ は首領 しゅりょう 制 せい 論 ろん の社会 しゃかい 構造 こうぞう に近 ちか い[117] 。また、咸和 十 じゅう 一 いち 年 ねん 閏 うるう 九 きゅう 月 がつ 二 に 十 じゅう 五 ご 日 にち 付 づけ 太政官 だじょうかん 宛 あて 中台 ちゅうたい 省 しょう 牒における首領 しゅりょう の解釈 かいしゃく にも若干 じゃっかん の変更 へんこう を加 くわ え、水 みず 手 しゅ をはじめ船内 せんない 諸 しょ 役 やく に従事 じゅうじ する者 もの という見解 けんかい を示 しめ している[117] 。古畑 ふるはた 徹 とおる は、前説 ぜんせつ を「『大 だい 首領 しゅりょう 』を水 みず 手 しゅ と解 げ する点 てん などに問題 もんだい が残 のこ り、渤海史 し 研究 けんきゅう 者 しゃ の大方 おおかた の賛同 さんどう は得 え られなかった」、後 こう 説 せつ を「首領 しゅりょう =戸主 こしゅ 説 せつ と船内 せんない 諸 しょ 役 やく に従事 じゅうじ する者 もの との関係 かんけい が不明瞭 ふめいりょう で、論理 ろんり 自体 じたい にわかりにくい点 てん が多 おお く、依然 いぜん として渤海史 し 研究 けんきゅう 者 しゃ からはほとんど賛同 さんどう が得 え られていない」と評 ひょう している[117] 。石井 いしい 正敏 まさとし は、「そもそも首領 しゅりょう =水 みず 手 しゅ とすることに問題 もんだい があるのではなかろうか。すなわち遣 や 日本 にっぽん 使 し の首領 しゅりょう を水 みず 手 しゅ とすると、明 あき らかに船員 せんいん を意味 いみ する梢 こずえ 工 こう がすでに二 に 八 はち 人 にん も乗 の り込 こ んでいるので、一 いち 行 ぎょう 一 いち 〇五 ご 人 にん のうち九 きゅう 三 さん 人 にん (約 やく 九 きゅう 割 わり )もが操船 そうせん 関係 かんけい 者 しゃ で占 し められてしまうことになる。非 ひ 官 かん 人 じん 層 そう が九 きゅう 割 わり を占 し める国家 こっか 使節 しせつ というものが考 かんが えられるであろうか。首領 しゅりょう をすべて民間 みんかん から徴用 ちょうよう された水 みず 手 しゅ とすることには疑問 ぎもん がある」と評 ひょう している[105] 。
渤海は、在地 ざいち 社会 しゃかい の部落 ぶらく 長 ちょう を「首領 しゅりょう 」に任命 にんめい 、在地 ざいち 社会 しゃかい の部落 ぶらく の中心 ちゅうしん となる大 だい 規模 きぼ 部落 ぶらく に都 みやこ 督 ただし あるいは刺史 しし を中央 ちゅうおう から派遣 はけん 、統轄 とうかつ したとみられるが、河上 かわかみ 洋 ひろし は、渤海は領域 りょういき 支配 しはい にあたり、府 ふ および州 しゅう をおいたが、これは高句麗 こうくり の城 しろ 支配 しはい を継承 けいしょう しており、行政 ぎょうせい 機構 きこう であると同時 どうじ に軍団 ぐんだん 組織 そしき でもあり、その基礎 きそ は靺鞨の部落 ぶらく あるいは高句麗 こうくり の城 しろ 邑であり、渤海の府 ふ および州 しゅう は、中国 ちゅうごく とは異 こと なる部落 ぶらく および城 しろ 邑そのものであり、渤海の在地 ざいち の首長 しゅちょう 層 そう は「首領 しゅりょう 」を与 あた えられることにより、在地 ざいち 社会 しゃかい における支配 しはい 権 けん を認 みと められ、渤海の支配 しはい 体制 たいせい に組 く み込 こ まれた、と主張 しゅちょう しており[118] 、高句麗 こうくり の地方 ちほう 統治 とうち 組織 そしき と渤海の地方 ちほう 統治 とうち 組織 そしき の類似 るいじ 性 せい を指摘 してき している。高句麗 こうくり の地方 ちほう 統治 とうち 組織 そしき は、大城 おおしろ - 城 しろ - 小城 おぎ から成 な り、大城 おおしろ と城 しろ には中央 ちゅうおう から各々 おのおの 褥 しとね 薩(朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) 、処 しょ 閭近支 ささえ が長官 ちょうかん として派遣 はけん されているが、『類聚 るいじゅう 国史 こくし 』に記 しる されている渤海の地方 ちほう 体制 たいせい と比較 ひかく した場合 ばあい 、大城 おおしろ (長官 ちょうかん =褥 しとね 薩(朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) ) - 城 しろ (長官 ちょうかん =処 しょ 閭近支 ささえ )の関係 かんけい は、そのまま大村 おおむら (長官 ちょうかん =都 みやこ 督 ただし ) - 次 つぎ 村 むら (長官 ちょうかん =刺史 しし )の関係 かんけい と相似 そうじ しており、さらに、中国 ちゅうごく 史料 しりょう では、高句麗 こうくり の褥 しとね 薩は都 と 督 とく に、高句麗 こうくり の処 しょ 閭近支 ささえ は刺史 しし に比定 ひてい しており、このことも褥 しとね 薩、処 しょ 閭近支 ささえ と渤海の都 と 督 とく 、刺史 しし が同様 どうよう の性格 せいかく であったことを示 しめ している、と主張 しゅちょう している。河上 かわかみ 洋 ひろし は、「刺史 しし から下 した の対応 たいおう 関係 かんけい ははっきりしないが、高句麗 こうくり の小城 おぎ におかれた可 か 邏達 が渤海の首領 しゅりょう に、縣令 けんれい に比定 ひてい された婁肖がそのまま渤海の縣令 けんれい に当 あ てはめられるのではないか。ただそうすると高句麗 こうくり の可 か 邏達は長 ちょう 史 し に比定 ひてい されているから、渤海においては中国 ちゅうごく 風 ふう に長 ちょう 史 ふみ とすべき官 かん にわざわざ首領 しゅりょう なる呼称 こしょう を当 あ てているのが問題 もんだい になる。一 ひと つの解答 かいとう として、これは都 と 督 とく 、刺史 しし が高句麗 こうくり 人 じん であるのに対 たい し、在地 ざいち の首長 しゅちょう 層 そう の多 おお くが靺鞨人 じん から成 な ることの反映 はんえい と考 かんが えられる。つまり、種族 しゅぞく の相違 そうい からそのまま長 ちょう 史 し とはせずに先 さき に述 の べた中国 ちゅうごく での用例 ようれい を意識 いしき して首領 しゅりょう という呼称 こしょう を附 ふ したのだろう」と主張 しゅちょう している[119] 。また、河上 かわかみ 洋 ひろし は、唐 とう の第 だい 一 いち 次 じ 高句麗 こうくり 出兵 しゅっぺい において、唐 とう は高句麗 こうくり の白 しろ 巖城 いわき (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) を降 くだ した際 さい 、城 しろ をそのまま巖 いわお 州 しゅう として州 しゅう の刺史 しし に白 はく 巖 いわお 城主 じょうしゅ である孫 まご 伐 き 音 おと を任命 にんめい しており、高句麗 こうくり 滅亡 めつぼう 後 ご 、大城 おおしろ - 城 しろ - 小城 おぎ から成 な る高句麗 こうくり の地方 ちほう 統治 とうち 組織 そしき はある程度 ていど は温存 おんぞん されていたのではないか、と推測 すいそく し[119] 、高句麗 こうくり 人 じん 住 じゅう 地 ち における大城 おおしろ - 城 しろ の関係 かんけい にあたる靺鞨人 じん 住 じゅう 地 ち の大村 おおむら - 次 つぎ 村 むら の関係 かんけい について、靺鞨の各 かく 部落 ぶらく には各々 おのおの 部落 ぶらく 長 ちょう がおり、独自 どくじ 活動 かつどう をおこなっていたが、なかには、突地稽 (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) を長 ちょう とする厥稽部 ぶ のような軍事 ぐんじ 行動 こうどう の際 さい に他 た 部落 ぶらく を統率 とうそつ する有力 ゆうりょく 部落 ぶらく が存在 そんざい し、渤海はこうした有力 ゆうりょく 部落 ぶらく に都 と 督 とく あるいは刺史 しし を派遣 はけん して周辺 しゅうへん の小 しょう 部落 ぶらく を統轄 とうかつ させ、靺鞨の部落 ぶらく 長 ちょう に「首領 しゅりょう 」与 あた え、都 みやこ 督 ただし および刺史 しし の指揮 しき 下 か におき、高句麗 こうくり の城 しろ 支配 しはい 体制 たいせい を継承 けいしょう した渤海は城 しろ 支配 しはい 体制 たいせい を靺鞨の住 じゅう 地 ち に対 たい しても及 およ ぼしたのではないか、と指摘 してき し[120] 、天 てん 顕 あらわ 元年 がんねん 三 さん 月 がつ に契 ちぎり 丹 に の康 かん 黙 だま 記 き 、韓 かん 延 のべ 徽 、蕭 しょう 阿古 あこ 只 ただ などが渤海の長嶺 ながみね 府 ふ (中国語 ちゅうごくご 版 ばん ) を攻略 こうりゃく し、それについて、『遼 りょう 史 し 』巻 まき 七 なな 三 さん ・粛阿古 こ 只 ただ 伝 でん は、鴨 かも 淥府から七 なな 千 せん の兵 へい が派兵 はへい され、契 ちぎり 丹 に 軍 ぐん と交戦 こうせん したことを記 しる しており[注釈 ちゅうしゃく 12] 、渤海の府 ふ および州 しゅう が各々 おのおの 独自 どくじ の軍団 ぐんだん を組織 そしき していたことが窺 うかが える、としている[121] 。
金 きむ 毓黻 は、「首領 しゅりょう 、為 ため 庶民 しょみん 之 これ 長 ちょう 。亦 また 庶官之 の 通称 つうしょう 也。謹案、日本 にっぽん 逸史 いっし 謂 いい 渤海都 と 督 とく ・刺史 しし 以下 いか 之 の 百姓 ひゃくしょう 、皆 みな 曰首領 りょう 。百姓 ひゃくしょう 者 しゃ 別 べつ 於庶民 しょみん 。金代 かなだい 有 ゆう 猛 もう 安 やす 千 せん 夫 おっと 長 ちょう ・謀 はかりごと 克 かつ 百 ひゃく 夫 おっと 長 ちょう 之 これ 制 せい 。即 そく 以軍制 せい 部 ぶ 勒庶民 しょみん 而為之 これ 長 ちょう 。渤海之 の 首領 しゅりょう 制 せい 、即 そく 猛 もう 安 やす ・謀 はかりごと 克之 かつゆき 制 せい 之 これ 所 しょ 自 じ 出 で 也。出 だし 使 し 鄰国大使 たいし 以下 いか 之 の 属官 ぞっかん 亦 また 有 ゆう 首領 しゅりょう 。其位次 じ 在 ざい 録 ろく 事 ごと ・品 しな 官 かん 之 の 下 した 。亦 また 与 あずか 金代 かなだい 之 の 謀 はかりごと 克 かつ 相等 そうとう 。故 こ 首領 しゅりょう 者 しゃ 亦 また 庶官之 の 称 たたえ 也。」と述 の べており[122] 、「百姓 ひゃくしょう ハ庶民 しょみん トハ別 べつ ナリ」とし、「大村 おおむら 曰都督 とく 、次 じ 曰刺史 し 。其下百姓 ひゃくしょう 皆 みな 曰首領 りょう 。」の一節 いっせつ は、「都 みやこ 督 ただし ・刺史 しし の下 した の百姓 ひゃくしょう をみな首領 しゅりょう と曰 のたま う」と理解 りかい している。そして、「百姓 ひゃくしょう 者 しゃ 別 べつ 於庶民 しょみん 」は、「庶民 しょみん 之 これ 長 ちょう 」としていることを参考 さんこう にすれば、百姓 ひゃくしょう は基本 きほん 的 てき に庶民 しょみん の意味 いみ であるが、『類聚 るいじゅう 国史 こくし 』記事 きじ の百姓 ひゃくしょう はただの庶民 しょみん ではなく、庶民 しょみん のなかから選 えら ばれて庶民 しょみん を統轄 とうかつ し、地方 ちほう 支配 しはい 機構 きこう の末端 まったん に連 つら なる者 もの であり、首領 しゅりょう と呼 よ ばれた、の意味 いみ と理解 りかい しており、『類聚 るいじゅう 国史 こくし 』記事 きじ の百姓 ひゃくしょう =首領 しゅりょう =庶民 しょみん の長 ちょう となる。また、首領 しゅりょう は遣外 けんがい 使節 しせつ の下級 かきゅう の役人 やくにん などにもみえることから「庶官之 の 通称 つうしょう 」であるとし、金代 かなだい の社会 しゃかい 組織 そしき ・軍事 ぐんじ 組織 そしき 猛 もう 安 やす ・謀 はかりごと 克 かつ の祖 そ 形 がた としている[112] 。
主要 しゅよう 年表 ねんぴょう [ 編集 へんしゅう ]
渤海王 おう 系図 けいず
皇帝 こうてい を称 しょう したもの
王 おう を称 しょう したもの
後 こう 渤海
定 じょう 安 やす 938年 ねん - 1003年 ねん
兀惹 (烏 がらす 舎 しゃ 城 じょう 渤海)981年 ねん - 996年 ねん 以後 いご
その他 た 、渤海遺 のこ 民 みん によるもの
大 だい 鸞河 の勢力 せいりょく 979年 ねん - 984年 ねん
契 ちぎり 丹 に によって渤海の故 こ 地 ち に設置 せっち されたもの
渤海国 こく の王室 おうしつ である大 まさる 氏 し の後裔 こうえい を称 しょう したもの
^ 朱 しゅ ・魏 ぎ 1996 , p. 248朱 しゅ 国 こく 忱 まこと (黒竜江 こくりゅうこう 省 しょう 文物 ぶんぶつ 考古 こうこ 研究所 けんきゅうじょ )と魏 ぎ 国 こく 忠 ちゅう (黒竜江 こくりゅうこう 省 しょう 社会 しゃかい 科学 かがく 院 いん 歴史 れきし 研究所 けんきゅうじょ 渤海研究 けんきゅう 室 しつ )は「文献 ぶんけん に記録 きろく されている言語 げんご は未 み 詳 しょう であって、その全体 ぜんたい を究明 きゅうめい することは難 むずか しい。わずかに『新 しん 唐 とう 書 しょ 』渤海伝 でん および『旧 きゅう 五 ご 代 だい 史 し 』渤海靺鞨などの史書 ししょ に、渤海では王 おう を『可 か 毒 どく 夫 おっと 』と呼 よ び、王 おう に対面 たいめん する時 とき は『聖 きよし 』と呼 よ び、上表 じょうひょう する時 とき は『基 もと 下 か 』と書 か くとあるが、この『聖 きよし 』は明 あかり かに漢語 かんご からの借用 しゃくよう 語 ご である。ソ連 それん (ロシア)の学者 がくしゃ のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語 えいご : E. V. Shavkunov 、ロシア語 ご : Эрнст Владимирович Шавкунов )の研究 けんきゅう によれば、『可 か 毒 どく 夫 おっと 』とはおそらく満 まん 洲 しゅう 語 ご の『卡達拉 ひしげ 』(管理 かんり するの意味 いみ (ᡴᠠᡩ᠋ᠠᠯ᠊ /kadala-))やナナイ語 ご の『凱泰』と関係 かんけい があり、その本来 ほんらい の意味 いみ は年長 ねんちょう の管理 かんり 者 しゃ の意味 いみ であろう、と言 い う。また、渤海人 じん と靺鞨人 じん の名前 なまえ には最後 さいご に『蒙 こうむ 』の字 じ の一 いち 音節 おんせつ を持 も つ『烏 がらす 借 か 芝 しば 蒙 こうむ 、己 おのれ 珎蒙、慕思蒙 こうむ 』などの例 れい がある。この『蒙 こうむ 』の音 おと は靺鞨語 ご の中 なか で重要 じゅうよう な膠着 こうちゃく 語尾 ごび の一 ひと つであることが知 し られる。ツングース語 ご 系 けい の各 かく 民族 みんぞく は氏族 しぞく を『木 き 昆 こん 』『謀 はかりごと 克 かつ 』と称 しょう するが、『蒙 こうむ 』の音 おと が『木 き 』や『謀 はかりごと 』の音 おと と近 ちか いことを考 かんが えると、この『蒙 こうむ 』の音 おと は、その人 ひと が属 ぞく する氏族 しぞく を表 あらわ す音節 おんせつ であろうと推測 すいそく できる。当時 とうじ 、靺鞨語 ご が国家 こっか の公用 こうよう 語 ご であり、広汎 こうはん に使用 しよう されていたことは間違 まちが いない」と述 の べている。
^ 酒寄 さかより 雅志 まさし 『コラム 渤海国 こく 文化 ぶんか 点描 てんびょう 』大修館書店 たいしゅうかんしょてん 〈月刊 げっかん しにか〉、1998年 ねん 9月 がつ 、42頁 ぺーじ 。"八 はち 一 いち 〇年 ねん (弘 ひろし 仁 じん 元 もと )五 ご 月 がつ 、帰国 きこく を目前 もくぜん にした渤海使 し の一員 いちいん であった首領 しゅりょう の高 こう 多 た 仏 ふつ が使節 しせつ 団 だん から一人 ひとり 離脱 りだつ して、越前 えちぜん 国 こく にとどまることになった。いわば亡命 ぼうめい である。高 こう 多 た 仏 ふつ はその後 ご 、越 えつ 中国 ちゅうごく に移 うつ されて、史生 ふみお の羽栗 はぐり 馬 ば 長 ちょう と習語生 せい らに渤海語 ご を教習 きょうしゅう することになったが、この高 たか 多 た 仏 ふつ が教習 きょうしゅう した渤海語 ご とは、いったいどのような言葉 ことば であったのだろうか。『新 しん 唐 とう 書 しょ 』渤海伝 でん に、「俗 ぞく に王 おう を謂 ゆ いて、可 か 毒 どく 夫 おっと と曰 のたま う。聖 せい 主 おも と曰 のたま う。基 もと 下 か と曰 のたま う」と、王 おう の俗称 ぞくしょう 、つまり固有 こゆう の呼 よ び方 かた があったことを伝 つた えている。このことは渤海には、独自 どくじ の言語 げんご が存在 そんざい したことを示 しめ しているといえよう。そもそも言語 げんご と密接 みっせつ な関係 かんけい にあるのが民族 みんぞく であるが、渤海は高句麗 こうくり の遺 のこ 民 みん や粟 あわ 末 まつ あるいは白山 はくさん 靺鞨などを糾合 きゅうごう して樹立 じゅりつ された多 た 民族 みんぞく 国家 こっか である。とすればまずは高句麗 こうくり 語 ご が話 はな されていたことは想像 そうぞう に難 かた くないが、粟 あわ 末 まつ 靺鞨や白山 はくさん 靺鞨の前身 ぜんしん ともいうべき挹婁や勿吉について、『魏 ぎ 志 こころざし 』東夷 あずまえびす 伝 でん 挹婁条 じょう には、「その人 ひと の形 かたち 夫 おっと 余 あまり に似 に る。言語 げんご 、夫 おっと 余 あまり 、句 く 麗 うらら と同 おな じからず」とあり、また『北 きた 史 し 』勿吉伝 でん にも「勿吉国 こく は高句麗 こうくり の北 きた にあり。一 いち に靺鞨と曰 のたま う。…言語 げんご 、独 ひと り異 こと なる」とあることから、靺鞨の言語 げんご は周辺 しゅうへん 諸 しょ 民族 みんぞく ときわだって異 こと なっていたのであろう。したがって靺鞨諸 しょ 部 ぶ もその構成 こうせい 民族 みんぞく とする渤海では、靺鞨語 ご が話 はな されていたことになる。しかも渤海が領域 りょういき を拡大 かくだい していく過程 かてい で、越 えつ 喜 き や鉄 てつ 利 り ・払 はらい 涅などの北方 ほっぽう の靺鞨諸 しょ 部 ぶ を征服 せいふく し多 おお くの部族 ぶぞく を内包 ないほう しており、靺鞨語 ご とはいえ、地域 ちいき や伝統 でんとう によって差異 さい 、つまり方言 ほうげん などもあったものといえよう。いわば渤海は、高句麗 こうくり 語 ご をはじめ多様 たよう な靺鞨語 ご が話 はな される多重 たじゅう 言語 げんご の世界 せかい であったのである。以上 いじょう のような理解 りかい に立 た つならば、在地 ざいち の首長 しゅちょう である首領 しゅりょう の高 こう 多 た 仏 ふつ が教習 きょうしゅう した渤海語 ご とは、こうした靺鞨語 ご ではなかったかと思 おも われる。"。
^ a b 波戸 はと 岡 おか 旭 あさひ 『渤海国 こく の文学 ぶんがく —日 び 渤応酬 おうしゅう 詩史 しし 概観 がいかん 』大修館書店 たいしゅうかんしょてん 〈月刊 げっかん しにか〉、1998年 ねん 9月 がつ 、67頁 ぺーじ 。"渤海国 こく は靺鞨族 ぞく を主体 しゅたい とし高句麗 こうくり 人 じん ・漢人 かんど ・突厥人 じん ・契 ちぎり 丹 に 人 じん ・室 しつ 韋人・回 かい 紇人など多 おお くの民族 みんぞく がいたらしいが、建国 けんこく 当初 とうしょ は靺鞨語 ご を公用 こうよう 語 ご とした。しかし政治 せいじ 機構 きこう をはじめとしてもろもろの制度 せいど ・文化 ぶんか が唐風 とうふう 化 か されて行 い くうちに、漢語 かんご が公用 こうよう 語 ご となっていった。また、渤海は高句麗 こうくり の文化 ぶんか ・文学 ぶんがく を継承 けいしょう したが、高句麗 こうくり の文化 ぶんか ・文学 ぶんがく はすでに唐風 とうふう 化 か されていたものである。そして更 さら に渤海建国 けんこく の後 のち も唐風 とうふう 化 か されつつ大 おお いに栄 さか えた。但 ただ し、大使 たいし に文官 ぶんかん が任命 にんめい されるようになったのは、第 だい 六 ろく 回 かい 朝貢 ちょうこう 使 し からである。"。
^ a b 上田 うえだ 雄 つよし 『渤海使 し の研究 けんきゅう 』明石書店 あかししょてん 、2001年 ねん 12月27日 にち 、126頁 ぺーじ 。ISBN 978-4750315072 。"可 か 毒 どく 夫 おっと について、朱 しゅ 国 こく 忱 まこと ・魏 ぎ 国 こく 忠 ちゅう の『渤海史 し 』では『ロシアの学者 がくしゃ のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語 えいご : E. V. Shavkunov 、ロシア語 ご : Эрнст Владимирович Шавкунов )の研究 けんきゅう によれば、「可 か 毒 どく 夫 おっと 」とはおそらく満州 まんしゅう 語 ご の「卡達拉 ひしげ カダラ」(管理 かんり するの意 い )やナナイ語 ご の「凱泰カイタイ」と関係 かんけい があり、その本来 ほんらい の意味 いみ は年長 ねんちょう の管理 かんり 者 しゃ の意味 いみ であろう、と言 い う』と紹介 しょうかい している。また石井 いしい 正敏 まさとし は可 か 毒 どく 夫 おっと とは『仏陀 ぶっだ の対 たい 音 おと であろう(稲葉 いなば 岩吉 いわきち 『増 ぞう 訂 てい 満州 まんしゅう 発達 はったつ 史 し 』)とする見解 けんかい もあるが、あるいは全 まった くの憶測 おくそく に過 す ぎないが、原語 げんご で「大王 だいおう 」のごとき意味 いみ をもっていたものではなかろうか。識者 しきしゃ のご教示 きょうし をまちたい。』と、している。"。
^ 劉 りゅう 毅 あつし 『渤海国 こく の族 ぞく 源 げん について-中国 ちゅうごく ・日本 にっぽん ・朝鮮 ちょうせん 関連 かんれん 史料 しりょう の考察 こうさつ -』國學院大學 こくがくいんだいがく 〈国学院 こくがくいん 雑誌 ざっし 〉、1997年 ねん 7月 がつ 、60頁 ぺーじ 。 劉 りゅう 毅 あつし (遼寧 りょうねい 大学 だいがく )は「渤海国 こく の風俗 ふうぞく について、『新 しん 唐 とう 書 しょ 』渤海伝 でん に、「俗 ぞく 謂 いい 王 おう 曰可毒 どく 夫 おっと 、曰聖王 おう 、曰基下 か 。其命爲 ため 教 きょう 。王 おう 之 の 父 ちち 曰老王 おう 、母 はは 太 たい 妃 ひ 、妻 つま 貴 とうと 妃 ひ 、長子 ちょうし 曰副王 おう 、諸子 しょし 曰王子 こ 。」とあり、王 おう を可 か 毒 どく 夫 おっと と称 しょう する風俗 ふうぞく のあることが知 し られる。この可 か 毒 どく 夫 おっと と呼 よ ぶ用語 ようご については、ロシアの学者 がくしゃ のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語 えいご : E. V. Shavkunov 、ロシア語 ご : Эрнст Владимирович Шавкунов )氏 し の研究 けんきゅう によれば、可 か 毒 どく 夫 おっと とはおそらく満州 まんしゅう 語 ご の卡達拉 ひしげ (管理 かんり するの意味 いみ )や、ナナイ語 ご の凱泰(カイタイ)と関係 かんけい があり、その本来 ほんらい の意味 いみ は年長 ねんちょう の管理 かんり 者 しゃ の意味 いみ であろうという。また、この可 か 毒 どく 夫 おっと を仏陀 ぶっだ の対 たい 音 おと であろうと説 と く学者 がくしゃ もある。いずれにしても、可 か 毒 どく 夫 おっと と呼 よ ぶ用語 ようご が朝鮮 ちょうせん についての歴史 れきし 文献 ぶんけん である両 りょう 唐 とう 書 しょ の高句麗 こうくり 伝 でん 、百済 くだら 伝 でん 、新 しん 羅 ら 伝 つたえ には、見 み られないことは事実 じじつ である。これこそ、渤海人 じん の出自 しゅつじ が高句麗 こうくり 人 じん ではなかった反証 はんしょう であろう」と述 の べている。
^ 酒寄 さかより 雅志 まさし 『コラム 渤海国 こく 文化 ぶんか 点描 てんびょう 』大修館書店 たいしゅうかんしょてん 〈月刊 げっかん しにか〉、1998年 ねん 9月 がつ 、42-43頁 ぺーじ 。"八 はち 七 なな 三 さん 年 ねん (貞 さだ 観 かん 一 いち 五 ご )五 ご 月 がつ に、肥後 ひご 国 こく 天草 あまくさ 郡 ぐん に漂着 ひょうちゃく した渤海人 じん 崔 ちぇ 宗 そう 佐 たすく ・大 だい 陳 ひね 潤 じゅん ら一 いち 行 ぎょう は、大宰府 だざいふ の遣 つか わした大 だい 唐 から 通事 つうじ の張 ちょう 建 たて 忠 ただし の取 と り調 しら べを受 う け、渤海の入唐 にっとう 使 し であることが判明 はんめい した。このことは崔 ちぇ 宗 はじめ 佐 さ らが、唐 とう 語 ご =漢語 かんご を話 はな せたことを示 しめ している。もっとも崔 ちぇ 宗 はじめ 佐 さ らは入唐 にっとう 使 し であるから、唐 とう 語 ご を話 はな せたのは当然 とうぜん ともいえるが、渤海人 じん が唐 とう 語 ご を話 はな したことの微 ほろ 証 あかし にはなるであろう。また一 いち 九 きゅう 四 よん 九 きゅう 年 ねん に吉林 きつりん 省 しょう 敦 あつし 化 か 県 けん の六 ろく 頂山 いただきやま から発見 はっけん された渤海第 だい 三 さん 代 だい 王 おう 大 だい 欽茂の次女 じじょ である貞恵 さだえ 公主 こうしゅ の墓誌 ぼし や、一 いち 九 きゅう 八 はち 〇年 ねん 、延 のべ 辺 べ 朝鮮 ちょうせん 族 ぞく 自治 じち 州 しゅう 和 かず 竜 りゅう 県 けん の竜頭山 りゅうとうざん から発見 はっけん された貞恵 さだえ 公主 こうしゅ の妹 いもうと の貞 さだ 考 こう 公主 こうしゅ 墓誌 ぼし などをみると優 すぐ れた駢儷 べんれい 体 たい の漢文 かんぶん で書 か かれていることや、来日 らいにち した渤海使 し がもたらした王 おう 啓 あきら や中台 ちゅうたい 省 しょう 牒などが漢文 かんぶん で書 か かれ、また王 おう 文 ぶん 矩 のり や裴頲をはじめとした渤海使 し の多 おお くが優 すぐ れた漢詩 かんし を残 のこ していることを想起 そうき すると、渤海人 じん が漢字 かんじ を熟知 じゅくち していたことは確 たし かである。もとより漢字 かんじ を使用 しよう していたことが、ただちに唐 とう 語 ご を話 はな し言葉 ことば として使 つか っていたとはいえないが、渤海は広大 こうだい な支配 しはい 領域 りょういき に割拠 かっきょ する多 おお くの民族 みんぞく や民族 みんぞく 集団 しゅうだん を統一 とういつ していく手段 しゅだん として、漢語 かんご の導入 どうにゅう をはかったのであろう。日本 にっぽん へ派遣 はけん された渤海使 し たちも、唐 とう 語 ご で日本人 にっぽんじん と意思 いし の疎通 そつう をはかっていた。だからこそ春日 しゅんじつ 宅 たく 成 なり や伊勢 いせ 興 きょう 房 ぼう 、また、大蔵 おおくら 三 さん 常 つね のように、豊 ゆた かな在 ざい 唐 から 経験 けいけん に裏打 うらう ちされた唐 とう 語 ご に秀 ひい でた人物 じんぶつ が渤海通事 つうじ に任 にん じられたのである。"。
^ 古畑 ふるはた 2017 , p. 89-90 古畑 ふるはた 徹 とおる は「渤海が国家 こっか の意思 いし を表現 ひょうげん し、記録 きろく を遺 のこ すのに使用 しよう した文字 もじ は、漢字 かんじ である。独自 どくじ の文字 もじ の存在 そんざい は確認 かくにん できないし、同 どう 時期 じき にユーラシアで使用 しよう されていたほかの文字 もじ (突厥文字 もじ 、ウイグル文字 もじ 、ソクド文字 もじ など)が国内 こくない で使用 しよう された形跡 けいせき もない。記録 きろく を残 のこ すのに漢字 かんじ が使用 しよう されたことを証明 しょうめい するのが、墓誌 ぼし である。渤海の墓誌 ぼし は、現在 げんざい 、四 よっ つ発見 はっけん され、いずれも皇后 こうごう ・公主 こうしゅ のもので、漢文 かんぶん で書 か かれている。墓誌 ぼし は、墓 はか の外 そと に立 た てる墓碑 ぼひ と違 ちが い、墓 はか のなかに納 おさ めてしまう。そのため、その文章 ぶんしょう を見 み るのは埋葬 まいそう に立 た ち会 あ う人々 ひとびと だけで、それが読者 どくしゃ として想定 そうてい されている。ということは、皇后 こうごう ・公主 こうしゅ の埋葬 まいそう に集 あつ まる支配 しはい 層 そう の人々 ひとびと が共通 きょうつう に読 よ めるのが、漢字 かんじ ・漢文 かんぶん だったということである。文字 もじ 文化 ぶんか という点 てん でみれば、渤海が漢字 かんじ 文化 ぶんか 圏 けん に属 ぞく すことは明白 めいはく である。それだけでなく、渤海の支配 しはい 層 そう は漢語 かんご で会話 かいわ ができたとみられる。それを窺 うかが わせるのが、日本 にっぽん と渤海との外交 がいこう 交渉 こうしょう の共通 きょうつう 言語 げんご が漢語 かんご だった点 てん である。日本 にっぽん に渤海使 し がくると、日本 にっぽん では渤海通事 つうじ が指名 しめい され、通訳 つうやく をした。この渤海通事 つうじ の使用 しよう 言語 げんご が漢語 かんご であり、渤海使 し はこれを再度 さいど の通訳 つうやく を介 かい することなくそのまま理解 りかい し会話 かいわ した。そもそも渤海を構成 こうせい する高句麗 こうくり 人 じん や靺鞨諸 しょ 族 ぞく は、それぞれ独自 どくじ の言語 げんご を有 ゆう しており、渤海は多重 たじゅう 言語 げんご 世界 せかい であったとみられる。このような場合 ばあい 、優位 ゆうい 性 せい を持 も つ種族 しゅぞく の言語 げんご を共通 きょうつう 言語 げんご とする方法 ほうほう もあるが、外部 がいぶ の権威 けんい ある言語 げんご を相互 そうご の意思 いし 疎通 そつう のための共通 きょうつう 言語 げんご にすることもある。渤海の場合 ばあい 、建国 けんこく 集団 しゅうだん は、唐 から 領域 りょういき 内 ない に居 い た高句麗 こうくり 人 じん ・靺鞨人 じん の混成 こんせい 集団 しゅうだん であったから、その指導 しどう 層 そう は漢語 かんご が話 はな せたはずで、これを異 こと なる種族 しゅぞく 間 あいだ の意思 いし 疎通 そつう に使 つか っていたと思 おも われる。そのあり方 かた が、その後 ご の多様 たよう な種族 しゅぞく の吸収 きゅうしゅう にあたって有効 ゆうこう に機能 きのう し、そのまま継続 けいぞく したのであろう。一方 いっぽう 、渤海に独自 どくじ 言語 げんご が存在 そんざい したことも、『日本 にっぽん 紀 き 略 りゃく 』弘 ひろし 仁 じん 元年 がんねん (八 はち 一 いち 〇)五 ご 月 がつ 丙 へい 寅 とら 条 じょう に、越 えつ 中国 ちゅうごく の史生 ふみお と習語生 せい を渤海人 じん 高 だか 多 た 仏 ほとけ に師事 しじ させて『渤海語 ご 』を習得 しゅうとく させたという記事 きじ があるから、間違 まちが いない。ちなみにこの高 たか 多 た 仏 ふつ は、渤海使 し の一員 いちいん として来日 らいにち したが、脱出 だっしゅつ して日本 にっぽん に残 のこ り、越 えつ 中国 ちゅうごく に安置 あんち された者 もの である。ともかくも、渤海には、漢語 かんご と『渤海語 ご 』という二 に 種 しゅ の共通 きょうつう 言語 げんご があったと想定 そうてい され、なかでも漢語 かんご は支配 しはい 層 そう による公用 こうよう 語 ご 的 てき 位置 いち にあったとみられる。漢語 かんご には当時 とうじ 、異 こと なる言語 げんご を話 はな す渤海領域 りょういき 内 ない の人々 ひとびと を納得 なっとく させるだけの権威 けんい があったのであろう」と述 の べている。
^ 浜田 はまだ 2000 , p. 127-128 浜田 はまだ 耕 こう 策 さく は「渤海の遣 や 日本 にっぽん 使 し の一 いち 行 ぎょう は、日本 にっぽん 側 がわ との意思 いし 疎通 そつう のために、文字 もじ 言語 げんご では漢文 かんぶん の外交 がいこう 文書 ぶんしょ 等 とう を交換 こうかん していた。しかし、音声 おんせい 言語 げんご はどうであったか、交渉 こうしょう 記録 きろく にはこれに関 かん する言及 げんきゅう はない。双方 そうほう の音声 おんせい 言語 げんご になんら支障 ししょう がなかったかのようである。そこに通事 つうじ が仲介 ちゅうかい して中国 ちゅうごく 語 ご で対話 たいわ したからであろう」と述 の べている。
^ 元来 がんらい は700年 ねん 建国 けんこく 説 せつ が有力 ゆうりょく であったが、鳥山 とりやま 喜一 きいち の研究 けんきゅう により698年 ねん 建国 けんこく 説 せつ が定説 ていせつ 化 か している。
^ "渤海(ぼっかい)" . 山川 やまかわ 日本 にっぽん 史 し 小 しょう 辞典 じてん . 山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ . 2016年 ねん 3月 がつ 4日 にち . 2022年 ねん 2月 がつ 3日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。
^ 外山 とやま 軍治 ぐんじ 、礪波 となみ 護 まもる 『隋 ずい 唐 から 世界 せかい 帝国 ていこく 』人物 じんぶつ 往来 おうらい 社 しゃ 〈東洋 とうよう の歴史 れきし 5〉、1967年 ねん 、358頁 ぺーじ 。
^ 西嶋 にしじま 定 じょう 生 せい 『日本 にっぽん 歴史 れきし の国際 こくさい 環境 かんきょう 』東京大学 とうきょうだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい 〈UP選書 せんしょ 235〉、1985年 ねん 1月 がつ 1日 にち 、136頁 ぺーじ 。ISBN 4130020358 。
^ 源氏物語 げんじものがたり に黒貂 くろてん の毛皮 けがわ を纏 まつわ っている女性 じょせい の描写 びょうしゃ が見 み られる。
^ 古畑 ふるはた 2017 , p. 74
^ a b c d e 古畑 ふるはた 2017 , p. 78-80
^ 三上 みかみ 1990 , p. 230
^ 三上 みかみ 1990 , p. 220-221
^ 三上 みかみ 1990 , p. 222
^ 三上 みかみ 1990 , p. 221
^ a b 古畑 ふるはた 2017 , p. 151-152
^ "신증동국여지승람 제24권 / 경상도(慶 けい 尙道)" . 韓国 かんこく 古典 こてん 翻訳 ほんやく 院 いん (朝鮮 ちょうせん 語 ご 版 ばん ) . 2021年 ねん 11月17日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。
^ 金 きむ 毓黻 『东北通史 つうし 』五 ご 十 じゅう 年代 ねんだい 出版 しゅっぱん 社 しゃ 〈上 うえ 编六 ろく 卷 かん 〉、1981年 ねん 、262-263頁 ぺーじ 。
^ 刘振华 『渤海史 し 识微』〈学 がく 习与探索 たんさく 1982年 ねん 第 だい 6期 き 〉1982年 ねん 。
^ a b c d 森安 もりやす 1982 , p. 76-77
^ 井上 いのうえ 秀雄 ひでお 『東 ひがし アジア民族 みんぞく 史 し 2-正史 せいし 東夷 あずまえびす 伝 でん 』平凡社 へいぼんしゃ 〈東洋文庫 とうようぶんこ 283〉、1976年 ねん 1月 がつ 、441-442頁 ぺーじ 。ISBN 978-4582802832 。
^ 井上 いのうえ 秀雄 ひでお 『東 ひがし アジア民族 みんぞく 史 し 2-正史 せいし 東夷 あずまえびす 伝 でん 』平凡社 へいぼんしゃ 〈東洋文庫 とうようぶんこ 283〉、1976年 ねん 1月 がつ 、444頁 ぺーじ 。ISBN 978-4582802832 。
^ 田村 たむら 晃一 こういち (2013年 ねん ). "近時 きんじ における渤海都城 みやこのじょう 研究 けんきゅう の動向 どうこう と課題 かだい " . 青山 あおやま 考古 こうこ . 青山 あおやま 考古 こうこ 学会 がっかい . NAID 40022116642 。
^ a b c d e f g h 堀井 ほりい 佳代子 かよこ (2020年 ねん 11月14日 にち ). "平安 へいあん 時代 じだい の日本 にっぽん と、隣国 りんごく 「渤海」の不思議 ふしぎ な外交 がいこう 関係 かんけい " . 現代 げんだい ビジネス . 2020年 ねん 11月15日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。
^ a b 李 り 1998 , p. 420
^ 李 り 1998 , p. 426
^ a b 李 り 1998 , p. 421
^ 田中 たなか 俊明 としあき 『朝鮮 ちょうせん 地域 ちいき 史 し の形成 けいせい 』岩波書店 いわなみしょてん 〈世界 せかい 歴史 れきし 〉、1999年 ねん 、156頁 ぺーじ 。ISBN 978-4000108294 。
^ 李 り 1998 , p. 381
^ 李 り 1998 , p. 400-401
^ a b 李 り 1998 , p. 402
^ Northeast Asian History Foundation 2009 , p. 209
^ 高 こう 仁義 じんぎ を筆頭 ひっとう とする24名 めい を派遣 はけん している。『続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 』727年 ねん (神 かみ 亀 かめ 4年 ねん )9月 がつ 庚 かのえ 寅 とら の条 じょう
^ 堀井 ほりい 佳代子 かよこ 『平安 へいあん 前期 ぜんき 対外 たいがい 姿勢 しせい の研究 けんきゅう 』臨川 りんせん 書店 しょてん 、2019年 ねん 3月 がつ 1日 にち 、27-34頁 ぺーじ 。ISBN 4653044120 。
^ 堀井 ほりい 佳代子 かよこ 『平安 へいあん 前期 ぜんき 対外 たいがい 姿勢 しせい の研究 けんきゅう 』臨川 りんせん 書店 しょてん 、2019年 ねん 3月 がつ 1日 にち 、49-71頁 ぺーじ 。ISBN 4653044120 。
^ a b 李 り 1998 , p. 418
^ 湯沢 ゆざわ 1997 , p. 20
^ Northeast Asian History Foundation 2009 , p. 202
^ Northeast Asian History Foundation 2009 , p. 299-300
^ Northeast Asian History Foundation 2009 , p. 326
^ 『古銭 こせん 新 しん 典 てん 』P265
^ 小嶋 こじま 芳孝 よしたか 『渤海考古学 こうこがく の現状 げんじょう と課題 かだい --渤海都城 みやこのじょう の変遷 へんせん と水系 すいけい を考 かんが える』大和 やまと 書房 しょぼう 〈東 ひがし アジアの古代 こだい 文化 ぶんか (96)〉、1998年 ねん 8月 がつ 、137頁 ぺーじ 。
^ エ・ヴェ・シャフクノフ『北東 ほくとう アジア民族 みんぞく の歴史 れきし におけるソグド人 じん の黒貂 くろてん の道 みち 』大和 やまと 書房 しょぼう 〈東 ひがし アジアの古代 こだい 文化 ぶんか (96)〉、1998年 ねん 8月 がつ 、144頁 ぺーじ 。
^ a b c 酒寄 さかより 雅志 まさし (2010年 ねん 3月 がつ 19日 にち ). "渤海の遣唐使 けんとうし ". 専修大学 せんしゅうだいがく 社会 しゃかい 知性 ちせい 開発 かいはつ 研究 けんきゅう センター東 ひがし アジア世界 せかい 史 し 研究 けんきゅう センター年報 ねんぽう . 専修大学 せんしゅうだいがく 社会 しゃかい 知性 ちせい 開発 かいはつ 研究 けんきゅう センター.
^ 礪波 となみ 護 まもる 、武田 たけだ 幸男 ゆきお 『隋 ずい 唐 から 帝国 ていこく と古代 こだい 朝鮮 ちょうせん 』中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 〈世界 せかい の歴史 れきし 〉、1997年 ねん 、405頁 ぺーじ 。ISBN 978-4124034066 。"支配 しはい 階層 かいそう は中国 ちゅうごく 文化 ぶんか に親 した しみ、漢字 かんじ ・漢文 かんぶん を駆使 くし し、儒教 じゅきょう や中国 ちゅうごく の故事来歴 こじらいれき につうじていた。とくに渤海後期 こうき に日本 にっぽん にきた使節 しせつ たちは、日本 にっぽん の文人 ぶんじん と好 この んで詩賦 しふ をうたいかわした。日本 にっぽん であまれた漢詩 かんし 集 しゅう 『文 ぶん 華 はな 秀麗 しゅうれい 集 しゅう 』などに、王 おう 孝 たかし 廉 れん ・釈 しゃく 仁 ひとし 貞 さだ らがつくった、優 すぐ れた詩篇 しへん が残 のこ されている。"。
^ a b c 酒寄 さかより 雅志 まさし (2004年 ねん 10月 がつ 19日 にち ). "早稲田大学 わせだだいがく オープンカレッジ秋期 しゅうき 講座 こうざ 「渤海と古代 こだい の日本 にっぽん 」" . 日本海 にほんかい 学 がく 推進 すいしん 機構 きこう . 2021年 ねん 8月 がつ 23日 にち 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。
^ 井上 いのうえ 秀雄 ひでお 『東 ひがし アジア民族 みんぞく 史 し 2-正史 せいし 東夷 あずまえびす 伝 でん 』平凡社 へいぼんしゃ 〈東洋文庫 とうようぶんこ 283〉、1976年 ねん 1月 がつ 、441頁 ぺーじ 。ISBN 978-4582802832 。
^ 朱 しゅ ・魏 ぎ 1996 , p. 248
^ 酒寄 さかより 雅志 まさし (2011年 ねん ). "2010年度 ねんど 第 だい 6回 かい 日本海 にほんかい 学 がく 講座 こうざ 渤海と古代 こだい の日本 にっぽん " (PDF) . 日本海 にほんかい 学 がく 推進 すいしん 機構 きこう . p. 6. 2013年 ねん 11月2日 にち 時点 じてん のオリジナル (PDF) よりアーカイブ。渤海使 し の応接 おうせつ には、漢 かん 文学 ぶんがく に優 すぐ れた者 もの が任 にん ぜられた。外交 がいこう 使節 しせつ が詩 し 宴 えん の席 せき で漢詩 かんし を詠 よ むことは、国家 こっか の威信 いしん を懸 か けた「闘 たたかえ 筆 ひつ 」の場 ば であり、それには当代 とうだい 随一 ずいいち の文人 ぶんじん が当 あ たった。その代表 だいひょう 者 しゃ が菅原 すがわら 道真 みちざね であり、応接 おうせつ した渤海大使 たいし 裴頲は、「七 なな 歩 ほ あるくごとに詩 し を一 いち 篇 へん 賦 ふ す」とされた人 ひと であった。こうした外交 がいこう の場 ば で話 はな されていたのは漢語 かんご 、つまり中国 ちゅうごく 語 ご である。渤海は多 た 民族 みんぞく 国家 こっか なので、国家 こっか を統一 とういつ していくときに共通 きょうつう 語 ご として漢字 かんじ と漢語 かんご が使 つか われたのだろう。従 したが って、日本 にっぽん 側 がわ の通訳 つうやく は皆 みな 、中国 ちゅうごく に行 い ったことがある人 ひと が充 あ てられていた。
^ 酒寄 さかより 2001 , p. 312
^ a b c d 古畑 ふるはた 2017 , p. 89-90
^ 朱 しゅ ・魏 ぎ 1996 , p. 247
^ 湯沢 ゆざわ 1997 , p. 29
^ 酒寄 さかより 2001 , p. 304
^ 酒寄 さかより 2001 , p. 306-307
^ 酒寄 さかより 2001 , p. 308
^ 酒寄 さかより 2001 , p. 310
^ 酒寄 さかより 2001 , p. 305
^ 湯沢 ゆざわ 1997 , p. 27
^ a b c 湯沢 ゆざわ 1997 , p. 30
^ a b c 湯沢 ゆざわ 1997 , p. 28
^ a b c 湯沢 ゆざわ 1997 , p. 29
^ a b c d e f g 湯沢 ゆざわ 1997 , p. 32-34
^ a b c 湯沢 ゆざわ 1997 , p. 34
^ a b c d e 湯沢 ゆざわ 1997 , p. 41
^ a b 湯沢 ゆざわ 1997 , p. 39
^ 月刊 げっかん しにか 1998 , p. 42-43
^ 朱 しゅ ・魏 ぎ 1996 , pp. 250
^ 朱 しゅ ・魏 ぎ 1996 , p. 251
^ a b 朱 しゅ ・魏 ぎ 1996 , p. 250
^ 朱 しゅ ・魏 ぎ 1996 , p. 250-251
^ 朱 しゅ ・魏 ぎ 1996 , p. 252
^ 朱 しゅ ・魏 ぎ 1996 , p. 252-253
^ a b c 姜 きょう 成山 なりやま 2014 , p. 40
^ a b c d e 浜田 はまだ 2000 , p. 82-83
^ a b c d 河上 かわかみ 洋 ひろし 『渤海の貴族 きぞく と王権 おうけん 』大谷 おおや 学会 がっかい 〈大谷 おおや 学 まなぶ 報 ほう = THE OTANI GAKUHO 67〉、1987年 ねん 9月 がつ 、52-53頁 ぺーじ 。http://id.nii.ac.jp/1374/00001640/ 。
^ a b c 佐藤 さとう 2003 , p. 210
^ a b 河上 かわかみ 洋 ひろし 1983 , p. 207-208
^ 鈴木 すずき 靖 やすし 民 みん 『渤海の首領 しゅりょう に関 かん する予備 よび 的 てき 考察 こうさつ 』龍渓 りゅうけい 書 しょ 舎 しゃ 〈朝鮮 ちょうせん 歴史 れきし 論集 ろんしゅう 上巻 じょうかん 〉、1979年 ねん 、447頁 ぺーじ 。
^ 河上 かわかみ 洋 ひろし 1983 , p. 208
^ 佐藤 さとう 2003 , p. 216
^ a b c d e 鈴木 すずき 靖 やすし 民 みん . "入唐 にっとう 求法 ぐほう 巡礼 じゅんれい 行 ぎょう 記 き の世界 せかい の背景 はいけい ―渤海国家 こっか の交易 こうえき と交流 こうりゅう ―" (PDF) . 入唐 にっとう 求法 ぐほう 巡礼 じゅんれい 行 ぎょう 記 き 研究 けんきゅう 会 かい . 2006年 ねん 7月 がつ 21日 にち 時点 じてん のオリジナル (PDF) よりアーカイブ。
^ a b c d 浜田 はまだ 2000 , p. 6
^ 中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:資 し 治 ち 通 どおり 鑑 かん /卷 まき 277
^ 佐藤 さとう 2003 , p. 29
^ a b c d 古畑 ふるはた 2017 , p. 165-167
^ a b c d e 佐藤 さとう 2003 , p. 211-212
^ a b 石井 いしい 2001 , p. 145
^ a b c 李 り 成 しげる 市 し 『古代 こだい 東北 とうほく アジア諸 しょ 民族 みんぞく の対 たい 日本 にっぽん 通交 つうこう --穢 けがれ ・高句麗 こうくり ・渤海を中心 ちゅうしん に』大和 やまと 書房 しょぼう 〈東 ひがし アジアの古代 こだい 文化 ぶんか (96)〉、1998年 ねん 8月 がつ 、90-91頁 ぺーじ 。
^ 金 きむ 鍾圓 『渤海의 首領 しゅりょう 에 대하여-地方 ちほう 統治 とうち 制度 せいど 와 關聯 かんれん 하여-』全 ぜん 海 うみ 宗 むね 博士 はかせ 華甲 かこう 記念 きねん 史學 しがく 論叢 ろんそう 、1979年 ねん 。
^ 金 きむ 東 ひがし 宇 『渤海의 地方 ちほう 統治 とうち 體制 たいせい 운영과 그 변화』韓國 かんこく 史學 しがく 報 むくい 、1996年 ねん 。
^ 宋 そう 基 はじめ 豪 ごう 『渤海 首領 しゅりょう 의 성격』지식산업사〈한국 고대·중세의 지배체제와 농민〉、1997年 ねん 。
^ 朴 ぼく 真 しん 淑 よし 『渤海의 地方 ちほう 支配 しはい 와 首領 しゅりょう 』国史 こくし 編纂 へんさん 委員 いいん 会 かい 〈國史 こくし 館 かん 論叢 ろんそう 97〉、2002年 ねん 。
^ 東北 とうほく アジア歴史 れきし 財団 ざいだん 2009 , p. 393
^ a b 石井 いしい 2001 , p. 129
^ 朱 しゅ 栄 さかえ 憲 けん 『渤海文化 ぶんか 』雄山閣 ゆうざんかく 出版 しゅっぱん 〈考古学 こうこがく 選書 せんしょ 〉、1979年 ねん 3月 がつ 1日 にち 、175-176頁 ぺーじ 。ISBN 4639009100 。
^ 張 ちょう 博 ひろし 泉 いずみ 、程 ほど 妮娜 『論 ろん 渤海国 こく 的 てき 社会 しゃかい 性質 せいしつ 』黒龍江 こくりゅうこう 省 しょう 社会 しゃかい 科学 かがく 院 いん 〈学習 がくしゅう 与 あずか 探索 たんさく 〉、1982年 ねん 。
^ 石井 いしい 2001 , p. 132
^ a b c 佐藤 さとう 2003 , p. 213-214
^ a b c d 佐藤 さとう 2003 , p. 213
^ 河上 かわかみ 洋 ひろし 1983 , p. 215
^ a b 河上 かわかみ 洋 ひろし 1983 , p. 210
^ 河上 かわかみ 洋 ひろし 1983 , p. 211
^ 河上 かわかみ 洋 ひろし 1983 , p. 212
^ 金 きむ 毓黻『渤海国 こく 志 こころざし 長編 ちょうへん 』文海 ぶんかい 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、681頁 ぺーじ 。
^ 官有 かんゆう 宣 せん 詔 みことのり 省 しょう 、左 ひだり 相 しょう 、左 ひだり 平 たいら 章 あきら 事 ごと 、侍 さむらい 中 ちゅう 、左 ひだり 常 つね 侍 さむらい 、諫議居 きょ 之 の 。中台 ちゅうたい 省 しょう 、右 みぎ 相 しょう 、右 みぎ 平 たいら 章 あきら 事 ごと 、内 うち 史 し 、詔 みことのり 誥舎人 じん 居 きょ 之 の 。政 せい 堂 どう 省 しょう 、大 だい 内相 ないしょう 一 いち 人 にん 、居 きょ 左右 さゆう 相 しょう 上 じょう ;左 ひだり 、右 みぎ 司政 しせい 各 かく 一 いち 、居 きょ 左右 さゆう 平 たいら 章 あきら 事 ごと 之 の 下 した 、以比僕 ぼく 射 しゃ ;左 ひだり 、右 みぎ 允 まこと 比 ひ 二 に 丞 すすむ 。左 ひだり 六 ろく 司 つかさ 、忠 ただし 、仁 ひとし 、義 ぎ 部 ぶ 各 かく 一 いち 卿 きょう 、居 きょ 司政 しせい 下 か 、支 ささえ 司 し 爵、倉 くら 、膳部 ぜんぶ 、部 ぶ 有 ゆう 郎 ろう 中 ちゅう 、員外 いんがい ;右 みぎ 六 ろく 司 つかさ 、智 さとし 、礼 れい 、信 しん 部 ぶ 、支 ささえ 司 し 戎 えびす 、計 けい 、水 みず 部 ぶ 、卿 きょう 、郎 ろう 准 じゅん 左 ひだり ;以比六 ろく 官 かん 。中正 ちゅうせい 台 だい 、大中 おおなか 正一 しょういち 、比 ひ 御 ご 史 し 大夫 たいふ 、居 きょ 司政 しせい 下 か ;少 しょう 正一 しょういち 。又 また 有 ゆう 殿中 でんちゅう 寺 てら 、宗 そう 属 ぞく 寺 てら 、有 ゆう 大 だい 令 れい 。文 ぶん 籍 せき 院 いん 有 ゆう 監 かん 。令 れい 、監 かん 皆 みな 有 ゆう 少 しょう 。太 ふとし 常 つね 、司 つかさ 賓 まろうど 、大農 だいのう 寺 てら 、寺 てら 有 ゆう 卿 きょう 。司 つかさ 蔵 ぞう 、司 つかさ 膳 ぜん 寺 てら 、寺 てら 有 ゆう 令 れい 、丞 すすむ 。冑 かぶと 子 こ 監 かん 有 ゆう 監 かん 長 ちょう 。巷 ちまた 伯 はく 局 きょく 有 ゆう 常 つね 侍 さむらい 等 とう 官 かん 。(『新 しん 唐 とう 書 しょ 』渤海伝 でん )
官職 かんしょく (は次 つぎ のようになっている)。宣 せん 詔 みことのり 省 しょう には左 ひだり 相 しょう (長官 ちょうかん )・左 ひだり 平 たいら 章 あきら 事 ごと ・侍 さむらい 中 ちゅう ・左 ひだり 常 つね 侍 さむらい ・諫議がこれに属 ぞく す。中台 ちゅうたい 省 しょう には右 みぎ 相 しょう ・右 みぎ 平 たいら 章 あきら 事 ごと ・内 ない 史 し ・詔 みことのり 誥・舎人 とねり がこれに属 ぞく す。政 せい 堂 どう 省 しょう では大 だい 内相 ないしょう 一 いち 人 にん が左右 さゆう 相 しょう の上 うえ に置 お かれ、(その下 した に)左右 さゆう 司政 しせい が各 かく 一 いち 人 にん 、左右 さゆう 平 たいら 章 あきら 事 ごと の下 した に配置 はいち される。これは(唐 とう 制 せい の左右 さゆう )僕 ぼく 射 しゃ に相当 そうとう する。左右 さゆう 允 まこと は(唐 とう 制 せい の)二 に 丞 すすむ (左 ひだり 丞 すすむ と右 みぎ 丞 すすむ )に当 あ たり、左 ひだり (允 まこと )六 ろく 司 し は忠 ただし ・仁 ひとし ・義 ぎ 部 ぶ (の三 さん 部 ぶ を統率 とうそつ し)、おのおの一 いち 人 にん の卿 きょう (長官 ちょうかん )が配属 はいぞく され、これ(左右 さゆう 允 まこと )は司政 しせい の下 した に置 お かれた。その支 ささえ 司 し に爵・倉 くら ・膳 ぜん (の三 さん )部 ぶ があって、(それぞれ)部 ぶ (の長官 ちょうかん )は郎 ろう 中 ちゅう で、員外 いんがい (郎 ろう )もあった。右 みぎ (允 まこと )六 ろく 司 し は智 さとし ・礼 れい ・信 しんじ (の三 さん 部 ぶ を統率 とうそつ し)、その支 ささえ 司 し に戎 えびす ・計 けい ・水 みず (の三 さん )部 ぶ があり、(その長官 ちょうかん )卿 きょう 郎 ろう は左 ひだり (允 まこと )に準 じゅん ずるもので、(いずれも唐 とう 制 せい の)六 ろく 官 かん (部 ぶ )に相当 そうとう する。中正 ちゅうせい 台 だい には大中 おおなか 正 ただし (長官 ちょうかん )が一人 ひとり 置 お かれ、(これは唐 とう 制 せい の)御 ご 史 し 大夫 たいふ に相当 そうとう し、司政 しせい の下 した に配置 はいち され、少 しょう 正 せい 一人 ひとり が置 お かれた。また殿中 でんちゅう 寺 てら ・宗 そう 属 ぞく 寺 てら には(それぞれ長官 ちょうかん に当 あ たる)大 だい 令 れい がいた。文 ぶん 籍 せき 院 いん (の長官 ちょうかん )は監 かん 令 れい といい、監 かん にはすべて少 すくな (監 かん )が属 ぞく していた。太 ふとし 常 つね (寺 てら )・司 つかさ 賓 まろうど (寺 てら )・大農 だいのう 寺 てら (の長官 ちょうかん )は卿 きょう である。司 つかさ 蔵 ぞう (寺 てら )・司 つかさ 膳 ぜん 寺 てら (の長官 ちょうかん )は令 れい で、(次官 じかん は)丞 すすむ といった。冑 かぶと 子 こ 監 かん (の長官 ちょうかん )は監 かん 長 ちょう といわれた。また、巷 ちまた 伯 はく 局 きょく には常 つね 侍 さむらい (長官 ちょうかん )等 とう の官 かん (名 な )があった[36] 。
中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:新 しん 唐 とう 書 しょ /卷 まき 219#渤海
^
北 きた 鎭奏 狄國人 じん 入 にゅう 鎭 以片木 き 掛 かけ 樹 じゅ 而歸 遂 とげ 取 ど 以獻 其木書 しょ 十 じゅう 五 ご 字 じ 云 うん 寶 たから 露 ろ 國 こく 與 あずか 黑水 くろみず 國人 くにびと 共 ども 向新 むかいしん 羅 ら 國 こく 和 わ 通 どおり 。(『三 さん 国史 こくし 記 き 』巻 まき 十一 といち ・新 しん 羅 ら 本紀 ほんぎ ・憲康 のりやす 王 おう 十 じゅう 二 に 年 ねん 条 じょう )
北 きた 鎮奏 そう す、「狄国人 じん 、鎮に入 はい り、片木 かたぎ を以 もっ て樹 き に掛 か けて帰 かえ る。遂 つい に取 と り以 もっ て献 けんじ ず」と。其 そ の木 き 、一 いち 五 ご 字 じ を書 しょ して云 い う、「宝 たから 露 ろ 国 こく と黒水 くろみず 国人 くにびと 、共 とも に新 しん 羅 ら 国 こく に向 む きて和 わ 通 どおり せんとす」と[42]
中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:三 さん 國史 こくし 記 き /卷 まき 11
^ 廿 にじゅう 七 なな 日 にち 庚 かのえ 寅 とら 。先 さき 是 ぜ 。大宰府 だざいふ 言 ごと 。去 さ 三 さん 月 がつ 十 じゅう 一 いち 日 にち 。不知 ふち 何 なん 許 もと 人 じん 。舶二 に 艘 そう 載 の 六 ろく 十 じゅう 人 にん 。漂着 ひょうちゃく 薩摩 さつま 國 こく 甑 こしき 嶋 しま 郡 ぐん 。言語 げんご 難 なん 通 どおり 。問答 もんどう 何 なん 用 よう 。其首崔 ちぇ 宗 はじめ 佐 さ 。大 だい 陳 ひね 潤 じゅん 等 とう 自書 じしょ 曰。宗 そう 佐 たすく 等 とう 。渤海國人 くにびと 。彼 かれ 國王 こくおう 差入 さしいれ 大 だい 唐 とう 。(『日本 にっぽん 三 さん 代 だい 実録 じつろく 』八 はち 七 なな 三 さん 年 ねん (貞 さだ 観 かん 一 いち 五 ご 年 ねん )五 ご 月 がつ 二 に 七 なな 日 にち )
中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:日本 にっぽん 三 さん 代 だい 實錄 じつろく /卷 まき 第 だい 廿 にじゅう 三 さん
^ 八日 ようか 庚午 こうご 。先 さき 是 ぜ 。大宰府 だざいふ 馳 はせ 驛 えき 言 ごと 。渤海國人 くにびと 崔 ちぇ 宗 はじめ 佐 さ 。門 もん 孫 まご 。宰 おさむ 孫 まご 等 とう 漂着 ひょうちゃく 肥後 ひご 國 こく 天草 あまくさ 郡 ぐん 。遣 や 大 だい 唐 から 通事 つうじ 張 ちょう 建 たて 忠 ただし 覆 くつがえ 問 とい 事由 じゆう 。審 しん 實情 じつじょう 状 じょう 。是 ぜ 渤海國 こく 入唐 にっとう 之 の 使 つかい 。去 さ 三 さん 月 がつ 着 ぎ 薩摩 さつま 國 こく 。逃去之 の 一 いち 艦 かん 也。(『日本 にっぽん 三 さん 代 だい 実録 じつろく 』八 はち 七 なな 三 さん 年 ねん (貞 さだ 観 かん 一 いち 五 ご 年 ねん )七 なな 月 がつ 八 はち 日 にち )
中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:日本 にっぽん 三 さん 代 だい 實錄 じつろく /卷 まき 第 だい 廿 にじゅう 四 よん
^ 廿 にじゅう 五 ご 日 にち 甲 かぶと 午 うま 。渤海國 こく 使 し 楊中遠 とお 等 ひとし 。自 じ 出雲 いずも 國 こく 還 かえ 於本蕃 しげる 。王 おう 啓 あきら 并信物 ぶつ 不 ふ 受而還之 の 。大使 たいし 中 ちゅう 遠 とお 欲 ほし 以珍翫玳瑁 たいまい 酒盃 しゅはい 等 とう 。奉獻 ほうけん 天子 てんし 。皆 みな 不 ふ 受之。通事 つうじ 園池 そのいけ 正 ただし 春日 かすが 朝臣 あそん 宅 たく 成 しげる 言 げん 。昔 むかし 徃大唐 とう 。多 た 觀 かん 珍 ちん 寳 たから 。未 み 有 ゆう 若 わか 此之奇 き 恠。(『日本 にっぽん 三 さん 代 だい 実録 じつろく 』八 はち 七 なな 七 なな 年 ねん (元 もと 慶 けい 元 もと )六 ろく 月 がつ 二 に 五 ご 日 にち )
中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:日本 にっぽん 三 さん 代 だい 實錄 じつろく /卷 まき 第 だい 卅一
^
明 あかり 経 けい 学生 がくせい 刑部 おさかべ 高名 こうみょう 参内 さんだい 。令 れい 問 とい 漢語 かんご 者 しゃ 事 ごと 。高名 こうみょう 奏 そう 云々 うんぬん 。行事 ぎょうじ 所 しょ 召得、漢語 かんご 者 しゃ 大蔵 おおくら 三 さん 常 つね 。即 そく 召之於蔵人所 くろうどどころ 。令 れい 高名 こうみょう 申 さる 云 うん 。其語能否 のうひ 。奏 そう 会 かい 。三常唐語尤可広博云々。勅 みことのり 従 したがえ 公卿 くぎょう 定 てい 申 さる 。以三 さん 常 つね 令 れい 為 ため 通事 つうじ 。(『扶桑 ふそう 略記 りゃっき 』九 きゅう 二 に 〇年 ねん (延喜 えんぎ 二 に 〇)三 さん 月 がつ 七 なな 日 にち )
^ 渤海使 し 首領 しゅりょう 高 だか 多 た 佛 ふつ 脱 だつ 身 み 留 とめ 越前 えちぜん 國 こく 。安置 あんち 越 えつ 中國 ちゅうごく 給食 きゅうしょく 。即 そく 令 れい 史生 ふみお 羽栗 はぐり 馬 ば 長 ちょう 并習語 ご 生 せい 等 とう 就習渤海語 ご 。(『日本 にっぽん 紀 き 略 りゃく 』八 はち 一 いち 〇年 ねん 五 ご 月 がつ 二 に 七 なな 日 にち )
^ 乙未 おとみ 。令 れい 美濃 みの 。武藏 むさし 二 に 國 こく 少年 しょうねん 。毎 まい 國 くに 廿 にじゅう 人 じん 習新羅 ら 語 ご 。爲 ため 征 せい 新 しん 羅 ら 也。(『続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 』天平 てんぴょう 宝 たから 字 じ 五 ご 年 ねん 一 いち 月 がつ 九 きゅう 日 にち )
中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:續 ぞく 日本 にっぽん 紀 き /卷 まき 第 だい 廿 にじゅう 三 さん
^ 開 ひらけ 元 もと 十 じゅう 三 さん 年 ねん 、安東 あんどう 都 と 護 まもる 薛泰請于黑水 くろみず 靺鞨內置黑水 くろみず 軍 ぐん 。續 ぞく 更 さら 以最大 さいだい 部落 ぶらく 爲 ため 黑水 くろみず 府 ふ 、仍以其首領 りょう 爲 ため 都 と 督 とく 、諸 しょ 部 ぶ 刺史 しし 隸屬 れいぞく 焉。中國 ちゅうごく 置 おけ 長 ちょう 史 し 、就其部落 ぶらく 監 かん 領 りょう 之 の 。 — 旧 きゅう 唐 とう 書 しょ 、巻 まき 一 いち 九 きゅう 九 きゅう 下 か 、靺鞨伝 でん 中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:舊 きゅう 唐 とう 書 しょ /卷 まき 199下 か #靺鞨
^ 敕雞林 はやし 州 しゅう 大 だい 都 と 督 とく 新 しん 羅 ら 王 おう 金 きん 興 きょう 光 こう 。賀正 がしょう 謝恩 しゃおん 兩 りょう 使 つかい 續 ぞく 至 いたり 。再 さい 省 しょう 來 らい 表 ひょう 。深 ふか 具 ぐ 雅 みやび 懷 ふところ 。卿 きょう 位 い 總 そう 一方 いっぽう 。道 みち 踰萬 まん 里 さと 。託 たく 誠 まこと 見 み 於章奏 そう 。執 と 禮 れい 存 そん 乎使臣 ししん 。雖隔滄溟 そうめい 。亦 また 如面會 かい 。卿 きょう 既 すんで 能 のう 副 ふく 朕 ちん 虚 きょ 巳 み 。朕 ちん 亦 また 保 ほ 卿 きょう 一 いち 心 しん 。言 げん 念 ねん 懇 こん 誠 まこと 。毎 まい 以嗟尚 ひさし 。況 きょう 文章 ぶんしょう 禮樂 れいがく 。粲 つばら 焉可觀 かん 。德義 とくぎ 簪 かんざし 裾 すそ 。浸 ひた 以成俗 ぞく 。自 じ 非才 ひさい 包 つつみ 時 じ 傑 すぐる 。志 こころざし 合本 がっぽん 朝 あさ 。豈 あに 得物 えもの 土 ど 異 あや 宜 よろし 。而風流 りゅう 一變 いっぺん 。乃比卿 きょう 於魯衛 まもる 。豈 あに 復 ふく 同 どう 於蕃服 ふく 。朕 ちん 之 の 此懷。想 そう 所 しょ 知也 ともや 。賀正 がしょう 使 し 金義 かねよし 質 しつ 及祖榮 さかえ 相 しょう 次 じ 永逝 えいせい 。念 ねん 其遠勞 ろう 。情 じょう 以傷憫。雖有寵 ちょう 贈 おく 。猶 なお 不能 ふのう 忘。想 そう 卿 きょう 乍聞。當 とう 甚軫悼。近 ちか 又 また 得 とく 思 おもえ 蘭 らん 表 ひょう 稱 しょう 。知 ち 卿 きょう 欲 よく 於浿江 こう 寘戍。既 すんで 當 とう 渤海衝要。又 また 與 あずか 祿 ろく 山相 さんそう 望 もち 。仍有遠 とお 圖 ず 。固 かた 是長 これなが 策 さく 。且蕞爾 なんじ 渤海。久 ひさ 已 やめ 逋誅。重 じゅう 勞 ろう 師 し 徒 と 。未 み 能 のう 撲滅 ぼくめつ 。卿 きょう 毎 ごと 疾 やまし 惡 わる 。深 ふか 用 よう 嘉之 よしゆき 。警寇安 やす 邊 あたり 。有 ゆう 何 なん 不可 ふか 。處置 しょち 訖因使 し 以聞。今 こん 有 ゆう 少 しょう 物 もの 。答 こたえ 卿 きょう 厚意 こうい 。至 いたり 宜 むべ 領 りょう 取 と 。春 はる 暮 くれ 已 やめ 暄。卿 きょう 及首領 りょう 百姓 ひゃくしょう 並 なみ 安 やす 好 このみ 。遣 や 書 しょ 指 ゆび 不 ふ 多 た 及。 — 文苑 ぶんえん 英華 えいか 、巻 まき 四 よん 七 なな 一 いち 、勅 みことのり 新 しん 羅 ら 王 おう 金 きん 興 きょう 光 こう 書 しょ 第 だい 二 に 首 しゅ
^ 煬帝即位 そくい 、入 にゅう 為 ため 武 たけ 候 こう 驃騎將軍 しょうぐん 、以嚴正 せい 聞。後 こう 數 すう 歲 さい 、黔安首領 しゅりょう 田 た 羅 ら 駒 こま 阻清江 え 作 さく 亂 みだれ 、夷 えびす 陵 りょう 諸 もろ 郡 ぐん 、民 みん 夷 えびす 多 た 應 おう 者 しゃ 、詔 みことのり 榮 さかえ 擊 げき 平之 ひらの 。遷左候 こう 衛 まもる 將軍 しょうぐん 。從 したがえ 帝 みかど 西 にし 征 せい 吐谷渾、拜 はい 銀 ぎん 青 あお 光 こう 祿 ろく 大夫 たいふ 。遼東 りゃおとん 之 これ 役 やく 、以功進 しん 位 い 左 ひだり 光 こう 祿 ろく 大夫 たいふ 。 — 隋 ずい 書 しょ 、巻 まき 五 ご 十 じゅう 、郭 かく 栄 さかえ 伝 でん 中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:隋 ずい 書 しょ /卷 まき 50#郭 かく 榮 さかえ
^ 頃 ころ 之 の 、已 やめ 降 ぶ 郡 こおり 縣 けん 復 ふく 叛、盜賊 とうぞく 蜂起 ほうき 。阿古 あこ 只 ただ 與 あずか 康 やすし 默 だま 記 き 討之、所 ところ 向 こう 披靡。會 かい 賊 ぞく 遊 ゆう 騎 き 七 なな 千自鴨淥府來援、勢 いきおい 張 ちょう 甚。阿古 あこ 只 ただ 帥 そち 麾下 きか 精銳 せいえい 、直 じき 犯 はん 其鋒、一 いち 戰 せん 克之 かつゆき 、斬 き 馘 くび 三 さん 千 せん 餘 あまり 、遂 とげ 進軍 しんぐん 破 やぶ 回 かい 跋 ばつ 城 じょう 。
已 すで に
降 ふ りし
郡 ぐん 縣 けん 復 ふく た叛し、
盗賊 とうぞく 蜂起 ほうき す。
阿古 あこ 只 ただ 、
康 かん 歎記とこれを
討 う ち、
向 むこ う
所 しょ 披靡せしむ。たまたま
賊 ぞく の
遊 ゆう 騎 き 七 なな 千 せん 、
鴨 かも 淥府より
来援 らいえん し、
勢 いきおい 張 は ること
甚 はなはだ し。
阿古 あこ 只 ただ 、
麾下 きか の
精鋭 せいえい を
帥 そち いて
直 ただ ちに
其 そ の
鋒 ほこさき を
犯 おか し、
一戦 いっせん してこれに
克 か つ。
斬 き 馘 くび すること
三 さん 千 せん 餘 あまり 。
遂 つい に
軍 ぐん を
進 すす めて
回 かい 跋 ばつ 城 じょう を
破 やぶ る。
— 遼 りょう 史 し 、巻 まき 七 なな 三 さん 中国語 ちゅうごくご 版 ばん ウィキソース に本 ほん 記事 きじ に関連 かんれん した原文 げんぶん があります:遼 りょう 史 し /卷 まき 73
ウィキメディア・コモンズには、
渤海 (国 くに ) に
関連 かんれん するメディアがあります。
日本 にっぽん で作成 さくせい された漢籍 かんせき [ 編集 へんしゅう ]