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渤海 (くに)

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渤海こくから転送てんそう
渤海
大震たいしんこく
渤海
698ねん - 926ねん 遼
後渤海
高麗
渤海の位置
渤海の最大さいだい版図はんと(830年代ねんだい
公用こうよう 靺鞨[1][2][3][4][5]
漢語かんご[6][7][8][3]
宗教しゅうきょう 仏教ぶっきょう
儒教じゅきょう
道教どうきょう
みこぞく
首都しゅと ひがし牟山(698-742)
中京ちゅうきょう顕徳けんとく(742-756)
上京かみぎょう龍泉りゅうせん(756-785)
東京とうきょうりゅうはら(785-793)
上京かみぎょう龍泉りゅうせん(793-926)
国王こくおう
698ねん - 718ねん だい祚栄
907ねん - 928ねんだい諲譔
変遷へんせん
建国けんこく 698ねん
滅亡めつぼう928ねん
現在げんざい中華人民共和国の旗 中国ちゅうごく
朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮きたちょうせん
ロシアの旗 ロシア

渤海(ぼっかい、朝鮮ちょうせん:발해 パレ、中国ちゅうごく: 渤海、まんしゅう: ᡦᡠᡥᠠ‍ᡳ[よう出典しゅってん]ロシア: Бохай698ねん[9] - 926ねん)は、げん中国ちゅうごく東北とうほくから朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶげんロシア沿海えんかい地方ちほうにかけて、かつて存在そんざいした国家こっか靺鞨ぞくだい祚栄により建国けんこくされ[10]周囲しゅういとの交易こうえきさかえ、とうからも「うみひがしもりこく」(『しんとうしょ』)とばれたが、最後さいごちぎりりょう)によってほろぼされた。

渤海」の本来ほんらい遼東りゃおとん半島はんとう山東さんとう半島はんとう内側うちがわにあり黄河こうがわんじょう海域かいいきのことである。初代しょだい国王こくおうだい祚栄が、この渤海の沿岸えんがん現在げんざい河北かほくしょう南部なんぶにあたる渤海ぐん名目めいもくじょうおう(渤海ぐんおう)にふうぜられたことから、本来ほんらいの渤海からややはなれたこのくに国号こくごうとなった。

歴史れきし[編集へんしゅう]

渤海としん領域りょういき
まんしゅう歴史れきし
朝鮮ちょうせん ひがしえびす 濊貊
沃沮
粛慎
つばめ りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん
はた りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん
前漢ぜんかん りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん まもる朝鮮ちょうせん 匈奴きょうど
かんよんぐん おっとあまり
こうかん りょう西郡にしごおり がらす 鮮卑 挹婁
遼東りゃおとんぐん 高句麗こうくり
げんうさぎぐん
たかし あきらはじむぐん 公孫こうそん
遼東りゃおとんぐん
げんうさぎぐん
西にしすすむ たいらしゅう
慕容 宇文うぶん
ぜんつばめ たいらしゅう
ぜんはた たいらしゅう
こうつばめ たいらしゅう
きたつばめ
きたたかし 営州 ちぎり くら莫奚 しつ
あずまたかし 営州 勿吉
きたひとし 営州
きたあまね 営州
ずい 柳城やなしろぐん 靺鞨
つばめぐん
りょう西郡にしごおり
とう 営州 まつばくとく にょうらくとく しつ韋都とく 安東あんどうみやこまもる 渤海こく 黒水くろみずとく 靺鞨
だいじゅうこく 営州 ちぎり 渤海こく 靺鞨
りょう 上京じょうきょうどう   ひがし おんなしん
中京ちゅうきょうどう じょうやす
東京とうきょうどう
きむ 東京とうきょう
上京じょうきょう
あずまりょう だいしんこく
もと りょうぎょうしょう
あきら 遼東りゃおとん やつ指揮しき使
けんしゅうおんなしん うみ西にしおんなしん 野人やじんおんなしん
きよし まんしゅう
 

ひがしさんしょう
ロマノフあさ
沿海州えんかいしゅう/みどりウクライナ/江東こうとうろくじゅうよんたむろ
中華民国ちゅうかみんこく
ひがしさんしょう
極東きょくとう共和きょうわこく
ソ連それん
極東きょくとう
まんしゅうこく
ソ連それん占領せんりょうまんしゅう
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
中国ちゅうごく東北とうほく
ロシア連邦れんぽう
極東きょくとう連邦れんぽう管区かんく/極東きょくとうロシア
北朝鮮きたちょうせん
たきぎとうぐん
中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん関係かんけい
Portal:中国ちゅうごく
朝鮮歷史
朝鮮ちょうせん歴史れきし
考古学こうこがく 朝鮮ちょうせん旧石器時代きゅうせっきじだい朝鮮ちょうせんばん
櫛目くしめぶん土器どき時代じだい 8000 BC-1500 BC
無文むもん土器どき時代じだい 1500 BC-300 BC
伝説でんせつ だんくん朝鮮ちょうせん
朝鮮ちょうせん 朝鮮ちょうせん
つばめ
たつこく まもる朝鮮ちょうせん
げんさんこく たつかん わきまえかん かんよんぐん
うまかん おびかたぐん らくなみぐん

さんこく 伽耶かや
42-
562
百済くだら
高句麗こうくり
しん
南北なんぼくこく とうくまとく安東あんどうみやこまもる
統一とういつしん
にわとりりん州都しゅうととく
676-892
安東あんどうみやこまもる
668-756
渤海
698-926
こうさんこく しん
-935
のち
百済くだら

892
-936
こう高句麗こうくり
901-918
りょう おんなしん
統一とういつ
王朝おうちょう
こううらら 918- きむ
もとりょうぎょうしょう
あずまやすしそうしろふけ
元朝がんちょう
こううらら 1356-1392
朝鮮ちょうせん 1392-1897
大韓たいかん帝国ていこく 1897-1910
近代きんだい 日本にっぽん統治とうち時代じだい朝鮮ちょうせん 1910-1945
現代げんだい 朝鮮ちょうせん人民じんみん共和きょうわこく 1945
連合れんごうぐん軍政ぐんせい 1945-1948
アメリカ占領せんりょう ソビエト占領せんりょう
北朝鮮きたちょうせん人民じんみん委員いいんかい
大韓民国だいかんみんこく
1948-
朝鮮ちょうせん民主みんしゅ主義しゅぎ
人民じんみん共和きょうわこく

1948-
Portal:朝鮮ちょうせん

690ねん即位そくいしたのり天武てんむきさき執政しっせいした時期じき羈縻支配しはい地域ちいきたいする収奪しゅうだつはげしくなり、とうによって営州とく管轄かんかつにあったまつばくとく現在げんざい遼寧りょうねいしょう朝陽あさひ)の支配しはい地域ちいき強制きょうせい移住いじゅうさせられていたちぎり暴動ぼうどうこした。この混乱こんらんじょうじて、あわまつ靺鞨じん指導しどうしゃ乞乞なかぞう指揮しきした高句麗こうくり残党ざんとうともに、まつばくとく支配しはいから脱出だっしゅつし、そのかれ息子むすこだい祚栄指導しどうした高句麗こうくり進出しんしゅつひがし牟山(現在げんざい吉林きつりんしょうのべ朝鮮ちょうせんぞく自治じちしゅうあつし)に都城みやこのじょうきずいてふるえこくてた。「しん」という国名こくめいは『えきけい』にある「みかどふるえよりず」からけたものであり「たつ」につうじ「東方とうほう」(正確せいかくには東南東とうなんとう南東なんとうあいだ)を意味いみすることから渤海の支配しはいそう中国ちゅうごくてき教養きょうようっていたことがうかがえる[11]。こののちに「きゅうくに」とばれる。だい祚栄はとう武周ぶしゅう)の討伐とうばつしのぎながら勢力せいりょく拡大かくだいし、とうで712ねんげんむね皇帝こうてい即位そくいすると、713ねんとう入朝にゅうちょうすることにより、ちぇさつふう使として派遣はけんされ、だい祚栄が「渤海ぐんおう」にさつふうされた。渤海こく名称めいしょうかんだい以来いらい河北かほくしょう海岸かいがん地方ちほうかれた渤海ぐん名称めいしょうをとって渤海ぐんおうさつふうしたことによるが、当時とうじもとの渤海ぐんにあたる地方ちほう滄州ばれており、すでに渤海ぐんはない。そのことはかつて高句麗こうくり遼東りゃおとんぐんおうに、しんらくなみぐんおうに、百済くだらおびかたぐんおうさつふうされていたように、旧名きゅうめいによって爵号としたものであり、それによってこれが中国ちゅうごく国土こくどであることをあきらかにしようとしたものである[12]

2だいだい武芸ぶげいじんやす独自どくじ元号げんごうもちいて独立どくりつしょく明確めいかくにし、とう対立たいりつして一時いちじ山東さんとう半島はんとうのぼりしゅう現在げんざい山東さんとうしょうけむりうてな蓬莱ほうらい)を占領せんりょうしたこともあった。またとうしん黒水くろみず靺鞨対抗たいこうするために日本にっぽん使者ししゃおくっている。渤海こくこうひとしとく大使たいしこう仁義じんぎ到着とうちゃく直後ちょくご死亡しぼうひきいる渤海使節しせつかみひさし4ねん727ねん)に到着とうちゃくして平城京へいじょうきょうはいり、翌年よくねんかみかめ5ねん国書こくしょ貢物みつぎもの聖武天皇しょうむてんのう奉呈ほうていしたことを端緒たんしょとして、この通交つうこうは渤海滅亡めつぼう延長えんちょう4ねん926ねん)までつづいた(渤海使渤海使)。軍事ぐんじてき同盟どうめいようはなさなかったものの、渤海こく毛皮けがわ[13]人参にんじん日本にっぽんあやきぬなどが交易こうえきされた。

だい武芸ぶげいぼっするとそのだい欽茂即位そくいだいきょう改元かいげんした。ちちたけおうとうとの対立たいりつした政策せいさくあらた文治ぶんじ政治せいじへと転換てんかんする。とう頻繁ひんぱん使節しせつ派遣はけん(渤海時代じだいつうじて132かい)し恭順きょうじゅん態度たいどしめすとともに、から文化ぶんか流入りゅうにゅう積極せっきょくてき推進すいしんし、漢籍かんせき流入りゅうにゅうはかると同時どうじ留学生りゅうがくせい以前いぜんにもしておくすようになった。これらの政策せいさく評価ひょうかしたとうだい欽茂にはじめて「渤海国王こくおう」と従来じゅうらいよりたか地位ちいさつふうしている。このきゅうこくひがし牟山)から上京かみぎょう龍泉りゅうせん現在げんざい黒竜江こくりゅうこうしょう牡丹ぼたんやすしやす渤海鎮)への遷都せんと実施じっしし、きょう整備せいびするひとし地方ちほう行政ぎょうせい制度せいど整備せいびするなどとうせい積極せっきょくてきれるなどし、国力こくりょく発展はってんられた。

このようにして渤海発展はってん基礎きそきずかれたが、だい欽茂治世ちせい末期まっきから国勢こくせい不振ふしんられるようになった。だい欽茂がぼっすると問題もんだい深刻しんこくし、その王位おうい継承けいしょう混乱こんらんしょうじ、ぞくおとうとだい元義もとよし即位そくい国人くにびとにより殺害さつがいされる事件じけんしょうじた。そのだい欽茂の嫡系のだいはな即位そくいするが短命たんめいわり、つづいてだいかさ即位そくいし、混乱こんらんした渤海国内こくない安定あんていかわせる政策せいさく採用さいようした。だいかさ璘はとうへの恭順きょうじゅん日本にっぽんとのつうこのみという外交がいこう問題もんだいちからそそぎ、渤海の安定あんてい発展はってん方向ほうこうせいしめしたが、治世ちせいじゅうねんぼっしてしまう。だいかさ璘没だいもと大言たいげん大明だいめいただし短命たんめいおうつづいた。この6だいおう治世ちせい合計ごうけいしてじゅうすうねんでしかなく、文治ぶんじ政治せいじ平和へいわ継続けいぞくしたが、国勢こくせい根本こんぽんてき改善かいぜんることができなかった。

国勢こくせい衰退すいたいした渤海であるが、大明だいめいちゅうぼっし、だい祚栄のおとうとである大野おおの勃の4せいまご大仁おおひとしげる即位そくいすると中興ちゅうこうする。大仁おおひとしげる即位そくいした時代じだい、渤海が統治とうちするかく部族ぶぞく独立どくりつする傾向けいこうたかまり、それが渤海政権せいけん弱体じゃくたい招来しょうらいした。とう安史やすしらん混乱こんらん地方ちほうたいする統制とうせい弛緩しかんのなかで周辺しゅうへん諸国しょこくたいする支配しはい体制たいせい弱体じゃくたいしていき、黒水くろみずとくを9世紀せいき初頭しょとう解体かいたいした。大仁おおひとしげるはその政治せいじてき空白くうはくめるように、はらい涅部・おそれるいてつ利部かがぶえつ攻略こうりゃく東平とうへい定理ていりてつ利府りふふところとおやすとおなどのしゅう設置せっちした。また黒水くろみず影響えいきょうはいり、黒水くろみず独自どくじとう入朝にゅうちょうすることはなくなった、その状態じょうたいは渤海の滅亡めつぼう直前ちょくぜんまでつづき、渤海は「うみひがしもりこく」としょうされるようになった。

そのだいつねふるえ時代じだいになると、軍事ぐんじ拡張かくちょう政策せいさくから文治ぶんじ政治せいじへの転換てんかんられた。とうとの関係かんけい強化きょうかし、留学生りゅうがくせい大量たいりょうとうおくとうからの文物ぶんぶつ導入どうにゅうはかった。渤海の安定あんていした政治せいじ状況じょうきょう経済けいざい文化ぶんか発展はってんは、つづだいけんあきらだいげんすずだいまで保持ほじされていた。

10世紀せいきになると渤海の宗主そうしゅこくであるとうはん同士どうしこうそう宦官かんがん専横せんおう朋党ほうとう抗争こうそうにより衰退すいたいし、さら農民のうみん反乱はんらんにより崩壊ほうかい状態じょうたいとなった。その結果けっか中国ちゅうごく史書ししょから渤海の記録きろく見出みいだされなくなる。だいげんすずつづいて即位そくいしただい瑋瑎、それにつづだい諲譔時代じだいになると権力けんりょく抗争こうそうで渤海の政治せいじ不安定ふあんていするようになった。とうほろびたのち西にしシラムレンかわ流域りゅういきにおいて耶律阿保あぼによって建国けんこくされたちぎりこく(のちのりょう)の侵攻しんこうけ渤海は926ねん滅亡めつぼうちぎりひがしこく設置せっちして支配しはいした。渤海に侵攻しんこうしたちぎりぐんには、かそけしゅうなどからちぎり流入りゅうにゅうした人々ひとびとくわわっていたとわかっているらしい(「つばめくも地域ちいき漢人かんど滅亡めつぼう以降いこうの渤海じん―〈ひねまん墓誌ぼし〉〈耶律むねぶく墓誌ぼし〉〈こうため裘墓〉などりょうだい石刻せっこくをてがかりに」 『渤海の古城こじょう国際こくさい交流こうりゅうつとむまこと出版しゅっぱん 2021ねん3がつ)。ひがしこく設置せっち縮小しゅくしょうともない、すうにわたってのこみん渤海再興さいこうこころみるが、ちぎりりょう)の支配しはい強化きょうかによってすべて失敗しっぱいわり、その都度つどおおくはりょう保有ほゆうするりょう西にし遼東りゃおとんかく地域ちいき移住いじゅうさせられ、または残留ざんりゅうし、一部いちぶ高麗こうらい亡命ぼうめいし、一部いちぶ北方ほっぽうもどった。なお、1990年代ねんだい、渤海滅亡めつぼう10世紀せいき白頭山はくとうさん噴火ふんか関連かんれんづけたせつ登場とうじょうしたが、その噴火ふんか時期じきが渤海滅亡めつぼうであることが判明はんめいし、このせつえた。このせつがもてはやされた背景はいけいには、地球ちきゅう温暖おんだんをはじめとする環境かんきょう問題もんだいへの関心かんしんと、史料しりょうすくなく突如とつじょ滅亡めつぼうした渤海に人々ひとびとロマンてられたことにある[14]

渤海におけるとう制度せいどは、ちぎり中原なかはらしていくにさい参考さんこうにされ、りょうくにせい特色とくしょくとされる両面りょうめんかん制度せいど影響えいきょうあたえたといわれる。黒水くろみず靺鞨(おんなしん)がてたきむ王朝おうちょう1115ねん - 1234ねん)において、旧領きゅうりょうのこった渤海のこみん厚遇こうぐうされ、官職かんしょくにつくものや、王家おうけとつものもいた。かねほろぼしたもとだいでは、華北かほくの渤海じんは「漢人かんど (元朝がんちょう)中国語ちゅうごくごばん」として支配しはいける。そのおんなしんまんしゅうとしてふたた台頭たいとうするが、渤海の名称めいしょうひがしアジアから姿すがたした。

滅亡めつぼう高麗こうらいへの亡命ぼうめい[編集へんしゅう]

928ねん929ねんになると、渤海じん高麗こうらいへのらいとう相次あいつぎ、ひがしこく西にし遷時にあたるため、ひがしこく西にし遷に抵抗ていこうするものあるいは圧迫あっぱくけたもの推測すいそくされる。そのちぎり滅亡めつぼうまで、継続けいぞくてきに渤海のこみん亡命ぼうめい記録きろくがあり、934ねん大光おおみつあきら亡命ぼうめいさいすうまんにん979ねんすうまんにんちぎりだいのべ反乱はんらん鎮圧ちんあつにはちぎりじんふくむ500にん以上いじょう亡命ぼうめいしており、最後さいごらいとう1116ねんまつから1117年頭ねんとうにかけてちぎりからとうした100にんじゃくである。ちぎり滅亡めつぼうに、渤海のこみんこう永昌えいしょう遼東りゃおとん東京とうきょうってだい渤海しょうしたが、きむつぶされ、最後さいごとうした渤海じんはこのとうとみられる[15]

三上みかみ次男つぐおは、渤海滅亡めつぼう直前ちょくぜんに渤海じん高麗こうらいへの亡命ぼうめい相次あいついでいることから、渤海宮廷きゅうてい内紛ないふん勃発ぼっぱつしていたことを指摘してきしている[15]日野ひのひらく三郎さぶろうは、ひがしこく遼東りゃおとんうつりきゅう渤海りょうに2つの地方ちほう政権せいけん誕生たんじょうしたと推測すいそくし、上京かみぎょう龍泉りゅうせんったのがこう渤海西京にしぎょうかもみどりったのが大光おおみつあきら政権せいけんとした。こう渤海の主権しゅけんしゃだい諲譔おとうと大光たいこうあきら政権せいけん大光おおみつあらわであるが、こう渤海と大光たいこうあきら政権せいけん別個べっこ政権せいけんであるかかはけっがたいが、だい諲譔のおとうと大光たいこうあらわとが宮廷きゅうてい内紛ないふん対立たいりつしゃである可能かのうせいはある[16]。ただし、こう渤海にかんする研究けんきゅうは、ことなる時期じきことなる地域ちいき史料しりょうあつめて拡大かくだい解釈かいしゃくして想定そうていされている。こう渤海のものとされた史料しりょうは、現在げんざいではひがしこく史料しりょうとみなされている[17]らいとうしゃしょくかんは、文官ぶんかん司政しせいれいきょうこうきょうであり、武官ぶかん左右さゆうまもる将軍しょうぐんひだりくびまもる少将しょうしょうなどである。司政しせいくに政務せいむ執行しっこう機関きかんであるせいどうしょう次官じかんれいこうきょうは、せいどうしょうぞくする6つの最高さいこう行政ぎょうせい機関きかんのうちのれいおよびこう長官ちょうかんであり、左右さゆうまもる将軍しょうぐん禁衛きんえい守護しゅご任官にんかんされた南北なんぼく左右さゆうまもる将軍しょうぐんとみられ、らいとうしゃは、いずれも中央ちゅうおう政府せいふあるいは禁衛きんえい大官たいかん将軍しょうぐんである。らいとうしゃせいは、大和やまとひとし大元おおもとひとし大福だいふく謨、だい審理しんりなど王族おうぞくだいおおく、らいとうしゃのうち、中央ちゅうおう政府せいふ高官こうかん王族おうぞくとみられるため、事件じけん重大じゅうだいさをうかがわせ、らいとうしゃひきいられたみんも、500にん、100、1000などかずすくなくない[18]

りょうまきなな耶律つてには、りょうが渤海こくほろぼしたのち、みん基盤きばんにつくった傀儡かいらいこくひがしこく宰相さいしょう耶律が、ひがしこくみん遼東りゃおとんうつすことをいた上書うわがき一節いっせつがあり、その上書うわがきには、ふとしが渤海の内紛ないふんじょうじて出兵しゅっぺいたたかわずして勝利しょうりし、渤海をほろぼしたとする意味いみがあり、簡略かんりゃくいちであるが、渤海政治せいじにとってきわめて重大じゅうだいであり、これこそ内紛ないふん事実じじつ裏書うらがききし、あるいは内紛ないふん具体ぐたいてきつたえたものといえる[19]近年きんねんは耶律墓誌ぼし発見はっけんされている[20]

渤海むかしかしこ南朝なんちょう、阻險自衛じえいきょゆるがせあせじょういま上京じょうきょうりょう邈、すんで不為ふためようまたやめ戍、はてなんため哉、先帝せんていいんかれはなれしんじょう釁而どう不戰ふせん而克。天授てんじゅじんあずかかれ一時いちじ也。

渤海はむかし南朝なんちょう中国ちゅうごく王朝おうちょう)をおそれ、阻険によってみずかまもるり、ゆるがせあせじょう(いまの黒竜江こくりゅうこうしょう東京とうきょうじょう)にる。いま上京じょうきょうりょう首都しゅと、すなわち上京じょうきょう臨潢)をさることりょう邈にしてすでようをなさず。…先帝せんていりょうふとしかれはなれしんにより、釁にじょうじてうごく、ゆえたたかわずしてつ。てんひとかれとを一時いちじに授くるなり[21] — りょうまきなな
ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:りょう/まき75

こううららは、亡命ぼうめい渤海じんたいしてあまりよい処遇しょぐうをしておらず、渤海の世子せいししょうした大光おおみつあきらたいして、おうつぎという姓名せいめいあたえ、王室おうしつ戸籍こせき編入へんにゅうちか白州はくしゅう長官ちょうかん任命にんめいし、祖先そせん祭祀さいしをおこなわせたが、高麗こうらいは、帰順きじゅんした豪族ごうぞくをその長官ちょうかん任命にんめいし、支配しはいゆだねるのが一般いっぱんてきであったことから、この待遇たいぐう亡命ぼうめい渤海じん白州しらす移住いじゅうさせて、大光たいこうあらわ実質じっしつてき統治とうちしゃにんじたとみられるが、しんのように王室おうしつ婚姻こんいんむすぶあるいは官僚かんりょうとして任用にんようするなどの実質じっしつてき優遇ゆうぐうはない[15]しん場合ばあい670ねん高句麗こうくり王族おうぞく安勝あんがち朝鮮ちょうせんばんらいとうすると、これを高句麗こうくりおう、ついで報徳ほうとくおうさつふうきむうまなぎさ高句麗こうくり復興ふっこうさせて、新来しんらい高句麗こうくりじん受皿うけざらにした[22]680ねんしん安勝あんがちおういもうとめとらせ、高句麗こうくり王家おうけしん王家おうけ結合けつごうはかり、683ねんにはしん王家おうけおなきんせいたまわり、おうみやこ慶州けいしゅう居住きょじゅうさせ、安勝あんがちしん貴族きぞくとし、自国じこく貴族きぞくとして高句麗こうくりおうみつる維持いじさせている[22]

また、亡命ぼうめい渤海じんしつ土人どじんとおじんび、異域いいきみんとみなした史料しりょう存在そんざいあきらかとなっており、高麗こうらい時代じだいだい子孫しそんは、文官ぶんかんよりおと武官ぶかん胥吏としてのみしか記録きろく登場とうじょうしない[15]。また、朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶ移住いじゅうさせられた亡命ぼうめい渤海じん居住きょじゅうきょくあるいはところであり、きょくあるいはところとは、こおりけん隷属れいぞくし、特定とくていやくされた行政ぎょうせい区画くかくであり、その住民じゅうみん身分みぶん一般いっぱん良人りょうじんよりひく[15]

高麗こうらい亡命ぼうめいだい動向どうこう最初さいしょ記録きろく登場とうじょうするのは、10世紀せいきまつから11世紀せいきはつさんにわたるちぎり高麗こうらい侵攻しんこうであるが、『高麗こうらい』によると、だいいち高麗こうらいちぎり戦争せんそう中国語ちゅうごくごばんにおいて、大道おおみちしげるちぎりぐんやす戒鎮で阻止そしするのに活躍かつやくだい高麗こうらいちぎり戦争せんそう中国語ちゅうごくごばんでは、西京にしぎょう防衛ぼうえい従事じゅうじしたが、保身ほしんをはかる同僚どうりょうあざむかれて、ちぎり降伏ごうぶくしている。また、だい高麗こうらいちぎり戦争せんそうでは、だいふところとくかくしゅう攻防こうぼうせんにおいて戦死せんししているが、大道おおみちしげるは『りょう』に「高麗こうらいれいろうちゅう渤海陀失」とあるため、あきらかに渤海けいであるが、だいふところとく同様どうようとみられる[23]大道おおみちしげる肩書かたがきは、『りょう』に「れいろうちゅう」という文官ぶんかんとして登場とうじょうするが、高麗こうらい記録きろくつたえるなかろうはた、そして将軍しょうぐんという武官ぶかんるべきであり、最初さいしょから武官ぶかん本来ほんらい肩書かたがきとしてびた武臣ぶしんとみられ、だいふところとく同様どうようであり、高麗こうらい初期しょきだい武臣ぶしん地位ちいであると判断はんだんされる[24]

高麗こうらい中期ちゅうきになると、1181ねん慶大けいだいますたいする反乱はんらん計画けいかく密告みっこくしゃとして、れいどうせいだい公器こうきなる人物じんぶつ記録きろく登場とうじょうするが、大公たいこう肩書かたがきは、中央ちゅうおうかん胥吏しょくであり、りょうはん一翼いちよくをなす武臣ぶしんより一段いちだんひく政治せいじ社会しゃかい経済けいざいてき境遇きょうぐうにあることが確認かくにんできる[24]

1218ねんだい集成しゅうせいなる人物じんぶつ記録きろく登場とうじょうする。ちぇただしけんじは、武臣ぶしん政権せいけん安定あんていさくとして、武臣ぶしん歓心かんしんうため、だい集成しゅうせいなどを将軍しょうぐんしょく将軍しょうぐん)に昇進しょうしんさせており、高麗こうらい中期ちゅうきにおいても、まさる武臣ぶしん地位ちいであることがわかる。そのだい集成しゅうせいは、武臣ぶしん政権せいけん執権しっけんしゃちぇとのむすびつきから権勢けんせいばし、1232ねんだい集成しゅうせいむすめちぇ瑀の後妻ごさいむかえられ、外戚がいせき地位ちいにつき、モンゴルの高麗こうらい侵攻しんこう回避かいひちぇ瑀の政権せいけん維持いじ役割やくわりたした。15世紀せいき成立せいりつの『むね実録じつろく地理ちりこころざし』の黄海こうかいどうじょうによると、うしみねけんにはほろびせい高麗こうらい時代じだいにはその土着どちゃくしていたが、ちょうはじめまでに他所よそ移動いどうし、存在そんざいしなくなった姓氏せいし)としてちぇおよびだいがみえ、高麗こうらい時代じだいには、ちぇおよびだいうしみねけんにおり、だい集成しゅうせい本来ほんらい出身しゅっしんうしみねけんとみられ、だい集成しゅうせい栄達えいたつ背景はいけいには、ちぇただしけんじ同郷どうきょうという要素ようそ推測すいそくされ、ちぇ瑀の威勢いせいしたものとみられる[25]ちぇ瑀の後継こうけいしゃであるちぇは、政権せいけん掌握しょうあく過程かていにおけるきむとの対立たいりつさいし、継母けいぼだいだい集成しゅうせいむすめ)がきむ敉を支援しえんしたことをうらみ、1250ねん1251ねんに、継母けいぼだいだい集成しゅうせいむすめ)およびぞくとうだい弾圧だんあつくわえ、だい集成しゅうせいぞくとう全羅道ぜんらどうへと配流はいるさせた[26]

武臣ぶしん政権せいけん末期まっきには、モンゴルの高麗こうらい侵攻しんこう関連かんれんし、大金おおかね登場とうじょうする。1253ねん大金おおかね就はこうじょう肩書かたがきで、うしみねべつしょう30余人よにんひきい、きむ郊・きょうよしりょうえきあいだにおいてモンゴル帝国ていこくぐん英語えいごばん交戦こうせん、6ねんには開城かいじょう侵攻しんこうしたモンゴル帝国ていこくぐん撃退げきたいしている。この事例じれいから、大金おおかね就もまた武臣ぶしん地位ちい(しかも比較的ひかくてきひくい)であることがわかり、大金おおかね就のひきいたうしみねべつしょうは、うしみねけん組織そしきされた編成へんせいぐんであり、うしみねけん所在しょざいだい一員いちいんとして、大金おおかね就が指導しどうにあたったと推測すいそくされる[27]

朝鮮ちょうせん初期しょき編纂へんさんすすめられた『しんぞう東国とうごく輿地よちしょうらんまきさん二慶尚道金海都護府姓氏条に、けいなお道金どうきんかいみやこまもる所属しょぞくきょく姓氏せいしとして、およびだいしるされ、『しんぞう東国とうごく輿地よちしょうらんまき四慶尚道醴泉郡姓氏条には、朝鮮ちょうせん初期しょきまでに他所よそから移住いじゅうしたものとみられるだいが、所在地しょざいちめい「亏尒だに」(朝鮮ちょうせん: 우니곡)をしてしるされており[28]、「亏尒だに」(朝鮮ちょうせん: 우니곡)は、まさる移住いじゅうまえ本来ほんらい居住きょじゅう意味いみし、醴泉ぐん隣接りんせつするなおしゅう所属しょぞくの亏尒谷所たにどころ該当がいとうする[29]朝鮮ちょうせん後期こうき編纂へんさんされただい集成しゅうせい後裔こうえいとされるだいの『えい順大じゅんだいぞく』は、けい尚道なおみちなおしゅうえいじゅんめん朝鮮ちょうせんばんほんぬきとしているが、えいじゅんめんは、『高麗こうらいまき五七地理志二慶尚道尚州牧条に「ことわざでんしゅう北面ほくめん林下りんか村人むらびとせいたいしゃぞく有功ゆうこう、陞其むら為永ためながじゅんけん」とあり、それを、『増補ぞうほ文献ぶんけん備考びこう朝鮮ちょうせんばんまきみかどけいこうづけ氏族しぞくふとしじょうえい順大じゅんだい部分ぶぶんでは、「高麗こうらいえいじゅんきょくみんゆうふとしせいしゃぞく有功ゆうこう、陞部きょくためけん」としており、林下りんかむらきょく推測すいそくされ、高麗こうらい時代じだいきょくあるいはところは、地方ちほう行政ぎょうせい制度せいど一環いっかんをなす行政ぎょうせい区画くかくであるが、こおりけんした隷属れいぞく住民じゅうみん全体ぜんたい国家こっかした特定とくていやく世襲せしゅうてき集団しゅうだんてき義務ぎむづけられた政治せいじてき社会しゃかい経済けいざいてきこおりけんとその住民じゅうみんよりひく境遇きょうぐうにおかれ、きむぎんどうてつ磁器じきかわらすみすみかみつむぎきぬちゃショウガワカメしお魚類ぎょるいなどの物品ぶっぴん生産せいさんみつぎおさめ義務ぎむづけられていた[29]

北村きたむら秀人ひでとは、10世紀せいきはつ高麗こうらいすすめた渤海のこみん受容じゅようを、渤海を朝鮮ちょうせん歴史れきし一環いっかんとして位置いちづける立場たちばから、渤海の併合へいごう吸収きゅうしゅうによる、朝鮮ちょうせん史上しじょう最初さいしょ本格ほんかくてき統一とういつだとする見解けんかいが、おも北朝鮮きたちょうせん学界がっかい主張しゅちょうされているが、そうした見解けんかい十分じゅうぶん裏付うらづけがない、とひょうしており[30]、「記録きろくあらわれる当時とうじだい実例じつれいをみると、いずれの時期じき亡命ぼうめいしゃ場合ばあいも、高麗こうらいでの政治せいじてき社会しゃかい経済けいざいてき地位ちい境遇きょうぐうは、どちらかというと、ひくおとったものであったことがうかがえる。こうしてみると、高麗こうらい歴史れきし展開てんかいにおける渤海けいみん比重ひじゅう意義いぎなどの評価ひょうかかんしても慎重しんちょうさがもとめられることになろう」とべている[31]

政治せいじ[編集へんしゅう]

国名こくめい[編集へんしゅう]

きむ毓黻は、「渤海」は「靺鞨」のきんへんおんであると指摘してきしている[32]。また、武則たけのりてん乞乞なかぞうを「ふるえこくおおやけ」に、乞四を「もとこくおおやけ」にさつふうした称号しょうごうとをわせてかんがえるべきという指摘してきがあり、音韻おんいんがくまとには「もと」「しん」が「靺鞨」の別称べっしょうである「粛慎」の諧音中国語ちゅうごくごばん、すなわち、もとふるえ=粛慎の同音どうおん異義いぎである可能かのうせい指摘してきされている[33]

支配しはい原理げんり支配しはい機構きこう[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく史料しりょうから、渤海にはとうせい三省みつよしろく相当そうとうするせいどうせんみことのり中台ちゅうたいさんしょうただしひとしよしさとしれいしんろくだいにあたる中正ちゅうせいだい国子くにこかんにあたるかぶとかんきゅうてらにあたるななてらそうぞくてらふとしつねてらつかさまろうどてら大農だいのうてらつかさぞうてらつかさぜんてら殿中でんちゅうてら)などの中央ちゅうおう政治せいじ機関きかんがあり、とうじゅうろくまもる中国語ちゅうごくごばん相当そうとうするじゅうまもるという中央ちゅうおう軍事ぐんじ組織そしきがあり、さらにはきょうしゅうけんという地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんまであったことが判明はんめいしている[34]。さらにこれらの国家こっか機構きこうささえる官僚かんりょうには、とうにならって、いち秩からはち秩までのかんひんあたえられており、渤海は、その政治せいじ組織そしき支配しはい機構きこううえではとう酷似こくじしており、そうした膨大ぼうだい組織そしき有機ゆうきてきむすびつける政治せいじ原理げんりもまた、とうひとし田制たせい兵制へいせい租庸調そようちょうせい基礎きそとする中央ちゅうおう集権しゅうけんてき律令りつりょう体制たいせい模倣もほうしたものと推測すいそくされる[34]実際じっさい、「渤海、使つかいつかわし、かられいおよ三国志さんごくしすすむしょさんじゅうろくこく春秋しゅんじゅううつさんことをもとむ。これをゆるす」(『とうかいようまきさんじゅうろく)、「はじおう、しばしば諸王しょおうつかわし、京師けいしふとしがくまいり、古今ここん制度せいどを習識せしむ」(『しんとうしょまきひゃくじゅうきゅう・渤海でん)などの史料しりょう事実じじつから、渤海がとう律令りつりょう採用さいようしていたことはほぼ確実かくじつである[34]。また、「そのおうはもとだいをもってせいす。みぎせいこうちょう・楊・まろうどがらすのたまい、すうしゅぎず。きょく奴婢ぬひせいなきしゃみなそのおもしたがう」(『ちぎりこくこころざしまきじゅうろく・渤海でん)、「だい以大ため酋長しゅうちょう」(『だいかいよう中国語ちゅうごくごばんまきさんじゅう・渤海でん)、「ぞくおういてどくおっとのたまう…そのいのちきょうす」(『しんとうしょまきひゃくじゅうきゅう・渤海でん)などの史料しりょうしょしょ散見さんけんするみやこただし節度せつど使刺史ししけんすすむなどのかんめいもまた、渤海が王族おうぞく少数しょうすう有力ゆうりょく氏族しぞく出身しゅっしん官僚かんりょう貴族きぞくによって支配しはいされていた律令りつりょう体制たいせいてき国家こっかであったことを裏付うらづける[34]

橋本はしもと増吉ますきちは、「官制かんせいではとう尚書しょうしょしょうあたるものをせいどうしょう門下もんかしょうあたるをせんみことのりしょう中書ちゅうしょしょうあたるを中台ちゅうたいしょうとなし、ろく相当そうとうするものにはひだり司政しせいしたちゅう仁義じんぎさんと、みぎ司政しせいしたさとしれいしんさんとがあり、とうだいかわりに中正ちゅうせいだい殿中でんちゅうしょうかわりに殿中でんちゅうてらそうただしてらかわりにむねぞくてらというのをおき、その武官ぶかん左右さゆうもう賁、くままもるひぐままもる南北なんぼく左右さゆうまもるかく大将軍だいしょうぐん将軍しょうぐんなど一々いちいちとうせいしたものである。なお日本にっぽん渤海使者ししゃかんいのちにはとうしょれたものもあるが、とう総合そうごうしてかんがえうるに、彼等かれらとうせい模倣もほうした程度ていどは、このころ日本にっぽん大寶たいほうれいなどよりはるかすすんで、ほとんまった自己じこ創意そういとか、自国じこく特色とくしょくとかを忘却ぼうきゃくしていたのである。これはまえにもべたとお固有こゆうのものをもっていなかったためである」と指摘してきしている[35]

中央ちゅうおう統治とうち機構きこう[編集へんしゅう]

地方ちほう統治とうち機構きこうかんしてはとう制度せいど模倣もほうしており、『しんとうしょ』の記載きさいによれば三省みつよしろくいちだい一院いちいんいちかんいちきょく行政ぎょうせい機構きこう存在そんざいしており、名称めいしょうこそことなるが、とう三省みつよし模倣もほうした行政ぎょうせい機構きこう設置せっちされていた[注釈ちゅうしゃく 1]。しかしとう制度せいどをそのまま移植いしょくしたのではなく、渤海の現状げんじょうもとづき、機構きこう簡略かんりゃくし、とうじゅうよんつかさじゅう圧縮あっしゅくして編成へんせいしているのも特徴とくちょうである。

せんみことのりしょう
とう門下もんかしょう相当そうとうし、中台ちゅうたいしょう提出ていしゅつした政令せいれい審議しんぎした。長官ちょうかんひだりしょうであり、しな秩はせいひんである。そのしたひだりたいらあきら政事せいじかれ、属官ぞっかんとしてさむらいちゅうがいた。
中台ちゅうたいしょう
とう中書ちゅうしょしょう相当そうとうし、政令せいれい草案そうあん起草きそう修訂しゅうてい担当たんとうした。長官ちょうかんみぎしょうであり、しな秩はせいひんである。そのしたみぎたいらあきら政事せいじかれ、属官ぞっかんとしてうちがいた。
せいどうしょう
とう尚書しょうしょしょう相当そうとうし、政令せいれい執行しっこう担当たんとうする行政ぎょうせい機関きかん頂点ちょうてん位置いちしていた。長官ちょうかんだい内相ないしょうであり、しな秩はせいひん上位じょういであった。助手じょしゅとして左右さゆう司政しせいかれ、左右さゆうたいらあきらごとした位置いちしていた。属官ぞっかんには左右さゆうのニまことがいた。下部かぶろく設置せっち統括とうかつしていた。
ちゅう
とう吏部相当そうとうし、文官ぶんかん採用さいよう考課こうかくんふう職責しょくせきとしていた。
仁部にぶ
とう戸部とべ相当そうとうし、土地とちぜにこく職責しょくせきとしていた。
とうれい相当そうとうし、儀礼ぎれい祭祀さいしみつぎきょ職責しょくせきとしていた。
れい
とう刑部おさかべ相当そうとうし、最高さいこう司法しほう機関きかん職責しょくせきとしていた。
さとし
とう兵部ひょうぶ相当そうとうし、武官ぶかん人事じんじ地図ちず作成さくせい車馬しゃば武器ぶき管理かんり職責しょくせきとしていた。
しん
とうこう相当そうとうし、交通こうつう水利すいり建築けんちくおよ技術ぎじゅつしゃ管理かんり職責しょくせきとしていた。
中正ちゅうせいだい
とうだい相当そうとうし、最高さいこう監察かんさつ機構きこうであった。長官ちょうかん大中おおなかただししょうし、とう大夫たいふ相当そうとうしている。
殿中でんちゅうてら
とう殿中でんちゅうしょう相当そうとうし、王室おうしつ衣食住いしょくじゅう行幸ぎょうこうなどの生活せいかつ諸般しょはん管理かんり担当たんとうした。長官ちょうかんだいれいしょうし、とう殿中でんちゅうかん相当そうとうするしたがえさんひんであった。
そうぞくてら
とうそうただしてら相当そうとうし、王族おうぞくむね親族しんぞくせきはじめとする事務じむ管理かんり担当たんとうした。長官ちょうかんだいれいしょうし、とうそうただしきょう相当そうとうするしたがえさんひんであった。
ぶんせきいん
とう秘書ひしょしょう相当そうとうし、経籍けいせき図書としょ管理かんり担当たんとうした。長官ちょうかんぶんせきいんかんしょうし、とう秘書ひしょとく相当そうとうするしたがえさんひんであった。日本にっぽん派遣はけんされた19大使たいしうけたまわえいかんめいが「ぶんせきいん述作じゅっさくろう」とあり、とう述作じゅっさくきょく相当そうとうする「述作じゅっさくきょくあるいは「述作じゅっさくしょ」が設置せっちされていたことがうかがえる。
ふとつねてら
とうでも同名どうめいふとつねてら存在そんざいしている。礼楽れいがく・郊廟・社稷しゃしょく管理かんり担当たんとうした。長官ちょうかんふとつねきょうしょうされ、せいさんひんであった。
つかさまろうどてら
とうおおとり臚寺相当そうとうし、外交がいこう周辺しゅうへん少数しょうすう民族みんぞく関連かんれん業務ぎょうむ担当たんとうした。長官ちょうかんつかさまろうどきょうしょうされ、とうおおとり臚卿に相当そうとうするしたがえさんひんであった。
大農だいのうてら
とうつかさみのりてら相当そうとうし、農業のうぎょうおよび営田、穀倉こくそう事務じむ管理かんり担当たんとうした。長官ちょうかん大農だいのうきょうしょうされ、とうつかさみのりきょう相当そうとうするしたがえさんひんであった。
つかさぞうてら
とうたいてら相当そうとうし、財務ざいむ貿易ぼうえき事務じむ管理かんり担当たんとうした。長官ちょうかんつかさぞうれいしょうされ、とうたいてらきょう相当そうとうするしたがえさんひんであった。
つかさぜんてら
とうひかりろくてら相当そうとうし、おう廷の酒食しゅしょく担当たんとうした。長官ちょうかんつかさぜんれいしょうされ、とうひかりろくきょう相当そうとうするしたがえさんひんであった。
かぶとかん
とう国子くにこかん相当そうとうし、渤海国内こくない教育きょういく担当たんとうした。長官ちょうかんかぶとかんちょうしょうされ、とうまつりしゅ相当そうとうした。

地方ちほう統治とうち機構きこう[編集へんしゅう]

渤海の行政ぎょうせい区分くぶん

全国ぜんこくは5きょう首都しゅと)1562しゅう行政ぎょうせい区分くぶんけられ、きょうしたしたしゅうかれた。

  • 上京かみぎょう龍泉りゅうせん現在げんざい中国ちゅうごく黒竜江こくりゅうこうしょう牡丹ぼたんやすしやす渤海鎮東京とうきょうじょう) - 首都しゅとりゅうしゅうみずうみしゅう・渤州を管轄かんかつ
    • りゅうしゅう - もうけられた。
    • みずうみしゅう - ゆるがせあせうみ現在げんざいかがみとまり付近ふきんとされている。
    • 渤州 - 牡丹ぼたん南部なんぶ城址じょうし比定ひていされている。管轄かんかつけんみつぎちんけんのみが現在げんざいつたわっている。
  • 東京とうきょうりゅうはら吉林きつりんしょう琿春はちれんじょう比定ひてい) - 周囲しゅうい16km、南北なんぼく3.5km、東西とうざい4.5kmの方形ほうけいで37カ所かしょ宮殿きゅうでんようしていた。沃沮もうけられ、上京かみぎょう東南とうなん位置いちし「しがらみ城府じょうふ」ともった。慶州けいしゅうしおしゅうきよししゅうしゅう管轄かんかつ
    • 慶州けいしゅう - もうけられ、りゅうげん永安えいあん烏山からすやま壁谷かべや熊山くまやま白楊はくようの6けん管轄かんかつ
    • しおしゅう - 現在げんざいポシェト湾岸わんがんクラスキノ南方なんぽうクラスキノじょう遺跡いせき比定ひていされ、日本にっぽんへの出発しゅっぱつこうもうけられていた。下部かぶ海陽かいようせっうみかくがわ龍川りゅうがわの4けん管轄かんかつ
    • きよししゅう - 南方なんぽう120さと位置いちし、かいのうみず岐・順化じゅんかよしけんの4けん管轄かんかつ
    • しゅう - 位置いち不明ふめいであるが、ひろしおくまことよしさとし石山いしやまかくけん管轄かんかつ
  • 中京ちゅうきょう顕徳けんとく吉林きつりんしょうかずりゅう) - 上京かみぎょう南方なんぽう位置いちした。しゅうあきらしゅうくろがねしゅうしゅうさかえしゅうおきしゅうの6しゅう管轄かんかつ
    • あきらしゅう - もうけられ、きむいさお常楽じょうらくえいゆたかにわとりやまちょうやすしの5けん管轄かんかつ
    • しゅう - 中京ちゅうきょう東方とうほう130さと位置いちし、いね産地さんちとして史書ししょ記録きろくがある。下部かぶ山陽さんようすぎ(さんろ)・かんはくいわおしもいわおの5けん管轄かんかつ
    • てつしゅう - 中京ちゅうきょう西北せいほく100さと位置いちし、じょう河端かわばたあおいやまりゅうちんの4けん管轄かんかつ
    • しゅう - 中京ちゅうきょう西北せいほく100さと位置いちし、霊峰れいほう常豊つねとよ白石はくせきひとしたによしみの5けん管轄かんかつ
    • さかえしゅう - 中京ちゅうきょう東北とうほく150さと位置いちし、たかしさん・潙水・みどりじょうの3けん管轄かんかつ
    • おきしゅう - 中京ちゅうきょう西南せいなん300さと位置いちし、もりきち蒜山ひるぜん(さんざん)・鉄山てつざんの3けん管轄かんかつ
  • 南京なんきん南海なんがい北朝鮮きたちょうせんきたあおぐん付近ふきん) - 沃沮もうけられ、渤海の南端なんたん位置いちし、沃州・はれしゅうはじかみしゅうの3しゅう管轄かんかつ
    • 沃州 - もうけられ、沃沮・わしいわお(じゅがん)・龍山たつやまはまかい昇平しょうへい霊泉れいせんの6けん管轄かんかつ
    • はれしゅう - 南京なんきん西北せいほく120さと位置いちし、てんはれかみよう蓮池はすいけおおかみやませんいわおの5けん管轄かんかつ
    • はじかみしゅう - 南京なんきん西南せいなん200さと位置いちし、はじかみさん・貊嶺・澌泉・尖山せんざんいわおふちの5けん管轄かんかつ
  • 西京にしぎょうかもみどり吉林きつりんしょう臨江) - 高句麗こうくりもうけられ、「わかゆるがせしゅう」ともしょうされた。神州しんしゅう・桓州・ゆたかしゅうせいしゅうの4しゅう管轄かんかつ
    • 神州しんしゅう - もうけられ、かみ鹿しか神化しんかけんもんの3けん管轄かんかつ
    • 桓州 - 西京にしぎょう西南せいなん200さと位置いちし、桓都・神郷しんごう淇水きすいの3けん管轄かんかつ
    • ゆたかしゅう - 西京にしぎょう東北とうほく210さと位置いちし、しゅう吉林きつりんしょうやすけんおおせ臉山じょう比定ひていされている。下部かぶあんゆたか・渤恪・隰壌・硤石の4けん管轄かんかつ
    • せいしゅう - とみなんじかわ流域りゅういき位置いちし、ひがしけんらを管轄かんかつ
長嶺ながみね
高句麗こうくりもうけられ、営州どう要所ようしょ位置いちした。現在げんざいかば甸市ひそかじょうじょうとし、きずしゅうかわしゅうの2しゅうもうけられた。
きずしゅうであり、かわしゅう現在げんざいうめ河口かわくち比定ひていされている。
扶余
おっとあまりもうけられ、扶州、せんしゅうもうけられていた。
扶州はもうけられ扶余、ぬのあらわかささぎがわの4けん管轄かんかつしていた。
せんしゅうつよしんやすりょうだにの3けん管轄かんかつしていた。
鄚頡
おっとあまりもうけられ、鄚州、高州たかすもうけられていた。
鄚州はもうけられ、現在げんざいあきらけんはちめんじょう比定ひていされており、粤喜、まんやすの2けん管轄かんかつしていた。
高州たかすかんしてのりょうけんについては記録きろくのこっていない。
定理ていり
挹婁もうけられ、じょうしゅうはんしゅうもうけられていた。
ていしゅうもうけられ、現在げんざいあららぎけんしろ比定ひていされ、定理ていりひら邱、巖城いわき、慕美、やすえびすの5けん管轄かんかつしていた。
はんしゅうはんみず安定あんていさんのうの4けん管轄かんかつしていた。
やすあたり
挹婁のもうけられ、現在げんざいそうかもやまたからきよしけんとみにしき一帯いったい比定ひていされ、やすしゅう、瓊州(けいしゅう)を管轄かんかつしていた。
やすしゅうもうけられていたが、瓊州同様どうよう詳細しょうさいについては不明ふめいである。
りつまろうど
りつまろうどもうけられ、綏芬かわ流域りゅういき位置いちし、はなしゅうえきしゅうけんしゅうもうけられていた。
はなしゅうもうけられ、現在げんざい黒竜江こくりゅうこうしょうあずまやすし大城おおしろ比定ひていされている。
けんしゅう現在げんざいウスリースクそうしろ)に比定ひていされている。
東平とうへい
はらいもうけられ、しゅうこうむしゅう、沱州、くろしゅうしゅうもうけられていた。
こうむしゅう現在げんざいやすしぐすくけん比定ひていされていたこと以外いがい詳細しょうさい不明ふめいである。
てつ利府りふ
てつもうけられ、現在げんざいウスリー以東いとう日本海にほんかい沿岸えんがん比定ひていされている。
下部かぶ広州こうしゅう、汾州、かばのしゅううみしゅうよししゅうしゅうの6しゅうもうけられていたが、詳細しょうさい不明ふめいである。
やすとお
えつもうけられ、りつまろうどしゅうきたきょう凱湖ひがし位置いちし、やすししゅう、郿州、慕州、つねしゅうの4しゅうもうけられていた。
やすししゅうであったが、それ以外いがいかんしては不明ふめいである。
ふところとお
えつもうけられ、やすとおきたてつ利府りふみなみ位置いちし、いたるしゅうこししゅうふところしゅう紀州きしゅうとみしゅうよししゅうふくしゅうよこしましゅうしばしゅうの9しゅうもうけられていた。
いたるしゅうふところぶくひょうさんちちすいなどを管轄かんかつしていた。
とみしゅうとみ寿ことぶき新興しんこうゆうとみなどを管轄かんかつしていた。
よししゅう山河さんが黒河くろかわふもとかわなどを管轄かんかつしていた。
独奏どくそうしゅう
独奏どくそうしゅうとは統括とうかつされず、京師けいし直接ちょくせつ上奏じょうそうできるしゅうである。
渤海では郢州、どうしゅう、涑州が独奏どくそうしゅうとして記録きろくのこり、王室おうしつ直属ちょくぞくしていた。
郢州はのべけいはくいわおの2けん統括とうかつしていた。
どうしゅう上京じょうきょうみなみ現在げんざいハルバみね一帯いったい比定ひていされ、花山はなやまけんなどを管轄かんかつしていた。
涑州は現在げんざい吉林きつりん付近ふきん比定ひていされている。

上記じょうきしゅう以外いがいに『りょう』に記録きろくされているあつまりしゅうたてまつあつまりけん管轄かんかつ)、ふもとしゅうふもとぐんふもと雲山くもやまの3けん管轄かんかつ)をくわえることで62しゅうとなり、『しんとうしょ』に記載きさいされる62しゅう合致がっちする。しかし前記ぜんき地方ちほう統治とうち機構きこうは渤海存続そんぞく期間きかんにおいて絶対ぜったいてき制度せいどではなく、『りょう』の地理ちりこころざしに「安寧あんねいぐん」や「りゅうかわぐん」という記録きろくもあり、渤海前期ぜんきにはられなかった「ぐん」が出現しゅつげんしていることからもあきらかである。このほか政治せいじ軍事ぐんじじょう理由りゆうからとうせいなら節度せつど使もうけている。『りょうふとしした節度せつど使来朝らいちょう記録きろくがあり、節度せつど使存在そんざい傍証ぼうしょうといえる。

橋本はしもと増吉ますきちは、「きょうもうけた理由りゆう陰陽いんようぎょうせつや、遊牧ゆうぼく生活せいかつしゃおおい、なつふゆうつりきょふう影響えいきょうもあろうが、さら全国ぜんこくじゅうろくじゅうしゅうけていたことにより、だい領域りょういきなり周到しゅうとうなる地方ちほう行政ぎょうせいけていたことをるにるとおもう」と指摘してきしている[37]

軍事ぐんじ制度せいど[編集へんしゅう]

渤海ではとうせいの16まもるなら左右さゆうもう賁、左右さゆうぐままもる左右さゆうひぐままもるみなみ左右さゆうまもるきた左右さゆうまもるの10まもる中央ちゅうおうもうけられていた。また地方ちほうには兵制へいせい確立かくりつされていたとかんがえられている。しかし渤海後期こうきになると、兵制へいせい次第しだい崩壊ほうかいし、左右さゆうかみさくぐん左右さゆう三軍さんぐん設置せっちされた。これらはとうきた衙六ぐんとの関連かんれんみとめられ、渤海王室おうしつ設置せっちした常備じょうびぐんであった。

とう軍事ぐんじ制度せいど模倣もほうしたものであることは『しんとうしょ』の記載きさいによれば、以下いかとおりである。

其武いんゆう左右さゆうもう賁、くままもるひぐままもるみなみ左右さゆうまもるきた左右さゆうまもるかく大將軍だいしょうぐんいち將軍しょうぐんいちだい抵憲ぞう中國ちゅうごく制度せいど如此。

(渤海の)たけいんには、左右さゆうもう賁(まもるくままもるひぐままもると、みなみひだりまもる)・(みなみみぎまもるきたひだりまもる)・(きたみぎまもる(のじゅうまもる)があり、それぞれ大将軍だいしょうぐんいちにん将軍しょうぐんいちにんかれた。(渤海の官制かんせいの)手本てほんがたいてい中国ちゅうごく制度せいどならったものであるというのは、かこくごとしである[38] — しんとうしょ、渤海でん
ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:しんとうしょ/まき219#渤海

司法しほう制度せいど[編集へんしゅう]

渤海の司法しほう制度せいどかんしては、とうぶんむね時代じだいだいつねふるえ治世ちせいには法律ほうりつ運用うんようめん国内こくない安定あんていしていたことしめ史料しりょうがあり、渤海は法律ほうりつめんでも整備せいびすすんでいたこと傍証ぼうしょうとなっている。律令りつりょう格式かくしき統治とうち方式ほうしき同様どうようとうせい模倣もほうしたものとかんがえられている。

司法しほう機関きかんとしては中正ちゅうせいだいれいだいてら任務にんむあたった。

中正ちゅうせいだい
渤海最高さいこう監察かんさつ機関きかんであり、長官ちょうかんだい中正ちゅうせい官民かんみん監督かんとくほか王室おうしつ内部ないぶ粛清しゅくせいや、れいだいてら重要じゅうよう案件あんけん審議しんぎする権限けんげんゆうしていた。
れい
渤海最高さいこう司法しほう機関きかんであり、隷、勾覆、せききん政令せいれい職責しょくせきとしていた。
だいてら
渤海最高さいこう裁判さいばん機関きかんであり、訴訟そしょう担当たんとうするとともに、れいとともに裁判さいばんいん人選じんせんおこなっていた。

交通こうつう[編集へんしゅう]

陸上りくじょう交通こうつう[編集へんしゅう]

陸上りくじょう交通こうつう上京かみぎょう中心ちゅうしん全国ぜんこくきょうしゅうけん放射状ほうしゃじょう道路どうろ整備せいびされていた。その交通こうつう現在げんざい道路どうろ鉄道てつどう沿ったものとかんがえられている。またこれらの中央ちゅうおうからの道路どうろ以外いがいにも、5きょうきゅうくにあいだにも道路どうろ整備せいびされていた。

道路どうろなかもっと重要じゅうようなのは「営州どう」としょうされるものである。これは渤海からとうかう朝貢ちょうこう使などが使用しようするものであり、営州現在げんざい朝陽あさひ)であり、とう東北とうほく地区ちく支配しはいする要所ようしょとされていた地域ちいきであり、つばめぐんじょう現在げんざいけん)、安東あんどうみやこまもる現在げんざいりょう)、新城しんじょう現在げんざいなでじゅん付近ふきん)、長嶺ながみね現在げんざいかば甸市付近ふきんひそかじょう)を上京じょうきょういたる1200kmじゃくのルートである。

しんへの交通こうつう南京なんきん中心ちゅうしんとする「しんみち」が存在そんざいしていた。『さん国史こくし地理ちりこころざしには「しん泉井いずいぐんよりしがらみ城府じょうふいたる、およさんじゅうきゅうえき」との記載きさいがあり、泉井いずいぐん現在げんざい江原えばらみち元山もとやま)よりしがらみ城府じょうふのり上京かみぎょうまでの道路どうろ整備せいびじょうきょうをうかがいることが出来できる。このほかちぎりとの交通こうつうには扶余起点きてんとする「ちぎりどう」がもうけられていた。

水上みずかみ交通こうつう[編集へんしゅう]

Kraskino Castleの位置(ロシア内)
Kraskino Castle
Kraskino Castle
渤海使出発しゅっぱつしおしゅうじょうクラスキノじょう

渤海の海上かいじょう交通こうつうとうしん日本にっぽんへの通交つうこう利用りようされていた。とうへの交通こうつうは『しんとうしょ地理ちりこころざしのぼりしゅうより渤海への交通こうつう記録きろくされており、のぼりしゅう現在げんざい蓬莱ほうらい)を起点きてんかめ歆島(現在げんざい砣磯とう)をがらすみずうみうみ現在げんざい渤海海峡かいきょう)をわたり、さらがらすこつこう現在げんざいあいかわ)を遡上そじょう西京にしぎょういたる「朝貢ちょうこうどう」としょうされる道程どうていしめされている。

しんへの海上かいじょう交通こうつうであるが、南海なんがいの吐号うら現在げんざいかがみぐすくぐん)から朝鮮半島ちょうせんはんとうひがし沿岸えんがん南下なんかするルートと、西京にしぎょうからかもみどりこう沿って海上かいじょうすすみ、さら朝鮮半島ちょうせんはんとう西にし沿岸えんがん南下なんかするというルートが存在そんざいしていた。しかしおうから距離きょりのある西にしルートはひがしルートほど活発かっぱつ利用りようされることはなかったようである。

日本にっぽんへの海上かいじょう交通こうつうは「日本にっぽんどう」とよばれるものである。起点きてん上京かみぎょう基点きてんとし陸路りくろしおしゅう現在げんざいロシア連邦れんぽうクラスキノ)にいたりそこから海上かいじょうすすむというものである。現地げんちクラスキノのポシェトわんちかくには、おもはつ拠点きょてんしおしゅう城跡じょうせき推定すいていされるクラスキノじょう遺跡いせきがある[39]海路かいろおおまかに3ルートに分類ぶんるいすることが出来できる。そのひとつが「筑紫つくし」であり、しおしゅう出発しゅっぱつしたふね朝鮮半島ちょうせんはんとうひがし沿岸えんがん南下なんかし、対馬海峡つしまかいきょう筑紫つくし大津おおつうら現在げんざい福岡ふくおか)にいたるルートである。当時とうじ日本にっぽん朝廷ちょうてい外交がいこう管轄かんかつする大宰府だざいふ筑前ちくぜん設置せっちしていたため、渤海使たいしこのルートの使用しよう指定していしていたが、距離きょりながくまた難破なんぱ危険きけんおおきいルートであった。だい2のルートが「南海なんかい」としょうされるルートである。南海なんがいの吐号うら起点きてんとし、朝鮮半島ちょうせんはんとうひがし沿岸えんがん南下なんかし、対馬海峡つしまかいきょうわた筑紫つくしいたるルートであるが、776ねん暴風雨ぼうふううにより使節しせつった船団せんだん遭難そうなん、120めい死者ししゃしてからは使用しようされていない。だい3のルートが「きた」であり、しおしゅう出発しゅっぱつしたのち日本海にほんかい一気いっき東南とうなん渡海とかいし、能登のと加賀かが越前えちぜん佐渡さわたりいたるルートである。当初とうしょ航海こうかい知識ちしき欠如けつじょから海難かいなん事故じこ発生はっせいしたが、その晩秋ばんしゅうから初冬しょとうにかけて大陸たいりくからながれる西北せいほくふう利用りようし、翌年よくねんなつ東南とうなんふう利用りようしての航海こうかいじゅつ確立かくりつしたことから海難かいなん事故じこ大幅おおはば減少げんしょうし、また航海こうかい日数にっすう短縮たんしゅく実現じつげんした。

国際こくさい関係かんけい[編集へんしゅう]

とうとの関係かんけい[編集へんしゅう]

だい祚栄ふるえこく建国けんこくした当初とうしょは、武則たけのりてん夷狄いてきから収奪しゅうだつする方策ほうさくっていたためとう対立たいりつしていた。そのため当初とうしょ突厥しんとのつうこのみによるとう牽制けんせい外交がいこう方針ほうしん基本きほんにしていたが、とうちゅうむね即位そくいすると、ちょうこう派遣はけん・招慰し両国りょうこく関係かんけい改善かいぜん転機てんきをもたらした。だい祚栄もこの招慰をれ、王子おうじとうにゅうさむらいさせ、とう従属じゅうぞくする政治せいじてき地位ちい確認かくにんした。713ねんにはとうだい祚栄を「ひだり驍衛員外いんがい大将軍だいしょうぐん渤海ぐんおう」にふうじ、同時どうじに渤海は羈縻体制たいせいはいる、そのは「渤海国王こくおう」と「渤海ぐんおう」とさつふうかんしょう変化へんかはあったが、原則げんそくとしてとう滅亡めつぼうまでこの関係かんけい維持いじされた。

招慰をけた渤海はしつ制度せいどもとづき、子弟していとうつかわしている。だい祚栄の嫡子ちゃくしであった大門おおもんげい派遣はけんされたのがはつであるが、渤海からのしつたんなる人質ひとじちとしてではなく、皇帝こうてい謁見えっけんたまものえんけ、ときには皇太子こうたいし加冠かかんや謁陵、時節じせつあさなどに列席れっせきするなどの待遇たいぐうけ、またとうにて客死かくしした場合ばあい位階いかい追贈ついぞう物品ぶっぴん下賜かしけるなどの良好りょうこう待遇たいぐうけている。これは渤海との関係かんけい良好りょうこうであったためとかんがえられる。

この渤海はとうはんぞくとして定期ていきてきかたぶつ献上けんじょう朝貢ちょうこうおこなっていた。朝貢ちょうこうさいには「みつぎ」を献上けんじょうすると同時どうじ国内こくない状況じょうきょう奏上そうじょうしていた。このほか元旦がんたんかく節句せっくに「正使せいし」とけんじれい使節しせつ派遣はけんした。これらの使節しせつはほぼ毎年まいとし派遣はけん記録きろくのこされており、また1ねんに2~3使節しせつ派遣はけんおこなっていることがられており、渤海は自治じち政権せいけん確立かくりつすると同時どうじに、羈縻体制たいせいでの外交がいこう関係かんけい継続けいぞくしていた。

渤海は、から文化ぶんか移入いにゅうつとめ、遣唐使けんとうし派遣はけんするとともに留学生りゅうがくせいおくり、とう学問がくもんまなばせており、国内こくないでもとう官制かんせいしたさんかんろくしょう組織そしきつくげ、律令りつりょう体制たいせい導入どうにゅうしている。一方いっぽうとうとはことなる独自どくじ年号ねんごう使用しようするなど、とう一定いってい距離きょり側面そくめんられる[40]:1

なおから滅亡めつぼうは、渤海は中原なかはら王朝おうちょうとの外交がいこう関係かんけい継続けいぞくしている。

突厥との関係かんけい[編集へんしゅう]

698ねんの渤海(当時とうじは「しん」)建国けんこく当初とうしょひがし突厥躍進やくしんたっており、営州反乱はんらんのちひがし突厥だいあせこくだい2だいおもねだますすとう支援しえんちぎり攻撃こうげきするなど、東北とうほくアジアにける軍事ぐんじてき優勢ゆうせい地位ちいめていた。建国けんこくあいだもない不安定ふあんていな渤海は、とうによる侵攻しんこうそなえ、使者ししゃひがし突厥に派遣はけんしその支持しじ獲得かくとくしている。その代償だいしょうとして渤海はひがし突厥の属国ぞっこくとしての地位ちい甘受かんじゅすることになり、ひがし突厥から派遣はけんされる吐屯(トゥドゥン)により渤海は統制とうせいみつぎ権限けんげんあたえられることになった。

そのとうとの関係かんけい改善かいぜんされ、とうだい祚栄さつふうするにいたるとひがし突厥との関係かんけい疎遠そえんとなったが、だい武芸ぶげい即位そくいとう対立たいりつしたさいひがし突厥の支援しえんられなかったこと関係かんけい悪化あっか確定かくていてきとなり、とうとの和解わかい同時どうじひがし突厥と断交だんこうしている。

734ねんひがし突厥は渤海に使者ししゃ派遣はけんし、ちぎり挟撃きょうげき打診だしんされるが、渤海はこの要求ようきゅう拒否きょひさら使者ししゃ抑留よくりゅうとう移送いそう処理しょり委任いにんするという行動こうどうひがし突厥との関係かんけい悪化あっか決定的けっていてきなものとなった。そのひがし突厥は内紛ないふんとうとの闘争とうそうにより急速きゅうそく勢力せいりょく衰退すいたいさせ、渤海との紛争ふんそうこす余力よりょくくなり、745ねんかいによりひがし突厥は滅亡めつぼうした。

ちぎりとの関係かんけい[編集へんしゅう]

渤海建国けんこくたっては営州反乱はんらんちぎりはんから活動かつどうにより、だい祚栄独立どくりつする契機けいきしょうじたことから、両者りょうしゃには特別とくべつ関係かんけい存在そんざいしていたと推測すいそくされる。720ねんとうが渤海にたいちぎりおよへの攻撃こうげき打診だしんしたさいに、とうさつふう体制たいせいの渤海は出兵しゅっぺい義務ぎむゆうしていたにもかかわらず、これを拒否きょひしていることからも推測すいそくされるものである。

しかしとうとの関係かんけい改善かいぜんされるに反比例はんぴれいし、渤海とちぎり関係かんけい冷却れいきゃく一途いっと辿たどった。それは渤海後期こうきに扶余一帯いったいちぎり侵入しんにゅうふせぐべく常備じょうびぐん駐留ちゅうりゅうさせた記録きろくからもうかがえるものである。当然とうぜん渤海はちぎりじん反逆はんぎゃくしゃ亡命ぼうめいれるようになり、ちぎり王室おうしつの轄底が渤海へ亡命ぼうめいした記録きろくなどもある。それでも『しんとうしょ』で渤海の風俗ふうぞくを「高麗こうらいちぎりりゃくひとし」と表現ひょうげんされるように文化ぶんかてき親密しんみつさは相当そうとうなものであり、両者りょうしゃ経済けいざいてき文化ぶんかてき交流こうりゅう持続じぞくされ、それはちぎりどうしょうされる重要じゅうよう対外たいがい交通こうつう地位ちいめていた。

渤海まつねん、渤海の勢力せいりょく衰退すいたいし、926ねんにはちぎりじんによる国家こっかりょうによりほろぼされ、そのにはひがしこく建国けんこくされた。

しんとの関係かんけい[編集へんしゅう]

最大さいだい領域りょういき時代じだいの渤海こくしん

698ねんふるえこく建国けんこくされたさいしんはかつての百済くだら全土ぜんどおよ高句麗こうくり一部いちぶ領有りょうゆうするとともに、北進ほくしん政策せいさく採用さいようして渤海の安定あんていおびやかすようになった。またその渤海はとう対立たいりつしており、とう脅威きょういおさえ、同時どうじしん北進ほくしん牽制けんせいするためしん接近せっきんする政策せいさく採用さいようした。当初とうしょしん藩屏はんぺいしょうし、しんひん官職かんしょくであるだいおもねを授位されている。しかしその渤海ととう関係かんけい好転こうてんするにしたがい、渤海としん関係かんけい変質へんしつし、だい武芸ぶげい時代じだいになると高句麗こうくり回収かいしゅう目標もくひょうとなり両国りょうこく関係かんけい緊張きんちょう、それは721ねんしん北辺ほくへん長城ちょうじょう築城ちくじょうしたことにあらわれている。

渤海ととうが「のぼりしゅうやく」で対立たいりつしたさいしんとう出兵しゅっぺいもとめにおうじ渤海を攻撃こうげきしたが、悪天候あくてんこうはばまれしんぐんだい損害そんがいこうむっている。この出来事できごとしん北進ほくしん政策せいさく抑制よくせいするとともに、とうしん対立たいりつ政治せいじてき解消かいしょうさせる効果こうかをももたらした。しんはこの功績こうせきによりとうからやすしうみ大使たいし地位ちいあたえられ、浿こう以南いなん高句麗こうくり統治とうち正式せいしき承認しょうにんさせることに成功せいこうしたが、同時どうじに渤海を牽制けんせいする役割やくわりをもになうこととなり、渤海としん厳然げんぜん対立たいりつすることとなった。

しんとの対立たいりつという状況じょうきょうさいし、渤海は日本にっぽんつうこのみすることでしん背後はいごから牽制けんせいすることを画策かくさくした。安史やすしらんさいし、渤海は日本にっぽん共同きょうどうしてしん挟撃きょうげき計画けいかくしたが、これは藤原仲麻呂ふじわらのなかまろらんにより計画けいかく頓挫とんざしたことで、軍事ぐんじてき解決かいけつ姿勢しせい放棄ほうきし、以降いこう政治せいじてき解決かいけつ模索もさくするようになる。しんがわから790ねん一吉かずよし(7ひん)のはくぎょを、812ねんきゅう(9ひん)のたかしただしを渤海に派遣はけんしていることは、政治せいじてき安定あんてい模索もさくした結果けっかであり、しんみち発展はってん創出そうしゅつすることになる。

この良好りょうこう関係かんけいも、大仁おおひとしげる即位そくいして渤海の領土りょうど拡張かくちょう目指めざすようになると、ふたた両国りょうこく均衡きんこう崩壊ほうかいすることになる。826ねんにはしんけん徳王とくおう浿こうに300さと長城ちょうじょう築城ちくじょうしたことからも情勢じょうせい変化へんかることができる。

つぎ両国りょうこく関係かんけい好転こうてんするのは10世紀せいきちぎり勃興ぼっこうという外的がいてき要因よういんによる。渤海はちぎり対抗たいこうすべくしんとの和解わかいはかる。しかし当時とうじしん国勢こくせい衰退すいたいし、すでこうさんこく時代じだいはいっており、軍事ぐんじてきに渤海を支援しえんちぎり対抗たいこうするちからく、そればかりか渤海の苦境くきょうじょう浿こう以北いほくへの侵攻しんこうおこなった。しんいちめんで渤海に同調どうちょうするそぶりをせ、反面はんめんりょう使者ししゃおくかたぶつけんじるというめんせい外交がいこう展開てんかいした。りょうおうゆるがせあせじょう包囲ほういしたさいには、しんは渤海に出兵しゅっぺいし、さらにこの軍功ぐんこうにより耶律阿保あぼにより褒賞ほうしょうけている。

しんと渤海は没交渉ぼっこうしょうであり、史料しりょうじょうではぜん時代じだいつうじてしんから渤海へ2かい使節しせつ派遣はけん確認かくにんされるだけであるが、韓国かんこくでは記録きろく逸失いっしつしたにぎないという主張しゅちょうもあるが、しげるは「そうした解釈かいしゃく余地よちはほとんどない」として以下いかの2つの理由りゆうげている

  1. しんとうしょまき〇・東夷あずまえびすでんしん、『太平たいへいこうまきよんはちいちしんじょう長人ながと記事きじ渤海 (くに)#しんじんの渤海認識にんしき)は、8世紀せいきから9世紀せいきしん・渤海国境こっきょう付近ふきん政策せいさくしんじんの渤海じんたいするイメージ象徴しょうちょうしており、渤海じんたいする異形いぎょうのイメージとしんが渤海国境こっきょう付近ふきん強大きょうだい軍事ぐんじ施設しせつである西北せいほくの浿江鎮典、東北とうほく関門かんもん設置せっちしたことから、しんと渤海に頻繁ひんぱん交渉こうしょう推定すいていすることはできない[41]
  2. 渤海衰退すいたいからしんと渤海の国境こっきょう付近ふきんで靺鞨ぞく出没しゅつぼつ交易こうえきもとめた歴史れきしがあり、886ねんに渤海所属しょぞくの2つの部族ぶぞくしんきた鎮にたいして、直接ちょくせつ接触せっしょくけながら、文字もじしるした木片もくへんって通交つうこうもう事件じけんがあり[注釈ちゅうしゃく 2]日常にちじょうてき交渉こうしょうがあるならば、このような形式けいしきもうず、しんと渤海の没交渉ぼっこうしょう反映はんえいしており[43]敵対てきたいするしん国境こっきょう付近ふきんの靺鞨ぞく管理かんり統制とうせいすることは渤海の国家こっか存立そんりつかか事案じあんであり、ぞくの靺鞨ぞく)は古来こらいより魚類ぎょるい毛皮けがわはる中国ちゅうごく内陸ないりくまで、もたらす遠隔えんかく交易こうえき生業せいぎょうとする狩猟しゅりょう漁労ぎょろうみんであり、渤海の対外たいがい交易こうえきは、これらを生業せいぎょうにする靺鞨ぞく交易こうえき国家こっかてき編成へんせいしたのであり、靺鞨ぞく包摂ほうせつ統合とうごうした渤海王権おうけんしん隣接りんせつする靺鞨ぞく地域ちいきとの交易こうえき管理かんり統制とうせいすることは政治せいじてき安定あんていとって必須ひっすであり、したがって、渤海滅亡めつぼう高麗こうらいきゅう渤海じん過剰かじょう交渉こうしょうきむ建国けんこくまで展開てんかいされるなど渤海衰退すいたいからのしんと渤海国境こっきょう付近ふきん交渉こうしょう活発かっぱつは、渤海の衰退すいたい滅亡めつぼうによってもたらされた現象げんしょうであることが推察すいさつされる[43]

渤海の存続そんぞく期間きかん全体ぜんたい俯瞰ふかんするに、渤海としん両国りょうこく対立たいりつ歴史れきしとらえること可能かのうである。

しんじんの渤海への認識にんしき[編集へんしゅう]

田中たなか俊明としあきしげる古畑ふるはたとおるによると、8世紀せいきとう記録きろくには、しんじんしん東北とうほくさかい住民じゅうみんである渤海じんのことを、黒毛くろげおおい、ひとらう長人ながと、ととらえていたことをうかがわせる記述きじゅつがあり、この異人いじんは渤海・しん両国りょうこく没交渉ぼっこうしょうからくる恐怖きょうふかんしめし、それだけの異域いいきであったことの証左しょうさであり、しんおよび渤海の辺境へんきょう地帯ちたい地域ちいき住民じゅうみんたいして、これだけの異域いいきかんがみられることから、渤海・しん両国りょうこく乖離かいりした意識いしき明確めいかくであり、渤海・しん同族どうぞく意識いしきはうかがいようもないと指摘してきしている[44]長人ながと記事きじとは、『しんとうしょまき〇・東夷あずまえびすでんしん、『太平たいへいこうまきよんはちいちしんじょう以下いか記事きじである[45]

しんべんかん苗裔びょうえい也。きょかんらくなみよこ千里せんりたてさん千里せんりひがしこばめ長人ながと東南とうなん日本にっぽん西にし百濟くだらみなみひんかいきただかうらら。(中略ちゅうりゃく長人ながとしゃ人類じんるいちょうさんたけのこきばかぎつめ黑毛くろげくつがえ火食かしょく、噬禽じゅうある搏人以食、とく婦人ふじん、以治衣服いふく。其國連山れんざんすうじゅうゆうかいかた以鐵闔、ごう關門かんもんしんつねたむろいしゆみすうせんもり

しん中略ちゅうりゃくひがし長人ながとこばめつ。(中略ちゅうりゃく長人ながとなるものは、ひとるいにして長三ちょうぞうたけのこきばかぎつめ黒毛くろげもておおう。火食かしょくせず、禽獣きんじゅうを噬う。あるいはひとを搏えもっらう。婦人ふじんて、もっ衣服いふくおさめしむ。くに連山れんざんすうじゅうかいあり。かたむるにてつ闔をもってし、関門かんもんごうす。しんつねいしゆみすうせんたむろこれまも[46] — しんとうしょまき〇・東夷あずまえびすでんしん
ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:しんとうしょ/まき220#しん
しんこく東南とうなんあずか日本にっぽん鄰、ひがしあずか長人ながとこくせっちょう人身じんしんさんたけのこきばかぎつめ火食かしょく、逐禽じゅう而食ときまたしょくじんはだか其軀、黑毛くろげくつがえこれ。其境げん連山れんざんすう千里せんり中有ちゅうう山峽やまかいかた以鐵もんいいてつせきつね使つかいゆみいしゆみすうせんもりゆかり

しんこく中略ちゅうりゃくひがしきた)は長人ながとこくせっす。長人ながとさんたけのこきばかぎつめ火食かしょくせず。禽獣きんじゅういてこれらう、ときまたひとらう。の軀をはだかにし、黒毛くろげもてこれおおう。其(しん)のさかいげん連山れんざんすうせんじゅうさともってす。なかごろ山峡やまかいり、かたむるにてつもんもってし、これてつせきう。つねゆみいしゆみすうせんをしてこれまもらしむ、りてぎず[41] — 太平たいへいこうまきよんはちいちしんじょう
ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:太平たいへいこう/まきだい481#しん

しげるは、「関門かんもんあるいは「てつ関城せきじょう」はしん東北とうほくいずみぐん位置いちしており、そこには「すみこう関門かんもん乃至ないしは「てつ関城せきじょう」という軍事ぐんじ施設しせつがあり、そこに隣接りんせつするひがし集団しゅうだんは渤海領域りょういきみん以外いがいにはありず、長人ながといずみぐん以北いほくの渤海じんとみて間違まちがいなく、長人ながとしん辺境へんきょう軍事ぐんじてき緊張きんちょう密接みっせつ関係かんけいしており、長人ながと異形いぎょうしょくじん描写びょうしゃからみて、長人ながと恐怖きょうふ対象たいしょうとなっており、長人ながと人間にんげんとはことなる身体しんたいてき特徴とくちょうしょくじん描写びょうしゃ人間にんげん女性じょせいらえて衣服いふくつくらせるという記事きじ異形いぎょう異類いるい伝承でんしょうであり、一般いっぱんてき民族みんぞくは、人間にんげんことなる身体しんたいてき特徴とくちょうをもつ異形いぎょうとされ、敵対てきたいしゃあるいはみずからの理解りかいえたコスモロジーひとは、人間にんげんでなく動物どうぶつあるいは妖怪ようかいるいであることが指摘してきされ[47]18世紀せいきの『里志さとし』は朝鮮半島ちょうせんはんとう東北とうほくについて以下いかしるしており、朝鮮半島ちょうせんはんとう東北とうほくきびしい自然しぜん環境かんきょうは、飲食いんしょく衣類いるい欠乏けつぼうおよんでおり人々ひとびといぬ毛皮けがわをまとっており、長人ながと記事きじの「黒毛くろげもておおう」や「婦人ふじんて、もっ衣服いふくおさめしむ」内容ないようは、18世紀せいきいたっても衣服いふくるい欠乏けつぼうしていた朝鮮半島ちょうせんはんとう東北とうほく実情じつじょう仮託かたくして創作そうさくされたとみなすこともでき、長人ながとは、朝鮮半島ちょうせんはんとう東北とうほく人々ひとびと習俗しゅうぞくざし、日常にちじょうてき没交渉ぼっこうしょう軍事ぐんじてき緊張きんちょう加味かみされて醸成じょうせいされたしんじん幻影げんえい所産しょさんであり、「しんじんにとって国境こっきょうせっする渤海じんとは、異形いぎょうであり、恐怖きょうふ対象たいしょう」「渤海じん恐怖きょうふ対象たいしょうとするにいたった両者りょうしゃ長期間ちょうきかんにわたる没交渉ぼっこうしょう軍事ぐんじてき緊張きんちょうが、こうした説話せつわ醸成じょうせいふかくかかわっていた」と指摘してきしている[48]

以北いほく山川やまかわ危険きけんにして、風俗ふうぞく勁悍なり、さむせ、こくおもんみあわむぎのみ、うるちいねすくなく、綿めんし、土人どじんいぬがわもっふゆふせぐ、せい飢寒きかんこたえることいちおんなしんごとし、やまてんまいりにょうく、みんてんさんもっみなみしょう綿布めんぷえ、ほうころもはかまんとす、しかるにとみあつざるしゃあたわざる也[48] — 里志さとし

たかし珩(朝鮮ちょうせん: 이효형釜山ぷさん大学だいがく)は、「しげるは『しんとうしょ長人ながと傳承でんしょう記事きじ分析ぶんせきして、渤海としんあいだ交渉こうしょうがなかったことをあきらかにした」とひょうしている[49]

かいとの関係かんけい[編集へんしゅう]

かい(ウイグル)はてつしょひとつであり、バイカル南方なんぽう遊牧ゆうぼく中心ちゅうしん生活せいかつしていた。8世紀せいきなかばにひがし突厥ほろぼし、またとう支援しえんして安史やすしらん平定へいていするなどの軍事ぐんじ活動かつどうおこなうと同時どうじに、経済けいざい活動かつどう活発かっぱつおこなわれ、渤海とは経済けいざい文化ぶんか方面ほうめんでの交流こうりゅうおこなわれていた。かい商人しょうにん足跡あしあと上京かみぎょう以外いがいにも、りつまろうどのような辺境へんきょう地域ちいきでも遺物いぶつからみとめられ、ウスリークじょうからは突厥文字もじ刻字こくじされたかいひと遺跡いせきが、沿海州えんかいしゅうチャピゴウかわきしの渤海寺院じいんあとから出土しゅつどしたけいきょうすえぱいからもかいひとの渤海にける活動かつどうしめしている。しかしその文化ぶんか経済けいざい交流こうりゅう840ねんかいかい)の政権せいけん崩壊ほうかいにより消滅しょうめつした。

黒水くろみず靺鞨との関係かんけい[編集へんしゅう]

渤海建国けんこく当初とうしょ黒水くろみず靺鞨しょ独立どくりつした勢力せいりょくゆうしており、またとうとの対立たいりつと、周辺しゅうへんもろたいする支配しはい強化きょうかすすめる渤海は黒水くろみず靺鞨にたい懐柔かいじゅうさく採用さいようした。当初とうしょ突厥支配しはいけていた黒水くろみず靺鞨であるが、次第しだいに突厥の支配しはいだっとう帰属きぞくする路線ろせんへの転換てんかんはかった。722ねん首長しゅちょう倪属朝見ちょうけんし、勃利しゅう刺史ししさつふうされ黒水くろみず設置せっちするにいたると、とう黒水くろみず靺鞨による渤海挟撃きょうげき危惧きぐしただい武芸ぶげい黒水くろみず靺鞨に出兵しゅっぺいしている。

だい欽茂即位そくいするととうとの大幅おおはば関係かんけい改善かいぜんられ、必然ひつぜんてき黒水くろみず靺鞨との緊張きんちょう状態じょうたい緩和かんわるにいたった。大仁おおひとしげる時代じだいになると、渤海によりうみきたしょ討伐とうばつおこなわれ、黒水くろみず靺鞨は渤海に服属ふくぞくし、独自どくじとう朝見ちょうけんおこなうことはなくなったが、渤海の統治とうちたいする反乱はんらん発生はっせいし、黒水くろみず靺鞨中心ちゅうしんに渤海の行政ぎょうせい機構きこう設置せっちし、直接ちょくせつ統治とうちおこなこと最後さいごまで実現じつげんしなかった。

渤海末期まっきの9世紀せいきになると、黒水くろみず靺鞨はしんとの連盟れんめい模索もさくするなど自立じりつみちさぐるようになり、また渤海の衰退すいたいにより黒水くろみず靺鞨にたいする統治とうち弱体じゃくたいしたことで、最終さいしゅうてきには渤海の従属じゅうぞくてき地位ちいだっし、924ねんにはこうとう使節しせつおくるようになった。

日本にっぽんとの関係かんけい[編集へんしゅう]

だい武芸ぶげいかみひさし4ねん727ねん)に日本にっぽん使者ししゃ派遣はけんしてきたことから、日本にっぽんと渤海との交渉こうしょうはじまる。渤海にとってこの交渉こうしょうは、日本にっぽんむすびつくことによって、対立たいりつしていた黒水くろみず靺鞨しん軍事ぐんじてき牽制けんせいすることをねらったものであり[40]:1とう対抗たいこうするため奈良なら時代じだいから日本にっぽん接触せっしょくした。とうから独立どくりつした政権せいけん確立かくりつした渤海であるが、だい武芸ぶげい時代じだいにはとう対立たいりつしていた。その当時とうじ周辺しゅうへん情勢じょうせい黒水くろみずとうきわめて親密しんみつ関係かんけいにあり、しんもまたとう急速きゅうそく接近せっきんしており渤海は国際こくさいてき孤立こりつふかめていた。この状況じょうきょうだい武芸ぶげいしん対立たいりつしていた日本にっぽん存在そんざい注目ちゅうもくした。727ねん、渤海はこう仁義じんぎ[50]日本にっぽん派遣はけん日本にっぽんとのつうこのみ企画きかくする。このはじめての渤海使は、大使たいしこう仁義じんぎらは往路おうろ死亡しぼうのこったこうひとしとくら8めい出羽いずはこくから上京じょうきょうし、12月に聖武天皇しょうむてんのう拝謁はいえつした。このとし引田ひきたむし麻呂まろら62めいおく渤海きゃく使として派遣はけんするなど軍事ぐんじ同盟どうめいてき交流こうりゅう形成けいせいされた。しかし渤海ととう関係かんけい改善かいぜん実現じつげんすると、日本にっぽんとの関係かんけい軍事ぐんじてき性格せいかくから文化ぶんか交流こうりゅうてき商業しょうぎょうてき性格せいかくびるようになり、その交流こうりゅう926ねん渤海滅亡めつぼうまでの200年間ねんかん継続けいぞくした。

日本海にほんかいがわの、金沢かなざわ敦賀つるが秋田あきたじょうなどからは渤海との交流こうりゅうしめ遺物いぶつ発掘はっくつされている。

日本にっぽん朝廷ちょうていは、渤海が「自身じしん高句麗こうくり後身こうしんである」と名乗なのったことから、かつて滅亡めつぼう前後ぜんこうひくくして日本にっぽん使つかいしてきた高句麗こうくりとの関係かんけい想起そうきし、結果けっか、渤海を自分じぶんより下位かい朝貢ちょうこうこくとみなした[40]:1日本にっぽんと渤海の関係かんけいは、表面ひょうめんてきには日本にっぽん上位じょうい・渤海が下位かいであり、渤海は朝貢ちょうこうこく立場たちばあまんじてけていた[40]:5。ただし、時代じだいによってその態度たいど微妙びみょうことなっており、たからひさしのべれき年間ねんかんには日本にっぽんがわ国書こくしょから高句麗こうくりとのつながりをしめ文言もんごんえて、わりに自尊じそんてき表現ひょうげん出現しゅつげんし、唐風とうふう文化ぶんかたいする関心かんしんたかかったひろしひとし年間ねんかんには渤海が唐風とうふう文化ぶんか積極せっきょくてき摂取せっしゅつとめていることを評価ひょうかし、日本にっぽん天皇てんのうが渤海のおうしたしみをいていることをしめすものになっている[51]。また、初期しょきころは渤海使帰国きこくわせて渤海使かえし使として派遣はけんするのが恒例こうれいであったが、宝亀ほうき年間ねんかん以降いこうはその原則げんそくくずれてきたこともあり、渤海使国書こくしょとも中台ちゅうたいしょう牒を持参じさんし、日本にっぽんがわ渤海使国書こくしょ太政官だじょうかんたせるようになった[52]

渤海は日本にっぽんたいして朝貢ちょうこうをしたが、当時とうじ日本にっぽん国力こくりょくでは、毎年まいとし朝貢ちょうこうたいしてかいたまものおこな能力のうりょくく、てんちょう元年がんねん(824ねん)に、渤海にたいして使者ししゃ派遣はけん間隔かんかくを12ねんに1にするという制限せいげんもうけられた。日本海にほんかい沿岸えんがん諸国しょこくにこの制限せいげん通達つうたつした文書ぶんしょには、「しょうだいごとへること、うえしたまてすること、年期ねんきれいすうかぎかるべからず」と、大国たいこく小国しょうこくとの交渉こうしょう制限せいげんをつけるのは当然とうぜんのことだと、かなりこうあつてきべている[40]:4。しかし、渤海使はこの12ねんに1という約束やくそく平気へいきやぶって、すうねんおきに使者ししゃ派遣はけんしており、その目的もくてき朝廷ちょうていとの国交こっこうにあるのではなく、到着とうちゃく日本海にほんかい沿岸えんがんでおこなうみつ貿易ぼうえき利益りえきにあったとみられる[40]:4。渤海は年期ねんき違反いはんさいして、「日本にっぽんした気持きもちがつよすぎて、派遣はけん間隔かんかくいてしまうことにえられない」「かつては制限せいげん使者ししゃ派遣はけんみとめられていた」という2てんつよ主張しゅちょうし、日本にっぽんとしても、自分じぶんしたってやってくるとっている渤海を無下むげにもできず、「大国たいこくのトップである天皇てんのうは、渤海にあわれみをしめすべき」というかんがえにもとづき、渤海の無理むり主張しゅちょうれることも度々たびたびあった[40]:5

咸和じゅういちねんうるうきゅうがつじゅうにちづけ太政官だじょうかんあて中台ちゅうたいしょう牒(渤海の三省みつよしの1つである中台ちゅうたいしょう)のうつしによれば、渤海使は105にん人員じんいん構成こうせいされており、105にん内訳うちわけは、使つかいあたま1にんせいどうしょうひだりまことぶくのべ)、嗣使1にんおうたからあきら)、判官ほうがん2にん高文たかふみ暄、がらすこうまき)、ろくごと3にんこう文宣ふみのぶこう平信へいしんあんひろし)、訳語やくご2にんぶしけんこうたかじゅん)、史生ふみお2人ふたりおうろくのぼりちょうしん)、天文てんもんせい1にんすすむのぼりどう)、だい首領しゅりょう65にんこずえこう28にんである。渤海使圧倒的あっとうてき多数たすうめる首領しゅりょうとは、渤海の在地ざいち社会しゃかい支配しはいしゃとして君臨くんりんする靺鞨しょ部族ぶぞく首長しゅちょうであり、渤海王権おうけんは靺鞨しょ部族ぶぞく首長しゅちょう包摂ほうせつ国家こっかてきさい編成へんせいすることにより、渤海の国家こっか集権しゅうけんてき支配しはい可能かのうとし、渤海は靺鞨しょ部族ぶぞく首長しゅちょう制度せいどてき組織そしき日本にっぽん外交がいこう恒常こうじょうてき参画さんかくさせた[53]。『延喜えんぎしき大蔵省おおくらしょうたまものしげるきゃくれいじょう規定きていされる渤海使構成こうせいいんかいたまものひんは、渤海おうきぬ30疋、30疋、いと300絇、綿めん300たむろ)、大使たいしきぬ10疋、絁20疋、いと50絇、綿めん100たむろ)、副使ふくし(絁20疋、いと30絇、綿めんかく70たむろ)、判官ほうがん(絁各15疋、いとかく20絇、綿めんかく50たむろ)、ろくごと(絁各10疋、綿めんかく30たむろ)、訳語やくご(絁各5疋、綿めんかく20たむろ)、史生ふみお(絁各5疋、綿めんかく20たむろ)、首領しゅりょう(絁各5疋、綿めんかく20たむろ)であり、首領しゅりょうたちは渤海使として来日らいにちするとかいたまものひんあたえられ、分量ぶんりょうは渤海にたいするかいたまもの総量そうりょう半分はんぶんめた[53]

しんとうしょ』渤海でんは「だいこよみちゅうじゅうらい、以日本にっぽんまいおんなじゅう一獻いっこんしょあさ」としるし、とうだいこよみ年間ねんかん(766ねん~779ねん)に渤海こく日本にっぽんまいおんな11にんとう献上けんじょうしたことをつたえている。

日本にっぽんは渤海との交渉こうしょう関連かんれんする記録きろく非常ひじょうおおく、『ぞく日本にっぽん』『日本にっぽん』『ぞく日本にっぽん』『日本にっぽん文徳ふみのり天皇てんのう実録じつろく』『日本にっぽんさんだい実録じつろく』などの歴史れきししょは渤海が存在そんざいしていたどう時代じだい史料しりょうであり、さらに木簡もっかん金石かねいしあやなどが相当そうとうすうあり、渤海研究けんきゅう重要じゅうよういち史料しりょうおお保有ほゆうしている。渤海と日本にっぽんとの外交がいこう関係かんけいは渤海が34かい(35かいとするせつもある)、日本にっぽんが13かい使者ししゃ派遣はけんしている[54]。『さん国史こくし』には、やまとのぞけば、しん歴史れきしなかで、日本にっぽんとの公式こうしき交渉こうしょうは10かいしかのこしておらず、これだけでも渤海と日本にっぽん緊密きんみつせい証明しょうめいされてあまりある[55]

経済けいざい[編集へんしゅう]

農業のうぎょう[編集へんしゅう]

農業のうぎょうでは考古学こうこがく成果せいかより渤海全域ぜんいきでの鉄器てっき使用しようぎゅうこう利用りよう確認かくにんされている。これらののう器具きぐ利用りようし、渤海では五穀ごこくしょうされるあさきび(もちきび)、きび(きび)、むぎまめひろ栽培さいばいされていた。これ以外いがいゆるがせ汗水あせみず流域りゅういきの荏(えごま)、じょういねまるらくゆうなしなど各地かくち特徴とくちょうある作物さくもつ栽培さいばいされていたことがられている。また前後ぜんご時代じだい記録きろくるとあおいさい栽培さいばいや、渤海の使節しせつ来日らいにちしたさい渤海じんこのだいにら用意よういした記録きろくからも、様々さまざま野菜やさい栽培さいばいされていたことをうかがこと出来できる。また、渤海のった時代じだい有数ゆうすうまんしゅう南部なんぶ温暖おんだんだった時期じきであり、このこと農業のうぎょう寄与きよした。

牧畜ぼくちくぎょう[編集へんしゅう]

渤海ではうま飼育しいく重視じゅうしされていた。これは軍事ぐんじてき需要じゅようほかえき交通こうつう貿易ぼうえき需要じゅようからもかなりのかず生産せいさんされていたことがられている。またぶたうしひつじなどの飼育しいくさかんであり、それらは渤海じん墳墓ふんぼなかからそれらのほね発掘はっくつされることからも十分じゅうぶんうかがえる。

漁業ぎょぎょう[編集へんしゅう]

渤海の漁業ぎょぎょう相当そうとう技術ぎじゅつ発展はってんげており、とう奉献ほうけんしたかたぶつなかに「くじらぎょ睛」としょうされるくじら眼球がんきゅうふくまれていたことから規模きぼおおきい捕鯨ほげいまでを可能かのうとする段階だんかいたっしていた。また各地かくち特産とくさんひんとして沱湖(現在げんざいきょう凱湖)の(フナ)や、ゆるがせあせうみ現在げんざいかがみとまり)の「みずうみ」などが記録きろくのこっており、このぶんあきらぎょこい一種いっしゅ)、ひがいぎょチョウザメ)、さけさけ)、むらぎょぼらぎょなどが記録きろくのこっている。

冶金やきんぎょう[編集へんしゅう]

渤海のった地域ちいきてつ豊富ほうふ産出さんしゅつする地域ちいきであり、全域ぜんいきから多数たすう鉄製てつせい農具のうぐ出土しゅつどしており、かなり冶金やきん手工業しゅこうぎょう発展はってんしていたとかんがえられる。

狩猟しゅりょうぎょう[編集へんしゅう]

とうへの朝貢ちょうこう記録きろくにはたか進貢しんこうされており、とくうみひがしあお鷹狩たかが珍品ちんぴんとされ、貴重きちょうみつぎしゃとしてとう献上けんじょうされていた。ほかにも太白山たいはくさん現在げんざいちょう白山はくさん)のうさぎ扶余鹿しかなどは特産とくさんひんとして『しんとうしょ』に記録きろくされている。

日本にっぽんとの関係かんけい重要じゅうよう地位ちいをしめたものがてんである。地理ちりてき農耕のうこうむずかしく、渤海おうから天皇てんのうたいしては、トラヒグマヒョウ毛皮けがわ人参にんじん朝鮮人参ちょうせんにんじん)・みつおくられ、日本にっぽん渤海使には、特別とくべつ毎日まいにちシカとう準備じゅんびされており、肉食にくしょくこのんでいることから、渤海が狩猟しゅりょう採集さいしゅう基盤きばんとした社会しゃかいであったことがうかがえる[40]:1

紡績ぼうせきぎょう[編集へんしゅう]

手工業しゅこうぎょう[編集へんしゅう]

E.I. ゲルマン(英語えいご: E. I. Gelmanロシア: Е. И. Гельман、ロシア科学かがくアカデミー極東きょくとう支部しぶ歴史れきし考古学こうこがく民俗みんぞくがく研究所けんきゅうじょ)は、渤海のほどこせ釉土陶磁器とうじき起源きげんとうにあるとしながらも、から三彩さんさいほどこせ釉土とはことなる特色とくしょくがあるといい、渤海に三彩さんさい定着ていちゃくすることができたのは、安史やすしらんに、中国ちゅうごく三彩さんさい生産せいさんがほとんど破綻はたんし、その職人しょくにん仕事しごとつけて渤海へとわたり、これが渤海の三彩さんさい起源きげんであり、渤海の粘土ねんどしつことなるため、渤海で生産せいさんされた三彩さんさい特徴とくちょうつようになり、渤海で生産せいさんされた三彩さんさいは「渤海三彩さんさい」とぶことができると主張しゅちょうしている[56]

エ・ヴェ・シャフクノフ(極東きょくとう連邦れんぽう大学だいがく英語えいご: E. V. Shavkunovロシア: Эрнст Владимирович Шавкунов)は、クラスキノじょうから出土しゅつどした渤海かわらには顕著けんちょ高句麗こうくりかわら特徴とくちょう影響えいきょうられないと指摘してきしている[57]

商業しょうぎょう[編集へんしゅう]

商品しょうひん経済けいざい発展はってんしていくなかで渤海では貨幣かへい使用しようされていたとかんがえられている(極少きょくしょうすうまいながらひらけもと通宝つうほう出土しゅつどしている[58])。それはだい武芸ぶげい日本にっぽんおくった国書こくしょなかで「かわぬさ」の文字もじ使用しようしていること、873ねん日本にっぽん貿易ぼうえきおこなったさいに、たまものぜに日本にっぽん物産ぶっさん購入こうにゅうしていること、滅亡めつぼうさいして耶律阿保あぼが「ところうつわぬさ」を将士しょうしあたえたことからも物々交換ぶつぶつこうかん段階だんかいえ、貨幣かへい流通りゅうつうしていたことしめすものとかんがえられている。

貿易ぼうえき[編集へんしゅう]

渤海社会しゃかいは靺鞨のしょう部族ぶぞく単位たんいとして構成こうせいされ、部族ぶぞくちょう首領しゅりょうしょうされ支配しはい構造こうぞうまれた。首領しゅりょうは、渤海王権おうけん自己じこ産物さんぶつみつげおさめし、王権おうけんとの交易こうえきによって必要ひつよう物資ぶっし入手にゅうしゅし、渤海王権おうけん首領しゅりょうから産物さんぶつ日本にっぽんとうとの交易こうえき使用しよう必要ひつよう物資ぶっし入手にゅうしゅした[59]たとえば、きぬ絹糸けんし金襴きんらん英語えいごばん水銀すいぎんどう水晶すいしょう樹脂じゅし柘榴ざくろせきクルミでつくられた扇子せんすなど、渤海で不足ふそくしている製品せいひん自国じこく製品せいひん日本にっぽん交換こうかんした[60]

文化ぶんか[編集へんしゅう]

くにげて内属ないぞくし、つかわして来朝らいちょうし、いのちを祗みてしょうまつり、れいちがものなし」 (『はく文集ぶんしゅうまき52「渤海王子おうじ官制かんせい」)というように、 渤海はとう臣従しんじゅうして[61]なんとなく使者ししゃおくり、それに付随ふずいして留学生りゅうがくせいとうおく文化ぶんか吸収きゅうしゅうさせ、かえらせた。このことにより渤海の上層じょうそう儒教じゅきょうてき教養きょうよう、それをもと国政こくせいたったとおもわれる。738ねんには、『かられい』、『三国志さんごくし』、『すすむしょ』、『じゅうろくこく春秋しゅんじゅう』の書写しょしゃとうねがるなど、「渤海は晏寧にしてとおはなふうしたう」(『文苑ぶんえん英華えいかまき471「渤海おうだいつねふるえあずかうるしょ」)ように、渤海がから文化ぶんかたいするつよ憧憬どうけいち、かんせい地方ちほう行政ぎょうせい組織そしき首都しゅと上京じょうきょうのようにとう長安ながやすじょう真似まね都城みやこのじょう建設けんせつなど、とう制度せいどならった律令りつりょう国家こっか建設けんせつ推進すいしんされた[61]。また、773ねんには、「中華ちゅうか文物ぶんぶつしたう」(『さつもとかめまき41・ひろしいか)あまり渤海の人質ひとじち皇帝こうてい袞竜ぬす事件じけんこる[61]宗教しゅうきょうてきには仏教ぶっきょう信奉しんぽうあつく、首都しゅと上京じょうきょう遺跡いせきからはおおくのてら仏教ぶっきょう関係かんけい建物たてもの発見はっけんされている。渤海文化ぶんかとう影響えいきょう非常ひじょうつよいが、靺鞨文化ぶんか継承けいしょうもされており、には高句麗こうくり文化ぶんか影響えいきょううかがえる、みっつの文化ぶんかから独自どくじ文化ぶんかつくしている。

前述ぜんじゅつしたように日本にっぽんとのつう使おこなわれており、初期しょきしんとうたいする軍事ぐんじてき牽制けんせい意味合いみあいがつよかったが後半こうはんになると儀礼ぎれいてき商業しょうぎょうてき意味合いみあいがつよくなっていった。実態じったいべつとして渤海からの使節しせつ日本にっぽん朝貢ちょうこうであると認識にんしきしており、日本にっぽんがわは渤海がわ使者ししゃおおいに歓待かんたいをしており、この財政ざいせいてき負担ふたんがふくらんだために後期こうきでは12ねんに1かい回数かいすう制限せいげんおこなわれている(渤海使)。また、そのさい日本にっぽんとの文化ぶんか交流こうりゅう積極せっきょくてきおこなわれている。いちれいとして菅原すがわら道真みちざねと渤海の使者ししゃとのあいだ漢詩かんし応酬おうしゅうおこなわれたとの記録きろくがある[62]

首都しゅと上京かみぎょう龍泉りゅうせんは、中央ちゅうおう宮殿きゅうでんまわりに城壁じょうへき周囲しゅうい16kmと、ほぼ平城京へいじょうきょうおな規模きぼである[63]井上いのうえ和人かずとは、この衛星えいせい写真しゃしん分析ぶんせきし、平城京へいじょうきょう造営ぞうえいおな物差ものさ使つかっているという見解けんかいしめした[63]。したがって、上京かみぎょう龍泉りゅうせんは、ながらく中国ちゅうごく長安ながやす真似まねたものだとおもわれていたが、平城京へいじょうきょう造営ぞうえい710ねん首都しゅと上京じょうきょう755ねんなので、727ねんはじめて来日らいにちした渤海使日本にっぽんからづくりをまなんだ可能かのうせいがある[63]

教育きょういく制度せいど[編集へんしゅう]

渤海の教育きょういく制度せいどとうせいならったものであったと推察すいさつされる。日本にっぽん派遣はけんされた渤海使随員ずいいんのなかに大小だいしょうさまざまなろくごとかんもうけられており、また渤海滅亡めつぼう建国けんこくされたひがしこくひろ博士はかせじょきょう設置せっちされていたことから、これら官職かんしょく類似るいじするものが渤海にも設置せっちされ、それはとうせい類似るいじするものであったことをうかがわせる。

また上流じょうりゅう階級かいきゅうでは女子じょしたいする教育きょういく実施じっしされていた。これは貞恵さだえ公主こうしゅさだこう公主こうしゅ墓碑ぼひに「おんな」の文字もじがあることから推察すいさつされている。

これらの教育きょういく制度せいどにより育成いくせいされた人材じんざいは、一部いちぶとう留学りゅうがくし、科挙かきょ及第きゅうだいするもの輩出はいしゅつするなど、相当そうとう教育きょういく水準すいじゅんゆうしていたとかんがえられる。

言語げんご[編集へんしゅう]

渤海こく公用こうようはじ靺鞨使用しようされていた[4]

しんとうしょ』渤海でんには以下いか記事きじがある。

ぞくいいおう曰「どくおっと」、曰「聖王せいおう」、曰「もと」。其命ためきょう」。

俗称ぞくしょうではおう(を名付なづけて)どくおっと、あるいはひじりぬし、あるいはもとといった。(おうの)命令めいれいきょうという[64] — しんとうしょ、渤海でん
ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:しんとうしょ/まき219#渤海

ロシア研究けんきゅうしゃのエ・ヴェ・シャフクノフ(極東きょくとう連邦れんぽう大学だいがく英語えいご: E. V. Shavkunovロシア: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究けんきゅうによれば、渤海おうをいう「どくおっと」はおそらくツングースけいまんしゅうの「卡達ひしげ」(まんしゅう: ᡴᠠᡩᠠᠯᠠ᠊、kadala-、カダラ:管理かんりするの)やツングースけいナナイの「凱泰」(カイタイ)と関係かんけいがあり、その本来ほんらい意味いみ年長ねんちょう管理かんりしゃ意味いみであろうという。また、渤海じん靺鞨じん名前なまえ最後さいごに「こうむ」のがついていることがあるが(がらすしばこうむおのれ珎蒙、慕思こうむなど)、これは靺鞨重要じゅうよう膠着こうちゃく語尾ごびひとつをしめしており、ツングースけい民族みんぞく氏族しぞくを「こんまんしゅう: ᠮᡠᡴᡡᠨ転写てんしゃ:mukūn)」「はかりごとかつ」としょうしているが、「こうむ」のおとが「」や「はかりごと」のおとちかいことをかんがえると、この「こうむ」のおとはそのひとぞくする氏族しぞくあらわ音節おんせつであろうと推測すいそくできるとべている[65]

しかしその言語げんごかんすすんで次第しだい漢語かんご公用こうようとなった[66]漢語かんご使用しようされた証拠しょうことして渤海使来日らいにちしたときに春日かすがたくしげる伊勢いせきょうぼうらのように豊富ほうふ入唐にっとう経験けいけんがあり、それらの経験けいけんによってつちかわれた実用じつよう漢語かんご習熟しゅうじゅくした人物じんぶつが渤海通訳つうやくつとめていたことなどがげられ[67]、渤海通訳つうやく使用しようしていた言語げんごである漢語かんごを渤海使はこれを再度さいど通訳つうやくかいすることなくそのまま理解りかい会話かいわした[68]。渤海を構成こうせいする靺鞨じん高句麗こうくりじんは、それぞれ独自どくじ言語げんごゆうしており、このような場合ばあいは、優位ゆういにたつ種族しゅぞく言語げんご共通きょうつう言語げんごとする方法ほうほうもあるが、外部がいぶ権威けんいある言語げんごことなる種族しゅぞくあいだ共通きょうつう言語げんごにすることもあり、渤海を建国けんこくしたのはとう居住きょじゅうしていた靺鞨じんであることから、その指導しどうそう漢語かんごはなせたとみられ、これをことなる種族しゅぞく意思いし疎通そつう使用しようしていたとかんがえられ、漢語かんごには当時とうじことなる言語げんごはなす渤海の人々ひとびと納得なっとくさせるだけの権威けんいがあった[68]。その、渤海こくぞくするこう麗人れいじん突厥じんちぎりじんしつ韋人かい紇人などはそのまま自己じこ言語げんご使用しようしていた[69]

漢語かんご公用こうようであった根拠こんきょとして以下いかのことがげられる。

  1. 873ねん3がつ薩摩さつま漂着ひょうちゃくした渤海じんちぇそうたすくだいひねじゅんいちぎょうは、はじめ「言語げんごなんどおり問答もんどうなんよう」という状態じょうたいであり、日本人にっぽんじん口頭こうとうによる意思いし疎通そつうができず、筆談ひつだん自分じぶんたちは渤海の遣唐使けんとうしであるとしめしたが、太宰府だざいふは「だいから通事つうじちょうたてただし」を派遣はけんして事情じじょう聴取ちょうしゅをおこない、間違まちがいなく渤海こく入唐にっとう使であることがあきらかにされた[注釈ちゅうしゃく 3][注釈ちゅうしゃく 4]。これはちぇそうたすくだいひねじゅんいちぎょうが、漢語かんごをもって通訳つうやくするだいから通事つうじちょうたてただし言葉ことば理解りかいできたこと、つまりちぇそうたすくだいひねじゅんいちぎょう漢語かんごはなせたということであり、渤海こく使つかいじん名乗なのっているものたいして、また太宰府だざいふ朝廷ちょうてい指示しじしたが漂着ひょうちゃくしゃを「渤海国人くにびと」と確認かくにんしたうえで「だいから通事つうじ」をつかわし、漂着ひょうちゃくしゃを「渤海国人くにびと」とみとめたにもかかわらず、渤海通訳つうやくしゃつかわしておらず、太宰府だざいふすなわち朝廷ちょうていの、漢語かんごは渤海がわともはなえる言語げんごみとめていたこと、漢語かんごは渤海じんつうじる言語げんごみとめていたことがかる[70][71]
  2. 日本にっぽんに渤海使がくると、日本にっぽんでは渤海通事つうじ指名しめいされ通訳つうやくしたが、通訳つうやく指名しめいされた伊勢いせきょうぼうは862ねん7がつ高岳親王たかおかしんのうしたが入唐にっとうした経歴けいれきがあり、伊勢いせきょうぼう高岳親王たかおかしんのうとともに長安ながやすおもむいたが864ねん10がつ9にちに、高岳親王たかおかしんのういのちにより一人ひとり淮南ワイナンに却廻し、往路おうろのところどころにあづけた寄附きふ功徳くどくざつぶつ広州こうしゅうかったが、高岳親王たかおかしんのうたずに865ねん6がつふくしゅうからから商人しょうにんのべこうふねり、そうあきらとともに帰国きこくした。伊勢いせきょうぼうざいとう4ねんにおよび、しかも一人ひとり長安ながやすから広州こうしゅうかっていることを考慮こうりょするならば、伊勢いせきょうぼう漢語かんご通暁つうぎょうしていたとかんがえられ、通訳つうやく任命にんめいされたのもその能力のうりょくわれたからとみられる[72]
  3. 渤海通事つうじ指名しめいされた大和やまとゆうきょう経歴けいれきつまびらかではないが、実質じっしつてき最後さいご遣唐使けんとうしとなったうけたまわ遣唐使けんとうし漢語かんご訳語やくごにんじられた人物じんぶつ大和やまと真人まさとみみぬしがおり、この大和やまとゆうきょう大和やまと真人まさとみみぬしどう一人物いちじんぶつとみられ、大和やまと真人まさとみみぬしは839ねん8がつ25にちとうから帰国きこくしたが、漢語かんご通暁つうぎょうしている人物じんぶつとみられること[73]
  4. 渤海通訳つうやく養成ようせいしたはたちょうもとは『ふところふう所載しょさいべんただし略伝りゃくでんによると大宝たいほう年中ねんじゅう遣唐使けんとうししたが入唐にっとうした留学りゅうがくそうべんただしであり、とうまれて718ねん帰国きこくし、733ねんには再度さいど入唐にっとう判官ほうがんとしてわたりとうし、げんむねにも謁見えっけんしたこともあり、はたちょうもととう出生しゅっしょうした事実じじつから漢語かんご堪能かんのうであったことはうたがいない。おなじく渤海通訳つうやく養成ようせいしたこうは『和名わみょう類聚るいじゅうしょう』『れいしゅうかい』にかれている『楊氏漢語かんごしょう』がこうによるものであることから漢語かんご通暁つうぎょうした人物じんぶつであるとかんがえられ、このように渤海通訳つうやく漢語かんご通暁つうぎょうした人物じんぶつであること[74]
  5. とう三省みつよししてせんみことのり中台ちゅうたいせいどう三省みつよしかれ、せいどうしょうしたろくかれたように渤海はとう律令制りつりょうせい導入どうにゅうし、律令制りつりょうせい国家こっかをめざしたが、それは7世紀せいきまつから8世紀せいき初期しょき国家こっか生成せいせいに靺鞨しょ部内ぶない部落ぶらくばれる大小だいしょう地域ちいき割拠かっきょする在地ざいち首長しゅちょうである首領しゅりょうとおして百姓ひゃくしょう=住民じゅうみん支配しはいし、その支配しはいは靺鞨社会しゃかい解体かいたいさせることなく、適応てきおうしやすいかたちとう律令制りつりょうせいをはめんで再編さいへんし、独自どくじ中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい形成けいせいしようとするものであったことから、律令制りつりょうせい国家こっか指向しこうした渤海の支配しはいしゃそう国家こっか統一とういつ手段しゅだんとして漢語かんご導入どうにゅうしたとかんがえられること[75]
  6. 春日かすがたくしげるは、20ねんちかくのあいだ連続れんぞくして4かい通訳つうやく任命にんめいされており、これは記録きろくのこっているかぎりにおいてなので、実際じっさいにはもっとおおかったのかもしれないが、春日かすがたくなり経歴けいれきからは中国ちゅうごくとのむすびつきがられる。春日かすがたくなりは838ねん5がつ7にち出航しゅっこう遣唐使けんとうしせん入唐にっとうし、その春太郎はるたろうという中国ちゅうごくめい名乗なのいちぎょうべつ行動こうどうをとった人物じんぶつである。春日かすがたくなり帰国きこくについたのは847ねん6がつ9にちであるからやく9年間ねんかんとう在住ざいじゅうしたことになる。29かい来日らいにち渤海使は、前回ぜんかいとの期間きかんみじかすぎるという理由りゆう入京にゅうきょうゆるされず、日本にっぽんたいする国書こくしょ贈物おくりものちん翫椚いい酒盃しゅはいなど)も朝廷ちょうていらなかったが、通訳つうやくしゃだった春日かすがたくしげるは、贈物おくりものについて「かつて自分じぶんだいとう数々かずかず珍宝ちんぽうてきたが、これほどまでにかいなものはたことがない」とべており[注釈ちゅうしゃく 5]、このような発言はつげんができるのは、春日かすがたくなり並々なみなみならぬ中国ちゅうごくどおりであり、長期ちょうきにわたるから滞在たいざいにより可能かのうだったためである。春日かすがたくなりすぐれた漢語かんご話者わしゃであり、それゆえ通訳つうやく任命にんめいされたことは、渤海使との交渉こうしょうでは漢語かんご使用しようされていた蓋然性がいぜんせい示唆しさしている[76]
  7. 扶桑ふそう略記りゃっききゅうねん延喜えんぎ〇)さんがつななにちあきらけい学生がくせい刑部おさかべ高名こうみょう参内さんだいれいとい漢語かんごしゃごと高名こうみょうそう云々うんぬん行事ぎょうじしょ召得、漢語かんごしゃ大蔵おおくらさんつねそく召之於蔵人所くろうどどころれい高名こうみょうさるうん。其語能否のうひそうかい。三常唐語尤可広博云々。みことのりしたがえ公卿くぎょうていさる。以さんつねれいため通事つうじ[注釈ちゅうしゃく 6]」とある。これは、たい渤海通訳つうやく選定せんていについてあかりけい学生がくせいである高名こうみょうび、「漢語かんご熟達じゅくたつしゃのことをきただし、だれにするかをめた、ということをべるものである[77]あかりけい学生がくせいとは、だい学寮がくりょう本科ほんかである儒学じゅがく学生がくせいのことであり、だい学寮がくりょう中国ちゅうごく文化ぶんか摂取せっしゅによる中央ちゅうおう官僚かんりょう養成ようせいのための教育きょういく機関きかんとして設置せっちされており、そこでまなばれる外国がいこく当然とうぜん漢語かんごである。とく入学にゅうがく当初とうしょ専門せんもん教官きょうかんであるおと博士はかせ二人ふたりによる中国語ちゅうごくごおんたる漢音かんおん授業じゅぎょうが、一般いっぱんもと教養きょうよう科目かもくとして学生がくせい義務ぎむづけられており、漢音かんおん教育きょういく中国ちゅうごく文化ぶんか摂取せっしゅじょう不可欠ふかけつのものであるだけに、7世紀せいきまつだい学寮がくりょう設置せっち以来いらい一貫いっかん重視じゅうしされた。だい学寮がくりょうにおける漢語かんご位置いちづけや、だい学寮がくりょう学生がくせいたる高名こうみょうに「漢語かんご」につうじたものだれかとうたことや、その高名こうみょうげんによって大蔵おおくらさんつねが「漢語かんご」=「とう通訳つうやく任命にんめいされた[77]。そして、「何故なぜ、渤海使応対おうたいする通訳つうやくとして漢語かんご通暁つうぎょうしていた人物じんぶつ任命にんめいしたのか」という疑問ぎもんしょうじるが、これにたいしては、春日かすがたくしげるちょうたてただし検討けんとうまえると、大蔵おおくらさんつね渤海に(も)通暁つうぎょうしていた可能かのうせいなどにおもいをせるべきでなく、漢語かんご日本にっぽん渤海あいだ使用しよう言語げんごだったからとこたえるべきであり、そもそも、大蔵おおくらさんつね場合ばあいだい学寮がくりょう学生がくせいかいしての紹介しょうかい、「漢語かんごちから問題もんだいにしているてんなど、当初とうしょからすべて話題わだいとなっているのは漢語かんごりょくである[77]

一方いっぽう相手あいては渤海なのだから春日かすがたくしげる渤海はなしたのでないか、という疑問ぎもんしょうじるが、春日かすがたくなりの渤海能力のうりょくについてべる史書ししょひとつとしてなく、当時とうじ通訳つうやく状況じょうきょうかんがみると、その可能かのうせい極端きょくたんひく[78]8世紀せいきから9世紀せいきから文化ぶんかひがしアジア諸国しょこくまんへんなく浸透しんとうしており、日本にっぽん・渤海・しん中国ちゅうごく文化ぶんか摂取せっしゅつとめており、さらに、日本にっぽん外交がいこうにおいて渤海は中国ちゅうごくはもとよりしんよりもかる存在そんざいであり、そのような国際こくさい状勢じょうせいにおいて、中国ちゅうごく周辺しゅうへん諸国しょこくにおけるさい重要じゅうよう外国がいこく中国語ちゅうごくご以外いがいにはなく、日本にっぽん場合ばあい政治せいじ外交がいこう文化ぶんかてきに渤海中国語ちゅうごくごはおろかしんしてもひく価値かちしかなかった[78]たとえば、国家こっか最高さいこう教育きょういく機関きかんであるだい学寮がくりょう組織そしきてきかつ積極せっきょくてきおこなわれていたのは中国語ちゅうごくごおん学習がくしゅうであり、渤海学習がくしゅうかんして唯一ゆいいつべる史書ししょ[注釈ちゅうしゃく 7]当時とうじ日本にっぽんでは本格ほんかくてきな渤海学習がくしゅうおこなわれておらず、渤海通訳つうやくもいなかったことをおもわしめるものであり、さらに、春日かすがたくなりが渤海能力のうりょくゆえに通訳つうやく任命にんめいされたのなら、それを明示めいじあるいは暗示あんじする語句ごく若干じゃっかんなりとものこされているはずであり、渤海必要ひつようおよ史書ししょから「春日かすがたくなりは渤海につけていたから通訳つうやくにんじられた」とは到底とうていえないことだけはたしかである[78]

873ねん3がつ薩摩さつま漂着ひょうちゃくした渤海じんちぇそうたすくだいひねじゅんいちぎょう調しらべにたり、大宰府だざいふには渤海のできる通訳つうやくしゃがいないため、次善じぜんさくとして「だいから通事つうじちょうたてただし」を派遣はけんした、という解釈かいしゃくかんがえうる。日本にっぽん朝廷ちょうてい773ねん来朝らいちょうだい8かい渤海使以降いこう776ねん来朝らいちょうだい9かい渤海使779ねん来朝らいちょうだい11かい渤海使たいして、大宰府だざいふ来着らいちゃくするよう要求ようきゅうしている[79]大宰府だざいふ来着らいちゃくすることを指示しじしているからには、大宰府だざいふに渤海使対応たいおうできる通訳つうやく用意よういされていたはずであり、渤海じん口語こうご意思いし疎通そつうできる人物じんぶつがいたはずであるが、渤海じん口語こうご意思いし疎通そつうできる言語げんごが渤海であるならば、渤海通訳つうやくしゃ派遣はけんしなかったのか、という疑問ぎもんしょうじる。この場合ばあい、「だいから通事つうじ」は渤海能力のうりょくそなえていたという解釈かいしゃくいちおうつが、もしちょうけんちゅうが渤海能力のうりょくにおいて派遣はけんされたのであれば、何故なぜちょうけんちゅうを「渤海(かたり通事つうじ」とばなかったのか、中国ちゅうごく能力のうりょくしめす「だいとう」は文面ぶんめんしめされているにもかかわらず、渤海かんする語句ごく皆無かいむであるというきがたい疑問ぎもんのこされる[79]したがって、ちょうたてただしは渤海通訳つうやくしゃとしてではなく、あくまでも「だいから通事つうじ」として派遣はけんされたと解釈かいしゃくするのが妥当だとうであり、「だいから通事つうじ派遣はけん間接かんせつてきながらも大宰府だざいふに渤海通訳つうやくしゃがいなかったことを反映はんえいしている[79]

810ねん5月帰国きこく目前もくぜんにした渤海使一員いちいんである首領しゅりょうこうふつ使節しせつから一人ひとり離脱りだつして、越前えちぜんこくにとどまり、亡命ぼうめいした。そのこうふつえつ中国ちゅうごくうつされて、史生ふみお羽栗はぐりちょうと習語せいらに渤海教習きょうしゅうした。日本にっぽん朝廷ちょうていが渤海学習がくしゅうさせた意図いとは、渤海母語ぼごとするものとしての通訳つうやく養成ようせいとみられるが、渤海通訳つうやく養成ようせいのためにわざわざ羽栗はぐりちょうなどをえつ中国ちゅうごくまで派遣はけんし、こうふつから渤海まなばせたのかという疑問ぎもんしょうじる[80]

  1. 当時とうじ、渤海使来日らいにちは14かいたっし、日本にっぽんからの渤海使も14かいたっする日本にっぽんと渤海の密接みっせつ交流こうりゅう当時とうじ日本にっぽんが渤海使来日らいにち制限せいげんしようとしたが渤海との交流こうりゅう継続けいぞく意思いし十分じゅうぶんあること、日本にっぽんと渤海の海上かいじょう交通こうつう比較的ひかくてき安全あんぜんであることをかんがみると、渤海日本にっぽん渤海あいだ外交がいこうよう言語げんごである場合ばあい、すでに日本にっぽんがわにはしかるべき渤海通訳つうやくしゃがいたはずであり、その渤海通訳つうやくしゃとして渤海まなぶことができたのでないか[80]
  2. 度々どどの渤海使来航らいこうあるいはおく渤海使派遣はけんからして、日本にっぽんには渤海じんから渤海学習がくしゅうする機会きかいがあるのではないか。だい15かい渤海使10月1にち来日らいにちつぎねん5月18にち離日りにちやく8かげつちか日本にっぽん滞在たいざいしている[80]
  3. 日本にっぽん朝廷ちょうていが渤海通訳つうやくしゃ養成ようせい意図いとしていた場合ばあい、渤海へ留学生りゅうがくせい派遣はけんもできたはずである。たとえば、当時とうじ日本語にほんごまな留学生りゅうがくせいしんまなぶ」がしんから派遣はけんされていた。したがって、その意志いしさえあれば日本にっぽんは渤海に渤海学習がくしゅうしゃ派遣はけんできたはずである[80]

渤海から個人こじんてきに「慕化らいいれあさ」してきた場合ばあいをもふくめ、1・2・3の手段しゅだんによる渤海習得しゅうとく示唆しさする史料しりょうひとつとしてないが、たまたま記録きろくがなかっただけであると解釈かいしゃくするのも可能かのうであり、1の場合ばあい、渤海使滞在たいざい期間きかんかならずしもながくないため、機会きかいがなかったという解釈かいしゃく可能かのうであるが、羽栗はぐりちょうなどをえつ中国ちゅうごくまで派遣はけんして渤海学習がくしゅうさせた理由りゆう釈然しゃくぜんとせず、種々しゅじゅ疑問ぎもんは「渤海日本にっぽん渤海あいだ外交がいこう使用しようであった」という前提ぜんていはっしており、この隘路あいろくには「外交がいこうよう言語げんごとして渤海中国ちゅうごくとどのような関係かんけいにあるのか」ということにつきる[80]日本にっぽんにおける外国がいこく学習がくしゅうじょう必要ひつようせいあるいは日本にっぽんにおける外国がいこく教授きょうじゅのありかたあるいは日本語にほんごと渤海外交がいこう交渉こうしょうにおいて使用しようされていたことをしめ史料しりょう存在そんざいしないことから、中国ちゅうごくが渤海よりはるかに上位じょうい位置いちしていたことは確実かくじつであるが、日本人にっぽんじん官僚かんりょうの渤海学習がくしゅうがおこなわれたことや、長期ちょうきにわたる日本にっぽんと渤海の外交がいこう接触せっしょくにおいて、必然ひつぜんてき日本にっぽんと渤海双方そうほう日本語にほんご・渤海つうじたものがでてきたことはうたがいなく、正式せいしき外交がいこうよう言語げんごでなくとも、日本にっぽんと渤海の外交がいこう交渉こうしょう交流こうりゅうでは渤海使用しようされている蓋然性がいぜんせい否定ひていできない[80]したがって、「正式せいしき日本にっぽん渤海あいだ外交がいこうよう言語げんごとしてはだいいち中国語ちゅうごくごもちいられた。ただし、ときおうじて例外れいがいてきに渤海もちいられることもあった」=「中国語ちゅうごくごぬし、渤海ふく」という原則げんそくみちびかれる[80]

建国けんこく当初とうしょより、陸続りくつづきの隣国りんごくであるとう影響えいきょう直接的ちょくせつてき全面ぜんめんてきけた渤海は、日本にっぽん以上いじょう中国語ちゅうごくご身近みぢかであり、重要じゅうよう言語げんごであったとみられる[81]日本にっぽん渤海あいだ外交がいこう交渉こうしょうにおいて、日本にっぽんがわだけが中国ちゅうごく外交がいこうよう言語げんご使用しようしたとはかんがえにくいことから、「渤海こくがわ中国語ちゅうごくごもちいた、渤海通訳つうやく中国語ちゅうごくごもちいた」、すなわち「日本にっぽん渤海あいだ外交がいこうよう音声おんせい言語げんご中国語ちゅうごくごであった」とかんがえざるをえない[81]日本にっぽん渤海あいだ外交がいこう交渉こうしょうにおいて、中国ちゅうごく使用しようされていることは、8世紀せいきから9世紀せいきにおける日本にっぽんと渤海の交流こうりゅう言語げんごめんにおいて中国ちゅうごく圧倒的あっとうてき優勢ゆうせいであることを反映はんえいするものであり、当時とうじひがしアジア情勢じょうせい中国ちゅうごく中心ちゅうしんうごいていたことから当然とうぜん帰結きけつであり、現代げんだい国際こくさい社会しゃかいにおいて、英語えいごけん以外いがい言語げんごことにする小国しょうこくあいだでは、しばしばば第三国だいさんごく言語げんごである英語えいご使用しようされるが、8世紀せいきから9世紀せいきにおける中国ちゅうごく日本語にほんご・渤海との関係かんけいは、現代げんだい英語えいご英語えいご以外いがい使用しようしゃすくない系統けいとうのあいことなるふたつの言語げんご関係かんけいたとえることができる[81]

日本にっぽん渤海あいだ外交がいこう交渉こうしょうにおいて、音声おんせい言語げんごだいいち中国語ちゅうごくごときとして日本語にほんご・渤海使用しようしたということと、書記しょき言語げんご漢文かんぶんすなわ中国ちゅうごくであることは矛盾むじゅんせず、言語げんごにおいて音声おんせい言語げんご書記しょき言語げんご表裏ひょうり関係かんけいにあるため当然とうぜんであり、日本にっぽんと渤海あいだにおける使用しよう言語げんご中国語ちゅうごくごであるという結論けつろんたっし、書記しょき言語げんご完全かんぜん漢文かんぶんすなわ中国ちゅうごく領域りょういきぞくしていた8世紀せいきから9世紀せいき日本にっぽん・渤海・しんひがしアジア諸国しょこくにおける共通きょうつう音声おんせい言語げんご中国語ちゅうごくごであると判断はんだんできる[82]音声おんせい言語げんご書記しょき言語げんご表裏ひょうり関係かんけいにあり、当時とうじ日本にっぽんしんのように、音声おんせい言語げんご自国じこく正式せいしき書記しょき言語げんご原則げんそくとして中国ちゅうごく漢文かんぶん)ということはりうるが、あくまでも自国じこくないかぎり、中国ちゅうごく文化ぶんかけん書記しょき言語げんごおなじくする国家こっか相互そうごあいだ交流こうりゅうにおいて、書記しょき言語げんご中国語ちゅうごくご音声おんせい言語げんご各国かっこく使用しようということは一般いっぱんてきかんががた[82]日本にっぽんと渤海あいだ使用しよう言語げんご中国ちゅうごくであることをかんがみると、しんは渤海と同様どうようとう近接きんせつするとうさつふうこくであることから、しんと渤海あいだあるいはしん日本にっぽんあいだでも中国語ちゅうごくご使用しようされていた可能かのうせいりうる[82]。『ぞく日本にっぽん』によると[注釈ちゅうしゃく 8]しんも渤海同様どうようにその学習がくしゅう地方ちほう臨時りんじ一時いちじてきにおこなわれていたようにみられ、しん外交がいこうよう言語げんごとしてひろくは使用しようされていないことをしめしている[82]。これは、中央ちゅうおう政府せいふにおいてしん組織そしきてき恒常こうじょうてきまなばれたこともなければ、その通訳つうやく常置じょうちもなかったこと、すなわち、日本にっぽんしんあいだ外交がいこうよう言語げんご中国語ちゅうごくごであることを示唆しさしており、このことは8世紀せいきから9世紀せいきにおけるひがしアジアリングワ・フランカ中国ちゅうごくであることを意味いみし、日本にっぽんと渤海あいだ交流こうりゅうにおけるだい言語げんご日本語にほんご・渤海であると推察すいさつされることをかんがみると、ひがしアジアにおける中国ちゅうごく以外いがい国家こっかあいだすなわ日本にっぽん・渤海・しんあいだにおいては、日本語にほんご・渤海しんなどもとき場合ばあいにおいて外交がいこう交渉こうしょうにおいて使用しようされていたと推察すいさつされる[82]

日本にっぽん朝廷ちょうていは、だい21かい渤海使だい25かい渤海使だい28かい渤海使だい29かい渤海使などにたいして宣命せんみょうあたえており、これは漢字かんじかれているとはいえ、日本語にほんごぶん外交がいこう文書ぶんしょもちいられたことをしめしている[83]。また、それは日本語にほんごおんげられたはずであり、音声おんせい言語げんご外交がいこうよう言語げんごとして日本語にほんご実現じつげんされたことを示唆しさしているが、その程度ていど使用しようを、さらに、渤海使内容ないよう理解りかいできたかどうかもさだかではない宣命せんみょうを、正式せいしき外交がいこうよう言語げんごぶのはやや無理むりとみられる。なお、宣命せんみょう対応たいおうする漢字かんじ表記ひょうきの渤海ぶん存在そんざい報告ほうこくはない[83]

文字もじ[編集へんしゅう]

渤海は広大こうだい支配しはい領域りょういき割拠かっきょするおおくの民族みんぞく統一とういつしていく手段しゅだんとして漢語かんご導入どうにゅうをはかったとみられるが、表記ひょうき文字もじとしては当時とうじひがしアジア一般いっぱんてきであった漢字かんじ利用りようしており、1949ねん吉林きつりんしょうあつしけんろく頂山いただきやまから発見はっけんされただい欽茂の次女じじょである貞恵さだえ公主こうしゅ墓誌ぼしや1980ねんのべ朝鮮ちょうせんぞく自治じちしゅうかずりゅうけん竜頭山りゅうとうざんから発見はっけんされた貞恵さだえ公主こうしゅいもうとさだこう公主こうしゅ墓誌ぼしなどはすぐれた駢儷べんれいたい漢文かんぶんかれ、来日らいにちした渤海使がもたらしたおうあきら中台ちゅうたいしょう牒なども漢文かんぶんかれており、おうぶんのりや裴頲をはじめとした渤海使おおくがすぐれた漢詩かんしのこしていることから渤海じん漢字かんじ熟知じゅくちしていたことは確実かくじつであり[84]、渤海の皇后こうごう公主こうしゅ墓誌ぼし現在げんざいのところ4つ発見はっけんされているがすべ漢文かんぶんかれており、墓誌ぼし墓碑ぼひことなり、はかのなかにおさめることから、文章ぶんしょうるのは埋葬まいそう人々ひとびとだけであり、それが読者どくしゃとして想定そうていされ、皇后こうごう公主こうしゅ埋葬まいそうにたちあう支配しはいそう共通きょうつうめるのが漢字かんじ漢文かんぶんであった[68]

上京じょうきょう遺跡いせきから出土しゅつどした文字もじかわらには、漢字かんじ簡略かんりゃくした渤海の文字もじ記録きろくされているが、独自どくじ文字もじ存在そんざい確認かくにんされておらず、どう時期じきユーラシア使用しようされていた突厥文字もじウイグル文字もじソクド文字もじなどが渤海で使用しようされた形跡けいせきもなく[68]きむ毓黻は、上京じょうきょう遺跡いせきかわらこくされた文字もじを「その(からだは、とくにことなっていて、うみとかかわりがあるとおもう」として、「これは、日本にっぽん漢字かんじなかに『つじ』があり、化学かがくなかに『鉀鉀(カリウム)』、『﨨(亜鉛あえん)』などのがあるように、おそらく固有こゆう漢字かんじではようりない場合ばあいに、べつあたらしいつくって、その不便ふべんすくったのである」とし、渤海じんみずから「漢字かんじ補充ほじゅう」したとして、「もしこの少数しょうすう奇異きいがあることによって、ついに渤海じんが、べつあたらしいつくり、漢字かんじててもちいなかったといえば、それはかえってひと誤解ごかいさせることになる。ちぎりおんなしんは、ともにべつつくった。しかし、後世こうせいにまでながつたえることができず、したがってもなくその使用しようしなくなってしまった。渤海は建国けんこくしたのちとう文教ぶんきょうまって、漢字かんじをよくもちいたので、べつあたらしい文字もじつく機会きかいすくなかった。そこでちぎりおんなしんれいとすることはできない」と指摘してきしている[85]

エ・ヴェ・シャフクノフは、上京じょうきょうのこかわらにある文字もじしん吏読りと方法ほうほう採用さいようして創作そうさくした独自どくじ文字もじであり、「(この文字もじは)中国人ちゅうごくじん漢字かんじくらべて渤海じん言語げんご規範きはん言語げんご特質とくしつにいっそう適応てきおうし」、「ひろい渤海の都邑とゆう民衆みんしゅう各種かくしゅ貿易ぼうえき契約けいやく保証ほしょうむすさい、あるいは公文書こうぶんしょにこれらの文字もじ採用さいようされた」が、「漢語かんご漢字かんじとはおも宮廷きゅうていない官吏かんりせま範囲はんいでのみ使用しようされた」と主張しゅちょうしているが、しゅこくまこと黒竜江こくりゅうこうしょう文物ぶんぶつ考古こうこ研究所けんきゅうじょ)とこくちゅう黒竜江こくりゅうこうしょう社会しゃかい科学かがくいん歴史れきし研究所けんきゅうじょ渤海研究けんきゅうしつ)は「残念ざんねんながら、エ・ヴェ・シャフクノフせつ主観しゅかんもとづく憶測おくそくまぬかれず、しかもなんらかの証拠しょうこによる自説じせつ証明しょうめいもできていない」と批判ひはんしている[86]

各国かっこく研究けんきゅうしゃは、この上京じょうきょうのこかわらこくされた文字もじについて研究けんきゅうすすめているが結論けつろん一致いっちしておらず、現存げんそん史料しりょうでは、国内外こくないがい各地かくち発見はっけんされ、記録きろくされた渤海の文字もじかわら文字もじは、1文字もじずつきざまれ、300ほどになり、それらの少数しょうすう文字もじ符合ふごうのぞくと、だい多数たすう文字もじはみな正式せいしき漢字かんじであり、これらの漢字かんじだい部分ぶぶん今日きょう使用しようされている漢字かんじ同一どういつである[87]。しかし奇異きい見分みわけにくい文字もじがわずかにあり、最新さいしん研究けんきゅうでは、この少数しょうすう奇異きい判読はんどくしがたい文字もじのうち、相当そうとうすう俗字ぞくじ略字りゃくじであり、俗字ぞくじでは、「&#x#051;」が「きょう」とあるが、すでに321ねんあずますすむ墳墓ふんぼには「&#x#051;」とあらわれているように実際じっさいは渤海じん発明はつめいした文字もじではない[87]では「ふつ」を「ふつ」とするが、『正字せいじどおり』には「古文こぶんふつそう張子はりこけんごんく、京口きょうぐち甘露かんろてらてつ鑊にぶんり。はりてんかん仏殿ぶつでんつくる」とあるようにこれも渤海じん創造そうぞうではなく、略字りゃくじでは「たまき」や「瓌」を「&#x#003;」とき、また「とり」を「」とくなどの事例じれい字形じけいているためにあやまってかれた文字もじもあり、「しゃ」を「しゃ」とあやまったれい、「けい」を「」とあやまったれい、「おとこ」を「」や「」とあやまったれいなどがある[88]

渤海じんみずからの言語げんご特殊とくしゅおん必要ひつようせいからいくつかのしん漢字かんじ作成さくせいし、本来ほんらい漢字かんじ補充ほじゅうして渤海の言語げんご表現ひょうげんこたえた可能かのうせいはあり、その事情じじょう日本人にっぽんじん漢字かんじ使用しようする過程かてい作成さくせいした特殊とくしゅ漢字かんじ場合ばあいとよくており、渤海の末期まっき日本にっぽんおとずれた二人ふたり使者ししゃは、各々おのおの「𪱶(⿴)」と「𬑽(⿴井石いせき)」という名前なまえであり、当時とうじ日本にっぽんはこの文字もじ理解りかいできず、きの長谷ながたにつよしは「いま文字もじらずと雖も、びてう。𪱶は、ノヅブリまる(まろ)。𬑽は、いしノザブリまる(まろ)」とみ、「異国いこく(渤海)のさくなり。当時とうじ会釈えしゃくもっこれむ。神妙しんみょううべきものなり。異国いこくひと(渤海の使者ししゃきてこれかん」じたとべており、まさに渤海じんあらたに創造そうぞうした文字もじであるが、これらの文字もじ漢字かんじ系列けいれつあるいはその範囲はんいにある文字もじであり、これらの文字もじ漢字かんじからはなれて単独たんどく使つかわれることがなく、それらの文字もじ独立どくりつ文字もじとみなすべきでなく、渤海じん創造そうぞうした本来ほんらい漢字かんじ補充ほじゅうする漢字かんじである[89]

ロシアのウスリースク出土しゅつどした突厥文字もじ石刻せっこくから、渤海には独自どくじ文字もじがあったとする主張しゅちょうもあるが、しゅこくまことこくちゅうは「これはしんに『ありぞうう(針小棒大しんしょうぼうだい)』ような意見いけんである。じつは、その石刻せっこくは渤海に交易こうえきしたかい鶻人のこしたものである。渤海とかい鶻の関係かんけいには限界げんかいがあった。双方そうほうはともに領域りょういきせっすることなく、また隷属れいぞく主従しゅうじゅう関係かんけいもないのに、どうして渤海じんが、このようなよくらない、またいつもることのない文字もじ受容じゅよう使用しようできるのであろうか」と批判ひはんしている[90]

姓氏せいし[編集へんしゅう]

渤海の姓氏せいしは、王家おうけだいふくめて57せいであり、渤海の姓氏せいし構造こうぞうは、まず渤海王族おうぞくだい、そのつぎ中原なかはらからながれた漢人かんど豪族ごうぞくみぎせい、さらに靺鞨一部いちぶ高句麗こうくり貴族きぞくみぎせい最後さいごかんした靺鞨平民へいみん高句麗こうくり平民へいみん中原なかはらからながれたかんぞく平民へいみんの庶姓からなり、渤海の姓氏せいしは靺鞨、高句麗こうくりかんぞく姓氏せいしからなる[91]。渤海じん姓名せいめいには、形容けいよう叡智えいちへの祈願きがん徳性とくせいへの追求ついきゅうぶくろく寿ことぶきへの憧憬どうけい儒学じゅがく仏教ぶっきょうへの尊崇そんすうがみられ、中国ちゅうごく影響えいきょうけている[91]

渤海王国おうこく完成かんせい官制かんせいととどまらず、おうみやこ居住きょじゅうする人々ひとびと姓名せいめいをもから風化ふうかさせ、その変化へんか王族おうぞくから臣下しんか上層じょうそう、そして下部かぶから地方ちほう社会しゃかいへと浸透しんとうした[92]せいばかりでなく、が靺鞨の固有こゆうおんからそれを漢字かんじ好字こうじ採用さいようして、かんやくするか意訳いやくしたさん文字もじ姓名せいめいあらたまった。だい祚栄ちち乞乞なかぞうとそのおと漢字かんじ表記ひょうきされたが、のり天武てんむきさきからふるえこくおおやけふうぜられると「だい」のせい名乗なのることになり、だい祚栄はみごとに唐様からよう姓名せいめいである[92]。しかし、まだのみは靺鞨の固有こゆうおんまも傾向けいこうえておらず、だい武芸ぶげい嫡男ちゃくなんだいみやこ利行としゆき中国語ちゅうごくごばんといい、みやこ利行としゆきとは靺鞨の固有こゆうおんであり、だい武芸ぶげい大臣だいじんあじ勃計(722ねん)、だい武芸ぶげいおとうと大昌だいしょう勃価中国語ちゅうごくごばん725ねん)などは、まだ固有こゆうおん漢字かんじ表記ひょうき傾向けいこうがみられる[92]。この傾向けいこう王族おうぞく筆頭ひっとうとする社会しゃかい上層じょうそうばかりでなく首領しゅりょうそうにもみられ、だい首領しゅりょうがらすしばこうむ725ねん)や使者ししゃがらすたち730ねん)は、がらすという靺鞨にみられる一文字ひともじせいであるが、しばこうむたちのようにおとこうむをもつ人物じんぶつが靺鞨しょぞく遣唐使けんとうしにしばしばみられたように、にはいまだ固有こゆうせいのこしていた[92]。しかし、741ねんに渤海の遣唐使けんとうししつおもね黒水くろみず靺鞨おもねぬのとともに入唐にっとうして以後いご固有こゆうしょくのある人名じんめい遣唐使けんとうしのなかにみられず[92]渤海じん特有とくゆう姓名せいめいえ、唐様からよう姓名せいめいへと統一とういつされる[91]

まつばく』にみえるきむはじめの渤海じん社会しゃかいかんする記事きじに、きゅう王族おうぞくであるまさるほか有力ゆうりょく氏族しぞくとしてこうちょう、楊氏、竇氏、がらすろくげられている。一方いっぽう、渤海が存在そんざいしたどう時代じだいしょ史料しりょう登場とうじょうする有力ゆうりょく氏族しぞく姓氏せいしは、もっとおおいのがだいいでこうおうがらす、楊氏、つづくが、『まつばく』にみえるちょうと竇氏が渤海時代じだいにはほとんどみえず、渤海時代じだいおおおうは『まつばく』に登場とうじょうしない[93]ちょうは、『きむふみちょうひろしでん本姓ほんせいこうであり、ちょうひろし中国語ちゅうごくごばん曾祖そうそちょうときりょうつかえてちょうあらためたことがしるされており、金代かなだい活躍かつやくしたちょうはもとはこうしょうしており、渤海時代じだいちょう登場とうじょうしないのも不思議ふしぎではない[93]。竇氏について、きむ毓黻は『渤海こくこころざし長編ちょうへん朝鮮ちょうせんばん』において、渤海時代じだい比較的ひかくてきおおくみえるあやまりである可能かのうせい指摘してきしている。おうは、おうにわをはじめ、金代かなだいにも有力ゆうりょく氏族しぞくとして存在そんざいするが、おうにわ墓誌ぼしにそのふとしはらおう出身しゅっしんであるとしるされているように、金代かなだいにおいては渤海じんというより漢人かんどとして意識いしきされていたために、『まつばく』は、おうを渤海の有力ゆうりょく氏族しぞくのなかにかぞえなかった可能かのうせいがある[93]有力ゆうりょく氏族しぞく中国ちゅうごくふう姓名せいめいをもって史料しりょうにはじめて登場とうじょうするのはこうおよびだい武芸ぶげい時代じだいおうがらす・楊氏がだい欽茂時代じだいであるが、だい欽茂時代じだいに渤海の支配しはい領域りょういきがほぼさだまり、中国ちゅうごく文化ぶんかおよび中国ちゅうごく制度せいど導入どうにゅうして国家こっか体制たいせい整備せいびし、かかる状況じょうきょう支配しはいしゃそう中国ちゅうごくふう教養きょうようけるとともに中国ちゅうごくふう姓名せいめいしょうするようになる。どう時期じき有力ゆうりょく氏族しぞく以外いがい中国ちゅうごくふう姓名せいめいをもつもの少数しょうすうであることから、有力ゆうりょく氏族しぞくのもつ中国ちゅうごくふう姓名せいめい権威けんい象徴しょうちょう、あるいはとう貴族きぞくせいでは、せいによるランクけがおこなわれており、渤海においてもそれが意識いしきされていた可能かのうせいがある[93]

首領しゅりょう[編集へんしゅう]

史料しりょうとぼしい渤海研究けんきゅうにとって、国家こっか構造こうぞう社会しゃかい構造こうぞう解明かいめい至難しなんであるが、注目ちゅうもくされるのは、『類聚るいじゅう国史こくしまきいちきゅうさんことぞく・渤海じょうのべれきじゅうねんよんがつ戊子ぼしじょう記事きじである[94]

渤海こくしゃ高麗こうらい也。天命てんめいひらきべつ天皇てんのうななねん高麗こうらいおうだかためとうしょめつ也。こう以天真宗しんしゅうゆたか祖父そふ天皇てんのうねんだい祚栄はじめけん渤海こく和銅わどうろくねん、受唐冊立さくりつ其国。のべ千里せんりしゅうけんたてえきしょ有村ありむらさとみな靺鞨部落ぶらく。其百姓ひゃくしょうしゃ、靺鞨土人どじんしょうみな以土人為じんい村長そんちょう大村おおむら曰都とく曰刺。其下百姓ひゃくしょうみな曰首りょう土地とち極寒ごっかんむべ水田すいでんぞく頗知しょこう以来いらい朝貢ちょうこうぜっ — 類聚るいじゅう国史こくしまきいちきゅうさんことぞく・渤海じょうのべれきじゅうねんよんがつ戊子ぼしじょう
ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:日本にっぽん/まきだいよん

類聚るいじゅう国史こくしことぞく・渤海じょうに『日本にっぽん編者へんしゃが渤海初期しょきあわまつ社会しゃかい首領しゅりょう中心ちゅうしんえが記事きじがあり、『ぞく日本にっぽん』の渤海使たくした渤海への外交がいこう文書ぶんしょに、相手あいてを渤海国王こくおういで「官吏かんり百姓ひゃくしょう」または「首領しゅりょう百姓ひゃくしょう」とする表現ひょうげんなどにより、「首領しゅりょう」とばれる存在そんざいとその配下はいかだい多数たすうの「百姓ひゃくしょう」を基礎きそとした渤海社会しゃかいちがかる。石井いしい正敏まさとしは、『類聚るいじゅう国史こくしまきいちきゅうさんことぞく・渤海じょうのべれきじゅうねんよんがつ戊子ぼしじょう記事きじが『日本にっぽん』の逸文いつぶんであること、その編者へんしゃによる渤海新出しんでじょうにおける沿革えんかく記事きじであることをあきらかにしたが、この記事きじは、渤海建国けんこくねん決定けっていする情報じょうほうふくまれているだけでなく、渤海の地方ちほう社会しゃかい構造こうぞうしるされ、渤海研究けんきゅうにとってさい重要じゅうよう史料しりょうひとつである[94]。しかし、その読解どっかいむずかしく、とりわけ「其下百姓ひゃくしょうみな曰首りょう。」の一節いっせつ難解なんかいなため、おおくの研究けんきゅうしゃ読解どっかい挑戦ちょうせん様々さまざま首領しゅりょうろん展開てんかいしている[94]。「大村おおむら曰都とく、(大村おおむらとくのたまい、)、」以下いか解釈かいしゃく意見いけんかれており、ひとつはりゅうはん朝鮮ちょうせん: 이용범東国とうごく大学だいがく)およびきむ鍾圓朝鮮ちょうせん: 김종원英語えいご: Kim Chong-won釜山ぷさん大学だいがく)の解釈かいしゃくであり、大村おおむら長官ちょうかんとく) - つぎむら長官ちょうかん刺史しし) - 其下(長官ちょうかん首領しゅりょう)のさんきゅうから地方ちほう行政ぎょうせい組織そしき説明せつめいしたものとするが、最後さいご部分ぶぶん解釈かいしゃくは、りゅうはんは、した百姓ひゃくしょうちょう首領しゅりょうんだとかいし、きむ鍾圓は、したちょう百姓ひゃくしょう首領しゅりょうんだとかい[95]。もうひとつはほおとおるおよび鈴木すずきやすしみん解釈かいしゃくであり、大村おおむら - つぎむらきゅうであり、「其下百姓ひゃくしょう曰首りょう。」は、それらの治下ちかにある百姓ひゃくしょうとく刺史しし総称そうしょうして首領しゅりょうんだとするが、鈴木すずきやすしみんは、この記事きじ以外いがいの渤海使関係かんけい史料しりょうからみやこただし刺史しし下位かい地方ちほう長官ちょうかんとして首領しゅりょう存在そんざいすることをろんじており、このてんりゅうはんおよびきむ鍾圓意見いけんおなじくする[95]

渤海研究けんきゅうしゃは、とうだい史料しりょう周辺しゅうへん諸国しょこくおよび周辺しゅうへんしょ民族みんぞく関係かんけい記事きじ頻出ひんしゅつする「首領しゅりょう」の用例ようれいから、「中国ちゅうごくからよんえびす首長しゅちょうそうかたり」「いわゆるおうにあたるいちこく一種いっしゅぞく首長しゅちょうか、それにつぐ有数ゆうすう首長しゅちょうそうないし政治せいじてき支配しはいそう中国ちゅうごく王朝おうちょうがわ用語ようごであり、かれらは中国ちゅうごくからよりその支配しはい領域りょういきしゅうとしてみとめられ、そのままとく刺史しし任命にんめいされる存在そんざい[96]」「中国ちゅうごく正史せいしよんえびすでんや『さつもとかめそとしんにはしばしば首領しゅりょうなる呼称こしょうられるが、これは民族みんぞくながたいして中国ちゅうごくがわした一般いっぱんてき名称めいしょうであり、これは渤海あるいは靺鞨にかぎらない[97][注釈ちゅうしゃく 9]」という理解りかいをしてきた[98]

727ねん最初さいしょの渤海使上陸じょうりく大使たいしなどをうしない、平城京へいじょうきょうはいったとき代表だいひょうは「首領しゅりょう」であり、841ねんの渤海使構成こうせい宮内庁くないちょうしょりょうぞう壬生みぶ文書ぶんしょ中台ちゅうたいしょう牒(渤海の三省みつよしの1つである中台ちゅうたいしょううつしにみると、105にんちゅう首領しゅりょう」(だい首領しゅりょう)が65にん半数はんすうえ、716ねん以後いごとうへの「朝貢ちょうこう使」にも「首領しゅりょう」(だい首領しゅりょう)がしばしばくわわっている[99]:4。「首領しゅりょう」とは渤海の固有こゆうではなく国際こくさいとしての漢語かんごであり、渤海各地かくち多様たよう集団しゅうだん支配しはいしゃすが、地域ちいき集団しゅうだん多数たすう住民じゅうみん組織そしきし、生産せいさんぶつ管理かんり分配ぶんぱいして統制とうせいし、渤海こく服属ふくぞくして以後いご生産せいさん経済けいざい活動かつどう維持いじおもとする伝統でんとうてき支配しはい秩序ちつじょをそのまま承認しょうにんされ、外交がいこう交易こうえきにもかかわったとみられる[99]:4824ねん藤原ふじわらいとぐちが渤海使本質ほんしつを「じつにこれしょうたび」と非難ひなんして以後いごは、派遣はけんを12ねんに1かい制限せいげんしたが、そのいちぎょう過半数かはんすう首領しゅりょうめており、首領しゅりょうたちはみずからの支配しはい獲得かくとくした毛皮けがわなどの特産とくさんぶつ交易こうえきひんとしてたずさえ、上陸じょうりく北陸ほくりくなど日本海にほんかいがわ平城京へいじょうきょうあるいは平安京へいあんきょうきゃくかんなどで公私こうし交易こうえきをおこなっており、日本にっぽんから渤海へおくられた「かいたまものひん」の大半たいはん首領しゅりょうあたえられることが規定きていされていたた(『延喜えんぎしき大蔵省おおくらしょう[99]:4。渤海からとうへの遣唐使けんとうしは、王族おうぞく首領しゅりょうしん官吏かんりけられ、うち首領しゅりょうだい首領しゅりょう)は8世紀せいき前半ぜんはんまでで、以後いご姿すがたすが、この変化へんかは渤海の靺鞨しょ部族ぶぞく支配しはい拡大かくだい過程かてい対応たいおう関係かんけいにあり、首領しゅりょうたちは地方ちほう官制かんせい整備せいびにともない、しゅうけんレベルの官吏かんりへの身分みぶん上昇じょうしょうげた。渤海は朝貢ちょうこう最初さいしょからとうに「就市公的こうてき交易こうえき」を要請ようせいし、毎年まいとしでの名馬めいば交易こうえきたかはいたかとしみつげ王子おうじらによるじゅくどう交易こうえきなどの交易こうえき本位ほんい外交がいこうつづけたが、その主要しゅようにな首領しゅりょうそうである[99]:5。渤海政権せいけん首領しゅりょうそうさかんな生産せいさん流通りゅうつう機能きのう対外たいがいてき交易こうえき活動かつどう包摂ほうせつ利用りようし、首領しゅりょう頂点ちょうてんとする社会しゃかい秩序ちつじょ社会しゃかい経済けいざいてき組織そしきをもとに、中華ちゅうかしき支配しはい機構きこう律令制りつりょうせいわせて国家こっか骨格こっかくをつくり、渤海は首領しゅりょうそうになった交易こうえき活動かつどう外交がいこうとのがらみで活用かつようした国家こっかといういちめん特質とくしつとして指摘してきできる[99]:7

浜田はまだこうさくは、首領しゅりょうとは「種族しゅぞくあたま」の意味いみ解釈かいしゃくされ、種族しゅぞく構成こうせいいんあいだには、擬制ぎせいてき血縁けつえん関係かんけい紐帯ちゅうたいとして結合けつごうされていたと推測すいそく[100]首領しゅりょうにはそれぞれの種族しゅぞく固有こゆうかたりおん名称めいしょうがあり、これが中国ちゅうごく統治とうちしゃ記録きろくしゃからみれば、「首領しゅりょう」とかんやくされる[100]。「首領しゅりょう」の種族しゅぞくおんおとうつして種族しゅぞく固有こゆうおとのこした表記ひょうきでは、靺鞨しょぞく後身こうしんたるちぎりかたりおんでは、「舎利しゃり」がこれに相当そうとうし、ちぎり歴史れきし叙述じょじゅつした『りょうまきいちいちろくの「国語こくごかい」の「舎利しゃり」とは「ちぎりごうみん頭巾ずきんよう裹するものうしじゅうとううまひゃく疋をおさめむればすなわかんきゅうす、づけて舎利しゃりという」とある「舎利しゃり」であり[100]、『だいかいよう中国語ちゅうごくごばんまきさんじゅう・渤海には渤海の建国けんこくたる乞乞なかぞうを「だい舎利しゃり乞乞なかぞう」と記録きろくし、舎利しゃりとは首領しゅりょう意味いみする靺鞨おとうつし表記ひょうきであり、『さつもとかめまききゅうななには、741ねん2がつえつ靺鞨の「部落ぶらくがらす舎利しゃり」がとう正使せいしとして派遣はけんされたと記録きろくされ、『さつもとかめきゅうなないちにも「其部落与舎利しゃり」と記録きろくされており、『しんとうしょまきよんさん地理ちりこころざしには、安東あんどうみやこまもる統括とうかつされたきゅうとくひとつに舎利しゃり州都しゅうととくがあり、『ちぎりこくこころざしまきにも「舎利しゃり萴刺」や「萴骨舎利しゃり」などと、人名じんめい接尾せつび接頭せっとうにあらわれており、舎利しゃりは靺鞨にひろくみられる種族しゅぞくおとうつしであることがうなづける、と指摘してきしている[100]。これにたいして河内かわうちはるじんは、舎利しゃりを渤海の在地ざいち首長しゅちょうである首領しゅりょう同音どうおん異字いじであるとする見解けんかいがあるが、とうは、首領しゅりょうという語句ごくしん[注釈ちゅうしゃく 10]および国内こくない地域ちいき集団しゅうだん指導しどうしゃ[注釈ちゅうしゃく 11]たいしてももちいており、「舎利しゃり」を中国人ちゅうごくじんが「首領しゅりょう」ときとったとするのはむずかしい、と指摘してきしており、『りょう国語こくごかいには、「ちぎりたんごうみん耍裹頭巾ずきんしゃおさめうしじゅうとううまひゃく疋、乃給かんめい舎利しゃり[101]」とあり、ちぎりぞくして家畜かちく一定いっていすうおさめるもの舎利しゃりさづけられたことがわかり、『どおりかんちょうきょうさんねんさんがつじょうには、「ゆうちぎり舎利しゃり萴剌與惕隱、みなためちょういさおひとししょとりこ舎利しゃり・惕隱、みなちぎりかんぐん頭目とうもくしょう」とあり、舎利しゃりちぎりにおける軍事ぐんじ指導しどうしゃであることがわかり、ちぎりや靺鞨において首長しゅちょう言葉ことばは、からはつまでテュルク勇者ゆうしゃをあらわすバガトルからくる「莫賀どる」「莫弗」「瞞咄」であり、「莫賀どる」が軍事ぐんじ指導しどうしゃ意味いみゆうし、舎利しゃり軍事ぐんじ指導しどうしゃであるならば、どういち階層かいそうである蓋然性がいぜんせいたかく、「莫賀どる」と「舎利しゃり」がどういち階層かいそうであることをしめ史料しりょう存在そんざいしないが、からはつまで「莫賀どる」としょうされた首長しゅちょうは、その政治せいじてき整備せいびから「舎利しゃり」というかんゆうするようになったとかんがえたい、とべている[102]

渤海の生業せいぎょうは、高句麗こうくりおよび南部なんぶ靺鞨は農耕のうこう北部ほくぶ靺鞨しょ部族ぶぞく狩猟しゅりょう中核ちゅうかくであり、北部ほくぶ靺鞨しょ部族ぶぞく地域ちいきは、『類聚るいじゅう国史こくし沿革えんかく記事きじにみえる、中央ちゅうおうから派遣はけんされる支配しはいそう土人どじん」と一般いっぱん民衆みんしゅうである靺鞨とがわけられ、間接かんせつ支配しはいがおこなわれていた[103]。こういう形態けいたい場合ばあい、「土人どじん」と靺鞨が同族どうぞく意識いしきをもって融合ゆうごうするのはむずかしく、渤海建国けんこく以来いらい支配しはいそうである高句麗こうくりじんおよび南部なんぶ靺鞨が融合ゆうごうすることはりえても、支配しはいそうである北部ほくぶ靺鞨と高句麗こうくりじんおよび南部なんぶ靺鞨は融合ゆうごうせず、北部ほくぶ靺鞨から反発はんぱつがあった場合ばあい、渤海は分裂ぶんれつしかねないが、そのような事態じたいは渤海末期まっきまで発生はっせいしておらず、それは、渤海支配しはいそう支配しはいそうである北部ほくぶ靺鞨しょ部族ぶぞく支持しじていたからであり、「首領しゅりょうせい」という渤海独自どくじ在地ざいち支配しはい方式ほうしき要因よういんがある[103]。「首領しゅりょうせい」という用語ようごをはじめて使用しようしたのは鈴木すずきやすしみんである。鈴木すずきやすしみんは、首領しゅりょうは靺鞨しょ部族ぶぞくの「部落ぶらく」とばれる地域ちいき割拠かっきょする在地ざいち首長しゅちょうであり、伝統でんとうてき旧来きゅうらい在地ざいち支配しはいけんをそのまま承認しょうにんされ、部落ぶらく成員せいいんたる「百姓ひゃくしょう」をすべぞく、かつ地方ちほうかんじんをはじめとする官僚かんりょう外交がいこう使節しせつ随員ずいいんにもなった、と理解りかいした。換言かんげんすれば、渤海王権おうけんは、靺鞨しょ部族ぶぞく支配しはいするにあたり、その在地ざいち社会しゃかい解体かいたいすることなく、在地ざいち首長しゅちょうを「首領しゅりょう」とづけて支配しはいけんみとめ、「首領しゅりょう」を官僚かんりょう外交がいこう使節しせつ随員ずいいんというかたちで渤海国家こっかのなかに包摂ほうせつ国家こっかてきさい編成へんせいすることにより、はじめて人民じんみん支配しはい貫徹かんてつすることができたのであり、渤海は首領しゅりょうそう媒介ばいかいにして靺鞨の人々ひとびと間接かんせつ支配しはいし、首領しゅりょうそう利益りえき維持いじのために呼応こおうした、とかんがえた[104]鈴木すずきやすしみんは、こうした渤海こく国家こっかおよび社会しゃかい特徴とくちょうづける首領しゅりょう特有とくゆうのありかた媒介ばいかいとした、間接かんせつ支配しはい体制たいせいを「首領しゅりょうせい」とぶことを提唱ていしょうした[103]河上かわかみひろしは、高句麗こうくりしろ支配しはい体制たいせいのありかたと『類聚るいじゅう国史こくし沿革えんかく記事きじにみえる渤海社会しゃかいのありかたとの類似るいじせい指摘してきし、渤海の地方ちほう支配しはい体制たいせい高句麗こうくり継承けいしょう関係かんけいにあるとかんがえ、高句麗こうくり在地ざいち首長しゅちょうかん邏達」が渤海の「首領しゅりょう」に相当そうとうすると推定すいていし、渤海は在地ざいち勢力せいりょく解体かいたいすることなく、在地ざいち勢力せいりょく依拠いきょして支配しはいおよぼしたと主張しゅちょうした[104]大隅おおすみ晃弘あきひろは、鈴木すずきやすしみん河上かわかみひろしの渤海の在地ざいち支配しはい体制たいせい理解りかい支持しじし、渤海の靺鞨支配しはい進展しんてんと「首領しゅりょうせい」の成立せいりつ関連かんれんづけ、とうあるいは日本にっぽんとの交易こうえきによってられる首領しゅりょう利益りえきおおきさを指摘してきし、渤海が交易こうえき独占どくせんしたうえで首領しゅりょうをそのあずからせたことが渤海王権おうけん支配しはい貫徹かんてつしゅ要因よういんであったとの見解けんかいしめした[104]石井いしい正敏まさとしは、うけたまわきゅうねん来日らいにち渤海使がもたらした咸和じゅういちねんうるうきゅうがつじゅうにちづけ太政官だじょうかんあて中台ちゅうたいしょう牒(渤海の三省みつよしの1つである中台ちゅうたいしょう)には、渤海使いちぎょう105にん内訳うちわけ明記めいきしてあり、「使つかいあたま大使たいし一人ひとり、嗣使(副使ふくし一人ひとり判官ほうがんにんろくごとさんにん訳語やくご二人ふたり史生ふみお二人ふたり天文てんもんせいいちにんだい首領しゅりょうろくにんこずえこうはちにん」とあることから、だい首領しゅりょうは、しょう首領しゅりょうといったものとの対称たいしょうではなく、首領しゅりょう美称びしょうであろう、と指摘してきしており、その65にんという数値すうちが渤海のしゅうすう一致いっちすることから、鈴木すずきやすしみんは「(首領しゅりょう支配しはい土地とちからの産物さんぶつが(日本にっぽんへの)朝貢ちょうこうぶつとなって徴集ちょうしゅうされたのではなかろうか」「首領しゅりょういちしゅうにつき一人ひとりといった割合わりあい選抜せんばつされ」たのではなかろうかとろんじている[105]しげるは、「首領しゅりょうとは、渤海領域りょういきないの靺鞨しょ部族ぶぞくなかでも在地ざいち社会しゃかい支配しはいしゃとして君臨くんりんするものたちで、渤海王権おうけんかれらを包摂ほうせつし、これを国家こっかてき再編さいへんすることによって集権しゅうけんてき支配しはい可能かのうにしていたと推定すいていされている」と指摘してきしており、首領しゅりょう日本にっぽんへの使つかい参加さんかしていた背景はいけいには、元来がんらい、靺鞨しょ部族ぶぞくはそれぞれ単独たんどくとうあるいはしんなどの周辺しゅうへんしょ地域ちいき交易こうえきをおこなっていたが、8世紀せいきなか以降いこう、靺鞨しょ部族ぶぞくは渤海王権おうけん包摂ほうせつされ、対外たいがい活動かつどう停止ていししたが[106]、渤海王権おうけん包摂ほうせつされた靺鞨しょ部族ぶぞく活動かつどうは渤海の対外たいがい戦略せんりゃく拘束こうそくされざるをなくなり、さらに、渤海は8世紀せいき以降いこう一貫いっかんしてしんとは敵対てきたい戦略せんりゃくをとり、しんとの通交つうこう途絶とぜつしたことにより、狩猟しゅりょう漁撈ぎょろう生業せいぎょうとし、遠隔えんかく交易こうえき従事じゅうじしていた靺鞨しょ部族ぶぞく行動こうどういちじるしくせば[106]地域ちいきてきしん隣接りんせつする南部なんぶの靺鞨しょ部族ぶぞくにとって、しんとの交易こうえき歴史れきしゆうする活動かつどうであり、これをおぎなうかのように渤海は、靺鞨しょ部族ぶぞく積極せっきょくてきとうあるいは日本にっぽんへの使つかい参加さんかさせることにより、靺鞨しょ部族ぶぞく従前じゅうぜん権益けんえき保証ほしょうした、と主張しゅちょうしている[106]きむ鍾圓朝鮮ちょうせん: 김종원英語えいご: Kim Chong-won釜山ぷさん大学だいがく)は、『類聚るいじゅう国史こくし』の記録きろくざいから学問がくもんそうえいただし見聞けんぶんろく一部いちぶとし、高句麗こうくりのこみん比較的ひかくてきおお地域ちいきではしゅうけんせい施行しこうされていたであろうが、靺鞨ぞく集団しゅうだん居住きょじゅうする地域ちいきでは部族ぶぞくせい部族ぶぞく自治じちせい)が施行しこうされていた、とみた[107]きむひがし朝鮮ちょうせん: 김동우国立こくりつ春川はるかわ博物館はくぶつかん英語えいごばん)は、渤海の首領しゅりょう地方ちほうかん官僚かんりょう、そしてにち使下級かきゅう随行ずいこういんさんしゃ区分くぶんし、せんおう大仁おおひとしげる以後いご下級かきゅう随行ずいこういんのように首領しゅりょう地位ちい下落げらくした理由りゆうは、中央ちゅうおう首領しゅりょう政治せいじ制度せいど次第しだい整備せいびされるにつれ、首領しゅりょう称号しょうごうわりべつ官職かんしょくめい官爵かんしゃくめいばれ、地方ちほう首領しゅりょうは、その独立どくりつてき地位ちい以前いぜんよりも制約せいやくくわわったからだとした[108]そうはじめごう朝鮮ちょうせん: 송기호英語えいご: Song Ki-hoソウル大学だいがく)は、渤海の首領しゅりょう中央ちゅうおう政府せいふから官職かんしょくかんひんけない勢力せいりょくで、独自どくじせいつよ維持いじしていた在地ざいち支配しはいしゃであって、官職かんしょく体制たいせいがいにあったとみた[109]ぼくしんよし朝鮮ちょうせん: 박진숙忠南大学ちゅうなんだいがく)は、首領しゅりょう現地げんちじんであるとく刺史ししのもとにかれた存在そんざいであって、地方ちほうみん統治とうちする一定いってい権利けんり付与ふよされた地方ちほう末端まったん官吏かんりとし、みやこただし刺史ししおよびけんすすむおなじく、首領しゅりょうもまた中央ちゅうおうより任命にんめいされたであろうとみた[110][111]ほおとおるは、百姓ひゃくしょうは「一般いっぱんにいう庶民しょみん」であり、首領しゅりょうは「特別とくべつ現任げんにん官職かんしょくのない、いわば後世こうせいにおける朝鮮ちょうせんの『りょうはん』にあたる」と主張しゅちょうしている[112][113]ちょうひろしいずみほど妮娜は、百姓ひゃくしょうのなかにあって、土人どじんと靺鞨じん地位ちいにはがあり、「首領しゅりょう」とは、氏族しぞくちょうあるいは部落ぶらくちょうし、みやこただしおよび刺史ししとは、「首領しゅりょう」の上位じょうい地方ちほう長官ちょうかんのことであり、一般いっぱんみやこただしおよび刺史ししらはしなかい身分みぶん貴族きぞくであった、と指摘してきしている[114][115]

しげるは、渤海を独自どくじのエスニック・アイデンティティ(民族みんぞく意識いしき)をもつ高句麗こうくりじんと靺鞨からなる民族みんぞく国家こっかとする見解けんかいしめしたうえで、渤海は、従来じゅうらいより独自どくじ対外たいがい交易こうえきをおこなっていた靺鞨しょ部族ぶぞく包摂ほうせつするにあたり、独自どくじ外交がいこう遮断しゃだんするわりに、在地ざいち首長しゅちょうである首領しゅりょうを渤海のたいとうおよびたいにち使節しせつだん恒常こうじょうてき参加さんかさせることにより、対外たいがい交易こうえき便宜べんぎおよび安全あんぜん供与きょうよして靺鞨しょ部族ぶぞく懐柔かいじゅうし、靺鞨にたいする対外たいがい通交つうこう管理かんりこそが渤海の国家こっか支配しはい要諦ようたいであるとし、対外たいがい通交つうこうたん経済けいざいてき行為こういであるばかりか政治せいじ支配しはい根幹こんかんかかわり、渤海のたいにち使つかいだんである渤海使760年代ねんだいさかい経済けいざい目的もくてきしているようにみえるのも、こうした渤海の靺鞨しょ部族ぶぞく支配しはいのあらわれであると主張しゅちょうした[104]しげるの「首領しゅりょうせい」は、渤海の北部ほくぶ靺鞨しょ部族ぶぞく支配しはい進展しんてんと渤海使経済けいざい目的もくてき時期じきとがかさなること、渤海使使節しせつだん過半数かはんすう首領しゅりょうめており、日本にっぽんからのかいたまもの総量そうりょう半分はんぶん以上いじょう首領しゅりょうにわたること、狩猟しゅりょうおよび漁撈ぎょろうみんはその生産せいさんぶつ農耕のうこうみんとの交換こうかん必要ひつようせいがあることから交易こうえきみんでもあること、渤海と同様どうよう東夷あずまえびすしょぞく世界せかい建国けんこくした高句麗こうくりおよびしん民族みんぞく状況じょうきょうゆうし、自律じりつせいのあるしょ民族みんぞく統合とうごうする原理げんりとして中国ちゅうごく文明ぶんめい導入どうにゅうしたこと、日本海にほんかいがわの靺鞨がその前身ぜんしんひとつである以来いらい遠隔えんかく交易こうえきみんであること、渤海こく衰退すいたいしん国境こっきょう付近ふきんの靺鞨が独自どくじしんとの交易こうえきもとめたこと、渤海滅亡めつぼうにおけるきゅう渤海領域りょういきおんなしんぞく高麗こうらい王朝おうちょう活発かっぱつ交易こうえきしたことなどを根拠こんきょとしており、この仮説かせつしたがうならば、渤海は交易こうえき保証ほしょうができているあいだは、北部ほくぶ靺鞨しょ部族ぶぞく安定あんてい支配しはいができたことになる[103]古畑ふるはたとおるは、「首領しゅりょうせい基礎きそとする民族みんぞく国家こっかとしての渤海というとらかたは、この地域ちいきにおける民族みんぞく国家こっかのありかた歴史れきしてき変遷へんせんのなかに位置いちづいていて、非常ひじょう説得せっとくりょくのあるものになっている。いいかえれば、渤海の首領しゅりょうせいは、によって東夷あずまえびすしょぞくおおきな歴史れきしながれのなかに位置いちづけられたことで、渤海の国家こっか社会しゃかい理解りかいするうえでのもっと有力ゆうりょく仮説かせつ成長せいちょうしたとひょうしてよかろう」とべている[104]

石井いしい正敏まさとしは、「其下百姓ひゃくしょうみな曰首りょう」を「其ノしも百姓ひゃくしょうヲ、ミナ首領しゅりょうト曰フ」とくんじて、「百姓ひゃくしょう」を百官ひゃっかん役人やくにんとし、みやこただし刺史ししという村長そんちょうした役人やくにん=靺鞨じん首長しゅちょう首領しゅりょう総称そうしょうした、という解釈かいしゃく提示ていじし、首領しゅりょうせい支持しじしている[116]一方いっぽうしげる強調きょうちょうする在地ざいち首長しゅちょう自体じたい渤海使一員いちいんとなって来日らいにちしたとすることには否定ひていてきであり、渤海使史料しりょう登場とうじょうする首領しゅりょうは、日本にっぽん遣唐使けんとうしでいえば、乗船じょうせんごとみやつこ舶都たくみふねみず手長てながふねたくみ柂師はさみ射手しゃしゅなどに該当がいとうし、幹部かんぶクラスよりした下級かきゅう役人やくにん総称そうしょうかいし、首領しゅりょう在地ざいち首長しゅちょうそう総称そうしょうだけでなく、中央ちゅうおう政府せいふおよび地方ちほう政府せいふをとわず下級かきゅうかんじんそう汎称はんしょうではないかという理解りかい提示ていじしており、首領しゅりょう国家こっか交易こうえきだんへの再編さいへんを渤海の国家こっか支配しはい要諦ようたいとみなす首領しゅりょうせいろんには批判ひはんてきである[116]古畑ふるはたとおるは、「この石井いしい論理ろんり展開てんかいたしかに見事みごとであるが、自身じしんべるように、日本にっぽんでは『百姓ひゃくしょう』のかたり一貫いっかんして普遍ふへんてき支配しはい身分みぶん呼称こしょうとして使用しようされ、役人やくにん意味いみするどう時代じだい事例じれいがないというおおきな欠陥けっかん存在そんざいする。石井いしいは『類聚るいじゅう国史こくし』渤海沿革えんかく関係かんけい記事きじの『百姓ひゃくしょう』を渤海における用例ようれいとみる可能かのうせい指摘してきするが、日本にっぽん人々ひとびとたいして渤海の『首領しゅりょう』を解説かいせつする文章ぶんしょうに渤海独自どくじ用語ようご使つかわれ、これについてなん説明せつめいもないというのはいかにも不自然ふしぜんである。その意味いみで、この石井いしい解釈かいしゃくいま決定けっていとはいえない」とひょうしている[116]

森田もりたは、「首領しゅりょう」について、にわたってろんじているが、前説ぜんせつこうせつでは見解けんかいことなり、前説ぜんせつは、咸和じゅういちねんうるうきゅうがつじゅうにちづけ太政官だじょうかんあて中台ちゅうたいしょう牒(渤海の三省みつよしの1つである中台ちゅうたいしょう)にみえる「ろくじゅうにんだい首領しゅりょう記事きじから、首領しゅりょう渤海使みずしゅかいし、みずしゅ一般いっぱん百姓ひゃくしょう庶民しょみんであることから、首領しゅりょうはその本義ほんぎはなれ、渤海ない百姓ひゃくしょうクラスを用語ようご変質へんしつしたとかんがえ、「其下百姓ひゃくしょうみな曰首りょう記事きじを、「ソノ百姓ひゃくしょうみな首領しゅりょうト曰フ」とくんじ、百姓ひゃくしょう首領しゅりょうかいし、換言かんげんすれば、百姓ひゃくしょう一般いっぱん庶民しょみんせつであり、首領しゅりょうせいろんとは対立たいりつする[117]こうせつは、「其下百姓ひゃくしょうみな曰首りょう記事きじを、百姓ひゃくしょう首領しゅりょうする見解けんかい維持いじするが、渤海に編戸あみどせいがおこなわれており、複数ふくすう自然しぜん家族かぞくから統率とうそつする戸主こしゅ庶民しょみん階層かいそうぞくすることを根拠こんきょにして、首領しゅりょう戸主こしゅというしん見解けんかい提示ていじし、戸口とぐちきょくおよび奴婢ぬひぞくするだい組織そしきかいし、官吏かんりほぐさないてんのぞけば、首領しゅりょう戸主こしゅせつ首領しゅりょうせいろん社会しゃかい構造こうぞうちか[117]。また、咸和じゅういちねんうるうきゅうがつじゅうにちづけ太政官だじょうかんあて中台ちゅうたいしょう牒における首領しゅりょう解釈かいしゃくにも若干じゃっかん変更へんこうくわえ、みずしゅをはじめ船内せんないしょやく従事じゅうじするものという見解けんかいしめしている[117]古畑ふるはたとおるは、前説ぜんせつを「『だい首領しゅりょう』をみずしゅするてんなどに問題もんだいのこり、渤海研究けんきゅうしゃ大方おおかた賛同さんどうられなかった」、こうせつを「首領しゅりょう戸主こしゅせつ船内せんないしょやく従事じゅうじするものとの関係かんけい不明瞭ふめいりょうで、論理ろんり自体じたいにわかりにくいてんおおく、依然いぜんとして渤海研究けんきゅうしゃからはほとんど賛同さんどうられていない」とひょうしている[117]石井いしい正敏まさとしは、「そもそも首領しゅりょうみずしゅとすることに問題もんだいがあるのではなかろうか。すなわち日本にっぽん使首領しゅりょうみずしゅとすると、あきらかに船員せんいん意味いみするこずえこうがすでにはちにんんでいるので、いちぎょういちにんのうちきゅうさんにんやくきゅうわり)もが操船そうせん関係かんけいしゃめられてしまうことになる。かんじんそうきゅうわりめる国家こっか使節しせつというものがかんがえられるであろうか。首領しゅりょうをすべて民間みんかんから徴用ちょうようされたみずしゅとすることには疑問ぎもんがある」とひょうしている[105]

渤海は、在地ざいち社会しゃかい部落ぶらくちょうを「首領しゅりょう」に任命にんめい在地ざいち社会しゃかい部落ぶらく中心ちゅうしんとなるだい規模きぼ部落ぶらくみやこただしあるいは刺史しし中央ちゅうおうから派遣はけん統轄とうかつしたとみられるが、河上かわかみひろしは、渤海は領域りょういき支配しはいにあたり、およびしゅうをおいたが、これは高句麗こうくりしろ支配しはい継承けいしょうしており、行政ぎょうせい機構きこうであると同時どうじ軍団ぐんだん組織そしきでもあり、その基礎きそは靺鞨の部落ぶらくあるいは高句麗こうくりしろ邑であり、渤海のおよびしゅうは、中国ちゅうごくとはことなる部落ぶらくおよびしろ邑そのものであり、渤海の在地ざいち首長しゅちょうそうは「首領しゅりょう」をあたえられることにより、在地ざいち社会しゃかいにおける支配しはいけんみとめられ、渤海の支配しはい体制たいせいまれた、と主張しゅちょうしており[118]高句麗こうくり地方ちほう統治とうち組織そしきと渤海の地方ちほう統治とうち組織そしき類似るいじせい指摘してきしている。高句麗こうくり地方ちほう統治とうち組織そしきは、大城おおしろ - しろ - 小城おぎからり、大城おおしろしろには中央ちゅうおうから各々おのおのしとね朝鮮ちょうせんばんしょ閭近ささえ長官ちょうかんとして派遣はけんされているが、『類聚るいじゅう国史こくし』にしるされている渤海の地方ちほう体制たいせい比較ひかくした場合ばあい大城おおしろ長官ちょうかんしとね朝鮮ちょうせんばん) - しろ長官ちょうかんしょ閭近ささえ)の関係かんけいは、そのまま大村おおむら長官ちょうかんみやこただし) - つぎむら長官ちょうかん刺史しし)の関係かんけい相似そうじしており、さらに、中国ちゅうごく史料しりょうでは、高句麗こうくりしとね薩はとくに、高句麗こうくりしょ閭近ささえ刺史しし比定ひていしており、このこともしとね薩、しょ閭近ささえと渤海のとく刺史しし同様どうよう性格せいかくであったことをしめしている、と主張しゅちょうしている。河上かわかみひろしは、「刺史ししからした対応たいおう関係かんけいははっきりしないが、高句麗こうくり小城おぎにおかれた邏達が渤海の首領しゅりょうに、縣令けんれい比定ひていされた婁肖がそのまま渤海の縣令けんれいてはめられるのではないか。ただそうすると高句麗こうくり邏達はちょう比定ひていされているから、渤海においては中国ちゅうごくふうちょうふみとすべきかんにわざわざ首領しゅりょうなる呼称こしょうてているのが問題もんだいになる。ひとつの解答かいとうとして、これはとく刺史しし高句麗こうくりじんであるのにたいし、在地ざいち首長しゅちょうそうおおくが靺鞨じんからることの反映はんえいかんがえられる。つまり、種族しゅぞく相違そういからそのままちょうとはせずにさきべた中国ちゅうごくでの用例ようれい意識いしきして首領しゅりょうという呼称こしょうしたのだろう」と主張しゅちょうしている[119]。また、河上かわかみひろしは、とうだいいち高句麗こうくり出兵しゅっぺいにおいて、とう高句麗こうくりしろ巖城いわき朝鮮ちょうせんばんくだしたさいしろをそのままいわおしゅうとしてしゅう刺史ししはくいわお城主じょうしゅであるまごおと任命にんめいしており、高句麗こうくり滅亡めつぼう大城おおしろ - しろ - 小城おぎから高句麗こうくり地方ちほう統治とうち組織そしきはある程度ていど温存おんぞんされていたのではないか、と推測すいそく[119]高句麗こうくりじんじゅうにおける大城おおしろ - しろ関係かんけいにあたる靺鞨じんじゅう大村おおむら - つぎむら関係かんけいについて、靺鞨のかく部落ぶらくには各々おのおの部落ぶらくちょうがおり、独自どくじ活動かつどうをおこなっていたが、なかには、突地稽中国語ちゅうごくごばんちょうとする厥稽のような軍事ぐんじ行動こうどうさい部落ぶらく統率とうそつする有力ゆうりょく部落ぶらく存在そんざいし、渤海はこうした有力ゆうりょく部落ぶらくとくあるいは刺史しし派遣はけんして周辺しゅうへんしょう部落ぶらく統轄とうかつさせ、靺鞨の部落ぶらくちょうに「首領しゅりょうあたえ、みやこただしおよび刺史しし指揮しきにおき、高句麗こうくりしろ支配しはい体制たいせい継承けいしょうした渤海はしろ支配しはい体制たいせいを靺鞨のじゅうたいしてもおよぼしたのではないか、と指摘してき[120]てんあらわ元年がんねんさんがつちぎりかんだまかんのべしょう阿古あこただなどが渤海の長嶺ながみね中国語ちゅうごくごばん攻略こうりゃくし、それについて、『りょうまきななさん・粛阿ただでんは、かも淥府からななせんへい派兵はへいされ、ちぎりぐん交戦こうせんしたことをしるしており[注釈ちゅうしゃく 12]、渤海のおよびしゅう各々おのおの独自どくじ軍団ぐんだん組織そしきしていたことがうかがえる、としている[121]

きむ毓黻は、「首領しゅりょうため庶民しょみんこれちょうまた庶官通称つうしょう也。謹案、日本にっぽん逸史いっしいい渤海とく刺史しし以下いか百姓ひゃくしょうみな曰首りょう百姓ひゃくしょうしゃべつ庶民しょみん金代かなだいゆうもうやすせんおっとちょうはかりごとかつひゃくおっとちょうこれせいそく以軍せい庶民しょみん而為これちょう。渤海首領しゅりょうせいそくもうやすはかりごと克之かつゆきせいこれしょ也。だし使鄰国大使たいし以下いか属官ぞっかんまたゆう首領しゅりょう。其位ざいろくごとしなかんしたまたあずか金代かなだいはかりごとかつ相等そうとう首領しゅりょうしゃまた庶官たたえ也。」とべており[122]、「百姓ひゃくしょう庶民しょみんトハべつナリ」とし、「大村おおむら曰都とく曰刺。其下百姓ひゃくしょうみな曰首りょう。」の一節いっせつは、「みやこただし刺史ししした百姓ひゃくしょうをみな首領しゅりょうのたまう」と理解りかいしている。そして、「百姓ひゃくしょうしゃべつ庶民しょみん」は、「庶民しょみんこれちょう」としていることを参考さんこうにすれば、百姓ひゃくしょう基本きほんてき庶民しょみん意味いみであるが、『類聚るいじゅう国史こくし記事きじ百姓ひゃくしょうはただの庶民しょみんではなく、庶民しょみんのなかからえらばれて庶民しょみん統轄とうかつし、地方ちほう支配しはい機構きこう末端まったんつらなるものであり、首領しゅりょうばれた、の意味いみ理解りかいしており、『類聚るいじゅう国史こくし記事きじ百姓ひゃくしょう首領しゅりょう庶民しょみんちょうとなる。また、首領しゅりょう遣外けんがい使節しせつ下級かきゅう役人やくにんなどにもみえることから「庶官通称つうしょう」であるとし、金代かなだい社会しゃかい組織そしき軍事ぐんじ組織そしきもうやすはかりごとかつがたとしている[112]

主要しゅよう年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

おう[編集へんしゅう]

渤海おう系図けいず

継承けいしょう国家こっか[編集へんしゅう]

  • 皇帝こうていしょうしたもの
  • おうしょうしたもの
  • その、渤海のこみんによるもの
  • ちぎりによって渤海の設置せっちされたもの
  • 渤海こく王室おうしつであるまさる後裔こうえいしょうしたもの

元号げんごう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ しゅ 1996, p. 248しゅこくまこと黒竜江こくりゅうこうしょう文物ぶんぶつ考古こうこ研究所けんきゅうじょ)とこくちゅう黒竜江こくりゅうこうしょう社会しゃかい科学かがくいん歴史れきし研究所けんきゅうじょ渤海研究けんきゅうしつ)は「文献ぶんけん記録きろくされている言語げんごしょうであって、その全体ぜんたい究明きゅうめいすることはむずかしい。わずかに『しんとうしょ』渤海でんおよび『きゅうだい』渤海靺鞨などの史書ししょに、渤海ではおうを『どくおっと』とび、おう対面たいめんするときは『きよし』とび、上表じょうひょうするときは『もと』とくとあるが、この『きよし』はあかりかに漢語かんごからの借用しゃくようである。ソ連それん(ロシア)の学者がくしゃのエ・ヴェ・シャフクノフ(英語えいご: E. V. Shavkunovロシア: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究けんきゅうによれば、『どくおっと』とはおそらくまんしゅうの『卡達ひしげ』(管理かんりするの意味いみᡴᠠᡩ᠋ᠠᠯ᠊/kadala-))やナナイの『凱泰』と関係かんけいがあり、その本来ほんらい意味いみ年長ねんちょう管理かんりしゃ意味いみであろう、とう。また、渤海じんと靺鞨じん名前なまえには最後さいごに『こうむ』のいち音節おんせつつ『がらすしばこうむおのれ珎蒙、慕思こうむ』などのれいがある。この『こうむ』のおとは靺鞨なか重要じゅうよう膠着こうちゃく語尾ごびひとつであることがられる。ツングースけいかく民族みんぞく氏族しぞくを『こん』『はかりごとかつ』としょうするが、『こうむ』のおとが『』や『はかりごと』のおとちかいことをかんがえると、この『こうむ』のおとは、そのひとぞくする氏族しぞくあらわ音節おんせつであろうと推測すいそくできる。当時とうじ、靺鞨国家こっか公用こうようであり、広汎こうはん使用しようされていたことは間違まちがいない」とべている。
  2. ^ 酒寄さかより雅志まさし『コラム 渤海こく文化ぶんか点描てんびょう大修館書店たいしゅうかんしょてん月刊げっかんしにか〉、1998ねん9がつ、42ぺーじ。"はちいちねんひろしじんもとがつ帰国きこく目前もくぜんにした渤海使一員いちいんであった首領しゅりょうこうふつ使節しせつだんから一人ひとり離脱りだつして、越前えちぜんこくにとどまることになった。いわば亡命ぼうめいである。こうふつはそのえつ中国ちゅうごくうつされて、史生ふみお羽栗はぐりちょうと習語せいらに渤海教習きょうしゅうすることになったが、このたかふつ教習きょうしゅうした渤海とは、いったいどのような言葉ことばであったのだろうか。『しんとうしょ』渤海でんに、「ぞくおういて、どくおっとのたまう。せいおものたまう。もとのたまう」と、おう俗称ぞくしょう、つまり固有こゆうかたがあったことをつたえている。このことは渤海には、独自どくじ言語げんご存在そんざいしたことをしめしているといえよう。そもそも言語げんご密接みっせつ関係かんけいにあるのが民族みんぞくであるが、渤海は高句麗こうくりのこみんあわまつあるいは白山はくさん靺鞨などを糾合きゅうごうして樹立じゅりつされた民族みんぞく国家こっかである。とすればまずは高句麗こうくりはなされていたことは想像そうぞうかたくないが、あわまつ靺鞨や白山はくさん靺鞨の前身ぜんしんともいうべき挹婁や勿吉について、『こころざし東夷あずまえびすでん挹婁じょうには、「そのひとかたちおっとあまりる。言語げんごおっとあまりうららおなじからず」とあり、また『きた』勿吉でんにも「勿吉こく高句麗こうくりきたにあり。いちに靺鞨とのたまう。…言語げんごひとことなる」とあることから、靺鞨の言語げんご周辺しゅうへんしょ民族みんぞくときわだってことなっていたのであろう。したがって靺鞨しょもその構成こうせい民族みんぞくとする渤海では、靺鞨はなされていたことになる。しかも渤海が領域りょういき拡大かくだいしていく過程かていで、えつてつはらい涅などの北方ほっぽうの靺鞨しょ征服せいふくおおくの部族ぶぞく内包ないほうしており、靺鞨とはいえ、地域ちいき伝統でんとうによって差異さい、つまり方言ほうげんなどもあったものといえよう。いわば渤海は、高句麗こうくりをはじめ多様たような靺鞨はなされる多重たじゅう言語げんご世界せかいであったのである。以上いじょうのような理解りかいつならば、在地ざいち首長しゅちょうである首領しゅりょうこうふつ教習きょうしゅうした渤海とは、こうした靺鞨ではなかったかとおもわれる。"。 
  3. ^ a b 波戸はとおかあさひ『渤海こく文学ぶんがく応酬おうしゅう詩史しし概観がいかん大修館書店たいしゅうかんしょてん月刊げっかんしにか〉、1998ねん9がつ、67ぺーじ。"渤海こくは靺鞨ぞく主体しゅたいとし高句麗こうくりじん漢人かんど・突厥じんちぎりじんしつ韋人・かい紇人などおおくの民族みんぞくがいたらしいが、建国けんこく当初とうしょは靺鞨公用こうようとした。しかし政治せいじ機構きこうをはじめとしてもろもろの制度せいど文化ぶんか唐風とうふうされてくうちに、漢語かんご公用こうようとなっていった。また、渤海は高句麗こうくり文化ぶんか文学ぶんがく継承けいしょうしたが、高句麗こうくり文化ぶんか文学ぶんがくはすでに唐風とうふうされていたものである。そしてさらに渤海建国けんこくのち唐風とうふうされつつおおいにさかえた。ただし、大使たいし文官ぶんかん任命にんめいされるようになったのは、だいろくかい朝貢ちょうこう使からである。"。 
  4. ^ a b 上田うえだつよし『渤海使研究けんきゅう明石書店あかししょてん、2001ねん12月27にち、126ぺーじISBN 978-4750315072。"どくおっとについて、しゅこくまことこくちゅうの『渤海』では『ロシアの学者がくしゃのエ・ヴェ・シャフクノフ(英語えいご: E. V. Shavkunovロシア: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究けんきゅうによれば、「どくおっと」とはおそらく満州まんしゅうの「卡達ひしげカダラ」(管理かんりするの)やナナイの「凱泰カイタイ」と関係かんけいがあり、その本来ほんらい意味いみ年長ねんちょう管理かんりしゃ意味いみであろう、とう』と紹介しょうかいしている。また石井いしい正敏まさとしどくおっととは『仏陀ぶっだたいおとであろう(稲葉いなば岩吉いわきちぞうてい満州まんしゅう発達はったつ』)とする見解けんかいもあるが、あるいはまったくの憶測おくそくぎないが、原語げんごで「大王だいおう」のごとき意味いみをもっていたものではなかろうか。識者しきしゃのご教示きょうしをまちたい。』と、している。"。 
  5. ^ りゅうあつし『渤海こくぞくげんについて-中国ちゅうごく日本にっぽん朝鮮ちょうせん関連かんれん史料しりょう考察こうさつ-』國學院大學こくがくいんだいがく国学院こくがくいん雑誌ざっし〉、1997ねん7がつ、60ぺーじ りゅうあつし遼寧りょうねい大学だいがく)は「渤海こく風俗ふうぞくについて、『しんとうしょ』渤海でんに、「ぞくいいおう曰可どくおっと、曰聖おう、曰基。其命ためきょうおうちち曰老おうははたいつまとうと長子ちょうし曰副おう諸子しょし曰王。」とあり、おうどくおっとしょうする風俗ふうぞくのあることがられる。このどくおっと用語ようごについては、ロシアの学者がくしゃのエ・ヴェ・シャフクノフ(英語えいご: E. V. Shavkunovロシア: Эрнст Владимирович Шавкунов研究けんきゅうによれば、どくおっととはおそらく満州まんしゅうの卡達ひしげ管理かんりするの意味いみ)や、ナナイの凱泰(カイタイ)と関係かんけいがあり、その本来ほんらい意味いみ年長ねんちょう管理かんりしゃ意味いみであろうという。また、このどくおっと仏陀ぶっだたいおとであろうと学者がくしゃもある。いずれにしても、どくおっと用語ようご朝鮮ちょうせんについての歴史れきし文献ぶんけんであるりょうとうしょ高句麗こうくりでん百済くだらでんしんつたえには、られないことは事実じじつである。これこそ、渤海じん出自しゅつじ高句麗こうくりじんではなかった反証はんしょうであろう」とべている。
  6. ^ 酒寄さかより雅志まさし『コラム 渤海こく文化ぶんか点描てんびょう大修館書店たいしゅうかんしょてん月刊げっかんしにか〉、1998ねん9がつ、42-43ぺーじ。"はちななさんねんさだかんいちがつに、肥後ひごこく天草あまくさぐん漂着ひょうちゃくした渤海じんちぇそうたすくだいひねじゅんいちぎょうは、大宰府だざいふつかわしただいから通事つうじちょうたてただし調しらべをけ、渤海の入唐にっとう使であることが判明はんめいした。このことはちぇはじめらが、とう漢語かんごはなせたことをしめしている。もっともちぇはじめらは入唐にっとう使であるから、とうはなせたのは当然とうぜんともいえるが、渤海じんとうはなしたことのほろあかしにはなるであろう。またいちきゅうよんきゅうねん吉林きつりんしょうあつしけんろく頂山いただきやまから発見はっけんされた渤海だいさんだいおうだい欽茂の次女じじょである貞恵さだえ公主こうしゅ墓誌ぼしや、いちきゅうはちねんのべ朝鮮ちょうせんぞく自治じちしゅうかずりゅうけん竜頭山りゅうとうざんから発見はっけんされた貞恵さだえ公主こうしゅいもうとさだこう公主こうしゅ墓誌ぼしなどをみるとすぐれた駢儷べんれいたい漢文かんぶんかれていることや、来日らいにちした渤海使がもたらしたおうあきら中台ちゅうたいしょう牒などが漢文かんぶんかれ、またおうぶんのりや裴頲をはじめとした渤海使おおくがすぐれた漢詩かんしのこしていることを想起そうきすると、渤海じん漢字かんじ熟知じゅくちしていたことはたしかである。もとより漢字かんじ使用しようしていたことが、ただちにとうはな言葉ことばとして使つかっていたとはいえないが、渤海は広大こうだい支配しはい領域りょういき割拠かっきょするおおくの民族みんぞく民族みんぞく集団しゅうだん統一とういつしていく手段しゅだんとして、漢語かんご導入どうにゅうをはかったのであろう。日本にっぽん派遣はけんされた渤海使たちも、とう日本人にっぽんじん意思いし疎通そつうをはかっていた。だからこそ春日しゅんじつたくなり伊勢いせきょうぼう、また、大蔵おおくらさんつねのように、ゆたかなざいから経験けいけん裏打うらうちされたとうひいでた人物じんぶつが渤海通事つうじにんじられたのである。"。 
  7. ^ 古畑ふるはた 2017, p. 89-90 古畑ふるはたとおるは「渤海が国家こっか意思いし表現ひょうげんし、記録きろくのこすのに使用しようした文字もじは、漢字かんじである。独自どくじ文字もじ存在そんざい確認かくにんできないし、どう時期じきにユーラシアで使用しようされていたほかの文字もじ(突厥文字もじ、ウイグル文字もじ、ソクド文字もじなど)が国内こくない使用しようされた形跡けいせきもない。記録きろくのこすのに漢字かんじ使用しようされたことを証明しょうめいするのが、墓誌ぼしである。渤海の墓誌ぼしは、現在げんざいよっ発見はっけんされ、いずれも皇后こうごう公主こうしゅのもので、漢文かんぶんかれている。墓誌ぼしは、はかそとてる墓碑ぼひちがい、はかのなかにおさめてしまう。そのため、その文章ぶんしょうるのは埋葬まいそう人々ひとびとだけで、それが読者どくしゃとして想定そうていされている。ということは、皇后こうごう公主こうしゅ埋葬まいそうあつまる支配しはいそう人々ひとびと共通きょうつうめるのが、漢字かんじ漢文かんぶんだったということである。文字もじ文化ぶんかというてんでみれば、渤海が漢字かんじ文化ぶんかけんぞくすことは明白めいはくである。それだけでなく、渤海の支配しはいそう漢語かんご会話かいわができたとみられる。それをうかがわせるのが、日本にっぽんと渤海との外交がいこう交渉こうしょう共通きょうつう言語げんご漢語かんごだったてんである。日本にっぽんに渤海使がくると、日本にっぽんでは渤海通事つうじ指名しめいされ、通訳つうやくをした。この渤海通事つうじ使用しよう言語げんご漢語かんごであり、渤海使はこれを再度さいど通訳つうやくかいすることなくそのまま理解りかい会話かいわした。そもそも渤海を構成こうせいする高句麗こうくりじんや靺鞨しょぞくは、それぞれ独自どくじ言語げんごゆうしており、渤海は多重たじゅう言語げんご世界せかいであったとみられる。このような場合ばあい優位ゆういせい種族しゅぞく言語げんご共通きょうつう言語げんごとする方法ほうほうもあるが、外部がいぶ権威けんいある言語げんご相互そうご意思いし疎通そつうのための共通きょうつう言語げんごにすることもある。渤海の場合ばあい建国けんこく集団しゅうだんは、から領域りょういきない高句麗こうくりじん・靺鞨じん混成こんせい集団しゅうだんであったから、その指導しどうそう漢語かんごはなせたはずで、これをことなる種族しゅぞくあいだ意思いし疎通そつう使つかっていたとおもわれる。そのありかたが、その多様たよう種族しゅぞく吸収きゅうしゅうにあたって有効ゆうこう機能きのうし、そのまま継続けいぞくしたのであろう。一方いっぽう、渤海に独自どくじ言語げんご存在そんざいしたことも、『日本にっぽんりゃくひろしじん元年がんねんはちいち〇)がつへいとらじょうに、えつ中国ちゅうごく史生ふみおと習語せいを渤海じんだかほとけ師事しじさせて『渤海』を習得しゅうとくさせたという記事きじがあるから、間違まちがいない。ちなみにこのたかふつは、渤海使一員いちいんとして来日らいにちしたが、脱出だっしゅつして日本にっぽんのこり、えつ中国ちゅうごく安置あんちされたものである。ともかくも、渤海には、漢語かんごと『渤海』というしゅ共通きょうつう言語げんごがあったと想定そうていされ、なかでも漢語かんご支配しはいそうによる公用こうようてき位置いちにあったとみられる。漢語かんごには当時とうじことなる言語げんごはなす渤海領域りょういきない人々ひとびと納得なっとくさせるだけの権威けんいがあったのであろう」とべている。
  8. ^ 浜田はまだ 2000, p. 127-128 浜田はまだこうさくは「渤海の日本にっぽん使いちぎょうは、日本にっぽんがわとの意思いし疎通そつうのために、文字もじ言語げんごでは漢文かんぶん外交がいこう文書ぶんしょとう交換こうかんしていた。しかし、音声おんせい言語げんごはどうであったか、交渉こうしょう記録きろくにはこれにかんする言及げんきゅうはない。双方そうほう音声おんせい言語げんごになんら支障ししょうがなかったかのようである。そこに通事つうじ仲介ちゅうかいして中国ちゅうごく対話たいわしたからであろう」とべている。
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  103. ^ a b c d 古畑ふるはた 2017, p. 165-167
  104. ^ a b c d e 佐藤さとう 2003, p. 211-212
  105. ^ a b 石井いしい 2001, p. 145
  106. ^ a b c しげる古代こだい東北とうほくアジアしょ民族みんぞくたい日本にっぽん通交つうこう--けがれ高句麗こうくり・渤海を中心ちゅうしんに』大和やまと書房しょぼうひがしアジアの古代こだい文化ぶんか (96)〉、1998ねん8がつ、90-91ぺーじ 
  107. ^ きむ鍾圓『渤海의 首領しゅりょう에 대하여-地方ちほう統治とうち制度せいど關聯かんれん하여-』ぜんうみむね博士はかせ華甲かこう記念きねん史學しがく論叢ろんそう、1979ねん 
  108. ^ きむひがし『渤海의 地方ちほう統治とうち體制たいせい 운영과 그 변화』韓國かんこく史學しがくむくい、1996ねん 
  109. ^ そうはじめごう『渤海 首領しゅりょう의 성격』지식산업사〈한국 고대·중세의 지배체제와 농민〉、1997ねん 
  110. ^ ぼくしんよし『渤海의 地方ちほう支配しはい首領しゅりょう国史こくし編纂へんさん委員いいんかい國史こくしかん論叢ろんそう97〉、2002ねん 
  111. ^ 東北とうほくアジア歴史れきし財団ざいだん 2009, p. 393
  112. ^ a b 石井いしい 2001, p. 129
  113. ^ しゅさかえけん『渤海文化ぶんか雄山閣ゆうざんかく出版しゅっぱん考古学こうこがく選書せんしょ〉、1979ねん3がつ1にち、175-176ぺーじISBN 4639009100 
  114. ^ ちょうひろしいずみほど妮娜ろん渤海こくてき社会しゃかい性質せいしつ黒龍江こくりゅうこうしょう社会しゃかい科学かがくいん学習がくしゅうあずか探索たんさく〉、1982ねん 
  115. ^ 石井いしい 2001, p. 132
  116. ^ a b c 佐藤さとう 2003, p. 213-214
  117. ^ a b c d 佐藤さとう 2003, p. 213
  118. ^ 河上かわかみひろし 1983, p. 215
  119. ^ a b 河上かわかみひろし 1983, p. 210
  120. ^ 河上かわかみひろし 1983, p. 211
  121. ^ 河上かわかみひろし 1983, p. 212
  122. ^ きむ毓黻『渤海こくこころざし長編ちょうへん文海ぶんかい出版しゅっぱんしゃ、681ぺーじ 

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^

    官有かんゆうせんみことのりしょうひだりしょうひだりたいらあきらごとさむらいちゅうひだりつねさむらい、諫議きょ中台ちゅうたいしょうみぎしょうみぎたいらあきらごとうちみことのり誥舎じんきょせいどうしょうだい内相ないしょういちにんきょ左右さゆうしょうじょうひだりみぎ司政しせいかくいちきょ左右さゆうたいらあきらごとした、以比ぼくしゃひだりみぎまことすすむひだりろくつかさただしひとしかくいちきょうきょ司政しせいささえ爵、くら膳部ぜんぶゆうろうちゅう員外いんがいみぎろくつかささとしれいしんささええびすけいみずきょうろうじゅんひだり;以比ろくかん中正ちゅうせいだい大中おおなか正一しょういち大夫たいふきょ司政しせいしょう正一しょういちまたゆう殿中でんちゅうてらそうぞくてらゆうだいれいぶんせきいんゆうかんれいかんみなゆうしょうふとしつねつかさまろうど大農だいのうてらてらゆうきょうつかさぞうつかさぜんてらてらゆうれいすすむかぶとかんゆうかんちょうちまたはくきょくゆうつねさむらいとうかん。(『しんとうしょ』渤海でん
    官職かんしょく(はつぎのようになっている)。せんみことのりしょうにはひだりしょう長官ちょうかん)・ひだりたいらあきらごとさむらいちゅうひだりつねさむらい・諫議がこれにぞくす。中台ちゅうたいしょうにはみぎしょうみぎたいらあきらごとないみことのり誥・舎人とねりがこれにぞくす。せいどうしょうではだい内相ないしょういちにん左右さゆうしょううえかれ、(そのしたに)左右さゆう司政しせいかくいちにん左右さゆうたいらあきらごとした配置はいちされる。これは(とうせい左右さゆうぼくしゃ相当そうとうする。左右さゆうまことは(とうせいの)すすむひだりすすむみぎすすむ)にたり、ひだりまことろくただしひとし(のさん統率とうそつし)、おのおのいちにんきょう長官ちょうかん)が配属はいぞくされ、これ(左右さゆうまこと)は司政しせいしたかれた。そのささえに爵・くらぜん(のさんがあって、(それぞれ)(の長官ちょうかん)はろうちゅうで、員外いんがいろう)もあった。みぎまことろくさとしれいしんじ(のさん統率とうそつし)、そのささええびすけいみず(のさんがあり、(その長官ちょうかんきょうろうひだりまこと)にじゅんずるもので、(いずれもとうせいの)ろくかん)に相当そうとうする。中正ちゅうせいだいには大中おおなかただし長官ちょうかん)が一人ひとりかれ、(これはとうせいの)大夫たいふ相当そうとうし、司政しせいした配置はいちされ、しょうせい一人ひとりかれた。また殿中でんちゅうてらそうぞくてらには(それぞれ長官ちょうかんたる)だいれいがいた。ぶんせきいん(の長官ちょうかん)はかんれいといい、かんにはすべてすくなかん)がぞくしていた。ふとしつねてら)・つかさまろうどてら)・大農だいのうてら(の長官ちょうかん)はきょうである。つかさぞうてら)・つかさぜんてら(の長官ちょうかん)はれいで、(次官じかんは)すすむといった。かぶとかん(の長官ちょうかん)はかんちょうといわれた。また、ちまたはくきょくにはつねさむらい長官ちょうかんとうかん)があった[36]


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  2. ^

    きた鎭奏 狄國じんにゅう鎭 以片かけじゅ而歸 とげ以獻 其木しょじゅううん たからこくあずか黑水くろみず國人くにびと ども向新むかいしんこくどおり。(『さん国史こくしまき十一といちしん本紀ほんぎ憲康のりやすおうじゅうねんじょう

    きたそうす、「狄国じん、鎮にはいり、片木かたぎもっけてかえる。ついもっけんじず」と。いちしょしてう、「たからこく黒水くろみず国人くにびとともしんこくきてどおりせんとす」と[42]


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  3. ^

    廿にじゅうななにちかのえとらさき大宰府だざいふごとさんがつじゅういちにち不知ふちなんもとじん。舶そうろくじゅうにん漂着ひょうちゃく薩摩さつまこくこしきしまぐん言語げんごなんどおり問答もんどうなんよう。其首ちぇはじめだいひねじゅんとう自書じしょ曰。そうたすくとう。渤海國人くにびとかれ國王こくおう差入さしいれだいとう。(『日本にっぽんさんだい実録じつろくはちななさんねんさだかんいちねんがつななにち


    ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:日本にっぽんさんだい實錄じつろく/まきだい廿にじゅうさん

  4. ^

    八日ようか庚午こうごさき大宰府だざいふはせえきごと。渤海國人くにびとちぇはじめもんまごおさむまごとう漂着ひょうちゃく肥後ひごこく天草あまくさぐんだいから通事つうじちょうたてただしくつがえとい事由じゆうしん實情じつじょうじょう渤海こく入唐にっとう使つかいさんがつ薩摩さつまこく。逃去いちかん也。(『日本にっぽんさんだい実録じつろくはちななさんねんさだかんいちねんなながつはちにち


    ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:日本にっぽんさんだい實錄じつろく/まきだい廿にじゅうよん

  5. ^

    廿にじゅうにちかぶとうま。渤海こく使楊中とおひとし出雲いずもこくかえ於本しげるおうあきら并信ぶつ受而還大使たいしちゅうとおほし以珍翫玳瑁たいまい酒盃しゅはいとう奉獻ほうけん天子てんしみな受之。通事つうじ園池そのいけただし春日かすが朝臣あそんたくしげるげんむかし徃大とうかんちんたからゆうわか此之恠。(『日本にっぽんさんだい実録じつろくはちななななねんもとけいもとろくがつにち


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  6. ^

    あかりけい学生がくせい刑部おさかべ高名こうみょう参内さんだいれいとい漢語かんごしゃごと高名こうみょうそう云々うんぬん行事ぎょうじしょ召得、漢語かんごしゃ大蔵おおくらさんつねそく召之於蔵人所くろうどどころれい高名こうみょうさるうん。其語能否のうひそうかい。三常唐語尤可広博云々。みことのりしたがえ公卿くぎょうていさる。以さんつねれいため通事つうじ。(『扶桑ふそう略記りゃっききゅうねん延喜えんぎ〇)さんがつななにち

  7. ^

    渤海使首領しゅりょうだかふつだつとめ越前えちぜんこく安置あんちえつ中國ちゅうごく給食きゅうしょくそくれい史生ふみお羽栗はぐりちょう并習せいとう就習渤海。(『日本にっぽんりゃくはちいちねんがつななにち

  8. ^

    乙未おとみれい美濃みの武藏むさしこく少年しょうねんまいくに廿にじゅうじん習新ためせいしん也。(『ぞく日本にっぽん天平てんぴょうたからねんいちがつきゅうにち


    ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:ぞく日本にっぽん/まきだい廿にじゅうさん

  9. ^
    ひらけもとじゅうさんねん安東あんどうまもる薛泰請于黑水くろみず靺鞨內置黑水くろみずぐんぞくさら最大さいだい部落ぶらくため黑水くろみず、仍以其首りょうためとくしょ刺史しし隸屬れいぞく焉。中國ちゅうごくおけちょう、就其部落ぶらくかんりょう — きゅうとうしょまきいちきゅうきゅう、靺鞨でん
    ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:きゅうとうしょ/まき199#靺鞨
  10. ^
    敕雞はやししゅうだいとくしんおうきんきょうこう賀正がしょう謝恩しゃおんりょう使つかいぞくいたりさいしょうらいひょうふかみやびふところきょうそう一方いっぽうみちまんさとたくまこと於章そうれいそん使臣ししん。雖隔滄溟そうめいまた如面かいきょうすんでのうふくちんきょちんまたきょういちしんげんねんこんまことまい以嗟ひさしきょう文章ぶんしょう禮樂れいがくつばら焉可かん德義とくぎかんざしすそひた以成ぞく非才ひさいつつみすぐるこころざし合本がっぽんあさあに得物えものあやよろし。而風りゅう一變いっぺん。乃比きょう於魯まもるあにふくどう於蕃ふくちん此懷。そうしょ知也ともや賀正がしょう使金義かねよししつ及祖さかえしょう永逝えいせいねん其遠ろうじょう以傷憫。雖有ちょうおくなお不能ふのう忘。そうきょう乍聞。とう甚軫悼。ちかまたとくおもえらんひょうしょうきょうよく於浿こう寘戍。すんでとう渤海衝要。またあずか祿ろく山相さんそうもち。仍有とおかた是長これながさく。且蕞なんじ渤海。ひさやめ逋誅。じゅうろうのう撲滅ぼくめつきょうごとやましわるふかよう嘉之よしゆき。警寇やすあたりゆうなん不可ふか處置しょち訖因使以聞。こんゆうしょうものこたえきょう厚意こういいたりむべりょうはるくれやめ暄。きょう及首りょう百姓ひゃくしょうなみやすこのみしょゆび及。 — 文苑ぶんえん英華えいかまきよんなないちみことのりしんおうきんきょうこうしょだいしゅ
  11. ^
    煬帝即位そくいにゅうためたけこう驃騎將軍しょうぐん、以嚴せい聞。こうすうさい、黔安首領しゅりょうこま阻清さくみだれえびすりょうもろぐんみんえびすおうしゃみことのりさかえげき平之ひらの。遷左こうまもる將軍しょうぐんしたがえみかど西にしせい吐谷渾、はいぎんあおこう祿ろく大夫たいふ遼東りゃおとんこれやく、以功しんひだりこう祿ろく大夫たいふ — ずいしょまきじゅうかくさかえでん
    ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:ずいしょ/まき50#かくさかえ
  12. ^
    ころやめこおりけんふく叛、盜賊とうぞく蜂起ほうき阿古あこただあずかやすしだま討之、ところこう披靡。かいぞくゆうなな千自鴨淥府來援、いきおいちょう甚。阿古あこただそち麾下きか精銳せいえいじきはん其鋒、いちせん克之かつゆきくびさんせんあまりとげ進軍しんぐんやぶかいばつじょう

    すでりしぐんけんふくた叛し、盗賊とうぞく蜂起ほうきす。阿古あこただかん歎記とこれをち、むこしょ披靡せしむ。たまたまぞくゆうななせんかも淥府より来援らいえんし、いきおいることはなはだし。阿古あこただ麾下きか精鋭せいえいそちいてただちにほこさきおかし、一戦いっせんしてこれにつ。くびすることさんせんあまりついぐんすすめてかいばつじょうやぶる。 — りょうまきななさん
    ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:りょう/まき73

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