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足利あしかが義昭よしあき」のはんあいだ差分さぶん

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=== 漫画まんが ===
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* [[信長のぶなが協奏曲きょうそうきょく]](2009ねん - 、[[小学館しょうがくかん]][[ゲッサン]]、[[石井いしいあゆみ]])
* [[信長のぶなが協奏曲きょうそうきょく]](2009ねん - 、[[小学館しょうがくかん]][[ゲッサン]]、[[石井いしいあゆみ]])
* [[信長のぶながのシェフ]]([[2011ねん]] - 、[[芳文社ほうぶんしゃ]][[週刊しゅうかん漫画まんがTIMES]]、原作げんさく:[[西村にしむらミツル]]、作画さくが:[[梶川かじかわ卓郎たくろう]])
* [[信長のぶながのシェフ]]([[2011ねん]] - [[2024ねん]]、[[芳文社ほうぶんしゃ]][[週刊しゅうかん漫画まんがTIMES]]、原作げんさく:[[西村にしむらミツル]]、作画さくが:[[梶川かじかわ卓郎たくろう]])


== 脚注きゃくちゅう ==
== 脚注きゃくちゅう ==

2024ねん5がつ16にち (木)もく 08:21時点じてんにおけるはん

 
足利あしかが 義昭よしあき
足利あしかが義昭よしあき坐像ざぞう等持院とうじいん霊光れいこう殿どの安置あんち
時代じだい 室町むろまち時代ときよ末期まっき戦国せんごく時代じだい) - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん6ねん11月3にち1537ねん12月5にち
死没しぼつ 慶長けいちょう2ねん8がつ28にち1597ねん10月9にち
改名かいめい 千歳ちとせまるさとしけい法名ほうみょう)→義秋よしあき義昭よしあきあきら山道さんどうきゅう法名ほうみょう
別名べつめい 貧乏びんぼう公方くぼう[1]
戒名かいみょう れいいんあきら山道さんどうきゅう
墓所はかしょ 京都きょうと京都きょうときた等持院とうじいん
官位かんい したがえひだり馬頭めず参議さんぎひだり近衛このえ中将ちゅうじょう
征夷大将軍せいいたいしょうぐんしたがえさんけん大納言だいなごんじゅん三后さんこう
幕府ばくふ 室町むろまち幕府ばくふ だい15だい征夷大将軍せいいたいしょうぐん在任ざいにんえいろく11ねん(1568ねん) - 天正てんしょう16ねん(1588ねん))
氏族しぞく 足利あしかが将軍家しょうぐんけ
父母ちちはは ちち足利あしかが義晴よしはるははけい寿ことぶきいん近衛このえしょうどおりむすめ
なおちち近衛このえ稙家
兄弟きょうだい 義輝よしてる義昭よしあきしゅう
つま 正室せいしつ:なし
側室そくしつさこのほう赤松あかまつ政秀まさひでむすめ織田おだ信長のぶなが養女ようじょ)、しょう宰相さいしょうきょく大河内おおこうち)、いち対局たいきょく春日局かすがのつぼね大蔵卿局おおくらきょうのつぼねしょう少将しょうしょうきょく(いずれも出自しゅつじしょう
ひろ一色いっしきよしたかし?、永山ながやまよしざい?、矢島やじま秀行ひでゆき?[注釈ちゅうしゃく 1]矢島やじま重成しげなり?[注釈ちゅうしゃく 2]
猶子ゆうしえんじじょうはれりょういき三宝さんぼういん門跡もんぜき
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足利あしかが 義昭よしあき(あしかが よしあき)は、室町むろまち幕府ばくふだい15だい最後さいごの)征夷大将軍せいいたいしょうぐん在職ざいしょく1568ねんえいろく11ねん〉- 1588ねん天正てんしょう16ねん〉)[4][5]

ちち室町むろまち幕府ばくふだい12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはるはは近衛このえしょうどおりむすめけい寿ことぶきいんだい13だい将軍しょうぐん足利あしかが義輝よしてる同母どうぼけい

概要がいよう

足利あしかが将軍家しょうぐんけ家督かとく相続そうぞくしゃ以外いがい子息しそくとして、慣例かんれいにより仏門ぶつもんはいって、さとしけい(かくけい)と名乗なのり、一乗院いちじょういん門跡もんぜきとなった。

あに義輝よしてるえいろくへん三好みよしさんにんしゅらに殺害さつがいされると、細川ほそかわ藤孝ふじたか幕臣ばくしん援助えんじょけて南都なんとから脱出だっしゅつし、還俗げんぞくして義秋よしあき(よしあき)と名乗なのる。その朝倉あさくら義景よしかげ庇護ひごけ、義昭よしあき改名かいめいした。

そして、織田おだ信長のぶながようされて上洛じょうらくし、だい15だい将軍しょうぐん就任しゅうにんした。その信長のぶなが対立たいりつし、武田たけだ信玄しんげん朝倉あさくら義景よしかげ浅井あさい長政ながまさらと呼応こおうして信長のぶなが包囲ほういもうをきずきあげる。一時いちじ信長のぶながいつめもしたが、やがて京都きょうとからわれ、一般いっぱんにはこれをもって室町むろまち幕府ばくふ滅亡めつぼうとされている。

しかし、義昭よしあき京都きょうと追放ついほう将軍しょうぐんとして活動かつどうつづけており、河内かわうちこく和泉いずみこく紀伊きいこく滞在たいざいしたのち、備後びんごこく下向げこうした。そして、毛利もうり輝元てるもと庇護ひごけ、亡命ぼうめい政権せいけん幕府ばくふ樹立じゅりつし、信長のぶなが対抗たいこうした。

信長のぶなが本能寺ほんのうじへんによって横死おうししたのち、豊臣とよとみ政権せいけん確立かくりつすると帰京ききょうし、豊臣とよとみ秀吉ひでよしから山城やましろこく槇島まきしまに1まんせき所領しょりょうみとめられた。そして、将軍しょうぐんして出家しゅっけし、あきら山道さんどうきゅう(しょうざん どうきゅう)とごうした。

義昭よしあきぜん将軍しょうぐんであったので、殿中でんちゅうでの待遇たいぐうだい大名だいみょう以上いじょうであり、また秀吉ひでよし御伽おとぎしゅくわえられるなど、貴人きじんとしてぐうされた余生よせいおくった。

生涯しょうがい

一乗院いちじょういん門跡もんぜきとして

足利あしかが義晴よしはる

天文てんもん6ねん1537ねん)11月3にちだい12だい将軍しょうぐん足利あしかが義晴よしはる次男じなんとして、京都きょうと誕生たんじょうした[6][7][8]はは近衛このえしょうどおりむすめけい寿ことぶきいん[6][7]幼名ようみょう千歳ちとせまる(ちとせまる)。

天文てんもん9ねん1540ねん)7がつ千歳ちとせまるが3さいときちち義晴よしはる南都なんと興福寺こうふくじ一乗院いちじょういん入室にゅうしつさせる契約けいやくおこなった[9]あに嗣子ししである義輝よしてるすでにおり、跡目あとめあらそいをけるため、嗣子しし以外いがい息子むすこ出家しゅっけさせる足利あしかが将軍家しょうぐんけ慣習かんしゅうしたがかたちとなった[7]。また、興福寺こうふくじ大和やまといちこく国主こくしゅ大和やまと守護しゅごでもあった)であることから、寺社じしゃとのむすびつきをつよめる目的もくてきがあり、将軍しょうぐん若君わかぎみ入室にゅうしつすることによって、将来しょうらいてき興福寺こうふくじをはじめとする大和やまと寺社じしゃ勢力せいりょく将軍家しょうぐんけ扶助ふじょする体制たいせい構築こうちくしようとしたとされる[10]

天文てんもん11ねん1542ねん)9がつ11にち千歳ちとせまるが6さいとき寺社じしゃ奉行ぶぎょう諏訪すわ長俊ながとし義晴よしはる使者ししゃとして興福寺こうふくじかい、将軍しょうぐんの「若君わかぎみ」が11月に一乗院いちじょういん門跡もんぜきさとしほまれ弟子でしとして入室にゅうしつするので、よく世話せわするようにとつたえた[9]興福寺こうふくじ寺領じりょうだんぜにをかけ、その費用ひよう調達ちょうたつした[11]

11月20にち千歳ちとせまる伯父おじ近衛このえ稙家猶子ゆうしとなって、興福寺こうふくじ一乗院いちじょういん入室にゅうしつし(『おやしゅん日記にっき』『みなみぎょう雑録ざつろく』)[7][10][11]法名ほうみょうさとしけい名乗なのった[12]さとしけい近衛このえ人間にんげんとして、一乗院いちじょういん門跡もんぜき修行しゅぎょうおこなった[12]

そのさとしけい一乗院いちじょういん門跡もんぜきとなり、けんしょう僧都そうずにまで栄進えいしん[13]何事なにごともなくじゅうすうねん興福寺こうふくじごした[10]。このまま、さとしけいはやがて興福寺こうふくじ別当べっとうとなり、高僧こうそうとしてその生涯しょうがいえるはずであった[10][13]

南都なんとからの脱出だっしゅつ近江おうみでの生活せいかつ

足利あしかが義輝よしてる

えいろく8ねん1565ねん)5がつ19にちだい13だい将軍しょうぐんであったあに義輝よしてる京都きょうとにおいて、三好みよし義継よしつぎ三好みよしさんにんしゅ松永まつなが久通ひさみちらによって殺害さつがいされた(えいろくへん[14]。このとき、ははけい寿ことぶきいんおとうと鹿しかえんいん院主いんじゅしゅう殺害さつがいされた[14]

義輝よしてる死後しごさとしけい松永まつなが久秀ひさひでらによって、興福寺こうふくじ幽閉ゆうへいかんされた[15]久秀ひさひでらはさとしけい将軍しょうぐんおとうとで、なおかつ将来しょうらい興福寺こうふくじ別当べっとうしょく約束やくそくされていたことから、さとしけいころすことで興福寺こうふくじてきまわすことをおそれて、幽閉ゆうへいにとどめたとされる[15]実際じっさい監視かんしづけといっても、外出がいしゅつ禁止きんし程度ていど行動こうどう自由じゆうであった[15]。ただし、大覚寺だいかくじ門跡もんぜきよししゅん上杉うえすぎ輝虎てるとら謙信けんしん)にてた手紙てがみでは、厳重げんじゅう監視かんしとしている(『上杉うえすぎ古文書こもんじょ』)[15]

やがて、さとしけい興福寺こうふくじから脱出だっしゅつさせるべく、越前えちぜん朝倉あさくら義景よしかげ三好みよし松永まつながたいして、「直談じきだん」で交渉こうしょうおこなった[16]。だが、この交渉こうしょう不調ふちょうわり、謀略ぼうりゃく使つかって脱出だっしゅつおこなうことになった[16]

7がつ28にちよるさとしけいあに遺臣いしんらの手引てびきによって、ひそかに興福寺こうふくじから脱出だっしゅつした[10][16]よししゅん書状しょじょうによると、立役者たてやくしゃしゅん朝倉あさくら義景よしかげとのことだが、実際じっさいには義輝よしてる近臣きんしんであった細川ほそかわ藤孝ふじたか一色いっしょくふじちょう脱出だっしゅつにおいて活躍かつやくしたとかんがえられる[16]藤孝ふじたか画策かくさくにより、米田よねだもとむせい医術いじゅつもっ一乗院いちじょういん出入でいりすることでさとしけいちかづき、番兵ばんぺいさけすすめて沈酔ちんすいさせ、脱出だっしゅつ成功せいこうさせたとつたわる[16][17]

さとしけいとそのいちぎょうは、奈良ならから木津川きづがわをさかのぼり、伊賀いが[注釈ちゅうしゃく 3]うえ柘植つげむらて、翌日よくじつには近江おうみ甲賀こうがぐん和田わだ到着とうちゃくした[18][19]。そして、和田わだ豪族ごうぞくである和田わだ惟政これまさ居城きょじょう和田わだじょう伊賀いが - 近江おうみ国境こっきょうちかくにあった和田わだ惟政これまさ居城きょじょう)にはいり、ここにひとまずいた[18]。このには藤孝ふじたか案内あんないしたという[18]

さとしけいはこのにおいて、足利あしかが将軍家しょうぐんけ当主とうしゅになることを宣言せんげんし、各地かくち大名だいみょうらに御内おんうちしょおくった[20]。このびかけに、さとしけいいもうと婿むこ若狭わかさ武田たけだ義統よしむね近江おうみ京極きょうごく高成たかなり伊賀いが仁木にき義広よしひろらがおうじたほか、幕臣ばくしん一色いっしょくふじちょうさんふちふじすぐる大舘おおたちはれただし上野うえの秀政ひでまさ上野うえの信忠のぶただ曽我そがすけじょうらが参集さんしゅうしている[21]

また、さとしけい諸国しょこく大名だいみょう御内おんうちしょはっすることで、その糾合きゅうごうつとめた。その初期しょきには、関東かんとう管領かんりょう上杉うえすぎ輝虎てるとら謙信けんしん)らに室町むろまち幕府ばくふ再興さいこう依頼いらいしているほか、安芸あき毛利もうり元就もとなり肥後ひご相良さがらよし能登のと畠山はたけやまよしつならにも書状しょじょうして出兵しゅっぺい要請ようせいした[22]。これらには和田わだ惟政これまさふくじょう発給はっきゅうされ、輝虎てるとらのみならず、越前えちぜん朝倉あさくら義景よしかげ河内かわうち畠山はたけやましょうまこと三河みかわ徳川とくがわ家康いえやすらより、さとしけい協力きょうりょくするむね書状しょじょう惟政これまさおくられた[22]

11月21にち近江おうみ六角ろっかく義賢よしかた好意こういて、甲賀こうがぐん和田わだから京都きょうと程近ほどちか野洲やすぐん矢島やじまむら守山もりやま矢島やじままち)にうつみ、在所ざいしょとした(矢島やじま御所ごしょ[23][注釈ちゅうしゃく 4]当時とうじ京都きょうとにおいては、三好みよし義継よしつぎ三好みよし義秋よしあき従兄弟いとこ足利あしかが義栄よしひで将軍しょうぐん就任しゅうにんさせようとしていたが、松永まつなが久秀ひさひで三好みよしさんにんしゅあいだでは確執かくしつによる内部ないぶ分裂ぶんれつ発生はっせいしており、これを上洛じょうらく好機こうきとらえたとみられている[23][24]

このとき和田わだ惟政これまさ尾張おわり織田おだ信長のぶなが上洛じょうらくへの協力きょうりょく要請ようせいけるため、尾張おわり滞在たいざいしており、惟政これまさには無断むだんうつりであった。後日ごじつ惟政これまさ激怒げきどしていることをったさとしけい惟政これまさ謝罪しゃざい書状しょじょうおくっている[25]

えいろく9ねん1566ねん)2がつ17にちさとしけい矢島やじま御所ごしょにおいて還俗げんぞくし、義秋よしあき名乗なのった[24][26]義秋よしあきは、僧侶そうりょかんしんによるものだったらしい[27]

4がつ21にち義秋よしあき吉田よしだ神社じんじゃ神主かんぬし吉田よしだけんみぎ斡旋あっせんにより、朝廷ちょうていからしたがえひだり馬頭めず叙位じょい任官にんかんけた[24][27][注釈ちゅうしゃく 5]。この叙任じょにん本来ほんらい武家ぶけ伝奏てんそう朝廷ちょうてい申請しんせいするのが正式せいしき手続てつづきであったが、足利あしかが義栄よしひで摂津せっつもんてらまで進出しんしゅつしている政治せいじ事情じじょう配慮はいりょして、吉田よしだけんみぎ斡旋あっせんで「隠密おんみつ」におこなわれた[28]。その同年どうねん12がつ義栄よしひで同様どうよう叙任じょにんけたが、ひだり馬頭めず次期じき将軍しょうぐん官職かんしょくであり、朝廷ちょうてい義秋よしあき義栄よしひでよりさきにんじたことは、義秋よしあき正統せいとう後継こうけいしゃとして認識にんしきしていた可能かのうせいたか[29]

矢島やじま御所ごしょにおいて、義秋よしあき近江おうみ六角ろっかく義賢よしかた河内かわうちはたけ山高やまたかまさし越後えちご上杉うえすぎ輝虎てるとら能登のと畠山はたけやまよしつならとも親密しんみつ連絡れんらくをとり、しきりに上洛じょうらく機会きかいうかがった。とくこうせい義秋よしあき積極せっきょくてき支持しじしていたとみえ、実弟じってい畠山はたけやま秋高あきだかをこのころ義秋よしあきしたがえさせた。六角ろっかく義賢よしかた当初とうしょ上洛じょうらく積極せっきょくてきで、和田わだ惟政これまさめいじて、浅井あさい長政ながまさ織田おだ信長のぶながいもうといちかた婚姻こんいん実現じつげんはたらきかけている[25]

義秋よしあきはまた、輝虎てるとら甲斐かい武田たけだ信玄しんげん相模さがみ北条ほうじょう氏政うじまさの3めいたいして講和こうわめいじたほか、美濃みの斎藤さいとうりゅうきょう交戦こうせんしていた尾張おわり織田おだ信長のぶなが通交つうこうして、出兵しゅっぺいうながした[30]義秋よしあき構想こうそうは、相互そうご敵対てきたいしていた斎藤さいとう織田おだ六角ろっかく浅井あさいさらには武田たけだ上杉うえすぎこう北条ほうじょうらを和解わかいさせ、かれらの協力きょうりょく上洛じょうらく目指めざすものであったとかんがえられている。

和田わだ惟政これまさ細川ほそかわ藤孝ふじたか説得せっとくにより、信長のぶなが斎藤さいとうりゅうきょう和解わかいおうじ、信長のぶなが美濃みのから六角ろっかく勢力せいりょくけんであるきた伊勢いせみなみ近江おうみ経由けいゆして上洛じょうらくすることになった[31][32]和議わぎ成立せいりつによって、信長のぶながは8がつ22にち出兵しゅっぺいすることを約束やくそくした[30]

8がつ3にち義秋よしあき行動こうどうたいして、三好みよしさんにんしゅ三好みよし長逸ちょういつ矢島やじま御所ごしょ内通ないつうするものがおり、その軍勢ぐんぜい3,000矢島やじま攻撃こうげきすべく、坂本さかもとまで進出しんしゅつした[33][34]。だが、このとき坂本さかもと迎撃げいげきし、奉公ほうこうしゅ奮戦ふんせんにより、からくも撃退げきたいすることが出来でき[34]信長のぶなが上洛じょうらく計画けいかく現実味げんじつみびたことで、三好みよし先制せんせい攻撃こうげき仕掛しかけたとかんがえられる[34]

8がつ29にち義秋よしあきから幕府ばくふ再興さいこうびかけをけて上洛じょうらくへいこした信長のぶながぐんは、斎藤さいとうりゅうきょう襲撃しゅうげきにあって、美濃みの通過つうかできなくなってしまった(河野こうのとうたたか[30][31][32]。このとき、やぶれた信長のぶなが軍勢ぐんぜいは「前代未聞ぜんだいみもん」の敗戦はいせんぶりであったといい、斎藤さいとうから嘲笑ちょうしょうけるほどであったという[30]

同日どうじつ近江おうみ六角ろっかく義賢よしかた義治よしはる父子ふし叛意はんいせた[30]斎藤さいとうりゅうきょう六角ろっかく義賢よしかた離反りはんがほぼ同時どうじきているのは、三好みよしかたによるかえしの調しらべりゃくがあったとみられている[32]信長のぶなが美濃みの通過つうかできず、さらにはそのさき近江おうみ不穏ふおんとなったため、撤退てったいせざるをなくなった[35]

若狭わかさ越前えちぜんでの亡命ぼうめい生活せいかつ

越前えちぜんこくいちじょうたに足利あしかが義昭よしあき御所ごしょあと

8がつ29にち六角ろっかく叛意はんいせたことや、三好みよしがわ矢島やじま襲撃しゅうげきするという風聞ふうぶんながれていたこともあって、義秋よしあきいもうと婿むこ武田たけだ義統よしむねたより、若狭わかさこくうつった[36]。このとき、義秋よしあきは4、5にんきょうのみをしたがえるだけであったという[36]

しかし、京都きょうと北白川きたしらかわ出城でしろかまえ、応仁おうにんらんではひがしぐん副将ふくしょうつとめて隆盛りゅうせいきわめた若狭わかさ武田たけだも、義統よしむね息子むすこ武田たけだ元明もとあきとの家督かとく抗争こうそう重臣じゅうしん謀反むほんなどから国内こくない安定あんていしておらず、上洛じょうらくできる状況じょうきょうでなかった[34]。そのため、義統よしむね出兵しゅっぺいわりとして、おとうと武田たけだ信景さだかげ義秋よしあきつかえさせた。

9月8にち義秋よしあき若狭わかさから越前えちぜんこく敦賀つるがへと移動いどうした[34]。その朝倉あさくらけいきょう使者ししゃとしておもむき、義秋よしあき朝倉あさくら義景よしかげのいるいちじょうたにむかえられた[34]義景よしかげ細川ほそかわ藤孝ふじたからによる南都なんと脱出だっしゅつ立役者たてやくしゃであったとする見方みかたがある[37]一方いっぽうで、すでに足利あしかが将軍家しょうぐんけ連枝れんしくらたに御所ごしょ足利あしかが嗣知足利あしかが義嗣よしつぐ子孫しそん)もかかえており[注釈ちゅうしゃく 6]義秋よしあきほうじての積極せっきょくてき上洛じょうらくをする意思いしあらわさなかったため、滞在たいざい長期間ちょうきかんとなった。

義秋よしあきいちじょうたににおいて、朝倉あさくら加賀かが一向いっこう一揆いっきとの講和こうわおこなったり、上杉うえすぎ輝虎てるとら上洛じょうらく要請ようせいしたりしたものの、これらは実現じつげんいたらなかった[34]。このころ義秋よしあきのもとには上野うえの清信きよのぶ清延きよのぶ)・大舘おおたちはれただしなどのかつての幕府ばくふ重臣じゅうしんや、諏訪すわはるちょう飯尾いいおあきられん松田まつだよりゆきたかしなどの奉行ぶぎょうしゅ帰参きさんした[注釈ちゅうしゃく 7]

えいろく10ねん11月21にち義秋よしあきいちじょうたに安養寺あんようじうつった。義秋よしあき朝倉あさくら加賀かが一向いっこう一揆いっきとの講和こうわ再度さいどはかり、義景よしかげおうじたことで和議わぎ成立せいりつした[34]。その双方そうほう人質ひとじち交換こうかんおこなわれ、国境こっきょうしろとりでやぶ却された[34]

義秋よしあきはまた、輝虎てるとら甲斐かい武田たけだ信玄しんげん相模さがみ北条ほうじょう氏政うじまさ講和こうわはかっている[34]。なお、義秋よしあき朝倉あさくらよりも上杉うえすぎ輝虎てるとらたよりにしていたという。だが、輝虎てるとら武田たけだ信玄しんげんとの対立たいりつと、その信玄しんげん調しらべりゃくけたあげきたしゅ本庄ほんじょうしげるちょう反乱はんらん越中えっちゅう騒乱そうらんなどから上洛じょうらく出兵しゅっぺいなどは不可能ふかのうであった。大名だいみょう[注釈ちゅうしゃく 8]からも積極せっきょくてき支援しえんうごきはられなかった。この時期じき義秋よしあき御内おんうちしょには、義景よしかげふくじょうえられている。

えいろく11ねん1568ねん)2がつ8にち義秋よしあき対抗たいこうである足利あしかが義栄よしひで摂津せっつもんてら滞在たいざいしたまま、将軍しょうぐん宣下せんげけた[39]血筋ちすじ幕府ばくふ実務じつむおこな奉行ぶぎょうしゅ掌握しょうあくといったてん次期じき将軍しょうぐん候補こうほとしては対抗たいこうである義栄よしひでよりも有利ゆうり環境かんきょうにありながら、いつまでも上洛じょうらくできない義秋よしあきたいして、京都きょうと実質じっしつてき支配しはいしゃであった三好みよしさんにんしゅようする義栄よしひでが、義輝よしてるによってつぶされたもと政所まんどころ執事しつじ伊勢いせ再興さいこう約束やくそくするなど、朝廷ちょうてい京都きょうとのこ幕臣ばくしんへの説得せっとく工作こうさくつづけた結果けっかでもあった[39]

3月8にち義秋よしあき朝廷ちょうてい上奏じょうそうしたことにより、義景よしかげははしたがえじょされた[41]。その酒宴しゅえん終日しゅうじつ終夜しゅうやおよんでおこなわれた。

4がつ15にち義秋よしあきは「あき」の不吉ふきつであるとし、京都きょうとからまえ関白かんぱくじょうはれりょう越前えちぜんまねいて、いちじょうたに朝倉あさくらかんにおいて元服げんぷくしきおこない、義昭よしあき改名かいめいした[34][42]。なお、山科やましなげんまましまねかれる予定よていだったが、費用ひよう問題もんだいからはれりょうだけになった[43]加冠かかんやく朝倉あさくら義景よしかげつとめているが、あに義輝よしてる六角ろっかく定頼さだより管領かんりょうだいとして加冠かかんやくにした前例ぜんれいならって、義景よしかげ管領かんりょうだいにんじたうえでおこなわれた[34]

6月21にち義昭よしあき紀伊きい粉河寺こかわでらたいし、畠山はたけやま協力きょうりょくして馳走ちそうするようにもとめた[44]

上洛じょうらく畿内きない平定へいてい

織田おだ信長のぶなが

義昭よしあき越前えちぜん滞在たいざいちゅう織田おだ信長のぶなが義昭よしあきからの上洛じょうらく要請ようせいわすれず、それをたすため、えいろく10ねんには松永まつなが久秀ひさひでむすび、近江おうみ山岡やまおか大和やまと柳生やぎゅうにもはたらきかけていた[42]。また、信長のぶなが美濃みのでのたたかいを有利ゆうりすすめ、えいろく10ねん8がつには斎藤さいとう居城きょじょう稲葉いなば山城やましろとし、よく11ねんにはきた伊勢いせ攻略こうりゃくするなど、着々ちゃくちゃく準備じゅんびすすめていた[45]

そして、義昭よしあき朝倉あさくら家臣かしんであった明智あけち光秀みつひで仲介ちゅうかいにより、信長のぶながとの交渉こうしょう再開さいかいした。またこのとき義昭よしあき光秀みつひでたいし、信長のぶながつかえるよう密命みつめいくだした、と桑田くわたただしおや指摘してきする[46]信長のぶながもまた、家臣かしん村井むらい貞勝さだかつ不破ふわ光治こうじ島田しまだ秀満ひでみつらを越前えちぜん派遣はけんし、和田わだ惟政これまさもこれにくわわっている[45]

えいろく11ねん7がつ13にち義昭よしあきいちじょうたに出発しゅっぱつし、16にちには信長のぶなが同盟どうめいしゃ浅井あさい長政ながまさ饗応きょうおう小谷おたにしろけ、25にちには信長のぶなが美濃みのたてせいてら対面たいめんした[45]義昭よしあき美濃みのはいると、同月どうげつ28にち多喜たきえつちゅうもり道中どうちゅう警護けいごを、服部はっとり同名どうめいちゅう道中どうちゅう斡旋あっせんをそれぞれめいじ、上洛じょうらく準備じゅんびはいった[45][47]

9月7にち信長のぶなが尾張おわり美濃みの伊勢いせ軍勢ぐんぜいひきい、美濃みの岐阜ぎふから京都きょうとへと出発しゅっぱつした[48]義昭よしあき歩調ほちょうわせて、上洛じょうらく準備じゅんびととのえてからの出兵しゅっぺいであった[48]

9月8にち信長のぶなが近江おうみ高宮たかみや着陣ちゃくじんしたが、六角ろっかく義治よしはるやまぎゃくをしてみちふさいで妨害ぼうがいしたため、2、3にちついやした[48]。その信長のぶなが浅井あさいしろ佐和さわ山城やましろはいり、六角ろっかくに「天下てんか所司代しょしだい」を約束やくそくして投降とうこうびかけたが、六角ろっかく三好みよし同盟どうめいしていたためおうじなかった[49][50]

9月12にちさるこく午後ごご4ごろ)、信長のぶなが浅井あさいとともに六角ろっかく箕作みつくりじょうめた(箕作みつくりじょうたたか[51]。ここでしろへい頑強がんきょう抵抗ていこうにあったが、信長のぶながへいえて攻撃こうげきかえし、13にちうしこく午前ごぜん2ごろ)にろくかくぜい撤退てったいしろとした[51]。このたたかいは上洛じょうらくせん最大さいだいたたかいとなった[51]。やがて、箕作みつくりじょう落城らくじょう京都きょうとつたわると、きょうちゅう人々ひとびと戦場せんじょうになることをおそれ、騒然そうぜんとなった[51]

9月13にち信長のぶなが六角ろっかく居城きょじょう観音寺かんおんじじょうめたが、六角ろっかく義賢よしかた義治よしはる父子ふししろへい夜陰やいんじょうじて甲賀こうがげており、ざんへい降参こうさんしたことから、なんなくしろ攻略こうりゃくした(観音寺かんおんじじょうたたか[51][52]六角ろっかく家臣かしんだったくにしゅ投降とうこうし、江南こうなんじゅうよんぐん織田おだぜい制圧せいあつされた[49]信長のぶながへいやすめるとともに、義昭よしあき近江おうみ平定へいていしたことを報告ほうこくし、義昭よしあきもまた、織田おだぐん警護けいごされて上洛じょうらく開始かいしした[51]

9月22にち義昭よしあきはかつてちち義晴よしはる幕府ばくふかまえていた近江おうみ桑実寺そうじつでらはいった[53]同日どうじつ信長のぶなが先陣せんじん勢多せたから渡海とかいし、23にち山科やましなななさと着陣ちゃくじんした[53]

9月23にち信長のぶなが守山もりやまから園城寺おんじょうじ極楽ごくらくいんはいり、大津おおつ馬場ばば松本まつもと着陣ちゃくじんした[54]義昭よしあき信長のぶながのちから渡海とかいし、園城寺おんじょうじこうきよしいんはいった[54]

9月26にち信長のぶなが山科やましなきょう粟田口あわだぐち西院さいいん方々かたがたて、東寺とうじ進軍しんぐんしたのち、東福寺とうふくじじんうつした[55]。また、細川ほそかわ藤孝ふじたか御所ごしょまもらせた[52]一方いっぽう義昭よしあき東山ひがしやま清水寺きよみずでらはいり、つい上洛じょうらくたした [52][55]

9月27にち三好みよしかた畿内きない淡路あわじ阿波あわ讃岐さぬき軍勢ぐんぜい山崎やまざき布陣ふじんしているという情報じょうほうながれ、信長のぶなが先陣せんじん派遣はけんしたところ、すでに軍勢ぐんぜい撤退てったいしていた[55]信長のぶなが河内かわうち方面ほうめんぐんすすめ、山崎やまざき天神てんじん馬場ばば着陣ちゃくじんした[55]義昭よしあき清水寺きよみずでらから東寺とうじうつり、西岡にしおか日向ひなたさびかちいんはいった[55]

9月28にち信長のぶなが三好みよし長逸ちょういつ細川ほそかわあきらもとこめ畿内きない支配しはい拠点きょてん芥川あくたがわ山城やましろぐんすすめ、よく29にちにはそのふもと放火ほうかし、河内かわうち各所かくしょ放火ほうかした[56]長逸ちょういつあきらもとは27にちよる逃亡とうぼうしており、行方ゆくえらずになっていた[57]義昭よしあき天神てんじん馬場ばばまですすんでいる[57]

9月30にち義昭よしあき芥川あくたがわ山城やましろ入城にゅうじょうし、将軍家しょうぐんけはたかかげ、ここから摂津せっつ大和やまと河内かわうち敵対てきたい勢力せいりょくへの征討せいとうおこなわれた[57]織田おだぐん大和郡山やまとこおりやま道場どうじょう富田とみたてら制圧せいあつしたのち、摂津せっつ池田いけだしろ池田いけだ勝正かつまさめた[57]勝正かつまさ抵抗ていこうしきれず、子息しそくら5にん人質ひとじちして恭順きょうじゅんし、所領しょりょう保証ほしょうされた[57]同日どうじつ病気びょうきわずらっていた14だい将軍しょうぐん義栄よしひで死去しきょ[注釈ちゅうしゃく 9]側近そっきん篠原しのはら長房ながふさらは阿波あわかえした。

10月2にち三好みよし長逸ちょういつ池田いけだ日向ひなたもり降参こうさんし、義昭よしあき出仕しゅっしした[59]。また、河内かわちでは三好みよしかた飯盛めしもり山城やましろ高屋たかやしろ降伏ごうぶくし、摂津せっつでも高槻たかつきじょう入江いりえじょう茨木いばらぎじょう攻略こうりゃくされるなど、摂津せっつ河内かわうち制圧せいあつすすんだ[59]

10月4にち松永まつなが久秀ひさひで三好みよし義継よしつぎ池田いけだ勝正かつまさらが芥川あくたがわ山城やましろに「御礼おれい」のために出仕しゅっしし、久秀ひさひでには大和やまといちこく支配しはいみとめられた[59]。また、同日どうじつ興福寺こうふくじ義昭よしあき使者ししゃ派遣はけんしてれいべたのをはじめ、武家ぶけのみならず、多数たすう寺社じしゃ安堵あんどもとめて芥川あくたがわ山城やましろたかった[59]。これにより、近江おうみ山城やましろ摂津せっつ河内かわうち和泉いずみ畿内きない義昭よしあき信長のぶなが制圧せいあつされ、さらには丹波たんば播磨はりまくにしゅおもむいたことで、畿内きない近国きんごくも「将軍しょうぐんぞくす」領域りょういきとなった[59]

10月6にち朝廷ちょうてい戦勝せんしょう奉賀ほうが勅使ちょくし万里小路まりこうじ輔房芥川あくたがわ山城やましろ派遣はけんし、義昭よしあき太刀たち信長のぶながにはじゅうさかなじゅうがそれぞれ下賜かしされた[60]義昭よしあき芥川あくたがわ山城やましろ各氏かくしの「御礼おれい」をけ、勅使ちょくしむかえたことは、三好みよし政権せいけんからの政権せいけん交代こうたい印象いんしょうけた[60]

10月8にち松永まつなが久秀ひさひで義昭よしあきから細川ほそかわ藤孝ふじたか和田わだおもんみただし信長のぶながから佐久間さくましんもり大将たいしょうとする軍勢ぐんぜい2まん援軍えんぐんけ、総勢そうぜい3まん軍勢ぐんぜい大和やまと攻略こうりゃくにあたった[61]久秀ひさひではこの援軍えんぐんもって、筒井つついじょう筒井つつい順慶じゅんけいくぼじょう井戸いど良弘よしひろ十市といち豊田とよだ楢原ならはら森屋もりや布施ふせ万歳ばんざいなどの大和やまと国人くにびとしゅめた[61]。これらの国人くにびとしゅは10月5にち芥川あくたがわ山城やましろおもむいたが、信長のぶなが久秀ひさひでとの連携れんけいもあって、十市といち以外いがいゆるさなかった[61]久秀ひさひで三好みよし長慶ちょうけいから大和やまと北部ほくぶ支配しはいみとめられていたが、大和やまといちこくにその支配しはい拡大かくだいし、義昭よしあきからもみとめられるかたちとなった[62]。この久秀ひさひで大和やまと平定へいてい信長のぶなが畿内きない平定へいていせん一環いっかんとしておこなわれ、その終結しゅうけつとともに畿内きない平定へいていせん集結しゅうけつした[62]

10月14にち義昭よしあき信長のぶながによる畿内きない平定へいていけて、信長のぶなが供奉ぐぶけて再度さいど上洛じょうらくし、本圀寺ほんごくじはいった[62]本圀寺ほんごくじでは、公家くげ菊亭きくていはる山科やましなげんままし庭田にわた重保しげやす葉室はむろ頼房よりふさ聖護院しょうごいん門跡もんぜきみちきよしなど僧俗そうぞくすうじゅうにんおとずれた[62]。なお、当時とうじ人々ひとびとあいだでは、新興しんこう勢力せいりょくである信長のぶなが義昭よしあきしたが供奉ぐぶしゃとして認識にんしきされており、信長のぶなががわでも信長のぶなが御供ごくうしゅ1人ひとりであるという認識にんしきがあった(池田本いけだほん信長のぶなが』)[63]

将軍しょうぐん就任しゅうにん幕府ばくふ再興さいこう

足利あしかが義昭よしあきぞう東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょくら)。江戸えど時代じだい等持院とうじいんぞう粗描そびょうしたもの

10月18にち義昭よしあき朝廷ちょうていから将軍しょうぐん宣下せんげけて、室町むろまち幕府ばくふだい15だい将軍しょうぐん就任しゅうにんした[64][8]同時どうじに、したがえよん参議さんぎひだり近衛このえ中将ちゅうじょうにも昇叙しょうじょ任官にんかんされた[64][8]

10月24にち義昭よしあき信長のぶなが最大さいだい功労こうろうしゃとしてみとめ、「天下てんか武勇ぶゆうだいいち」とたたえるとともに、足利あしかが家紋かもんであるきりもん引両使用しよう許可きょかした[65][66]。また、まくかく協議きょうぎしたすえ信長のぶながに「室町むろまち殿御とのごちち(むろまちどのおんちち)」の称号しょうごうあたえてむくいた[67]義昭よしあき信長のぶながたいしててた10月24にち自筆じひつ感状かんじょうでは、「ちち織田おだ弾正だんじょうちゅう信長のぶなが殿どの」とめいしたことは、ことに有名ゆうめいである[64][66]

さらに、義昭よしあき信長のぶなが武功ぶこうたいし、ふく将軍しょうぐん管領かんりょう(または管領かんりょうだい)への任命にんめい斯波しば家督かとく継承けいしょう、その当主とうしゅ官位かんいであるひだり兵衛ひょうえとく地位ちい畿内きない知行ちぎょうなど、褒賞ほうしょうとしてたか栄典えいてんさづけようとしたが、信長のぶながはそのほとんどを謝絶しゃぜつした[68][69][70][71]結局けっきょく信長のぶなが弾正だんじょうちゅうへの正式せいしき叙任じょにんきりもん引両の使用しよう許可きょかのみをった[69][66][72]。また、信長のぶながさかい草津くさつ大津おおつ自身じしん直轄ちょっかつとすることをもとめていることから、虚名きょめいより実利じつり選択せんたくしたとかんがえられる[73]

将軍しょうぐん就任しゅうにんした義昭よしあき上洛じょうらくせんでの論功行賞ろんこうこうしょうおこない、所領しょりょうあてぎょう守護しゅご補任ほにんおこなった[74]摂津せっつでは、池田いけだ城主じょうしゅ池田いけだ勝正かつまさ伊丹いたみじょうおも伊丹いたみちかしきょう本領ほんりょう安堵あんどし、さらには和田わだ惟政これまさ芥川あくたがわ山城やましろあたえ、かれら3にん守護しゅご補任ほにんし、摂津せっつさん守護しゅごとした[66][74]河内かわちでは、高屋たかや城主じょうしゅ畠山はたけやま秋高あきだか若江わかえしろおも三好みよし義継よしつぎを、それぞれはんこく守護しゅごとした[74]大和やまとでは、多聞たもん山城やましろおも松永まつなが久秀ひさひでいちこく支配しはいゆだねられた[74]山城やましろこくには守護しゅごかず、さんふちふじすぐる伏見ふしみ配置はいちするなどしておさめた。これらの守護しゅご補任ほにん三好みよしによる京都きょうと侵攻しんこう阻止そしするため、軍事ぐんじてき非常ひじょうおおきな意味いみった[75]

義昭よしあき二条にじょうあきらじょうはれりょう嫡子ちゃくし)らに自身じしんへんいみなあたえたほか、領地りょうち安堵あんどし、政権せいけん安定あんていはかった。幕府ばくふ治世ちせい実務じつむには、あに義輝よしてるおなじく摂津せっつはれもん政所まんどころ執事しつじ起用きようし、義昭よしあき行動こうどうきょうにしていた奉行ぶぎょうしゅ職務しょくむ復帰ふっきして幕府ばくふ機能きのう再興さいこうした。また、義昭よしあき伊勢いせ当主とうしゅ義栄よしひで出仕しゅっしした伊勢いせさだためはいし、おとうとさだきょうえさせてつかえさせた[39][76]。また、当時とうじ記録きろく(『げんつぎきょう』・『細川ほそかわ両家りょうけ』など)には、義昭よしあき奉公ほうこうしゅとしてさんふちふじすぐる細川ほそかわ藤孝ふじたか和田わだ惟政これまさ上野うえの秀政ひでまさ曽我そがすけじょう伊丹いたみおやきょう池田いけだ勝正かつまさ名前なまえ確認かくにんできる[63]。さらに、あに義輝よしてるっていた山城やましろ御料ごりょうしょ掌握しょうあくした。

このように幕府ばくふ再興さいこうて、島津しまつ義久よしひさ喜入きいれひさし上洛じょうらくさせて黄金おうごん100りょう献上けんじょうして祝意しゅくいあらわしたほか、相良さがらよし毛利もうり元就もとなりらもりょうしょ進上しんじょうおこなっている[77]

11月、義昭よしあき近衛このえぜんひさを、あに義輝よしてる殺害さつがいおよ足利あしかが義栄よしひで将軍しょうぐん襲職しゅうしょく便宜べんぎはたらいた容疑ようぎ追放ついほう[注釈ちゅうしゃく 10][注釈ちゅうしゃく 11]、12月にじょうはれりょう関白かんぱく復職ふくしょくさせた[注釈ちゅうしゃく 12]他方たほう近衛このえ義昭よしあき生母せいぼであったけい寿ことぶきいん以来いらい将軍しょうぐん台所だいどころ輩出はいしゅつしてきたが、ぜんひさ追放ついほうによる関係かんけい冷却れいきゃくによって正室せいしつむかえることが出来できなくなった[注釈ちゅうしゃく 13]

本國ほんごくてらへんじょう御所ごしょ建設けんせつ

足利あしかが義昭よしあき御所ごしょであったきゅうじょう城跡じょうせき

えいろく11ねん10がつ26にち信長のぶなが京都きょうと一部いちぶ宿将しゅくしょうとわずかな手勢てぜいのこして、美濃みの帰還きかんした[82]信長のぶながとしてはこれほどはや畿内きない平定へいてい予想よそうがいであり、兵糧ひょうろうなどが欠乏けつぼうしていたとかんがえられる[82]

信長のぶながへい領国りょうごく帰還きかんすると、義昭よしあき三好みよしさんにんしゅかえしにさらされることになった[82]さんにんしゅ京都きょうと周辺しゅうへんからわれたものの、兵力へいりょく維持いじしており、反撃はんげき準備じゅんびすすめていた[82]。そのため、信長のぶなが帰国きこく絶好ぜっこう機会きかいであり、四国しこくからへいせ、畿内きない各地かくち蠢動しゅんどうした[82]

11月、義昭よしあき三好みよしさんにんしゅうごきを警戒けいかいし、京都きょうと東郊とうこうがいにある将軍しょうぐん山城やましろ整備せいびし、京都きょうと防衛ぼうえいかためている[82]。かつてここには、義昭よしあきあに義輝よしてる籠城ろうじょうしたことがあった[82]

12月24にち松永まつなが久秀ひさひで大和やまとはなれ、岐阜ぎふにいる信長のぶながしたへとかった[83][84]。おそらく、信長のぶなが新年しんねんべようとしたのであろうが、これにより京都きょうと防備ぼうび手薄てうすとなった[84]

えいろく12ねん1569ねん)1がつ5にち三好みよしさんにんしゅはこれを見逃みのがさず、京都きょうとへと進軍しんぐんし、将軍山しょうぐんざんじょうはらった[84]。そして、5にちきょうちゅうり、義昭よしあきのいた本圀寺ほんごくじ包囲ほうい襲撃しゅうげきした(本圀寺ほんごくじへん[84][85]

このとき、義昭よしあきあに義輝よしてる同様どうよう運命うんめいになるかともおもわれた。だが、奉公ほうこうしゅおよび、摂津せっつ池田いけだ勝正かつまさ和田わだ惟政これまさ伊丹いたみおやきょう河内かわうち三好みよし義継よしつぎらがけつけて奮戦ふんせんしたことにより、6にちにこれを撃退げきたいした[84][86]

信長のぶながはこのらせをくと、すぐさま美濃みの出国しゅっこくし、1がつ10日とおか京都きょうとへとはいった[85][87]。また、信長のぶながいで、久秀ひさひで上洛じょうらくし、信長のぶなが領国りょうごくである尾張おわり美濃みの伊勢いせのみならず、山城やましろ近江おうみ摂津せっつ河内かわうち和泉いずみ若狭わかさなどから、総勢そうぜい8まんにん援軍えんぐんとして上洛じょうらくした[85]

1がつ7にち義昭よしあき豊後ぶんご大友おおとも宗麟そうりん義鎮よししげ)に毛利もうり元就もとなりとの講和こうわすす[86]、13にちには毛利もうり聖護院しょうごいんみちきよしを、大友おおとも久我くがはるどおり派遣はけんし、たがいに講和こうわして三好みよし本拠ほんきょである阿波あわ出兵しゅっぺいさせようとした[88][注釈ちゅうしゃく 14]

1がつ14にち義昭よしあき信長のぶながより、殿中でんちゅうおきてという9箇条かじょう[注釈ちゅうしゃく 15]おきてしょ承認しょうにんさせられた。だが、義昭よしあき殿中でんちゅうおきて全面ぜんめんてき遵守じゅんしゅした形跡けいせきはなく、以後いご両者りょうしゃ関係かんけい微妙びみょうなものとなっていった。

2がつ2にち義昭よしあき信長のぶながたいして、あに義輝よしてる本拠ほんきょいた烏丸からすま中御門なかみかどだい、つまりじょう御所ごしょ再興さいこうおよび増強ぞうきょうめいじた[89]

3月1にち朝廷ちょうてい信長のぶながふく将軍しょうぐんにんじようとし、正親町おおぎまち天皇てんのう勅旨ちょくしくだされた[90]。だが、信長のぶながはこれに返答へんとうしなかった[90]

3月27にち義昭よしあき自身じしんいもうと義晴よしはるむすめ)を三好みよし義継よしつぎとつがせた[91]

4がつ14にち義昭よしあき将軍しょうぐんてい二条にじょう御所ごしょ完成かんせい[89]義昭よしあき本國ほんごくてらからここに移動いどうした[90][92]。この御所ごしょじゅう水堀みずほりかこい、たか石垣いしがきあらたに構築こうちくするなど防御ぼうぎょ機能きのう格段かくだん充実じゅうじつさせたため洛中らくちゅう平城ひらじろんでつかえのないだい規模きぼ城郭じょうかくふうのものとなったことから、二条城にじょうじょうともばれる。

4がつ21にち信長のぶながじょう御所ごしょ完成かんせいけて、義昭よしあき帰国きこく暇乞いとまごいをした[90]義昭よしあきなみだして感謝かんしゃし、門外もんがいまでおくしたばかりか、粟田口あわだぐちにその姿すがたえるまで見送みおくったという[90]

6月22にち義昭よしあきしたがえさんけん大納言だいなごん叙任じょにんした[93]

信長のぶながとの共闘きょうとう

織田おだ信長のぶなが

8がつ信長のぶながみずか伊勢いせこく北畠きたばたけめ、本拠地ほんきょちである大河内おおこうちしろ包囲ほうい攻撃こうげきした(大河内おおこうちじょうたたか[94]。だが、北畠きたばたけ抵抗ていこうしろとしきれず、信長のぶなが要請ようせいけた義昭よしあき仲介ちゅうかいかたちで、10月に講和こうわ成立せいりつした[94][95]

10月11にち信長のぶなが凱旋がいせんのために上洛じょうらくしたが、そのすぐ、17にち京都きょうとから美濃みのかえってしまった[96][97]。『多聞たもんいん日記にっき』によると、信長のぶなが帰還きかんは「上意じょういいてくだりおわんぬ」としるされていることから[96]北畠きたばたけ征討せいとう講和こうわ条件じょうけんめぐって、義昭よしあき対立たいりつしたとかんがえられている[98]。これは朝廷ちょうていでも騒動そうどうになり、正親町おおぎまち天皇てんのう事態じたい憂慮ゆうりょして、女房にょうぼう奉書ほうしょしている[94][99]

10月26にち義昭よしあき伊丹いたみ池田いけだ和田わだからなる摂津せっつさん守護しゅご軍勢ぐんぜい播磨はりま派遣はけんし、浦上うらかみ山名やまな攻撃こうげきさせた[97]。これにより、浦上うらかみ内蔵ないぞうかいち、山名やまな没落ぼつらくさせた[100]

えいろく13ねんもとかめ元年がんねん1570ねん)1がつ23にち信長のぶなが殿中でんちゅうおきてに5箇条かじょう追加ついかし、義昭よしあきはこれを承認しょうにんした[96]。これら5箇条かじょう前年ぜんねんよりもさらにきびしいものであったため、義昭よしあき信長のぶながつよ不満ふまんいた[101]

同日どうじつ信長のぶながはニじゅういちヶ国かこくにおよぶ大名だいみょう国司こくしくにしゅしょさむらいしゅたいして「触状ふれじょう」をはっし、上洛じょうらくし、義昭よしあきに「御礼おれい」をもうげることをもとめた[102]。 ここでは、畿内きない近国きんごく大名だいみょうらのみならず、ひがし武田たけだ信玄しんげん徳川とくがわ家康いえやすひがし越中えっちゅう神保じんぼ西にし備前びぜん浦上うらかみ出雲いずも尼子あまこにまで通達つうたつされている[103]戦国せんごく時代じだい以前いぜん室町むろまち幕府ばくふ将軍しょうぐんは、「じゅういち屋形やかた」としょうされる在国ざいこく大名だいみょうによってささえられており、信長のぶなががニじゅういちヶ国かこく大名だいみょうらに上洛じょうらくもとめたのは、この旧来きゅうらいの「ニじゅういち屋形やかた」の再興さいこう目的もくてきとしていたからとされる[103]

3月13にち、「触状ふれじょう」による上洛じょうらく要請ようせいにより、信長のぶながはたけ山高やまたかまさし畠山はたけやま秋高あきだか三好みよし義継よしつぎ守護しゅご大名だいみょう大舘おおたちはれただしだいたてあきらちょう以下いか幕府ばくふ御供ごくうしゅ部屋へやしゅさる公家くげしゅが、義昭よしあきに祇侯した[104]。また、公家くげ身分みぶんあね小路しょうじ頼綱よりつな同席どうせきしていたほか、但馬たじま山名やまな備前びぜん浦上うらかみなどから進物しんもつやまのようにとどいていたことから、相当そうとうすう大名だいみょう要請ようせいおうじていたとかんがえられる[105]。これは、義昭よしあき理想りそうとした幕府ばくふ体制たいせい実現じつげんであり、信長のぶなが上洛じょうらくした武士ぶしらを披露ひろうするつとめをたしたとかんがえられる[104]

4がつ10日とおか甲斐かい武田たけだ信玄しんげん義昭よしあき側近そっきん一色いっしょくふじちょうたいし、嫡子ちゃくし武田たけだ勝頼かつより官途かんと義昭よしあきからのいち拝領はいりょうもとめた[106]。だが、信長のぶなが妨害ぼうがいにあったのか、これは実現じつげんされなかった[106]

4がつ14にち二条にじょう御所ごしょ竣工しゅんこう記念きねんし、祝言しゅうげんとしてまい興業こうぎょうおこなわれ[89]観世かんぜ金春こんぱるのうえんじられた[107]義昭よしあき信長のぶながのほか、あね小路しょうじ頼綱よりつな北畠きたばたけきょう徳川とくがわ家康いえやす畠山はたけやま秋高あきだか一色いっしきよしどおり三好みよし義継よしつぎ松永まつなが久秀ひさひで上洛じょうらくしていた諸氏しょしと、公家くげしゅ同席どうせきした[107]

4がつ20日はつか信長のぶなが若狭わかさ武藤むとうともえきおよ越前えちぜん朝倉あさくら義景よしかげ討伐とうばつのため、守護しゅご奉公ほうこうしゅ、昵近公家くげしゅからなる幕府ばくふぐん3まんひきいて京都きょうと出発しゅっぱつし、若狭わかさへとかった[108]。ただし、朝倉あさくら討伐とうばつ対象たいしょうではなく、若狭わかさ武田たけだ抵抗ていこうする武藤むとうのみが討伐とうばつ対象たいしょうだったとする見解けんかいもある[109]。また、本國ほんごくてらへん失敗しっぱい教訓きょうくんとして、二条にじょう御所ごしょ完成かんせい出陣しゅつじんしている[89]

信長のぶなが京都きょうと出陣しゅつじんしたのち、近江おうみ若狭わかさはいると、高浜たかはま辺見へんみ西津にしづ内藤ないとうといった若狭わかさくにしゅさんじ、家老がろう国境こっきょうまでむかえに[89]若狭わかさでは、くにしゅ若狭わかさ武田たけだ朝倉あさくらでそれぞれかれており、義昭よしあきおいでもある武田たけだ元昭もとあき朝倉あさくら義景よしかげ拉致らちされる事件じけん発生はっせいするなど、支配しはい安定あんていしていなかった[110]武田たけだ家中かちゅう義輝よしてるだいから内紛ないふん調停ちょうていねがており、今回こんかい信長のぶなが軍事ぐんじ行動こうどう武田たけだ家老がろうくにしゅ歩調ほちょうわせたものであった[110]

4がつ25にち信長のぶなが朝倉あさくら討伐とうばつのため、若狭わかさから越前えちぜんおもむき、敦賀つるがぐんはいった[111]武藤むとう信長のぶなが挟撃きょうげきするため、朝倉あさくら義景よしかげ後詰ごづめ依頼いらいしたことがしゅたる要因よういんであった[110]。そのため、越前えちぜんへの侵攻しんこう武藤むとう朝倉あさくら連携れんけいり、信長のぶながかた挟撃きょうげきされることになったことによる結果けっかろんぎないという指摘してきもある[111]

同日どうじつ信長のぶながとう山城やましろ攻撃こうげきしたのち、朝倉あさくらけいつね籠城ろうじょうする金ヶ崎かねがさきしろ攻撃こうげきした(金ヶ崎かねがさきたたか[111]。だが、近江おうみ浅井あさい長政ながまさ離反りはんし、さらには六角ろっかく義賢よしかた蜂起ほうきしたことで、挟撃きょうげきける可能かのうせい発生はっせいし、信長のぶなが撤退てったい余儀よぎなくされた[112][113]

4がつ29にち信長のぶなが越前えちぜんから撤退てったいし、近江おうみ朽木くちきえて、4がつ30にち京都きょうとへとはいった[112]。このとき、幕府ばくふぐん池田いけだ勝正かつまさ殿しんがりつとめ、若狭わかさでは沼田ぬまた弥太郎やたろう近江おうみでは朽木くちきもとつなといった幕府ばくふ奉公ほうこうしゅ引導いんどうしている[112]。このように、若狭わかさ越前えちぜんめでは、義昭よしあき信長のぶなが一体いったいとなっていた[112]

信長のぶなが京都きょうとはなれているあいだ義昭よしあきもうれによって、4がつ23にち朝廷ちょうてい年号ねんごうえいろくからもとかめ改元かいげんした[113]朝廷ちょうてい義昭よしあき畿内きない平定へいていみとめたことによるものだとかんがえられている[113]。また、えいろく年号ねんごうさん好色こうしょくつよ年号ねんごうであり、あに義輝よしてるがその改元かいげん参加さんかできなかったことも、義昭よしあき改元かいげんかんがえたおおきな要因よういんとなった[114]

5月、信長のぶなが六角ろっかく義賢よしかた野洲川やすがわやぶった[113]

6月14にち摂津せっつにおいて、信長のぶながかた池田いけだ勝正かつまさ失脚しっきゃくし、一族いちぞく家臣かしんだん三好みよしさんにんしゅ味方みかたした[115]。そして、三好みよしさんにんしゅさかい渡海とかいし、北上ほくじょうした[116]

6月28にち信長のぶなが徳川とくがわ家康いえやすとともに近江おうみ浅井あさいぐんながれる姉川あねがわにおいて、浅井あさい朝倉あさくら連合れんごうぐんたたかって勝利しょうりした(姉川あねがわたたか[112]。このたたかいにおいて、同月どうげつ18にち義昭よしあきみずからの出馬しゅつば表明ひょうめいしたほか(たたかいに出馬しゅつばはしなかった)、畿内きない幕臣ばくしん江南こうなん勢力せいりょく軍事ぐんじ動員どういんをかけているなど、このたたかいは金ヶ崎かねがさきでの敗戦はいせんによって失墜しっついした将軍しょうぐん権威けんい回復かいふく意味合いみあいもあった[117]。このたたかいでも義昭よしあき信長のぶなが一体いったいとなっていた[117]

7がつ21にち三好みよしさんにんしゅ細川ほそかわあきらもと摂津せっつ挙兵きょへいし、野田のだ福島ふくしまうつった[116][118]三好みよしさんにんしゅかたには、あきらもとのみならず、三好みよし康長やすなが三好みよしもりまさし斎藤さいとうりゅうきょう雑賀さいか孫市まごいち、さらにはぜん関白かんぱく近衛このえぜんひさくわわっていた[116]。そのため、義昭よしあき河内かわうち畠山はたけやま秋高あきだか軍事ぐんじ動員どういんをかけたほか、秋高あきだかかいして、紀伊きい和泉いずみ、さらには信長のぶながにも出陣しゅつじん要請ようせいしている[118]

幕府ばくふぐん義昭よしあきみずからが出馬しゅつばし、信長のぶなが筆頭ひっとうに、秋高あきだか三好みよし義継よしつぎ松永まつなが久秀ひさひで遊佐ゆさ信教しんきょうら3まんにんぐん出陣しゅつじんした[118]義昭よしあきはまた、摂津せっつさん守護しゅご茨木いばらぎ塩川しおかわ有馬ありま和泉いずみこくしゅ軍勢ぐんぜい糾合きゅうごうし、中島なかじま天満てんまもり陣取じんどり、9月2にち細川ほそかわ藤孝ふじたか居城きょじょう中島なかじましろはいった[118]。このとき、義昭よしあきみずか糾合きゅうごうした幕府ばくふぐん3まんにん信長のぶながぐん3まんにんの、総勢そうぜい6まんにん軍勢ぐんぜいひきいていた[118]。これにより、野田城のだじょう福島ふくしまじょう籠城ろうじょうする三好みよしさんにんしゅ挟撃きょうげきする態勢たいせいととのった(野田城のだじょう福島ふくしまじょうたたか[116]

9月12にち義昭よしあき信長のぶなが三好みよしさんにんしゅらと対峙たいじしているさなか、石山いしやま本願寺ほんがんじ離反りはん蜂起ほうきし、法主ほっしゅ顕如けんにょ諸国しょこく門徒もんとげきばした[119]さんにんしゅ籠城ろうじょうしていた野田城のだじょう福島ふくしまじょう本願寺ほんがんじちかく、連絡れんらくっていたとかんがえられる[120]本願寺ほんがんじ信長のぶなが敵対てきたいしたことから、義昭よしあき顕如けんにょ義絶ぎぜつしたが、顕如けんにょもこれにたいして、加賀かがよんぐん御料ごりょうしょ幕臣ばくしん知行ちぎょうを押領した[121]

9月18にち義昭よしあき本願寺ほんがんじとの勅命ちょくめい講和こうわはかり、朝廷ちょうていから公家くげ烏丸からすま光康みつやす正親町おおぎまち実彦さねひこ聖護院しょうごいん門跡もんぜきみちきよし勅使ちょくしとして派遣はけんされたが、勅使ちょくし戦火せんかのために下向げこうできなかった[122]

同月どうげつ本願寺ほんがんじ呼応こおうして、浅井あさい朝倉あさくら挙兵きょへいした[123][124]浅井あさい朝倉あさくら連合れんごうぐん六角ろっかく義賢よしかた本願寺ほんがんじ近江おうみ門徒もんとしゅみ、近江おうみ坂本さかもとまで出兵しゅっぺいし、もりなり信長のぶながおとうと信治しんじった(宇佐うさ山城やましろたたか[123][120]さらには、きょうひょう青山あおやま将軍山しょうぐんざんぐんすすめ、京都きょうと伏見ふしみ鳥羽とば山科やましな放火ほうかした[123][120]。これにより、義昭よしあき信長のぶなが三好みよし本願寺ほんがんじぜい浅井あさい朝倉あさくらぜい完全かんぜん包囲ほうい挟撃きょうげきされるかたちとなった[123]浅井あさい朝倉あさくらぜい蜂起ほうきは、幕府ばくふぐん摂津せっつ出陣しゅつじんし、京都きょうとまもりが手薄てうすになっていたからといえる[123]

9月23にち義昭よしあき信長のぶなが浅井あさい朝倉あさくらぜい蜂起ほうきけて、摂津せっつ幕府ばくふぐんのこしたまま、ともに京都きょうとへともどった[123]。ともに帰還きかんしたのは夜間やかんで、義昭よしあき午後ごご9ぎ、信長のぶなが午後ごご11ぎであった[125]義昭よしあき摂津せっつ出陣しゅつじんしているあいだ二条にじょう御所ごしょではさんふちふじえい大舘おおたちはれただし奉公ほうこうしゅ公家くげ吉田よしだけんけんみる)といったわずかな人々ひとびと留守るすつとめているだけだった[123]

翌日よくじつ信長のぶなが浅井あさい朝倉あさくらぜい討伐とうばつのため、近江おうみ坂本さかもと出陣しゅつじんした[125][126]。このとき信長のぶながぐんは1まんであったが、浅井あさい朝倉あさくらぐんは3まんであった[125]浅井あさい朝倉あさくらぐん延暦寺えんりゃくじ支援しえんけ、比叡山ひえいざん拠点きょてんとし、東山ひがしやま進出しんしゅつした[126]浅井あさい朝倉あさくらぐん京都きょうと東方とうほう山々やまやま布陣ふじんしたことで、信長のぶながやまはばまれてめることができなかった[125]

9月27にち阿波あわ三好みよし長治ながはる篠原しのはら長房ながふさ細川ほそかわ真之まさゆき尼崎あまがさき着陣ちゃくじんした[126]阿波あわ軍勢ぐんぜいは2まんあまりで、三好みよしさんにんしゅ軍勢ぐんぜいわせると3まんであった[126]

10月1にち本願寺ほんがんじ三好みよしさんにんしゅ援軍えんぐんとして摂津せっつ中島なかじま着陣ちゃくじんし、義昭よしあきかた茨木いばらぎじょう調しらべりゃく降伏ごうぶくさせ、ともに京都きょうとはいることを協議きょうぎした[127]。だが、信長のぶなが三好みよしかた調しらべりゃくをかけ、三好みよし為三ためぞう細川ほそかわあきらもと香西こうざい元成もとなり寝返ねがえらせるなど、くずそうとしている[127]信長のぶなが本願寺ほんがんじは、それぞれにはげしい調しらべりゃく合戦かっせん展開てんかいした[127]

10月4にち西岡にしおか宇治うじ一揆いっき発生はっせいすると、幕府ばくふ徳政令とくせいれいしたほか、22にち奉公ほうこうしゅ織田おだかた木下きのした秀吉ひでよし菅谷すがやちょうよりゆき協力きょうりょくして鎮圧ちんあつにあたっている[123][128]

10がつ20日はつか浅井あさい朝倉あさくらぜい京都きょうと郊外こうがいにおいて、修学しゅうがくてら一乗寺いちじょうじ松ヶ崎まつがさきにまで侵出しんしゅつし、所々ところどころ放火ほうかおこなったが、奉公ほうこうしゅ撃退げきたいした[123][128]三好みよしさんにんしゅもまた、京都きょうとへと侵攻しんこうし、22にちには京都きょうと近郊きんこうにあった信長のぶながかた御牧みまきじょうとした[125]。とはいえ、細川ほそかわ藤孝ふじたか和田わだ惟政これまさ御牧みまきじょう奪還だっかんされ、三好みよしかた京都きょうとすすむことはできなかった[129]

11月、延暦寺えんりゃくじ僧兵そうへい朝倉あさくらぐん加勢かせいした[125]朝倉あさくらかたへいはしばしばやまくだり、信長のぶなが陣地じんち突破とっぱして京都きょうと近郊きんこうめた[125]三好みよしかたもまた、京都きょうと依然いぜんとしてうかがっていた[125]。だが、信長のぶながは10がつまつより、かく勢力せいりょくとの講和こうわ交渉こうしょう開始かいしした[130]

11月12にち信長のぶなが松永まつなが久秀ひさひで仲介ちゅうかいにより、に三好みよしさんにんしゅ三好みよし長治ながはる交渉こうしょう開始かいし[129]、18にち講和こうわ成立せいりつさせた[130]。そして、松永まつなが久秀ひさひで篠原しのはら長房ながふさとのあいだ人質ひとじちわされた[130]

11月21にち六角ろっかく義賢よしかた志賀しが信長のぶながじんおもむき、信長のぶなが六角ろっかく講和こうわした[129][131]六角ろっかく往時おうじいきおいをうしなっており、信長のぶなが提案ていあんおうじるかたちとなった[132]

11月26にち浅井あさい朝倉あさくら門徒もんとしゅからなる連合れんごうぐんかえしのため、近江おうみ堅田かただんだ[133]信長のぶながかたはこの攻撃こうげきによってやぶれ、坂井さかいまさしなおにした[133]。このため、信長のぶなが焦燥しょうそうかんつよめ、てきかたとの和平わへい注力ちゅうりょくした[133]

11月28にち義昭よしあき信長のぶなが依頼いらいされ、関白かんぱく二条にじょうはれりょうとともに近江おうみ坂本さかもと下向げこうした。はん信長のぶなが主力しゅりょく朝倉あさくらであり、義昭よしあきはかつて朝倉あさくら庇護ひごけていたため、信長のぶなが仲介ちゅうかいしゃとして適任てきにんだとかんがえたからであった[131]

12月9にち正親町おおぎまち天皇てんのう延暦寺えんりゃくじ講和こうわめいじた[134]比叡山ひえいざん鎮護ちんご国家こっか天皇てんのう祈祷きとうしょであったため、朝廷ちょうてい関与かんよした可能かのうせいがあり、公家くげじょうはれりょう交渉こうしょう関与かんよしたとかんがえられる[135]

12月13にち二条にじょうはれりょう信長のぶなが朝倉あさくらとの講和こうわかんして、上野うえの秀政ひでまさかいし、義昭よしあき仲裁ちゅうさい提案ていあんした[136]義昭よしあきはこの提案ていあんれ、はれりょうともに園城寺おんじょうじ下向げこうした[137]。また、義昭よしあき和議わぎ背負せおいしない場合ばあいには、高野山こうのやま隠遁いんとんする覚悟かくごもっのぞんだ[137]

義昭よしあきはれりょう朝倉あさくらじんおもむかせ、はれりょうかいするかたちで、義景よしかげ信長のぶながとの講和こうわ打診だしんした[131]。その結果けっか朝倉あさくら講和こうわかたむいたが、延暦寺えんりゃくじがこれに反対はんたいしたため、はん信長のぶなが議論ぎろんきた[131]。だが、朝倉あさくら講和こうわかたむいたため、浅井あさい延暦寺えんりゃくじ本願寺ほんがんじもこれに追従ついしょうし、信長のぶなが朝倉あさくら以下いかはん信長のぶながとのあいだ講和こうわ成立せいりつした[128][131][138]。また、延暦寺えんりゃくじたいしては朝廷ちょうていから綸旨りんじされ、勅命ちょくめい講和こうわかたちがとられた[139]

12月14にち、それぞれが近江おうみから撤兵てっぺいして、志賀しがじん終結しゅうけつし、17にち信長のぶなが美濃みのへともどった[131][140]信長のぶなが最大さいだい危機ききだっしたが、それをちこたえることができたのは、義昭よしあき味方みかたしていたことがおおきかった[141]

畿内きない混乱こんらん

松永まつなが久秀ひさひで

もとかめ2ねん1571ねん)1がつ三好みよし長治ながはる篠原しのはら長房ながふさ帰国きこくしたが、同月どうげつのうちに長房ながぶさ讃岐さぬき軍勢ぐんぜいうつし、毛利もうりりょうする備前びぜん児玉こだま攻撃こうげきした[138]長房ながぶさ備前びぜん侵攻しんこうは、義昭よしあき信長のぶなが長房ながぶさ前年ぜんねん和睦わぼくによってこされたものであった[142]

2がつ義昭よしあき豊後ぶんご大友おおとも宗麟そうりんたいして、毛利もうりとの和睦わぼくめいじている[143]

4がつ14にち烏丸からすま光宣みつのぶとついでいた義昭よしあきあね急死きゅうしすると、後難こうなんおそれた光宣みつのぶ出奔しゅっぽんした。これに激怒げきどした義昭よしあきは、同月どうげつ28にち一色いっしょくふじちょうらに烏丸からすまていおそわせている[81]

5月26にち安芸あき毛利もうり輝元てるもとおよ後見こうけんする毛利もうり元就もとなりより、義昭よしあき信長のぶなが毛利もうりがわ一言ひとこと相談そうだんもなく、畿内きない長房ながぶさ和睦わぼくしたことを抗議こうぎされた[134]長房ながふさ前年ぜんねん義昭よしあき信長のぶながとの和睦わぼくを「京都きょうと宥免ゆうめん」としょうし、それを大義名分たいぎめいぶんとして、備前びぜん浦上うらかみ宗景むねかげむすび、備前びぜん児玉こだま侵攻しんこうしていた[134]輝元てるもと元就もとなり長房ながぶさ軍事ぐんじ行動こうどうを「中国ちゅうごく錯乱さくらん」のくわだてと批判ひはんするとともに、九州きゅうしゅうから大友おおとも宗麟そうりん挟撃きょうげきされることをおそれ、義昭よしあきによる和睦わぼく斡旋あっせんれるとつたえた[144]

6月11にち義昭よしあききゅうじょう出身しゅっしん養女ようじょ筒井つつい順慶じゅんけいとつがせ、順慶じゅんけいみずからの陣営じんえいくわえた[145]。これは5月に松永まつなが久秀ひさひで畠山はたけやま秋高あきだかかた交野かたのじょうめ、秋高あきだか援護えんごのために摂津せっつ和田わだ惟政これまさ出陣しゅつじんするなど、不穏ふおん空気くうきながれたからであった[146]。また、久秀ひさひで順慶じゅんけい大和やまとこくをめぐるあらそいを、もとかめ元年がんねんよりまえからつづけていた[147]

6月12にち義昭よしあき長房ながぶさ毛利もうりたいする軍事ぐんじ行動こうどう言語道断ごんごどうだん批判ひはんし、輝元てるもと叔父おじ小早川こばやかわ隆景たかかげたいし、香川かがわ相談そうだんして讃岐さぬきめるように指示しじした[142]。また、信長のぶなが20日はつか輝元てるもと元就もとなりたいし、長房ながぶさとの和睦わぼく本意ほんいではなかったとしたうえで、義昭よしあき長房ながぶさとの和睦わぼく仲介ちゅうかいしても、長房ながふされないだろうとこたえた[142]

6月19にち松永まつなが久秀ひさひで三好みよしさんにんしゅみ、河内かわうち畠山はたけやま秋高あきだか居城きょじょう高屋たかやじょうめ、義昭よしあきから離反りはんした[145]久秀ひさひで離反りはんは、義昭よしあききゅうじょう出身しゅっしん養女ようじょ順慶じゅんけいとつがせたことによる反発はんぱつや、久秀ひさひでむすんだ長房ながふさによる毛利もうり領国りょうごくへの侵攻しんこうにより、義昭よしあき信長のぶなが毛利もうり同盟どうめい亀裂きれつはいったことで、義昭よしあきから長房ながぶさ軍事ぐんじ行動こうどう片棒かたぼうかついだとうたがわれたことにあったとかんがえられる[134]

同月どうげつ義昭よしあき同盟どうめいした順慶じゅんけい奈良なら侵攻しんこうし、義昭よしあきもまた順慶じゅんけい支援しえんするため、奉公ほうこうしゅさんふちふじすぐる山岡やまおかけいとも援軍えんぐんとしておくった[148]

7がつ12にち長房ながぶさ久秀ひさひで呼応こおうして、四国しこくから摂津せっつ渡海とかいした[149]。15にち久秀ひさひで三好みよし義継よしつぎ義昭よしあきかた和田わだ惟政これまさまも高槻たかつきじょうめたことから、義継よしつぎ義昭よしあきから離反りはんしていた[149]義昭よしあき幕府ばくふは、信長のぶなが久秀ひさひで義継よしつぎささえられていた体制たいせいからおおきく変化へんかした[149]

8がつ4にち久秀ひさひで松永まつなが久通ひさみち三好みよし義継よしつぎらとともに順慶じゅんけいたつ市城いちしろめ、りょうぐん激突げきとつした[148][149]久秀ひさひではこのたたかいで大敗たいはいきっし、おおくのくびじょう御所ごしょ義昭よしあきのもとにおくられ、御所内ごしょうちでさらされた[148]

8がつ13にち義昭よしあき長房ながぶさ毛利もうりあらそいにかんして、守護しゅご河野こうの参戦さんせんうながした[142]。これは、6月14にち元就もとなり死去しきょし、毛利もうり苦境くきょうおちいっていたことによる[142]。このあらそいは西日本にしにほん各地かくちしており、尼子あまこ残党ざんとう毛利もうりたたかっているすきいて出雲いずも奪還だっかんのために毛利もうりかたしろめた一方いっぽう九州きゅうしゅうでは大友おおとも共通きょうつうてきとする肥前ひぜん龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ毛利もうり味方みかたするなど、畿内きない情勢じょうせい連動れんどうしていた[142]

久秀ひさひで順慶じゅんけいやぶれたものの、三好みよしさんにんしゅう連携れんけいしてかえしをはかり、8がつ28にち義昭よしあきかた和田わだ惟政これまささんにんしゅかた池田いけだ知正ともまさらがめ、これをった(白井しらい河原かわはらたたか[148][150]義昭よしあきによって畿内きない配置はいちされた大名だいみょうのうち、摂津せっつ和田わだ惟政これまさにし、河内かわうち三好みよし義継よしつぎ大和やまと松永まつなが久秀ひさひで離反りはんしたことによって、義昭よしあき信長のぶながへの依存いぞんたかめた[150]

9月12にち信長のぶながみずかへいひきい、比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじへのちを実行じっこうした(比叡山ひえいざん[150]

10月、義昭よしあきかた離脱りだつした久秀ひさひで義継よしつぎ山城やましろ南部なんぶ攻勢こうせいつよめ、長房ながふさ三好みよし康長やすなが連携れんけいし、河内かわうち和泉いずみ転戦てんせんした[150]三好みよしさんにんしゅもまた、河内かわうち北部ほくぶ支配しはいいていた[151]

11月、摂津せっつはれもん退任たいにん空席くうせきであった政所まんどころ執事しつじあたまじん)に若年じゃくねん伊勢いせさだきょうにんじる人事じんじ信長のぶなが同意どうい[152]さだきょう成人せいじんまでは信長のぶなが職務しょくむ代行だいこうすることになった[76]

12月17にち三好みよし盟主めいしゅあおいでいた細川ほそかわ六郎ろくろう義昭よしあき軍門ぐんもんくだり、上洛じょうらくして義昭よしあき謁見えっけんし、義昭よしあきから「あきら」のいちあたえられ、あきらもと名乗なのった[148]。これは義昭よしあき調しらべりゃくしたことによるもので、義昭よしあき信長のぶながかえしをはかった結果けっかであった[151]

もとかめ3ねん1572ねん)1がつ18にち義昭よしあき面前めんぜんにおいて、上野うえの秀政ひでまさ細川ほそかわ藤孝ふじたか信長のぶなが比叡山ひえいざんちにかんして激論げきろんわした[153]。この時点じてんで、幕臣ばくしんおや信長のぶながはん信長のぶなが分裂ぶんれつしていた[153]

1がつ26にち義昭よしあき信長のぶながあきらもとつづき、三好みよしさんにんしゅ一人ひとりいわ成友しげともどおり離反りはんさせた[151]信長のぶなが義昭よしあき下知げじによって、山城やましろ国内こくないにおいて6かしょ領地りょうちあたえ、 山城やましろ郡代ぐんだいにんじた[151]

うるう1がつ4にち畠山はたけやま秋高あきだか遊佐ゆさ信教しんきょう義昭よしあき裏切うらぎるとの風聞ふうぶんながれ、義昭よしあき秋高あきだか信教しんきょうに「三好みよし松永まつながてき」との書状しょじょうおくり、離反りはんしないようにもとめている[154]

4がつ13にち細川ほそかわあきらもと義昭よしあき裏切うらぎるとの風聞ふうぶんながれた[154]

4がつ16にち久秀ひさひで義継よしつぎ畠山はたけやま秋高あきだかかた交野かたのじょうめたが、信長のぶなが派遣はけんした柴田しばた勝家かついえ佐久間さくましんもりによって退しりぞけられた[154][155]他方たほう摂津せっつでは伊丹いたみちかしきょう和田わだおもんみちょう義継よしつぎ内通ないつうするうごきをせた[154]久秀ひさひで義継よしつぎはまた、細川ほそかわあきらもと盟主めいしゅとするうごきをせた[154]結果けっかとして、あきらもとはたけ山高やまたかまさし畠山はたけやま秋高あきだか遊佐ゆさ信教しんきょうおやきょうおもんみちょう義昭よしあき裏切うらぎらなかったが、畿内きないはいつだれ義昭よしあき裏切うらぎるかわからない不安定ふあんてい情勢じょうせいとなった[154]

5月8にち義昭よしあき山岡やまおかけいとも山城やましろ守護しゅご補任ほにんしたが、それはこのような畿内きない情勢じょうせい対抗たいこうするそなえであった[154]義昭よしあきはまだこの時点じてんにおいては、信長のぶなが裏切うらぎるつもりはなかったとかんがえられるが、三好みよしかた連合れんごうはかったことにより、義昭よしあき畿内きないにおいて孤立こりつすることになった[156]

信長のぶながとの決裂けつれつ

武田たけだ信玄しんげん

もとかめ3ねん5がつ13にち義昭よしあき甲斐かい武田たけだ信玄しんげんたいして、「天下てんか静謐せいひつ」のために軍事ぐんじ行動こうどうこすようにめいじた御内おんうちしょくだした[106][注釈ちゅうしゃく 16]。これにより、信玄しんげんはその西にしけるようになった[106]。すでに、もとかめ3ねん1がつ信玄しんげん縁戚えんせき関係かんけいにある顕如けんにょより、信長のぶなが背後はいごくように依頼いらいけていた[106][注釈ちゅうしゃく 17]

9月、信長のぶなが義昭よしあきたいして、自身じしん意見いけんしょである異見いけんじゅうななヶ条かじょう送付そうふした[159]。この意見いけんしょ義昭よしあき様々さまざまてん批判ひはんしており、とくにかつて殺害さつがいされた過去かこ将軍しょうぐんしたこともあって、信長のぶなが義昭よしあき対立たいりつさししならないものとなった[159]

10月3にち武田たけだ信玄しんげん朝倉あさくら義景よしかげ浅井あさい長政ながまさ出陣しゅつじんげ、同日どうじつ甲府こうふより進軍しんぐん開始かいしし、徳川とくがわ領国りょうごくである三河みかわ遠江とおとうみ侵攻しんこうした(西上にしがみ作戦さくせん[106]通説つうせつでは、義昭よしあき異見いけんじゅうななヶ条かじょう反発はんぱつし、信玄しんげん内通ないつうした結果けっかとされてきたが、近年きんねんではこの侵攻しんこう徳川とくがわ家康いえやす標的ひょうてきにしたものであり、義昭よしあきつうじたものではないとする見方みかたもある[160]

また、同月どうげつ信長のぶなが妙心寺みょうしんじ寺領じりょう安堵あんど朱印しゅいんじょう発給はっきゅうしたが、これは義昭よしあき意思いしもとづいて安堵あんどされたものであった[161]。この時点じてんでは、義昭よしあき信長のぶなが表面ひょうめんてきには対立たいりつすることなく、協調きょうちょうして京都きょうと支配しはいおこなっている[161]

とはいえ、信長のぶながにとって、家康いえやす盟友めいゆうであり、信玄しんげん徳川とくがわりょう侵攻しんこうしたことは、信長のぶながほこけるということにひとしかった[162]。これまで、信長のぶなが武田たけだ上杉うえすぎ和睦わぼく仲裁ちゅうさいしてきたこともあって、この侵攻しんこう激怒げきどして武田たけだ絶交ぜっこうし、家康いえやす援軍えんぐんおくった[162]他方たほう信玄しんげん朝倉あさくら浅井あさい本願寺ほんがんじなどのはん信長のぶなが勢力せいりょくんだ。

12月22にち信玄しんげん三方みかたばらたたか織田おだ徳川とくがわ連合れんごうぐんやぶり、家康いえやす敗走はいそうさせると、信長のぶなが本国ほんごくである尾張おわり美濃みの防衛ぼうえいせまられることになり、窮地きゅうちおちいった[163]。28にち信玄しんげん義景よしかげにこの戦勝せんしょうつたえるともに、「信長のぶなが滅亡めつぼう時刻じこく到来とうらい」であるとした[164]

同月どうげつ篠原しのはら長房ながふさ阿波あわより出陣しゅつじんし、京都きょうとうかが状況じょうきょうになった[165]

もとかめ4ねん天正てんしょう元年がんねん1573ねん)1がつ2にち松永まつなが久秀ひさひで六角ろっかく義賢よしかた家臣かしん三上みかみ栖雲のきたいし、三方みかたばらにおける信玄しんげん勝利しょうりつたえ、近江おうみ信長のぶながかたへの調しらべりゃくうながした[165]三好みよし義継よしつぎ松永まつなが久秀ひさひで篠原しのはら長房ながふさもまた、信長のぶなが対決たいけつしようとする信玄しんげん優勢ゆうせいて、攻勢こうせいかたちとなった[165]

1がつ11にち義昭よしあき信玄しんげんより、「凶徒きょうと」である信長のぶなが家康いえやす追討ついとうし、「天下てんか静謐せいひつ」のための指示しじもとめられた[166]

信玄しんげん破竹はちく進撃しんげきにより、幕府ばくふ内部ないぶでは「信長のぶながにつくか、信玄しんげんにつくか」で議論ぎろんわされ、幕臣ばくしんおおくが信玄しんげん支持しじまわり、それが義昭よしあき信長のぶながとの離間りかんつながったとする見方みかたがある[167]。また、信長のぶなが尾張おわり美濃みの防衛ぼうえい精鋭せいえいいて、京都きょうと手薄てうすになると、そこをはん信長のぶなが大挙たいきょしてかれる可能かのうせいがあったことも、義昭よしあき離反りはんはしらせた可能かのうせいがある[163]。いずれにせよ、三方みかたばらたたかいの結果けっか義昭よしあき決断けつだんにつながったことは間違まちがいないとかんがえられる[168]

義昭よしあき挙兵きょへい

浅井あさい長政ながまさ

もとかめ4ねん2がつ13にち義昭よしあきついはん信長のぶながへいげ、朝倉あさくら義景よしかげ浅井あさい長政ながまさ武田たけだ信玄しんげんらに御内おんうちしょくだした[163][169]。さらには、三好みよし義継よしつぎ挙兵きょへい意思いしつたえるとともに、安芸あき毛利もうり輝元てるもと備前びぜん浦上うらかみ宗景むねかげにもさんじんうながした[170]義昭よしあき信長のぶながのみに依存いぞんする現在げんざい体制たいせいから、朝倉あさくら義景よしかげ浅井あさい長政ながまさ武田たけだ信玄しんげん三好みよし義継よしつぎ顕如けんにょ毛利もうり輝元てるもと浦上うらかみ宗景むねかげらによって構成こうせいされる幕府ばくふへと再編さいへんしようとしたとかんがえられている[170]

義昭よしあき信長のぶながからの離反りはんを、はん信長のぶながしょしょうおおいによろこんだ[171]浅井あさい長政ながまさただちに「公方くぼうさまから御内おんうちしょくだされた」と各所かくしょ喧伝けんでんしたように、将軍しょうぐん味方みかたしたこと大々的だいだいてき喧伝けんでんし、どちらにくかめかねているものたち味方みかたにしようとした[171]

一方いっぽう信長のぶなが義昭よしあき離反りはん大変たいへんおどろき、挙兵きょへい義昭よしあき意志いしではなく、側近そっきん幕臣ばくしん勝手かってくわだてたことだとって、当初とうしょしんじようとしなかったという[171]信長のぶながとしては、義昭よしあきはこれまで自身じしん支援しえんしてきた主君しゅくんであり、その義昭よしあき見限みかぎられたということは、信長のぶなが大量たいりょう離反りはん、つまり総崩そうくずれにつながることを危惧きぐせざるをなかった[172]。そのため、信長のぶなが義昭よしあき使者ししゃ急派きゅうはし、息子むすこ人質ひとじちとすることで講和こうわもうれた[173]状況じょうきょう信長のぶながにとって、圧倒的あっとうてき不利ふりであった[165]

同月どうげつ義昭よしあき朝倉あさくら義景よしかげ軍事ぐんじりょく期待きたいし、上洛じょうらくめいじた[174]。だが、義景よしかげ一向いっこう上洛じょうらくする気配けはいはなく、義昭よしあき越前えちぜん使者ししゃ急派きゅうはして、いそ上洛じょうらくするようにめいじた[174]義昭よしあき義景よしかげたいして、5,000から6,000のへい京都きょうと郊外こうがい岩倉いわくら山本やまもとまで出兵しゅっぺいするようにと催促さいそくしたが、義景よしかげ大雪おおゆき進軍しんぐん困難こんなんだと返答へんとうするのみであった[169]同月どうげつには信玄しんげん遺憾いかんしめし、義景よしかげかさねて出兵しゅっぺいするようにもとめている(『あかし』)[169]

同月どうげつ中旬ちゅうじゅん義昭よしあき石山いしやま今堅田いまかたたなど志賀しかぐん高島たかしまぐん北山きたやまじょうくにしゅらを、はん信長のぶながとしてがらせようとした[175]

信長のぶなが柴田しばた勝家かついえ明智あけち光秀みつひで丹羽にわ長秀ながひで蜂屋はちやよりゆきたかしめいじ、2がつ26にち義昭よしあきかた石山いしやまじょうとし、29にちには今堅田いまかたたじょうとして、京都きょうとへのくち確保かくほした(石山いしやまじょう今堅田いまかたたじょうたたか[176]一方いっぽうで、信長のぶなが講和こうわみちかんがえ、28にち朝山あさやま日乗にちじょう村井むらい貞勝さだかつ島田しまだ秀満ひでみつさんにん使者ししゃとし、人質ひとじち誓紙せいしそうとしたが、義昭よしあき承知しょうちしなかった[177]使者ししゃ講和こうわ成立せいりつしない場合ばあいは、京都きょうとはらうと忠告ちゅうこくした[177]

3月6にち義昭よしあき三好みよし義継よしつぎ松永まつなが久秀ひさひでりょう赦免しゃめんし、同盟どうめいした[178]

3月7にち義昭よしあき勝算しょうさんありと判断はんだんして、信長のぶながからの人質ひとじち拒否きょひし、信長のぶなが断交だんこうした[179]義昭よしあき畿内きない近国きんごく上洛じょうらくいのちくだし、摂津せっつからは池田いけだ重成しげなり塩河しゅうが長光ながみつ丹波たんばからは内藤ないとう如安じょあん宇津うつよりゆきじゅうがこれにおうじ、京都きょうとはいった(『年代ねんだいしょうぶし』)[175][注釈ちゅうしゃく 18]

3月22にち義昭よしあき聖護院しょうごいんみちきよしたいし、朝倉あさくら三好みよし本願寺ほんがんじのみならず、毛利もうり小早川こばやかわにもさんじん要請ようせいしていることつたえた[181]。また、顕如けんにょ畠山はたけやま秋高あきだか遊佐ゆさ信教しんきょう義昭よしあき味方みかたしたとべている[181]

3月29にち信長のぶなが義昭よしあき対決たいけつするため、岐阜ぎふから上洛じょうらくした[182]信長のぶなが出迎でむかえたのは、細川ほそかわ藤孝ふじたか荒木あらき村重むらしげにんで、幕臣ばくしんである藤孝ふじたか義昭よしあき見限みかぎっていた[182]信長のぶなが三条さんじょう河原かわらぐんととのえ、おんいん布陣ふじんし、そのそう兵力へいりょくは1まんであった[183]一方いっぽう義昭よしあきじょう御所ごしょすうせんへいとともに籠城ろうじょうし、うご気配けはいせなかった(じょう御所ごしょたたか[183]

3月30にち義昭よしあき先制せんせい攻撃こうげき仕掛しかけ、信長のぶなが京都きょうと奉行ぶぎょうである村井むらい貞勝さだかつ屋敷やしき包囲ほういさせた[184]貞勝さだかつからくも脱出だっしゅつしたが、信長のぶながはなおも講和こうわもとめ、義昭よしあき赦免しゃめんられるなら、息子むすこ信忠のぶただとともに出家しゅっけし、武器ぶきたずさえずに謁見えっけんするともう[184]

4がつ1にち信長のぶなが吉田よしだけんし、義昭よしあき行動こうどうかんして、御所ごしょ公家くげしゅはどうおもっているかたずねた[184]けん信長のぶながたいし、いたかたないことだとおもっているむねべた[184]

4がつ2にち信長のぶなが柴田しばた勝家かついえらにめいじ、下賀茂しもがもから嵯峨さがいたるまでの128ヶ所かしょはらわせた[185]。このとき、信長のぶながから御所ごしょ和平わへい交渉こうしょう使者ししゃ派遣はけんされたが、義昭よしあき拒絶きょぜつした[186]

4がつ3にちよるから4にちにかけて、信長のぶながはさらに上京じょうきょうじょうから北部ほくぶはらわせた(上京じょうきょう[187]。その結果けっかされた市民しみん避難ひなんし、大井おおいがわ多数たすう溺死できしした[187]。さらに、信長のぶながじょう御所ごしょ周囲しゅういに4つのとりできずき、その糧道りょうどうち、しろへい戦意せんい喪失そうしつさせた[187]

信長のぶなが義昭よしあき降伏ごうぶく勧告かんこくするため、朝廷ちょうていうごかし、勅命ちょくめいによる講和こうわ義昭よしあきもとめた[186][188]義昭よしあき進退しんたいきわまった結果けっか朝廷ちょうていたより、正親町おおぎまち天皇てんのう勅命ちょくめい講和こうわもとめざるをなかった[187]両者りょうしゃあいだ斡旋あっせんしたのは、関白かんぱく二条にじょうはれりょうら3にん公家くげであった[186]

4がつ7にち義昭よしあき信長のぶなが正親町おおぎまち天皇てんのう勅命ちょくめいにより、講和こうわした[189]よく8にち信長のぶなが義昭よしあき謁見えっけんすることなく、京都きょうと出発しゅっぱつし、岐阜ぎふへと帰還きかんした[189]一方いっぽう義昭よしあきたよりにしていた武田たけだ信玄しんげんやまいのため、4がつ12にち本国ほんごくげる帰途きと死去しきょしていた[190]

さい挙兵きょへい京都きょうとからの追放ついほう

槇島まきしましろいししるべ

4がつ20日はつか義昭よしあきじょう御所ごしょ普請ふしんのため、吉田よしだけん領地りょうちから人夫にんぷ徴収ちょうしゅうした[190]。そして、21にち御所ごしょ天守てんしゅを、28にちほり普請ふしんおこなっている[191]

4がつ27にち義昭よしあき信長のぶなが家臣かしんとのあいだ起請文きしょうもんわされ、双方そうほうによる和平わへい内容ないよう順守じゅんしゅ、および幕臣ばくしんらが信長のぶながぎゃくしんいだかないこと誓約せいやくされた[191]義昭よしあきてた家臣かしん内訳うちわけは、佐久間さくましんもり滝川たきがわ一益かずますはなわ直政なおまさで、信長のぶなががわ発給はっきゅうしゃはやししげるさだ佐久間さくましんもり柴田しばた勝家かついえ稲葉いなば一鉄いってつ安藤あんどうまもる氏家うじいえぼくぜん滝川たきがわ一益かずますである[192]

5月13にち義昭よしあき武田たけだ信玄しんげんたいして、「天下てんか静謐せいひつ馳走ちそう」をめいじた[191]。また、義昭よしあきはん信長のぶなが連携れんけい画策かくさくし、朝倉あさくら義景よしかげ顕如けんにょらにも味方みかたになるように御内おんうちしょくだし、5月20にち顕如けんにょがこれに了承りょうしょうした[190][191]。このとき、義昭よしあき信玄しんげん死去しきょしたことをらなかった[190]

同月どうげつ三好みよし長治ながはる細川ほそかわ真之まさゆきとともに、はん信長のぶなが急先鋒きゅうせんぽうであった篠原しのはら長房ながふさめ、7がつった(上桜うえざくらじょうたたか[181]。これは、長房ながぶさ畿内きない備前びぜん出兵しゅっぺいかえして、阿波あわ三好みよし疲弊ひへいさせていったという状況じょうきょうや、長治ながはる義昭よしあきやぶった信長のぶなが手腕しゅわん評価ひょうかし、はん信長のぶなが態度たいどひるがえした結果けっかとする見方みかたもある[193]他方たほう信長のぶなが同盟どうめい関係かんけいにある毛利もうりからうたがわれぬよう、長治ながはる許容きょようしなかった[194]

6月8にち義昭よしあき吉田よしだ神社じんじゃからまつ徴収ちょうしゅうするなど、二条にじょう御所ごしょ強化きょうかつとめた[191]

6月13にち義昭よしあき安芸あき毛利もうり輝元てるもとたいし、へい粮料を要求ようきゅうした[195]。だが、輝元てるもと信長のぶながとの関係かんけいから支援しえんしなかった[195][196]

6月25にち河内かわうち畠山はたけやま秋高あきだか家臣かしん遊佐ゆさ信教しんきょうによって殺害さつがいされた[197]。 これは、秋高あきだか信長のぶながかたについたものの、信教しんきょう河内かわちくにしゅ大半たいはん義昭よしあき支持しじしていたため、その対立たいりつすえ発生はっせいした出来事できごとであった。

7がつ2にち義昭よしあきじょう御所ごしょ奉公ほうこうしゅさんふちふじえいのほか、政所まんどころ執事しつじ伊勢いせさだきょう、昵近公家くげしゅ日野ひのあきら高倉たかくらひさししょうなどにあづけたうえで、宇治うじ槇島まきしましろうつった[197]槇島まきしまじょう宇治川うじがわきょむく水系すいけい島地しまじきずかれた南山城みなみやましろ要害ようがいであり、義昭よしあき近臣きんしん木島きしま昭光あきみつ居城きょじょうでもあった[198]。そして、3にち義昭よしあき信長のぶながとの講和こうわ破棄はきし、この槇島まきしまじょう挙兵きょへいした[195][197][199]

7がつ7にち信長のぶなが上洛じょうらくすると、日野ひのあきら高倉たかくらひさししょうらはじょう御所ごしょ降伏ごうぶくし、12にち最後さいごまでこもっていたさんふちふじすぐる降伏ごうぶくした[200][201]。その信長のぶなが御所ごしょ殿舎でんしゃやぶ却したばかりか、諸人もろびとによって所内しょない略奪りゃくだつされるのをきんじなかった[202]

7がつ18にち信長のぶなが軍勢ぐんぜいとともに槇島まきしましろ包囲ほうい攻撃こうげきし、槇島まきしま一帯いったいはらった[200][203]義昭よしあきはこれに恐怖きょうふし、信長のぶなが講和こうわもうれ、その条件じょうけんとして2さい息子むすこひろ人質ひとじちして降伏ごうぶくした[200]

7がつ19にち義昭よしあき槇島まきしましろ退去たいきょして、枇杷庄びわのしょうくだり、20日はつか河内かわうち津田つだはいった[200][203]枇杷庄びわのしょうくだ途中とちゅう一揆いっき御物ぎょもつなどうばられたという[197][200]

この槇島まきしまじょうたたかにより、室町むろまち幕府ばくふ事実じじつじょう実質じっしつてきに)滅亡めつぼうした、と解釈かいしゃくされている[204][205]義昭よしあき京都きょうと追放ついほうされたことにより、朝廷ちょうてい庇護ひごする天下てんかじん役割やくわりたせなくなったからである[205]。それまで、信長のぶなが義昭よしあきようすることで、間接かんせつてき天下てんかじんとしての役割やくわりになっていたが、その追放ついほう信長のぶなが一人ひとり天下てんかじんとしての地位ちいたもつづけた[206]。また、信長のぶなが毛利もうり輝元てるもとに7がつ13にちづけ書状しょじょうで、「自身じしん天下てんか静謐せいひつし、将軍家しょうぐんけのことにかんしては輝元てるもと万事ばんじ相談そうだんしてその結果けっかしたがうこと」を約束やくそくしている[196][207]

ただし、義昭よしあき自身じしん朝廷ちょうていから征夷大将軍せいいたいしょうぐん解任かいにんされてはおらず、なおもその地位ちいにあり、したがえさんけん大納言だいなごん位階いかい官職かんしょくたもったままであった[205]

流浪るろうたび

顕如けんにょ

7がつ21にち義昭よしあき本願寺ほんがんじから派遣はけんされたへい警固けいごされ、三好みよし義継よしつぎ居城きょじょう若江わかえじょうはいった[203]同日どうじつ信長のぶなが槇島まきしましろ細川ほそかわあきらもとゆだね、京都きょうとへともどっている[208]

義昭よしあきざい城中じょうちゅう、7がつ24にちづけ御内おんうちしょ毛利もうり輝元てるもと2人ふたり叔父おじ吉川よしかわ元春もとはる小早川こばやかわ隆景たかかげ援助えんじょもとめている[209]。これが義昭よしあき再起さいき宣言せんげんしただいいちごうであった[209]

7がつ28にち朝廷ちょうてい信長のぶなが要請ようせいおうじ、もとかめから天正てんしょう改元かいげんおこなった[197]信長のぶながのこの行為こうい義昭よしあき権威けんい否定ひていはん信長のぶなが勢力せいりょく士気しきくじ目的もくてきがあったとかんがえられる[197]

8がつ1にち義昭よしあき輝元てるもと隆景たかかげたいして、顕如けんにょ三好みよし義継よしつぎ遊佐ゆさ信教しんきょう根来寺ねごろじ支援しえんしてくれているが、息子むすこひろ信長のぶながうばわれたことが口惜くやしいとべ、自身じしんへの支援しえんうったえるとともに[210]、3にちにも柳沢やなぎさわもとせい下向げこうさせるとげた[211]毛利もうり義昭よしあきのもとに使者ししゃおくって慰問いもんしたので、8がつ13にち謝意しゃいしめしている[211]義昭よしあき毛利もうりたよりにしたのは、あに義輝よしてるたよりにしていたからだと推測すいそくされる[211]

8がつ信長のぶなが越前えちぜん出陣しゅつじんして、朝倉あさくら義景よしかげ自害じがいさせた(いちじょうたにじょうたたか[212]。その直後ちょくごきた近江おうみかい、9月に浅井あさい長政ながまさ自害じがいさせた(小谷おたにじょうたたか[213]

8がつ20日はつか義昭よしあき顕如けんにょたいし、三好みよし義継よしつぎおよ三好みよし康長やすなが畠山はたけやまとのあいだ講和こうわはからせている[211]

10月8にち義昭よしあき上杉うえすぎ謙信けんしんたいし、自身じしん槇島まきしまじょうから退城たいじょうしたことをらせるとともに、援助えんじょもとめた[211]。また、同月どうげつ顕如けんにょたいしても、忠義ちゅうぎくすようにもとめた[211]

義昭よしあき援助えんじょ依頼いらいけた輝元てるもと毛利もうりは、なんらかの行動こうどうなければならなくなった[211]織田おだ毛利もうり同盟どうめい関係かんけいにあったが、義昭よしあき京都きょうと追放ついほうされると、その関係かんけいうごいた。だが、義昭よしあきのために信長のぶなが敵対てきたいして上洛じょうらくするより、輝元てるもと信長のぶながちから利用りようし、領国りょうごくまもみち最適さいてきかんがえた[214]。そのため、9月7にちづけ義昭よしあき御内おんうちしょでは、毛利もうり信長のぶなが懇意こんいにしていることや、かつて毛利もうり将軍家しょうぐんけおろかにしないと提出ていしゅつした起請文きしょうもん反故ほごにされていることが批判ひはんされている[215]

他方たほう輝元てるもと羽柴はしば秀吉ひでよしてた9月7にちづけ書状しょじょうでは、信長のぶなが義昭よしあき和解わかいし、義昭よしあき京都きょうと帰還きかんできるよう仲介ちゅうかいこころみている[214]輝元てるもととしては、義昭よしあき中国ちゅうごく地方ちほう下向げこうすれば、信長のぶなが全面ぜんめん戦争せんそうになる可能かのうせいがあり、それをける必要ひつようがあった[216]信長のぶながもまた、義昭よしあき追放ついほう畿内きない動揺どうようしているいま輝元てるもと義昭よしあきほうじて織田おだとの全面ぜんめん戦争せんそうることはけたかったとかんがえられる[216]

そのため、信長のぶなが輝元てるもと両者りょうしゃとのあいだでは全面ぜんめん戦争せんそうけるべく交渉こうしょうがなされ、それは義昭よしあき帰洛きらくさせようとするながれにつながった[217]織田おだかた羽柴はしば秀吉ひでよし朝山あさやま日乗にちじょう毛利もうりかた安国寺あんこくじ恵瓊えけいがそれぞれ交渉こうしょう代表だいひょうとなった[217]秀吉ひでよしは9月7にちづけ書状しょじょうで、信長のぶなが同意どういているので、義昭よしあき近臣きんしん上野うえの秀政ひでまさ木島きしま昭光あきみつ上洛じょうらくさせるようにつたえている[218]他方たほう輝元てるもとも9がつ晦日みそかづけ自筆じひつ書状しょじょうで、交渉こうしょうのぞ基本きほんてき態度たいど一族いちぞく井田いだもときよしつたえている[219]

10月28にち毛利もうり義昭よしあき近臣きんしん一色いっしょくふじちょう信長のぶなが意向いこうつたえ、その同意どういもとめた[220]。これをけて、11月5にち義昭よしあき若江わかえじょうから和泉いずみさかいはいった[220]

義昭よしあき和泉いずみさかいくと、信長のぶながからは羽柴はしば秀吉ひでよし朝山あさやま日乗にちじょうが、輝元てるもとからは安国寺あんこくじ恵瓊えけいはやし就長派遣はけんされ、双方そうほう使者ししゃはともに義昭よしあき面会めんかいし、信長のぶなが和解わかいしたうえでの帰京ききょう説得せっとくした[220][221]信長のぶなが自身じしん義昭よしあき帰京ききょうみとめていたが、義昭よしあき信長のぶながからの人質ひとじちもとめ、それを撤回てっかいしなかった[216][220][222]

このとき、秀吉ひでよしは「入洛にゅうらくのことはもはや問題もんだいにならないので、どこにでもったらよかろう」といいすて、翌日よくじつ大阪おおさか退去たいきょした[220]安国寺あんこくじ恵瓊えけい朝山あさやま日乗にちじょう秀吉ひでよしけて、なおいちにちとどまって無条件むじょうけんでの帰洛きらく説得せっとくしたが、義昭よしあきれず、交渉こうしょう決裂けつれつした[220]恵瓊えけい輝元てるもと意向いこうおもんじ、義昭よしあき西国さいこく下向げこうされると迷惑めいわくであるむねげた[220]

11月9にち義昭よしあき主従しゅうじゅう20にんほどとともにさかいて、畠山はたけやま勢力せいりょくである紀伊きい海路かいろくだり、在田ありたがわ南岸なんがん宮崎みやざきうらいたのち、由良ゆら興国寺こうこくじ滞在たいざいした[220][223]義昭よしあき側近そっきん一色いっしょくふじちょうたいし、槙島まきしまじょう籠城ろうじょうから由良ゆらまで供奉ぐぶしたことを、11月29にちづけ書状しょじょうとなえている[224]信長のぶなが紀伊きいへの下向げこう把握はあくしており、出羽でわ伊達だてあきらむね京都きょうと近況きんきょう報告ほうこくしたさい、「義昭よしあき紀州きしゅう熊野くまのあたりを流浪るろうしている」としるしている[225]

11月16にち信長のぶなが明智あけち光秀みつひで細川ほそかわ藤孝ふじたか若江わかえじょうめさせ、三好みよし義継よしつぎ自害じがいさせた[225]義継よしつぎへの攻撃こうげきは、義昭よしあきかくまった責任せきにん追及ついきゅうしてのことであり、義昭よしあき若江わかえじょうからさかいうつるのをったうえで、攻撃こうげき実行じっこううつされた[225]。また、義継よしつぎにより、久秀ひさひで信長のぶなが降伏ごうぶくもうれた[226]

12月11にち義昭よしあき湯川ゆかわただしはるたいし、自身じしん協力きょうりょくするようにめいじた[227]畠山はたけやま重臣じゅうしん湯川ゆかわ勢力せいりょく強大きょうだいであり、ちょくはるちち湯川ゆかわ直光なおみつ紀伊きい出身しゅっしんでありながら河内かわうち守護しゅごだいつとめたこともある実力じつりょくしゃであった[227]

12月12にち義昭よしあき上杉うえすぎ謙信けんしんたいし、武田たけだ勝頼かつより北条ほうじょう氏政うじまさおよ加賀かが一向いっこう一揆いっき講和こうわし、 上洛じょうらくするようにめいじた[228]

天正てんしょう2ねん1574ねん)1がつ16にち義昭よしあき六角ろっかく義賢よしかたたいし、紀伊きいうつったことを報告ほうこくし、協力きょうりょくするようにめいじた[228]

2がつ6にち義昭よしあき熊野くまの本宮ほんぐう神主かんぬしたいし、帰洛きらく尽力じんりょくするようにめいじた[227]

3がつ20日はつか義昭よしあき信長のぶなが包囲ほういもう再度さいど形成けいせいするため、武田たけだ勝頼かつより北条ほうじょう氏政うじまさ上杉うえすぎ謙信けんしんさんしゃたいし、たがいに講和こうわをするようびかけた(かぶとしょうこし三和みわ)。また、勝頼かつせ織田おだ領国りょうごくひがし美濃みのさえたことをけて、義昭よしあき徳川とくがわ家康いえやすたいし、勝頼かつせ和睦わぼくするようにめいじた[229]

4がつ14にち義昭よしあき側近そっきん一色いっしょくふじちょうは、薩摩さつま島津しまつ重臣じゅうしんである伊集院いじゅういんただしとう平田ひらたまさしむねたいし、顕如けんにょ三好みよし康長やすなが三好みよし長治ながはる義昭よしあき忠節ちゅうせつしめしているとつたえ、さんじんうながしている[230]

8がつ10日とおか三好みよし長治ながはるおとうと十河そごうそん武田たけだ勝頼かつより一族いちぞく穴山あなやましんくんたいし、6月の高天こうてん神城かみしろ攻略こうりゃく祝意しゅくいべ、尾張おわり美濃みのへのさらなる侵攻しんこううながすとともに、自身じしん義昭よしあき顕如けんにょ連携れんけいして側面そくめん攻撃こうげきおこなうとつたえた[230]

天正てんしょう3ねん1575ねん)3がつ武田たけだ勝頼かつより信長のぶなが大軍たいぐん畿内きない出陣しゅつじんしているのをて、三河みかわ侵攻しんこう計画けいかくし、4がつ甲府こうふ出陣しゅつじんした[231]

4がつ14にち義昭よしあき薩摩さつま島津しまつ義久よしひさたいし、武田たけだ勝頼かつより進出しんしゅつ大阪おおさか方面ほうめんでの戦況せんきょうつたえるとともに、帰洛きらくかんして協力きょうりょくめいじた[227]

5月21にち武田たけだ勝頼かつより設楽したらげんにおいて、織田おだ徳川とくがわ連合れんごうぐん大敗たいはいし、おおくの重臣じゅうしんうしなった(長篠ながしのたたか[231]。この勝頼かつせ敗北はいぼくは、義昭よしあきとその味方みかたにとっては深刻しんこく打撃だげきであった[232]

11月4にち信長のぶなが朝廷ちょうていよりけん大納言だいなごんに、どう7にちにはみぎ近衛このえ大将たいしょうにんじられ[233]前年ぜんねん天正てんしょう2ねん3がつ18にち信長のぶなが義昭よしあき同格どうかくしたがえさん参議さんぎとなっている[234])、したがえさんけん大納言だいなごんひだり近衛このえ中将ちゅうじょう義昭よしあきよりも上位じょうい存在そんざいとなった[78][235]けん大納言だいなごんみぎ近衛このえ大将たいしょう官位かんい過去かこ200年間ねんかん足利あしかが将軍しょうぐん本人ほんにんやその後継こうけいしゃなどにしかあたえられてこなかったが、信長のぶながあたえられたということはほかの大名だいみょうとは別格べっかくであるということ、織田おだ将軍家しょうぐんけ比肩ひけんする存在そんざいであるということをしめした[236]。また、義昭よしあきちち義晴よしはる息子むすこ義輝よしてる将軍しょうぐんしょくゆずったさいけん大納言だいなごんみぎ近衛このえ大将たいしょうねて「大御所おおごしょ」として後見こうけんした(現任げんにん将軍しょうぐんであった義輝よしてるには実権じっけんはなかった)先例せんれいがあり、信長のぶなががこの先例せんれいならおうとしたとする見方みかたがある。

備後びんごこくへの下向げこう・鞆幕府ばくふ樹立じゅりつ

毛利もうり輝元てるもと

天正てんしょう4ねん1576ねん)2がつ義昭よしあき紀伊由良きいゆら興国寺こうこくじて、西国さいこく毛利もうり輝元てるもとたより、その勢力せいりょくであった備後びんごこく動座どうざした[237][238]。このとき、義昭よしあき随行ずいこうしたのは、細川ほそかわあきらけい上野うえの秀政ひでまさ畠山はたけやまあきらけん木島きしま昭光あきみつ曽我そがはれすけしょう林家はやしやたかし柳沢やなぎさわもとせい武田たけだ信景さだかげらであった[239]

義昭よしあきが鞆をえらんだ理由りゆうとしては、このはかつて足利尊氏あしかがたかうじひかりげん上皇じょうこうより新田にった義貞よしさだ追討ついとう院宣いんぜんけたという、足利あしかが将軍家しょうぐんけにとっての由緒ゆいしょがある場所ばしょであったからである[240]。また、だい10代将軍しょうぐん足利あしかが義稙よしたね大内おおうち支援しえんのもと、京都きょうと復帰ふっきたしたという故事こじもある吉兆きっちょうでもあった[241]

義昭よしあきは2がつ8にちづけ御内おんうちしょ吉川よしかわ元春もとはるめいじ、輝元てるもと幕府ばくふ復興ふっこう依頼いらいした[237]。また、信長のぶなが輝元てるもとたいする「逆心ぎゃくしん」は明確めいかくであるとべ、そのために動座どうざしたともつたえた[238][242]義昭よしあき輝元てるもとたいし、信長のぶながとの決戦けっせんうながした[243]

だが、鞆への動座どうざ毛利もうり何一なにひと連絡れんらくなくおこなわれたものであり、義昭よしあきはあえてつたえず、近臣きんしんらにも緘口かんこうれいいていた[238]信長のぶながとの同盟どうめい関係かんけいじょう毛利もうりにとって義昭よしあき動座どうざけなければならない事態じたいであり、輝元てるもとはその対応たいおう苦慮くりょした[242][244]

毛利もうり織田おだ同盟どうめい関係かんけいにあったものの、このころになると信長のぶなが西方せいほう進出しんしゅつしてきたため、不穏ふおん空気くうきただよっていた[245]。また、信長のぶなが毛利もうり敵対てきたいしていた浦上うらかみ宗景むねかげ支援しえんし、一方いっぽう宗景むねかげ対立たいりつする宇喜多うきた直家なおいえ毛利もうりたよるなど、毛利もうり織田おだ対立たいりつにも発展はってんしかねない状況じょうきょうができていた[245]。さらに、天正てんしょう3ねん以降いこう信長のぶなが毛利もうりへの包囲ほういもう構築こうちくするため、近衛このえぜんひさ九州きゅうしゅう下向げこうさせ、大友おおとも伊東いとう相良さがら島津しまつ和議わぎはかろうとしていた[246]

5月7にち輝元てるもと毛利もうりはん信長のぶながとしてがり、13にち領国りょうごくしょしょう義昭よしあき命令めいれいけることを通達つうたつし、西国さいこく東国とうごく大名だいみょうらにも支援しえんもとめた[247]。3ヶ月かげつあいだ毛利もうり検討けんとうしてした結論けつろんであった[248]。これにより、毛利もうり織田おだとの同盟どうめい破綻はたんした[249]

輝元てるもと毛利もうり庇護ひごされていたこの時期じき室町むろまち幕府ばくふは、「幕府ばくふ」とも呼称こしょうされる[250]義昭よしあき筆頭ひっとうとする鞆幕府ばくふは、かつての奉公ほうこうしゅなど幕臣ばくしん織田おだ敵対てきたいしてわれた大名だいみょう子弟していらが集結しゅうけつし、総勢そうぜい100めい以上いじょうから構成こうせいされていた[250]

義昭よしあきはまた、輝元てるもと将軍しょうぐん地位ちいたるふく将軍しょうぐんにんじた[251][注釈ちゅうしゃく 19]。また、輝元てるもとふく将軍しょうぐんとして義昭よしあき庇護ひごすることにより、毛利もうりぐん公儀こうぎ軍隊ぐんたい中核ちゅうかくとして位置いちづけ、西国さいこくしょ大名だいみょう上位じょうい君臨くんりんする正統せいとうせい確保かくほした[251]

しょ勢力せいりょくとの共闘きょうとう

上杉うえすぎ謙信けんしん

義昭よしあきは鞆に御所ごしょかまえ、このから京都きょうとへの帰還きかん信長のぶなが追討ついとう目指めざし、全国ぜんこく大名だいみょう御内おんうちしょくだした[252]畿内きない近国きんごく以外いがいでは、足利あしかが将軍家しょうぐんけ支持しじする武家ぶけもまだまだおおかった。

3月21にち義昭よしあき上杉うえすぎ謙信けんしんたいし、北条ほうじょう氏政うじまさ武田たけだ勝頼かつより和睦わぼくし、上洛じょうらく協力きょうりょくするようにつたえた[240]。このころ謙信けんしん信長のぶながとの対立たいりつ姿勢しせいつよめており、前年ぜんねん10がつには勝頼かつせ和睦わぼくし、12月には信長のぶなが脅威きょういかんじた能登のと畠山はたけやまより救援きゅうえんもとめられていた[253]

5月16にち義昭よしあき醍醐寺だいごじ三宝さんぼういん門跡もんぜきめいじて、上杉うえすぎ謙信けんしん武田たけだ北条ほうじょう講和こうわし、幕府ばくふ再興さいこうするようにすすめさせた[247]。これにより、謙信けんしん同月どうげつながらく対立たいりつしてきた本願寺ほんがんじ講和こうわした[254][247]。また、同月どうげつ謙信けんしん輝元てるもとから上洛じょうらくもとめられると、あきには上洛じょうらくする予定よていだとつたえた[254]

6月11にち義昭よしあき武田たけだ勝頼かつより上杉うえすぎ謙信けんしんたいして、たがいに講和こうわめいじた御内おんうちしょ再度さいどくだし、毛利もうり輝元てるもと協力きょうりょくして協力きょうりょくしたうえで信長のぶながつようにめいじた[255]

7がつ13にち毛利もうり水軍すいぐん織田おだ水軍すいぐん大阪おおさかわん木津川きづがわ河口かわぐち現在げんざい大阪おおさか大正たいしょう位置いちする木津川きづがわ運河うんが界隈かいわい)でやぶり、本願寺ほんがんじ兵糧ひょうろう武器ぶきなど物資ぶっしはこれることに成功せいこうした(だいいち木津川きづがわこうたたか[249]毛利もうりはこの勝利しょうりによって、京都きょうとへの進撃しんげき決意けついし、その準備じゅんびすすめた[256]

9月13にち義昭よしあきもとめにおうじて、武田たけだ勝頼かつより上杉うえすぎ北条ほうじょうとの講和こうわ承知しょうちし、16にち毛利もうり輝元てるもと同盟どうめいむすんだ[257]

9がつ以降いこう信長のぶなが将軍しょうぐん御所ごしょであったじょう御所ごしょ完全かんぜんやぶ却し、石垣いしがき諸人もろびと略奪りゃくだつさせ、ほり京都きょうと人々ひとびとめさせたほか、もん建物たてもの安土あづち移築いちくした[258]。おそらく、信長のぶなが義昭よしあき和解わかいしたのち、義昭よしあきふたたびここにむかれようとし、そのために殿舎でんしゃ以外いがい破壊はかいせずにいたものの、それがもはや不可能ふかのうになったと判断はんだんしたため、完全かんぜんやぶ却をおこなったとかんがえられる[258]

10がつ10日とおか義昭よしあき輝元てるもとらにたいして、西国さいこく武士ぶしあつめて義兵ぎへいげるようにめいじた[257]

11月24にち義昭よしあき輝元てるもとたいし、足利あしかが将軍家しょうぐんけ家紋かもんたるきりもんあたえている[259]

12月27にち三好みよし長治ながはる信長のぶなが支援しえんけた細川ほそかわ真之まさゆきやぶれ、自害じがいした[260]輝元てるもとはこれに危機ききかんおぼえ、小早川こばやかわ隆景たかかげとおし、淡路あわじ水軍すいぐん味方みかたにつけようとした[260]

天正てんしょう5ねん1577ねん)1がつ義昭よしあき吉川よしかわ元春もとはるたいし、翌月よくげつ陸海りくかいから京都きょうと進撃しんげきする相談そうだんをするようにめいじた[261]同月どうげつには、安宅あたかかみ五郎ごろうかん元重もとしげ船越ふなこしけいじきなどおも淡路あわじ水軍すいぐん毛利もうりについた[260]

2がつ27にち阿波あわ三好みよしぐん国人くにびと大西おおにしさとしよう大西おおにし高森たかもりもとはる隆景たかかげたいし、義昭よしあき上洛じょうらく味方みかたすると回答かいとうした[262]

同月どうげつ信長のぶなが長治ながはるにより、阿波あわからの援軍えんぐんることができなくなった雑賀さいかめた[263]義昭よしあき輝元てるもと上杉うえすぎ謙信けんしんたいし、そのすきをつくかたちでの上洛じょうらくもとめたが、謙信けんしんはすでに能登のとから関東かんとう転戦てんせんしていた[263]

うるう7がつ27にち讃岐さぬきにおける毛利もうり拠点きょてんもと吉城よしきたいし、長尾ながおはねゆか香西こうざい安富やすとみ三好みよし安芸あきもりからなる「讃岐さぬきそうこくしゅ」がせたが、毛利もうりかたによって撃退げきたいされた[262]

同月どうげつ謙信けんしん能登のとふたた進軍しんぐんし、信長のぶなが柴田しばた勝家かついえ羽柴はしば秀吉ひでよしらを加賀かが派遣はけんした[263]。だが、北陸ほくりくおおくのしょしょう派遣はけんされたことで、松永まつなが久秀ひさひで離反りはんくわだてた[264]

8がつ1にち義昭よしあき毛利もうり讃岐さぬきしょ勢力せいりょくとのあらそいにかんして、香川かがわ讃岐さぬき復帰ふっきさせることや、輝元てるもと元春もとはる隆景たかかげ勝手かって三好みよしかた和睦わぼくしないように指示しじした[262]

8がつ17にち松永まつなが久秀ひさひで久通くつう父子ふしは、本願寺ほんがんじめるために定番ていばんしていた天王寺てんのうじ突如とつじょはらい、信貴山しぎさんじょう籠城ろうじょうした(信貴山しぎさんじょうたたか[264]久秀ひさひで離反りはんは、義昭よしあき本願寺ほんがんじから調しらべりゃくけた結果けっかであるとかんがえられる[264]

9月23にち義昭よしあき側近そっきん木島きしま昭光あきみつ小林こばやしこう和睦わぼく交渉こうしょうのために阿波あわ派遣はけん[262]、11月に阿波あわ三好みよしかた長尾ながおはねゆかから人質ひとじちることで和睦わぼくした[262]讃岐さぬきでの戦闘せんとうは、義昭よしあきにとっては上洛じょうらく戦争せんそう一環いっかんであり、毛利もうり水軍すいぐん備前びぜん讃岐さぬき海峡かいきょう航路こうろ安全あんぜん確保かくほした[262]

10がつ10日とおか久秀ひさひで父子ふし織田おだぜい攻撃こうげきにより自害じがいし、信貴山しぎさんじょうみずかはらった[265]。だが、義昭よしあきはそのもあきらめず、各地かくちしょしょう積極せっきょくてき調しらべりゃく活動かつどうおこなった[265]

同月どうげつ信長のぶなが羽柴はしば秀吉ひでよし中国地方ちゅうごくちほう攻略こうりゃくめいじ、秀吉ひでよし姫路城ひめじじょう拠点きょてん活動かつどうはじめた。そして、11月に播磨はりま上月こうづきしろとし、尼子あまこ勝久かつひされた[266]

天正てんしょう6ねん1578ねん)1がつ毛利もうり上月こうづきしろ奪還だっかんのため、粟屋あわや元種もとだね摂津せっつおくると、同月どうげつ11にち義昭よしあき高野たかのさん金剛峯寺こんごうぶじ出兵しゅっぺい要請ようせいした[266]

2がつ別所べっしょ長治ながはる三木みきしろ挙兵きょへいし、信長のぶながから離反りはんした(三木みき合戦かっせん[267]義昭よしあきは3がつ19にちづけ御内おんうちしょにおいて元春もとはるたいし、義昭よしあきみずからの調しらべりゃくによって長治ながはる味方みかたれたと宣伝せんでんした[267]

3月、上杉うえすぎ謙信けんしん死去しきょし、信長のぶなが包囲ほういもうおおきな打撃だげきけた[268]。 その家督かとくをめぐり、養子ようし上杉うえすぎ景勝かげかつ上杉うえすぎ景虎かげとらによる御館みたてらん勃発ぼっぱつし、景勝けいしょう勝利しょうりしたが、このらんによって上杉うえすぎ対外たいがい出兵しゅっぺいするちからうしなった[269]

5月24にち義昭よしあき上月こうづきじょうたたかのさなか、木島きしま昭光あきみつ上月こうづきじょう包囲ほうい毛利もうりじん派遣はけんし、その将兵しょうへいをねぎらうとともに、小林こばやしこう駐留ちゅうりゅう督戦とくせんさせた[268]

7がつ3にち上月こうづきじょう毛利もうり攻撃こうげきによって陥落かんらくし、尼子あまこ滅亡めつぼうすると、義昭よしあきもとはる隆景たかかげといった毛利もうりしょしょう戦功せんこうめた[268]

8がつ義昭よしあき吉川よしかわ元春もとはる依頼いらいけ、島津しまつ使者ししゃ派遣はけんし、大友おおとも牽制けんせいさせるとともに、毛利もうり京都きょうと進撃しんげきするときは援軍えんぐんすことを要請ようせいした[270]

10月、荒木あらき村重むらしげ有岡ありおかしろ挙兵きょへいし、信長のぶなが反旗はんきひるがえした(有岡ありおかじょうたたか[271]村重むらしげ離反りはんもまた、義昭よしあき調しらべりゃくによるものであった[267]。なお、義昭よしあき輝元てるもと協力きょうりょくして村重むらしげ調しらべりゃくおこなっており[272]義昭よしあき小林こばやしこう毛利もうりぞくしょうとともに有岡ありおかじょう入城にゅうじょうさせ、村重むらしげ毛利もうり帰順きじゅんするよう説得せっとくしたことがられている[273]

同月どうげつ信長のぶなが明智あけち光秀みつひでかいし、土佐とさ長宗我部ちょうそかべ元親もとちか嫡子ちゃくし弥三郎やさぶろうへんいみなあたえ、しんおや名乗なのらせた[274]。これは、義昭よしあき輝元てるもと本願寺ほんがんじ支援しえんけた十河そごうそん阿波あわにおいて、はん信長のぶなが立場たちば活動かつどうしており、信長のぶながもとおや共通きょうつうてき対抗たいこうするためにむすいたものであった[275]

11月6にち毛利もうり水軍すいぐん本願寺ほんがんじ物資ぶっしはこれるため、石山いしやまふたた来援らいえんしたが、九鬼くき嘉隆よしたかてつかぶとせんもちいた織田おだ水軍すいぐん敗北はいぼくきっした(だい木津川きづがわこうたたか[276]以後いご毛利もうり淡路島あわじしま以西いせい制海権せいかいけん保持ほじしたままであったが、大阪おおさかわん織田おだ水軍すいぐん封鎖ふうさされた[277]

11月19にち荒木あらき村重むらしげ織田おだぐん攻撃こうげきされると、24にち義昭よしあき吉川よしかわ元春もとはるたいし、輝元てるもと出兵しゅっぺいするようにすすめさせた[271]

12月、輝元てるもと出陣しゅつじん決意けついし、毛利もうり有利ゆうりのこの好機こうきじょうじて上洛じょうらくしようとした[278]。そして、輝元てるもと出陣しゅつじん翌年よくねん1がつ16にちさだめられ、しょしょうしたれいされた[279][280]輝元てるもとはそれにともない、武田たけだ勝頼かつより徳川とくがわ家康いえやす攻撃こうげきし、織田おだ兵力へいりょくけるよう要請ようせいしている[280]

天正てんしょう7ねん1579ねん)1がつ毛利もうり重臣じゅうしんすぎ重良しげよし大友おおとも調しらべりゃく謀反むほんこし、毛利もうり背後はいごである筑前ちくぜん豊後ぶんご暗雲あんうんしだめた[280]。このため、1がつ16にちてるもとみずからによる出兵しゅっぺい期限きげんでの延期えんきとなった[280]

6がつ備前びぜん宇喜多うきた直家なおいえ毛利もうりたいして反旗はんきひるがえしたばかりか、9月には伯耆ほうき南条なんじょうもとつづけ同様どうよう反旗はんきひるがえした[281]。これらの裏切うらぎりは、輝元てるもと上洛じょうらく断念だんねんによるものであるのみならず、信長のぶなが調しらべりゃくばした結果けっかでもあった[282]。そのため、輝元てるもと荒木あらき村重むらしげ別所べっしょ長治ながはる本願寺ほんがんじへの支援しえんよりも、りょう防戦ぼうせん優先ゆうせんするようになった[283]

11月27にち信長のぶなが豊後ぶんご大友おおとも義統よしむねたいし、毛利もうり領国りょうごくである周防すおう長門ながとあたえる約束やくそくをした[284]信長のぶながしょ勢力せいりょく懐柔かいじゅうし、義昭よしあき輝元てるもとらにたいする包囲ほういもう構想こうそうしていた[284]

天正てんしょう8ねん1580ねん)1がつ17にち三木みきじょう別所べっしょ長治ながはる自害じがいし、播磨はりまでの信長のぶながへの抵抗ていこう収束しゅうそくかった[285]

うるう3がつ5にち顕如けんにょ信長のぶながとの勅命ちょくめい講和こうわおうじて、大坂おおさか退去たいきょやくし、石山いしやま合戦かっせん終結しゅうけつした[285]本願寺ほんがんじ降伏ごうぶくは、輝元てるもと武田たけだ勝頼かつより苦戦くせん上杉うえすぎ没落ぼつらく有岡ありおかじょう三木みきしろにおける虐殺ぎゃくさつなどによって、厭戦えんせん気分きぶんたかまったことにあった[286]。これにより、信長のぶなが秀吉ひでよし中心ちゅうしんとした中国ちゅうごく地方ちほう攻略こうりゃく本格ほんかくさせた[287]

6がつ秀吉ひでよし因幡いなば侵攻しんこうし、毛利もうりかた吉川よしかわけい籠城ろうじょうする鳥取とっとりじょうめた(鳥取とっとりじょうたたか[288]

天正てんしょう9ねん1581ねん)10がつ鳥取とっとりじょう秀吉ひでよし降伏ごうぶくし、吉川よしかわけい自害じがいした[288]義昭よしあき情勢じょうせい悪化あっかて、信長のぶなが出陣しゅつじんそなえるよう、吉川よしかわひろめいじた[288]

天正てんしょう10ねん1582ねん)3がつ武田たけだ勝頼かつより信長のぶなが徳川とくがわ家康いえやすらにめられ、自害じがいいやられた(甲州こうしゅう征伐せいばつ[注釈ちゅうしゃく 20]

4がつ秀吉ひでよし備中びっちゅう侵攻しんこうし、同月どうげつ毛利もうり配下はいか清水しみず宗治むねはるもる備中高松びっちゅうたかまつじょう攻撃こうげきし、5月には水攻みずぜめをおこなった(備中高松びっちゅうたかまつじょうたたか[289][290]他方たほう輝元てるもと水攻みずぜめの急報きゅうほうけて、元春もとはる隆景たかかげらととも総勢そうぜい5まん軍勢ぐんぜいひきい、高松たかまつじょう救援きゅうえんかい、秀吉ひでよし対峙たいじした[291][292]

5月7にち信長のぶなが四国しこく国分こくぶあんし、讃岐さぬき三男さんなん信孝のぶたかに、阿波あわ三好みよし康長やすながあたえ、土佐とさ自身じしん淡路あわじおもむいたさいめるとした[293]。この国分こくぶあんには、もとおや十河そごうそんたもて毛利もうりかた伊予いよ北部ほくぶ支配しはいする河野こうのとおるただしはいっておらず、信長のぶながもとおや阿波あわ讃岐さぬきにおける権益けんえきみとめていなかった[294]。そして、信孝のぶたか四国しこく出兵しゅっぺい準備じゅんびをさせた[295]

5月17にち信長のぶなが秀吉ひでよし使者ししゃより、毛利もうり出陣しゅつじんしてきたことをらされると、みずか出陣しゅつじんして輝元てるもと毛利もうりち、九州きゅうしゅうまでも平定へいていするという意向いこう秀吉ひでよしつたえた[296]信長のぶなが自身じしん出陣しゅつじんさきんじて、明智あけち光秀みつひで秀吉ひでよし援軍えんぐんかうようめいじた[297]信長のぶなが四国しこく平定へいていし、毛利もうり輝元てるもとほろぼせば、大友おおとも義鎮よししげといった九州きゅうしゅうしょ大名だいみょう服属ふくぞくするとかんがえていた[298]

5月21にちもとおや明智あけち光秀みつひで家臣かしん斎藤さいとう利三としみつおくった書状しょじょうでは、もとおや阿波あわ大西おおにししろ海部かいふしろ以外いがいから撤兵てっぺいし、信長のぶなが四国しこく国分こくぶあんれる意向いこうしめしていた[298]他方たほう同日どうじつ義昭よしあき側近そっきん木島きしま昭光あきみつもとおやのもとにいた石谷いしがや光政みつまさたいし、輝元てるもと仲介ちゅうかいによる土佐とさ長宗我部ちょうそかべ伊予いよ河野こうのとの和睦わぼく指示しじしており、義昭よしあき帰京ききょう尽力じんりょくするよう書状しょじょうおくっている[298]。これと同様どうよう書状しょじょうは、2がつ23にちにもおくられている[298]。このことから、もとおや義昭よしあき輝元てるもとともつうじており、和戦わせん両様りょうようかまえをっていたようである[298]

5月29にち信長のぶなが西国さいこく出陣しゅつじんするため、安土あづちじょうから上洛じょうらくし、きょう本能寺ほんのうじはいった。そして、6月1にち信長のぶなが本能寺ほんのうじにおいて、近衛このえぜんひさ二条にじょうあきらといった公家くげしゅらと対面たいめんし、6月4にち自身じしん西国さいこく出陣しゅつじんすることを公表こうひょうした[299]

信長のぶなが柴田しばた勝家かついえへの協力きょうりょく

柴田しばた勝家かついえ

天正てんしょう10ねん6がつ2にち信長のぶなが本能寺ほんのうじにおいて、明智あけち光秀みつひで襲撃しゅうげきされたことにより、自害じがいてた(本能寺ほんのうじへん[289]嫡子ちゃくし信忠のぶただもまた、同様どうよう運命うんめいをたどった。へん翌日よくじつにこの情報じょうほう秀吉ひでよしは、信長のぶなが横死おうししたまま、毛利もうり講和こうわおこなった。

6月4にち備中高松びっちゅうたかまつじょう講和こうわにより開城かいじょうし、城主じょうしゅ清水しみず宗治むねはるらは切腹せっぷくした[289]秀吉ひでよしはそののうちに撤退てったいし、毛利もうりかた本能寺ほんのうじへんほう入手にゅうしゅしたのはその翌日よくじつの5にちであった。

6月9にち信長のぶながった義昭よしあき隆景たかかげたいし、帰京ききょうするために備前びぜん播磨はりま出兵しゅっぺいするようにめいじたが、輝元てるもと毛利もうり講和こうわ遵守じゅんしゅしてうごかなかった[300]毛利もうり上方かみがた情報じょうほう収集しゅうしゅうおこなったが、領国りょうごく動揺どうようしずめることでせいいっぱいであり、進攻しんこうする余裕よゆうはなかった[301][302]

6月13にち秀吉ひでよし山崎やまざきたたか光秀みつひでやぶると、輝元てるもと秀吉ひでよし戦勝せんしょういわうため、安国寺あんこくじ恵瓊えけい使者ししゃとして派遣はけんした[301][303]

6月17にち義昭よしあき御内おんうちしょ木島きしま昭光あきみつふくじょうこうむね我部がぶおややすし発給はっきゅうされ、長宗我部ちょうそかべ元親もとちか義昭よしあき帰京ききょうけた[298]

9月26にち義昭よしあき安国寺あんこくじ恵瓊えけいたいし、羽柴はしば秀吉ひでよし自身じしん帰洛きらく斡旋あっせんさせるようにめいじた[304]秀吉ひでよしもこれに承知しょうち意思いししめした[305]

10月15にち秀吉ひでよし大徳寺だいとくじ信長のぶなが葬儀そうぎおこない、後継こうけいしゃとしての地位ちい確立かくりつした[306]。そのため、秀吉ひでよし柴田しばた勝家かついえ覇権はけんめぐって火花ひばならしはじめると、義昭よしあきようする輝元てるもと双方そうほうから味方みかたになるようさそいかけられた[306][307]

11月、義昭よしあきかち味方みかたし、勝家かついえもこれを承知しょうちした[306]義昭よしあきはまた、勝家かついえ上杉うえすぎ景勝かげかつ講和こうわさせて協力きょうりょくるため、11月21にち景勝けいしょう御内おんうちしょくだした[306]

天正てんしょう11ねん1583ねん)2がつ13にち勝家かついえきた近江おうみ進出しんしゅつするための援助えんじょを、毛利もうりもとめた[306]。また、同月どうげつ14にちには徳川とくがわ家康いえやす義昭よしあき帰洛きらくかんして、輝元てるもと賛意さんいあらわした[306]

3月14にち勝家かついえ義昭よしあき擁立ようりつしたうえで、毛利もうり支援しえんけて、秀吉ひでよし挟撃きょうげきしようとした[306]。そのため、勝家かついえ義昭よしあき輝元てるもと出兵しゅっぺい督促とくそくさせた[306]

4がつ5にち義昭よしあき輝元てるもとたいし、かち先鋒せんぽう近江おうみ進出しんしゅつしたこととらせるとともに、すぐに出兵しゅっぺいするようにめいじた[308]。また、同日どうじつかち輝元てるもとたいし、出兵しゅっぺい督促とくそくした[308]

4がつ20日はつか元春もとはる隆景たかかげ会見かいけんした結果けっか毛利もうり両者りょうしゃ勝敗しょうはいてからと傍観ぼうかんすることにし、義昭よしあき要請ようせいにはおうじないことにした[308]

4がつ21にち秀吉ひでよし賤ヶだけたたかかち勝利しょうりし、かち自害じがいいやった[308]秀吉ひでよしかち最期さいご輝元てるもとつたえるとともに、東国とうごく北条ほうじょう氏政うじまさ北国きたぐに上杉うえすぎ景勝かげかつめるとつたえ、輝元てるもと協力きょうりょくするように要請ようせいした[309]。すでに秀吉ひでよし輝元てるもとあいだにはおよがたちからがついていたが、義昭よしあきかち味方みかたしたため、秀吉ひでよしてきまわすという結果けっかまねいた[309]

12月初旬しょじゅん義昭よしあき側室そくしつ春日しゅんじつきょく大阪おおさかかわせた[310]。このとき、春日局かすがのつぼね発言はつげんりょくつよかったとされ、小早川こばやかわ隆景たかかげ毛利もうり待遇たいぐうかんして、きついたという[310]

天正てんしょう12ねん1584ねん)9がつ4にち義昭よしあき島津しまつ義久よしひさ龍造寺りゅうぞうじせい宗像むねかた大宮おおみやつかさ宗像むねかたさだたいして、帰京ききょう協力きょうりょくするようにめいじ、輝元てるもとがこれを周旋しゅうせんした[311]義昭よしあきはまた、義久よしひさ豊後ぶんご大友おおとも義統よしむねつようにめいじ、九州きゅうしゅう太守たいしゅにすることも約束やくそくした[311]義昭よしあき島津しまつたいして援助えんじょもとめたのは、帰京ききょうかんする費用ひようのためだとかんがえられる[312]無論むろん義昭よしあき毛利もうりにも同様どうよう依頼いらいをしていたとおもわれるが、毛利もうりはこの時点じてんでは義昭よしあきにまだ利用りよう価値かちがあるとかんがえ、帰京ききょう同意どういしなかったようである[312]

天正てんしょう13ねん1585ねん)1がつ輝元てるもと秀吉ひでよしとの国境こっきょう画定かくていおうじて、正式せいしき講和こうわし、天正てんしょう4ねんからつづいた毛利もうりゆたか政権せいけん戦闘せんとうはようやく終結しゅうけつした(きょうげい和睦わぼく)。

秀吉ひでよしとの関係かんけい修復しゅうふく島津しまつへの和平わへい斡旋あっせん

豊臣とよとみ秀吉ひでよし

天正てんしょう13ねん7がつ秀吉ひでよし朝廷ちょうていより関白かんぱく任命にんめいされた[注釈ちゅうしゃく 21]。その、「関白かんぱく秀吉ひでよし将軍しょうぐん義昭よしあき」という時代じだいは2ねんはんあいだつづいた。この2ねんはんは、秀吉ひでよし天下てんか統一とういつしていく期間きかん該当がいとうする。またこのあいだ義昭よしあき将軍しょうぐんとして、秀吉ひでよし抵抗ていこうする島津しまつたいし、秀吉ひでよしとの和平わへいすすめている[313]

天正てんしょう14ねん1586ねん)8がつ毛利もうり輝元てるもと先陣せんじんとして、秀吉ひでよし九州きゅうしゅう平定へいていはじまった[208]。だが、島津しまつへい精強せいきょうであり、先陣せんじん敗戦はいせんかさねた[314]

12月4にち義昭よしあき一色いっしき昭秀あきひで薩摩さつま島津しまつ義久よしひさのもとにおくって、秀吉ひでよしとの講和こうわすすめている[315][313]。これは毛利もうり意向いこうけたものであり、毛利もうりはもともと大友おおともとの関係かんけいから、島津しまつ同盟どうめいしていたこともあって、全面ぜんめんてき闘争とうそうのぞんでおらず、それゆえ義昭よしあきかいかたち意向いこうつたえたとかんがえられる[313]

天正てんしょう15ねん1587ねん)2がつ義昭よしあき一色いっしき昭秀あきひで使者ししゃとして、島津しまつふたた講和こうわすすめている[315]。このとき、義昭よしあき秀吉ひでよしおとうと豊臣とよとみ秀長ひでなが意見いけんつたえると書状しょじょうしるしていることから、義昭よしあきのこの要請ようせい秀吉ひでよし意向いこうけたものであり、義昭よしあき秀吉ひでよし連携れんけいっていたことがわかる[313]。この時点じてんでもなお、島津しまつ義昭よしあき主君しゅくんとしてあおいでおり、秀吉ひでよし島津しまつ面目めんぼくつように、「義昭よしあき上意じょうい」というかたち講和こうわ勧告かんこくおこなったとかんがえられる[316]

3月12にち秀吉ひでよし九州きゅうしゅうかう途中とちゅう義昭よしあきむ鞆の御所ごしょちか赤坂あかさかり、義昭よしあき田辺たなべてら対面たいめんした[317][318]義昭よしあき秀吉ひでよしおくもの交換こうかんし、したしくしゅわした[317]義昭よしあき秀吉ひでよしじゅうすうねんぶりに対面たいめんしたが、秀吉ひでよしはこの時点じてんしたがえいち関白かんぱく太政大臣だじょうだいじんとなっており、したがえさんけん大納言だいなごん義昭よしあきよりもすうだんじょう存在そんざいとなっていた[319]

4がつ義昭よしあき一色いっしき昭秀あきひでおくって、島津しまつ義久よしひさかさねて講和こうわすすめている[315]。その結果けっか義久よしひさ昭秀あきひでらの勧告かんこくけて、21にち降伏ごうぶくれた[315]

5月、島津しまつ秀吉ひでよし降伏ごうぶくした。義昭よしあきがこの勝利しょうりにどれほど貢献こうけんしたかは不明ふめいだが、秀吉ひでよし義昭よしあきこうみとめた[320]。そして、義昭よしあきのぞんだ帰京ききょうみとめ、毛利もうりたいし、義昭よしあき帰京ききょう使用しようするためのふね調達ちょうたつめいじた[320]

このころ義昭よしあき毛利もうりねがい、御座所ござしょを鞆から山陽さんようどうちか沼隈ぬまくまぐん津之郷つのごう福山ふくやま津之郷つのごうまち)へとうつさせた[321][322]時期じき不明ふめいながら、鞆にちか山田やまだ常国つねくにてら御座所ござしょとしていた時期じきもあった[321]

7がつ細川ほそかわ幽斎ゆうさい厳島いつくしま神社じんじゃでののべねんまいたのち、義昭よしあきのいる津之郷つのごう御座所ござしょおとずれた[321][323]義昭よしあき帰京ききょうかんするわせがおこなわれたとかんがえられている[324]両者りょうしゃわだかまりはじゅうすうねん歳月さいげつて、ほとんどなくなっていた[321][323]

8がつ義昭よしあき子息しそくよしひろ興福寺こうふくじ大乗だいじょういん門跡もんぜきとなることが決定けっていし、28にち大乗だいじょういん入室にゅうしつ得度とくどした[320]。これは、秀吉ひでよしによる義昭よしあきたいしての島津しまつ討伐とうばつこうしょうであり、義昭よしあき意向いこうしたがって優遇ゆうぐうしたものとかんがえられる[320]

京都きょうとへの帰還きかん将軍しょうぐん辞任じにん

10月、義昭よしあき毛利もうりへい護衛ごえいされながら、京都きょうと帰還きかんした[321][322]義昭よしあきにとっては、およそ15ねんぶりの京都きょうとであった[321]

12月、義昭よしあきだいさかおもむき、秀吉ひでよし臣従しんじゅうした[321]。このとき、秀吉ひでよしから山城やましろこく槇島まきしまにおいて、1まんせき領地りょうちみとめられた[321]

天正てんしょう16ねん1588ねん)1がつ13にち義昭よしあき秀吉ひでよしとともに参内さんだいし、将軍しょうぐんしょく朝廷ちょうてい返上へんじょうした[321][325]。このとき、秀吉ひでよし奏請そうせいによって、義昭よしあき朝廷ちょうていからじゅんさんみや称号しょうごう待遇たいぐう)をけている[321]。これにより、室町むろまち幕府ばくふ名実めいじつともに滅亡めつぼうした。

その義昭よしあき出家しゅっけし、あきら山道さんどうきゅうごうした[321][325]

晩年ばんねん最期さいご

晩年ばんねん義昭よしあき秀吉ひでよしから厚遇こうぐうされた[321]義昭よしあきぜん将軍しょうぐんということもあって、徳川とくがわ家康いえやす毛利もうり輝元てるもと上杉うえすぎ景勝かげかつといっただい大名だいみょうよりも上位じょうい席次せきじあたえられた[326]。また、斯波しばよしぎん山名やまな堯熙赤松あかまつそくぼうらとともに秀吉ひでよし御伽おとぎしゅくわえられ、秀吉ひでよしはな相手あいてとなった。

天正てんしょう16ねん5がつ義昭よしあき毛利もうり輝元てるもと小早川こばやかわ隆景たかかげたいし、「忠節ちゅうせつわすれることはない」としるした感謝かんしゃ御内おんうちしょ発給はっきゅうした[327]

7がつ19にち輝元てるもとだいさか到着とうちゃくすると、義昭よしあき木島きしま昭光あきみつ使者ししゃとしておくり、輝元てるもときむ屏風びょうぶいちせきたるじゅうさかなじゅうおり帷子かたびらじゅう贈与ぞうよした[328]。その輝元てるもと秀吉ひでよし聚楽第じゅらくだい対面たいめんし、完全かんぜん臣従しんじゅうした[329][330]

9がつ10日とおか輝元てるもと安国寺あんこくじ恵瓊えけい細川ほそかわ幽斎ゆうさいきょうとして、義昭よしあきのもとをおとずれた[329]義昭よしあき輝元てるもとたいして、多年たねんちゅうこう感謝かんしゃし、懐旧かいきゅうだんにもおよんだという[329]

天正てんしょう20ねんぶんろく元年がんねん1592ねん)3がつ20日はつか義昭よしあきぶんろくやくにおいて、秀吉ひでよしのたっての要請ようせいにより、相国寺しょうこくじ鹿しかえんいん宿泊しゅくはくし、武具ぶぐなどをそろえて出陣しゅつじん準備じゅんびをした[326][331]。そのさい鹿しかえんいん門前もんぜんではへいたち甲冑かっちゅうえ、旌旗せいきふうひるがえり、その威容いようものたちは「せんほう(の)光彩こうさいうばう」と感心かんしんした[332]

3月26にち義昭よしあき由緒ゆいしょある奉公ほうこうしゅなどの名家めいかによる軍勢ぐんぜいしたがえて、こう陽成ようぜい天皇てんのう見送みおくりをけながら、秀吉ひでよしとともに京都きょうと出発しゅっぱつした[331]

4がつ25にち秀吉ひでよし肥前ひぜん名護屋なごやしろ到着とうちゃくすると、義昭よしあきしろ外郭がいかく布陣ふじんした[331]。その兵力へいりょくは3,500にんしるされている[331]

ぶんろく2ねん1593ねん)8がつ秀吉ひでよしだいさか帰還きかんしたのにあわせ、義昭よしあき帰京ききょうしたとかんがえられている[327]

慶長けいちょう2ねん1597ねん)8がつ義昭よしあき病床びょうしょうした[333]。そして、やまいから回復かいふくできぬまま、28にち大坂おおさか[注釈ちゅうしゃく 22]薨去こうきょした[334]死因しいん腫物しゅもつであったとされ、病臥びょうがして数日すうじつぼっしたが、老齢ろうれい肥前ひぜんまで出陣しゅつじんしたのがにこたえたのではないかとされている[334]享年きょうねん61(まん59さいぼつ[334]

義昭よしあき死去しきょさいし、義昭よしあき猶子ゆうしえんじ自身じしん日記にっきよしえんじじゅんきさき日記にっき』のなかで、「近年きんねん将軍しょうぐんごう蔑也、有名ゆうめい無実むじつわたる以相はてりょう近年きんねん将軍しょうぐんといっても、有名ゆうめい無実むじつとなった)」と感想かんそうしるしている[336][337]

没後ぼつご

義昭よしあき没後ぼつご西にしえみうけたまわ施薬せやくいんぜんむねとともにだい坂城さかきおもむき、義昭よしあき秀吉ひでよし報告ほうこくした[334]秀吉ひでよし木島きしま昭光あきみつ相談そうだんし、葬儀そうぎ阿闍梨あじゃり導師どうし)を依頼いらいするようにった[334]

義昭よしあき遺体いたい旧臣きゅうしんすうじゅうめいきょうをして、足利あしかが将軍家しょうぐんけ菩提寺ぼだいじである等持院とうじいんはいったのち、方丈ほうじょう書院しょいんおさめられた[334]。そして、等持院とうじいん足利あしかが将軍しょうぐん遺髪いはつとうおさめるため、うけたまわ兌が戒師となり、義昭よしあき毛髪もうはつった[334]葬送そうそうりょう義昭よしあき旧臣きゅうしんらによって拠出きょしゅつされた[334]

9月2にちうけたまわ兌は京都きょうと所司代しょしだい前田まえだ玄以げんいのもとにおもむき、等持院とうじいん大工だいく2にん義昭よしあきがんかん)と火屋ほや火葬かそうじょう)をつくるために使用しようしたいと申請しんせいしたものの、1人ひとりだけが許可きょかされた[338]うけたまわ兌はこれをなげき、「であれば、洛中らくちゅう洛外らくがい大工だいくすべてを招集しょうしゅうしてもないことはあろうか。いま両人りょうにんすらゆるしてもらえない」と日記にっきしるしている[338]

9月8にち義昭よしあき葬儀そうぎ等持院とうじいんおこなわれ、木島きしま昭光あきみつ以下いか旧臣きゅうしん30余人よにん会葬かいそうした[339]

9月13にち細川ほそかわ忠興ただおき名代なだいとして、子息しそく忠利ただとし弔問ちょうもんし、香典こうでん20かんぶんそなえた[339]。そのうち、幽斎ゆうさいからは10かんぶんであった[339]

9月14にちよる義昭よしあき息子むすこ大乗だいじょういん門跡もんぜきひろ焼香しょうこうおこなった[339]。その義昭よしあき側室そくしつである春日局かすがのつぼね大蔵卿局おおくらきょうのつぼね焼香しょうこうおこなった[339]

位牌いはいしょ相国寺しょうこくじようげんのきにあるが、どうてら塔頭たっちゅうれいいん義昭よしあき菩提所ぼだいしょとして創建そうけんされたものである[339]

経歴けいれき

人物じんぶつ評価ひょうか逸話いつわ

足利あしかが義昭よしあきぞういにしえ類聚るいじゅう
  • あに義輝よしてる死後しご幕臣ばくしんまもられながら流浪るろうしたり、織田おだ信長のぶなが追放ついほうされて諸国しょこく流浪るろうしたりしてしょ大名だいみょうたよった経緯けいいから、「貧乏びんぼう公方くぼう」とうわさされたといわれる[1]
  • 義昭よしあき室町むろまち幕府ばくふ歴代れきだい将軍しょうぐんなかでは、享年きょうねんが61さいもっと長命ちょうめい人物じんぶつである[334]。また、病気びょうきにして自害じがいしたといわれるちち義晴よしはる反逆はんぎゃくによって殺害さつがいされたあに義輝よしてるちがい、天寿てんじゅまっとうすることができた。
  • 朝倉あさくらちん御成おなり』には、義昭よしあき美味びみなるものとしてカズノコべていたという記録きろくのこっている。
  • 義昭よしあきじょう御所ごしょ竣工しゅんこうしたのち、門前もんぜんれたはまぐりかいが9つならべおかれていた[340]。これは義昭よしあきしんから、「くかい(9つのかいおおやけかい表向おもてむきのこと)がけている」、と京童きょうわらべわらってしたものとささやかれた[340]義昭よしあき自分じぶん御所ごしょ信長のぶながててもらうほど、将軍しょうぐんとして表向おもてむきはなにもできない、ということを意味いみするものである[340]
  • 義昭よしあきみずからが将軍しょうぐん就任しゅうにんしたさいより、元号げんごうを「もとかめ」と改元かいげんするべく朝廷ちょうてい奏請そうせいしており、信長のぶなが朝倉あさくら討伐とうばつ出陣しゅつじんした直後ちょくご、その改元かいげん朝廷ちょうてい実行じっこうさせている。もとかめ3ねん(1572ねん)3がつ朝廷ちょうていが「もとかめ」からの改元かいげん決定けっていしたさい改元かいげん発議はつぎらせる使者ししゃ信長のぶなが義昭よしあきもと派遣はけんされたが(『御湯おゆ殿上てんじょう日記にっきもとかめ3ねん3がつ29にち)、4がつ義昭よしあき改元かいげん費用ひよう献上けんじょうこばんだ(『御湯おゆ殿上てんじょう日記にっきもとかめ3ねん4がつ20日はつかじょう)。また、義昭よしあき室町むろまち幕府ばくふ歴代れきだい将軍しょうぐんおこなっていた禁裏きんり御所ごしょ修繕しゅうぜんおこなわなかった。このため、朝廷ちょうていでは義昭よしあきへの非難ひなんたかまり、吉田よしだけんは「大樹だいき将軍しょうぐん所業しょぎょうこと禁裏きんり其外沙汰ざた如何いか公義きみよし公儀こうぎ)・万民ばんみんちゅう是非ぜひ次第しだいあいださる也」(『けんみるきょうもとかめ4ねん4がつ1にちじょう)と、義昭よしあき評判ひょうばんわるさをしるしている。信長のぶながもとかめ3ねんあき義昭よしあきした異見いけんじゅうななヶ条かじょうにおいて、義輝よしてる時代じだい比較ひかくして幕府ばくふ朝廷ちょうていへの態度たいど不誠実ふせいじつであるとして、改元かいげん禁裏きんり修繕しゅうぜんけんれいげて非難ひなんしており、義昭よしあき追放ついほう正当せいとう根拠こんきょの1つとされた[341]
  • 義昭よしあき時代じだい足利あしかが将軍家しょうぐんけ摂関せっかんとの関係かんけいおおきな変化へんかがあった。足利あしかが義晴よしはる義輝よしてる時代じだい近衛このえがその外戚がいせきてき存在そんざいとしてかれらを支持しじして、かれらが京都きょうとわれた時期じきにおいてもこれに随行ずいこうし、一方いっぽうきゅうじょうおよ同系どうけいじょう足利あしかがよし維―義栄よしひで支持しじして、石山いしやま本願寺ほんがんじとも連携れんけいする構図こうずとなっていた。だが、えいろくへん義昭よしあき従兄弟いとこである近衛このえぜんひさ従前じゅうぜんどおりの慣例かんれいやぶり、近衛このえ義昭よしあき下向げこうには同行どうこうせず、義栄よしひでようする三好みよしさんにんしゅう接近せっきんしたことによって、義昭よしあきあに義輝よしてる殺害さつがいへのぜんひさ関与かんようたがい、九条くじょう稙通じょうはれりょうもまた、三好みよしさんにんしゅ義栄よしひで近衛このえ支持しじまわったとうたがった。その結果けっか、稙通やはれりょう義昭よしあき支援しえんすることになり、将軍家しょうぐんけ摂関せっかん関係かんけい一種いっしゅのねじれがしょうじることになった[79]
  • 義昭よしあき臣下しんかたいする好悪こうおはげしく、近江おうみ越前えちぜん亡命ぼうめい生活せいかついられて苦労くろうかさねたことから、自身じしん亡命ぼうめい時代じだいよりしたがったもの重用じゅうようし、足利あしかが義栄よしひでさんつかまつしたものにくんだ[342]とくに、二条にじょうはれりょう義昭よしあき元服げんぷくさいには越前えちぜん下向げこうし、その将軍しょうぐん宣下せんげ以前いぜんからつかえていたこともあって、義昭よしあきから大変たいへん重用じゅうようされた[343]はれりょうもまた、関白かんぱく再任さいにんされると、その地位ちいをもって政権せいけん運営うんえいふかくかかわった[343]えいろく13ねんもとかめ元年がんねん)3がつはれりょう勧修寺かんしゅうじはれみぎとのあいだ発生はっせいした公家くげりょう加賀かがこくそう領有りょうゆうをめぐるあらそいにかんして、義昭よしあきのもとに調停ちょうてい依頼いらいされた[342]。すると、義昭よしあきはれりょう越前えちぜん亡命ぼうめいしていたときより自身じしんしたがっていたことを理由りゆう勝訴しょうそとした一方いっぽうで、はれみぎ義栄よしひでさんつかまつしたという理由りゆう敗訴はいそとした[344]。なお、正親町おおぎまち天皇てんのうはれみぎ荘園しょうえん安堵あんどする裁決さいけつくだしていたにもかかわらず、義昭よしあきはその勅命ちょくめい無視むしして、はれりょう安堵あんどするかたちをとった(『げんつぎきょう』、『はれみぎおおやけえいろく13ねん3がつ20日はつかじょう[345])。このとき、義昭よしあき理非りひかかわりなく裁断さいだんしており、復讐ふくしゅう感情かんじょう抑制よくせいできていなかった[346]。だが、このような対応たいおうが、結果けっかとして義昭よしあき人気にんきかげとしていったとかんがえられる[346]
  • 義昭よしあき信長のぶなが義昭よしあき関係かんけい悪化あっかかんして、殿中でんちゅうおきて発端ほったんとする見方みかたがある。この殿中でんちゅうおきてについては近年きんねん信長のぶなが単純たんじゅん将軍しょうぐん権力けんりょく制約せいやくしようとしたのではなく、ほとんどの条文じょうぶん室町むろまち幕府ばくふ規範きはん先例せんれい出典しゅってんもとめられるもので、信長のぶなが幕府ばくふほう先例せんれい吟味ぎんみしたうえ幕府ばくふ再興さいこう理念りねんしめしたものだとするせつされている[347]。また、5箇条かじょう承認しょうにんとほぼおなじくして、信長のぶなが書札しょさつれい関東かんとう管領かんりょうである上杉うえすぎ謙信けんしんとほぼ同格どうかくになっており、信長のぶながが「じゅんかんりょう」(管領かんりょう管領かんりょうだいじゅんじるものと位置付いちづけられた幕府ばくふ官職かんしょく)の就任しゅうにんれたわりに、信長のぶながほう義昭よしあきもとめた要望ようぼう結果けっかしるされたもので、信長のぶなが幕府ばくふ秩序ちつじょ体制たいせいんだという意味いみでは義昭よしあき権力けんりょく基盤きばん安定あんていにつながったとする見解けんかいもある[348][349]義昭よしあき幕府ばくふ機構きこう研究けんきゅうしていくなかで、義昭よしあき信長のぶなが傀儡かいらいとはいえず、室町むろまち幕府ばくふ組織そしき有効ゆうこう機能きのうしており、むしろ義昭よしあき個人こじん将軍しょうぐん権力けんりょく専制せんせい恣意しいてき政治せいじ判断はんだんによる問題もんだい浮上ふじょうはじめていたとする指摘してきもある[63]室町むろまち幕府ばくふにおいて、将軍しょうぐん専制せんせい確立かくりつ大名だいみょう権力けんりょく抑制よくせい意図いとする将軍しょうぐんとこれをおさえようとする管領かんりょう有力ゆうりょく大名だいみょう対立たいりつはこれまでもたびたび発生はっせいしており、義昭よしあき信長のぶなが限定げんていされたはなしではない。
  • 義昭よしあき信長のぶなが関係かんけい悪化あっか発端ほったんを、北畠きたばたけとの大河内おおこうちじょうたたか講和こうわ条件じょうけんにあったとする見方みかたもある[63]。この講和こうわ背景はいけいには、義昭よしあきによる調停ちょうていがあった[94]。ところが、信長のぶなが自分じぶん次男じなん織田おだ信雄のぶお)を北畠きたばたけ養子ようしけるなど、義昭よしあき意向いこうはんする措置そちった[94]義昭よしあき織田おだ北畠きたばたけ家格かかくちがいから、信長のぶなが行為こうい武家ぶけ家格かかく秩序ちつじょみだすことにつながると判断はんだんしたために容認ようにんできず、両者りょうしゃ意見いけん齟齬そごつながったとかんがえられる[94]。また、義昭よしあき信長のぶなが伊勢いせ平定へいてい自体じたいこころよおもっていなかったとされる[94]。このように、幕府ばくふ再興さいこう念願ねんがんとする義昭よしあきと、武力ぶりょくによる天下てんか統一とういつねらっていた信長のぶなが思惑おもわくちがっていたために、両者りょうしゃ関係かんけい徐々じょじょ悪化あっかしていったとかんがえられる。
  • 信長のぶなが若狭わかさ越前えちぜんめにかんして、朝倉あさくら義景よしかげおい武田たけだ元明もとあき越前えちぜん連行れんこうしたことに激怒げきどした義昭よしあき命令めいれいもとづく侵攻しんこうだったとするせつや、反対はんたい浅井あさい金ヶ崎かねがさきでの寝返ねがえりは義昭よしあき意思いしけてのものだったとするせつがあるが、このときたたかいには幕府ばくふ奉公ほうこうしゅ昵懇じっこん公家くげしゅさんじんしていることから、義昭よしあき上意じょういによって動員どういんされたとかんがえられる[350]。この出陣しゅつじんさいして、信長のぶながすでに1がつ23にちづけじゅういちヶ国かこくしょ大名だいみょう上洛じょうらく要請ようせいしており、出陣しゅつじんまで3ヶ月かげつ時間じかんがあったこととから、どの大名だいみょう自分じぶん味方みかたするか、あるいはてきになるか、判断はんだんしていたとかんがえられる[89]。また、3月28にち朝廷ちょうてい御所ごしょせんばらいと石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうでの戦勝せんしょう祈願きがんおこなっていることから、この軍事ぐんじ行動こうどう主体しゅたい義昭よしあきであり、信長のぶなが条文じょうぶんもとづいて軍事ぐんじ指揮しきけん行使こうしし、公儀こうぎ軍隊ぐんたいひきいるかたちをとっていた[351]
  • 義昭よしあき信長のぶながとの講和こうわ破棄はきし、槇島まきしましろにおいて挙兵きょへいしたさい京都きょうとでは「かぞいろと やしたひてし 甲斐かいもなく いたくもはなあめのうつおと」(信長のぶなが義昭よしあきをまるで父母ちちははあつかうように[352]やしなってきた甲斐かいもなく、あめがはげしくはな(=はな御所ごしょ将軍しょうぐん暗示あんじ)をおとがすることだ)のうたしるされた落首らくしゅてられた[353]
  • 義昭よしあき信長のぶながによって追放ついほうされたのちも、征夷大将軍せいいたいしょうぐん地位ちい、およびしたがえさんけん大納言だいなごん位階いかい官職かんしょく保持ほじしつづけた。『公卿くぎょう補任ほにん』には、天正てんしょう16ねん1がつ13にち1588ねん2がつ9にち)に義昭よしあき関白かんぱく豊臣とよとみ秀吉ひでよしとも御所ごしょ参内さんだいし、じゅん三后さんこうとなり、正式せいしき征夷大将軍せいいたいしょうぐんするまでその地位ちいにあったと記録きろくされている。200ねんあまつづいた室町むろまち幕府ばくふなかで、征夷大将軍せいいたいしょうぐん足利あしかが家職かしょくであり「(足利あしかがおな清和せいわはじめであったとしても)他家たけ人間にんげん征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにんすることはありえない」という風潮ふうちょう確立かくりつされており、そのため、信長のぶなが義昭よしあきわる征夷大将軍せいいたいしょうぐん地位ちいもとめず、朝廷ちょうてい積極せっきょくてき義昭よしあき解任かいにんうごきをせなかったともいわれる[336]
  • 義昭よしあき京都きょうとから追放ついほうされたとはいえ、かつて10代将軍しょうぐんであった足利あしかが義稙よしたねあかりおう政変せいへん将軍しょうぐんしょく解任かいにんされたのち大内おおうち義興よしおきらによってつづ将軍しょうぐんとして支持しじけてのち義興よしおきほうじられて上洛じょうらくして将軍しょうぐんしょく復帰ふっきしたように、義昭よしあき京都きょうと復帰ふっきする可能かのうせい当時とうじかんがえられていた。実際じっさい義昭よしあき追放ついほう将軍しょうぐんでありつづけた、と『公卿くぎょう補任ほにん』にはしるされている。また、義昭よしあき将軍しょうぐんしょくとしての政務せいむつづけ、伊勢いせこう一色いっしき上野うえの細川ほそかわ大館おおだて飯尾いいお松田まつだ大草おおくさなどの幕府ばくふ中枢ちゅうすう構成こうせいした奉公ほうこうしゅ奉行ぶぎょうしゅともない、近臣きんしん大名だいみょう室町むろまち幕府ばくふ役職やくしょく任命にんめいするなどの活動かつどうおこなっていた[注釈ちゅうしゃく 23]。そのため、近畿きんき周辺しゅうへん信長のぶなが勢力せいりょくけん以外いがい関東かんとう北陸ほくりく中国ちゅうごく九州きゅうしゅう奥州おうしゅう)では、追放ついほうまえどう程度ていど権威けんいたもつづけ、それらの地域ちいき大名だいみょうからの献金けんきん期待きたいできた。また、京都きょうと五山ごさん住持じゅうじ任命にんめいけん足利あしかが将軍家しょうぐんけ存在そんざいしたため、その任命にんめいによる礼金れいきん収入しゅうにゅう存在そんざいしていた。
  • その一方いっぽうで、義昭よしあき京都きょうとにいた時期じき奉公ほうこうしゅのうち、追放ついほう同行どうこうつづけたのは2わりぎないとする研究けんきゅうもある。その原因げんいんとして、義昭よしあき在京ざいきょうちゅうから満足まんぞく所領しょりょうあたえられず(あたえることができず)に困窮こんきゅうしたり、義昭よしあき一部いちぶ側近そっきんばかりを重用じゅうようしたりすることにたいして、信長のぶなが救済きゅうさいうった奉公ほうこうしゅがいたことから、義昭よしあき奉公ほうこうしゅたいするあつかいへの不満ふまんがあげられ、それらによって奉公ほうこうしゅ幕府ばくふ見限みかぎって信長のぶながしたがわせるながれにつながったとかんがえられている[354]実際じっさい所領しょりょう安堵あんど引換ひきかえ信長のぶながしたがった奉公ほうこうしゅ奉行ぶぎょうしゅなどもおり、そのなかには最後さいご政所まんどころ執事しつじである伊勢いせさだきょうさむらいしょひらきつとめた経験けいけん松田まつだよりゆきたかし石谷いしがやよりゆきたつ小笠原おがさわらしげるきよしなどがいた。ただし、そのほとんどがこれまでの幕府ばくふ職務しょくむからはなれ、細川ほそかわ藤孝ふじたか明智あけち光秀みつひでなどの麾下きかかれた。これは幕臣ばくしんたち所領しょりょうおおくがかれらの支配しはいかれたこと個人こじんてきなつながりに由来ゆらいするとかんがえられ、京都きょうと統治とうち担当たんとうした村井むらい貞勝さだかつ麾下きかかれたのある幕臣ばくしんはおらず、旧来きゅうらい統治とうちのノウハウが室町むろまち幕府ばくふから織田おだ政権せいけん継承けいしょうされることはなかった。
  • これまでの室町むろまち将軍しょうぐん動座どうざ追放ついほうさいには、それまで将軍しょうぐん支持しじして「昵近」関係かんけいにあった公家くげ随伴ずいはんするのが恒例こうれいで、かれらを仲介ちゅうかいして朝廷ちょうていとの関係かんけい維持いじされつづけていた。実際じっさい義昭よしあき越前えちぜん滞在たいざいにもいまだに将軍しょうぐん就任しゅうにんしていないにもかかわらず、ぜん関白かんぱくじょうはれりょう飛鳥井あすかいまさあつし公家くげ下向げこうし、義昭よしあきわれるかたちとなったぜん将軍しょうぐん義栄よしひでにも水無瀬みなせおや最後さいごまでしたがっている。義昭よしあきちち義晴よしはるあに義輝よしてる近江おうみ動座どうざしたさいにもまた、近衛このえ稙家らが随伴ずいはんしていた[355]。ところが、義昭よしあき京都きょうと追放ついほうにおいては、二条にじょう御所ごしょ信長のぶなが抵抗ていこうした日野ひのあきら高倉たかくらひさししょうのような公家くげはいたものの、かれらは最終さいしゅうてきには信長のぶなが説得せっとくおうじ、義昭よしあきしたがって京都きょうとはなれた公家くげ久我くがはるどおりつうしゅん父子ふしのみ[注釈ちゅうしゃく 24]で、この父子ふし義昭よしあき紀伊きい滞在たいざいちゅう天正てんしょう3ねん1575ねん)にはとも病死びょうししているため、義昭よしあきしたがった公家くげ皆無かいむとなった。これは義昭よしあき将軍しょうぐん就任しゅうにん以降いこうの5年間ねんかんもとかめからしん元号げんごうへの改元かいげん問題もんだいめぐ朝廷ちょうていとの対立たいりつ近衛このえぜんひさ出奔しゅっぽん烏丸からすまてい襲撃しゅうげきなどによって、伝統でんとうてき足利あしかが将軍家しょうぐんけと「昵近」関係かんけいにあった公家くげとの関係かんけい悪化あっか悪化あっかしたことに起因きいんしている。また、天正てんしょう3ねん11月に信長のぶながみぎ近衛このえ大将たいしょう任官にんかんすると、公家くげしゅらに新地さらち給付きゅうふし、公家くげ社会しゃかい安定あんていはかっている[358]。そして、朝廷ちょうていでは追放ついほう義昭よしあき従来じゅうらいどおりの将軍しょうぐん別称べっしょうである「公方くぼう」「武家ぶけ」とんで、つづ将軍しょうぐんとしての地位ちいみとめ、あらたに天下てんかじんとなった信長のぶながたいしてその呼称こしょうもちいることはなかったものの、義昭よしあきがわ仲介ちゅうかいとなる公家くげがいなかったこともあり、両者りょうしゃあいだ関係かんけいたれることかった[81][336]
  • こうした一連いちれんながれは、信長のぶながによって荘園しょうえんせいなど中世ちゅうせいてき秩序ちつじょ解体かいたいされて、将軍しょうぐん幕府ばくふ権威けんい必要ひつようとしない支配しはい体制たいせい構築こうちくされつつあるなかで、室町むろまち幕府ばくふ幕臣ばくしんたち義昭よしあきさい上洛じょうらく復権ふっけんけるか、現実げんじつてき京都きょうと支配しはいしゃである信長のぶながしたがって所領しょりょう安堵あんどはかるか、判断はんだんが2つにかれたとみられる。その一方いっぽうで、信長のぶなががわからみても幕臣ばくしん義昭よしあきしたがもの信長のぶながしたがもの二分にぶんされた結果けっか政所まんどころさむらいしょなど幕府ばくふ機構きこう維持いじ必要ひつよう人材じんざい不足ふそくして機能きのう停止ていし状態じょうたいおちいったため、これらの機構きこう依拠いきょしない支配しはい体制たいせい構築こうちくする方向ほうこうせいすすみ、政所まんどころさむらいしょ職員しょくいんだった幕臣ばくしん信長のぶながしたあらたな役割やくわりあたえられることで、京都きょうとにおける室町むろまち幕府ばくふ機構きこう完全かんぜん解体かいたいされることになった[76]
  • きょう追放ついほうされたのち、義昭よしあき側近そっきん幕臣ばくしん信長のぶなが打倒だとうのため、毛利もうり輝元てるもとおおきな期待きたいせた[196]義昭よしあきは8がつ1にちづけ御内おんうちしょで、「毛利もうり一番いちばんたよりにしています」としるしている[196]。また、側近そっきん一色いっしょくふじちょう書状しょじょうにも、「あなた(輝元てるもと)が出陣しゅつじんすれば、そのほうけて畿内きない近江おうみ山城やましろ摂津せっつ河内かわうち和泉いずみ)は平定へいていされ、すぐにわたし本意ほんいげることはあきらかです。足利あしかが将軍家しょうぐんけ再興さいこうはひとえにあなたの出陣しゅつじん次第しだいです」としるされている[196]
  • 毛利もうり輝元てるもと上杉うえすぎ謙信けんしんは、義昭よしあき追放ついほうされた天正てんしょう元年がんねん時点じてんでは、義昭よしあきではなく信長のぶなが味方みかたしていた[359]輝元てるもと謙信けんしんは、信長のぶなが足利あしかが将軍家しょうぐんけ維持いじすると予想よそうしており、足利あしかが義輝よしてる三好みよし長慶ちょうけいえいろく改元かいげんをめぐるあらそいや、義輝よしてるたれたえいろくへんのときほどのような危機ききかんいていなかったとかんがえられる[254]。また、天正てんしょう元年がんねん時点じてんでは、輝元てるもと謙信けんしん信長のぶなが領国りょうごくせっしていなかった[254]。だが、信長のぶなが勢力せいりょく拡大かくだいによって、輝元てるもと謙信けんしん信長のぶなが領国りょうごくせっするようになり、危機ききかんおぼえるようになった[254]。さらに、信長のぶながけん大納言だいなごんみぎ近衛このえ大将たいしょう就任しゅうにんするなど、みずからを将軍家しょうぐんけして、足利あしかが将軍家しょうぐんけ武家ぶけ頂点ちょうてんとする秩序ちつじょ破壊はかいし、室町むろまち幕府ばくふとはことなるあらたな武家ぶけ政権せいけん成立せいりつ目指めざすことを明白めいはくにしたことにも危機ききかんおぼえた[360][254]輝元てるもと謙信けんしんは、みずからの領国りょうごく、そして足利あしかが将軍家しょうぐんけ中心ちゅうしんとする秩序ちつじょまもるため、義昭よしあき味方みかたし、信長のぶながたたかみちえらんだとかんがえられる[254]
  • 鞆での生活せいかつは、備中びっちゅうこく御料ごりょうしょからの年貢ねんぐほか足利あしかが将軍しょうぐん専権せんけん事項じこうであった五山ごさん住持じゅうじ任免にんめんけん行使こうししてれいぜに獲得かくとくできたこと、日明ひあがり貿易ぼうえきとおして足利あしかが将軍家しょうぐんけ関係かんけいふかかったそう島津しまつからの支援しえんもあり、財政ざいせいてきには困難こんなん状態じょうたいではなかったといわれている。一方いっぽうで、征夷大将軍せいいたいしょうぐんとして一定いってい格式かくしき維持いじし、さらたい信長のぶなが外交がいこう工作こうさくおこなっていく以上いじょう、その費用ひようけっしてすくなくはなく、また恒常こうじょうてき保証ほしょうされた収入しゅうにゅうすくない以上いじょう、その財政ざいせいはかなり困難こんなんであったとする見方みかたもあり、天正てんしょう年間ねんかん後期こうきには木島きしま昭光あきみつ一色いっしきあきらこう唐橋からはしざいつう)クラスの重臣じゅうしんですら吉見よしみ山内やまうち首藤しゅどうなど毛利もうり麾下きかくにしゅへの「あずかおけ」(一時いちじてき客将かくしょうとしてあたえて面倒めんどうをみさせる)の措置そちっている[336]
  • 毛利もうり上洛じょうらくらないのは、北九州きたきゅうしゅう大友おおとも宗麟そうりん侵攻しんこうけているからだとかんがえた義昭よしあき島津しまつ龍造寺りゅうぞうじ大友おおとも討伐とうばつめいじる御内おんうちしょくだした。島津しまつ義久よしひさはこれを大友おおともりょう侵攻しんこう大義名分たいぎめいぶんとして北上ほくじょうし、日向ひなた伊東いとうよしゆう旧領きゅうりょう復帰ふっきさせるために南下なんかしようとしていた大友おおとも宗麟そうりん激突げきとつ天正てんしょう6ねん1578ねん)の耳川みみがわたたか一因いちいんになったとするせつもある[361]
  • 毛利もうりもまた、義昭よしあきのためにまったうごいていないわけではなかった。天正てんしょう4ねん(1576ねん)に三好みよし長治ながはる自害じがいまれて阿波あわ三好みよしちゅう混乱こんらんすると、天正てんしょう6ねん1578ねん)に毛利もうり輝元てるもと三好みよしよしけん十河そごうそん)を三好みよし当主とうしゅみとめて和睦わぼく連合れんごうして織田おだ対抗たいこうしようとする。義昭よしあき自身じしん最初さいしょ和睦わぼくには反対はんたいであったが、最終さいしゅうてきには同意どういして木島きしま昭光あきみつ仲介ちゅうかいめいじている。だが、織田おだむすんだ土佐とさ長宗我部ちょうそかべ元親もとちか讃岐さぬき阿波あわ侵攻しんこうによって、計画けいかく失敗しっぱいしてしまった[362]
  • 信長のぶなが横死おうしした本能寺ほんのうじへんにおいて、義昭よしあき事件じけん黒幕くろまくとするせつがある[363]藤田ふじた達生たつおは、本能寺ほんのうじへん義昭よしあき明智あけち光秀みつひでをはじめとするきゅう幕府ばくふ勢力せいりょくによる一大いちだいクーデターであった、とするせつ提唱ていしょうしている[364]他方たほう宮本みやもと義己よしみは、義昭よしあき黒幕くろまくせつ以下いか理由りゆうにより成立せいりつしないとしている[365]
    • 6月9にち明智あけち光秀みつひで細川ほそかわ藤孝ふじたか忠興ただこう父子ふしてた覚書おぼえがき光秀みつひで藤孝ふじたかにとって共通きょうつう旧主きゅうしゅである義昭よしあき存在そんざいまったえないこと。義昭よしあき光秀みつひで謀反むほんなんらかのかたちかかわっていたとしたら、この場面ばめん義昭よしあきいにさないのは不自然ふしぜんで、信義しんぎとうと細川ほそかわ父子ふしであればなおのこと有効ゆうこうであったはずである。義昭よしあき存在そんざい謀反むほん名分めいぶんになっていなかったことを意味いみするものであるといえる。
    • 信長のぶなが打倒だとう目指めざして行動こうどうつづけていた義昭よしあきのもとに、信長のぶなが自害じがいさせたという密書みっしょとどけられた形跡けいせきがない。それどころか光秀みつひで周辺しゅうへんとのつながりをしめすような材料ざいりょうまったえてこない。このことは毛利もうり場合ばあい同様どうようである。信長のぶながらせる光秀みつひで使者ししゃ秀吉ひでよし陣営じんえいまよんでらえられた不手際ふてぎわも、義昭よしあき毛利もうり本能寺ほんのうじへんまった予測よそくできなかったことのあかしであり、義昭よしあき黒幕くろまくとして光秀みつひであやつっていたのなら、あらかじめ隠密おんみつ使者ししゃのルートが調ととのえられていたにちがいない。
    • 吉川よしかわひろ覚書おぼえがき案文あんぶん)には、毛利もうり秀吉ひでよし撤退てったい翌日よくじつ本能寺ほんのうじへんほう入手にゅうしゅしており、秀吉ひでよしとの和議わぎったことを理由りゆう織田おだぐん追撃ついげきをしなかった。この事実じじつは、義昭よしあき事変じへんとのかかわりの是非ぜひるうえで意義いぎふかいものである。かり義昭よしあき黒幕くろまくとして光秀みつひでつうじていたならば、光秀みつひで京都きょうとおさえていた段階だんかい秀吉ひでよしへの追撃ついげきおもいとどまることなどありえなかったであろう。むしろ、一気いっき攻勢こうせいをかけなければいけなかったはずである。
以上いじょうのことから、義昭よしあき黒幕くろまくるにはかなりの困難こんなんがともない、学問がくもんてきには否定ひてい材料ざいりょうしか見当みあたらず肯定こうていする要素ようそはないと考察こうさつしている。
  • 天下てんか統一とういつ実現じつげんした秀吉ひでよし幕府ばくふ創立そうりつ目論もくろみ、義昭よしあき大名だいみょうにするわりに自分じぶん養子ようしとしてくれるようにとのぞんだが、これを拒絶きょぜつされ、やむなく関白かんぱくになった、という逸話いつわつたわる[359](『義昭よしあき興廃こうはい』『豊臣とよとみ秀吉ひでよし[366])。だが、これははやし羅山らざんせつ初出しょしゅつであり、将軍しょうぐん神聖しんせいする羅山らざんによって捏造ねつぞうされたものであるとかんがえられている[359]
  • 多聞たもんいん日記にっき』によると、天正てんしょう12ねん1584ねん)10がつ16にち秀吉ひでよし正親町おおぎまち天皇てんのうから将軍しょうぐん任官にんかんするようにとのみことのりじょうけていたが、これをことわったとされる[359]秀吉ひでよし信長のぶなが同様どうように、将軍しょうぐんへの任官にんかんのぞんでいなかったとかんがえられている[367]。なぜなら、秀吉ひでよしこそが、将軍しょうぐん義昭よしあき庇護ひごした毛利もうり輝元てるもとや、義昭よしあき調しらべりゃくけたしょしょう撃破げきはし、義昭よしあき将軍しょうぐん権威けんいたたつぶした張本人ちょうほんにんだったからである[367]

系譜けいふ

義昭よしあき嫡男ちゃくなんひろは、信長のぶなが人質ひとじちとなったのち興福寺こうふくじ大乗だいじょういん門跡もんぜきとなった。ひろのち還俗げんぞくして2人ふたりをもうけたが、2人ふたりとも仏門ぶつもんはいった。このため、義昭よしあき正系せいけい断絶だんぜつした。

大坂おおさかじんさい義昭よしあきしょうする一色いっしきよしたかし総数そうすう563にんぶんの「家臣かしん連判れんばんちょう」を提出ていしゅつして、徳川とくがわかた参加さんかしようとしたが、たせなかったという。そのまご会津あいづ松平まつへいつかえ、陸奥みちのく会津あいづはんとなり、坂本さかもとせい名乗なのる。仕官しかんさい足利あしかが菩提寺ぼだいじの鑁阿てら相伝そうでん家宝かほう一部いちぶ寄進きしんしたという(『足利あしかが 上巻じょうかん』)。ただし、よしたかし存在そんざいどう時代じだい史料しりょうでは確認かくにんされていない。

永山ながやま系図けいず」(『鹿児島かごしまけん史料しりょう 旧記きゅうき雑録ざつろく拾遺しゅうい 伊地知いじちやす著作ちょさくしゅう所収しょしゅう)において、泉州せんしゅう蟄居ちっきょさいにできたとして、ざいという人物じんぶつしるされている。どう史料しりょうれば、よしざい薩摩さつまはんとなり、しゅうとせい改姓かいせいして「永山ながやまきゅう兵衛ひょうえ」としょうしたという。ただし、よしざい存在そんざいどう時代じだい史料しりょうでは確認かくにんされていない。

きゅう柳川やながわはんこころざし』によると、近江おうみ矢島やじまいだ矢島やじま秀行ひでゆき義昭よしあきしるされている。つま菊亭きくていはるおんな矢島やじま重成しげなり八千子やちこ立花たちばな宗茂むねしげ継室けいしつ)がいる[2]

明治めいじ12ねん1879ねん)、押小路おしこうじじつきよし名家めいか子孫しそん華族かぞくてるよう請願せいがんしょ提出ていしゅつしているが、このなかで「西山にしやま義昭よしあき将軍しょうぐん裔ニして細川ほそかわきゃくタリ足利あしかが」も名家めいかひとつとしてかぞえている[368]。 これは肥後ひご熊本くまもとはんであったいけよしたつ子孫しそん西山にしやますものであるが、この西山にしやま先祖せんぞ義輝よしてるというせつ義昭よしあきおとうとというせつもあるため、明確めいかくになっていない。

へんいみなけた人物じんぶつ

公家くげ

武家ぶけ

よし」の

あき」の

あきら」の

ゆかりの神社じんじゃ寺院じいん

  • そうどう神社じんじゃ広島ひろしまけん福山ふくやま津之郷つのごうまち

祭神さいじんとして足利あしかが義昭よしあきまつられており、神体しんたいとして「でん 足利あしかが義昭よしあきおおやけぞう束帯そくたい座像ざぞう)」がつてそんしている。その近隣きんりんは、備後びんごながいた義昭よしあき毛利もうり輝元てるもと家臣かしん当地とうち周辺しゅうへん統治とうちしていた渡辺わたなべいちじょう山城やましろおも)がかくまったとされるであり、義昭よしあき寓居ぐうきょしていたやま御殿山ごてんやまという現在げんざいのこっている。

  • 圓福寺えんぷくじだいとう城跡じょうせき広島ひろしまけん福山ふくやま鞆町)

だいしまじょう毛利もうり輝元てるもとたよって下向げこうした義昭よしあき拠点きょてんとした場所ばしょふるくは足利あしかが直冬ただふゆ足利尊氏あしかがたかうじ足利あしかが直義ただよし養子ようし)も西国さいこくでの活動かつどう拠点きょてんとした瀬戸内せとうち要衝ようしょうであった。現在げんざい陸続りくつづきになっているが、かつては独立どくりつしたしまつくられたしろ、「うみじょう水城みずき)」であった。のち福島ふくしま正則まさのりによって対岸たいがんに鞆城が整備せいびされると、城跡じょうせき現在げんざいみなみ林山はやしやま釈迦しゃかいん圓福寺えんぷくじ建立こんりゅうされた。義昭よしあきはこのだいしまじょう幕府ばくふ将軍しょうぐんとしての政務せいむおこなっていたことから、「鞆幕府ばくふゆかりの」となっている。

義昭よしあき題材だいざいとした作品さくひん

小説しょうせつ

漫画まんが

義昭よしあき登場とうじょうした関連かんれん作品さくひん

映画えいが

テレビドラマ

漫画まんが

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ もとかめ元年がんねん三好みよし残党ざんとう京都きょうと乱入らんにゅうのとき、矢島やじま勘兵衛かんべえじょう秀行ひでゆき将軍しょうぐん義昭よしあきのため防戦ぼうせんすることすう最終さいしゅう山城やましろこくおんあんにて戦死せんしした。秀行ひでゆきのことはじつ足利あしかが義昭よしあき近江おうみ矢島やじまぐ。つま菊亭きくていはるおんな矢島やじま重成しげなり八千子やちこ立花たちばな宗茂むねしげ継室けいしつ[2]
  2. ^ 矢島やじま重成しげなりについてじつ義昭よしあきであるとするせつもある[3]
  3. ^ 仁木にき義広よしひろ守護しゅごであった。国人くにびと一人ひとりである服部はっとりは、こののち義昭よしあき随行ずいこうすることとなる。
  4. ^ 当時とうじ義昭よしあきのことをしるした書物しょもつには、将軍家しょうぐんけ当主とうしゅをさす「矢島やじま武家ぶけ御所ごしょ」などとばれていたことがしるされている。
  5. ^ 叙任じょにん時期じきについては疑問ぎもんする意見いけんがあるが、『げんつぎきょう』によればえいろく11ねん1568ねん)2がつおこなわれた義昭よしあき対抗たいこうである足利あしかが義栄よしひでへの将軍しょうぐん宣下せんげ当日とうじつ宣下せんげ使者ししゃであった山科やましなげんままし屋敷やしき義昭よしあき使者ししゃあらわれて、したがえよんへの昇進しょうしん推薦すいせん仲介ちゅうかい依頼いらいしにたために困惑こんわくしたことかれており、この以前いぜん叙任じょにんけていたことあきらかである。
  6. ^ ただし、くらたに御所ごしょ後世こうせい創作そうさくで、実際じっさいくらだに奥州おうしゅう斯波しば嫡流ちゃくりゅう系統けいとうぞくし、斯波しば一族いちぞくでも宗家そうけであるたけまもるちかい、たか格式かくしきった一族いちぞくであるとする佐藤さとうけいせつがある[38]
  7. ^ 幕府ばくふ行政ぎょうせい実務じつむ担当たんとうしていた奉行ぶぎょうしゅ8めいのうち最終さいしゅうてきには6めい越前えちぜん義昭よしあきした下向げこうしたこと確認かくにんでき、対抗たいこう相手あいてであった足利あしかが義栄よしひで京都きょうとはいっても将軍しょうぐん職務しょくむおこなうのが困難こんなんとなり、将軍しょうぐん宣下せんげ京都きょうとれなかった一因いちいんになったという[39]
  8. ^ 矢島やじま滞在たいざい当時とうじより、足利あしかが義昭よしあき上洛じょうらくへの協力きょうりょく要請ようせいしていることが判明はんめいしている大名だいみょうとしては、佐竹さたけ由良ゆら北条ほうじょう上杉うえすぎ武田たけだ朝倉あさくら徳川とくがわ織田おだ六角ろっかく毛利もうり吉川よしかわ小早川こばやかわ相良さがら島津しまつなどがられている[40]
  9. ^ 義栄よしひで死去しきょには異説いせつもあり、実際じっさい死亡しぼう時期じき判然はんぜんとしないため、義昭よしあき将軍しょうぐん宣下せんげけたさい義栄よしひで死去しきょによって将軍しょうぐんしょく空席くうせき状態じょうたいであったのか、義昭よしあき義栄よしひではいしたうえでの将軍しょうぐん宣下せんげであったのかはさだかではない[58]
  10. ^ ぜんひさみずか京都きょうと退去たいきょし、家督かとくゆずったとされる[78]
  11. ^ ぜんひさみずか京都きょうとはなれて大坂おおさか石山いしやま本願寺ほんがんじくだり、あかりまる近衛このえしんいん)を出仕しゅっしさせることで義昭よしあきいかりをかわそうとした[79]。だが、義昭よしあきいかりははげしく、正親町おおぎまち天皇てんのう信長のぶながしにもかかわらず、近衛このえは闕所あつかいにされ、あきらまる大坂おおさかへの在国ざいこくめいじられて、事実じじつじょう追放ついほう処分しょぶんとなった[79]。また、義昭よしあきのこの強硬きょうこう態度たいど背景はいけいには、あきらまる出仕しゅっしつよ反対はんたいする二条にじょうあきら意向いこうけたものであるとするせつもある[80]。なお、これまできゅうじょうじょう懇意こんいであった石山いしやま本願寺ほんがんじは、これを近衛このえむすぶことになり、石山いしやま合戦かっせん遠因えんいんとなる[79]
  12. ^ 義昭よしあきはれりょう嫡男ちゃくなんへんいみなあたえて「あきら」と名乗なのらせ、そのおとうとであるえんじ醍醐寺だいごじ三宝さんぼういんはいるに先立さきだってみずからの猶子ゆうしとしている[80]
  13. ^ じょうはれりょうには適齢てきれいむすめがいなかった[81]
  14. ^ ただし、義昭よしあき御内おんうちしょにおいて、「異論いろんがあれば天下てんかたい不忠ふちゅうになる」と将軍しょうぐん貫禄かんろくせている[86]
  15. ^ 2にちには7箇条かじょう追加ついかし、16箇条かじょうとなった。
  16. ^ 義昭よしあき信玄しんげん関係かんけい公式こうしきには、もとかめ元年がんねん(1570ねん)4がつはじまった。だが当時とうじ信玄しんげん信長のぶなが同盟どうめい関係かんけいにあり、義昭よしあきとのなか発展はってんはなかった。義昭よしあき信玄しんげんたいし、もとかめ3ねん(1572ねん)5がつ13にちづけで「軍事ぐんじ行動こうどうこして、天下てんか平定へいていするよう努力どりょくせよ」との御内おんうちしょあたえており、これが信玄しんげん軍事ぐんじ行動こうどう大義名分たいぎめいぶんとなった[157]。ただし、この御内おんうちしょについては、もとかめ4ねん(1573ねん)5がつ13にちづけのものとする鴨川かもがわたちおっとしば裕之ひろゆきせつもある。しばもとかめ3ねん10がつが、信玄しんげん徳川とくがわりょう本格ほんかく侵攻しんこうした時期じきであり、信玄しんげん家康いえやすそしてその盟友めいゆうである信長のぶながたいする軍事ぐんじ行動こうどう正当せいとうのために外交がいこう工作こうさく活発かっぱつさせ、義昭よしあき武田たけだ朝倉あさくら浅井あさい三好みよし本願寺ほんがんじ連合れんごうぐんまえに、義昭よしあき-信長のぶなが管轄かんかつする天下てんか存立そんりつ天下てんか静謐せいひつ)の存続そんぞく困難こんなんになったと判断はんだんし、信玄しんげんらのはん信長のぶなが連合れんごうじくとする天下てんか静謐せいひつへの路線ろせん転換てんかんはかったとし、信長のぶなが包囲ほういもう形成けいせいされたのはこのときであったとする。なお、鴨川かもがわしばらの見解けんかい沿えば、義昭よしあき信玄しんげん病没びょうぼつることなく御内おんうちしょ発給はっきゅうしたことになる[158]
  17. ^ 信玄しんげんつま顕如けんにょつまはともに公家くげ三条さんじょうこうよりゆきむすめ、つまり姉妹しまいであり、また顕如けんにょ長男ちょうなんきょう如と朝倉あさくら義景よしかげむすめ夫婦ふうふであった[106]
  18. ^ 年代ねんだいしょうぶし』には「摂津せっつこく池田いけだ丹波たんば内藤ないとう、シホがわ宇津うつ下田しもだ室町むろまち殿御とのごばんやめあがル」とある[180]
  19. ^ 天正てんしょう10ねん1582ねん)2がつ吉川よしかわけいやす子孫しそんのこしたおけぶん石見いわみ吉川よしかわ文書ぶんしょ」では、「義昭よしあき将軍しょうぐん織田おだ上総かずさかい信長のぶなが退治たいじのために、備後びんご鞆のうら動座どうざされ、毛利もうりみぎ馬頭めず大江おおえ輝元てるもと朝臣あそんふく将軍しょうぐんきゅうり、び(ならび)に小早川こばやかわ左衛門さえもん隆景たかかげ吉川よしかわ駿しゅん河守こうもり元春もとはる父子ふし、その権威けんいをとって都鄙とひぼこだて(とひむじゅん)にをよふ(およぶ)」としるされている。
  20. ^ 直接ちょくせつへいひきいたのは、信長のぶなが息子むすこ織田おだ信忠のぶただである。
  21. ^ 秀吉ひでよし征夷大将軍せいいたいしょうぐんいて幕府ばくふひらこうとし、義昭よしあき自身じしん養子ようしにするよう依頼いらいしたがことわられたために関白かんぱくのぞむにいたったというのは、今日きょうでは事実じじつではないとかんがえられている。はやし羅山らざんの『豊臣とよとみ秀吉ひでよし系譜けいふ』や『こうきょう』にそうした記述きじゅつがみられるものの、これを裏付うらづける史料しりょうはない。これがのち武内たけうちかくときの『絵本えほん太閤たいこう』にられて、通説つうせつとなった。
  22. ^ 細川ほそかわ』はぼつ備後びんごの鞆としており[334]久野くの雅司まさしは「慶長けいちょうやく名護屋なごやじょう出陣しゅつじんし、帰洛きらくする途中とちゅうに鞆にて病没びょうぼつした」としている[318][335]
  23. ^ 同様どうよう京都きょうとから動座どうざして幕府ばくふ政務せいむった足利あしかが将軍しょうぐんには足利あしかが義詮よしあきら足利あしかが義尚よしなお足利あしかが義稙よしたね足利あしかが義晴よしはる足利あしかが義輝よしてるらが存在そんざいする。
  24. ^ 久我くが父子ふし義昭よしあきへの随行ずいこう事実じじつ金子かねこたく指摘してきによって判明はんめいする[356]まで、義昭よしあき随行ずいこうした公家くげはいなかったとかんがえられていた[357]。なお、水野みずのみね久我くがはるどおり近衛このえからの養子ようしであったことから、義昭よしあきはん信長のぶながであった近衛このえぜんひさとの和解わかい仲介ちゅうかい期待きたいしていたが、義昭よしあき対立たいりつ関係かんけいにあったぜんひさ反対はんたい義昭よしあき追放ついほう信長のぶながとの和解わかいへとかったと指摘してきしている[80]

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