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刘备

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重定しげさだこうそう
かんあきられつみかど
しょくかん皇帝こうてい
とうだい畫家がか閻立ほん帝王ていおうちゅうてきかんあきられつみかど畫像がぞう
汉朝だい30しょく汉第1皇帝こうてい
在位ざいい221ねん5がつ15にち-223ねん6がつ10日とおか(2ねん26てん
前任ぜんにんしょく建立こんりゅう
汉献みかど东汉
つぎにんしょく汉后ぬし
东汉だい司馬しばかんちゅうおう
统治219ねん-221ねん5がつ15にち
君主くんしゅかんけんじみかど
やすそう
年號ねんごう
あきらたけ:221ねん5がつ15にち-223ねん6がつ10日とおか
谥号
あきられつ皇帝こうてい
庙号
れつ[1]
王朝おうちょうしょくかん
むべしろていこう
時代じだいひがしかん
主君しゅくんかんけんじみかど
姓名せいめいりゅう
げんとく
しょくかんやすじょうしたみつすすむこうとうれいべつ司馬しば平原へいげんれい平原へいげんしょうしゅう刺史ししじょしゅうまぎ、鎮東將軍しょうぐんひだり將軍しょうぐんしゅうまぎひだり將軍しょうぐん、荊州まきだい司馬しばりょうつかさ隸校じょう(りゅうあきら上奏じょうそう)→しょくかん皇帝こうてい
出生しゅっしょうひがしかんのべよんねん(161ねん
ひがしかん涿郡涿縣いま河北かほくしょう涿州
逝世しょくかんあきらたけさんねんよんがつじゅうよんにち
223ねん6がつ10日とおか(223さい—06—10)(61—62さい
しょくかんしろみかどじょう永安えいあんみやいま重慶たーちんたてまつふしけん
おやぞく
おうしか夫人ふじんまご夫人ふじんきよし皇后こうごう
側室そくしつあま夫人ふじん
りゅうぜんりゅうひさしりゅうさとし
養子ようしりゅうふう


かんあきられつみかどりゅう(161ねん—223ねん6がつ10日とおか),げんとく涿郡涿縣いま河北かほくしょう涿州にんまたたたえしょくさきぬしさんこく時代じだいしょくかんてき開國かいこく皇帝こうてい在位ざいいさんねん諡號しごうあきられつ皇帝こうていびょうごうれつ

刘备あずかどうむね刘德しか、辽西じんおおやけ孙瓒一起かずきはい卢植为师がく习。东汉まつねんおこりへい参与さんよ镇压はばきさき颠沛りゅう离,つぎ转投他人たにん门下,さききさき于公孙瓒、とう曹操そうそう袁绍刘表とうひときさきさん顾茅庐”请诸葛あきら出山でやま,开始ざい众多军阀ちゅう崭露头角。208ねん,刘备遣诸葛あきらこうみなみあずか孙权联合,促成そくせい孙刘联军,于あかかべだい败曹みさお。战后うらない荆州これ,实力逐渐ゆうあつきさきとく张松けんじ图,进军えきしゅう成功せいこう,并北上ほくじょう夺取汉中ていさんそく鼎立ていりつ势。219ねん自立じりつ为「汉中おう」。221ねん,刘备ざい成都せいとしょうみかど国号こくごう汉,たてもとあきらしょうしょく汉”,占有せんゆうこんじゅう庆、四川しせんうん南大みなみおお、贵州全部ぜんぶ、陕西汉中和ちゅうわあま肃白龙江いち部分ぶぶんしか而此まえ吕蒙袭取荆州、诛杀关羽使つかい其称みかどきさき兴兵孙吴ただしだい败而归,損耗そんこう大量たいりょう国力こくりょく。223ねん,刘备びょうしろみかどじょう,终年ろくじゅうさん岁,そう于惠りょう,其子刘禅即位そくい[2]りゅう備雖ためかんけいみかど後代こうだいただしけい久遠くおんじつゆかり布衣ふいおこり而終どく一方いっぽう天下てんか[3]:2

三國志さんごくし》、《華陽かようこくこころざしとうしょひとししょう其為さきぬしつぎてきりゅうぜんそくしょうためこうあるじ」,《どおりかんしょうりゅう父子ふしためかんぬし[4]きさき一般いっぱんよう谥号“あきられつだいゆび刘备。

生平おいだいら

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桃園ももぞのさんゆいよし雕,ひだりためせきはねちゅうためりゅう備,みぎためちょう

いえ背景はいけい

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三國志さんごくし記載きさいりゅう備是汉景みかどだいきゅう中山なかやまやすしおうりゅうまさる之子ゆきこ刘贞てき後代こうだい,而裴松三国志さんごくしちゅうしょ引《てんりゃく》记载,刘备为“临邑こうえだぞく”,りゅう備亦ゆう可能かのう臨邑こうりゅうゆずるある臨邑こうりゅうふくてき後人こうじんただし仍可肯定こうていりゅう備是けいみかどこれ祖父そふめいゆう父親ちちおやめいひろし世代せだいみなざいしゅうぐん做官,祖父そふりゅうつよし曾被推舉ためこうれんかんいたりひがしぐん范縣縣令けんれい[5]きょ酈亭ろうくわさと[6]

少時しょうじ經歷けいれき

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父親ちちおやりゅうひろしざいりゅう備少やめ逝,りゅう備便あずか母親ははおや販賣はんばい草鞋わらじくさむしろためぎょういえうらぼうしゃてき東南とうなんかくてきかこえませじょうゆうしゅうえくわじゅこう丈餘じょうよしたがえどおしょかんぞういちだい皇帝こうていてきしゃいただきみちまとじんみないぶか此樹てき非凡ひぼんあるせつ此家必當貴人きじんりゅう備小時候じこうあずか家族かぞくちゅう年齡ねんれい相近すけちかてきしょう孩在樹下じゅか遊戲ゆうぎ,曾說:「長大ちょうだいこれわが必乘すわくるまぶたぞう這桑じゅいちようだいてき馬車ばしゃ。」てき叔父おじりゅうけいせつ:「你別らん說話せつわがいわが們家めつぞく!」りゅうじゅうさい,刘备はは亲要まけきゅう外出がいしゅつあずかどうむね刘德しかりょう西にし公孫こうそんとうひとどういれ當時とうじ大儒たいじゅしょく門下もんか學習がくしゅう[7]

りゅういさおしかこれちちりゅうもとおこりつねじょりゅう備,きゅうりゅう備的ぜにあずか自己じこりゅういさおしかひとしどうりゅうもとおこりてき妻子さいし忿然ののしみち:「またいち家人かじんためなんそうじょ!」もとおこり回答かいとう:「わが們都せいりゅうてき居然きょぜんのうゆう這個孩子,一般人いっぱんじん。」公孫こうそん瓚與りゅう備結ためこうとも公孫こうそん瓚較年長ねんちょうりゅう備以兄事けいじ[8]

りゅう備雖しか投入とうにゅうしょく門下もんかただし卻不甚喜歡讀書どくしょはんたおせりょう音樂おんがく華麗かれいてき衣服いふく身長しんちょうななしゃくすんやく173おおやけぶんかんいちしゃくやくため23.1おおやけぶん),りょうひじ很長,ゆういちたい招風だいみみ並無ならびな鬍鬚平時へいじばなし喜怒きどかたち於色。よし於個性善せいぜん於待じんせっぶつじょう行事ぎょうじ風格ふうかく酷似こくじ先祖せんぞ劉邦りゅうほうこう交結ごう義士ぎし當地とうちゆう很多ねんけいひとそうしょう趨附時人じじんまたひょうためゆう高祖こうそこれふう中山なかやまだい商人しょうにんちょうひらたそうひとしまたため此常きゅうりゅう備金ぜにあずか物資ぶっしじょうてき幫助,りゅう備由とく糾合きゅうごう部下ぶか發展はってん組織そしき

參與さんよ義軍ぎぐん

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184ねんはばみだれ爆發ばくはつかくしゅうぐんみなゆう人民じんみん組織そしき義軍ぎぐん討伐とうばつりゅう備率りょう耿雍せきはねちょう牵招及一干下屬跟隨鄒靖討伐とうばつはばぐんだて戰功せんこうにんためやすじょう一說いっせつ參與さんよ鎮壓ちんあつちょうじゅん叛亂はんらん任命にんめいためやすじょう[9])。後來こうらいかんしつゆうれい:「如因軍功ぐんこう而成ためちょう吏的じんよう經過けいか汰選。」とくいたやすようりゅう備資りゅう備知どう消息しょうそくいたとく郵入じゅうてきえき休息きゅうそくぼうしゃもとめとく郵卻しょうびょうりゅう備認ためとく郵傲慢而しんせい不快ふかいみちちょく闖入ちんにゅうぼうしゃはたとく郵綑綁並つえひゃく棄官,おびちょせきちょうとうじん亡命ぼうめい奔逃。

後來こうらい大將軍だいしょうぐんなんしんじょう毌丘あつしいた募兵ぼへいりゅう備也ざい途中とちゅう加入かにゅういたしもときあずか盜賊とうぞく力戰りきせん有功ゆうこうにんためみつけんすすむしかひさまたかんよりどころ英雄えいゆう記載きさいかん灵帝すえねんりゅう备曾けいざい洛陽らくよう後來こうらいかず曹操そうそうぜん沛国募兵ぼへい。灵帝天下てんか大乱たいらんりゅういちおこりへい討伐とうばつただしたく[10]

191ねん,刘备時任ときとうこうとうれいただしぬすめ贼击败而とう公孫こうそん公孫こうそん瓚隨そく上表じょうひょうそうりゅう備為べつ司馬しばにんため平原ひらはられい平原ひらはらそうりゅう備在平原へいげんそと禦賊寇,ざい內則たむろかてぶん發給はっきゅう百姓ひゃくしょう,就算ぼつゆう官職かんしょくてきじんあずか一起就座用餐,從來じゅうらいかい排斥はいせき別人べつじん平原へいげんこくいくわぐんみんりゅうひら一直以來都看不起劉備,不服ふふくりゅう備的便びん唆使刺客しかくまえ暗殺あんさつりゅう備。りゅう備對於此ごと不知ふちじょう,以為刺客しかく普通ふつうじん,就對刺客しかくせきふところ備至、十分じゅうぶん禮遇れいぐうふか感動かんどうてき刺客しかくにん殺害さつがいりゅう備,ただとくひろし實情じつじょうしかはなれりゅう備治平原ひらばらぐん期間きかん廣樹ひろきおんとくふか人心じんしん

いれぬしじょしゅう

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成都せいとたけしこうほこら前部ぜんぶ汉昭れつ庙中てき刘备塑像そぞう
成都せいとたけこうほこらなかてき刘备雕像

はばとうかんりつ眾軍おさむ北海ほっかいぐん北海ほっかいしょうあなとおる大軍たいぐんしょかこえ情勢じょうせい危急ききゅう便びんふとし突圍こうりゅう備求すくいたい慈對りゅう備說:「わがふと慈只ひがしいち無名むめいひと北海ほっかいしょうあな融和ゆうわわがなみゆうちょ骨肉こつにくしょうれんてき親族しんぞく,也稱うえこころざし同道どうどうあいてき同鄉どうきょう朋友ほうゆうただみとめためわがゆう前途ぜんと而看おもわが所以ゆえんわが有為ゆうい分擔ぶんたん災禍さいかきょう赴患なん義理ぎり現在げんざいかんおこりへい擾境,包圍ほうい北海ほっかいじょうしろ內居みん徬徨すけ,危在旦夕たんせきあなとおる大人おとな聽說りゅう大人おとなゆう仁義じんぎのうすくいじん危難きなん急迫きゅうはくよし此盼のぞむちょのういた您的幫助,命令めいれいわが突破とっぱかんへい眾的包圍ほういおかせちょまんせいてき可能かのうこうりゅう大人おとなもとめすけおもんみゆうじゅう您的力量りきりょうぽうのう使北海ほっかいじょうだつ危。」りゅう備驚いぶかこたえどう:「北海ほっかいしょうあなとおる居然きょぜん知道ともみち世間せけん有我ありがりゅう備啊!」便びんたてそくさん千精兵隨太史慈去北海救援。はば聞知ぶんち援軍えんぐんいたり四散しさん而逃,あなとおる逐得以解かこえこういん袁紹おさむ公孫こうそん瓚,りゅう備遂あずかあおしゅう刺史ししかい支援しえん

193ねん曹操そうそう征討せいとうじょしゅうじょしゅうまきとうけん敗退はいたい曹操そうそうざいじょしゅうほふしろとうけん使つかいつげきゅう於田楷,楷與りゅう備俱ぜん往相すくい當時とうじりゅう備自ゆうへいせん餘人よにんかそけしゅうがらす攙雜えびすぞく騎兵きへいまたりゃくとくひだるみんすうせんにんすんでいたあずかとうけん將領しょうりょう曹豹たむろざい郯東,ただし曹操そうそうげきはいこう曹操そうそういんちょうちんみや叛變よくすけりょぬのにゅうしゅ兗州撤退てったいとうけんへいよんせんにんきゅうりゅう備,りゅう備遂はなれ開田かいだ楷,てん而依とうけんとうけんひょうりゅう備為しゅう刺史ししたむろへいしょう

194ねんとうけんびょうじゅうたいべつ從事じゅうじおうしかせつ:「りゅう不能ふのうやす此州也。」とうけんおうしか竺便りつじょしゅう人民じんみんむかいりゅう備入ぬしじょしゅうりゅう備未敢當。しもちんのぼるたいりゅう備說:「現今げんこんかんしつやや趨衰はいうみ內傾くつがえたて功名こうみょうたて事業じぎょう,就在於今本州ほんしゅういんじつとみあし戶口とぐちひゃくまん希望きぼうこごめ就使くん親臨しんりんなでまき本州ほんしゅう事務じむ。」りゅう備未敢接受せつじゅ,推辭せつ:「袁公就近ざいことぶきはる,此人家族かぞくよんだい中有ちゅううにんれつ三公みつきみうみ內民しんしょ,你可以徐しゅう給與きゅうよ。」ちんのぼるこたえ:「袁術おご縱橫じゅうおうごうらんきょくおも現在げんざい希望きぼう您使くんあいども步兵ほへい騎兵きへいじゅうまんたいじょう以匡扶主じょう救濟きゅうさい人民じんみん成就じょうじゅぞう春秋しゅんじゅうこれ功業こうぎょうたいした以割もりさかいやすみんうつし功業こうぎょう竹帛ちくはくじょうわか聽使くんこたえもとざいしたまた聽從ちょうじゅう使くん。」

北海ほっかいしょうあなとおるたいりゅう備勸どう:「袁公あにいん憂慮ゆうりょ國事こくじ而忘卻家庭かていこれにん?袁家たてしかよんせい三公みつきみ,卻早やめちゅう枯骨ここつりょう不足ふそくざい今日きょうこと百姓因你賢能而推舉你,天意てんいゆずる你取じょしゅう而你將來しょうらい後悔こうかい就遲りょう。」りゅう備遂りょうじょしゅうまぎ

とう萧建臧霸わりすえ琅邪こくあきら豨割すえ东海ぐん,袁术うらない领广りょうぐん所以ゆえん刘备实际ひかえせいてきただゆう彭城こく邳国。

轉戰てんせんりょぬの

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195ねん,吕布曹操そうそうはいらいなげもたれりゅう備,りゅう備善まち禮遇れいぐう。吕布りゅう備,ごくため尊敬そんけいせつ:「わがあずか你同ため邊地へんち出身しゅっしんてきじん[11]我見がけん關東かんとう諸侯しょこうおこりへいそうよう誅殺ちゅうさつただしたく後來こうらいわがころせただしたく亂軍らんぐん逼迫ひっぱく而向ひがしはし關東かんとうしょしょう卻沒ゆう一個人願意安置我不說,かえ有人ゆうじんおもえようころせ。」於是りょぬの請劉備於ちょうちゅうすわなみれい妻子さいしくだりれいしゃくしゅいんえん,擅自稱呼しょうこりゅう備為其弟,りゅう備聽りょう吕布這些言論げんろん表面ひょうめんじょう雖不とういちかいごとただし心裏しんり卻對其有しょ戒備,最後さいごりゅう備讓吕布たむろしょうちゅう紮。

けんやす元年がんねん(196ねん),袁术らいおさむじょしゅうりゅう備於盱眙淮陰抵抗ていこう袁軍。曹操そうそう上表じょうひょう朝廷ちょうていりゅう備成ため鎮東將軍しょうぐんふうためむべしろていこう

りゅう備與袁术てき大軍たいぐんしょういち個月かげつ大戰たいせんあいだ彼此ひし互有勝負しょうぶ。吕布じょうしも空虛くうきょあずかしも守將しゅしょう曹豹れん繫,趁機發動はつどうぐんへん,趕走りょうちょうしん而佔よりどころ邳,はんきゃくためぬしなりためじょしゅう實際じっさいうえてきてのひらけんしゃ。吕布擄獲りゅう妻子さいし,而此てきりゅう備卻轉戰てんせんうみ西にし

ひがしかんたてやすしねん(197ねんなつたかし楊奉かんとうひと盤踞ばんきょざいじょあげしゅうあいだりゅう備率ぐんあずか決戰けっせんはた其擊つぶせ後來こうらいいきおいりょく竭的りゅう備不とくやめこう吕布もとめ,吕布歸還きかん妻子さいし,卻沒ゆう歸還きかんじょしゅうてき主導しゅどうけんりゅう備只こうのこせきはねもりしもなみくだりかえぐんしょう沛,しかこう集合しゅうごう兵馬へいばまたまん餘人よにん。《太平たいへい御覽ごらん》引《英雄えいゆうしょう楊奉かずかん暹依りょぬの曾被りょ布下ぬのしたれいりゅう備地むぎしゅりゅう備計ころせ楊奉てき遠因えんいん[12]

吕布得知とくちりゅう備重しん召集しょうしゅうりょう軍隊ぐんたい嫌惡けんお於此,便びん再度さいどおさむりゅう備,りゅう備兵はいはしなげみちしたただとく歸順きじゅん曹操そうそう曹操そうそう相當そうとうあつまちりゅう備,以其ためしゅうまきりゅう備與曹操そうそう一同いちどうかえしかいもと任命にんめいためひだり將軍しょうぐん

當時とうじりゅう備來とう奔曹みさおてき時候じこう曹操そうそう手下てしたてきはかりごとほど就曾警告けいこく:「かんりゅう備有ざい而甚とく眾心,おわり不為ふためじん。」すすむ曹操そうそう趁早ころせ掉劉備,以免後患こうかんただし曹操そうそうみとめため當時とうじ天下でんか未定みてい群雄ぐんゆうよんおこりせいおさむ英雄えいゆうとき不可ふかいんためりゅう備一人而失去天下之心[13]

(198ねんはるてん,吕布じんきむいたかわかいりゅう派兵はへい截取。吕布於是こうじゅんちょうりょうとうおさむりゅう備,雖然曹操そうそう曾派なつほうあつしぜん救援きゅうえんただし仍舊はいじん,於是りゅう備妻また再度さいど吕布しょ擄。

じゅうがつ曹操そうそうおや東征とうせいりゅう備在はりこくさかいちゅうあずか曹操そうそうかい兩人りょうにんごうへい成功せいこう消滅しょうめつりょう吕布,なみはた其活捉。りゅう備厭あくりょぬの反覆はんぷく無常むじょうおんはたかたきほうてき事情じじょうとげざいりょぬのこう曹操そうそう請降以求かついのち,拿過去かこちょうげんただしたくてきれいつげ誡曹みさお,於是りょぬのおわり絞殺こうさつ於白もんろう

りゅう備復とく妻子さいしただし卻未さいじゅうらんじょしゅう大權たいけん,而是跟從曹操そうそうかえもと曹操そうそう上表じょうひょうりゅう備為ひだり將軍しょうぐんたい其禮いよいよおもそく同車どうしゃすわのり同席どうせき

對抗たいこう曹操そうそう

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さんこく演義えんぎしょてきさけろん英雄えいゆう

かんけんじみかどよし曹操そうそうはさみ天子てんし以令諸侯しょこう發出はっしゅつころも带詔れい其岳ちちただしうけたまわ伺機誅殺ちゅうさつ曹操そうそうりゅう備尚加入かにゅう

いちにち曹操そうそうざい花園はなぞのえん請劉備,ためりょうためしさがせりゅう備對自己じこてき忠誠ちゅうせいせきあいだ曹操そうそうたいりゅう備說:「こん天下てんか英雄えいゆうただ使くんあずかみさおみみ本初ほんしょ不足ふそく數也かずや。(當今とうぎん天下でんかただどく你我二人才稱得上是英雄,ぞう袁紹這類じんゆう虛名きょめいやから不足ふそくかけ。)」りゅう備聽りょう知道ともみち曹操そうそうたい自己じこゆう戒心かいしんきんいちふるえ,筷子したがえ手中しゅちゅう掉落。此時つよしこうかみなりりゅう備便たい曹操そうそうせつ:「『聖人せいじん迅雷じんらいかぜれつ必變』,りょうゆう以也。いちふるえ,乃可いたり於此也!(『そく使つかい圣人,ぐう见打かみなり也会あらため表情ひょうじょうかくゆう原因げんいん一聲いっせい雷鳴らいめい,乃可以令わが變成へんせい如此!)」《華陽かようこくこころざし記載きさい當時とうじ碰巧かみなりごえ大作たいさくりゅう備便自己じこてき失態しったいとがめ雷鳴らいめいけい此事りゅう決定けってい加入かにゅうただしうけたまわ。此外りゅう備在もと曾帶ちょせきあずか曹操そうそう一起かずきりょうざいりょうせき趁沒じんすすむせつりゅう備殺曹操そうそうただしりゅう拒絕きょぜつ[14]ひさざい南方なんぽうしつてき袁术そうきたとう袁紹,りゅう備便以此ため藉口しゃこうむかい曹操そうそうへい出擊しゅつげき袁术,趁机摆脱曹操そうそうてきひかえせい曹操そうそうほかとくしゅれいみち攻擊こうげき袁术,ただしぐん未到みとう,袁术やめ病死びょうし

199ねんりゅう備遣しゅれいみち招佔よりどころしも。200ねん衣帶いたいみことのり事件じけんはいただしうけたまわあずか其他相關そうかん人士じんしころせりゅう備知どう事情じじょうゆうへん便びんころせじょしゅう刺史ししくるまかぶとしかこうとめせきもり邳,自己じこかいもりしょう沛,做好あずか曹操そうそう公然こうぜん對決たいけつてき準備じゅんび。 另一方面ほうめんりゅう派遣はけんまごいぬいあずか袁紹聯合れんごう打出うちで對抗たいこう曹操そうそうてき名目めいもく曹操そうそう曾派りゅうおうただしりょうぐんおさむりゅう備,ただしはんりゅう擊破げきは[15]同時どうじ東海とうかいあきらはん叛,當地とうちぐんけん有人ゆうじんとうもたれりゅう備,りゅう備軍さいつぎ聚起すうまんにんなみれんどう地方ちほう勢力せいりょくいちおこりはん曹。

曹操そうそう後悔こうかいぼつはやころせりゅう備,決定けっていおや東征とうせいりゅう,雖然曹軍ちゅう將領しょうりょうみとめためばんよりどころ河北かほくてき袁紹ざい大敵たいてきただし曹操そうそう卻覺とくりゅう備是英傑えいけつわか先行せんこう討伐とうばつひさ必釀だい,而曹みさおちょうてきはかりごとかくよしみまた贊同さんどう曹操そうそうてき決定けってい

りゅう備被曹軍大敗たいはいしょう沛被佔。曹操そうそうとりこりょうりゅう備的妻子さいしなみせいとりこせきなつほうひろしりゅう備率敗軍はいぐん逃至あおしゅうよし當時とうじてきあおしゅう刺史しし袁譚おや迎接げいせつなみ報知ほうち其父袁紹,袁紹以超規格きかくてき待遇たいぐうおやだし鄴城200さと迎接げいせつりゅう備的到來とうらい

刘备泄露曹操そうそう曾经对自己じこ说的みつげん袁绍,袁绍才知さいちどう曹操そうそうはららいゆう针对自己じこてき阴谋,曹操そうそう知道ともみちこれ很生,咬舌いたり流血りゅうけつ,以告誡眾じん[16]。刘备まちりょういちがつ以前いぜんてき部下ぶか又重またしげしん聚會。ひさ曹操そうそうあずか袁绍於かんわたり交戰こうせんなんじみなみぐんはばあまりぐんりゅうとう响應袁绍叛曹,袁绍便びんりゅう備率ぐんあずかりゅう會合かいごう曹操そうそう曹仁おさむなんじみなみりゅう備惟ゆうさいつぎかえぐん袁绍。

當時とうじりゅう備看りょう袁紹性格せいかくじょうてき缺陷けっかんみとめためかえ曹軍かいかち便びんおもえかたしつらえほうはなれひらき袁绍,於是せつふく袁绍おうみなみれんりゅうひょう,袁绍同意どういまたりゅう備到なんじみなみあずか龔都會合かいごう曹操そうそう另派蔡揚りつぐんおさむりゅう備,ただしはんためりゅう備所やぶ,蔡揚またりゅう備所ころせ。其後ひさ曹操そうそうおわりかんわたりたたかえ大敗たいはい袁绍。

けんやすろくねん(201ねん),曹操そうそうまた出兵しゅっぺいみなみげきりゅう備,りゅう放棄ほうきなんじみなみいれ荊州とうもたれりゅうひょう[17]:112

りゅう備派おうしか竺、まごいぬいさきあずかりゅうひょうかいめんりゅう備到たち荊州,受到りゅうおもて熱情ねつじょうてき接待せったい[17]:112りゅうおもてせっおさめりゅう備後びんご便びんため增加ぞうか兵馬へいばいのちりゅう備屯へい新野しんの守衛しゅえい荊州北大門きただいもん[17]:112

けんやすななねん(202ねん),袁紹去曹操そうそうせっちょりつぐんあずか袁尚、袁譚大戰たいせん於黎。此時もとあきら空虛くうきょりゅう備奉りゅうおもて命令めいれいきた曹操そうそう。曹將なつほうあつし于禁のりとうひとりつぐん南下なんかりゅう備奉いのち北上ほくじょうむかえてき[17]:112ざい新野しんのきたひろしもちりゅう備設こう伏兵ふくへい以後いご便びんしょう毁營たむろ假裝かそう懼敵退すさ[17]:112なつほうあつしゆずるのり留守るす自己じこ于禁追擊ついげきついいたはくもちりゅう備伏へいはたなつほうあつしころせ大敗たいはい,曹軍損失そんしつむごおもこうきた退すさはし[17]:113りゅう備在荊州聲望せいぼうだか,引起りゅうおもて疑心ぎしんりゅう備,處處しょしょ戒備[17]:113

けんやすじゅうねん(207ねん),曹操そうそう基本きほん統一とういつ黃河こうが流域りゅういきこれ開始かいし北上ほくじょう征伐せいばつ北方ほっぽう烏丸からすま,刘备りょくすすむ刘表じょう袭取许都,刘表ぼつゆう纳劉備建議けんぎ[17]:113曹操そうそうきたただし烏丸からすま分別ふんべつ追擊ついげき袁尚袁熙ひとし袁氏餘部あまるべ

りゅう備在荊州いくねん知道ともみち水鏡みずかがみ先生せんせい就是司馬しば便びんまえ請教世事せじ[17]:114司馬しば徽知どうりゅう來意らいい便びんたいせつ:「一個儒生見識淺俗之士,あにかい認識にんしき時勢じせい事務じむ認識にんしき時勢じせい事務じむしゃ英俊えいしゅん豪傑ごうけつ。其中ゆう臥龍がりょう诸葛あきら)、鳳雛ほうすう龐統)。」[17]:114诸葛あきらまたじょ推薦すいせんりゅう希望きぼうじょ庶引诸葛あきら來見くるみただしじょ庶卻建議けんぎ:「此人就見,不可ふかこごめ致也。將軍しょうぐんよろし枉駕おうが顧之。(此人ただのうまえ拜謁はいえつ不可ふかこごめまえらい將軍しょうぐんむべ枉屈みこと以顧もち。)」[17]:115

明朝みょうちょう孔明こうめい出山でやま》,孔明こうめいきょひだりりゅう備居みぎちんひさしたたえ們是“かい带写诚,厚相こうしょう结纳”

南下なんか

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颐和园长廊あや绘中描述刘备携民渡江とのえてきじょうさかい

207ねん[18]りゅう三顧さんこちがやいおりもんけいしょかずらあきら:「かんしつかたぶけ頹,奸臣かんしん竊命,主上しゅじょう蒙塵もうじんとくりょうりょくよくしん大義たいぎ於天,而智じゅつあさみじかとげよう猖獗しょうけついたり於今しかこころざしなおやめきみいいけいしょう安出やすいで?(かんしつおとろえはい奸臣かんしんてのひらけん使つかい天子てんしかんけんじみかどこうむ受苦じゅくなんわがりょう德行とっこう與能よのうりょくよく伸張しんちょう大義たいぎ於天しか而智じゅつ淺薄せんばくいたり今日きょういちしょなりしかのり志向しこう仍未げん先生せんせい以出はかりごと畫策かくさく嗎?)」[17]:116しょかずらあきらとげこう陳述ちんじゅつさんふん天下でんかけい分析ぶんせき此時曹操そうそうはさみ天子てんし而令諸侯しょこう,此誠不可ふかあずかそうほこさきまごけんよりどころゆう江東こうとう以爲援而不可ふかまた詳述しょうじゅつ荊州もちい武之たけゆきこく戰略せんりゃく要地ようち,而其ぬしりゅうひょう不能ふのうもり,此恐怕是上天じょうてんたまものりゅう備;えきしゅうこれかん高祖こうそ成就じょうじゅみかどぎょう,其主りゅうあきらやみじゃくさら建議けんぎりゅう備等まち時局じきょくゆうへんゆかり荊州、えきしゅう進攻しんこう中原なかはら[17]:116-117。這篇論說ろんせつ後世こうせいしょうためたかしちゅうたい》,此後すうじゅうねんりゅう備和しょくかん基本きほん國策こくさく[17]:117しょかずらあきらつよししたがえたかしちゅう出來でき,受到りゅう備重ただよし於劉備與自己じこじょう好日こうじつみつ,就引どくせきはねちょうひとしえつ」,最後さいごかえりゅう出來できせつ:「ゆう孔明こうめいなおさかな有水ありみず也。ねがい諸君しょくん勿復ごと。(わがゆう孔明こうめいなお如魚いたみずただしねがい諸君しょくん别再说了。)」;せきちょうざいさくやめ[17]:189[19]なに宇度《えきだんしょうりゅう備在荊州擴軍,しょかずらあきら籌措軍需ぐんじゅ[20]:239

208ねん曹操そうそう南下なんかりゅう備屯於樊城はちがつりゅうひょうびょうそつ次子じしりゅうつぎにん荊州まき使つかい曹操そうそう舉州投降とうこうおこりはつりゅう不知ふちりゅう決定けってい投降とうこう得知とくち曹軍なおざいあてけんなお到達とうたつ新野しんのりゅう備連せわし棄城みなみ撤。[17]:138[21]ざいみなみわたりかんすいいたりじょうときしょかずらあきら曾勸りゅう備攻りゅう琮奪じょうただしりゅう備不にんしん進攻しんこうりゅうひょう之子ゆきこぼつゆうおさむじょうただざい城下じょうかちゅううまだかよびりゅう出來できしょう只來ただらいいたりゅうおもて墓前ぼぜんさい奠,涕泣ていきゅう拜辭はいじ而去[17]:139[22]りゅういちぎょう南下なんか,荊州官吏かんり百姓ひゃくしょう加入かにゅうはしいたとうとき人數にんずうたち10あまりまん輜重しちょうすうせん輛,一日只能走10いく[17]:139おもんみゆう另派せき乘數じょうすうひゃくそうせんちょくいたこうりょう有人ゆうじんこうりゅう進言しんげん:「むべはやぎょうりょうこん雖擁だい眾,披甲しゃしょうわか曹公へいいたりなに以拒?(適宜てきぎそくぎょう而保りょう現今げんこん雖然ようゆう很多隨行ずいこうしゃただしへい很少,わか曹操そうそうぐんついいたり如何いか抵抗ていこう?)」[17]:140りゅう備答どう:「做大事だいじ必以じん為本ためもと現今げんこんじん眾歸於我,わがまた如何いかにんしんはなれ棄而去!」[23]:877

當時とうじこうりょう貯有りゅうひょうてき大量たいりょうかてもうか器械きかいとうぐん曹操そうそうふか怕劉備先佔領りょう,就拋棄輜重しちょう,以輕ぐん急行きゅうこういたじょう曹操そうそう聽聞ちょうもんりゅう備軍やめはなれひらきじょうあずか曹純とうりょうせんせい急追きゅうついいちにち一夜いちややましぎょうさんひゃくあまりさと。曹軍五千輕騎奔至とう長坂ながさかついうえりゅういちぎょうりゅう備棄妻子さいしあずかしょかずらあきらちょうちょうくもとうすうじゅうはし,10あまりまん眾土くずし瓦解がかい,曹軍だい舉擒りゅう備人眾輜重しちょうちょうりつ20こばめあずか曹兵あたり退すさ[17]:141[24]まごけんこれぜん派出はしゅつ魯肅さがせ消息しょうそくざいとう長坂ながさかむかえりゅう[17]:143長坂ながさかかいめん,魯肅ずいりゅう備向東南とうなんはす趨漢ざい此適逢與せき水軍すいぐん會合かいごうわたり沔水後向うしろむき江夏えなつ進發しんぱつ[17]:144江夏えなつ太守たいしゅりゅう聞劉備軍到來とうらいりつぐんまえ迎接げいせつはたりゅう備迎いたなつこう[17]:144。此後,魯肅かえしかい江東こうとうくつがえいのちりゅう備進いたり樊口[17]:144同時どうじしょかずらあきらずい魯肅使まごけんあずかまごけん結盟けつめい[25][26]

まごけん正式せいしき任命にんめいしゅうためひだりとくほどひろしためみぎとく,魯肅ためさんぐんこうじょうりつさんまん水軍すいぐんあずかしょかずら亮一りょういちおこり溯江そこう西上にしがみあずか樊口りゅう備軍會合かいごう[17]:157けんやすじゅうさんねんふゆ曹操そうそうおやりつ20あまり萬大軍從江陵順江東下,討伐とうばつ孙权[17]:158ぶた便びんむかいあまね建議けんぎせつ:「こん寇眾わが寡,なんあずか持久じきゅうしかみさお軍船ぐんせんかん首尾しゅびしょうせっやき而走也。」[17]:159十二月じゅうにがつ[27]まごりゅうれんぐんざいあかかべいたりがらすりん一線以火攻大破曹軍さらついいたりみなみぐん曹操そうそう敗北はいぼく曹操そうそう一到江陵,便びん部署ぶしょせいみなみ將軍しょうぐん曹仁橫野よこの將軍しょうぐんじょあきら守江もりえりょう折衝せっしょう將軍しょうぐんらくすすむまもりじょう曹操そうそう撤回てっかい北方ほっぽう[17]:161

佔荊だつしょく

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りゅう

あかかべたたかえりゅう撤出こうりょうせん鬥,全力ぜんりょく占據せんきょ荊州江南えなよんぐんさき上表じょうひょうかんみかど奏請そうせいりゅう琦為荊州刺史ししりょうまん大軍たいぐん南下なんかたけりょう太守たいしゅきむけんじじょうちょうすな太守たいしゅかんげんむかえかつらよう太守たいしゅちょうはん讓位じょういれいりょう太守たいしゅりゅうたび稽顙[17]:169いおりこうひとかみなりいとぐち也率きょくすうまんにんとうこうけんやすじゅうさんねん(208ねんじゅうがつ,荊州江南えな四郡盡為劉備所占領[17]:170りゅう琦死,ぐん推劉備為荊州まきりゅう備即しょかずらあきらため軍師ぐんしちゅうろうしょうとくれいれいりょうかつらようちょうすなさんぐんおさむ其租,以供ぐんまたせきはねためじょう太守たいしゅ实领)、とろけ寇將ぐんちゅう江北こうほくちょうためむべ太守たいしゅせいとりこ將軍しょうぐんざいみなみぐんちょうくもためへん將軍しょうぐんりょうかつらよう太守たいしゅ[17]:179廖立ためちょうすな太守たいしゅ郝普ためれいりょう太守たいしゅむかいあきらとく秭歸、えびすどうみこけんえびすりょうよんけんぐん民事みんじ[17]:188りゅう備治於公安こうあん。而孫けんためあずかりゅう建立こんりゅうさら鞏固きょうこてき關係かんけいざいしゅう瑜死後便こうびん魯肅これさくはたみなみぐんてきりょう及临ぐんきゅうりゅう備,さい分部わけべ份長すなぐんきゅう,以及確認かくにんりゅう備佔有武ありたけりょうかつらようりょうぐんとげ提出ていしゅつはた其妹よめりゅう備,しょうまご夫人ふじんりゅう備到京口きょうぐちまごけん關係かんけい表現ひょうげん親密しんみつひろしときりゅう備擁ゆう荊州大部たいぶ份屬またおさむ荊襄名士めいし龐統うまりょうせいにちみさおねり人馬じんば,伺機みなみせいきた

以後いごまごけん曾派使希望きぼうあずかりゅう備一おこりえきしゅうりゅう備本そうこたえおういんひがしくれ不可能ふかのうこし荆州而有しょくしょく就可よりどころためおのれゆうただし荊州おも簿いんかん反對はんたい:「わかため先驅せんくしんのうかつしょく退すさためくれしょじょう即事そくじ矣。いまただししかさん其伐しょく,而自せつしんよりどころもろぐんきょうどう必不敢越わが而獨しょく。如此進退しんたいけい以收くれしょく。(わかわが們為ひらく前進ぜんしん未必みひつのうおさむかつしょく後退こうたい可能かのうためくれじょうきょ而入,そく大勢おおぜい而去。現今げんこんただし贊同さんどうしょく,而自己じこ推卻せつつよし佔據荊南しょぐんのうきょうへい妄動もうどう必定ひつじょう敢越わがさかい單獨たんどくしょくあきら進退しんたいどくむべこれけいはかりごと便びん以收くれしょくりょう。)」りゅう備依したがえ其計,まごけん果然かぜんおわり輟計劃。いんかんとげます遷為べつ從事じゅうじ

けんやすじゅうろくねん(211ねんさんがつ曹操そうそうれい鍾繇りつぐん西にしせいかんちゅうちょう魯,ゆずるなつこうふち河東かとうあずか鍾繇しょうかい[17]:233えきしゅうまぎりゅうあきらはるか聞曹みさおはたのこ鍾繇とうむかいかんちゅうちょう,內心ふところゆう恐懼きょうくべつ從事じゅうじしょくぐんちょうまつせつふくりゅうあきらしょう:「曹操そうそうへいきょう無敵むてき於天わかいんちょう魯之資源しげんよう以攻えきしゅう土地とちだれのう抵禦?」りゅうあきらせつ:「わがかたしか擔憂,而未ゆうけい。」ちょうまつせつ:「りゅう備,使つかいくん宗室そうしつ,而且曹操そうそうふかかたきぜん於用へいわか使つかい討伐とうばつちょう魯,ちょう魯必おさむやぶちょう魯攻やぶのりえきしゅう強大きょうだい曹操そうそう雖來,也無能むのうためりょく。」ざいちょうまつ言下ごんかえきしゅうまきりゅうあきら採納さいのう請劉備入しょく意見いけんなみぐんこうじょう法正のりまさため使はじめたちためふくかくりょうへい2,000にんぜん往荊しゅう邀請りゅう備入しょくすけおさむちょう[17]:234りゅう備親統帥とうすい進軍しんぐんえきしゅう,龐統にん軍師ぐんしちゅうろうはた將領しょうりょうただしのべたくとう輔助りゅう[17]:238りゅう備與龐統一同いちどう進入しんにゅうえきしゅう[28]しょかずらあきらせきはねちょうちょうくもりゅうふうはじめたちうまりょうとうとめざい荊州[17]:238しか而劉備要知道ともみちしょくちゅうてき闊狹,兵器へいき人馬じんば多少たしょう及多要害ようがいてき遠近えんきん便びんこうにん請教,ちょうまつ法正のりまさいちいち詳述しょうじゅつさら地圖ちず指示しじ山川やまかわ所在しょざい所以ゆえんりゅう備知どうえきしゅう內情。

到達とうたつ涪城りゅうあきらおや出迎でむかえそう甚歡。ちょうまつ法正のりまさ及龐みつる提議ていぎりゅう備可じょうかさねころせりゅうあきら當時とうじ龐統主張しゅちょう趁此機會きかいとりこじゅうりゅうあきらりゅう備以はつらいいたしょくにんこころなお信服しんぷくよろしけい妄動もうどうためゆかり採納さいのう龐統建言けんげんりゅうあきら推薦すいせんりゅう備行だい司馬しばりょうつかさ隸校じょうりゅう備又推薦すいせんりゅうあきらぎょう鎮西ちんぜい大將軍だいしょうぐんりょうえきしゅうまきりゅうあきら配給はいきゅうりゅう備士へい,及督白水しろうずぐんれい攻擊こうげきちょう魯。りゅう當時とうじ總計そうけいゆうさんまんじんくるまかぶと器械きかい貨甚ただしりゅう備卻到かやもえとき出兵しゅっぺい,而是樹立じゅりつおんとくおさむかい民心みんしん

けんやすじゅうななねん(212ねんふゆじゅうがつ曹操そうそう出兵しゅっぺいおさむまごけん[29]まごけんこうりゅう備告きゅうりゅう備對りゅうあきらせつほっかえすくい荊州ゆうきゅう[17]:249りゅう請求せいきゅうりゅうあきらばち出兵しゅっぺいまんにんあずか軍事ぐんじ物資ぶっしただしりゅうあきらただまことだくきゅうよんせん兵馬へいば,其餘物資ぶっし提供ていきょう一半いっぱん[30]りゅう備受此激怒げきど,忿忿せつどう:「われためえきしゅうせい強敵きょうてきつとむ瘁,遑寧きょこんせき帑藏ざい而吝於賞こうもち大夫たいふため力戰りきせん,其可とく乎!(わがためりょうえきしゅう征討せいとう強敵きょうてき軍隊ぐんたいつとむ瘁,ひま休息きゅうそく現今げんこんりゅうあきらせきそんおこりざいとみ而不よう於賞こう,卻希望きぼう大夫たいふのうため出力しゅつりょくたたかえ,這又怎可能かのう!)」當時とうじちょうまつ不知ふちりゅう用意よういうつししん質問しつもん:「こん大事だいじたれ成立せいりつ如何いかしゃく此去乎(就要大事だいじそこじょうためなん拋下一切いっさいはなれ)?」結果けっか其兄ちょうよりどころ此告みつちょうまつ遭到しょしるべ致劉備與りゅうあきら關係かんけい惡化あっか十二月じゅうにがつりゅう備與りゅうあきら決裂けつれつりゅう備依龐統提出ていしゅつてきけいはかりごと,召白すい守将しゅしょう杨怀こう到來とうらいなみはた斬殺ざんさつ,而在《太平たいへい御覽ごらん》引《れいりょう先賢せんけんでんちゅうそくたたえりゅう備在宴會えんかいちゅう設計せっけいかた楊懷交出匕首ひしゅはた楊懷しょ[31]。另外またちゅうたくりつぐんおさむりゅうあきら,一路佔領至涪城。りゅうあきられんせわし派出はしゅつりゅうひやつとちょうつとむ鄧賢ちゅうろうしょう吴懿ひとしあずか對抗たいこうりゅう備,みなやぶ败,退すさ绵竹,吴懿いたり刘备军前投降とうこうはい为讨ぎゃくしょう军。刘璋きさき护军いわおまいり费观とく绵竹军抗拒こうきょ刘备,两人じんまえたおせほこまたりつ投降とうこうどうはい裨將ぐんりゅう軍勢ぐんぜいきょうふんぐん平定へいていかくぐんけんただしりゅう備軍卻被雒城守將しゅしょうりゅう循阻擋攻ぜいしたがえけんやすじゅうはちねんけんやすじゅうきゅうねんりゅう備圍おさむ雒城はたきんいちねん龐統流矢ながれやしゃちゅうじゅうそうほろび[17]:251ちょうちょうくもりゅうふうとうしたがえしょかずらあきらりつぐんいれしょくせきはねとめ鎮守ちんじゅ荊州,うまりょうおうしかかおるひとし廖化きょうじょかん鎮守ちんじゅ荆州[17]:259けんやすじゅうきゅうねん(214ねんなつしょかずらあきらにゅうしょく援軍えんぐん溯江そこう而上[17]:260しょかずらあきらぶんへい進攻しんこう成都せいとちょうしたがえ墊江北上ほくじょうちょくともえ西郡にしごおりおさむ閬中したがえ北面ほくめんおさむ成都せいとちょうくもしたがえ長江ながえ西にしおさむ江陽こうよう北上ほくじょう犍為こおりおさむたけようしたがえ南面なんめんおさむ成都せいとしょかずらあきらおや沿涪江德陽とくようちょく成都せいと[17]:261

214ねんなつたかし,雒城おわりおさむやぶ受劉備派遣はけんいたかんちゅうあずかうまちょう交好,うまちょうせいそうはなれひらきちょうりゅう暗暗あんあん派出はしゅつ人馬じんばあずかうまちょうへい會合かいごううまちょうりつりょう大隊だいたい人馬じんばひらけいた成都せいと城北しろきたたむろちゅう[17]:264-265せきはね聽說ちょうくだ備,便びんうつししんきゅうしょかずらあきらといちょう才能さいのうあずかだれしょうしょかずらあきらかいしんじせつ:「うまちょう文武ぶんぶ兼備けんび氣概きがいゆうれつ於常じんしょうどくじょういちせい豪傑ごうけつ黥布、彭越一流いちりゅう人物じんぶつ以與ちょうしょうつつみなみろんただし趕不じょう美髯びぜんこう你超いっぜっぐん。」[17]:305りゅう備乘ぜいりつかんぐんしんかこえ成都せいとすうじゅうにちりゅう備派簡雍進入しんにゅう成都せいとすすむせつりゅうあきら投降とうこうりゅうあきらあずか簡雍「どう輿こし而載,出城でしろ歸命きみょう」;りゅうあきらこうりゅう備繳械投降とうこうえきしゅうえきぬし歸屬きぞくりゅう[17]:265よし於蜀ちゅう繁盛はんじょう安樂あんらくりゅう備便しつらええんだい慰勞いろう士卒しそつまたしょく城中じょうちゅうてき金銀きんぎんふんたまもの將士しょうしかえ其谷帛。りゅう備皆しょあらわにんつき其器のう有志ゆうしきおいすすむえきしゅうみん大和やまとゆう議論ぎろんすすむりゅう備將なる城中じょうちゅうぼうしゃ及城外的がいてき田地でんち桑園そうえんぶんたまものきゅうしょしょうただしちょうくも反駁はんばくせつ:「從前じゅうぜんかんちょう大將たいしょう霍去びょう曾說匈奴きょうどほろび無用むようため』,なにきょう現在げんざい國賊こくぞくただぞう匈奴きょうどただゆういちかえいた安定あんていらいてき時候じこう必須ひっすとういた天下てんかてきらんぞく都平みやこたい定之さだゆきざいゆずる眾人かえしかい家鄉かきょうたねうえくわあずさ回歸かいき耕作こうさく田地でんち,這樣ざい是正ぜせいどうえきしゅうてき人民じんみんだいいち遭遇そうぐういた戰爭せんそうおう該將たくぼうさん歸還きかんきゅう百姓ひゃくしょうさきゆずる安居あんきょらくぎょうしかこう才能さいのうさけべ們服傜役繳稅,也才能さいのういたえきしゅうてき民心みんしん。」りゅう備便聽從ちょうじゅうちょうくもてき建議けんぎ有志ゆうし便びん紛紛ふんぷんらいなげもたれりゅう備。

ていしゅうとらていかんはかちゅう展示てんじひがしかん騎兵きへい車馬しゃばてき壁畫へきが

かん中之なかのそう

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ざいけんやすじゅうねん(215ねんさんがつ曹操そうそう征伐せいばつかんちゅう[32]なながつやぶみなみてい十一月じゅういちがつ最終さいしゅう降服こうふくちょう[33],搶在りゅう備之ぜん佔有かんちゅう[17]:281

まごけん以劉備已とくえきしゅうようおびえぶん荊州,りゅう備答どう:「須得りょうしゅうとう荊州あいあずか。」[17]:284まごけん忿恨,乃派遣はけんりょこうむほどこせかさね爭奪そうだつちょうすなれいりょうかつらようさんぐんりゅう聽聞ちょうもん消息しょうそく放下ほうか曹操そうそうおやりつまん大軍たいぐんいた公安こうあんどう時下じかれいせき進軍しんぐんえきあずかまごけんぐん對峙たいじ

これ曹操そうそうやぶちょう魯,嚴重げんじゅうおびえいたしょく門戶もんこりゅう備派使者ししゃあずかまごけんまごけんしょかずら瑾答くつがえりゅう備,雙方そうほう最終さいしゅう決定けってい和好かずよしためつきかい解決かいけつ荊州問題もんだいかいへい保衛やすええきしゅうりゅう備以湘水ためかいはた江夏えなつちょうすなかつら陽三ようぞうぐん劃給孫吳そんご[17]:284。而みなみぐんれいりょうたけりょう以西いせいそくぞくりゅう所有しょゆう,孙权はたやめ佔领てきれいりょう还给刘备,りゅう備回ぐんしゅう[34]

はちがつまごけんざいひがしせん進攻しんこうあいこえ,曹將ちょうりょう典據てんきょじょう抵抗ていこう擊退げきたいまごけん[17]:288十一月じゅういちがつちょう魯逃遁至ともえ西にしへん將軍しょうぐんけんたいりゅう備說:「わかしつかんちゅうのり三巴みつどもえ不振ふしん,此為わりしょくまたひじ也。」[17]:286いん此劉備遣けんりつへいむかえこうちょう魯,ただしちょう魯已くだ曹操そうそう曹操そうそうなつほうふかしちょうたむろへいかんちゅう數次すうじ武力ぶりょく侵犯しんぱんともえぐんあたりかいりゅう備令ちょうしんへい宕渠,あずかちょう郃等於瓦こうそうせん大破たいはちょう郃等眾。ちょう郃收へいかえ退ずさみなみてい翌年よくねんがつ曹操そうそうとめなつほうふかしちょう鎮守ちんじゅかんちゅう自己じこかい鄴城[17]:289

けんやすじゅうさんねん(218ねん),りゅう備採法正のりまさすすむ諫,りつぐん進攻しんこうかんちゅうしょかずらあきら鎮守ちんじゅ成都せいとりゅう備親りつ大軍たいぐんせいかんちゅう法正のりまさ隨從ずいじゅう參謀さんぼう軍機ぐんきちょうくもちゅうのべちょううまちょうらんとうしたがえせい曹操そうそうりゅう爭奪そうだつかん中之なかのせん開始かいし[17]:290ただしかんぐん先頭せんとう部隊ぶたい卻被曹軍はいりゅう備一路直攻漢中,しんへいいたり陽平ようへいせきあずかなつほうふかしちょう郃等曹軍對峙たいじため保證ほしょう道路どうろとおるどおりりゅう備派大將たいしょうひねしきりつ十餘營兵士駐紮在馬嗚閣道,曹將なつこうふち大將たいしょうじょあきら襲擊しゅうげきひねへいひねしきぐんはいへい紛紛ふんぷんとべ入山にゅうざんだにきずほろびむごおも[17]:291曹操そうそうれいたまものじょあきらぶしつえなみせつ:「此閣どうかん中之なかの險要けんようのど也。りゅう備欲斷絕だんぜつがい內,以取かんちゅう將軍しょうぐんいち舉,かつだつぞくけい善之よしゆきぜんしゃ也。」[17]:291

りゅう備「きゅうしょはつえき州兵しゅうへい」,しょかずらあきらあずか從事じゅうじ楊洪商議しょうぎ對策たいさく,楊洪せつ:「かんちゅうそくえきしゅう咽喉いんこう存亡そんぼう機會きかいわかかんちゅうそくしょく矣,此家もんわざわい也。方今ほうこんこと男子だんしとうたたかえ女子じょしとううんはつへいなにうたぐ」;しょかずらあきら非常ひじょうじゅう楊洪見識けんしきとう即發そくはつへい支援しえんかんちゅう前線ぜんせん[17]:291

したがえけんやすじゅうねん(217ねんりゅう出兵しゅっぺいおこり雙方そうほうざいかんちゅう僵持いちねんけんやすじゅうよんねん(219ねんはるりゅう聽從ちょうじゅうほうただしけいさくしたがえ陽平ようへいみなみわたる沔水,ていぐんやま恃險やす[17]:291なつこうふちたい少數しょうすう兵力へいりょく爭奪そうだつじょうぐんやま營地,法正のりまさたいりゅう備說:「げき矣」;りゅう備便いのちちゅうじょうだか噪攻きょだか臨下,衝入敵陣てきじんころせなつほうふかし[17]:292。一舉斬殺了夏侯淵及曹操所置的益州刺史ちょうひとし

けんやすじゅうよんねんさんがつ(219ねん),曹操そうそう長安ながやすりつへいけい褒斜たに趕往かんちゅうりゅう備說:「曹公雖來,無能むのうため也,わが有漢うかんがわ矣。」[17]:294

りゅう備在けんしょ死守ししゅあずか曹軍交戰こうせんしょかずらあきらおやすわえきしゅうはた人力じんりきものりょく及時補充ほじゅういたりゅう備軍ちゅう[17]:296なつがつ曹操そうそう引兵撤出かんちゅうかんちゅうかえりりゅう所有しょゆう[17]:297

另一方面ほうめんりゅう備又りゅうふうはじめたちいわおとう進攻しんこううえいさおひとし東三ひがしさんぐんぼうりょう太守たいしゅ蒯祺ころせうえいさお及西じょう守將しゅしょうさるふけさる兄弟きょうだいとう曹操そうそうりつぐんかえしかい中原なかはら抵抗ていこうもち便びん開城かいじょう投降とうこう

あきなながつうまちょう龐羲しょかずらあきらせきはねちょうちゅう法正のりまさいわおとう120にんれんめい上表じょうひょうりゅう備為かんちゅうおう[17]:300りゅう備於沔陽設置せっち祭壇さいだんじょうひねへいれつ眾、群臣ぐんしん陪位、せん讀奏訖,自立じりつかんちゅうおうかえ治成はるしげ

臨去まえりゅう備又ひさげのべためとくかんちゅう太守たいしゅすわ鎮漢ちゅう以防曹魏。かいいた成都せいとてきりゅう備建おこりかんしゃ修築しゅうちくていさわしたがえ成都せいといたる白水しろみずせきよんひゃくせきはねりつぐんしたがえこうりょう北上ほくじょう發動はつどうじょう樊戰やく[17]:308

曹操そうそう得知とくち樊城つげきゅう派遣はけん于禁增援ぞうえん于禁ななぐんそく增援ぞうえん曹仁せきはねあずか于禁交鋒,いたりはちがつ大雨おおあめ滂沱ぼうだやまひろし暴發ぼうはつかんすい驟漲,みず淹七ぐん,于禁たばしゅ就擒,部下ぶかいく乎全投降とうこう副將ふくしょう龐德かつ捉不くだ最後さいごかんしょころせ[17]:310

此時,まごけん趁關出兵しゅっぺい、荊州守備しゅび空虛くうきょさいりょこうむくだり白衣はくい渡江とのえ,沿途攔截りょうせき設立せつりつてき烽火ほうかだいじゅうがつりょこうむにんせい荊州だいとくりつへい西上にしかみ公安こうあんひとしこうりょうおうしかかおる開城かいじょう投降とうこう[17]:322-323せきはねかいぐんりょう途中とちゅうりくへりくだにんみぎまもるぐん鎮西ちんぜい將軍しょうぐんたむろちゅうえびすりょうりょこうむにんみなみぐん太守たいしゅちゅうりょう[17]:324せき至當しとう西保にしのほむぎじょう敗走はいそうむぎじょうへい繼續けいぞく逃散,せきはね身邊しんぺんただあまじゅう[17]:325-326

じゅう二月關羽被孫權大將はんあきらうまただしころせまごけんはた其首きゅうおくいたり洛陽らくよう曹操そうそうしょ[17]:326まごりゅう聯盟れんめい正式せいしき決裂けつれつ

颐和园长廊あや绘中描述りゅう備稱みかどてきじょうさかい

遺恨いこんえびすりょう

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さんこく形勢けいせい

けんやすじゅうねん(220ねん正月しょうがつ曹操そうそう逝世,りゅう備也曾派遣はけんかん奉書ほうしょちょう唁,「なみ致賻贈れい」,ただし最後さいご失敗しっぱい[17]:371りゅう備一方面為了探取曹魏方面的動向,以準備伐くれせんごと,一方面冀望曹魏即便不相助伐吳,也能袖手しゅうしゅつくりかんとげ以吊ためめいただし最後さいご卻被曹丕洞察どうさつ其意,はて而終。三月さんがつ改元かいげんのべやすしじゅうがつ曹丕だいかんしょうみかど[17]:337十二月じゅうにがつ當時とうじゆう謠言ようげんゆびかんけんじみかどりゅうきょうやめ加害かがいりゅう備便穿ほじ喪服もふくはつおくりなりゅうきょうためこう皇帝こうていただし實際じっさいじょうりゅうきょう在世ざいせい)。同年どうねん法正のりまさちゅう[17]:346-347

221ねん群臣ぐんしんすすむりゅう備登もとためみかどりゅう備不こたえおうしょかずらあきらよう耿純遊說ゆうぜいりゅうしげるのぼりはじめ故事こじすすむりゅう備(光武みつたけみかどりゅうしげるのぼりはじめどうためかんしつてき更始こうしみかどりゅうげん在世ざいせい,此後あかまゆぐんおさむやぶ長安ながやすころせりゅうげん),りゅう備才決定けってい接受せつじゅ群臣ぐんしん擁立ようりつ,四月初六在成都武擔山之南接受皇帝璽綬,改元かいげんあきらたけ[17]:340-341國號こくごう仍為「かん」,しょうしょくかんよんがつ丙午ひのえうま(5がつ15にち[35]),大赦たいしゃ天下でんか,以諸かずらあきらため丞相じょうしょうもとやすしためつかさ設置せっち百官ひゃっかん建立こんりゅう宗廟そうびょう祭祀さいしかん高祖こうそ以下いか

五月ごがつだて皇后こうごうりゅうぜんため皇太子こうたいし六月ろくがつ,以りゅうひさしため魯王りゅうさとしためはりおう

ぶんみかど曹丕召集しょうしゅう眾臣討論とうろんさむらいちゅうりゅうみとめためしょくかん一定要出兵攻打孫吳そんご理由りゆう:「しょく雖狹じゃく,而備はかりごとよく威武いぶつよしいきおい必用ひつよう眾以しめせ其有あまり。且關あずか備,ため君臣くんしんおんなお父子ふし不能ふのうためきょうぐんほうてき,於終始しゅうしこれぶん不足ふそく。」[17]:344

なながつりゅう備不さい纳趙くも[36]りゅうともみ雍茂ひとし人的じんてき劝告[37]發動はつどう戰爭せんそうりゅう備率ぐん沿江而下,討伐とうばつひがしくれ[17]:349

ちょう部下ぶか暗殺あんさつ[17]:347ただし這不あらためりゅう備伐くれてき念頭ねんとうまごけんさきじんきゅうしょくかん送信そうしんもとめまたれいしょかずらあきら哥哥しょかずら致箋すすむりゅう備息へいやめせんりゅう一概いちがい拒絕きょぜつ[17]:374

まごけんこくしたがえけんぎょう遷到たけあきら,以便指揮しき戰爭せんそう[17]:374おこりはつかんぐん氣勢きせい如虹,すすむりくへりくだ以逸まちろう兵法ひょうほう而戰最終さいしゅう於章ねん(222ねん大敗たいはいかんぐん

りくへりくだ大敗たいはいりゅう備,「ころせ其兵はちまん餘人よにん,備僅以身めん[17]:376しょくかん將領しょうりょう戰死せんしりゅう備退いたり秭歸,ちょうくもりつへい到達とうたつしろみかどじょうともえ西にし太守たいしゅ閻芝うまただしりつ5せん人馬じんばずい到達とうたつ[17]:384りゅう備退いた永安えいあんけん[17]:406とう时曹丕已经调しゅうだい军,じゅん备讨伐孙权,まごけん聽聞ちょうもんりゅう備沒往成撤退てったい,而是ちゅう紮在はなれ前線ぜんせん很近てきしろみかど,甚為懼怕。あきらねん十二月じゅうにがつまごけんふとしちゅう大夫たいふていいずみいたしろみかど城見しろみりゅう備,正式せいしき表示ひょうじこうしょくかん請和[17]:410りゅう備也遣ふとなか大夫たいふそう使つかいくれ表示ひょうじ贊同さんどうしょくかんひがしくれ兩國りょうこく和好かずよし[17]:410

しろみかどたく

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りゅう

とうりゅうふうしつ掉漢中東ちゅうとうめんさんぐん逃回にげまわ成都せいとりゅう聽從ちょうじゅうしょかずらあきら建議けんぎたまものりゅうふう[17]:413同年どうねんふとしでんもとやすし尚書しょうしょれいりゅうともみ驃騎將軍しょうぐんうまちょう先後せんごびょう[17]:416南中なんちゅうえつえびすこうじょう曾向新道しんどう進攻しんこういわお退すさ[17]:416

かんよしみぐん太守たいしゅもと聽說りゅう備在永安えいあんびょうじゅう,於章ねんじゅうがつ舉兵はん[17]:416

あきらさんねん(223ねんがつしょかずらあきらせっいたりゅう備詔しょおびちょりゅうひさしりゅうさとししたがえ成都せいとらいいた永安えいあん[17]:415三月さんがつもとすすむへいおさむしょう臨邛けん[3]:278えきしゅうちゅう從事じゅうじ楊洪たてそく元之もとゆき動向どうこう報告ほうこくきゅうりゅうぜんりゅうぜん將軍しょうぐんちんていすすむ討黃もと[17]:416ひね曶、てい綽兩じんざいみなみやすかいこうせいとりこもとはた其押かい成都せいと正法しょうぼう[17]:416

よんがつ下旬げじゅん[17]:417りゅう備對しょかずらあきらせつ:「你的才能さいのう曹丕てきじゅうばい必定ひつじょうのう安定あんてい國家こっかおわり成就じょうじゅ大事だいじ。如果嗣子ししりゅうぜん以輔すけ便びん輔助;如果ぼつゆう才幹さいかん,你可以自さく决断。」[38]:918しょかずらあきら涕泣ていきゅうせつ:「しん必定ひつじょう竭盡自己じこ所有しょゆう力量りきりょうほうこうちゅう貞之さだゆき氣節きせつ繼續けいぞくいたりためどめ!」[39]:918りゅう備又ようりゅうぜん其他あずか丞相じょうしょう從事じゅうじこと如父。」[40]:918[41]:918

りゅう臨終りんじゅうまえたく於丞しょうしょかずらあきら尚書しょうしょれいいわおためふく[42]:891臨終りんじゅうあずかりゅうひさしせつ:「わが死後しご,你們兄弟きょうだいようたい父親ちちおや般奉ごと丞相じょうしょうしょかずらあきら),你們與丞相じょうしょうただどもごと而已。」[43]:891なつよんがつ癸巳きし當為とういへいのうれきよんがつじゅうよんにちおおやけもと224ねん5がつ29にち[3]:266[44]りゅう備崩逝於永安えいあんみやねんろくじゅうさん[40]:891孙權りつしんじょう馮熙使しょくかんとむらい唁劉備[45]:14しょかずらあきらじょうげんたたえあげりゅう備。五月ごがつ遺體いたい永安えいあんうんかえし成都せいと发丧,おくりなためあきられつ皇帝こうてい[40]:891はちがついれそうめぐみりょう[40]:891

またゆう郭沫若かくまつじゃくとう学者がくしゃ认为よし条件じょうけんしょげん,刘备就地そう于今たてまつ节县,并未归葬成都せいと[46]

生平おいだいら大事だいじ总结

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りゅう備平せい大事だいじ
161ねん のべよんねん かそけしゅう涿郡涿縣出生しゅっしょう
184ねん 光和こうわななねん 加入かにゅう鎮壓ちんあつはばみだれてき戰爭せんそう
194ねん はつたいらねん りょうじょしゅうまぎ
198ねん けんやすさんねん りょぬのげきはい

あずか曹操そうそう聯合れんごう取得しゅとくしも邳之せんてき勝利しょうり

200ねん けんやすねん 曹操そうそうげきはい

逃往袁紹營中

とう奔劉ひょう

207ねん けんやすじゅうねん さん顾茅庐
208ねん けんやすじゅうさんねん あずかまごけん聯盟れんめい擊退げきたい曹操そうそう取得しゅとくあかかべたたかえてき勝利しょうり

佔領荊南かくぐん

215ねん けんやすじゅうねん げきはいりゅうあきら取得しゅとくえきしゅう
219ねん けんやすじゅうよんねん げきはい曹操そうそうおさむかんちゅう

すすむかんちゅうおう

221ねん あきらたけ元年がんねん のぼりはじめしょうみかど
222ねん あきらねん 發動はつどうえびすりょうたたかえ戰敗せんぱい
223ねん あきらさんねん しろみかどたく

庙号そう

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三国志さんごくし·さきしゅ传》ちゅう并没ゆう记载刘备庙号。慈铭怀疑刘备庙号れつゆかり刘渊ところついみこと[47]あきらがくすえ三国志さんごくし·さきしゅ传》ちゅう诸葛あきらせん读的遗诏,指出さしで刘备庙号ふとしむね[48]卢弼认为あきらがく诚的说法不足ふそくすえ,如果刘备庙号ふとそう,《三国志さんごくしほん传没ゆう记载てき道理どうり[49]かくよしへい则认为刘备庙ごうかけしつ不能ふのう归咎于史书记载疏漏,而是受到郑玄れいがく“一祖二宗与四亲庙”七庙学说影响所致[50]

为人处事

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刘备喜怒きどかたち于色,つね以谦きょ恭敬きょうけい待人まちびとふかとく人心じんしんしゃとく天下でんかてき道理どうり重視じゅうし寬仁かんじんあつとく待人まちびと與那よな些殘みん以逞、暴虐ぼうぎゃく嗜殺てき軍閥ぐんばつ判然はんぜんゆうべついん此而そういたりょう人心じんしん。刘备怎么欢读书,欢打りょうおと乐和華美かびてきころもぶつ

しょう时候,いえ中有ちゅうう棵大くわ树,はるか望見ぼうけん如同车盖,刘备與むね中小ちゅうしょう於樹玩耍せつ:「われ必當じょう此羽葆蓋しゃ。(わが必定ひつじょうかいじょうすわ此羽かざりはなぶたくるま。)」叔父おじりゅうけい聽到きんとうした斥責:「なんじ勿妄めつわれもん也。(你不ようえびすせつかい招來しょうらいめつもんわざわい)」[51]

りゅう備曾けい牽招ゆい刎頸」,これ牽招效力こうりょくりゅう備所對立たいりつてき曹操そうそう一族いちぞく,曹魏だいかんりゅう備在しょく以漢あさ名義めいぎしょうみかどいん此牽招也たい這些事情じじょうかんいた忌諱きき[52][53]

まごさくじゅう四歲時去壽陽拜訪袁術,ひさ突然とつぜんいたりゅう備也ようはいおとずれ袁術,まごさくじょう打算ださんはなれひらき。袁術たいまごさくといせつ:「りゅう備跟你有なん關係かんけい?」まごさく回答かいとう:「ぼつゆうただいんため英雄えいゆうじん。」而後まごさくしたがえひがし階下かいかりゅう備則つよしこうしたがえ西にし階上かいじょうらいりゅう備回あたまちょまごさくてき走路そうろ姿勢しせい便びんとまちゅうした再往さいおうまえはしりょう[54]

ざいせつ新語しんご 識鑒》うえせつ裴潛とう曹後いちにち曹操そうそうとい裴潛せつ:「你曾けいざい荊州跟劉備共ごと,你覺とくりゅう備這じん才能さいのう如何いか?」裴潛かいせつ:「ざい中國ちゅうごく統治とうちのうらんじん而無法治ほうち天下でんかただし如果ゆずるりゅう備在じょうあいだもりけん卻能作為さくい一方いっぽうこれぬし。」[55]

りゅう備在部下ぶか聲譽せいよ受損ある特殊とくしゅてき理由りゆう發生はっせい背叛はいはんてき可能かのう往往おうおう出來でき捍衛部下ぶか聲譽せいよ保護ほご部下ぶか眷,いん母親ははおやねんろう無人むじん供養くよう請求せいきゅうはなれひらきりゅう備,りゅう備難向田むかいだ告別こくべつせつ:「そう跟你共成きょうせい大事だいじ啊。」[56]じょ庶母つめじょ庶淚くずしべつりゅう[57]ちょうくも於當あずかりゅう備等じんはしとき有人ゆうじんこうりゅう備讒言說げんせつちょうくもくだ曹,りゅう備一聽拿起手戟丟向進讒言者說:「ちょうくも不可能ふかのうかい背叛はいはん。」[58]、糜芳背叛はいはんりゅう備對愧疚てき糜竺せつ兄弟きょうだいざいあい[59]えびすりょうはいけんとくやめりゅう備依しかぜんまち其家じんけんけんまけ也。」[60]、龐統ちゅうほろびぞくちょうそんざいりゅう備面ぜん詆毀龐統せつ:「龐統盡忠じんちゅう而死雖然惜,ただし畢竟ひっきょう違背いはいりょうだい雅之まさゆき。」,りゅう備聽かんふるえいかせつ:「龐統ころせ身成みなりじんはん而不たい嗎?」,したれいやめちょうそんかん[61]

りゅう備沒ゆう鬍鬚,曾被张裕わらいゆういちりゅう備與りゅうあきら於涪縣會けんかいめんちょうひろしためあきら從事じゅうじざいいちつくり陪坐,ゆかり於裕てき鬍鬚濃密のうみつりゅう嘲笑ちょうしょうせつどう:「過去かこわれざい涿縣ぐういたこうせいてきじん四方しほう許多きょた,涿縣縣令けんれいごえしょうせつ:『許多きょたにょう涿(歜)而居』。」,ただしひろしたてこくはんくちびるしょうそし:「過去かこぼうじんとううえとうぐん潞縣ちょう後來こうらいますにんため涿縣縣令けんれいとう辭任じにん有人ゆうじんうつししんきゅうよううつしりょう潞縣就丟りょう涿縣,而寫じょう涿縣またしつ潞縣,就寫どう『潞()涿(歜)くん』。」ゆかり此反そしりゅう[62]ゆずるりゅう備對ちょう裕一ひろいちちょくぼつ什麼いんも好感こうかんこうざいりゅうおさむかんちゅうこれまえちょうひろしせつかい出師すいし不利ふりただしりゅう備仍あきらちょ既定きてい計畫けいかく出兵しゅっぺい結果けっかりゅう備拿かんちゅうりょうめい大將たいしょうらんかみなりどうとう也在此戰中身なかみほろび,以致於劉備記恨ちょうひろしぼうてんちょうひろしわたし對人たいじんせつ:「かのえ年間ねんかん(220ねんかいあらためあさかわだいぬしおおやけいれぬししょくてききゅうねん,也會さいつぎしつしょくりゅう運氣うんきしょうかい消盡しょうじん。」謠言ようげんらんでん最終さいしゅうにゅうりゅう備之みみ[63]りゅう不滿ふまんちょうひろし散布さんぷ滅亡めつぼう謠言ようげん,以ちょうひろしてき預言よげんぼつゆうおうけんせき入獄にゅうごくちゅうしょかずらあきら請求せいきゅうりゅう備寬よしひろじょりゅう備只せつ:「就算芳香ほうこうてきらんはなちょう出來でき擋在門口かどぐちとく除去じょきょ。」於是ころせりょうちょうひろし棄市

りゅう備死ぜんつげ誡其りゅうぜんてきのこみことのり,其言懇切こんせつれいじん不動ふどうよう文中ぶんちゅうりゅう備勸りゅうぜんさい重要じゅうようてき一句いっくばなし便びん「勿以あくしょう而為,勿以ぜんしょう不為ふためおもんみけんおもんみとくのうふく於人。」古人こじん教子きょうこつね以德ため根基こんきいんためただゆうけん德之のりゆきじん才能さいのうふくじん[64]

刘备一生いっしょうせい战,史書ししょちゅう記載きさいりょう一些關於他行軍作戰的事蹟。ざい荊州りゅうひょう,曾建議けんぎりゅうおもてきた曹操そうそうりゅうひょう接受せつじゅりゅう備住荊州すうねん,一次與劉表飲酒時起至廁所,大腿だいたい贅肉ぜいにくせい慨然がいぜん流涕りゅうていかえすわりゅうおもてかいといおこりりゅう備,りゅう備說:「わがえびす半生はんせい常常つねづね不離ふりくら大腿だいたい贅肉ぜいにくみなけしこんてんふく騎馬きば大腿だいたい贅肉ぜいにくせい日月じつげつわかはせ老年ろうねんかいしょういたり矣,而功ぎょう不能ふのう建立こんりゅう以為悲嘆ひたん。」,こう衍生成語せいご髀肉ひにくふくせい」。

而劉備攻えきしゅうちょう曾言:“刘备ぼつよう啊?かい用兵ようへいまい战必败,四處逃亡都來不及了,よう怎麼はかりごと他人たにんてき領地りょうちしょく雖小,卻有天險てんけん固守こしゅ,很難一下子就拿下來的。”みとめためりゅう備不かい用兵ようへいぼつほんこと拿下えきしゅうでんみき卻說:「りゅう備為じん寬仁かんじんのう使人為じんい拼命效力こうりょくまたゆうしょかずらあきらせきはねちょうとう人傑じんけつ輔佐ほさ,哪裡ぼつようりょう?」結果けっかりゅう備果しんおさむ佔益しゅう

刘备与诸葛あきらてき君臣くんしん际遇,通常つうじょう史家しか视为君臣くんしんてん范。三顾茅庐后刘备称得到诸葛亮是“鱼之有水ありみず”。诸葛あきらざい刘备ひさしざい时,就已经为丞相じょうしょう录尚书事かり节,张飞くら杀后また领司隶校じょうしゅう政治せいじ实际权力于一身いっしん,这在古代こだい很罕见的。刘备去时举こくたく诸葛あきら陈寿しょう为“君臣くんしんいたりこう古今ここんもり轨”。

しょかずらあきらざいこたえ惜赦》一文中提及劉備生前跟諸葛亮商談時反對年年搞大赦。りゅう備說:「わが以前いぜんざいちんおさむていげんあいだ周旋しゅうせんとい們如なん亂世らんせいみちちんてい二人都絕口不提搞大赦。ぞうりゅうひょうかえゆうりゅうあきら父子ふし年年ねんねん大赦たいしゃたい亂世らんせいゆう什麼いんもさまてき幫助啊!」[65]

けんやすじゅうななねん(西元にしもと212ねん)荀彧自盡じじんてき傳聞でんぶんでんいたまごけんみみちゅうまごけんじんはた此事告訴こくそりゅう備。りゅう備得荀彧自殺じさついか嗆曹みさお:「ろうぞく不死ふしわざわいらんやめ。」[66]

轶事典故てんこ

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もとめといしゃ

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りゅう備投奔劉ひょうぼうにちりょぬのきゅうもとかずりゅう備及りゅうおもて聊天ろん英雄えいゆうざい宴會えんかいじょうひっさげいたちんのぼるもと汜很不滿ふまんゆびせめちんのぼる態度たいど囂張だか傲,ざいさくきゃくひねのぼり家時いえとき不和ふわ自己じこ說話せつわちんのぼるねむだいゆか而讓ため客人きゃくじんてきもと汜睡しょうゆかりゅう備不以為しか反擊はんげきもと汜:「你有國士こくし現在げんざい天下てんか大亂たいらん聖上せいじょう顛沛流離りゅうり希望きぼう你能ため國事こくじちょおもえなみ拋開家事かじしんそん救世きゅうせいてきねん。而你ただおもえ四處寄宿白吃白喝(もとめといしゃ),せつてきはなし不能ふのうしんじ,這就ちんのぼるさい討厭てき性格せいかくりょう,怎麼かい你說ばなしかわさく小弟しょうていわがはや就睡ざいひゃくしゃく高樓こうろうじょう,而讓你改ねむ地上ちじょうあにただ上下じょうげゆかてき區別くべつ?」いん此劉ひょう聽了だいわらいおこりらいれいもと汜相とうなんこらえ[67]

跃马だんけい

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あい传刘备屯军于樊城时,刘表惮刘备的为人,一直不敢信任他。一天いってん,刘备应刘ひょう邀请まえ赴宴。せき间,刘表部下ぶか蒯越蔡瑁よく加害かがい于他,刘备察觉,以上いじょう厕所为由偷偷ため掉,しかきさき骑上てき飞速奔逃。慌乱なかおちい进襄阳城西にしてきだんけい水中すいちゅう,无法挣脱出来でき。刘备きゅうまんふん,对的卢叫喊道:“てき卢,现在じゅうまん火急かきゅうてき时刻,你一定要加把劲呀!”てき卢听きさきいちさんたけ,从溪水中すいちゅうとべりょう出来でき,刘备とく以逃だっ[68]

さん顾茅庐

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刘备驻扎新野しんの时,于无じん辅佐,便びん访求名士めいし得知とくちみなみりゅうなかゆういちごう「卧龙」,唤作诸葛あきらてき隐士,便びん决定ぜん往拜谒诸かずらあきら,请求出山でやま辅佐自己じこりょう三次方才见到诸葛亮,诸葛あきらあずか刘备便びんざいちがや庐」ちゅう对谈,为刘备出谋划さく制定せいていりょう未来みらいてき总战りゃくかた针,そくたかしちゅうたい》。经过「さん顾茅庐」きさき,诸葛あきら同意どうい出山でやま辅佐刘备,さい成就じょうじゅりょう刘备てきみかど业。

评价

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しんだいさんこく演義えんぎちゅう表現ひょうげんりゅう形象けいしょうてき插畫そうが

时人评价

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颐和园长廊いろどり绘:三国演义故事,刘备访水镜(骑马しゃ为刘备)

後世こうせい評價ひょうか

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しんだいやすめん刘备ぞう
  • ちょう:“人見ひとみたかしたけ皇帝こうていしょゆう中土なかつち,莫不いいかちりゅうげん德也とくや以玄とくためしょうおっとばちらんおもさき能收よしかずしょうはた為本ためもと一身いっしん善戰ぜんせん不足ふそく恃也,世人せじん以玄とくためりょぬのしょかさねためたけみかどしょはし,舉軍東下ひがししも,而為りくへりくだところくつがえ。雖曰ためりょぬのしょかさねわかみかどためじょさかえしょはいしつそう危也;げんとくかえよりどころじょしゅう形勢けいせいごうざい荊州,けい叔父おじ不能ふのうよう其計,舉州くだ手下てした不滿ふまんすうせんためたけみかどだい眾所はしわかみかどためりょぬのきたしょ禽、突火きゅう也;ためりくへりくだところくつがえわかみかどためちょう繡所こま挺身ていしん逃遁,以喪也。しか其忌かつあんしのぶおやただしおおやけひとし、賈文かずひさし以佯めん,荀文わか、楊德ぞくがいぎょうへいさんじゅうねんおやせい功臣こうしんはかりごと,曾無れつふうじ仁愛じんあい親戚しんせき惠澤けいたく不流ふりゅう百姓ひゃくしょうあにわかげんとく而有おんいさむ而有よし寬弘かんこう而大りゃく乎?しょかずら孔明こうめい達治たつじへん,殆王ざいげんとくきょうもりいきおい,而令しつちょうせきはねみな人傑じんけつ也,ふく而使おっとあかりやみあいためよう能否のうひあいため使たけみかど雖處やすきょう不為ふためもちい也,きょうざい危急ききゅうあいだいきおいじゃく乎?わかれいげんとくよりどころゆう中州なかすはたあずかしゅうしつたかしあに三傑而已哉?” (《藝文げいぶん類聚るいじゅう まきじゅう にんろく》)
  • 习凿齿曰:“さきぬし虽颠沛险难而しん义愈あきら,势偪ごと危而げんしつどうついけいます顾,则情かんさん军;こい赴义,则甘あずかどう败。观其しょ以结物情ぶつじょうしゃ,岂徒とうもろみ抚寒含蓼问疾而已哉!其终济大业,またむべ乎!”(《三國志さんごくし·しょくしょ·さきおもでんだい》)
  • つね曰:「かんまつ大亂たいらん桀並おこりわかただしたくりょぬの袁、かんうまちょう楊、りゅうひょうけんしゅうれんぐん,眾逾まんけいしか吒之あいだみないいかんかかと,桓、ぶんえき邁。而魏武神ぶしんたけみきりゃく,戡屠蕩盡とうじん。於時さきおもめいほろひと鮮,而能りゅうきょうおおとり舉,はくくんじょかりつばさ荊楚,こぼし樑、えきかつたねかん祚,而吳、たかしあずかこれかなえ峙。英才えいさいいのち,孰克如之!しか必以曹氏がえかんむべ扶信じゅん,以明いたりこうかえ乎名ごうため義士ぎししょ。及其よせたく於諸かずらあきら,而心しんまこと君臣くんしんいたりこう古今ここんもり軌’也。」(《華陽かようこくこころざし·りゅうさきしゅこころざし》)
  • りゅうふかし:“こう委棄いき萬國ばんこくあきられつ播越岷蜀,冀否おわりゆうやすし,旋軫きゅうきょう。”(《すすむしょ·まきいちひゃくいち·だいいち》)
  • 裴松:「かんたけようきょ罔之ごとめつりょうこれりゅうしゅこばめ憲司けんじしょなだめけんこれしつしゅ得失とくしつけんかか)邈遠矣。《うんらくただ君子くんしもぐさ爾後じご』,其劉ぬしいい也。」(裴松ちゅう三國志さんごくし·しょくしょ·りょおうちょうつたえだいじゅうさん》)
  • りく:“りゅうこういんけんかざりさとしこうやめうす矣,其俗陋矣。”(まきよんじゅうはち くれしょさん さん嗣主でんだいさん 三國志さんごくしすすむちんひさし南朝なんちょうそう)裴松ちゅう
  • 张辅:“刘备而有おんいさむ而有义,宽宏而大りゃく”(《藝文げいぶん類聚るいじゅうまきじゅう》)
  • おそれみなみ:“りゅうこうまちりゅうあきら賓禮ひんれいゆだねしょかずら而不うたぐ人君じんくんとく,於斯ためかれ孔明こうめいしゃいのち奇才きさいりょ儔匹。しんぬし同心どうしんさかなすいためたとえただし以國小兵こひょうじゃくぜっ一隅いちぐうささえたいぽうこう衡上こくわか使つかいあずか曹公えき而處,騁其ちょうさん,肆關、ちょうたけつきしょかずらぶんのり霸王これぎょうなり矣!”(《帝王ていおうりゃくろん》)
  • おう:“以先ぬし寬仁かんじんとく眾,ちょうせきはねまんにんてきしょかずら孔明こうめいかんらく儔,ひだりひさげみぎ挈,以取天下でんか庶幾しょきゆうずみ矣。しか而喪しつりつはい旋踵。奔波けん、瓚之あいだ,羈旅袁、曹之しゅあにつたな於用たけはたぐう非常ひじょうてき乎?”
  • しゅたかし:“しょくさきしゅだきえい济之,无角逐かくちくざい。远窜荆蛮,かしこ曹公神武じんむ;奄有いさおしょくじょう刘璋せいおとろえくに小人こどもえびす,风颓ぞく陋。”(《ぜんからぶん》)
  • いさおひろし:“しょくぬしにん孔明こうめい,苻堅もちいけいりゃく,雖關不能ふのううつり,樊世不能ふのう惑,しょくあずかしんみなくん安國やすくに專任せんにんこう歟?”(《ぜんからぶん·まきななひゃくきゅう》)
  • もりはじめ:“しょくぬし窥吴こうさんかいくずしねんまたざい永安えいあん宫。みどり华想ぞうそら山里やまざとたま殿どのきょ无野寺中じちゅう庙杉まつすい鹤,岁时ふく腊走むらおぎなたけこう祠堂しどうつね邻近,一体いったい君臣くんしん祭祀さいしどう。”(《えい懷古かいこあとしゅよん》)
  • りゅう禹錫:“天地あまち英雄ひでお千秋ちあきしょう凜然。いきおいぶんさんそくかなえぎょう复五銖錢。とく相能あいのう開國かいこくなまぞうけん。淒涼しょくらいまいたかし宮前みやまえ。”(《しょくさきしゅ》)
  • おう:“以先ぬし宽仁とく众,张飞、关羽まんにん敌,诸葛孔明こうめいかん、乐之俦,ひだりひさげみぎ挈,以取天下でんか,庶几ゆう济矣。しか而丧师失りつ,败不旋踵。奔波谦、瓒之间,羁旅袁、曹之しゅ,岂拙于用たけはたぐう非常ひじょう敌乎?”(《さんこく
  • 司馬しばひかり:「あきられつこれかん,雖云中山なかやまやすしおうこれ,而族ぞく疏遠,不能ふのう其世すうめいまたなおそう高祖こうそしょうすわえもとおうみなみかられつしょうおうつとむ是非ぜひなんべん敢以光武みつたけ及晉もとみかどため使つかいとく紹漢のこみつる也。」(《どおりかん·だいろくじゅうきゅうかん·紀一きいち》)
  • 苏洵:“项籍ゆう天下てんかざい,而无取天下でんか虑;曹操そうそうゆう天下てんか虑,而无取天下でんかりょうげんとくゆう天下てんかりょう,而无取天下でんかざい。”(《こうせき》)
  • 苏辙:“げんしゃ曰:孙不如曹,而刘如孙。刘备たださとしたん而勇不足ふそくゆうしょわかにんしゃ,而不知ふちいん其所不足ふそく以求胜,则亦やめ惑矣。盖刘备之ざい近似きんじ高祖こうそ,而不知ふち所以ゆえんようこれ术。むかし高祖こうそ所以ゆえんよう其才しゃ,其道ゆうさん焉耳:さきすえ势胜,以示天下でんかかたち;广收しんじこしいずるはた,以自辅其しょ逮;ゆうはて锐刚もうこれ气而不用ふよう,以深おり项籍猖狂势。此三ごとしゃさん国之くにゆきくん,其才みな无有能行よしゆきこれしゃどく一刘备近之而未至,其中犹有翘然喜之よしゆきこころよく为椎鲁而不能ふのう纯,よく为果锐而不能ふのう达,しゃ交战于中,而未ゆう所定しょていゆえしょ为而なりしょよく而不とげ。弃天而入ともえしょく,则非也;よう诸葛孔明こうめい治国ちこくざい,而当纷纭征伐せいばつ冲,则非はた也;にん忿忿しんはん其所たん,而自はた以攻じん,则是其气不足ふそく尚也なおや。嗟夫!かた奔走ほんそう袁之间,こま于吕ぬの而狼狈于荆州,百败而其志不折,不可ふか谓无高祖こうそ风矣,而终不知ふちしょ以自ようこれかた。”(《さん國論こくろん》)
  • からし棄疾:“もとめといしゃ,怕應羞見,りゅうろう才氣さいき。”(《みずりゅうぎん》)
  • しゃさいはく:「まごけんうん籌於內,りゅう備、しょかずらあきらしゅうせきこうとうごうはかりごとなみさとしぽうこばめ曹操そうそうはい於赤かべまたため竒政えん。」(《みつとき筆記ひっき·まき》)
  • なに:“ほう其豪杰并おこり,而备やめあずかこれ周旋しゅうせん中原なかはら矣。はじめとくじょしゅう而吕ぬの夺之,ちゅうとくしゅう而曹こう夺之,ばんとく荆州而孙权夺。备将兴复刘氏だい业,其志いちにち而忘中州なかす也。しかそつ无以暂寓其足,而西いれしゃゆう曹操そうそう、孙权へい轧之也。”
  • 萧常:“あきられつ父子ふし以帝しつささえぞく介在かいざい一隅いちぐう,而正ごうなおすうじゅうねんよしさき汉至たれまつひゃくさんだい以还,葢未ゆうひとぬし结人しん,其效廼尔,ゆう大物おおものしゃいさおゆるがせ诸。”(《萧氏续后汉书》)
  • しゅ:“當時とうじただゆうしょくさきおもあずか有為ゆういみみ……ただゆうさきしゅ名分めいぶんただし。”(《朱子しゅしるい まきいちひゃくさんじゅうろく 歷代れきだいさん》)
  • 郝经:“汉得てん统,莽簒而在光武みつたけみさお窃而ざいあきられつ吴虽僣,犹夫吴楚也。あきられつてん资仁あつ,宇量(阙)あつし,岿然いちせいゆう。以兴复汉しつ为己にんさきひゃくおり,偾而えき坚。颠沛际,しん义逾あかりのう终系けいいのちしんじだい义于天下でんかにん贤使のう洒落しゃれ诚尽,使つかい诸葛あきら以死こう。复见さんだい君臣くんしんこうひかり为不ほろび矣。くに贼未讨,さかい复,而偾军崩殂,あい哉!”(《郝氏续后汉书》)
  • ほうたかし:“おっとあきられついたりじんあつ孔明こうめい忠順ただまさかた以為君臣くんしん師表しひょう。”(《《しょくかん本末ほんまつ·じょ》》)
  • しゅ天然てんねん:“帝室ていしつ胄,蓋世がいせいゆう正統せいとう紹,ふとしおおやけ。”(《歷代れきだい古人こじんぞうさん》)
  • とうはじめ:“备又人望じんぼうこれしょ归。しゅう瑜以枭雄,刘巴以谁じん视之,つかさ马懿以诈りょくひな,孙权以猾虏呼。”(《南村なんそん辍耕录·まきじゅう》)
  • 杨璟:“むかしすえしょく最盛さいせいしゃ,莫如汉昭れつ。且以诸葛たけこう,综核かんもり,训练士卒しそつ,财用不足ふそくみなこれみなみ诏。しか犹朝谋夕,仅能。”
  • えびすさんしょう:“かん以下いか所以ゆえんみことのり敕嗣くんしゃのうゆう此言?”(《どおりかんおんちゅう》)
  • 孙承おん:“贤矣あきられつ,宽厚弘毅こうきさき岖立こく,仗信くつ义。推诚にん贤,肝胆かんたんまことちぎり。顾命すう词,训后。”(《ぶん简集·まきさんじゅうはち》)
  • おうおっと:“刘先ぬし以汉しつ裔,しょくたてまつそう祧,にん贤图みんよう乂安,なお矣。”(《そう论·卷一けんいち》)
  • かん熙帝:「あきられつ於亮平日へいじつ以魚すい喻,あきらちゅうさだあにふか,受遺なんいたりさく猜疑さいぎ,三國人以譎詐相尚,ひな哉!」[3]:267(《批通鑒輯らん》)
  • ちょうつばさ:「せきちょうちょうくもしょうゆいちぎり終身しゅうしんたてまつ周旋しゅうせんそく羈旅奔逃,寄人よりうどませ寸土すんど以立ぎょう,而すうにんしゃ患難しょうしたがえべつこころざし,此固すうにんしゃ忠義ちゅうぎ,而備また必有ふかむすぶ其隱ほろ不可解ふかかいしゃ矣。」(《廿にじゅう劄記·まきなな》)
  • ちょう龍岡たつおか:“あきられつ君臣くんしん當時とうじはつへい新野あらたの,其有功德くどく人民じんみんしゃ甚厚,千載せんざい而下,不可ふかほこら。”(《新野しんのぶん資料しりょう だい16輯》)
  • りゅうりょうきょう:“竊惟かんしつかたぶけ頹﹐羣雄なみおこり曹操そうそう篡逆ぞくまごけん僭竊ごうあし道者どうしゃどくあきられつ以帝しつ胄,三顧さんこ孔明こうめい,以討ぞく恢復かいふくためおのれにん信義のぶよしちょ於天あいだせきひゃくせん勞苦ろうくまんじょう,はじめとくおう一方いっぽう,以紹かんみつる使つかいかりこれねんのりそぎくれせい中原なかはらなん矣﹐而卒不能ふのうしゃてん也。”(しゅいちげんりゅう毓忱へん.《中國ちゅうごく古典こてん小説しょうせつ名著めいちょ資料しりょうくさむらかんさんこく演義えんぎ資料しりょう彙編》)
  • 蔡東はん:“りゅうさきしゅおこりかんほろ,以一販履織蓆之貧民,どくのう具有ぐゆう大志たいし,交結英雄えいゆう為國ためくに討賊,較諸曹阿瞞之やめ為朝ためとも吏,たてまつ出兵しゅっぺい,其難易なんいかたぞく不同ふどう,其忠義ちゅうぎまたゆうべつせいとくいちためかん裔,一為閹奴已也。せきちょう兩人りょうにんあるつよしある暴,而與りゅうさきしゅ交遊こうゆうへんのう沆瀣しょうなげちかいどう生死せいし,此正りゅうさきぬし英雄えいゆうゆうれいじん傾倒けいとうたのしため用命ようめいしゃいかむちとく一事いちじ,閲者たたえかいやすとく舉天後世こうせいむさぼかん污吏,つきづけ英雄えいゆうむちむち乎?”
  • まご中山ちゅうざん:“とうおきちゅうかい便びんかんあさりゅう備、しょかずらあきら。”
  • もう泽东:“刘备てき优点主要しゅよう于是ぜん于用じんぜん于团结各かた人士じんし。而缺てん则表现在两个方面ほうめんいちこう感情かんじょう用事ようじ;二是不能区分主次矛盾。”
  • おうしん:“りゅうげんとく憎惡ぞうお不仁ふじん不義ふぎわがみとめためじゅう仁義じんぎ道德どうとく方面ほうめん也很高尚こうしょうてきりょうしるべしゃ。”(日本にっぽん著名ちょめい思想家しそうか池田いけだ大作だいさくだん吉川よしかわ英治えいじてきさんこく》)
  • 歷史れきしがく、《さん國史こくしばなし作者さくしゃりょおもえつとむみとめためりゅう備急於併吞劉あきら失敗しっぱい遠因えんいん[71]:123。倘使りゅう備替りゅうあきらきたおさむちょう魯,這是以攻,而馬ちょうかんとげとうかえ全敗ぜんぱい彼此ひし聯合れんごう,以擾中原なかはら曹操そうそうたおせなん於對づけりゅう備不肯北おさむちょう魯,而要反噬はんぜいりゅうあきら,以至がえ曹操そうそうあが平定へいていせき中和ちゅうかすずかしゅう時間じかん,而且仍給以削ひらたちょう魯之[71]:123しか而本聯合れんごうりょうしゅうしょしょうども擾關ちゅう,卻變做獨とう大敵たいてき[71]:124これやくりゅう備因ため是能これよしいちばん事業じぎょう意志いし必較けんじょう理智りち必較細密さいみつだんかい輕易けいいどう感情かんじょうきょう感情かんじょう必是どう於當時間じかんややひさし感情かんじょう就漸やや衰退すいたい理智りち就漸ややきよし[71]:124しか禍根かこんまたいんきゅう於要えきしゅう,以致たい於荊しゅう不能ふのうけん顧之所以ゆえんこころけいこうゆう也會なりため失敗しっぱい原因げんいん真個しんこ閲歷えつれきおおこれにんたおせさとしとく凡事かえしょうようはかりごとしる正義まさよし而行このみ[71]:125
  • りゅう備傳》作者さくしゃはりさく耀認ためりゅう備人せい道路どうろ危機ききよんふく滿まん坎坷[3]:277。這是いちせん鬥歷ほどおこり挫折ざせつ、爬起、さいくじけ發展はってんいたり立足たつあし一方いっぽう[3]:277-278。撇開りゅう政治せいじ動機どうきだんおり不撓ふとうはい餒、おわり不為ふためため憧憬どうけい目標もくひょう而奮鬥不たゆ始終しじゅう如一[3]:278りゅう備與せきちょういちけいゆいよし終身しゅうしん不易ふえき[3]:278あずか下士かし同席どうせき而坐,しょ簡擇;ぜんまち部下ぶか士卒しそつ感恩かんおんねがいため驅使くし[3]:279-280

家庭かてい

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けい

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按照《三国志さんごくし裴松ちゅうしょ引《てんりゃく》记载,刘备先祖せんぞゆうさん可能かのう

汉景みかど
刘启
长沙じょうおう
刘发
中山なかやまやすしおう
刘胜
常山つねやま宪王
刘舜
うすりょう节侯
刘买
陆城こう
刘贞
てい顷王
刘平
いくはやし太守たいしゅ
刘外
ていれつおう
刘偃
きょ鹿しかじょう
刘回
ていこうおう
刘由
みなみ顿令
刘钦
てい安王やすおう
刘雍
齐武おう
刘縯
じょうどもおう
刘普
北海ほっかいやすしおう
刘兴
临邑こう
刘让
临邑こう
刘复
临邑こう
刘騊駼

祖父そふ

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ちち

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  • りゅうひろしためひがしかんまつとしてきしゅうぐん小官しょうかん

妻妾さいしょう

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清康きよやす熙刘备招亲图びん
  • おうしか夫人ふじん正室せいしつおうしか竺之いもうと,於劉備在しゅう落難おうしか竺將她嫁きゅうりゅう備。
  • まご夫人ふじん,继正しつまごけんいもうとあずかりゅう備結ため政治せいじ婚姻こんいんりゅう備入しょくまごけんせっかい她,さい記錄きろく
  • きよし皇后こうごう,继正しつこれいもうと刘瑁遗孀,りゅう備入しょく後納こうのうため夫人ふじんためかんちゅうおうきさきりゅうぜん即位そくいみこと她為皇太后こうたいごうしょう長樂ながらみやのべはちねん病死びょうしあずかりゅう備合そう
  • あま夫人ふじんひとわらわしつりゅうぜん生母せいぼ曾於そおおさむばんこまこうとくちょうくもかいすくいこう病死びょうしおくりなすめらぎおもえ夫人ふじんさいついおくりなあきられつ皇后こうごうあずかりゅう備合そう

まご夫人ふじん以前いぜんてきすう嫡室,じょおうしか夫人ふじん以外いがい份皆不可ふかこうわらわしつあま夫人ふじんいんすう丧嫡しつ”,而主ないごと[72]。仅知刘备ゆう四次丢失妻子的记录:

  • たてやすし元年がんねん(196ねん),吕布俘虏刘备てきつま儿。间刘备娶おうしか夫人ふじん。1ねんきさき二人讲和该妻儿被返还刘备[73]
  • けんやすさんねん(198ねん),刘备つま儿再吕布しょ俘虏。1ねん曹操そうそう击败吕布刘备じゅうとく眷。
  • けんやすねん(200ねん),曹操そうそう军击败刘备于しょう沛,つま儿被俘。
  • けんやすじゅうさんねん(208ねん),长坂坡之战刘备与すうじゅう逃走とうそうつま儿辎じゅうとう曹操そうそうしょ获。

子女しじょ

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孫子まごこおんな

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曾孫そうそん

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  • りゅううけたまわりゅうたね之子ゆきこ二十歲はたちそつ
  • りゅうげんりゅうひさしまごしょくかんほろび投降とうこう,避過えい嘉之よしゆきみだれきょ於四川成かわなり

きさきじん

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  • からあさ卢龙节度使刘济てきはかこころざし铭中,作者さくしゃ权德舆しょう其为刘备じゅういちだい孙,きょう纬堂认为此说甚不可ふかしんじ指出さしで刘备孙在えい嘉之よしゆきらん时大杀,ただゆう刘备曾孙刘玄逃到しょく汉赵甚至找不いた一个刘备子孙作标榜,时隔四百余年后又有刘备子孙绵延于幽州昌平しょうへい非常ひじょう值得怀疑;而唐あさたかしなお门第社会しゃかい风气,おかせさき贤,谬托めい门以自重じちょうみな新旧しんきゅうから书《刘济传》なかひとし刘济为刘备后裔。[77][78]

こう世紀せいきねん

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きのねんけん

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藝術げいじゅつ形象けいしょう

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さんこく演義えんぎ

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しょう说《さんこくえんじ》为塑づくり人物じんぶつ性格せいかくはた刘备描写びょうしゃなり极仁爱的君主くんしゅただし却爱哭,甚至ゆう歇后语说:「刘备てき江山えやま ——哭出来できてき」,基本きほんじょうゆう关三国的歇后语,为演义,かた「刘备摔阿斗あと──おさむ买人しん」,しか则史实上并无摔阿,此外えんじ义为衬托诸葛あきら、关羽とうじん才能さいのう,贬低りょう刘备军事のう。且《三国志さんごくし》记载刘备“喜怒きどかたち于色”,すえこうてき哭泣次数じすう也远しょう于曹みさお、孙权,はん而是较血气方刚、蛮勇ばんゆうごう迈之じん

さんこくえんじ义》きょ构了从刘胜到刘备てきごといちだい谱,しょうけんじみかどかく对家谱后发现刘备按辈ぶん自己じこてき叔父おじ尊称そんしょう刘备为皇叔,《さんこくえんじ义》也多处用“刘皇叔”ゆびだい刘备。こと实上わかはたさんこくえんじ义》しょ记家谱对あきら汉朝君主くんしゅけい,刘备とう为献みかど孙辈。且《三国志さんごくしとう史料しりょう并未详细记载刘备けい,也无载献みかどみこと刘备为皇叔之ごと

げききょく

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げききょくちゅうてきりゅう備為老生ろうせいところえんじ,而劇取材しゅざい於《さんこく演義えんぎ》,れい如《りゅう備過こう招親》、《甘露かんろてらとうげき

电视剧

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でんかげ

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遊戲ゆうぎ

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どう作品さくひん

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主人公しゅじんこうざい進行しんこう時空じくう跳躍ちょうやく,曾經はいおとずれりゅう備。なみあずかこれ極限きょくげん合體がったい遊戲ゆうぎ術語じゅつご))

参考さんこう文献ぶんけん

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  8. ^ 三國志さんごくし·しょくしょ·さきおもでんだい》:而瓚ふかあずかせんあるじしょうとも。瓚年ちょうさきぬし兄事けいじ
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  11. ^ りょぬの出身しゅっしんげんぐんりゅう出身しゅっしん涿郡,みなぞくかんちょう疆界北方ほっぽう邊境へんきょう
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  13. ^ s:三國志さんごくし/まき01#たけみかど曹操そうそう
  14. ^ 三國志さんごくしまき36ちゅう引《しょく》:はつ,刘备ざい许,あずか公共こうきょう猎。猎中,众散,劝备杀公,备不从。及在なつこう,飘飖こうなぎさはねいか曰:"往日おうじつ猎中,わか从羽ごと无今こま。"备曰:"时亦为国家こっか惜之みみわか天道てんとう辅正,あんとも此不为福よこしま!"
  15. ^ 三國志さんごくし·さきおもでん三國志さんごくし·みかどどう
  16. ^ 太平たいへい览》まきさんひゃくろくじゅうなな引《s:英雄えいゆう》:曹操そうそうあずか刘备みつごと,备泄于袁绍,绍知みさおゆう图己みさお咋其した流血りゅうけつ,以失言しつげん戒后
  17. ^ 17.00 17.01 17.02 17.03 17.04 17.05 17.06 17.07 17.08 17.09 17.10 17.11 17.12 17.13 17.14 17.15 17.16 17.17 17.18 17.19 17.20 17.21 17.22 17.23 17.24 17.25 17.26 17.27 17.28 17.29 17.30 17.31 17.32 17.33 17.34 17.35 17.36 17.37 17.38 17.39 17.40 17.41 17.42 17.43 17.44 17.45 17.46 17.47 17.48 17.49 17.50 17.51 17.52 17.53 17.54 17.55 17.56 17.57 17.58 17.59 17.60 17.61 17.62 17.63 17.64 17.65 17.66 17.67 17.68 17.69 17.70 17.71 17.72 17.73 17.74 17.75 17.76 17.77 17.78 17.79 17.80 17.81 17.82 17.83 17.84 17.85 17.86 17.87 しゅだい渭、はり滿倉みちくら. 《いちだい軍師ぐんし——しょかずらあきら上部じょうぶ)》. 台北たいぺい: 麥田むぎた出版しゅっぱん. 2009 [2007]. 
  18. ^ s:三國志さんごくし/まき35#しょかずらあきら記載きさい前出ぜんしゅつ師表しひょうゆうげん爾來じらいじゅうゆういちねん矣」。裴松よりどころ此認ため:「りゅう備以けんやすじゅうさんねんはいあきら使くれあきら以建きょう五年抗表北伐,かたぶけくつがえいたり此整じゅうねんしかのり備始あずかあきらしょうぐうざい敗軍はいぐんぜんいちねん也。」s:どおり鑒 (えびすさんしょうおんちゅう)/まき065また三顧茅廬在建安十二年,そく西元にしもと207ねん
  19. ^ かえ」乃現代人だいにんしょs:三國志さんごくし/まき35#しょかずらあきらさきぬし曰:「よし!」於是あずかあきらじょう好日こうじつみつせきはねちょうとうえつさきぬしかい曰:「ゆう孔明こうめいなおさかな有水ありみず也。ねがい諸君しょくん勿復ごと。」はね乃止。
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  21. ^ s:三國志さんごくし/まき32#さきぬし りゅう:曹公みなみせいひょうかいひょうそつ琮代りつ使つかい請降。さきぬしたむろ樊,不知ふち曹公そついたりいたりあて乃聞とげはた其眾去。じょうしょかずらあきらせつさきぬしおさむ琮,荊州ゆうさきぬし曰:「われにん也。」
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  24. ^ s:三國志さんごくし/まき32#さきぬし りゅう:曹公以江りょうゆうぐんおそれさきしゅよりどころ,乃釋輜重しちょうけいぐんいたじょう。聞先ぬしやめ,曹公はたせいせん急追きゅうついいちにちいち夜行やこうさんひゃくあまりさと,及於とう長坂ながさかさきぬし妻子さいしあずかしょかずらあきらちょうちょうくもとうすうじゅうはし,曹公だい其人眾輜重しちょうさきぬしはす趨漢てきあずかはねせんかいとくずみ沔,ぐうひょう長子ちょうし江夏えなつ太守たいしゅ琦眾まん餘人よにんあずか俱到なつこう
  25. ^ s:三國志さんごくし/まき32#さきぬし りゅうつてちゅう引《こうひょうでん》曰:備大しんじゅう鄂縣,そくしょかずらあきらずい肅詣まごけんゆい同盟どうめいちかい
  26. ^ s:三國志さんごくし/まき54#魯肅:備遂いたなつこうあきら使つかいけん,肅亦反命はんめい
  27. ^ s:三國志さんごくし/まき01#たけみかど 曹操そうそう十二月じゅうにがつまごけんため備攻あいこえおおやけりょうせい備,いたりともえたかしちょう憙救あいこえけん聞憙いたり,乃走。おおやけいたりあかかべあずか備戰,不利ふり
  28. ^ 三国志さんごくし·しょく书·さきしゅ传》引《九州きゅうしゅう春秋しゅんじゅう》:统说备曰:“荆州あらざん人物じんぶつ殚尽,东有吴孙,きたゆう曹氏,かなえあし计,难以とくこころざしこんえきしゅうこく富民とみんきょう,户口ひゃくまんよんへい马,所出しょしゅつ必具,たから货无もとめ於外,こん权借以定大事だいじ。”备曰:“こんゆびあずかわれ为水しゃ曹操そうそう也,みさお以急,われ以宽;みさお以暴,われ以仁;みさお以谲,われ以忠;ごとあずかみさおはんこと乃可なりみみこん以小而失しん义於天下でんかしゃわれしょ也。”统曰:“权变时,かた一道所能定也。けんじゃくおさむ昧,はくことぎゃく顺守,报之以义,こと定之さだゆききさきふう大国たいこくなに负於しん今日きょう,终为じんみみ。”备遂行すいこう
  29. ^ s:三國志さんごくし/まき01#たけみかど 曹操そうそうふゆじゅうがつおおやけせいまごけん
  30. ^ s:三國志さんごくし/まき32#さきぬし りゅう明年みょうねん,曹公せいまごけんけんよびさきおもすくいさきおも使つかいつげあきら曰:「……」乃從あきらもとめ萬兵まんひょう及資(たから),よく以東いとうぎょうあきらただしもとへいよんせん,其餘みなきゅうはん
  31. ^ 太平たいへい御覽ごらんまき346引《れいりょう先賢せんけんでん》:りゅうあきら請劉備。あきらはた楊懷すう諫。備請璋子あきこ禕及なつけさけたけなわ,備見ふところ匕首ひしゅ,備出其匕首ひしゅいい曰:「將軍しょうぐん匕首ひしゅこのみまたゆうとくかん乎?」ふところあずかこれ,備得匕首ひしゅいいふところ曰:「なんじしょうなん敢間わが兄弟きょうだいこうよこしま?」ふところののしげん訖,備斬
  32. ^ s:三國志さんごくし/まき01#たけみかど曹操そうそうさんがつおおやけ西にしせいちょう魯,いたりひねくらはたたけいり
  33. ^ s:三國志さんごくし/まき01#たけみかど曹操そうそう十一月じゅういちがつ,魯自ともえ中將ちゅうじょう其餘しゅくだ
  34. ^ s:三國志さんごくし/まき32#さきぬし りゅうじゅうねんまごけん以先ぬしやめえきしゅう使つかい使ほう欲得よくとく荊州。さきぬしげん:「須得りょうしゅうとう以荊しゅうしょうあずか。」けん忿之,乃遣りょこうむかさねだつちょうすなれいりょうかつら陽三ようぞうぐんさきぬし引兵まん公安こうあんれいせき羽入はにゅうえきこれさい,曹公定こうていかんちゅうちょう遁走とんそうともえ西にしさきぬし聞之,あずかけんれんふん荊州、江夏えなつちょうすなかつら陽東ようとうぞくみなみぐんれいりょうたけりょう西にしぞく,引軍かえしゅう
  35. ^ りょうせんねんちゅう西曆せいれき換算かんさん页面そん档备份そん互联网档あんはつねん,曹丕やめだいかんしょうみかどりゅう備仍ようかんけんやす年號ねんごうおもんみけんやすじゅうろくねんよんがつ丙午ひのえうま),
  36. ^ 三国志さんごくし·赵云传》引《うん别传》:孙权袭荆しゅうさきぬしだいいかよく讨权。うん谏曰:“くに贼是曹操そうそう孙权也,且先灭魏,则吴ふくみさお虽毙,丕篡ぬすめとういん众心,はや图关ちゅうきょかわ、渭上りゅう以讨きょうぎゃく,关东义士必裹粮策马以むかえおう师。应置さきあずか吴战;へい势一交,とくそつかい。”さきぬし听,とげ东征。
  37. ^ れいりょうさき贤传》:时中なつ人情にんじょういち,闻备ざいしょく四方しほうのべ颈。而备锐意ほしそくしんともえ以为如此しめせ天下でんか广,且欲缓之。あずかおも簿雍茂谏备,备以他事たじ杀茂,ゆかり远人复至矣。
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  39. ^ ちんひさし. 《三國志さんごくし·しょくしょ·しょかずらあきらでんだい》. 北京ぺきん: 中華ちゅうかしょきょく. 1959. あきら涕泣ていきゅう曰:「しん敢竭股肱ここうちからこうちゅう貞之さだゆきぶしつぎ以死!」 
  40. ^ 40.0 40.1 40.2 40.3 ちんひさし. 《三國志さんごくし》. 北京ぺきん: 中華ちゅうかしょきょく. 1959. 
  41. ^ ちんひさし. 《三國志さんごくし·しょくしょ·しょかずらあきらでんだい三國志さんごくしちゅう引孫もりひょう. 北京ぺきん: 中華ちゅうかしょきょく. 1959. まごもり曰:「おっとつえどう扶義,からだそんしんじゅんしかこうのうただししゅすみこうおわりてい大業おおわざ……備之いのちあきららん孰甚焉!あるゆういい備欲以固づけまこと,且以いちしょくじんこころざし君子くんし曰,しか;苟所よせちゅうけんのり須若斯之誨,如非其人,よろしけい篡逆ぬり以古顧命,必貽ばなしげん;詭偽やめたくいい。」 
  42. ^ ちんひさし. 《三國志さんごくし·しょくしょ·さきおもでんだい》. 北京ぺきん: 中華ちゅうかしょきょく. 1959. さきぬしびょうあつしたく於丞しょうあきら尚書しょうしょれいいわおためふく 
  43. ^ ちんひさし. 《三國志さんごくし·しょくしょ·さきおもでんだい三國志さんごくしちゅう引《しょかずらあきらしゅう》. 北京ぺきん: 中華ちゅうかしょきょく. 1959. 臨終りんじゅうよび魯王與語よご:「われほろびこれなんじ兄弟きょうだいちちごと丞相じょうしょうれいきょうあずか丞相じょうしょうどもごと而已。」 
  44. ^ 三國志さんごくし·しょくしょ·さきおもでんちゅうひさげ及劉備駕くずし於章さんねんなつよんがつ癸巳きししか查章さんねんよんがつ並無ならびな癸巳きしぶんしょかずらあきらたいりゅうぜんてきじょうげんたたえりゅう備駕くずしにちため今月こんげつじゅうよんにち」,且よんがつじゅうよんにちためみずのえうまのり前文ぜんぶんちんひさしてき記載きさいこわため誤記ごき
  45. ^ しゅだい渭、はり滿倉みちくら. 《いちだい軍師ぐんし——しょかずらあきら下部かぶ)》. 台北たいぺい: 麥田むぎた出版しゅっぱん. 2009 [2007]. 
  46. ^ 陈剑. 刘备そうざい哪里?. てんしん论. 1985, (3): 44–45. ISSN 1004-0633. CNKI TFXL198503014. NSSD 1002307259需注册账号查阅. 
  47. ^ えつ缦堂读书记·どうかぶといぬ·じゅうがつさんじゅうにち》:刘元うみ僭位时,したれいしょう绍修さん业,ついみことしょくきさきぬし为孝怀皇帝こうていたて高祖こうそ以下いか三祖五宗神主而祭之。あんむねしゃぶんみかどふとそうたけみかどむねせんみかどちゅうむねあきらみかど显宗、あきらみかど肃宗也。もとみかどごうだかむねなりみかどごう统宗,以议おう莽,ちゅう兴时やめこれ。(せんみかどちゅう宗之むねゆきごうまた莽所议加,光武みつたけ时复とく诏追みことこうせん皇帝こうてい为中むねきさき汉书ほん纪中とく书之,以见よう莽之议。)かずやすし顺桓よんみかどまたゆうきよし恭敬きょうけいよんむねごうただしたく时因蔡邕议四みかど功德くどくまた其号,もとうみ此令,こうみかど光武みつたけがいまたとめ举文たけ宣明のぶあきしょう五帝功烈之盛,しょ谓五むね,无可うたぐ矣。おもんみ三祖则汉自高帝号太祖、光武みつたけごうがい,无称しゃ。而《おうわたる传》载元うみ谓弥げんたたえあきられつ为烈。三国时魏吴皆有祖宗之号,(孙坚ごう始祖しそ,权号ふとし。)おもんみしょく汉昭れつ以天いち,谦而うたぐれつこれごうまたもとうみしょついみことあずか谥后みかど为孝怀同いち时,しつ载耳。
  48. ^ あきら遗书·まきよん·にちさつ》:汉昭れつ皇帝こうてい庙号ふとそう,见本传诸かずらあきら请宣遗照ひょうひと习而查,按孝ぶんみかど庙号ふとそういやじゅう耶?
  49. ^ 三国志さんごくししゅうかい·まきさんじゅう·さきしゅ传》:按章说似不足ふそくすえ,如庙ごうふとしむねほん传无书之
  50. ^ かくよしへい,《中国ちゅうごく古代こだい帝王ていおうむね庙礼せい研究けんきゅう》,人民じんみん出版しゅっぱんしゃ,2007ねんだい252页,ISBN 7-01-006182-3
  51. ^ 三國志さんごくし·しょくしょ·さきおもでん》:しゃ东南かく篱上ゆうくわ树生だかたけ馀,はるかのぞむ见童わらわ如小车盖,往来おうらいしゃみなかい此树非凡ひぼんある谓当贵人。さきぬししょう时,あずかそうちゅう诸小儿於树下戏,げん:“われ必当じょう此羽葆盖车。”叔父おじけい谓曰:“なんじ勿妄语,灭吾门也!”
  52. ^ 初學しょがく·だいじゅうはち》引【すすむまごすわえ牽招》】:くんあずかりゅう備少ちょうかわついたち英雄えいゆうどうちぎりため刎頸交。よしこわためしょまいしゃくそんざい乎季はじめあいだ
  53. ^ 太平たいへい御覽ごらん·人事じんじじゅう·交友こうゆうよん》引孫すわえ《牽招》曰:はつくんあずかりゅう備少ちょうかわついたち英雄えいゆうどうちぎりため刎頸交。ゆう橫波よこなみ截流、拊翼よここころざしにわか而委しつ于太,備遂かなえあし于蜀かんところ非常ひじょうためしょまいしゃくそん乎季はじめあいだ
  54. ^ あずますすむ 裴啟 《かたりりん》:「まごさくねんじゅうよんざいことぶきまい袁術,はじめいたりにわか而外どおり:「りゅうしゅう備來。」まご便びんもとめ,袁曰:「りゅうしゅうなんせきくん?」こたえ曰:「なんじ英雄えいゆうじん。」そく下東しもひがしかい,而劉備從ひがし階上かいじょうただしとくてん顧視まごあしぎょう,殆不ふくぜん矣。」
  55. ^ せつ新語しんご 識鑒》:曹公とい裴潛曰:「きょうむかしあずかりゅう備共ざい荊州,きょう以備ざい如何いか?」 せん曰:「使つかい居中きょちゅうこくのうらんじん不能ふのうためわかじょうあたりもりけんそくため一方いっぽうこれぬし。」
  56. ^ 三國志さんごくし·でんでん》:りゅう備之奔公まご瓚也,年少ねんしょうたく於備,備甚。備為しゅう刺史しし以母ろうもとめ,備涕泣與べつ,曰:「恨不あずかきみ共成きょうせい大事だいじ也。」
  57. ^ 三國志さんごくし·しょかずらあきらでん》:さきぬしざい樊聞りつ其眾みなみぎょうあきらあずかじょ庶并したがえため曹公しょおいやぶ庶母。庶辭さきしゅ而指其心曰:「ほんほっあずか將軍しょうぐんどもおう霸之業者ぎょうしゃ,以此方寸ほうすん也。いまやめしつ老母ろうぼ方寸ほうすんらん矣,無益むえき於事,請從此別。」とげまい曹公。
  58. ^ 三國志さんごくし·ちょうくもでん》引《くも別傳べつでん》:はつさきぬしはい有人ゆうじんげんくもやめきたしゃさきぬし以手戟擿曰:「りゅう棄我はし也。」
  59. ^ 三國志さんごくし·糜竺でん》:よしためみなみぐん太守たいしゅあずかせきはねどもごと,而私こう攜貳,叛迎まごけんはねいんくつがえはい。竺面ばく請罪,さきぬし慰諭以兄弟きょうだいざいあい及,たかしまち如初。竺慚恚發びょうさい馀卒。
  60. ^ 三國志さんごくし·けんでん》:有司ゆうしほうはくおさむけん妻子さいしさきぬし曰:「けんけんまけ也。」まち如初。
  61. ^ 三國志さんごくし·まきよんじゅう·しょくしょじゅう·鄧張むね楊傳だいじゅう》:以荊しゅう從事じゅうじずいさきしゅいれしょくみなみいたり雒,以為こうかん太守たいしゅそんもと不服ふふく龐統,みつる中矢なかやそつさきぬし發言はつげんよしみ歎,そん曰:「みつる盡忠じんちゅう惜,しかたがえだい雅之まさゆき。」さきおもいか曰:「みつるころせ身成みなりじんさらため也?」めんそんかんころやまいそつしつ行事ぎょうじ不為ふためでん。 《かん輔臣さん
  62. ^ 三國志さんごくし·しょくしょ·しゅうぐんでん》:はつさきおもあずかりゅうあきらかい涪時,ひろしためあきら從事じゅうじ侍坐じざ。其人にょう須,さきおもあざけこれ曰:「むかしわれきょ涿縣,とく多毛たもうせい東西とうざい南北なんぼくみな諸毛もろけ也,涿令しょう曰'諸毛もろけにょう涿居乎'!」ひろし即答そくとう曰:「むかし有作ゆうさくじょうとう潞長,遷為涿令(涿令)しゃかんかえいえ時人じじんあずかしょよくしょ潞則しつ涿,よくしょ涿則しつ潞,乃署曰'潞涿くん'。」さきぬし須,ひろし以此及之。
  63. ^ 三國志さんごくし·しょくしょ·しゅうぐんでん》:ひろしまた私語しごじん曰:「としざいかのえ天下てんかとうえきだいりゅう祚盡矣。しゅおおやけとくえきしゅうきゅうねんこれとら卯之うのあいだとうしつ。」じんみつしろ其言。
  64. ^ しょかずらあきらしゅうせんおものこみことのり敕後ぬし曰:「ちんはつやましただし下痢げりみみうたてざつびょう,殆不すみひとじゅうしょう夭,ねんやめろくじゅうゆう馀,なんしょ复恨,ふくきずただし以卿兄弟きょうだいためねんきみいたせつ丞相じょうしょう嘆卿さとしりょう甚大じんだいぞうおさむ所望しょもうしんのう如此,われふくなんゆうつとむつとむこれ!勿以あくしょう而為,勿以ぜんしょう不為ふためおもんみけんおもんみとくのうふく於人。なんじちちとくうす,勿效可讀かどく漢書かんしょれいあいだひまれきかん諸子しょしろく韜、しょうくんしょえきじんさとし。聞丞しょうためうつしさるかんかん、六韜一通已畢,おくみちほろびさらもとめ聞達ぶんたつ。」臨終りんじゅうよび魯王與語よご:「われほろびこれなんじ兄弟きょうだいちちごと丞相じょうしょうれいきょうあずか丞相じょうしょうどもごと而已。」
  65. ^ しょかずらあきらこたえ惜赦》:先帝せんていまたげんわれ周旋しゅうせんひね元方もとかたてい康成やすなりあいだまいけいつげ治亂ちらんみち悉矣,曾不赦也。わかりゅうけいますだま父子ふし歲歲さいさい赦宥,なにえき於治也!
  66. ^ 三國志さんごくし·こころざし·荀彧でん》引《けんじみかど春秋しゅんじゅう》:(荀)彧卒於壽はることぶきはる亡者もうじゃつげまごけんげんふとし使彧殺ふくきさき,彧不したがえ自殺じさつけん以露ぬの於蜀,りゅう備聞,曰:「ろうぞく不死ふしわざわいらんやめ。」。
  67. ^ じょう》: もと汜與りゅう備並ざい荊州まきりゅうひょうすわひょうあずか備共ろん天下てんかじん,汜曰:「ちんもとりゅうみずうみうみ豪氣ごうきじょ。」備謂ひょう曰:「もとくんろん是非ぜひ?」おもて曰:「よくげん,此君ためぜんむべ虛言きょげんよくげんもとりゅうめいじゅう天下てんか。」備問汜:「きみげんごうやすし有事ゆうじよこしま?」汜曰:「むかし遭亂した邳,もとりゅうもとりゅうきゃくぬしひさしあい與語よご上大かみおおゆか使つかいきゃくゆか。」備曰:「きみゆう國士こくしこん天下てんか大亂たいらんみかどぬししつしょのぞむくん憂國ゆうこく忘家,ゆう救世きゅうせい,而君もとめといしゃげんもとりゅうしょいみな也,なにえんとうあずかきみ?如小じんよくひゃくしゃくろうじょうくん於地,なにただし上下じょうげゆかあいだよこしま?」
  68. ^ 语》. 语》:备屯樊城,刘表れい焉,惮其为人,甚信よう。曾请备宴かい,蒯越、蔡瑁よくいんかい备,备觉,伪如厕,せん遁出。ところじょう马名てき卢,骑的卢走,堕襄阳城西にしだんけい水中すいちゅうおぼれとく。备急曰:"てき卢:今日きょうやく矣,努力どりょく!"てき卢乃いちおどりさんたけとげ过,じょう渡河とか中流ちゅうりゅう而追しゃいたり,以表意ひょうい谢之,曰:"なにこれそく乎!" 
  69. ^ てんりゃく》:「平原ひらはらりゅう子平しへい備有武勇ぶゆうちょうじゅんはん叛,あおしゅうみことのり從事じゅうじ將兵しょうへい討純,平原へいげん子平しへいこも備於從事じゅうじとげあずかあいしたがえぐうぞく於野,備中びっちゅうそうぞくのち故人こじん車載しゃさいとくめんこう以軍こうため中山なかやまやすしじょう。」
  70. ^ 曹操そうそうとい裴潛:「きょうまえあずかりゅう備俱ざい荊州,きょう以備才略さいりゃくなん如?」裴潛:「使つかい居中きょちゅうこくのうらんじん不能ふのうためわかじょうあたりもりけんそくため一方いっぽうこれぬし。」
  71. ^ 71.0 71.1 71.2 71.3 71.4 りょおもえつとむ. 《さん國史こくしばなし》. 香港ほんこん: 商務しょうむしるししょかん. 2009. 
  72. ^ 三国志さんごくし しょく书四 二主妃子传第四》
  73. ^ 三国志さんごくし しょく书二 さきしゅ传第》曹公表こうひょうさきしゅ为镇东将军,ふうむべしろていこう岁建やす元年がんねん也。けんやす元年がんねん也。さきおもあずか术相经月,吕布じょうきょ袭下邳。した守将しゅしょう曹豹はん,间迎ぬのぬの虏先ぬし妻子さいしさきぬし转军うみ西にし
  74. ^ 三国志さんごくし しょく书五 诸葛あきら传第》瞻字おもえ远。けんじゅうねんあきら武功ぶこうあずかあに瑾书曰:“瞻今やめはち岁……としじゅうなななお公主こうしゅはい骑都じょう
  75. ^ 三国志さんごくし しょくじゅうよん 蒋琬费祎きょう维传だいじゅうよんうけたまわ嗣,为黄门侍ろううけたまわおとうときょうなお公主こうしゅ。【裴注《祎别传》曰:きょう为尚书郎,显名当世とうせいはやそつ。祎长おんなはい太子たいし璿为。】
  76. ^ 三国志さんごくし しょくろく 关张马黄赵传だいろく兴嗣。兴字安国やすくにしょうゆうれい问,丞相じょうしょう诸葛あきらふか异之。弱冠じゃっかん为侍ちゅうちゅう监军,すう岁卒。统嗣,なお公主こうしゅかんいたりとら贲中ろうしょうそつ,无子,以兴庶子しょしつね续封。
  77. ^ きょう纬堂《逝日とめこん》 99-101
  78. ^ 另刘济弟刘澭こころざしまたしょう刘灵すけ自己じこてきじゅういちせい

外部がいぶ链接

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延伸えんしん阅读

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维基文库中的相关文本:三國志さんごくし·まき32》,出自しゅつじちんひさし三國志さんごくし
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まいり

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刘备
出生しゅっしょう于:161ねん逝世於:223ねん
統治とうちしゃあたま
前任ぜんにん
こう皇帝こうてい
りゅうきょう
めい义上てき
かんちょう皇帝こうてい
221ねん-223ねん
つぎにん
こう怀皇帝こうてい
りゅうぜん
しょく君主くんしゅ
221ねん-223ねん
しんあたま しょくかん皇帝こうてい
221ねん-223ねん