番付
由来 [編集 ]
特徴 [編集 ]
対象 物 (力士 など)を順位 によって並 べる。この順位 は、最 も新 しい結果 を反映 させる。大 きくランクに分 ける。いわゆる横綱 から序ノ口 までのような段階 に分 けてある。この区分 は総合 的 な評価 によって行 われ、勝負 結果 などを単純 に反映 しない。紙上 での表記 にその差 は反映 され、格 が上 の力士 ほど字 が大 きく、立派 に描 かれる。全体 を東西 に分 け、紙面 上 ではそれを左右 に振 り分 け、ほぼ同格 のものを対称 の位置 に並 べる。
すでに
大相撲 の番付 [編集 ]
地位 ・定員 [編集 ]
42 | |||||
28 | |||||
120 | |||||
180 | |||||
番付 の各 地位 の定員 ・人数 の変遷
幕内 ・十 両 は1888年 の十両 創設 以降 、幕下 ・三 段 目 は第 二 次 世界 大戦 終戦 以降 を記 す。定員 は付 出 ・十 両 以下 の張 出 ・番付 外 を除 く。また定員 が定 まっている中 での例外 的 な変動 等 は省 いている。- はっきりした
定員 が定 まっており、かつ以前 と変 わったところは太字 で示 す。
1888.1 | ||||
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1912.1 | ||||
1926.5 | 40 |
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1929.5 | 40 |
|||
1932.2 | ||||
1961.3 | (1960 |
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1962.3 | 41 |
|||
1964.1 | 40 |
|||
1967.5 | 34 |
|||
1970.9 | 34 |
|||
1972.1 | ||||
1973.9 | 36 |
|||
1976.5 | 36 |
|||
1979.7 | ||||
1984.1 | 38 |
|||
1991.1 | 40 |
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2004.1 | 42 |
|||
2022.5 | 42 |
序 二 段 と序ノ口 については現在 のみならず過去 も含 め定員 が定 められたことはなく、これらの地位 の人数 は毎 場所 変動 するため、上 の表 には示 していないが、序 二 段 と序ノ口 の人数 について特筆 性 のあることを以下 に示 す。序 二 段 :終戦 後 しばらくは人数 が少 なく、戦後 の最少 人数 は終戦 後 初 の1945年 11月場所 における39人 (東 18枚 ・西 21枚 )である。その後 漸次 増加 傾向 となり、1990年代 前半 は新 弟子 が激増 したために200枚 を超 えることもあり、史上 最多 枚数 は1994年 (平成 6年 )5月 場所 における210枚 (計 420人 )であるが、それをピークに漸次 減少 傾向 となった。平成 以降 の最少 枚数 は2014年 (平成 26年 )3月 場所 における89枚 (計 178人 )である。序ノ口 :終戦 直後 は極端 な新 弟子 不足 で、1945年 11月場所 と1946年 11月場所 は序ノ口 に力士 が1人 も在位 していなかった。新 弟子 が激増 した1990年代 前期 から中期 にかけては東西 70枚 以上 ある場所 もあった。史上 最多 枚数 は1992年 5月 場所 における77枚 (77枚 目 は東 のみ・計 153人 )である。平成 以降 の最少 枚数 は2013年 (平成 25年 )3月 場所 における14枚 (14枚 目 は東 のみ・計 27人 )である。
番付 における地位 区分
- この
表 では、番付 における地位 区分 を表 す語 の指 す範囲 を示 す。 - ☆は
現代 の相撲 社会 において重要 度 の高 いもの。またその他 にも、歴史 的 なものも示 す。 - †は
現存 しない地位 。 - 《》は
歴史 的 な名称 だが、現在 ではほとんど用 いられていない地位 の名称 。
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番付 編成 [編集 ]
番付 の昇進 ・陥落 の目安
横綱 横綱 昇進 について、横綱 審議 委員 会 (横審 )の内規 では、「品格 、力量 が抜群 であること」と示 されている。審判 部 がある力士 を横綱 に昇進 させたいと判断 した場合 、理事 長 は審判 部長 からの要請 を受 けて横審 に当該 力士 の横綱 推薦 について諮問 する。諮問 を受 けた横審 は当該 力士 が横綱 にふさわしいか、「品格 」「力量 」それぞれについて審査 する。「力量 」については「大関 で2場所 連続 優勝 」が原則 とされ、これに準 ずる成績 の力士 を昇進 させることも可能 である。「品格 」については土俵 上 の振 る舞 いのみならず日常 の生活 態度 までもが審査 の対象 である。横審 からの答申 を受 けて理事 長 は臨時 理事 会 を招集 し、理事 会 において横綱 昇進 について決議 し、正式 に昇進 の可否 を決定 するが、理事 会 で答申 が覆 された例 はないので、横審 の答申 後 に事実 上 決定 することになる。新 横綱 は番付 編成 会議 が終 わった時点 から横綱 として扱 われ、番付 発表 までの間 は横綱 であっても東西 や順位 がまだ発表 されていない状態 となる。ただし、近年 のケースでは新 横綱 は同 じ横綱 の中 で最下位 となる。横綱 は本場所 の成績 をもって大関 以下 に陥落 することはない。それゆえ成績 不振 が続 けば引退 を迫 られる。成績 不振 の横綱 に対 しては横審 の決議 により「激励 」「注意 」「引退 勧告 」等 がなされる。ただし、同 じ横綱 の中 での順位 は場所 ごとに変動 し、好成績 者 から順 に、東 正 位 、西 正 位 、東 2番手 (以前 の張 出 に相当 )、西 2番手 の順 となる。詳細 は横綱 及 び横綱 審議 委員 会 を参照 。
大関 大関 昇進 についての目安 は、平成 中期 以降 は「直近 3場所 が三 役 (関脇 ・小結 )で、その合計 の白星 数 が33勝 以上 」というものが定着 している。審判 部 がある力士 を大関 に昇進 させたいと判断 した場合 、審判 部長 は理事 長 に当該 力士 の大関 昇進 の可否 を審議 する臨時 理事 会 の開催 を要請 するが、理事 会 で昇進 が否決 された例 はないので、審判 部長 が臨時 理事 会 の開催 を要請 した時点 で事実 上 決定 すると言 われる。大関 からの陥落 については、番付 編成 要領 第 8条 において「2場所 連続 の負 け越 しで関脇 に陥落 する」としている。その際 関脇 の中 では最下位 に据 えられるのが通例 である。1場所 負 け越 した直後 の、ここでもう1場所 負 け越 せば陥落 する状況 を角番 と呼 ぶ。大関 陥落 直後 の関脇 については、同 条 において「10勝 以上 を挙 げると大関 に復帰 」とする特例 が設 けられている。新 大関 及 び大関 復帰 者 は番付 編成 会議 が終 わった時点 から大関 として扱 われ、番付 発表 までの間 は大関 であっても東西 や順位 がまだ発表 されていない状態 となる。ただし、近年 のケースでは新 大関 及 び大関 復帰 者 は角番 大関 の有無 に関 わらず同 じ大関 の中 で最下位 となる。大関 の顔 ぶれに変動 がない場合 であっても、同 じ大関 の中 での順位 は場所 ごとに変動 し、好成績 者 から順 に、東 正 位 、西 正 位 、東 2番手 (以前 の張 出 に相当 )、西 2番手 、東 3番手 (以前 の張 出 2番手 に相当 )、西 3番手 の順 となる。大関 #大関 への昇進 及 び角番 の項目 も参照 。
関脇 以下 の関取 (関脇 ・小結 ・前頭 (平幕 )・十 両 )勝 ち越 し1点 につき1枚 上 がり、負 け越 し1点 につき1枚 下 がるのが目安 とされるが、他 の力士 との兼 ね合 いや番付 運 などでその目安 から多少 外 れることも多 い。例 えば8勝 7敗 ・7勝 8敗 の場合 は、目安 からすると1枚 上昇 ・1枚 降下 となるが、実際 には2枚 程度 上下 したり東西 の移動 に留 まったりすることもあるし、あるいは場合 によっては番付 が動 かない(据 え置 き)ことも起 こり得 る。幕内 上位 では大 勝 ちしても(現在 では関脇 以下 がいきなり横綱 に昇進 することはもちろん、小結 以下 がいきなり大関 に昇進 することもよほど特殊 な状況 にならない限 りありえず、)上昇 幅 がそれほど大 きくないのは当然 として、幕内 下位 や十 両 でも大体 12勝 以上 の大 勝 ちや、大体 12敗 以上 の大 負 けの場合 、昇降 幅 が勝 ち越 し・負 け越 し点数 より若干 少 なくなる傾向 がある。関脇 ・小結 については、在籍 人数 の上限 は定 められていないが、東西 1人 ずつの2人 のみの場所 が多 く、横綱 ・大関 に比 べると同 じ地位 に3人 以上 の力士 が在籍 する(かつての張 出 に相当 )ことは少 ない。近年 でも時 として3関脇 以上 の番付 が発生 することがある(大関 からの陥落 者 や小結 の好成績 者 がいる場合 など)が、3小結 以上 の番付 は3関脇 以上 と比較 しても少 ない。3関脇 以上 や3小結 以上 が在籍 している場所 であっても、同 じ関脇 や小結 の中 での順位 については、横綱 や大関 に準 ずる。- 1971
年 (昭和 46年 )5月 場所 までは、前頭 5枚 目 以内 の力士 は成績 に関 わらず(たとえ全敗 であったとしても)翌 場所 十 両 に陥落 させないこととされ、また十 両 5枚 目 以内 の力士 も同様 に翌 場所 幕下 に陥落 させないとする規定 があったが、同年 7月 場所 より施行 の改正 要領 により5枚 目 以内 であっても成績 によっては陥落 することもありうるよう改 められた。
力士 養成 員 (幕下 ・三 段 目 ・序 二 段 ・序ノ口 ・番付 外 )審判 部 の内規 や過去 の傾向 から、以下 のような状況 では昇進 及 び陥落 が確実 とされる。昇進 が確実 な例 幕下 15枚 目 以内 で7戦 全勝 した力士 は、優先 的 に十両 昇進 の対象 となる内規 がある(この内規 の反対 解釈 として、幕下 の16枚 目 以下 で7戦 全勝 した力士 は、翌 場所 の番付 は幕下 の15枚 目 以内 とされる)。内規 ではないが、東 幕下 筆頭 で勝 ち越 した力士 は、翌 場所 の十両 昇進 が確実 とされる。三 段 目 以下 で7戦 全勝 した力士 は、優勝 したか否 かにかかわらず、1つ上 の段 に昇進 する。序ノ口 で勝 ち越 した力士 は、ほぼ確実 に序 二 段 に昇進 する。番付 外 から序ノ口 への昇進 (出世 )は、1番 でも前 相撲 を取 った力士 (全休 力士 以外 )が全員 対象 となる。その際 、序ノ口 で1勝 でも勝星 を上 げた力士 より上位 になることはない。そのため、序ノ口 で負 け越 した力士 が、番付 外 から昇進 した力士 に押 し上 げられる形 で序 二 段 に昇進 するなど、番付 が上昇 することが起 こり得 る。
陥落 が確実 な例 序ノ口 から番付 外 への陥落 は、全休 力士 のみが対象 となる。
- これらに
当 てはまらない場合 の昇進 及 び陥落 については、それに関 する内規 は特 にないが、関取 と比 べると1番 の重 みが大 きく、特 に下位 になるほどその傾向 が顕著 である。例 えば幕下 上位 で勝 ち越 した場合 の上昇 幅 は勝 ち越 し点 の2倍 が目安 となるし、三 段 目 や序 二 段 では勝 ち越 し・負 け越 し1点 につき10枚 ないし数 十 枚 上下 するなど、番付 が急激 に変化 する。 幕下 及 び序ノ口 で八 番 相撲 を取 った力士 の場合 、八 番 相撲 での白星 は番付 編成 に反映 されるが、八 番 相撲 での黒星 は番付 編成 に反映 されない(勝 ち得 ・負 け得 )。
休場 は負 けと見 なして番付 が編成 されるが、全休 の場合 は全敗 より低 い成績 という扱 いとなる。すなわち関脇 以下 の力士 の場合 、全休 力士 は全敗 力士 より下降 幅 が大 きくなる[29]。
行司 ・呼出 ・床山 の番付 編成
番付 は生 き物 [編集 ]
番付 表 [編集 ]
力士 記載
番付 表 の構成
中軸 -上 から順番 に最 上段 -幕内 力士 。右 半分 に東方 、左 半分 に西方 力士 を配 しており、右 端 から左端 に向 けて地位 が下 がるように順番 づけられている(二 段 目 以下 の力士 、及 び役員 ・行司 ・呼出 し・床山 も同様 )。地位 に応 じて文字 幅 を変化 させており、横綱 が幅 7分 5厘 (約 2.8cm)、大関 が6分 5厘 (約 2.5cm)、関脇 ・小結 が5分 5厘 (約 2.1cm)取 って、残 りを平幕 の枚数 で割 る。二 段 目 -十 両 ・幕下 力士 。十両 力士 が幕下 力士 よりも大 きく太 い字 で書 かれている。三 段 目 -三 段 目 力士 。四 段 目 -序 二 段 力士 。最 下段 -序ノ口 力士 及 び役員 。東西 ともに右 から約 5分 の1に序ノ口 力士 、残 りの部分 に役員 を書 く。右側 -右 から順番 に役員 (理事 [34]・副 理事 ・役員 待遇 ・委員 )・若者 頭 ・世話人 。左側 -右 から順番 に役員 (委員 の続 き[35]・主任 ・年寄 ・参与 )・呼出 し(十枚目 (十 両 )呼出 し以上 のみ掲載 )・床山 (一等 以上 のみ掲載 )[36]- 「此外
中前 相撲 東西 ニ御座 候 (このほかちゅうまえずもうとうざいにござそうろう)」 -番付 外 に本中 、前 相撲 力士 が東西 にいる、という意味 で、このうち本中 は廃止 され前 相撲 のみが現在 も残 っている。江戸 時代 には前 相撲 →相 中 →本中 と進 み、相 中 ・本中 を「中 (ちゅう)相撲 」といい、明治 になって相 中 がなくなった。1973年 (昭和 48年 )3月 場所 までは前 相撲 →本中 と進 み(1986年 (昭和 61年 )より番付 外 の取組 は全 て前 相撲 として扱 う)、新 序 出世 披露 を受 けると翌 場所 の番付 に四股 名 が記載 される。なお、幕下 付 け出 し及 び三 段 目 付 け出 しも初 土俵 の場所 は番付 には記載 されないが「番付 外 」とは呼 ばれない。 - 「
千 穐万 歳 大 々叶 (せんしゅうばんざいだいだいかのう)」 -千秋楽 までの土俵 の無事 と大入 り満員 を祈願 する言葉 。
1994
2004
また
2014
字体
作成
- その
他 の番付 表 あるいはそれに類似 するもの
本場所 興行 の際 、東京 場所 では国技 館 の櫓 の中 ほどに、地方 場所 では開催 会場 の入 り口 付近 に「板 番付 」[39]が興行 する場所 に宣伝 として掲 げられる。総 ヒノキ製 で高 さが約 2m、幅 が1.5mあり、幕下 格 行司 と三 段 目 格 行司 が3人 がかりで4~5日 かけて書 き上 げる(製作 中 〈「最後 の仕上 げ」[40]〉[41]、完成 〈「できあがった板 番付 」[42]〉)。なお板 番付 では出身 地 と四股 名 の間 を詰 めて書 かれるので、改名 力士 についての「〇〇〇(旧 四股 名 )改 」は書 かれない。場所 が終 わるとかんなで削 って文字 を消 し、また同 じ板 に翌 場所 の番付 が書 かれる。板 番付 は紙 番付 よりも歴史 は古 く、興行 地 において力士 の顔 ぶれを記 したいわば立 看板 的 な役割 を果 たしていた[43]。現在 の板 番付 は、屋根 に当 たる部分 が「入山 形 」と呼 ばれる「入 」の字形 に作 られるが、これは大入 り満員 を祈念 したものである。相撲 部屋 の稽古 場 の壁 に下 げられる木製 の札 を「番付 札 」(伊勢 ヶ濱 部屋 の番付 札 )といい、一 枚 ごとに所属 部屋 力士 の四股 名 が書 かれている。横綱 を先頭 にして地位 の順 に並 べられる。部屋 によって並 べ方 が違 うが、親方 (年寄 )、行司 、呼出 、床山 の名 も同様 に並 べられる。歴代 の関取 の四股 名 を揚 げている部屋 もある。- 1957
年 (昭和 32年 )以前 に部屋 単位 、またはいくつかの部屋 の合同 など、小 集団 の巡業 を行 うときは「巡業 番付 」が作 られることがあった[1](1879年 (明治 12年 )~1881年 (明治 14年 )頃 の巡業 番付 、14代 横綱 境川 浪 右 エ門 の名 がある[44]。横綱 、大関 など上位 力士 がいない場合 は、その中 の一番 上位 の力士 を大関 に据 えるようにした。1939年 (昭和 14年 )5月 に角界 一 の大部屋 、出羽海 一門 で巡業 が行 われ、その時 作 られた巡業 番付 には鏡岩 のほかに、1月 場所 で優勝 した出羽 湊 が大関 に据 えられている。現在 では協会 全体 で巡業 が行 われるため巡業 番付 は作 られない。 引退 相撲 や、年寄 名跡 の襲名 披露 興行 などのために作成 された番付 も存在 する。歴史 的 には、古 くは「偽 番付 」というものがあり、次 のようなものが確認 されている。宝 暦 3年 (1753)のものと称 されるもの。架空 の四股 名 を並 べ立 てたもので、当時 まだいなかったはずの式 守 伊之助 が掲載 されている。寛永 元年 (1624)興行 と銘打 った番付 。様々 な時代 の四股 名 を混 ぜている。明治 20年代 の末 、元 横綱 陣 幕 が横綱 力士 碑 を建 てるための資金 集 めの一環 として創作 したもの。
番付 表 の歴史
これ
1917
番付 表 の販売
特殊 事情 の場合 [編集 ]
ただし、1971
1976
2007
2008
2008
2010
2011
2020
2021
番付 表 を書 いてきた行司 等 の歴代 [編集 ]
根岸 治 右 衛門 兼吉 (1887年 ~)千田 川 喜三郎 (大阪 三 役 格 行司 ・木村 喜三郎 、1932年 ~1942年 )小川 治 三郎 (1942年 ~1944年 )- 5
代 式 守 鬼 一郎 (初代 式 守 伊三郎 時代 の1944年 ~1951年 9月場所 ) - 5
代 式 守 勘 太夫 (1952年 1月 場所 ~1966年 9月場所 、1958年 3月 場所 を最後 に行司 (三 役 格 )を引退 するが、その後 も6代 鏡山 勘 太夫 として停年 (定年 。以下 同 )退職 するまで番付 を書 いた。読売新聞 東京 本社 発行 の雑誌 「大相撲 」(現在 は刊行 せず)の表紙 題字 [3]で有名 ) - 10代
式 守 与太 夫 (1966年 11月場所 (式 守 清三郎 時代 )~1982年 9月場所 ) - 6
代 木村 庄二郎 (1982年 11月場所 ~1984年 11月場所 ) - 2
代 木村 容堂 (1985年 1月 場所 (3代 木村 林之助 時代 )~2000年 1月 場所 ) - 10代
式 守 勘 太夫 (2000年 3月 場所 (式 守 敏廣 、9代 式 守 與 之 吉 時代 )~2007年 9月場所 ) - 3
代 木村 容堂 (2007年 11月場所 (木村 恵之助 時代 )~2023年 1月 場所 ) - 2
代 木村 要之助 (2023年 3月 場所 ~ )
番付 に纏 わるエピソード[編集 ]
江戸 時代 [編集 ]
- 1726
年 (享 保 11年 )の番付 に4代 木村 庄 之 助 (史実 としての初代 とされる)の名前 が見 られる。ちなみに初代 式 守 伊之助 の名前 は1767年 (明和 4年 )の番付 に見 られる。 江戸 相撲 の最初 期 の番付 (現存 最古 の1757年 (宝 暦 7年 )10月 場所 から数 場所 )は7段 または8段 編成 で、それには本中 ・相 中 (中 )や前 相撲 (前 )の力士 も7段 編成 の場合 はそれぞれ下 から2段 目 (上 から6段 目 )・最 下段 (上 から7段 目 )、8段 編成 の場合 はそれぞれ下 から3段 目 ・2段 目 (上 から6段 目 ・7段 目 )・最 下段 (上 から8段 目 )に掲載 されている。その後 しばらくの間 は本中 ・相 中 ・前 相撲 の掲載 されない6段 編成 (上 から5段 目 ・6段 目 の頭書 は「同 」(前頭 の扱 い))の時期 を経 て5段 編成 が定着 した。ただし、寛政 期 の一時期 には6段 編成 で最 下段 が本中 ・間 中 (相 中 )となっている番付 も発行 されている。- 1767
年 3月 場所 、荒 熊 が西方 幕内 格 番付 外 で出場 (相撲 番付 の歴史 上 、宝 暦 以降 では初 めて)した。これ以降 、幕内 格 番付 外 で出場 した力士 は1932年 5月 場所 の出羽 ヶ嶽 までのべ70人 がいる。この中 には1859年 (安政 6年 )1月 場所 の陣 幕 、1882年 (明治 15年 )1月 場所 の初代 西 ノ海 がいる。西 ノ海 はこの場所 が新 入幕 だった。 - 1768
年 (明和 5年 )11月場所 は番付 を欠 き(番付 が未 発見 のため)、2大関 (岩根 山 、大矢 嶌 ?、2人 とも看板 大関 )の他 幕内 10力士 は地位 が不明 。 - 1790
年 (寛政 2年 )11月場所 で、西 関脇 に付 け出 された雷電 爲 右 エ門 が江戸 本場所 に初 登場 したが、東 前頭 3枚 目 に雷電 灘 之 助 がいたため、東西 に“雷電 ”が相対 する珍 番付 となった。 - 1794
年 (寛政 6年 )11月場所 の番付 で、当時 6歳 の大童 山 が怪童 という触 れ込 みで、西方 前頭 に張 り出 された。これ以降 、怪童 で番付 に載 ったのは嘉 永 年間 (1848-1854年 )の鬼 若 、鬼 勝 、大 童子 。安政 年間 (1854-1860年 )には柏 嶽 、大 纒 、舞鶴 がいる。他 に巨人 力士 として、1844年 (天保 15年 )10月 場所 の生月 、1863年 (文久 3年 )11月場所 の皆瀬川 がおり、いずれも前頭 に張 り出 されている。 - 1798
年 (寛政 10年 )3月 場所 の番付 から、二 段 目 以下 の地位 表示 が「同 」で一括 されるようになった。それまでは二 段 目 (宝 暦年 間 は場所 によっては三 段 目 ・四 段 目 の一部 も)の地位 表示 は1人 ずつ「前頭 」と書 かれていた。この場所 から1889年 (明治 22年 )5月 場所 に十 両 の地位 表示 が1人 ずつ「前頭 」と書 かれるまでは、二 段 目 全体 の地位 表示 が「同 」を連 ねた形 となっていた。 初期 の番付 は、東西 のそれぞれ幕内 (上段 )上側 に書 かれる東西 の表示 が、右側 に「東方 」「西方 」、大関 の上 に「東方 」「西方 」で関脇 以下 の上 に四股 名 1人 ずつに「同 同 同 …」、中央 揃 えで「東方 」「西方 」、「東 ノ方 」「西 ノ方 」、「東 の方 」「西 の方 」、「東之 方 」「西之 方 」など、場所 によって様々 に書 かれ、統一 されていなかった。 1819年 (文政 2年 )11月場所 の番付 より、初 めて「東 」「西 」とだけ書 かれた番付 が出現 したが、それ以降 もしばらくは場所 によっては「東方 」「西方 」、「東 ノ方 」「西 ノ方 」、「東 の方 」「西 の方 」、「東之 方 」「西之 方 」などのように書 かれた番付 が発行 されていた。このような単 に「東 」「西 」とする以外 の東西 表示 は1847年 (弘 化 4年 )10月 場所 を最後 に消滅 し、それ以降 は全 て単 に「東 」「西 」とだけ書 かれることが定着 するようになった。- 1863
年 7月 場所 、新 関脇 に昇進 した陣 幕 は番付 上 では張 出 関脇 となり、関脇 の張 出 はこれが最初 となった。ちなみに張 出 横綱 (一人 横綱 の張 出 は除 く)は1904年 (明治 37年 )1月 場所 の大砲 、張 出 大関 は1890年 5月 場所 の剣山 、張 出 小結 は1888年 5月 場所 の嵐山 、張 出 前頭 は1793年 (寛政 5年 )3月 場所 の関 ノ戸 がそれぞれ張 出 の最初 である。
明治 時代 [編集 ]
大坂 相撲 において1869年 (明治 2年 )3月 場所 の番付 は、横綱 (番付 上 は大関 )陣 幕 以下 幕内 が22人 。そのうち新 入幕 が17人 もおり、その中 にはいきなり小結 に据 えられた初代 梅 ヶ谷 がいた。- 1882
年 6月 場所 より、成績 に応 じて番付 を編成 するようになった。 - 1888
年 5月 場所 、京都 相撲 より東京 相撲 に編入 した一 ノ矢 鶴吉 は、当時 関脇 に一 ノ矢 藤太郎 (のち大関 )がいたため「達 ノ矢 」と改名 した。 - 1890
年 5月 場所 では、横綱 免許 をうけた大関 初代 西 ノ海 (16代 横綱 )が、張 出 大関 になることに不満 をもらしたため、これをなだめるために同年 5月 場所 で番付 にはじめて「横綱 」の文字 をいれ、東 に張 出 の形式 で配置 した。これをきっかけに、東西 で東 が上位 の扱 いを受 けることになった[50]。 - 1892
年 (明治 25年 )6月 場所 新 入幕 の大砲 は、番付 には「大 炮」と書 かれた(読 み方 は同 じ「おおづつ」、序 二 段 時代 の1888年 5月 場所 に改名 )。幕内 で「大 炮」と書 かれたのは、この場所 を含 め1898年 (明治 31年 )5月 場所 まで13場所 中 4場所 あった。 - 1900
年 (明治 33年 )1月 場所 で常陸山 が新 関脇 に昇進 以降 、1959年 (昭和 34年 )1月 場所 の横綱 千代 の山 の引退 まで、出羽海 部屋 (常陸山 の当時 は「出羽 ノ海部 屋 」)は約 60年間 138場所 の間 番付 上 に役 力士 の四股 名 を欠 かすことがなかった。 大坂 相撲 において1905年 (明治 38年 )6月 場所 の番付 で、前頭 6枚 目 にい助 治郎 が新 入幕 。四股 名 が平仮名 一 字 の「い」で、読 み方 は「かながしら」と呼 ぶが、番付 には「い助 治郎 」と書 かれている。東京 相撲 で初 めて「横綱 」の文字 が載 った1890年 (明治 23年 )5月 場所 の番付 で、序ノ口 西 最下位 にも「イ吉三 」なる力士 の四股 名 が載 っている。1906年 (明治 39年 )5月 場所 の番付 では、前頭 10枚 目 の白川 寅太郎 が、この場所 5日 目 より四股 名 を「ステッセル」と改名 している。「ステッセル」は場所 中 の改名 だったため、この場所 の番付 には載 らず、翌 (場所 の)1907年 (明治 40年 )1月 場所 には、元 の四股 名 「白川 」に戻 している(四股 名 #変 わった四股 名 の項 参照 )。
大正 時代 [編集 ]
1909
- 1915
年 1月 場所 の番付 は、西方 に正 横綱 の太刀 山 、張 出 横綱 の2代 梅 ヶ谷 を据 え、東方 には横綱 がいないという、変則 番付 となった。同様 の番付 は翌 1916年 1月 場所 の太刀 山 (西方 正 横綱 )、鳳 (同 張 出 横綱 )、1921年 (大正 10年 )1月 場所 の大 錦 (西方 正 横綱 )、栃木 山 (同 張 出 横綱 )など(逆 に東方 のみに横綱 を据 えた番付 もある)がある。大 錦 、栃木 山 の場合 は同 じ出羽 ノ海部 屋 の力士 であり、さらに当時 は東西 制 のため2人 を東西 に分 けることは出来 ない。違 う変則 番付 として1918年 (大正 7年 )5月 場所 の番付 で、四 横綱 (大 錦 、鳳 、栃木 山 、2代 西 ノ海 )のうち張 出 横綱 2人 (栃木 山 、2代 西 ノ海 )が同 じ東方 に張 り出 された(相撲 番付 の歴史 上 、横綱 2人 が同 じ方 屋 に張 り出 されたのはこの場所 のみ)。また四 大関 (九州 山 、千葉 ヶ嵜、伊勢 ノ濱 、2代 朝 潮 )のうち張 出 大関 2人 (伊勢 ノ濱 、2代 朝 潮 )は同 じ西方 に張 り出 されている 大坂 相撲 において1917年 1月 場所 、大関 昇進 を果 たした朝日 松 は、前年 暮 れにトラブルを起 こし師匠 から破門 され、晴 れ姿 は幻 に終 わった。この場所 の番付 には西 大関 朝日 松 清治 郎 の箇所 に、「朝日 松 清治 郎 ハ昨冬 除名 仕 候 」という張 り紙 がされた。朝日 松 は以前 にも東京 相撲 において1913年 (大正 2年 )5月 場所 初日 、控 え力士 として物言 いをつけたものの受 け入 れられず、相撲 を取 らずに退場 し破門 され大坂 相撲 に復帰 したことがあった。朝日 松 は翌 6月 場所 に復帰 を許 され、前頭 筆頭 格 として番付 外 で出場 し、その後 関脇 まで番付 を上 げたが、再 び大関 にはなれなかった。- 1918
年 1月 場所 で、史上 初 めて横綱 ・大関 ・関脇 ・小結 ・前頭 の全 てに張 出 (横綱 -2代 西 ノ海 、鳳 、大関 -伊勢 ノ濱 、関脇 -両國 、小結 -黒瀬川 、前頭 -鶴 渡 )が設 けられた番付 が発行 された。 大坂 相撲 において1923年 (大正 12年 )5月 場所 前 、「龍神 事件 」と呼 ばれる大 紛擾 が起 こり、幕下 以下 の力士 らにて興行 。紛争 は大 もめとなり、上 州 山 と大木戸 の両 大関 をはじめ多数 の廃業 力士 が出 た(幕内 だけで20人 の廃業 、のち3人 が復帰 )。よって同年 6月 場所 の番付 は横綱 宮城 山 をはじめ残留 力士 (幕内 は横綱 以下 、関脇 、小結 が各 1人 、平幕 13人 の計 16人 )によって番付 が改訂 され幕内 のみ片 番付 で興行 した。- 1924
年 (大正 13年 )5月 場所 、先 (1月 )場所 優勝 した栃木 山 は西 の正 横綱 であったが、この場所 の番付 は東 の張 出 横綱 となった。東西 制 だったので東西 が入 れ替 わって、西 の正 横綱 は3代 西 ノ海 、東 の正 横綱 は新 横綱 の常 ノ花 で、優勝 した栃木 山 が張 出 となった。この場所 10勝 1敗 で8回 目 の優勝 、翌 1925年 (大正 14年 )1月 場所 も同 地位 で10勝 1分 で9回 目 の優勝 を3連覇 で飾 ったが、番付 上 では最後 の場所 となった翌 同年 5月 場所 は西 の張 出 横綱 であった。一説 には1923年 の関東大震災 による両国 国技 館 焼失 の際 、常 ノ花 後援 会 から多額 の再建 資金 が寄付 されたことに報 いるためだったともされる。栃木 山 をなだめるため、彼 の名 は東西 正 横綱 の常 ノ花 、3代 西 ノ海 よりこころもち太 く書 き出 され、「別格 横綱 」の意味合 いが与 えられたが、3連覇 後 の突然 の引退 表明 には、これらの処置 への不満 があったのではないかとも言 われている。 大坂 相撲 最後 の本場所 となった1926年 1月 場所 は、当時 日本 の領土 となっていた台湾 の台北 市 で興行 したが、番付 には興行 地 は記載 されなかった。
昭和 時代 [編集 ]
- 1927
年 (昭和 2年 )の東西 合併 から春秋 園 事件 が起 こった1932年 までの間 、番付 編成 の基準 はめまぐるしく変化 し(東京 開催 と関西 開催 を交互 に行 う年 4場所 制 だったが、東京 場所 の番付 は東京 場所 の成績 を基準 に作成 され、関西 場所 も同様 に作成 された、など。)、力士 の地位 ・出世 にも影響 を及 ぼした。 東西 相撲 合併 後 の1927年 1月 場所 、年寄 定員 88名 に大阪 方 17名 を加 え105名 に増員 (うち2名 は一 代 年寄 )。この場所 の番付 の「年寄 」の欄 には現在 の番付 と違 い、「年寄 」と書 かれた下部 に小 さく「イロハ順 」と書 かれており、いろはの順番 に年寄 名 が記載 されていた。- 1928
年 (昭和 3年 )10月 、広島 に於 いて晴天 11日間 興行 されたが、今後 関西 本場所 は番付 を発表 せず、直前 の東京 場所 番付 をもってすることとなった(1932年 10月 、関西 本場所 廃止 まで)。 - 1931
年 (昭和 6年 )1月 場所 千秋楽 、横綱 宮城 山 が引退 を表明 し、次 に編成 された5月 場所 の番付 は、1890年 5月 場所 に『横綱 』の地位 記載 を始 めて以来 初 めて横綱 不在 の番付 (翌 1932年 10月 場所 まで)となった。 - 1931
年 5月 場所 の番付 は、西方 幕内 を出羽海 部屋 力士 が独占 した。大関 大 ノ里 以下 20人 がすべて出羽海 部屋 所属 である。これは大相撲 史上 空前絶後 の記録 で、十両 も22人 中 10人 と半数 近 くを占 めた。対 する東方 幕内 は立浪 部屋 の3人 が最多 だった。 - 1933
年 (昭和 8年 )1月 場所 の番付 は前年 に起 きた春秋 園 事件 で発足 した、錦 洋 一派 の大 日本 相撲 連盟 から脱退 し、協会 へ帰参 した幕内 格 12名 、十両 格 8名 は協会 脱退 当時 (1932年 1月 )の順位 で東西 を分 けず、地位 も記 さず別席 として四股 名 を連 ねた番付 を別 に添付 した。この場所 の番付 は従来 より小型 となった。翌 5月 場所 には元 の大 きさに戻 った。 - 1933
年 2月 、天竜 一派 の新興 力士 団 が「大 日本 関西 角力 協会 」を結成 。大阪 で第 一 回 本場所 開催 のおり発行 された番付 (東西 制 はなく片 番付 様式 )には大関 天竜 、関脇 大 ノ里 、小結 錦 洋 以下 力士 41人 。行司 (番付 には行司 ではなく「審判 員 」と書 かれている)7人 (この中 にのちの24代 木村 庄 之 助 (当時 は初代 式 守 伊三郎 )がいる)。他 に「事務 員 」「拡声 係 」「桟敷 係 」「世話人 」が書 かれている。 - 1934
年 (昭和 9年 )5月 場所 の番付 より、幕下 以下 の力士 全員 の出身 地名 が記載 された。 相撲 界 を揺 るがした「春秋 園 事件 」も1937年 (昭和 12年 )暮 れに関西 角力 協会 がついに解散 。それに伴 い帰参 した力士 の番付 編入 は厳 しい扱 いだった。1938年 1月 場所 の番付 では帰参 力士 は脱退 時 の番付 地位 より一段 下 に編入 。関西 の入門 者 で幕内 ・十両 となった者 は幕下 に、それ以下 の者 は新 弟子 扱 いとなった。- 1939
年 1月 場所 、日 中 戦争 (支 那 事変 )の激化 で応召 ・入営 力士 が増 え、番付 にはその力士 の上 に「応召 」・「入営 」と書 き加 えた。1940年 5月 場所 には応召 ・入営 力士 は番付 の欄外 に一括 された。 - 1939
年 5月 場所 の番付 編成 において、1月 場所 4日 目 の前頭 3枚 目 安藝 ノ海 戦 で、連勝 記録 が「69」で止 まった横綱 双葉 山 は9勝 4敗 と振 るわなかったが、11勝 2敗 と双葉 山 より成績 の良 かった横綱 男女 ノ川 を差 し置 いて、連勝 記録 の実績 を評価 され東 正 横綱 に据 えられた。 - 1941
年 (昭和 16年 )1月 場所 で安藝 ノ海 、五 ツ嶌 の同時 大関 昇進 で、前田 山 を含 めて番付 の東方 に3大関 が並 んだ(西方 は羽黒山 1人 )。これは1919年 (大正 8年 )1月 場所 (西方 に2代 朝 潮 、千葉 ヶ嵜、伊勢 ノ濱 。東方 は九州 山 1人 )以来 22年 ぶりの変則 番付 となった。 - 1942
年 (昭和 17年 )1月 場所 の番付 より、機密 隠匿 のため応召 および入営 力士 の欄外 張 出 はされなくなった。 - 1944
年 (昭和 19年 )11月場所 後 の番付 編成 会議 は、力士 の応召 などの関係 から次場 所 (1945年 (昭和 20年 )5月 場所 )開催 の1ヶ月 前 に行 うことになった。その5月場所 は空襲 の影響 により6月 に順延 となった。 戦後 初 の1945年 (昭和 20年 )11月(秋 )場所 の番付 はザラ紙 の小型 版 で序ノ口 力士 はなく、記載 力士 はわずか216人 だった。またその次 の1946年 (昭和 21年 )11月場所 も序ノ口 力士 が1人 もおらず、その次 の1947年 (昭和 22年 )の番付 では3場所 ぶりに序ノ口 力士 が復活 したが、その場所 のみ例外 的 に序 二 段 力士 と序ノ口 力士 が同 じ下 から2段 目 (上 から4段 目 )に書 かれた。- 1948
年 5月 場所 で、横綱 ・大関 ・関脇 各 3人 の番付 ながら張 出 を設 けず、すべて枠 内 に四股 名 が記載 された番付 となった。翌 10月 場所 も横綱 ・大関 各 3人 がすべて枠 内 に書 かれた。このときはこの2場所 のみだったが、1994年 (平成 6年 )7月 場所 に張 出 制度 が休止 されて以降 、番付 は張 出 なしのまま現在 に至 っている。 - 1956
年 1月 場所 より、前頭 ・十 両 ・幕下 ・三 段 目 ・序 二 段 ・序ノ口 の各 地位 については、張 出 以外 の番付 記載 力士 が偶数 人数 であれば東西 の枚数 を同 じにし、奇数 人数 であれば東 を西 より1枚 多 くするルールが定着 した。それ以前 はこれらの各 地位 において、奇数 人数 で西 が1枚 多 かったり、あるいは東西 の枚数 に2枚 以上 差 がある例 もあった。 - 1951
年 (昭和 26年 )5月 場所 の番付 編成 で、三 役 格 行司 の8代 木村 庄三郎 (のち19代 式 守 伊之助 )を新設 された副 立 行司 に昇格 させ、立 行司 の13代 木村 玉之助 が同 じ副 立 行司 に格下 げとなった。同年 9月 場所 にも三 役 格 行司 2代 木村 正直 (のち23代 木村 庄 之 助 )が副 立 行司 に昇格 となった。 - 1955
年 1月 場所 と3月 場所 の番付 で、いずれも4横綱 の番付 ではあるが、両 場所 とも東方 は正 横綱 (1月 、3月 場所 =千代 の山 )、張 出 横綱 (1月 場所 =鏡 里 、3月 場所 =吉 葉山 )各 1人 、西方 は2人 とも正 横綱 (1月 場所 =栃 錦 、吉 葉山 、3月 場所 =栃 錦 、鏡 里 )という珍 しい番付 となった。これは二 場所 とも東方 に大関 が三根 山 1人 で西方 には大関 が不在 のためである。 - 1956
年 (昭和 31年 )3月 場所 の番付 は1918年 1月 場所 以来 38年 ぶりに、横綱 ・大関 ・関脇 ・小結 ・前頭 に張 出 (横綱 -栃 錦 、千代 の山 、大関 -松 登 、関脇 -羽 嶋 山 、小結 -鶴 ヶ嶺 、前頭 -星 甲 )がある番付 となった。翌 5月 場所 も同様 (横綱 -鏡 里 、千代 の山 、大関 -松 登 、関脇 -出羽 錦 、小結 -羽 嶋 山 、前頭 -二瀬 山 )に各 地位 に張 出 がある番付 となった。 - 1957
年 3月 場所 の番付 で、平幕 が東西 23枚 と史上 最多 (同年 9月 場所 も)となった。ちなみに、戦後 において一 場所 最多 の幕内 力士 数 は、同 場所 より11月 場所 まで4場所 続 いた58人 。また十 両 もこの4場所 は東西 23枚 46人 (十 両 は1958年 (昭和 33年 )のみ6場所 連続 、東西 24枚 48人 が最多 )おり、関取 が実 に104人 という時代 であった。同 じく一 場所 最多 の横綱 及 び三 役 の力士 数 は1961年 (昭和 36年 )9月 場所 と翌 11月 場所 の15人 。逆 に一 場所 最少 の幕内 力士 数 は、1967年 5月 場所 から1971年 11月場所 の34人 。 - 1959
年 5月場所 は、東 横綱 栃 錦 と東 張 出 横綱 初代 若乃花 がともに14勝 1敗 で優勝 決定 戦 となり、若乃花 が優勝 したが、翌 7月 場所 の番付 では優勝 同点 の栃 錦 が東 横綱 にとどまり、若乃花 は西 横綱 だった。「優勝 決定 戦 での勝敗 それ自体 は番付 に影響 しない」原則 がはじめて明確 に示 された形 であり、その後 も同様 のケース(1971年 1月 場所 の大鵬 -玉 の海 や1988年 3月 場所 の大 乃国-北勝海 など)のたびに、優勝 力士 が同点 力士 の下位 に留 めおかれるのは不合理 ではないかとの議論 を呼 んだ。1997年 9月場所 後 の理事 会 での改定 により、現在 では同 地位 の力士 同士 の決定 戦 で下位 の力士 が優勝 した場合 、翌 場所 の番付 では優勝 力士 を上位 にまわすことになっている。 - 1960
年 1月 場所 、これまでの番付 を改 め「取締 」「理事 」を東方 の最 下段 に、「勝負 を司 る者 を中央 に」という考察 で「勝負 検査 役 」を中央 部 の「行司 」の欄 の下部 に配 した。「若者 頭 」については51年 ぶり、「世話人 」「呼出 」については11年 ぶりに削除 した。また協会 の所在地 を番付 に初 めて記載 した。 - 1960
年 1月 場所 の番付 で、1959年 10月3日 に春日野 (元 横綱 栃木 山 )が亡 くなり、弟子 の横綱 栃 錦 が現役 のまま春日野 を襲名 することになり、1958年 に廃止 された二 枚 鑑札 を特例 として認 められ、現役 引退 する5月 場所 まで年寄 の欄 にも「春日野 清隆 」と記載 された。 - 1960
年 7月 場所 後 に興行 された、秋田 県 大館 巡業 において作 られた板 番付 には、東方 張 出 大関 の柏戸 は枠外 に書 かれているのに、同 じ東方 で枠 内 に書 かれている関脇 の若 三 杉 (のち大 豪 )は、普通 なら東 の正 関脇 のはずが何故 か「関脇 」の文字 の上部 に、小 さく「張出 し」と書 かれている。 - 1961
年 11月場所 、大関 ・関脇 ・小結 は張 出 がある番付 で、横綱 (初代 若乃花 、大鵬 、柏戸 、3代 朝 潮 の4人 )のみ、張 出 を設 けず4人 を正 横綱 とし枠 内 に記載 された番付 となった。途中 朝 潮 の引退 もあったが、この様式 の番付 は翌年 3月 場所 まで続 いた。 - 1963
年 3月 場所 の番付 は西 前頭 9枚 目 宇多川 の四股 名 が誤記 により「宇田川 」で発行 。番付 発表 後 、部屋 より苦情 があり一門 用 に「宇多川 」と訂正 した番付 を少数 だけ再 印刷 した。 - 1968
年 1月 場所 の番付 では、前 場所 三 段 目 や序 二 段 で全休 した17人 と全敗 した1人 を50枚 から100枚 余分 に下 げすぎていたことによる前代未聞 の大量 の誤 編成 が発覚 した。中 には三 段 目 が序ノ口 に落 とされていた例 もあった。協会 では誤 りのあった力士 を訂正 した地位 へ挿入 する形 を取 り、序 二 段 については順次 繰 り下 げられ、序ノ口 については順次 繰 り上 げられた。下位 力士 との理由 で訂正 番付 は再 印刷 されず、相撲 協会 と相撲 博物館 は、既 に刷 り上 がっている番付 に訂正 を加 えて「正式 番付 」として保存 する措置 を取 った。当時 の話 によれば、全休 ・全敗 力士 は番付 編成 を進 めるときにその対象 から外 し、編成 終了 時 に適当 な所 にはめこむ形 を取 っており、今回 はうっかりして下位 の18人 を1段 間違 えたり、数 十 枚 も間違 えていたとのことだった。 - 1972
年 5月 場所 、前 場所 直前 に25代 木村 庄 之 助 が廃業 、協会 は11月場所 まで庄 之 助 を空位 にすると発表 したため立 行司 が22代 式 守 伊之助 1人 となった。1960年 1月 場所 以降 立 行司 (2人 )と三 役 格 行司 (3人 )は二 段 に分 けて書 かれていたが、バランスをとるため伊之助 の横 に三 役 格 3人 を並 べて書 いた。その後 庄 之 助 と伊之助 が揃 っても5人 並 べて書 かれていたが、1985年 1月 場所 から再 び立 行司 と三 役 格 行司 は二 段 に分 けて書 かれるようになった。 - 1972
年 9月 場所 、十両 で初 の公傷 制度 が適用 され、大潮 と鷲羽山 が前 場所 の番付 と同 地位 で張 り出 された(大潮 は東 5枚 目 、鷲羽山 は西 10枚 目 )。その後 、1976年 (昭和 51年 )5月 場所 に十 両 の公傷 休場 力士 の張 出 扱 いを休止 した。 - 1972
年 11月場所 の番付 で東 前頭 14枚 目 福 の花 の四股 名 が行司 の誤記 により「福 ノ花 孝一 」と書 かれた。 - 1974
年 1月 場所 の番付 で西 大関 大 受の出身 地 が誤記 により「青森 」に。石油 危機 により再 印刷 をせず、既 に印刷 済 みの番付 に「北海道 」と正 しい出身 地 を書 いた紙 を貼 り訂正 した。関係 者 には訂正 再 印刷 した番付 を発行 。 - 1975
年 3月 場所 の番付 は、1948年 10月 場所 以来 27年 ぶりに張 出 のない番付 となったが、横綱 から小結 まで2名 ずつという純粋 に人数 ぎりぎりになったのは昭和 以降 初 めてであった。 - 1980
年 9月 場所 5日 目 より幕内 格 行司 木村 筆 之 助 が糖尿 病 により長期 の病気 休場 となった。取組 中 力士 と接触 したり、勝負 が決 まる前 に転倒 するなど失態 が多 かった。晩年 の1984年 (昭和 59年 )1月 場所 より“別格 扱 い”となり、番付 の行司 欄 最下位 に記載 されるようになり、土俵 に復帰 することなく同年 5月 場所 前 に亡 くなった。 - 1981
年 9月 場所 の番付 は大関 不在 のため東西 の正 横綱 、北 の湖 と千代 の富士 が「横綱 大関 」となる。大関 不在 の変則 番付 は1905年 (明治 38年 )1月 場所 (2代 梅 ヶ谷 、常陸山 の東西 正 横綱 が「横綱 大関 」となる)以来 76年 ぶり。 - 1983
年 (昭和 58年 )5月 場所 の番付 編成 において、大関 にも公傷 制度 を適用 することとなった。同年 9月 場所 8日 目 に朝 潮 が横綱 隆 の里 戦 で膝 を痛 めて休場 し、大関 公傷 適用 第 1号 となった。 - 1984
年 1月 場所 の番付 で、西方 序ノ口 に張 出 (公傷 扱 いによる)が書 かれた番付 が発行 された。最 下段 の「千 穐万 歳 大 々叶 」と書 いてある左側 (西方 )欄外 にごく小 さく「小岩井 昭和 [51]」と書 かれてあった。当時 は番付 に公傷 制度 による張 出 が幕下 以下 にも度々 見 られたが、序ノ口 の張 出 はごく稀 なケースである。 - 1985
年 (昭和 60年 )1月 場所 より新 国技 館 で開催 されたが、番付 には「両国 國技 館 」ではなく「國技 館 」と、「両国 」の文字 は入 らなかった(蔵前 国技 館 時代 の番付 には「藏前 國技 館 」と書 かれていた)。
平成 時代 [編集 ]
- 1989
年 1月 場所 の番付 において、前 場所 序 二 段 東 114枚 目 で7戦 全勝 だった二子 桜 (のちの幕内 ・力 櫻 )は、内規 により三 段 目 に昇進 できるはずだったが、発表 された番付 では序 二 段 東 44枚 目 に据 え置 かれていた。これに師匠 の二子山 理事 長 (元 横綱 初代 若乃花 )が抗議 し、二子 桜 は1月 場所 を三 段 目 最下位 格 扱 いで相撲 をとった。審判 部 が、前 場所 の序 二 段 の優勝 決定 戦 での二 子 桜 の敗戦 を本場所 でのそれと勘違 いしていたことによるミスであった。 - 1992
年 5月 場所 の番付 より、立 行司 の代数 が記載 されるようになった。当時 木村 庄 之 助 は28代 、式 守 伊之助 は26代 であった。 - 1994
年 (平成 6年 )5月 場所 の番付 で、同 じ四股 名 の力士 が記載 されるミスがあった。序 二 段 西 101枚 目 と序ノ口 東 30枚 目 の力士 はいずれも「小谷 」。二人 は兵庫 県 出身 の兄弟 で、序 二 段 が兄 で二子山 部屋 、序ノ口 が大鵬 部屋 の力士 。弟 は3月 場所 初 土俵 で、5月場所 初 めて番付 に四股 名 が載 った。弟 は「大小 谷 」で四股 名 を届 けたはず、と首 をかしげたが、結局 急遽 改 めて改名 届 を提出 し、5月場所 は「大小 谷 」で土俵 に上 がった。またこの場所 の番付 に掲載 された力士 は934人 となり史上 最多 となった。 - 1994
年 7月 場所 の番付 で、前 場所 までの「審判 委員 」(1968年 1月 に「勝負 検査 役 」より改称 )が、1887年 (明治 20年 )1月 場所 の番付 に初 めて「勝負 検査 役 」を記載 以来 番付 から消 え、1959年 11月場所 以来 、「若者 頭 」「世話人 」「呼出 」が番付 上 に復活 した。同時 に、「委員 」「年寄 」は就任 年月日 順 に番付 に記載 されるようになった。なお、「呼出 」は立 呼出 ・副 立 呼出 ・三 役 呼出 ・幕内 呼出 ・十両 呼出 が記載 されて幕下 呼出 以下 は記載 されない。 - 1994
年 10月 20日 、2日 前 に停年 退職 した若者 頭 ・伊勢 錦 の後任 として同年 9月 場所 、西 幕下 15枚 目 で1勝 6敗 に終 わった花 ノ国 が若者 頭 に就任 する事 が承認 され同年 11月 場所 は現役 力士 と若者 頭 の同 一人物 の番付 面 での重複 を避 けるため、幕下 は東方 が従来 の60枚 目 まであったのに対 し、西方 は花 ノ国 の名 が抜 かれ1枚 減 らされ、59枚 になっている。 - 2000
年 9月 場所 後 、序 二 段 力士 持丸 は四股 名 を「挑持丸 (ちょうじまる)」と改名 する旨 届 け出 たが、番付 には「桃 持丸 」と誤記 され(読 みはちょうじまる)、それを正式 名 として一 場所 を勤 めた。翌 11月 場所 終了 後 に再 び改名 届 けを出 し2001年 1月 場所 から改 めて「挑持丸 」となった。この一 場所 限 りの改名 は誤記 によるものとはいえ正式 に協会 の記録 として残 っている[52]。 - 2008
年 9月 場所 の番付 より前 場所 までの「呼出 」の表記 を、1950年代 に記載 された頃 の「呼出 し」と改 めた。 - 2009
年 3月 場所 の番付 より、三 段 目 格 行司 を幕下 格 行司 と同列 にして文字 の大 きさも前 場所 より若干 大 きく書 き、序 二 段 格 行司 以下 にスペースが広 くなったため、同様 に序 二 段 、序ノ口 格 行司 も前 場所 よりやや大 きめに書 かれるようになった。 - 2010
年 7月 場所 の番付 は、一連 の野球 賭博 問題 で1週間 遅 れの7月 5日 発表 (番付 には「平成 22年 6月28日 発表 」と書 かれてある)。新 番付 に掲載 されたまま解雇 となった大関 琴 光喜 以下 、謹慎 となった幕内 力士 7人 、十 両 ・幕下 力士 7人 が休場 。大嶽 (元 関脇 貴闘力 )親方 は解雇 、時津風 (元 前頭 時津 海 )・阿武 松 (元 関脇 益 荒 雄 )両 親方 は降格 の懲戒 処分 、武蔵川 理事 長 (元 横綱 三 重 ノ海 )以下 11人 の親方 は当面 の間 謹慎 という異常 事態 の場所 となった。この際 「謹慎 処分 を受 けた力士 の名前 が番付 に残 ったままになる異例 の事態 」などという誤 った報道 が全 ての民放 キー局 [53]でなされた。これらの報道 について訂正 等 は一切 なかった。 - 2012
年 1月 場所 の番付 で、「若者 頭 」・「世話人 」が右側 (東方 )左下 に記載 されるようになり、「呼出 し」・「床山 」は枠 が拡大 され、「床山 」については前 場所 までは特等 床山 2名 のみの記載 だったが、この場所 より一等 床山 13名 が追加 記載 されるようになった。 - 2015
年 4月 、グルジア政府 からの要請 を受 けて通常 国会 で審議 ・可決 された在外 公館 の名称 及 び位置 並 びに在外 公館 に勤務 する外務 公務員 の給与 に関 する法律 の改正 法 が公布 ・施行 され、同国 の日本語 での呼称 がロシア語 読 みの「グルジア」から英語 読 みの「ジョージア」に改 められることになった。同年 5月 場所 の番付 はすでに作成 済 で、同国 出身 の西 前頭 筆頭 栃 ノ心 剛 、東 6枚 目 臥 牙 丸 勝 の出身 地 は「グルジア」のままだったが、相撲 協会 公式 サイト[54]や本場所 の場内 アナウンスなどでは「ジョージア」に改 められ、7月 場所 からは番付 表記 も「ジョージア」となった。 - 2016
年 11月場所 番付 から年寄 欄 に「参与 」が復活 、停年 後 の再 雇用 者 が記載 された。なお、再 雇用 者 の中 でも、勝負 審判 をつとめている桐山 (元 黒瀬川 )は、審判 委員 のところに名前 が記載 されている。 - 2017
年 3月 場所 千秋楽 、西山 -翠 富士 戦 で取組 中 に西山 のまわしの前 袋 が土俵 につき、勝負 審判 の指摘 により反則 負 けとされたが、相撲 規則 の勝負 規定 上 では前 袋 が土俵 についても負 けにならないとされていた。審判 部長 の二 所 ノ関 (元 若 嶋津 )は誤審 を認 め謝罪 、担当 の勝負 審判 5人 は厳重 注意 となった[55]。この勝敗 が覆 ることはなく、西山 は西 三 段 目 17枚 目 で4勝 3敗 と通常 では幕下 に昇進 できない成績 となったが、翌 5月 場所 の番付 では西 幕下 60枚 目 に置 かれた[56]。 - 2018
年 3月 の役員 改選 で、評議 員 の中 の力士 経験 者 が現役 年寄 ではなく協会 員 のOBに全 て交代 した結果 、5月場所 番付 には「評議 員 」の記載 がなくなった。
令 和 時代 [編集 ]
令 和 最初 の本場所 となった2019年 (令 和 元年 )5月 場所 の番付 は、番付 編成 会議 後 元 書 きを作成 した段階 では新 元号 がまだ発表 されておらず、「蒙 御免 」の下 の開催 年 を記載 する場所 をいったん空欄 のままとした上 で、新 元号 発表 を待 ってそこに「令 和 元年 」と書 かれたが、その番付 の発表 日 は平成 31年 4月 30日 だったので、その番付 は発表 年月日 の「平成 三 十 一 年 」と開催 年 の「令 和 元年 」の新旧 元号 が同居 する番付 となった。- 2022
年 9月 場所 の番付 では、前 の7月 場所 で自身 が新型 コロナウイルスに感染 、または部屋 に感染 者 が出 たことにより休場 した力士 について、休場 時点 で既 に勝 ち越 しが決 まっていた力士 は番付 を上 げ、休場 時点 で既 に負 け越 しが決 まっていた力士 は番付 を下 げ、休場 時点 で勝 ち越 し・負 け越 しが決 まっていなかった力士 は番付 を据 え置 くという基準 で編成 された。中 でも角番 大関 の御嶽 海 久司 は、2勝 5敗 8休 と成績 だけを見 ると通常 なら関脇 に陥落 する状況 であったが、新型 コロナウイルス感染 による休場 のため、9月場所 は関脇 に陥落 せず角番 大関 の状態 を継続 して迎 えることになった[57]。
転 語 [編集 ]
「
脚注 [編集 ]
- ^ 1761
年 (宝 暦 11年 )10月 場所 より、それまでの「勧進 相撲 」を「勧進 大相撲 」と記 す。なお大坂 、京都 は横 番付 。 - ^
一時 、1871年 (明治 4年 )4月 場所 から1877年 (明治 10年 )9月 場所 まで元 の横 二 枚 番付 に戻 る。 - ^
実際 には大関 が1名 または不在 になることもありうるが、その場合 は、大関 1名 の場合 は東西 どちらか1名 (大関 のいない方 )の横綱 が、大関 不在 の場合 は東西 両方 の合 わせて2名 の横綱 が、「横綱 大関 」として番付 の表記 上 大関 を兼 ねることになっており、これまで定説 としては、純粋 な大関 と、「横綱 大関 」と表記 された横綱 を合計 すれば最低 2名 揃 えなければならないものとされてきた。しかし、2023年 3月 場所 の頃 に現 理事 長 の八角 が示 した見解 によれば、大関 空位 時 に関脇 以下 から強引 にでも補充 することに関 しては否定 的 な見解 を示 していたため、今後 は横綱 と大関 の合計 人数 が1人 以下 になってしまう可能 性 も否定 できない。 - ^
幕下 付 出 の力士 は実際 の番付 面 に載 らず、この定員 にも含 まれない。 - ^
三 段 目付 出 の力士 は実際 の番付 面 に載 らず、この定員 にも含 まれない。 - ^
序ノ口 より下 で、前 相撲 を取 る実際 の番付 面 に載 らない力士 。 - ^
枚数 は26枚 、26枚 目 は東 のみ。 - ^ 1948
年 5月 場所 は東西 21枚 (他 に三 段 目 格 の番付 外 1人 )、1948年 10月 場所 は22枚 (22枚 目 は西 のみ)。 - ^
枚数 は120枚 、120枚 目 は東 のみ。 - ^
枚数 は101枚 、他 に幕下 格 の番付 外 1人 。 - ^
江戸 相撲 の初期 の番付 では、本中 ・相 中 ・前 相撲 が掲載 されていないが六 段 編成 のものもあった。その段 の頭書 は「同 」(「前頭 」の扱 い)となっているが、その形式 の番付 が発行 されていた当時 は、他 の段 と待遇 差 で区別 される地位 として確立 していなかったと思 われる。 - ^ 1934
年 5月 場所 から1960年 11月場所 までは序ノ口 と前 相撲 の中間 の階級 として存在 していた。現在 では「新 序 」の語 は階級 ではなく、前 相撲 に出場 して一定 の成績 を修 め翌 場所 序ノ口 で本 割 に出場 する権利 を得 た力士 の身分 を示 すために用 いられる。 - ^
序ノ口 と前 相撲 の中間 にかつて存在 した階級 。江戸 相撲 の最初 期 の番付 には掲載 されていた。1973年 (昭和 48年 )廃止 。 - ^
序ノ口 と前 相撲 の中間 にかつて存在 した階級 。江戸 相撲 の最初 期 の番付 には掲載 されていた。明治 期 に廃止 。 - ^
江戸 相撲 の最初 期 の番付 には掲載 されていた。 - ^
現在 でも、純粋 な大関 が1人 以下 の場合 は、横綱 が番付 上 「横綱 大関 」と表記 されて形式 上 東西 の大関 を2人 揃 えるが、これは歴史 的 には、広義 の大関 には横綱 も含 むものとされているからである。 - ^
本来 の意味 での三 役 は大関 ・関脇 ・小結 であるが、このうち大関 は関脇 や小結 と比較 しても特別 な地位 であるため、三 役 といって関脇 ・小結 のみを指 すこともある。 - ^
江戸 相撲 の初期 の番付 では、現在 では現行 制度 と同様 に番付 の最 上段 を便宜上 「幕内 」と呼 ぶ場合 も多 いが、その当時 どこまでを幕内 と呼 んだかは必 ずしも判然 としないため、当時 の「幕内 」と区別 して「上段 」と呼 ぶ場合 もある。 - ^
江戸 相撲 の初期 の番付 では、当時 横綱 という言葉 はあったが地位 ではなかったため「(○)」と示 した。また番付 の最 上段 だけでなく、二 段 目 以下 (場所 により三 段 目 あるいは四 段 目 の途中 まで)も「前頭 」(「同 」ではなく)と書 かれている部分 までは「幕内 格 」と見 るべきだとする説 があるため、表 には「○*」と示 した。 - ^ 「
前頭 」の語 は江戸 相撲 の「前 相撲 の頭 」が語源 であるため、本来 の意味 においては「役 力士 」と「前 相撲 」の両極端 に位置 する力士 以外 の全 力士 を指 し、番付 表 でもその通 りに書 かれている。実際 の番付 表 での表記 は、平幕 と十 両 は「前頭 」と表記 され、幕下 は「同 」の字 が連 ねられ、三 段 目 以下 は「同 」の略字 が連 ねられている(明治 時代 の十両 創設 以降 の番付 )。江戸 相撲 の初期 の番付 では、二 段 目 全体 (場所 により三 段 目 ・四 段 目 の一部 も)が「前頭 」であったり、三 段 目 が「同 」の略字 ではなく正字 であったりするなど、場所 によりまちまちである。 - ^
江戸 時代 ~明治 初期 、十両 の地位 が存在 しなかった時代 の「二 段 目 」「幕下 二 段 目 」に相当 。 - ^
歴史 的 には、本来 の意味 からすれば幕内 以外 全員 「幕下 」である。江戸 相撲 の初期 の番付 においては、二 段 目 ・三 段 目 ・四 段 目 の一部 または全部 が「前頭 」と表記 されている場合 があり、それは幕内 格 という説 があるため、「○*」と示 した。 - ^
新 序 が階級 として存在 した時代 には、新 序 は序ノ口 待遇 であった。 - ^
本来 の意味 からすれば序ノ口 より下 の番付 に載 っていない力士 を指 すが、現在 では事実 上前 相撲 の力士 のみを指 す。 - ^
相 中 ・本 中 が廃止 され、現在 これに該当 する地位 が事実 上前 相撲 のみとなった現在 でも、番付 表 には「此外中前 相撲 東西 ニ御座 候 」と書 かれている。 - ^
要領 上 は3日 以内 としているが、慣例 上 3日 後 (千秋楽 が日曜日 であれば、水曜日 )に開催 するのが通例 となっている。引退 等 の届出 が必要 な場合 はこの間 に届 け出 ることとされている(番付 編成 要領 第 10条 )。 - ^ ただし、
何 らかの理由 で審判 部長 、審判 部 副 部長 、審判 委員 の一人 が本場所 (一部 、または全日 )を欠場 した場合 はその人 は会議 に参加 できない場合 がある。 - ^ 抜井
規 泰 [@nezumi32] (2015年 4月 27日 ). "で、番付 編成 会議 なんですが。番付 編成 会議 は、東京 場所 だと国技 館 地下 1階 の審判 部屋 で行 います。東西 の支度 部屋 の中間 にあり、NHKのインタビュールームの斜 め前 あたりにあります。相撲 記者 は、その扉 の前 で待機 しています。新 番付 は極秘 なんですが、それはあくまで建前 でして…。". X(旧 Twitter)より2020年 10月 22日 閲覧 。 - ^
例 えば、幕下 の場合 は、7戦 全敗 (あるいは休場 を含 みながら1番 以上 相撲 を取 ったが出場 した取組 では全敗 した場合 )はほぼ機械 的 に35枚 陥落 するのに対 し、全休 (不戦敗 含 む)は40枚 陥落 となる。実例 としては、2023年 (令 和 5年 )11月場所 では、東 幕下 2枚 目 で全休 の輝 鵬 は西 幕下 42枚 目 となったのに対 し、東 幕下 31枚 目 で7戦 全敗 の琴 翼 は東 三 段 目 6枚 目 となった。 - ^
実際 の番付 編成 の多 くは、勝 ち越 した場合 に本来 の上 がり幅 を大 きく越 えて番付 が上 がることは頻繁 に発生 しているのに対 し、負 け越 した場合 に本来 の下 がり幅 を大 きく越 えて番付 が下 がることはできるだけ抑制 しようとする傾向 がみられる(昇進 と降格 の非対称 性 )。 - ^
大阪 府立 体育 会館 (3月 場所 )は「BODYMAKERコロシアム」(2014年 ・2015年 )→「エディオンアリーナ大阪 」(2016年 以降 )、愛知 県 体育館 (7月 場所 )は「ドルフィンズアリーナ」(2018年 以降 )と記載 している。 - ^ 1968
年 までは「勝負 検査 役 」。 - ^ 2014
年 (平成 26年 )3月 場所 の番付 より。その年 の1月 27日 に内閣 府 が相撲 協会 を1月 28日 付 で公益 財団 法人 として認定 したことによる。それまでは「財団 法人 日本 相撲 協會 」(「公益 」の文字 がなく「會 」が旧 字体 )。 - ^
理事 長 は太字 で筆頭 に置 かれ、「理事 長 」と明記 される。 - ^
場所 によっては、委員 の人数 が少 ない場合 、委員 を全 て右側 に書 き、左側 の役員 を主任 ・年寄 ・参与 のみとすることもある。 - ^ 2012
年 (平成 24年 )1月 場所 より、それまで特等 床山 のみの記載 だったところ、一等 床山 が追加 記載 されるようになった。これにより若者 頭 と世話人 の記載 場所 が東 へ回 った。 - ^
写真 エキサイトブログ。2022年 12月28日 閲覧 。 - ^ 「
右側 が実際 の番付 表 、左 が実際 に行司 が書 いた「元 書 き」です。」日本 相撲 協会 公式 (2013年 1月 23日 ), Twitter. 2022年 12月27日 閲覧 。 - ^
板 番付 の写真 、2014年 (平成 26年 )1月 場所 、junjun25611962のブログ。2022年 12月26日 閲覧 。 - ^ 「
本日 は、板 番付 を書 く最後 の仕上 げです。」日本 相撲 協会 公式 (2012年 12月28日 ), Twitter. 2022年 12月26日 閲覧 。 - ^ 「
相撲 字 と番付 」ことばマガジン(2013年 9月 12日 )、朝日新聞 デジタル。2022年 12月26日 閲覧 。 - ^ 「できあがった
板 番付 。」日本 相撲 協会 公式 (2013年 5月 9日 ), Twitter. 2022年 12月26日 閲覧 。 - ^ a b
大空 出版 『相撲 ファン』vol.4 25頁 - ^ また
東西 の最 下段 の左側 に、「初切 」(「行司 」、「年寄 」の文字 は右 から書 かれているにもかかわらず、「初切 」の文字 は誤 って左 から書 かれている。「番付 を書 く」の項 参照 )とあり、巡業 の余興 で行 われる初切 をする力士 の名 がある。 - ^ a b
大空 出版 『相撲 ファン』vol.4 28頁 - ^
力士 急死 :時津風 部屋 の兄弟子 3人 の番付 据 え置 き 2008年 1月 30日 - ^
昭和 の戦中 期 、軍隊 に徴用 された力士 について、ただし書 きとともに番付 外 に張 り出 して、地位 を留保 した例 はある。やがて軍部 から「軍機 に触 れる」の咎 めがあって、1942年 (昭和 17年 )1月 場所 から廃止 され、兵役 についた力士 は番付 から名前 を消 し、復帰 時 に元 の成績 相当 の地位 で出場 させることにした。 - ^
兄弟子 3人 、全休 なのに番付 据 え置 き…序ノ口 力士 死亡 事件 2008年 1月 30日 - ^
白 鵬 、重責 の1人 横綱 新 番付 から朝 青 龍 の名前 消 える スポーツ-ZAKZAK 2010年 3月 1日 - ^ 1909
年 (明治 42年 )6月 場所 の東西 制 実施 のときに、優勝 した方 屋 を翌 場所 東 に配置 したことで、東 が半 枚 上 ということが確定 して、現在 に至 っている。ただし春秋 園 事件 に際 して発行 された改定 番付 (1932年 (昭和 7年 )2月 場所 )では大関 3人 (東方 に玉 錦 と能代 潟 、西方 に武藏 山 )で張 出 をつくらなかったために、幕内 では「関脇 以下 は西 が上位 」とされていたため東方 上位 が完全 に確定 した時期 はこれ以降 である。 - ^
後 の幕内 ・小城 ノ花 で、現在 の年寄 ・出羽海 。当時 は本名 を四股 名 としていた。 - ^
飛天 龍 貴信 日本 相撲 協会 大相撲 名鑑 - ^
情報 ライブ ミヤネ屋 (読売 テレビ・日本 テレビ)、ANNニュース(テレビ朝日 )、FNNスーパーニュース(フジテレビ)、NEWS FINE(テレビ東京 )(いずれも2010年 7月 5日 放送 分 )、みのもんたの朝 ズバッ!(TBS、2010年 7月 6日 放送 分 )など - ^ この
時点 で引退 済 みであった黒海 太 の出身 地 も「ジョージア」に差 し替 えられている(力士 プロフィール -黒海 太 -日本 相撲 協会 公式 サイト) - ^
三 段 目 取組 で誤審 =勝負 結果 は変 わらず-大相撲 春場所 -時事 ドットコム(時事通信社 、2017年 3月 26日 ) - ^ 3
月 場所 において西山 より番付 上位 の西 15~東 17枚 目 で4勝 3敗 だった力士 はいずれも5月 場所 では三 段 目 に留 め置 かれている。 - ^ 【
秋場所 新 番付 】コロナで場所 中 の途中 休場 相次 いだ先 場所 の成績 どう反映 審判 部 の意図 を探 る -日刊 スポーツ 2022年 8月 29日 6時 0分