番付ばんづけ

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番付ばんづけひょう平成へいせい24ねん1がつ場所ばしょ

番付ばんづけ(ばんづけ、ばんとも表記ひょうき)は、大相撲おおずもうにおける力士りきし順位じゅんいひょう正式せいしきには番付ばんづけひょうという。

由来ゆらい[編集へんしゅう]

ふるくは興行こうぎょう場所ばしょに「興行こうぎょうさつ」という掲示板けいじばんて、興行こうぎょう日時にちじと、出場しゅつじょう力士りきし名前なまえ序列じょれつあきらかにした。番付ばんづけ基本きほんてき写本しゃほん形式けいしき伝承でんしょうされているのはそのためである。しかし、興行こうぎょう規模きぼ拡大かくだいし、ひろ告知こくちする必要ひつようしょうじたために、木版もくはん印刷いんさつ形式けいしき番付ばんづけ発行はっこうとおる年間ねんかん17161735ねん)に木版もくはん印刷いんさつとなる)し、直接ちょくせつ相撲すもうじょうまえに、興行こうぎょう概要がいようることができるようにした。現在げんざいでもこのながれをいで、行司ぎょうじによる毛筆もうひつきを写真しゃしん製版せいはんして印刷いんさつしている。江戸えど相撲すもうでは、現在げんざいたかられき年間ねんかん1755ねんころ以来いらい印刷いんさつされた番付ばんづけ確認かくにんされている。日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいによれば、1757ねんたかられき7ねん)にたていちまい形式けいしき番付ばんづけはじめて発行はっこうされ[1]2007ねん平成へいせい19ねん)は発行はっこう250周年しゅうねんにあたるという。大坂おおさか相撲すもうでは、1869ねん明治めいじ2ねん)3がつ場所ばしょより江戸えど時代じだいからのよこ東西とうざいまい番付ばんづけを、はじめてたていちまい番付ばんづけ江戸えどふうあらためて発行はっこうした[2]番付ばんづけ記録きろくとして最古さいこのものは、1699ねん元禄げんろく12ねん)5がつ京都きょうと岡崎天王おかざきてんのうしゃにおいて勧進かんじん相撲すもう興行こうぎょうされたときのもので、さんやく名称めいしょうもこの番付ばんづけはつである。大坂おおさか最古さいこ番付ばんづけ1702ねん元禄げんろく15ねん)4がつ大坂おおさか堀江ほりえ勧進かんじん相撲すもう公許こうきょ興行こうぎょうときのもので、以後いごとおる年間ねんかんころより大坂おおさか京都きょうと番付ばんづけおおくみる。

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい力士りきし似顔絵にがおえ谷風たにかぜ(4だい横綱よこづな)や小野川おのがわ(5だい横綱よこづな)が記述きじゅつされている。
相撲すもう番付ばんづけした、温泉おんせんのランキング(温泉おんせん番付ばんづけ)。

番付ばんづけたんなる順位じゅんいひょうではない。その特徴とくちょう以下いかのようなものである。

  • 対象たいしょうぶつ力士りきしなど)を順位じゅんいによってならべる。この順位じゅんいは、もっとあたらしい結果けっか反映はんえいさせる。
  • おおきくランクにける。いわゆる横綱よこづなから序ノ口じょのくちまでのような段階だんかいけてある。この区分くぶん総合そうごうてき評価ひょうかによっておこなわれ、勝負しょうぶ結果けっかなどを単純たんじゅん反映はんえいしない。紙上しじょうでの表記ひょうきにその反映はんえいされ、かくうえ力士りきしほどおおきく、立派りっぱえがかれる。
  • 全体ぜんたい東西とうざいけ、紙面しめんじょうではそれを左右さゆうけ、ほぼ同格どうかくのものを対称たいしょう位置いちならべる。

すでに江戸えど時代じだいにはこの形式けいしきりて、古典こてん園芸えんげい植物しょくぶつ品種ひんしゅ各地かくち名所めいしょ温泉おんせん三味線しゃみせん演奏えんそう遊女ゆうじょほんこぶしすうこぶしさきけん/豁拳)や藤八拳とうはちけんひがしはちこぶし)といったこぶしあそ落語らくご講談こうだんなどの寄席よせ芸人げいにん歌舞伎かぶき役者やくしゃなど、ありとあらゆるものをランクけし、それを番付ばんづけひょうとして出版しゅっぱんすることがさかんにおこなわれた。これら相撲すもう以外いがい様々さまざまなものを番付ばんづけにしたものは「見立みた番付ばんづけ」「わり番付ばんづけ」などとばれる。

格下かくしたのものが上位じょういのものをたおす「番狂ばんくるわせ」などの言葉ことばはここからはっしている。

大相撲おおずもう番付ばんづけ[編集へんしゅう]

大相撲おおずもう所属しょぞくする力士りきし本場所ほんばしょ成績せいせきによって地位ちい序列じょれつづけられており、まい場所ばしょおこなわれる番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎ地位ちい上下じょうげする。

地位ちい定員ていいん[編集へんしゅう]

現行げんこう制度せいどにおける番付ばんづけ地位ちい定員ていいん一覧いちらん
地位ちい 定員ていいん
関取せきとり 幕内まくうち 横綱よこづな 不定ふてい不在ふざいでもよい) 42めい
さんやく 大関おおぜき 不定ふてい下限かげん2めい[3]
関脇せきわけ 不定ふてい下限かげん2めい
小結こむすび 不定ふてい下限かげん2めい
前頭まえがしら平幕ひらまく 不定ふてい
じゅうりょう 28めい
力士りきし養成ようせいいん 幕下まくした 120めい[4]
さんだん 180めい[5]
じょだん 不定ふてい
序ノ口じょのくち 不定ふてい
番付ばんづけがい[6] 不定ふてい
番付ばんづけかく地位ちい定員ていいん人数にんずう変遷へんせん
  • 幕内まくうちじゅうりょうは1888ねん十両じゅうりょう創設そうせつ以降いこう幕下まくしたさんだんだい世界せかい大戦たいせん終戦しゅうせん以降いこうしるす。
  • 定員ていいんづけじゅうりょう以下いかちょういずる番付ばんづけがいのぞく。また定員ていいんさだまっているなかでの例外れいがいてき変動へんどうとうはぶいている。
  • はっきりした定員ていいんさだまっており、かつ以前いぜんわったところは太字ふとじしめす。
場所ばしょ 幕内まくうち(横綱よこづな - 前頭まえがしらけい) じゅうりょう 幕下まくした さんだん
1888.1 まい場所ばしょ変動へんどう(28 - 49にん、1907ねんまでは40にん以下いか) 東西とうざい10まい20にん    
1912.1 まい場所ばしょ変動へんどう(40 - 49にん) 東西とうざい15まい30にん    
1926.5 40にんと42にん場所ばしょあり まい場所ばしょ変動へんどう(20 - 25にん)    
1929.5 40にん 東西とうざい11まい22にん    
1932.2 まい場所ばしょ変動へんどう(1932ねん2がつ春秋しゅんじゅうえん事件じけん影響えいきょう一旦いったん20にん減少げんしょうしたのちまたえる。1941 - 1958ねん大半たいはん場所ばしょで50にんだい) まい場所ばしょ変動へんどう(1932ねん2がつは20にん、1938 - 1951ねん大半たいはん場所ばしょで30 - 32にん、その漸次ぜんじ増加ぞうか、1958ねんには史上しじょう最多さいた東西とうざい24まい48にん) まい場所ばしょ変動へんどう(終戦しゅうせんしばらくは人数にんずうすくなく戦後せんご最少さいしょうは1949ねん1がつの51にん[7]、その漸次ぜんじ増加ぞうか傾向けいこう) まい場所ばしょ変動へんどう(終戦しゅうせんしばらくは人数にんずうすくなく戦後せんご最少さいしょうは1948ねん5がつ・10月の43にん[8]、その漸次ぜんじ増加ぞうか傾向けいこう)
1961.3 (1960ねん7がつより)41にん 東西とうざい18まい36にん まい場所ばしょ変動へんどう(170にんだい - 190にん) まい場所ばしょ変動へんどう(最多さいたは1961ねん11月の239にん[9])
1962.3 41にん 東西とうざい18まい36にん まい場所ばしょ変動へんどう(190にんだい前後ぜんこう) まい場所ばしょ変動へんどう(190にんだい前後ぜんこう)
1964.1 40にん 東西とうざい18まい36にん まい場所ばしょ変動へんどう(190にんだい前後ぜんこう最多さいたは1966ねん1がつ場所ばしょの203にん[10]) まい場所ばしょ変動へんどう(190にんだい前後ぜんこう)
1967.5 34にん 東西とうざい13まい26にん 東西とうざい60まい120にん 東西とうざい100まい200にん(1970ねん3がつより徐々じょじょらす)
1970.9 34にん 東西とうざい13まい26にん 東西とうざい60まい120にん 東西とうざい80まい160にん
1972.1 まい場所ばしょ変動へんどう(35 - 37にん) 東西とうざい13まい26にん 東西とうざい60まい120にん 東西とうざい80まい160にん
1973.9 36にん 東西とうざい13まい26にん 東西とうざい60まい120にん 東西とうざい80まい160にん
1976.5 36にん 東西とうざい13まい26にん 東西とうざい60まい120にん 東西とうざい90まい180にん
1979.7 まい場所ばしょ変動へんどう(35 - 38にん) 東西とうざい13まい26にん 東西とうざい60まい120にん 東西とうざい90まい180にん
1984.1 38にん 東西とうざい13まい26にん 東西とうざい60まい120にん 東西とうざい100まい200にん
1991.1 40にん 東西とうざい13まい26にん 東西とうざい60まい120にん 東西とうざい100まい200にん
2004.1 42にん 東西とうざい14まい28にん 東西とうざい60まい120にん 東西とうざい100まい200にん
2022.5 42にん 東西とうざい14まい28にん 東西とうざい60まい120にん 東西とうざい90まい180にん
  • じょだん序ノ口じょのくちについては現在げんざいのみならず過去かこふく定員ていいんさだめられたことはなく、これらの地位ちい人数にんずうまい場所ばしょ変動へんどうするため、うえひょうにはしめしていないが、じょだん序ノ口じょのくち人数にんずうについて特筆とくひつせいのあることを以下いかしめす。
    • じょだん終戦しゅうせんしばらくは人数にんずうすくなく、戦後せんご最少さいしょう人数にんずう終戦しゅうせんはつの1945ねん11月場所ばしょにおける39にんひがし18まい西にし21まい)である。その漸次ぜんじ増加ぞうか傾向けいこうとなり、1990年代ねんだい前半ぜんはんしん弟子でし激増げきぞうしたために200まいえることもあり、史上しじょう最多さいた枚数まいすうは1994ねん平成へいせい6ねん)5がつ場所ばしょにおける210まいけい420にん)であるが、それをピークに漸次ぜんじ減少げんしょう傾向けいこうとなった。平成へいせい以降いこう最少さいしょう枚数まいすうは2014ねん平成へいせい26ねん)3がつ場所ばしょにおける89まいけい178にん)である。
    • 序ノ口じょのくち終戦しゅうせん直後ちょくご極端きょくたんしん弟子でし不足ふそくで、1945ねん11月場所ばしょと1946ねん11月場所ばしょ序ノ口じょのくち力士りきし1人ひとり在位ざいいしていなかった。しん弟子でし激増げきぞうした1990年代ねんだい前期ぜんきから中期ちゅうきにかけては東西とうざい70まい以上いじょうある場所ばしょもあった。史上しじょう最多さいた枚数まいすうは1992ねん5がつ場所ばしょにおける77まい(77まいひがしのみ・けい153にん)である。平成へいせい以降いこう最少さいしょう枚数まいすうは2013ねん平成へいせい25ねん)3がつ場所ばしょにおける14まい(14まいひがしのみ・けい27にん)である。
番付ばんづけにおける地位ちい区分くぶん
  • このひょうでは、番付ばんづけにおける地位ちい区分くぶんあらわかたり範囲はんいしめす。
  • ☆は現代げんだい相撲すもう社会しゃかいにおいて重要じゅうようたかいもの。またそのにも、歴史れきしてきなものもしめす。
  • †は現存げんそんしない地位ちい
  • 《》は歴史れきしてき名称めいしょうだが、現在げんざいではほとんどもちいられていない地位ちい名称めいしょう
地位ちい区分くぶん 横綱よこづな 大関おおぜき 関脇せきわけ 小結こむすび 平幕ひらまく
幕内まくうち前頭まえがしら
一般いっぱんの「前頭まえがしら」)
じゅうりょう
十枚目じゅうまいめ
幕下まくしたじょう》)
幕下まくしただん
一般いっぱんの「幕下まくした」)
さんだん
(《幕下まくしたさんだん》)
じょだん
(《よんだん》、
うえだん》)
序ノ口じょのくち
(《だん》、
かみこう》)
ろくだん[11] しんじょ[12] 本中ほんなか[13] そうちゅう
あいだちゅう[14]
ぜん相撲すもう[15]
広義こうぎの「大関おおぜき[16]
さんやく本来ほんらい意味いみ
やく力士りきしさんやく広義こうぎ
さんやく狭義きょうぎ[17]
幕内まくうち歴史れきしてきには「しん関取せきとりかく」)、上段じょうだん[18]
幕内まくうち江戸えど相撲すもう初期しょき番付ばんづけ[19] (○) ○* ○* ○*
関取せきとり
広義こうぎの「前頭まえがしら」(本来ほんらい意味いみ前頭まえがしら番付ばんづけひょうじょう前頭まえがしら[20]
番付ばんづけひょううえからだん[21]
本来ほんらい意味いみの「幕下まくした[22] ○* ○* ○*
力士りきし養成ようせいいん取的とりてき褌担ふんどしかつぎ、わかものわかしゅ (○) (○) (○) (○)
取的とりてき褌担ふんどしかつぎ(狭義きょうぎ (○) (○) (○) (○)
序ノ口じょのくち待遇たいぐう[23]
番付ばんづけがい[24] (○) (○) (○)
ちゅう相撲すもう
中前ちゅうぜん相撲すもう[25]

番付ばんづけ編成へんせい[編集へんしゅう]

まい場所ばしょ番付ばんづけは、協会きょうかいさだめる番付ばんづけ編成へんせい要領ようりょうしたがってさだめられる。

かく場所ばしょ千秋楽せんしゅうらくから3にち以内いない[26]番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎ招集しょうしゅうされ(番付ばんづけ編成へんせい要領ようりょうだい2じょう)、本場所ほんばしょ成績せいせきをもとによく場所ばしょ番付ばんづけ編成へんせいする。会議かいぎ審判しんぱん部長ぶちょう主宰しゅさいし、ふく部長ぶちょう以下いか審判しんぱん部員ぶいんふく理事りじ出席しゅっせきし(番付ばんづけ編成へんせい要領ようりょうだい3じょう)、発言はつげんけんはないが書記しょきとして行司ぎょうじ同席どうせきする(番付ばんづけ編成へんせい要領ようりょうだい4じょう[27]

編成へんせいされた番付ばんづけはそのでは発表はっぴょうされず、よく場所ばしょ直前ちょくぜん発表はっぴょうされる。従来じゅうらい初日しょにちの8にちまえ土曜日どようび発表はっぴょうしていたが、1970ねん昭和しょうわ45ねん)からは、のスポーツ行事ぎょうじすくない月曜日げつようびなら新聞しんぶんあつかいがおおきくなることを考慮こうりょして、番付ばんづけ発表はっぴょう本場所ほんばしょ初日しょにちの13にちまえ月曜日げつようび発表はっぴょう変更へんこうした。1月場所ばしょ番付ばんづけ発表はっぴょうは、年末年始ねんまつねんし繁忙はんぼう配慮はいりょして13にちまえよりもはやまる。しん番付ばんづけ発表はっぴょうまで極秘ごくひとされている(番付ばんづけ編成へんせい要領ようりょうだい11じょう)。

力士りきし地位ちいやそれにともな待遇たいぐうは、原則げんそくよく場所ばしょ番付ばんづけ発表はっぴょうまではぜん場所ばしょ地位ちいおうじたものとなる。例外れいがいとして、横綱よこづな大関おおぜき昇進しょうしんする力士りきしについては番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎ終了しゅうりょうただちに昇進しょうしん伝達でんたつしきおこない、該当がいとう力士りきしはこの時点じてんから横綱よこづな大関おおぜきとしての待遇たいぐうけるようになる(番付ばんづけ編成へんせい要領ようりょうだい11じょう)。また、十両じゅうりょう昇進しょうしん力士りきししんじゅうりょうさいじゅうりょうわず)についても、本人ほんにん待遇たいぐう幕下まくした以下いかおおきく変化へんかすることや化粧廻けしょうまわ新調しんちょうといった準備じゅんび配慮はいりょして、昇進しょうしん事実じじつのみが公式こうしき発表はっぴょうされるが(1971ねん昭和しょうわ46ねん)7がつ場所ばしょより施行しこう)、これはあくまで「内示ないじ」であり、該当がいとう力士りきしあつかいは番付ばんづけ発表はっぴょうまで幕下まくした力士りきしのままである。その昇進しょうしんしん入幕にゅうまくさい入幕にゅうまくしんさんやくがえさんやく幕下まくした以下いかかく地位ちい昇進しょうしんとう)は番付ばんづけ発表はっぴょうまで公式こうしき発表はっぴょうされず当然とうぜんぜん場所ばしょ地位ちいあつかいとなり、陥落かんらくについても、大関おおぜきから関脇せきわけへの陥落かんらく序ノ口じょのくちから番付ばんづけがいへの陥落かんらくなど事実じじつじょう確定かくていしている場合ばあいふくめて番付ばんづけ発表はっぴょうまでぜん場所ばしょ地位ちいとしての待遇たいぐうけられる。

しん番付ばんづけ発表はっぴょうまで極秘ごくひとされているものの、朝日新聞あさひしんぶん相撲すもう記者きしゃの抜井ぶんまわしやすしはこれを「建前たてまえ」であるとべており[28]報道ほうどう関係かんけいしゃ事前じぜんしん番付ばんづけ把握はあくしていることを示唆しさしている。インターネットの普及ふきゅうした現代げんだいでは発表はっぴょう時刻じこくである午前ごぜん6ぎた直後ちょくごから各社かくしゃのサイトじょう番付ばんづけ発表はっぴょう関連かんれん記事きじ掲載けいさいされ、とく共同通信社きょうどうつうしんしゃ運営うんえいする携帯けいたい電話でんわサイト「スポーツアイランド」にはぜん力士りきし番付ばんづけ掲載けいさいされるなど、実際じっさいに「極秘ごくひ」であるとすれば説明せつめいのつかない事態じたいとなっていることからもこうした状況じょうきょうがうかがえる。

番付ばんづけ昇進しょうしん陥落かんらく目安めやす

番付ばんづけ編成へんせい要領ようりょうだい6じょうでは、「力士りきし階級かいきゅう順位じゅんい昇降しょうこうは、その本場所ほんばしょ相撲すもう勝星かちぼしにより協議きょうぎする。」とのみさだめ、勝星かちぼしすう番付ばんづけ編成へんせいもっと重要じゅうよう要素ようそであることはしめされているが、勝星かちぼしすうおうじた具体ぐたいてき基準きじゅんさだめていない。実際じっさい番付ばんづけ編成へんせいは、編成へんせい所管しょかんする審判しんぱん裁量さいりょう事実じじつじょうゆだねられている(番付ばんづけもの参照さんしょう)。以下いか目安めやすはあくまで過去かこ番付ばんづけ編成へんせい結果けっかからみちびした平成へいせい以降いこう傾向けいこうで、これらの目安めやすらない編成へんせいおこなわれた事例じれいすくなからず存在そんざいする。

  • 横綱よこづな
    • 横綱よこづな昇進しょうしんについて、横綱よこづな審議しんぎ委員いいんかい横審よこしん)の内規ないきでは、「品格ひんかく力量りきりょう抜群ばつぐんであること」としめされている。
    • 審判しんぱんがある力士りきし横綱よこづな昇進しょうしんさせたいと判断はんだんした場合ばあい理事りじちょう審判しんぱん部長ぶちょうからの要請ようせいけて横審よこしん当該とうがい力士りきし横綱よこづな推薦すいせんについて諮問しもんする。諮問しもんけた横審よこしん当該とうがい力士りきし横綱よこづなにふさわしいか、「品格ひんかく」「力量りきりょう」それぞれについて審査しんさする。「力量りきりょう」については「大関おおぜきで2場所ばしょ連続れんぞく優勝ゆうしょう」が原則げんそくとされ、これにじゅんずる成績せいせき力士りきし昇進しょうしんさせることも可能かのうである。「品格ひんかく」については土俵どひょうじょういのみならず日常にちじょう生活せいかつ態度たいどまでもが審査しんさ対象たいしょうである。横審よこしんからの答申とうしんけて理事りじちょう臨時りんじ理事りじかい招集しょうしゅうし、理事りじかいにおいて横綱よこづな昇進しょうしんについて決議けつぎし、正式せいしき昇進しょうしん可否かひ決定けっていするが、理事りじかい答申とうしんくつがえされたれいはないので、横審よこしん答申とうしん事実じじつじょう決定けっていすることになる。
    • しん横綱よこづな番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎわった時点じてんから横綱よこづなとしてあつかわれ、番付ばんづけ発表はっぴょうまでのあいだ横綱よこづなであっても東西とうざい順位じゅんいがまだ発表はっぴょうされていない状態じょうたいとなる。ただし、近年きんねんのケースではしん横綱よこづなおな横綱よこづななか最下位さいかいとなる。
    • 横綱よこづな本場所ほんばしょ成績せいせきをもって大関おおぜき以下いか陥落かんらくすることはない。それゆえ成績せいせき不振ふしんつづけば引退いんたいせまられる。成績せいせき不振ふしん横綱よこづなたいしては横審よこしん決議けつぎにより「激励げきれい」「注意ちゅうい」「引退いんたい勧告かんこくとうがなされる。ただし、おな横綱よこづななかでの順位じゅんい場所ばしょごとに変動へんどうし、好成績こうせいせきしゃからじゅんに、あずまただし西にしただしひがし2番手ばんて(以前いぜんちょういずる相当そうとう)、西にし2番手ばんてじゅんとなる。
    • 詳細しょうさい横綱よこづなおよ横綱よこづな審議しんぎ委員いいんかい参照さんしょう
  • 大関おおぜき
    • 大関おおぜき昇進しょうしんについての目安めやすは、平成へいせい中期ちゅうき以降いこうは「直近ちょっきん3場所ばしょさんやく関脇せきわけ小結こむすび)で、その合計ごうけい白星しろぼしすうが33しょう以上いじょう」というものが定着ていちゃくしている。
    • 審判しんぱんがある力士りきし大関おおぜき昇進しょうしんさせたいと判断はんだんした場合ばあい審判しんぱん部長ぶちょう理事りじちょう当該とうがい力士りきし大関おおぜき昇進しょうしん可否かひ審議しんぎする臨時りんじ理事りじかい開催かいさい要請ようせいするが、理事りじかい昇進しょうしん否決ひけつされたれいはないので、審判しんぱん部長ぶちょう臨時りんじ理事りじかい開催かいさい要請ようせいした時点じてん事実じじつじょう決定けっていするとわれる。
    • 大関おおぜきからの陥落かんらくについては、番付ばんづけ編成へんせい要領ようりょうだい8じょうにおいて「2場所ばしょ連続れんぞくしで関脇せきわけ陥落かんらくする」としている。そのさい関脇せきわけなかでは最下位さいかいえられるのが通例つうれいである。1場所ばしょした直後ちょくごの、ここでもう1場所ばしょせば陥落かんらくする状況じょうきょう角番かどばんぶ。大関おおぜき陥落かんらく直後ちょくご関脇せきわけについては、どうじょうにおいて「10しょう以上いじょうげると大関おおぜき復帰ふっき」とする特例とくれいもうけられている。
    • しん大関おおぜきおよ大関おおぜき復帰ふっきしゃ番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎわった時点じてんから大関おおぜきとしてあつかわれ、番付ばんづけ発表はっぴょうまでのあいだ大関おおぜきであっても東西とうざい順位じゅんいがまだ発表はっぴょうされていない状態じょうたいとなる。ただし、近年きんねんのケースではしん大関おおぜきおよ大関おおぜき復帰ふっきしゃ角番かどばん大関おおぜき有無うむかかわらずおな大関おおぜきなか最下位さいかいとなる。
    • 大関おおぜきかおぶれに変動へんどうがない場合ばあいであっても、おな大関おおぜきなかでの順位じゅんい場所ばしょごとに変動へんどうし、好成績こうせいせきしゃからじゅんに、あずまただし西にしただしひがし2番手ばんて(以前いぜんちょういずる相当そうとう)、西にし2番手ばんてひがし3番手ばんて(以前いぜんちょういずる2番手ばんて相当そうとう)、西にし3番手ばんてじゅんとなる。
    • 大関おおぜき#大関おおぜきへの昇進しょうしんおよ角番かどばん項目こうもく参照さんしょう
  • 関脇せきわけ以下いか関取せきとり関脇せきわけ小結こむすび前頭まえがしら平幕ひらまく)・じゅうりょう
    • し1てんにつき1まいがり、し1てんにつき1まいがるのが目安めやすとされるが、力士りきしとのいや番付ばんづけうんなどでその目安めやすから多少たしょうはずれることもおおい。たとえば8しょう7はい・7しょう8はい場合ばあいは、目安めやすからすると1まい上昇じょうしょう・1まい降下こうかとなるが、実際じっさいには2まい程度ていど上下じょうげしたり東西とうざい移動いどうとどまったりすることもあるし、あるいは場合ばあいによっては番付ばんづけうごかない(き)こともこりる。幕内まくうち上位じょういではだいちしても(現在げんざいでは関脇せきわけ以下いかがいきなり横綱よこづな昇進しょうしんすることはもちろん、小結こむすび以下いかがいきなり大関おおぜき昇進しょうしんすることもよほど特殊とくしゅ状況じょうきょうにならないかぎりありえず、)上昇じょうしょうはばがそれほどおおきくないのは当然とうぜんとして、幕内まくうち下位かいじゅうりょうでも大体だいたい12しょう以上いじょうだいちや、大体だいたい12はい以上いじょうだいけの場合ばあい昇降しょうこうはばし・点数てんすうより若干じゃっかんすくなくなる傾向けいこうがある。
    • 関脇せきわけ小結こむすびについては、在籍ざいせき人数にんずう上限じょうげんさだめられていないが、東西とうざい1にんずつの2人ふたりのみの場所ばしょおおく、横綱よこづな大関おおぜきくらべるとおな地位ちいに3にん以上いじょう力士りきし在籍ざいせきする(かつてのちょういずる相当そうとう)ことはすくない。近年きんねんでもときとして3関脇せきわけ以上いじょう番付ばんづけ発生はっせいすることがある(大関おおぜきからの陥落かんらくしゃ小結こむすび好成績こうせいせきしゃがいる場合ばあいなど)が、3小結こむすび以上いじょう番付ばんづけは3関脇せきわけ以上いじょう比較ひかくしてもすくない。3関脇せきわけ以上いじょうや3小結こむすび以上いじょう在籍ざいせきしている場所ばしょであっても、おな関脇せきわけ小結こむすびなかでの順位じゅんいについては、横綱よこづな大関おおぜきじゅんずる。
    • 1971ねん昭和しょうわ46ねん)5がつ場所ばしょまでは、前頭まえがしら5まい以内いない力士りきし成績せいせきかかわらず(たとえ全敗ぜんぱいであったとしても)よく場所ばしょじゅうりょう陥落かんらくさせないこととされ、またじゅうりょう5まい以内いない力士りきし同様どうようよく場所ばしょ幕下まくした陥落かんらくさせないとする規定きていがあったが、同年どうねん7がつ場所ばしょより施行しこう改正かいせい要領ようりょうにより5まい以内いないであっても成績せいせきによっては陥落かんらくすることもありうるようあらためられた。
  • 力士りきし養成ようせいいん幕下まくしたさんだんじょだん序ノ口じょのくち番付ばんづけがい
    • 審判しんぱん内規ないき過去かこ傾向けいこうから、以下いかのような状況じょうきょうでは昇進しょうしんおよ陥落かんらく確実かくじつとされる。
      • 昇進しょうしん確実かくじつれい
        • 幕下まくした15まい以内いないで7せん全勝ぜんしょうした力士りきしは、優先ゆうせんてき十両じゅうりょう昇進しょうしん対象たいしょうとなる内規ないきがある(この内規ないき反対はんたい解釈かいしゃくとして、幕下まくしたの16まい以下いかで7せん全勝ぜんしょうした力士りきしは、よく場所ばしょ番付ばんづけ幕下まくしたの15まい以内いないとされる)。
        • 内規ないきではないが、ひがし幕下まくした筆頭ひっとうした力士りきしは、よく場所ばしょ十両じゅうりょう昇進しょうしん確実かくじつとされる。
        • さんだん以下いかで7せん全勝ぜんしょうした力士りきしは、優勝ゆうしょうしたかかにかかわらず、1つうえだん昇進しょうしんする。
        • 序ノ口じょのくちした力士りきしは、ほぼ確実かくじつじょだん昇進しょうしんする。
        • 番付ばんづけがいから序ノ口じょのくちへの昇進しょうしん出世しゅっせ)は、1ばんでもぜん相撲すもうった力士りきし全休ぜんきゅう力士りきし以外いがい)が全員ぜんいん対象たいしょうとなる。そのさい序ノ口じょのくちで1しょうでも勝星かちぼしげた力士りきしより上位じょういになることはない。そのため、序ノ口じょのくちした力士りきしが、番付ばんづけがいから昇進しょうしんした力士りきしげられるかたちじょだん昇進しょうしんするなど、番付ばんづけ上昇じょうしょうすることがこりる。
      • 陥落かんらく確実かくじつれい
        • 序ノ口じょのくちから番付ばんづけがいへの陥落かんらくは、全休ぜんきゅう力士りきしのみが対象たいしょうとなる。
    • これらにてはまらない場合ばあい昇進しょうしんおよ陥落かんらくについては、それにかんする内規ないきとくにないが、関取せきとりくらべると1ばんおもみがおおきく、とく下位かいになるほどその傾向けいこう顕著けんちょである。たとえば幕下まくした上位じょういした場合ばあい上昇じょうしょうはばてんの2ばい目安めやすとなるし、さんだんじょだんではし・し1てんにつき10まいないしすうじゅうまい上下じょうげするなど、番付ばんづけ急激きゅうげき変化へんかする。
    • 幕下まくしたおよ序ノ口じょのくちはちばん相撲すもうった力士りきし場合ばあいはちばん相撲すもうでの白星しろぼし番付ばんづけ編成へんせい反映はんえいされるが、はちばん相撲すもうでの黒星くろぼし番付ばんづけ編成へんせい反映はんえいされない(とく)。
  • 休場きゅうじょうけとなして番付ばんづけ編成へんせいされるが、全休ぜんきゅう場合ばあい全敗ぜんぱいよりひく成績せいせきというあつかいとなる。すなわち関脇せきわけ以下いか力士りきし場合ばあい全休ぜんきゅう力士りきし全敗ぜんぱい力士りきしより下降かこうはばおおきくなる[29]

特殊とくしゅ状況じょうきょうにおいては、その当時とうじ傾向けいこうからおおきくはずれた番付ばんづけ編成へんせいがなされることもある。昭和しょうわ以降いこう実例じつれいとしては、1932ねん春秋しゅんじゅうえん事件じけん大量たいりょう脱退だったいしゃ影響えいきょう幕下まくしたから直接ちょくせつ幕内まくうち昇進しょうしんした力士りきし出羽でわはな瓊ノうら)がいたれい1967ねん5月場所ばしょ関取せきとり定員ていいん削減さくげんぜん場所ばしょじゅうりょうしたにもかかわらず幕下まくした降下こうかした力士りきし前田川まえだがわ嵐山あらしやま)がいたれい2011ねん大相撲おおずもう八百長やおちょう問題もんだい大量たいりょう引退いんたいしゃ影響えいきょう幕内まくうち下位かいじゅうりょう幕下まくした上位じょういしたにもかかわらず番付ばんづけ上昇じょうしょうした力士りきしかきなど)がいたれいなどがそれである。

行司ぎょうじ呼出よびだし床山とこやま番付ばんづけ編成へんせい

行司ぎょうじ呼出よびだし床山とこやま番付ばんづけ編成へんせいについては、原則げんそくねん1かいで、毎年まいとし9がつ場所ばしょ番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎ理事りじかい決定けっていされ、翌年よくねん1がつより適用てきようされる。基本きほんてきにはほぼ年功序列ねんこうじょれつとなっているが、ときには優秀ゆうしゅうもの上位じょういしゃいたり、技量ぎりょうおともの下位かいしゃかれるあるいはかれる場合ばあいもある(行司ぎょうじ#行司ぎょうじ番付ばんづけ編成へんせいかんする事項じこう呼出よびだし#呼出よびだし番付ばんづけ編成へんせいかんする事項じこう床山とこやま#床山とこやま番付ばんづけ編成へんせいかんする事項じこう参照さんしょう)。行司ぎょうじかんしてはいくつかの成績せいせき評価ひょうか基準きじゅんもうけられているが、その詳細しょうさい行司ぎょうじ#採用さいよう昇格しょうかく降格こうかく参照さんしょうのこと。

番付ばんづけもの[編集へんしゅう]

現行げんこう番付ばんづけ編成へんせいでは上位じょういからじゅん該当がいとう力士りきし決定けっていしていくが、かく階級かいきゅうには定員ていいんもうけられているため、上位じょうい階級かいきゅう昇進しょうしんするに充分じゅうぶん成績せいせきげながら定員ていいんはばまれて昇進しょうしんできなかったれいも、上位じょうい階級かいきゅう定員ていいん充足じゅうそくできないために成績せいせき不足ふそくしている力士りきしげで昇進しょうしんさせたれい数多かずおお存在そんざいする。降格こうかく場合ばあい同様どうようである。該当がいとう力士りきし複数ふくすう存在そんざいする場合ばあいにどの力士りきし上位じょうい階級かいきゅう昇進しょうしんさせるか、どう階級かいきゅうないでもどの力士りきしをより上位じょういぐうするか、番付ばんづけ編成へんせいごとに編成へんせい会議かいぎ出席しゅっせきしゃあたまなやませる。

成績せいせきよく場所ばしょ番付ばんづけ昇進しょうしん降格こうかくはば一定いっていではなく、力士りきし成績せいせき昇進しょうしん降格こうかくはばおおきく左右さゆうされる。そのため、どう地位ちいどう成績せいせきでありながらよく場所ばしょ番付ばんづけ大差たいさがつくこともある。こうした番付ばんづけ編成へんせい状況じょうきょうあらわ言葉ことばを「番付ばんづけもの」とい、この言葉ことばすべての階級かいきゅう適用てきようされている。力士りきし自身じしん決定けっていされた番付ばんづけこととなえることはできず、結果けっかとして力士りきしにとって昇進しょうしん降格こうかくさい多少たしょう誤差ごさうん不運ふうんふくまれることはこの言葉ことば甘受かんじゅすべきであると認識にんしきされている[30]

番付ばんづけひょう[編集へんしゅう]

力士りきし記載きさい

番付ばんづけひょうには力士りきし地位ちい出身しゅっしん四股しこめい表記ひょうきされる。

さい上部じょうぶには力士りきし地位ちい記載きさいされる。幕内まくうち力士りきしについては、そのまま「横綱よこづな」「大関おおぜき」「関脇せきわけ」「小結こむすび」「前頭まえがしら」と表記ひょうきされるが、じゅうりょう以下いかについても番付ばんづけ表記ひょうきじょう全員ぜんいん前頭まえがしら」のあつかいとなる。十両じゅうりょう力士りきしについては一人ひとりずつ「前頭まえがしら」と明記めいきされるが、幕下まくした以下いか力士りきしについては数個すうこの「どう表記ひょうきませる(幕下まくしたについては文字もじ同士どうしをつなげて「どうつかさつかさ…」と表記ひょうきされ、さんだん以下いかはさらに文字もじ簡略かんりゃくされる)。

地位ちいしたかれる出身しゅっしんは、地位ちい四股しこめいよりもちいさめの文字もじかれる。江戸えど時代じだいはん(おかか大名だいみょう地域ちいき)でかれることもあったが、明治めいじ以降いこう該当がいとう力士りきし出身しゅっしん表記ひょうきされることになった。当初とうしょ律令りつりょうこくべつだったが、1934ねん昭和しょうわ9ねん)5がつ場所ばしょより横綱よこづな以下いか全力ぜんりょくくにべつ出身しゅっしん地名ちめい表記ひょうきされ、1948ねん昭和しょうわ23ねん)5がつ場所ばしょより出身しゅっしん地名ちめいふく都道府県とどうふけん表記ひょうき1956ねん昭和しょうわ31ねん)3がつ場所ばしょよりすべ都道府県とどうふけんめい表記ひょうきされるようになった。幕下まくした以下いか場合ばあいは、実際じっさい出身しゅっしんにかかわらず、〈江戸えど〉(江戸えど時代じだい)または〈東京とうきょう〉(明治めいじ以降いこう)の表示ひょうじでまとめられることが昭和しょうわ初期しょきまでおおかった。外国がいこく出身しゅっしん力士りきしについてはくに地域ちいきめい表記ひょうきされており、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくは「米国べいこく」、大韓民国だいかんみんこくは「韓国かんこく」、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくは「中国ちゅうごく」、台湾たいわんは「台湾たいわん」、そのくに日本語にほんご発音はつおんもとづくカタカナ表記ひょうきとなっている。

出身しゅっしんとして表記ひょうきされる地名ちめい国名こくめい厳密げんみつ定義ていぎはなく、自己じこ申告しんこくもとづき、本人ほんにんなんらかのえんのある地名ちめい表記ひょうきしている。このため本人ほんにん意向いこうにより変更へんこうされることがある。外国がいこく出身しゅっしんとしていた力士りきし日本にっぽん国籍こくせき取得しゅとくしても出身しゅっしん日本にっぽん国内こくない変更へんこうされることはまれであるほか、当時とうじ在日ざいにち韓国かんこくじんであることを公表こうひょう韓国かんこくめい本名ほんみょうとしていたきむ開山かいさんとち乃若などもまれそだった日本にっぽん国内こくない出身しゅっしんとしており、番付ばんづけじょう出身しゅっしんかならずしも国籍こくせきあらわすものではない。また、幕下まくしたづけ力士りきし場合ばあいはつ土俵どひょうんだ場所ばしょ取組とりくみにおいて本籍ほんせきがそのまま場内じょうない紹介しょうかいされてしまうことがあり、上林うえばやし番付ばんづけじょう出身しゅっしん山形やまがたけん)は近畿大学きんきだいがく所在地しょざいちである大阪おおさか山口やまぐち当時とうじ番付ばんづけじょう出身しゅっしん東京とうきょう、のちに番付ばんづけじょう福岡ふくおかけん変更へんこう)は祖父そふ出身しゅっしんである福岡ふくおかけん出身しゅっしんとしてアナウンスされ、いずれも場所ばしょちゅう訂正ていせいされた。

した半分はんぶん四股しこめい表記ひょうきされる。その表記ひょうきについて、過去かこ番付ばんづけにおいては「こう」のをはしごだか(髙)でくことがあったり(現在げんざい番付ばんづけでは「こう」と「髙」は完全かんぜん区別くべつしてかれている)、また番付ばんづけはおおむね極端きょくたん長方形ちょうほうけいでできている。そのためデザインてき理由りゆうから、へん(へん)とつくり(つくり)を上下じょうげならえることなど自由自在じゆうじざいである。バランスをとるために〈もくへん〉や〈やまへん〉をかんむりのようにく(まつ→枩、みねみねしましまなどのように、同様どうように「うめ」のも「」のしたに「ごと」をくことがある。また「うみ」の場合ばあいは「ごと」のしたに「みず」をく(𣴴)。平安へいあん時代じだい初期しょきそう空海くうかいもこのようないたことがあり、これらは実際じっさいむかしからあるかたである)、とく番付ばんづけ下位かいでは略字りゃくじ使つかうような、本来ほんらい正確せいかく四股しこめいとはことなることがあるので注意ちゅうい必要ひつようである。

改名かいめい力士りきしおよ年寄としより名跡みょうせき変更へんこうがある場合ばあいは、改名かいめい力士りきし出身しゅっしんあたらしい四股しこめいあいだちいさく「〇〇〇(きゅう四股しこめいあらため」(以前いぜんは「〇〇〇あらためメ」とかれた)とかれるが、幕内まくうちだけは出身しゅっしん右側みぎがわちいさくかれる。現役げんえき引退いんたいして年寄としよりになる場合ばあいや、名跡みょうせき変更へんこう場合ばあいあたらしい名跡みょうせき年寄としよりめい)のうえ同様どうようかれる。したのみの改名かいめい場合ばあい記載きさいされない。なお、行司ぎょうじ呼出よびだし番付ばんづけ掲載けいさいしゃ)が改名かいめいした場合ばあいは、改名かいめいしゃあたらしい名前なまえ右肩みぎかたちいさく「〇〇〇(旧名きゅうめいあらため」とかれ、行司ぎょうじ場合ばあい旧名きゅうめいした名前なまえのみかれる。番付ばんづけ掲載けいさいされている床山とこやま改名かいめいした事例じれい過去かこにないが、その場合ばあいでもおそらく行司ぎょうじ呼出よびだし同様どうよう表記ひょうきになるとかんがえられる。

番付ばんづけひょう構成こうせい

現行げんこう番付ばんづけひょうは、中軸ちゅうじく上下じょうげ縦長たてながつらぬいたのちで、左右さゆうをそれぞれだんけたわく構成こうせいになっている。横書よこがきでかれる文字もじはすべてみぎからかれている(れい:「つかさこう」、「事理じり」)

  • 中軸ちゅうじく - うえから順番じゅんばん
    • こうむ御免ごめん(ごめんこうむる)」 - 江戸えど時代じだい相撲すもう興行こうぎょう勧進かんじん相撲すもう)の許可きょか寺社じしゃ奉行ぶぎょうからたことを公言こうげんしたことの名残なごり
      • 昭和しょうわ5ねん(1930ねん)4がつ29にちおこなわれた天覧てんらん相撲すもうのおりに発行はっこうされた番付ばんづけにはたまもの天覧てんらん(てんらんをたまわる)」かれた。
      • 番付ばんづけには「ため御覽ごらん(ごらんのため)」とかれる。
    • 開催かいさい年月日ねんがっぴ開催かいさい場所ばしょ - 両国りょうこく国技こくぎかん場合ばあいは「国技こくぎかん」と記載きさい地方ちほう会場かいじょう施設しせつ命名めいめいけん制度せいどっている場合ばあいはそれにじゅんじて記載きさいされる[31]
    • 行司ぎょうじ審判しんぱん委員いいん[32]一覧いちらん
    • 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい」の文字もじおよび所在地しょざいち[33]
  • さい上段じょうだん - 幕内まくうち力士りきしみぎ半分はんぶん東方とうほうひだり半分はんぶん西方せいほう力士りきしはいしており、みぎはしから左端ひだりはしけて地位ちいがるように順番じゅんばんづけられている(だん以下いか力士りきしおよ役員やくいん行司ぎょうじ呼出よびだし・床山とこやま同様どうよう)。地位ちいおうじて文字もじはば変化へんかさせており、横綱よこづなはば7ふん5りんやく2.8cm)、大関おおぜきが6ふん5りんやく2.5cm)、関脇せきわけ小結こむすびが5ふん5りんやく2.1cm)って、のこりを平幕ひらまく枚数まいすうる。
  • だん - じゅうりょう幕下まくした力士りきし十両じゅうりょう力士りきし幕下まくした力士りきしよりもおおきくふとかれている。
  • さんだん - さんだん力士りきし
  • よんだん - じょだん力士りきし
  • さい下段げだん - 序ノ口じょのくち力士りきしおよ役員やくいん
    • 東西とうざいともにみぎからやく5ぶんの1に序ノ口じょのくち力士りきしのこりの部分ぶぶん役員やくいんく。
    • 右側みぎがわ - みぎから順番じゅんばん役員やくいん理事りじ[34]ふく理事りじ役員やくいん待遇たいぐう委員いいん)・若者わかものあたま世話人せわにん
    • 左側ひだりがわ - みぎから順番じゅんばん
      • 役員やくいん委員いいんつづ[35]主任しゅにん年寄としより参与さんよ)・呼出よびだし(十枚目じゅうまいめじゅうりょう呼出よびだし以上いじょうのみ掲載けいさい)・床山とこやま一等いっとう以上いじょうのみ掲載けいさい[36]
      • 「此外中前ちゅうぜん相撲すもう東西とうざい御座ぎょざこう(このほかちゅうまえずもうとうざいにござそうろう)」 - 番付ばんづけがい本中ほんなかぜん相撲すもう力士りきし東西とうざいにいる、という意味いみで、このうち本中ほんなか廃止はいしされぜん相撲すもうのみが現在げんざいのこっている。江戸えど時代じだいにはぜん相撲すもうそうちゅう本中ほんなかすすみ、そうちゅう本中ほんなかを「ちゅう(ちゅう)相撲すもう」といい、明治めいじになってそうちゅうがなくなった。1973ねん昭和しょうわ48ねん)3がつ場所ばしょまではぜん相撲すもう本中ほんなかすすみ(1986ねん昭和しょうわ61ねん)より番付ばんづけがい取組とりくみすべぜん相撲すもうとしてあつかう)、しんじょ出世しゅっせ披露ひろうけるとよく場所ばしょ番付ばんづけ四股しこめい記載きさいされる。なお、幕下まくしたおよさんだんしもはつ土俵どひょう場所ばしょ番付ばんづけには記載きさいされないが「番付ばんづけがい」とはばれない。
      • せんまんさいだいかのう(せんしゅうばんざいだいだいかのう)」 - 千秋楽せんしゅうらくまでの土俵どひょう無事ぶじ大入おおい満員まんいん祈願きがんする言葉ことば

番付ばんづけ四股しこめいかれるときの文字もじのサイズは、横綱よこづな一番いちばんおおきくかれており、大関おおぜきいちまわちいさく、関脇せきわけ小結こむすびはもういちまわちいさくというふうに、地位ちいしたになるほどちいさくほそくなっていき、序ノ口じょのくち力士りきしはもはや肉眼にくがんることが困難こんなんなことからぞくに「虫眼鏡むしめがね」とばれるほどである。さい下段げだん親方おやかたしゅも、理事りじちょう名前なまえもっとおおきくかれ、役職やくしょくしたになるほどちいさい。行司ぎょうじたて行司ぎょうじから序ノ口じょのくちかく行司ぎょうじまで全員ぜんいん記載きさい、8段階だんかい)・呼出よびだし(番付ばんづけ記載きさいしゃたて呼出よびだしふくたて呼出よびだしさんやく呼出よびだし幕内まくうち呼出よびだし十両じゅうりょう呼出よびだしの5段階だんかい)・床山とこやま番付ばんづけ記載きさいしゃ特等とくとう床山とこやま一等いっとう床山とこやまの2段階だんかい)も同様どうように、うえ地位ちいものおおきく、地位ちいしたになるほどちいさくかれている。呼出よびだし・床山とこやまについては、力士りきし行司ぎょうじ上位じょういしゃ親方おやかたしゅ文字もじくらべると全体ぜんたいてきちいさくほそ文字もじかれており、階級かいきゅう文字もじ微妙びみょうおおきさ以外いがい文字もじたかさでも区別くべつされる。

1994ねん平成へいせい6ねん)5がつ場所ばしょまでは、さんやくかく地位ちいに3にん以上いじょういる場合ばあいは、3にん以降いこう左右さゆう余白よはくわくをぶらげて記載きさいしていた(ちょういずる)。横綱よこづなについては、一人ひとり横綱よこづな場合ばあいでもして表記ひょうきし、ほかの力士りきしよりもわく文字もじともに若干じゃっかんおおきくした。大関おおぜき以下いかちょういずるおよび横綱よこづなが3にん以上いじょういるときのちょういずる横綱よこづなは、わくない力士りきしおなおおきさで表記ひょうきする[37]ちょういずるおおときにはだん枠外わくがいかれており、直近ちょっきんれいでは1972ねん昭和しょうわ47ねん)9がつ場所ばしょひがしちょういずる小結こむすび富士ふじさくらである。1990年代ねんだい力士りきしすう急増きゅうぞうすると余白よはく余裕よゆうがなくなったため、1994ねん平成へいせい6ねん)7がつ場所ばしょ以降いこうちょういずる制度せいど廃止はいしされた。

中軸ちゅうじく行司ぎょうじしたおよ東西とうざい序ノ口じょのくち左側ひだりがわには、年寄としより若者わかものあたま世話人せわにん呼出よびだし床山とこやまとうせられるが、これらの部分ぶぶん歴史れきしてきには時代じだいによる変遷へんせんおお部分ぶぶんとなっている。

若者わかものあたま世話人せわにん呼出よびだしかんしては、1960ねん昭和しょうわ35ねん)1がつ場所ばしょからしばらくは記載きさいされていなかったが1994ねん平成へいせい6ねん)7がつ場所ばしょから復活ふっかつ番付ばんづけ中央ちゅうおう行司ぎょうじらんした若者わかものあたま世話人せわにん呼出よびだしじゅん記載きさいされた(呼出よびだしたて呼出よびだしふくたて呼出よびだしさんやく呼出よびだし幕内まくうち呼出よびだし十両じゅうりょう呼出よびだし記載きさいされて幕下まくした呼出よびだし以下いか記載きさいされない)。これにともな審判しんぱん委員いいん削除さくじょしてさい下段げだん委員いいんらん一括いっかつした。

2004ねん平成へいせい16ねん)3がつ場所ばしょより審判しんぱん委員いいん職階しょっかい主任しゅにん年寄としより参与さんよであっても〈審判しんぱん委員いいん〉に一括いっかつされる)を10ねんぶりに行司ぎょうじした記載きさいし、若者わかものあたま世話人せわにん呼出よびだしさい下段げだん年寄としよりらんひだり記載きさいされた。また2008ねん平成へいせい20ねん)1がつ場所ばしょからは、床山とこやまさい上位じょういである特等とくとう床山とこやまゆかくにゆか寿ことぶき)の記載きさいされることになった。ちなみに若者わかものあたま世話人せわにん呼出よびだしが1950年代ねんだい記載きさいされたころ、「木戸きど部長ぶちょう」、「桟敷さじき部長ぶちょう」(1956ねん昭和しょうわ31ねん)3がつ場所ばしょ番付ばんづけより、名称めいしょう一括いっかつにして「主任しゅにん」に改称かいしょうされる。それまでは一時いちじ木戸きど主任しゅにん」「桟敷さじき主任しゅにん」と表記ひょうきされたこともある)という役職やくしょく番付ばんづけ記載きさいされたことがあった。「若者わかものあたま」は1910ねん明治めいじ43ねん)1がつ場所ばしょはじめて番付ばんづけ記載きさいされ、大坂おおさか相撲すもうでは1914ねん大正たいしょう3ねん)5がつ場所ばしょはじめて番付ばんづけ記載きさいされた。「呼出よびだし」は1949ねん昭和しょうわ24ねん)5がつ場所ばしょはじめて番付ばんづけに16にん掲載けいさいされたが、寛政かんせい年間ねんかん(1789~1801ねん)の番付ばんづけに「呼出よびだし」の文字もじ確認かくにんされている。

また理事りじちょう停年ていねんまえ理事りじちょうしょくし、停年ていねん退職たいしょくまで相談役そうだんやくとして番付ばんづけ掲載けいさい2000ねん平成へいせい12ねん以降いこうでは境川さかいがわしょう時津風ときつかぜ勝男かつお武蔵川むさしがわあきらえらこまてるもん)されることもある。1959ねん昭和しょうわ34ねん)10がつ発行はっこうされた『大相撲おおずもう』に「定年ていねん停年ていねん以下いかどうせい実施じっし要綱ようこう」の記事きじに「定年ていねんになって種々しゅじゅ関係かんけいからのこってもらいたい、というときに相談役そうだんやくとするのであるが、従来じゅうらいによる功労こうろうによる相談役そうだんやくではなく(中略ちゅうりゃく)、相談役そうだんやく番付ばんづけにも掲載けいさいされない」とあり、時津風ときつかぜ理事りじちょう時代じだい武藏川むさしがわ当時とうじ出羽海でわのうみらが中心ちゅうしんになって停年ていねんせい実施じっし改革かいかく一環いっかんとしてってきたが、1974ねん昭和しょうわ49ねん)3がつ場所ばしょ番付ばんづけに、「相談役そうだんやく 武藏川むさしがわえら」とある。当時とうじしん理事りじちょう就任しゅうにんした春日野かすがの要請ようせいで、皮肉ひにくにもみずからが“停年ていねん延長えんちょう”を前例ぜんれいとしてのこすことになり、停年ていねんむかえたにもかかわらず相談役そうだんやくという肩書かたがき番付ばんづけ年寄としよりめいのままのこすこととなった。

2014ねん平成へいせい26ねん1がつ27にち内閣ないかく相撲すもう協会きょうかい1がつ28にちづけ公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんとして認定にんていしたのにともない、同年どうねん3がつ場所ばしょ番付ばんづけより「日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい」のみぎじょう公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん記載きさいされるようになった。また公益こうえき法人ほうじんとなったため、役員やくいん規定きてい変更へんこうされ評議ひょうぎいんとして、当時とうじ評議ひょうぎいんのうち年寄としよりでもあったみなみただしあきら湊川みなとがわ)、平野ひらの兼司けんじやまひびき)、佐藤さとう忠博ただひろ大嶽おおたけ)の3めいが、番付ばんづけ左側ひだりがわ西方せいほうさい下段げだん序ノ口じょのくちひだりとなり評議ひょうぎいんかれ本名ほんみょう記載きさいされた。また、これまでの「日本にっぽん相撲すもう協會きょうかい」の「かい」(きゅう字体じたい)がかいしん字体じたい)にあらためられた。なお、力士りきし出身しゅっしん評議ひょうぎいんは、現役げんえき年寄としより以外いがいもの就任しゅうにんした場合ばあいには番付ばんづけには記載きさいされない。

字体じたい

江戸えど時代じだい中期ちゅうき元禄げんろく年間ねんかん16881703ねん)には、歌舞伎かぶき寄席よせ相撲すもう看板かんばんはいずれも御家流おいえりゅうあおれんいんながれみことえんりゅうともいいみことえん法親王ほうしんのう書法しょほうつたえたもの)の文字もじ肉太にくぶとしるされていた。1757ねんたかられき7ねん)の江戸えど最初さいしょ番付ばんづけもそれでかれているが、寛政かんせい年間ねんかん17891800ねん)には現在げんざい番付ばんづけ原型げんけいにほぼいている。以降いこう幕末ばくまつから明治めいじにかけてよこぼうよこ)の運筆うんぴつふとくなるなど、歌舞伎かぶき勘亭流かんていりゅう)や寄席よせ寄席よせ文字もじ)の番付ばんづけとは一線いっせんかくするようになった。その番付ばんづけ版元はんもと根岸ねぎし江戸えど時代じだい三河屋みかわや)にちなみ「根岸ねぎしりゅう」とばれ、現在げんざいではおもに「相撲すもう」とばれる独特どくとく書体しょたいかれる。

作成さくせい

行司ぎょうじ番付ばんづけひょう原版げんばん)をもとき」[38]といい、ケント紙けんとしたて109cm、よこ79cm)を鯨尺くじらじゃくはかって線引せんひき(わくき)をしたうえ毛筆もうひつにより手書てがきでんでいく。どこからどのような順序じゅんじょんでいくかは歴代れきだいかくだい番付ばんづけ行司ぎょうじ裁量さいりょうゆだねられている(3だい木村きむら容堂ようどう幕下まくしたから、2だい木村きむら要之助ようのすけじょだんから着手ちゃくしゅするなど)。また番付ばんづけ作成さくせいさいには、おおきさやふとさのことなる文字もじ表現ひょうげんするために、複数ふくすう種類しゅるいふでもちいられる(これも具体ぐたいてきなに種類しゅるいふでもちいるかはかく行司ぎょうじ裁量さいりょうゆだねられており、たとえば序ノ口じょのくちなどのちいさな文字もじには、もうけて穂先ほさきだけになったふでもちいられることがあったという)。

原版げんばんの「もとき」は、写真しゃしん製版せいはんうえ愛媛えひめけんさん川之江かわのえ和紙わしたて58cm、よこ44cm)に、縦横じゅうおうそれぞれやく半分はんぶん面積めんせきにしてやく4ぶんの1のおおきさに縮小しゅくしょう印刷いんさつされ、まい場所ばしょやく60まんほど発行はっこうされる。「もとき」は開催かいさい場所ばしょ会場かいじょう国技こくぎかんなど)に掲出けいしゅつされる。

その番付ばんづけひょうあるいはそれに類似るいじするもの
  • 本場所ほんばしょ興行こうぎょうさい東京とうきょう場所ばしょでは国技こくぎかんなかほどに、地方ちほう場所ばしょでは開催かいさい会場かいじょうくち付近ふきんいた番付ばんづけ[39]興行こうぎょうする場所ばしょ宣伝せんでんとしてかかげられる。そうヒノキせいたかさがやく2m、はばが1.5mあり、幕下まくしたかく行司ぎょうじさんだんかく行司ぎょうじが3にんがかりで4~5にちかけてげる(製作せいさくちゅう〈「最後さいご仕上しあげ」[40][41]完成かんせい〈「できあがったいた番付ばんづけ[42]〉)。なおいた番付ばんづけでは出身しゅっしん四股しこめいあいだめてかれるので、改名かいめい力士りきしについての「〇〇〇(きゅう四股しこめいあらため」はかれない。場所ばしょわるとかんなけずって文字もじし、またおなばんよく場所ばしょ番付ばんづけかれる。いた番付ばんづけかみ番付ばんづけよりも歴史れきしふるく、興行こうぎょうにおいて力士りきしかおぶれをしるしたいわばたて看板かんばんてき役割やくわりたしていた[43]現在げんざいいた番付ばんづけは、屋根やねたる部分ぶぶんが「入山にゅうざんがた」とばれる「いれ」の字形じけいつくられるが、これは大入おおい満員まんいん祈念きねんしたものである。
  • 相撲すもう部屋へや稽古けいこじょうかべげられる木製もくせいさつ番付ばんづけさつ伊勢いせはま部屋へや番付ばんづけさつ)といい、いちまいごとに所属しょぞく部屋へや力士りきし四股しこめいかれている。横綱よこづな先頭せんとうにして地位ちいじゅんならべられる。部屋へやによってならかたちがうが、親方おやかた年寄としより)、行司ぎょうじ呼出よびだし床山とこやま同様どうようならべられる。歴代れきだい関取せきとり四股しこめいげている部屋へやもある。
  • 1957ねん昭和しょうわ32ねん以前いぜん部屋へや単位たんい、またはいくつかの部屋へや合同ごうどうなど、しょう集団しゅうだん巡業じゅんぎょうおこなうときは巡業じゅんぎょう番付ばんづけつくられることがあった[1]1879ねん明治めいじ12ねん)~1881ねん明治めいじ14ねんごろ巡業じゅんぎょう番付ばんづけ、14だい横綱よこづな境川さかいがわなみみぎもんがある[44]横綱よこづな大関おおぜきなど上位じょうい力士りきしがいない場合ばあいは、そのなか一番いちばん上位じょうい力士りきし大関おおぜきえるようにした。1939ねん昭和しょうわ14ねん)5がつ角界かくかいいち大部屋おおべや出羽海でわのうみ一門いちもん巡業じゅんぎょうおこなわれ、そのときつくられた巡業じゅんぎょう番付ばんづけには鏡岩かがみいわのほかに、1がつ場所ばしょ優勝ゆうしょうした出羽でわみなと大関おおぜきえられている。現在げんざいでは協会きょうかい全体ぜんたい巡業じゅんぎょうおこなわれるため巡業じゅんぎょう番付ばんづけつくられない。
  • 引退いんたい相撲すもうや、年寄としより名跡みょうせき襲名しゅうめい披露ひろう興行こうぎょうなどのために作成さくせいされた番付ばんづけ存在そんざいする。
  • 歴史れきしてきには、ふるくは「にせ番付ばんづけ」というものがあり、つぎのようなものが確認かくにんされている。
    • たかられき3ねん(1753)のものとしょうされるもの。架空かくう四股しこめいならてたもので、当時とうじまだいなかったはずのしきもり伊之助いのすけ掲載けいさいされている。
    • 寛永かんえい元年がんねん(1624)興行こうぎょう銘打めいうった番付ばんづけ様々さまざま時代じだい四股しこめいぜている。明治めいじ20年代ねんだいすえもと横綱よこづなじんまく横綱よこづな力士りきしてるための資金しきんあつめの一環いっかんとして創作そうさくしたもの。
番付ばんづけひょう歴史れきし

江戸えど中期ちゅうきから後期こうきにはかみ番付ばんづけがあったが発行はっこうはせいぜい場所ばしょごとにすうひゃくまい程度ていどであったとされ、番付ばんづけ自体じたい厳密げんみつ序列じょれつひょうではなく、地位ちい変動へんどうらせるというより力士りきし宣伝せんでんする媒体ばいたいであった[43]おな理由りゆうで、当時とうじ対戦たいせんひょうとも有料ゆうりょう販売はんばいされていたと推測すいそくされる勝負しょうぶづけばれる勝負しょうぶ結果けっかひょう一般いっぱん相撲すもうファンがしがるものというよりマニアそうけのアイテムであった[45]

とおる年間ねんかんより番付ばんづけ木版もくはんすりだったが、1917ねん大正たいしょう6ねん)からは幕内まくうちのみ木版もくはんすりとして、じゅうりょう以下いか凸版印刷とっぱんいんさつ変更へんこうあいだもなくすべて凸版印刷とっぱんいんさつ移行いこうし、1948ねん昭和しょうわ23ねん)からはオフセット印刷いんさつあらためられた。また幕末ばくまつから明治めいじにかけて、絵師えしによる番付ばんづけ版画はんがえがかれている[2])や明治めいじ以降いこうには写真しゃしん番付ばんづけ製作せいさくされた。

現存げんそんする番付ばんづけとしては、1860ねん万延まんえん元年がんねん)2がつ回向えこういん境内けいだい興行こうぎょうされたとき、絵師えし一恵斎芳幾によってえがかれた番付ばんづけがある。写真しゃしん番付ばんづけ相撲すもう版画はんががすたれ、写真しゃしん出回でまわるようになった明治めいじ後期こうき出現しゅつげんし、戦後せんごかしわおおとり時代じだいまでやく60ねん好角家こうかくかたのしませた。1978ねん昭和しょうわ53ねん)11月場所ばしょひさりにカラーの写真しゃしん番付ばんづけ販売はんばいされたが、その現在げんざいいたるまで発行はっこうされていない。

明治めいじ時代じだいからは、大相撲おおずもう世界せかい番付ばんづけ絶対ぜったいてき上下じょうげ関係かんけいであったことから序列じょれつひょうとしての役割やくわりつようになり[45]番付ばんづけじょう地位ちい区別くべつがより明確めいかくになった時期じき1888ねん明治めいじ21ねん)1がつ場所ばしょじゅうりょう十枚目じゅうまいめ)がやや肉太にくぶとかれ幕下まくしたとの区別くべつ明確めいかくにし、よく1889ねん明治めいじ22ねん)5がつ場所ばしょにはじゅうりょう個別こべつに「前頭まえがしら」とあたまきしてなお肉太にくぶとき、関取せきとりかく判然はんぜん明示めいじするようになった。

東京とうきょう相撲すもうで「横綱よこづな」の文字もじはじめて番付ばんづけじょう記載きさいされた時期じき1890ねん明治めいじ23ねん)5がつ場所ばしょであるが、大坂おおさか相撲すもうではそれ以前いぜん1868ねん明治めいじ元年がんねん)7がつ場所ばしょのことで、じんまく久五郎きゅうごろう(12だい横綱よこづな)が東方とうほう欄外らんがいに「薩州 じんまく久五郎きゅうごろう 横綱よこづな土俵入どひょういりつかまつこう」と記載きさいされた。本場所ほんばしょで「横綱よこづな」の文字もじあらわした時期じき大坂おおさかでこのころはじめてである。これ以降いこう大坂おおさか相撲すもうでは「横綱よこづな土俵入どひょういりつかまつこう」の文字もじ番付ばんづけじょう記載きさいされるようになり、不知火しらぬひだくみぎ衛門えもんひかりみぎ衛門えもんあらため、11だい横綱よこづな1870ねん明治めいじ3ねん)3がつ1872ねん明治めいじ5ねん)7がつ)、はちじんしんじぞう1872ねん明治めいじ5ねん)7がつ1874ねん明治めいじ7ねん)6がつ)、高越山こうつざんたに五郎ごろう1873ねん明治めいじ6ねん)7がつ1874ねん明治めいじ7ねん)6がつ)の3れいげられる。「横綱よこづな土俵入どひょういりつかまつこう」の文字もじ江戸えど相撲すもう巡業じゅんぎょう番付ばんづけにはられ、阿武あぶ松緑しょうろくこれすけ(6だい横綱よこづな)、しげるやまかみなりろう(9だい横綱よこづな)のものが確認かくにんされている。

これ以前いぜん番付ばんづけ特筆とくひつされるものとして、ひろしよしみひさし年間ねんかん1845-1854ねん)、江戸えど相撲すもう引退いんたいした稲妻いなづまかみなりろう(7だい横綱よこづな)がおかかえの関係かんけいくもしゅうはんない巡業じゅんぎょうおこなったとき、番付ばんづけで「横綱よこづな」と明記めいきされたものがある(ひがしちょういずる)。この番付ばんづけひょうでは「大関おおぜき」はなく、わりに中関なかせきとなっていて、メンバーてきには大相撲おおずもうならぬ「しょう相撲すもう」のかんつよい。

番付ばんづけ版元はんもととしての権利けんりは、相撲すもうのひとつである根岸ねぎしが、年寄としより名跡みょうせき根岸ねぎし」とともにいでいたが、戦後せんご相撲すもうかい合理ごうり民主みんしゅをはかるため、根岸ねぎしみずからこれらを相撲すもう協会きょうかい返上へんじょうした(相撲すもう苦手にがて年寄としより名跡みょうせき返上へんじょうしたともされる)。相撲すもう協会きょうかいではこの英断えいだんをたたえるため、「根岸ねぎし」の名跡みょうせきを「めい」、廃家はいかとした。これは年寄としより名跡みょうせきが(いちだい年寄としよりじゅん年寄としよりべつにして)現在げんざいかず(105名跡みょうせき)にさだまったときでもある。

1917ねん大正たいしょう6ねん)1がつ大坂おおさか相撲すもう番付ばんづけには右側みぎがわ余白よはくのところに「謹賀きんが新年しんねん」の文字もじがある。これはスタンプではなく番付ばんづけそのものにまれたもので、大坂おおさか相撲すもうでは番付ばんづけ部外ぶがいしゃ印刷いんさつ発行はっこうしていたが、1913ねん大正たいしょう2ねん)1がつより「大坂おおさか相撲すもう協會きょうかいばん」の発行はっこうとなった。つまりこの「謹賀きんが新年しんねん」は協会きょうかい公認こうにんのものである。当時とうじ、1がつ番付ばんづけ正月しょうがつけに発行はっこうされ、年賀ねんが代役だいやくたしていた。

番付ばんづけひょう販売はんばい

番付ばんづけひょう相撲すもう本場所ほんばしょ会場かいじょうで、1まい50えん販売はんばいされている。会場かいじょうでは1まい単位たんいのほか、2まいセットでられていたり、また過去かこ番付ばんづけことなる値段ねだんられていることもある。

特殊とくしゅ事情じじょう場合ばあい[編集へんしゅう]

番付ばんづけ編成へんせいから発表はっぴょうまでのあいだに、通常つうじょう引退いんたい以外いがい事情じじょう力士りきし力士りきしでなくなった場合ばあい現役げんえき力士りきし解雇かいこ死亡しぼうなど)は番付ばんづけさい編成へんせいせず、その力士りきしがいた地位ちい空位くういにすることとなっている。

ただし、1971ねん昭和しょうわ46ねん)10がつ急死きゅうしした横綱よこづなたまうみ場合ばあいは、本来ほんらいならばよく11がつ場所ばしょ番付ばんづけ西にし横綱よこづな掲載けいさいされる予定よていであったが、結果けっか11がつ場所ばしょしん番付ばんづけではたまうみ四股しこめいごとはずされることとなり、また西にし横綱よこづな番付ばんづけ空位くういとしなかった。これにより、きた富士ふじただ一人ひとりひがし横綱よこづな地位ちい番付ばんづけ掲載けいさいされ、この1971ねん11月場所ばしょからきた富士ふじ名実めいじつどもに、史上しじょう4れい一人ひとり横綱よこづなとしてあつかわれることとなった。結果けっかてき形式けいしきじょう不自然ふしぜん番付ばんづけにはならず、このケースは一般いっぱんてきには空位くうい事例じれいとしてかんがえられていない。

たまうみとはまったぎゃくのケースとして、1990ねん平成へいせい2ねん)1がつ場所ばしょしん入幕にゅうまくたし、西前にしまえあたま10まいで9しょう6はいしながら、同年どうねん2がつ急死きゅうししたりゅうおきさん場合ばあいは、よく3がつ場所ばしょしん番付ばんづけ自己じこ最高さいこうひがし前頭まえがしら5まいっていた。これは現役げんえき力士りきし場所ばしょ死亡しぼうしながらも空位くういにせず、番付ばんづけ四股しこめい掲載けいさいされるというめずらしい出来事できごとである。この理由りゆうには、3がつ場所ばしょりゅうおきさん出身しゅっしんである地元じもと大阪おおさか大相撲おおずもう開催かいさいされるため、「四股しこめいだけでも故郷こきょうにしきかざらせたい」という相撲すもう協会きょうかい配慮はいりょにより、異例いれいながらも番付ばんづけりゅうおきさん四股しこめいがそのままのこされた。

1976ねん昭和しょうわ51ねん)10がつ朝日山あさひやま部屋へや相続そうぞくをめぐっての騒動そうどうトンガ王国おうこく出身しゅっしん幕下まくした以下いか力士りきし廃業はいぎょうまれたさい、11月場所ばしょ番付ばんづけひょうでは幕下まくした以下いかのそれぞれの部分ぶぶん空位くういとされた。

2007ねん平成へいせい19ねん)11月場所ばしょでは、場所ばしょまえ時津とぎつかい引退いんたいして年寄としより時津風ときつかぜ襲名しゅうめい番付ばんづけひょうでは時津風ときつかぜとして表記ひょうきされたため、重複じゅうふくけるため西にし前頭まえがしら11まい空位くういとした(1人ひとりぶんのスペースが空白くうはくとなった)。これは幕内まくうちでは1873ねん明治めいじ6ねん)11月場所ばしょに、高砂たかさごうらろうとそのグループ(改正かいせいぐみ)を除名じょめいしたさい以来いらい134ねんぶりの措置そちであった(このときは、該当がいとうしゃくろりつぶされていた)。

2008ねん平成へいせい20ねん)9がつ場所ばしょでは、わかおおとり大麻たいま所持しょじ逮捕たいほ、8がつ21にちづけ解雇かいこされ、ひがし前頭まえがしら8まい空位くういとした(1人ひとりぶんのスペースが空白くうはくとなった)。番付ばんづけ発表はっぴょうおおとり白露しらつゆやまの2力士りきしおなじく大麻たいま関連かんれん解雇かいこされたが、9月14にちづけ番付ばんづけひょうではおなじく空白くうはくとなっている。2009ねん平成へいせい21ねん)3がつ場所ばしょ番付ばんづけひょうではわか麒麟きりんが2がつ2にちづけ解雇かいこされたため、西にしじゅうりょう筆頭ひっとう空位くういとなった。

2008ねん平成へいせい20ねん)1がつ場所ばしょ時津風ときつかぜ部屋へや力士りきし暴行ぼうこう事件じけん関連かんれんして心労しんろう理由りゆう休場きゅうじょうした時津風ときつかぜ部屋へやの3力士りきし番付ばんづけは3がつ場所ばしょにおいてかれた[46]戦後せんご公傷こうしょうのぞ全休ぜんきゅう力士りきし番付ばんづけかれたことはない[47]。この異例いれい判断はんだん理事りじちょうきたみずうみによると「3力士りきしとも捜査そうさ協力きょうりょくしているため、社会しゃかい通念つうねんじょうめた」ということだった[48]

2010ねん平成へいせい22ねん)1がつ場所ばしょ西にし横綱よこづなあさあおりゅうどう場所ばしょちゅう不祥事ふしょうじにより引退いんたい形式けいしきじょうみずからの意思いしによる通常つうじょう引退いんたいであり、番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎ引退いんたいであったが、番付ばんづけ発表はっぴょうまでやく3週間しゅうかん余裕よゆうがあったために、えて四股しこめいごと削除さくじょすることとなった。これにともない、本来ほんらいなら西にし横綱よこづなるはずだったはくほう地位ちいは、1がつ場所ばしょおなじく3がつ場所ばしょひがし横綱よこづな掲載けいさいされ、番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎ引退いんたいとどけ提出ていしゅつにより番付ばんづけ変動へんどうするというきわめて異例いれい措置そちとなり[49]、この場所ばしょでは幕内まくうち全体ぜんたい人数にんずう定員ていいんの42にんより1人ひとりすくない41人ひとりとなった。

2011ねん平成へいせい23ねん)3がつ場所ばしょ大相撲おおずもう八百長やおちょう問題もんだい影響えいきょうにより開催かいさい中止ちゅうしされたことにより番付ばんづけ発表はっぴょうおこなわれなかった。番付ばんづけ編成へんせいそのものは完了かんりょうしており、3がつ場所ばしょじゅうりょうへの昇進しょうしん決定けっていしていた力士りきしはじめとするぜん力士りきしはこの番付ばんづけもとづいてぐうされることになった。これによって決定けっていされた地位ちいは2がつ28にち番付ばんづけわりとなるじゅんせきとしてじゅうりょう以上いじょうのみを掲載けいさいしたものがかく相撲すもう部屋へや配布はいふされ、5月6にちに5月技量ぎりょう審査しんさ場所ばしょようしん地位ちいひょうが、解雇かいこされたあおこくらいのち復帰ふっき)、ほしふう名前なまえ削除さくじょして幕下まくした以下いかふくめて発表はっぴょうされた。

2020ねんれい2ねん)5がつ場所ばしょは、番付ばんづけ発表はっぴょう直後ちょくご新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょう流行りゅうこうによる緊急きんきゅう事態じたい宣言せんげん延長えんちょう理由りゆう開催かいさい中止ちゅうし同年どうねん7がつ場所ばしょ番付ばんづけ新規しんき作成さくせい発表はっぴょうされず、基本きほんてきに5月場所ばしょのものがそのまま有効ゆうこうき)となったが、5月場所ばしょ番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎ引退いんたい年寄としより襲名しゅうめいした幕下まくしたあおこくらいゆたかしま、5月13にち新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょうによりくなったさんだんかつ武士たけし相当そうとうする地位ちい事実じじつじょう空位くういとなった。

2021ねんれい3ねん)9がつ場所ばしょでは、源治げんじ大麻たいま使用しよう(7がつ20日はつか判明はんめい)により7がつ30にちけで懲戒ちょうかい解雇かいことなったことにともない、2008~2009ねん大相撲おおずもう力士りきし大麻たいま問題もんだい場合ばあい同様どうよう源治げんじ名前なまえ掲載けいさいされるはずだった西にしじゅうりょう9まい空位くういとなった。

不祥事ふしょうじによる引退いんたいではないが、2021ねんれい3ねん)11月場所ばしょ番付ばんづけでは、はくほう正式せいしき引退いんたい発表はっぴょう番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎであったため、本来ほんらいならどう場所ばしょ番付ばんづけはくほう四股しこめいのこるところ、その四股しこめいはずされたため、どう場所ばしょ番付ばんづけでは幕内まくうち力士りきし定員ていいんより1人ひとりすくない41人ひとりとなり、番付ばんづけ編成へんせいじょう不祥事ふしょうじにより引退いんたいしたあさあおりゅう同様どうようのケースとなった。

番付ばんづけひょういてきた行司ぎょうじとう歴代れきだい[編集へんしゅう]

番付ばんづけまつわるエピソード[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい[編集へんしゅう]

  • 1726ねんとおる11ねん)の番付ばんづけ4だい木村きむらしょうすけ史実しじつとしての初代しょだいとされる)の名前なまえられる。ちなみに初代しょだいしきもり伊之助いのすけ名前なまえ1767ねん明和めいわ4ねん)の番付ばんづけられる。
  • 江戸えど相撲すもう最初さいしょ番付ばんづけ現存げんそん最古さいこの1757ねんたかられき7ねん)10がつ場所ばしょからすう場所ばしょ)は7だんまたは8だん編成へんせいで、それには本中ほんなかそうちゅうなか)やぜん相撲すもうまえ)の力士りきしも7だん編成へんせい場合ばあいはそれぞれから2だんうえから6だん)・さい下段げだんうえから7だん)、8だん編成へんせい場合ばあいはそれぞれから3だん・2だんうえから6だん・7だん)・さい下段げだんうえから8だん)に掲載けいさいされている。そのしばらくのあいだ本中ほんなかそうちゅうぜん相撲すもう掲載けいさいされない6だん編成へんせいうえから5だん・6だん頭書とうしょは「どう」(前頭まえがしらあつかい))の時期じきて5だん編成へんせい定着ていちゃくした。ただし、寛政かんせい一時期いちじきには6だん編成へんせいさい下段げだん本中ほんなかあいだちゅうそうちゅう)となっている番付ばんづけ発行はっこうされている。
  • 1767ねん3がつ場所ばしょあらくま西方せいほう幕内まくうちかく番付ばんづけがい出場しゅつじょう相撲すもう番付ばんづけ歴史れきしじょうたかられき以降いこうでははじめて)した。これ以降いこう幕内まくうちかく番付ばんづけがい出場しゅつじょうした力士りきしは1932ねん5がつ場所ばしょ出羽でわだけまでのべ70にんがいる。このなかには1859ねん安政あんせい6ねん)1がつ場所ばしょじんまく1882ねん明治めいじ15ねん)1がつ場所ばしょ初代しょだい西にしうみがいる。西にしうみはこの場所ばしょしん入幕にゅうまくだった。
  • 1768ねん明和めいわ5ねん)11月場所ばしょ番付ばんづけき(番付ばんづけ発見はっけんのため)、2大関おおぜき岩根いわねさん大矢おおやしま?、2人ふたりとも看板かんばん大関おおぜき)の幕内まくうち10力士りきし地位ちい不明ふめい
  • 1790ねん寛政かんせい2ねん)11月場所ばしょで、西にし関脇せきわけされた雷電らいでんためみぎもん江戸えど本場所ほんばしょはつ登場とうじょうしたが、ひがし前頭まえがしら3まい雷電らいでんなだすけがいたため、東西とうざいに“雷電らいでん”が相対そうたいするちん番付ばんづけとなった。
  • 1794ねん寛政かんせい6ねん)11月場所ばしょ番付ばんづけで、当時とうじ6さい大童おおわらさん怪童かいどうというみで、西方せいほう前頭まえがしらされた。これ以降いこう怪童かいどう番付ばんづけったのはよしみひさし年間ねんかん18481854ねん)のおにわかおにしょうだい童子どうじ安政あんせい年間ねんかん(1854-1860ねん)にはかしわたけしだいまとい舞鶴まいづるがいる。巨人きょじん力士りきしとして、1844ねん天保てんぽう15ねん)10がつ場所ばしょ生月いきつき1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)11月場所ばしょ皆瀬川みなせがわがおり、いずれも前頭まえがしらされている。
  • 1798ねん寛政かんせい10ねん)3がつ場所ばしょ番付ばんづけから、だん以下いか地位ちい表示ひょうじが「どう」で一括いっかつされるようになった。それまではだんたから暦年れきねんあいだ場所ばしょによってはさんだんよんだん一部いちぶも)の地位ちい表示ひょうじは1にんずつ「前頭まえがしら」とかれていた。この場所ばしょから1889ねん明治めいじ22ねん)5がつ場所ばしょじゅうりょう地位ちい表示ひょうじが1にんずつ「前頭まえがしら」とかれるまでは、だん全体ぜんたい地位ちい表示ひょうじが「どう」をつらねたかたちとなっていた。
  • 初期しょき番付ばんづけは、東西とうざいのそれぞれ幕内まくうち上段じょうだん上側うわがわかれる東西とうざい表示ひょうじが、右側みぎがわに「東方とうほう」「西方せいほう」、大関おおぜきうえに「東方とうほう」「西方せいほう」で関脇せきわけ以下いかうえ四股しこめい1にんずつに「どうどうどう…」、中央ちゅうおうそろえで「東方とうほう」「西方せいほう」、「ひがしほう」「西にしほう」、「ひがしほう」「西にしほう」、「東之ひがしのかた」「西之にしのかた」など、場所ばしょによって様々さまざまかれ、統一とういつされていなかった。 1819ねん文政ぶんせい2ねん)11月場所ばしょ番付ばんづけより、はじめて「ひがし」「西にし」とだけかれた番付ばんづけ出現しゅつげんしたが、それ以降いこうもしばらくは場所ばしょによっては「東方とうほう」「西方せいほう」、「ひがしほう」「西にしほう」、「ひがしほう」「西にしほう」、「東之ひがしのかた」「西之にしのかた」などのようにかれた番付ばんづけ発行はっこうされていた。このようなたんに「ひがし」「西にし」とする以外いがい東西とうざい表示ひょうじ1847ねんひろし4ねん)10がつ場所ばしょ最後さいご消滅しょうめつし、それ以降いこうすべたんに「ひがし」「西にし」とだけかれることが定着ていちゃくするようになった。
  • 1863ねん7がつ場所ばしょしん関脇せきわけ昇進しょうしんしたじんまく番付ばんづけじょうではちょういずる関脇せきわけとなり、関脇せきわけちょういずるはこれが最初さいしょとなった。ちなみにちょういずる横綱よこづな一人ひとり横綱よこづなちょういずるのぞく)は1904ねん明治めいじ37ねん)1がつ場所ばしょ大砲たいほうちょういずる大関おおぜきは1890ねん5がつ場所ばしょ剣山けんざんちょういずる小結こむすびは1888ねん5がつ場所ばしょ嵐山あらしやまちょういずる前頭まえがしら1793ねん寛政かんせい5ねん)3がつ場所ばしょせきがそれぞれちょういずる最初さいしょである。

明治めいじ時代じだい[編集へんしゅう]

  • 大坂おおさか相撲すもうにおいて1869ねん明治めいじ2ねん)3がつ場所ばしょ番付ばんづけは、横綱よこづな番付ばんづけじょう大関おおぜきじんまく以下いか幕内まくうちが22にん。そのうちしん入幕にゅうまくが17にんもおり、そのなかにはいきなり小結こむすびえられた初代しょだいうめだにがいた。
  • 1882ねん6がつ場所ばしょより、成績せいせきおうじて番付ばんづけ編成へんせいするようになった。
  • 1888ねん5がつ場所ばしょ京都きょうと相撲すもうより東京とうきょう相撲すもう編入へんにゅうしたいち鶴吉つるきちは、当時とうじ関脇せきわけいち藤太郎ふじたろう(のち大関おおぜき)がいたため「いたる」と改名かいめいした。
  • 1890ねん5がつ場所ばしょでは、横綱よこづな免許めんきょをうけた大関おおぜき初代しょだい西にしうみ(16だい横綱よこづな)が、ちょういずる大関おおぜきになることに不満ふまんをもらしたため、これをなだめるために同年どうねん5がつ場所ばしょ番付ばんづけにはじめて「横綱よこづな」の文字もじをいれ、ひがしちょういずる形式けいしき配置はいちした。これをきっかけに、東西とうざいひがし上位じょういあつかいをけることになった[50]
  • 1892ねん明治めいじ25ねん)6がつ場所ばしょしん入幕にゅうまく大砲たいほうは、番付ばんづけには「だい炮」とかれた(かたおなじ「おおづつ」、じょだん時代じだいの1888ねん5がつ場所ばしょ改名かいめい)。幕内まくうちで「だい炮」とかれたのは、この場所ばしょふく1898ねん明治めいじ31ねん)5がつ場所ばしょまで13場所ばしょちゅう4場所ばしょあった。
  • 1900ねん明治めいじ33ねん)1がつ場所ばしょ常陸山ひたちやましん関脇せきわけ昇進しょうしん以降いこう1959ねん昭和しょうわ34ねん)1がつ場所ばしょ横綱よこづな千代ちよやま引退いんたいまで、出羽海でわのうみ部屋へや常陸山ひたちやま当時とうじは「出羽でわ海部かいふ」)はやく60年間ねんかん138場所ばしょあいだ番付ばんづけじょうやく力士りきし四股しこめいかすことがなかった。
  • 大坂おおさか相撲すもうにおいて1905ねん明治めいじ38ねん)6がつ場所ばしょ番付ばんづけで、前頭まえがしら6まいじょ治郎じろうしん入幕にゅうまく四股しこめい平仮名ひらがないちの「い」で、かたは「かながしら」とぶが、番付ばんづけには「いじょ治郎じろう」とかれている。東京とうきょう相撲すもうはじめて「横綱よこづな」の文字もじった1890ねん明治めいじ23ねん)5がつ場所ばしょ番付ばんづけで、序ノ口じょのくち西にし最下位さいかいにも「イ吉三きちぞう」なる力士りきし四股しこめいっている。1906ねん明治めいじ39ねん)5がつ場所ばしょ番付ばんづけでは、前頭まえがしら10まい白川しらかわ寅太郎とらたろうが、この場所ばしょ5にちより四股しこめいを「ステッセル」と改名かいめいしている。「ステッセル」は場所ばしょちゅう改名かいめいだったため、この場所ばしょ番付ばんづけにはらず、よく場所ばしょの)1907ねん明治めいじ40ねん)1がつ場所ばしょには、もと四股しこめい白川しらかわ」にもどしている(四股しこめい#わった四股しこめいこう参照さんしょう)。

大正たいしょう時代じだい[編集へんしゅう]

1909ねん明治めいじ42ねん)6がつ場所ばしょきゅう両国りょうこく国技こくぎかん開館かいかんとともにはじまった優勝ゆうしょう制度せいどおよび東西とうざいせいによって大正たいしょう時代じだいには変則へんそく番付ばんづけおおくみられる。

  • 1915ねん1がつ場所ばしょ番付ばんづけは、西方せいほうせい横綱よこづな太刀たちやまちょういずる横綱よこづな2だいうめだにえ、東方とうほうには横綱よこづながいないという、変則へんそく番付ばんづけとなった。同様どうよう番付ばんづけよく1916ねん1がつ場所ばしょ太刀たちさん西方にしかたただし横綱よこづな)、おおとりどうちょういずる横綱よこづな)、1921ねん大正たいしょう10ねん)1がつ場所ばしょだいにしき西方にしかたただし横綱よこづな)、栃木とちぎさんどうちょういずる横綱よこづな)など(ぎゃく東方とうほうのみに横綱よこづなえた番付ばんづけもある)がある。だいにしき栃木とちぎさん場合ばあいおな出羽でわ海部かいふ力士りきしであり、さらに当時とうじ東西とうざいせいのため2にん東西とうざいけることは出来できない。ちが変則へんそく番付ばんづけとして1918ねん大正たいしょう7ねん)5がつ場所ばしょ番付ばんづけで、よん横綱よこづなだいにしきおおとり栃木とちぎさん2だい西にしうみ)のうちちょういずる横綱よこづな2にん栃木とちぎさん、2だい西にしうみ)がおな東方とうほうされた(相撲すもう番付ばんづけ歴史れきしじょう横綱よこづな2にんどうかたされたのはこの場所ばしょのみ)。またよん大関おおぜき九州きゅうしゅうさん千葉ちばヶ嵜伊勢いせはま2だいあさしお)のうちちょういずる大関おおぜき2にん伊勢いせはま、2だいあさしお)はおな西方せいほうされている
  • 大坂おおさか相撲すもうにおいて1917ねん1がつ場所ばしょ大関おおぜき昇進しょうしんたした朝日あさひまつは、前年ぜんねんれにトラブルをこし師匠ししょうから破門はもんされ、姿すがたまぼろしわった。この場所ばしょ番付ばんづけには西にし大関おおぜき朝日あさひまつ清治きよじろう箇所かしょに、「朝日あさひまつ清治きよじろう昨冬さくとう除名じょめいつかまつこう」というがみがされた。朝日あさひまつ以前いぜんにも東京とうきょう相撲すもうにおいて1913ねん大正たいしょう2ねん)5がつ場所ばしょ初日しょにちひか力士りきしとして物言ものいをつけたもののれられず、相撲すもうらずに退場たいじょう破門はもんされ大坂おおさか相撲すもう復帰ふっきしたことがあった。朝日あさひまつよく6がつ場所ばしょ復帰ふっきゆるされ、前頭まえがしら筆頭ひっとうかくとして番付ばんづけがい出場しゅつじょうし、その関脇せきわけまで番付ばんづけげたが、ふたた大関おおぜきにはなれなかった。
  • 1918ねん1がつ場所ばしょで、史上しじょうはじめて横綱よこづな大関おおぜき関脇せきわけ小結こむすび前頭まえがしらすべてにちょういずる横綱よこづな-2だい西にしうみおおとり大関おおぜき伊勢いせはま関脇せきわけ両國りょうこく小結こむすび黒瀬川くろせがわ前頭まえがしらつるわたる)がもうけられた番付ばんづけ発行はっこうされた。
  • 大坂おおさか相撲すもうにおいて1923ねん大正たいしょう12ねん)5がつ場所ばしょまえ、「龍神りゅうじん事件じけん」とばれるだい紛擾ふんじょうこり、幕下まくした以下いか力士りきしらにて興行こうぎょう紛争ふんそうだいもめとなり、うえしゅうやま大木戸おおきどりょう大関おおぜきをはじめ多数たすう廃業はいぎょう力士りきした(幕内まくうちだけで20にん廃業はいぎょう、のち3にん復帰ふっき)。よって同年どうねん6がつ場所ばしょ番付ばんづけ横綱よこづな宮城みやぎさんをはじめ残留ざんりゅう力士りきし幕内まくうち横綱よこづな以下いか関脇せきわけ小結こむすびかく1人ひとり平幕ひらまく13にんけい16にん)によって番付ばんづけ改訂かいていされ幕内まくうちのみかた番付ばんづけ興行こうぎょうした。
  • 1924ねん大正たいしょう13ねん)5がつ場所ばしょさき(1がつ場所ばしょ優勝ゆうしょうした栃木とちぎさん西にしせい横綱よこづなであったが、この場所ばしょ番付ばんづけひがしちょういずる横綱よこづなとなった。東西とうざいせいだったので東西とうざいわって、西にしせい横綱よこづな3だい西にしうみひがしせい横綱よこづなしん横綱よこづなつねはなで、優勝ゆうしょうした栃木とちぎさんちょういずるとなった。この場所ばしょ10しょう1はいで8かい優勝ゆうしょうよく1925ねん大正たいしょう14ねん)1がつ場所ばしょどう地位ちいで10しょう1ふんで9かい優勝ゆうしょうを3連覇れんぱかざったが、番付ばんづけじょうでは最後さいご場所ばしょとなったよく同年どうねん5がつ場所ばしょ西にしちょういずる横綱よこづなであった。一説いっせつには1923ねん関東大震災かんとうだいしんさいによる両国りょうこく国技こくぎかん焼失しょうしつさいつねはな後援こうえんかいから多額たがく再建さいけん資金しきん寄付きふされたことにむくいるためだったともされる。栃木とちぎさんをなだめるため、かれ東西とうざいせい横綱よこづなつねはな、3だい西にしうみよりこころもちふとされ、「別格べっかく横綱よこづな」の意味合いみあいがあたえられたが、3連覇れんぱ突然とつぜん引退いんたい表明ひょうめいには、これらの処置しょちへの不満ふまんがあったのではないかともわれている。
  • 大坂おおさか相撲すもう最後さいご本場所ほんばしょとなった1926ねん1がつ場所ばしょは、当時とうじ日本にっぽん領土りょうどとなっていた台湾たいわん台北たいぺい興行こうぎょうしたが、番付ばんづけには興行こうぎょう記載きさいされなかった。

昭和しょうわ時代じだい[編集へんしゅう]

  • 1927ねん昭和しょうわ2ねん)の東西とうざい合併がっぺいから春秋しゅんじゅうえん事件じけんこった1932ねんまでのあいだ番付ばんづけ編成へんせい基準きじゅんはめまぐるしく変化へんかし(東京とうきょう開催かいさい関西かんさい開催かいさい交互こうごおこなとし4場所ばしょせいだったが、東京とうきょう場所ばしょ番付ばんづけ東京とうきょう場所ばしょ成績せいせき基準きじゅん作成さくせいされ、関西かんさい場所ばしょ同様どうよう作成さくせいされた、など。)、力士りきし地位ちい出世しゅっせにも影響えいきょうおよぼした。
  • 東西とうざい相撲すもう合併がっぺいの1927ねん1がつ場所ばしょ年寄としより定員ていいん88めい大阪おおさかかた17めいくわえ105めい増員ぞういん(うち2めいいちだい年寄としより)。この場所ばしょ番付ばんづけの「年寄としより」のらんには現在げんざい番付ばんづけちがい、「年寄としより」とかれた下部かぶちいさく「イロハじゅん」とかれており、いろはの順番じゅんばん年寄としよりめい記載きさいされていた。
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん)10がつ広島ひろしまいて晴天せいてん11日間にちかん興行こうぎょうされたが、今後こんご関西かんさい本場所ほんばしょ番付ばんづけ発表はっぴょうせず、直前ちょくぜん東京とうきょう場所ばしょ番付ばんづけをもってすることとなった(1932ねん10がつ関西かんさい本場所ほんばしょ廃止はいしまで)。
  • 1931ねん昭和しょうわ6ねん)1がつ場所ばしょ千秋楽せんしゅうらく横綱よこづな宮城みやぎさん引退いんたい表明ひょうめいし、つぎ編成へんせいされた5がつ場所ばしょ番付ばんづけは、1890ねん5がつ場所ばしょに『横綱よこづな』の地位ちい記載きさいはじめて以来いらいはじめて横綱よこづな不在ふざい番付ばんづけよく1932ねん10がつ場所ばしょまで)となった。
  • 1931ねん5がつ場所ばしょ番付ばんづけは、西方せいほう幕内まくうち出羽海でわのうみ部屋へや力士りきし独占どくせんした。大関おおぜきだいさと以下いか20にんがすべて出羽海でわのうみ部屋へや所属しょぞくである。これは大相撲おおずもう史上しじょう空前絶後くうぜんぜつご記録きろくで、十両じゅうりょうも22にんちゅう10にん半数はんすうちかくをめた。たいする東方とうほう幕内まくうち立浪たつなみ部屋へやの3にん最多さいただった。
  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん)1がつ場所ばしょ番付ばんづけ前年ぜんねんきた春秋しゅんじゅうえん事件じけん発足ほっそくした、にしきよう一派いっぱだい日本にっぽん相撲すもう連盟れんめいから脱退だったいし、協会きょうかい帰参きさんした幕内まくうちかく12めい十両じゅうりょうかく8めい協会きょうかい脱退だったい当時とうじ(1932ねん1がつ)の順位じゅんい東西とうざいけず、地位ちいしるさず別席べっせきとして四股しこめいつらねた番付ばんづけべつ添付てんぷした。この場所ばしょ番付ばんづけ従来じゅうらいより小型こがたとなった。よく5がつ場所ばしょにはもとおおきさにもどった。
  • 1933ねん2がつ天竜てんりゅう一派いっぱ新興しんこう力士りきしだんが「だい日本にっぽん関西かんさい角力すもう協会きょうかい」を結成けっせい大阪おおさかだいいちかい本場所ほんばしょ開催かいさいのおり発行はっこうされた番付ばんづけ東西とうざいせいはなくかた番付ばんづけ様式ようしき)には大関おおぜき天竜てんりゅう関脇せきわけだいさと小結こむすびにしきよう以下いか力士りきし41にん行司ぎょうじ番付ばんづけには行司ぎょうじではなく「審判しんぱんいん」とかれている)7にん(このなかにのちの24だい木村きむらしょうすけ当時とうじ初代しょだいしきもり伊三郎いさぶろう)がいる)。に「事務じむいん」「拡声かくせいがかり」「桟敷さじきがかり」「世話人せわにん」がかれている。
  • 1934ねん昭和しょうわ9ねん)5がつ場所ばしょ番付ばんづけより、幕下まくした以下いか力士りきし全員ぜんいん出身しゅっしん地名ちめい記載きさいされた。
  • 相撲すもうかいるがした「春秋しゅんじゅうえん事件じけん」も1937ねん昭和しょうわ12ねんれに関西かんさい角力すもう協会きょうかいがついに解散かいさん。それにともな帰参きさんした力士りきし番付ばんづけ編入へんにゅうきびしいあつかいだった。1938ねん1がつ場所ばしょ番付ばんづけでは帰参きさん力士りきし脱退だったい番付ばんづけ地位ちいより一段いちだん編入へんにゅう関西かんさい入門にゅうもんしゃ幕内まくうち十両じゅうりょうとなったもの幕下まくしたに、それ以下いかものしん弟子でしあつかいとなった。
  • 1939ねん1がつ場所ばしょにちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん)の激化げきか応召おうしょう入営にゅうえい力士りきしえ、番付ばんづけにはその力士りきしうえに「応召おうしょう」・「入営にゅうえい」とくわえた。1940ねん5がつ場所ばしょには応召おうしょう入営にゅうえい力士りきし番付ばんづけ欄外らんがい一括いっかつされた。
  • 1939ねん5がつ場所ばしょ番付ばんづけ編成へんせいにおいて、1がつ場所ばしょ4にち前頭まえがしら3まい安藝あきうみせんで、連勝れんしょう記録きろくが「69」でまった横綱よこづな双葉ふたばさんは9しょう4はいるわなかったが、11しょう2はい双葉ふたばさんより成績せいせきかった横綱よこづな男女だんじょかわいて、連勝れんしょう記録きろく実績じっせき評価ひょうかされひがしせい横綱よこづなえられた。
  • 1941ねん昭和しょうわ16ねん)1がつ場所ばしょ安藝あきうみしま同時どうじ大関おおぜき昇進しょうしんで、前田まえだやまふくめて番付ばんづけ東方とうほうに3大関おおぜきならんだ(西方せいほう羽黒山はぐろさん1人ひとり)。これは1919ねん大正たいしょう8ねん)1がつ場所ばしょ西方せいほうに2だいあさしお千葉ちばヶ嵜、伊勢いせはま東方とうほう九州きゅうしゅうさん1にん以来いらい22ねんぶりの変則へんそく番付ばんづけとなった。
  • 1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつ場所ばしょ番付ばんづけより、機密きみつ隠匿いんとくのため応召おうしょうおよび入営にゅうえい力士りきし欄外らんがいちょういずるはされなくなった。
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん)11月場所ばしょ番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎは、力士りきし応召おうしょうなどの関係かんけいから次場すばしょ1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつ場所ばしょ開催かいさいの1ヶ月かげつまえおこなうことになった。その5月場所ばしょ空襲くうしゅう影響えいきょうにより6がつ順延じゅんえんとなった。
  • 戦後せんごはつ1945ねん昭和しょうわ20ねん)11月(あき場所ばしょ番付ばんづけはザラ小型こがたばん序ノ口じょのくち力士りきしはなく、記載きさい力士りきしはわずか216にんだった。またそのつぎ1946ねん昭和しょうわ21ねん)11月場所ばしょ序ノ口じょのくち力士りきし1人ひとりもおらず、そのつぎ1947ねん昭和しょうわ22ねん)の番付ばんづけでは3場所ばしょぶりに序ノ口じょのくち力士りきし復活ふっかつしたが、その場所ばしょのみ例外れいがいてきじょだん力士りきし序ノ口じょのくち力士りきしおなから2だん(うえから4だん)にかれた。
  • 1948ねん5がつ場所ばしょで、横綱よこづな大関おおぜき関脇せきわけかく3にん番付ばんづけながらちょういずるもうけず、すべてわくない四股しこめい記載きさいされた番付ばんづけとなった。よく10がつ場所ばしょ横綱よこづな大関おおぜきかく3にんがすべてわくないかれた。このときはこの2場所ばしょのみだったが、1994ねん平成へいせい6ねん)7がつ場所ばしょちょういずる制度せいど休止きゅうしされて以降いこう番付ばんづけちょういずるなしのまま現在げんざいいたっている。
  • 1956ねん1がつ場所ばしょより、前頭まえがしらじゅうりょう幕下まくしたさんだんじょだん序ノ口じょのくちかく地位ちいについては、ちょういずる以外いがい番付ばんづけ記載きさい力士りきし偶数ぐうすう人数にんずうであれば東西とうざい枚数まいすうおなじにし、奇数きすう人数にんずうであればひがし西にしより1まいおおくするルールが定着ていちゃくした。それ以前いぜんはこれらのかく地位ちいにおいて、奇数きすう人数にんずう西にしが1まいおおかったり、あるいは東西とうざい枚数まいすうに2まい以上いじょうがあるれいもあった。
  • 1951ねん昭和しょうわ26ねん)5がつ場所ばしょ番付ばんづけ編成へんせいで、さんやくかく行司ぎょうじの8だい木村きむら庄三郎しょうざぶろう(のち19だいしきもり伊之助いのすけ)を新設しんせつされたふくたて行司ぎょうじ昇格しょうかくさせ、たて行司ぎょうじの13だい木村きむら玉之助たまのすけおなふくたて行司ぎょうじ格下かくさげとなった。同年どうねん9がつ場所ばしょにもさんやくかく行司ぎょうじ2だい木村きむら正直まさなお(のち23だい木村きむらしょうすけ)がふくたて行司ぎょうじ昇格しょうかくとなった。
  • 1955ねん1がつ場所ばしょと3がつ場所ばしょ番付ばんづけで、いずれも4横綱よこづな番付ばんづけではあるが、りょう場所ばしょとも東方とうほうせい横綱よこづな(1がつ、3がつ場所ばしょ千代ちよやま)、ちょういずる横綱よこづな(1がつ場所ばしょかがみさと、3がつ場所ばしょよし葉山はやまかく1人ひとり西方せいほう2人ふたりともせい横綱よこづな(1がつ場所ばしょとちにしきよし葉山はやま、3がつ場所ばしょとちにしきかがみさと)というめずらしい番付ばんづけとなった。これは場所ばしょとも東方とうほう大関おおぜき三根みつねさん1人ひとり西方せいほうには大関おおぜき不在ふざいのためである。
  • 1956ねん昭和しょうわ31ねん)3がつ場所ばしょ番付ばんづけは1918ねん1がつ場所ばしょ以来いらい38ねんぶりに、横綱よこづな大関おおぜき関脇せきわけ小結こむすび前頭まえがしらちょういずる横綱よこづなとちにしき千代ちよやま大関おおぜきまつのぼる関脇せきわけはねしまさん小結こむすびつるみね前頭まえがしらほしかぶと)がある番付ばんづけとなった。よく5がつ場所ばしょ同様どうよう横綱よこづなきょうさと千代ちよやま大関おおぜきまつのぼる関脇せきわけ出羽でわにしき小結こむすびしまさん前頭まえがしら二瀬ふたせさん)にかく地位ちいちょういずるがある番付ばんづけとなった。
  • 1957ねん3がつ場所ばしょ番付ばんづけで、平幕ひらまく東西とうざい23まい史上しじょう最多さいた同年どうねん9がつ場所ばしょも)となった。ちなみに、戦後せんごにおいていち場所ばしょ最多さいた幕内まくうち力士りきしすうは、どう場所ばしょより11がつ場所ばしょまで4場所ばしょつづいた58にん。またじゅうりょうもこの4場所ばしょ東西とうざい23まい46にんじゅうりょう1958ねん昭和しょうわ33ねん)のみ6場所ばしょ連続れんぞく東西とうざい24まい48にん最多さいた)おり、関取せきとりじつに104にんという時代じだいであった。おなじくいち場所ばしょ最多さいた横綱よこづなおよさんやく力士りきしすう1961ねん昭和しょうわ36ねん)9がつ場所ばしょよく11がつ場所ばしょの15にんぎゃくいち場所ばしょ最少さいしょう幕内まくうち力士りきしすうは、1967ねん5がつ場所ばしょから1971ねん11月場所ばしょの34にん
  • 1959ねん5月場所ばしょは、ひがし横綱よこづなとちにしきひがしちょういずる横綱よこづな初代しょだい若乃花わかのはながともに14しょう1はい優勝ゆうしょう決定けっていせんとなり、若乃花わかのはな優勝ゆうしょうしたが、よく7がつ場所ばしょ番付ばんづけでは優勝ゆうしょう同点どうてんとちにしきひがし横綱よこづなにとどまり、若乃花わかのはな西にし横綱よこづなだった。「優勝ゆうしょう決定けっていせんでの勝敗しょうはいそれ自体じたい番付ばんづけ影響えいきょうしない」原則げんそくがはじめて明確めいかくしめされたかたちであり、その同様どうようのケース(1971ねん1がつ場所ばしょ大鵬たいほう-たまうみ1988ねん3がつ場所ばしょだい乃国-北勝海ほくとうみなど)のたびに、優勝ゆうしょう力士りきし同点どうてん力士りきし下位かいめおかれるのは不合理ふごうりではないかとの議論ぎろんんだ。1997ねん9月場所ばしょ理事りじかいでの改定かいていにより、現在げんざいではどう地位ちい力士りきし同士どうし決定けっていせん下位かい力士りきし優勝ゆうしょうした場合ばあいよく場所ばしょ番付ばんづけでは優勝ゆうしょう力士りきし上位じょういにまわすことになっている。
  • 1960ねん1がつ場所ばしょ、これまでの番付ばんづけあらため「取締とりしまり」「理事りじ」を東方とうほうさい下段げだんに、「勝負しょうぶつかさどもの中央ちゅうおうに」という考察こうさつで「勝負しょうぶ検査けんさやく」を中央ちゅうおうの「行司ぎょうじ」のらん下部かぶはいした。「若者わかものあたま」については51ねんぶり、「世話人せわにん」「呼出よびだし」については11ねんぶりに削除さくじょした。また協会きょうかい所在地しょざいち番付ばんづけはじめて記載きさいした。
  • 1960ねん1がつ場所ばしょ番付ばんづけで、1959ねん10月3にち春日野かすがのもと横綱よこづな栃木とちぎさん)がくなり、弟子でし横綱よこづなとちにしき現役げんえきのまま春日野かすがの襲名しゅうめいすることになり、1958ねん廃止はいしされたまい鑑札かんさつ特例とくれいとしてみとめられ、現役げんえき引退いんたいする5がつ場所ばしょまで年寄としよりらんにも「春日野かすがの清隆きよたか」と記載きさいされた。
  • 1960ねん7がつ場所ばしょ興行こうぎょうされた、秋田あきたけん大館おおだて巡業じゅんぎょうにおいてつくられたいた番付ばんづけには、東方とうほうちょういずる大関おおぜき柏戸かしわど枠外わくがいかれているのに、おな東方とうほうわくないかれている関脇せきわけわかさんすぎ(のちだいごう)は、普通ふつうならひがしせい関脇せきわけのはずが何故なぜか「関脇せきわけ」の文字もじ上部じょうぶに、ちいさく「張出はりだし」とかれている。
  • 1961ねん11月場所ばしょ大関おおぜき関脇せきわけ小結こむすびちょういずるがある番付ばんづけで、横綱よこづな初代しょだい若乃花わかのはな大鵬たいほう柏戸かしわど、3だいあさしおの4にん)のみ、ちょういずるもうけず4にんせい横綱よこづなとしわくない記載きさいされた番付ばんづけとなった。途中とちゅうあさしお引退いんたいもあったが、この様式ようしき番付ばんづけ翌年よくねん3がつ場所ばしょまでつづいた。
  • 1963ねん3がつ場所ばしょ番付ばんづけ西にし前頭まえがしら9まい宇多川うたがわ四股しこめい誤記ごきにより「宇田川うだがわ」で発行はっこう番付ばんづけ発表はっぴょう部屋へやより苦情くじょうがあり一門いちもんように「宇多川うたがわ」と訂正ていせいした番付ばんづけ少数しょうすうだけさい印刷いんさつした。
  • 1968ねん1がつ場所ばしょ番付ばんづけでは、ぜん場所ばしょさんだんじょだん全休ぜんきゅうした17にん全敗ぜんぱいした1人ひとりを50まいから100まい余分よぶんげすぎていたことによる前代未聞ぜんだいみもん大量たいりょうあやま編成へんせい発覚はっかくした。なかにはさんだん序ノ口じょのくちとされていたれいもあった。協会きょうかいではあやまりのあった力士りきし訂正ていせいした地位ちい挿入そうにゅうするかたちり、じょだんについては順次じゅんじげられ、序ノ口じょのくちについては順次じゅんじげられた。下位かい力士りきしとの理由りゆう訂正ていせい番付ばんづけさい印刷いんさつされず、相撲すもう協会きょうかい相撲すもう博物館はくぶつかんは、すでがっている番付ばんづけ訂正ていせいくわえて「正式せいしき番付ばんづけ」として保存ほぞんする措置そちった。当時とうじはなしによれば、全休ぜんきゅう全敗ぜんぱい力士りきし番付ばんづけ編成へんせいすすめるときにその対象たいしょうからはずし、編成へんせい終了しゅうりょう適当てきとうところにはめこむかたちっており、今回こんかいはうっかりして下位かいの18にんを1だん間違まちがえたり、すうじゅうまい間違まちがえていたとのことだった。
  • 1972ねん5がつ場所ばしょぜん場所ばしょ直前ちょくぜん25だい木村きむらしょうすけ廃業はいぎょう協会きょうかいは11月場所ばしょまでしょうすけ空位くういにすると発表はっぴょうしたためたて行司ぎょうじ22だいしきもり伊之助いのすけ1人ひとりとなった。1960ねん1がつ場所ばしょ以降いこうたて行司ぎょうじ2人ふたり)とさんやくかく行司ぎょうじ(3にん)はだんけてかれていたが、バランスをとるため伊之助いのすけよこさんやくかく3にんならべていた。そのしょうすけ伊之助いのすけそろっても5にんならべてかれていたが、1985ねん1がつ場所ばしょからふたたたて行司ぎょうじさんやくかく行司ぎょうじだんけてかれるようになった。
  • 1972ねん9がつ場所ばしょ十両じゅうりょうはつ公傷こうしょう制度せいど適用てきようされ、大潮おおしお鷲羽山わしゅうざんぜん場所ばしょ番付ばんづけどう地位ちいされた(大潮おおしおひがし5まい鷲羽山わしゅうざん西にし10まい)。その1976ねん昭和しょうわ51ねん)5がつ場所ばしょじゅうりょう公傷こうしょう休場きゅうじょう力士りきしちょういずるあつかいを休止きゅうしした。
  • 1972ねん11月場所ばしょ番付ばんづけひがし前頭まえがしら14まいぶくはな四股しこめい行司ぎょうじ誤記ごきにより「ぶくはな孝一こういち」とかれた。
  • 1974ねん1がつ場所ばしょ番付ばんづけ西にし大関おおぜきだい受の出身しゅっしん誤記ごきにより「青森あおもり」に。石油せきゆ危機ききによりさい印刷いんさつをせず、すで印刷いんさつみの番付ばんづけに「北海道ほっかいどう」とただしい出身しゅっしんいたかみ訂正ていせいした。関係かんけいしゃには訂正ていせいさい印刷いんさつした番付ばんづけ発行はっこう
  • 1975ねん3がつ場所ばしょ番付ばんづけは、1948ねん10がつ場所ばしょ以来いらい27ねんぶりにちょういずるのない番付ばんづけとなったが、横綱よこづなから小結こむすびまで2めいずつという純粋じゅんすい人数にんずうぎりぎりになったのは昭和しょうわ以降いこうはじめてであった。
  • 1980ねん9がつ場所ばしょ5にちより幕内まくうちかく行司ぎょうじ木村きむらひつすけ糖尿とうにょうびょうにより長期ちょうき病気びょうき休場きゅうじょうとなった。取組とりくみちゅう力士りきし接触せっしょくしたり、勝負しょうぶまるまえ転倒てんとうするなど失態しったいおおかった。晩年ばんねん1984ねん昭和しょうわ59ねん)1がつ場所ばしょより“別格べっかくあつかい”となり、番付ばんづけ行司ぎょうじらん最下位さいかい記載きさいされるようになり、土俵どひょう復帰ふっきすることなく同年どうねん5がつ場所ばしょまえくなった。
  • 1981ねん9がつ場所ばしょ番付ばんづけ大関おおぜき不在ふざいのため東西とうざいせい横綱よこづなきたうみ千代ちよ富士ふじが「横綱よこづな大関おおぜき」となる。大関おおぜき不在ふざい変則へんそく番付ばんづけ1905ねん明治めいじ38ねん)1がつ場所ばしょ(2だいうめだに常陸山ひたちやま東西とうざいせい横綱よこづなが「横綱よこづな大関おおぜき」となる)以来いらい76ねんぶり。
  • 1983ねん昭和しょうわ58ねん)5がつ場所ばしょ番付ばんづけ編成へんせいにおいて、大関おおぜきにも公傷こうしょう制度せいど適用てきようすることとなった。同年どうねん9がつ場所ばしょ8にちあさしお横綱よこづなりゅうさとせんひざいためて休場きゅうじょうし、大関おおぜき公傷こうしょう適用てきようだい1ごうとなった。
  • 1984ねん1がつ場所ばしょ番付ばんづけで、西方せいほう序ノ口じょのくちちょういずる公傷こうしょうあつかいによる)がかれた番付ばんづけ発行はっこうされた。さい下段げだんの「せんまんさいだいかのう」といてある左側ひだりがわ西方せいほう欄外らんがいにごくちいさく「小岩井こいわい昭和あきかず[51]」とかれてあった。当時とうじ番付ばんづけ公傷こうしょう制度せいどによるちょういずる幕下まくした以下いかにも度々たびたびられたが、序ノ口じょのくちちょういずるはごくまれなケースである。
  • 1985ねん昭和しょうわ60ねん)1がつ場所ばしょよりしん国技こくぎかん開催かいさいされたが、番付ばんづけには「両国りょうこく國技こくぎかん」ではなく「國技こくぎかん」と、「両国りょうこく」の文字もじはいらなかった(蔵前くらまえ国技こくぎかん時代じだい番付ばんづけには「藏前くらまえ國技こくぎかん」とかれていた)。

平成へいせい時代じだい[編集へんしゅう]

  • 1989ねん1がつ場所ばしょ番付ばんづけにおいて、ぜん場所ばしょじょだんひがし114まいで7せん全勝ぜんしょうだった二子ふたごさくら(のちの幕内まくうちちからさくら)は、内規ないきによりさんだん昇進しょうしんできるはずだったが、発表はっぴょうされた番付ばんづけではじょだんひがし44まいかれていた。これに師匠ししょう二子山ふたごやま理事りじちょうもと横綱よこづな初代しょだい若乃花わかのはな)が抗議こうぎし、二子ふたごさくらは1がつ場所ばしょさんだん最下位さいかいかくあつかいで相撲すもうをとった。審判しんぱんが、ぜん場所ばしょじょだん優勝ゆうしょう決定けっていせんでのさくら敗戦はいせん本場所ほんばしょでのそれと勘違かんちがいしていたことによるミスであった。
  • 1992ねん5がつ場所ばしょ番付ばんづけより、たて行司ぎょうじ代数だいすう記載きさいされるようになった。当時とうじ木村きむらしょうすけ28だいしきもり伊之助いのすけ26だいであった。
  • 1994ねん平成へいせい6ねん)5がつ場所ばしょ番付ばんづけで、おな四股しこめい力士りきし記載きさいされるミスがあった。じょだん西にし101まい序ノ口じょのくちひがし30まい力士りきしはいずれも「小谷おたに」。二人ふたり兵庫ひょうごけん出身しゅっしん兄弟きょうだいで、じょだんあに二子山ふたごやま部屋へや序ノ口じょのくち大鵬たいほう部屋へや力士りきしおとうとは3がつ場所ばしょはつ土俵どひょうで、5月場所ばしょはじめて番付ばんづけ四股しこめいった。おとうとは「大小だいしょうだに」で四股しこめいとどけたはず、とくびをかしげたが、結局けっきょく急遽きゅうきょあらためて改名かいめいとどけ提出ていしゅつし、5月場所ばしょは「大小だいしょうだに」で土俵どひょうがった。またこの場所ばしょ番付ばんづけ掲載けいさいされた力士りきしは934にんとなり史上しじょう最多さいたとなった。
  • 1994ねん7がつ場所ばしょ番付ばんづけで、ぜん場所ばしょまでの「審判しんぱん委員いいん」(1968ねん1がつに「勝負しょうぶ検査けんさやく」より改称かいしょう)が、1887ねん明治めいじ20ねん)1がつ場所ばしょ番付ばんづけはじめて「勝負しょうぶ検査けんさやく」を記載きさい以来いらい番付ばんづけからえ、1959ねん11月場所ばしょ以来いらい、「若者わかものあたま」「世話人せわにん」「呼出よびだし」が番付ばんづけじょう復活ふっかつした。同時どうじに、「委員いいん」「年寄としより」は就任しゅうにん年月日ねんがっぴじゅん番付ばんづけ記載きさいされるようになった。なお、「呼出よびだし」はたて呼出よびだしふくたて呼出よびだしさんやく呼出よびだし幕内まくうち呼出よびだし十両じゅうりょう呼出よびだし記載きさいされて幕下まくした呼出よびだし以下いか記載きさいされない。
  • 1994ねん10がつ20日はつか、2にちまえ停年ていねん退職たいしょくした若者わかものあたま伊勢いせにしき後任こうにんとして同年どうねん9がつ場所ばしょ西にし幕下まくした15まいで1しょう6はいわったはなくに若者わかものあたま就任しゅうにんすること承認しょうにんされ同年どうねん11がつ場所ばしょ現役げんえき力士りきし若者わかものあたまどう一人物いちじんぶつ番付ばんづけめんでの重複じゅうふくけるため、幕下まくした東方とうほう従来じゅうらいの60まいまであったのにたいし、西方せいほうはなくにかれ1まいらされ、59まいになっている。
  • 2000ねん9がつ場所ばしょじょだん力士りきし持丸もちまる四股しこめいを「挑持丸もちまる(ちょうじまる)」と改名かいめいするむねとどたが、番付ばんづけには「もも持丸もちまる」と誤記ごきされ(みはちょうじまる)、それを正式せいしきめいとしていち場所ばしょつとめた。よく11がつ場所ばしょ終了しゅうりょうふたた改名かいめいとどけを2001ねん1がつ場所ばしょからあらためて「挑持まる」となった。このいち場所ばしょかぎりの改名かいめい誤記ごきによるものとはいえ正式せいしき協会きょうかい記録きろくとしてのこっている[52]
  • 2008ねん9がつ場所ばしょ番付ばんづけよりぜん場所ばしょまでの「呼出よびだし」の表記ひょうきを、1950年代ねんだい記載きさいされたころの「呼出よびだし」とあらためた。
  • 2009ねん3がつ場所ばしょ番付ばんづけより、さんだんかく行司ぎょうじ幕下まくしたかく行司ぎょうじ同列どうれつにして文字もじおおきさもぜん場所ばしょより若干じゃっかんおおきくき、じょだんかく行司ぎょうじ以下いかにスペースがひろくなったため、同様どうようじょだん序ノ口じょのくちかく行司ぎょうじぜん場所ばしょよりややおおきめにかれるようになった。
  • 2010ねん7がつ場所ばしょ番付ばんづけは、一連いちれん野球やきゅう賭博とばく問題もんだいで1週間しゅうかんおくれの7がつ5にち発表はっぴょう番付ばんづけには「平成へいせい22ねん6月28にち発表はっぴょう」とかれてある)。しん番付ばんづけ掲載けいさいされたまま解雇かいことなった大関おおぜきこと光喜みつよし以下いか謹慎きんしんとなった幕内まくうち力士りきし7にんじゅうりょう幕下まくした力士りきし7にん休場きゅうじょう大嶽おおたけもと関脇せきわけ貴闘力たかとうりき親方おやかた解雇かいこ時津風ときつかぜもと前頭まえがしら時津とぎつかい)・阿武あぶまつもと関脇せきわけえきあらつよしりょう親方おやかた降格こうかく懲戒ちょうかい処分しょぶん武蔵川むさしがわ理事りじちょうもと横綱よこづなさんじゅううみ以下いか11にん親方おやかた当面とうめんあいだ謹慎きんしんという異常いじょう事態じたい場所ばしょとなった。このさい謹慎きんしん処分しょぶんけた力士りきし名前なまえ番付ばんづけのこったままになる異例いれい事態じたい」などというあやまった報道ほうどうすべての民放みんぽうキーきょく[53]でなされた。これらの報道ほうどうについて訂正ていせいとう一切いっさいなかった。
  • 2012ねん1がつ場所ばしょ番付ばんづけで、「若者わかものあたま」・「世話人せわにん」が右側みぎがわ東方とうほう左下ひだりした記載きさいされるようになり、「呼出よびだし」・「床山とこやま」はわく拡大かくだいされ、「床山とこやま」についてはぜん場所ばしょまでは特等とくとう床山とこやま2めいのみの記載きさいだったが、この場所ばしょより一等いっとう床山とこやま13めい追加ついか記載きさいされるようになった。
  • 2015ねん4がつグルジア政府せいふからの要請ようせいけて通常つうじょう国会こっかい審議しんぎ可決かけつされた在外ざいがい公館こうかん名称めいしょうおよ位置いちならびに在外ざいがい公館こうかん勤務きんむする外務がいむ公務員こうむいん給与きゅうよかんする法律ほうりつ改正かいせいほう公布こうふ施行しこうされ、同国どうこく日本語にほんごでの呼称こしょうロシアみの「グルジア」から英語えいごみの「ジョージア」にあらためられることになった。同年どうねん5がつ場所ばしょ番付ばんづけはすでに作成さくせいずみで、同国どうこく出身しゅっしん西にし前頭まえがしら筆頭ひっとうとちこころつよしひがし6まいきばまるまさる出身しゅっしんは「グルジア」のままだったが、相撲すもう協会きょうかい公式こうしきサイト[54]本場所ほんばしょ場内じょうないアナウンスなどでは「ジョージア」にあらためられ、7がつ場所ばしょからは番付ばんづけ表記ひょうきも「ジョージア」となった。
  • 2016ねん11月場所ばしょ番付ばんづけから年寄としよりらんに「参与さんよ」が復活ふっかつ停年ていねんさい雇用こようしゃ記載きさいされた。なお、さい雇用こようしゃなかでも、勝負しょうぶ審判しんぱんをつとめている桐山きりやまもと黒瀬川くろせがわ)は、審判しんぱん委員いいんのところに名前なまえ記載きさいされている。
  • 2017ねん3がつ場所ばしょ千秋楽せんしゅうらく西山にしやま-みどり富士ふじせん取組とりくみちゅう西山にしやまのまわしのぜんふくろ土俵どひょうにつき、勝負しょうぶ審判しんぱん指摘してきにより反則はんそくけとされたが、相撲すもう規則きそく勝負しょうぶ規定きていじょうではぜんふくろ土俵どひょうについてもけにならないとされていた。 審判しんぱん部長ぶちょうしょせき(もとわか嶋津しまづ)は誤審ごしんみと謝罪しゃざい担当たんとう勝負しょうぶ審判しんぱん5にん厳重げんじゅう注意ちゅういとなった[55]。この勝敗しょうはいくつがえることはなく、西山にしやま西にしさんだん17まいで4しょう3はい通常つうじょうでは幕下まくした昇進しょうしんできない成績せいせきとなったが、よく5がつ場所ばしょ番付ばんづけでは西にし幕下まくした60まいかれた[56]
  • 2018ねん3がつ役員やくいん改選かいせんで、評議ひょうぎいんなか力士りきし経験けいけんしゃ現役げんえき年寄としよりではなく協会きょうかいいんのOBにすべ交代こうたいした結果けっか、5月場所ばしょ番付ばんづけには「評議ひょうぎいん」の記載きさいがなくなった。

れい時代じだい[編集へんしゅう]

  • れい最初さいしょ本場所ほんばしょとなった2019ねんれい元年がんねん)5がつ場所ばしょ番付ばんづけは、番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎもときを作成さくせいした段階だんかいではしん元号げんごうがまだ発表はっぴょうされておらず、「こうむ御免ごめん」のした開催かいさいねん記載きさいする場所ばしょをいったん空欄くうらんのままとしたうえで、しん元号げんごう発表はっぴょうってそこに「れい元年がんねん」とかれたが、その番付ばんづけ発表はっぴょう平成へいせい31ねん4がつ30にちだったので、その番付ばんづけ発表はっぴょう年月日ねんがっぴの「平成へいせいさんじゅういちねん」と開催かいさいねんの「れい元年がんねん」の新旧しんきゅう元号げんごう同居どうきょする番付ばんづけとなった。
  • 2022ねん9がつ場所ばしょ番付ばんづけでは、まえの7がつ場所ばしょ自身じしん新型しんがたコロナウイルスに感染かんせん、または部屋へや感染かんせんしゃたことにより休場きゅうじょうした力士りきしについて、休場きゅうじょう時点じてんすでしがまっていた力士りきし番付ばんづけげ、休場きゅうじょう時点じてんすでしがまっていた力士りきし番付ばんづけげ、休場きゅうじょう時点じてんし・しがまっていなかった力士りきし番付ばんづけくという基準きじゅん編成へんせいされた。なかでも角番かどばん大関おおぜき御嶽みたけかい久司ひさしは、2しょう5はい8きゅう成績せいせきだけをると通常つうじょうなら関脇せきわけ陥落かんらくする状況じょうきょうであったが、新型しんがたコロナウイルス感染かんせんによる休場きゅうじょうのため、9月場所ばしょ関脇せきわけ陥落かんらくせず角番かどばん大関おおぜき状態じょうたい継続けいぞくしてむかえることになった[57]

てん[編集へんしゅう]

番付ばんづけ」は相撲すもう以外いがいのそのさまざまなものの順位じゅんいけの意味いみでももちいられる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 1761ねんたかられき11ねん)10がつ場所ばしょより、それまでの「勧進かんじん相撲すもう」を「勧進かんじん大相撲おおずもう」としるす。なお大坂おおさか京都きょうとよこ番付ばんづけ
  2. ^ 一時いちじ1871ねん明治めいじ4ねん)4がつ場所ばしょから1877ねん明治めいじ10ねん)9がつ場所ばしょまでもとよこまい番付ばんづけもどる。
  3. ^ 実際じっさいには大関おおぜきが1めいまたは不在ふざいになることもありうるが、その場合ばあいは、大関おおぜき1めい場合ばあい東西とうざいどちらか1めい大関おおぜきのいないほう)の横綱よこづなが、大関おおぜき不在ふざい場合ばあい東西とうざい両方りょうほうわせて2めい横綱よこづなが、「横綱よこづな大関おおぜき」として番付ばんづけ表記ひょうきじょう大関おおぜきねることになっており、これまで定説ていせつとしては、純粋じゅんすい大関おおぜきと、「横綱よこづな大関おおぜき」と表記ひょうきされた横綱よこづな合計ごうけいすれば最低さいてい2めいそろえなければならないものとされてきた。しかし、2023ねん3がつ場所ばしょころげん理事りじちょう八角はっかくしめした見解けんかいによれば、大関おおぜき空位くうい関脇せきわけ以下いかから強引ごういんにでも補充ほじゅうすることにかんしては否定ひていてき見解けんかいしめしていたため、今後こんご横綱よこづな大関おおぜき合計ごうけい人数にんずう1人ひとり以下いかになってしまう可能かのうせい否定ひていできない。
  4. ^ 幕下まくしたづけ力士りきし実際じっさい番付ばんづけめんらず、この定員ていいんにもふくまれない。
  5. ^ さんだん目付めつけ力士りきし実際じっさい番付ばんづけめんらず、この定員ていいんにもふくまれない。
  6. ^ 序ノ口じょのくちよりしたで、ぜん相撲すもう実際じっさい番付ばんづけめんらない力士りきし
  7. ^ 枚数まいすうは26まい、26まいひがしのみ。
  8. ^ 1948ねん5がつ場所ばしょ東西とうざい21まい(さんだんかく番付ばんづけがい1にん)、1948ねん10がつ場所ばしょは22まい(22まい西にしのみ)。
  9. ^ 枚数まいすうは120まい、120まいひがしのみ。
  10. ^ 枚数まいすうは101まい幕下まくしたかく番付ばんづけがい1にん
  11. ^ 江戸えど相撲すもう初期しょき番付ばんづけでは、本中ほんなかそうちゅうぜん相撲すもう掲載けいさいされていないがろくだん編成へんせいのものもあった。そのだん頭書とうしょは「どう」(「前頭まえがしら」のあつかい)となっているが、その形式けいしき番付ばんづけ発行はっこうされていた当時とうじは、だん待遇たいぐう区別くべつされる地位ちいとして確立かくりつしていなかったとおもわれる。
  12. ^ 1934ねん5がつ場所ばしょから1960ねん11月場所ばしょまでは序ノ口じょのくちぜん相撲すもう中間ちゅうかん階級かいきゅうとして存在そんざいしていた。現在げんざいでは「しんじょ」のかたり階級かいきゅうではなく、ぜん相撲すもう出場しゅつじょうして一定いってい成績せいせきおさよく場所ばしょ序ノ口じょのくちほんわり出場しゅつじょうする権利けんり力士りきし身分みぶんしめすためにもちいられる。
  13. ^ 序ノ口じょのくちぜん相撲すもう中間ちゅうかんにかつて存在そんざいした階級かいきゅう江戸えど相撲すもう最初さいしょ番付ばんづけには掲載けいさいされていた。1973ねん昭和しょうわ48ねん廃止はいし
  14. ^ 序ノ口じょのくちぜん相撲すもう中間ちゅうかんにかつて存在そんざいした階級かいきゅう江戸えど相撲すもう最初さいしょ番付ばんづけには掲載けいさいされていた。明治めいじ廃止はいし
  15. ^ 江戸えど相撲すもう最初さいしょ番付ばんづけには掲載けいさいされていた。
  16. ^ 現在げんざいでも、純粋じゅんすい大関おおぜき1人ひとり以下いか場合ばあいは、横綱よこづな番付ばんづけじょう横綱よこづな大関おおぜき」と表記ひょうきされて形式けいしきじょう東西とうざい大関おおぜきを2にんそろえるが、これは歴史れきしてきには、広義こうぎ大関おおぜきには横綱よこづなふくむものとされているからである。
  17. ^ 本来ほんらい意味いみでのさんやく大関おおぜき関脇せきわけ小結こむすびであるが、このうち大関おおぜき関脇せきわけ小結こむすび比較ひかくしても特別とくべつ地位ちいであるため、さんやくといって関脇せきわけ小結こむすびのみをすこともある。
  18. ^ 江戸えど相撲すもう初期しょき番付ばんづけでは、現在げんざいでは現行げんこう制度せいど同様どうよう番付ばんづけさい上段じょうだん便宜上べんぎじょう幕内まくうち」と場合ばあいおおいが、その当時とうじどこまでを幕内まくうちんだかはかならずしも判然はんぜんとしないため、当時とうじの「幕内まくうち」と区別くべつして「上段じょうだん」と場合ばあいもある。
  19. ^ 江戸えど相撲すもう初期しょき番付ばんづけでは、当時とうじ横綱よこづなという言葉ことばはあったが地位ちいではなかったため「(○)」としめした。また番付ばんづけさい上段じょうだんだけでなく、だん以下いか場所ばしょによりさんだんあるいはよんだん途中とちゅうまで)も「前頭まえがしら」(「どう」ではなく)とかれている部分ぶぶんまでは「幕内まくうちかく」とるべきだとするせつがあるため、ひょうには「○*」としめした。
  20. ^ 前頭まえがしら」のかたり江戸えど相撲すもうの「ぜん相撲すもうあたま」が語源ごげんであるため、本来ほんらい意味いみにおいては「やく力士りきし」と「ぜん相撲すもう」の両極端りょうきょくたん位置いちする力士りきし以外いがいぜん力士りきしし、番付ばんづけひょうでもそのとおりにかれている。実際じっさい番付ばんづけひょうでの表記ひょうきは、平幕ひらまくじゅうりょうは「前頭まえがしら」と表記ひょうきされ、幕下まくしたは「どう」のつらねられ、さんだん以下いかは「どう」の略字りゃくじつらねられている(明治めいじ時代じだい十両じゅうりょう創設そうせつ以降いこう番付ばんづけ)。江戸えど相撲すもう初期しょき番付ばんづけでは、だん全体ぜんたい場所ばしょによりさんだんよんだん一部いちぶも)が「前頭まえがしら」であったり、さんだんが「どう」の略字りゃくじではなく正字せいじであったりするなど、場所ばしょによりまちまちである。
  21. ^ 江戸えど時代じだい明治めいじ初期しょき十両じゅうりょう地位ちい存在そんざいしなかった時代じだいの「だん」「幕下まくしただん」に相当そうとう
  22. ^ 歴史れきしてきには、本来ほんらい意味いみからすれば幕内まくうち以外いがい全員ぜんいん幕下まくした」である。江戸えど相撲すもう初期しょき番付ばんづけにおいては、だんさんだんよんだん一部いちぶまたは全部ぜんぶが「前頭まえがしら」と表記ひょうきされている場合ばあいがあり、それは幕内まくうちかくというせつがあるため、「○*」としめした。
  23. ^ しんじょ階級かいきゅうとして存在そんざいした時代じだいには、しんじょ序ノ口じょのくち待遇たいぐうであった。
  24. ^ 本来ほんらい意味いみからすれば序ノ口じょのくちよりした番付ばんづけっていない力士りきしすが、現在げんざいでは事実じじつ上前うわまえ相撲すもう力士りきしのみをす。
  25. ^ あいなかほんちゅう廃止はいしされ、現在げんざいこれに該当がいとうする地位ちい事実じじつ上前うわまえ相撲すもうのみとなった現在げんざいでも、番付ばんづけひょうには「此外中前ちゅうぜん相撲すもう東西とうざい御座ぎょざこう」とかれている。
  26. ^ 要領ようりょうじょうは3にち以内いないとしているが、慣例かんれいじょう3にち千秋楽せんしゅうらく日曜日にちようびであれば、水曜日すいようび)に開催かいさいするのが通例つうれいとなっている。引退いんたいとう届出とどけで必要ひつよう場合ばあいはこのあいだとどることとされている(番付ばんづけ編成へんせい要領ようりょうだい10じょう)。
  27. ^ ただし、なんらかの理由りゆう審判しんぱん部長ぶちょう審判しんぱんふく部長ぶちょう審判しんぱん委員いいん一人ひとり本場所ほんばしょ一部いちぶ、または全日ぜんじつ)を欠場けつじょうした場合ばあいはそのひと会議かいぎ参加さんかできない場合ばあいがある。
  28. ^ 抜井ぶんまわしたい [@nezumi32] (2015ねん4がつ27にち). "で、番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎなんですが。番付ばんづけ編成へんせい会議かいぎは、東京とうきょう場所ばしょだと国技こくぎかん地下ちか1かい審判しんぱん部屋へやおこないます。東西とうざい支度したく部屋へや中間ちゅうかんにあり、NHKのインタビュールームのななぜんあたりにあります。相撲すもう記者きしゃは、そのとびらまえ待機たいきしています。しん番付ばんづけ極秘ごくひなんですが、それはあくまで建前たてまえでして…。". X(きゅうTwitter)より2020ねん10がつ22にち閲覧えつらん
  29. ^ たとえば、幕下まくした場合ばあいは、7せん全敗ぜんぱい(あるいは休場きゅうじょうふくみながら1ばん以上いじょう相撲すもうったが出場しゅつじょうした取組とりくみでは全敗ぜんぱいした場合ばあい)はほぼ機械きかいてきに35まい陥落かんらくするのにたいし、全休ぜんきゅう(不戦敗ふせんぱいふくむ)は40まい陥落かんらくとなる。実例じつれいとしては、2023ねん(れい5ねん)11月場所ばしょでは、ひがし幕下まくした2まい全休ぜんきゅうてるおおとり西にし幕下まくした42まいとなったのにたいし、ひがし幕下まくした31まいで7せん全敗ぜんぱいきんつばさひがしさんだん6まいとなった。
  30. ^ 実際じっさい番付ばんづけ編成へんせいおおくは、した場合ばあい本来ほんらいがりはばおおきくえて番付ばんづけがることは頻繁ひんぱん発生はっせいしているのにたいし、した場合ばあい本来ほんらいがりはばおおきくえて番付ばんづけがることはできるだけ抑制よくせいしようとする傾向けいこうがみられる(昇進しょうしん降格こうかく非対称ひたいしょうせい)。
  31. ^ 大阪おおさか府立ふりつ体育たいいく会館かいかん(3がつ場所ばしょ)は「BODYMAKERコロシアム」(2014ねん・2015ねん)→「エディオンアリーナ大阪おおさか」(2016ねん以降いこう)、愛知あいちけん体育館たいいくかん(7がつ場所ばしょ)は「ドルフィンズアリーナ」(2018ねん以降いこう)と記載きさいしている。
  32. ^ 1968ねんまでは「勝負しょうぶ検査けんさやく」。
  33. ^ 2014ねん平成へいせい26ねん)3がつ場所ばしょ番付ばんづけより。そのとし1がつ27にち内閣ないかく相撲すもう協会きょうかい1がつ28にちづけ公益こうえき財団ざいだん法人ほうじんとして認定にんていしたことによる。それまでは「財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん相撲すもう協會きょうかい」(「公益こうえき」の文字もじがなく「かい」がきゅう字体じたい)。
  34. ^ 理事りじちょう太字ふとじ筆頭ひっとうかれ、「理事りじちょう」と明記めいきされる。
  35. ^ 場所ばしょによっては、委員いいん人数にんずうすくない場合ばあい委員いいんすべ右側みぎがわき、左側ひだりがわ役員やくいん主任しゅにん年寄としより参与さんよのみとすることもある。
  36. ^ 2012ねん平成へいせい24ねん)1がつ場所ばしょより、それまで特等とくとう床山とこやまのみの記載きさいだったところ、一等いっとう床山とこやま追加ついか記載きさいされるようになった。これにより若者わかものあたま世話人せわにん記載きさい場所ばしょひがしまわった。
  37. ^ 写真しゃしん エキサイトブログ。2022ねん12月28にち閲覧えつらん
  38. ^ 右側みぎがわ実際じっさい番付ばんづけひょうひだり実際じっさい行司ぎょうじいた「もとき」です。日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい公式こうしき(2013ねん1がつ23にち), Twitter. 2022ねん12月27にち閲覧えつらん
  39. ^ いた番付ばんづけ写真しゃしん、2014ねん平成へいせい26ねん)1がつ場所ばしょ、junjun25611962のブログ。2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  40. ^ 本日ほんじつは、いた番付ばんづけ最後さいご仕上しあげです。日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい公式こうしき(2012ねん12月28にち), Twitter. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  41. ^ 相撲すもう番付ばんづけ」ことばマガジン(2013ねん9がつ12にち)、朝日新聞あさひしんぶんデジタル。2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  42. ^ できあがったいた番付ばんづけ日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい公式こうしき(2013ねん5がつ9にち), Twitter. 2022ねん12月26にち閲覧えつらん
  43. ^ a b 大空おおぞら出版しゅっぱん相撲すもうファン』vol.4 25ぺーじ
  44. ^ また東西とうざいさい下段げだん左側ひだりがわに、「初切しょっきり」(「行司ぎょうじ」、「年寄としより」の文字もじみぎからかれているにもかかわらず、「初切しょっきり」の文字もじあやまってひだりからかれている。「番付ばんづけ」のこう参照さんしょう)とあり、巡業じゅんぎょう余興よきょうおこなわれる初切しょっきりをする力士りきしがある。
  45. ^ a b 大空おおぞら出版しゅっぱん相撲すもうファン』vol.4 28ぺーじ
  46. ^ 力士りきし急死きゅうし時津風ときつかぜ部屋へや兄弟子あにでし3にん番付ばんづけき 2008ねん1がつ30にち
  47. ^ 昭和しょうわ戦中せんちゅう軍隊ぐんたい徴用ちょうようされた力士りきしについて、ただしきとともに番付ばんづけがいて、地位ちい留保りゅうほしたれいはある。やがて軍部ぐんぶから「軍機ぐんきれる」のとがめがあって、1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつ場所ばしょから廃止はいしされ、兵役へいえきについた力士りきし番付ばんづけから名前なまえし、復帰ふっきもと成績せいせき相当そうとう地位ちい出場しゅつじょうさせることにした。
  48. ^ 兄弟子あにでし3にん全休ぜんきゅうなのに番付ばんづけき…序ノ口じょのくち力士りきし死亡しぼう事件じけん 2008ねん1がつ30にち
  49. ^ はくほう重責じゅうせき1人ひとり横綱よこづな しん番付ばんづけからあさあおりゅう名前なまええる スポーツ-ZAKZAK 2010ねん3がつ1にち
  50. ^ 1909ねん明治めいじ42ねん)6がつ場所ばしょ東西とうざいせい実施じっしのときに、優勝ゆうしょうしたかたよく場所ばしょひがし配置はいちしたことで、ひがしはんまいじょうということが確定かくていして、現在げんざいいたっている。ただし春秋しゅんじゅうえん事件じけんさいして発行はっこうされた改定かいてい番付ばんづけ1932ねん昭和しょうわ7ねん)2がつ場所ばしょ)では大関おおぜき3にん東方とうほうたまにしき能代のしろかた西方せいほう武藏むさしさん)でちょういずるをつくらなかったために、幕内まくうちでは「関脇せきわけ以下いか西にし上位じょうい」とされていたため東方とうほう上位じょうい完全かんぜん確定かくていした時期じきはこれ以降いこうである。
  51. ^ 幕内まくうち小城おぎはなで、現在げんざい年寄としより出羽海でわのうみ当時とうじ本名ほんみょう四股しこめいとしていた。
  52. ^ 飛天ひてんりゅう 貴信きしん日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい大相撲おおずもう名鑑めいかん
  53. ^ 情報じょうほうライブ ミヤネ読売よみうりテレビ・日本にほんテレビ)、ANNニューステレビ朝日てれびあさひ)、FNNスーパーニュース(フジテレビ)、NEWS FINE(テレビ東京てれびとうきょう)(いずれも2010ねん7がつ5にち放送ほうそうぶん)、みのもんたのあさズバッ!(TBS、2010ねん7がつ6にち放送ほうそうぶん)など
  54. ^ この時点じてん引退いんたいみであった黒海こっかいふとし出身しゅっしんも「ジョージア」にえられている(力士りきしプロフィール - 黒海こっかい ふとし - 日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい公式こうしきサイト)
  55. ^ さんだん取組とりくみ誤審ごしん勝負しょうぶ結果けっかわらず-大相撲おおずもう春場所はるばしょ - 時事じじドットコム(時事通信社じじつうしんしゃ、2017ねん3がつ26にち)
  56. ^ 3がつ場所ばしょにおいて西山にしやまより番付ばんづけ上位じょうい西にし15~ひがし17まいで4しょう3はいだった力士りきしはいずれも5がつ場所ばしょではさんだんかれている。
  57. ^ 秋場所あきばしょしん番付ばんづけ】コロナで場所ばしょちゅう途中とちゅう休場きゅうじょう相次あいついだせん場所ばしょ成績せいせきどう反映はんえい 審判しんぱん意図いとさぐ - 日刊にっかんスポーツ 2022ねん8がつ29にち60ふん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]