三重みえうみ剛司たけし

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三重みえうみから転送てんそう
三重みえうみ 剛司たけし
日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい理事りじちょう時代じだい(2010ねん5がつ場所ばしょ
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 石山いしやま 五郎ごろう三重みえうみ 五郎ごろう三重みえうみ 剛司たけし
本名ほんみょう 石山いしやま 五郎ごろう
愛称あいしょう 安藝あきうみせい
生年月日せいねんがっぴ (1948-02-04) 1948ねん2がつ4にち(76さい
出身しゅっしん 日本の旗 日本にっぽん三重みえけん松阪まつさか
身長しんちょう 180cm
体重たいじゅう 135kg
BMI 41.67
所属しょぞく部屋へや 出羽海でわのうみ部屋へや
得意とくいわざ ひだりよっつ、り、上手じょうず
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう だい57だい横綱よこづな
生涯しょうがい戦歴せんれき 695しょう525はい1ふん56きゅう(105場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 543しょう413はい1ふん51きゅう(68場所ばしょ
優勝ゆうしょう 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう3かい
さんだん優勝ゆうしょう1かい
しょう 殊勲賞しゅくんしょう5かい
敢闘かんとうしょう1かい
技能ぎのうしょう3かい
データ
はつ土俵どひょう 1963ねん7がつ場所ばしょ
入幕にゅうまく 1969ねん9月場所ばしょ
引退いんたい 1980ねん11月場所ばしょ
活動かつどう だい10代日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい理事りじちょう
だい6だい相撲すもう博物館はくぶつかん館長かんちょう
備考びこう
金星かなぼし5輪島わじま2きんさくら1個いっこきた富士ふじ1個いっこきたうみ1個いっこ
2014ねん3月11にち現在げんざい

三重みえうみ 剛司たけし(みえのうみ つよし、1948ねん2がつ4にち - )は、三重みえけん松阪まつさか出身しゅっしん出羽海でわのうみ部屋へや所属しょぞくしたもと大相撲おおずもう力士りきしだい57だい横綱よこづな本名ほんみょう石山いしやま 五郎ごろう(いしやま ごろう)。現役げんえき引退いんたい年寄としよりとして後進こうしん指導しどうくし、日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい理事りじちょう退職たいしょくは、相撲すもう博物館はくぶつかん館長かんちょうつとめた。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

入門にゅうもんまで[編集へんしゅう]

幼少ようしょうやまけずってかたなつくったり、ターザンごっこをしたり、てら三角さんかくベースをやったりしていた。野球やきゅうすこししていたが、特別とくべつきなチームはなく、きな選手せんしゅはいなかった。運動うんどう神経しんけいわるかったため、野球やきゅうではチームのあしっていた。ちち建設けんせつ関係かんけい仕事しごとをしていたころは普通ふつう生活せいかつおくっていたが、ちち病気びょうきたおれてからは途端とたんまずしくなった。以来いらいベルトかねもなく、はは腰巻こしまきひも代用だいようしていたほどの貧窮ひんきゅう家庭かていそだった。小学校しょうがっこう4年生ねんせいころから新聞しんぶん配達はいたつおこない、6年生ねんせいころからは中学生ちゅうがくせい以上いじょうでないとおこなえない牛乳ぎゅうにゅう配達はいたつとしいつわってった。中学校ちゅうがっこう時代じだい松阪まつさかえきちかくの精肉せいにくてん配達はいたつのアルバイトもはじめ、仕事しごとわりの銭湯せんとう外食がいしょくたのしみであった。中学ちゅうがく1ねんとき石山いしやまと10さい以上いじょうとしはなれたあに出羽海でわのうみ部屋へやをひいきにしていた魚屋さかなや大将たいしょうに「うちのおとうとがそこそこからだおおきいから相撲取すもうとりにどうかな」と冗談じょうだん半分はんぶん相談そうだんした。大将たいしょう興味きょうみって「それならちょっと(からだを)せてみろ」となり、石山いしやま銭湯せんとうからだられた。まもなく名古屋なごや場所ばしょはじまる時期じきで、その準備じゅんび出羽海でわのうみ部屋へや部屋へや親方おやかたであったまつもと関脇せきわけはねしまさん)が名古屋なごやるからわせてやる、とわれ、石山いしやま相撲すもうまった興味きょうみはなかったが、われるまま、まつまる旅館りょかんれてかれた。75kg以上いじょう体重たいじゅうはあったが、身長しんちょうが167cmぐらいで当時とうじしん弟子でし検査けんさ基準きじゅん(173cm、75kg)にたっしていなかった。まつは「身長しんちょうびたら、また連絡れんらくでもしてこい」といい、結局けっきょく、それではなしはすぐにわってしまった[1][2]

松阪まつさか市立しりつ鎌田かまた中学校ちゅうがっこう在学ざいがくちゅう父親ちちおやくしたため、中学ちゅうがく卒業そつぎょう集団しゅうだん就職しゅうしょく東京とうきょうのアルミ工場こうじょういち就職しゅうしょくしたものの、苛酷かこく労働ろうどう環境かんきょうえかねて退職たいしょくし、帰郷ききょうした。工場こうじょう勤務きんむ時代じだいについては「田舎いなかにいてもしょうがないと、上京じょうきょうして、江戸川えどがわのアルミ工場こうじょうはたらいたんですが、まあきつい仕事しごとでね(苦笑くしょう)。液体えきたいのアルミをかたなが仕事しごとなんですが、おもいし、あつくて部屋へや空気くうきわるいし」とのちかたっている[1]残業ざんぎょうさい夕食ゆうしょく提供ていきょうされるこめ茶碗ちゃわん1はい粗食そしょくぶりであり、給料きゅうりょうもすべて食費しょくひえるため実家じっかへの仕送しおくりもままならなかった[3]工場こうじょう勤務きんむ時代じだいのある上野公園うえのこうえんったとき、力士りきしかけて相撲すもう部屋へや勧誘かんゆうされたはなしおもし、一緒いっしょにいた先輩せんぱいも「おまえふとってるからいているよ」とい、そこで入門にゅうもんたいする意欲いよくつようになった[1]帰郷ききょう現代げんだいニートのような生活せいかつをしていたが、体重たいじゅうばかりはえていったので、以前いぜんからあこがれていた大相撲おおずもう力士りきし目指めざして出羽海でわのうみ部屋へや入門にゅうもんし、1963ねん7がつ場所ばしょにおいてはつ土俵どひょうんだ。入門にゅうもんしようと先述せんじゅつ魚屋さかなや大将たいしょう電話でんわすると「すぐに東京とうきょうかえってこい」とうながされ、石山いしやまいちばちかと覚悟かくごめた[3]しん弟子でし検査けんさひかえていたとき身長しんちょうりないので兄弟子あにでしたのんでたんこぶをつくってもらったり検査けんさ前夜ぜんやときすこしでも背筋せすじびるようにまくらこししたいてたりしてすうmmでも身長しんちょうたか計測けいそくされるように工夫くふうした[1]さいわいにも当日とうじつ身長しんちょう計測けいそくしてくれたのが当時とうじ出羽海でわのうみ部屋へやきの九重ここのえもと横綱よこづな千代ちよやま)であったため、実測じっそく171cmであった[3]目溢めこぼしにより合格ごうかくした[4]名古屋なごや場所ばしょまえはいわゆる「しん弟子でしれ」の時期じきであり、検査けんさゆるくなる傾向けいこうにあった[1]

現役げんえき力士りきし時代じだい[編集へんしゅう]

入門にゅうもん当初とうしょ、「どんなことがあっても5ねん頑張がんばろう。5ねんっても20さいだからそこからだい人生じんせいあゆめる」とかんがえていたが、周囲しゅうい石山いしやま本気ほんき力士りきしになるという決断けつだんをしたとはおもっておらず、母親ははおやも「すぐにかえってるだろう」とかんがえていた[4]魚屋さかなや大将たいしょう石山いしやまが1週間しゅうかんかえってるとおもったらしい[3]入門にゅうもん時点じてんでの出羽海でわのうみ部屋へやには所属しょぞく力士りきしが80にんほどおり、人数にんずう過多かたのため土俵どひょうでの稽古けいこもままならないほどであったが、そんななか石山いしやまあさ稽古けいこはじまる午前ごぜん6よりまえの5だいはやときには4時半じはん)にきて四股しこんでいた[1]取的とりてき時代じだいにはちゃんこべるにしても、スープしかないなべまわりを自身じしんおな取的とりてき同士どうし10にん程度ていどかこみ、全員ぜんいん半身はんしんになってスープをいつつ、ごはんにかけてかきむなど苦労くろう経験けいけんした[4]入門にゅうもんして1ねんはん経過けいかしたころには虫垂ちゅうすい切除せつじょし、そこから徐々じょじょからだおおきくなって、稽古けいこみながらすこしずつ番付ばんづけがった[1]じょだん時代じだいにはあたまをぶつけて内出血ないしゅっけつしたことで入院にゅういんし、5せんえん現在げんざいの2まん5せんえん相当そうとうする)をははからり、角界かくかいはいってかねもとめたのは最初さいしょ最後さいごだったが、これで絶対ぜったいおや苦労くろうかけてはいけないと石山いしやまおもった[5]

入門にゅうもんまえ相撲すもう経験けいけん皆無かいむであったこともあって[6]大相撲おおずもう入門にゅうもんばん出世しゅっせじょだんに13場所ばしょまるなど出世しゅっせおそく、非力ひりき体格たいかくにもめぐまれていなかったために周囲しゅういから期待きたいされおらず、部屋へや親方おやかたからはじょだん時代じだいのある「おまえ稽古けいこしないで日向ひなたぼっこでもしていろ」とわれた。8だい出羽海でわのうみは「1週間しゅうかんもしないうちに、いやになってかえるだろうとおもっていた」[1]といい、1967ねん9がつ場所ばしょさんだん優勝ゆうしょうたしてようやく部屋へやづけ高崎たかさきから「さんだん優勝ゆうしょうはじめておまえの存在そんざいった」とわれるほどであった[5]本人ほんにんはつ土俵どひょう同期どうきあさひこくが1ねん幕下まくしたがるのをあせりをおぼえたという。もっとも、あさひこくやく1ねん見習みならいとして下積したづみしてからはつ土俵どひょうんだため、あさひこく出世しゅっせはやかったのはある意味いみでは当然とうぜんである[1]じょだん最後さいご部屋へや若者わかものあたまから四股しこめい自分じぶんかんがえろとわれ(当時とうじ出羽海でわのうみ部屋へや所属しょぞく力士りきしかずおおかったため、親方おやかた四股しこめいかんがえてくれなかった)、四股しこめい三重みえうみ」を名乗なのるようになった。三重みえけんには「うみ」があって、部屋へやめいの「出羽海でわのうみ」にも「うみ」のがあり、それらからった「うみ」の出身しゅっしんの「三重みえ」のした、というのが四股しこめい由来ゆらいである。出身しゅっしんさんじゅう使つかった四股しこめいでは、当時とうじ部屋へやにはさんじゅうさん三重みえこうがいたのでそれ以外いがいとなると、うみおもかぶということで「うみ」の採用さいようしたという[5]さんだん優勝ゆうしょう以降いこう幕下まくした定着ていちゃくし、先輩せんぱい一人ひとりが「さんだん優勝ゆうしょうした力士りきしのだいたいが関取せきとりになる場合ばあいおおいから」という言葉ことばくして、さら稽古けいこはげんだ。ひがし幕下まくした5まい地位ちい土俵どひょうがった1969ねん1がつ場所ばしょには5しょう1はいともう1しょうすればじゅうりょう昇進しょうしん確実かくじつとされた7ばん相撲すもう当時とうじじゅうりょうであった廣川ひろかわ場所ばしょしんじゅうりょう昇進しょうしんしん弟子でし時代じだいからのライバルであったあさひこく同時どうじじゅうりょう昇進しょうしんたした格好かっこうであった[7]実家じっかかえって報告ほうこくしたらははいてよろこんでくれた[5]しんじゅうりょうころ当時とうじ大関おおぜきだったきんさくら出稽古でげいこてたまたま自身じしん指名しめいされたが、2ばんつづけてったためきんさくらはムキになってそこからさんじゅううみ土俵どひょうたたきつけられころがされ、なすすべなしであった[7][1]同年どうねん9がつ場所ばしょにはしん入幕にゅうまくたした。

1970ねん7がつ場所ばしょにはしんさんやくとなる西にし小結こむすび昇進しょうしんし、大鵬たいほうたまうみやぶってはつ殊勲賞しゅくんしょう受賞じゅしょうした[7]。その幕内まくうち上位じょうい定着ていちゃくし、1971ねん11月場所ばしょには西にし小結こむすび位置いちで11しょう4はい好成績こうせいせきげてはつ技能ぎのうしょう受賞じゅしょうし、長谷川はせがわたかはな輪島わじまさきがけすぐるとも大関おおぜき候補こうほとしておおいに期待きたいされ、これらの力士りきし三角さんかく大福だいふくにあやかって「さんさきがけ(きりんさんかい)」とばれた。しかし、1972ねんから肝臓かんぞうびょう悪化あっかして、1973ねん9がつ場所ばしょから1975ねん3がつ場所ばしょまでは平幕ひらまく在位ざいいした。

1974ねん9がつ25にち夫人ふじん東京とうきょうプリンスホテル挙式きょしき結婚けっこん当初とうしょまわりやからだひど湿疹しっしんができていたため、つまあさ稽古けいこまえ野菜やさいジュースや食事しょくじとき前菜ぜんさい野菜やさい体質たいしつ改善かいぜんねらい、これが力士りきし生活せいかつにおける転機てんきとなった[8]

1975ねん5がつ場所ばしょ関脇せきわけ復帰ふっきし、同年どうねん9がつ場所ばしょにおいて11しょう4はい好成績こうせいせきげ、つづく11月場所ばしょでは当時とうじ27さい11かげつ年齢ねんれいで13しょう2はい成績せいせきげてはつ幕内まくうち優勝ゆうしょうたし、よく1976ねん1がつ場所ばしょにおいて大関おおぜき昇進しょうしんした[9]。この場所ばしょは「優勝ゆうしょうするなんてはさらさらなかった。そんな気持きもちだったらからだうごかないしね。自分じぶんっているものを全部ぜんぶだそうと」という気持きもちでいどんでおり、後年こうねん新聞しんぶん記事きじで「13にちに2はい同士どうし横綱よこづな(55だい)のきたうみ対戦たいせんしたが、とにかく優勝ゆうしょうではなくきたうみちたい一心いっしんだった。ひだりい、一度いちどられたが、しのぎにしのいでひだりからの下手へたげ。優勝ゆうしょうくわえて大関おおぜきえたからね。もう、かみがかってたよ」と述懐じゅっかいしている[7]

ところが、しん大関おおぜきとしてむかえた1976ねん1がつ場所ばしょちゅう、8しょう7はいすもひだり足首あしくび捻挫ねんざ。その怪我けが影響えいきょうつづく3がつ場所ばしょと5がつ場所ばしょにそれぞれ途中とちゅう休場きゅうじょうしたために2場所ばしょ連続れんぞくし、在位ざいい3場所ばしょ大関おおぜき地位ちいわたしてしまう。同年どうねん7がつ場所ばしょ関脇せきわけ地位ちい陥落かんらくしたが、その7がつ場所ばしょ関脇せきわけで10しょうげ、1場所ばしょ大関おおぜき特例とくれい復帰ふっきたした[ちゅう 1]。しかし、大関おおぜき復活ふっかつした1976ねん9がつから1977ねん11月の8場所ばしょあいだは、2けた勝利しょうりすらげられず大関おおぜき角番かどばんを2かい通算つうさん3かい経験けいけんした[ちゅう 2]大関おおぜき陥落かんらくから大関おおぜき復帰ふっきまでについては「成績せいせきふくめ、大関おおぜきとして活躍かつやくしなければならないという気持きもちがつよすぎた」とかたっており、復帰ふっきけていた1976ねん7がつ場所ばしょは「家族かぞくにすらつたえてなかったけど、駄目だめなら引退いんたいしようとまでおもった」という。また、不成績ふせいせきつづいていたことから「クンロク大関おおぜき」「ハチナナ大関おおぜき」とマスコミに揶揄やゆされたこともある[10]。それでも大関おおぜき復帰ふっきけている時期じきに「おまえ相撲すもうは、オレが一番いちばんよくっている。もうダメだとおもったら、オレが引導いんどうわたす。いまはまだ大丈夫だいじょうぶだ。頑張がんばれ」と出羽海でわのうみからはげましをけたことでやるもどしたという[11]

1978ねん1がつ大関おおぜき12場所ばしょにしてはじめて10しょうげ、同年どうねんちゅうに2けた勝利しょうりを4記録きろくして復調ふくちょう印象いんしょうづけた。1979ねん5がつ場所ばしょではきたうみ連勝れんしょうを32でめたのをふくめて13しょう2はいという優勝ゆうしょう次点じてん成績せいせきげる。自身じしんはつつなりとなったよく7がつ場所ばしょでは、初日しょにちとち赤城せきじょうやぶれるが、ここで「これでもう、つなはないな。あとは2けたげられるように頑張がんばろう」と気持きもちをえ、そこからは白星しろぼしかさねて14連勝れんしょう結果けっか14しょう1はい成績せいせきげて優勝ゆうしょう決定けっていせんまで進出しんしゅつし、輪島わじまとの優勝ゆうしょう決定けっていせんにはやぶれたものの、優勝ゆうしょう同点どうてん好成績こうせいせきげたことで横綱よこづな推挙すいきょされ、当時とうじ31さい5かげつ高齢こうれいという遅咲おそざながらよく9がつ場所ばしょにおいてようや横綱よこづな昇進しょうしんした[9][12]大関おおぜき陥落かんらく経験けいけんのある力士りきし横綱よこづな昇進しょうしんしたのは史上しじょうはつであり、あきら富士ふじが2021ねん7がつ場所ばしょ横綱よこづな昇進しょうしんめるまで42年間ねんかん唯一ゆいいつれいだった。また、大関おおぜき時代じだい勝率しょうりつ.594は、戦後せんご横綱よこづな昇進しょうしんした力士りきしとしてはもっとひく勝率しょうりつだったが、それもあきら富士ふじ(.573)[ちゅう 3]によって更新こうしんされた。

横綱よこづな土俵入どひょうい雲龍うんりゅうがた選択せんたくし、指導しどう師匠ししょうである9だい出羽海でわのうみ親方おやかたもと横綱よこづな佐田さだやま)がおこなった。横綱よこづな昇進しょうしん伝達でんたつしきでは「横綱よこづな地位ちいをけがさぬよう努力どりょくします」と口上こうじょうべた[13]大関おおぜき時代じだい不振ふしんもあって昇進しょうしん周囲しゅういから「大丈夫だいじょうぶか」というこえおおかれたといい、当時とうじ番付ばんづけには横綱よこづな輪島わじまきたうみ2代目だいめ若乃花わかのはな大関おおぜきたかはなあさひこくという面々めんめんがいたため、本人ほんにんも「こんなすごいメンツでつね優勝ゆうしょうねらえるのか」とおもっていた[12]しん横綱よこづなの1979ねん9がつ場所ばしょは11しょう4はいとどまったものの、同年どうねん11がつ場所ばしょで14しょう1はい・1980ねん1がつ場所ばしょに15せん全勝ぜんしょうと2場所ばしょ連続れんぞく優勝ゆうしょう達成たっせいした。11月場所ばしょ14にちの2代目だいめ若乃花わかのはなせんなどはNHK大相撲おおずもう中継ちゅうけい視聴しちょうりつが39.8%を記録きろくしており、これは九州きゅうしゅう場所ばしょのものとしては2017ねん9がつ場所ばしょ終了しゅうりょう時点じてんで2である(ビデオリサーチ調しらべ)[14]。しかしその年齢ねんれいによる体力たいりょくおとろえもあって古傷ふるきずひだりひじ悪化あっかなど怪我けが病気びょうき休場きゅうじょうおおく、2場所ばしょ連続れんぞく休場きゅうじょうの1980ねん11月場所ばしょ初日しょにちから2連敗れんぱいどう場所ばしょ3にち現役げんえき引退いんたい表明ひょうめいした(当時とうじ年齢ねんれいは32さい9かげつ[15]横綱よこづなとして15日間にちかん皆勤かいきんした場所ばしょわずか4場所ばしょのみで、在位ざいい場所ばしょすうも8場所ばしょ短命たんめい横綱よこづなわった[ちゅう 4]

親方おやかた時代じだい[編集へんしゅう]

引退いんたい短期間たんきかんだけ年寄としより山科やましな襲名しゅうめいしたのちすぐに年寄としより・14だい武蔵川むさしがわ襲名しゅうめい[ちゅう 5]し、1981ねん8がつには出羽海でわのうみ部屋へやから分家ぶんけ独立どくりつして武蔵川むさしがわ部屋へや創設そうせつした。つま当時とうじ2にん子供こどもかかえていたが、まさか出羽海でわのうみ部屋へやから独立どくりつができるなどとはゆめにもおもっていなかった[8]

部屋へやこしてからは弟子でし30にんから40にんかかえ、生活せいかつ後援こうえんしゃへの返礼へんれいひんまで予算よさんくと部屋へや財政ざいせいくるまで、借金しゃっきん地獄じごくおちい時期じきもあった。それでも徐々じょじょ部屋へや経営けいえい基盤きばん確立かくりつされ、地元じもと松阪まつさか後援こうえんかい全盛期ぜんせいき会員かいいんが100にんえた。市内しない和楽わらく修理しゅうりいとなんだ「三味しゃみとみ(しゃみとみ)」の4代目だいめ店主てんしゅ石村いしむら武紀たけのり会員かいいん一人ひとりだった[8]

部屋へや指導しどうしゃとしては横綱よこづな武蔵丸むさしまるのほか、武双山むそうやま出島でじままさやまという3大関おおぜきふくめた12にん関取せきとりそだげ、一時期いちじき角界かくかいさい多数たすう関取せきとりようしていち時代じだいきずいた。往年おうねん稽古けいこじょうにおいてグシャグシャにれるほど竹刀しないるうスパルタぶりでられ[6]、そのきびしさから、出稽古でげいこわか力士りきし緊張きんちょうのあまり嘔吐おうとしたことがあるほどである[16]。あまりにはげしい稽古けいこゆえに、所属しょぞく力士りきしみな一様いちようぜん頭部とうぶかみれ、ひざにはかならずサポーターがかれていた。そのようなことから当時とうじ所属しょぞく力士りきしは、角界かくかい関係かんけいしゃからしばしば武蔵川むさしがわ部屋へや所属しょぞくであることをいいあてられていた[17]反面はんめん土俵どひょうがいではあかるくさくな人物じんぶつであったという[6]もと魁皇かいおう浅香山あさかやま親方おやかた稽古けいこじょうでのきびしさにれつつ「だがいち武蔵川むさしがわ部屋へや酒席しゅせきばれたさいさけはいっているとはいえ、弟子でしたちが親方おやかたしたい、冗談じょうだんをいいあっているのを衝撃しょうげきけた。稽古けいこじょうはなれれば、なにでもはなせる関係かんけいきずいているのだなとかんじた。あれが理想りそう師弟してい関係かんけいだとおもった」と土俵どひょうがいでのさくな人柄ひとがら評価ひょうかしていた[18]一方いっぽう書籍しょせきによっては「"喜怒哀楽きどあいらく"の"いか"のかおしかせることのなかった『昭和しょうわのオヤジ』」と親方おやかた時代じだいひょうするこえ掲載けいさいされている[19]協会きょうかいいんとしては役員やくいん待遇たいぐう監事かんじげんふく理事りじ)・理事りじ出世しゅっせしていき、2006ねん2がつからは事業じぎょう部長ぶちょうつとめた。その大相撲おおずもう力士りきし大麻たいま問題もんだいはじめとした不祥事ふしょうじ相次あいつぎ、その処遇しょぐうめぐってきたうみ理事りじちょう辞任じにんしたことをけ、2008ねん9がつ8にちだい10代日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい理事りじちょう就任しゅうにんした[9]同年どうねんぜん2007ねん時津風ときつかぜ部屋へや力士りきし暴行ぼうこう事件じけんけてそれまで閉鎖へいさてきだった協会きょうかい外部がいぶ役員やくいん招聘しょうへい[6]、2015ねん1がつ現在げんざいでも外部がいぶ役員やくいん招聘しょうへい継続けいぞくされている。

2007ねん6がつ16にちには、2002ねんきた富士ふじ以来いらい5ねんぶり史上しじょう8にんとなる還暦かんれき土俵入どひょういホテル・グランパシフィック・メリディアンおこなった。太刀持たちも出島でじま露払つゆはらいはみやびやまつとめた[20]

2010ねん発覚はっかくした大相撲おおずもう野球やきゅう賭博とばく問題もんだいでは、弟子でしみやびやま野球やきゅう賭博とばく関与かんよしたために特別とくべつ調査ちょうさ委員いいんかいから謹慎きんしん処分しょぶんけ、本人ほんにんもその監督かんとく責任せきにんとして特別とくべつ調査ちょうさ委員いいんかいから同年どうねん7がつ4にちから25にちまでの謹慎きんしん勧告かんこくされたため、村山むらやま弘義ひろよし謹慎きんしん期間きかんちゅうにおける理事りじちょう代行だいこう委嘱いしょくした。同年どうねん7がつ19にちには高血圧こうけつあつ入院にゅういんしていたことが判明はんめいし、その胃癌いがん手術しゅじゅつけて理事りじちょうしょくへの復帰ふっき見通みとおしがたなかったため、当初とうしょ委嘱いしょく期間きかん終了しゅうりょうして以降いこう村山むらやまがそのまま理事りじちょう代行だいこうつとめた。同年どうねん8がつ5にち理事りじちょうしょく復帰ふっきしたものの、同年どうねん8がつ12にちおこなわれた臨時りんじ理事りじかい正式せいしき理事りじちょう辞任じにん表明ひょうめいし、後任こうにんには17だいこま親方おやかたもと大関おおぜきさきがけすぐる)が就任しゅうにんした。

2010ねん9がつ30にちに、年寄としより名跡みょうせき交換こうかんせずに武蔵川むさしがわ部屋へや部屋へや親方おやかたである18だい藤島ふじしま親方おやかたもと大関おおぜき武双山むそうやま)に部屋へや譲渡じょうとするかたち武蔵川むさしがわ部屋へや藤島ふじしま部屋へやあらたに名称めいしょう変更へんこうされ、14だい武蔵川むさしがわ部屋へや師匠ししょうから退しりぞいた。一部いちぶでは「体調たいちょう不良ふりょう原因げんいんか?」とささやかれたが、元々もともと譲渡じょうとの2、3ねんまえからはなしがあった「既定きてい路線ろせん」であったという[21]

停年ていねん退職たいしょく[編集へんしゅう]

2013ねん2がつ3にち日本にっぽん相撲すもう協会きょうかい停年ていねん定年ていねん以下いかどう退職たいしょく停年ていねん会見かいけんでは現役げんえき時代じだいについて「じゅうりょうがったとき一番いちばんうれしかった」と述懐じゅっかいしており「横綱よこづな武蔵丸むさしまる)をそだてることができ、すこしでも協会きょうかい恩返おんがえしできたかなという気持きもち」ともいいのこしている[6]おりしも自身じしん停年ていねんが、昭和しょうわだい横綱よこづな大鵬たいほうだい48だい横綱よこづな)がくなった時期じき(2013ねん1がつ19にち逝去せいきょ享年きょうねん72)とちかく、協会きょうかいいんとして最後さいご出勤しゅっきん場所ばしょとなった2013ねん1がつ場所ばしょちゅう解説かいせつでは、大鵬たいほうたいして哀悼あいとうべるとともおもみとして、1970ねん7がつ場所ばしょの3にち大鵬たいほうはつ顔合かおあわせをたして勝利しょうりおさめた一番いちばんげていた。「(大鵬たいほう角界かくかいに)はいったときからのだい横綱よこづな[ちゅう 6]相撲すもうれることだけで、まえばんからねむれないぐらい興奮こうふんしていました」と回顧かいこし「とにかく相撲すもうれるだけで、しんおどっていました、すこしでもながく(大鵬たいほうの)からださわっていたい、簡単かんたん勝負しょうぶをつけさせない、そんな気持きもちで相撲すもうりました」となつかしんでいた[22]

年寄としより名跡みょうせき武蔵川むさしがわ藤島ふじしま部屋へや部屋へや親方おやかたである3だい大島おおしま親方おやかたもと横綱よこづな武蔵丸むさしまる)に譲渡じょうとして、自身じしん同年どうねん2がつ4にち相撲すもう博物館はくぶつかんだい6だい館長かんちょう就任しゅうにんした[23]。その、15だい武蔵川むさしがわとなったもと武蔵丸むさしまるは、藤島ふじしま部屋へやから分家ぶんけ独立どくりつし、あらたに武蔵川むさしがわ部屋へやおこした。部屋へやびらきのさいに14だい武蔵川むさしがわはかつての日々ひびおもこしてなみだながしたが、14だい武蔵川むさしがわこわ親方おやかた做していたかつての弟子でしなかには14だい武蔵川むさしがわなみだするところをそのはじめてたという人物じんぶつもいた[19]

2015ねん11がつ20日はつか大鵬たいほうおなじく昭和しょうわだい横綱よこづなきたうみだい55だい横綱よこづな)が62さい逝去せいきょよく2016ねん1がつに「55だい横綱よこづなきたうみさとしまんしのんで」とだいした展覧てんらんかいが、相撲すもう博物館はくぶつかんひらかれたさいには「最初さいしょ連合れんごう稽古けいこだったかな。かれさんだんから幕下まくしたがるころ。すごいのがいると。すぐつよくなるとおもったら、あっというされた。馬力ばりきもあった。ひだりよっつのかたもあった…」とかえるコメントをのこし「わたし最後さいご横綱よこづなになったんだけどね。ライバル意識いしきつよかった。たおさなきゃ優勝ゆうしょうできないんだから。そういう気持きもちで頑張がんばってたなあ」とはなしていた[24]

2021ねん7がつ場所ばしょちゅう久々ひさびさ報道ほうどうじょう登場とうじょう。この場所ばしょつなりをける、さい大関おおぜきあきら富士ふじ取組とりくみをテレビでて「わたしとは比較ひかくにならない」といいきり「ちてここまでもどってくる力士りきし今後こんごないでしょう。まず大関おおぜきからちて、じょだんることがかんがえられない」と不屈ふくつ精神せいしんしたいた[25]。その7がつ場所ばしょ千秋楽せんしゅうらくあきら富士ふじ横綱よこづなはくほうと14せん全勝ぜんしょう対決たいけつ惜敗せきはいするも14しょう1はい優勝ゆうしょう次点じてんに。ぜん5がつ場所ばしょ優勝ゆうしょう(12しょう3はい)とわせて「大関おおぜきで2場所ばしょ連続れんぞく優勝ゆうしょうじゅんずる成績せいせき」の横綱よこづな昇進しょうしん基準きじゅんたし、どう場所ばしょだい73だい横綱よこづな正式せいしき決定けってい。この報道ほうどうかんしても「ものすごい精神せいしんりょく。とにかくおどろいている」と感嘆かんたんしつつ、「今後こんご怪我けが病気びょうき留意りゅういしながら、横綱よこづなとしての重責じゅうせきたしてしい」とエールをおくっている[26]

部屋へや後輩こうはいとなる御嶽おんたけうみ大関おおぜき昇進しょうしん達成たっせいしたさいは「こん場所ばしょ(2022ねん1がつ場所ばしょ)は非常ひじょう集中しゅうちゅうりょくかんじた。横綱よこづなになってもらいたい」と、1975ねん11月場所ばしょ大関おおぜきとなった三重みえ海自かいじ以来いらい出羽海でわのうみ部屋へやから久々ひさびさ大関おおぜき誕生たんじょう御嶽おんたけうみ期待きたいせていた[27]

2023ねん1がつ14にち同年どうねん1がつ場所ばしょの2がつに10年間ねんかんつとめた相撲すもう博物館はくぶつかん館長かんちょう退任たいにんすることがわかった[28]

くち[編集へんしゅう]

入門にゅうもんしたばかりのころたって左前ひだりまえミツをるばかりであったが、あるときはげしい稽古けいこあたまがブヨブヨにれて病院びょういんおくりになってしまったので、みぎ上手じょうずあさいてまえる、げをつという相撲すもうおぼえた[1]本人ほんにんとちうみ参考さんこうになったとかたっている[1]ぜんまわしをってひく姿勢しせいからっていくくち主体しゅたいで、たくみなぜんさばきで相手あいてちからさせずに相撲すもう身上しんじょうとした。右前みぎまえミツをいての速攻そっこうみぎ上手じょうずげは絶品ぜっぴん速攻そっこう相撲すもうであった[9]好調こうちょうにはぜんまわしをいての速攻そっこうえ、「相手あいてはまだこれからとおもっているうち、いつのにか土俵どひょうってしまう」ことから「妖気ようきただよ土俵どひょう」ともしょうされた。出羽海でわのうみ部屋へや先輩せんぱい横綱よこづなだった安藝あきうみくちていることから、安藝あきうみせいしょうされたこともある。「安藝あきうみせい」とひょうされたことにかんしては「ぜんミツをってあたまける自分じぶんくちもそうですが、からだつきがていたということもあったんでしょうね」とはなしている[1]ぜんさばきの一環いっかんとしてしを多用たようし、1977ねん11月場所ばしょ輪島わじませんでは、自身じしんによる相手あいて脳震盪のうしんとうによってりで勝利しょうりしているが、自分じぶん体勢たいせいつくれないときは強引ごういん連発れんぱつ自滅じめつすることもあった。1977ねん11月場所ばしょ輪島わじません多用たようしたのは、前夜ぜんや後援こうえんしゃ面々めんめん食事しょくじしていたときさんじゅううみ直近ちょっきんたい輪島わじません成績せいせきわる話題わだいになり、雰囲気ふんいきがまずくなりそうであったので「じゃあ、明日あしたっていきます」と冗談じょうだん威勢いせいってしまったためである。後援こうえんしゃたちは「よし、だったらみんなでこう」となったため、三重みえうみは「やべ、これはウソつけないな」とおもい、多用たようすることにした。しかしこの1ばん結果けっかてき成功せいこうし、以来いらい大関おおぜきとして安定あんていした成績せいせきのこせるようになり、ひいてはつなりにつながった[10]

くち[編集へんしゅう]

大関おおぜきじんとの対戦たいせん成績せいせきおおむ互角ごかく程度ていど安定あんていしており、大関おおぜきなか極端きょくたん苦手にがてとする相手あいてがいなかった。
  • あさひこくとは20しょう16はい不戦敗ふせんぱい1つふくむ)、さきがけすぐるとは19しょう19はいたかはなとは21しょう24はいだいとは12しょう9はいまえやまとは8しょう7はい不戦敗ふせんぱい1つふくむ)、清國きよくにとは6しょう9はいおおくの場合ばあい対戦たいせん成績せいせき安定あんていしていた。ぞう位山くらいやまたいしては19しょう10はいむし得意とくいにしていた。
    • 唯一ゆいいつ大関おおぜきじん苦手にがてにしていただい麒麟きりんでははつかおからの7連敗れんぱいきっしてしまったが、8かい対戦たいせんはつ勝利しょうりげてからは6しょう8はい伯仲はくちゅうして最終さいしゅうてきに6しょう15はいとなるまでがった。
おな横綱よこづななかでも自身じしんちか実績じっせき力士りきしには対戦たいせん成績せいせきみずをあけられることはなく、三重みえうみ横綱よこづな昇進しょうしんする前後ぜんごではおな時代じだい横綱よこづなには相性あいしょうかった。
  • きんさくらには11しょう7はいすなど相性あいしょうがよく、2代目だいめ若乃花わかのはなとは14しょう19はい拮抗きっこうしていた。
    • 輪島わじまには16しょう27はい優勝ゆうしょう決定けっていせんで1はい)、1977ねん11月場所ばしょ相手あいて脳震盪のうしんとうによってりで勝利しょうりしてからは10しょう3はい優勝ゆうしょう決定けっていせんで1はい)と圧倒あっとうしていた。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 横綱よこづな昇進しょうしんさいには、入門にゅうもん師匠ししょうである13だい武蔵川むさしがわもと幕内まくうち出羽でわはな)から「いち簣功(いっきのこう)」という言葉ことばおくられた[1]。「九仞きゅうじんこういち簣に虧(か)く」というかたりからの引用いんようで、「苦労くろうすえ晩年ばんねん横綱よこづなになったが、これで安心あんしんせずもう一花咲ひとはなさかせてみせよ」というおもいがめられた言葉ことばである[12]実際じっさいさんじゅううみ師匠ししょう出羽海でわのうみ親方おやかたからも「ふとみじか横綱よこづなわってもかまわないから、引退いんたいするまえいち優勝ゆうしょうしてしい」と奮起ふんきうながしたという[29]さんそろいえの化粧廻けしょうまわにはこの「いち簣功」のさん文字もじをあしらったものがあり(「いち」は露払つゆはらい、「簣」は横綱よこづな、「いさお」は太刀持たちもちが着用ちゃくよう文字もじふでったのは武蔵川むさしがわ本人ほんにん[ちゅう 7])、自身じしん還暦かんれき土俵入どひょういりでも使用しようされた。
  • 長男ちょうなん石山いしやま俊明としあき本名ほんみょうの「石山いしやま」を四股しこめいとしてさんだんまで昇進しょうしんしたもと力士りきしで、引退いんたい俳優はいゆうとして『GTO』や『あばれんぼう将軍しょうぐん』に出演しゅつえんしたことがある[30]
  • 1974ねん9がつ場所ばしょ11にちにおける二子ふたごだけせん引分ひきわけ記録きろくした。この一番いちばん最後さいご幕内まくうちで「引分ひきわけ」はていない[7]。この場所ばしょが11しょう3はい1ぶん好成績こうせいせきおさめたことにくわえて11にち熱戦ねっせんかんがえればさんしょう獲得かくとく不思議ふしぎでなかったが西にし前頭まえがしら10まい地位ちいであったことを理由りゆう受賞じゅしょう見送みおくられた。平凡へいぼん力士りきしという印象いんしょうからさんしょう受賞じゅしょうにおいてそんをしためんもあるとされる。[31]
  • 好敵手こうてきしゅであり親友しんゆうであるあさひこくが「努力どりょく」「闘魂とうこん」の言葉ことばこのんで使つかったのにたいし、本人ほんにんは「闘志とうし」「神力しんりき」という言葉ことばこのんで使つかった。[32]神力しんりき」はてら僧侶そうりょから「その不思議ふしぎなまでのちからは、自分じぶんばかりではなく、おおくのひとをもしあわせにする」とその意味いみいたうえもらった言葉ことばであり、三重みえ海自かいじは「そんな力士りきしになりたい」とその言葉ことばしんささえ、目標もくひょうとしていた[33]
  • 1970ねん1がつ場所ばしょ5にちにかつての部屋へや兄弟子あにでしであったきた富士ふじはつ対決たいけついたったさい心境しんきょうのちに「出羽でわ一門いちもん破門はもんされたのは、わたしがまださんだんから幕下まくしたがるころでしたから、かおわせたときは『ここまでられたか』といううれしさはありましたね。ひだり相四あいよつなので、ほとんどった記憶きおくはありませんが(幕内まくうち対戦たいせん成績せいせきさんじゅううみの2しょう14はい)」とかたっている[1]
  • 好物こうぶつうしスジのピリからし煮込にこみ、ぶたあし。このメニューは15だい武蔵川むさしがわ武蔵川むさしがわ部屋へやにもがれており、2017ねん11月時点じてんでも14だい武蔵川むさしがわ夫婦ふうふ参加さんかする部屋へや行事ぎょうじでは弟子でしつくらせてもおもうようなあじせないため15だい武蔵川むさしがわあさから仕込しこむという[19]
  • 引退いんたい武蔵丸むさしまるのプロデュースで恵比寿えびす餃子ぎょうざ専門せんもんてん『67餃子ぎょうざ』を開業かいぎょうしたもと幕下まくしたひがし乃垓によると、かれしん弟子でし時代じだい食事しょくじのメニューがちゃんこなべ沢庵たくあんぐらいしかなく、最後さいごにはスープぐらいしかのこっていなかったが、あるそれをたまたまた14だい武蔵川むさしがわ部屋へやしゅうに「おまえらなんでしん弟子でしわせないんだ!」とおこった。これがけでおかずが2ひんから3ひんくようになり、部屋へや食糧しょくりょう事情じじょう改善かいぜんされた[34]
  • ソップきにかんしては、既成きせい出汁だしもとやスープのもとみとめないである[34]
  • 部屋へや時代じだいは2ねんに1弟子でしをハワイ旅行りょこうれてった。弟子でし相撲すもうめたくなってもハワイ旅行りょこうたのしみに現役げんえきつづけようと頑張がんばることをねらってのことであった[35]

おも成績せいせき[編集へんしゅう]

通算つうさん成績せいせき[編集へんしゅう]

  • 通算つうさん成績せいせき:695しょう525はい1ふん56きゅう勝率しょうりつ.570)
  • 幕内まくうち成績せいせき:543しょう413はい1ふん51きゅう勝率しょうりつ.568)
  • 大関おおぜき成績せいせき:180しょう123はい12きゅう勝率しょうりつ.594)
  • 横綱よこづな成績せいせき:55しょう23はい30きゅう勝率しょうりつ.705)
  • 幕内まくうち在位ざいい:68場所ばしょ
      • 横綱よこづな在位ざいい:8場所ばしょ
      • 大関おおぜき在位ざいい:21場所ばしょ
      • さんやく在位ざいい:15場所ばしょ関脇せきわけ12場所ばしょ小結こむすび3場所ばしょ)(関脇せきわけ在位ざいい横綱よこづな経験けいけんしゃとしては歴代れきだい1
      • 平幕ひらまく在位ざいい:24場所ばしょ横綱よこづな経験けいけんしゃとしては歴代れきだい1タイ)
  • 連続れんぞく6場所ばしょ勝利しょうり:77しょう(1979ねん3がつ場所ばしょ - 1980ねん1がつ場所ばしょ
  • 通算つうさん幕内まくうち連続れんぞく記録きろく:14場所ばしょ(1977ねん11月場所ばしょ - 1980ねん1がつ場所ばしょ
  • 幕内まくうち連続れんぞく2けた勝利しょうり記録きろく:9場所ばしょ(1978ねん9がつ場所ばしょ - 1980ねん1がつ場所ばしょ

連勝れんしょう記録きろく[編集へんしゅう]

三重みえうみ最多さいた連勝れんしょう記録きろくは、24連勝れんしょうである。(1979ねん11月場所ばしょ8にち〜1980ねん3がつ場所ばしょ初日しょにち

下記かきに、詳細しょうさいしるす。

順位じゅんい 連勝れんしょうすう 期間きかん めた力士りきし 備考びこう
1 24 1979ねん11月場所ばしょ8にち〜1980ねん3がつ場所ばしょ初日しょにち 千代ちよ富士ふじ 1980ねん1がつ場所ばしょ全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう

かくだん優勝ゆうしょう[編集へんしゅう]

  • 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう:3かい全勝ぜんしょう1かい)(1975ねん11月場所ばしょ、1979ねん11月場所ばしょ、1980ねん1がつ場所ばしょ)
  • さんだん優勝ゆうしょう:1かい(1967ねん9がつ場所ばしょ

さんしょう金星かなぼし[編集へんしゅう]

  • さんしょう:9かい
    • 殊勲賞しゅくんしょう:5かい(1970ねん7がつ場所ばしょ、1973ねん1がつ場所ばしょ、1975ねん1がつ場所ばしょ、1975ねん3がつ場所ばしょ・11月場所ばしょ
    • 敢闘かんとうしょう:1かい(1971ねん9がつ場所ばしょ
    • 技能ぎのうしょう:3かい(1971ねん11月場所ばしょ、1973ねん3がつ場所ばしょ、1975ねん11月場所ばしょ
  • 金星かなぼし:5輪島わじま2きんさくら1個いっこきた富士ふじ1個いっこきたうみ1個いっこ

場所ばしょべつ成績せいせき[編集へんしゅう]

三重みえうみ剛司たけし
いちがつ場所ばしょ
初場所はつばしょ東京とうきょう
さんがつ場所ばしょ
春場所はるばしょ大阪おおさか
五月ごがつ場所ばしょ
夏場所なつばしょ東京とうきょう
なながつ場所ばしょ
名古屋なごや場所ばしょ愛知あいち
九月場所くがつばしょ
秋場所あきばしょ東京とうきょう
十一月じゅういちがつ場所ばしょ
九州きゅうしゅう場所ばしょ福岡ふくおか
1963ねん
昭和しょうわ38ねん
x x x ぜん相撲すもう ぜん相撲すもう ひがし序ノ口じょのくち30まい
4–3 
1964ねん
昭和しょうわ39ねん
ひがしじょだん102まい
4–3 
西にしじょだん81まい
3–4 
西にしじょだん98まい
2–1–4 
ひがしじょだん112まい
5–2 
ひがしじょだん57まい
3–4 
西にしじょだん66まい
3–4 
1965ねん
昭和しょうわ40ねん
西にしじょだん88まい
5–2 
ひがしじょだん39まい
2–5 
ひがしじょだん61まい
5–2 
ひがしじょだん8まい
3–4 
ひがしじょだん13まい
4–3 
西にしさんだん88まい
5–2 
1966ねん
昭和しょうわ41ねん
ひがしさんだん52まい
1–6 
西にしさんだん83まい
2–5 
ひがしじょだん10まい
3–3–1 
ひがしじょだん23まい
5–2 
ひがしさんだん80まい
5–2 
ひがしさんだん39まい
4–3 
1967ねん
昭和しょうわ42ねん
ひがしさんだん30まい
5–2 
西にし幕下まくした98まい
4–3 
ひがしさんだん27まい
5–2 
ひがし幕下まくした57まい
3–4 
ひがしさんだん5まい
優勝ゆうしょう
7–0
ひがし幕下まくした11まい
3–4 
1968ねん
昭和しょうわ43ねん
西にし幕下まくした15まい
3–4 
ひがし幕下まくした18まい
4–3 
西にし幕下まくした13まい
4–3 
西にし幕下まくした8まい
4–3 
西にし幕下まくした6まい
2–5 
西にし幕下まくした16まい
6–1 
1969ねん
昭和しょうわ44ねん
ひがし幕下まくした5まい
6–1 
ひがしじゅうりょう12まい
9–6 
西にしじゅうりょう7まい
10–5 
ひがしじゅうりょう3まい
9–6 
ひがし前頭まえがしら11まい
8–7 
ひがし前頭まえがしら5まい
8–7 
1970ねん
昭和しょうわ45ねん
西前にしまえあたま3まい
4–11 
西前にしまえあたま9まい
8–7 
西前にしまえあたま6まい
11–4 
西にし小結こむすび
8–7
こと
西にし関脇せきわけ
6–9 
西前にしまえあたま筆頭ひっとう
5–10 
1971ねん
昭和しょうわ46ねん
西前にしまえあたま3まい
6–9 
西前にしまえあたま4まい
5–10 
ひがし前頭まえがしら11まい
10–5 
西前にしまえあたま3まい
7–8 
ひがし前頭まえがしら4まい
10–5
西にし小結こむすび
11–4
わざ
1972ねん
昭和しょうわ47ねん
ひがし関脇せきわけ
8–7 
西にしちょういずる関脇せきわけ
8–7 
西にしちょういずる関脇せきわけ
9–6 
ひがしちょういずる関脇せきわけ
5–2–8[ちゅう 8] 
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
4–11 
ひがし前頭まえがしら7まい
8–7 
1973ねん
昭和しょうわ48ねん
西前にしまえあたま3まい
11–4
こと
西にし小結こむすび
10–5
わざ
西にし関脇せきわけ
8–7 
西にし関脇せきわけ
4–11 
西前にしまえあたま2まい
8–7
西前にしまえあたま筆頭ひっとう
4–11 
1974ねん
昭和しょうわ49ねん
ひがし前頭まえがしら6まい
8–7 
西前にしまえあたま3まい
8–7 
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
5–9–1[ちゅう 9] 
西前にしまえあたま5まい
5–10 
西前にしまえあたま10まい
11–3
引分ひきわけ1)
 
ひがし前頭まえがしら2まい
5–10 
1975ねん
昭和しょうわ50ねん
西前にしまえあたま6まい
10–5
こと
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
11–4
こと
西にし関脇せきわけ
9–6 
ひがし関脇せきわけ
8–7 
ひがしちょういずる関脇せきわけ
11–4 
ひがし関脇せきわけ
13–2
ことわざ
1976ねん
昭和しょうわ51ねん
東大とうだいせき
8–7 
西にし大関おおぜき
2–6–7[ちゅう 10] 
ひがしちょういずる大関おおぜき
2–8–5[ちゅう 11][ちゅう 12] 
西にしちょういずる関脇せきわけ
10–5[ちゅう 13] 
ひがしちょういずる大関おおぜき
9–6[ちゅう 14] 
ひがしちょういずる大関おおぜき
8–7 
1977ねん
昭和しょうわ52ねん
ひがしちょういずる大関おおぜき
8–7 
西にしちょういずる大関おおぜき
8–7 
ひがしちょういずる大関おおぜき2
5–10 
ひがしちょういずる大関おおぜき2
8–7[ちゅう 12] 
西にしちょういずる大関おおぜき
7–8 
西にしちょういずる大関おおぜき
9–6[ちゅう 12] 
1978ねん
昭和しょうわ53ねん
ひがしちょういずる大関おおぜき
10–5 
西にし大関おおぜき
8–7 
ひがしちょういずる大関おおぜき
11–4 
東大とうだいせき
9–6 
東大とうだいせき
10–5 
東大とうだいせき
10–5 
1979ねん
昭和しょうわ54ねん
東大とうだいせき
11–4 
東大とうだいせき
10–5 
東大とうだいせき
13–2 
東大とうだいせき
14–1[ちゅう 15] 
ひがしちょういずる横綱よこづな
11–4 
西にし横綱よこづな大関おおぜき
14–1 
1980ねん
昭和しょうわ55ねん
ひがし横綱よこづな
15–0 
ひがし横綱よこづな
1–4–10[ちゅう 16] 
西にしちょういずる横綱よこづな
10–5 
西にしちょういずる横綱よこづな
4–6–5[ちゅう 17] 
ひがしちょういずる横綱よこづな
休場きゅうじょう
0–0–15
西にしちょういずる横綱よこづな
引退いんたい
0–3–0
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

幕内まくうち対戦たいせん成績せいせき[編集へんしゅう]

力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう 力士りきしめい かちすう 負数ふすう
青葉あおばじょう 7 2 青葉山あおばやま 5 2 あさしお(あさしお) 3 1 浅瀬あさせがわ 1 1
あさとう 5 1 あさひこく 20 16(1) てんやま 2 1 嵐山あらしやま 1 0
あらぜい 15 14 大潮おおしお 4 2 きょほう 4 1 大鷲おおわし 2 0
魁輝かいき 6 2(1) さきがけすぐる 19 19 さきがけ 0 1 かずあきら 4 0
きたうみ 6 4 きたうみ 13 26 きた富士ふじ 2 14 清國きよくに 6 9
麒麟児きりんじ 17 8(1) ぞうあいだ 5 2 黒瀬川くろせがわ 3 2 黒姫山くろひめさん 21 13
こう鐵山てつざん 6 0 きんふう 4 6(1) きんさくら 11 7 琴乃ことの富士ふじ(琴乃ことの冨士ふじ) 1 0
きんわか 3 0 きむつよし 9 7 蔵玉くらだまにしき 1 0 白田しらださん 2 1
だい 0 1 だい 7 5 だい麒麟きりん 6 15 だい 12 9
大雪おおゆき 2 2 だい(大登おおのぼり) 1 0 大鵬たいほう 1 3 大文字おおもじ 2 2
大雄たいゆう 4 3 大竜おおたつがわ 1 3 りゅうさと 7 1 たかはな 21 24
高見山たかみやま 23 16 たま輝山てらしやま 3 1(1) たまうみ 1 4 たま富士ふじ 18 7
千代ちよ富士ふじ 2 3 あきらさくら 2 0 天龍てんりゅう 3 1 どき葉山はやま 3 4
とち赤城せきじょう 7 2 とちひがし 10 5 とちいさむ 1 0 とちおうやま 6 1
とちひかり 17 2 とち富士ふじ 0 1 羽黒はぐろいわ 10 4(1) 長谷川はせがわ 14 9
はなこう 3 0 播竜やま 2 0 富士ふじさくら 18 12 藤ノ川ふじのかわ 3 2
二子ふたごだけ 9 5{1ふん} そうりゅう 4 1 鳳凰ほうおう 2 0 まえやま 8 7(1)
ぞう位山くらいやま 19 10 舛田ますださん 1 0 三杉みすぎいそ 1 1 あきら武谷たけや 0 1
陸奥むつあらし 6 3 豊山とよやま 18 4 きちおうやま 3 0 琉王 5 5
龍虎りゅうこ 4 7 わか獅子しし 5 4 若浪わかのなみ 2 5 わかうみ 2 4
若乃花わかのはな(わかさんすぎ) 14 19 わか 5 3 輪島わじま 16 27*
※カッコないかちすう負数ふすうなかめる不戦勝ふせんしょう不戦敗ふせんぱいかず

改名かいめいれき[編集へんしゅう]

  • 石山いしやま 五郎ごろう(いしやま ごろう):1963ねん7がつ場所ばしょ - 1966ねん5がつ場所ばしょ
  • 三重みえうみ ろう(みえのうみ - ):1966ねん7がつ場所ばしょ - 1976ねん7がつ場所ばしょ
  • 三重みえうみ 剛司たけし( - つよし)1976ねん9がつ場所ばしょ - 1980ねん11月場所ばしょ

年寄としより変遷へんせん[編集へんしゅう]

  • 山科やましな 剛史たけし(やましな つよし):1980ねん11月
  • 武蔵川むさしがわ あきらえら(むさしがわ あきひで):1980ねん11月 - 2013ねん2がつ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ これは1969ねん7がつ場所ばしょに「大関おおぜき地位ちいで2場所ばしょ連続れんぞくした場合ばあい関脇せきわけ降格こうかく。ただし降格こうかく直後ちょくご場所ばしょで10しょう以上いじょうぼしげれば大関おおぜき復帰ふっき」という「大関おおぜき特例とくれい復帰ふっき」の制度せいど制定せいていされてから最初さいしょ適用てきようれいとなった。
  2. ^ とく通算つうさん2かい大関おおぜき角番かどばんだった1977ねん7がつ場所ばしょは13にちで6しょう7はい、あと1はいせばあわや2度目どめ大関おおぜき陥落かんらくとなるだいピンチだったが、14にち大関おおぜきたかはなに、千秋楽せんしゅうらく前頭まえがしら5まい大潮おおしおにそれぞれ勝利しょうりして8しょう7はいかろうじてして角番かどばん脱出だっしゅつした。
  3. ^ 1度目どめ大関おおぜき在位ざいい成績せいせき不振ふしんだった一方いっぽう、2度目どめ大関おおぜき在位ざいいにわずか2場所ばしょ横綱よこづな昇進しょうしんたしたため。
  4. ^ 昭和しょうわ20年代ねんだい以降いこう短命たんめい横綱よこづなでは前田山まえだやまの6場所ばしょ史上しじょう2だが、とし6場所ばしょせいとなった昭和しょうわ33ねん以降いこうさんじゅううみの8場所ばしょ最短さいたん記録きろくとなる(ただきんさくらそう羽黒はぐろおなじく横綱よこづな在位ざいい8場所ばしょだが、番付ばんづけじょうかぞえるとにんども9場所ばしょとなる)。
  5. ^ 一説いっせつによると、山科やましな直近ちょっきん襲名しゅうめいしていたのは最高さいこうじゅうりょう大平山おおひらやまだったため「もと横綱よこづな名跡みょうせき相応ふさわしくない」と入門にゅうもん師匠ししょう相撲すもう博物館はくぶつかん館長かんちょうつとめていた13だい武蔵川むさしがわ出羽でわはなから武蔵川むさしがわ名跡みょうせきゆずられたという。
  6. ^ 三重みえうみはつ土俵どひょうんだ1963ねん7がつ場所ばしょ時点じてんですでに大鵬たいほう幕内まくうち優勝ゆうしょう11かい記録きろくしていた。
  7. ^ いさお」のまわしに「市川いちかわ國一くにいちしょ」と本名ほんみょう市川いちかわ國一くにいち)がかれている。
  8. ^ 急性きゅうせい肝臓かんぞうえんにより7にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  9. ^ 右足みぎあし関節かんせつ捻挫ねんざにより14にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  10. ^ ひだり足首あしくび関節かんせつ捻挫ねんざおよ外傷がいしょうせい炎症えんしょうにより8にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  11. ^ ひだりひざ内側うちがわがわふく靱帯じんたい損傷そんしょうひだり足首あしくび関節かんせつ捻挫ねんざ後遺症こういしょうにより10日とおかから途中とちゅう休場きゅうじょう
  12. ^ a b c 大関おおぜき角番かどばんぜん3かい
  13. ^ 関脇せきわけ陥落かんらく
  14. ^ 大関おおぜき特例とくれい復帰ふっき
  15. ^ 輪島わじま優勝ゆうしょう決定けっていせん
  16. ^ ひだりひじ関節かんせつ挫傷ざしょうにより5にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  17. ^ 外傷がいしょうせい坐骨ざこつ神経痛しんけいつう・頸肩うで症候群しょうこうぐん肝臓かんぞうえんにより10日とおかから途中とちゅう休場きゅうじょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』p40-43
  2. ^ 人生じんせいおくりもの)わたしの半生はんせい 相撲すもう博物館はくぶつかん館長かんちょう・57だい横綱よこづなさんじゅううみ石山いしやま五郎ごろう:2 68さい 朝日新聞あさひしんぶんDIGITAL 2016ねん11月1にち1630ふん
  3. ^ a b c d もと横綱よこづなさんじゅううみの「相撲すもう故郷こきょう」…入門にゅうもん15さい、たんこぶでしん弟子でし検査けんさクリア(2/2ページ) 讀賣新聞よみうりしんぶんオンライン 2023/02/12 17:00 (2023ねん2がつ13にち閲覧えつらん)
  4. ^ a b c 人生じんせいおくりもの)わたしの半生はんせい 相撲すもう博物館はくぶつかん館長かんちょう・57だい横綱よこづなさんじゅううみ石山いしやま五郎ごろう:4 68さい 朝日新聞あさひしんぶん DIGITAL 2016ねん11月4にち1630ふん
  5. ^ a b c d 人生じんせいおくりもの)わたしの半生はんせい 相撲すもう博物館はくぶつかん館長かんちょう・57だい横綱よこづなさんじゅううみ石山いしやま五郎ごろう:5 68さい 朝日新聞あさひしんぶん DIGITAL 2016ねん11月7にち1630ふん
  6. ^ a b c d e 大相撲おおずもう:「いいどうえらんだ」…定年ていねん武蔵川むさしがわ親方おやかた会見かいけん 毎日新聞まいにちしんぶん 2013ねん01がつ22にち 2020ふん
  7. ^ a b c d e 人生じんせいおくりもの)わたしの半生はんせい 相撲すもう博物館はくぶつかん館長かんちょう・57だい横綱よこづなさんじゅううみ石山いしやま五郎ごろう:6 68さい 朝日新聞あさひしんぶん DIGITAL 2016ねん11月8にち1630ふん
  8. ^ a b c おかみさんも伴走ばんそうつづけてはん世紀せいき「ボーッとする時間じかんもなかった」…もと横綱よこづなさんじゅううみの「相撲すもう故郷こきょう 讀賣新聞よみうりしんぶん 2024/04/17 09:29 (2024ねん4がつ17にち閲覧えつらん)
  9. ^ a b c d 大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』p22
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  11. ^ 相撲すもう』2018ねん3がつごう p.87
  12. ^ a b c 人生じんせいおくりもの)わたしの半生はんせい 相撲すもう博物館はくぶつかん館長かんちょう・57だい横綱よこづなさんじゅううみ石山いしやま五郎ごろう:8 68さい 朝日新聞あさひしんぶん DIGITAL 2016ねん11がつ10日とおか1630ふん
  13. ^ Sports Graphic Number (文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう)2019ねん2がつ28にちごう p64
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  16. ^ 佐藤さとう祥子さちこ 57ぺーじ
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  19. ^ a b c 大空おおぞら出版しゅっぱん相撲すもうファン』vol.06 p120-125
  20. ^ 【25周年しゅうねん三重みえうみ親方おやかた還暦かんれき土俵入どひょういり!】大相撲おおずもう 武蔵川むさしがわ部屋へや日々ひび 2007ねん6がつ17にち
  21. ^ 佐藤さとう祥子さちこ 57-58ぺーじ
  22. ^ 武蔵川むさしがわ親方おやかた 大鵬たいほうとの一番いちばんすこしでもながからださわっていたかった」 Sponichi Annex 2013ねん1がつ19にち 16:49
  23. ^ 武蔵川むさしがわ親方おやかた相撲すもう博物館はくぶつかんちょう委嘱いしょく 6代目だいめ館長かんちょう 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 2013/1/31 19:37
  24. ^ もと横綱よこづなさんじゅううみ、ライバル追悼ついとう きたうみとの時間じかん 日刊にっかんスポーツ 2016ねん1がつ22にち648ふん 紙面しめんから
  25. ^ 大関おおぜき陥落かんらくつなり」あきら富士ふじもと横綱よこづなさんじゅううみ注目ちゅうもく今後こんごない」 日刊にっかんスポーツ 2021ねん7がつ10日とおか459ふん(2021ねん7がつ12にち閲覧えつらん
  26. ^ 「すごい精神せいしんりょくもとさんじゅううみおどろ横綱よこづなあきら富士ふじきょう誕生たんじょう | 全国ぜんこくのニュース 福井ふくい新聞しんぶん 2021ねん7がつ21にち 紙面しめんから
  27. ^ もと横綱よこづなさんじゅううみ石山いしやま出羽海でわのうみ部屋へや後輩こうはい御嶽みたけかいへエール「横綱よこづなになって」 日刊にっかんスポーツ 2022ねん1がつ24にち947ふん(2022ねん1がつ24にち閲覧えつらん
  28. ^ もと横綱よこづなさんじゅううみ石山いしやま五郎ごろうさん、相撲すもう博物館はくぶつかん館長かんちょう来月らいげつ退任たいにん…「75さい大相撲おおずもうから卒業そつぎょう 讀賣新聞よみうりしんぶんオンライン 2023/01/15 05:00 (2023ねん1がつ21にち閲覧えつらん)
  29. ^ 大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』p38
  30. ^ TBSアッコにおまかせ!』2008ねん9がつ14にち放送ほうそうぶんより
  31. ^ 非力ひりきたくみなぜんさばきと闘志とうしおぎなった三重みえうみ All About 2012ねん12月31にち
  32. ^ 相撲すもう』2012ねん5がつごう67ぺーじ
  33. ^ わたしの“奇跡きせきいちまい連載れんさい85】 はん世紀せいきぜんこんなライバルたちが 火花ひばならしていた! BBM Sports 2020-09-15 (2020ねん10がつ21にち閲覧えつらん)
  34. ^ a b 佐藤さとう祥子さちこ 66-67ぺーじ
  35. ^ 横綱よこづな大関おおぜきそだてた「武蔵川むさしがわ親方おやかた」の32ねん二子山ふたごやまぜいへの対抗心たいこうしんえて…もと横綱よこづなさんじゅううみの「相撲すもう故郷こきょう 讀賣新聞よみうりしんぶんオンライン 2023/11/14 09:48 (2024ねん3がつ27にち閲覧えつらん)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 昭和しょうわ平成へいせい 大相撲おおずもうめい力士りきし100列伝れつでん』(著者ちょしゃ:塩澤しおざわみのるしんじ発行はっこうもと:北辰ほくしんどう出版しゅっぱん、2015ねん)p107-108ページ
  • ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』(2017ねん、B・B・MOOK)
  • 佐藤さとう祥子さちこ相撲すもう部屋へやちゃんこひゃくけい とっておきのはなし15』 河出かわで文庫ぶんこ 2016ねん ISBN 978-4309414515

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]