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旧 きゅう 阪急 はんきゅう 梅田 うめだ 駅 えき コンコース(大阪 おおさか 市 し ) ※現存 げんそん せず(阪急 はんきゅう うめだ本店 ほんてん 内 うち に移設 いせつ )
『バロックドーム』(旧 きゅう 阪急 はんきゅう 梅田 うめだ 駅 えき コンコース) ※現存 げんそん せず
カトリック夙川 しゅくがわ 教会 きょうかい (西宮 にしのみや 市 し )
阪神 はんしん 間 あいだ モダニズム (はんしんかんモダニズム)とは、日本 にっぽん で大正 たいしょう 期 き から昭和 しょうわ 初期 しょき [ 1] [ 2] にかけて「大阪 おおさか 市 し と神戸 こうべ 市 し の間 あいだ 」を指 さ す「阪神 はんしん 間 あいだ 」[ 1] を中心 ちゅうしん とする地域 ちいき において育 はぐく まれた、近代 きんだい 的 てき な芸術 げいじゅつ ・文化 ぶんか ・生活 せいかつ 様式 ようしき とその時代 じだい 状況 じょうきょう を指 さ す。なお「阪神 はんしん 間 あいだ 」という地域 ちいき 概念 がいねん は曖昧 あいまい であり、その範囲 はんい には諸説 しょせつ がある[ 1] 。
1990年代 ねんだい 以降 いこう 、阪急 はんきゅう 沿線 えんせん 都市 とし 研究 けんきゅう 会 かい 編 へん 『ライフスタイルと都市 とし 文化 ぶんか 阪神 はんしん 間 あいだ モダニズムの光 ひかり と影 かげ 』(1994年 ねん )や、『「阪神 はんしん 間 あいだ モダニズム」展 てん 』(1997年 ねん 、兵庫 ひょうご 県立 けんりつ 近代 きんだい 美術館 びじゅつかん ・西宮 にしのみや 市 し 大谷 おおや 記念 きねん 美術館 びじゅつかん ・芦屋 あしや 市立 しりつ 美術 びじゅつ 博物館 はくぶつかん ・芦屋 あしや 市 し 谷崎 たにざき 潤一郎 じゅんいちろう 記念 きねん 館 かん の同時 どうじ 開催 かいさい )などを機 き に提唱 ていしょう された、郷土 きょうど 史 し ・地域 ちいき 文化 ぶんか 史 し の概念 がいねん である。
明治維新 めいじいしん から大正 たいしょう ・昭和 しょうわ 初期 しょき を経 へ て第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ までの77年間 ねんかん に、戦前 せんぜん の近代 きんだい 化 か 過程 かてい で起 お こった黎明 れいめい 期 き の文化 ぶんか 現象 げんしょう を対象 たいしょう とする。その後 ご の戦後 せんご 復興 ふっこう 期 き や高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう 期 き 、バブル期 き など戦後 せんご の時代 じだい については通常 つうじょう は含 ふく めないが、戦後 せんご から現代 げんだい に至 いた るまでの時代 じだい にも阪神 はんしん 間 あいだ モダニズムの影響 えいきょう を色濃 いろこ く見 み ることができる。
関西 かんさい 大手 おおて 私鉄 してつ 系 けい グループ(鉄道 てつどう ・不動産 ふどうさん )などの企業 きぎょう による観光 かんこう マーケティング や地域 ちいき ブランディング 、地元 じもと 自治体 じちたい によるまちおこし の観点 かんてん からも注目 ちゅうもく され、2017年 ねん 2月 がつ からは阪神電気鉄道 はんしんでんきてつどう と沿線 えんせん の神戸 こうべ 市 し ・芦屋 あしや 市 し ・西宮 にしのみや 市 し の合同 ごうどう 企画 きかく 事業 じぎょう として「阪神 はんしん K・A・Nモダニズム」が行 おこな われている[ 注釈 ちゅうしゃく 1] [ 2] [ 3] [ 4] [ 5] 。
モダニズム (modernism)は一般 いっぱん に「近代 きんだい 主義 しゅぎ 」と訳 やく され、伝統 でんとう からの脱却 だっきゃく をめざす傾向 けいこう の総称 そうしょう とされている。モダニズムという語 かたり に特定 とくてい の意味 いみ を与 あた える用法 ようほう は、20世紀 せいき ヨーロッパ において盛 さか んになったといわれる[ 注釈 ちゅうしゃく 2] [ 6] 。時期 じき 的 てき には、ルネッサンス 以降 いこう をさす場合 ばあい と、18世紀 せいき 後期 こうき の産業 さんぎょう 革命 かくめい 以降 いこう 、資本 しほん 主義 しゅぎ 社会 しゃかい の形成 けいせい 以降 いこう をさす場合 ばあい とがあり、日本 にっぽん においては、明治維新 めいじいしん 以後 いご をさす場合 ばあい が一般 いっぱん 的 てき である。いずれの場合 ばあい においても、都市 とし 化 か を含 ふく むものであり、「今日 きょう 的 てき 」、「当世風 とうせいふう 」であることを強調 きょうちょう し、伝統 でんとう や因習 いんしゅう からの脱却 だっきゃく を図 はか ろうとする立場 たちば をmodernism、あるいは「近代 きんだい 主義 しゅぎ 」と呼 よ んでいる。
日本 にっぽん においては「西洋 せいよう 風 ふう 」であることを示 しめ す語 かたり として、明治 めいじ 中期 ちゅうき 頃 ごろ から、“high collar”(=高 たか い襟 えり )を語源 ごげん とする「ハイカラ 」という語 かたり が流行 りゅうこう し、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご まで広 ひろ く用 もち いられた。しかし、1920年代 ねんだい には、「ハイカラ」とは異 こと なる意味 いみ で、「モダン」という言葉 ことば が使 つか われ始 はじ めるようになる。その最 もっと も分 わ かりやすい例 れい は、昭和 しょうわ 初期 しょき の流行 りゅうこう となった「モダン・ガール」、「モダン・ボーイ」(モボ・モガ )である。この呼称 こしょう は当時 とうじ 、時代 じだい 性 せい や流行 りゅうこう を意識 いしき し、常 つね に新 あたら しさを求 もと める進歩 しんぽ 主義 しゅぎ [要 よう 曖昧 あいまい さ回避 かいひ ] 的 てき 傾向 けいこう をもつ男女 だんじょ を総称 そうしょう するものであったが、特 とく に「モダン・ガール」は、関東大震災 かんとうだいしんさい 以後 いご 、昭和 しょうわ 戦 せん 前期 ぜんき にかけて、タイピスト 、電話 でんわ 交換 こうかん 手 しゅ 、バスの車掌 しゃしょう など、新 あたら しい職業 しょくぎょう につく女性 じょせい が目立 めだ ち始 はじ めた社会 しゃかい の動 うご きに呼応 こおう するように広 ひろ まっていったと考 かんが えられる[ 7] 。昭和 しょうわ 18(1943 )年 ねん に発表 はっぴょう された谷崎 たにざき 潤一郎 じゅんいちろう の小説 しょうせつ 、『細雪 ささめゆき 』に登場 とうじょう する末 すえ 娘 むすめ の妙子 たえこ は、その奔放 ほんぽう な性格 せいかく や伝統 でんとう にとらわれない自由 じゆう な生 い き方 かた から、モダン・ガールの典型 てんけい として描 えが かれている。また、大阪 おおさか を本拠地 ほんきょち として働 はたら く夫 おっと たちの留守 るす 宅 たく を守 まも る一方 いっぽう で、複数 ふくすう の使用人 しようにん に家事 かじ を任 まか せて、観劇 かんげき やお稽古 けいこ ごとに興 きょう じる妙子 たえこ の姉 あね たちの優雅 ゆうが な暮 く らしぶりからは、戦前 せんぜん の豊 ゆた かで華 はな やかな「モダン・ライフ」を垣間見 かいまみ ることができる。
「モダン」という語 かたり が、伝統 でんとう からの脱却 だっきゃく 、あるいは否定 ひてい という文脈 ぶんみゃく のなかで成立 せいりつ していることはすでに述 の べた。しかし、ヨーロッパ芸術 げいじゅつ におけるモダニズムに目 め をやれば、日本 にっぽん の伝統 でんとう 的 てき な様式 ようしき 美 び 、芸術 げいじゅつ が色濃 いろこ く反映 はんえい されていることは明 あき らかであり、ジャポニスム を取 と り込 こ んだ西洋 せいよう 文化 ぶんか を「輸入 ゆにゅう 」することで、われわれは再 ふたた び、自 みずか らの伝統 でんとう と向 む き合 あ うことになる。そうであるならば、モダニズムを一概 いちがい に、伝統 でんとう からの脱却 だっきゃく という概念 がいねん で捉 とら えることはできず、伝統 でんとう を包含 ほうがん した「近代 きんだい 」を更 さら に超 こ えようとする新 あら たな捉 とら え方 かた が必要 ひつよう となる。
近代 きんだい 主義 しゅぎ (modernism)は、それ
以前 いぜん の
状態 じょうたい を
変革 へんかく する
志向 しこう を
意味 いみ し、それゆえ
絶 た えず
新 あら たな「
近代 きんだい 主義 しゅぎ 」を
準備 じゅんび する。そして、いつも、
今 いま こそ
新 あたら しい
時代 じだい に
入 はい ったことを
言 い いたがる
人々 ひとびと がいる。その
意味 いみ では、「
ポスト・モダニズム 」も
一種 いっしゅ のモダニズムだ。
実際 じっさい 、「ポスト・モダニズム」を
名 な のり、また、そのように
見 み なされる
今日 きょう の
主張 しゅちょう の
妥当 だとう 範囲 はんい は、
実 じつ は
第 だい 二 に 次 じ 大戦 たいせん 前 まえ に
起源 きげん を
見 み いだせるものが
珍 めずら しくない。1920
年代 ねんだい の
動 うご きに、あるいは
世紀 せいき 転換期 てんかんき からの
動 うご きにも、
同 おな じ
傾向 けいこう を
指摘 してき することができる
場合 ばあい も
多 おお い。
(
中略 ちゅうりゃく )
逆 ぎゃく に、「
近代 きんだい 」に、ある
特定 とくてい の
内容 ないよう を
与 あた え、それを
志向 しこう する
意志 いし 、「
近代 きんだい 主義 しゅぎ 」は、つぎの「
近代 きんだい 主義 しゅぎ 」からは、
停滞 ていたい を
志向 しこう する
反 はん 「
近代 きんだい 主義 しゅぎ 」と
非難 ひなん を
浴 あ びるだろう。
他方 たほう 、「
近代 きんだい 」の
状態 じょうたい を
克服 こくふく し、
変革 へんかく する
志向 しこう を「
近代 きんだい の
超克 ちょうこく 」と
呼 よ ぶとするなら、「
近代 きんだい 主義 しゅぎ 」の
内 うち には、すなわち、「
近代 きんだい の
超克 ちょうこく 」の
意志 いし をはらんで
展開 てんかい しているものもあるだろう
[ 8] 。
つまり、このような意味 いみ からいえば、モダニズムとは、伝統 でんとう を否定 ひてい し、脱却 だっきゃく するというよりも寧 むし ろ、伝統 でんとう との絡 から み合 あ いであり、せめぎ合 あ いであるともいえる。
所謂 いわゆる 、「阪神 はんしん 間 あいだ 」とは、大阪 おおさか と神戸 こうべ に挟 はさ まれた、六甲山 ろっこうざん を背景 はいけい とする地域 ちいき をさし、行政 ぎょうせい 区域 くいき としては、西宮 にしのみや 市 し 、芦屋 あしや 市 し 、そして神戸 こうべ 市 し 東部 とうぶ までを含 ふく めた地域 ちいき と考 かんが えられる。これらの地域 ちいき は、明治 めいじ 後期 こうき 、政府 せいふ が推進 すいしん した近代 きんだい 化 か 政策 せいさく を背景 はいけい に、次々 つぎつぎ に鉄道 てつどう が開通 かいつう し、主 しゅ として大阪 おおさか の企業 きぎょう 家 か たちが競 きそ って住宅 じゅうたく や別荘 べっそう を建築 けんちく したことから、著 いちじる しい都市 とし 発展 はってん を遂 と げてきた。近代 きんだい 資本 しほん 主義 しゅぎ の発展 はってん とともに、大阪 おおさか は、産業 さんぎょう 化 か が進展 しんてん し、西日本 にしにほん における経済 けいざい 活動 かつどう の中心 ちゅうしん 地 ち となっていった。また、神戸 こうべ では、明治 めいじ 期 き 、外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち を拠点 きょてん に貿易 ぼうえき が始 はじ まり、西洋 せいよう 文化 ぶんか が早 はや くから浸透 しんとう したことによって、国際 こくさい 都市 とし として独自 どくじ の発展 はってん をみた。したがって、居留 きょりゅう 地 ち を窓口 まどぐち に西洋 せいよう 文化 ぶんか を受容 じゅよう し、発展 はってん させてきた港湾 こうわん 都市 とし ・神戸 こうべ と、上方 かみがた の伝統 でんとう 文化 ぶんか を継承 けいしょう しつつ発展 はってん してきた商都 しょうと ・大阪 おおさか との間 あいだ に位置 いち する阪神 はんしん 間 あいだ は、革新 かくしん と伝統 でんとう 、西洋 せいよう と日本 にっぽん が交錯 こうさく しつつ都市 とし 発展 はってん を遂 と げ、新 あたら しいライフスタイルがき上 ずきあ げられた地域 ちいき であるということができる。とくに、1920年代 ねんだい から1930年代 ねんだい にかけては、阪神 はんしん 間 あいだ において新 あら たに住宅 じゅうたく 地 ち が開発 かいはつ されるとともに、西洋 せいよう 料理 りょうり を中心 ちゅうしん とした食 しょく 文化 ぶんか の浸透 しんとう 、和装 わそう から洋装 ようそう への変化 へんか 、ゴルフ やテニス など近代 きんだい スポーツ の広 ひろ まりなどがみられ、人々 ひとびと のライフスタイルが大 おお きな変化 へんか を遂 と げていった時期 じき でもあった。
住居 じゅうきょ 、衣服 いふく 、生活 せいかつ 様式 ようしき など、ここに「近畿 きんき における近代 きんだい 文化 ぶんか の発祥 はっしょう 地 ち 」を見 み るのも故 こ なきことではない[ 9] 。この地 ち を訪 おとず れた作家 さっか や文人 ぶんじん たちも異例 いれい なく、そのような「阪神 はんしん 間 あいだ 」を見 み ている。1920年 ねん (大正 たいしょう 9年 ねん )に早 はや くも徳田 とくた 秋声 しゅうせい がつぎのような芦屋 あしや の風景 ふうけい を描 えが く。
そこは大阪 おおさか と神戸 こうべ のあひだにある美 うつく しい海岸 かいがん の別荘 べっそう 地 ち で、白砂青松 はくさせいしょう と言 げん つた明 あか るい新開 しんかい の別荘 べっそう 地 ち であつた。(略 りゃく )街路 がいろ は整頓 せいとん され、洋風 ようふう の建築 けんちく は起 おこ され、郊外 こうがい は四方 しほう に発展 はってん して、至 いた るところの山裾 やますそ と海辺 うみべ に、瀟洒 しょうしゃ な別荘 べっそう や住宅 じゅうたく が新緑 しんりょく の木立 こだち のなかに見出 みいだ された。
—徳田 とくた 秋声 しゅうせい 『蒼白 あおじろ い月 つき 』大正 たいしょう 九 きゅう 年 ねん
谷崎 たにざき 潤一郎 じゅんいちろう は
東京 とうきょう 郊外 こうがい の黒 くろ つぽい土 ど を見馴 みな れた眼 め には、洗 あら い出 だ したやうな綺麗 きれい な土 ど の色 いろ が珍 めずら しかつた
—『赤 あか い屋根 やね 』大正 たいしょう 十 じゅう 四 よん 年 ねん
阪神 はんしん 沿道 えんどう の暖国 だんごく 的 てき 風景 ふうけい 、――濃 こ い青 あお い空 そら 、翠緑 すいりょく の松林 まつばやし 、白 しろ い土 ど の反射 はんしゃ
—『私 わたし の見 み た大阪 おおさか 及 およ び大阪 おおさか 人 じん 』昭和 しょうわ 七 なな 年 ねん
と描写 びょうしゃ しており、「青 あお 」や「緑 みどり 」、また文化 ぶんか 住宅 じゅうたく の屋根 やね 瓦 かわら の「赤 あか 」といった初夏 しょか の色 いろ を、阪神 はんしん 間 あいだ の白 しろ い大地 だいち は鮮 あざ やかに輝 かがや かせる。路面 ろめん が一様 いちよう にアスファルトで舗装 ほそう された現代 げんだい と違 ちが い、当時 とうじ はその白 しろ さが鮮烈 せんれつ に体験 たいけん されたと思 おも われる[ 10] 。
また、
白 しろ いのは地面 じめん ばかりでなく、川床 かわどこ の沙 すな や、護岸 ごがん の石 いし 崖 がけ も白 しろ く、ところどころにチラホラ建 た つてゐる文化 ぶんか 住宅 じゅうたく の壁 かべ も白 しろ い。その単調 たんちょう を破 やぶ るものは、それらの住宅 じゅうたく の屋根 やね 瓦 かわら の《赤 あか 》と、林 はやし の松 まつ の幹 みき の《赤 あか 》と、濃 こ い、新鮮 しんせん な葉 は の《緑 みどり 》とがあるばかり。
—谷崎 たにざき 潤一郎 じゅんいちろう 『赤 あか い屋根 やね 』大正 たいしょう 十 じゅう 四 よん 年 ねん
と描 えが いている。
この《白 しろ 》と《赤 あか 》と《緑 みどり 》こそがこの地 ち の風景 ふうけい の基調 きちょう であり、この色 いろ が示 しめ すハイカラこそが「阪神 はんしん 間 あいだ 」なのである。そしてここに描 えが かれる住宅 じゅうたく は「洋館 ようかん 」であり、当時 とうじ の日本人 にっぽんじん の憧 あこが れであった。しかもそれは「豊 ゆた かさ」の象徴 しょうちょう でもあったのである[ 11]
以上 いじょう のことから、「阪神 はんしん 間 あいだ モダニズム」とは、明治 めいじ 後期 こうき から大正 たいしょう 期 き を経 へ て、太平洋戦争 たいへいようせんそう 直前 ちょくぜん の昭和 しょうわ 15(1940 )年頃 としごろ までの期間 きかん において、阪神 はんしん 間 あいだ の人々 ひとびと のライフスタイルを形成 けいせい し、地域 ちいき の発展 はってん に影響 えいきょう を与 あた えてきた、ある一 ひと つの文化 ぶんか 的 てき 傾向 けいこう である、と捉 とら えることができる[ 12] 。
三 さん 代目 だいめ 阪急 はんきゅう 梅田 うめだ 駅 えき を覆 おお っていた天蓋 てんがい (百貨店 ひゃっかてん 新聞 しんぶん 社 しゃ ・編 へん 『大 だい ・阪急 はんきゅう 』:1936年 ねん )
19世紀 せいき 末 すえ の大阪 おおさか は、東京 とうきょう を上回 うわまわ る日本 にっぽん 最大 さいだい の商業 しょうぎょう 都市 とし であった(いわゆる大 だい 大阪 おおさか 時代 じだい )[ 13] 。また、神戸 こうべ も東洋 とうよう 最大 さいだい の港湾 こうわん 都市 とし へと拡大 かくだい していた。
当時 とうじ の近畿 きんき 地方 ちほう では、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の例 れい にならったインターアーバン (都市 とし 間 あいだ 電車 でんしゃ )路線 ろせん の建設 けんせつ が相次 あいつ ぐ。阪神電気鉄道 はんしんでんきてつどう 本線 ほんせん (1905年 ねん 開業 かいぎょう )を嚆矢 こうし とし、続 つづ く箕面 みのお 有馬 ありま 電気 でんき 軌道 きどう (後 ご の阪急 はんきゅう 宝塚本線 たからづかほんせん 、1910年 ねん 開業 かいぎょう )、阪神 はんしん 急行 きゅうこう 電鉄 でんてつ 神戸本線 こうべほんせん (1920年 ねん 開業 かいぎょう )といった各線 かくせん の開通 かいつう によって、未開拓 みかいたく な後背 こうはい 地 ち であった神戸 こうべ 近郊 きんこう ・北摂 ほくせつ 近郊 きんこう の農村 のうそん 地帯 ちたい が注目 ちゅうもく される。こうして、風光 ふうこう 明媚 めいび な六甲山 ろっこうざん 南 みなみ 斜面 しゃめん の鉄道 てつどう 沿線 えんせん である阪神 はんしん 間 あいだ で、快適 かいてき な住環境 じゅうかんきょう 創造 そうぞう を目的 もくてき に郊外 こうがい 住宅 じゅうたく 地 ち の開発 かいはつ が進 すす められた。したがってこの地区 ちく の都市 とし 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき な発展 はってん と、関西 かんさい 私鉄 してつ 資本 しほん の導入 どうにゅう は不可分 ふかぶん の関係 かんけい にあったといえる。
まず明治 めいじ 期 き に、阪神 はんしん の豪商 ごうしょう 等 ひとし の豪壮 ごうそう な邸宅 ていたく が、旧 きゅう 住吉 すみよし 村 むら [ 注釈 ちゅうしゃく 3] に陸続 りくぞく と建築 けんちく され、このエリアに居住 きょじゅう する富豪 ふごう 数 かず が日本 にっぽん 最多 さいた となった[ 14] [ 15] 。
大正 たいしょう 期 き には、実業 じつぎょう 家 か に加 くわ え当時 とうじ の新興 しんこう 階級 かいきゅう であった大卒 だいそつ のインテリ サラリーマン 層 そう 、すなわち無産 むさん 中流 ちゅうりゅう 階級 かいきゅう の住宅 じゅうたく 地 ち として発展 はってん し、文化 ぶんか 的 てき ・経済 けいざい 的 てき な環境 かんきょう が整 ととの ったことから芸術 げいじゅつ 家 か や文化 ぶんか 人 じん などが多 おお く移 うつ り住 す んだ。この流 なが れと併行 へいこう して、19世紀 せいき 末 まつ から六甲 ろっこう 山上 さんじょう および緑 みどり 豊 ゆた かな市街地 しがいち となった山麓 さんろく に、ブルジョワ と呼 よ ばれる富裕 ふゆう 層 そう を対象 たいしょう とする様々 さまざま な文化 ぶんか ・教育 きょういく ・社交 しゃこう 場 じょう としての別荘 べっそう ・ホテル ・娯楽 ごらく 施設 しせつ が造 つく られ、西洋 せいよう 式 しき の大 だい リゾート 地 ち が形成 けいせい された。
このようにして、西洋 せいよう 文化 ぶんか の影響 えいきょう を受 う けた生活 せいかつ を楽 たの しむ生活 せいかつ 様式 ようしき が育 はぐく まれていった。なおこれらの地域 ちいき は、現代 げんだい でも高級 こうきゅう 住宅 じゅうたく 地 ち やブランド 住宅 じゅうたく 地 ち として全国 ぜんこく 屈指 くっし のエリアとなっている。
また首都 しゅと 圏 けん においても、田園 でんえん 都市 とし 株式会社 かぶしきがいしゃ (東急 とうきゅう の前身 ぜんしん )によって建設 けんせつ された田園調布 でんえんちょうふ などの東京 とうきょう 近郊 きんこう の高級 こうきゅう 住宅 じゅうたく 地 ち などに、阪神 はんしん 間 あいだ モダニズムの影響 えいきょう を見 み ることができる。
初期 しょき の大阪 おおさか の郊外 こうがい 住宅 じゅうたく 地 ち [ 編集 へんしゅう ]
昭和 しょうわ 16
年 ねん (
1941年 ねん )の
阪神 はんしん 間 あいだ 鉄道 てつどう 路線 ろせん 図 ず
大阪 おおさか 周辺 しゅうへん の郊外 こうがい 住宅 じゅうたく 地 ち は、元々 もともと 、別荘 べっそう 地 ち の開発 かいはつ から始 はじ まった。
「明治 めいじ の半 なか ば頃 ごろ 、船場 ふなば ・島之内 しまのうち の旦那 だんな 衆 しゅ の間 あいだ に上町 うえまち の桃山 ももやま あたりに別荘 べっそう をつくり、客 きゃく を招待 しょうたい したり閑日にのんびりすることが流行 りゅうこう した[ 16] 」
というように、富裕 ふゆう 層 そう によって比較的 ひかくてき 環境 かんきょう の良 よ い手近 てぢか な所 ところ で始 はじ まったそれらが鉄道 てつどう の開通 かいつう とともに、さらに環境 かんきょう の良 よ い天下茶屋 てんがちゃや ・浜寺 はまでら など大阪 おおさか 南部 なんぶ 、あるいは阪神 はんしん 間 あいだ へと広 ひろ がっていった。
特 とく に阪神 はんしん 問 とい では、1907年 ねん に大谷 おおや 光瑞 こうずい が現在 げんざい の神戸 こうべ 市 し 東灘 ひがしなだ 区 く に「二 に 楽 らく 荘 そう 」と名付 なづ けた別荘 べっそう や、当時 とうじ の大阪 おおさか 府立 ふりつ 高等 こうとう 医 い 学校 がっこう 校長 こうちょう の佐多 さた 愛 あい 彦 が芦屋 あしや 山手 やまて に結核 けっかく 予防 よぼう に良 よ い保養 ほよう 地 ち として別荘 べっそう (松風 まつかぜ 山荘 さんそう 住宅 じゅうたく 地 ち の前身 ぜんしん )の建設 けんせつ を行 おこな い、人々 ひとびと に注目 ちゅうもく されるようになった。
こうした富裕 ふゆう 層 そう の別荘 べっそう 地 ち から多 おお くの人々 ひとびと が居住 きょじゅう する郊外 こうがい 住宅 じゅうたく 地 ち になったのは鉄道 てつどう 敷設 ふせつ による都心 としん へのアクセスの改善 かいぜん によるところがおおきく、中 なか でも阪神 はんしん 間 あいだ は山側 やまがわ の阪急電鉄 はんきゅうでんてつ からJR西日本 にしにほん 、浜 はま 側 がわ の阪神電鉄 はんしんでんてつ と3本 ほん の鉄道 てつどう 路線 ろせん があり、大阪 おおさか 郊外 こうがい の他 ほか の地域 ちいき に較 くら べ、極 きわ めて交通 こうつう 条件 じょうけん の恵 めぐ まれた地域 ちいき であった[ 17] 。
阪神 はんしん 間 あいだ における沿線 えんせん 開発 かいはつ [ 編集 へんしゅう ]
阪神電鉄 はんしんでんてつ の住宅 じゅうたく 地 ち 開発 かいはつ [ 編集 へんしゅう ]
阪神電鉄 はんしんでんてつ は、明治 めいじ 42年 ねん (1909年 ねん )、住宅 じゅうたく 地 ち 経営 けいえい を開始 かいし し、鳴尾 なるお で貸家 かしや 経営 けいえい (西宮 にしのみや 市 し 、1910年 ねん )、御影 みかげ (神戸 こうべ 市 し 、1911年 ねん )及 およ び、甲子園 こうしえん (西宮 にしのみや 市 し )で分譲 ぶんじょう 住宅 じゅうたく 販売 はんばい (1928-30年 ねん )というように、住宅 じゅうたく 販売 はんばい 事業 じぎょう を拡大 かくだい していく。その一方 いっぽう で、沿線 えんせん にスポーツ・アミューズメント施設 しせつ を建設 けんせつ する構想 こうそう も立 た て、多角 たかく 的 てき な土地 とち 利用 りよう 計画 けいかく を推進 すいしん していった。その代表 だいひょう は、阪神 はんしん 甲子園 こうしえん 球場 きゅうじょう である。その他 た にも、甲子園 こうしえん ホテル 、阪神 はんしん パーク など、沿線 えんせん にホテルや遊 ゆう 園地 えんち を建設 けんせつ しリゾート関連 かんれん 事業 じぎょう を手 て がけていった。
リゾート開発 かいはつ の一環 いっかん として、阪神電鉄 はんしんでんてつ は六甲 ろっこう 山 さん の開発 かいはつ にも力 ちから を注 そそ いだ。緑 みどり が濃 こ く、豊 ゆた かな自然 しぜん が残 のこ された六甲山 ろっこうざん は格好 かっこう の避暑 ひしょ 地 ち であり、別荘 べっそう 地 ち としての要件 ようけん を充分 じゅうぶん に満 み たすものであった。リゾート地 ち としての六甲 ろっこう 山 さん に最初 さいしょ に注目 ちゅうもく したのは、イギリス 人 ひと 貿易 ぼうえき 商 しょう 、A.H.グルーム(Arthur Hesketh Groom)をはじめとする神戸 こうべ 在住 ざいじゅう の外国 がいこく 人 じん たちである。彼 かれ らはまず六甲山 ろっこうざん に別荘 べっそう を造 つく り、ゴルフ 場 ば を建設 けんせつ し、六甲 ろっこう 山 さん の豊 ゆた かな自然 しぜん のなかでゴルフや登山 とざん 、クリケット などの近代 きんだい スポーツに興 きょう じた。また同時 どうじ に、機関 きかん 誌 し 『INAKA』を発行 はっこう し、それらのスポーツの紹介 しょうかい や登山 とざん 記録 きろく 、旅行 りょこう 記 き などを掲載 けいさい した。その後 ご も、多 おお くの外国 がいこく 人 じん が六甲山 ろっこうざん に別荘 べっそう を建 た て、六甲山 ろっこうざん は日本 にっぽん におけるゴルフ発祥 はっしょう の地 ち 、近代 きんだい スポーツと娯楽 ごらく の地 ち として広 ひろ く知 し られるようになる。
阪神電鉄 はんしんでんてつ は、このようなリゾート地 ち ・六甲 ろっこう 山 さん に早 はや くから注目 ちゅうもく し、電鉄 でんてつ の集客 しゅうきゃく 増員 ぞういん
をねらって開発 かいはつ を計画 けいかく していた。そのためにはまず、交通 こうつう 手段 しゅだん の整備 せいび が必要 ひつよう であると考 かんが え、大正 たいしょう 14年 ねん (1925年 ねん )に摩耶 まや ケーブル を、昭和 しょうわ 2年 ねん (1927年 ねん )に表 おもて 六甲 ろっこう ドライブウェーを、さらには、昭和 しょうわ 7年 ねん (1932年 ねん )に六甲 ろっこう ケーブル を完成 かんせい させ、大都市 だいとし に近接 きんせつ した別荘 べっそう 地 ち ・六甲 ろっこう 山 さん の販売 はんばい を開始 かいし した[ 18] 。
このように、阪神電鉄 はんしんでんてつ では、電鉄 でんてつ の集客 しゅうきゃく 増員 ぞういん を図 はか るため、沿線 えんせん の住宅 じゅうたく 地 ち 開発 かいはつ に力 ちから が注 そそ がれると同時 どうじ に、その沿線 えんせん の付加 ふか 価値 かち を高 たか める装置 そうち として、球場 きゅうじょう 、ホテル、遊 ゆう 園地 えんち などのスポーツ・アミューズメント施設 しせつ が建設 けんせつ され、沿線 えんせん 地域 ちいき を総合 そうごう 的 てき に開発 かいはつ するという経営 けいえい 戦略 せんりゃく がとられた。
阪急電鉄 はんきゅうでんてつ の住宅 じゅうたく 地 ち 開発 かいはつ [ 編集 へんしゅう ]
私鉄 してつ による住宅 じゅうたく 経営 けいえい には、阪急電鉄 はんきゅうでんてつ も名乗 なの りをあげた。小林 こばやし 一三 かずみ の経営 けいえい 方針 ほうしん によって、阪急電鉄 はんきゅうでんてつ による活発 かっぱつ な沿線 えんせん 住宅 じゅうたく 地 ち の開発 かいはつ が行 おこな われた。住宅 じゅうたく 販売 はんばい にあたっては、「郊外 こうがい に居住 きょじゅう し、日々 ひび 市内 しない に出 で でゝ終日 しゅうじつ の勤務 きんむ に脳漿 のうしょう を絞 しぼ り、疲労 ひろう したる身体 しんたい を其家庭 かてい に慰安 いあん せんとせらるゝ諸君 しょくん ・・・[ 19] 」すなわち、中堅 ちゅうけん サラリーマンを対象 たいしょう とした販売 はんばい 戦略 せんりゃく をとっていた。
阪急電鉄 はんきゅうでんてつ が最初 さいしょ の住宅 じゅうたく 開発 かいはつ を始 はじ めたのは、明治 めいじ 43年 ねん (1910年 ねん )、宝塚 たからづか 線 せん 池田 いけだ 駅 えき 周辺 しゅうへん の池田 いけだ 室町 むろまち 住宅 じゅうたく 地 ち (現 げん ・池田 いけだ 市 し 室町 むろまち )であった[ 20] 。33,000坪 つぼ の土地 とち を碁盤 ごばん の目 め に区切 くぎ って221区画 くかく とし、1区画 くかく 120坪 つぼ 程度 ていど を標準 ひょうじゅん とし、木造 もくぞう 二 に 階 かい 建 だ てもしくは平屋 ひらや 建 だ ての和風 わふう 住宅 じゅうたく (建坪 たてつぼ 約 やく 20坪 つぼ )を建設 けんせつ した。またその後 ご 、大正 たいしょう 9年 ねん (1920年 ねん )7月 がつ 16日 にち に神戸 こうべ 線 せん が開通 かいつう 、大阪 おおさか -神戸 こうべ 間 あいだ が約 やく 42分 ふん で結 むす ばれることになったが、この神戸 こうべ 線 せん の開通 かいつう によって始 はじ まったのが、岡本 おかもと 住宅 じゅうたく 地 ち (現 げん ・神戸 こうべ 市 し 東灘 ひがしなだ 区 く )の分譲 ぶんじょう であった。神戸 こうべ 線 せん 開通 かいつう の翌年 よくねん 、大正 たいしょう 10年 ねん (1921年 ねん )、阪急 はんきゅう 岡本 おかもと 駅 えき 周辺 しゅうへん を含 ふく む17,557坪 つぼ の土地 とち の分譲 ぶんじょう が開始 かいし された。
阪急電鉄 はんきゅうでんてつ の住宅 じゅうたく 経営 けいえい で注目 ちゅうもく されるのは、和風 わふう 建築 けんちく が多 おお い点 てん である。小林 こばやし 一三 かずみ は、「阪神 はんしん 間 あいだ 高級 こうきゅう 住宅 じゅうたく においてすらも、純 じゅん 洋式 ようしき の売 うれ 家 か には買手 かいて がない。いつも売 う れ残 のこ って結局 けっきょく 貸家 かしや にする。(中略 ちゅうりゃく )寝台 しんだい 的 てき 設計 せっけい よりも畳 たたみ 敷 じき が愛 あい されて、純 じゅん 洋式 ようしき は不評 ふひょう である[ 21] 」と自叙伝 じじょでん のなかで述 の べ、一般 いっぱん 大衆 たいしゅう が好 この む和風 わふう 建築 けんちく を中心 ちゅうしん に住宅 じゅうたく 販売 はんばい を展開 てんかい した。また、阪急 はんきゅう 沿線 えんせん の開発 かいはつ ポテンシャルをさらに高 たか めたのは、当時 とうじ 、珍 めずら しかった住宅 じゅうたく の「割賦 かっぷ 販売 はんばい 方式 ほうしき 」であったことも特筆 とくひつ すべきである。
これ以後 いご 、池田 いけだ ・岡本 おかもと に次 つ いで、甲東園 こうとうえん (西宮 にしのみや 市 し 、1923年 ねん )、稲野 いなの (伊丹 いたみ 市 し 、1925年 ねん )、塚口 つかぐち (尼崎 あまがさき 市 し 、1934年 ねん )、武庫之荘 むこのそう (尼崎 あまがさき 市 し 、1937年 ねん )が次々 つぎつぎ に開発 かいはつ され、本格 ほんかく 的 てき な住宅 じゅうたく 販売 はんばい 事業 じぎょう が展開 てんかい された[ 22] 。
三 みっ つの鉄道 てつどう 路線 ろせん が敷 し かれ、交通 こうつう アクセスが整備 せいび されたことは、阪神 はんしん 間 あいだ への人口 じんこう 集中 しゅうちゅう を促 うなが した。その背景 はいけい には、隣接 りんせつ する商業 しょうぎょう 都市 とし ・大阪 おおさか の住環境 じゅうかんきょう 悪化 あっか があった。大阪 おおさか は企業 きぎょう が集中 しゅうちゅう し、西日本 にしにほん の経済 けいざい ・産業 さんぎょう の中心 ちゅうしん 地 ち として発展 はってん を遂 と げていた。それに伴 ともな い人口 じんこう も次第 しだい に増加 ぞうか し、大阪 おおさか は「東洋 とうよう のマンチェスター」と称 しょう されるほどの勢 いきお いで工業 こうぎょう 都市 とし に変貌 へんぼう していった。しかし、そのことは同時 どうじ に、大気 たいき 汚染 おせん や騒音 そうおん 、水質 すいしつ 汚濁 おだく などの公害 こうがい を生 う む要因 よういん となり、急速 きゅうそく な産業 さんぎょう の発展 はってん に伴 ともな う生活 せいかつ 環境 かんきょう の悪化 あっか は、大阪 おおさか 市民 しみん の生活 せいかつ に脅威 きょうい を与 あた える深刻 しんこく なものとなり、水 みず 都 と ・大阪 おおさか は「煙 けむり の都 と 」とまで呼 よ ばれるようになる。このような大阪 おおさか 市 し を中心 ちゅうしん とした生活 せいかつ 環境 かんきょう の悪化 あっか を社会 しゃかい 的 てき 背景 はいけい にして、電鉄 でんてつ 会社 かいしゃ を中心 ちゅうしん に、阪神 はんしん 間 あいだ の住宅 じゅうたく 地 ち 開発 かいはつ が本格 ほんかく 的 てき に展開 てんかい する。
阪急 はんきゅう ・阪神 はんしん の両 りょう 電鉄 でんてつ 会社 かいしゃ は、「健康 けんこう に恵 めぐ まれた郊外 こうがい 生活 せいかつ 」、あるいは「市外 しがい 居住 きょじゅう のすすめ」というキャッチコピーを掲 かか げ、住宅 じゅうたく 地 ち 開発 かいはつ を展開 てんかい する。その開発 かいはつ 戦略 せんりゃく のキーワードは、「緑 みどり 」、「郊外 こうがい 」、「健康 けんこう 」であった。両 りょう 電鉄 でんてつ 会社 かいしゃ が謳 うた った田園 でんえん 生活 せいかつ の要素 ようそ の一 ひと つである「緑 みどり 」とは、六甲 ろっこう 山 さん の緑 みどり を指 さ す。阪神 はんしん 間 あいだ の西部 せいぶ に位置 いち する六甲山 ろっこうざん は、標高 ひょうこう 932メートルの山 やま で、六甲 ろっこう 山麓 さんろく の南 みなみ 斜面 しゃめん を形成 けいせい する台地 だいち は起伏 きふく に富 と み、北 きた から南 みなみ に向 む かって広 ひろ がる雛壇 ひなだん 型 がた の台地 だいち は、住宅 じゅうたく 造成 ぞうせい 地 ち に適 てき していた。緑 みどり が深 ふか く、眺望 ちょうぼう に優 すぐ れ、瀬戸内海 せとないかい に面 めん した温暖 おんだん な気候 きこう とともに、自然 しぜん 環境 かんきょう にも恵 めぐ まれたこの地域 ちいき は、住環境 じゅうかんきょう の要件 ようけん を充分 じゅうぶん に満 み たしていたということがいえる[ 注釈 ちゅうしゃく 4]
。加 くわ えて、六甲山 ろっこうさん から流 なが れ出 で る中小 ちゅうしょう の河川 かせん は、阪神 はんしん 間 あいだ における町 まち の景観 けいかん にさまざまな変化 へんか を与 あた え、親水 しんすい 空間 くうかん を創出 そうしゅつ している。阪急 はんきゅう ・阪神 はんしん の沿線 えんせん を流 なが れる夙川 しゅくがわ 、住吉 すみよし 川 がわ 、芦屋川 あしやがわ 、武庫川 むこがわ は、緑 みどり 豊 ゆた かな六甲 ろっこう 山系 さんけい を背景 はいけい に、美 うつく しい河川 かせん 景観 けいかん を形成 けいせい し、人々 ひとびと に安 やす らぎを与 あた えてきた。しかし、沿線 えんせん の田園 でんえん 地帯 ちたい は美 うつく しい自然 しぜん こそあれ、都心 としん からは離 はな れ、居住 きょじゅう 者 しゃ もまだまばらで、決 けっ して認知 にんち 度 ど が高 たか いとはいえなかった。そこで、電鉄 でんてつ 各社 かくしゃ は、田園 でんえん 生活 せいかつ の素晴 すばら しさをPRするため、数々 かずかず の情報 じょうほう 誌 し を発行 はっこう する。
まず、阪神電鉄 はんしんでんてつ は、明治 めいじ 41年 ねん (1908年 ねん )、『市外 しがい 居住 きょじゅう のすすめ』を刊行 かんこう した。この『市外 しがい 居住 きょじゅう のすすめ』の刊行 かんこう 後 ご 、大正 たいしょう 3年 ねん (1914年 ねん )、月刊 げっかん 誌 し 『郊外 こうがい 生活 せいかつ 』(大正 たいしょう 3年 ねん 1月 がつ ~大正 たいしょう 4年 ねん 11月)を発行 はっこう している。これには、郊外 こうがい 生活 せいかつ の利点 りてん は勿論 もちろん のこと、花 はな の育 そだ て方 かた や栽培 さいばい など、今 いま でいう、ガーデニング 関連 かんれん の記事 きじ を中心 ちゅうしん に、随筆 ずいひつ や評論 ひょうろん などが掲載 けいさい された。
大正 たいしょう 末期 まっき の1923年 ねん 、大阪 おおさか 市 し 社会 しゃかい 部 ぶ 調査 ちょうさ 課 か が行 おこな った 『余暇 よか 生活 せいかつ の研究 けんきゅう 』では、「大阪 おおさか 市 し が近年 きんねん その経済 けいざい 的 てき 勢力 せいりょく に依 よ って年々 ねんねん 人口 じんこう の集 しゅう 注 ちゅう を来 きた しつつあると同時 どうじ に一方 いっぽう に於 お いては亦 また 都市 とし 生活 せいかつ の不 ふ 健康 けんこう と精神 せいしん 的 てき 不安 ふあん とを脱却 だっきゃく すべく放射 ほうしゃ 的 てき に郊外 こうがい へ郊外 こうがい へと居 きょ を移 うつ すものが加速度 かそくど 的 てき に増加 ぞうか して来 き た」とし一方 いっぽう 「居 きょ を移 うつ す能 のう はざるものも熱闘 ねっとう の都市 とし 生活 せいかつ に疲 つか れきった心身 しんしん を医 い すべく休日 きゅうじつ には郊外 こうがい に出 で でて自然 しぜん の天地 てんち に抱擁 ほうよう さるる必要 ひつよう がある」として郊外 こうがい 電車 でんしゃ の様子 ようす を記 しる している。
阪神 はんしん 電車 でんしゃ については「郊外 こうがい 電車 でんしゃ 中 ちゅう 古 ふる き沿革 えんかく を有 ゆう し自然 しぜん 的 てき にも最 もっと も交通 こうつう の要衝 ようしょう に当 あた り 」、「沿線 えんせん は風光 ふうこう 極 きわ めて明 あきら 嫡にして理想 りそう 的 てき 住宅 じゅうたく 地 ち を形成 けいせい せるが故 こ 、阪神 はんしん 二 に 市 し より移 うつ り住 す むもの最 もっと も多 おお く随 したが って郊外 こうがい 住宅 じゅうたく 地 ち として早 はや くより発達 はったつ したるの観 かん がある」と述 の べている。また、梅田 うめだ から大 だい グラウンドのある鳴尾 なるお 駅 えき と海水浴 かいすいよく 場 じょう を抱 かか える香 こう 櫨 はぜのき 園 その 駅 えき に至 いた る月別 つきべつ 乗客 じょうきゃく 数 すう が示 しめ されており、1921年 ねん には梅田 うめだ ~鳴尾 なるお ・香 こう 櫨 はぜのき 園 えん 間 あいだ で年間 ねんかん 70万 まん 人 にん もの乗客 じょうきゃく があったことが紹介 しょうかい されている[ 23] 。
阪急電鉄 はんきゅうでんてつ は、明治 めいじ 42年 ねん (1909年 ねん )、住宅 じゅうたく 案内 あんない パンフレット『住宅 じゅうたく 御 ご 案内 あんない 如何 いか なる土地 とち を選 えら ぶべきか・如何 いか なる家屋 かおく に住 す むべきか』を発行 はっこう 、この冒頭 ぼうとう で、「美 うつく しき水 みず の都 と は夢 ゆめ と消 き えて、空 そら 暗 くら き煙 けむり の都 と に住 す む不幸 ふこう なる我 わ が
大阪 おおさか 市民 しみん 諸君 しょくん よ!」と呼 よ びかけている。公害 こうがい によって生活 せいかつ 環境 かんきょう が悪化 あっか した大阪 おおさか を離 はな れ、田園 でんえん での優雅 ゆうが で健康 けんこう 的 てき な生活 せいかつ ができる郊外 こうがい 居住 きょじゅう をアピールし、沿線 えんせん の新興 しんこう 住宅 じゅうたく 地 ち 「池田 いけだ 新市 しんいち 街 がい 」の住宅 じゅうたく 案内 あんない を行 おこな ったのである。また、大正 たいしょう 2年 ねん (1913年 ねん )には、月刊 げっかん 誌 し 『山容 さんよう 水 すい 態 たい 』が発行 はっこう された。これは、池田 いけだ 新 しん 市街 しがい 、豊中 とよなか 新 しん 市街 しがい など、阪急電鉄 はんきゅうでんてつ が開発 かいはつ した住宅 じゅうたく 地 ち の様子 ようす を詳 くわ しく紹介 しょうかい した住宅 じゅうたく 情報 じょうほう 誌 し であると同時 どうじ に、沿線 えんせん の名所旧跡 めいしょきゅうせき の紹介 しょうかい 、イベント案内 あんない なども掲載 けいさい され、現在 げんざい のタウン情報 じょうほう 誌 し としての役割 やくわり も兼 か ね備 そな えたものであった。また、阪神電鉄 はんしんでんてつ の『市外 しがい 居住 きょじゅう のすすめ』と同様 どうよう 、郊外 こうがい 生活 せいかつ への不安 ふあん を解消 かいしょう して快適 かいてき な生活 せいかつ が期待 きたい できるよう、飲料 いんりょう 水 すい や医療 いりょう など、健康 けんこう に関 かん する記事 きじ も掲載 けいさい された[ 24] 。
「健康 けんこう な田園 でんえん 生活 せいかつ 」をキャッチフレーズに展開 てんかい された、これらの郊外 こうがい 住宅 じゅうたく 地 ち 開発 かいはつ は、国内 こくない で早 はや い段階 だんかい に進 すす められたものであり、澄 す んだ空気 くうき と清 きよ らかな水 みず に恵 めぐ まれた良好 りょうこう な住環境 じゅうかんきょう を創出 そうしゅつ ・維持 いじ することが「山容 さんよう 水 すい 態 たい 」の地 ち -すなわち、阪神 はんしん 間 あいだ のイメージアップに大 おお きく貢献 こうけん したといえる。また、阪神 はんしん 間 あいだ における郊外 こうがい 住宅 じゅうたく の形成 けいせい が、その後 ご 、東京 とうきょう の田園調布 でんえんちょうふ 等 とう の高級 こうきゅう 住宅 じゅうたく 地 ち 開発 かいはつ にも少 すく なからず影響 えいきょう を及 およ ぼしたといわれる[ 25] 。
参照 さんしょう :[ 26]
都市 とし の文化 ぶんか 装置 そうち としての娯楽 ごらく は、1920年代 ねんだい 、つまり、大正 たいしょう から昭和 しょうわ 初期 しょき にかけて都市 とし の内外 ないがい を問 と わず集中 しゅうちゅう 的 てき に現 あらわ れはじめ、かつ急速 きゅうそく に浸透 しんとう していった。阪神 はんしん 間 あいだ では、阪急 はんきゅう と阪神 はんしん の両 りょう 私鉄 してつ により、路線 ろせん の延伸 えんしん に伴 ともな う営業 えいぎょう 戦略 せんりゃく の一環 いっかん として、すなわち輸送 ゆそう 客 きゃく の恒常 こうじょう 的 てき な確保 かくほ のための娯楽 ごらく 施設 しせつ がつくられ、様々 さまざま なイベントが実施 じっし された。
昭和 しょうわ 12年 ねん (1937年 ねん )当時 とうじ 、兵庫 ひょうご 県内 けんない に12ヶ所 かしょ のダンスホールが存在 そんざい していた。尼崎 あまがさき の4ホール(杭 くい 瀬 せ のダンス・タイガー、阪神 はんしん 会館 かいかん ダンスパレス、キング・ダンスホール、尼崎 あまがさき ダンスホール)西宮 にしのみや の2ホール(西宮 にしのみや ダンスホール、今津 いまづ のガーデン・ダンスホール)東洋 とうよう 一 いち の偉容 いよう を誇 ほこ った宝塚 たからづか 会館 かいかん 、神戸 こうべ の4ホール(ダイヤ・クラブ、花隈 はなくま ダンスホール、神戸 こうべ 社交 しゃこう クラブ、キャピトル)及 およ び鈴蘭 すずらん ダンスホールである。
阪神 はんしん 間 あいだ にダンスホールが集中 しゅうちゅう していたのにはいくつかの理由 りゆう がある。大正 たいしょう 12年 ねん 頃 ごろ 、大阪 おおさか の難波 なんば から道頓堀 どうとんぼり にかけてダンスホールが開業 かいぎょう し、社交 しゃこう ダンスブームがおとずれていたのだが、昭和 しょうわ 2年 ねん (1927年 ねん )の末 すえ 、風紀 ふうき 問題 もんだい に厳 きび しい大阪 おおさか の警察 けいさつ が「男女 だんじょ が公然 こうぜん と抱 だ き合 あ うところを不 ふ 特定 とくてい 多数 たすう の人々 ひとびと に見 み せてはならない」ことを理由 りゆう に、大阪 おおさか 市内 しない のダンスホールを営業 えいぎょう 禁止 きんし にしたのである。その結果 けっか 、経営 けいえい 者 しゃ 側 がわ に移転 いてん の問題 もんだい が浮上 ふじょう し、大阪 おおさか 近郊 きんこう で交通 こうつう の便 びん がよかった尼崎 あまがさき 、西宮 にしのみや につぎつぎとダンスホールが開業 かいぎょう したのである。その背景 はいけい には、モータリゼーションの影響 えいきょう が早 はや くも現 あらわ れている。大正 たいしょう 半 なか ば頃 ごろ から自動車 じどうしゃ の普及 ふきゅう にともなった阪神国道 はんしんこくどう の改修 かいしゅう 事業 じぎょう が同年 どうねん 5月 がつ に完了 かんりょう していた。同時 どうじ に、道路 どうろ 中央 ちゅうおう に阪神国道 はんしんこくどう 電 でん 軌が施設 しせつ されたために、公共 こうきょう 輸送 ゆそう が格段 かくだん に進歩 しんぽ している。また、当時 とうじ 田畑 たはた の広 ひろ がっていたその沿道 えんどう は、土地 とち の値段 ねだん が安 やす かったこともダンスホール進出 しんしゅつ の決 き め手 て となったのであろう。大阪 おおさか で踊 おど る場所 ばしょ を失 うしな ったモボ・モガたちが、毎夜 まいよ 毎夜 まいよ 、郊外 こうがい のダンスホールをめざしたのである。
昭和 しょうわ 初期 しょき には阪神国道 はんしんこくどう 沿 ぞ いのダンスホールは隆盛 りゅうせい をきわめ、とくに「阪神 はんしん 会館 かいかん ダンス・パレス」は、内容 ないよう の豪華 ごうか さ、ジャズバンドのよさ、多 おお くの優秀 ゆうしゅう なダンサーなどによって人気 にんき を集 あつ めていた。しかしながら、いずれのダンスホールも「宝塚 たからづか 会館 かいかん 」の規模 きぼ や華麗 かれい さには遠 とお く及 およ ばなかった、といわれている。宝塚 たからづか 会館 かいかん は武庫川 むこがわ と逆瀬川 さかせがわ の合流 ごうりゅう する砂上 さじょう の埋立 うめたて 地 ち に建 た てられ、昭和 しょうわ 5年 ねん (1930年 ねん )8月 がつ にオープンした。100坪 つぼ のフロアの床下 ゆかした にスプリングを埋 う め込 こ むなどの新 しん 技術 ぎじゅつ が採用 さいよう され、ダンサーのための寄宿舎 きしゅくしゃ や客 きゃく のための食堂 しょくどう なども併設 へいせつ されていた。また、阪急電鉄 はんきゅうでんてつ は舞踏 ぶとう 券 けん 付 つ き割引 わりびき 乗車 じょうしゃ 券 けん を発行 はっこう し、宝塚 たからづか 駅 えき からバス・タクシーを走 はし らせたりしている。しかし、宝塚 たからづか 会館 かいかん には、庶民 しょみん 的 てき な阪神国道 はんしんこくどう 沿 ぞ いのホールとはちがい、大阪 おおさか ・神戸 こうべ からタクシーで乗 の り付 つ ける裕福 ゆうふく な人々 ひとびと の「上品 じょうひん な社交 しゃこう 場 じょう 」という位置 いち づけが自然 しぜん となされるようになる。
このように隆盛 りゅうせい をきわめたダンスホールであったが、昭和 しょうわ 13年 ねん (1938年 ねん )に入 はい ると、兵庫 ひょうご 県 けん でも風紀 ふうき 問題 もんだい をめぐって取 と り締 し まりが強化 きょうか され、一般 いっぱん 婦人 ふじん 客 きゃく の入場 にゅうじょう が禁止 きんし され、営業 えいぎょう 時間 じかん が午後 ごご 3時 じ から11時 じ までの8時 じ 間 あいだ に制限 せいげん される。さらに、ホールの増 ぞう 改築 かいちく 禁止 きんし など拘束 こうそく が多 おお くなる。戦時 せんじ 体制 たいせい 下 か 、敵性 てきせい の娯楽 ごらく 場 じょう であるダンスホールの存在 そんざい は認 みと められず、昭和 しょうわ 15年 ねん (1940年 ねん )10月 がつ 31日 にち 、内務省 ないむしょう は国内 こくない のダンスホールをすべて営業 えいぎょう 禁止 きんし とし「十 じゅう 年 ねん にわたって阪神国道 はんしんこくどう を彩 いろど ってきた一群 いちぐん のネオンサイン は消 き える[ 27] 」こととなった。また、宝塚 たからづか 会館 かいかん も取 と り締 し まり強化 きょうか の影響 えいきょう を受 う けてか、昭和 しょうわ 14年 ねん (1939年 ねん )には営業 えいぎょう 不振 ふしん のため閉鎖 へいさ している。
宝塚 たからづか 大 だい 劇場 げきじょう (初代 しょだい )
大正 たいしょう 13年 ねん (1924年 ねん )8月 がつ 、定員 ていいん 4000人 にん を収容 しゅうよう できる「宝塚 たからづか 大 だい 劇場 げきじょう 」が完成 かんせい した。当時 とうじ 、東京 とうきょう で第 だい 一 いち 級 きゅう の大 だい 劇場 げきじょう といえば歌舞伎座 かぶきざ であったが、収容 しゅうよう 人員 じんいん 1600人 にん にすぎなかった。宝塚 たからづか 大 だい 劇場 げきじょう の画期的 かっきてき ともいえるこの規模 きぼ は、良 よ い芝居 しばい を安 やす い料金 りょうきん で大衆 たいしゅう に見 み せるという大 だい 劇場 げきじょう 主義 しゅぎ があったからである。
昭和 しょうわ 2年 ねん (1927年 ねん )5月 がつ に1年 ねん あまりの欧米 おうべい 劇場 げきじょう 視察 しさつ から帰 かえ った岸田 きしだ 辰 たつ 彌 わたる (明治 めいじ の先覚 せんかく 者 しゃ 、岸田 きしだ 吟香 ぎんこう の五 ご 男 なん で、画家 がか 岸田 きしだ 劉生 りゅうせい の弟 おとうと )は、大正 たいしょう 13年 ねん 末 まつ に帰国 きこく していた高木 たかぎ 和夫 かずお の作曲 さっきょく 、白井 しらい 鐵造 てつぞう の振 ふ り付 つ けで、昭和 しょうわ 2年 ねん 9月 がつ 『モン・パリ 』を上演 じょうえん した。これは日本 にっぽん における最初 さいしょ のレヴュー であり、挿入歌 そうにゅうか の「うるわしの思 おも い出 で 、モン・パリ我 わ が巴里 ぱり 」は大衆 たいしゅう に愛唱 あいしょう され、日本 にっぽん 中 ちゅう を駈 か けめぐったのであった。外国 がいこく が遠 とお かった時代 じだい であり。まだ見 み ぬ世界 せかい に思 おも いをはせて観客 かんきゃく はゴージャスな夢 ゆめ に酔 よ いしれたのだった。また、長期 ちょうき 続演 ぞくえん の記録 きろく をつくった最初 さいしょ の作品 さくひん でもあった。従来 じゅうらい の演劇 えんげき や舞踏 ぶとう の形式 けいしき の殻 から を破 やぶ った自由 じゆう 奔放 ほんぽう な企画 きかく であるうえ、レヴューは進行 しんこう の停滞 ていたい を嫌 きら うために、裏方 うらかた の活躍 かつやく は大変 たいへん なものだった。軽快 けいかい なテンポ、登場 とうじょう 人員 じんいん 200人 にん 以上 いじょう の幕間 まくあい なし16場 じょう の耽美 たんび 的 てき な舞台 ぶたい づくり、モダンな衣装 いしょう やダンスなどもすべてが観 み る者 もの にとって目新 めあたら しく、企業 きぎょう 性 せい に富 と んでいたのである。そしてラインダンスとフィナーレで登場 とうじょう する大 だい 階段 かいだん はその後 ご も繰 く り返 かえ され、レヴューのシンボルとなったのである。
昭和 しょうわ 3年 ねん (1928年 ねん )10月 がつ 、岸田 きしだ 辰 たつ 彌 わたる の弟子 でし 、白井 しらい 鐵造 てつぞう がアメリカ、ヨーロッパへ旅立 たびだ った。アメリカではミュージカルの名作 めいさく を観 み る機会 きかい に恵 めぐ まれた。また、当時 とうじ のパリはレヴュー全盛 ぜんせい 時代 じだい で、フランス語 ふらんすご の勉強 べんきょう をしながら劇場 げきじょう に通 とお った。一 いち 年 ねん ほどの滞在 たいざい を終 お えて、昭和 しょうわ 5年 ねん (1930年 ねん )5月 がつ に帰路 きろ についた。
帰朝 きちょう 第 だい 1作 さく は『パリゼット』であった。それはタップダンス、ラインダンス、シャンソン、そして絢爛 けんらん 豪華 ごうか な衣装 いしょう や舞台 ぶたい 装置 そうち 、照明 しょうめい 、音楽 おんがく とが相 あい まって本場 ほんば のレヴューに劣 おと らない海外 かいがい 視察 しさつ の成果 せいか が結集 けっしゅう された作品 さくひん であった。主題歌 しゅだいか の「すみれの花 はな 咲 さ く頃 ころ 」「おお宝塚 たからづか 」は外国 がいこく の曲 きょく に白井 しらい 鐵造 てつぞう が歌詞 かし をつけたものだが、観客 かんきゃく の心 しん に残 のこ り、今 いま でも宝塚 たからづか を代表 だいひょう とする歌 うた となっている。その後 ご 『セニョリータ』『ローズ・パリ』『サルタンバンク』『ブーケ・ダムール』『巴里 ぱり ニューヨーク』とつづき、白井 しらい レヴューの頂点 ちょうてん ともいうべき『花 はな 詩集 ししゅう 』にいたるのである。以後 いご 、つぎつぎとレヴューが上演 じょうえん され、レヴュー黄金 おうごん 時代 じだい が築 きず かれたのであった。岸田 きしだ 辰 たつ 彌 わたる によって日本 にっぽん に紹介 しょうかい されたレヴューは、白井 しらい 鐵造 てつぞう によって完成 かんせい をみたのである。
宝塚 たからづか 新 しん 温泉 おんせん の客寄 きゃくよ せとして発足 ほっそく した宝塚 たからづか 少女 しょうじょ 歌劇 かげき であったが、小林 こばやし 一三 かずみ の「新 あたら しい国民 こくみん 劇 げき の創造 そうぞう 」の理想 りそう のもとに、日本 にっぽん 劇壇 げきだん のひとつの分野 ぶんや が開拓 かいたく されたのであった。そして、多 おお くの作家 さっか 、演者 えんじゃ たちによって宝塚 たからづか ならではの舞台 ぶたい 芸術 げいじゅつ が完成 かんせい されていき、戦前 せんぜん における関西 かんさい 文化 ぶんか の新 あたら しい情報 じょうほう 発信 はっしん 基地 きち となった。また、日本 にっぽん のショービジネスの最先端 さいせんたん を歩 あゆ みつづけ日本 にっぽん 演劇 えんげき の特異 とくい な存在 そんざい として認 みと められたのである。
絵葉書 えはがき 『(香 こう 櫨 はぜのき 園 えん 浜 はま 海水浴 かいすいよく 場 じょう )東 ひがし 望楼 ぼうろう ヨリ見 み タル全景 ぜんけい 』
阪神 はんしん 間 あいだ の地理 ちり について尋 たず ねてみたり、教 おし えたりするとき「道路 どうろ の浜 はま 側 がわ 」「道路 どうろ の山側 やまがわ 」という表現 ひょうげん がよく使 つか われる。海 うみ と山 やま が近接 きんせつ する地形 ちけい は手軽 てがる にスポーツとレジャーが楽 たの しめる格好 かっこう の舞台 ぶたい となり、阪神 はんしん 間 あいだ ではまず、尼崎 あまがさき と境 さかい を接 せっ する武庫川 むこがわ 河口 かこう の砂州 さす から西宮 にしのみや 、芦屋 あしや へと続 つづ く海岸 かいがん には海水浴 かいすいよく 場 じょう が開 ひら かれた。8キロにも及 およ ぶ遠浅 とおあさ で白砂青松 はくさせいしょう の波 なみ 静 しず かな海岸 かいがん 線 せん は、明治 めいじ 初期 しょき よりイワシの地曳 じび き網 あみ 漁 りょう に最適 さいてき な漁場 ぎょじょう であったが、明治 めいじ 38年 ねん (1905年 ねん )の精道 せいどう 村 むら 打出 うちで を皮切 かわき りに、香 こう 櫨 はぜのき 園 えん 、甲子園浜 こうしえんはま などに海水浴 かいすいよく 場 じょう が次々 つぎつぎ と開設 かいせつ される。なかでも打出 うちで 海水浴 かいすいよく 場 じょう は、南海 なんかい 沿線 えんせん ・堺 さかい の浜寺 はまでら 海水浴 かいすいよく 場 じょう とともに「北 きた の打出 うちで 、南 みなみ の浜 はま 側 がわ 」として未曾有 みぞう のにぎわいをみせていた。
香 こう 櫨 はぜのき 園 えん 、甲子園 こうしえん 、苦楽 くらく 園 えん 、甲 きのえ 陽 よう 園 えん 、と阪神 はんしん 間 あいだ には「園 えん 」と呼 よ ばれる地名 ちめい が現在 げんざい もいくつか残 のこ っている。海水浴 かいすいよく 場 じょう ・遊 ゆう 園地 えんち としての香 こう 櫨 はぜのき 園 えん 、ラジウム温泉 おんせん ・ホテルが立 た ち並 なら ぶ苦楽 くらく 園 えん 、温泉 おんせん ・歌舞 かぶ 演劇 えんげき 場 じょう ・東亜 とうあ キネマ映画 えいが 撮影 さつえい 所 しょ が併設 へいせつ された甲 きのえ 陽 よう 園 えん など、その発端 ほったん はいずれも郊外 こうがい の余暇 よか ・保養 ほよう 施設 しせつ として出発 しゅっぱつ したものである。
鳴尾 なるお 百 ひゃく 花園 はなぞの ・武庫川 むこがわ 遊園 ゆうえん [ 編集 へんしゅう ]
阪神 はんしん 間 あいだ 沿線 えんせん に開設 かいせつ されたアミューズメント施設 しせつ のさきがけとなったのは、明治 めいじ 38年 ねん (1905年 ねん )、辰 たつ 馬 ば 半 はん 右 みぎ 衛門 えもん が武庫川 むこがわ 鉄橋 てっきょう の西南 せいなん に経営 けいえい した「鳴尾 なるお 百 ひゃく 花園 はなぞの 」である。のちに阪神電鉄 はんしんでんてつ が買収 ばいしゅう し、都会 とかい の児童 じどう に自然 しぜん と親 した しむ機会 きかい を提供 ていきょう する郊外 こうがい 学舎 がくしゃ 「武庫川 むこがわ 学園 がくえん 」に改 あらた める。さらに川筋 かわすじ に面 めん して千 せん 本 ほん もの桜 さくら を植樹 しょくじゅ 「武庫川 むこがわ 遊園 ゆうえん 」を開設 かいせつ した。春 はる には花見 はなみ を楽 たの しむ家族 かぞく 連 づ れや団体 だんたい 客 きゃく で賑 にぎ わった。また、当時 とうじ 、鳴尾 なるお 名物 めいぶつ であったイチゴ狩 か り、潮干狩 しおひが り、蛍狩 ほたるが り、月見 つきみ など、季 き 節 ぶし ごとの行楽 こうらく を広 ひろ く宣伝 せんでん 、多 おお くの遊客 ゆうかく を集 あつ めた。
香 こう 櫨 はぜのき 園 えん 遊 ゆう 園地 えんち のウォーターシュート
六甲 ろっこう 山 さん の麓 ふもと では「香 こう 櫨 はぜのき 園 えん 」の例 れい が早 はや い。夙川 しゅくがわ の西 にし に広 ひろ がる一 いち 万 まん 坪 つぼ ほどの丘陵 きゅうりょう 地 ち を、大阪 おおさか の砂糖 さとう 商 しょう 、香野 こうの 蔵 ぞう 治 ち と株 かぶ 仲買人 なかがいにん 、櫨 はぜのき 山 やま 慶 けい 次 じ 郎 ろう が借 か り受 う け、動物 どうぶつ 舎 しゃ や奏楽 そうがく 堂 どう 、グラウンドや博物館 はくぶつかん などを建設 けんせつ 、内 うち 澱 おり 池 ち に落 お ちるウォーターシュート、曙 あけぼの 池 ち に面 めん するように宿泊 しゅくはく 施設 しせつ 「エビス・ホテル」を建設 けんせつ した。乗客 じょうきゃく の増加 ぞうか をねらう阪神電鉄 はんしんでんてつ から、資金 しきん 提供 ていきょう と新駅 しんえき (香 こう 櫨 はぜのき 園 その 駅 えき )設置 せっち という援助 えんじょ を受 う けて、明治 めいじ 40年 ねん (1907年 ねん )4月 がつ に開園 かいえん した。名称 めいしょう は二 に 人 にん の創業 そうぎょう 者 しゃ の姓 せい から一文字 ひともじ ずつとったものと伝 つた える。
名物 めいぶつ は、当時 とうじ 、民営 みんえい としては国内 こくない 最大 さいだい 規模 きぼ の動物 どうぶつ 園 えん である。「千 せん 匹 ひき 猿 ざる 」と呼 よ ばれた猿 さる 舎 しゃ 、オランウータンや大蛇 おろち 、白熊 しろくま や駝鳥 だちょう 、象 ぞう やライオンといった珍 めずら しい鳥獣 ちょうじゅう を集 あつ めていた。博物館 はくぶつかん では、台湾 たいわん の山地 さんち に住 す む少数 しょうすう 民族 みんぞく の展覧 てんらん 会 かい 、浅草 あさくさ で評判 ひょうばん をとった「珍 ちん 世界 せかい 」と題 だい する「ゲテモノ」を並 なら べた展示 てんじ など、興味 きょうみ 本位 ほんい の企画 きかく が用意 ようい された。催 もよお し物 もの もあり、運動 うんどう 場 じょう では自転車 じてんしゃ 競走 きょうそう 、運動会 うんどうかい 、凧 たこ 揚 あ げ、模型 もけい 飛行機 ひこうき 大会 たいかい などがおこなわれた。また、明治 めいじ 43年 ねん (1910年 ねん )には、早稲田 わせだ とシカゴ のチームを招聘 しょうへい し、関西 かんさい で最初 さいしょ の日米 にちべい 野球 やきゅう が開催 かいさい されている。しかし、香 こう 櫨 はぜのき 園 えん の寿命 じゅみょう は短 みじか く、大正 たいしょう 2年 ねん (1913年 ねん )、外国 がいこく 人 じん 向 む けの住宅 じゅうたく 地 ち を開発 かいはつ しようとした英国 えいこく 系 けい の企業 きぎょう が土地 とち を買収 ばいしゅう した。継続 けいぞく を要望 ようぼう する声 こえ も強 つよ かったが、やむを得 え ず廃園 はいえん にいたった。動物 どうぶつ たちは箕面公園 みのおこうえん 内 うち の動物 どうぶつ 園 えん に、奏楽 そうがく 堂 どう など主 おも だった施設 しせつ は「香 こう 櫨 はぜのき 園 えん 海水浴 かいすいよく 場 じょう 」に移 うつ されている。
『甲 きのえ 陽 よう 園 えん 全景 ぜんけい 図 ず 』
苦楽 くらく 園 えん は、明治 めいじ 39年 ねん (1906年 ねん )、鉱泉 こうせん が湧出 ゆうしゅつ したのを契機 けいき に注目 ちゅうもく された温泉 おんせん リゾートである。しかし交通 こうつう の便 びん があまりに悪 わる く、周辺 しゅうへん の開発 かいはつ は遅 おく れた。明治 めいじ 44年 ねん (1911年 ねん )、この地 ち に惚 ほ れ込 こ んだ中村 なかむら 伊三郎 いさぶろう が土地 とち を買収 ばいしゅう 、道路 どうろ の拡幅 かくふく や上水道 じょうすいどう をひいて開発 かいはつ に着手 ちゃくしゅ する。大正 たいしょう 2年 ねん (1913年 ねん )にはラジウム温泉 おんせん も発見 はっけん され、湯治 とうじ 客 きゃく や遊客 ゆうかく は阪神 はんしん の香 こう 櫨 はぜのき 園 その 駅 えき や打出 うちいで 駅 えき から人力車 じんりきしゃ や馬車 ばしゃ で往還 おうかん した。
一方 いっぽう 、甲山 こうざん の南 みなみ に位置 いち する甲 きのえ 陽 よう 園 えん は、大正 たいしょう 7年 ねん (1918年 ねん )、本庄 ほんじょう 京 きょう 三郎 さぶろう が中心 ちゅうしん となって設立 せつりつ した甲 きのえ 陽 よう 土地 とち 株式会社 かぶしきがいしゃ の手 て によって開発 かいはつ がはじまる。御手洗 みたらい 川 がわ に沿 そ って、幅員 ふくいん 三 さん 間 あいだ 、延長 えんちょう 12キロメートルの道路 どうろ を計画 けいかく するとともに、上水道 じょうすいどう 、電灯 でんとう の設備 せつび を確保 かくほ する。またクラブハウスや温泉 おんせん 、旅館 りょかん などを設置 せっち 、各種 かくしゅ の設備 せつび を整 ととの えたことで、大阪 おおさか や神戸 こうべ の有力 ゆうりょく 者 しゃ たちが相次 あいつ いで別荘 べっそう を構 かま え、大 おお いに発展 はってん をみた。遊園 ゆうえん には、高速 こうそく 回転 かいてん する遊具 ゆうぐ 「サークリングウェーブ」や滑 すべ り台 だい などが置 お かれた。このグラウンドに面 めん して甲 きのえ 陽 よう 劇場 げきじょう というシアターがあった。その用地 ようち は、後 のち に東亜 とうあ キネマの撮影 さつえい 所 しょ に転 てん じている。また「つる家 か 」や「はり半 はん 」といった一流 いちりゅう 料亭 りょうてい も営業 えいぎょう をはじめた。
もっとも甲 きのえ 陽 よう 園 えん ・苦楽 くらく 園 えん ともにレクリエーションの場 ば としては、長続 ながつづ きはせず、阪急 はんきゅう の箕面 みのお ・宝塚 たからづか 、阪神 はんしん の甲子園 こうしえん ・鳴尾 なるお など、より交通 こうつう の便 びん の良 よ い場所 ばしょ に出現 しゅつげん した近代 きんだい 的 てき な遊 ゆう 園地 えんち に客 きゃく を奪 うば われる。阪急電鉄 はんきゅうでんてつ が山手 やまて に向 む けて支線 しせん (阪急 はんきゅう 甲陽線 こうようせん )を伸 の ばし、交通 こうつう の便 びん が幾分 いくぶん 改善 かいぜん されてからは、ともに緑 みどり 豊 ゆた かな住宅 じゅうたく 地 ち として再 さい 評価 ひょうか されるようになった。
大正 たいしょう 11年 ねん (1922年 ねん )、武庫川 むこがわ の治水 ちすい 、堤防 ていぼう 改修 かいしゅう 工事 こうじ に際 さい して、阪神電鉄 はんしんでんてつ は事業 じぎょう 費 ひ を負担 ふたん する代 か わりに、埋 う め立 た てられた支流 しりゅう の枝川 えだがわ 、申 さる 川 がわ の廃 はい 河川 かせん 跡 あと を入手 にゅうしゅ する。阪神電鉄 はんしんでんてつ は、以前 いぜん 、鳴尾浜 なるおはま で進 すす めていた運動 うんどう 施設 しせつ 整備 せいび などの事業 じぎょう を、この新 あたら しく取得 しゅとく した用地 ようち で展開 てんかい 、かねて念願 ねんがん であったアメリカ流 りゅう のリゾート都市 とし の建設 けんせつ に着手 ちゃくしゅ する。新 しん 経営 けいえい 地 ち は、その年 とし 暦 れき にちなんで「甲子園 こうしえん 」と名付 なづ けられた。
まず、手 て はじめに銀 ぎん 傘 かさ を備 そな える本格 ほんかく 的 てき な野球 やきゅう 場 じょう が開設 かいせつ された。野球 やきゅう というスポーツが大衆 たいしゅう にまで普及 ふきゅう していなかった当時 とうじ 、これほど大型 おおがた の観客 かんきゃく 席 せき を有 ゆう するスタジアムの建設 けんせつ を実現 じつげん させたのは大 だい 英断 えいだん であった。やがて、テニスコート、陸上 りくじょう 競技 きょうぎ 場 じょう 、プールなど数 すう 多 おお くのスポーツ施設 しせつ 群 ぐん 、海水浴 かいすいよく 場 じょう 、遊 ゆう 園地 えんち 、ホテルなどが順次 じゅんじ 、整備 せいび され、一大 いちだい アミューズメントセンターが出現 しゅつげん する。
遊 ゆう 園地 えんち の事業 じぎょう は、やや遅 おく れて、昭和 しょうわ に入 はい ってから着手 ちゃくしゅ された。昭和 しょうわ 3年 ねん (1928年 ねん )9月 がつ 、甲子園 こうしえん 経営 けいえい 地 ち をひろく宣伝 せんでん する目的 もくてき から、阪神電鉄 はんしんでんてつ は、旧 きゅう 枝川 えだかわ の流 りゅう 路 ろ 跡 あと 一帯 いったい で「御 ご 大典 たいてん 記念 きねん 国産 こくさん 振興 しんこう 阪神 はんしん 大 だい 博覧 はくらん 会 かい 」を開催 かいさい 、細長 ほそなが い会場 かいじょう 内 ない に地方 ちほう 芸能 げいのう 館 かん 、展示 てんじ 館 かん 、物産 ぶっさん 館 かん などが特設 とくせつ された。この時 とき 、設 もう けられたパビリオンのうち「大 だい 演芸 えんげい 館 かん 」「汐 しお 温 あつし 」を会期 かいき が終了 しゅうりょう した後 のち も保存 ほぞん 、模様替 もようが えをして、翌年 よくねん 「甲子園 こうしえん 娯楽 ごらく 場 じょう 」の名 な で恒常 こうじょう 的 てき な営業 えいぎょう をはじめる。これが甲子園 こうしえん における遊 ゆう 園地 えんち 事業 じぎょう の嚆矢 こうし である。
「甲子園 こうしえん 娯楽 ごらく 場 じょう 」は、飛行 ひこう 塔 とう や子供 こども 用 よう の汽車 きしゃ など遊具 ゆうぐ の充実 じゅうじつ を重 かさ ね、敷地 しきち も三 さん 万 まん 坪 つぼ にまで拡張 かくちょう される。昭和 しょうわ 7年 ねん (1932年 ねん )に「阪神 はんしん パーク 」と改称 かいしょう 、動物 どうぶつ 園 えん と遊 ゆう 園地 えんち 「汐 しお 温 あつし 」と演芸 えんげい 場 じょう からなる総合 そうごう レジャーランドとなる。なかでも人気 にんき を集 あつ めたのが動物 どうぶつ 園 えん である。ここでは柵 しがらみ の代用 だいよう に堀 ほり で動物 どうぶつ 舎 しゃ を囲 かこ む、ドイツのハーゲンベックが創案 そうあん した新 あたら しい展示 てんじ 手法 しゅほう を全面 ぜんめん 的 てき に採択 さいたく した。島 しま の中央 ちゅうおう に猿 さる を放 はな し飼 が いとする「お猿島 さしま 」の趣向 しゅこう 、遊泳 ゆうえい する姿 すがた を見 み せる「ペンギンの海 うみ 」、坂 さか を登 のぼ る習性 しゅうせい を利用 りよう した「山羊 やぎ の峰 みね 」など、一種 いっしゅ の生態 せいたい 展示 てんじ が試 こころ みられていた。当時 とうじ としては、大胆 だいたん かつ画期的 かっきてき な展示 てんじ として、全国 ぜんこく 的 てき に注目 ちゅうもく された。また、芸 げい を教 おし え込 こ んだ動物 どうぶつ を中心 ちゅうしん に「動物 どうぶつ サーカス団 だん 」と称 しょう する移動 いどう 動物 どうぶつ 園 えん を編成 へんせい 、開園 かいえん の年 とし から全国 ぜんこく を巡業 じゅんぎょう した。
昭和 しょうわ 10年 ねん (1935年 ねん )、隣接 りんせつ する海水浴 かいすいよく 場 じょう の用地 ようち 内 ない に「水族館 すいぞくかん 」が建設 けんせつ される。従前 じゅうぜん の薄暗 うすぐら く洞窟 どうくつ のような水族館 すいぞくかん の姿 すがた を払拭 ふっしょく すべく「明 あか るく愉快 ゆかい な水族館 すいぞくかん 」を目標 もくひょう に、工夫 くふう が凝 こ らされた。頭 あたま の上 うえ に泳 およ ぐ鯉 こい を見 み せる展示 てんじ 、ベルギーから板硝子 いたがらす を取 と り寄 よ せて建設 けんせつ した日本一 にっぽんいち の巨大 きょだい 水槽 すいそう など、話題 わだい 性 せい のある試 こころ みが展開 てんかい された。日本 にっぽん で初 はじ めて鯨 くじら の飼育 しいく 展示 てんじ を試 こころ みたことでも知 し られている。教育 きょういく 目的 もくてき よりも楽 たの しさを提供 ていきょう することに重 おも きを置 お く、レジャーランド型 がた の水族館 すいぞくかん であった。
阪神 はんしん 間 あいだ の背後 はいご に連 つら なる六甲山 ろっこうざん 系 けい の山々 やまやま は、江戸 えど 時代 じだい には近在 きんざい の村 むら 々の、下草 したくさ を刈 か ったり薪 たきぎ や山 やま 草 くさ を採 と ったりする入会 にゅうかい 地域 ちいき で、長 なが い間 あいだ 農民 のうみん の生産 せいさん や生活 せいかつ を支 ささ えてきた。しかし、明治 めいじ 初期 しょき にはかなり荒廃 こうはい が進 すす み、後 ご の植物 しょくぶつ 学者 がくしゃ 、牧野 まきの 富太郎 とみたろう の回想 かいそう では「はじめは雪 ゆき が積 つ もっているのかと思 おも った」ほどのはげ山 やま だったという。ところが、慶応 けいおう 3年 ねん (1868年 ねん )の開港 かいこう 以後 いご 来 らい 神 かみ した外国 がいこく 人 じん たちには、狩猟 しゅりょう や登山 とざん など格好 かっこう のスポーツと娯楽 ごらく の場 ば であった。また、アメリカ人 じん 宣教師 せんきょうし の名 な を記念 きねん してギューリキマイマイ(六甲 ろっこう 山系 さんけい に生息 せいそく する大型 おおがた のカタツムリ)が発表 はっぴょう されたように、自然 しぜん 科学 かがく などの研究 けんきゅう 対象 たいしょう でもあった。神戸 こうべ 在留 ざいりゅう の欧米 おうべい 人 じん ではイギリス人 じん が最 もっと も多 おお かったため、阪神 はんしん 間 あいだ の経済 けいざい ・技術 ぎじゅつ をはじめ、スポーツや娯楽 ごらく に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたのもイギリス人 じん であった。
「六甲 ろっこう 山上 さんじょう 外人 がいじん の避暑 ひしょ (武庫 むこ 郡 ぐん )」(『日本 にっぽん 写真 しゃしん 帖 じょう 』1912年 ねん )
記念 きねん 碑 ひ 台 だい のグルーム記念 きねん 碑 ひ
市街地 しがいち に近 ちか く夏場 なつば の気温 きおん が低 ひく い六甲山 ろっこうざん が、避暑 ひしょ 地 ち にふさわしいと考 かんが えたイギリス人 じん A・Hグルーム は明治 めいじ 28年 ねん (1895年 ねん )、山上 さんじょう の西端 せいたん の三 さん 国 こく 池 ち のほとりに和洋折衷 わようせっちゅう の別荘 べっそう を建 た て、友人 ゆうじん たちにも盛 さか んに宣伝 せんでん したことから、六甲山 ろっこうざん がまず外国 がいこく 人 じん の別荘 べっそう 地 ち として開 ひら かれるようになる。グルームが残 のこ したアルバムからは、外国 がいこく 人 じん たちが、夏 なつ はゴルフ や三 さん 国 こく 池 ち での水泳 すいえい 、秋 あき には「マッシュルーム・ピクニック」と呼 よ ぶ松茸 まつたけ 狩 か りや、冬 ふゆ には登山 とざん やスケート など、六甲 ろっこう 山 さん の四季 しき 折々 おりおり を楽 たの しんだ様子 ようす がうかがえる。また、彼 かれ は山 やま 全体 ぜんたい を自分 じぶん の庭 にわ のように愛 あい し、道路 どうろ の整備 せいび や砂防 さぼう 植林 しょくりん などにも努 つと めた。
明治 めいじ 36年 ねん (1903年 ねん )に日本 にっぽん 最初 さいしょ のゴルフ場 じょう 「神戸 こうべ ゴルフ倶楽部 くらぶ 」が創設 そうせつ された。しかし、日本人 にっぽんじん が実際 じっさい にプレーを楽 たの しむ姿 すがた が増 ふ えるのは大正 たいしょう 期 き に入 はい ってからである。六甲 ろっこう 山上 さんじょう の同 どう クラブは、毎年 まいとし 冬期 とうき にコースを閉 と じるため、冬場 ふゆば もゴルフを楽 たの しみたいW・J・ロビンソンらは、グルームが長男 ちょうなん 名義 めいぎ で所有 しょゆう していた横 よこ 屋 や の土地 とち (現在 げんざい の東灘 ひがしなだ 区 く 内 うち )に明治 めいじ 38年 ねん (1905年 ねん )頃 ごろ に横屋 よこや ゴルフ・アソシエーション を開 ひら いた。ここが閉鎖 へいさ された翌年 よくねん の大正 たいしょう 3年 ねん (1914年 ねん )には、競馬 けいば 場 じょう の跡地 あとち に鳴尾 なるお ゴルフ・アソシエーション(現在 げんざい の西宮 にしのみや 市内 しない )を創立 そうりつ する。
当時 とうじ 日本人 にっぽんじん で、日常 にちじょう 的 てき にゴルフを楽 たの しむことができたのは、神戸 こうべ や大阪 おおさか などに住 す む裕福 ゆうふく な人々 ひとびと とその家族 かぞく がほとんどで、庶民 しょみん の生活 せいかつ とはかけ離 はな れたものだった。しかし、一方 いっぽう ではキャディ をしていた子供 こども たちのなかから、神戸 こうべ ゴルフ倶楽部 くらぶ 出身 しゅっしん の宮本 みやもと 留吉 とめきち や中上 なかうえ 数 すう 一 いち 、横屋 よこや のクラブからは福井 ふくい 覚 さとし 次郎 じろう といった、のちの日本人 にっぽんじん プロゴルファーの草分 くさわ けが誕生 たんじょう している。宮本 みやもと 留吉 とめきち の回想 かいそう では「誰 だれ に聞 き くともなく、一番 いちばん 偉 えら い人 ひと がグルームさん、ゴルフのいちばん上手 じょうず な人 ひと がドーントさん、それからワレンさん」と認 みと めていたという。神戸 こうべ ゴルフ倶楽部 くらぶ の会長 かいちょう を務 つと めたH・E・ドーントやJ・P・ワレンは、登山 とざん 愛好 あいこう 家 か でもあった。
テニス はゴルフとともにモダンなスポーツのひとつとして阪神 はんしん 間 あいだ の人々 ひとびと に人気 にんき があった。大正 たいしょう 15年 ねん (1926年 ねん )、甲子園 こうしえん 庭球 ていきゅう 場 じょう として、30面 めん を備 そな えたコートが完成 かんせい し、甲子園 こうしえん ローンテニス倶楽部 くらぶ が発足 ほっそく した。4千 せん 人 にん を収容 しゅうよう できる木造 もくぞう スタンドを備 そな えたセンターコートをもち、そこでは、数々 かずかず の国際 こくさい 試合 しあい が開 ひら かれた。年々 ねんねん 増加 ぞうか するテニス人口 じんこう に応 こた えるため、昭和 しょうわ 12年 ねん (1937年 ねん )には甲子園浜 こうしえんはま に移転 いてん し、100面 めん のコートと庭球 ていきゅう 会館 かいかん をもつ「甲子園 こうしえん 国際 こくさい 庭球 ていきゅう 倶楽部 くらぶ 」が誕生 たんじょう した。会館 かいかん は、食堂 しょくどう 、喫茶 きっさ 室 しつ 、図書 としょ 室 しつ 、医務 いむ 室 しつ 、社交 しゃこう 室 しつ などはもとより、シャワー、浴室 よくしつ 、ロッカールームなどを完備 かんび するという本格 ほんかく 的 てき なもので、海外 かいがい 派遣 はけん 選手 せんしゅ や海外 かいがい からの招聘 しょうへい 選手 せんしゅ のための宿泊 しゅくはく 施設 しせつ も整 ととの っていた。これら倶楽部 くらぶ の運営 うんえい は、当時 とうじ 大阪瓦斯 おおさかがす 社長 しゃちょう であった片岡 かたおか 直方 なおかた が会長 かいちょう となって指導 しどう し、経営 けいえい にあたった。日 にち 独 どく 伊 い の三 さん 国 こく による庭球 ていきゅう 大会 たいかい の開催 かいさい をはじめ、早朝 そうちょう の出勤 しゅっきん 時間 じかん 前 まえ にコートを開放 かいほう し「早起 はやお きテニス」を開催 かいさい 、社会 しゃかい 人 じん のテニスの普及 ふきゅう に貢献 こうけん した。
わが国 くに へ「近代 きんだい スポーツとしての登山 とざん 」を伝 つた えたのも、開港 かいこう 後 ご 、神戸 こうべ へやってきた外国 がいこく 人 じん たちだった。なかでも、明治 めいじ 21年 ねん (1888年 ねん )に神戸 こうべ の英国 えいこく 教会 きょうかい の牧師 ぼくし として来日 らいにち したW・ウェストンは、当時 とうじ 日本人 にっぽんじん 自身 じしん にすら広 ひろ く知 し られていなかった中部 ちゅうぶ 山岳 さんがく 地帯 ちたい の山々 やまやま を登 のぼ り、その著書 ちょしょ で「日本 にっぽん アルプス 」を世界 せかい に紹介 しょうかい するなど、近代 きんだい 登山 とざん の普及 ふきゅう に努 つと めた。同 どう 38年 ねん (1905年 ねん )には、ウェストンのすすめで日本 にっぽん 山岳 さんがく 会 かい が結成 けっせい され、神戸 こうべ でも日本 にっぽん 山岳 さんがく 会員 かいいん の塚本 つかもと 永 えい 尭 たかし らによって、同 どう 43年 ねん (1910年 ねん )、神戸 こうべ 草鞋 わらじ 会 かい が創立 そうりつ された。同 どう 会 かい は、大正 たいしょう 2年 ねん に神戸 こうべ 徒歩 とほ 会 かい と改称 かいしょう し、機関 きかん 紙 し 『ペデスツリヤン』を発行 はっこう するなど活発 かっぱつ な活動 かつどう を展開 てんかい した。大正 たいしょう 10年 ねん (1921年 ねん )の『神戸 こうべ 又新 またしん 日報 にっぽう 』に、ワレンの15年 ねん にわたる再度山 ふたたびさん への毎日 まいにち 早朝 そうちょう 登山 とざん が紹介 しょうかい されていることからも明 あき らかなように、六甲 ろっこう 山系 さんけい への登山 とざん もまた、外国 がいこく 人 じん から大 おお きな影響 えいきょう を受 う けたものだった。大正 たいしょう 期 き にはすでに100以上 いじょう の登山 とざん 団体 だんたい が結成 けっせい され、同 どう 12年 ねん (1923年 ねん )に発足 ほっそく した神戸 こうべ 愛山 あいざん 協会 きょうかい によって、背山 はいざん 登山 とざん 団体 だんたい 相互 そうご の連携 れんけい もはかられ、背山 はいざん 愛護 あいご の社会 しゃかい 的 てき な活動 かつどう も盛 さか んに行 おこな われる。一部 いちぶ の人々 ひとびと の娯楽 ごらく だったゴルフに比 くら べ、毎日 まいにち 早朝 そうちょう 登山 とざん などの山歩 やまある き(山登 やまのぼ り)は、健康 けんこう と修養 しゅうよう のために広 ひろ く受 う け入 い れられ、大正 たいしょう から昭和 しょうわ 初期 しょき にかけて全盛期 ぜんせいき を迎 むか えた。昭和 しょうわ 9年 ねん (1934年 ねん )に、関西 かんさい 徒歩 とほ 会 かい (神戸 こうべ 徒歩 とほ 会 かい を改称 かいしょう )の直木 なおき 重一 しげかず 郎 ろう が編纂 へんさん した『六甲 ろっこう ―摩耶 まや ―再度 さいど 山路 やまじ 図 ず 』には、六甲 ろっこう の山々 やまやま を踏破 とうは し、知 し り尽 つ くした者 もの でなければ書 か くことのできないさまざまな情報 じょうほう が盛 も り込 こ まれている。
これらの山歩 やまある きを中心 ちゅうしん とする活動 かつどう の一方 いっぽう で、神戸 こうべ 徒歩 とほ 会 かい の藤木 ふじき 九三 くぞう らは、大正 たいしょう 13年 ねん (1924年 ねん )にロック・クライミング・クラブ を創設 そうせつ 。翌年 よくねん わが国 くに で初 はじ めての岩 いわ 登 のぼ りの指導 しどう 書 しょ 『岩 いわ 登 のぼ り術 じゅつ 』を発行 はっこう し、ロックガーデン (現在 げんざい の芦屋 あしや 市内 しない )などを開拓 かいたく した。
『INAKA』は、大正 たいしょう 4年 ねん (1915年 ねん )6月 がつ から同 どう 13年 ねん (1924年 ねん )6月 がつ にかけて、H・E・ドーントが編集 へんしゅう した登山 とざん とゴルフの機関 きかん 誌 し で、全 ぜん 18巻 かん 。旧 きゅう 外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち 内 ない の神戸 こうべ ヘラルド新聞 しんぶん 社 しゃ や東洋 とうよう 広告 こうこく 株式会社 かぶしきがいしゃ などから発行 はっこう された。ゴルフの名手 めいしゅ だったドーントは、当時 とうじ 「The Kobe Mountain Goats」という登山 とざん クラブのリーダーも兼 か ねていた。『INAKA』とは外国 がいこく 人 じん 居留 きょりゅう 地 ち 以外 いがい の地域 ちいき を指 さ し、副題 ふくだい が「REMINIS-CENCES OF ROKKOSAN AND OTHER ROCKS」であるように、六甲 ろっこう 山系 さんけい の山々 やまやま を中心 ちゅうしん に日本 にっぽん アルプスなどへの登山 とざん 記録 きろく や旅行 りょこう 記 き 、明治 めいじ 36年 ねん (1903年 ねん )創立 そうりつ の神戸 こうべ ゴルフ倶楽部 くらぶ の活動 かつどう 記録 きろく などが記 しる されており、開港 かいこう によって多 おお くの外国 がいこく 人 じん が来 らい 神 かみ し、市街地 しがいち 背後 はいご に六甲 ろっこう 山系 さんけい の山々 やまやま が連 つら なる地理 ちり 的 てき な条件 じょうけん に恵 めぐ まれた神戸 こうべ から、ゴルフや登山 とざん などの近代 きんだい スポーツが芽生 めば え、発達 はったつ していく様子 ようす を知 し ることができる。
しかし、発行 はっこう 部数 ぶすう が少 すく なかったことや、定価 ていか が五 ご 円 えん から七 なな 円 えん 五 ご 十 じゅう 銭 ぜに と非常 ひじょう に高価 こうか だったことから、わが国 くに にはほとんど残 のこ っていなかった(販売 はんばい の収益 しゅうえき はイギリスの慈善 じぜん 団体 だんたい などに寄付 きふ された)。平成 へいせい 6年 ねん (1994年 ねん )に神戸 こうべ 市 し が、クラブのメンバーだったイギリス人 じん の遺族 いぞく から13巻 かん 分 ぶん の寄贈 きぞう を受 う け、以前 いぜん に所蔵 しょぞう していた巻 まき と合 あ わせ、全 ぜん 18巻 かん がようやく揃 そろ った。
ドーントは明治 めいじ 27年 ねん (1894年 ねん )に、機械 きかい 油 ゆ の輸入 ゆにゅう などを手 て がけるアメリカ系 けい のバキューム・オイル会社 かいしゃ の神戸 こうべ 居留 きょりゅう 地 ち への進出 しんしゅつ にともない、来 らい 神 かみ したと思 おも われる。その後 ご 神戸 こうべ を離 はな れ、大正 たいしょう 13年 ねん (1924年 ねん )に日本 にっぽん を去 さ った。『INAKA』発行 はっこう 当時 とうじ は、山本通 やまもとどおり (現在 げんざい の中央 ちゅうおう 区 く )二 に 丁目 ちょうめ 十 じゅう 八 はち の三 さん に住居 じゅうきょ を構 かま え、旧 きゅう 居留 きょりゅう 地 ち 内 うち の明石 あかし 町 まち 三 さん 十 じゅう 八 はち 番 ばん (大正 たいしょう 11年 ねん (1922年 ねん )頃 ごろ から京町 きょうまち 七 なな 十 じゅう 二 に 番 ばん のクレセントビル内 ない へ)のオフィスに通 とお った。自宅 じたく は登山 とざん のための集合 しゅうごう 場所 ばしょ として、また、六甲 ろっこう 山上 さんじょう のゴルフコース近 ちか くの二 に 百 ひゃく 二 に 十 じゅう 二 に 番 ばん の別荘 べっそう は、登山 とざん やゴルフの会員 かいいん らの休憩 きゅうけい ・宿泊 しゅくはく に提供 ていきょう したという。現在 げんざい も、再度山 ふたたびさん 北東 ほくとう の尾根 おね ドーント・リッジにその名 な を残 のこ している。
グルームら外国 がいこく 人 じん によって開 ひら かれた六甲山 ろっこうざん は、昭和 しょうわ 期 き に入 はい り本格 ほんかく 的 てき に開発 かいはつ されるようになる。昭和 しょうわ 3年 ねん (1928年 ねん )に裏 うら 六甲 ろっこう ドライブウェイ が、翌年 よくねん に表 おもて 六甲 ろっこう ドライブウェイ が完成 かんせい して、六甲 ろっこう 山 さん をこえて南側 みなみがわ の市街地 しがいち と北側 きたがわ の有馬 ありま 温泉 おんせん や宝塚 たからづか 方面 ほうめん が結 むす ばれた。市街地 しがいち からバスが通 かよ いはじめると、六甲 ろっこう 山上 さんじょう への唯一 ゆいいつ の交通 こうつう 機関 きかん だったカゴ が姿 すがた を消 け す。昭和 しょうわ 6年 ねん (1931年 ねん )に六甲 ろっこう ロープウェー 、翌年 よくねん には六甲 ろっこう ケーブル が開通 かいつう 。山上 さんじょう には宿泊 しゅくはく 施設 しせつ や遊覧 ゆうらん 施設 しせつ が設 もう けられ、ロープウェーやケーブルなどを利用 りよう する登山 とざん 者 しゃ も増 ふ えて、戦前 せんぜん における六甲山 ろっこうざん の最盛 さいせい 期 き を迎 むか えた。かつて外国 がいこく 人 じん らがスケート をしたグルームの別荘 べっそう そばの三 さん 国 こく 池 ち は、多 おお くの人々 ひとびと が楽 たの しむスケート場 じょう となり、やはり外国 がいこく 人 じん からはじまり、神戸 こうべ 徒歩 とほ 会 かい などが広 ひろ めたスキーも盛 さか んにおこなわれた。
グルームの功績 こうせき を讃 たた えて明治 めいじ 45年 ねん (1912年 ねん )に建 た てられた「六甲 ろっこう 開祖 かいそ 之 の 碑 いしぶみ 」は『INAKA』や当時 とうじ の観光 かんこう パンフレットに掲載 けいさい されたように、六甲山 ろっこうさん への登山 とざん 者 しゃ のひとときの憩 いこ いの場所 ばしょ でもあった。しかし、排 はい 英 えい 思想 しそう の高 たか まった昭和 しょうわ 15年 ねん (1940年 ねん )11月に撤去 てっきょ される。六甲 ろっこう 山系 さんけい でのスポーツと娯楽 ごらく の展開 てんかい は、日本 にっぽん の近代 きんだい のあゆみを如実 にょじつ に反映 はんえい している。
新 あたら しいスポーツや娯楽 ごらく は、集客 しゅうきゃく 増員 ぞういん を狙 ねら った電鉄 でんてつ の営業 えいぎょう 戦略 せんりゃく ばかりでなく、神戸 こうべ に在住 ざいじゅう していた外国 がいこく 人 じん たちからもこの地域 ちいき にもたらされた。彼 かれ らは神戸 こうべ 周辺 しゅうへん の山河 さんが を「イナカ」と呼 よ び、クラブハウスを設立 せつりつ 、同名 どうめい の機関 きかん 誌 し 「INAKA」を出 だ しながら、阪神 はんしん 間 あいだ の背後 はいご に屏風 びょうぶ のように立 た つ六甲 ろっこう 山系 さんけい でゴルフやスケートやクリケットなどに興 きょう じ、競技 きょうぎ の紹介 しょうかい 、新 あら たな登山 とざん ルートの開拓 かいたく や岩 いわ 登 のぼ り、最短 さいたん 時間 じかん での踏破 とうは 記録 きろく への挑戦 ちょうせん を試 こころ みていた。そこには、季 き 節 ぶし ごとの花見 はなみ や行楽 こうらく 、山菜 さんさい 採 と り、霊峰 れいほう をめざす講中 こうじゅう 登山 とざん や修験 しゅげん 道 どう の山伏 やまぶし らによる修行 しゅぎょう 登山 とざん のような信仰 しんこう 登山 とざん にとどまらない、山岳 さんがく を庭園 ていえん 的 てき 視点 してん で捉 とら える、自然 しぜん への新 あたら しい触 ふ れ合 あ い方 かた や考 かんが え方 かた があった。そして出入 でい りする日本人 にっぽんじん は外国 がいこく 人 じん との交流 こうりゅう のなかで、近代 きんだい スポーツの楽 たの しみ方 かた や技術 ぎじゅつ 、マナー なども学 まな ぶことができた。西洋 せいよう 流 りゅう の登山 とざん は、六甲 ろっこう 山系 さんけい では日本 にっぽん の近代 きんだい 化 か を担 にな う青年 せいねん たちの体力 たいりょく 振興 しんこう と冒険 ぼうけん 精神 せいしん を鼓舞 こぶ するには最適 さいてき のスポーツであり、更 さら にケーブルカー、ロープウェーの発達 はったつ とともに軽 けい 装備 そうび のリュック、水筒 すいとう で気楽 きらく に登 のぼ る家族 かぞく 総出 そうで のレクリエーションへと大衆 たいしゅう 化 か していった。
郊外 こうがい としての阪神 はんしん 間 あいだ は「精神 せいしん の慰安 いあん 所 しょ 」であり、子弟 してい の教育 きょういく のみならず家族 かぞく の健康 けんこう な生活 せいかつ を保証 ほしょう する場 ば として澄明 ちょうめい な空気 くうき 、土地 とち 、水 みず に恵 めぐ まれた「山容 さんよう 水 すい 態 たい 」の地 ち であった。家族 かぞく 総出 そうで の遊 ゆう 園地 えんち での遊 あそ びや海水浴 かいすいよく 、博覧 はくらん 会 かい 見物 けんぶつ といった休日 きゅうじつ を過 す ごす家族 かぞく 像 ぞう の創出 そうしゅつ 、スポーツの健康 けんこう 的 てき なイメージ、レヴューの観賞 かんしょう やダンスホールでの社交 しゃこう といった新 あたら しいモードなど、明治 めいじ 末期 まっき から昭和 しょうわ 初期 しょき に展開 てんかい されたさまざまな娯楽 ごらく 施設 しせつ は「中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の楽園 らくえん 」(小林 こばやし 一三 かずみ )と提唱 ていしょう された。この地域 ちいき のグランドデザインの形成 けいせい 過程 かてい においてきわめて重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たしていたのである。
参照 さんしょう :([ 28] )
西宮 にしのみや 上ケ原 うえがはら キャンパス神戸女学院大学 こうべじょがくいんだいがく 文学 ぶんがく 館 かん
「スパニッシュ・スタイル」は当時 とうじ 、北日本 きたにっぽん を除 のぞ く全国 ぜんこく で流行 りゅうこう したが、とりわけ阪神 はんしん 間 あいだ で好 この まれ、多 おお くの作品 さくひん が生 う まれた。その最大 さいだい の特徴 とくちょう は外壁 がいへき と屋根 やね にあって、外壁 がいへき は白 しろ や淡 あわ いクリーム色 しょく などの明 あか るい色 いろ に塗 ぬ られ、屋根 やね は赤 あか やオレンジ色 しょく で、スパニッシュ瓦 かわら やS型 がた 瓦 かわら といった独特 どくとく の丸 まる みを帯 お びた瓦 かわら が葺 ふ かれる。その他 た スパニッシュ建築 けんちく によく用 もち いられる要素 ようそ には、シュロ やソテツ 、噴水 ふんすい や壁 かべ 泉 いずみ 、アーチ型 がた 開口 かいこう の玄関 げんかん ポーチや窓 まど 、鉄製 てつせい の小 しょう バルコニー や窓 まど の格子 こうし 、小 ちい さな孔 あな が並 なら んだ開口 かいこう 部 ぶ 、星 ほし 形 がた の装飾 そうしょく などが挙 あ げられるが、日本 にっぽん では屋根 やね と外壁 がいへき の二 ふた つの条件 じょうけん がそろっていれば、ほぼスパニッシュと考 かんが えてよい。
この様式 ようしき が日本 にっぽん に入 はい ってきたのは大正 たいしょう 時代 じだい で、名前 なまえ はスパニッシュだが、スペイン ではなくアメリカ の影響 えいきょう によるものであった。当時 とうじ 、アメリカではスペイン系 けい 移民 いみん の伝統 でんとう 的 てき な様式 ようしき として「(スパニッシュ・)ミッション」や「スパニッシュ・コロニアル」といった様式 ようしき が、かつてスペイン植民 しょくみん 地 ち だったフロリダ やアメリカ南西 なんせい 部 ぶ を中心 ちゅうしん にリバイバルしていた。特 とく に後者 こうしゃ は1925年 ねん に流行 りゅうこう のピークに達 たっ し、アメリカ全土 ぜんど で建 た てられたという。つまりスペインの民家 みんか をルーツとし、長 なが い年月 としつき を経 へ てアメリカで様式 ようしき としてリバイバルしたものが日本 にっぽん に伝 つた わったのである。ただし、日本 にっぽん に取 と り入 い れられた時 とき 、スパニッシュは日本 にっぽん のスパニッシュになる。例 たと えば、日本 にっぽん にスパニッシュ瓦 かわら が普及 ふきゅう する以前 いぜん には、日本 にっぽん 瓦 かわら やフランス 瓦 かわら が使 つか われることがあり、スパニッシュ瓦 かわら やS型 がた 瓦 かわら が普及 ふきゅう すると、日本人 にっぽんじん の好 この みに合 あ わせて赤 あか やオレンジ色 しょく だけではなく、黒 くろ 、銀 ぎん 、青 あお 、緑 みどり といった寒色 かんしょく 系 けい の色 いろ もつくられるようになった。つまり、アメリカのスパニッシュに忠実 ちゅうじつ に凝 こご れば凝 こご るほど、エキゾティックなものになるし、逆 ぎゃく にスパニッシュらしい装飾 そうしょく を抑 おさ えて、日本 にっぽん の風土 ふうど や日本人 にっぽんじん の好 この みに合 あ わせれば、落 お ち着 つ いた作品 さくひん となる。それが日本 にっぽん のスパニッシュ・スタイルの特徴 とくちょう である。
大正 たいしょう 11年 ねん 、スパニッシュ作品 さくひん 第 だい 一 いち 号 ごう が桜ヶ丘 さくらがおか 住宅 じゅうたく 改造 かいぞう 博覧 はくらん 会 かい (箕面 みのお 市 し )に出品 しゅっぴん された。その後 ご 大林 おおばやし 賢 けん 四郎 しろう 邸 てい 、大林 おおばやし 義雄 よしお 東京 とうきょう 別邸 べってい 、同 どう 本邸 ほんてい 洋館 ようかん のいずれもがスパニッシュで建 た てられている。特 とく に大林 おおばやし 義雄 よしお 本邸 ほんてい 洋館 ようかん (昭和 しょうわ 7年 ねん 、神戸 こうべ 市 し 東灘 ひがしなだ 区 く 、設計 せっけい =安井 やすい 武雄 たけお 、木村 きむら 得三郎 とくさぶろう )は日本 にっぽん のスパニッシュ建築 けんちく を代表 だいひょう する作品 さくひん となっている。
外国 がいこく 人 じん 建築 けんちく 家 か の存在 そんざい で特 とく に重要 じゅうよう なのはウィリアム・メレル・ヴォーリズ である。彼 かれ の作品 さくひん には日本人 にっぽんじん 建築 けんちく 家 か には出 だ せない本場 ほんば の雰囲気 ふんいき と力強 ちからづよ さがある。住宅 じゅうたく では、小寺 こでら 敬一 けいいち 邸 やしき (昭和 しょうわ 5年 ねん 、神戸 こうべ 市 し 東灘 ひがしなだ 区 く )が最 もっと も優 すぐ れている。ヴォーリズは多 おお くの学校 がっこう 建築 けんちく にもスパニッシュを採用 さいよう しており、代表 だいひょう 作 さく に関西学院 かんせいがくいん 上 うえ ヶ原 げん キャンパス(昭和 しょうわ 4年 ねん 、西宮 にしのみや 市 し )と神戸女学院 こうべじょがくいん (昭和 しょうわ 8年 ねん 、西宮 にしのみや 市 し )がある。特 とく に前者 ぜんしゃ では、かつてなかったスケールでスパニッシュ建築 けんちく 群 ぐん が計画 けいかく され、日本 にっぽん 離 ばな れした雰囲気 ふんいき を作 つく り出 だ している。その後 ご の阪神 はんしん 間 あいだ におけるスパニッシュ・スタイルの流行 りゅうこう にもたらした影響 えいきょう は計 はか り知 し れない。
当時 とうじ のスパニッシュ建築 けんちく は、東京 とうきょう ・横浜 よこはま 周辺 しゅうへん に三 さん 割 わり 強 きょう 、京阪神 けいはんしん 周辺 しゅうへん に五 ご 割 わり 強 きょう 、特 とく に阪神 はんしん 間 あいだ に約 やく 三 さん 割 わり が集中 しゅうちゅう している。密度 みつど からいうと関東 かんとう より関西 かんさい 、とりわけ阪神 はんしん 間 あいだ が多 おお い。そのせいか関東 かんとう のスパニッシュ建築 けんちく は、和風 わふう や他 た の洋風 ようふう 住宅 じゅうたく と一緒 いっしょ くたになってバラバラに分布 ぶんぷ しているのに、阪神 はんしん 間 あいだ ではよりまとまってスパニッシュの住宅 じゅうたく が存在 そんざい しており、落 お ち着 つ いた雰囲気 ふんいき が感 かん じられる。そして、阪神 はんしん 間 あいだ では、住 す む側 がわ にもスパニッシュに対 たい してこだわりがあったようである。小説 しょうせつ 家 か の菊池 きくち 幽芳 ゆうほう は、自邸 じてい (昭和 しょうわ 2年 ねん 、芦屋 あしや 市 し 、設計 せっけい =大林組 おおばやしぐみ 住宅 じゅうたく 部 ぶ )について、つぎのように述 の べている。
私 わたし が
南仏 なんふつ 、
或 あるい は
伊太利 いたりあ などを
旅行 りょこう して、いつも
心 しん を
惹 ひ かされるのは、
丘 おか の
上 うわ やスロープに
立 た つた、そして
恵 めぐ まれた
囲繞 いじょう された
住宅 じゅうたく の
美 び くしさである。あゝいふ
家 か に
住 す んだらと、どんなにそれに
憧憬 どうけい を
持 も つたかも
知 し れない。ところが
今度 こんど 私 わたし の
家 いえ の
立 た つた
辺 あたり は、どうやら
南仏 なんふつ の
モナコ 、
伊太利 いたりあ につゞく
リビエラ 沿岸 えんがん を
思 おも はせるやうな
趣 おもむき があり、
私 わたし 方 かた の
敷地 しきち は
奥行 おくゆき 六 ろく 十 じゅう 間 あいだ ほどのスロープで、
道路 どうろ 面 めん から
最高 さいこう 地点 ちてん まで
約 やく 百 ひゃく 尺 しゃく 高 たか く、そのスロープの
半 はん 以上 いじょう には
木 き 振 ふ の
面白 おもしろ い
松 まつ が
叢生 そうせい して
居 い るのである。そしてそれが
御 ご 誂 あつらえ 向 むこう に
南東 なんとう に
面 めん して
武庫 むこ 湾 わん を
俯瞰 ふかん しながら、
終日 しゅうじつ 太陽 たいよう を
浴 あ びて
居 い るといふ
地位 ちい にあるので、
衛生 えいせい 的 てき であると
同時 どうじ に、
道路 どうろ からの
見 み た
眼 め 、また
敷地 しきち からの
眺望 ちょうぼう 、
共 とも に
云 うん 分 ぶん がない。
晴 は れた
日 ひ には
大阪 おおさか 築港 ちっこう から
河内 かわうち 平野 へいや を
隔 へだ て、
葛城 かつらぎ 金 きむ 剛 つよし の
諸山 しょざん が
指 ゆび 顧の
間 あいだ に
見 み え、また
西 にし の
方 ほう には
淡路島 あわじしま が
甚 はなは だ
近 ちか くに
見 み えている
スパニッシュ建築 けんちく は、阪神 はんしん 間 あいだ の風景 ふうけい に調和 ちょうわ すると真剣 しんけん に考 かんが えられていたのである。事実 じじつ 、阪神 はんしん 間 あいだ に最 もっと も受 う け入 い れられ、多 おお くの作品 さくひん が建 た てられた。日本 にっぽん のスパニッシュ建築 けんちく を代表 だいひょう する作品 さくひん もこの地 ち に多 おお く生 う まれた。スパニッシュ・スタイルは当時 とうじ の阪神 はんしん 間 あいだ の文化 ぶんか を象徴 しょうちょう しているといえる。
近代 きんだい 和風 わふう 邸宅 ていたく の展開 てんかい と茶室 ちゃしつ [ 編集 へんしゅう ]
雅俗 がぞく 山荘 さんそう と茶室 ちゃしつ 「即 そく 庵 あん 」[ 注釈 ちゅうしゃく 5]
明治 めいじ 、大正 たいしょう 、昭和 しょうわ 戦前 せんぜん は、和風 わふう の邸宅 ていたく や山荘 さんそう 建築 けんちく の黄金 おうごん 期 き であった。富豪 ふごう 、文化 ぶんか 人 じん 、数奇者 すきしゃ たちが景勝 けいしょう の地 ち を求 もと めて建築 けんちく と造園 ぞうえん による普請 ふしん に精魂 せいこん をかたむけ造形 ぞうけい 美 び を競 きそ ったのであり、阪神 はんしん 地域 ちいき もまた京都 きょうと とならぶ檜舞台 ひのきぶたい となった。近代 きんだい 和風 わふう 邸宅 ていたく の美 び を高 たか め質 しつ を深 ふか めえたのは、まず豊 ゆた かな文化 ぶんか 的 てき 教養 きょうよう 、趣味 しゅみ 、感性 かんせい を備 そな えた施主 せしゅ と、優 すぐ れた大工 だいく 技術 ぎじゅつ および作 さく 庭 にわ 技能 ぎのう を保持 ほじ する棟梁 とうりょう との協力 きょうりょく によるものであり、この時期 じき 、大工 だいく 技術 ぎじゅつ も頂点 ちょうてん をきわめていた。
建築 けんちく 家 か の村野 むらの 藤吾 とうご は、東 ひがし の富豪 ふごう に対 たい して関西 かんさい は、控 ひか え目 め な佇 たたず まいを好 この むことを指摘 してき された。露 あらわ な自己 じこ 顕示 けんじ を好 この まないのが関西 かんさい の風土 ふうど であり、そういう風土 ふうど がおのずから数奇屋 すきや 風 ふう の建築 けんちく を発展 はってん させる土壌 どじょう を助成 じょせい したという。
これらの代表 だいひょう 的 てき な建築 けんちく は山口 やまぐち 吉郎 よしろう 兵衛 ひょうえ 邸 てい 、村山 むらやま 龍平 りゅうへい 邸 てい 、勝田 かつた 銀次 ぎんじ 郎 ろう 邸 てい 、小林 こばやし 一三 かずみ の雅俗 がぞく 山荘 さんそう 、村野 むらの 藤吾 とうご 邸 てい などがあげられる。
また、阪神 はんしん 間 あいだ では富裕 ふゆう な趣味 しゅみ 人 じん たちが、自分 じぶん の好 この みを反映 はんえい した茶席 ちゃせき を構 かま え、茶 ちゃ の湯 ゆ に親 した しんでいた。『阪急 はんきゅう 美術 びじゅつ 』誌 し に「新茶 しんちゃ 室 しつ めぐり」がはじまったのは、昭和 しょうわ 13年 ねん 第 だい 六 ろく 号 ごう のことだった。本誌 ほんし は、小林 こばやし 一三 かずみ の肝 きも 入 い りで昭和 しょうわ 12年 ねん に創刊 そうかん された蒐集 しゅうしゅう 家 か 向 む けの雑誌 ざっし で、当時 とうじ の阪神 はんしん 間 あいだ の人々 ひとびと が古 こ 美術 びじゅつ に寄 よ せる関心 かんしん や、数奇者 すきしゃ の有様 ありさま などをうかがう貴重 きちょう な史料 しりょう となっている[ 29] 。
阪急電鉄 はんきゅうでんてつ は、宝塚 たからづか 線 せん に沿 そ う池田 いけだ 室町 むろまち の住宅 じゅうたく 地 ち 経営 けいえい を明治 めいじ 43年 ねん に開始 かいし した。この住宅 じゅうたく 地 ち は、呉服 ごふく 神社 じんじゃ の境内 けいだい を囲 かこ む約 やく 33,000坪 つぼ の土地 とち を碁盤 ごばん 目 め 状 じょう として221区画 くかく に分割 ぶんかつ し、1区画 くかく は120坪 つぼ 程度 ていど を標準 ひょうじゅん とした。ここに木造 もくぞう 二 に 階 かい 建 だ てあるいは平屋 ひらや 建 だ て、建 た て坪 つぼ 20坪 つぼ 、延 の べ坪 つぼ 30坪 つぼ 前後 ぜんこう の主 しゅ として和風 わふう 住宅 じゅうたく が建築 けんちく された。
大正 たいしょう 10年 ねん に建 た てられた建築 けんちく 家 か 、日高 ひだか 胖 ゆたか の遺 のこ 邸 てい が、現在 げんざい 小山 こやま 邸 てい として伝 つた えられている。宝塚 たからづか 市 し 雲雀丘 ひばりがおか の山手 やまて 、樹木 じゅもく の緑 みどり 深 ふか いかなりの傾斜地 けいしゃち にあり、南東 なんとう 方向 ほうこう には大阪 おおさか 北郊 ほっこう の町 まち が遠望 えんぼう されるところである。
玄関 げんかん には小 しょう 壁 かべ のセセッション式 しき のレリーフや印象深 いんしょうぶか い玄関 げんかん 扉 とびら がみられる。内部 ないぶ は、各室 かくしつ の構成 こうせい とその独自 どくじ な表現 ひょうげん が隈 くま なく行 い き渡 わた っている。客室 きゃくしつ を中心 ちゅうしん として広 ひろ がる主要 しゅよう 部 ぶ は巧 たく みな空間 くうかん 構成 こうせい がなされ、南面 なんめん には床 ゆか 棚 だな を備 そな えた三 さん 畳 じょう の小 しょう 間 あいだ が高床 たかゆか に接続 せつぞく され、東 ひがし には床 ゆか を数 すう 段 だん 下 さ げて書斎 しょさい へと展開 てんかい している。それらが壁 かべ で分断 ぶんだん されることなく、一 ひと つに融合 ゆうごう した空間 くうかん となっており、自在 じざい でありながら完結 かんけつ した空間 くうかん をなし、総 そう じて近代 きんだい 数寄屋 すきや の造形 ぞうけい と語 かた られてきたものである。つまり自然 しぜん 界 かい 味 あじ を求 もと める和 わ の建築 けんちく 表現 ひょうげん を基調 きちょう として、加 くわ えて個性 こせい ある暖炉 だんろ の構 かま え、照明 しょうめい 燈 とう 具 ぐ 、ステンドグラスの装飾 そうしょく など豊 ゆた かな趣味 しゅみ を内包 ないほう した近代 きんだい 建築 けんちく であったのである。
建築 けんちく 主 ぬし の日 にち 高 だか は昭和 しょうわ 初期 しょき 、鎌倉 かまくら に居 きょ を移 うつ してここを去 さ る。その後 ご 、居住 きょじゅう 者 しゃ が変 か わるなかで一部 いちぶ に増築 ぞうちく されているものの良 よ く維持 いじ されており、しなやかな個性 こせい を備 そな えた本邸 ほんてい は雲雀丘 ひばりがおか の原 げん 風景 ふうけい を今 いま に伝 つた えているものでもある。
大正 たいしょう 12年 ねん 、住友 すみとも 建築 けんちく 部 ぶ における意匠 いしょう の名手 めいしゅ とさして知 し られた長谷部 はせべ 鋭 するど 吉 よし の自邸 じてい が清荒神 きよしこうじん に建 た てられている。田圃 たんぼ が広 ひろ がり雑木林 ぞうきばやし に囲 かこ まれた宅地 たくち に設 もう けた自邸 じてい は萱 かや 葺 ふ きの田舎 いなか 造 づく りの住宅 じゅうたく であった。荒 あら い木造 もくぞう 白壁 しらかべ で、居室 きょしつ 部 ぶ は吹 ふ き抜 ぬ け天井 てんじょう として松 まつ の丸太 まるた 組 ぐみ の屋根裏 やねうら を表 あらわ す豪快 ごうかい で野趣 やしゅ ある空間 くうかん で、厚 あつ い楢 なら 材 ざい の床板 とこいた は釘 くぎ で打 う ち付 つ けられ田舎 いなか 家風 かふう につくられていた。竣工 しゅんこう 三 さん 年 ねん 後 ご の訪問 ほうもん 記 き (『新 しん 建築 けんちく 』大正 たいしょう 十 じゅう 五 ご 年 ねん 八 はち 月 がつ 号 ごう )をみると、その空間 くうかん は洋行 ようこう 中 ちゅう に購入 こうにゅう してきたというモダンデザインの敷物 しきもの やカーテンの類 るい で装 よそ われ、自作 じさく の油絵 あぶらえ や東洋 とうよう の古 こ 陶磁 とうじ 工芸 こうげい 品 ひん が所 ところ 狭 せま しと配置 はいち され、独自 どくじ の美的 びてき 空間 くうかん をなしているのであった。それらは単 たん なる装飾 そうしょく として飾 かざ られたものではなく、人 ひと を招 まね き入 い れる趣味 しゅみ のある生活 せいかつ 空間 くうかん なのであり、その自然 しぜん な構 かま えに不思議 ふしぎ な魅力 みりょく を感 かん じさせるものでもあった。
弘世 ひろよ 助三郎 すけさぶろう 邸 てい 正門 せいもん
旧 きゅう 小寺 こでら 源 はじめ 吾 われ 邸 てい
旧 きゅう 小寺 こでら 敬一 けいいち 邸 てい
御影 みかげ 、岡本 おかもと 、芦屋川 あしやがわ では阪神 はんしん 間 あいだ における、最 もっと もモダンな色彩 しきさい を乗 の せる。この地域 ちいき に建 た った規模 きぼ の大 おお きな邸宅 ていたく として、大阪 おおさか 茶臼山 ちゃうすやま から移転 いてん してきた住友 すみとも 邸 やしき (住吉 すみよし 村 むら 反 はん 高林 たかばやし 、大正 たいしょう 14年 ねん )、東洋紡績 とうようぼうせき 社長 しゃちょう 、小寺 こでら 源 はじめ 吾 われ 邸 やしき (住吉 すみよし 村 むら 牛神 うしがみ 前 まえ 、大正 たいしょう 元年 がんねん )、鐘 しょう 淵 ふかし 紡績 ぼうせき 社長 しゃちょう 、武藤 むとう 山治 やまじ 邸 やしき (住吉 すみよし 村 むら 観音 かんおん 林 りん 、大正 たいしょう 中頃 なかごろ )、日本生命 にほんせいめい 社長 しゃちょう 、弘世 ひろよ 助三郎 すけさぶろう 邸 やしき (住吉 すみよし 村 むら 牛神 うしがみ 、明治 めいじ 41年 ねん )などの和風 わふう 邸宅 ていたく があり、さらに洋風 ようふう を加 くわ えると、野村 のむら 財閥 ざいばつ をつくった野村 のむら 徳七 とくしち 邸 やしき (住吉 すみよし 村 むら 小林 こばやし 、大正 たいしょう 10年 ねん 設計 せっけい =竹中工務店 たけなかこうむてん )、大林組 おおばやしぐみ 社長 しゃちょう 、大林 おおばやし 義雄 よしお 邸 てい (御影 みかげ 町 まち 上ノ山 かみのやま 、昭和 しょうわ 7年 ねん 、設計 せっけい =大林組 おおばやしぐみ )、野村 のむら 銀行 ぎんこう 社長 しゃちょう 、野村 のむら 元 もと 五郎 ごろう 邸 やしき (住吉 すみよし 村 むら 観音 かんおん 林 りん 、昭和 しょうわ 7年 ねん 、設計 せっけい =安井 やすい 武雄 たけお )、尼崎 あまがさき 紡績 ぼうせき の監査 かんさ 役 やく で、小寺 こでら 源 みなもと 吾郎 ごろう の養父 ようふ であった小寺 こでら 敬一 けいいち 邸 てい (住吉 すみよし 村 むら 手崎 てさき 、昭和 しょうわ 5年 ねん 、設計 せっけい =W・M・ヴォーリズ)、広 こう 海 うみ 商店 しょうてん 主 ぬし 、広 こう 海 うみ 二 に 三 さん 郎 ろう 邸 やしき (住吉 すみよし 村 むら 川向 かわむかい 、昭和 しょうわ 14年 ねん 、設計 せっけい =ヴォーリズ)、乾汽船 いぬいきせん 社長 しゃちょう 、乾 いぬい 豊彦 とよひこ 邸 やしき (住吉 すみよし 村 むら 井手口 いでぐち 、昭和 しょうわ 11年 ねん 、設計 せっけい =渡辺 わたなべ 節 たかし )、大阪 おおさか の大 だい 地主 じぬし の和田 わだ 久左衛門 きゅうざえもん 邸 てい (住吉 すみよし 村 むら 小坂 こさか 山 さん 、昭和 しょうわ 7年 ねん 、設計 せっけい =長谷部 はせべ 鋭 するど 吉 よし )、武田薬品工業 たけだやくひんこうぎょう 社長 しゃちょう 、武田 たけだ 長兵衛 ちょうべえ 邸 やしき (住吉 すみよし 村 むら 手崎 てさき 、昭和 しょうわ 7年 ねん 、設計 せっけい =松室 まつむろ 重光 しげみつ )、住友 すみとも 義輝 よしてる 邸 てい (住吉 すみよし 村手 むらて 神東 しんとう 、昭和 しょうわ 7年 ねん 、設計 せっけい =住友 すみとも 合資 ごうし 工作 こうさく 部 ぶ )などいずれも密度 みつど の高 たか い規模 きぼ の大 おお きい邸宅 ていたく 群 ぐん で、これらが御 ご 影 かげ ・住吉 すみよし の緑 みどり の多 おお い六甲 ろっこう 山麓 さんろく の恵 めぐ まれた環境 かんきょう のなかに点在 てんざい していた。加 くわ えて住吉 すみよし 川 がわ の東岸 とうがん で行政 ぎょうせい 区画 くかく としては本山 もとやま 村 むら になるが、住吉 すみよし 川 がわ をはさんで隣接 りんせつ する野寄 のより に、久原 くはら 御殿 ごてん とも呼 よ ばれる久原 くはら 房之助 ふさのすけ の大 だい 邸宅 ていたく があった。これは敷地 しきち が一 いち 万 まん 坪 つぼ を超 こ え、六甲 ろっこう 山系 さんけい から水 みず を引 ひ き、庭 にわ 内 ない に池 いけ を配 はい し、和洋 わよう の建物 たてもの を併立させた豪邸 ごうてい で、明治 めいじ 37年 ねん に建 た てられたといわれる。その立地 りっち 場所 ばしょ からして、御影 みかげ ・住吉 すみよし の大 だい 邸宅 ていたく 地帯 ちたい の一翼 いちよく をになっていたといってよい。
これらの邸宅 ていたく は建物 たてもの にそれぞれ風格 ふうかく をもつものが多 おお いが、建物 たてもの のみでなく、門構 もんがま えや地元 じもと で採 と れる大 おお きな花崗岩 かこうがん (通称 つうしょう 、御影石 みかげいし )を用 もち いた石積 いしつ みの塀 へい が、生 い け垣 がき と組 く み合 あ わさって独特 どくとく の風趣 ふうしゅ を形成 けいせい していた。
これらの邸宅 ていたく 以外 いがい に、それほど規模 きぼ が大 おお きいものでなくても著名 ちょめい な建築 けんちく 家 か たちの設計 せっけい になる住宅 じゅうたく も多数 たすう 存在 そんざい していた。渡辺 わたなべ 節 たかし は、住吉 すみよし 村 むら 新堂 しんどう に住 す んでいた。彼 かれ の設計 せっけい に市川 いちかわ 誠 まこと 次 じ 邸 てい (御影町郡家 みかげちょうぐんげ 、大正 たいしょう 15年 ねん )、奥村 おくむら 邸 てい (御影 みかげ 町 まち 篠原 しのはら 、昭和 しょうわ 5年 ねん )があり、宗 そう 兵蔵 ひょうぞう は、住吉 すみよし 村 むら 小原田 おはらだ に住 す み、松岡 まつおか 道治 みちはる 邸 てい (住吉 すみよし 村 むら 小原田 おはらだ 、大正 たいしょう 10年 ねん )、千浦 ちのうら 友 とも 七 なな 郎 ろう 邸 てい (住吉 すみよし 村 むら 宮守 みやもり 堂 どう 、大正 たいしょう 中頃 なかごろ )などを設計 せっけい している。いずれも様式 ようしき 建築 けんちく の味 あじ わい深 ぶか いものであるが、宗 そう 兵蔵 ひょうぞう の作品 さくひん にはウィーン で花 はな 咲 さ いたセセッション の影響 えいきょう が見受 みう けられた。平生 ひらお 釟三郎 さぶろう 邸 やしき (住吉 すみよし 村 むら 雨 う ノ神 かみ 、大正 たいしょう 13年 ねん )は、分離 ぶんり 派 は の驍将 ぎょうしょう として活躍 かつやく した石本 いしもと 喜久治 きくじ の作品 さくひん であった。小川 おがわ 安一郎 やすいちろう は、川田 かわた 順 じゅん の御 ご 影 かげ の自邸 じてい を設計 せっけい し、ついで阪急 はんきゅう 御影 みかげ 駅 えき に近 ちか い御影 みかげ 町 まち 城 しろ の前 まえ の木 き 水 すい 栄太郎 えいたろう 邸 てい (大正 たいしょう 15年 ねん )を設計 せっけい している。置 おけ 塩 しお 章 あきら は、同 おな じ御影 みかげ 駅前 えきまえ の木 き 水 すい 邸 てい とならんで小川 おがわ 瑳五郎 ろう 邸 てい (昭和 しょうわ 5年 ねん )を設計 せっけい した。これらはいずれも簫 しょう 洒な西洋 せいよう 館 かん であった。灘 なだ の銘酒 めいしゅ 「白 しろ 鶴 づる 」の醸造 じょうぞう 元 もと である嘉納 かのう 治 おさむ 兵衛 ひょうえ の私邸 してい も阪急 はんきゅう 御影 みかげ 駅 えき の山手 やまて に和風 わふう の大 だい 邸宅 ていたく として建 た てられていた。
大正 たいしょう 14年 ねん に設置 せっち された大林 おおばやし 組 ぐみ 住宅 じゅうたく 部 ぶ では、副 ふく 社長 しゃちょう であった大林 おおばやし 賢史 けんじ 郎 ろう が建築 けんちく 業界 ぎょうかい における住宅 じゅうたく 建築 けんちく の重要 じゅうよう 性 せい を主張 しゅちょう して住宅 じゅうたく 部 ぶ を設 もう け、松本 まつもと 儀 ただし 八 はち を部長 ぶちょう に据 す え、阪神 はんしん 間 あいだ で活発 かっぱつ な住宅 じゅうたく の設計 せっけい 施工 しこう をおこなった。その傾向 けいこう はスパニッシュ・スタイルのものが多 おお く、流行 りゅうこう に拍車 はくしゃ をかけ、阪神 はんしん 間 あいだ でも少 すく なからぬ作品 さくひん を生 う んでいる。明治 めいじ 42年 ねん 、橋口 はしぐち 信助 しんすけ によって東京 とうきょう に創立 そうりつ された「あめりか屋 や 」は、アメリカ式 しき の組立 くみたて 住宅 じゅうたく を売 う り出 だ し、大正 たいしょう 6年 ねん 大阪 おおさか に進出 しんしゅつ するが、この地域 ちいき でも同様 どうよう の住宅 じゅうたく を手 て がけていく。大正 たいしょう 10年 ねん 頃 ごろ 御影 みかげ 町 まち に建 た った福本 ふくもと 邸 てい はその一 いち 例 れい である。
先 さき に述 の べた住友 すみとも の田辺 たなべ 貞吉 さだきち 邸 てい は、イギリス のハーフティンバー を用 もち いた西洋 せいよう 館 かん であり、これは住友 すみとも 本店 ほんてん 臨時 りんじ 建設 けんせつ 部 ぶ の技師 ぎし 長 ちょう であった野口 のぐち 孫市 まごいち の設計 せっけい である。野口 のぐち 孫市 まごいち は自 みずか らも住吉 すみよし 村 むら に土地 とち を買 か い求 もと めて自邸 じてい を建 た てている。ただし彼 かれ の自邸 じてい は和風 わふう であった。また村山 むらやま 龍平 りゅうへい は御影 みかげ の山手 やまて に広 ひろ い土地 とち を取得 しゅとく したのち、建築 けんちく 家 か 、河合 かわい 幾次 いくつぐ の手 て になる西洋 せいよう 館 かん を建 た てた。大正 たいしょう 期 き に入 はい ってその北側 きたがわ に唐破風 からはふ の車寄 くるまよ せをもつ和 わ 館 かん 棟 とう を建 た て、長 なが い渡廊下 わたりろうか を経 へ て書院 しょいん 棟 むね と結 むす んでいる。さらに北 きた へ延 の びる渡廊下 わたりろうか の先 さき には茶室 ちゃしつ 棟 むね があり、藪内 やぶうち 家 か 「燕 つばめ 庵 あん 」の写 うつ しといわれる茶室 ちゃしつ 「玄 げん 庵 あん 」と「香雪 こうせつ 」を建 た てている。また、1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん )に邸宅 ていたく の敷地 しきち 内 ない に香雪 こうせつ 美術館 びじゅつかん が開館 かいかん した。
この御影 みかげ ・住吉 すみよし の大 だい 邸宅 ていたく では必 かなら ずといってよいくらい茶室 ちゃしつ が置 お かれていた。茶道 さどう は当時 とうじ この地 ち では社交 しゃこう 上 じょう も欠 か かせない存在 そんざい であった。
旧 きゅう 乾 いぬい 邸 てい 外観 がいかん (左 ひだり )階段 かいだん 室 しつ のシャンデリアとステンドグラス(右 みぎ )
旧 きゅう 乾 いぬい 邸 てい は、渡辺 わたなべ 節 たかし による設計 せっけい で昭和 しょうわ 11年 ねん の竣工 しゅんこう である。住吉 すみよし の山手 やまて に位置 いち する鉄筋 てっきん コンクリート造 づくり と木造 もくぞう が併用 へいよう された邸宅 ていたく である。南側 みなみがわ の立 だて 面 めん は、上背 うわぜい のある建物 たてもの にもかかわらず威圧 いあつ 感 かん のないのびやかで明 あか るい印象 いんしょう を与 あた える。一方 いっぽう 、北側 きたがわ のオーダーと緩 ゆる やかなヴォールトによる回廊 かいろう 風 ふう の空間 くうかん からは、濃密 のうみつ な様式 ようしき 主義 しゅぎ の内部 ないぶ 空間 くうかん に導 みちび かれる。特 とく に吹 ふ き抜 ぬ けをもつ玄関 げんかん ホールは、その空間 くうかん 構成 こうせい に加 くわ えて、様式 ようしき 建築 けんちく の名手 めいしゅ 渡辺 わたなべ の面目 めんぼく が躍如 やくじょ とした重厚 じゅうこう な装飾 そうしょく 空間 くうかん である。
甲南 こうなん 漬 づけ 資料 しりょう 館 かん (旧 きゅう 高嶋 たかしま 家 か 住宅 じゅうたく )
高嶋 たかしま 邸 てい は、灘 なだ 五郷 いさと のひとつ魚崎 うおざき 郷 さと で奈良漬 ならづ け を商 あきな う高嶋 たかしま 平 ひら 介 かい 商店 しょうてん の二 に 代目 だいめ 、高嶋 たかしま 平 ひら 介 かい の自邸 じてい 兼 けん 帳場 ちょうば として武庫 むこ 郡 ぐん 御影 みかげ 町 まち (現 げん 、神戸 こうべ 市 し 東灘 ひがしなだ 区 く )に昭和 しょうわ 5年 ねん 竣工 しゅんこう した。設計 せっけい は清水 しみず 栄二 えいじ で、商店 しょうてん 敷地 しきち には木造 もくぞう 平屋 ひらや の製造 せいぞう 番 ばん や店舗 てんぽ 、木造 もくぞう 洋館 ようかん の郵便 ゆうびん 局 きょく などがあり、これらと併存 へいそん して鉄筋 てっきん コンクリート造 づくり 二 に 階 かい 建 だ てのこの住宅 じゅうたく が建設 けんせつ された。
この住宅 じゅうたく の外観 がいかん で最 もっと も目 め を惹 ひ くのは、建物 たてもの より南西 なんせい 隅 すみ の塔 とう である。その頂 いただき 部 ぶ は、パラボラ・アーチによる大 だい 、中 なか 、小 しょう 三 みっ つ(或 ある いは四 よっ つ)のトンネル・ヴォールトが組 く み合 あ わせられている。その組 く み合 あ わせ方 かた は、並列 へいれつ であったり、大 おお きさが極端 きょくたん に異 こと なったり、平 たいら 側 がわ に開口 かいこう が設 もう けられていたりと、ヴォールトの一般 いっぱん 的 てき な構成 こうせい 原理 げんり から外 はず れており、それが不可思議 ふかしぎ な印象 いんしょう を与 あた える。この塔 とう の内部 ないぶ は中央 ちゅうおう に小 ちい さな吹 ふ き抜 ぬ けをもつ階段 かいだん 室 しつ で、外形 がいけい が内部 ないぶ 空間 くうかん に規定 きてい されているようにも思 おも えない。このように建物 たてもの の隅 すみ 部 ぶ に特徴 とくちょう ある造形 ぞうけい を施 ほどこ す手法 しゅほう は、清水 しみず による西尻池 にししりいけ 村 むら 公会堂 こうかいどう や御影 みかげ 公会堂 こうかいどう に共通 きょうつう で、とくに複数 ふくすう 階 かい にわたる三角 さんかく 断面 だんめん 図 ず の連続 れんぞく 窓 まど は、いずれにも登場 とうじょう する。
一方 いっぽう 、こうした造形 ぞうけい 感覚 かんかく は、日本 にっぽん における表現 ひょうげん 主義 しゅぎ の影響 えいきょう をうかがわせる分離 ぶんり 派 は 建築 けんちく 会 かい の初期 しょき 作品 さくひん や1920年代 ねんだい 前半 ぜんはん の逓信 ていしん 省 しょう 営繕 えいぜん 課 か による局 きょく 舎 しゃ のいくつかと類似 るいじ のものである。事実 じじつ 、清水 しみず は分離 ぶんり 派 は 建築 けんちく 会 かい メンバーと同 どう 世代 せだい であり、神戸 こうべ にはそうした局 きょく 舎 しゃ のひとつである兵庫 ひょうご 電話 でんわ 局 きょく もあり、表現 ひょうげん 主義 しゅぎ 的 てき 造形 ぞうけい に共鳴 きょうめい する空気 くうき のなかにまた生 い きていたということになる。神戸 こうべ 市 し 営繕 えいぜん 課 か 時代 じだい の清水 しみず は、この造形 ぞうけい 感覚 かんかく で比較的 ひかくてき 大 だい 規模 きぼ な建築 けんちく をまとめてきたのである。しかし、高嶋 たかしま 邸 てい では、そうした感覚 かんかく がこじんまりとした親密 しんみつ な空間 くうかん を生 う み出 だ す方向 ほうこう で生 い かされている。
御影 みかげ 公会堂 こうかいどう
御影 みかげ 公会堂 こうかいどう は、千 せん 人 にん 収容 しゅうよう のホールに、貸 か し室 しつ 、食堂 しょくどう 、浴場 よくじょう 、娯楽 ごらく 室 しつ 、屋上 おくじょう 露台 ろだい などを備 そな えた武庫 むこ 郡 ぐん 御影 みかげ 町立 ちょうりつ の施設 しせつ である。建設 けんせつ 費 ひ の八 はち 割 わり 以上 いじょう が、同町 どうちょう の酒造 しゅぞう 家 か の七 なな 代目 だいめ 嘉納 かのう 治 おさむ 兵衛 ひょうえ の寄付 きふ による。その意匠 いしょう は竣工 しゅんこう 時 じ の記録 きろく によれば「近世 きんせい 式 しき 」とされるが、一言 ひとこと では形容 けいよう しがたい。前面 ぜんめん の窓 まど を覆 おお う大 おお きなガラス面 めん 、船 ふね 楼 ろう の意匠 いしょう を思 おも わせる丸 まる 窓 まど 、表現 ひょうげん 主義 しゅぎ 的 てき なパラボラ・アーチや出窓 でまど 。水平 すいへい 線 せん を強調 きょうちょう する軒 のき 。エントランスを象徴 しょうちょう する簡略 かんりゃく 化 か されたゴシック 風 ふう 装飾 そうしょく 。要 よう するに20世紀 せいき 初頭 しょとう の西欧 せいおう の流行 りゅうこう 様式 ようしき が、独自 どくじ の構成 こうせい 感覚 かんかく で組 く み合 あ わせられている。その要素 ようそ ごとの造形 ぞうけい といい組 く み合 あ わせ方 かた といい、そこには一種 いっしゅ の稚拙 ちせつ さがあるが、この建築 けんちく 家 か の作品 さくひん が共通 きょうつう してたたえている親 した しみやすさは、まさにそこに由来 ゆらい しているように思 おも われる。
設計 せっけい 者 しゃ の清水 しみず は、昭和 しょうわ 初期 しょき に神戸 こうべ 市 し 土木 どぼく 課 か 初 はつ の東京帝大 とうきょうていだい 出 だし の技師 ぎし として、多 おお くの特徴 とくちょう ある小学校 しょうがっこう を設計 せっけい した建築 けんちく 家 か である。昭和 しょうわ 8年 ねん 、清水 しみず は住宅 じゅうたく の設計 せっけい について、つぎのように書 か いている。
阪神 はんしん 間 あいだ の山手 やまて が如何 いか に住宅 じゅうたく 様式 ようしき の展覧 てんらん 会 かい を実現 じつげん しても日本 にっぽん が世界 せかい の楽土 らくど である事 こと を揚言 ようげん 出来 でき ない。それよりも都市 とし の近郊 きんこう に存 そん する芝居 しばい の書割 かきわり か、ペンキ屋 や の看板 かんばん 然 しか たる存在 そんざい こそ我 わが 等 ひとし 建築 けんちく 家 か 全部 ぜんぶ が責 せめ を負 ふ ふべき国辱 こくじょく ではなからうか
—『建築 けんちく と社会 しゃかい 』昭和 しょうわ 十 じゅう 三 さん 年 ねん 四 よん 月 がつ 号 ごう
つまり、美 うつく しい邸宅 ていたく ではなく、書割 かきわり か看板 かんばん のような存在 そんざい にこそ建築 けんちく 家 か は取 と り組 く むべきだというのである。そして「民衆 みんしゅう 愛 あい に生 い きる若 わか き建築 けんちく 家 か の多数 たすう 出現 しゅつげん を期待 きたい したい」とつけ加 くわ える。
清水 しみず によれば書割 かきわり か看板 かんばん のような存在 そんざい とは「中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう 以下 いか 」の住宅 じゅうたく のことであるが、この中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう 以下 いか が家 いえ をもとうとする際 さい の注意 ちゅうい として、火災 かさい 保険 ほけん 、修繕 しゅうぜん 費 ひ 、女中 じょちゅう の給料 きゅうりょう などの支出 ししゅつ を考慮 こうりょ せよと述 の べている。どうやら清水 しみず のいう「中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう 以下 いか 」とは、いまの私 わたし たちが思 おも うところの中流 ちゅうりゅう に近 ちか いようだ。この一文 いちぶん を書 か いた頃 ころ の清水 しみず は「中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう 以下 いか によき住宅 じゅうたく を提供 ていきょう 」するための「小 しょう 住宅 じゅうたく 月賦 げっぷ 提供 ていきょう の小 しょう 会社 かいしゃ 」の経営 けいえい をはじめている。すでに大正 たいしょう 15年 ねん 、彼 かれ は神戸 こうべ 市役所 しやくしょ を辞 や め事務所 じむしょ を自営 じえい していた。昭和 しょうわ 4年 ねん には魚崎 うおざき 小学校 しょうがっこう を、昭和 しょうわ 8年 ねん には御影 みかげ 公会堂 こうかいどう を設計 せっけい している。しかし、昭和 しょうわ 5年 ねん 以前 いぜん の活動 かつどう の華々 はなばな しさに比 くら べてそれ以降 いこう の活動 かつどう の停滞 ていたい 感 かん は否 いな めない。この中流 ちゅうりゅう 住宅 じゅうたく をめぐる清水 しみず の計画 けいかく がどれほどの成果 せいか を上 あ げたかははっきりしない。このようにみてくるなら、代表 だいひょう 作 さく といわれる御影 みかげ 公会堂 こうかいどう は、むしろ彼 かれ の作品 さくひん の最後 さいご の華 はな であった。
六麓荘 ろくろくそう 経営 けいえい 地 ち は現在 げんざい の芦屋 あしや 市 し の山麓 さんろく 海抜 かいばつ 100~200メートルの高地 こうち に設 もう けられた住宅 じゅうたく 地 ち で、昭和 しょうわ 4年 ねん 頃 ごろ 大阪 おおさか の富商 ふしょう 、内藤 ないとう 為三郎 ためさぶろう が同 おな じ大阪 おおさか 人 じん の森本 もりもと 喜太郎 きたろう と共同 きょうどう で、現在地 げんざいち に197区画 くかく 、数 すう 万 まん 坪 つぼ にのぼる宅地 たくち 造成 ぞうせい を行 おこな ったものである。
大都市 だいとし 近郊 きんこう の海抜 かいばつ 100メートルをこえる高地 こうち の住宅 じゅうたく 地 ち が昭和 しょうわ 初期 しょき の段階 だんかい で進行 しんこう したことは、まさに先進 せんしん 的 てき な試 こころ みであった。当地 とうち には住友 すみとも にいた建築 けんちく 家 か 、小川 おがわ 安一郎 やすいちろう の設計 せっけい になる平野 へいや 邸 てい 洋館 ようかん 、野田 のだ 六郎 ろくろう 邸 てい などが建 た てられた。
芦屋 あしや 駅 えき 山側 やまがわ に位置 いち する現在 げんざい の船戸 ふなと 町 まち 、松ノ内 まつのうち 町 まち は大正 たいしょう 末 まつ 頃 ごろ から分譲 ぶんじょう が始 はじ められ、品格 ひんかく のある整然 せいぜん とした町並 まちな みが形成 けいせい された。これらの地所 じしょ の購入 こうにゅう 者 しゃ には、会社 かいしゃ の重役 じゅうやく クラス、地主 じぬし 、酒造 しゅぞう 会社 かいしゃ 、大阪 おおさか の資産 しさん 家 か などが含 ふく まれていて、和風 わふう 、洋風 ようふう の都市 とし 住宅 じゅうたく が建 た ち並 なら ぶ、いわゆる私鉄 してつ の経営 けいえい 地 ち とは若干 じゃっかん 趣 おもむき を異 こと にする住宅 じゅうたく 地 ち 景観 けいかん をみせていた。
ヨドコウ迎賓館 げいひんかん (旧 きゅう 山 やま 邑邸)
芦屋川 あしやがわ 左岸 さがん の丘上 おかうえ に、屹立 きつりつ する壁 かべ のような建築 けんちく のヨドコウ迎賓館 げいひんかん があり、この地 ち のランドマークのように知 し られている。米国 べいこく 人 じん 建築 けんちく 家 か フランク・ロイド・ライト の設計 せっけい による。本邸 ほんてい の設計 せっけい は大正 たいしょう 7年 ねん 頃 ごろ 、帝国 ていこく ホテル建築 けんちく のため来日 らいにち していたライトが灘 なだ の酒造 しゅぞう 家 か 、山 やま 邑太左衛門 さえもん の以来 いらい をうけておこなわれた。しかしすぐに着工 ちゃっこう されることはなく、帝国 ていこく ホテルの部分 ぶぶん 的 てき 完成 かんせい によるライトの帰国 きこく 後 ご 、彼 かれ に師事 しじ していた建築 けんちく 家 か 、遠藤 えんどう 新 しん と南 みなみ 信 しん が実施 じっし 設計 せっけい をまとめ大正 たいしょう 13年 ねん に完成 かんせい したものである。
尾根 おね 状 じょう の地形 ちけい に沿 そ って南北 なんぼく に長 なが く計画 けいかく され、1階 かい 玄関 げんかん から4階 かい 食堂 しょくどう まで、段丘 だんきゅう を昇 のぼ るような間取 まど りの住宅 じゅうたく で、大谷石 おおやいし の粗 あら 面 めん を生 い かした装飾 そうしょく 的 てき なブロックを積 つ み上 あ げたような壁 かべ 柱 ばしら と、大小 だいしょう の窓 まど を巧妙 こうみょう に配 はい したコンクリートの壁 かべ 、長 なが くシャープな軒 のき が外観 がいかん を特色 とくしょく づけている。1階 かい ピロティー上部 じょうぶ の応接 おうせつ 室 しつ や4階 かい 食堂 しょくどう は、コーナーの低 ひく い天井 てんじょう から中央 ちゅうおう 部 ぶ の高 たか い天井 てんじょう へとつづく上昇 じょうしょう 感 かん や、荒 あら い大谷石 おおやいし の肌 はだ と柔 やわ らかな白 しろ い塗 ぬり 壁 かべ の対比 たいひ が生 う むライトの空間 くうかん デザインの特色 とくしょく をよく物語 ものがた っているところである。一方 いっぽう 、3階 かい 和室 わしつ 部 ぶ の意匠 いしょう も特色 とくしょく あるところだが、建築 けんちく 主 ぬし の依頼 いらい にそって遠藤 えんどう らが手 て を加 くわ えた部分 ぶぶん のように考 かんが えられている。つまり当初 とうしょ のライトによる設計 せっけい 原案 げんあん が判然 はんぜん とはしていないのである。しかしながら帝国 ていこく ホテルの意匠 いしょう と類似 るいじ した部分 ぶぶん も多 おお く、また自然 しぜん の地形 ちけい をみごとにとらえたライトの建築 けんちく として著名 ちょめい なものである。
滴 しずく 翠 みどり 美術館 びじゅつかん (旧 きゅう 山口 やまぐち 邸 てい )
芦屋川 あしやがわ に沿 そ う山芦屋 やまあしや 町 まち の高台 たかだい に昭和 しょうわ 8年 ねん に竣工 しゅんこう した山口 やまぐち 吉郎 よしろう 兵衛 ひょうえ 邸 やしき 、今 いま の滴 しずく 翠 みどり 美術館 びじゅつかん がある。設計 せっけい 者 しゃ は安井 やすい 武雄 たけお で、中央 ちゅうおう に三 さん 階 かい の塔屋 とうや をもつ鉄筋 てっきん コンクリート造 づくり の相当 そうとう 規模 きぼ の住宅 じゅうたく であり、東 ひがし より遠望 えんぼう すると交錯 こうさく する瓦葺 かわらぶ き寄 よせ 棟 とう 屋根 やね の下 した に白 しろ いコンクリートの壁面 へきめん がリズミカルに浮 う き立 た ち、広 ひろ いポーチやバルコニーが穏 おだ やかな律動 りつどう 感 かん を与 あた えている。近 ちか づくと白 しろ い壁 かべ の一部 いちぶ には黒 くろ い海鼠壁 なまこかべ の張 は り瓦 かわら やこば積 づ み瓦 かわら など和風 わふう 表現 ひょうげん が目 め に入 はい る建物 たてもの である。
山口 やまぐち 吉郎 よしろう 兵衛 ひょうえ は当時 とうじ 、山口銀行 やまぐちぎんこう を有 ゆう した著名 ちょめい な実業 じつぎょう 家 か であり、かつ茶 ちゃ の湯 ゆ 古 こ 美術 びじゅつ 界 かい で知 し られた名流 めいりゅう 人 じん であった。そのためこの邸宅 ていたく はおもに社交 しゃこう の場 ば として計画 けいかく されたもので、一 いち 階 かい には洋間 ようま の客室 きゃくしつ 、食堂 しょくどう 。二 に 階 かい には畳 たたみ の大広間 おおひろま 。地階 ちかい には茶室 ちゃしつ と陳列 ちんれつ 室 しつ などが設 もう けられ、加 くわ えて日常 にちじょう 的 てき 居住 きょじゅう 部 ぶ を収 おさ めた木造 もくぞう 和 わ 館 かん を有 ゆう していた。すなわち建築 けんちく 主 ぬし の要望 ようぼう と趣味 しゅみ に応 こた える高 たか い水準 すいじゅん の和 わ の空間 くうかん を組 く み入 い れつつ、モダンな造形 ぞうけい へと展開 てんかい させた近代 きんだい 邸宅 ていたく なのであった。
芝川 しばかわ 家 か 別荘 べっそう 。愛知 あいち 県 けん 犬山 いぬやま 市 し の明治 めいじ 村 むら に移築 いちく 保存 ほぞん
芝川 しばかわ 家 か は幕末 ばくまつ より大阪 おおさか 船場 ふなば 伏見 ふしみ 町 まち にあった有数 ゆうすう の商家 しょうか で、明治 めいじ 中期 ちゅうき の又右衛門 またえもん (百々 とど 翁 おう )の時代 じだい には自邸 じてい の一角 いっかく に洋館 ようかん を建 た てるなど近代 きんだい 的 てき 事業 じぎょう 家 か へと脱皮 だっぴ をはかっていた。その頃 ころ にはいまだに田圃 たんぼ の広 ひろ がる寒村 かんそん であった甲 きのえ 東村 あずまむら (現 げん 、西宮 にしのみや 市 し 甲東園 こうとうえん )一帯 いったい の土地 とち を取得 しゅとく し、明治 めいじ 29年 ねん には、甲東園 こうとうえん と称 しょう する果樹 かじゅ 園 えん を拓 ひら いていた。その園内 えんない の一角 いっかく に明治 めいじ 45年 ねん 、武田 たけだ 五 ご 一 いち の設計 せっけい による和洋折衷 わようせっちゅう の異色 いしょく の別荘 べっそう が建 た てられた。
傾斜地 けいしゃち に荒 あら い野石 のいし 積 づ みとレンガのアーチを架 か けた基壇 きだん 上 じょう に建 た つ木造 もくぞう 二 に 階 かい 建 だ ての住宅 じゅうたく で、勾配 こうばい の強 つよ い日本 にっぽん 瓦葺 かわらぶ き屋根 やね と、1階 かい まわりに広 ひろ く張 は り出 だ した軽快 けいかい なベランダが印象 いんしょう 的 てき であり、その特色 とくしょく は武田 たけだ の説明 せつめい によると「茶道 さどう 建築 けんちく の精神 せいしん を椅子 いす 式 しき 生活 せいかつ に応用 おうよう された点 てん がその重大 じゅうだい な特徴 とくちょう であり、セセッション風 ふう に日本 にっぽん 風 ふう が加味 かみ されてなれるもの……洋室 ようしつ 内 ない の家具 かぐ も亦 また 同時 どうじ に新 しん 手法 しゅほう を施 ほどこ され、曲 ま げ木 き を盛 さか んに利用 りよう した独特 どくとく の意匠 いしょう が施 ほどこ された」建築 けんちく であった。武田 たけだ がここで述 の べている「セセッション風 ふう 」「新手 あらて 法 ほう 」は、意匠 いしょう よりみると、英国 えいこく のマッキントッシュを思 おも わせるアール・ヌーヴォー 式 しき のものであり、加 くわ えて和風 わふう の網代 あじろ 天井 てんじょう や繊細 せんさい な木肌 きはだ を生 い かした和 わ の感覚 かんかく も備 そな えている。つまり近代 きんだい 的 てき 洋風 ようふう のなかに数寄屋造 すきやづく りの手法 しゅほう が応用 おうよう された別荘 べっそう 建築 けんちく であった。
関西学院 かんせいがくいん 時計 とけい 台 だい
昭和 しょうわ 2年 ねん に計画 けいかく され昭和 しょうわ 4年 ねん 3月 がつ に竣工 しゅんこう した関西学院 かんせいがくいん キャンパスは七 なな 万 まん 坪 つぼ あまりの校 こう 地 ち に大学 だいがく 、高等 こうとう 部 ぶ 、中学 ちゅうがく 部 ぶ を配 はい したもので、その規模 きぼ と整然 せいぜん と計画 けいかく された環境 かんきょう はわが国 くに 有数 ゆうすう のもので、ヴォーリズの建築 けんちく を代表 だいひょう するものである。西 にし に甲山 こうざん を望 のぞ む主要 しゅよう 部 ぶ は南北 なんぼく 350メートル、東西 とうざい 450メートルのゾーンに十 じゅう 数 すう 棟 むね の校舎 こうしゃ と住宅 じゅうたく 地区 ちく が設 もう けられている。その特色 とくしょく の第 だい 一 いち は、中央 ちゅうおう に長円 ちょうえん 形 がた の芝生 しばふ が設 もう けられ、正門 せいもん より望 のぞ むと両側 りょうがわ に総務 そうむ 館 かん と宗教 しゅうきょう 館 かん が対峙 たいじ し、はるか前方 ぜんぽう の正面 しょうめん に図書館 としょかん がシンボリックに配置 はいち され、芝生 しばふ に沿 そ って馬蹄 ばてい 形 がた に校舎 こうしゃ が囲 かこ んでいる。つまり甲山 こうざん を望 のぞ む軸 じく 線 せん の設定 せってい と劇的 げきてき な計画 けいかく 性 せい である。そしてスパニッシュ・ミッション・スタイルといわれた建築 けんちく 様式 ようしき で統一 とういつ されていることも大 おお きな特色 とくしょく である。
この様式 ようしき の源 みなもと は、アメリカのカリフォルニア で20世紀 せいき 初頭 しょとう にこの地域 ちいき の伝統 でんとう を表 あらわ すものとして復興 ふっこう した、スパニッシュ・コロニアル・スタイルとミッション・スタイルにある。カリフォルニアは1850年 ねん に統合 とうごう されるまで長 なが くスペインの支配 しはい 下 か にあり、スパニッシュはカリフォルニアの地域 ちいき 的 てき な建築 けんちく 様式 ようしき として根付 ねつ いたもので、赤 あか 瓦 かわら と白 しろ いスタッコ 壁 かべ 、そして玄関 げんかん まわりなどの要所 ようしょ に際立 きわだ ったレリーフ装飾 そうしょく を付 ふ し、装飾 そうしょく タイルやロートアイアン の手摺 てすり 飾 かざ りなどを備 そな えるものである。一方 いっぽう ミッション・スタイルは19世紀 せいき 初期 しょき スペインのフランシスコ派 は の宣教師 せんきょうし によるカリフォルニア伝道 でんどう によって生 う まれた教会 きょうかい 建築 けんちく 様式 ようしき が基 もと になるもので、半円 はんえん アーチ、曲線 きょくせん 状 じょう の妻 つま 飾 かざ りが特色 とくしょく であるが、装飾 そうしょく 要素 ようそ は少 すく なく正面 しょうめん は概 おおむ ね対称 たいしょう 形 がた の穏 おだ やかな表現 ひょうげん を有 ゆう するものである。
ヴォーリズのいうスパニッシュ・ミッション・スタイルとは、このミッションスタイルを基 もと にしてスパニッシュの装飾 そうしょく を種々 しゅじゅ 活用 かつよう したものである。こうした建築 けんちく 的 てき 特色 とくしょく に加 くわ えて、キャンパスには三 みっ つの溜 た め池 ち が取 と り込 こ まれ、植樹 しょくじゅ された多 おお くの木々 きぎ と芝 しば が里 さと のような緑 みどり の環境 かんきょう を整 ととの えていった。つまり、教学 きょうがく の杜 もり のごとく自然 しぜん に融和 ゆうわ した解放 かいほう 性 せい が第 だい 三 さん の特色 とくしょく だったといえる。
夙川 しゅくがわ 香 が 櫨 はぜのき 園 えん 経営 けいえい 地 ち の住宅 じゅうたく [ 編集 へんしゅう ]
安井 やすい 武雄 たけお 邸 てい (昭和 しょうわ 6年 ねん )、ピロティーやコーナー窓 まど など近代 きんだい 建築 けんちく デザインの手法 しゅほう を駆使 くし してみせた自邸 じてい で、関西 かんさい のモダニズム建築 けんちく のマイルストーンとして知 し られる。
建築 けんちく 家 か 、安井 やすい 武雄 たけお は、大正 たいしょう 10年 ねん 帰国 きこく し片岡 かたおか 安 やすし の事務所 じむしょ に迎 むか えられるが、同 どう 13年 ねん 独立 どくりつ して関西 かんさい を中心 ちゅうしん に設計 せっけい 活動 かつどう を開始 かいし した。その安井 やすい 武雄 たけお の自邸 じてい が昭和 しょうわ 6年 ねん 西宮 にしのみや 市 し 雲井 くもい 町 まち に建 た てられる。本 ほん 邸宅 ていたく は機能 きのう 主義 しゅぎ 的 てき モダニズムデザインを試 こころ みており、水平 すいへい 垂直 すいちょく からなる抽象 ちゅうしょう 形態 けいたい をもち、室内 しつない にはパイプ椅子 いす が導入 どうにゅう された白 しろ い住宅 じゅうたく であった。これは当時 とうじ としては数少 かずすく ないモダニズムの建物 たてもの であった。
京都 きょうと の建築 けんちく 家 か 、池田 いけだ 総一郎 そういちろう の設計 せっけい した殿山 とのやま 町 まち の前田 まえだ 邸 てい (昭和 しょうわ 8年 ねん )もインターナショナル・スタイルであった。住友 すみとも の建築 けんちく 家 か だった笹川 ささかわ 慎一 しんいち の設計 せっけい した宮崎 みやざき 弥 わたる 七郎 しちろう 邸 てい (大正 たいしょう 15年 ねん )、大林組 おおばやしぐみ 住宅 じゅうたく 部 ぶ の泉 いずみ 勤 つとむ 一 いち 邸 てい (昭和 しょうわ 9年 ねん )があり、さらに外国 がいこく 人 じん 用 よう の住宅 じゅうたく にヴォーリズの作品 さくひん がみられる。いずれにしてもこの経営 けいえい 地 ち は大正 たいしょう から昭和 しょうわ 戦 せん 前期 ぜんき において、阪神 はんしん 間 あいだ が最 もっと も充実 じゅうじつ していた時代 じだい に形成 けいせい された民間 みんかん 土地 とち 会社 かいしゃ の手 て になる住宅 じゅうたく 地 ち であった。
アメリカン・ボード・ミッション住宅 じゅうたく とナショナル・シティ銀行 ぎんこう の住宅 じゅうたく [ 編集 へんしゅう ]
西宮 にしのみや 市 し 雲井 くもい 町 まち 、殿山 とのやま 町 まち の一帯 いったい は、大正 たいしょう 後 ご 半期 はんき より拓 ひら かれた環境 かんきょう のよい住宅 じゅうたく 地 ち であり、大正 たいしょう 末 まつ より昭和 しょうわ 初期 しょき にかけて十 じゅう 棟 むね 近 ちか いヴォーリズの建築 けんちく が建 た てられ、当時 とうじ 、赤松 あかまつ 林 はやし の残 のこ る新 あたら しい住宅 じゅうたく 地 ち に明 あか るいアメリカ風 ふう のエステートが所々 ところどころ に生 う まれていた。
その早 はや い例 れい が大正 たいしょう 11年 ねん に設 もう けられたアメリカン・ボード・ミッションの住宅 じゅうたく で、雲井 くもい 町 まち 八 はち の高台 たかだい に三 さん 棟 むね の宣教師 せんきょうし 館 かん が建 た った。二 に 棟 むね は切妻 きりづま の腰折 こしおれ 屋根 やね 、一棟 ひとむね は寄 よせ 棟 とう の腰折 こしおれ 屋根 やね でドーマー窓 まど がのぞくコロニアル・スタイル、赤 あか レンガの煙突 えんとつ が高 たか く屋根 やね から立 た ち上 あ がっていた。それぞれ小 しょう 住宅 じゅうたく の類 るい の西洋 せいよう 館 かん で、宣教師 せんきょうし 館 かん らしく明 あか るく簡素 かんそ な意匠 いしょう の住宅 じゅうたく だった。赤 あか レンガのポーチや暖炉 だんろ を囲 かこ む居室 きょしつ にはヴォーリズ初期 しょき の特色 とくしょく を備 そな えたものだった。
ここに居住 きょじゅう したのはH・W・ハケット、F・ケリー、M・A・ケリー、S・F・モランらの教育 きょういく 宣教師 せんきょうし で、ここから神戸女学院 こうべじょがくいん 、頌栄保育 ほいく 学院 がくいん 、梅花 ばいか 学園 がくえん に通 かよ い、さらに京都 きょうと の同志社 どうししゃ にも足 あし を伸 の ばしていたと思 おも われる。つまりこの住宅 じゅうたく 群 ぐん はアメリカン・ボード・ミッションの阪神 はんしん 間 あいだ におけるステーションだったのである。
つづいて昭和 しょうわ 4年 ねん 、殿山 とのやま 町 まち 六 ろく の周辺 しゅうへん にナショナル・シティ銀行 ぎんこう 大阪 おおさか 支店 してん の住宅 じゅうたく 群 ぐん が建 た てられた。テニスコートを中心 ちゅうしん に配置 はいち された支店 してん 長 ちょう 住宅 じゅうたく 、副 ふく 支店 してん 長 ちょう 住宅 じゅうたく 、経理 けいり 課 か 住宅 じゅうたく 、単身 たんしん 者 しゃ 用 よう 住宅 じゅうたく の四 よん 棟 むね で赤 あか 瓦 かわら と白壁 しらかべ のスパニッシュ・スタイルの典型 てんけい 的 てき なヴォーリズの住宅 じゅうたく 作品 さくひん であった。
玄関 げんかん ポーチを中心 ちゅうしん におく正面 しょうめん 外観 がいかん は関西学院 かんせいがくいん のスパニッシュ・ミッション式 しき に通 つう じるものだが、こちらは寄 よせ 棟 とう 屋根 やね で軒 のき の出 だし を割合 わりあい 深 ふか くして居住 きょじゅう 性 せい が重視 じゅうし され、加 くわ えて鉄筋 てっきん コンクリート造 づくり の地階 ちかい の設備 せつび も備 そな えていた。実際 じっさい この竣工 しゅんこう の時 とき には、わが国 くに の住宅 じゅうたく 近代 きんだい 化 か のモデルとして地元 じもと の新聞 しんぶん (神戸 こうべ 新聞 しんぶん 五月 ごがつ 十 じゅう 四 よん 日 にち )に報 ほう じられ、見学 けんがく 者 しゃ は均整 きんせい のとれた形 かたち と居住 きょじゅう 性 せい の良 よ さ、キッチンや収納 しゅうのう 設備 せつび の充実 じゅうじつ ぶりに感心 かんしん させられたという。
1935年 ねん 当時 とうじ の甲子園 こうしえん 球場 きゅうじょう 。外野 がいや スタンド改築 かいちく 前 まえ の姿 すがた
甲子園 こうしえん 球場 きゅうじょう は、阪神電鉄 はんしんでんてつ によって大正 たいしょう 13年 ねん に西宮 にしのみや 市 し の南部 なんぶ 、武庫川 むこがわ 支流 しりゅう の廃 はい 川 がわ 敷 じき に建設 けんせつ された。すでに阪神 はんしん は、阪急 はんきゅう 豊中 とよなか 球場 きゅうじょう でおこなわれていた全国 ぜんこく 中等 ちゅうとう 学校 がっこう 優勝 ゆうしょう 野球 やきゅう 大会 たいかい を自社 じしゃ 運営 うんえい の鳴尾 なるお 運動 うんどう 場 じょう に誘致 ゆうち することに成功 せいこう していた。さらに盛 も り上 あ がりをみせる野球 やきゅう 大会 たいかい のために、本格 ほんかく 的 てき 球場 きゅうじょう の建設 けんせつ が急 いそ がれた。同社 どうしゃ が収集 しゅうしゅう しつつあったアメリカのポロ・グラウンズ や建設 けんせつ 途上 とじょう のヤンキー・スタジアム の資料 しりょう を参考 さんこう に設計 せっけい がまとめられた。同年 どうねん 8月 がつ の野球 やきゅう 大会 たいかい 開催 かいさい はすでに決定 けってい していたから、着工 ちゃっこう から四 よん ヶ月 かげつ 半 はん の突貫 とっかん 工事 こうじ だったという。そのために開場 かいじょう 後 ご も内外 ないがい に未 み 仕上 しあ げ部分 ぶぶん が残 のこ った。外壁 がいへき の打 う ち放 はな しもそのためだった。これにツタ を這 は わせるという方針 ほうしん は完成 かんせい 直後 ちょくご に決 き まったようで、造園 ぞうえん 業者 ぎょうしゃ により施工 しこう された。このツタは昭和 しょうわ に入 はい る頃 ころ には、建物 たてもの のかなりを覆 おお うまでになっていたという。
甲子園 こうしえん ホテル
甲子園 こうしえん ホテル は阪神電鉄 はんしんでんてつ の主導 しゅどう で計画 けいかく が進 すす められ、当時 とうじ 帝国 ていこく ホテルの支配人 しはいにん であった林 はやし 愛 あい 作 さく を迎 むか えて設計 せっけい 、運営 うんえい 計画 けいかく がまとめられた。設計 せっけい は、帝国 ていこく ホテルの設計 せっけい 者 しゃ フランク・ロイド・ライトの弟子 でし の遠藤 えんどう 新 しん で昭和 しょうわ 5年 ねん に建 た てられた。帝国 ていこく ホテルと類似 るいじ の材料 ざいりょう と表現 ひょうげん を用 もち いてまとめられている。煉瓦 れんが には滴 しずく を模 も した装飾 そうしょく が付 つ き、この滴 しずく が屋根 やね を伝 つた い落 お ちるさまが、庇 ひさし を支 ささ える腕 うで や、窓 まど の装飾 そうしょく ガラス、バンケットホールの天井 てんじょう 装飾 そうしょく などに繰 く り返 かえ し形象 けいしょう 化 か される。武庫川 むこがわ 沿 ぞ いのなだらかにくだる広大 こうだい な敷地 しきち に建 た ち、南 みなみ には大 おお きな池 いけ を隔 へだ ててゴルフコースとテニスコートがつづいていたという。
当時 とうじ 、大阪 おおさか には顔 かお となるようなシティホテルがなかった。その結果 けっか 、昭和 しょうわ 11年 ねん に新大阪 しんおおさか ホテル が開業 かいぎょう するまで甲子園 こうしえん ホテルはリゾートホテルとしての顔 かお と同時 どうじ に、大阪 おおさか の迎賓館 げいひんかん としての顔 かお も兼 か ね備 そな えることになり、関西 かんさい を訪 おとず れる国内外 こくないがい からの要人 ようじん が軒並 のきな みここに滞在 たいざい した。その一方 いっぽう で、阪神 はんしん 間 あいだ に住 す む中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の会合 かいごう や会食 かいしょく 、結婚式 けっこんしき やダンスパーティーの会場 かいじょう ともなっていた。
当時 とうじ 建設 けんせつ された主 おも な施設 しせつ ・邸宅 ていたく 等 とう [ 編集 へんしゅう ]
兵庫 ひょうご 県 けん 公館 こうかん
旧 きゅう 魚 さかな 崎 さき 町 まち 役場 やくば
旧 きゅう 大庄 だいしょう 村役場 むらやくば
芦屋 あしや 警察 けいさつ 署 しょ 旧 きゅう 庁舎 ちょうしゃ 玄関 げんかん
旧 きゅう 尼崎 あまがさき 警察 けいさつ 署 しょ
神戸女学院大学 こうべじょがくいんだいがく 理学 りがく 館 かん
神戸大学 こうべだいがく 六甲台 ろっこうだい 本館 ほんかん (
国 くに 登録 とうろく 有形 ゆうけい 文化財 ぶんかざい )
兵庫 ひょうご 県立 けんりつ 神戸 こうべ 高等 こうとう 学校 がっこう
兵庫 ひょうご 県立 けんりつ 長田 ながた 高等 こうとう 学校 がっこう 神撫 じんぶ 会館 かいかん
灘 なだ 中学校 ちゅうがっこう ・高等 こうとう 学校 がっこう
奥 おく 平野 へいや 浄水 じょうすい 場 じょう ・旧 きゅう 急速 きゅうそく 濾過 ろか 場 じょう 上屋 うわや (神戸 こうべ 市 し 水 すい の科学 かがく 博物館 はくぶつかん )
武庫 むこ 大橋 おおはし
新川 しんかわ 運河 うんが
神戸 こうべ モスク(神戸 こうべ 回教 かいきょう 寺院 じいん )
日本 にっぽん 基督教 きりすときょう 団 だん 神戸 こうべ 教会 きょうかい
旧 きゅう 神戸 こうべ ユニオン教会 きょうかい
旧 きゅう 関西学院 かんせいがくいん ブランチ・メモリアル・チャペル
本願寺 ほんがんじ 神戸 こうべ 別院 べついん
芦屋 あしや 仏教 ぶっきょう 会館 かいかん
阪神 はんしん 間 あいだ では、当地 とうち に居 きょ を移 うつ した阪神 はんしん の富裕 ふゆう 層 そう を中心 ちゅうしん に、多 おお くの芸術 げいじゅつ 家 か が誕生 たんじょう した。1923年 ねん の関東大震災 かんとうだいしんさい を逃 のが れた東京 とうきょう の芸術 げいじゅつ 家 か らが移住 いじゅう したこともあり、活況 かっきょう を呈 てい することになった。
^ 名称 めいしょう はそれぞれの頭文字 かしらもじ を取 と ったもの。
^ その用法 ようほう は、宗教 しゅうきょう と芸術 げいじゅつ という二 ふた つの領域 りょういき で分 わ かれる。まず、宗教 しゅうきょう においては、カトリック などのキリスト教 きりすときょう において、科学 かがく ・歴史 れきし に矛盾 むじゅん しない教義 きょうぎ を求 もと めようとする運動 うんどう をいう場合 ばあい がある。いわゆる、ヨーロッパにおける「近代 きんだい 」は、キリスト教会 きょうかい が強大 きょうだい な権力 けんりょく をもち、支配 しはい していた中世 ちゅうせい 封建 ほうけん 社会 しゃかい からの解放 かいほう から始 はじ まる。それゆえ、伝統 でんとう 宗教 しゅうきょう の世俗 せぞく 化 か やプロテスタンティズム の台頭 たいとう を意味 いみ する場合 ばあい に、modernismが用 もち いられる。一方 いっぽう 、芸術 げいじゅつ においては、印象派 いんしょうは 、象徴 しょうちょう 主義 しゅぎ 、アール・ヌーボー の流 なが れにおいて呼 よ ぶ場合 ばあい 、未来 みらい 派 は 、構成 こうせい 主義 しゅぎ 、表現 ひょうげん 主義 しゅぎ などから抽象 ちゅうしょう 絵画 かいが が生 う み出 だ される過程 かてい において呼 よ ぶ場合 ばあい 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか のダダ から戦後 せんご のシュールレアリスム への流 なが れを呼 よ ぶ場合 ばあい などがあり、総 そう じて伝統 でんとう 的 てき な価値 かち 観 かん や様式 ようしき を拒絶 きょぜつ し、否定 ひてい するところから始 はじ まる運動 うんどう を、modernismと呼 よ ぶ。
^ 現在 げんざい の神戸 こうべ 市 し 東灘 ひがしなだ 区 く 住吉 すみよし 各 かく 町 まち および灘 なだ 区 く 六甲山 ろっこうさん 町 まち 東部 とうぶ 。
^ 阪神 はんしん 間 あいだ の後背 こうはい 部 ぶ にある六甲 ろっこう 山 さん は、この地域 ちいき の最 もっと も魅力 みりょく ある自然 しぜん 環境 かんきょう の残 のこ されたところであり、今日 きょう のように冷房 れいぼう 機器 きき のなかった当時 とうじ においては、都会 とかい に近 ちか い絶好 ぜっこう の避暑 ひしょ 地 ち であった。
^ 昭和 しょうわ 12年 ねん 頃 ごろ 、小林 こばやし の考案 こうあん に基 もと づいて京都 きょうと の数寄屋 すきや 師 し 、笛吹 うすい 嘉一郎 かいちろう が手 て がけた。3畳 じょう 台 だい 目 め 席 せき の2面 めん に土間 どま 席 せき を付 ふ した新 あたら しい発想 はっそう で、障子 しょうじ をはずせば客 きゃく 座 ざ と土間 どま とはひとつづきになり土間 どま に椅子 いす を置 お けばそこも客席 きゃくせき となった。座 ざ 礼 れい と立礼 りつれい の折衷 せっちゅう 形式 けいしき をいち早 はや く茶室 ちゃしつ に試 こころ みていた点 てん に、小林 こばやし の進歩 しんぽ 的 てき な茶 ちゃ の姿勢 しせい がよく示 しめ されている。
古代 こだい 中 ちゅう 近世 きんせい 地域 ちいき 別 べつ
日本 にっぽん 古代 こだい 中 ちゅう 近世 きんせい
屋根 やね 近 きん 現代 げんだい
近 きん 現代 げんだい