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熊本くまもとけん歴史れきし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
熊本県の歴史の位置(熊本県内)
熊本くまもとけん自治体じちたい /

ほんこうでは、熊本くまもとけん歴史れきし(くまもとけんのれきし)を概説がいせつする。

九州きゅうしゅう中央ちゅうおう位置いちする熊本くまもとけんは、古代こだいの「こえくにくに、ひのくに)」が前後ぜんご二分にぶんされたさい東側ひがしがわきゅう国名こくめいのいわゆる肥後ひごこくめた領域りょういきとほぼ一致いっちする。これは、近世きんせい江戸えど時代じだいまくはん体制たいせいにおいて球磨くまぐん一部いちぶなどがべつはん領土りょうどとされるなど、またぎゃく肥後ひごこく天草あまくさぐんぞくしていた長島ながしま現在げんざいでは鹿児島かごしまけん編入へんにゅうされているなどの一部いちぶ例外れいがいはあるが、府県ふけんせい施行しこうによってかれた九州きゅうしゅうかくけんのうち宮崎みやざきけん日向ひなたこく)とともに伝統でんとうてきくにせいをほぼ維持いじしたれいにあたる。

熊本くまもとけん風土ふうどてき特色とくしょくは、菊池川きくちがわ白川しらかわ流域りゅういき中心ちゅうしんとし阿蘇山あそさんふくけん北部ほくぶいき人吉盆地ひとよしぼんち主軸しゅじくにした球磨川くまがわ流域りゅういき天草諸島あまくさしょとうみっつの地域ちいき大別たいべつすることができる。この区分くぶんはそれぞれ熊本くまもとはん人吉ひとよしはん天領てんりょう天草あまくさというまくはん体制たいせいみっつの区域くいき対応たいおうしており、それぞれ個別こべつ特色とくしょくつ。

熊本くまもとけん歴史れきしをかいつまむと、おおくの遺跡いせき古墳こふんられるゆたかな自然しぜん環境かんきょうとそれを一変いっぺんさせる火山かざん活動かつどう律令制りつりょうせいしたから武士ぶし勃興ぼっこう南北なんぼくあさくにしゅ割拠かっきょそして加藤かとう清正きよまさ入部にゅうぶ細川ほそかわ忠利ただとし入部にゅうぶ幕末ばくまつ動乱どうらんから西南せいなん戦争せんそう戦後せんご公害こうがい問題もんだいまでがおおまかなながれとなる。そして全体ぜんたいとおして、大和やまと朝廷ちょうてい成立せいりつ周辺しゅうへん位置いちにあった肥後ひごこくそして熊本くまもとけん歴史れきしは、つね中央ちゅうおう政権せいけんからの影響えいきょうけつつつづられた。

古代こだい[編集へんしゅう]

大観たいかんほうからのぞ阿蘇あそさんカルデラ

遺構いこうからえる古代こだい熊本くまもと[編集へんしゅう]

日本にっぽん旧石器時代きゅうせっきじだい遺跡いせきのうち、やく1/3にたる100ヶ所かしょ以上いじょう[ちゅう 1]熊本くまもとけん発見はっけんされている。しかし、発掘はっくつ調査ちょうさ数ヶ所すうかしょでしかおこなわれていない[よう出典しゅってん]おおくは阿蘇あそ外輪山がいりんざん一帯いったい球磨くま地方ちほう位置いちするが、水俣みなまた石飛いしとび分校ぶんこう遺跡いせき天草あまくさ下島しもじまうちはら遺跡いせきなども発掘はっくつされ、その分布ぶんぷ県下けんか全域ぜんいきおよぶ。もっとふるいものは熊本くまもと平山ひらやままちいしほん遺跡いせきから出土しゅつどした石器せっきるいであり、炭素たんそC14測定そくていから30000ねん以上いじょうまえのものと推測すいそくされている[1]出土しゅつどすうは4000てんにのぼり、安山岩あんざんがん破片はへんからつくられた小刀こがたなるい局部きょくぶすりせい石斧せきふつかっている。これらや、九州きゅうしゅう比較的ひかくてき自然しぜん環境かんきょうめぐまれた土地とちであったことから、古代こだい熊本くまもとゆたかな狩猟しゅりょう採集さいしゅう社会しゃかい生活せいかつ舞台ぶたいだったと推測すいそくされる。

しかしながら、九州きゅうしゅうおおくの火山かざん噴火ふんかがもたらす環境かんきょう激変げきへんなんおそわれた土地とちでもあった。阿蘇山あそさん姶良あいらさんおにかいカルデラ爆発ばくはつ火山灰かざんばい地層ちそう複数ふくすう形成けいせいし、とく石器せっき時代じだい中期ちゅうきられる姶良あいらTn火山灰かざんばいそう上下じょうげられる出土しゅつどひん比較ひかくや、石飛いしとび分校ぶんこう遺跡いせきどうそう上部じょうぶからつかったほそ石器せっき土器どき破片はへんなどの分析ぶんせきつうじて火山かざん活動かつどうおよぼした環境かんきょう社会しゃかい生活せいかつへの影響えいきょう研究けんきゅうされている。その一方いっぽうで、当時とうじ火砕流かさいりゅうから形成けいせいされた阿蘇あそ溶岩ようがんは、のち良質りょうしつかつ豊富ほうふ石材せきざいとなって肥後ひご石工せっこうささえた[2]

つづ縄文じょうもん時代じだい熊本くまもとけん発見はっけんされた早期そうき遺構いこうは、つまかたちぶん土器どき発掘はっくつされた人吉ひとよし白鳥はくちょうたいらB遺跡いせきなどわずかなれいしかない。これは、やく6200ねんまえやく7300ねんまえとも)のおにかいカルデラ爆発ばくはつおにかいアカホヤ火山灰かざんばい)によって九州きゅうしゅう全土ぜんど壊滅かいめつてき打撃だげきけたためとかんがえられている。しかし縄文じょうもん中期ちゅうきには下益城しもましきぐんげん 熊本くまもとみなみ城南しろみなみまち御領ごりょう貝塚かいづか阿高あだかくろきょう貝塚かいづかられ、後期こうきになると東日本ひがしにっぽん朝鮮半島ちょうせんはんとうとの共通きょうつうてんられる土器どき文化ぶんか発展はってんした。熊本平野くまもとへいや発見はっけんされたやく13箇所かしょ貝塚かいづかはそのほとんどが後期こうきにあたり、現在げんざい海抜かいばつ5mあたりに位置いちしている。宇土うとはたけ貝塚かいづかからはドングリ貯蔵ちょぞう痕跡こんせきられ、また出土しゅつどしたはたけしき土器どき同型どうけいのものが沖縄諸島おきなわしょとう朝鮮半島ちょうせんはんとうからも発見はっけんされている。城南しろみなみまち阿高あだか貝塚かいづかくろきょう貝塚かいづかからつかったイタホガキせいかいめん阿高あだかしき土器どきは、佐賀さがけん腰岳こしだけ黒曜石こくようせきとともに、韓国かんこく釜山ぷさんひがしさんほら(トンサムドン)貝塚かいづかからも出土しゅつどしている。ぎゃくに、天草あまくさ大矢おおや遺跡いせきからは朝鮮半島ちょうせんはんとう形式けいしきであるいしせい結合けつごうばりつかっている。

土器どき生活せいかつ様式ようしきはその進歩しんぽせ、独自どくじ黒色こくしょくすりけん土器どき発達はったつした。また、熊本くまもとうえはら(うえのばる)遺跡いせきからは竪穴たてあな建物たてもの遺構いこうから炭化たんかしたべい大麦おおむぎ発見はっけんされた。当時とうじだい部分ぶぶんうみであった熊本平野くまもとへいやうみ退すさ現象げんしょう河川かせん堆積たいせきぶつによってまり[3]採取さいしゅのみにたよった食料しょくりょう確保かくほから原始げんしてき畑作はたさくへの転換てんかんはじまっていたことをしめしている。このような農耕のうこう痕跡こんせきはこのほかにもすう箇所かしょからつかっている。さらに上南部かみなべ遺跡いせき熊本くまもと)からは土偶どぐうすりせい石器せっき石刀いわとなどの特殊とくしゅ遺物いぶつ数多かずおお出土しゅつどしている。県下けんか縄文じょうもん時代じだい遺跡いせきやく770ヶ所かしょかぞえる。

これらの生活せいかつ遺構いこう弥生やよいになると場所ばしょえ、海岸かいがんせんからはなれた台地だいちうえかんほり集落しゅうらく形成けいせいするようになった。つぼ石斧せきふなど典型てんけいてき弥生やよい時代じだい遺物いぶつ発見はっけんされる遺跡いせきはやがて熊本平野くまもとへいや全域ぜんいきにおよび、ひろ範囲はんい稲作いなさくおこなわれたことをしめしている。一方いっぽう沿岸えんがんにもどう時代じだい小規模しょうきぼ貝塚かいづか発見はっけんされている。宇城三角さんかくまち文蔵ぶぞう貝塚かいづかではいたちいさな巻貝まきがいから多数たすうつかった。これはホンダワラ製塩せいえんほう名残なごりであり、『万葉集まんようしゅう』でうたわれた「藻塩もしおき」がおこなわれていた証拠しょうことされる。

さらに時代じだいくだると、阿蘇山あそさん黒川くろかわ流域りゅういき熊本くまもと平野へいや白川しらかわいきおよび菊池川きくちがわ流域りゅういきからも製鉄せいてつ遺構いこう発見はっけんされた。やりかんな農具のうぐであるすきくわさきかまてつおの、また端切はぎれとかんがえられる三角形さんかっけい棒状ぼうじょうなどの鉄片てっぺんなどもつかっている。二子塚ふたごづか遺跡いせき熊本くまもと)からはあと中心ちゅうしんしょうブロック木炭もくたんねつさび付着ふちゃくしたたいせきなど、製鉄せいてつ痕跡こんせき出土しゅつどしている。また、青銅器せいどうき熊本くまもと徳王とくおう遺跡いせき泗水しすいまち古閑こがげん遺跡いせきから出土しゅつどした銅鏡どうきょうなどがある。弥生やよい時代じだい遺跡いせきすうやく740は日本にっぽん国内こくないの13%をめる。

くに[編集へんしゅう]

初期しょきヤマト王権おうけんは、地方ちほう行政ぎょうせい区画くかくとしてけん(あがた)を設置せっちした。『日本書紀にほんしょき』・『筑後ちくごこく風土記ふどき』には、のちの熊本くまもと県域けんいきに3つのけん記載きさいがある。球磨くまけんはその名称めいしょう現在げんざいがれ、閼宗けん(あそ-)は阿蘇あそ地方ちほう対応たいおうする。八代やしろけん現在げんざい宇土うど地方ちほうふくむよりひろ領域りょういきふくんでいたとかんがえられる。緑川みどりかわ氷川ひかわはさまれた宇土半島うとはんとう基部きぶでは塚原つかはら古墳こふんぐん代表だいひょうされる120前後ぜんこう前方後円墳ぜんぽうこうえんふん発掘はっくつされているが、このなかのひとつ向野田むこうのた古墳こふん宇土うと松山まつやままち)には30だい推定すいていされる未婚みこん女性じょせい埋葬まいそうされていた[4]

江田えだ船山ふなやま古墳こふん

宇土半島うとはんとう基部きぶ遺跡いせきは、装飾そうしょく文様もんようほどこされたくにえつ古墳こふん氷川ひかわ流域りゅういき丘陵きゅうりょう形成けいせいされた野津のつ古墳こふんぐんなどに代表だいひょうされ、この地域ちいきくん(ひのきみ)発祥はっしょうとされている。くん地域ちいき代表だいひょうする豪族ごうぞくであり、『古事記こじき』ではかみ八井はっせいみみいのち(かみやいみみのみこと)の後裔こうえいとして、『日本書紀にほんしょき』や『肥前ひぜんこく風土記ふどき』ではくまかさね討伐とうばつたしたけいぎょう天皇てんのういちぎょう不思議ふしぎさそわれていたった土蜘蛛つちぐも退治たいじ活躍かつやくしたもの子孫しそんとしてしるされている。そして、この故事こじから「こく(ひのくに)」の名称めいしょうまれたとされる。

江田えだ船山ふなやま古墳こふんから出土しゅつどした大刀たち銘文めいぶんから、くんなどくに豪族ごうぞくすで近畿きんき大伴おおとも物部ものべ関係かんけいっていたことがあきらかになっている。豪族ごうぞくのひとつ建部たけべくん(たけべのきみ)は、その大和やまと朝廷ちょうていから軍事ぐんじてき部民ぶみんとして下賜かしされた一族いちぞくで、現在げんざい熊本くまもと黒髪くろかみ子飼本こかいほんまち相当そうとうする中世ちゅうせいまでの地名ちめい武部たけべ竹部たけべ建部たけべあたりを本拠ほんきょとしていたとおもわれる。

菊池川きくちがわ流域りゅういき発掘はっくつされる古墳こふんぐん少々しょうしょう時代じだいくだり、竜王山りゅうおうさん古墳こふん山鹿やまが)・山下やました古墳こふん玉名たまな)・いんづか古墳こふん岱明たいめいまち)がられ、これらは日置ひおきくん(ひおきべのきみ)一族いちぞくとみなされる。阿蘇あそ一宮いちのみやまちにある中通なかとおり古墳こふん阿蘇あそくん(あそのきみ)の築造ちくぞうとされる。これらの墳墓ふんぼから発掘はっくつされるかいなどは、当時とうじ豪族ごうぞくがさかんな交易こうえきおこなっていたことをしめしている。さらに、阿蘇あそ溶結凝灰岩ぎょうかいがんからつくられた舟形ふながた石棺せっかん瀬戸内海せとないかい沿岸えんがん近畿きんき地方ちほう古墳こふんにももちいられている[2- 1] ことから、この交易こうえき相当そうとう広範囲こうはんいにわたる規模きぼのもので、豪族ごうぞくたちの権勢けんせいささえていたと推測すいそくされる。けん全体ぜんたい確認かくにんされた古墳こふんやく1300ほどかぞえ、これは国内こくないの24%にたる。

磐井いわいらん以後いご九州きゅうしゅうへの支配しはい体制たいせい強化きょうかした大和やまと朝廷ちょうていは、当地とうち軍事ぐんじりょくさい編成へんせいたむろくら設置せっちなど支配しはいりょく強化きょうかした。この一連いちれんなかで、くにには大伴おおとも部民ぶみんおおはいされた。これらは、『万葉集まんようしゅうまき5、『和名わみょう類聚るいじゅうしょう和名わみょうしょう)』、東大寺とうだいじ出土しゅつど木簡もっかんなどの記述きじゅつからいだせる。『日本書紀にほんしょき』にあるくに春日部かすかべたむろくら熊本くまもと春日かすがまち)は九州きゅうしゅうちゅう南部なんぶ豪族ごうぞく反乱はんらんにらみをかす朝廷ちょうてい出先でさき機関きかんという性格せいかくゆうし、軍事ぐんじてきかつ経済けいざいてき拠点きょてんとしても機能きのうした。『ずいしょ』のなか阿蘇山あそさん噴火ふんかしるしたくだりがある[5]。これはずい使おこなわれた推古天皇すいこてんのうつたえられた情報じょうほうかんがえられており、くに大和やまと朝廷ちょうていにとって重要じゅうよう拠点きょてんのひとつだったことをしめ傍証ぼうしょうにもなっている。

律令制りつりょうせい肥後ひご[編集へんしゅう]

肥後ひご[編集へんしゅう]

れいせいこく肥後ひごこく」が史書ししょはじめてしるされたのは、『日本書紀にほんしょきもちみつるじゅうねんよんがつつちのえいぬにある白村はくそんこうたたか捕虜ほりょとなり33ねんぶりに帰国きこくした兵士へいし肥後ひごこくかわいしぐん合志こうしぐんにん壬生みぶしょいし(みぶのもろいし)」について記述きじゅつした箇所かしょられる。朝廷ちょうていは、帰国きこくしたかれ家族かぞく労苦ろうくたい水田すいでん物品ぶっぴんあたえ、またぜい免除めんじょなどを以ってむくいたとある。

歴史れきし公園こうえんとして復元ふくげんされたきくさとしじょう

日本書紀にほんしょきつぎ編纂へんさんされた「ぞく日本にっぽん文武ぶんぶねんがつじゅうにちじょうに、きくさとしじょうつくろえけんせている。これはとうしん連合れんごうぐん来寇らいこうそなえ、大宰府だざいふ防衛ぼうえいする大野城おおのじょうもと肄城どう時期じき現在げんざい山鹿やまがきゅう菊鹿きくかまち)に建設けんせつされたものである。ただしきくさとしじょう武器ぶき兵糧ひょうろう供給きょうきゅうまたは防人さきもりひかえる支援しえん基地きちとしての性格せいかくつよかった[6]

律令制りつりょうせいにおいては肥後ひごこくにも国府こくふかれ、その場所ばしょは『和名わみょう類聚るいじゅうしょう』には益城ましきぐん、『伊呂波いろはるいしょう』には飽田あきたぐん熊本くまもと二本木にほんき)、鎌倉かまくら時代じだいの『ひろえあくたしょう』では益城ましき飽田あきたぐんのふたつが併記へいきされている。一方いっぽう地名ちめいとしての「国府こくふ」はたくあさぐん熊本くまもと国府こくふ)にあり、『日本にっぽん霊異れいいたからひさし年間ねんかんごろ説話せつわには「たくあさ国分寺こくぶんじ」という記述きじゅつがある。発掘はっくつおこなわれたところ熊本くまもと国府こくふから9世紀せいきちゅうごろの遺構いこう発見はっけんされたが、これには洪水こうずいによる破壊はかい痕跡こんせき[ちゅう 2]られた。この発見はっけんから、当初とうしょたくあさにあった国府こくふ水害すいがいこうむり、益城ましき飽田あきたいずれかに移転いてんしたものとかんがえられている。ただし、これを裏付うらづける遺跡いせき遺物いぶつ発見はっけんにはいまいたっていない。

一方いっぽう官職かんしょく肥後守ひごのかみ(ひごのかみ)」は『ふところふう』に五音ごいんあきえん」をせた作者さくしゃせい五位下肥後守道公首名(ひごのかみみちのきみおびとな)」にられる。みちこうくびめいは663ねん北陸ほくりくみちくん一族いちぞくまれ、しん大使たいし筑後ちくごまもる兼任けんにん肥後守ひごのかみ就任しゅうにんした。『ぞく日本にっぽん』にはくびめい系譜けいふ生涯しょうがいなどとすぐれた業績ぎょうせき記録きろくした「そつでん」があり、治水ちすい灌漑かんがいのための溜池ためいけあじせい(あじうのいけ)」(げん熊本くまもと市立しりつ池上いけがみ小学校しょうがっこう北側きたがわ一帯いったい[7])をきずいた事例じれいなどがせられている。ぞく日本にっぽんでは通常つうじょうそつでん」は僧侶そうりょのぞ律令りつりょう官位かんいせい以下いかもの記録きろくしないが、せいみちこうくびめいだけ[ちゅう 3]生前せいぜん伝記でんきたる「そつでん」が詳細しょうさい記録きろくされている。これは、くびめい地方ちほう行政ぎょうせい律令りつりょうはんたるものであったことにくわえ、天智天皇てんぢてんのうみちくん一族いちぞくこしみちくん伊勢いせみやこうり(こしのみちのきみいらつめ)のあいだまれた志貴しき皇子おうじひかりじん天皇てんのうちちであり、『ぞく日本にっぽん編纂へんさん天皇てんのう血縁けつえんにあったことも影響えいきょうしているとかんがえられる。

肥後ひご国司こくしには、このみちこうくびめいほかきの夏井なつい藤原ふじわら保昌やすまさらも赴任ふにんし、平安へいあん時代じだい国司こくし清原きよはらもと肥後ひごおんな歌人かじん檜垣ひがきおうなとの交流こうりゅうについてはさまざまな説話せつわのこされている[3]

律令りつりょう制度せいど[編集へんしゅう]

飛鳥あすか時代ときよから導入どうにゅうされた律令りつりょう調しらべいさおのうち、肥後ひごからおさめられる特徴とくちょうてき品目ひんもくまゆ綿めん絹織物きぬおりものがあった。これは『和名わみょう類聚るいじゅうしょう』および『ぞく日本にっぽんちゅうに、みつぎしんされる数量すうりょうおおさとともにしるされている。また、むらさきくさおおみつぎじょうされ、これらは平城京へいじょうきょうあと大宰府だざいふから出土しゅつどした木簡もっかんにある記述きじゅつ裏付うらづけられている。このほかにも、朝廷ちょうてい正月しょうがつふしかいりょうのための「腹赤はらかぎょ(はらか)」など海産物かいさんぶつ献上けんじょう記録きろくなどがのこされている。肥後ひごこく納税のうぜい能力のうりょくたかく、『ひろしひとし主税ちからしき』に記録きろくされただしきょいねすうでは、九州きゅうしゅう総計そうけい459まんたばのうち123まんたば肥後ひごこくめている。そのため公営こうえいせい導入どうにゅうにおいて肥後ひごこくは、のべれき14ねん(795ねん)にはくに等級とうきゅう区分くぶんが「うえこく」から「大国たいこく」へと昇格しょうかくされ、その中心ちゅうしんにないちこくえられた。

これら租税そぜい徴収ちょうしゅうおよび軍事ぐんじなど地方ちほう行政ぎょうせい遂行すいこうするため、肥後ひごこくにもじょうさとせいかれ、郡家こおげぐん衙)や駅路えきろ車路くるまじ(くるまじ)が整備せいびされた。ただし、記録きろくのこじょうさとせい区域くいきは、一部いちぶ阿蘇あそカルデラないのぞ菊池川きくちがわ流域りゅういきおよび熊本平野くまもとへいや集中しゅうちゅうし、「コ」の字形じけい配列はいれつされた掘立柱ほったてばしら特徴とくちょうてきられるぐん遺構いこうもそれらの中心ちゅうしんめるかたち発掘はっくつされている。みち筑紫つくしこくからくだり、熊本平野くまもとへいや南北なんぼくつらぬいて馬屋うまやである益城ましきえきつづく。現在げんざい熊本くまもと北部ほくぶきゅう地名ちめい子飼こがいまち」)には、まゆ綿めん輸送ゆそう中継ちゅうけいてんであった「蚕養こがいえき(こかいえき)」が設置せっちされた[ちゅう 4]

肥後ひごこくはまた、朝廷ちょうていえき伝馬てんまもちいられるうま供給きょうきゅうする「まき[2- 2]にない、『延喜えんぎしき』にはじゅうまき(ふたえまき、阿蘇あそ外輪山がいりんざんはさ阿蘇あそまち大津おおつまちまたがる)となみりょうまき(はらまき、小国おぐにまち一帯いったい推測すいそくされる)、さらに『日本にっぽんさんだい実録じつろく』には大宅おおたくまき(おおやけまき、宇土半島うとはんとう)が記録きろくされている。また山鹿やまがのこ昔話むかしばなしに、だい田畑たはたほこ米原まいばら長者ちょうじゃがやはりだい地主じぬしげん長者ちょうじゃたからくらべをおこない、金銀きんぎん財宝ざいほうげた米原まいばら長者ちょうじゃたい凛々りりしい子息しそくらとうつくしい子女しじょらをならべたげん長者ちょうじゃ民衆みんしゅう軍配ぐんばいげるはなしがある[8]。このげん長者ちょうじゃすうひゃくとう牛馬ぎゅうばち、かんどうへのえき供給きょうきゅうになった実力じつりょくしゃであったと推測すいそくされている。

しろかめ[編集へんしゅう]

神護かんごけいくも元年がんねん(768ねん)、肥後ひごこく葦北いほくぐんからしろかめ朝廷ちょうてい献上けんじょうされた。3ねんにもおなれいがあるが、こちらは歴史れきしおおきく関与かんよした。神護かんごけいくも4ねん(771ねん)8がつ葦北いほくぐん益城ましきぐん箇所かしょから白亀しらかめ献上けんじょうされたが、同月どうげつしょうとく天皇てんのうぼっしたつきかさなり、天智てんじけいひかりじん天皇てんのう即位そくいしたときでもあった。だいみずしめかめ出現しゅつげんけて10がつ元号げんごうが「たからひさし」にあらためられ、権勢けんせいほこった道鏡どうきょう失墜しっついした。

この度目どめ白亀しらかめ献上けんじょうは、『ぞく日本にっぽん』によると国司こくしである肥後ひごまもる大伴おおとも宿禰すくねえきりつおこなった。宝亀ほうき3ねん(773ねん)にはまたも白亀しらかめ献上けんじょうした肥後ひごこくは、瑞祥ずいしょうしめすことで天武てんむけいから天智てんじけいへの転換てんかん後押あとおしし、そこには大伴おおとも関与かんよがあったものと推測すいそくされている。ただし、藤原ふじわらたねつぎ暗殺あんさつ計画けいかく関与かんよしたとして大伴家持おおとものやかもち一族いちぞく処罰しょばつされると、肥後ひご国司くにじ系列けいれつ大伴おおともられなくなり、藤原ふじわら系列けいれつがそのしょくることとなった。

中世ちゅうせいはじまり[編集へんしゅう]

武士ぶし勃興ぼっこう[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい後期こうき日本にっぽん各地かくち武士ぶし勃興ぼっこう勢力せいりょく確立かくりつしてゆく。これは肥後ひごこくにおいても同様どうようられ、有力ゆうりょく武士ぶしだん形成けいせいされた。しかし、いずれも肥後ひごいちこく支配しはいく「いちこく棟梁とうりょう」にいたったものまれず、これは豊臣とよとみ秀吉ひでよし登場とうじょうたなければならなかった。

肥後ひご代表だいひょうする武士ぶしだん菊池きくち阿蘇あそ両氏りょうしであり、緑川みどりかわ流域りゅういき木原きはら諸島しょとう天草あまくさ人吉ひとよし球磨川くまがわ流域りゅういきよりどころした関東かんとう下向げこうけい相良さがら戦国せんごく時代じだいせた隈部くまべなどもられている。肥後ひごかぎらず九州きゅうしゅう武士ぶしかんすなわち大宰府だざいふ所属しょぞくする仕官しかん源流げんりゅうとするものがおおく、かたな入寇にゅうこうときたたかいにたった諸氏しょし記録きろくられる。

菊池きくちはじまり[編集へんしゅう]

菊池きくちは、その初代しょだい菊池きくちのりたかしが、かたな入寇にゅうこうにおいてだいおさむけんそち藤原隆家ふじわらのたかいえ配下はいか活躍かつやくした藤原ふじわらけい郎党ろうとう政則まさのりぞうぶんまわし)をちちつとされる。当時とうじ九州きゅうしゅう有力ゆうりょく豪族ごうぞく権威けんい保持ほじ拡大かくだいするために大宰府だざいふとの接触せっしょくったが、菊池きくちもこのれいそくしていた。ただし、太宰だざいしょう対馬つしまもり任命にんめいされた政則まさのりたいし、のりたかしやその政隆まさたか西郷さいごう太郎たろう)は郡司ぐんじいえ系列けいれつの「肥後ひごこく住人じゅうにん」ともされていたことから、両者りょうしゃにはかならずしも血筋ちすじつながりあったとはかぎらず、本来ほんらい主従しゅうじゅう関係かんけいにあったともするかんがえもある[ちゅう 5]

阿蘇あそはじまり[編集へんしゅう]

もうひとつ、中世ちゅうせい肥後ひご有力ゆうりょく武士ぶしだんとなる阿蘇あそ宇治うじせい)は特異とくい性質せいしつっていた。阿蘇あそは、阿蘇あそ国造くにのみやつこ系列けいれつしょうし、また古代こだい火山かざんしん地域ちいき農業のうぎょうしん習合しゅうごうした阿蘇あそ神社じんじゃ[2- 3]神官しんかん世襲せしゅうする豪族ごうぞくであった。のべ年間ねんかんには、阿蘇あそ山麓さんろく開発かいはつした田地でんち中院なかのいん右大臣うだいじんみなもとまさじょう)を領家りょうけ安楽寿院あんらくじゅいん本家ほんけとする荘園しょうえんとして寄進きしんし、開発かいはつ領主りょうしゅから本所ほんじょへと地位ちいかためた。さらに健軍けんぐんしゃ健軍けんぐん神社じんじゃ)・甲佐こうさしゃ甲佐こうさ神社じんじゃ)・郡浦こおのうらしゃ郡浦こおのうら神社じんじゃ)を傘下さんかとし、白川しらかわ緑川みどりかわ流域りゅういきたる肥後ひごこく中央ちゅうおう勢力せいりょくいた。阿蘇あそ神社じんじゃ肥後ひごこく一宮いちのみやとなり、みや造営ぞうえいなどの経費けいひいちこく平均へいきんやくまかなわれるなど、権威けんい拡大かくだいした。これらの権勢けんせい背景はいけいに、阿蘇あそ武士ぶしだん形成けいせいした。それは、のべ3ねん(1137ねん)の資料しりょうはつされる、宇治うじおもんみせん神官しんかんちょう武士ぶしだんちょうねるさいもちいる「大宮おおみやつかさ」をしょうしたことをはじまりとしている。

なお、阿蘇あそとお阿蘇あそ出自しゅつじとするものの、全盛期ぜんせいきは、阿蘇あそみなみ外輪山がいりんざん現在げんざい山都やまとまちにあったとされる「はまかん時代じだいであった。当時とうじ阿蘇あそよりも矢部やべほう生産せいさんせいたかかったようで、「岩尾いわおしろ」「あいふじてらじょう別名べつめい矢部やべじょう」など要害ようがい堅牢けんろう山城やましろ築城ちくじょうして勢力せいりょくほこった。

初期しょき武士ぶしだん形成けいせいあらそ[編集へんしゅう]

平安へいあん時代じだい後期こうきには、地方ちほう勃興ぼっこうする武士ぶし勢力せいりょくによる小規模しょうきぼあらそいがられた。またそこに、白河しらかわ上皇じょうこうはじまる院政いんせい背景はいけいとした国司こくし支配しはいからまり、複雑ふくざつ模様もようていした。

肥後ひごかぎらず九州きゅうしゅうでは、鎮西ちんぜいそうつい使つかいしょうした源為朝みなもとのためとも鎮西八郎為朝ちんぜいはちろうためとも)が乱暴らんぼうかさねたという記述きじゅつを『もと物語ものがたり』にることができ、各所かくしょ伝承でんしょうのこっている。下益城しもましきぐんげん 熊本くまもとみなみ富合とみあいまちにある木原山もくばるやま別名べつめいかりかいやまというが、これは同山どうさんとりでいた鎮西ちんぜい八郎はちろうゆみ腕前うでまえおそかりがこのやまけてんだという逸話いつわ由来ゆらいとしている[9]。しかし『高野山こうのやま文書ぶんしょ』にある久安ひさやす2ねん(1146ねん)の訴状そじょうによると、当地とうちはん体制たいせい騒乱そうらんこしたのは地方ちほう武士ぶし木原きはら広実ひろみであったとされ、源為朝みなもとのためともがこのやまこもった証拠しょうこい。この訴状そじょうにはほかにも、現在げんざい上益城かみましきぐん甲佐こうさまちよりどころした菊池きくちけい田口たぐちけいのべぎょう親子おやこ国衙こくが襲撃しゅうげきした事件じけんせているが、この舞台ぶたいとなった山手やまてむらにも鎮西ちんぜい八郎はちろう武威ぶいしめすためしろはたてたという伝説でんせつ[2- 4] があり、現在げんざいでは白旗はっきという地名ちめいになっている。このように、九州きゅうしゅういちえんのこ鎮西ちんぜい八郎はちろう伝説でんせつは、当時とうじおおくの地方ちほう武士ぶし勢力せいりょく局地きょくちてき争乱そうらんこし、これらが源為朝みなもとのためとも所業しょぎょう集約しゅうやくされのこされたとかんがえられている。

源平げんぺい狭間はざま[編集へんしゅう]

もとらん以降いこう平清盛たいらのきよもりだいおさむ大弐だいに就任しゅうにんすると、肥後ひごこくふく九州きゅうしゅうには平家ひらか影響えいきょうりょくつよおよはじめた。院政いんせい権力けんりょくむすび、おうりょう荘園しょうえんりょうあずかしょしょく一族いちぞくめ、また受領じゅりょうとして国衙こくが行政ぎょうせいけん掌握しょうあくした。このうごきに地方ちほう武士ぶしだんは、平家へいけ軍門ぐんもんくだるか、もしくは反抗はんこうこころみるかの二者択一にしゃたくいつせまられた。当時とうじ菊池きくち棟梁とうりょうりゅうただしえらんだのは後者こうしゃみちだった。うけたまわ4ねん(1180ねん)、菊池きくちたかしじき大宮おおみやつかさ阿蘇あそおもんみやす木原きはら次郎じろうもりみのるなど肥後ひご有力ゆうりょく武将ぶしょうがった。この鎮西ちんぜい反乱はんらんは、『たま』では「筑紫つくし反乱はんらん」と、終結しゅうけつした年号ねんごうから「養和ようわ内乱ないらん」ともばれる。かずまんへいを以って一時いちじ大宰府だざいふにまではいった肥後ひごぜいではあったが、平家へいけがわはたらきかけにより朝廷ちょうてい原田はらだたねただし反乱はんらん分子ぶんし意味いみする「鎮西ちんぜいぞく菊池きくちたかしちょく追討ついとう宣旨せんじくだし、平貞能たいらのさだよし追討ついとう使として九州きゅうしゅう派遣はけんした。されはじめた肥後ひごいちとう本拠ほんきょまれ、養和ようわ2ねん(1182ねん)4がつには降伏ごうぶく肥後ひご武士ぶしだん平家へいけかたまれた。

吾妻あづまきょう』・『平家ひらか物語ものがたり』・『源平げんぺい盛衰せいすい』また『歴代れきだい鎮西ちんぜい要略ようりゃく』では、この「鎮西ちんぜい反乱はんらん」は勃興ぼっこう同年どうねん伊豆いず挙兵きょへいしたみなもと頼朝よりとも呼応こおうしたものとされるが、実態じったいことなり地方ちほう勢力せいりょく反乱はんらんであった。それどころか、寿ことぶきひさし2ねん(1183ねん)に安徳天皇あんとくてんのうほうじて九州きゅうしゅうびた平家へいけしたがった菊池きくちたかしじきを、鎌倉かまくら幕府ばくふ平家へいけくみした「張本ちょうほんやから」とだんじた。ただし、菊池きくち鎌倉かまくら時代じだい御家人ごけにんとして存続そんぞくしたてんから「鎮西ちんぜい反乱はんらん」が源氏げんじかたにも考慮こうりょされた可能かのうせい否定ひていできない。また、当時とうじすで球磨くま地方ちほう多良木たらぎそうった相良さがら平家へいけかたとして活動かつどうしたが、幕府ばくふ成立せいりつ謝意しゃいしめしてゆるされたとされる。しかし、これはぎゃくばっけて氏族しぞく本拠ほんきょ遠江とおとうみこく相良さがらそう追放ついほうされた結果けっかとのせつもある[10]

阿蘇あそ木原きはらという有力ゆうりょく武士ぶしだん配下はいか反乱はんらんこした菊池きくちたかしじき当時とうじいちこく棟梁とうりょう」にもっとちか位置いちにいたが、結果けっか養和ようわ内乱ないらん」は中央ちゅうおう武家ぶけ権力けんりょくによる肥後ひご支配しはい役割やくわりになってしまった。また、球磨くまいちぐん範囲はんいとしていた球磨くまそう平家ひらかぼつかんりょうとみなされて鎌倉かまくら幕府ばくふによって解体かいたいされ、その一部いちぶであった人吉ひとよしそうのち相良さがらあたえられることになった。

熊本くまもとけんやその近郊きんこうには、平家へいけじん伝説でんせつのこる。その場所ばしょとしては、八代やしろ泉町いずみちょういえそう[11]隣接りんせつする宮崎みやざきけん椎葉しいばむらなどがられている。

鎌倉かまくら政権せいけん肥後ひご[編集へんしゅう]

文治ぶんじ勅許ちょっきょによって守護しゅご地頭じとう設置せっちされると、平家へいけかたにあった肥後ひごこくでは東国とうごく武士ぶしおお惣地そうちあたましょくめた。「張本ちょうほんやから」とされた菊池きくちは、後鳥羽上皇ごとばじょうこう院宣いんぜんはじまる承久じょうきゅうらん菊池きくちたかしのう上皇じょうこうかたくわわったこともあり所領しょりょう没収ぼっしゅうされたが、おおくの肥後ひご在郷ざいきょう武士ぶし惣地そうちあたまの「ところこらえ」(指導しどう統制とうせい)にふくしょう地頭じとうまれた。

熊本くまもと北部ほくぶにあった有名ゆうめい荘園しょうえん鹿子木かのこぎそう」は、訴状そじょう資料しりょうとして作成さくせいされた『鹿子木かのこぎそう条々じょうじょうごとしょ』で主張しゅちょうされた開発かいはつ領主りょうしゅ権限けんげんつよさをしめ事例じれいられていた。しかし、のちにこの訴状そじょう開発かいはつ領主りょうしゅとされた沙弥さや寿ことぶきたえ実際じっさいには受領じゅりょうであったことが判明はんめいし、開発かいはつ領主りょうしゅ権限けんげん職権しょっけん留保りゅうほ上分かみぶん寄進きしん」には疑問ぎもんていされている[ちゅう 6]。また実際じっさいに、安泰あんたい目指めざ領地りょうち寄進きしんした地方ちほう武士ぶしが、えに代官だいかんしょくをやがてしつなったり、または訴訟そしょうやぶ喪失そうしつするれいなどもあった。

こうむ襲来しゅうらい絵詞えことば』より。ぶんながやくにおいて奮戦ふんせんする竹崎たけざきちょうみぎ

こうむ襲来しゅうらい[編集へんしゅう]

ぶんひさし5ねん(1268ねん)と8ねん(1271ねん)に修好しゅうこうせまもと使者ししゃかえした幕府ばくふは、来寇らいこう覚悟かくごし、おおくの武士ぶし博多はかた集結しゅうけつさせた。ぶんなが11ねん(1274ねん)10がつ19にち対馬つしま壱岐いきなどを経由けいゆしたこうむぐんふね博多湾はかたわんせ、いわゆるもとはじまった。このやくには菊池きくち詫間たくま相良さがらなど肥後ひご武士ぶしおおさんじた。集団しゅうだんせん優位ゆうい大宰府だざいふちか水城みずきまで戦線せんせんすすめたこうむぐんだったが、一旦いったん軍船ぐんせん退却たいきゃくしたところ暴風雨ぼうふううおそおおくが難破なんぱしてしまい、もとぐん敗退はいたいした。

しかしさいかさね必至ひっしにらんだ幕府ばくふは、旧習きゅうしゅうやぶれいはっした。それまでは御家人ごけにんのみを対象たいしょうとしていた原則げんそく拡大かくだいし、「本所ほんじょいちえん住人じゅうにん」すなわち御家人ごけにんまでにも幕府ばくふ出陣しゅつじんもとめ、軍功ぐんこうには恩賞おんしょうむくいると告知こくちした。また、先手せんてこううららへの遠征えんせい計画けいかくり、兵力へいりょく注進ちゅうしん守護しゅごめいじた。このうち、肥後ひご北部ほくぶ武士ぶし名簿めいぼつづった報告ほうこくしょ一部いちぶは、のち裏面りめんもちいて『筥崎八幡宮はちまんぐう神宝しんぽう』がつくられたため、その内容ないよう今日きょうることが出来できる。ここにられる武士ぶしなかには、井芹いせり西向にしむき(いせりさいこう)のように惣地そうちあたま横暴おうぼうのため領地りょうちうしなったものもいた。高麗こうらい遠征えんせい博多はかた湾岸わんがんいし築地つきじ設営せつえい注力ちゅうりょくするためりやめられたが、召集しょうしゅうされた兵力へいりょく警備けいびけられ、肥後ひご武士たけしたちもいき松原まつばらめた。

弘安ひろやす4ねん(1281ねん)6がつ3にちこうむぐんはふたたび博多湾はかたわん来襲らいしゅうしたが警備けいび武士ぶしいし築地つきじはばまれ一旦いったん退却たいきゃく江南こうなんぐん合流ごうりゅうし7がつ27にち鷹島たかしまおき到着とうちゃくしたが、今度こんど台風たいふうたり難破なんぱせん続出ぞくしゅつした。武士ぶしだんざんぐん掃討そうとうをかけ、肥後ひご武士たけし奮闘ふんとうした。

この戦役せんえきぶんながやく弘安ひろやすやく)でたたかった肥後ひご武士たけし一人ひとり竹崎たけざきちょうは、のち戦役せんえき模様もようなどをつたえる『こうむ襲来しゅうらい絵詞えことば』を編纂へんさんした。菊池きくちの庶流とされる竹崎たけざきは、豊福とよふくそう[12] 竹崎たけざき現在げんざい宇城松橋まつはしまち竹崎たけざき)にましましたくに御家人ごけにんであった。そのなかちょう訴訟そしょうやぶいちぞくからも孤立こりつしていた。そのようなときこったぶんながやくかれにとって千載一遇せんざいいちぐう好機こうきであり、わずか5れて参戦さんせんした。おそれずいどいちばんけのこうげたが、注進ちゅうしん恩賞おんしょうあずかれなかった。翌年よくねんかれ馬具ばぐなどをはらって旅費りょひ工面くめんし、中間ちゅうかん2人ふたりだけをともなって鎌倉かまくらまでおもむいて、建治けんじ2ねん(1276ねん恩賞おんしょう奉行ぶぎょう安達あだち泰盛やすもり謁見えっけんうったた。泰盛やすもりこうみとめ、ちょう東海とうかいきょう現在げんざいの宇城小川おがわまち)の地頭じとうしょくあたえた。

弘安ひろやすやくでも活躍かつやくせた竹崎たけざきちょうは、のち東海とうかいきょう経営けいえい手腕しゅわん発揮はっきした。これはおけぶんうみ東郷とうごうしゃ 定置ていち条々じょうじょうごと』の内容ないようや、霜月しもづき騒動そうどうほろぼした恩人おんじん安達あだち泰盛やすもりしの発案はつあんしたともされる『こうむ襲来しゅうらい絵詞えことば作成さくせい充分じゅうぶん財力ざいりょくていたところからも推測すいそくされる。

とくむね専制せんせい影響えいきょう[編集へんしゅう]

うった竹崎たけざきちょう最終さいしゅうてき恩賞おんしょうたが、かれのように武功ぶこうげながらなん褒章ほうしょうけられなかったものおおく、御家人ごけにん貧窮ひんきゅうすすんだ。さらにひろしもと4ねん(1246ねん執権しっけん就任しゅうにんした北条ほうじょうよりゆき幕府ばくふ権力けんりょく掌握しょうあくはん北条ほうじょう勢力せいりょく排除はいじょつよめ、もと寇という外患がいかん利用りようし、北条ほうじょう一門いちもんによる専制せんせい体制たいせいかためた。肥後ひごこくあたえた影響えいきょうおおきく、弘安ひろやす徳政とくせいこと是正ぜせいこころみた安達あだち泰盛やすもりはいされた霜月しもつき騒動そうどう以後いご守護しゅごしょくとくむねまたは北条ほうじょうぞく独占どくせんし、いちこく平均へいきんやくされるぜい徴収ちょうしゅうなど本来ほんらい国司こくし権限けんげん守護しゅごになうようになった。とくそうりょうとされた荘園しょうえんおおく、菊池きくちそう熊本くまもと平野へいやかく荘園しょうえんはちだい球磨くまぐんおよび天草てんぐさひろしもと2ねん(1244ねん)に相良さがらからうばった人吉ひとよしそう北方ほっぽうなど、肥後ひご国内こくない全域ぜんいきおよんだ。所領しょりょううばわれたり、安堵あんど自立じりつおびえやかされるなど矛盾むじゅんふくんだ政治せいじおおくの不満ふまん不平ふへいしょうじ、はん体制たいせい勢力せいりょくである「悪党あくとう」の発生はっせいつながってゆく。

末法まっぽう肥後ひご[編集へんしゅう]

ながうけたまわ7ねん(1052ねん)は仏教ぶっきょう末法まっぽう元年がんねんとされ、救済きゅうさいもとめる宗教しゅうきょう運動うんどうこえでもられた。最初さいしょれいえいたもつ元年がんねん(1081ねん)に建立こんりゅうされた現在げんざい御船みふねまちにある玉虫たまむし如法にょほうけいとうであり、著名ちょめいなものは久安ひさやす元年がんねんげん山鹿やまが凡導てらにある滑石かっせきせいけいとうがある。これらの背景はいけいには肥後ひご武士たけしだん勃興ぼっこうによる争乱そうらんがあったものと推測すいそくされる。

法然ほうねんはじまり、衆生しゅじょう救済きゅうさいかかげた浄土宗じょうどしゅう肥後ひご伝播でんぱは、安貞やすさだ2ねん(1228ねん白川しらかわ沿いの往生おうじょういんひらかれたわきまえおもねべつ念仏ねんぶつはじまるとされる。同年どうねん宇土うと西光さいこういんでも念仏ねんぶつしゅうしたべんおもねは、鎌倉かまくら時代じだい浄土宗じょうどしゅう肥後ひごこくひろ浸透しんとうする端緒たんしょひらいた。おお建立こんりゅうされた浄土宗じょうどしゅう阿弥陀堂あみだどうなかでも、人吉ひとよし球磨くま地方ちほう名刹めいさつおおのこっている。これは、鎌倉かまくら初期しょき以降いこう相良さがら当地とうち支配しはいし、それが明治めいじまで一貫いっかんしてつづいたことがおおきい。湯前ゆのまえまちにある熊本くまもとけん最古さいこ建造けんぞうぶつである[13] じょういずみてらげんあかりしるべてら)や多良木たらきまち青蓮寺しょうれんじはその代表だいひょうであり、仏教ぶっきょう建築けんちく阿弥陀あみださんみことぞう法華経ほけきょうおさめたどうせいけいとうなどがつたわっている。

南北なんぼくあさ時代じだい[編集へんしゅう]

菊池きくちたけし菊池きくち容斎ようさい さく前賢ぜんけん故実こじつ』より。

博多はかた合戦かっせんにくしみふか[編集へんしゅう]

後醍醐天皇ごだいごてんのう討幕とうばく運動うんどう呼応こおう護良親王もりよししんのうはっした北条ほうじょうだか討伐とうばつ令旨れいしは、九州きゅうしゅうかく武士ぶしだんにもとどいた。元弘もとひろ3/せいけい2ねん(1333ねん初頭しょとう当時とうじ菊池きくち棟梁とうりょうたけときは、筑後ちくごしょうさだけい豊後ぶんご大友おおとも貞宗さだむね[ちゅう 7] とともに鎮西ちんぜい探題たんだい攻撃こうげきする密約みつやくわし、その準備じゅんびにかかった。しかし、この計画けいかく探題たんだい北条ほうじょう英時ひでときれ、英時ひでときかれらに博多はかたへの出頭しゅっとうめいじた。同年どうねん3がつ12にち菊池きくちたけし阿蘇あそ惟直これなおらをしたがかったが、探題たんだいから遅参ちさんめられた。計画けいかく漏洩ろうえいさっしたたけ決起けっきはたらきかけたがしょう大友おおとも両氏りょうしはこれを拒絶きょぜつした。

3月13にち早朝そうちょう菊池きくちたけし阿蘇あそ惟直これなおらは決意けついかた手勢てぜい150探題たんだいかんんだ。しかししょう大友おおとも両氏りょうし裏切うらぎって探題たんだいがわき、激戦げきせんとなる。菊池きくちぜい以下いかことごとくにするなか嫡男ちゃくなん菊池きくち武重たけしげはかろうじて肥後ひごのがれることができた[14]。1978ねん福岡ふくおか地下鉄ちかてつ工事こうじさい博多はかた祇園ぎおんまち東長寺とうちょうじまえからおよそ110の頭蓋骨ずがいこつ発見はっけんされた。分析ぶんせき結果けっか14世紀せいきのものとみられ、博多はかた合戦かっせんやぶれさらしくびにされた菊池きくちいちとう武士ぶしのものとなされている。

北条ほうじょう英時ひでとき肥後ひごこく守護しゅご北条ほうじょうこうまさし菊池きくち阿蘇あそ討伐とうばつめいじた。規矩きくだかせいらがひきいる討伐とうばつぐん本拠地ほんきょちまれた両氏りょうし現在げんざい五ヶ瀬ごかせまちにあったと推測すいそくされる日向ひなたこく鞍岡くらおかじょうむもはいられ、鞍岡くらおかさんのがれた一部いちぶのぞおおくが討死うちじにした。この一連いちれん事件じけんによって、菊池きくちしょう大友おおとも両氏りょうしたいし、ぬぐがたほどふかうらみをつこととなった。

たてたけし新政しんせい肥後ひご武士たけし[編集へんしゅう]

このように九州きゅうしゅうでの倒幕とうばく運動うんどういち失敗しっぱいかえしたが、中央ちゅうおうでは足利尊氏あしかがたかうじが、鎌倉かまくらでも新田にった義貞よしさだ反旗はんきひるがえした。しょう大友おおとも両氏りょうし倒幕とうばくてんじ、鎮西ちんぜい探題たんだいとした。こうして鎌倉かまくら幕府ばくふ倒壊とうかいし、隠岐おきから京都きょうともどった後醍醐天皇ごだいごてんのうした公卿くぎょう楠木くすのき正成まさしげ武士ぶし輔弼ほひつした天皇てんのう親政しんせいはじまった。

しん政府せいふ政権せいけん交替こうたい論告ろんこくにおいて、肥後ひご武士ぶしたか評価ひょうかした[ちゅう 8]菊池きくち嫡男ちゃくなん武重たけしげ肥後守ひごのかみ官職かんしょくたけさとし掃部あたま)・たけしげるたけきよし肥前ひぜんもり)ら兄弟きょうだい要職ようしょくさづけられ顕彰けんしょうされた。阿蘇あそもまた、北条ほうじょううばわれていただい宮司ぐうじ任命にんめいけんを『かんしゃ開放かいほうれい』によってもどし、勢力せいりょく回復かいふくつながった。これらは、おおくの郎党ろうとう無念むねんげた肥後ひご武士たけしだん溜飲りゅういんげ、かれらをしてのちに「南朝なんちょう一辺倒いっぺんとう」とわれるほど宮方みやかた南朝なんちょうかた傾倒けいとうてる動機どうきとなった。

南朝なんちょう一辺倒いっぺんとう[編集へんしゅう]

天皇てんのう親政しんせい政策せいさくは、拙速せっそく改革かいかく朝令暮改ちょうれいぼかい恩賞おんしょう不公平ふこうへいしん課税かぜいなどおおくの問題もんだいをはらんだもので、おや政権せいけん急速きゅうそくにその支持しじうしなっていった。たてたけし2ねん(1335ねん足利尊氏あしかがたかうじ鎌倉かまくらはん親政しんせいし、後醍醐天皇ごだいごてんのう新田にった義貞よしさだ討伐とうばつけた。天皇てんのう近侍きんじしていた菊池きくち武重たけしげ武吉たけよし兄弟きょうだいは「菊池きくち千本せんぼんやり」をたずさえ、また阿蘇あそ惟時これとき惟直これなお親子おやことも新田しんでんぐんくわわって、箱根はこねたけしたたたか参戦さんせんした。このとき阿蘇あそ親子ちかこけた「後醍醐天皇ごだいごてんのう綸旨りんじ」が「阿蘇あそ文書ぶんしょ」として現存げんそんしている。しかし新田しんでんかたやぶれ、京都きょうとまでの退却たいきゃくをもわれた。菊池きくち武重たけしげ殿軍でんぐんとして足利あしかが直義ただよし退しりぞける活躍かつやくせ、たてたけし3ねん/のべもと元年がんねん(1336ねん)には京都きょうと大渡おおどきょうたたかいでもみことぐん迎撃げいげきした[15]。その武重たけしげ比叡山ひえいざんのがれた後醍醐天皇ごだいごてんのうしたがい、そのまま軟禁なんきんされた。

足利尊氏あしかがたかうじ京都きょうと北畠きたばたけ顕家あきいえ敗北はいぼくし、態勢たいせいなおしのために九州きゅうしゅうのがれた。このさい九州きゅうしゅう有力ゆうりょく武士ぶしだん軍勢ぐんぜい催促さいそくじょうおくり、武家ぶけ政権せいけん復活ふっかつ期待きたいせるしょうたよなおらはこれにしたがった。しかし、菊池きくち阿蘇あそ南朝なんちょうへの義理ぎりふくした。武重たけしげ不在ふざいまも菊池きくち武敏たけとし阿蘇あそ大宮おおみやつかさ惟直これなおおもんみなり兄弟きょうだいぐんひきいて北上ほくじょうし、優勢ゆうせい戦力せんりょく背景はいけい多々良たたらはまたたかのぞんだがこれにやぶれ、たかしさい決起けっきをみすみすゆるした。たてたけし3ねん4がつ3にち九州きゅうしゅう北部ほくぶ一色いっしょくはんみち猷)を、南部なんぶ畠山はたけやまただしあきらき、しょうたよなお大友おおともやすしらをひきいてたかし大船おおぶねだんきょう出発しゅっぱつした。その途上とじょうむか天皇てんのうかた湊川みなとがわたたか撃破げきはし、やぶれた楠木くすのき正成まさしげとともに菊池きくち武吉たけよし切腹せっぷくしててた[15]。こののちたかしと、これをけて吉野よしののがれた後醍醐天皇ごだいごてんのうによる、南北なんぼく両統りょうとうが迭立する南北なんぼくあさ時代じだいはじまった。

足利尊氏あしかがたかうじほん勢力せいりょく九州きゅうしゅうはなれると、肥後ひご武士たけしだん抵抗ていこうつよめた。尊氏たかうじ出発しゅっぱつ直後ちょくごの4がつ13にち安楽寺あんらくじげん玉名たまな)や16にちとり栖原すはらげん西合志にしごうしまち)でたたかい、今川いまがわすけときたかしかたとして肥後ひごこく国府こくふはいると唐川からかわげん菊陽きくようまち)で合戦かっせんいどんだ。幽閉ゆうへい状態じょうたいだっ菊池きくち武重たけしげこえもどると、たてたけし4ねん(1337ねん)に挙兵きょへい阿蘇あそ惟時これときむすめ婿むこ阿蘇あそ惟澄これずみはちだい地頭じとうしょくいていた名和なわとも協調きょうちょうし、犬塚いぬづかげんげん御船みふねまち)で一色いっしきよりゆきぎょうやぶるなどの行動こうどうせた。

その行動こうどうにおいて「南朝なんちょう一辺倒いっぺんとう」ともひょうされる肥後ひご武士ぶしではあったが、実態じったいかならずしも一枚岩いちまいいわではなかった。この時期じきは、所領しょりょう嫡男ちゃくなん一括いっかつ相続そうぞくさせる慣習かんしゅうひろまり、一見いっけん遺産いさん分散ぶんさんふせぐこの方法ほうほう反面はんめん一族いちぞくないあらそいをつよめてしまった。阿蘇あそ一族いちぞく南北なんぼくあされたが、惟直これなお死後しごだい宮司ぐうじ復帰ふっきしていた阿蘇あそ惟時これとき中立ちゅうりつ態度たいどつらぬくことで一族いちぞく分裂ぶんれつふせいだ。

菊池きくちおな問題もんだいかかえていたが、菊池きくち武重たけしげ氏族しぞくまとめる理念りねん外部がいぶもとめ、曹洞宗そうとうしゅうそう大智たいちひじりまもるてらまねいて「菊池きくち家憲かけん」をつくった。のべもと3ねん(1338ねん)7がつ25にち日付ひづけしるされたこの家訓かくんには血判けっぱんされ、日本にっぽん最初さいしょ血判けっぱん起請文きしょうもんとされる。これによると、重要じゅうよう政治せいじてき決断けつだん惣領そうりょうくだすが、政道せいどう寄合よりあいしゅう内談ないだんしゅ)とよばれる一族いちぞく集団しゅうだん決定けっていするとある。しかし、翌年よくねん武重たけしげくなり、いだおとうと菊池きくち武士たけしにんえられずほど引退いんたい。さらには本拠ほんきょきた朝方あさがた合志こうし幸隆ゆきたか占領せんりょうされてしまった。これは阿蘇あそ惟澄これずみ協力きょうりょく庶子しょし菊池きくち武光たけみつ奪還だっかんしたが、菊池きくち勢力せいりょく衰退すいたいせていた。

みっつの勢力せいりょく[編集へんしゅう]

この状況じょうきょうにさらに混沌こんとんをもたらすふたつの存在そんざい肥後ひごこくかっていた。一人ひとり南朝なんちょうせい西にし大将軍だいしょうぐんなつけ親王しんのうであった。親王しんのう薩摩さつまて、貞和さだかず4ねん/正平しょうへい3ねん(1348ねん肥後ひご宇土うといた。むかえた惣領そうりょういだ菊池きくち武光たけみつともない、阿蘇あそ惟澄これずみ所領しょりょう通過つうかして菊池きくち隈府わいふさんはいった。

そして二人ふたり足利あしかが直冬ただふゆ足利尊氏あしかがたかうじ庶子しょしながらちちうとまれる、叔父おじ足利あしかが直義ただよし養子ようしになっていた。高師直こうのもろなおやすし兄弟きょうだい対立たいりつしていた直義ただよしは、貞和さだかず5ねん/正平しょうへい4ねん(1349ねん直冬ただふゆ中国ちゅうごく探題たんだい任命にんめいし、中国ちゅうごく地方ちほう影響えいきょうりょくおよぼそうとした。しかしじきは、配下はいか直義ただよしめさせた。このとき直義ただよしたすけたのが肥後ひご武士たけしかわしりさいわいしゅんだった。かわしりは、みなもと高明こうめいまごじつあかり源流げんりゅうとし、飽田あきた南郷なんごう川尻かわじりげん熊本くまもと)にあった国衙こくが役人やくにん系統けいとうにある清和せいわはじめせい一族いちぞくとされる。鎌倉かまくら時代じだい中期ちゅうきには、かわしり泰明やすあきかんいわおよしいんまねいて大慈寺だいじじ開山かいさんし、朝廷ちょうてい北条ほうじょうとの関係かんけいもうけて勢力せいりょくばした。肥後ひごこくなかでは北朝ほくちょうぞくしていた。

かわしりさいわいしゅんまねかれ肥後ひごはいった足利あしかが直冬ただふゆは、幕府ばくふりて九州きゅうしゅう武士ぶしだん指揮しき集結しゅうけつするびかけをおこない、また所領しょりょう安堵あんどなどをあたえた。その一方いっぽう肥後ひご探題たんだいかたくみする勢力せいりょく攻略こうりゃくし、かんおう元年がんねん(1350ねん大宰府だざいふはいった。足利尊氏あしかがたかうじ高師直こうのもろなおらは直冬ただふゆ討伐とうばつれいはっした。そして、菊池きくちには南朝なんちょうふところりょう親王しんのうましました。こうして、元号げんごうでも正平しょうへいかんおう貞和さだかず足利あしかが直義ただよしもちいた)のみっつがならぶ、肥後ひごばんかんおう擾乱じょうらん特色とくしょくづけるさん勢力せいりょく鼎立ていりつ状態じょうたい突入とつにゅうした。

かんおう2ねん(1351ねん)2がつ高師直こうのもろなおたい権力けんりょく闘争とうそうやぶころされると、足利あしかが直義ただよし権力けんりょく掌握しょうあくし、直冬ただふゆかたいきおいをた。直冬ただふゆ鎮西ちんぜい探題たんだいに、かわしりさいわいしゅん肥後ひごこく守護しゅご就任しゅうにんした。一色いっしょく宮方みやかた一時いちじ協定きょうていむすび、菊池きくち武光たけみつらは筑後ちくごすすんで直冬ただふゆかたはげしくたたかった。しかし同年どうねん正平しょうへい一統いっとうり、翌年よくねん直義ただよし殺害さつがいされると、同様どうよういきおいを失墜しっついした足利あしかが直冬ただふゆ九州きゅうしゅうからのがれ、どもえ状態じょうたいわった。

筑後川ちくごがわたたか[編集へんしゅう]

直冬ただふゆ逃亡とうぼうによってふたた南北なんぼくあさ対峙たいじ状態じょうたいもどった九州きゅうしゅうでは、探題たんだいかたたい殿方とのがた内紛ないふん尻目しりめ宮方みやかたいきおいをつよめていた。なつけ親王しんのう威光いこうくわえ、合戦かっせん指揮しきした菊池きくち武光たけみつのカリスマせいもあり、肥後ひごはふたたび「南朝なんちょう一辺倒いっぺんとう」となった。文和ふみかず2ねん/正平しょうへい8ねん(1353ねん筑前ちくぜんはいった宮方みやかたかんおう擾乱じょうらん一色いっしきただしぐんやぶり、翌々年よくよくねんには博多はかた攻略こうりゃくした。一色いっしょくはんただし親子おやこ九州きゅうしゅうだっした。

こうなると、しょう大友おおともなど九州きゅうしゅう探題たんだい一色いっしょく対立たいりつしていたきゅう守護しゅご宮方みやかたむす必要ひつようくなり、ふたた対立たいりつするようになった。のべぶん3ねん/正平しょうへい13ねん(1358ねん大友おおとも挙兵きょへいし、しょうよりゆきなお呼応こおうして菊池きくち本拠ほんきょ目指めざした。菊池きくち武光たけみつ五条ごじょう頼光よりみつなどをあつめて北上ほくじょうし、よりゆきなお龍造寺りゅうぞうじ深堀ふかほり松浦まつうらとうなどと結集けっしゅうしこれをむかえ、翌年よくねんりょうぐん筑後川ちくごがわたたか激突げきとつした。7月19にちはじまった戦闘せんとうは、8がつ6にち宮方みやかた夜襲やしゅうけっした。双方そうほうかなりの痛手いたでったが、しょうぐん敗退はいたいして以後いご衰退すいたいし、菊池きくち博多はかた合戦かっせんうらみをらした。

せい西府にしふ成立せいりつ崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

かんやすし元年がんねん/正平しょうへい16ねん(1361ねん)、なつけ親王しんのう宇土うど到着とうちゃくから18ねん大宰府だざいふはいり、せい西府にしふいて北部ほくぶ九州きゅうしゅう掌握しょうあくした。その政治せいじ機構きこうは、ちちしょうたよなおそむいてみなみ朝方あさがたいていたしょうよりゆききよし筆頭ひっとうとする12にんかんによってったが、実際じっさい肥後ひご守護しゅごとなった菊池きくち武光たけみつ菊池きくち一族いちぞくにぎった。このころには中央ちゅうおうでの南朝なんちょう勢力せいりょくおとろえていたため、せい西府にしふ幕府ばくふから独立どくりつした軍事ぐんじ政権せいけん様相ようそうびた。これはあきら高麗こうらいとの国交こっこうにおいて顕著けんちょで、貿易ぼうえきけん掌握しょうあくや、やまと取締とりしまりをもとめるあかりからの使節しせつせい西府にしふおもむいたところや、あかりが「りょうふところ」すなわちなつけ親王しんのうを「日本にっぽんただしくん」にさつふうしたところからもうかがえる。

当然とうぜんきながら足利あしかが幕府ばくふせい西府にしふみとめず、肥後ひご守護しゅご大友おおともにんじ、そして後任こうにん阿蘇あそ惟澄これずみすなどみなみ朝方あさがた内部ないぶ瓦解がかい画策かくさくするなどの行動こうどうっていた。そしておうやす3ねん/建徳けんとく元年がんねん(1370ねん幕府ばくふ実効じっこうてきち、今川いまがわ貞世さだよ了俊りょうしゅん)を九州きゅうしゅう探題たんだい任命にんめいし、中国ちゅうごく地方ちほう武士ぶしだんれ、九州きゅうしゅうでかつての北朝ほくちょう勢力せいりょくをも懐柔かいじゅうして大宰府だざいふんだ。大友おおとも松浦まつうらとうなどを配下はいかおさめた貞世さだよの、多方面たほうめんからの攻撃こうげきけたふところりょう親王しんのう菊池きくち武光たけみつらのせい西府にしふおうやす5ねん/文中ぶんちゅう元年がんねん(1372ねんちた。こののち年間ねんかん筑後川ちくごがわ流域りゅういき戦場せんじょうあらそったが、たけひかりそして菊池きくち武政たけまさくなり、宮方みやかた肥後ひごまでもどされた。

武政たけまさきずいたともわれる本拠ほんきょ菊池きくちしろ[16]こもった宮方みやかたは、今川いまがわ貞世さだよ完全かんぜんかこまれていた。さらに貞世さだよ九州きゅうしゅうさんにんしゅばれた島津しまつ氏久うじひさ大友おおとも親世ちかよしょうふゆにも参戦さんせんめいじ、菊池きくち殲滅せんめつはかった。しかしここで不可解ふかかいなことがこる。当初とうしょ消極しょうきょくてき態度たいどせたしょうふゆ島津しまつ氏久うじひさ説得せっとくされてさんじんすると、貞世さだよふゆ殺害さつがいするきょた(水島みずしまへん)。氏久うじひさいかり、以後いごはん貞世さだよ態度たいどてんじた。このような混乱こんらん宮方みやかたでもこっていた。なつけ親王しんのう武政たけまさ嫡男ちゃくなん菊池きくちたけしあさ意見いけん衝突しょうとつし、せい西にし将軍しょうぐんしょくした。あさ後任こうにん良成よしなり親王しんのうほうじて肥前ひぜんんだが敗退はいたい肥後ひごうす間野まの大水おおみず玉名たまなぐん南関なんかんまち)でも大敗たいはいした。

反抗はんこうせる島津しまつを、薩摩さつま国人くにびと一揆いっきこさせふうじた今川いまがわ貞世さだよは、菊池きくちとのあらそいに決着けっちゃくをつけるべく戦力せんりょく結集けっしゅうした。永和えいわ4ねん/天授てんじゅ4ねん(1378ねん)、中国ちゅうごくぜいしたが隈本くまもと藤崎ふじさきじんかまえた貞世さだよ菊池きくちへの兵糧ひょうろうめをおこなった。奇襲きしゅうって菊池きくちたけしあさわび麻原あさはらたたかいに勝利しょうりするもいしみずえいいさお元年がんねん/弘和ひろかず元年がんねん(1381ねん)には菊池きくちじょう木野このじょうなど菊池きくち勢力せいりょくかくしろち、たけちょうみなみのがれた。貞世さだよぐんすすめてかわしり宇土うと次々つぎつぎ占領せんりょうし、明徳めいとく2ねん/もとなか8ねん(1391ねん)には名和なわはちだい攻略こうりゃくした。そして翌年よくねん中央ちゅうおう明徳めいとくやくったことを契機けいきあさ降伏ごうぶくし、今川いまがわ貞世さだよ肥後ひご制圧せいあつ完了かんりょうした。今川いまがわ貞世さだよ菊池きくち本領ほんりょう安堵あんどあさ肥後ひごこく守護しゅごだい任命にんめいするなど九州きゅうしゅう勢力せいりょく掌握しょうあくつとめたが、かえってこれはせい西府にしふ再現さいげんねらっているのではという将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつ嫌疑けんぎみ、おうひさし2ねん(1395ねん貞世さだよ罷免ひめんされた。

室町むろまち肥後ひご[編集へんしゅう]

菊池きくち盛衰せいすい[編集へんしゅう]

今川いまがわ貞世さだよ渋川しぶかわみつるよりゆき九州きゅうしゅう探題たんだいくと、菊池きくちはまたも反逆はんぎゃく姿勢しせいあらわわにした。しかし、つづ断続だんぞくてき戦乱せんらんなか菊池きくち段々だんだんおとろえ、わってわびすりまんおや勢力せいりょくばした。しかしこれも一時期いちじきなもので、南北なんぼくあさ時代じだいせたかわしりとともにおう永年えいねんあいだには目立めだった活躍かつやくせなくなった。

菊池きくち一時いちじてきいきおいをもどす。菊池きくちけんあさ肥後ひご守護しゅごしょくにんぜられたものの、阿蘇あそ相良さがら勢力せいりょくけんにまでは守護しゅご権力けんりょくおよぼすことはできず、いちこく支配しはいするだけの権力けんりょくてられず、菊池きくち歴代れきだい守護しゅごなやませることになった[2- 5]えいとおる3ねん(1431ねん菊池きくち持朝もちともだいになるとおや幕府ばくふ態度たいどあらわし、筑後ちくご肥後ひご守護しゅごにんじられた。菊池きくち城下じょうか隈本くまもとわり守護しゅごしょ隈府わいふ)となった。次代じだいためくににちちょう貿易ぼうえきし、また城下じょうか玉祥寺ぎょくしょうじあおいわおてら建立こんりゅうするなど、そのとみとくとなえられた。しかし後半こうはんせいには筑後ちくご守護しゅごしょく大友おおともうばわれてにちちょう貿易ぼうえき不可能ふかのうとなり、相良さがらはちだい進出しんしゅつにも無策むさくのままでわった。これが菊池きくち衰退すいたいはじまりとされる。

次代じだい菊池きくち重朝しげとも守護しゅごしょく継承けいしょうし、公権力こうけんりょくもちいた菊池きくち城下じょうか整備せいびおこない、菊池きくち五山ごさん城下町じょうかまち形成けいせいがこのころおこなわれた[2- 6]重朝しげともはまた、文化ぶんかじんとしての業績ぎょうせきのこした。重臣じゅうしん隈部くまべ忠直ただなおとともに建立こんりゅうし、まねかれた桂庵けいあんげんじゅんだ漢詩かんしのこされる孔子こうしどう藤崎ふじさきはち旛宮造営ぞうえい。また連歌れんがかいおおもよおした。文明ぶんめい13ねん(1481ねん)8がつ興行こうぎょうしたまん連歌れんがは、のち書写しょしゃされたものがつたわり、かい参加さんかしゃることが出来できる。それによるとほとんどが肥後ひご北部ほくぶもので、菊池きくちけい有力ゆうりょく庶氏はくわわっていない。また、半数はんすう菊池きくちちょくしんられ、とく隈部くまべからはおおくの出席しゅっせきられる。このころ菊池きくち勢力せいりょく政務せいむ隈部くまべ赤星あかほしじょう藤原ふじわらせい家老がろうとしておこない、かつて「菊池きくち家憲かけん」でさだめられた合議ごうぎせいかげかたちかった。重朝しげともくなったあかりおう2ねん(1493ねん)、菊池きくち惣領そうりょう嫡子ちゃくしのううんまましいだが、かれ最後さいご菊池きくち本家ほんけ嫡流ちゃくりゅうとなった。

阿蘇あそ分裂ぶんれつ矢部やべさと拠点きょてんうつす。「はまかん」の隆盛りゅうせい[編集へんしゅう]

一方いっぽう阿蘇あそ一族いちぞく分断ぶんだん危機ききさらされていた。阿蘇あそ惟澄これずみ一時いちじ北朝ほくちょうにもいた嫡男ちゃくなん惟村これむらだい宮司ぐうじがせたが、おとうと惟武これたけはこれを不服ふふくとしてせい西府にしふうったみとめられ、貞治さだはる6ねん/正平しょうへい22ねん(1367ねんだい宮司ぐうじ補任ほにんけた。このときから阿蘇あそ一族いちぞくはふたつの系列けいれつかれて対立たいりつはじめた。

阿蘇あそ惟村これむらおもんみきょうおもんみただし矢部やべ本拠ほんきょ九州きゅうしゅう探題たんだい大友おおとも支持しじていたが、阿蘇あそ神社じんじゃりょう配下はいか菊池きくち支援しえんされた惟武これたけ惟政これまさおもんみけんおさえられなかった。おうひさし11ねん(1404ねん)にはおもんみきょうり、同族どうぞくでの合戦かっせんとなった。このときには幕府ばくふ仲裁ちゅうさいはいった。そのあらそいはつづいたが、たからいさお3ねん(1451ねん一族いちぞく長老ちょうろうらの決議けつぎによりおもんみけんおもんみとしおもんみちゅう養子ようしとして両統りょうとう一本いっぽんはかった。しかし、おもんみちゅう実権じっけん手放てばなさなかったため、文明ぶんめい17ねん(1485ねんおもんみとしとその大宮おおみやつかさおもんみ相良さがら助力じょりょくけ、一方いっぽうおもんみちゅうおもんみけん守護しゅご菊池きくち重朝しげとも支援しえんけてまくひらたげん上益城かみましきぐん山都やまとまち杉木すぎき山田やまだ)で激突げきとつした。たたかいはおもんみちゅうおもんみけんがわ勝利しょうりまくひら合戦かっせん)にわった。

人吉ひとよしはちだい[編集へんしゅう]

南北なんぼくあさ時代じだい球磨くま地方ちほう相良さがら多良木たらぎうえ相良さがら人吉ひとよしした相良さがらかれ、阿蘇あそのような対立たいりつかえしていた。この膠着こうちゃく状態じょうたい決着けっちゃくをつけ当地とうち統一とういつしたのは、ぶんやす5ねん(1448ねんじょう相良さがらほろぼした相良さがら永留ながどめちょうつづけだった[2- 7]。だがこの実態じったいは庶家による下克上げこくじょうとみなされている。ちょうつづけ守護しゅご菊池きくちためほうから葦北いほくぐん領有りょうゆうけん獲得かくとくし、ひろしただし4ねん(1463ねん)には名和なわあらわちゅう助力じょりょくえに、高田郷こうだごうげん八代やしろ南部なんぶ)も領地りょうちくわえた。

相良さがら援助えんじょはちだいじょうもどった名和なわあらわちゅうは、しかし高田郷こうだごうしみ、文明ぶんめい8ねん(1476ねん薩摩さつまうし屎院へ出兵しゅっぺいした相良さがらすきいて高田郷こうだごうんだ。ちょうつづけ嫡子ちゃくし相良さがらためつづけ天草てんぐさ領主りょうしゅ味方みかたふせいだ。文明ぶんめい14ねん(1482ねん)ふたたびあらわちゅうめると、またも天草あまくさしゅう共同きょうどうしてためつづけはこれをかえすと、そのままはちだい攻撃こうげきし2ねんには制圧せいあつ成功せいこうした。いきおいをりて豊福とよふくげん:宇城きゅう松橋まつはしまち)まで進出しんしゅつした。だが、あきらおう8ねん(1499ねん)には菊池きくちのううん助力じょりょく名和なわ敗退はいたいし、松橋まつはしはちだい手放てばなして球磨くまもどった。

島々しまじま武士ぶしだん[編集へんしゅう]

天草あまくさ地方ちほう武士ぶしだんは、ほぼ島々しまじまごとにぐんよりどころした。鎌倉かまくら時代じだい前期ぜんきには、天草あまくさ下島しもじま西北せいほく菊池きくちけいとされる地頭じとうしょく志岐しきほんとぎとう下島しもじまなか南部なんぶ)の大蔵おおくらけいとされる天草あまくさ、『こうむ襲来しゅうらい絵詞えことば』にその活躍かつやくしるされた大矢野島おおやのしま大矢野おおやのられる。志岐しき地頭じとうしょくたのはもとひさ2ねん(1205ねん)にはじまるとされ、当地とうちでは新興しんこう勢力せいりょくであった[17] ため、北条ほうじょう探題たんだい一色いっしきむすぶなど、その時々ときどき権力けんりょくしゃとのつながりを勢力せいりょく維持いじつとめた。天草あまくさは、うけたまわひらてんけいらん活躍かつやくした大蔵おおくらはる末裔まつえいとされ、さだなが2ねん(1233ねん原田はらだたねただし女子じょし播磨はりまきょくほんとぎとう地頭じとうしょく継承けいしょうしたことにはじまる[18]大蔵おおくらけいとされる大矢野おおやのは、もと寇での記録きろく以降いこう、その活動かつどう不明ふめいだった。

室町むろまち中期ちゅうきには、天草あまくさ地方ちほう舞台ぶたいとする騒乱そうらんはじまる。名和なわあきらちゅうはさ展開てんかいした菊池きくち相良さがらあらそいは天草あまくさしょ武士ぶしれ、菊池きくちかたとして活躍かつやくした天草あまくさ上島うえしま栖本すもと記録きろくのこる。またこのころには天草あまくさ勢力せいりょくつよまり、志岐しき上津浦こうつうら圧迫あっぱくした。これは守護しゅご菊池きくちのううん仲裁ちゅうさい一旦いったんしずまったが、戦国せんごくにはふたたび戦乱せんらんこすこととなる。

肥後ひご戦国せんごく時代じだい[編集へんしゅう]

菊池きくち正系せいけい断絶だんぜつ[編集へんしゅう]

日本にっぽん戦国せんごく時代じだいあかりおう政変せいへん(1493ねん)あるいは応仁おうにんらん(1467ねん)を始期しきとするが、肥後ひごこくでは菊池きくちのううん死去しきょしたえいただし元年がんねん(1504ねん)にはじまるとされる。

阿蘇あそ最盛さいせいむかえる[編集へんしゅう]

阿蘇あそ内部ないぶ紛争ふんそうである馬門まかどばらたたか別名べつめいまくひら合戦かっせん 場所ばしょ山都やまとまち杉木すぎき付近ふきん)に菊池きくち重朝しげとも介入かいにゅうしてやぶれてから、菊池きくち支配しはいいき減少げんしょう指導しどうせい低下ていか顕著けんちょだった。家督かとくいだ重朝しげとものううんちょくしん反抗はんこうい、ぶんかめ元年がんねん(1501ねん島原しまばら亡命ぼうめい一族いちぞく合議ごうぎすえ宇土うどためこう守護しゅごえた[ちゅう 9]。2ねんのううん阿蘇あそ相良さがららと連携れんけいし、天草あまくさらの支援しえんけて隈府わいふ奪回だっかい成功せいこうしたが、戦傷せんしょうもと翌年よくねん死去しきょした。のううんにはがおらず、相続そうぞくあらそいが勃発ぼっぱつした。 その阿蘇あそ矢部やべ拠点きょてん勢力せいりょく拡大かくだい隆盛りゅうせいきわめていく。

菊池きくち衰退すいたい[編集へんしゅう]

のううん遺言ゆいごんもとづき菊池きくち重安しげやす政隆まさたか当主とうしゅとなったが、これに反発はんぱつする一族いちぞくは、菊池きくちわって勢力せいりょくをつけてきた阿蘇あそ大宮おおみやつかさ阿蘇あそおもんみちょう菊池きくちたけしけい)を後継こうけい守護しゅごしょくした。えいただし3ねん(1506ねん)、おもんみちょう背後はいごから肥後ひご掌握しょうあく画策かくさくしていた大友おおともへいひきいて直接ちょくせつ介入かいにゅうし、菊池きくちじょうはいった阿蘇あそおもんみちょうだい宮司ぐうじおとうとおもんみゆたかゆずり、菊池きくちたけしけい名乗なの当主とうしゅについた。政隆まさたか逃亡とうぼう玉名たまな島原しまばら抵抗ていこうつづけるが3ねん捕縛ほばくされ、久米くめ安国寺あんこくじ菊池きくちぐん泗水しすいまち)で自害じがいした。しかし、おもんみちょうあらた菊池きくちたけしけい驕慢きょうまんで、家臣かしんからの支持しじけられずわずか3ねん地位ちいかれた。この背景はいけいには、黒幕くろまく大友おおともちかし意向いこうえなかったためとのせつ[2- 8]大友おおとも菊池きくちりと肥後ひご支配しはいするためにおもんみちょうたけけい)を使つかてにするつもりだったとするせつ[2- 9] がある。菊池きくち惣領そうりょうには、わびみがくから菊池きくちたけしつつみ擁立ようりつされたが、これはかたちばかりのものだった[ちゅう 10]

菊池きくち滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

菊池きくち正系せいけい断絶だんぜつさい策略さくりゃくめぐらした大友おおともちかし義鑑よしあきらの目的もくてきは、菊池きくちりと肥後ひご支配しはいにあった。えいただし17ねん(1520ねん義鑑よしあきおとうと大友おおとも義武よしたけ菊池きくちせい名乗なの家督かとくいだ。しかし隈府わいふにははいらず、くま本城ほんじょう本拠ほんきょとした、かれ輔弼ほひつしたのは、鹿子木かのこぎちかしいん本郷ほんごうちょうけん田島たじま重賢しげかたなど飽田あきたわびぐん武士ぶしだった。とく鹿子木かのこぎちかしいん国内こくない紛争ふんそう調停ちょうてい活躍かつやくし、また藤崎ふじさきみや再建さいけん奏請そうせい連歌れんがとの交流こうりゅうなど、文人ぶんじん武将ぶしょうとしての能力のうりょく発揮はっきした。

大友おおとも目指めざ肥後ひご支配しはい一環いっかんだった菊池きくち義武よしたけは、やがて独自どくじしょくつよめていった。これは、天文てんもん2ねん(1533ねん九州きゅうしゅう北部ほくぶねら大内おおうち義隆よしたか提示ていじした筑後ちくご守護しゅごしょくさそわれ出兵しゅっぺいしたことで明白めいはくとなり、大友おおとも本家ほんけ当主とうしゅあに義鑑よしあき激怒げきどった。義鑑よしあき肥後ひごり、義武よしたけ島原しまばら相良さがらはれひろしたんだ。義鑑よしあき大内おおうちとの和睦わぼくおうじたのち天文てんもん12ねん(1543ねん)には肥後ひご守護しゅごしょくき、肥後ひご大方おおかた支配しはいした。しかし天文てんもん19ねん(1550ねん)2がつ義鑑よしあきかいくずれのへん殺害さつがいされると、義武よしたけいきおいをもどし、かつての重臣じゅうしん名和なわ相良さがららの協力きょうりょくけて隈本くまもともどった。だがこれも、阿蘇あそじょうれた義鑑よしあき嫡子ちゃくし義鎮よししげ宗麟そうりん)にまれ、これにこうがた島原しまばら逃亡とうぼうふたた相良さがらたよる。相良さがらはれひろ薩摩さつま島津しまつ忠良ただよし和睦わぼく斡旋あっせん依頼いらいするなどして、大友おおとも義鎮よししげ菊池きくち義武よしたけとのつづけたが合意ごういにはいたらず、義武よしたけ天文てんもん23ねん(1554ねん義鎮よししげ再三さいさん帰還きかんいのち覚悟かくご豊後ぶんごへと帰還きかんする。しかしその道中どうちゅう大友おおともぜいかこまれやめ自害じがいしててた。ここに肥後ひご武士たけしゆう菊池きくちほろんだ。大友おおとも肥後ひご北部ほくぶ掌握しょうあくし、政治せいじ実務じつむきゅう菊池きくち家臣かしんだんまかせる政策せいさくった。

草刈くさかりじょうした肥後ひご[編集へんしゅう]

一旦いったん平安へいあん大友おおともによる支配しはいほどなくほころびをしょうじ、肥後ひごしょ勢力せいりょくによる草刈くさかりじょう様相ようそうていはじめる。えいろく2ねん(1559ねん)、現在げんざい菊鹿きくかまちで、それぞれが国人くにびととして独自どくじせいしたきゅう菊池きくち家臣かしん権力けんりょくあらそいが激化げきかはじめた。赤星あかほしちかしごうぜいかわたたか隈部くまべちかしひさしやぶれると、その赤星あかほしみつる大友おおともたより、対抗たいこうして隈部くまべ肥前ひぜん龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ助力じょりょくいた。事態じたい天正てんしょう6ねん(1578ねん)11月、耳川みみがわたたかでの大友おおとも宗麟そうりん敗北はいぼくによってうごした。龍造寺りゅうぞうじはこれを好機こうきとら南下なんか開始かいしし、2ねんには肥後ひごせまった。筒ヶ嶽つつがたけじょう荒尾あらお)の小池こいけちかしでんくだし、さらに次男じなん江上こうじょうしゅ大将たいしょうとするぐん隈部くまべ共同きょうどう戦線せんせんり、長坂ながさかじょう山鹿やまが)にすす赤星あかほしかた星子ほしこ中務なかつかされんせい攻略こうりゃくした。翌年よくねんには嫡子ちゃくしせい大将たいしょうえてふたたぐんすすめた。赤星あかほしみつる人質ひとじちして降伏ごうぶくし、菊池きくちしろ退去たいきょした。そのには隈部くまべちかしえいはいり、肥後ひご北部ほくぶ支配しはいけん大友おおともから龍造寺りゅうぞうじうつった。

一方いっぽうくま本城ほんじょうまもじょうちかしけん龍造寺りゅうぞうじ隈部くまべ連合れんごうへの対抗たいこうとして、大友おおともではなく薩摩さつま島津しまつむすんだ。国境こっきょうせっし、えいろく5ねん(1562ねん)に北原きたはら領地りょうち回復かいふくため島津しまつ貴久たかひさ盟約めいやくむすんでいた相良さがらであったが、翌年よくねん日向ひなたこく伊東いとうむす島津しまつ大明神だいみょうじんじょう大明司だいみょうじるい)を落城らくじょうさせる[2- 10]。それにより両者りょうしゃ関係かんけい悪化あっかし、貴久たかひさのちいだ島津しまつ義久よしひさえいろく12ねん(1569ねん菱刈ひしかり援軍えんぐんとして大口おおぐちした相良さがらぜいした[10]島津しまつはそれ以後いご天正てんしょう6ねん(1578ねん)までに薩摩さつまこく大隅おおすみこく日向ひなたこくつづけに統一とういつ、さらに耳川みみがわたたかいで大友おおともやぶり、北進ほくしん足場あしばかためていた。天正てんしょう8ねん(1580ねんじょうもとめにおうじて島津しまつ義久よしひさ多久たくまさし川上かわかみただしさとし肥後ひご派遣はけんし、くま本城ほんじょう拠点きょてん大友おおともかたにつく矢崎やざきじょう三角さんかくまち)の中村なかむらおもんみふゆとし、さらに合志こうしおやためこめ竹迫たかばじょうをも攻略こうりゃくした。しかし、これら島津しまつ遠征えんせい相良さがら領地りょうちである葦北いほくはちだい海路かいろえるもの[19] であり、このときには本格ほんかくするにはいたらなかった。

せずして肥後ひご防波堤ぼうはていとなった相良さがらであったが、九州きゅうしゅう制覇せいは目指めざ島津しまつはげしくめられることとなる。天正てんしょう8ねん9がつ島津しまつかたしんおさめちゅうもとしょうえたぐん水俣みなまたじょう攻撃こうげきし、いちねん攻防こうぼうすえとす[10] と、相良さがらよし葦北いほく七浦ななうら割譲かつじょう条件じょうけん和睦わぼくむすんだ。島津しまつは、相良さがら阿蘇あそ攻略こうりゃく先鋒せんぽうめいじ、よしはかつて盟友めいゆう間柄あいだがらでもあった阿蘇あそかた甲斐かいちかしただしそうはこぶ)とひびき野原のはらたたかほこまじえざるをなくなった。このたたかいで戦死せんしする。

阿蘇あそ矢部やべ拠点きょてんうしなう(豪族ごうぞくとしての終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

龍造寺りゅうぞうじ配下はいかにあった肥前ひぜん有馬ありま晴信はるのぶは、島津しまつつうじた。天正てんしょう12ねん(1584ねんはじめ、裏切うらぎりに龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶ懲罰ちょうばつへい島原しまばらけ、島津しまつ義久よしひさはこれを好機こうきとらえた。3月、大将たいしょう島津しまつ家久いえひさ以下いか大軍たいぐん肥前ひぜんすすめ、龍造寺りゅうぞうじとの決戦けっせん沖田おきたなわてたたか)にのぞんだ島津しまつかた激戦げきせんすえ勝利しょうりつかみ、肥後ひご覇権はけん手中しゅちゅうにした。よもや肥後ひご武士たけし反抗はんこう態度たいどしめさず、9月8にちには島津しまつ義弘よしひろはちだい到着とうちゃくし、12にちにはくま本城ほんじょうはいった。隈部くまべちかしやすし肥後ひご北部ほくぶ国人くにびとらも恭順きょうじゅんしめなか唯一ゆいいつ大友おおともとのつながりを阿蘇あそだけがしたがわなかった。しかしこれも、阿蘇あそかた智将ちしょう甲斐かいちかしじき天正てんしょう13ねん(1585ねん)7がつ3にちぼっすると島津しまつ攻撃こうげきはじめ、御船みふね田代たしろかいみことそうつたえ父子ふしなど、阿蘇あそかた勢力せいりょくしろ次々つぎつぎとし、翌年よくねんには阿蘇あそ本拠ほんきょ矢部やべとし、肥後ひご制圧せいあつ完全かんぜんなものとした。

島津しまつ鹿児島かごしま種子島たねがしま伝来でんらいした鉄砲てっぽう有力ゆうりょく武器ぶきとして、九州きゅうしゅう各地かくちたたかいで圧倒あっとうした。

島津しまつはちだい拠点きょてんに、かく要所ようしょ配下はいかばんしゅいて肥後ひご支配しはいはじめた。しかし、すで占拠せんきょした日向ひなたこくのように地頭じとうしょく家臣かしんけ、その配下はいか地域ちいき武士ぶしだんおさめて軍事ぐんじ組織そしきするにはいたらなかった。これは、ことなる統治とうち手法しゅほうもちいようとしたのではなく、尾張おわりこくはっしたあらたな時代じだい奔流ほんりゅう猶予ゆうよあたえなかったためである。

天草てんぐさへのキリスト教きりすときょう伝播でんぱ[編集へんしゅう]

戦国せんごく天草てんぐさにもおとずれ、かく氏族しぞくあらそいをかえしていた。この状況じょうきょういちせきとうじたのはえいろく3ねん(1560ねん)、栖本すもとめる上津浦こうつうら支援しえんした松浦まつうら隆信たかのぶ導入どうにゅうした鉄砲てっぽうたい威力いりょくだった。天草てんぐさ諸氏しょしはその有効ゆうこうせいみとめ、導入どうにゅうのためポルトガル宣教師せんきょうしキリスト教きりすときょう布教ふきょうゆるした。えいろく9ねん(1566ねん志岐しき鎮経口之津くちのつ日本にっぽん布教ふきょうちょうコスメ・デ・トーレス宣教師せんきょうし派遣はけん要請ようせいした。これにこたえ、ルイス・デ・アルメイダ志岐しきおもむいて教会堂きょうかいどう建設けんせつされ、また 洗礼せんれいを鎮経にほどこしドン・ジョアンの洗礼せんれいめいあたえた。この教会堂きょうかいどう日本にっぽん布教ふきょう一大いちだい拠点きょてんとなり、えいろく11ねん(1568ねん)には日本にっぽんちゅう宣教師せんきょうしあつまり会議かいぎもよおされ、もとかめ元年がんねん(1570ねん)にはトーレスの引退いんたいフランシスコ・カブラルへの布教ふきょうちょう引継ひきつぎがおこなわれた。志岐しき領地りょうち富岡とみおかこうげん苓北れいほくまち)にはカブラルとともにグネッキ・ソルディ・オルガンティノ上陸じょうりくした。

しかしのちに、志岐しき鎮経は棄きょうキリスト教徒きりすときょうと迫害はくがいてんじる[17]。これは、トーレスの後任こうにんカブラルとのかんがえのちがい、家臣かしん貿易ぼうえき船員せんいんとのあいだしょうじたトラブルもあったが、南蛮なんばん貿易ぼうえき本拠地ほんきょち長崎ながさきうつってしまったことが決定的けっていてきだった。ルイス・フロイスあらわした『日本にっぽん(Historia de Iapan)』では、鎮経の評判ひょうばんはすこぶるわる[17]志岐しきわってキリストきょう受容じゅようしたのは天草あまくさ鎮尚洗礼せんれいめいミゲル)だった。もとかめ2ねん(1571ねんえいろく12ねんとも[18])アルメイダをまねき、嫡男ちゃくなんひさしゅ洗礼せんれいめいジョアン)以下いか家臣かしんらとともに洗礼せんれいけた。こののちすうねん下島しもじまちゅう南部なんぶ起点きてん天草諸島あまくさしょとう全域ぜんいきキリスト教きりすときょうひろまった。

島津しまつによる肥後ひご制圧せいあつさい天草あまくさ地方ちほうもまたその支配しはいはいったが、志岐しき天草あまくさ上津浦こうつうら大矢野おおやの栖本すもとはそれぞれ独自どくじせい維持いじし、国人くにびととして命脈めいみゃくつないだ。かれらをして天草てんぐさにんしゅばれる。

港湾こうわん都市とし発達はったつ[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい後期こうき日本にっぽん経済けいざい発達はったつによる交易こうえきさかんになり、肥後ひごにも外国がいこくまでられた港湾こうわん都市とし発達はったつした。高瀬たかせげん玉名たまな)は筥崎宮はこざきぐうりょうぞくし、菊池川きくちがわ繁根木はねぎがわ河口かこうはさまれた交通こうつう要所ようしょであった。鎌倉かまくら時代じだいには時宗じしゅう願行寺がんぎょうじなどが建立こんりゅうされ、あきら渡海とかいするまえ絶海ぜっかい中津なかつったという。貞和さだかず3ねん/興国こうこく7ねん(1347ねん)には菊池きくち武光たけみつおとうとたけしょう保田やすだ木城きじょうきずき、以後いご高瀬たかせしょうした。高瀬たかせ願行寺がんぎょうじをはじめとする仏閣ぶっかくへの寄進きしんまち整備せいびなどに尽力じんりょくし、問屋とんやまち職人しょくにんまち形成けいせい寄与きよした。にちちょう貿易ぼうえきさかんにおこなわれ[2- 11]のち高瀬たかせ川底かわぞこから発見はっけんされた中国ちゅうごく青磁せいじるいからも、その繁栄はんえいぶりをうかがうことができる。菊池きくちのううん宇土うどためこう討伐とうばつしたさい高瀬たかせたけはじめ戦死せんしすると保田やすだ木城きじょうしゅ不在ふざいとなり[20]大友おおとも肥後ひご支配しはい自治じち都市としとしての性格せいかくつよめた。

足利あしかが直冬ただふゆむかえたかわしりさいわいしゅん拠点きょてんとしたかわしりもまた、白川しらかわ緑川みどりかわ河口かこういきにある港湾こうわん都市としとしてさかえた。えいただし14ねん(1517ねんおとずれた連歌れんがそうせきは、「千舟ちふねよりかわやちりはうやなぎかげ」とかわしり様子ようすんでいる。おう永年えいねんあいだかわしり勢力せいりょくおとろえると、かわしり特定とくてい支配しはいけない「おおやけかい」としての性格せいかくつよめた。天文てんもん8ねん(1539ねん菊池きくちかた相良さがらかた利害りがい調整ちょうせい会談かいだんかわしりもうけたり[2- 12]上京じょうきょう道中どうちゅう島津しまつ家久いえひさいちぎょうとおさいせきぜにささえはらわされたなどは、この「おおやけかいかわしりならではの事例じれいとされる。宣教師せんきょうしアルメイダはえいろく7ねん(1564ねん)の手紙てがみに、かわしりして「だいなるまち」という記述きじゅつのこしている。

たてたけし新政しんせいにおける論功ろんこう地頭じとうしょく名和なわ義高よしたかはいはちだいじょうきずいてから、城下町じょうかまちおよびはちだい神社じんじゃ門前もんぜまちとしてはちだい繁栄はんえいした[21]相良さがらりょう時代じだいには、外港がいこうとくふちうら基点きてんとする貿易ぼうえきはちだいさかえた。相良さがらよししげるはれひろ貿易ぼうえきせん市来いちきまる」を建造けんぞうしておも琉球りゅうきゅう貿易ぼうえきおこなったが、町衆まちしゅうによる中国ちゅうごく貿易ぼうえきさかんであった。

阿蘇あそ本拠ほんきょ山都やまとまちはまかん」の出土しゅつどひん[編集へんしゅう]

これらの都市とし代表だいひょうされる交易こうえきがもたらしたひとつの結実けつじつは、阿蘇あそ本拠ほんきょであった矢部やべまちげん山都やまとまち)の発見はっけんされた。1973ねん昭和しょうわ48ねん)、けん教育きょういく委員いいんかい熊本くまもと県立けんりつ矢部やべ高等こうとう学校がっこう敷地しきち調査ちょうさし、建物たてものおよび庭園ていえんあと発掘はっくつした。さらに、黄金おうごん延板のべいた白磁はくじ青磁せいじ染付そめつけ三彩さんさいみどりひとし陶磁器とうじきなどが出土しゅつどした。これらのほとんどは輸入ゆにゅうひんであり、この遺跡いせき阿蘇あそ本拠ほんきょの「はまかん」であったと同定どうていされている。出土しゅつどひん21てんは「肥後ひご阿蘇あそはま御所ごしょあと出土しゅつどひん」としてくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている[22]

近世きんせいのはじまり[編集へんしゅう]

豊臣とよとみ秀吉ひでよし九州きゅうしゅう統一とういつ[編集へんしゅう]

日本にっぽんにおいて一般いっぱん近世きんせいとは織田おだ信長のぶなが上洛じょうらく起点きてんとするが、肥後ひごでは豊臣とよとみ秀吉ひでよし九州きゅうしゅう統一とういつをはじまりとしている。天正てんしょう15ねん(1587ねん)3がつ大軍たいぐんひきいた秀吉ひでよし九州きゅうしゅうはいると、のち文字通もじどお破竹はちくいきおいで南下なんかした。4月11にちには肥後ひご南関なんかん、16にちにはくま本城ほんじょう、19にちにははちだいじょう、26にちには水俣みなまたじょういたった。5月8にちには出水しゅっすい島津しまつ義久よしひさを、いで島津しまつ義弘よしひろしんおさめちゅうもと降伏ごうぶくさせるとかかとかえし、6月2にちには隈本くまもともどった。すると秀吉ひでよし肥後ひご国人くにびと52にん本領ほんりょう安堵あんど書状しょじょうはっすると同時どうじに、佐々ささしげるせい肥後ひごいちこくあたえた。どう7にちには小早川こばやかわ隆景たかかげ筑前ちくぜん筑後ちくごを、黒田くろだ孝高よしたか豊前ぶぜんろくぐんあたえ、九州きゅうしゅうくにりをえると大坂おおさかへの帰路きろについた。

難治なんじくに佐々ささしげるせい[編集へんしゅう]

織田おだ信長のぶなが配下はいかもうしょうとして名高なだかかった佐々ささしげるせい秀吉ひでよし反発はんぱつし、なん反抗はんこうしては降伏ごうぶくかえしていた。そのなりせい肥後ひごこくもらけたことは意外いがいひょうされもする[23] が、九州きゅうしゅう遠征えんせいちゅうの5がつ肥後ひご国人くにびと相良さがら頼房よりふさ大矢野おおやの種基たねもとさずかった本領ほんりょう安堵あんど朱印しゅいんじょうには「羽柴はしば陸奥むつもり佐々ささしげるせい)に与力よりきせしむ」[2- 13] とあり、すで官職かんしょく羽柴はしばせいあたえられていることからも、秀吉ひでよしはこのときにはすでなりせい肥後ひご統治とうちさせようと予定よていしていたとうかがえる。また6がつ2にちにはなりせい侍従じじゅう任命にんめいし、肥後ひご国人くにびと52にんあたえた書状しょじょうにも領地りょうち目録もくろくなりせいからるよう指示しじされていることから、秀吉ひでよしなりせい期待きたいせていたともかんがえられる。なお、秀吉ひでよし肥後ひご統治とうちたり、一揆いっきをおこさせない、国人くにびと所領しょりょう安堵あんど検地けんちの3年間ねんかん禁止きんしなどを厳命げんめいした箇条かじょうじょうしょ[2- 14] は、宛名あてなが「佐々ささ内蔵助くらのすけ」となっており、その信憑しんぴょうせい沙汰ざたされている[24]

難治なんじくに[23]肥後ひご行政ぎょうせいした佐々ささしげるせいは、領地りょうち目録もくろく作成さくせいするため各国かっこくじん所領しょりょう検地けんち要求ようきゅうした。朱印しゅいんじょうには、本領ほんりょう安堵あんどにはなりせいしたが目録もくろくけることが条件じょうけんとしてしるされていたが、国人くにびとたちはこのようなよせおやよせ体制たいせい理解りかい埒外らちがいにあり、かれらはこれを秀吉ひでよし保障ほしょうした自治じちけん侵害しんがいとらえた。最初さいしょ反発はんぱつ態度たいどしめしたのが隈府わいふじょう拠点きょてんとしていた隈部くまべちかしひさしだった。かれしるしじょうたて検地けんち拒否きょひし、いわゆる肥後ひご国人くにびと一揆いっき勃発ぼっぱつした。8月6にちおい[25]佐々ささはじめのう討伐とうばつけたが抵抗ていこうけ、なりせい家臣かしん徴兵ちょうへいした国人くにびとしゅらをくわえた総勢そうぜい6000のぐん隈府わいふじょうめた。おやひさし息子むすこ山鹿やまがちかしやす城村じょうむらじょうはいり、ここに篭城ろうじょうして、肥後ひごちゅう国人くにびとげきばした。

これに呼応こおうしたのが御船みふねしろ甲斐かい親房ちかふさしんえいだった。赤星あかほしじょう詫摩たくま有力ゆうりょく国人くにびともこれに合流ごうりゅうし、総勢そうぜい35000の一揆いっきぐんくま本城ほんじょうかった。この報告ほうこくけた佐々ささしげるせい隈府わいふじょうづけじょうきずき、急遽きゅうきょ隈本くまもともどった。なりせい坪井川つぼいがわ一揆いっきぐんやぶったが、隈府わいふでは佐々ささはじめのう隈部くまべかたうちむなし閑静かんせいぼうられた[25]。さらに田中たなかじょう菊池きくちぐん)でかずひとし親実ちかざねあたりはるおやぎょうらも900にん手兵しゅへいがった[26]なりせい救援きゅうえん要請ようせいけた柳川やながわ立花たちばな宗茂むねしげは2000のへい隈府わいふじょうけ、また田中たなかしろ安国寺あんこくじ恵瓊えけい鍋島なべしまらにまれた。

一揆いっきらせをけた秀吉ひでよしは12月[23]隣接りんせつするしょ大名だいみょう出兵しゅっぺいめいじ、肥後ひご鎮圧ちんあつ国人くにびと殲滅せんめつ指示しじした。大軍たいぐんかこまれた隈部くまべちかしひさしおややす降伏ごうぶく処刑しょけいされた。安国寺あんこくじ恵瓊えけいかずひとし親実ちかざね家臣かしん忠節ちゅうせつとなえたが、秀吉ひでよしゆるさず、ことごとく処罰しょばつされた[26]。さらに天正てんしょう16ねん(1588ねん)には浅野あさの長吉ちょうきちはじめとする配下はいかしょう8にんと20000にんへい肥後ひごおくり、残党ざんとうをしらみつぶしにし、また検地けんち実施じっしなど統治とうちおこなわせた。秀吉ひでよし一揆いっき勃発ぼっぱつ責任せきにん佐々ささしげるせいもとめ、もうしょううるう5がつ14にち尼崎あまがさき切腹せっぷくてた。

残党ざんとう鎮圧ちんあつ[編集へんしゅう]

佐々ささしげるせい切腹せっぷく翌日よくじつ秀吉ひでよし肥後ひご二分にぶんし、加藤かとう清正きよまさ小西こにし行長ゆきながあたえた。清正きよまさくま本城ほんじょうり、肥後ひご北部ほくぶ19まん5せんせき領内りょうない森本もりもと一久かずひさらを配置はいちし、与力よりきさんじた国人くにびと佐々ささ旧臣きゅうしん領内りょうない遠国おんごく浪人ろうにんなどを召抱めしかかえた。一方いっぽう行長ゆきなが宇土うとじょう拠点きょてんに、肥後ひご南部なんぶ天草てんぐさ14まん5せんせき領有りょうゆうちょくしん要地ようちいた。人吉ひとよし相良さがら秀吉ひでよし進攻しんこう島津しまついたが、家臣かしん深水ふかみ宗方むなかた懸命けんめい交渉こうしょうこうそうし、はちだい葦北いほくうしないこそしたが、人吉ひとよし本領ほんりょう安堵あんどされていた。しかし一揆いっきさい秀吉ひでよしいのちけて一揆いっき鎮圧ちんあつ出陣しゅつじんした島津しまつ義弘よしひろ伊集院いじゅういんただしとう軍勢ぐんぜい佐敷さしき足止あしどめするという失態しったいおかす。これは佐々ささしげるせいが、島津しまつぐん自身じしん討伐とうばつするため出陣しゅつじんしたものと勘違かんちがいし、その足止あしどめを相良さがら依頼いらいしたことによる行為こういであった。ちゅうとう石田いしだ三成みつなり細川ほそかわ藤孝ふじたかたいし「相良さがら軍勢ぐんぜいめは一揆いっき行動こうどうであるため相良さがら頼房よりふさだいさかがったさいには糾弾きゅうだんすべきである」とうったえている。三成みなり藤孝ふじたか相良さがら行為こうい逆心ぎゃくしんとらえ、義弘よしひろ上洛じょうらくりにはそのさい事情じじょう秀吉ひでよしみみれる心算しんさんであるとべている。秀吉ひでよし当然とうぜんながらこれに激怒げきどしたが、深水ふかみ宗方むなかただいさか出向でむ陳謝ちんしゃしたことゆるされ、相良さがら領地りょうち安堵あんどされた[2- 15]

国人くにびと一揆いっきさい佐々ささかたくわわった[18] 天草てんぐさにんしゅは、天正てんしょう17ねん(1589ねん)に小西こにし行長ゆきながめいじた宇土うどしろ普請ふしんへの資本しほん供出きょうしゅつ反乱はんらんこした。最初さいしょ志岐しき鎮経異議いぎとなえてがり、天草あまくさたねもと上津浦こうつうらしゅただし大矢野おおやの種基たねもと栖本すもとちかしだか同調どうちょうして一揆いっきこした。行長ゆきながは3000にんへいけたが、連合れんごうした天草てんぐさにんしゅは5600のへいそろぶくろうら富岡とみおか)でこれをむか撃破げきはした。行長ゆきながは、加藤かとう清正きよまさ肥前ひぜん有馬ありま大村おおむらからの応援おうえん包囲ほういもう形成けいせいめにてんじた。このたたかいで清正きよまさもっと活躍かつやくし、行長ゆきながおなじキリシタンのじょうはたらうら投降とうこうすすめた。しかし一揆いっきかた本渡ほんどじょうこもって徹底てってい抗戦こうせん態度たいどくずさず、おおくが戦死せんしした。志岐しき鎮経は薩摩さつまのがれ、よん最終さいしゅうてき降伏ごうぶくし、行長ゆきなが家臣かしんだんまれた。

秀吉ひでよしいのちにより清正きよまさ行長ゆきなが相良さがら九州きゅうしゅうかく大名だいみょう朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいしたすきき、天正てんしょう20ねん(1592ねん島津しまつ家臣かしんうめ北国きたぐにけん田尻たじり但馬たじまらはいわゆる梅北うめきた一揆いっきこした。かれらは肥後ひご佐敷さしきじょう芦北あしきたまち)にこもって周辺しゅうへんにも決起けっきうながし、さらにはちだいにもへいけた。だが、土地とち有力ゆうりょくしゃたちは容易よういには同調どうちょうせず、相良さがら鎮圧ちんあつかた優勢ゆうせいをみきわめてはん一揆いっきがわくわわり、梅北うめきたらはやぶれた。名護屋なごや一揆いっきほうれた秀吉ひでよしは、浅野あさの長政ながまさ幸長よしなが派遣はけんし、一揆いっき鎮圧ちんあつ地方ちほうしょしろ監視かんし強化きょうかさせた。さらに一揆いっき終結しゅうけつには、島津しまつとしひさし阿蘇あそおもんみこう背後はいごいといたとして断罪だんざいし、大名だいみょう勢力せいりょく強化きょうか潜在せんざいてき反乱はんらん分子ぶんしさえみという果実かじつ一挙いっきょ手中しゅちゅうにした[2- 16]

まくはん体制たいせい成立せいりつ[編集へんしゅう]

本妙寺ほんみょうじきよしいけびょう加藤かとう清正きよまさぞう
熊本くまもとじょう

加藤かとう清正きよまさとその子孫しそん[編集へんしゅう]

慶長けいちょう5ねん(1600ねん)9がつ全国ぜんこく二分にぶんする天下分てんかわたたかいは、九州きゅうしゅう大名だいみょう東西とうざいけた。徳川とくがわほうひがしぐん)には加藤かとう清正きよまさのほか黒田くろだ中津なかつ)・鍋島なべしま肥前ひぜん)・細川ほそかわ小倉おぐら)らが、石田いしだほう西にしぐん)には小西こにし行長ゆきながのほか島津しまつ大友おおとも立花たちばな柳川やながわ)がついた。相良さがら当初とうしょ西にしぐんぞくしたが、岐阜ぎふじょうたたか以後いごひがしぐん鞍替くらがえした。肥後ひごでは有馬ありま大村おおむら支援しえんけた清正きよまさが、島津しまつらに応援おうえんされた宇土うど隼人はやと小西こにしこうけいまも宇土うとじょうめた。攻防こうぼうせん長引ながびき10がつまでつづいたが、石田いしだかた敗北はいぼく小西こにし行長ゆきなが処刑しょけいらせがもたらされ、隼人はやと開城かいじょうして自決じけつした。

戦後せんご論功行賞ろんこうこうしょうで、加藤かとう清正きよまさ人吉ひとよし天草てんぐさのぞ肥後ひごいちこくあたえられ、熊本くまもとはん成立せいりつした。その石高こくだかは、以前いぜんからの19まん5せんせき小西こにし旧領きゅうりょう14まん5せんせきほかに、豊後ぶんご一部いちぶきゅう豊臣とよとみ直轄ちょっかつりょうくわわり、54まんせきとなった。一気いっきだい大名だいみょう仲間入なかまいりをたした清正きよまさ家臣かしんだん拡張かくちょうせまられ、小西こにし立花りっかきゅう家臣かしんらを召抱めしかか対応たいおうした。そして、慶長けいちょう年間ねんかんには修復しゅうふくかさねて[ちゅう 11] もちいていたくま本城ほんじょうふく茶臼山ちゃうすやま一帯いったいに、だい規模きぼ近代きんだいじょうきず工事こうじ着手ちゃくしゅし、土木どぼく治水ちすいざい遺憾無いかんなそそがれた[27]熊本くまもとじょう慶長けいちょう12ねん(1607ねん)に完成かんせいた。このさい清正きよまさ旧来きゅうらいの「隈本くまもと」を「熊本くまもと」にあらためているが、これは「くま」のが「阜(おか)にかしこ(おそ)れる」ともめるため大名だいみょう居城きょじょうとしてふさわしくないとかんがえたことによるともわれる[28]。この築城ちくじょう様子ようすうたった狂歌きょうか熊本くまもといしきまはす茶臼山ちゃうすやま てきにかとうのしろおもかな」が流行りゅうこうし、清正きよまさよろこんだとも[28]

治水ちすい事業じぎょうやそのカリスマせいから領民りょうみんからもしたわれ[23]南蛮なんばん貿易ぼうえきにも熱心ねっしんだった加藤かとう清正きよまさ慶長けいちょう16ねん(1611ねん)、二条城にじょうじょう徳川とくがわ家康いえやす豊臣とよとみ秀頼ひでより会見かいけん同席どうせきしたのち肥後ひごへの帰路きろにあった船上せんじょう死去しきょした。嫡男ちゃくなん忠広ただひろ当時とうじ10さいであった。江戸えど幕府ばくふ藤堂とうどう高虎たかとらかんこくとして肥後ひご派遣はけんし、藩政はんせいは5家老がろうさだめて合議ごうぎせいとした。翌年よくねんには忠広ただひろ相続そうぞくみとめられたが、このときにも幕府ばくふ水俣みなまた宇土うと矢部やべ三城みきやぶ却を指示しじし、また5家老がろう異動いどうめいじた。この命令めいれいでは筆頭ひっとう家老がろう加藤かとう美作みさく格下かくさげ、加藤かとうみぎうままこと筆頭ひっとうけんはちだい城代じょうだいき、ここに因縁いんねんまれた。元和がんわ4ねん(1618ねん)、加藤かとうみぎうままこと馬方うまかた)は、加藤かとう美作みさく一派いっぱうしかた)を謀反むほんおそれありとうったえ、美作みさくらはただちに反論はんろん上奏じょうそうした。これは将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただ裁量さいりょう事項じこうとなり、大坂おおさかなつじんうしかた豊臣とよとみかた内通ないつうしたうたがいや、徳川とくがわかたかんするあらぬうわさ流布るふさせたと断罪だんざいされ、美作みさく一派いっぱはことごとくけいしょされた。この背景はいけいには、急激きゅうげき家臣かしんだん膨張ぼうちょうさせた清正きよまさくなり、元々もともと多方面たほうめんからのあつまりだった集団しゅうだん結束けっそくにほころびがしょうじた結果けっかだともされる。この事件じけんは「うしかた馬方うまかた騒動そうどう」とばれる。

幼少ようしょうゆえうしかた馬方うまかた騒動そうどう処罰しょばつおよばなかった加藤かとう忠広ただひろは、しかし将軍家しょうぐんけ跡目あとめあらそいにまれる。寛永かんえい9ねん(1632ねん徳川とくがわ秀忠ひでただ死去しきょさい忠長ただながたてまつった家光いえみつ暗殺あんさつ計画けいかく怪文書かいぶんしょ江戸えどおもてかく大名だいみょうとどいた。江戸えどにあった忠広ただひろ嫡子ちゃくし光広みつひろはこれを幕府ばくふとどけず、もとから忠長ただながしたしい間柄あいだがらにあった加藤かとう処罰しょばつ対象たいしょうとなった。肥後ひごこく没収ぼっしゅうされ忠広ただひろ改易かいえき光広みつひろ配流はいるしょされた。肥後ひごへは細川ほそかわうたてふうされた。

天草あまくさ顛末てんまつ[編集へんしゅう]

きゅう小西こにしりょうのうち天草てんぐさ熊本くまもとはんふくまれず、 寺沢てらさわ広高ひろたか肥前ひぜん唐津からつりょうとされた。これには、いち熊本くまもとはんりょうとされたが、熱心ねっしん法華ほっけ信者しんじゃだった加藤かとう清正きよまさキリシタン根付ねつ当地とうちきらい、豊後ぶんご鶴崎つるさきとの交換こうかんもう慶長けいちょう8ねん(1603ねん)にみとめられたともわれる[29] が、研究けんきゅうすくなくとも慶長けいちょう6ねん段階だんかい熊本くまもとはんりょうには天草てんぐさ鶴崎つるさきがあること肥前ひぜん唐津からつはん天草てんぐさ支配しはいしめ証拠しょうこつかっていることから、疑問ぎもんていされている。

天正てんしょう15ねん(1587ねん発布はっぷされたバテレン追放ついほうれい以降いこうも、小西こにし行長ゆきなが配下はいかとなった天草あまくさしゅうによるキリストきょう保護ほごつづき、天草諸島あまくさしょとうはキリシタンの本拠地ほんきょちとなってゆく。大友おおとも衰退すいたいともない、豊後ぶんごにあったノビシャド修練しゅうれんいん)やコレジオ大神おおがみ学校がっこう)が天草てんぐさうつり、河内かわうちうらにノビシャド・天草てんぐさコレジオがてられ、イエズスかい司祭しさい修道しゅうどうたちが滞在たいざいして布教ふきょうたるかたわら、活版かっぱん印刷いんさつ導入どうにゅうし『イソップ物語ものがたり』や『平家ひらか物語ものがたり』また辞典じてんなどの出版しゅっぱん活動かつどうおこなわれた。ぶんろく元年がんねん(1592ねん)には天草てんぐさ4箇所かしょにレジデンシア(司祭しさいかん)が、慶長けいちょう4ねん(1599ねん)には長崎ながさきからうつされてセミナリヨ小神おこ学校がっこう)が志岐しきに、そして翌年よくねんには天主堂てんしゅどうが7箇所かしょ建設けんせつされた。天草諸島あまくさしょとう住民じゅうみん過半かはんキリスト教きりすときょう帰依きえしていた。

いち洗礼せんれいけイエズスかい協力きょうりょくてきだった寺沢てらさわ広高ひろたかだが、慶長けいちょう9ねん(1604ねん)にてんじて弾圧だんあつがわまわった。この態度たいどは、純粋じゅんすい宗教しゅうきょうてき動機どうきではなく政治せいじてき思惑おもわくによるとされる。慶長けいちょう18ねん(1613ねん幕府ばくふ宣教師せんきょうし追放ついほうれいすと、寺沢てらさわ宣教師せんきょうし外国がいこく追放ついほうし、レジデンシアのこわしにした。キリシタンの指導しどうしゃたちはうたてむねするまで拷問ごうもんけ、一般いっぱん信者しんじゃたちも代官だいかんから改宗かいしゅうせまられた。その一方いっぽう寺沢てらさわ天草てんぐさたい強圧きょうあつてき支配しはいくだしていた。肥前ひぜん唐津からつはんによる検地けんち結果けっか天草てんぐさ石高こくだかべいだかで3まん7せんせき(このほか商品しょうひん作物さくもつ漁業ぎょぎょうしおぎょうなど5せんせきがあり、天草あまくさそう石高こくだかは4まん2せんせき)とされたが、これは実力じつりょくともなわない過大かだいなものであり[30]背景はいけいには寺沢てらさわはんおおきくせかけたい見栄みえによるものとかんがえられる[29]。しかし領民りょうみんにはあくまで石高こくだか相当そうとう租税そぜいされ、ほぼおな状況じょうきょうにあった島原しまばら領民りょうみんともども搾取さくしゅくるしめられた。

島原しまばららん寛永かんえい14ねん(1637ねん)10がつ島原しまばら代官だいかん襲撃しゅうげきはじまるが、ほぼおな時期じき大矢野おおやのでも農民のうみんがった。かれらは、小西こにし行長ゆきなが旧臣きゅうしん益田ますだ好次よしつぐ天草あまくさ四郎しろうを「ママコス上人しょうにんマルコス・フェレイラ神父しんぷ)が預言よげんした天童てんどう」とほうじて蜂起ほうきした。連絡れんらくけた唐津からつはんは1500のぐんおくったが一揆いっきかたはこれをやぶり、本渡ほんどすすんだ。さらに天草てんぐさ支配しはい本拠ほんきょ富岡とみおかじょうかこんだ。しかしなかなかとせず、やがて熊本くまもとはんからの討伐とうばつぐんるといううわさながれたため、いちぎょう島原しまばらわたった。そのこもった原城はらのじょう九州きゅうしゅうしょはんぐんそう攻撃こうげきさらされ、ただ一人ひとり内通ないつうしゃのぞきすべて討死うちじにした[31]四郎しろう時貞ときさだったのは熊本くまもとはんちんたすく左衛門さえもんだった。

らんのち島原しまばら松倉まつくら改易かいえき天草てんぐさ寺沢てらさわから備中びっちゅうこく成羽なりわはん山崎やまざき家治いえはる領地りょうち鞍替くらがえされた[ちゅう 12]。このさい成和せいわはんによる調査ちょうさではべい石高こくだか38,732せきのうち6,732せきうしなわれ3,302せきらされたとある[2- 17]家治いえはる富岡とみおかしろ修築しゅうちくなどにしたが、寛永かんえい18ねん(1641ねん讃岐さぬきこく丸亀まるがめはんてんふうとなった。以後いご天草てんぐさ天領てんりょうとなり、代官だいかん鈴木すずき重成しげなり着任ちゃくにんした。

人吉ひとよしじょう石垣いしがき

人吉ひとよしはん成立せいりつ[編集へんしゅう]

秀吉ひでよし九州きゅうしゅう統一とういつさい相良さがら存続そんぞく奔走ほんそうした深水ふかみ宗方むなかたは、自身じしん後継こうけい奉行ぶぎょうとしてのいぬわらわよりゆきやす嫡子ちゃくしであるいぬわらわよりゆきけい指名しめいしたが一族いちぞく反対はんたいい、よりゆきけいおいである深水ふかみよりゆきぞう二人ふたり後継こうけいとした。当主とうしゅ相良さがら頼房よりふさ朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいさい深水ふかみよりゆきぞう軍師ぐんし(あるいは参謀さんぼう)、いぬわらわよりゆきけいをその補佐ほさとしたが、両者りょうしゃ大変たいへん不仲ふなかであり、その影響えいきょうもあってか朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい留守るすねら深水ふかみ一族いちぞく騒動そうどうこしたり、加藤かとう清正きよまさたよ佐敷さしきに逃散するなどしたがことごとく失敗しっぱいし、よりゆきぞう清正きよまさしたが蔚山うるさんたたか死去しきょよりゆきけい相良さがらける地位ちいたかめていった[2- 18]威風いふうかくたるものにしたいぬわらわよりゆきけい関ヶ原せきがはらたたかいでも徳川とくがわかたとの密通みっつう活躍かつやくし、相良さがら安泰あんたい貢献こうけんしたが、のち専横せんおうのふるまいが目立めだつようになった。頼房よりふさ遺言ゆいごんよりゆきけい征伐せいばつのこし、いだよりゆきひろし断罪だんざい幕府ばくふもうた。寛永かんえい17ねん(1640ねんよりゆきあにらは江戸えどされ、稲葉いなば正利まさとしあずかりとされる。人吉ひとよしのこった一族いちぞく屋敷やしきもり反抗はんこうしたが、これも鎮圧ちんあつされた。よりゆきけい最終さいしゅうてき津軽つがる流刑りゅうけいとなり、そのぼっした。

人吉ひとよしはん相良さがらは、江戸えど時代じだいしょはんなかでは島津しまつとともに最古さいこからつづ家系かけいとなった。石高こくだかは2まん2せんせきとされた。近世きんせいじん吉城よしき建築けんちくぶんろく年間ねんかんからはじまっていたが、本格ほんかくてきには慶長けいちょう12ねん(1607ねん)からとされる。人吉ひとよしはんではへいのう分離ぶんりおこなわれず、かくむらにはさとさむらい居住きょじゅうしていた。

細川ほそかわ入部にゅうぶ[編集へんしゅう]

寛永かんえい9ねん(1632ねん)、肥後ひごこく細川ほそかわ忠利ただとしはいった。いちぎょう先頭せんとう加藤かとう清正きよまされいぱいかかげ、熊本くまもとじょう入場にゅうじょうすると清正きよまさおおやけびょう遥拝ようはいしたという[ちゅう 13]隠居いんきょしていた先代せんだい忠興ただおきはちだいじょうはいった。

戦国せんごく時代じだい主君しゅくんのぞ家臣かしんはら風習ふうしゅうがあり、これは江戸えど時代じだい初頭しょとうまでつづいた。細川ほそかわでは寛永かんえい18ねん(1641ねん)3がつ藩主はんしゅ細川ほそかわ忠利ただとしが、正保まさやす2ねん(1645ねんうるう5がつにはおとうとたてこう同年どうねん12がつにはぜん藩主はんしゅ忠興ただこうが、慶安けいあん2ねん(1649ねん)には藩主はんしゅひかりひさしぼっした。このそれぞれのさい何人なんにんもの殉死じゅんしものあらわれた。このとき出来事できごともともり鷗外は『阿部あべ一族いちぞく』『興津おきつわたる五右衛門ごえもん遺書いしょ』をあらわした。この作中さくちゅう殉死じゅんしした阿部あべ弥一やいちみぎ衛門えもん子孫しそん悲劇ひげき物語ものがたっているが、現在げんざいではこれは史実しじつそくしていないとされる[2- 19]

一方いっぽう細川ほそかわひかりなおぼっしたさい嫡子ちゃくし細川ほそかわつなはまだ6さいであり、後継こうけい問題もんだいしょうじた。幕府ばくふ熊本くまもとはん薩摩さつまおさえを役割やくわりづけていたため、幼少ようしょう藩主はんしゅでは心許こころもとないとかんがえ、国替くにがえもしくは宇土うと細川ほそかわこうこう熊本くまもとはん二分にぶんするあん提示ていじされた。しかし、家臣かしん過去かこ功労こうろうげ、またひかりひさし忠節ちゅうせつあふれた遺言ゆいごんこのみそうし、細川ほそかわ分裂ぶんれつ危機ききのがれた。つな成長せいちょう寛文ひろふみ6ねん(1666ねん)、おとうと利重とししげ分家ぶんけさせて肥後ひご新田にったはん江戸えど鉄砲てっぽうしゅう屋敷やしきったが、のち肥後ひご高瀬たかせうつしたことから高瀬たかせはんともしょうする)を創設そうせつし、ささえはんとしての役割やくわりたせた。

江戸えど時代じだい熊本くまもと[編集へんしゅう]

ながせい[編集へんしゅう]

熊本くまもとはん寛永かんえい12ねん(1635ねん)、領内りょうない全域ぜんいきに「ひさし」(てなが)という地方ちほう行政ぎょうせい区域くいき設定せっていし、それぞれを管轄かんかつするそう庄屋しょうやいた。このながとはぐんむら中間ちゅうかんたる区分くぶんで、細川ほそかわ豊前ぶぜん小倉こくらはん時代じだいからっていた制度せいど適用てきようしたものである。そう庄屋しょうやにはおおだい庄屋しょうやきゅう菊池きくち阿蘇あそ家臣かしんなどが任命にんめいされ、それぞれのひさしには会所かいしょばれる役所やくしょかれた。そこでそう庄屋しょうや年貢ねんぐ請負うけおい民政みんせい運営うんえいたった。

とう初手しょてひさし領内りょうないに100箇所かしょ以上いじょう設定せっていされたが、統廃合とうはいごうかえしてうけたまわおう2ねん(1653ねん)には59へ、そしてのちには51までらされ固定こていした。江戸えど時代じだい中期ちゅうきになるとひさし地方ちほう行政ぎょうせい基本きほん単位たんいとしての性格せいかくつよめ、ぐん単位たんいであった代官だいかんなが単位たんいえ、さらには代官だいかんそう庄屋しょうや兼任けんにんしょくとするなどの改訂かいていおこなわれた。また、世襲せしゅうせいだったそう庄屋しょうやもやがて任命にんめいせいへとわり、転勤てんきんなども実施じっしされるようになり官僚かんりょうてき性質せいしつびた。

水前寺すいぜんじしげるおもむきえん一般いっぱんには「水前寺公園すいぜんじこうえん」のられる。

各地かくち模様もよう[編集へんしゅう]

熊本くまもと城下町じょうかまちは、清正きよまさ時代じだい基本きほん構成こうせい出来上できあがった。築城ちくじょう先立さきだち、白川しらかわ合流ごうりゅうしていた井芹いせりかわ分離ぶんり有明海ありあけかいそそぐようにえた。また、坪井川つぼいがわ白川しらかわとから井芹いせりかわながようえ、それぞれが熊本くまもとじょうほりとして機能きのうするようにした。しろ周辺しゅうへんには武家ぶけ屋敷やしきいたが、普請ふしんのために古町ふるまち新町しんまち坪井つぼい、そして京町きょうまち一部いちぶ町人ちょうにんがい形成けいせいされた。ちょうろくきょうは、このころはじめてつくられた城下じょうか唯一ゆいいつ白川しらかわかるはしであった。細川ほそかわ入部にゅうぶまち発展はってんし、整備せいびつづいた。寛永かんえい13ねん(1634ねん)には細川ほそかわ忠利ただとしによって水前寺すいぜんじ建立こんりゅうされ、これは木山きやま方向ほうこうへの街道かいどう沿った茶屋ちゃやとして発達はったつし、細川ほそかわつな時代じだいには桃山ももやま文化ぶんかふう回遊かいゆうしき庭園ていえんなるおもむきえん完成かんせいした。とおる3ねん(1803ねん)にはなりおもむきえんよこはん営のせいろうしょ建設けんせつされ、このろう運搬うんぱんには加勢川かせがわから江津湖えづこ川尻かわじりまで水運すいうんされた。

中世ちゅうせい阿蘇あそは、かみひさし3ねん(726ねん縁起えんぎとされる西にしいわお殿どのてら中心ちゅうしん僧侶そうりょ修行しゅぎょう山伏やまぶし修験しゅげんでもあった。しかし戦国せんごく時代じだい衰退すいたいし、秀吉ひでよし九州きゅうしゅう統一とういつさいはらわれた[32]。これは清正きよまさ時代じだいに、黒川くろかわむらげん阿蘇あそ黒川くろかわまち)に再興さいこうされた。江戸えど時代じだいには大峰おおみね修行しゅぎょうかたわら「阿蘇あそこう」とばれる観光かんこう案内あんないおこなわれた。たから暦年れきねんあいだ(1751ねん - 1763ねんごろからは温泉おんせんとしてもられるようになり、文化ぶんか文政ぶんせい(1804ねん - 1829ねん)には杖立つえたて温泉おんせんに「てい」という温泉おんせん業者ぎょうしゃあらわれ、つく酒屋ざかやなどもてられた。

もと2ねん(1157ねん)に宇野うのちかしはる発見はっけんしたというせつのこ山鹿やまが温泉おんせんは、すでに『和名わみょう類聚るいじゅうしょう』に山鹿やまがぐん温泉郷おんせんきょうとして記述きじゅつされている。肥後ひご国人くにびと一揆いっき舞台ぶたいともなった山鹿やまがは、江戸えど時代じだいには豊前ぶぜん街道かいどう宿場しゅくばまちとして、また温泉おんせんまちとして発達はったつした。細川ほそかわ忠利ただとし寛永かんえい17ねん(1640ねん)に山鹿やまが御茶屋おちゃやもうけ、ここに尾家おいえよしたつ宮本みやもと武蔵むさしまねいている。ふる由緒ゆいしょがあるという当地とうち民芸みんげいひん山鹿やまが灯籠どうろうは、和紙わし生産せいさんこうであった当時とうじ山鹿やまが背景はいけい発達はったつし、寛永かんえい9ねん(1632ねん将軍しょうぐん献上けんじょうされた。また、山鹿やまが灯籠どうろうまつり江戸えど時代じだいさかんになったとされる[ちゅう 14]

小西こにし改易かいえきのち宇土うとじょうはいじょうとなったが、細川ほそかわ時代じだいには宇土うどささえはんかれ、細川ほそかわこうこう初代しょだい藩主はんしゅとなった。ただししろ建設けんせつされず、陣屋じんや拠点きょてんとした。かれは、とどろき水源すいげん湧水わきみず陣屋じんやまでとどろき泉水せんすいどう建設けんせつしているが、この費用ひよう祖父そふ細川ほそかわ忠興ただおき茶入ちゃいれやじくなどをほんはん売却ばいきゃくしてた。

はちだいじょう松江城まつえじょう)は一国一城いっこくいちじょうれい例外れいがいとしてのこされた。これは薩摩さつまおさえ、そして外国がいこくせん来航らいこうそなえるためとされる。細川ほそかわ正保しょうほう3ねん(1646ねん)、家老がろうしょく松井まつい城代じょうだいとしてれた。この細川ほそかわ入部にゅうぶしたがって上野うえのしょうのいくつかの窯元かまもと肥後ひごうつった。このうち、忠興ただこうとともにはちだいはいった上野うえの喜蔵よしぞう一族いちぞく奈良木ならぎかまひらき、万治まんじ元年がんねん(1658ねん)には平山ひらやま場所ばしょうつした。これははちだいしょう、または在所ざいしょ高田たかだながからって高田たかだしょうばれた。朝鮮ちょうせんこなあおすなながれを象嵌ぞうがん陶器とうき製作せいさくし、はん御用ごようかまとして保護ほごけた。また、はちだい特産とくさんぶつとしては高田たかだ蜜柑みかん以前いぜんからられており、天正てんしょう2ねん(1574ねん紀州きしゅう有田ありた伊藤いとう孫右衛門まごえもんはちだいから苗木なえぎかえ蜜柑みかん栽培さいばい導入どうにゅうしたというせつもある[33]高田たかだ蜜柑みかん九州きゅうしゅう遠征えんせい秀吉ひでよしへの、加藤かとう時代じだいから幕府ばくふへの献上けんじょうひんにされた。

人吉ひとよし城下町じょうかまちは、青井あおい阿蘇あそ神社じんじゃ門前もんぜまち中心ちゅうしんだったが、近世きんせい人吉ひとよしじょう建設けんせつされてから市域しいき東側ひがしがわ拡大かくだいして形成けいせいされた。これは慶長けいちょう12ねん(1607ねん)から寛永かんえい16ねん(1639ねんごろ出来上できあがったものとされる。人吉ひとよしはんでは「小成しょうせいぶつ」とばれる特徴とくちょうてき納税のうぜい制度せいどがあり、べい以外いがい綿めんちゃうるしこうじ、またはたきぎ木材もくざい果物くだものなど多様たよう品物しなものおさめられた。とく五木いつき地方ちほうちゃ木材もくざいしつたかさでられた。これらは商品しょうひんせいたかはんがい供給きょうきゅうされたが、そのしょう取引とりひき運輸うんゆあつか川船かわぶね問屋とんやなど商人しょうにん発達はったつしたのも人吉ひとよし特徴とくちょうであった。

代官だいかん鈴木すずき重成しげなり天草てんぐさ郡村こおりむら行政ぎょうせい体制たいせい整備せいびし、復興ふっこうのために近隣きんりんはんからの協力きょうりょくうつりのうすすめた。しかし、寺沢てらさわ一度いちど幕府ばくふとどた4まん2せんせきという数字すうじきまとう徴税ちょうぜい如何いかともしがたく、重成しげなりかえまくかく表高おもてだか半減はんげんはたらきかけた。だが先例せんれい主義しゅぎ幕府ばくふはなかなか承諾しょうだくせず、ついに重成しげなり江戸えど出府しゅっぷして願書がんしょ提出ていしゅつし、自刃じじんした。この重成しげなり幕府ばくふうごかし、万治まんじ2ねん(1659ねん)のさい検地けんちによって天草てんぐさ石高こくだかは2まん1せんせきあらためられた。石高こくだか減少げんしょう間違まちがいないが、自刃じじんについては、病死びょうしせつもある。

その寛文ひろふみ4ねん(1664ねん)、天草てんぐさ三河みかわこく戸田とだ忠昌ただまさ所領しょりょうとされたが、6ねんうつりふうされるさい忠昌ただまさ民衆みんしゅう労苦ろうくおもい、天草てんぐさ天領てんりょうとすべしとの建議けんぎ提出ていしゅつみとめられた。戸田とだ富岡とみおかじょう本丸ほんまるまるやぶ却し、これは「戸田とだやぶしろ」とばれる[34]

平地ひらちすくない天草てんぐさ地方ちほうは、干拓かんたくたわずかな田畑たはたのほかにサツマイモ食生活しょくせいかつささえる重要じゅうよう農産物のうさんぶつであった。天草てんぐさでは「カライモ」「カンチョ」「カンボ」などとばれるサツマイモは、記録きろくじょうでは『天草あまくさ年表ねんぴょうごとろく』のとおる10ねん(1725ねん)にある記述きじゅつ初出しょしゅつだが[2- 20]、これは江戸えど小石川こいしかわ導入どうにゅうされた時期じきよりもふるい。また海産物かいさんぶつ重要じゅうよう食材しょくざいであった。下島しもじま最南端さいなんたん牛深うしぶかさかんなイワシりょう天正てんしょう11ねん(1583ねん)に紀伊きいこくからうつんだ岩崎いわさきろく兵衛ひょうえつたえたとわれる[2- 21]。イワシは食用しょくようのほか、カツオりょうえさ干鰯ほしかとして商品しょうひんされ、地域ちいき経済けいざいささえた。

治水ちすい灌漑かんがい[編集へんしゅう]

肥後ひご54まんせきという石高こくだかは、天正てんしょう16ねん(1588ねん)におこなわれた太閤たいこう検地けんちあきらかになった数字すうじである。入部にゅうぶした加藤かとう清正きよまさ領内りょうない治水ちすい新田にった開発かいはつ積極せっきょくてきすすめ、かく河川かせん改修かいしゅう井手いで用水路ようすいろせき建設けんせつなどをおこなった。白川しらかわ流域りゅういき瀬田せた上井手かみいで馬場楠ばばぐす井手いで[35]緑川みどりかわせき[36]球磨川くまがわ下流かりゅう遙拝ようはいせき[37] などが清正きよまさ治水ちすいれいげられる。これらによって慶長けいちょう13ねん(1608ねん)の検地けんちでは、肥後ひご石高こくだかは75まんせきにまでがった。このようなだい規模きぼ開発かいはつ国人くにびと割拠かっきょ時代じだいには不可能ふかのうであり、恩恵おんけいける民衆みんしゅう過去かこかえりみることはなくなり、清正きよまさ人気にんきをさらにたかめた[23]細川ほそかわ時代じだいになっても有明海ありあけかい干拓かんたくなどによる新田にった開発かいはつつづいた。

つうじゅんきょう

江戸えど時代じだい後期こうき農村のうそん疲弊ひへい問題もんだいになるとそう庄屋しょうやそう救済きゅうさい目的もくてきおこな灌漑かんがい工事こうじえた。その代表だいひょうれいになるつうじゅんきょうは、矢部やべしゅながそう庄屋しょうや布田ぬのた保之助やすのすけ立案りつあん計画けいかくし、種山たねやま石工せっこうらが架橋かきょうして完成かんせいた。このはしによってみずとぼしい白糸しらいと台地だいち40まちへのつうすい可能かのうとなった。布田ぬのたはこのほかにも13の石橋いしばし建設けんせつ溜池ためいけ用水路ようすいろ設置せっち道路どうろ整備せいびなどをすすめた。このつうじゅんきょう建設けんせつ手本てほんとなったかめたききょうは、計画けいかくそう庄屋しょうやさんすみたけはち施工しこう岩永いわながさんろうによって架橋かきょうされた。三隅みすみたけはち明治めいじ政府せいふまねかれて東京とうきょう日本橋にほんばし皇居こうきょ二重橋にじゅうばし建設けんせつにも関与かんよするなど、肥後ひご石工せっこう技術ぎじゅつたかさをしめした。

人吉盆地ひとよしぼんち球磨川くまがわ上流じょうりゅうには、支流しりゅうまでくわえるとそう延長えんちょうすうじゅうkmおよ農業のうぎょう用水路ようすいろ百太郎ももたろうみぞがある。この建設けんせつは16世紀せいきまつはじまるとされ、球磨川くまがわもうけられた百太郎ももたろうせきから多良木たらきむらまでがつくられた。以後いご工事こうじつづけられて支流しりゅう原田川はらたがわまでつながった水路すいろ流域りゅういき田畑たはたうるおした。なに由来ゆらいづけられたかわからない水路すいろは、[38] おおくの百姓ひゃくしょう労力ろうりょくをかけて建設けんせつされたものである。元禄げんろくからは藩士はんし高橋たかはし政重まさしげ主導しゅどうし、幸野ゆきのみぞもうけられた。これらの灌漑かんがいみぞは、あらたに1まんせき以上いじょう新田にった開発かいはつ可能かのうにし、また木材もくざい運搬うんぱんにももちいられた。

飢饉ききん災害さいがい[編集へんしゅう]

古代こだいからゆたかな農産のうさんとしてられ、はんによる治水ちすい灌漑かんがいさかんにおこなわれた肥後ひごも、江戸えど時代じだいこった飢饉ききん影響えいきょうまぬかれることはできなかった。寛永かんえい11ねん(1634ねん)の凶作きょうさく翌年よくねん大風おおかぜがもたらした田畑たはた家屋かおくへの被害ひがいはじまった寛永かんえいだい飢饉ききん高齢こうれいしゃ病人びょうにんなど弱者じゃくしゃ中心ちゅうしんおおくの餓死がしものんだ。これは、島原しまばら天草てんぐさらんこした一因いちいんともされる。寛永かんえい18ねん(1641ねん)は最悪さいあく状況じょうきょうとなり、害虫がいちゅう発生はっせいによる田畑たはたへの被害ひがい種籾たねもみ確保かくほにも支障ししょうをきたすほどで、幕府ばくふはん対応たいおうわれた。

とおるだい飢饉ききんでは、すでとおる14ねん(1729ねんごろから旱魃かんばつ大風おおふうなどによる収穫しゅうかくげんはじまっており、また厄介やっかい螟虫ずいむし発生はっせい充分じゅうぶん駆除くじょ出来できないままにとおる17ねん長雨ながあめ冷夏れいかむかえてしまった。収穫しゅうかく平年へいねんの11%ほどにしかならず、すくいまい拠出きょしゅつなどの支出ししゅつかさなり、熊本くまもとはん財政ざいせい悪化あっかした。そのため藩札はんさつ発行はっこう許可きょか幕府ばくふからたが、げんぎん準備じゅんびいままに発行はっこうされたぎんさつ信用しんようおとり、割引わりびきりつたかさや騒動そうどうなどがこり、早々そうそう停止ていしされた。

細川ほそかわ宗孝むねたか時代じだいひろしねん江戸えど洪水こうずいがあり、西国さいごく大名だいみょう手伝てつだ普請ふしんのために、はん財政ざいせい悪化あっかした。

とおる年間ねんかん以降いこう肥後ひご断続だんぞくてき飢饉ききん見舞みまわれつづけた。天明てんめいだい飢饉ききんころにはむら々のかこえまいそこをつき、農村のうそんから都市とし乞食こじきをしていつなごうとするものおおかった。天明てんめい3ねん(1783ねん)に肥後ひご旅行りょこうした古川ふるかわ小松こまつのきは、棄農しゃ熊本くまもとかう道中どうちゅう餓死がししたようなどをつたえ、みみにしていた熊本くまもとはん仁政じんせい虚像きょぞうだったのだと記録きろくした。この時期じき幕府ばくふ浅間山あさまやま噴火ふんか被害ひがいけた信濃川しなのがわなどの修復しゅうふく普請ふしん熊本くまもとはんめいじており、はん状況じょうきょうかかわらず出費しゅっぴいられていた。

寛永かんえい3ねん(1791ねん)4がつ朔日さくじつ、2だい地震じしんによって島原しまばら眉山びざん崩落くずれおち大量たいりょう土石流どせきりゅううみそそいで津波つなみこし、有明海ありあけかい沿岸えんがんおおきな被害ひがいをもたらした。熊本くまもとはんでは死者ししゃ5520にん家屋かおく流出りゅうしゅつ2252むね田畑たはたやく2252まち損害そんがいけた。天草てんぐさ天領てんりょうでは死者ししゃ343にん田畑たはた損害そんがいやく65まちのぼった。

百姓ひゃくしょう一揆いっき[編集へんしゅう]

熊本くまもとはん一揆いっきすくなく、それは強固きょうこ地方ちほう支配しはい傍証ぼうしょうとまでされていた。しかし近年きんねん実際じっさいにはやく90けん一揆いっき領内りょうない勃発ぼっぱつし、人吉ひとよし天草てんぐさふく近世きんせい肥後ひごこくでは100けんえていたことがあきらかになっている。これは、西日本にしにほんでは伊予いよこくならんでさいしき部類ぶるいたる[2- 22]熊本くまもとはんこった一揆いっき特徴とくちょうは、規模きぼちいささがあり、300にん以下いか一揆いっきおおかった。またその理由りゆうについても、租税そぜいなど賦役ふえき減免げんめんもとめるものとならび、藩札はんさつ信用しんよう不安ふあんもとづく都市とし騒動そうどう庄屋しょうや村役人むらやくにん罷免ひめん要求ようきゅうおおかった。ただしそう庄屋しょうや排斥はいせきかかげた一揆いっき記録きろくく、ぎゃく寛政かんせい元年がんねん(1789ねん)にはそう庄屋しょうや転出てんしゅつ反対はんたい矢部やべ農民のうみん熊本くまもとじょうしかけるというれいもあった。延喜えんぎ4ねん(1747ねん)には7000〜8000にん参加さんかした熊本くまもとはん最大さいだい一揆いっき葦北いほくぐんきているが、これも堤防ていぼう工事こうじ尽力じんりょく[39] 農民のうみん理解りかいしめしていた郡代ぐんだい稲津いなつわたるみぎ衛門えもん罷免ひめんしをもとめた強訴ごうそだった。

寛政かんせい年間ねんかんころには、凶作きょうさく普請ふしん手伝てつだえなどの原因げんいんから人吉ひとよしはん財政ざいせい貧窮ひんきゅうしていた。武士ぶしいえろく返上へんじょうなど倹約けんやくさくつづなか文政ぶんせい4ねん(1821ねん家老がろうしょくいた田代たしろ政典まさのりによる改革かいかく断行だんこうし、殖産しょくさん興業こうぎょうさくとしてからむしこうぞ椎茸しいたけなどの栽培さいばいによる専売せんばい実施じっしした。この計画けいかくのため椎茸しいたけ栽培さいばいするやまへのりがきんじられ、おりからの凶作きょうさくによるえを山菜さんさいなどでしのいでいた農民のうみん反発はんぱつった。天保てんぽう12ねん(1841ねん)2がつ2にちはじまった一揆いっき椎茸しいたけやまこわし、9にちには総勢そうぜい15000にん一揆いっきかた町中まちなか特権とっけん階級かいきゅう業者ぎょうしゃ屋敷やしきなどをおそった。これは「たけやま騒動そうどう」とばれる。一揆いっきがわには門葉もんよう相良さがら一族いちぞくしょう衆議しゅうぎばれる)の相良さがらひだりなかよりゆきただしがつき、農民のうみん要求ようきゅうはんれさせることで一揆いっき収束しゅうそくした。田代たしろ政典まさのりみずか自害じがいおよび、相良さがらひだりなか一揆いっき先導せんどう嫌疑けんぎにて切腹せっぷくいのちふくした。

天領てんりょう天草てんぐさでは、ぎんぬし(ぎんし)とばれる有力ゆうりょくしゃによる実効じっこう支配しはいすすんだ。しょう工業こうぎょう貸金かしきんなどで蓄財ちくざいし、田地でんち買占かいしめをおこなったぎんぬし農民のうみん小作こさく貧農ひんのう促進そくしんした。現在げんざい五和ごわまちにあった石本いしもと薩摩さつま調しらべしょ広郷ひろさと協力きょうりょくして琉球りゅうきゅう貿易ぼうえきおこなったり[2- 23]幕府ばくふへのみつぎおさめ評価ひょうかされ帯刀たいとうゆるされるなどの権勢けんせいほこった。飢饉ききんだい庄屋しょうや不正ふせい明和めいわ8ねん(1771ねん)の「まい騒動そうどう」など)によって鬱積うっせきした農民のうみん不満ふまんはやがてぎんぬしけられ、ちこわしや松平まつだいら定信さだのぶへの農民のうみんかごなどがしょうじた。これらをけ、寛政かんせい5ねん(1793ねん)と8ねん(1796ねん)には「天草あまくさぐん百姓ひゃくしょう相続そうぞくかた仕法しほう」(あまくさぐんひゃくしょうあいつづけかたしほう)が発令はつれいされた。とく後者こうしゃは「天下てんか無双むそう徳政とくせい」とまでわれた、農民のうみんがわった画期的かっきてき政策せいさくだった。だが、文政ぶんせい9ねん(1826ねん)に仕法しほう運用うんよう期間きかんれ3ねんだい凶作きょうさくおそうと、ぎんぬし仕法しほう復活ふっかつのぞ農民のうみんあいだ対立たいりつ激化げきかし、天保てんぽう14ねん(1843ねん)とひろし2ねん(1845ねん)にはだい一揆いっき勃発ぼっぱつした。天保てんぽうだい一揆いっきでは25000にんひろしだい一揆いっきでは最大さいだい15000にんくわわった。ひろし年間ねんかん一揆いっきでは幕府ばくふ強硬きょうこうさくて、長崎ながさき代官だいかん島原しまばらはんからの出兵しゅっぺいにより鎮圧ちんあつ。146にん逮捕たいほ首謀しゅぼうしゃ獄門ごくもん対処たいしょした。農民のうみんたいしては、不充分ふじゅうぶんながら施行しこうされた仕法しほう幕末ばくまつまで断続だんぞくてきおこなわれ、多少たしょうなりとも不満ふまん慰撫いぶした。

肥後ひご鳳凰ほうおう細川ほそかわ重賢しげかた

たかられき改革かいかく[編集へんしゅう]

江戸えど中期ちゅうき熊本くまもとはん財政ざいせいきびしい状態じょうたいにあった。そのころたる延喜えんぎ4ねん(1747ねん)、だい5だい藩主はんしゅ細川ほそかわ宗孝むねたか江戸えどひょう遠江とおとうみこく相良さがらはん旗本はたもと板倉いたくらまさる殺傷さっしょうされた。人違ひとちがいのすえ事件じけんだったが、そうたかしにはかったためおとうと細川ほそかわ重賢しげかた跡目あとめいだ。重賢しげかたなが江戸えど藩邸はんていでの部屋住へやず時代じだいに、学問がくもんむかたわら、はん貧窮ひんきゅう状態じょうたい実感じっかんしていた。かれ肥後ひご入国にゅうこく以後いご次々つぎつぎたかられき改革かいかくばれる政策せいさくしてはんなおしをおこない、熊本くまもとはん中興ちゅうこうと、また「肥後ひご鳳凰ほうおう」と賞賛しょうさんされた。重賢しげかた入国にゅうこくとほぼ同時どうじに「申聞もうしきけおけ条々じょうじょう」をしめし、まず綱紀こうき粛正しゅくせいした。いで、財政ざいせい再建さいけん行政ぎょうせい刑法けいほう改革かいかく殖産しょくさん興業こうぎょう藩校はんこう習館創立そうりつなど、また検地けんち実施じっし領内りょうない年貢ねんぐ不公平ふこうへい是正ぜせいするなど、次々つぎつぎった。この一連いちれん改革かいかくにおいて重賢しげかた右腕うわんとなったのは、用人ようにんから抜擢ばってきけてだい奉行ぶぎょうとなったほりまさるめいであった。

たかられき改革かいかくなか特筆とくひつすべきひとつは、日本にっぽん最初さいしょ刑法けいほうてんとされる『刑法けいほう叢書そうしょ』の編纂へんさんがある。従来じゅうらい追放ついほうけい廃止はいしして鞭打むちう懲役ちょうえきけい追加ついかし、受刑じゅけいしゃにははん公的こうてき作業さぎょうとおして技能ぎのう習得しゅうとくをさせるなど生活せいかつ支援しえんおこなった。殖産しょくさん興業こうぎょうではハゼノキはちだい干拓かんたく栽培さいばいされたイグサ育成いくせいはん直営ちょくえいおこなわれた木蝋もくろう製造せいぞうがある。養蚕ようさん奨励しょうれいされたが、その結実けつじつ寛政かんせい以降いこうになってもたらされた。

たかられき4ねん(1754ねん)(たかられき5ねん-1755ねんともされる[40]重賢しげかたによって設立せつりつされた藩校はんこう習館(そうきょう長岡ながおか忠英ただひで)は、藩政はんせい刷新さっしんにな藩士はんし育成いくせいにあった。寛文ひろふみ年間ねんかん(1661ねん – 1673ねん熊本くまもともっとさかんな学問がくもん陽明学ようめいがくだったが、幕府ばくふ方針ほうしんなら朱子学しゅしがく中心ちゅうしんへと移行いこうしていた。4だい藩主はんしゅ細川ほそかわせん昌平しょうへい出身しゅっしん秋山あきやま玉山ぎょくざん重宝ちょうほうし、玉山たまやまそうたかしにもつかえ、そのまま重賢しげかたとき習館で初代しょだい教授きょうじゅしょく就任しゅうにんした。ここは、藩士はんしのみならず、足軽あしがる陪臣ばいしんては庶民しょみん子弟していでも承認しょうにんければ入館にゅうかんできた。ここには武芸ぶげいしょ併設へいせつされ、生徒せいと文部もんぶ両道りょうどう教育きょういくけた。

どき習館とほぼおなたかられき6ねん(1756ねん)、すでに私塾しじゅくち、重賢しげかた治療ちりょうした医師いし村井むらいほお細川ほそかわ重賢しげかたいのち学校がっこうである再春館さいしゅんかん (学校がっこう)宮寺みやでらむらげん二本木にほんぎ)に創設そうせつした[41][ちゅう 15]。これは薬園やくえんしげるしげるえん[42]ち、医学いがくとともに薬学やくがく研究けんきゅうされた。ここでは殖産しょくさん興業こうぎょう一環いっかんとして朝鮮人参ちょうせんにんじん栽培さいばい研究けんきゅうおこなわれた。

きりしたんくずれと流人るにんたち[編集へんしゅう]

文化ぶんか2ねん(1805ねん)、天草てんぐさ大量たいりょうかくれキリシタンが発覚はっかくする事件じけん天草あまくさくず)がきた。その2ねんまえ今富いまとみむらげん河浦かわうらまち)でうしころされる事件じけんがあったが、これは祝日しゅくじつうしかみささげるキリシタンの行為こういではとみなされ、極秘ごくひ調査ちょうさおこなわれていた。この探索たんさくにはくに照寺しょうじ住職じゅうしょく大成たいせい今富いまとみむら庄屋しょうや上田うえだ友三郎ともさぶろうたっていた。その結果けっか、4つのむら総勢そうぜい5200にん信者しんじゃがいることが判明はんめいした。この処遇しょぐうについて報告ほうこくけた幕府ばくふは、まれ寛大かんだい措置そちった。すで調しらべの段階だんかいうたてむね説得せっとくし、キリストぞうやぶ却や踏絵ふみえまたは改宗かいしゅうちか文書ぶんしょ提出ていしゅつなどがおこなわれていたこともあって、最終さいしゅうてきには「先祖せんぞ伝来でんらい風習ふうしゅう盲目的もうもくてきいでいた」だけとしてだれ一人ひとり処罰しょばつされなかった。

この決定けってい背後はいごには、友三郎ともさぶろうあに上田うえだよろしめずらし存在そんざい影響えいきょうしたとされる。天草てんぐさ行政ぎょうせい委託いたくされていた島原しまばらはん松平まつへい天領てんりょう伴天連ばてれん騒動そうどうきることをおそれ、以前いぜんからむべちん庄屋しょうやそう接触せっしょくっていた。「天草あまくさくずれ」発覚はっかくにおいて信者しんじゃ説得せっとくむべちんらは奔走ほんそうし、こと穏便おんびんませた[43]むべちん天草てんぐさ民衆みんしゅう貧窮ひんきゅう解消かいしょうにもしんくだき、しつたか地元じもとさん天草てんぐさせきをつけて陶器とうき製造せいぞう検討けんとうにもした。かさむ物流ぶつりゅうから陶器とうき製造せいぞう頓挫とんざしたが、天草てんぐさせきそのものを砥石といしとして販売はんばいする道筋みちすじてた。むべちんはまた、天草てんぐさ歴史れきしつたえる『天草てんぐさしまきょう著述ちょじゅつや、地図ちず編纂へんさんのためにおとずれた伊能いのう忠敬ちゅうけいから測量そくりょうじゅつまなぶなどのことれきのこした[44]

江戸えど時代じだいつうじて、天草てんぐさ流罪るざいけいでもあった。江戸えどきょうだいさかなどから遠島えんとう処分しょぶんにあった罪人ざいにんたちは、かくむら々にてられた。かれらと村人むらびとあいだではトラブルもおおしょうじ、天草てんぐさ住人じゅうにん村役人むらやくにんたちはなん流刑りゅうけい免除めんじょねがいを幕府ばくふ提出ていしゅつしたが、みとめられることはかった。その一方いっぽうで、天保てんぽう3ねん(1832ねん)に讒言ざんげんつみおんいん門主もんしゅだい僧都そうずていしゅん上人しょうにん残夢ざんむ道人どうじん)は当地とうち学問がくもんさづけるなど、そのたかとくから尊敬そんけいあつめた。上人しょうにん明治めいじ政府せいふ特赦とくしゃたが、天草てんぐさまり、1875ねん明治めいじ8ねん)に生涯しょうがいえた。

幕末ばくまつ熊本くまもと[編集へんしゅう]

実学じつがくとう勤皇きんのうとう[編集へんしゅう]

文化ぶんか6ねん(1809ねん)にまれた横井よこい小楠しょうなん秀才しゅうさいほまたかく、とき習館寮長りょうちょう江戸えど遊学ゆうがくゆるされた。その藤田ふじた東湖とうこなどとの交流こうりゅうち、水戸みとまなぶ影響えいきょうおおいにけた。さけ失敗しっぱい帰国きこく謹慎きんしんちゅうかれ勉学べんがくとおして訓詁くんこがくてき朱子学しゅしがくおしえるとき習館を否定ひていするがわまわり、ひろし学派がくは儒者じゅしゃ大塚おおつか退すさ影響えいきょう色濃いろこけ、道理どうり実践じっせん重視じゅうしする思想しそうにつけた。これには家老がろう長岡ながおかただしようらが賛同さんどうし、ともまなびながら、やがて政治せいじ改革かいかく思考しこうする「実学じつがくとう結成けっせいへと発展はってんしていった。

幅広はばひろ支持しじける実学じつがくとうは、奢侈しゃし排除はいじょ農村のうそん復興ふっこう特権とっけん商人しょうにん排斥はいせきなどをかかげる「時務じむさく」をしめして藩政はんせい意見いけんした。これには主流しゅりゅうでありとき習館教義きょうぎ保守ほしゅ傾向けいこうった「学校がっこうとう」の反発はんぱつみ、両者りょうしゃなが対立たいりつすることになる。ひろし年間ねんかん交流こうりゅうがあった江戸えど徳川とくがわ斉昭なりあきらが蟄居ちっきょ処分しょぶんけると実学じつがくとう影響えいきょうこうむり、長岡ながおかただしよう家老がろうしょく罷免ひめんされるなど発言はつげんりょく急速きゅうそくうしなった。その安政あんせい年間ねんかん実学じつがくとうは、よう中心ちゅうしんとした「明徳めいとく」(坪井つぼい)と、小楠しょうなん中心ちゅうしんの「しんみん」(沼山津ぬやまづ)に分裂ぶんれつする。とう横井よこい小楠しょうなんげんの『海国かいこく』に影響えいきょうされ、開国かいこく富国強兵ふこくきょうへいさくほうじるが、熊本くまもとはんでは理解りかいられず、松平まつだいらはるだけもとめにおうじて福井ふくいはん活躍かつやくうつした。

また、熊本くまもとはんには国学こくがくかかげる「勤皇きんのうとう」もまれた。 高本たかもとむらさきほんきょ宣長のりながとも親交しんこうがあり、とき習館の教授きょうじゅしょく時代じだいには同館どうかん国学こくがく教科きょうかくわえもした。思想家しそうかはやしさくらえんむらさき溟の弟子でし長瀬ながせ真幸まさきまなび、熊本くまもと城内じょうのうち千葉城ちばじょう[45] 私塾しじゅく原道はらみちかん」を創立そうりつし、2000にんともいわれる弟子でし国学こくがくおしえた[46]

うしとし騒動そうどう[編集へんしゅう]

幕末ばくまつ人吉ひとよしはん新宮しんぐう行蔵こうぞうらがおしえる山鹿やまがりゅう兵法ひょうほう主流しゅりゅうだったが、幕府ばくふこうたけしょ世話せわやくつとめていた松本まつもとりょう一郎いちろう洋式ようしき兵制へいせいみ、両者りょうしゃ対立たいりつ激化げきかした。文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)、城下じょうか火災かさい武具ぶぐるい焼失しょうしつしたことを松本まつもとらがはん武装ぶそう洋式ようしきえるよう主張しゅちょうしたが、藩主はんしゅ相良さがらよりゆきもと許可きょかしなかった。慶応けいおう元年がんねん(1865ねん)、洋式ようしきかたくななよりゆきもとはいする計画けいかくてているとのうわさながれ、はん山鹿やまが流派りゅうは松本まつもとらをたせた。これはうしとし騒動そうどうばれ、洋式ようしき同情どうじょうせられた。はん武装ぶそうさい整備せいび一部いちぶ洋式ようしきれたが、慶応けいおう3ねんには次代じだい趨勢すうせい洋式ようしき兵制へいせい全面ぜんめんてきえた。このさい人吉ひとよしはん指導しどう薩摩さつまはんからけたが、その影響えいきょうによって公武こうぶ合体がったいから倒幕とうばくへの傾斜けいしゃつよまっていった。

小倉おぐら戦争せんそう[編集へんしゅう]

元治もとはる元年がんねん(1864ねん)8がつ幕府ばくふ九州きゅうしゅうかくはん長州ちょうしゅうへの出兵しゅっぺいめいじた。佐幕さばくとなった熊本くまもとはんもこれにおうじ、沼田ぬまたかんかいよしひきいるいち番手ばんて2393にん小倉おぐらかった。11月には有吉ありよしすすむかん番手ばんて5436にん、さらに長岡ながおかまもるの3785にんつづき、徳川とくがわ慶勝よしかつ配下はいかくわわった。このさいには長州ちょうしゅうはん内部ないぶ分裂ぶんれつもあり、戦闘せんとうにはいたらなかった。

しかし慶応けいおう元年がんねん(1865ねん)、長州ちょうしゅう実権じっけん倒幕とうばくにぎったことなどから幕府ばくふはふたたび長州ちょうしゅう討伐とうばつ実行じっこううつした。熊本くまもとはんはこれに批判ひはんてきながら出兵しゅっぺいおうじ、前回ぜんかい同様どうよう小倉おぐら赴任ふにんした。幕府ばくふ老中ろうじゅう小笠原おがさわら長行おさゆき指揮しきしも戦闘せんとうはじまったが、おおくのはん幕府ばくふぐんまでもが傍観ぼうかんみ、小倉こくらはん苦戦くせんした。熊本くまもとはん唯一ゆいいつ救援きゅうえん要請ようせいこたえ、赤坂あかさか方面ほうめん長州ちょうしゅうぐん退しりぞけた(赤坂あかさか鳥越とりこしたたかい。現在げんざい北九州きたきゅうしゅう市立しりつ桜丘さくらがおか小学校しょうがっこう付近ふきん)。しかし大局たいきょく長州ちょうしゅうがわがあり、将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち訃報ふほうつたわると幕府ばくふがわ敗走はいそうした。小倉こくらはん香春かわらまで退却たいきゃくし、当時とうじ6さい幼君ようくんゆたか千代丸ちよまる(のちの小笠原おがさわらただしまこと)や家臣かしん家族かぞくたちは熊本くまもとはん保護ほごした。いちぎょう熊本くまもと滞在たいざい半年はんとしあいだおよんだ。

おくれた肥後ひご[編集へんしゅう]

幕末ばくまつの、改革かいかくかう胎動たいどう肥後ひごでは具体ぐたいてきかたちになってあらわれることはかった。明治めいじ3ねん(1870ねん)、はん所有しょゆう軍艦ぐんかんりゅう驤」をしん政府せいふ献上けんじょうするにあたり、当時とうじ藩主はんしゅ細川ほそかわ韶邦は「とうはんは、維新いしんへの貢献こうけんなにもない」とかたっている[47]

これは、地方ちほうゆえに中央ちゅうおう情報じょうほうから隔絶かくぜつされていたわけではけっしてい。大塩おおしお平八郎へいはちろうらん詳細しょうさい船津ふなつむらげん熊本くまもと地蔵じぞうこうちょう記載きさいされ[2- 24]ペリー来航らいこうえがいた黒船くろふね小国おぐにまち役場やくば文書ぶんしょからつかっているほどである。幕府ばくふめいじた相州あいしゅう警備けいびでは、熊本くまもと藩士はんし現在げんざい横浜よこはま本牧ほんもく相模さがみにんたっている。このような世情せじょう背景はいけいにあったのか、安政あんせい5ねん(1858ねん)8がつ上旬じょうじゅんあらわれた彗星すいせいに、肥後ひご民衆みんしゅう社会しゃかい激変げきへん予感よかんしていた[2- 25]

しかし、熊本くまもとはんしょとう議論ぎろんたたかわせるばかりで、はんろん一致いっちなかった。鳥羽とば伏見ふしみたたか直前ちょくぜん佐幕さばく主流しゅりゅうだったが、徳川とくがわ慶喜よしのぶ敗走はいそう追討ついとうれいくだされると勤皇きんのうがわ意見いけんつよまった[2- 26]。しかし、大政奉還たいせいほうかん明治めいじ時代じだいはいってもはんない議論ぎろんばかりで行動こうどうともなわず、細川ほそかわまもるひさなげいたという。慶応けいおう4ねん/明治めいじ元年がんねん(1868ねん)になってやっと米田よねだ虎之助とらのすけひきいる500のへい出兵しゅっぺいして東北とうほく戦争せんそう参戦さんせんし、維新いしんがわ恭順きょうじゅん態度たいどしめした。明治めいじ2ねん(1869ねん)にはまもるひさおとうと津軽つがるうけたまわあきら婿養子むこようしとして藩主はんしゅつとめる津軽つがるはん支援しえんするため、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくふねハーマンごうやとい350にんへいおくしたが、房総半島ぼうそうはんとうおき座礁ざしょうし200にん以上いじょう溺死できしする事件じけんこった[48]

明治めいじしん政府せいふ人材じんざいかくはんにももとめ、熊本くまもとはんからも細川ほそかわまもるひさ議定ぎていけん刑法けいほう事務じむ総督そうとくおとうとまもる参与さんよ江戸えど留守るすやく津田つだ信弘のぶひろ刑法けいほう事務じむかけ、その刑法けいほうかけ複数ふくすう藩士はんし任命にんめいされた。これら刑法けいほう分野ぶんやへのおおさは、たかられき改革かいかく以後いご運用うんようされていた『刑法けいほう叢書そうしょ』が評価ひょうかされたためである。一方いっぽう横井よこい小楠しょうなんしに熊本くまもとはん難色なんしょくしめしたともいう。この情勢じょうせいなかはんろんわらざるをえず、それまで発言はつげんりょくきにひとしかった勤皇きんのうとう存在そんざいかんし、鶴崎つるさき勤皇きんのうとう河上かわかみ彦斎隊長たいちょうとした長州ちょうしゅう兵隊へいたいのような性格せいかく軍隊ぐんたい組織そしきした。

熊本くまもと維新いしん[編集へんしゅう]

まもるひさ実学じつがくとう政権せいけん[編集へんしゅう]

小説しょうせつとくとみ蘆花ろかは、作品さくひん竹崎たけざき順子じゅんこ』のなか登場とうじょう人物じんぶつに「肥後ひご維新いしん明治めいじ3ねんました」とかたらせている。幕末ばくまつ動乱どうらん凶作きょうさくさらされる熊本くまもと民衆みんしゅうにとって、「御一新ごいっしん」とぶに相応ふさわしい変革へんかく明治めいじ3ねんたなければならなかった。

明治めいじ2ねん(1869ねん)の版籍はんせき奉還ほうかん熊本くまもとはん藩政はんせい家政かせい区別くべつ家臣かしんだん改組かいそなどをおこなったが、人事じんじてきには旧態きゅうたいぎ、あまり積極せっきょくてき改革かいかくほどこさなかった。この攘夷じょういかかんだままの熊本くまもとはんしん政府せいふ不信ふしんかんつのり、政府せいふぞくする細川ほそかわまもるひさらは対応たいおうせまられ、はんごとつとめるあに・韶邦へ改革かいかく必要ひつようせいいた[2- 27]。またどう時期じき実学じつがくとう行動こうどうこし、大久保おおくぼ利通としみち岩倉いわくら具視ともみらとの接触せっしょくって改革かいかく必要ひつようせい実感じっかんしていた。このふたつのうごきはしめしあわせたものではなかったが、目的もくてき一致いっちした両者りょうしゃ共同きょうどう歩調ほちょうる。

明治めいじ3ねん3がつ26にち細川ほそかわ韶邦は病気びょうき理由りゆう隠居いんきょめ、5月8にちまもるひさ藩主はんしゅいた。まもるひさ実学じつがくとうとともに、竹崎たけざき律次郎りつじろうとくとみ一敬かずたか起草きそうした改革かいかく着手ちゃくしゅした。7月17にち改革かいかく綱領こうりょうのっとうえまいなど雑税ざつぜい廃止はいしする知事ちじ布告ふこくされ、同時どうじ民衆みんしゅうたいして過去かこ治世ちせい遺憾いかんとする声明せいめい発表はっぴょうした。この、為政者いせいしゃとしてきわめてめずらしい反省はんせいべんとともに実行じっこうされた減税げんぜいは、当時とうじ農民のうみんせられるまけやくさんぶんいち匹敵ひってきした。また、常備じょうびへいたかじょう廃止はいし実施じっしされ、これらは庶民しょみんそうからあつ支持しじけた。

また、あらたに熊本くまもとひろし学校がっこう古城こじょう学校がっこう(ふるしろいがっこう)を、現在げんざい熊本くまもと県立けんりつ第一高等学校だいちこうとうがっこうがある場所ばしょ[49] 設立せつりつした。よう学校がっこうはアメリカ退役たいえき軍人ぐんじんリロイ・ランシング・ジェーンズむか明治めいじ4ねん(1871ねん)9がつ1にち開校かいこうした。そこでの授業じゅぎょうはすべて英語えいごで、旧制きゅうせい中学校ちゅうがっこう程度ていど文学ぶんがく歴史れきし地理ちり数学すうがく物理ぶつり化学かがくなどをジェーンズひとりが講義こうぎした。同校どうこう男女だんじょ共学きょうがく全寮ぜんりょうせいであり、学校がっこう教育きょういくにとどまらず近代きんだいてき文化ぶんか生活せいかつ様式ようしき熊本くまもとひろめる意味いみでもおおきく役割やくわりたした。ただ、これら新設しんせつされた学校がっこう以前いぜんから存在そんざいしていたとき習館や再春館さいしゅんかん系譜けいふがず、完全かんぜんべつなものとして創立そうりつされた。このような形態けいたい以後いご県政けんせいにぎった政党せいとうによってかえされることになる。また、このよう学校がっこうプロテスタントキリスト教きりすときょう集団しゅうだんである熊本くまもとバンド結成けっせい母体ぼたいともなった。学校がっこう教師きょうしかんはコロニア様式ようしき建設けんせつされた熊本くまもとはつ洋風ようふう建築けんちくぶつであった[50]古城こじょう学校がっこう教師きょうしには長崎ながさきからコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトを3年間ねんかん契約けいやくれてきた。緒方おがた正規まさき浜田はまだげんたちらは途中とちゅう東京大学とうきょうだいがくったが、北里きたさとしば三郎さぶろう最後さいごまでのこった。

逆風ぎゃくふう[編集へんしゅう]

民衆みんしゅうには圧倒的あっとうてき支持しじされた実学じつがくとう政権せいけんは、しかし改革かいかく要領ようりょうさだめた役人やくにん公選こうせんせい議院ぎいん設置せっち実行じっこうできなかった。鶴崎つるさき毛利もうりそらくわ河上かわかみ彦斎が、長州ちょうしゅうはん農民のうみん一揆いっき結託けったくわれただいらく源太郎げんたろうらをかくまい、明治めいじ3ねんには密偵みってい事件じけんあきらかとなった。かれらは処罰しょばつけ、熊本くまもとはん政府せいふをつけられた。細川ほそかわまもるひさはんない依然いぜんいぶ反抗はんこう気分きぶん嫌気いやけし、明治めいじ4ねん(1871ねん)3がつ政府せいふ辞意じいしめした。廃藩置県はいはんちけん目前もくぜんにした政府せいふ一旦いったん慰留いりゅうし、7がつ実行じっこうってこれをみとめた。おとうと参事さんじまもる同調どうちょうし、辞職じしょくうえ翌年よくねんにはアメリカへ旅立たびだった。

あらたに成立せいりつした熊本くまもとけん政務せいむ実学じつがくとう維持いじするが、おもわぬ逆風ぎゃくふうかれらをおそうことになった。明治めいじ3ねんまつ大分おおいたけん日田にったぐんだい一揆いっき勃発ぼっぱつした。政府せいふ周辺しゅうへんはん鎮撫ちんぶたい派遣はけんさせ熊本くまもとぐんおくったが、当地とうち意外いがいにもかれらは農民のうみんからの歓迎かんげいけた。一揆いっきは、「肥後ひご支配しはい同様どうよう雑税ざつぜい免除めんじょ」(熊本くまもとはんのような減税げんぜい)を要求ようきゅうしたもので[51]農民のうみんにとって熊本くまもとぐん悪政あくせいたいする解放かいほうぐんとみなされた。このような減税げんぜいもとめる一揆いっき鹿児島かごしまけんのぞ熊本くまもと周辺しゅうへん各国かっこくで1873ねん明治めいじ6ねんごろまで頻発ひんぱつした。これはしん政府せいふにとってこのましからぬ事態じたいであり、熊本くまもとけん安岡やすおかりょうあきら派遣はけんして実学じつがくとう県政けんせいから排除はいじょした。

中途ちゅうとわったみじか期間きかんだったが、熊本くまもと維新いしん民衆みんしゅうにはつよ歓迎かんげいされた。その痕跡こんせきを、10ほど確認かくにんされている「知事ちじとう」にることができる。現在げんざい産山うぶやまむら阿蘇あそおよび大分おおいたけんにもられるこの石塔せきとうは、地域ちいきでは「チイさん」「チシさん」ともばれ、細川ほそかわ九曜くようもんと「むら小前こまえども」のぶんきざまれている共通きょうつうてんられる。これらは明治めいじ初期しょき建立こんりゅうされたものや、もっと時代じだいくだてられたものもあるが、いずれもかつてない減税げんぜい措置そちんだ県政けんせいたいして感謝かんしゃを、またはその苛烈かれつまわった政策せいさくくるしみ過去かこなつかしむおもいから地域ちいき出資しゅっししてつくられたとかんがえられている。

熊本くまもとひろし学校がっこう男女だんじょ共学きょうがくせい海老名えびな弾正だんじょうなど一部いちぶ上級生じょうきゅうせい反発はんぱつまねいたが、ぎゃくにジェーンズに説得せっとくされて賛同さんどうがわまわった。女性じょせいだいいち期生きせい徳富とくとみ初子はつこのち海老名えびなつまとなった横井よこいみやらは、のち熊本くまもと女学校じょがっこうげん熊本くまもとフェイス学院がくいん高等こうとう学校がっこう)や東京とうきょう女子じょし美術びじゅつ学校がっこうげん女子美術大学じょしびじゅつだいがく創立そうりつにもおおきく関係かんけいし、女性じょせい社会しゃかいてき活動かつどうひろげる役割やくわりになった。しかし、革新かくしんてき西洋せいようふうそしてキリスト教きりすときょうしょくつよ学風がくふう危惧きぐられた。学内がくないはキリスト教派きょうは反対はんたい分裂ぶんれつし、だい激論げきろん展開てんかいされた。さらに、子弟していキリスト教きりすときょう帰依きえこのましくおもわない実学じつがくとうのメンバーも棄教をせまった。明治めいじ9ねん(1876ねん)、この状況じょうきょう見切みきりをつけたジェーンズは、海老名えびな弾正だんじょうらキリスト教派きょうは生徒せいと35めい京都きょうと同志社どうししゃ入学にゅうがくさせ、熊本くまもとった。同年どうねん9がつ熊本くまもとよう学校がっこう閉鎖へいさされた。

一方いっぽう古城こじょう学校がっこうは、私立しりつ熊本くまもと学校がっこう熊本くまもと医科いか大学だいがくて1949ねん昭和しょうわ24ねん)に熊本大学くまもとだいがく医学部いがくぶとなった[52]。この学校がっこうからは、北里きたさとしば三郎さぶろう助手じょしゅ石神いしがみとおる[53]フローレンス・ナイチンゲール影響えいきょう産婆さんば看護かんご学校がっこう設立せつりつ寄与きよした佐伯さえき理一郎りいちろう[49] らがそだった。

自由じゆう民権みんけん運動うんどう端緒たんしょ[編集へんしゅう]

1873ねんしん政府せいふないではせいかんろんそうこっていた。勤皇きんのうとう出身しゅっしん宮崎みやざき八郎はちろう上京じょうきょうちゅうに『せいかん』を上奏じょうそうし、また台湾たいわん出兵しゅっぺいでは義勇ぎゆうへいつのるなどの行動こうどうっていたが、やがてはん権力けんりょく思想しそうつよめた[54]かれ中江なかえ兆民ちょうみんの『みんやくろん』におおきな影響えいきょうけて自由じゆう民権みんけん運動うんどうとうじ、1875ねん明治めいじ8ねん)に熊本くまもとけんはつ中学校ちゅうがっこうとなる植木うえき学校がっこうだいばん変則へんそく中学校ちゅうがっこう[55])を設立せつりつした。ここではルソーギゾーまたモンテスキューらの思想しそうおしえ、また県内けんないがいオルガナイザー派遣はけんする拠点きょてんともなった。なお、八郎はちろうおとうと宮崎みやざき滔天とうてんもまた民権みんけん運動うんどうたずさわり、そのアジア革命かくめいかかわって亡命ぼうめいなかまごぶん支援しえんし、兄弟きょうだい生家せいかまねくなどした[56]

植木うえき学校がっこう設立せつりつおなねん東京とうきょう開催かいさいされた地方ちほうかん議会ぎかいでは「地方ちほうみんかいこと」が議題ぎだいとなり、同時どうじおこなわれた戸長こちょう会議かいぎは「みんかい興隆こうりゅうこと」を諮問しもんした。このうごきをけ、熊本くまもとでも民権みんけん運動うんどうさかんになりはじめた。これには県政けんせいわれた実学じつがくとうくわわって、みんかい開設かいせつもとめる論説ろんせつが『熊本くまもと新聞しんぶん』に掲載けいさいされるなど、世論せろん喚起かんきする行動こうどうられた。このうごきをけ、1876ねん明治めいじ9ねん)、熊本くまもとけんは「臨時りんじみんかい規則きそく」を制定せいていした。これはきわめて進歩しんぽてき制度せいどであり、男子だんし戸主こしゅすべてに選挙せんきょけんあたえられ、選出せんしゅつされた議員ぎいんが、その互選ごせんだい議員ぎいんが、そしてさらに互選ごせん県民けんみんかい議員ぎいん選出せんしゅつされるものだった。同年どうねん10がつ植木うえき学校がっこう閉鎖へいさされるが、同校どうこうった民権みんけん運動うんどうたちは結社けっしゃもうけ、運動うんどう継続けいぞくした。

近代きんだい日本にっぽん最後さいご内戦ないせん[編集へんしゅう]

かみ風連ふうれんらん[編集へんしゅう]

はやしさくらえんはじまった勤皇きんのうとう一派いっぱに「かみ風連ふうれん」(敬神けいしんとう)があった。かれらは宮崎みやざき八郎はちろうのように民権みんけん運動うんどうへの転換てんかんからものこされ、不満ふまんやわらげるために県内けんない神社じんじゃ神主かんぬししょく任命にんめいされるなどしていたが、政府せいふ有司ゆうし専制せんせい欧化おうか政策せいさく常々つねづね苦々にがにがしくおもっていた。そこに1876ねん廃刀はいとうれい布告ふこくされ、鬱憤うっぷん爆発ばくはつ反乱はんらんこした。10月24にちかみ信託しんたく宇気うけ)をさずかったとして総帥そうすい太田黒おおたぐろ伴雄ともおふく加屋かや霽堅したやく170めい終結しゅうけつして決起けっきし、熊本くまもとじょう敷地しきちない熊本くまもと鎮台ちんだいはなった。かれらは鎮圧ちんあつされおおくが自刃じじんまたは処罰しょばつされたが、このかみ風連ふうれんらん江藤えとう新平しんぺいらがこした佐賀さがらんともども士族しぞく反乱はんらん誘発ゆうはつし、また明治めいじろくねん政変せいへん以後いご薩摩さつまくだっていた西郷さいごう隆盛たかもり動向どうこう注目ちゅうもくあつめる結果けっかともなった。

ぶがごと[編集へんしゅう]

1877ねん明治めいじ10ねん)2がつ15にち西郷さいごう隆盛たかもりつ。熊本くまもと不平ふへい士族しぞくはこのほうれてち、西郷さいごうぐんさんじるもの多発たはつした。池辺いけべよし十郎じゅうろうとき習館出身しゅっしんしゃもととする「学校がっこうとう」の士族しぞく中心ちゅうしん熊本くまもとたい結成けっせい、また植木うえき学校がっこうけい民権みんけん協同きょうどうたいとしてくわわった。そのかずわせて7000めいともされる。

政府せいふそして熊本くまもと鎮台ちんだいすで西郷さいごう反逆はんぎゃくむか準備じゅんびすすめていた。参謀さんぼうちょうたに干城かんじょうかみ風連ふうれんらんけた被害ひがいいま回復かいふくしていない状況じょうきょう熊本くまもと士族しぞく呼応こおうして決起けっきする可能かのうせいかんがみ、政府せいふぐん主力しゅりょく到着とうちゃくするまで熊本くまもとじょう篭城ろうじょうするさく採用さいようした。武器ぶき弾薬だんやく食料しょくりょうなどの準備じゅんびはし撤去てっきょたな設置せっち道路どうろ封鎖ふうさ地雷じらい設置せっち[57]藤崎ふじさきみやなど市内しない要所ようしょへの守兵しゅへい配備はいび急遽きゅうきょすすめ、福岡ふくおか小倉こくらぶん営を熊本くまもと終結しゅうけつさせるべくった。19にちにはかい確保かくほするため、市街地しがいちはらった。

ところが同日どうじつ午前ごぜん1110ふんごろ熊本くまもと城内じょうのうち火災かさい発生はっせいし、天守閣てんしゅかくなどが焼失しょうしつしてしまった。この原因げんいんについては、不要ふよう建築けんちくぶつはら鎮台ちんだいによるやきせつ市街地しがいちばらいのまわった延焼えんしょうせつ、薩軍スパイの放火ほうかせつ逃亡とうぼうした給仕きゅうじじん放火ほうかせつなどがありさだかではない。しかし、いずれにしろはん歴史れきし象徴しょうちょうする熊本くまもとじょう天守閣てんしゅかく焼失しょうしつには、おおくの人々ひとびとなげいた。鎮台ちんだい備蓄びちく食料しょくりょううしなったためさい収集しゅうしゅう忙殺ぼうさつされる問題もんだいもあったが、篭城ろうじょう準備じゅんび一応いちおうととのった。この火災かさいこる直前ちょくぜん午前ごぜん815ふんには征討せいとうれいとど鎮台ちんだい正式せいしきに「官軍かんぐん」となった。このれい県庁けんちょう掲示けいじされ、民衆みんしゅうにもこのたたかいの大義名分たいぎめいぶんらしめた。

くま本城ほんじょうおさむ防戦ぼうせん[編集へんしゅう]

川尻かわじりかわしり)に集結しゅうけつした薩軍は斥候せっこう存在そんざいから官軍かんぐん方針ほうしんり、作戦さくせん検討けんとうおこなわれた結果けっか熊本くまもとじょう強襲きょうしゅうさく採用さいようされた。2月21にち先行せんこうした薩軍の一部いちぶ熊本くまもと城東じょうとうがわ守備しゅびへい戦闘せんとうとなり、攻防こうぼうせんまくってとされた。よく22にち、薩軍は熊本くまもとじょう包囲ほういし、正面しょうめん東側ひがしがわ)と背面はいめん西側にしがわ)の両方りょうほうから攻撃こうげき仕掛しかけた。熊本くまもとじょう弱点じゃくてんとされる背面はいめんとく激戦げきせんとなり、だんさんげん段山本だにやまほんまち)と法華ほっけざかげん熊本くまもとYMCAから国立こくりつ病院びょういん機構きこう北側きたがわとおさか)を襲撃しゅうげきする薩軍いちろくななばん大隊だいたい官軍かんぐんあいだはげしい戦闘せんとうおこなわれた。正面しょうめんでも桐野きりの利秋としあきひきいるよんばん大隊だいたいはじめとする部隊ぶたいとの銃撃じゅうげき砲撃ほうげきせんとなった。薩軍は本丸ほんまるつづくわずか300m程度ていど法華ほっけざか攻略こうりゃくできず、正面しょうめんからの攻撃こうげきでも石垣いしがきはばまれた。

22にちには南下なんかする政府せいふぐん薩摩さつま小隊しょうたいとの交戦こうせん情報じょうほうがもたらされ、よる会議かいぎ方針ほうしん転換てんかんし、一部いちぶ強硬きょうこう手段しゅだんのこしつつもちょうかこえさくった。熊本くまもとたい日向ひなたからの部隊ぶたいくわわったしゅがわ鎮台ちんだいがわ攻防こうぼうせんは3がつはいってもつづき、熊本くまもとじょう背面はいめんとく激戦げきせんきわめた。片山かたやまていげん藤崎ふじさきたい県営けんえい野球やきゅうじょう)やきゅう藤崎ふじさき神社じんじゃには砲弾ほうだんい、だんさんは薩軍に占拠せんきょされたが3がつ13にち官軍かんぐんがこれを奪取だっしゅした。また薩軍は城内じょうない離反りはんうなが矢文やぶみはなったり、坪井川つぼいがわ井芹いせりかわ合流ごうりゅうてんめてしろ周囲しゅういみず作戦さくせんり、篭城ろうじょうがわをじわじわとめた。

しかしそのころ黒田くろだ清隆きよたかけんさく採用さいようされ、政府せいふ勅使ちょくし護衛ごえいへい中心ちゅうしんとしたべつはたらけだい旅団りょだん長崎ながさきからけていた。3月19にちにち奈久上陸じょうりくした部隊ぶたいはちだいおさえた。薩軍は永山ながやま弥一郎やいちろう指揮しきかんとする部隊ぶたいおくったが、官軍かんぐんは31にちには松橋まつはしとした。4月にはいり、熊本くまもとじょうでは兵糧ひょうろう減少げんしょう危惧きぐしたたに植木うえき方向ほうこうへの出撃しゅつげき思案しあんした。しかしこれは参謀さんぼう樺山かばやまらの反対はんたいけてされ、みなみから接近せっきんしていた政府せいふがわ衝背ぐんとの連絡れんらくこころみることとなった。4月8にち、突囲たい薩摩さつま包囲ほういもう突破とっぱし、宇土うと政府せいふぐん合流ごうりゅうすることに成功せいこうした。政府せいふぐんは12にち御船みふね甲佐こうさ一斉いっせい攻撃こうげきし、14にちには川尻かわじりまで進軍しんぐんした。さらに陸軍りくぐん中佐ちゅうさ山川やまかわひろし独断どくだん部隊ぶたいすすめ、ついに篭城ろうじょうぐんとの連結れんけつ成功せいこうした。こうして、2ヶ月かげつにわたる熊本くまもとじょう攻防こうぼうせん死者ししゃ773めいして決着けっちゃくし、加藤かとう清正きよまさ心血しんけつそそいできずいた熊本くまもとじょうはつせんでその堅牢けんろうさを証明しょうめいした[2][28][57]

田原たはらざか公園こうえん慰霊いれいには、官軍かんぐん・薩軍双方そうほう兵士へいし平等びょうどうまつられている。
田原たはらざかには官軍かんぐん・薩軍兵士へいし墓地ぼち点在てんざいしている。

田原たはらざか吉次よしじとうげたたか[編集へんしゅう]

一方いっぽう、2がつ22にち植木うえき乃木のぎ希典まれすけひきいる政府せいふぐん接触せっしょくした薩軍小隊しょうたいはこれを急襲きゅうしゅう官軍かんぐん敗走はいそうさせ連隊れんたいはたうばいもした。翌日よくじつりょうぐん交戦こうせんし、一時いちじ退却たいきゃくこころみた官軍かんぐんい薩軍は攻撃こうげきをかけた。福岡ふくおかから南下なんかちゅうだいいち旅団りょだんいち中隊ちゅうたいいそがせ25にちには高瀬たかせおさえた。同日どうじつ午後ごご高瀬川たかせがわはさんだ戦闘せんとうとなったが、このさいには官軍かんぐんちこたえて薩軍は退却たいきゃくした。26にち反撃はんげき開始かいしした官軍かんぐん歩兵ほへいだい14連隊れんたい田原たはらざかまでてきかえした。だが兵糧ひょうろう不足ふそく理由りゆう退却たいきゃくいのちとどき、しぶりつつも連隊れんたいかえした。このとき官軍かんぐん退却たいきゃくせず田原たはらざかおさえていれば、凄惨せいさんたたかいはふせげたのではと指摘してきされている。

2がつ22にち深夜しんや政府せいふぐん動向どうこうった西郷さいごう隆盛たかもりら薩軍首脳しゅのうちょうかこえさくてんじ、ぐんけてきた兵力へいりょくける決定けっていくだした。きたから熊本くまもとかうみちは3つあり、山鹿やまがから南下なんかするルートにはよんばん大隊だいたい高瀬たかせから田原たはらざか植木うえきいたるルートには一番いちばん大隊だいたい吉次よしじえつルートにはばん大隊だいたいろくなな連合れんごう大隊だいたいたることとなり、25にち出発しゅっぱつした。一方いっぽう薩軍のうごきを察知さっちしていた政府せいふぐんだが、慎重しんちょう山縣やまがた有朋ありともはすぐに攻撃こうげき指示しじせず、態勢たいせい整備せいび優先ゆうせんした。だい14連隊れんたい近衛このえあゆみへいだい1連隊れんたい一部いちぶ田原坂たばるざか方面ほうめんに、のこりの近衛このえ歩兵ほへい東京とうきょう大阪おおさか鎮台ちんだいへい吉次よしじとうげ方面ほうめんへそれぞれ配置はいちし、3月3にち進軍しんぐん開始かいしした。

3月4にち田原たはらざかそう攻撃こうげき仕掛しかけた政府せいふぐんは、天然てんねん要害ようがいった薩軍の一斉いっせい射撃しゃげきびておもうようにすすめない。吉次よしじとうげはさらに凄惨せいさんで、はたけには死体したいみあがり、側溝そっこうにはたまり、おびただしい銃弾じゅうだんのせいで木々きぎはちのようになった[2- 28]。薩軍も篠原しのはらこくみき戦死せんしするも意気いきおとろえず、敗走はいそうする官軍かんぐん吉次よしじとうげを「地獄じごくとうげ」とんだ。翌日よくじつからいち部隊ぶたい吉次よしじとうげのこし、政府せいふぐん田原たはらざか集中しゅうちゅう一進一退いっしんいったい攻防こうぼうつづくことになる。

警視けいし抜刀ばっとうたい活躍かつやくによってすこしずつ戦局せんきょく有利ゆうりすすめた政府せいふぐんは、あめの3がつ20日はつかそう攻撃こうげき仕掛しかけた。砲撃ほうげきあめつよのちそうしきスナイドルじゅう(en)威力いりょくはっする官軍かんぐんたいし、薩軍がおももちいたエンピールじゅうあめよわ[58]、さらに弾丸だんがん事欠ことかいて付近ふきん住民じゅうみんひろあつめたたまあつめたりする状況じょうきょうなか田原たはらざか突破とっぱされ後退こうたい余儀よぎなくされた。記者きしゃとして従軍じゅうぐんしたいぬやしなえあつしはげしい銃撃じゅうげきせんのために木々きぎ電柱でんちゅうくだった模様もようつたえた。田原たはらざかはいった山縣やまがた有朋ありともは、そのめがたい急峻きゅうしゅんさと狭窄きょうさくさを実感じっかんし、将兵しょうへいなみだながしたという。

3月21にちには山鹿やまがよんばん大隊だいたいやぶれ、後退こうたいした薩軍は植木うえき木留きとめ官軍かんぐんむかった。一進一退いっしんいったい攻防こうぼうつづいたが、やがて政府せいふぐん優勢ゆうせいとなり、薩軍は辺田野へたの荻迫おぎさこげん:JR植木うえきえき周辺しゅうへん)まで退しりぞく。このころには、政府せいふぐんドイツから購入こうにゅうしていた風船ふうせんばくだん投入とうにゅうしたとのせつもある[2- 29]。しかし戦局せんきょく膠着こうちゃくおちいり、官軍かんぐんないでは迂回うかいして進軍しんぐんするあんされた。しかし4がつ15にち午後ごご1熊本くまもとじょうと衝背ぐん連絡れんらくった薩軍は撤退てったいはじめた。

西郷さいごう隆盛たかもり本営ほんえいいた永国寺えいこくじ

人吉ひとよし防衛ぼうえいせん陥落かんらく[編集へんしゅう]

薩軍は熊本平野くまもとへいや東部とうぶ木山きやま拠点きょてんうつし、へい配置はいちして官軍かんぐん対峙たいじした。ここでもりょうぐん拮抗きっこうするが、官軍かんぐん御船みふね大津おおつさえたことを皮切かわきりに優勢ゆうせいち、4がつ21にちに薩軍は人吉ひとよしへの退却たいきゃくはじめた。28にちに薩軍はさい集結しゅうけつし、西郷さいごう永国寺えいこくじはいって本営ほんえいいた。ここで態勢たいせいなお計画けいかくられ、食糧しょくりょう確保かくほ弾薬だんやく製造せいぞうのために住民じゅうみん徴用ちょうよう課税かぜいまで予定よていされ、2年間ねんかん割拠かっきょする目論見もくろみてられ、同時どうじ兵力へいりょく分散ぶんさんさせる作戦さくせんられた。しかし政府せいふぐんひがし江代えしろ方向ほうこうきた五木いつきむら西にし球磨川くまがわ下流かりゅうという3方向ほうこうからめ、5月30にち人吉ひとよしへのそう攻撃こうげき開始かいしした。

6月1にち未明みめい市街しがいはいった官軍かんぐんはなロケットよるまちがり[2- 30]、薩軍が人吉ひとよし城址じょうしから大砲たいほうたまなか両者りょうしゃ白兵戦はくへいせんひろげられた。薩軍は球磨川くまがわみなみ退却たいきゃくし、はしとして政府せいふぐんふせぎ、砲撃ほうげき銃撃じゅうげきりょうきしからびせ状態じょうたいつづいた。午後ごごになり薩軍は退却たいきゃくはじめた。以後いご西郷さいごうと薩軍は政府せいふぐんついはしけながら宮崎みやざき延岡のべおかなどを転戦てんせんしつつ、9月24にち鹿児島かごしま城山しろやま壊滅かいめつした。

この戦争せんそう被害ひがいけた一般人いっぱんじん死傷ししょうしゃすうは300をえ、いちまん以上いじょう家屋かおく被災ひさいし、記録きろくいが耕地こうちなどもひどくらされた。罹災りさいした一般人いっぱんじんにはちょうさいりょう手当てあてきん支払しはらわれ、家屋かおく被災ひさいについても助成じょせいきん支給しきゅうされた。宮崎みやざき八郎はちろう戦死せんしし、協同きょうどうたいとして参戦さんせんした肥後ひご勤皇きんのうとう系統けいとう一旦いったん途絶とだえた。熊本くまもとたいとしてくわわった学校がっこうとうりをひそめ、熊本くまもと中央ちゅうおう政府せいふ主導しゅどう県政けんせいかれることとなった。

地方ちほう行政ぎょうせい発展はってん[編集へんしゅう]

廃藩置県はいはんちけん[編集へんしゅう]

後年作成された1872年(明治4年)旧12月の行政区画地図。現在の熊本県域には、熊本県(→白川県)と八代県が置かれた
後年こうねん作成さくせいされた1872ねん明治めいじ4ねんきゅう12がつ行政ぎょうせい区画くかく地図ちず現在げんざい熊本くまもと県域けんいきには、熊本くまもとけん(→白川しらかわけん)と八代やしろけんかれた

ほんこうでは明治めいじ初期しょきけんめい一律いちりつに「熊本くまもとけん」と表記ひょうきしているが、1871ねん明治めいじ4ねん7がつ14にちはじまった廃藩置県はいはんちけんでは、旧来きゅうらいはん対応たいおうする3つの地域ちいきかれ、その前後ぜんご名称めいしょう変更へんこう合併がっぺいなどをかえしていた。大政奉還たいせいほうかんおこなわれた1868ねん明治めいじ元年がんねん)、九州きゅうしゅうかく天領てんりょうしん政府せいふ直轄ちょっかつとなり、天草あまくさ地方ちほうも1871ねんうるう4がつ25にち富岡とみおかけんとなった[59][60]。このけんめい6がつ10日とおかには天草あまくさけんえられ、8がつ29にちには長崎ながさきけん一部いちぶ編入へんにゅうされた。

1871ねん廃藩置県はいはんちけん実施じっし当初とうしょ熊本くまもとはん熊本くまもとけんだい1)、相良さがらはん人吉ひとよしけんとされたが、肥後ひご南部なんぶ統括とうかつする県庁けんちょうはちだいかれる決定けっていともな11月14にちには人吉ひとよしけん八代やしろけん改名かいめいされ、これに天草あまくさ地方ちほう編入へんにゅうよねりょう地方ちほう宮崎みやざきけんうつされた。同様どうよう熊本くまもとけん設置せっちされる県庁けんちょう所在地しょざいち現在げんざい熊本くまもと二本木にほんぎ)から1872ねん明治めいじ5ねん6月14にち白川しらかわけん名称めいしょうわった[61]1873ねん明治めいじ6ねん1がつ15にちりょうけん合併がっぺいして白川しらかわけん一本いっぽんされ、県庁けんちょう熊本くまもとじょうへの移転いてんて、1876ねん明治めいじ9ねん2がつ22にち現在げんざいいた熊本くまもとけんだい2)へと改名かいめいされた。

熊本くまもと政党せいとう形成けいせい[編集へんしゅう]

明治めいじ4ねん(1871ねん制定せいていされた戸籍こせきほうもとづき翌年よくねんみずのえさる戸籍こせきへんせいされたが、これにともな戸長こちょう区長くちょうかれた。熊本くまもとけん場合ばあいかれらはすべて官選かんせん任命にんめいされたため、民衆みんしゅうとの信頼しんらい関係かんけいよわかった。1873ねん実学じつがくとう政権せいけん崩壊ほうかい地租ちそ改正かいせい以降いこうみん増大ぞうだいいち辿たどり、不満ふまんかかえた農民のうみん阿蘇あそ地方ちほうなどでちこわしなど地租ちそ改正かいせい反対はんたい一揆いっきをたびたびこした。これには民権みんけん運動うんどうかかわり、戸長こちょう公選こうせんもとめるこえつよまった。

1878ねん明治めいじ11ねん愛国あいこくしゃ再建さいけんされると、熊本くまもとでも西南せいなん戦争せんそうでの懲役ちょうえきけいえたものたちを吸収きゅうしゅうしつつ民権みんけん運動うんどう連帯れんたいして「相愛そうあいしゃ」が設立せつりつされた。これは翌年よくねんには国会こっかい期成きせい同盟どうめい一員いちいん改組かいそされてゆくが、基本きほんてき創設そうせつの「相愛そうあいしゃ趣意しゅいしょ」にもとづく行動こうどうった。相愛そうあいしゃでも私議しぎ憲法けんぽう作成さくせいおこなわれたがなかなか議論ぎろん収束しゅうそくせず、発表はっぴょういたったのは1881ねん明治めいじ14ねん)だった。一方いっぽうおなじく西南せいなん戦争せんそうぐま本隊ほんたいくわわり捕縛ほばくされた佐々ささともぼう帰郷ききょうすると、1879ねん明治めいじ12ねん同心どうしん学舎がくしゃげん熊本くまもと県立けんりつ済々黌せいせいこう高等こうとう学校がっこう)を設立せつりつした。ここにはきゅう学校がっこうとうなど保守ほしゅ勢力せいりょくあつまっていった。佐々ささ井上いのうえあつしらの助言じょげんけてむらさき溟会を設立せつりつし、民権みんけん運動うんどうみを画策かくさくする。しかし度重たびかさなる論争ろんそうすえ、1881ねん設立せつりつ民権みんけん参加さんか実学じつがくとうのみにまり、これも2ヶ月かげつには脱退だったいした。

明治めいじじゅうよんねん政変せいへんのち板垣いたがき退助たいすけらが自由党じゆうとう設立せつりつすると、熊本くまもとでも民権みんけんけい結社けっしゃ組織そしきすすみ、1882ねん明治めいじ15ねん九州きゅうしゅうあらためしんとう結成けっせいされる。これは一度いちど解党かいとうされるが、九州きゅうしゅう連合れんごう同志どうしかいなどをて1890ねん明治めいじ23ねん)に結成けっせいされた立憲りっけん自由党じゆうとうがれてゆく。そしてこれは、1888ねん明治めいじ21ねん)に改組かいそされて熊本くまもと国権こっけんとうとなった保守ほしゅ勢力せいりょくむらさき溟会と県政けんせい二分にぶんする勢力せいりょくになっていった。この対立たいりつ模様もようは「肥後ひご議論ぎろんたおれ」ともばれる熊本くまもとじん気質きしつ助長じょちょうするひとつにもなった[2- 31]

熊本大学くまもとだいがくだか記念きねんかん。1890ねんだい高等こうとう中学校ちゅうがっこう新設しんせつキャンパスをいまつたえる。

だか開校かいこう[編集へんしゅう]

1886ねん明治めいじ19ねん発布はっぷされた中学校ちゅうがっこうれいもとづき、福岡ふくおか長崎ながさきとの誘致ゆうち合戦かっせんすえ[62] 熊本くまもとだい高等こうとう中学校ちゅうがっこうげん熊本大学くまもとだいがく)の設置せっち決定けっていした。翌年よくねんきゅう熊本くまもとよう学校がっこう古城こじょう学校がっこう校舎こうしゃもちいて開校かいこうし、1890ねん明治めいじ23ねん)には黒髪くろかみむらしんキャンパスに移転いてんした。1894ねん明治めいじ27ねん)からは高等こうとう学校がっこうれいによりだい高等こうとう学校がっこうとなった同校どうこうでは、ラフカディオ・ハーン(小泉こいずみ八雲やくも)や夏目なつめ漱石そうせき教鞭きょうべんをとったことでもられる。

インフラ整備せいび[編集へんしゅう]

1884ねん明治めいじ17ねん)、宇土半島うとはんとう先端せんたん三角さんかくまちでは、くに主導しゅどう国際こくさい貿易ぼうえきこう整備せいびはじまり、3ねん三角さんかくこうとして開港かいこうした[63]。これに関連かんれん付帯ふたい工事こうじとして鉄道てつどう建設けんせつ計画けいかくされ、1886ねん明治めいじ19ねん)には門司もじ - 三角さんかくあいだ敷設ふせつ許可きょかされた。これには、松方まつかたデフレ終息しゅうそく企業きぎょう活動かつどう活発かっぱつ背景はいけいとした鉄道てつどう待望たいぼうろんがりがあった。1891ねん明治めいじ24ねん)7がつ1にち長洲ながすえき高瀬たかぜえき玉名たまなえき)・植木うえきえき池田いけだえき上熊本かみくまもとえき)を経由けいゆして熊本くまもとえきまでつながる鉄道てつどう開設かいせつした。池田いけだえき熊本くまもとえき市街しがいよりもかなり西側にしがわ設置せっちされたが、これは純粋じゅんすい用地ようち買収ばいしゅう問題もんだいるもので、鉄道てつどう忌避きひろん影響えいきょうはなかったとされる[2- 32]

鉄道てつどう順次じゅんじ延伸えんしんされ、1908ねん明治めいじ41ねん)には人吉ひとよしえきまで敷設ふせつされた。これは、人吉ひとよしはん家老がろう出身しゅっしん渋谷しぶやあや有志ゆうしによる誘致ゆうち運動うんどうこのみそうしたもので、のち文部もんぶ大臣だいじんとなった長谷場はせば純孝すみたかした海岸かいがんせんルートが採用さいようされなかった背景はいけいには、軍部ぐんぶ意見いけんもあった[64]球磨川くまがわ沿いの鉄道てつどう路線ろせん地域ちいき住民じゅうみんあしとして、また観光かんこうコースとしてもにぎわった。翌年よくねんには鹿児島かごしまけんまでの路線ろせん開通かいつうし、スイッチバック日本にっぽんはつのループしき路線ろせん採用さいようされた。

天草てんぐさキリスト教きりすときょうふたたび[編集へんしゅう]

明治めいじ政府せいふ当初とうしょ、キリストきょう信仰しんこう解禁かいきんしなかった。だが1868ねん慶応けいおう元年がんねん) - 1873ねん明治めいじ6ねん)の弾圧だんあつをアメリカやイギリスからはげしく非難ひなんされると、政府せいふキリスト教きりすときょう布教ふきょうみとめた。しかしこの認可にんか地方ちほうまですみやかにらしめられたわけではなく、天草てんぐさ人々ひとびと長崎ながさきこうしま」の漁民ぎょみんからこれをいた。1876ねん明治めいじ9ねん大江おおえ天草あまくさまち住民じゅうみん15にん翌々年よくよくねんには大江おおえ崎津さきつ河浦かわうらまち住民じゅうみん14にん熊本くまもとけんれいキリスト教きりすときょう帰依きえとどたが、けんはこれを受理じゅりしなかった。それどころか、葬儀そうぎキリスト教きりすときょうしきおこなったとして崎津さきつ住民じゅうみん処罰しょばつされるなど、地方ちほう政府せいふゆえの理解りかいもあった。

しかしやがて天草てんぐさ宣教師せんきょうしかうようになり、キリストきょうへの理解りかいすすんだ。1892ねん明治めいじ25ねん天草てんぐさおもむいたフランスひと神父しんぷルドヴィコ・ガルニエは、50ねんわた天草てんぐさでの布教ふきょう活動かつどうつづけ、大江おおえ天主堂てんしゅどう建設けんせつ孤児こじいん建設けんせつなどに尽力じんりょくした。かれフランス語ふらんすご調ちょうで「パーテルさん」(紀行きこうぶんそくくつ』では「バアテルさん」)とばれてしたしまれつつ、1941ねん昭和しょうわ16ねん)その生涯しょうがい天草てんぐさじた。[43]

熊本くまもと戦争せんそう現代げんだい[編集へんしゅう]

ぐん熊本くまもと[編集へんしゅう]

西南せいなん戦争せんそうたたかった熊本くまもと鎮台ちんだいは、1888ねん明治めいじ21ねん)にだい6師団しだん改組かいそされた。熊本くまもとがその衛戍えいじゅとなり、師団しだん司令しれいかれた熊本くまもとじょう中心ちゅうしんに、周辺しゅうへんには歩兵ほへい連隊れんたい騎兵きへい大隊だいたい、また砲兵ほうへい連隊れんたいかれた。 にちしん戦争せんそうや1902ねん明治めいじ35ねん)の天皇てんのうむかえた軍事ぐんじ演習えんしゅうなどをて、熊本くまもとぐんとしての性格せいかくつよめた。にち戦争せんそう熊本くまもと捕虜ほりょ収容しゅうようするのひとつとなり、大江おおえ鹿渡しかわたし練兵れんぺいじょうなどにやく5000にんれた。このなかには作家さっかアレクセイ・ノビコフ=プリボイや、革命かくめい運動うんどうニコライ・ラッセルru:Судзиловский, Николай Константинович)らがいた。ラッセルは天草てんぐさ出身しゅっしん大原おおはらナツノとのあいだ二男じなん安光やすみつ(ハリー)をもうけた[65]以後いごじゅうねん戦争せんそうにおいても、熊本くまもと重要じゅうよう軍事ぐんじ拠点きょてんであった。

だい熊本くまもと」の整備せいび[編集へんしゅう]

このように戦時せんじ体制たいせいささえ、みずからも成長せいちょうする熊本くまもとだったが、このふたつのいに問題もんだいしょうじた。西南せいなん戦争せんそう野原のはらとなった中心ちゅうしんかれた山崎やまざき練兵れんぺいじょう交通こうつう分断ぶんだんし、発展はってん阻害そがいする要因よういんとなってしまっていたことが1881ねん明治めいじ14ねんごろからクローズアップされはじめた。世論せろん考慮こうりょした陸軍りくぐんしょう工兵こうへいたい藤崎ふじさきたい兵舎へいしゃなどを渡鹿とろく大江おおえむら移転いてんしたが、肝心かんじん練兵れんぺいじょう手付てつかずのままにされたため、移転いてん要求ようきゅうくすぶつづけた。1891ねん明治めいじ24ねん)2がつ22にちづけ熊本くまもと新聞しんぶん』は、この練兵れんぺいじょう移設いせつ問題もんだい放置ほうちされているさまを「熊本くまもと市内しないさん馬鹿ばかだいいち」と痛烈つうれつ批判ひはんした。1897ねん明治めいじ30ねん)に熊本くまもとかい陸軍りくぐん大臣だいじん移転いてん要望ようぼう提出ていしゅつし、陸軍りくぐんがわ施設しせつ拡張かくちょう限界げんかいたっしていた事情じじょうもあって、幾度いくどもの交渉こうしょうすえこれをけた。翌年よくねんから練兵れんぺいじょう大江おおえむら移転いてんされるしょ工事こうじはじまったが、これは熊本くまもと負担ふたんとされてしまった。

市街地しがいち広大こうだい用地ようち熊本くまもとは、発展はってんけた都市とし計画けいかく実行じっこううつした。練兵れんぺいじょう跡地あとち縦横じゅうおう道路どうろ整備せいびされ、「練兵れんぺいまち」や当時とうじ市長しちょう辛島からしまかくせいからられた「からししままち」などがかれた。ここ一帯いったいは「しん市街しがい」とばれ、一大いちだい繁華はんかがいへと発展はってんしてゆく。市内しない公共こうきょう交通こうつう機関きかんとして、1907ねん明治めいじ40ねん)には熊本くまもと軽便鉄道けいべんてつどう開業かいぎょうした。これは大正たいしょう時代じだい熊本くまもと電気でんき鉄道てつどう熊本くまもと市電しでんへとわっていった。また、用地ようちには中央ちゅうおう官庁かんちょう出先でさき機関きかん設置せっち誘致ゆうちし、その先駆さきがけとして1911ねん明治めいじ44ねん)には現在げんざいさくらまちバスターミナルがある立地りっち煙草たばこ専売せんばいきょく建設けんせつされた。膨張ぼうちょうする都市としまかな上水道じょうすいどう整備せいびおこなわれ、1924ねん大正たいしょう13ねん)には八景水谷はけのみや立田たったさん水源すいげんとする上水道じょうすいどうもう完成かんせいした。この土地とち整備せいび市電しでん敷設ふせつ上水道じょうすいどう整備せいび近代きんだい熊本くまもとさんだい事業じぎょうとされ、都市とし発展はってん基盤きばんづくりが完成かんせいした。

災害さいがい防災ぼうさい[編集へんしゅう]

1927ねん昭和しょうわ2ねん9月13にち熊本くまもとけん一帯いったい台風たいふう接近せっきんし、高潮こうちょう暴風ぼうふうによる被害ひがいしょうじた(有明海ありあけかい台風たいふう)。高潮こうちょう満潮まんちょう時間じかんたい飽託ほうたくぐん小島こじままち川口かわぐちむら海路口うじぐちむら沖新おきしんむら畠口はたぐちむら顕著けんちょ[66])、玉名たまなぐん宇土うとぐん干拓かんたく防潮ぼうちょうつつみ破壊はかい新田にった地帯ちたいなど海岸かいがん付近ふきん住民じゅうみん避難ひなんするあいだもなくいえごとしつぶされてなみにさらわれた[67]死者ししゃ行方ゆくえ不明ふめいしゃ423にん重傷じゅうしょうしゃ23にん[68]。また、暴風ぼうふう熊本くまもと市内しないおそ県立けんりつ養蚕ようさん試験場しけんじょう県立けんりつめくら学校がっこう会津あいづ小学校しょうがっこう二本木にほんき病院びょういんなど建物たてものひゃくすうじゅう倒壊とうかい電気でんきやガスのライフラインも途絶とぜつした。大津おおつ街道かいどうでは、加藤かとう清正きよまさゆかりのすぎ並木なみき大半たいはんばされたほか、水陸すいりくりょういね浸水しんすい面積めんせきは7000町歩ちょうぶおよんだ。

だい世界せかい大戦たいせんなか熊本くまもとけんはじめて直接ちょくせつ空襲くうしゅうけたのは1944ねん昭和しょうわ19ねん)11月21にち熊本くまもと飛来ひらいした80B29によるものだった。翌年よくねん7がつ1にち深夜しんやには154のB29が飛来ひらいばくげきおこない、熊本くまもと市街地しがいちさんぶんいち野原のはらになる熊本大くまもとだい空襲くうしゅうがあった。住居じゅうきょいちまん罹災りさい実態じったい不明ふめいだが300にん以上いじょう死亡しぼうした。戦後せんご森林しんりん乱伐らんばつ河川かせん整備せいびおくれによる水害すいがい毎年まいとしのように日本にっぽん各地かくちおそったが、熊本くまもとけん例外れいがいではなかった。1949ねん昭和しょうわ24ねん)のジュディス台風たいふうおよびデラ台風たいふうよく1950ねん昭和しょうわ25ねん)にはキジア台風たいふう球磨川くまがわ氾濫はんらん人吉ひとよし八代やしろ被害ひがいけた。さらに1953ねん昭和しょうわ28ねん)6がつ昭和しょうわ28ねん西日本にしにほん水害すいがいでは筑後川ちくごがわはじめとして北部ほくぶ九州きゅうしゅうのすべての河川かせん過去かこ最悪さいあく洪水こうずいこしたが、熊本くまもとけんでは菊池川きくちがわ白川しらかわといった県内けんない北部ほくぶ河川かせんによる洪水こうずい被害ひがい甚大じんだいであった。熊本くまもと白川しらかわでは阿蘇あそ爆発ばくはつのヨナがじり、泥土でいど混入こんにゅう復旧ふっきゅう時間じかんようした。なお、熊本くまもとではこの水害すいがい通称つうしょう6.26水害すいがいしょうしている。河川かせん管理かんりする建設省けんせつしょう現在げんざい国土こくど交通省こうつうしょう)はこうした水害すいがいふせぐためにダムによる治水ちすい計画けいかく球磨川くまがわぼうダムを1959ねん昭和しょうわ34ねん完成かんせいさせたのを皮切かわきりに緑川みどりかわ緑川みどりかわダムを、菊池川きくちがわには支流しりゅう迫間川はさまがわりゅうもんダム建設けんせつした。現在げんざい白川しらかわ立野たてのダム建設けんせつしている。また河川かせんほうが1964ねん昭和しょうわ39ねん)に改正かいせいされ、県内けんない河川かせんのうち菊池川きくちがわ白川しらかわ緑川みどりかわ球磨川くまがわよん河川かせんくに管理かんりする一級いっきゅう河川かせん指定していされた。2016ねん4がつには熊本くまもと地震じしん発生はっせいし、その4ねんには熊本くまもと豪雨ごううれい2ねん7がつ豪雨ごうう)が発生はっせいするなど、21世紀せいきはいってからもだい規模きぼ災害さいがい見舞みまわれている。

はちじょう川辺川かわべがわ[編集へんしゅう]

球磨くまぐん相良さがらむら川辺川かわべがわダム建設けんせつ予定よてい計画けいかく発表はっぴょうから40ねん以上いじょうってもダム建設けんせつ着手ちゃくしゅしていない。

こうした治水ちすい事業じぎょうとくにダム事業じぎょう父祖ふそ伝来でんらい土地とち永久えいきゅう湖底こていしずむことで地元じもと反発はんぱつおおきいものがあったが、熊本くまもとけんではとくにこうした反発はんぱつつよかった。そのひとつは1959ねんより筑後川ちくごがわ上流じょうりゅう建設けんせつ計画けいかくされた松原まつばらダムしも筌(しもうけ)ダムたいする地元じもと阿蘇あそぐん小国おぐにまち住民じゅうみんによるダム反対はんたい闘争とうそうはちじょう紛争ふんそうである。事業じぎょうしゃである建設省けんせつしょう強権きょうけんてき態度たいど反発はんぱつした小国おぐにまち住民じゅうみん室原むろはら知幸ともゆきしも筌ダム建設けんせつ予定よていとりできずき、水没すいぼつ予定よてい住民じゅうみんとも建設省けんせつしょうたいして猛然もうぜん抵抗ていこうした。この紛争ふんそうは1960ねん昭和しょうわ35ねん)には「だい執行しっこう水中すいちゅう乱闘らんとう事件じけん」にまで発展はってんする流血りゅうけつ事態じたいとなったが、1970ねん昭和しょうわ45ねん)の室原むろはらによってまくじた。しかしこの事件じけんはそのくにによる河川かせん行政ぎょうせいのありかたおおきく転換てんかんさせ、1973ねん昭和しょうわ48ねん)には水源すいげん地域ちいき対策たいさく特別とくべつ措置そちほう制定せいていされて水没すいぼつ住民じゅうみん生活せいかつ再建さいけんなどが法律ほうりつによって義務ぎむされ、「住民じゅうみん許可きょかがないかぎり、ダム事業じぎょう着手ちゃくしゅできない」という不文ふぶんりつ形成けいせいした。

そして現在げんざい熊本くまもとけん最大さいだい公共こうきょう事業じぎょうとして全国ぜんこくてき問題もんだいになっているのが、球磨くまぐん相良さがらむら五木いつきむら建設けんせつ計画けいかくされている川辺川かわべがわダムである。1966ねん昭和しょうわ41ねん)に計画けいかく発表はっぴょうされたこのダム計画けいかくは、完成かんせいすれば熊本くまもとけん最大さいだいのダムとなる。だが五木いつきむら相良さがらむら反対はんたい運動うんどう、さらに1990年代ねんだい以降いこう公共こうきょう事業じぎょう見直みなおしの風潮ふうちょうによって計画けいかく発表はっぴょうから40ねん以上いじょう経過けいかした現在げんざい工事こうじには着手ちゃくしゅしていない。2001ねん平成へいせい13ねん)には当時とうじしおたに義子よしこ熊本くまもと県知事けんちじによって「川辺川かわべがわダム住民じゅうみん討論とうろん集会しゅうかい」が開催かいさいされ、ダム建設けんせつ是非ぜひめぐって活発かっぱつ議論ぎろんわされた。このあいだ事業じぎょう増大ぞうだいえかねた川辺川かわべがわ球磨川くまがわ流域りゅういき農家のうかが「川辺川かわべがわ利水りすい訴訟そしょう」をこし、事業じぎょう計画けいかくげをうったえこれが2003ねん平成へいせい15ねん)に福岡ふくおか高等こうとう裁判所さいばんしょみとめられると、2007ねん平成へいせい19ねん)には川辺川かわべがわダムにかんがい事業じぎょうしゃとして参加さんか予定よていしていた農林水産省のうりんすいさんしょうがダム事業じぎょうから撤退てったい表明ひょうめい同時どうじ水力すいりょく発電はつでん事業じぎょう参加さんか予定よていしていた電源でんげん開発かいはつ事業じぎょうからの撤退てったい表明ひょうめい川辺川かわべがわダムの事業じぎょう意義いぎわれるようになった。流域りゅういき自治体じちたい五木いつきむら八代やしろ球磨くまむらなどはダム事業じぎょう早期そうき推進すいしんうったえているが、人吉ひとよし相良さがらむら、そして熊本くまもとけん反対はんたい計画けいかく白紙はくし撤回てっかい姿勢しせいしめしており、今後こんごダム計画けいかく存続そんぞくするかどうかは事業じぎょうしゃである国土こくど交通省こうつうしょう対応たいおうにかかっているといわれている。

なお、しおだに熊本くまもと県知事けんちじ在任ざいにんちゅう球磨川くまがわ建設けんせつしていた県営けんえい水力すいりょく発電はつでんようダム・荒瀬あらせダム撤去てっきょ決定けっていされていた。施設しせつ老朽ろうきゅうによる維持いじ捻出ねんしゅつ困難こんなんがその理由りゆうであり、2010ねん平成へいせい22ねん)に水利すいりけん失効しっこうすると同時どうじにダムは撤去てっきょされる予定よていであった。こうしたダム撤去てっきょ日本にっぽんはつのケースとして注目ちゅうもくされていたが、2008ねん平成へいせい20ねん)6がつ4にちしおたに知事ちじのちいだ蒲島かましま郁夫いくお知事ちじが「撤去てっきょともな費用ひよう増大ぞうだいし、費用ひようたい効果こうか疑問ぎもんがある」として撤去てっきょ凍結とうけつする方針ほうしん発表はっぴょうした。しかしこの決断けつだんたいし、長年ながねんダム放流ほうりゅうによる振動しんどう冠水かんすい井戸いどれの被害ひがいっていた流域りゅういき住民じゅうみんからいかりのこえがり国交こっこうしょう水利すいりけん更新こうしんみとめず、知事ちじ凍結とうけつ方針ほうしん撤回てっかいする。2012ねんからダム撤去てっきょ工事こうじはじまっている。

熊本くまもと産業さんぎょう[編集へんしゅう]

古代こだいからゆたかな農産物のうさんぶつられた肥後ひごでは、近代きんだいそして現代げんだい熊本くまもととなっても農業のうぎょう有力ゆうりょく産業さんぎょうでありつづけた。明治めいじしん政府せいふは、殖産しょくさん興業こうぎょう一環いっかんとして[69] 1893ねん明治めいじ26ねんのう商務省しょうむしょう農事のうじ試験場しけんじょう九州きゅうしゅうささえじょうげん独立どくりつ行政ぎょうせい法人ほうじん九州きゅうしゅう沖縄おきなわ農業のうぎょう研究けんきゅうセンター)を熊本くまもとにも設立せつりつし、1911ねん明治めいじ44ねん)に設置せっちされた県立けんりつ農事のうじ試験場しけんじょうともども、養蚕ようさんぎょう・イグサ・野菜やさいるいちゃなどの栽培さいばい試験しけんなどを主導しゅどうした[70]戦後せんごになっても熊本くまもと屈指くっし農業のうぎょうけんであり、従事じゅうじしゃすう農業のうぎょう畜産ちくさん生産せいさんがく全国ぜんこくでもたか水準すいじゅんにある[71]特産とくさんひんとしては、1991ねん平成へいせい3ねん)から出荷しゅっかはじまったデコポン[72] など柑橘類かんきつるいトマトスイカ出荷しゅっか時期じき地域ちいきよりもはや[73]アンデスメロンなどや球磨川くまがわ流域りゅういき寒暖かんだん利用りようしたプリンスメロン[74] ひとしられている。しかし近年きんねんは、にな不足ふそく台風たいふうなどの自然しぜん災害さいがい、また輸入ゆにゅう農産物のうさんぶつとの競争きょうそう激化げきかなどの問題もんだい顕在けんざいし、けんは2001ねん平成へいせい13ねん)に「熊本くまもとけん農業のうぎょう計画けいかく(チャレンジ21くまもと)」を策定さくていして農業のうぎょう将来しょうらい展望てんぼうひら対策たいさくおこなっている[75]

熊本くまもとけん就業しゅうぎょう人口じんこう比率ひりつると、全国ぜんこく平均へいきんの2ばい上回うわまわだいいち産業さんぎょうたいし、だい産業さんぎょう比率ひりつ平均へいきん下回したまわっている[76]熊本くまもとはつ近代きんだい工業こうぎょうは、実学じつがくとう政権せいけん明治めいじ初期しょき諮問しもんされた養蚕ようさんぎょう振興しんこうさくのっとり1875ねん明治めいじ8ねん)に設立せつりつされた[77] 緑川みどりかわ製糸せいしじょうさかのぼる。士族しぞく授産じゅさんのひとつ、そして士族しぞく子女しじょらが女工じょこうとしてはたらいた製糸せいしじょうは、当初とうしょこそ粗末そまつまち工場こうじょうぎなかったが、順次じゅんじ規模きぼ設備せつび充実じゅうじつしていった[78]製糸せいしじょうは1881ねん明治めいじ14ねん)の「横浜よこはま生糸きいとあずかところ事件じけん[79] のあおりをけて廃業はいぎょうしたが、1893ねん明治めいじ26ねん)には熊本くまもと製糸せいし長野ながの濬平創業そうぎょう[80])が、翌年よくねんにははちだい熊本くまもと紡績ぼうせき設立せつりつされた。これらの企業きぎょう現在げんざい命脈めいみゃくつないでいないが、日本にっぽん製糸せいし紡績ぼうせき産業さんぎょうささえる一翼いちよくになった[81]

1964ねん昭和しょうわ39ねん)にしん産業さんぎょう都市とし建設けんせつ促進そくしんほう施行しこうされると、地区ちく指定していけた熊本くまもとでも工業こうぎょう加速かそくされた[82]とく九州きゅうしゅうには大手おおて半導体はんどうたい企業きぎょう進出しんしゅつつづき、熊本くまもとにも一貫いっかん生産せいさん組立くみたて・パネル企業きぎょう工場こうじょう建設けんせつされた[83]。これらのうごきをして、九州きゅうしゅうを「シリコンアイランド」ときもあったが、その実体じったい企画きかく設計せっけい機能きのうともなわない生産せいさん偏重へんちょうしたもので、「頭脳ずのうなき拠点きょてん」とこきろされるいちめんもあった[84]オイルショックによる低迷ていめいのち熊本くまもとけんは「テクノポリス構想こうそう」をげ、1983ねん昭和しょうわ58ねん)に制定せいていされた「高度こうど技術ぎじゅつ工業こうぎょう集積しゅうせき地域ちいき開発かいはつ促進そくしんほう(テクノポリスほう)」にのっと翌年よくねん全国ぜんこくで9箇所かしょ指定していされた産学さんがくじゅう調和ちょうわ目標もくひょうとした地域ちいき創設そうせつのひとつ「熊本くまもとテクノポリス」建設けんせつした[82]

自動車じどうしゃ重化学じゅうかがく産業さんぎょうにはおくれた熊本くまもとは、半導体はんどうたい焦点しょうてんしぼった産業さんぎょう誘致ゆうち政策せいさくすす一定いってい成果せいかげた。しかし、競争きょうそう激化げきか景気けいき後退こうたいによる半導体はんどうたいきょうもあり、けん製造せいぞうぎょうそう出荷しゅっかがくみをせた。企業きぎょう進出しんしゅつうなが助成じょせいきん税制ぜいせい優遇ゆうぐう九州きゅうしゅうでもたか水準すいじゅんにあるが、全国ぜんこくてきにはかならずしもにつくものではないなかけんは「セミコンフォレンス構想こうそう」などインセンティブをたかめる施策しさくしている[82]近年きんねん熊本くまもと進出しんしゅつした企業きぎょうは、その理由りゆうとして豊富ほうふみず資源しげんや、九州きゅうしゅう中心ちゅうしんアジア地域ちいきとのアクセスなど地理ちりてき条件じょうけんとうげている[85]

熊本くまもとけんには豊富ほうふでダイナミックな自然しぜん歴史れきしてき建築けんちくぶつ、また数多かずおお温泉おんせんなどがある。しかしながら、黒川くろかわ温泉おんせんのような成功せいこうれいのぞけば、現実げんじつ観光かんこうとしての魅力みりょくき、宿泊しゅくはくきゃく観光かんこう消費しょうひ総額そうがくなやんでいる[86]。2011ねん全線ぜんせん開業かいぎょう予定よていされている九州きゅうしゅう新幹線しんかんせんには市場いちば拡大かくだい観光かんこうきゃく増加ぞうかへの効果こうか期待きたいされている[87] が、その一方いっぽう空洞くうどう懸念けねんするこえもある[88][89]観光かんこうりつけんをめざす熊本くまもとには、地域ちいきとの差別さべつやホスピタリティの向上こうじょう、また広報こうほう活動かつどうなどがもとめられ[86]、それらの実現じつげんけた具体ぐたいてきみもおこなわれている[88][90]

水俣みなまた受難じゅなん[編集へんしゅう]

1908ねん明治めいじ41ねん)11月水俣みなまた稼動かどうはじめた日本にっぽん窒素肥料ちっそひりょう株式会社かぶしきがいしゃにち窒、げんチッソ)は、カーバイド皮切かわきりに肥料ひりょうである石灰せっかい窒素ちっそそして硫酸りゅうさんアンモニウムへと事業じぎょう拡大かくだいしていった。カザレーしきアンモニア製造せいぞうほう確立かくりつした1926ねん大正たいしょう15ねん/昭和しょうわ元年がんねん)、にち窒のもと社員しゃいん坂根さかね次郎じろう町長ちょうちょう就任しゅうにん工場こうじょうちょう関係かんけいしゃ7にん町会ちょうかい議員ぎいん当選とうせんし、まちせいへの関与かんよはじめた。これには、1923ねん大正たいしょう13ねん)の水害すいがい発生はっせいけて都市とし災害さいがい対策たいさく主導しゅどうけん発揮はっきするためとされたが、一方いっぽうで1918ねん大正たいしょう7ねん以来いらいつづいていた排水はいすいめぐ漁業ぎょぎょう組合くみあいとの補償ほしょう問題もんだい政治せいじてき解決かいけつしようとする意図いともあったという。漁業ぎょぎょう補償ほしょう排出はいしゅつすいについての苦情くじょう永久えいきゅうげることを条件じょうけん見舞みまいきん支払しはらって決着けっちゃくさせ、にち窒は排水はいすい継続けいぞくした。

1930ねん昭和しょうわ5ねんごろからにち水俣みなまた工場こうじょうしゅ製造せいぞうひんを、アセトアルデヒド原料げんりょうとする酢酸さくさん酢酸さくさんエチルなどに転換てんかんした。この原料げんりょう製造せいぞうする過程かていで、だい硫化りゅうか水銀すいぎん触媒しょくばい使用しようする工程こうてい毒性どくせいたかメチル水銀すいぎん生成せいせいされた。にち窒は処理しょりおこなわず、排水はいすい水俣みなまたわん放出ほうしゅつつづけた。この結果けっか、1941ねん昭和しょうわ16ねん)にはじめて水俣病みなまたびょう患者かんじゃ発生はっせいした。戦時せんじちゅう空襲くうしゅう工場こうじょう破壊はかいされたが、戦後せんご復興ふっこうし、ふたたび排水はいすい放出ほうしゅつはじまった。1932ねん昭和しょうわ7ねん)から1968ねん昭和しょうわ43ねん)までのあいだ放出ほうしゅつされた水銀すいぎんりょうは200トンにのぼる。

水俣みなまたの「奇病きびょう」が公式こうしき発見はっけんされたのは1956ねん昭和しょうわ31ねん)、これがメチル水銀すいぎん原因げんいんとするむね認定にんていがなされたのは1959ねん昭和しょうわ34ねん)であった。しかし、1963ねん昭和しょうわ38ねん)には水銀すいぎん水俣みなまた工場こうじょう排水はいすい起因きいんすると指摘してきされたにもかかわらず、政府せいふがこれをみとめたのは5ねんだった。1969ねん昭和しょうわ44ねん)からはじまった患者かんじゃによる訴訟そしょう和解わかい締結ていけつによって結審けっしんたのは1996ねん平成へいせい8ねん)であり、唯一ゆいいつつづいていた関西かんさい訴訟そしょうも2004ねん平成へいせい16ねん)に結審けっしんし、くにけん敗訴はいそ確定かくていした。日本にっぽん思想しそう研究けんきゅうのヴィクター・コッシュマンは「水俣病みなまたびょう患者かんじゃ」の英訳えいやくに「patient」(患者かんじゃ)ではなく「sufferer」(受難じゅなんしゃ)という単語たんご選択せんたくしている[2- 33]。ここには、水俣病みなまたびょう医学いがくてき問題もんだいだけではなく、企業きぎょう行政ぎょうせい倫理りんりおよび社会しゃかい構造こうぞう問題もんだいでもあるというかれのメッセージがめられている。水俣病みなまたびょう患者かんじゃは、現在げんざいでも病気びょうきとのたたかいをいられている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 出典しゅってん熊本くまもとけん歴史れきし』にならう(10p)。出典しゅってん熊本くまもとけん歴史れきし散歩さんぽ』では80ヶ所かしょ以上いじょうとある(2p)。なお、日本にっぽんきゅう石器せっき学会がっかいによって2010ねん刊行かんこうされた『日本にっぽん列島れっとう旧石器時代きゅうせっきじだい遺跡いせき』は「熊本くまもとけんにおける旧石器時代きゅうせっきじだい縄文じょうもん時代じだい草創そうそう遺跡いせき /文化ぶんかそうすうは、354 遺跡いせき / 文化ぶんかそう(2006 ねん 1 がつ現在げんざい)であり、遺跡いせきすうは 333 をかぞえる」と記載きさいされているだい 都道府県とどうふけんべつ遺跡いせき集成しゅうせい解説かいせつ遺跡いせき分布ぶんぷ」『日本にっぽん列島れっとう旧石器時代きゅうせっきじだい遺跡いせき日本にっぽんきゅう石器せっきさき土器どきいわ宿やど時代じだい遺跡いせきのデータベース―』(pdf)日本にっぽん きゅう石器せっき学会がっかい、2010ねん、104ぺーじhttp://palaeolithic.jp/data/palaeolithic-sites-database.pdf2021ねん5がつ2にち閲覧えつらん 
  2. ^ 日本にっぽんさんだい実録じつろくさだかんじゅういちねん(869ねんきゅうがつじゅうよんにちじょうには「肥後ひごこくだい風雨ふううあり 官舎かんしゃみんきょ顚倒するものおおく」とあり、洪水こうずいによる破壊はかい傍証ぼうしょうとなる
  3. ^ 藤原不比等ふじわらのふひと藤原ふじわらよん兄弟きょうだい長屋王ながやおう橘諸兄たちばなのもろえなど官位かんいたかものさえそつでんせられていないなかみちこうくびめい特異とくいれいたる。
  4. ^ この蚕養こがいえき遺構いこうは、現在げんざい熊本大学くまもとだいがく黒髪くろかみキャンパスにある黒髪くろかみまち遺跡いせき熊本くまもと黒髪くろかみ2丁目ちょうめ)とも推定すいていされている。詳細しょうさい熊本大学くまもとだいがくホームページ[リンク] にて解説かいせつされている。
  5. ^ このひょうは、『熊本くまもと史学しがく』16-17ごう(1959ねん)に志方しかた正和まさかず発表はっぴょうした論文ろんぶん菊池きくち起源きげんについて」にて分析ぶんせきされている。志方しかたは、どう時代じだいしるされた藤原ふじわらみのるの『しょう右記うき』や藤原ふじわらぼうの『春記はるき』などを検討けんとうし、この結論けつろんいたっている。
  6. ^ 出典しゅってん熊本くまもとけん歴史れきし』にならう(91-93p)。この解釈かいしゃくは、『鹿子木かのこぎそう条々じょうじょうごとしょ』がもと寇後にこった神領しんりょう回復かいふく運動うんどうにおいて起草きそうされた論争ろんそうてき文書ぶんしょだというてんから研究けんきゅうされた近年きんねんのもので、文献ぶんけんでは沙弥さや寿ことぶきたえ開発かいはつ領主りょうしゅとみなしているもの(『街道かいどう日本にっぽん51』p9、『熊本くまもとけん歴史れきし散歩さんぽ』p5・p132)もある。ただし、寿ことぶきたえまごたかかた上分かみぶん寄進きしんおこなっているてんから、鹿子木かのこぎそう寄進きしんけい荘園しょうえん分類ぶんるいすることはあやまりではない。
  7. ^ 出典しゅってん熊本くまもとけん歴史れきし』では「大友おおともよりゆきやすし」とある (p112) が、大友おおとも3だい当主とうしゅ大友おおともよりゆきやすしとは時代じだいわない。
  8. ^ 太平たいへい[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]には、楠木くすのき正成まさしげ博多はかた合戦かっせんにおける菊池きくちたけしらの討死うちじに勲功くんこうだいいち賞賛しょうさんしたことがしるされている。
  9. ^ これは『新撰しんせん事蹟じせきどおりこう[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]根拠こんきょに、一般いっぱん宇土うどためこう簒奪さんだつ行為こういとされるが、阿蘇あそひん保夫やすおはこれを隈部くまべ上総かずさかい謀反むほんであり、島原しまばらった菊池きくちのううん後任こうにんとして国侍くにざむらいたちが宇土うどためこう推挙すいきょしたとする新説しんせつを『しん熊本くまもと』「通史つうしへんだいかん中世ちゅうせい[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]あらわした。
  10. ^ 木村きむら忠夫ただお大友おおとも豊後ぶんご支配しはい[よう出典しゅってん]によれば、阿蘇あそおもんみちょう菊池きくちたけしけい失脚しっきゃく直後ちょくごから大友おおともきく法師丸ほしまる菊地きくち義武よしたけ)の名義めいぎ菊池きくち家臣かしん所領しょりょう安堵あんどおこなっている、と指摘してきする。
  11. ^ 清正きよまさくま本城ほんじょう修復しゅうふく直接ちょくせつ証拠しょうこづける資料しりょう現存げんそんしないが、『熊本くまもと細工さいくのまち地割じわり[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]には天正てんしょう19ねん(1591ねん)に細工さいくのまち職人しょくにんがいすえまちうつ記述きじゅつがあり、修理しゅうり一段落いちだんらくしたため職人しょくにん居住きょじゅううつ様子ようすられる。出典しゅってん熊本くまもとけん歴史れきし』では、これらの傍証ぼうしょう根拠こんきょ清正きよまさ古城こじょう修繕しゅうぜんがあったものと結論けつろんづけている。
  12. ^ なお、改易かいえきまぬかれたものの天草あまくさりょう没収ぼっしゅう出仕しゅっし停止ていし処分しょぶんけた寺沢てらさわけんだかは、のち自殺じさつしたために唐津からつ寺沢てらさわ改易かいえきとなっている。
  13. ^ この説話せつわ司馬しばりょう太郎たろうが『このくにのかたち』などにて紹介しょうかいしているが、『街道かいどうをゆく』さんこえ薩のみち」にて司馬しばは、このはなし細川ほそかわ護貞もりさだからいたとしるしている。
  14. ^ 寺社じしゃれいちょう[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]には、山鹿やまが灯籠とうろうともした祭礼さいれいさかんなようしるしている。
  15. ^ 出典しゅってん熊本くまもとけん歴史れきし』では村井むらいほお再春館さいしゅんかん創立そうりつもうて、細川ほそかわ重賢しげかた許可きょかしたとある。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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出典しゅってん2[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん書籍しょせきない提示ていじされている出典しゅってんしめしています。

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  9. ^ 木村きむら忠夫ただお大友おおとも肥後ひご支配しはい」『熊本くまもと史学しがくだい42ごう、1973ねん6がつ、1-12ぺーじ 
    八木やぎ直樹なおきへん)『シリーズ・中世ちゅうせい西国さいこく武士ぶし研究けんきゅう だいかん 豊後ぶんご大友おおともえびすひかりさち出版しゅっぱん、2014ねん ISBN 978-4-86403-122-6 にも所収しょしゅう[ようページ番号ばんごう]
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  11. ^ うみひがし諸国しょこく[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 松本まつもと寿三郎じゅさぶろう吉村よしむら豊雄とみお街道かいどう日本にっぽん51 くに不知火しらぬいかい吉川弘文館よしかわこうぶんかんだいいちさつ、2005ねんISBN 4-642-06251-3
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  • 小川原おがわら正道せいどう西南せいなん戦争せんそう中公新書ちゅうこうしんしょだいいちさつ、2007ねんISBN 978-4-12-101927-1
  • 大村おおむらさとし生命せいめい科学かがく原点げんてんはそこにあった 生誕せいたん150ねん記念きねん 北里きたさとしば三郎さぶろう』 2003ねん 北里きたさと研究所けんきゅうじょ