「白川 しらかわ 県 けん 」はこの項目 こうもく へ転送 てんそう されています。
本 ほん 項 こう では、熊本 くまもと 県 けん の歴史 れきし (くまもとけんのれきし)を概説 がいせつ する。
九州 きゅうしゅう の中央 ちゅうおう 部 ぶ に位置 いち する熊本 くまもと 県 けん は、古代 こだい の「肥 こえ の国 くに (火 ひ の国 くに 、ひのくに)」が前後 ぜんご 二分 にぶん された際 さい の東側 ひがしがわ 、旧 きゅう 国名 こくめい のいわゆる肥後 ひご 国 こく が占 し めた領域 りょういき とほぼ一致 いっち する。これは、近世 きんせい 江戸 えど 時代 じだい の幕 まく 藩 はん 体制 たいせい 期 き において球磨 くま 郡 ぐん の一部 いちぶ などが別 べつ 藩 はん の領土 りょうど とされるなど、また逆 ぎゃく に肥後 ひご 国 こく 天草 あまくさ 郡 ぐん に属 ぞく していた長島 ながしま が現在 げんざい では鹿児島 かごしま 県 けん に編入 へんにゅう されているなどの一部 いちぶ 例外 れいがい はあるが、府県 ふけん 制 せい 施行 しこう によって置 お かれた九州 きゅうしゅう 各 かく 県 けん のうち宮崎 みやざき 県 けん (日向 ひなた 国 こく )とともに伝統 でんとう 的 てき な国 くに 制 せい をほぼ維持 いじ した例 れい にあたる。
熊本 くまもと 県 けん の風土 ふうど 的 てき 特色 とくしょく は、菊池川 きくちがわ ・白川 しらかわ 流域 りゅういき を中心 ちゅうしん とし阿蘇山 あそさん を含 ふく む県 けん 北部 ほくぶ 域 いき 、人吉盆地 ひとよしぼんち を主軸 しゅじく にした球磨川 くまがわ 流域 りゅういき 、天草諸島 あまくさしょとう の三 みっ つの地域 ちいき に大別 たいべつ することができる。この区分 くぶん はそれぞれ熊本 くまもと 藩 はん ・人吉 ひとよし 藩 はん ・天領 てんりょう 天草 あまくさ という幕 まく 藩 はん 体制 たいせい 下 か の三 みっ つの区域 くいき と対応 たいおう しており、それぞれ個別 こべつ の特色 とくしょく を持 も つ。
熊本 くまもと 県 けん の歴史 れきし をかいつまむと、多 おお くの遺跡 いせき や古墳 こふん に見 み られる豊 ゆた かな自然 しぜん 環境 かんきょう とそれを一変 いっぺん させる火山 かざん 活動 かつどう 、律令制 りつりょうせい 下 した から武士 ぶし の勃興 ぼっこう 。南北 なんぼく 朝 あさ を経 へ て国 くに 衆 しゅ 割拠 かっきょ そして加藤 かとう 清正 きよまさ の入部 にゅうぶ 、細川 ほそかわ 忠利 ただとし の入部 にゅうぶ を経 へ て幕末 ばくまつ の動乱 どうらん から西南 せいなん 戦争 せんそう 、戦後 せんご の公害 こうがい 問題 もんだい までが大 おお まかな流 なが れとなる。そして全体 ぜんたい を通 とお して、大和 やまと 朝廷 ちょうてい の成立 せいりつ 後 ご 、周辺 しゅうへん の位置 いち にあった肥後 ひご 国 こく そして熊本 くまもと 県 けん の歴史 れきし は、常 つね に中央 ちゅうおう 政権 せいけん からの影響 えいきょう を受 う けつつ綴 つづ られた。
大観 たいかん 峰 ほう から望 のぞ む阿蘇 あそ 山 さん とカルデラ 。
遺構 いこう から見 み える古代 こだい の熊本 くまもと [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん の旧石器時代 きゅうせっきじだい 遺跡 いせき のうち、約 やく 1/3に当 あ たる100ヶ所 かしょ 以上 いじょう [注 ちゅう 1] が熊本 くまもと 県 けん で発見 はっけん されている。しかし、発掘 はっくつ 調査 ちょうさ は数ヶ所 すうかしょ でしか行 おこな われていない[要 よう 出典 しゅってん ] 。多 おお くは阿蘇 あそ 外輪山 がいりんざん 一帯 いったい や球磨 くま 地方 ちほう に位置 いち するが、水俣 みなまた 市 し の石飛 いしとび 分校 ぶんこう 遺跡 いせき や天草 あまくさ 下島 しもじま の内 うち ノ原 はら 遺跡 いせき なども発掘 はっくつ され、その分布 ぶんぷ は県下 けんか 全域 ぜんいき に及 およ ぶ。最 もっと も古 ふる いものは熊本 くまもと 市 し 平山 ひらやま 町 まち の石 いし の本 ほん 遺跡 いせき から出土 しゅつど した石器 せっき 類 るい であり、炭素 たんそ C14測定 そくてい から30000年 ねん 以上 いじょう 前 まえ のものと推測 すいそく されている[1] 。出土 しゅつど 数 すう は4000点 てん にのぼり、安山岩 あんざんがん の破片 はへん から作 つく られた小刀 こがたな 類 るい や局部 きょくぶ 磨 すり 製 せい 石斧 せきふ も見 み つかっている。これらや、九州 きゅうしゅう が比較的 ひかくてき 自然 しぜん 環境 かんきょう に恵 めぐ まれた土地 とち であったことから、古代 こだい 熊本 くまもと は豊 ゆた かな狩猟 しゅりょう 採集 さいしゅう 社会 しゃかい 生活 せいかつ の舞台 ぶたい だったと推測 すいそく される。
しかしながら、九州 きゅうしゅう は多 おお くの火山 かざん 噴火 ふんか がもたらす環境 かんきょう の激変 げきへん に何 なん 度 ど も襲 おそ われた土地 とち でもあった。阿蘇山 あそさん ・姶良 あいら 山 さん ・鬼 おに 界 かい カルデラ の爆発 ばくはつ は火山灰 かざんばい 地層 ちそう を複数 ふくすう 形成 けいせい し、特 とく に石器 せっき 時代 じだい 中期 ちゅうき に見 み られる姶良 あいら Tn火山灰 かざんばい 層 そう の上下 じょうげ に見 み られる出土 しゅつど 品 ひん の比較 ひかく や、石飛 いしとび 分校 ぶんこう 遺跡 いせき の同 どう 層 そう 上部 じょうぶ から見 み つかった細 ほそ 石器 せっき や土器 どき の破片 はへん などの分析 ぶんせき を通 つう じて火山 かざん 活動 かつどう が及 およ ぼした環境 かんきょう や社会 しゃかい 生活 せいかつ への影響 えいきょう が研究 けんきゅう されている。その一方 いっぽう で、当時 とうじ の火砕流 かさいりゅう から形成 けいせい された阿蘇 あそ 溶岩 ようがん は、後 のち に良質 りょうしつ かつ豊富 ほうふ な石材 せきざい となって肥後 ひご の石工 せっこう を支 ささ えた[2] 。
続 つづ く縄文 じょうもん 時代 じだい 、熊本 くまもと 県 けん 下 か で発見 はっけん された早期 そうき の遺構 いこう は、爪 つま 形 かたち 文 ぶん 土器 どき が発掘 はっくつ された人吉 ひとよし 市 し の白鳥 はくちょう 平 たいら B遺跡 いせき などわずかな例 れい しかない。これは、約 やく 6200年 ねん 前 まえ (約 やく 7300年 ねん 前 まえ とも)の鬼 おに 界 かい カルデラ爆発 ばくはつ (鬼 おに 界 かい アカホヤ火山灰 かざんばい )によって九州 きゅうしゅう 全土 ぜんど が壊滅 かいめつ 的 てき な打撃 だげき を受 う けたためと考 かんが えられている。しかし縄文 じょうもん 中期 ちゅうき には下益城 しもましき 郡 ぐん (現 げん 熊本 くまもと 市 し 南 みなみ 区 く )城南 しろみなみ 町 まち の御領 ごりょう 貝塚 かいづか ・阿高 あだか 黒 くろ 橋 きょう 貝塚 かいづか が見 み られ、後期 こうき になると東日本 ひがしにっぽん や朝鮮半島 ちょうせんはんとう との共通 きょうつう 点 てん も見 み られる土器 どき 文化 ぶんか が発展 はってん した。熊本平野 くまもとへいや で発見 はっけん された約 やく 13箇所 かしょ の貝塚 かいづか はそのほとんどが後期 こうき にあたり、現在 げんざい の海抜 かいばつ 5mあたりに位置 いち している。宇土 うと 市 し の曽 そ 畑 はたけ 貝塚 かいづか からはドングリ 貯蔵 ちょぞう の痕跡 こんせき も見 み られ、また出土 しゅつど した曽 そ 畑 はたけ 式 しき 土器 どき は同型 どうけい のものが沖縄諸島 おきなわしょとう や朝鮮半島 ちょうせんはんとう からも発見 はっけん されている。城南 しろみなみ 町 まち の阿高 あだか 貝塚 かいづか と黒 くろ 橋 きょう 貝塚 かいづか から見 み つかったイタホガキ 製 せい 貝 かい 面 めん や阿高 あだか 式 しき 土器 どき は、佐賀 さが 県 けん 腰岳 こしだけ の黒曜石 こくようせき とともに、韓国 かんこく 釜山 ぷさん 市 し 東 ひがし 三 さん 洞 ほら (トンサムドン)貝塚 かいづか からも出土 しゅつど している。逆 ぎゃく に、天草 あまくさ 市 し の大矢 おおや 遺跡 いせき からは朝鮮半島 ちょうせんはんとう の形式 けいしき である石 いし 製 せい 結合 けつごう 釣 つ り針 ばり が見 み つかっている。
土器 どき や生活 せいかつ 様式 ようしき はその後 ご も進歩 しんぽ を見 み せ、独自 どくじ の黒色 こくしょく 磨 すり 研 けん 土器 どき が発達 はったつ した。また、熊本 くまもと 市 し の上 うえ の原 はら (うえのばる)遺跡 いせき からは竪穴 たてあな 建物 たてもの の遺構 いこう から炭化 たんか した米 べい と大麦 おおむぎ が発見 はっけん された。当時 とうじ 、大 だい 部分 ぶぶん が海 うみ であった熊本平野 くまもとへいや が海 うみ 退 すさ 現象 げんしょう や河川 かせん 堆積 たいせき 物 ぶつ によって埋 う まり[3] 、採取 さいしゅ のみに頼 たよ った食料 しょくりょう 確保 かくほ から原始 げんし 的 てき な畑作 はたさく への転換 てんかん が始 はじ まっていたことを示 しめ している。このような農耕 のうこう の痕跡 こんせき はこの他 ほか にも数 すう 箇所 かしょ から見 み つかっている。さらに上南部 かみなべ 遺跡 いせき (熊本 くまもと 市 し )からは土偶 どぐう や磨 すり 製 せい 石器 せっき の石刀 いわと などの特殊 とくしゅ 遺物 いぶつ が数多 かずおお く出土 しゅつど している。県下 けんか の縄文 じょうもん 時代 じだい 遺跡 いせき は約 やく 770ヶ所 かしょ を数 かぞ える。
これらの生活 せいかつ 遺構 いこう は弥生 やよい 期 き になると場所 ばしょ を変 か え、海岸 かいがん 線 せん から離 はな れた台地 だいち 上 うえ に環 かん 濠 ほり 集落 しゅうらく を形成 けいせい するようになった。甕 う や壷 つぼ ・石斧 せきふ など典型 てんけい 的 てき な弥生 やよい 時代 じだい 遺物 いぶつ が発見 はっけん される遺跡 いせき はやがて熊本平野 くまもとへいや 全域 ぜんいき におよび、広 ひろ い範囲 はんい で稲作 いなさく が行 おこ なわれたことを示 しめ している。一方 いっぽう 、沿岸 えんがん 部 ぶ にも同 どう 時代 じだい の小規模 しょうきぼ な貝塚 かいづか が発見 はっけん されている。宇城市 し 三角 さんかく 町 まち の文蔵 ぶぞう 貝塚 かいづか では焼 や いた小 ちい さな巻貝 まきがい の殻 から が多数 たすう 見 み つかった。これはホンダワラ を焼 や く製塩 せいえん 法 ほう の名残 なご りであり、『万葉集 まんようしゅう 』で歌 うた われた「藻塩 もしお 焼 や き」が行 おこ なわれていた証拠 しょうこ とされる。
さらに時代 じだい が下 くだ ると、阿蘇山 あそさん 黒川 くろかわ 流域 りゅういき や熊本 くまもと 平野 へいや の白川 しらかわ 域 いき および菊池川 きくちがわ 流域 りゅういき からも製鉄 せいてつ の遺構 いこう が発見 はっけん された。鏃 や槍 やり 鉋 かんな 、農具 のうぐ である鋤 すき 鍬 くわ 先 さき や鎌 かま ・鉄 てつ 斧 おの 、また端切 はぎ れと考 かんが えられる三角形 さんかっけい や棒状 ぼうじょう などの鉄片 てっぺん なども見 み つかっている。二子塚 ふたごづか 遺跡 いせき (熊本 くまもと 市 し )からは炉 ろ 跡 あと を中心 ちゅうしん に焼 しょう 土 ど ブロック や木炭 もくたん 、熱 ねつ を受 う け錆 さび が付着 ふちゃく した台 たい 石 せき など、製鉄 せいてつ の痕跡 こんせき が出土 しゅつど している。また、青銅器 せいどうき も熊本 くまもと 市 し の徳王 とくおう 遺跡 いせき や泗水 しすい 町 まち の古閑 こが 原 げん 遺跡 いせき から出土 しゅつど した銅鏡 どうきょう などがある。弥生 やよい 時代 じだい 遺跡 いせき 数 すう 約 やく 740は日本 にっぽん 国内 こくない の13%を占 し める。
火 ひ の国 くに の成 な り立 た ち[ 編集 へんしゅう ]
初期 しょき のヤマト王権 おうけん は、地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区画 くかく として県 けん (あがた)を設置 せっち した。『日本書紀 にほんしょき 』・『筑後 ちくご 国 こく 風土記 ふどき 』には、のちの熊本 くまもと 県域 けんいき に3つの県 けん の記載 きさい がある。球磨 くま 県 けん はその名称 めいしょう が現在 げんざい も引 ひ き継 つ がれ、閼宗県 けん (あそ-)は阿蘇 あそ 地方 ちほう に対応 たいおう する。八代 やしろ 県 けん は現在 げんざい の宇土 うど 地方 ちほう を含 ふく むより広 ひろ い領域 りょういき を含 ふく んでいたと考 かんが えられる。緑川 みどりかわ と氷川 ひかわ に挟 はさ まれた宇土半島 うとはんとう 基部 きぶ では塚原 つかはら 古墳 こふん 群 ぐん に代表 だいひょう される120前後 ぜんこう の前方後円墳 ぜんぽうこうえんふん が発掘 はっくつ されているが、この中 なか のひとつ向野田 むこうのた 古墳 こふん (宇土 うと 市 し 松山 まつやま 町 まち )には30代 だい と推定 すいてい される未婚 みこん 女性 じょせい が埋葬 まいそう されていた[4] 。
江田 えだ 船山 ふなやま 古墳 こふん
宇土半島 うとはんとう 基部 きぶ の遺跡 いせき は、装飾 そうしょく 文様 もんよう が施 ほどこ された国 くに 越 えつ 古墳 こふん や氷川 ひかわ 流域 りゅういき の丘陵 きゅうりょう 部 ぶ に形成 けいせい された野津 のつ 古墳 こふん 群 ぐん などに代表 だいひょう され、この地域 ちいき は火 ひ 君 くん (ひのきみ)発祥 はっしょう の地 ち とされている。火 ひ 君 くん は地域 ちいき を代表 だいひょう する豪族 ごうぞく であり、『古事記 こじき 』では神 かみ 八井 はっせい 耳 みみ 命 いのち (かみやいみみのみこと)の後裔 こうえい として、『日本書紀 にほんしょき 』や『肥前 ひぜん 国 こく 風土記 ふどき 』では熊 くま 襲 かさね 討伐 とうばつ を果 は たした景 けい 行 ぎょう 天皇 てんのう 一 いち 行 ぎょう が不思議 ふしぎ な火 ひ に誘 さそ われて至 いた った地 ち で土蜘蛛 つちぐも 退治 たいじ に活躍 かつやく した者 もの の子孫 しそん として記 しる されている。そして、この故事 こじ から「火 ひ 国 こく (ひのくに)」の名称 めいしょう が生 う まれたとされる。
江田 えだ 船山 ふなやま 古墳 こふん から出土 しゅつど した大刀 たち 銘文 めいぶん から、火 ひ 君 くん など火 ひ の国 くに の豪族 ごうぞく は既 すで に近畿 きんき の大伴 おおとも ・物部 ものべ 氏 し と関係 かんけい を持 も っていたことが明 あき らかになっている。豪族 ごうぞく のひとつ建部 たけべ 君 くん (たけべのきみ)は、その名 な が大和 やまと 朝廷 ちょうてい から軍事 ぐんじ 的 てき 部民 ぶみん として名 な を下賜 かし された一族 いちぞく で、現在 げんざい は熊本 くまもと 市 し 黒髪 くろかみ ・子飼本 こかいほん 町 まち に相当 そうとう する中世 ちゅうせい までの地名 ちめい 武部 たけべ ・竹部 たけべ ・建部 たけべ あたりを本拠 ほんきょ としていたと思 おも われる。
菊池川 きくちがわ 流域 りゅういき で発掘 はっくつ される古墳 こふん 群 ぐん は少々 しょうしょう 時代 じだい が下 くだ り、竜王山 りゅうおうさん 古墳 こふん (山鹿 やまが 市 し )・山下 やました 古墳 こふん (玉名 たまな 市 し )・院 いん 塚 づか 古墳 こふん (岱明 たいめい 町 まち )が知 し られ、これらは日置 ひおき 部 ぶ 君 くん (ひおきべのきみ)一族 いちぞく の地 ち とみなされる。阿蘇 あそ 一宮 いちのみや 町 まち にある中通 なかとおり 古墳 こふん は阿蘇 あそ 君 くん (あそのきみ)の築造 ちくぞう とされる。これらの墳墓 ふんぼ から発掘 はっくつ される貝 かい 輪 わ などは、当時 とうじ の豪族 ごうぞく がさかんな交易 こうえき を行 おこ なっていたことを示 しめ している。さらに、阿蘇 あそ 溶結凝灰岩 ぎょうかいがん から作 つく られた舟形 ふながた 石棺 せっかん が瀬戸内海 せとないかい 沿岸 えんがん や近畿 きんき 地方 ちほう の古墳 こふん にも用 もち いられている[2- 1] ことから、この交易 こうえき は相当 そうとう 広範囲 こうはんい にわたる規模 きぼ のもので、豪族 ごうぞく たちの権勢 けんせい を支 ささ えていたと推測 すいそく される。県 けん 全体 ぜんたい で確認 かくにん された古墳 こふん は約 やく 1300程 ほど を数 かぞ え、これは国内 こくない の24%に当 あ たる。
磐井 いわい の乱 らん 以後 いご 、九州 きゅうしゅう への支配 しはい 体制 たいせい を強化 きょうか した大和 やまと 朝廷 ちょうてい は、当地 とうち の軍事 ぐんじ 力 りょく の再 さい 編成 へんせい や屯 たむろ 倉 くら の設置 せっち など支配 しはい 力 りょく を強化 きょうか した。この一連 いちれん の中 なか で、火 ひ の国 くに には大伴 おおとも 氏 し の部民 ぶみん が多 おお く配 はい された。これらは、『万葉集 まんようしゅう 』巻 まき 5、『和名 わみょう 類聚 るいじゅう 抄 しょう (和名 わみょう 抄 しょう )』、東大寺 とうだいじ 出土 しゅつど 木簡 もっかん などの記述 きじゅつ から見 み いだせる。『日本書紀 にほんしょき 』にある火 ひ の国 くに の春日部 かすかべ 屯 たむろ 倉 くら (熊本 くまもと 市 し 春日 かすが 町 まち )は九州 きゅうしゅう 中 ちゅう 南部 なんぶ の豪族 ごうぞく 反乱 はんらん へ睨 にら みを利 き かす朝廷 ちょうてい の出先 でさき 機関 きかん という性格 せいかく を有 ゆう し、軍事 ぐんじ 的 てき かつ経済 けいざい 的 てき 拠点 きょてん としても機能 きのう した。『隋 ずい 書 しょ 』の中 なか に阿蘇山 あそさん 噴火 ふんか を記 しる した下 くだ りがある[5] 。これは遣 や 隋 ずい 使 し が行 おこな われた推古天皇 すいこてんのう 期 き に伝 つた えられた情報 じょうほう と考 かんが えられており、火 ひ の国 くに が大和 やまと 朝廷 ちょうてい にとって重要 じゅうよう な拠点 きょてん のひとつだったことを示 しめ す傍証 ぼうしょう にもなっている。
律令制 りつりょうせい 下 か の肥後 ひご [ 編集 へんしゅう ]
令 れい 制 せい 国 こく 「肥後 ひご 国 こく 」が史書 ししょ に初 はじ めて記 しる されたのは、『日本書紀 にほんしょき 』持 もち 統 みつる 十 じゅう 年 ねん 四 よん 月 がつ 戊 つちのえ 戌 いぬ 紀 き にある白村 はくそん 江 こう の戦 たたか い で捕虜 ほりょ となり33年 ねん ぶりに帰国 きこく した兵士 へいし 「肥後 ひご 国 こく 皮 かわ 石 いし 郡 ぐん (合志 こうし 郡 ぐん )人 にん の壬生 みぶ 諸 しょ 石 いし (みぶのもろいし)」について記述 きじゅつ した箇所 かしょ に見 み られる。朝廷 ちょうてい は、帰国 きこく した彼 かれ と家族 かぞく の労苦 ろうく に対 たい し水田 すいでん や物品 ぶっぴん を与 あた え、また税 ぜい の免除 めんじょ などを以って報 むく いたとある。
歴史 れきし 公園 こうえん として復元 ふくげん された鞠 きく 智 さとし 城 じょう
日本書紀 にほんしょき の次 つぎ に編纂 へんさん された「続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 」文武 ぶんぶ 二 に 年 ねん 五 ご 月 がつ 二 に 十 じゅう 五 ご 日 にち 条 じょう に、鞠 きく 智 さとし 城 じょう 繕 つくろえ 治 ち の件 けん を載 の せている。これは唐 とう ・新 しん 羅 ら 連合 れんごう 軍 ぐん 来寇 らいこう に備 そな え、大宰府 だざいふ を防衛 ぼうえい する大野城 おおのじょう ・基 もと 肄城 と同 どう 時期 じき に現在 げんざい の山鹿 やまが 市 し (旧 きゅう 菊鹿 きくか 町 まち )に建設 けんせつ されたものである。ただし鞠 きく 智 さとし 城 じょう は武器 ぶき や兵糧 ひょうろう の供給 きょうきゅう または防人 さきもり が控 ひか える支援 しえん 基地 きち としての性格 せいかく が強 つよ かった[6] 。
律令制 りつりょうせい においては肥後 ひご 国 こく にも国府 こくふ が置 お かれ、その場所 ばしょ は『和名 わみょう 類聚 るいじゅう 抄 しょう 』には益城 ましき 郡 ぐん 、『伊呂波 いろは 字 じ 類 るい 抄 しょう 』には飽田 あきた 郡 ぐん (熊本 くまもと 市 し 二本木 にほんき )、鎌倉 かまくら 時代 じだい の『拾 ひろえ 芥 あくた 抄 しょう 』では益城 ましき ・飽田 あきた 郡 ぐん のふたつが併記 へいき されている。一方 いっぽう で地名 ちめい としての「国府 こくふ 」は託 たく 麻 あさ 郡 ぐん (熊本 くまもと 市 し 国府 こくふ )にあり、『日本 にっぽん 霊異 れいい 記 き 』宝 たから 亀 ひさし 年間 ねんかん 頃 ごろ の説話 せつわ には「託 たく 麻 あさ 国分寺 こくぶんじ 」という記述 きじゅつ がある。発掘 はっくつ が行 おこ なわれたところ熊本 くまもと 市 し 国府 こくふ から9世紀 せいき 中 ちゅう ごろの遺構 いこう が発見 はっけん されたが、これには洪水 こうずい による破壊 はかい の痕跡 こんせき [注 ちゅう 2] が見 み られた。この発見 はっけん から、当初 とうしょ は託 たく 麻 あさ にあった国府 こくふ が水害 すいがい を被 こうむ り、益城 ましき ・飽田 あきた の何 いず れかに移転 いてん したものと考 かんが えられている。ただし、これを裏付 うらづ ける遺跡 いせき や遺物 いぶつ の発見 はっけん には未 いま だ至 いた っていない。
一方 いっぽう で官職 かんしょく 「肥後守 ひごのかみ (ひごのかみ)」は『懐 ふところ 風 ふう 藻 も 』に五音 ごいん 詩 し 「秋 あき 宴 えん 」を載 の せた作者 さくしゃ 「正 せい 五位下肥後守道公首名(ひごのかみみちのきみおびとな)」に見 み られる。道 みち 公 こう 首 くび 名 めい は663年 ねん に北陸 ほくりく の道 みち 君 くん 一族 いちぞく に生 う まれ、新 しん 羅 ら 大使 たいし や筑後 ちくご 守 まもる を経 へ て兼任 けんにん 肥後守 ひごのかみ に就任 しゅうにん した。『続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 』には首 くび 名 めい の系譜 けいふ や生涯 しょうがい などと優 すぐ れた業績 ぎょうせき を記録 きろく した「卒 そつ 伝 でん 」があり、治水 ちすい 灌漑 かんがい のための溜池 ためいけ 「味 あじ 生 せい 池 ち (あじうのいけ)」(現 げん :熊本 くまもと 市立 しりつ 池上 いけがみ 小学校 しょうがっこう 北側 きたがわ 一帯 いったい [7] )を築 きず いた事例 じれい などが載 の せられている。続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き では通常 つうじょう 「卒 そつ 伝 でん 」は僧侶 そうりょ を除 のぞ き律令 りつりょう 官位 かんい 制 せい 五 ご 位 い 以下 いか の者 もの は記録 きろく しないが、正 せい 五 ご 位 い の道 みち 公 こう 首 くび 名 めい だけ[注 ちゅう 3] は生前 せいぜん の伝記 でんき に当 あ たる「卒 そつ 伝 でん 」が詳細 しょうさい に記録 きろく されている。これは、首 くび 名 めい の地方 ちほう 行政 ぎょうせい が律令 りつりょう 下 か の範 はん たるものであったことに加 くわ え、天智天皇 てんぢてんのう と道 みち 君 くん 一族 いちぞく の越 こし 道 みち 君 くん 伊勢 いせ 羅 ら 都 みやこ 売 うり (こしのみちのきみいらつめ)の間 あいだ に生 う まれた志貴 しき 皇子 おうじ が光 ひかり 仁 じん 天皇 てんのう の父 ちち であり、『続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 』編纂 へんさん 期 き の天皇 てんのう と血縁 けつえん にあったことも影響 えいきょう していると考 かんが えられる。
肥後 ひご の国司 こくし には、この道 みち 公 こう 首 くび 名 めい の他 ほか に紀 きの 夏井 なつい 、藤原 ふじわら 保昌 やすまさ らも赴任 ふにん し、平安 へいあん 時代 じだい の国司 こくし ・清原 きよはら 元 もと 輔 と肥後 ひご の女 おんな 歌人 かじん ・檜垣 ひがき 嫗 おうな との交流 こうりゅう についてはさまざまな説話 せつわ が残 のこ されている[3] 。
飛鳥 あすか 時代 ときよ から導入 どうにゅう された律令 りつりょう の調 しらべ 庸 いさお のうち、肥後 ひご から納 おさ められる特徴 とくちょう 的 てき な品目 ひんもく に繭 まゆ 綿 めん と絹織物 きぬおりもの があった。これは『和名 わみょう 類聚 るいじゅう 抄 しょう 』および『続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 』中 ちゅう に、貢 みつぎ 進 しん される数量 すうりょう の多 おお さとともに記 しる されている。また、紫 むらさき 草 くさ も多 おお く貢 みつぎ 上 じょう され、これらは平城京 へいじょうきょう 跡 あと や大宰府 だざいふ から出土 しゅつど した木簡 もっかん にある記述 きじゅつ に裏付 うらづ けられている。この他 ほか にも、朝廷 ちょうてい の正月 しょうがつ 節 ふし 会 かい 料 りょう のための「腹赤 はらか 魚 ぎょ (はらか)」など海産物 かいさんぶつ の献上 けんじょう 記録 きろく などが残 のこ されている。肥後 ひご 国 こく の納税 のうぜい 能力 のうりょく は高 たか く、『弘 ひろし 仁 ひとし (主税 ちから )式 しき 』に記録 きろく された出 だし 挙 きょ 稲 いね 数 すう では、九州 きゅうしゅう 総計 そうけい 459万 まん 束 たば のうち123万 まん 束 たば を肥後 ひご 国 こく が占 し めている。そのため公営 こうえい 田 た 制 せい 導入 どうにゅう において肥後 ひご 国 こく は、延 のべ 暦 れき 14年 ねん (795年 ねん )には国 くに 等級 とうきゅう 区分 くぶん が「上 うえ 国 こく 」から「大国 たいこく 」へと昇格 しょうかく され、その中心 ちゅうしん を担 にな う一 いち 国 こく に据 す えられた。
これら租税 そぜい 徴収 ちょうしゅう および軍事 ぐんじ など地方 ちほう 行政 ぎょうせい を遂行 すいこう するため、肥後 ひご 国 こく にも条 じょう 里 さと 制 せい が布 し かれ、郡家 こおげ (郡 ぐん 衙)や駅路 えきろ ・車路 くるまじ (くるまじ)が整備 せいび された。ただし、記録 きろく に残 のこ る条 じょう 里 さと 制 せい の区域 くいき は、一部 いちぶ 阿蘇 あそ カルデラ内 ない を除 のぞ き菊池川 きくちがわ 流域 りゅういき および熊本平野 くまもとへいや に集中 しゅうちゅう し、「コ」の字形 じけい に配列 はいれつ された掘立柱 ほったてばしら が特徴 とくちょう 的 てき に見 み られる郡 ぐん 衙遺構 いこう もそれらの中心 ちゅうしん を占 し める形 かたち で発掘 はっくつ されている。路 みち は筑紫 つくし 国 こく から下 くだ り、熊本平野 くまもとへいや を南北 なんぼく に貫 つらぬ いて馬屋 うまや である益城 ましき 駅 えき に続 つづ く。現在 げんざい の熊本 くまもと 市 し 北部 ほくぶ (旧 きゅう 地名 ちめい 「子飼 こがい 町 まち 」)には、繭 まゆ 綿 めん 輸送 ゆそう の中継 ちゅうけい 点 てん であった「蚕養 こがい 駅 えき (こかいえき)」が設置 せっち された[注 ちゅう 4] 。
肥後 ひご 国 こく はまた、朝廷 ちょうてい や駅 えき 馬 ば ・伝馬 てんま に用 もち いられる馬 うま を供給 きょうきゅう する「牧 まき 」[2- 2] を担 にな い、『延喜 えんぎ 式 しき 』には二 に 重 じゅう 牧 まき (ふたえまき、阿蘇 あそ 外輪山 がいりんざん を挟 はさ み阿蘇 あそ 町 まち と大津 おおつ 町 まち に跨 またが る)と波 なみ 良 りょう 牧 まき (はらまき、小国 おぐに 町 まち 一帯 いったい と推測 すいそく される)、さらに『日本 にっぽん 三 さん 代 だい 実録 じつろく 』には大宅 おおたく 牧 まき (おおやけまき、宇土半島 うとはんとう )が記録 きろく されている。また山鹿 やまが 市 し に残 のこ る昔話 むかしばなし に、大 だい 田畑 たはた を誇 ほこ る米原 まいばら 長者 ちょうじゃ がやはり大 だい 地主 じぬし の駄 だ の原 げん 長者 ちょうじゃ と宝 たから くらべを行 おこな い、金銀 きんぎん 財宝 ざいほう を積 つ み上 あ げた米原 まいばら 長者 ちょうじゃ に対 たい し凛々 りり しい子息 しそく らと美 うつく しい子女 しじょ らを並 なら べた駄 だ の原 げん 長者 ちょうじゃ に民衆 みんしゅう が軍配 ぐんばい を上 あ げる話 はなし がある[8] 。この駄 だ の原 げん 長者 ちょうじゃ は数 すう 百 ひゃく 頭 とう の牛馬 ぎゅうば を持 も ち、官 かん 道 どう への駅 えき 馬 ば 供給 きょうきゅう を担 にな った実力 じつりょく 者 しゃ であったと推測 すいそく されている。
神護 かんご 景 けい 雲 くも 元年 がんねん (768年 ねん )、肥後 ひご 国 こく 葦北 いほく 郡 ぐん から白 しろ い亀 かめ が朝廷 ちょうてい に献上 けんじょう された。3年 ねん 後 ご にも同 おな じ例 れい があるが、こちらは歴史 れきし に大 おお きく関与 かんよ した。神護 かんご 景 けい 雲 くも 4年 ねん (771年 ねん )8月 がつ に葦北 いほく 郡 ぐん と益城 ましき 郡 ぐん の二 に 箇所 かしょ から白亀 しらかめ が献上 けんじょう されたが、同月 どうげつ は称 しょう 徳 とく 天皇 てんのう が没 ぼっ した月 つき と重 かさ なり、天智 てんじ 系 けい の光 ひかり 仁 じん 天皇 てんのう が即位 そくい した時 とき でもあった。大 だい 瑞 みず を示 しめ す亀 かめ の出現 しゅつげん を受 う けて10月 がつ に元号 げんごう が「宝 たから 亀 ひさし 」に改 あらた められ、権勢 けんせい を誇 ほこ った道鏡 どうきょう は失墜 しっつい した。
この二 に 度目 どめ の白亀 しらかめ 献上 けんじょう は、『続 ぞく 日本 にっぽん 紀 き 』によると国司 こくし である肥後 ひご 守 まもる ・大伴 おおとも 宿禰 すくね 益 えき 立 りつ が行 おこな った。宝亀 ほうき 3年 ねん (773年 ねん )にはまたも白亀 しらかめ を献上 けんじょう した肥後 ひご 国 こく は、瑞祥 ずいしょう を示 しめ すことで天武 てんむ 系 けい から天智 てんじ 系 けい への転換 てんかん を後押 あとお しし、そこには大伴 おおとも 氏 し の関与 かんよ があったものと推測 すいそく されている。ただし、藤原 ふじわら 種 たね 継 つぎ 暗殺 あんさつ 計画 けいかく に関与 かんよ したとして大伴家持 おおとものやかもち の一族 いちぞく が処罰 しょばつ されると、肥後 ひご 国司 くにじ の系列 けいれつ に大伴 おおとも の名 な は見 み られなくなり、藤原 ふじわら 氏 し 系列 けいれつ がその職 しょく を得 え ることとなった。
中世 ちゅうせい の始 はじ まり[ 編集 へんしゅう ]
平安 へいあん 時代 じだい 後期 こうき 、日本 にっぽん 各地 かくち で武士 ぶし が勃興 ぼっこう し勢力 せいりょく を確立 かくりつ してゆく。これは肥後 ひご 国 こく においても同様 どうよう に見 み られ、有力 ゆうりょく な武士 ぶし 団 だん が形成 けいせい された。しかし、いずれも肥後 ひご 一 いち 国 こく を支配 しはい 下 か に置 お く「一 いち 国 こく 棟梁 とうりょう 」に至 いた った者 もの は生 う まれず、これは豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし の登場 とうじょう を待 ま たなければならなかった。
肥後 ひご を代表 だいひょう する武士 ぶし 団 だん は菊池 きくち ・阿蘇 あそ の両氏 りょうし であり、緑川 みどりかわ 流域 りゅういき の木原 きはら 氏 し や諸島 しょとう 部 ぶ の天草 あまくさ 氏 し 、人吉 ひとよし や球磨川 くまがわ 流域 りゅういき に拠 よりどころ した関東 かんとう 下向 げこう 系 けい の相良 さがら 氏 し 、戦国 せんごく 時代 じだい に名 な を馳 は せた隈部 くまべ 氏 し なども知 し られている。肥後 ひご に限 かぎ らず九州 きゅうしゅう の武士 ぶし は府 ふ 官 かん すなわち大宰府 だざいふ に所属 しょぞく する仕官 しかん を源流 げんりゅう とするものが多 おお く、刀 かたな 伊 い の入寇 にゅうこう 時 とき に戦 たたか いに当 あ たった諸氏 しょし の記録 きろく に名 な が見 み られる。
菊池 きくち 氏 し の始 はじ まり[ 編集 へんしゅう ]
菊池 きくち 氏 し は、その初代 しょだい ・菊池 きくち 則 のり 隆 たかし が、刀 かたな 伊 い の入寇 にゅうこう において大 だい 宰 おさむ 権 けん 帥 そち 藤原隆家 ふじわらのたかいえ の配下 はいか で活躍 かつやく した藤原 ふじわら 系 けい の郎党 ろうとう ・政則 まさのり (蔵 ぞう 規 ぶんまわし )を父 ちち に持 も つとされる。当時 とうじ 、九州 きゅうしゅう の有力 ゆうりょく 豪族 ごうぞく は権威 けんい を保持 ほじ 拡大 かくだい するために大宰府 だざいふ との接触 せっしょく を持 も ったが、菊池 きくち 氏 し もこの例 れい に則 そく していた。ただし、太宰 だざい 小 しょう 弐 に ・対馬 つしま 守 もり に任命 にんめい された政則 まさのり に対 たい し、則 のり 隆 たかし やその子 こ ・政隆 まさたか (西郷 さいごう 太郎 たろう )は郡司 ぐんじ 家 いえ 系列 けいれつ の「肥後 ひご 国 こく 住人 じゅうにん 」ともされていた事 こと から、両者 りょうしゃ には必 かなら ずしも血筋 ちすじ の繋 つな がりあったとは限 かぎ らず、本来 ほんらい は主従 しゅうじゅう 関係 かんけい にあったともする考 かんが えもある[注 ちゅう 5] 。
もうひとつ、中世 ちゅうせい 肥後 ひご の有力 ゆうりょく 武士 ぶし 団 だん となる阿蘇 あそ 氏 し (宇治 うじ 姓 せい )は特異 とくい な性質 せいしつ を持 も っていた。阿蘇 あそ 氏 し は、阿蘇 あそ 国造 くにのみやつこ の系列 けいれつ を称 しょう し、また古代 こだい の火山 かざん 神 しん と地域 ちいき の農業 のうぎょう 神 しん を習合 しゅうごう した阿蘇 あそ 神社 じんじゃ [2- 3] の神官 しんかん を世襲 せしゅう する豪族 ごうぞく であった。保 ほ 延 のべ 年間 ねんかん には、阿蘇 あそ 山麓 さんろく に開発 かいはつ した田地 でんち を中院 なかのいん 右大臣 うだいじん 家 か (源 みなもと 雅 まさ 定 じょう )を領家 りょうけ 、安楽寿院 あんらくじゅいん を本家 ほんけ とする荘園 しょうえん として寄進 きしん し、開発 かいはつ 領主 りょうしゅ から本所 ほんじょ へと地位 ちい を固 かた めた。さらに健軍 けんぐん 社 しゃ (健軍 けんぐん 神社 じんじゃ )・甲佐 こうさ 社 しゃ (甲佐 こうさ 神社 じんじゃ )・郡浦 こおのうら 社 しゃ (郡浦 こおのうら 神社 じんじゃ )を傘下 さんか とし、白川 しらかわ ・緑川 みどりかわ 流域 りゅういき に当 あ たる肥後 ひご 国 こく 中央 ちゅうおう 部 ぶ を勢力 せいりょく 下 か に置 お いた。阿蘇 あそ 神社 じんじゃ は肥後 ひご 国 こく 一宮 いちのみや となり、宮 みや の造営 ぞうえい などの経費 けいひ は一 いち 国 こく 平均 へいきん の役 やく で賄 まかな われるなど、権威 けんい を拡大 かくだい した。これらの権勢 けんせい を背景 はいけい に、阿蘇 あそ 氏 し は武士 ぶし 団 だん を形成 けいせい した。それは、保 ほ 延 のべ 3年 ねん (1137年 ねん )の資料 しりょう に初 はつ 見 み される、宇治 うじ 惟 おもんみ 宣 せん が神官 しんかん の長 ちょう が武士 ぶし 団 だん の長 ちょう を兼 か ねる際 さい に用 もち いる「大宮 おおみや 司 つかさ 」を称 しょう したことを始 はじ まりとしている。
なお、阿蘇 あそ 氏 し は名 な の通 とお り阿蘇 あそ を出自 しゅつじ とするものの、全盛期 ぜんせいき は、阿蘇 あそ の南 みなみ 外輪山 がいりんざん ・現在 げんざい の山都 やまと 町 まち にあったとされる「浜 はま の館 かん 」時代 じだい であった。当時 とうじ は阿蘇 あそ よりも矢部 やべ の方 ほう が生産 せいさん 性 せい が高 たか く地 ち の利 り が良 よ かったようで、「岩尾 いわお 城 しろ 」「愛 あい 藤 ふじ 寺 てら 城 じょう 、別名 べつめい 矢部 やべ 城 じょう 」など要害 ようがい の地 ち に立 た つ堅牢 けんろう な山城 やましろ を築城 ちくじょう して勢力 せいりょく を誇 ほこ った。
初期 しょき 武士 ぶし 団 だん の形成 けいせい と争 あらそ い[ 編集 へんしゅう ]
平安 へいあん 時代 じだい 後期 こうき には、地方 ちほう で勃興 ぼっこう する武士 ぶし 勢力 せいりょく による小規模 しょうきぼ な争 あらそ いが見 み られた。またそこに、白河 しらかわ 上皇 じょうこう に始 はじ まる院政 いんせい を背景 はいけい とした国司 こくし 支配 しはい が絡 から まり、複雑 ふくざつ な模様 もよう を呈 てい した。
肥後 ひご に限 かぎ らず九州 きゅうしゅう では、鎮西 ちんぜい 総 そう 追 つい 捕 と 使 つかい を称 しょう した源為朝 みなもとのためとも (鎮西八郎為朝 ちんぜいはちろうためとも )が乱暴 らんぼう を重 かさ ねたという記述 きじゅつ を『保 ほ 元 もと 物語 ものがたり 』に見 み ることができ、各所 かくしょ に伝承 でんしょう が残 のこ っている。下益城 しもましき 郡 ぐん (現 げん 熊本 くまもと 市 し 南 みなみ 区 く )富合 とみあい 町 まち にある木原山 もくばるやま は別名 べつめい を雁 かり 回 かい 山 やま というが、これは同山 どうさん に砦 とりで を置 お いた鎮西 ちんぜい 八郎 はちろう の弓 ゆみ の腕前 うでまえ を恐 おそ れ雁 かり がこの山 やま を避 さ けて飛 と んだという逸話 いつわ を由来 ゆらい としている[9] 。しかし『高野山 こうのやま 文書 ぶんしょ 』にある久安 ひさやす 2年 ねん (1146年 ねん )の訴状 そじょう によると、当地 とうち で反 はん 体制 たいせい の騒乱 そうらん を起 お こしたのは地方 ちほう 武士 ぶし ・木原 きはら 広実 ひろみ であったとされ、源為朝 みなもとのためとも がこの山 やま に篭 こも った証拠 しょうこ は無 な い。この訴状 そじょう には他 ほか にも、現在 げんざい の上益城 かみましき 郡 ぐん 甲佐 こうさ 町 まち に拠 よりどころ した菊池 きくち 氏 し 系 けい の田口 たぐち 経 けい 延 のべ ・行 ぎょう 季 き 親子 おやこ が国衙 こくが を襲撃 しゅうげき した事件 じけん を載 の せているが、この舞台 ぶたい となった山手 やまて 村 むら にも鎮西 ちんぜい 八郎 はちろう が武威 ぶい を示 しめ すため白 しろ い旗 はた を立 た てたという伝説 でんせつ [2- 4] があり、現在 げんざい では白旗 はっき という地名 ちめい になっている。このように、九州 きゅうしゅう 一 いち 円 えん に残 のこ る鎮西 ちんぜい 八郎 はちろう 伝説 でんせつ は、当時 とうじ 多 おお くの地方 ちほう 武士 ぶし 勢力 せいりょく が局地 きょくち 的 てき 争乱 そうらん を起 お こし、これらが源為朝 みなもとのためとも の所業 しょぎょう に集約 しゅうやく され残 のこ されたと考 かんが えられている。
源平 げんぺい の狭間 はざま で[ 編集 へんしゅう ]
保 ほ 元 もと の乱 らん 以降 いこう 、平清盛 たいらのきよもり が大 だい 宰 おさむ 大弐 だいに に就任 しゅうにん すると、肥後 ひご 国 こく を含 ふく む九州 きゅうしゅう には平家 ひらか の影響 えいきょう 力 りょく が強 つよ く及 およ び始 はじ めた。院政 いんせい 権力 けんりょく と結 むす び、王 おう 領 りょう 荘園 しょうえん の領 りょう 家 か や預 あずか 所 しょ 職 しょく を一族 いちぞく で占 し め、また受領 じゅりょう として国衙 こくが の行政 ぎょうせい 権 けん を掌握 しょうあく した。この動 うご きに地方 ちほう の武士 ぶし 団 だん は、平家 へいけ の軍門 ぐんもん に下 くだ るか、もしくは反抗 はんこう を試 こころ みるかの二者択一 にしゃたくいつ を迫 せま られた。当時 とうじ の菊池 きくち 氏 し 棟梁 とうりょう ・隆 りゅう 直 ただし が選 えら んだのは後者 こうしゃ の道 みち だった。治 ち 承 うけたまわ 4年 ねん (1180年 ねん )、菊池 きくち 隆 たかし 直 じき は大宮 おおみや 司 つかさ 阿蘇 あそ 惟 おもんみ 安 やす や木原 きはら 次郎 じろう 盛 もり 実 みのる など肥後 ひご の有力 ゆうりょく 武将 ぶしょう と組 く み立 た ち上 あ がった。この鎮西 ちんぜい 反乱 はんらん は、『玉 たま 葉 は 』では「筑紫 つくし の反乱 はんらん 」と、終結 しゅうけつ した年号 ねんごう から「養和 ようわ の内乱 ないらん 」とも呼 よ ばれる。数 かず 万 まん の兵 へい を以って一時 いちじ は大宰府 だざいふ にまで攻 せ め入 はい った肥後 ひご 勢 ぜい ではあったが、平家 へいけ 側 がわ の働 はたら きかけにより朝廷 ちょうてい は原田 はらだ 種 たね 直 ただし に反乱 はんらん 分子 ぶんし を意味 いみ する「鎮西 ちんぜい の賊 ぞく 」菊池 きくち 隆 たかし 直 ちょく 追討 ついとう の宣旨 せんじ を下 くだ し、平貞能 たいらのさだよし を追討 ついとう 使 し として九州 きゅうしゅう に派遣 はけん した。押 お され始 はじ めた肥後 ひご 一 いち 党 とう は本拠 ほんきょ を攻 せ め込 こ まれ、養和 ようわ 2年 ねん (1182年 ねん )4月 がつ には降伏 ごうぶく 、肥後 ひご の武士 ぶし 団 だん は平家 へいけ 方 かた に組 く み込 こ まれた。
『吾妻 あづま 鏡 きょう 』・『平家 ひらか 物語 ものがたり 』・『源平 げんぺい 盛衰 せいすい 記 き 』また『歴代 れきだい 鎮西 ちんぜい 要略 ようりゃく 』では、この「鎮西 ちんぜい 反乱 はんらん 」は勃興 ぼっこう と同年 どうねん 伊豆 いず で挙兵 きょへい した源 みなもと 頼朝 よりとも に呼応 こおう したものとされるが、実態 じったい は異 こと なり地方 ちほう 勢力 せいりょく の反乱 はんらん であった。それどころか、寿 ことぶき 永 ひさし 2年 ねん (1183年 ねん )に安徳天皇 あんとくてんのう を奉 ほう じて九州 きゅうしゅう に落 お ち延 の びた平家 へいけ に従 したが った菊池 きくち 隆 たかし 直 じき を、鎌倉 かまくら 幕府 ばくふ は平家 へいけ に組 くみ した「張本 ちょうほん の輩 やから 」と断 だん じた。ただし、菊池 きくち 氏 し は鎌倉 かまくら 時代 じだい も御家人 ごけにん として存続 そんぞく した点 てん から「鎮西 ちんぜい 反乱 はんらん 」が源氏 げんじ 方 かた にも考慮 こうりょ された可能 かのう 性 せい は否定 ひてい できない。また、当時 とうじ 既 すで に球磨 くま 地方 ちほう の多良木 たらぎ 荘 そう に拠 よ った相良 さがら 氏 し も平家 へいけ 方 かた として活動 かつどう したが、幕府 ばくふ 成立 せいりつ 後 ご に謝意 しゃい を示 しめ して許 ゆる されたとされる。しかし、これは逆 ぎゃく に罰 ばっ を受 う けて氏族 しぞく 本拠 ほんきょ の遠江 とおとうみ 国 こく 相良 さがら 荘 そう を追放 ついほう された結果 けっか との説 せつ もある[10] 。
阿蘇 あそ 氏 し ・木原 きはら 氏 し という有力 ゆうりょく 武士 ぶし 団 だん を配下 はいか に反乱 はんらん を起 お こした菊池 きくち 隆 たかし 直 じき は当時 とうじ 「一 いち 国 こく 棟梁 とうりょう 」に最 もっと も近 ちか い位置 いち にいたが、結果 けっか 「養和 ようわ の内乱 ないらん 」は中央 ちゅうおう の武家 ぶけ 権力 けんりょく による肥後 ひご 支配 しはい を呼 よ び込 こ む役割 やくわり を担 にな ってしまった。また、球磨 くま 一 いち 郡 ぐん を範囲 はんい としていた球磨 くま 荘 そう が平家 ひらか 没 ぼつ 官 かん 領 りょう とみなされて鎌倉 かまくら 幕府 ばくふ によって解体 かいたい され、その一部 いちぶ であった人吉 ひとよし 荘 そう は後 のち に相良 さがら 氏 し に与 あた えられることになった。
熊本 くまもと 県 けん やその近郊 きんこう には、平家 へいけ の落 お ち人 じん 伝説 でんせつ が残 のこ る。その場所 ばしょ としては、八代 やしろ 市 し 泉町 いずみちょう 五 ご 家 いえ 荘 そう [11] 、隣接 りんせつ する宮崎 みやざき 県 けん 椎葉 しいば 村 むら などが知 し られている。
鎌倉 かまくら 政権 せいけん 下 か の肥後 ひご [ 編集 へんしゅう ]
文治 ぶんじ の勅許 ちょっきょ によって守護 しゅご ・地頭 じとう が設置 せっち されると、平家 へいけ 方 かた にあった肥後 ひご 国 こく では東国 とうごく 武士 ぶし が多 おお く惣地 そうち 頭 あたま の職 しょく を占 し めた。「張本 ちょうほん の輩 やから 」とされた菊池 きくち 氏 し は、後鳥羽上皇 ごとばじょうこう の院宣 いんぜん に始 はじ まる承久 じょうきゅう の乱 らん に菊池 きくち 隆 たかし 能 のう が上皇 じょうこう 方 かた に加 くわ わったこともあり所領 しょりょう を没収 ぼっしゅう されたが、多 おお くの肥後 ひご 在郷 ざいきょう 武士 ぶし は惣地 そうち 頭 あたま の「所 ところ 堪 こらえ 」(指導 しどう 統制 とうせい )に服 ふく す小 しょう 地頭 じとう に組 く み込 こ まれた。
熊本 くまもと 市 し 北部 ほくぶ にあった有名 ゆうめい な荘園 しょうえん 「鹿子木 かのこぎ 荘 そう 」は、訴状 そじょう 資料 しりょう として作成 さくせい された『鹿子木 かのこぎ 荘 そう 条々 じょうじょう 事 ごと 書 しょ 』で主張 しゅちょう された開発 かいはつ 領主 りょうしゅ の権限 けんげん の強 つよ さを示 しめ す事例 じれい で知 し られていた。しかし、後 のち にこの訴状 そじょう で開発 かいはつ 領主 りょうしゅ とされた沙弥 さや 寿 ことぶき 妙 たえ が実際 じっさい には受領 じゅりょう であったことが判明 はんめい し、開発 かいはつ 領主 りょうしゅ の権限 けんげん 「職権 しょっけん 留保 りゅうほ ・上分 かみぶん 寄進 きしん 」には疑問 ぎもん が呈 てい されている[注 ちゅう 6] 。また実際 じっさい に、安泰 あんたい を目指 めざ し領地 りょうち を寄進 きしん した地方 ちほう 武士 ぶし が、引 ひ き換 か えに得 え た代官 だいかん 職 しょく をやがて失 しつ なったり、または訴訟 そしょう で敗 やぶ れ喪失 そうしつ する例 れい などもあった。
『蒙 こうむ 古 こ 襲来 しゅうらい 絵詞 えことば 』より。文 ぶん 永 なが の役 やく において奮戦 ふんせん する竹崎 たけざき 季 き 長 ちょう (右 みぎ )
蒙 こうむ 古 こ 、襲来 しゅうらい [ 編集 へんしゅう ]
文 ぶん 永 ひさし 5年 ねん (1268年 ねん )と8年 ねん (1271年 ねん )に修好 しゅうこう を迫 せま る元 もと の使者 ししゃ を追 お い返 かえ した幕府 ばくふ は、来寇 らいこう を覚悟 かくご し、多 おお くの武士 ぶし を博多 はかた に集結 しゅうけつ させた。文 ぶん 永 なが 11年 ねん (1274年 ねん )10月 がつ 19日 にち 、対馬 つしま ・壱岐 いき などを経由 けいゆ した蒙 こうむ 古 こ 軍 ぐん の船 ふね が博多湾 はかたわん に押 お し寄 よ せ、いわゆる元 もと 寇 は始 はじ まった。この役 やく には菊池 きくち ・詫間 たくま ・相良 さがら 氏 し など肥後 ひご の武士 ぶし も多 おお く馳 は せ参 さん じた。集団 しゅうだん 戦 せん で優位 ゆうい に立 た ち大宰府 だざいふ に近 ちか い水城 みずき まで戦線 せんせん を進 すす めた蒙 こうむ 古 こ 軍 ぐん だったが、一旦 いったん 軍船 ぐんせん に退却 たいきゃく したところ暴風雨 ぼうふうう が襲 おそ い多 おお くが難破 なんぱ してしまい、元 もと 軍 ぐん は敗退 はいたい した。
しかし再 さい 襲 かさね 必至 ひっし と睨 にら んだ幕府 ばくふ は、旧習 きゅうしゅう を破 やぶ る令 れい を発 はっ した。それまでは御家人 ごけにん のみを対象 たいしょう としていた原則 げんそく を拡大 かくだい し、「本所 ほんじょ 一 いち 円 えん 地 ち の住人 じゅうにん 」すなわち非 ひ 御家人 ごけにん までにも幕府 ばくふ は出陣 しゅつじん を求 もと め、軍功 ぐんこう には恩賞 おんしょう で報 むく いると告知 こくち した。また、先手 せんて を打 う つ高 こう 麗 うらら への遠征 えんせい 計画 けいかく を練 ね り、兵力 へいりょく の注進 ちゅうしん を守護 しゅご に命 めい じた。このうち、肥後 ひご 北部 ほくぶ の武士 ぶし 名簿 めいぼ を綴 つづ った報告 ほうこく 書 しょ の一部 いちぶ は、後 のち に裏面 りめん を用 もち いて『筥崎八幡宮 はちまんぐう 御 ご 神宝 しんぽう 記 き 』が作 つく られたため、その内容 ないよう を今日 きょう も知 し ることが出来 でき る。ここに見 み られる武士 ぶし の中 なか には、井芹 いせり 西向 にしむき (いせりさいこう)のように惣地 そうち 頭 あたま の横暴 おうぼう のため領地 りょうち を失 うしな った者 もの もいた。高麗 こうらい 遠征 えんせい は博多 はかた 湾岸 わんがん の石 いし 築地 つきじ 設営 せつえい に注力 ちゅうりょく するため取 と りやめられたが、召集 しょうしゅう された兵力 へいりょく は警備 けいび に向 む けられ、肥後 ひご 武士 たけし たちも生 いき の松原 まつばら に詰 つ めた。
弘安 ひろやす 4年 ねん (1281年 ねん )6月 がつ 3日 にち 、蒙 こうむ 古 こ 軍 ぐん はふたたび博多湾 はかたわん に来襲 らいしゅう したが警備 けいび の武士 ぶし と石 いし 築地 つきじ に阻 はば まれ一旦 いったん 退却 たいきゃく 。江南 こうなん の軍 ぐん と合流 ごうりゅう し7月 がつ 27日 にち に鷹島 たかしま 沖 おき に到着 とうちゃく したが、今度 こんど は台風 たいふう に当 あ たり難破 なんぱ 船 せん が続出 ぞくしゅつ した。武士 ぶし 団 だん は残 ざん 軍 ぐん に掃討 そうとう をかけ、肥後 ひご 武士 たけし も奮闘 ふんとう した。
この二 に 度 ど の戦役 せんえき (文 ぶん 永 なが の役 やく ・弘安 ひろやす の役 やく )で戦 たたか った肥後 ひご 武士 たけし の一人 ひとり ・竹崎 たけざき 季 き 長 ちょう は、後 のち に戦役 せんえき の模様 もよう などを伝 つた える『蒙 こうむ 古 こ 襲来 しゅうらい 絵詞 えことば 』を編纂 へんさん した。菊池 きくち 氏 し の庶流とされる竹崎 たけざき 氏 し は、豊福 とよふく 荘 そう [12] 竹崎 たけざき (現在 げんざい の宇城市 し 松橋 まつはし 町 まち 竹崎 たけざき )に在 ましま した国 くに 御家人 ごけにん であった。その中 なか で季 き 長 ちょう は訴訟 そしょう に敗 やぶ れ一 いち 族 ぞく からも孤立 こりつ していた。そのような時 とき に起 お こった文 ぶん 永 なが の役 やく は彼 かれ にとって千載一遇 せんざいいちぐう の好機 こうき であり、わずか5騎 き を引 ひ き連 つ れて参戦 さんせん した。死 し を恐 おそ れず挑 いど み一 いち 番 ばん 駆 か けの功 こう を挙 あ げたが、注進 ちゅうしん に漏 も れ恩賞 おんしょう に与 あずか れなかった。翌年 よくねん 彼 かれ は馬具 ばぐ などを売 う り払 はら って旅費 りょひ を工面 くめん し、中間 ちゅうかん 2人 ふたり だけを伴 ともな って鎌倉 かまくら まで赴 おもむ いて、建治 けんじ 2年 ねん (1276年 ねん )恩賞 おんしょう 奉行 ぶぎょう の安達 あだち 泰盛 やすもり に謁見 えっけん し訴 うった え出 で た。泰盛 やすもり は功 こう を認 みと め、季 き 長 ちょう に東海 とうかい 郷 きょう (現在 げんざい の宇城市 し 小川 おがわ 町 まち )の地頭 じとう 職 しょく を与 あた えた。
弘安 ひろやす の役 やく でも活躍 かつやく を見 み せた竹崎 たけざき 季 き 長 ちょう は、後 のち に東海 とうかい 郷 きょう 経営 けいえい に手腕 しゅわん を発揮 はっき した。これは置 おけ 文 ぶん 『海 うみ 東郷 とうごう 社 しゃ 定置 ていち 条々 じょうじょう 事 ごと 』の内容 ないよう や、霜月 しもづき 騒動 そうどう で滅 ほろぼ した恩人 おんじん ・安達 あだち 泰盛 やすもり を偲 しの び発案 はつあん したともされる『蒙 こうむ 古 こ 襲来 しゅうらい 絵詞 えことば 』作成 さくせい に充分 じゅうぶん な財力 ざいりょく を得 え ていたところからも推測 すいそく される。
得 とく 宗 むね 専制 せんせい の影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
訴 うった え出 で た竹崎 たけざき 季 き 長 ちょう は最終 さいしゅう 的 てき に恩賞 おんしょう を得 え たが、彼 かれ のように武功 ぶこう を挙 あ げながら何 なん ら褒章 ほうしょう を受 う けられなかった者 もの は多 おお く、御家人 ごけにん の貧窮 ひんきゅう 化 か が進 すす んだ。さらに寛 ひろし 元 もと 4年 ねん (1246年 ねん )執権 しっけん に就任 しゅうにん した北条 ほうじょう 時 じ 頼 よりゆき は幕府 ばくふ 権力 けんりょく の掌握 しょうあく と反 はん 北条 ほうじょう 氏 し 勢力 せいりょく の排除 はいじょ を強 つよ め、元 もと 寇という外患 がいかん も利用 りよう し、北条 ほうじょう 一門 いちもん による専制 せんせい 体制 たいせい を固 かた めた。肥後 ひご 国 こく に与 あた えた影響 えいきょう も大 おお きく、弘安 ひろやす 徳政 とくせい で事 こと の是正 ぜせい を試 こころ みた安達 あだち 泰盛 やすもり が廃 はい された霜月 しもつき 騒動 そうどう 以後 いご の守護 しゅご 職 しょく は得 とく 宗 むね または北条 ほうじょう 氏 し 族 ぞく が独占 どくせん し、一 いち 国 こく 平均 へいきん の役 やく で課 か される税 ぜい の徴収 ちょうしゅう など本来 ほんらい 国司 こくし が持 も つ権限 けんげん も守護 しゅご が担 にな うようになった。得 とく 宗 そう 領 りょう とされた荘園 しょうえん も多 おお く、菊池 きくち 荘 そう や熊本 くまもと 平野 へいや の各 かく 荘園 しょうえん ・八 はち 代 だい や球磨 くま 郡 ぐん および天草 てんぐさ ・寛 ひろし 元 もと 2年 ねん (1244年 ねん )に相良 さがら 氏 し から奪 うば った人吉 ひとよし 荘 そう 北方 ほっぽう など、肥後 ひご 国内 こくない 全域 ぜんいき に及 およ んだ。所領 しょりょう を奪 うば われたり、安堵 あんど ・自立 じりつ を脅 おびえ やかされるなど矛盾 むじゅん を含 ふく んだ政治 せいじ は多 おお くの不満 ふまん 不平 ふへい を生 しょう じ、反 はん 体制 たいせい 勢力 せいりょく である「悪党 あくとう 」の発生 はっせい に繋 つな がってゆく。
永 なが 承 うけたまわ 7年 ねん (1052年 ねん )は仏教 ぶっきょう で言 い う末法 まっぽう の元年 がんねん とされ、救済 きゅうさい を求 もと める宗教 しゅうきょう 運動 うんどう は肥 こえ 後 ご でも見 み られた。最初 さいしょ の例 れい は永 えい 保 たもつ 元年 がんねん (1081年 ねん )に建立 こんりゅう された現在 げんざい の御船 みふね 町 まち にある玉虫 たまむし の如法 にょほう 経 けい 塔 とう であり、著名 ちょめい なものは久安 ひさやす 元年 がんねん の現 げん :山鹿 やまが 市 し 凡導寺 てら にある滑石 かっせき 製 せい 経 けい 筒 とう がある。これらの背景 はいけい には肥後 ひご 武士 たけし 団 だん 勃興 ぼっこう による争乱 そうらん があったものと推測 すいそく される。
法然 ほうねん に始 はじ まり、衆生 しゅじょう 救済 きゅうさい を掲 かか げた浄土宗 じょうどしゅう の肥後 ひご 伝播 でんぱ は、安貞 やすさだ 2年 ねん (1228年 ねん )白川 しらかわ 沿 ぞ いの往生 おうじょう 院 いん で開 ひら かれた弁 わきまえ 阿 おもね の別 べつ 時 じ 念仏 ねんぶつ に始 はじ まるとされる。同年 どうねん 宇土 うと 西光 さいこう 院 いん でも念仏 ねんぶつ を修 しゅう した弁 べん 阿 おもね は、鎌倉 かまくら 時代 じだい に浄土宗 じょうどしゅう が肥後 ひご 国 こく で広 ひろ く浸透 しんとう する端緒 たんしょ を開 ひら いた。多 おお く建立 こんりゅう された浄土宗 じょうどしゅう 阿弥陀堂 あみだどう の中 なか でも、人吉 ひとよし ・球磨 くま 地方 ちほう に名刹 めいさつ が多 おお く残 のこ っている。これは、鎌倉 かまくら 初期 しょき 以降 いこう 相良 さがら 氏 し が当地 とうち を支配 しはい し、それが明治 めいじ まで一貫 いっかん して続 つづ いたことが大 おお きい。湯前 ゆのまえ 町 まち にある熊本 くまもと 県 けん 下 か 最古 さいこ の建造 けんぞう 物 ぶつ である[13] 城 じょう 泉 いずみ 寺 てら (現 げん :明 あかり 導 しるべ 寺 てら )や多良木 たらき 町 まち の青蓮寺 しょうれんじ はその代表 だいひょう であり、仏教 ぶっきょう 建築 けんちく や阿弥陀 あみだ 三 さん 尊 みこと 像 ぞう 、法華経 ほけきょう を収 おさ めた銅 どう 製 せい 経 けい 筒 とう などが伝 つた わっている。
南北 なんぼく 朝 あさ の時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
菊池 きくち 武 たけし 時 じ 。菊池 きくち 容斎 ようさい 作 さく 『前賢 ぜんけん 故実 こじつ 』より。
博多 はかた 合戦 かっせん は憎 にく しみ深 ふか く[ 編集 へんしゅう ]
後醍醐天皇 ごだいごてんのう の討幕 とうばく 運動 うんどう に呼応 こおう し 護良親王 もりよししんのう が発 はっ した北条 ほうじょう 高 だか 時 じ 討伐 とうばつ の令旨 れいし は、九州 きゅうしゅう の各 かく 武士 ぶし 団 だん にも届 とど いた。元弘 もとひろ 3/正 せい 慶 けい 2年 ねん (1333年 ねん )初頭 しょとう 、当時 とうじ の菊池 きくち 氏 し 棟梁 とうりょう ・武 たけ 時 とき は、筑後 ちくご の少 しょう 弐 に 貞 さだ 経 けい ・豊後 ぶんご の大友 おおとも 貞宗 さだむね [注 ちゅう 7] とともに鎮西 ちんぜい 探題 たんだい を攻撃 こうげき する密約 みつやく を交 か わし、その準備 じゅんび にかかった。しかし、この計画 けいかく は探題 たんだい の北条 ほうじょう 英時 ひでとき に漏 も れ、英時 ひでとき は彼 かれ らに博多 はかた への出頭 しゅっとう を命 めい じた。同年 どうねん 3月 がつ 12日 にち 菊池 きくち 武 たけし 時 じ は阿蘇 あそ 惟直 これなお らを従 したが い向 む かったが、探題 たんだい から遅参 ちさん を責 せ められた。計画 けいかく 漏洩 ろうえい を察 さっ した武 たけ 時 じ は決起 けっき を働 はたら きかけたが少 しょう 弐 に ・大友 おおとも 両氏 りょうし はこれを拒絶 きょぜつ した。
3月13日 にち 早朝 そうちょう 、菊池 きくち 武 たけし 時 じ ・阿蘇 あそ 惟直 これなお らは決意 けつい を固 かた め手勢 てぜい 150騎 き で探題 たんだい の館 かん に攻 せ め込 こ んだ。しかし少 しょう 弐 に ・大友 おおとも 両氏 りょうし は裏切 うらぎ って探題 たんだい 側 がわ に付 つ き、激戦 げきせん となる。菊池 きくち 勢 ぜい は武 ぶ 時 じ 以下 いか ことごとく討 う ち死 じ にする中 なか 、嫡男 ちゃくなん ・菊池 きくち 武重 たけしげ はかろうじて肥後 ひご へ逃 のが れることができた[14] 。1978年 ねん 、福岡 ふくおか 市 し 地下鉄 ちかてつ 工事 こうじ の際 さい 、博多 はかた 区 く 祇園 ぎおん 町 まち 東長寺 とうちょうじ 前 まえ からおよそ110の頭蓋骨 ずがいこつ が発見 はっけん された。分析 ぶんせき の結果 けっか 14世紀 せいき のものとみられ、博多 はかた 合戦 かっせん で敗 やぶ れさらし首 くび にされた菊池 きくち 一 いち 党 とう の武士 ぶし のものと見 み なされている。
北条 ほうじょう 英時 ひでとき は肥後 ひご 国 こく 守護 しゅご の北条 ほうじょう 高 こう 政 まさし に菊池 きくち ・阿蘇 あそ 氏 し の討伐 とうばつ を命 めい じた。規矩 きく 高 だか 政 せい らが率 ひき いる討伐 とうばつ 軍 ぐん に本拠地 ほんきょち を攻 せ め込 こ まれた両氏 りょうし は現在 げんざい の五ヶ瀬 ごかせ 町 まち にあったと推測 すいそく される日向 ひなた 国 こく 鞍岡 くらおか 城 じょう に逃 に げ込 こ むも攻 せ め入 はい られ、鞍岡 くらおか 山 さん に逃 のが れた一部 いちぶ を除 のぞ き多 おお くが討死 うちじに した。この一連 いちれん の事件 じけん によって、菊池 きくち 氏 し は少 しょう 弐 に ・大友 おおとも 両氏 りょうし に対 たい し、拭 ぬぐ い難 がた い程 ほど 深 ふか い恨 うら みを持 も つこととなった。
建 たて 武 たけし の新政 しんせい と肥後 ひご 武士 たけし [ 編集 へんしゅう ]
このように九州 きゅうしゅう での倒幕 とうばく 運動 うんどう は一 いち 度 ど は失敗 しっぱい に帰 かえ したが、中央 ちゅうおう では足利尊氏 あしかがたかうじ が、鎌倉 かまくら でも新田 にった 義貞 よしさだ が反旗 はんき を翻 ひるがえ した。少 しょう 弐 に ・大友 おおとも 両氏 りょうし も倒幕 とうばく に転 てん じ、鎮西 ちんぜい 探題 たんだい を攻 せ め落 お とした。こうして鎌倉 かまくら 幕府 ばくふ は倒壊 とうかい し、隠岐 おき から京都 きょうと へ戻 もど った後醍醐天皇 ごだいごてんのう の下 した 、公卿 くぎょう や楠木 くすのき 正成 まさしげ ら武士 ぶし が輔弼 ほひつ した天皇 てんのう 親政 しんせい が始 はじ まった。
新 しん 政府 せいふ は政権 せいけん 交替 こうたい の論告 ろんこく において、肥後 ひご 武士 ぶし を高 たか く評価 ひょうか した[注 ちゅう 8] 。菊池 きくち 氏 し 嫡男 ちゃくなん ・武重 たけしげ は肥後守 ひごのかみ の官職 かんしょく を得 え 、武 たけ 敏 さとし (掃部頭 あたま )・武 たけ 茂 しげる ・武 たけ 澄 きよし (肥前 ひぜん 守 もり )ら兄弟 きょうだい も要職 ようしょく を授 さづ けられ顕彰 けんしょう された。阿蘇 あそ 氏 し もまた、北条 ほうじょう 氏 し に奪 うば われていた大 だい 宮司 ぐうじ 任命 にんめい 権 けん を『官 かん 社 しゃ 開放 かいほう 令 れい 』によって取 と り戻 もど し、勢力 せいりょく の回復 かいふく に繋 つな がった。これらは、多 おお くの郎党 ろうとう が無念 むねん の死 し を遂 と げた肥後 ひご 武士 たけし 団 だん の溜飲 りゅういん を下 さ げ、彼 かれ らをして後 のち に「南朝 なんちょう 一辺倒 いっぺんとう 」と言 い われる程 ほど の宮方 みやかた (南朝 なんちょう 方 かた )傾倒 けいとう に駆 か り立 た てる動機 どうき となった。
南朝 なんちょう 一辺倒 いっぺんとう [ 編集 へんしゅう ]
天皇 てんのう 親政 しんせい 下 か の政策 せいさく は、拙速 せっそく な改革 かいかく や朝令暮改 ちょうれいぼかい 、恩賞 おんしょう の不公平 ふこうへい や新 しん 課税 かぜい など多 おお くの問題 もんだい をはらんだもので、親 おや 政権 せいけん は急速 きゅうそく にその支持 しじ を失 うしな っていった。建 たて 武 たけし 2年 ねん (1335年 ねん )足利尊氏 あしかがたかうじ は鎌倉 かまくら で反 はん 親政 しんせい に乗 の り出 だ し、後醍醐天皇 ごだいごてんのう は新田 にった 義貞 よしさだ を討伐 とうばつ に差 さ し向 む けた。天皇 てんのう に近侍 きんじ していた菊池 きくち 武重 たけしげ ・武吉 たけよし 兄弟 きょうだい は「菊池 きくち 千本 せんぼん 槍 やり 」を携 たずさ え、また阿蘇 あそ 惟時 これとき ・惟直 これなお 親子 おやこ も共 とも に新田 しんでん 軍 ぐん に加 くわ わって、箱根 はこね ・竹 たけ ノ下 した の戦 たたか い に参戦 さんせん した。この時 とき 、阿蘇 あそ 親子 ちかこ に向 む けた「後醍醐天皇 ごだいごてんのう 綸旨 りんじ 」が「阿蘇 あそ 家 か 文書 ぶんしょ 」として現存 げんそん している。しかし新田 しんでん 方 かた は破 やぶ れ、京都 きょうと までの退却 たいきゃく をも追 お われた。菊池 きくち 武重 たけしげ は殿軍 でんぐん として足利 あしかが 直義 ただよし を退 しりぞ ける活躍 かつやく を見 み せ、建 たて 武 たけし 3年 ねん /延 のべ 元 もと 元年 がんねん (1336年 ねん )には京都 きょうと ・大渡 おおど 橋 きょう の戦 たたか いでも尊 みこと 氏 し 軍 ぐん を迎撃 げいげき した[15] 。その後 ご 武重 たけしげ は比叡山 ひえいざん に逃 のが れた後醍醐天皇 ごだいごてんのう に付 つ き従 したが い、そのまま軟禁 なんきん された。
足利尊氏 あしかがたかうじ は京都 きょうと で北畠 きたばたけ 顕家 あきいえ に敗北 はいぼく し、態勢 たいせい 建 た て直 なお しのために九州 きゅうしゅう へ逃 のが れた。この際 さい 、九州 きゅうしゅう の有力 ゆうりょく 武士 ぶし 団 だん に軍勢 ぐんぜい 催促 さいそく 状 じょう を送 おく り、武家 ぶけ 政権 せいけん 復活 ふっかつ に期待 きたい を寄 よ せる少 しょう 弐 に 頼 たよ 尚 なお らはこれに従 したが った。しかし、菊池 きくち ・阿蘇 あそ 氏 し は南朝 なんちょう への義理 ぎり に服 ふく した。武重 たけしげ 不在 ふざい を守 まも る菊池 きくち 武敏 たけとし や阿蘇 あそ 大宮 おおみや 司 つかさ 惟直 これなお と惟 おもんみ 成 なり 兄弟 きょうだい は軍 ぐん を率 ひき いて北上 ほくじょう し、優勢 ゆうせい な戦力 せんりょく を背景 はいけい に多々良 たたら 浜 はま の戦 たたか い に臨 のぞ んだがこれに敗 やぶ れ、尊 たかし 氏 し の再 さい 決起 けっき をみすみす許 ゆる した。建 たて 武 たけし 3年 ねん 4月 がつ 3日 にち 、九州 きゅうしゅう 北部 ほくぶ に一色 いっしょく 範 はん 氏 し (道 みち 猷) を、南部 なんぶ に畠山 はたけやま 直 ただし 顕 あきら を置 お き、少 しょう 弐 に 頼 たよ 尚 なお や大友 おおとも 氏 し 泰 やすし らを率 ひき いて尊 たかし 氏 し は大船 おおぶね 団 だん で京 きょう へ出発 しゅっぱつ した。その途上 とじょう 、迎 むか え撃 う つ天皇 てんのう 方 かた を湊川 みなとがわ の戦 たたか い で撃破 げきは し、敗 やぶ れた楠木 くすのき 正成 まさしげ とともに菊池 きくち 武吉 たけよし は切腹 せっぷく して果 は てた[15] 。この後 のち 、尊 たかし 氏 し と、これを避 さ けて吉野 よしの に逃 のが れた後醍醐天皇 ごだいごてんのう による、南北 なんぼく の両統 りょうとう が迭立 する南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい が始 はじ まった。
足利尊氏 あしかがたかうじ ら本 ほん 勢力 せいりょく が九州 きゅうしゅう を離 はな れると、肥後 ひご 武士 たけし 団 だん は抵抗 ていこう を強 つよ めた。尊氏 たかうじ 出発 しゅっぱつ 直後 ちょくご の4月 がつ 13日 にち の安楽寺 あんらくじ (現 げん :玉名 たまな 市 し )や16日 にち の鳥 とり 栖原 すはら (現 げん :西合志 にしごうし 町 まち )で戦 たたか い、今川 いまがわ 助 すけ 時 とき が尊 たかし 氏 し 方 かた として肥後 ひご 国 こく 国府 こくふ に入 はい ると唐川 からかわ (現 げん :菊陽 きくよう 町 まち )で合戦 かっせん を挑 いど んだ。幽閉 ゆうへい 状態 じょうたい を脱 だっ し菊池 きくち 武重 たけしげ が肥 こえ 後 ご に戻 もど ると、建 たて 武 たけし 4年 ねん (1337年 ねん )に挙兵 きょへい 。阿蘇 あそ 惟時 これとき の娘 むすめ 婿 むこ ・阿蘇 あそ 惟澄 これずみ や八 はち 代 だい で地頭 じとう 職 しょく に就 つ いていた名和 なわ 氏 し とも協調 きょうちょう し、犬塚 いぬづか 原 げん (現 げん :御船 みふね 町 まち )で一色 いっしき 頼 よりゆき 行 ぎょう を破 やぶ るなどの行動 こうどう を見 み せた。
その行動 こうどう において「南朝 なんちょう 一辺倒 いっぺんとう 」とも評 ひょう される肥後 ひご 武士 ぶし ではあったが、実態 じったい は必 かなら ずしも一枚岩 いちまいいわ ではなかった。この時期 じき は、所領 しょりょう を嫡男 ちゃくなん に一括 いっかつ 相続 そうぞく させる慣習 かんしゅう が広 ひろ まり、一見 いっけん 遺産 いさん の分散 ぶんさん を防 ふせ ぐこの方法 ほうほう は反面 はんめん 一族 いちぞく 内 ない の争 あらそ いを強 つよ めてしまった。阿蘇 あそ 氏 し は一族 いちぞく が南北 なんぼく 朝 あさ に割 わ れたが、惟直 これなお の死後 しご 大 だい 宮司 ぐうじ に復帰 ふっき していた阿蘇 あそ 惟時 これとき は中立 ちゅうりつ の態度 たいど を貫 つらぬ くことで一族 いちぞく の分裂 ぶんれつ を防 ふせ いだ。
菊池 きくち 氏 し も同 おな じ問題 もんだい を抱 かか えていたが、菊池 きくち 武重 たけしげ は氏族 しぞく を纏 まと める理念 りねん を外部 がいぶ に求 もと め、曹洞宗 そうとうしゅう の僧 そう ・大智 たいち を聖 ひじり 護 まもる 寺 てら に招 まね いて「菊池 きくち 家憲 かけん 」を創 つく った。延 のべ 元 もと 3年 ねん (1338年 ねん )7月 がつ 25日 にち の日付 ひづけ が記 しる されたこの家訓 かくん には血判 けっぱん が押 お され、日本 にっぽん 最初 さいしょ の血判 けっぱん 起請文 きしょうもん とされる。これによると、重要 じゅうよう な政治 せいじ 的 てき 決断 けつだん は惣領 そうりょう が下 くだ すが、政道 せいどう は寄合 よりあい 衆 しゅう (内談 ないだん 衆 しゅ )とよばれる一族 いちぞく の集団 しゅうだん が決定 けってい するとある。しかし、翌年 よくねん 武重 たけしげ は亡 な くなり、後 ご を継 つ いだ弟 おとうと の菊池 きくち 武士 たけし は任 にん に耐 た えられず程 ほど 無 な く引退 いんたい 。さらには本拠 ほんきょ を北 きた 朝方 あさがた の合志 こうし 幸隆 ゆきたか に占領 せんりょう されてしまった。これは阿蘇 あそ 惟澄 これずみ の協力 きょうりょく を得 え た庶子 しょし の菊池 きくち 武光 たけみつ が奪還 だっかん したが、菊池 きくち 氏 し の勢力 せいりょく は衰退 すいたい を見 み せていた。
この状況 じょうきょう にさらに混沌 こんとん をもたらす二 ふた つの存在 そんざい が肥後 ひご 国 こく に向 む かっていた。一人 ひとり 目 め は南朝 なんちょう の征 せい 西 にし 大将軍 だいしょうぐん ・懐 なつけ 良 よ 親王 しんのう であった。親王 しんのう は伊 い 予 よ ・薩摩 さつま を経 へ て、貞和 さだかず 4年 ねん /正平 しょうへい 3年 ねん (1348年 ねん )肥後 ひご の宇土 うと に着 つ いた。迎 むか えた惣領 そうりょう を継 つ いだ菊池 きくち 武光 たけみつ を伴 ともな い、阿蘇 あそ 惟澄 これずみ の所領 しょりょう を通過 つうか して菊池 きくち 氏 し の隈府 わいふ 山 さん に入 はい った。
そして二人 ふたり 目 め は足利 あしかが 直冬 ただふゆ 。足利尊氏 あしかがたかうじ の庶子 しょし ながら父 ちち に疎 うと まれる、叔父 おじ 足利 あしかが 直義 ただよし の養子 ようし になっていた。高師直 こうのもろなお ・師 し 泰 やすし 兄弟 きょうだい と対立 たいりつ していた直義 ただよし は、貞和 さだかず 5年 ねん /正平 しょうへい 4年 ねん (1349年 ねん )直冬 ただふゆ を中国 ちゅうごく 探題 たんだい に任命 にんめい し、中国 ちゅうごく 地方 ちほう に影響 えいきょう 力 りょく を及 およ ぼそうとした。しかし師 し 直 じき は、配下 はいか に直義 ただよし を攻 せ めさせた。この時 とき 、直義 ただよし を助 たす けたのが肥後 ひご 武士 たけし ・河 かわ 尻 しり 幸 さいわい 俊 しゅん だった。河 かわ 尻 しり 氏 し は、源 みなもと 高明 こうめい の孫 まご ・実 じつ 明 あかり を源流 げんりゅう とし、飽田 あきた 南郷 なんごう 川尻 かわじり (現 げん :熊本 くまもと 市 し )にあった国衙 こくが 役人 やくにん の系統 けいとう にある清和 せいわ 源 はじめ 姓 せい の一族 いちぞく とされる。鎌倉 かまくら 時代 じだい 中期 ちゅうき には、河 かわ 尻 しり 泰明 やすあき が寒 かん 巌 いわお 義 よし 尹 いん を招 まね いて大慈寺 だいじじ を開山 かいさん し、朝廷 ちょうてい や北条 ほうじょう 氏 し との関係 かんけい を設 もう けて勢力 せいりょく を伸 の ばした。肥後 ひご 国 こく の中 なか では北朝 ほくちょう に属 ぞく していた。
河 かわ 尻 しり 幸 さいわい 俊 しゅん に招 まね かれ肥後 ひご に入 はい った足利 あしかが 直冬 ただふゆ は、幕府 ばくふ の威 い を借 か りて九州 きゅうしゅう の武士 ぶし 団 だん に指揮 しき 下 か に集結 しゅうけつ する呼 よ びかけを行 おこな い、また所領 しょりょう 安堵 あんど などを与 あた えた。その一方 いっぽう で肥後 ひご の探題 たんだい 方 かた に与 くみ する勢力 せいりょく を攻略 こうりゃく し、観 かん 応 おう 元年 がんねん (1350年 ねん )大宰府 だざいふ に入 はい った。足利尊氏 あしかがたかうじ や高師直 こうのもろなお らは直冬 ただふゆ 討伐 とうばつ 令 れい を発 はっ した。そして、菊池 きくち には南朝 なんちょう の懐 ふところ 良 りょう 親王 しんのう が在 ましま した。こうして、元号 げんごう でも正平 しょうへい ・観 かん 応 おう ・貞和 さだかず (足利 あしかが 直義 ただよし が用 もち いた)の三 みっ つが並 なら ぶ、肥後 ひご 版 ばん 観 かん 応 おう の擾乱 じょうらん を特色 とくしょく づける三 さん 勢力 せいりょく の鼎立 ていりつ 状態 じょうたい に突入 とつにゅう した。
観 かん 応 おう 2年 ねん (1351年 ねん )2月 がつ 高師直 こうのもろなお ・師 し 泰 たい が権力 けんりょく 闘争 とうそう に敗 やぶ れ殺 ころ されると、足利 あしかが 直義 ただよし は権力 けんりょく を掌握 しょうあく し、直冬 ただふゆ 方 かた は勢 いきお いを得 え た。直冬 ただふゆ は鎮西 ちんぜい 探題 たんだい に、河 かわ 尻 しり 幸 さいわい 俊 しゅん は肥後 ひご 国 こく 守護 しゅご に就任 しゅうにん した。一色 いっしょく 氏 し は宮方 みやかた と一時 いちじ 協定 きょうてい を結 むす び、菊池 きくち 武光 たけみつ らは筑後 ちくご に進 すす んで直冬 ただふゆ 方 かた と激 はげ しく戦 たたか った。しかし同年 どうねん 正平 しょうへい 一統 いっとう が成 な り、翌年 よくねん に直義 ただよし が殺害 さつがい されると、同様 どうよう に勢 いきお いを失墜 しっつい した足利 あしかが 直冬 ただふゆ は九州 きゅうしゅう から逃 のが れ、三 み つ巴 どもえ の状態 じょうたい は終 お わった。
筑後川 ちくごがわ の戦 たたか い[ 編集 へんしゅう ]
直冬 ただふゆ 逃亡 とうぼう によって再 ふたた び南北 なんぼく 朝 あさ 対峙 たいじ の状態 じょうたい に戻 もど った九州 きゅうしゅう では、探題 たんだい 方 かた 対 たい 佐 さ 殿方 とのがた の内紛 ないふん を尻目 しりめ に宮方 みやかた は勢 いきお いを強 つよ めていた。懐 なつけ 良 よ 親王 しんのう の威光 いこう に加 くわ え、合戦 かっせん を指揮 しき した菊池 きくち 武光 たけみつ のカリスマ性 せい もあり、肥後 ひご はふたたび「南朝 なんちょう 一辺倒 いっぺんとう 」となった。文和 ふみかず 2年 ねん /正平 しょうへい 8年 ねん (1353年 ねん )筑前 ちくぜん に攻 せ め入 はい った宮方 みやかた は観 かん 応 おう の擾乱 じょうらん で一色 いっしき 直 ただし 氏 し 軍 ぐん を破 やぶ り、翌々年 よくよくねん には博多 はかた を攻略 こうりゃく した。一色 いっしょく 範 はん 氏 し ・直 ただし 氏 し 親子 おやこ は九州 きゅうしゅう を脱 だっ した。
こうなると、少 しょう 弐 に 氏 し や大友 おおとも 氏 し など九州 きゅうしゅう 探題 たんだい の一色 いっしょく 氏 し と対立 たいりつ していた旧 きゅう 守護 しゅご 派 は は宮方 みやかた と手 て を結 むす ぶ必要 ひつよう が無 な くなり、再 ふたた び対立 たいりつ するようになった。延 のべ 文 ぶん 3年 ねん /正平 しょうへい 13年 ねん (1358年 ねん )大友 おおとも 氏 し 時 じ は挙兵 きょへい し、少 しょう 弐 に 頼 よりゆき 尚 なお も呼応 こおう して菊池 きくち 氏 し 本拠 ほんきょ を目指 めざ した。菊池 きくち 武光 たけみつ は五条 ごじょう 頼光 よりみつ などを集 あつ めて北上 ほくじょう し、頼 よりゆき 尚 なお も龍造寺 りゅうぞうじ 氏 し ・深堀 ふかほり 氏 し ・松浦 まつうら 党 とう などと結集 けっしゅう しこれを迎 むか え、翌年 よくねん 両 りょう 軍 ぐん は筑後川 ちくごがわ の戦 たたか い で激突 げきとつ した。7月19日 にち に始 はじ まった戦闘 せんとう は、8月 がつ 6日 にち 宮方 みやかた の夜襲 やしゅう で決 けっ した。双方 そうほう かなりの痛手 いたで を負 お ったが、少 しょう 弐 に 軍 ぐん は敗退 はいたい して以後 いご 衰退 すいたい し、菊池 きくち 氏 し は博多 はかた 合戦 かっせん の恨 うら みを晴 は らした。
征 せい 西府 にしふ の成立 せいりつ と崩壊 ほうかい [ 編集 へんしゅう ]
康 かん 安 やすし 元年 がんねん /正平 しょうへい 16年 ねん (1361年 ねん )、懐 なつけ 良 よ 親王 しんのう は宇土 うど 到着 とうちゃく から18年 ねん を経 へ て大宰府 だざいふ に入 はい り、征 せい 西府 にしふ を置 お いて北部 ほくぶ 九州 きゅうしゅう を掌握 しょうあく した。その政治 せいじ 機構 きこう は、父 ちち ・少 しょう 弐 に 頼 たよ 尚 なお に背 そむ いて南 みなみ 朝方 あさがた に着 つ いていた少 しょう 弐 に 頼 よりゆき 澄 きよし を筆頭 ひっとう とする12人 にん の府 ふ 官 かん によって成 な ったが、実際 じっさい は肥後 ひご 守護 しゅご となった菊池 きくち 武光 たけみつ ら菊池 きくち 一族 いちぞく が握 にぎ った。この頃 ころ には中央 ちゅうおう での南朝 なんちょう 勢力 せいりょく は衰 おとろ えていたため、征 せい 西府 にしふ は幕府 ばくふ から独立 どくりつ した軍事 ぐんじ 政権 せいけん の様相 ようそう を帯 お びた。これは明 あきら や高麗 こうらい との国交 こっこう において顕著 けんちょ で、貿易 ぼうえき 権 けん の掌握 しょうあく や、倭 やまと 寇取締 とりしま りを求 もと める明 あかり からの使節 しせつ が征 せい 西府 にしふ に赴 おもむ いたところや、明 あかり が「良 りょう 懐 ふところ 」すなわち懐 なつけ 良 よ 親王 しんのう を「日本 にっぽん 正 ただし 君 くん 」に冊 さつ 封 ふう したところからも窺 うかが える。
当然 とうぜん の成 な り行 ゆ きながら足利 あしかが 幕府 ばくふ は征 せい 西府 にしふ を認 みと めず、肥後 ひご 守護 しゅご に大友 おおとも 氏 し 時 じ を任 にん じ、そして後任 こうにん に阿蘇 あそ 惟澄 これずみ を推 お すなど南 みなみ 朝方 あさがた の内部 ないぶ 瓦解 がかい を画策 かくさく するなどの行動 こうどう を取 と っていた。そして応 おう 安 やす 3年 ねん /建徳 けんとく 元年 がんねん (1370年 ねん )幕府 ばくふ は実効 じっこう 的 てき な手 て を打 う ち、今川 いまがわ 貞世 さだよ (了俊 りょうしゅん )を九州 きゅうしゅう 探題 たんだい に任命 にんめい し、中国 ちゅうごく 地方 ちほう の武士 ぶし 団 だん を引 ひ き連 つ れ、九州 きゅうしゅう でかつての北朝 ほくちょう 勢力 せいりょく をも懐柔 かいじゅう して大宰府 だざいふ に攻 せ め込 こ んだ。大友 おおとも 氏 し や松浦 まつうら 党 とう などを配下 はいか に収 おさ めた貞世 さだよ の、多方面 たほうめん からの攻撃 こうげき を受 う けた懐 ふところ 良 りょう 親王 しんのう ・菊池 きくち 武光 たけみつ らの征 せい 西府 にしふ は応 おう 安 やす 5年 ねん /文中 ぶんちゅう 元年 がんねん (1372年 ねん )墜 お ちた。この後 のち 二 に 年間 ねんかん は筑後川 ちくごがわ 流域 りゅういき を戦場 せんじょう に争 あらそ ったが、武 たけ 光 ひかり そして菊池 きくち 武政 たけまさ が亡 な くなり、宮方 みやかた は肥後 ひご まで押 お し戻 もど された。
武政 たけまさ が築 きず いたとも言 い われる本拠 ほんきょ ・菊池 きくち 城 しろ [16] に篭 こも った宮方 みやかた は、今川 いまがわ 貞世 さだよ に完全 かんぜん に取 と り囲 かこ まれていた。さらに貞世 さだよ は九州 きゅうしゅう 三 さん 人 にん 衆 しゅ と呼 よ ばれた島津 しまつ 氏久 うじひさ ・大友 おおとも 親世 ちかよ ・少 しょう 弐 に 冬 ふゆ 資 し にも参戦 さんせん を命 めい じ、菊池 きくち 氏 し の殲滅 せんめつ を図 はか った。しかしここで不可解 ふかかい なことが起 お こる。当初 とうしょ 消極 しょうきょく 的 てき な態度 たいど を見 み せた少 しょう 弐 に 冬 ふゆ 資 し が島津 しまつ 氏久 うじひさ に説得 せっとく されて参 さん 陣 じん すると、貞世 さだよ は冬 ふゆ 資 し を殺害 さつがい する挙 きょ に出 で た(水島 みずしま の変 へん )。氏久 うじひさ は怒 いか り、以後 いご 反 はん 貞世 さだよ に態度 たいど を転 てん じた。このような混乱 こんらん は宮方 みやかた でも起 お こっていた。懐 なつけ 良 よ 親王 しんのう は亡 な き武政 たけまさ の嫡男 ちゃくなん ・菊池 きくち 武 たけし 朝 あさ と意見 いけん が衝突 しょうとつ し、征 せい 西 にし 将軍 しょうぐん 職 しょく を辞 じ した。武 ぶ 朝 あさ は後任 こうにん の良成 よしなり 親王 しんのう を奉 ほう じて肥前 ひぜん に攻 せ め込 こ んだが敗退 はいたい 。肥後 ひご の臼 うす 間野 まの ・大水 おおみず (玉名 たまな 郡 ぐん 南関 なんかん 町 まち )でも大敗 たいはい した。
反抗 はんこう を見 み せる島津 しまつ 氏 し を、薩摩 さつま の国人 くにびと に一揆 いっき を起 お こさせ封 ふう じた今川 いまがわ 貞世 さだよ は、菊池 きくち 氏 し との争 あらそ いに決着 けっちゃく をつけるべく戦力 せんりょく を結集 けっしゅう した。永和 えいわ 4年 ねん /天授 てんじゅ 4年 ねん (1378年 ねん )、中国 ちゅうごく 勢 ぜい も従 したが え隈本 くまもと ・藤崎 ふじさき に陣 じん を構 かま えた貞世 さだよ は菊池 きくち への兵糧 ひょうろう 攻 ぜ めを行 おこな った。奇襲 きしゅう に討 う って出 で た菊池 きくち 武 たけし 朝 あさ は詫 わび 麻原 あさはら の戦 たたか いに勝利 しょうり するも焼 や け石 いし に水 みず 。永 えい 徳 いさお 元年 がんねん /弘和 ひろかず 元年 がんねん (1381年 ねん )には菊池 きくち 城 じょう や木野 この 城 じょう など菊池 きくち 氏 し 勢力 せいりょく 下 か の各 かく 城 しろ が落 お ち、武 たけ 朝 ちょう は南 みなみ へ逃 のが れた。貞世 さだよ は軍 ぐん を進 すす めて河 かわ 尻 しり ・宇土 うと を次々 つぎつぎ に占領 せんりょう し、明徳 めいとく 2年 ねん /元 もと 中 なか 8年 ねん (1391年 ねん )には名和 なわ 氏 し の八 はち 代 だい を攻略 こうりゃく した。そして翌年 よくねん 、中央 ちゅうおう で明徳 めいとく の和 わ 約 やく が成 な ったことを契機 けいき に武 ぶ 朝 あさ は降伏 ごうぶく し、今川 いまがわ 貞世 さだよ の肥後 ひご 制圧 せいあつ は完了 かんりょう した。今川 いまがわ 貞世 さだよ は菊池 きくち 氏 し の本領 ほんりょう を安堵 あんど し武 ぶ 朝 あさ を肥後 ひご 国 こく 守護 しゅご 代 だい に任命 にんめい するなど九州 きゅうしゅう 勢力 せいりょく の掌握 しょうあく に努 つと めたが、かえってこれは征 せい 西府 にしふ 再現 さいげん を狙 ねら っているのではという将軍 しょうぐん 足利 あしかが 義満 よしみつ の嫌疑 けんぎ を生 う み、応 おう 永 ひさし 2年 ねん (1395年 ねん )貞世 さだよ は罷免 ひめん された。
菊池 きくち 氏 し の盛衰 せいすい [ 編集 へんしゅう ]
今川 いまがわ 貞世 さだよ が去 さ り渋川 しぶかわ 満 みつる 頼 よりゆき が九州 きゅうしゅう 探題 たんだい に就 つ くと、菊池 きくち 氏 し はまたも反逆 はんぎゃく の姿勢 しせい を顕 あらわ わにした。しかし、続 つづ く断続 だんぞく 的 てき な戦乱 せんらん の中 なか 菊池 きくち 氏 し は段々 だんだん と衰 おとろ え、代 か わって詫 わび 磨 すり 満 まん 親 おや が勢力 せいりょく を伸 の ばした。しかしこれも一時期 いちじき なもので、南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい に名 な を馳 は せた河 かわ 尻 しり 氏 し とともに応 おう 永年 えいねん 間 あいだ には目立 めだ った活躍 かつやく を見 み せなくなった。
菊池 きくち 氏 し は一時 いちじ 的 てき に勢 いきお いを取 と り戻 もど す。菊池 きくち 兼 けん 朝 あさ は肥後 ひご 守護 しゅご 職 しょく に任 にん ぜられたものの、阿蘇 あそ 氏 し や相良 さがら 氏 し の勢力 せいりょく 圏 けん にまでは守護 しゅご の権力 けんりょく を及 およ ぼすことはできず、一 いち 国 こく を支配 しはい するだけの権力 けんりょく を打 う ち立 た てられず、菊池 きくち 氏 し の歴代 れきだい 守護 しゅご を悩 なや ませることになった[2- 5] 。永 えい 享 とおる 3年 ねん (1431年 ねん )菊池 きくち 持朝 もちとも の代 だい になると親 おや 幕府 ばくふ の態度 たいど を表 あらわ し、筑後 ちくご ・肥後 ひご の守護 しゅご に任 にん じられた。菊池 きくち 城下 じょうか は隈本 くまもと に代 か わり守護 しゅご 所 しょ (隈府 わいふ )となった。次代 じだい の為 ため 邦 くに は日 にち 朝 ちょう 貿易 ぼうえき に乗 の り出 だ し、また城下 じょうか に玉祥寺 ぎょくしょうじ や碧 あお 巌 いわお 寺 てら を建立 こんりゅう するなど、その富 とみ と徳 とく は褒 ほ め称 とな えられた。しかし後半 こうはん 生 せい には筑後 ちくご 守護 しゅご 職 しょく を大友 おおとも 氏 し に奪 うば われて日 にち 朝 ちょう 貿易 ぼうえき が不可能 ふかのう となり、相良 さがら 氏 し の八 はち 代 だい 進出 しんしゅつ にも無策 むさく のままで終 お わった。これが菊池 きくち 氏 し 衰退 すいたい の始 はじ まりとされる。
次代 じだい 菊池 きくち 重朝 しげとも は守護 しゅご 職 しょく も継承 けいしょう し、公権力 こうけんりょく を用 もち いた菊池 きくち 城下 じょうか の整備 せいび を行 おこな い、菊池 きくち 五山 ごさん や城下町 じょうかまち の形成 けいせい がこの頃 ころ 行 おこな われた[2- 6] 。重朝 しげとも はまた、文化 ぶんか 人 じん としての業績 ぎょうせき も残 のこ した。重臣 じゅうしん の隈部 くまべ 忠直 ただなお とともに建立 こんりゅう し、招 まね かれた桂庵 けいあん 玄 げん 樹 じゅ が詠 よ んだ漢詩 かんし に残 のこ される孔子 こうし 堂 どう 。藤崎 ふじさき 八 はち 旛宮 の造営 ぞうえい 。また連歌 れんが の会 かい も多 おお く催 もよお した。文明 ぶんめい 13年 ねん (1481年 ねん )8月 がつ に興行 こうぎょう した万 まん 句 く 連歌 れんが は、後 のち に書写 しょしゃ されたものが伝 つた わり、会 かい の参加 さんか 者 しゃ を知 し ることが出来 でき る。それによるとほとんどが肥後 ひご 北部 ほくぶ の者 もの で、菊池 きくち 氏 し 系 けい の有力 ゆうりょく 庶氏は加 くわ わっていない。また、半数 はんすう は菊池 きくち 氏 し の直 ちょく 臣 しん の名 な が見 み られ、特 とく に隈部 くまべ 氏 し からは多 おお くの出席 しゅっせき が見 み られる。この頃 ころ 、菊池 きくち 氏 し 勢力 せいりょく 下 か の政務 せいむ は隈部 くまべ 氏 し ・赤星 あかほし 氏 し ・城 じょう 氏 し (藤原 ふじわら 姓 せい ) が家老 がろう 家 か として執 と り行 おこな い、かつて「菊池 きくち 家憲 かけん 」で定 さだ められた合議 ごうぎ 制 せい は影 かげ も形 かたち も無 な かった。重朝 しげとも が亡 な くなった明 あかり 応 おう 2年 ねん (1493年 ねん )、菊池 きくち 惣領 そうりょう は嫡子 ちゃくし 能 のう 運 うん が継 ままし いだが、彼 かれ が最後 さいご の菊池 きくち 本家 ほんけ 嫡流 ちゃくりゅう となった。
阿蘇 あそ 氏 し の分裂 ぶんれつ 、矢部 やべ 郷 さと に拠点 きょてん を移 うつ す。「浜 はま の館 かん 」の隆盛 りゅうせい [ 編集 へんしゅう ]
一方 いっぽう 、阿蘇 あそ 氏 し は一族 いちぞく 分断 ぶんだん の危機 きき に晒 さら されていた。阿蘇 あそ 惟澄 これずみ は一時 いちじ 北朝 ほくちょう にも付 つ いた嫡男 ちゃくなん ・惟村 これむら に大 だい 宮司 ぐうじ を継 つ がせたが、弟 おとうと の惟武 これたけ はこれを不服 ふふく として征 せい 西府 にしふ に訴 うった え出 で て認 みと められ、貞治 さだはる 6年 ねん /正平 しょうへい 22年 ねん (1367年 ねん )大 だい 宮司 ぐうじ の補任 ほにん を受 う けた。この時 とき から阿蘇 あそ 一族 いちぞく はふたつの系列 けいれつ に分 わ かれて対立 たいりつ を始 はじ めた。
阿蘇 あそ 惟村 これむら – 惟 おもんみ 郷 きょう – 惟 おもんみ 忠 ただし は矢部 やべ に本拠 ほんきょ を置 お き九州 きゅうしゅう 探題 たんだい や大友 おおとも 氏 し の支持 しじ を得 え ていたが、阿蘇 あそ 神社 じんじゃ 領 りょう を配下 はいか に置 お き菊池 きくち 氏 し に支援 しえん された惟武 これたけ – 惟政 これまさ – 惟 おもんみ 兼 けん を抑 おさ えられなかった。応 おう 永 ひさし 11年 ねん (1404年 ねん )には惟 おもんみ 郷 きょう が攻 せ め入 い り、同族 どうぞく での合戦 かっせん となった。この時 とき には幕府 ばくふ が仲裁 ちゅうさい に入 はい った。その後 ご も争 あらそ いは続 つづ いたが、宝 たから 徳 いさお 3年 ねん (1451年 ねん )一族 いちぞく 長老 ちょうろう らの決議 けつぎ により惟 おもんみ 兼 けん の子 こ ・惟 おもんみ 歳 とし を惟 おもんみ 忠 ちゅう の養子 ようし として両統 りょうとう の一本 いっぽん 化 か を図 はか った。しかし、惟 おもんみ 忠 ちゅう は実権 じっけん を手放 てばな さなかったため、文明 ぶんめい 17年 ねん (1485年 ねん )惟 おもんみ 歳 とし とその子 こ ・大宮 おおみや 司 つかさ 惟 おもんみ 家 か は相良 さがら 氏 し の助力 じょりょく を受 う け、一方 いっぽう の惟 おもんみ 忠 ちゅう と子 こ ・惟 おもんみ 憲 けん は守護 しゅご 菊池 きくち 重朝 しげとも の支援 しえん を取 と り付 つ けて幕 まく の平 ひらた (現 げん :上益城 かみましき 郡 ぐん 山都 やまと 町 まち 杉木 すぎき ・山田 やまだ )で激突 げきとつ した。戦 たたか いは惟 おもんみ 忠 ちゅう と惟 おもんみ 憲 けん 側 がわ の勝利 しょうり (幕 まく の平 ひら 合戦 かっせん )に終 お わった。
人吉 ひとよし と八 はち 代 だい [ 編集 へんしゅう ]
南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい 、球磨 くま 地方 ちほう の相良 さがら 氏 し は多良木 たらぎ の上 うえ 相良 さがら と人吉 ひとよし の下 した 相良 さがら に分 わ かれ、阿蘇 あそ 氏 し のような対立 たいりつ を繰 く り返 かえ していた。この膠着 こうちゃく 状態 じょうたい に決着 けっちゃく をつけ当地 とうち の統一 とういつ を成 な したのは、文 ぶん 安 やす 5年 ねん (1448年 ねん )上 じょう 相良 さがら を滅 ほろ ぼした相良 さがら (永留 ながどめ )長 ちょう 続 つづけ だった[2- 7] 。だがこの実態 じったい は庶家による下克上 げこくじょう とみなされている。長 ちょう 続 つづけ は守護 しゅご ・菊池 きくち 為 ため 邦 ほう から葦北 いほく 郡 ぐん の領有 りょうゆう 権 けん を獲得 かくとく し、寛 ひろし 正 ただし 4年 ねん (1463年 ねん )には名和 なわ 顕 あらわ 忠 ちゅう 助力 じょりょく の引 ひ き換 か えに、高田郷 こうだごう (現 げん :八代 やしろ 市 し 南部 なんぶ )も領地 りょうち に加 くわ えた。
相良 さがら 氏 し の援助 えんじょ を受 う け八 はち 代 だい 城 じょう に戻 もど った名和 なわ 顕 あらわ 忠 ちゅう は、しかし高田郷 こうだごう を惜 お しみ、文明 ぶんめい 8年 ねん (1476年 ねん )薩摩 さつま の牛 うし 屎院へ出兵 しゅっぺい した相良 さがら 氏 し の隙 すき を突 つ いて高田郷 こうだごう に攻 せ め込 こ んだ。長 ちょう 続 つづけ の嫡子 ちゃくし 相良 さがら 為 ため 続 つづけ は天草 てんぐさ 領主 りょうしゅ を味方 みかた に引 ひ き込 こ み防 ふせ いだ。文明 ぶんめい 14年 ねん (1482年 ねん )ふたたび顕 あらわ 忠 ちゅう が攻 せ めると、またも天草 あまくさ 衆 しゅう と共同 きょうどう して為 ため 続 つづけ はこれを撥 は ね返 かえ すと、そのまま八 はち 代 だい を攻撃 こうげき し2年 ねん 後 ご には制圧 せいあつ に成功 せいこう した。勢 いきお いを借 か りて豊福 とよふく (現 げん :宇城市 し 、旧 きゅう 松橋 まつはし 町 まち )まで進出 しんしゅつ した。だが、明 あきら 応 おう 8年 ねん (1499年 ねん )には菊池 きくち 能 のう 運 うん の助力 じょりょく を得 え た名和 なわ 氏 し に敗退 はいたい し、松橋 まつはし ・八 はち 代 だい を手放 てばな して球磨 くま へ引 ひ き戻 もど った。
島々 しまじま に拠 よ る武士 ぶし 団 だん [ 編集 へんしゅう ]
天草 あまくさ 地方 ちほう の武士 ぶし 団 だん は、ほぼ島々 しまじま ごとに群 ぐん 拠 よりどころ した。鎌倉 かまくら 時代 じだい 前期 ぜんき には、天草 あまくさ 下島 しもじま 西北 せいほく 部 ぶ の菊池 きくち 氏 し 系 けい とされる地頭 じとう 職 しょく 志岐 しき 氏 し 、本 ほん 砥 とぎ 島 とう (下島 しもじま の中 なか 南部 なんぶ )の大蔵 おおくら 氏 し 系 けい とされる天草 あまくさ 氏 し 、『蒙 こうむ 古 こ 襲来 しゅうらい 絵詞 えことば 』にその活躍 かつやく を記 しる された大矢野島 おおやのしま の大矢野 おおやの 氏 し が知 し られる。志岐 しき 氏 し が地頭 じとう 職 しょく を得 え たのは元 もと 久 ひさ 2年 ねん (1205年 ねん )に始 はじ まるとされ、当地 とうち では新興 しんこう の勢力 せいりょく であった[17] ため、北条 ほうじょう 氏 し や探題 たんだい ・一色 いっしき 氏 し と結 むす ぶなど、その時々 ときどき の権力 けんりょく 者 しゃ との繋 つな がりを得 え て勢力 せいりょく 維持 いじ に努 つと めた。天草 あまくさ 氏 し は、承 うけたまわ 平 ひら 天 てん 慶 けい の乱 らん で活躍 かつやく した大蔵 おおくら 春 はる 実 み の末裔 まつえい とされ、貞 さだ 永 なが 2年 ねん (1233年 ねん )原田 はらだ 種 たね 直 ただし の女子 じょし ・播磨 はりま 局 きょく が本 ほん 砥 とぎ 島 とう の地頭 じとう 職 しょく を継承 けいしょう したことに始 はじ まる[18] 。大蔵 おおくら 氏 し 系 けい とされる大矢野 おおやの 氏 し は、元 もと 寇での記録 きろく 以降 いこう 、その活動 かつどう は不明 ふめい だった。
室町 むろまち 中期 ちゅうき には、天草 あまくさ 地方 ちほう を舞台 ぶたい とする騒乱 そうらん が始 はじ まる。名和 なわ 顕 あきら 忠 ちゅう を挟 はさ み展開 てんかい した菊池 きくち 氏 し と相良 さがら 氏 し の争 あらそ いは天草 あまくさ 諸 しょ 武士 ぶし を巻 ま き入 い れ、菊池 きくち 方 かた として活躍 かつやく した天草 あまくさ 上島 うえしま の栖本 すもと 氏 し の記録 きろく が残 のこ る。またこの頃 ころ には天草 あまくさ 氏 し の勢力 せいりょく が強 つよ まり、志岐 しき 氏 し や上津浦 こうつうら 氏 し を圧迫 あっぱく した。これは守護 しゅご ・菊池 きくち 能 のう 運 うん の仲裁 ちゅうさい で一旦 いったん 鎮 しず まったが、戦国 せんごく 期 き にはふたたび戦乱 せんらん を起 お こすこととなる。
肥後 ひご の戦国 せんごく 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
菊池 きくち 氏 し 正系 せいけい の断絶 だんぜつ [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん の戦国 せんごく 時代 じだい は明 あかり 応 おう の政変 せいへん (1493年 ねん )あるいは応仁 おうにん の乱 らん (1467年 ねん )を始期 しき とするが、肥後 ひご 国 こく では菊池 きくち 能 のう 運 うん が死去 しきょ した永 えい 正 ただし 元年 がんねん (1504年 ねん )に始 はじ まるとされる。
阿蘇 あそ 氏 し が最盛 さいせい 期 き を迎 むか える[ 編集 へんしゅう ]
阿蘇 あそ 氏 し の内部 ないぶ 紛争 ふんそう である馬門 まかど 原 ばら の戦 たたか い (別名 べつめい 、幕 まく の平 ひら 合戦 かっせん 場所 ばしょ :山都 やまと 町 まち 杉木 すぎき 付近 ふきん )に菊池 きくち 重朝 しげとも が介入 かいにゅう して破 やぶ れてから、菊池 きくち 氏 し の支配 しはい 域 いき 減少 げんしょう と指導 しどう 性 せい 低下 ていか は顕著 けんちょ だった。家督 かとく を継 つ いだ重朝 しげとも の子 こ ・能 のう 運 うん は直 ちょく 臣 しん の反抗 はんこう に遭 あ い、文 ぶん 亀 かめ 元年 がんねん (1501年 ねん )島原 しまばら に亡命 ぼうめい 、一族 いちぞく は合議 ごうぎ の末 すえ 宇土 うど 為 ため 光 こう を守護 しゅご に据 す えた[注 ちゅう 9] 。2年 ねん 後 ご 能 のう 運 うん は阿蘇 あそ 氏 し や相良 さがら 氏 し らと連携 れんけい し、天草 あまくさ 氏 し らの支援 しえん も取 と り付 つ けて隈府 わいふ 奪回 だっかい に成功 せいこう したが、戦傷 せんしょう が元 もと で翌年 よくねん 死去 しきょ した。能 のう 運 うん には子 こ がおらず、相続 そうぞく 争 あらそ いが勃発 ぼっぱつ した。
その後 ご 、阿蘇 あそ 氏 し は矢部 やべ を拠点 きょてん に勢力 せいりょく を拡大 かくだい 。隆盛 りゅうせい を極 きわ めていく。
菊池 きくち 氏 し の衰退 すいたい [ 編集 へんしゅう ]
能 のう 運 うん の遺言 ゆいごん に基 もと づき菊池 きくち 重安 しげやす の子 こ 政隆 まさたか が当主 とうしゅ となったが、これに反発 はんぱつ する一族 いちぞく は、菊池 きくち 氏 し に代 か わって勢力 せいりょく をつけてきた阿蘇 あそ 氏 し ・大宮 おおみや 司 つかさ 阿蘇 あそ 惟 おもんみ 長 ちょう (菊池 きくち 武 たけし 経 けい )を後継 こうけい ・守護 しゅご 職 しょく に推 お した。永 えい 正 ただし 3年 ねん (1506年 ねん )、惟 おもんみ 長 ちょう の背後 はいご から肥後 ひご 掌握 しょうあく を画策 かくさく していた大友 おおとも 氏 し が兵 へい を率 ひき いて直接 ちょくせつ 介入 かいにゅう し、菊池 きくち 城 じょう に入 はい った阿蘇 あそ 惟 おもんみ 長 ちょう は大 だい 宮司 ぐうじ を弟 おとうと の惟 おもんみ 豊 ゆたか に譲 ゆず り、菊池 きくち 武 たけし 経 けい を名乗 なの り当主 とうしゅ の座 ざ についた。政隆 まさたか は逃亡 とうぼう し玉名 たまな や島原 しまばら で抵抗 ていこう を続 つづ けるが3年 ねん 後 ご に捕縛 ほばく され、久米 くめ 安国寺 あんこくじ (菊池 きくち 郡 ぐん 泗水 しすい 町 まち )で自害 じがい した。しかし、惟 おもんみ 長 ちょう 改 あらた め菊池 きくち 武 たけし 経 けい は驕慢 きょうまん で、家臣 かしん からの支持 しじ を受 う けられずわずか3年 ねん で地位 ちい を解 と かれた。この背景 はいけい には、黒幕 くろまく 大友 おおとも 親 ちかし 治 ち の意向 いこう に添 そ えなかったためとの説 せつ [2- 8] や大友 おおとも 氏 し が菊池 きくち 家 か 乗 の っ取 と りと肥後 ひご を支配 しはい するために惟 おもんみ 長 ちょう (武 たけ 経 けい )を使 つか い捨 す てにするつもりだったとする説 せつ [2- 9] がある。菊池 きくち 惣領 そうりょう には、詫 わび 磨 みがく 氏 し から菊池 きくち 武 たけし 包 つつみ が擁立 ようりつ されたが、これは形 かたち ばかりのものだった[注 ちゅう 10] 。
菊池 きくち 氏 し 滅亡 めつぼう [ 編集 へんしゅう ]
菊池 きくち 氏 し 正系 せいけい 断絶 だんぜつ の際 さい に策略 さくりゃく を巡 めぐ らした大友 おおとも 親 ちかし 治 ち ・義鑑 よしあき らの目的 もくてき は、菊池 きくち 家 か 乗 の っ取 と りと肥後 ひご 支配 しはい にあった。永 えい 正 ただし 17年 ねん (1520年 ねん )義鑑 よしあき の弟 おとうと 大友 おおとも 義武 よしたけ が菊池 きくち 姓 せい を名乗 なの り家督 かとく を継 つ いだ。しかし隈府 わいふ には入 はい らず、隈 くま 本城 ほんじょう を本拠 ほんきょ とした、彼 かれ を輔弼 ほひつ したのは、鹿子木 かのこぎ 親 ちかし 員 いん ・本郷 ほんごう 長 ちょう 賢 けん ・田島 たじま 重賢 しげかた など飽田 あきた ・詫 わび 麻 お 郡 ぐん の武士 ぶし だった。特 とく に鹿子木 かのこぎ 親 ちかし 員 いん は国内 こくない の紛争 ふんそう 調停 ちょうてい に活躍 かつやく し、また藤崎 ふじさき 宮 みや 再建 さいけん の奏請 そうせい や連歌 れんが 師 し との交流 こうりゅう など、文人 ぶんじん 武将 ぶしょう としての能力 のうりょく も発揮 はっき した。
大友 おおとも 氏 し が目指 めざ す肥後 ひご 支配 しはい の一環 いっかん だった菊池 きくち 義武 よしたけ は、やがて独自 どくじ 色 しょく を強 つよ めていった。これは、天文 てんもん 2年 ねん (1533年 ねん )九州 きゅうしゅう 北部 ほくぶ を狙 ねら う大内 おおうち 義隆 よしたか が提示 ていじ した筑後 ちくご 守護 しゅご 職 しょく に誘 さそ われ出兵 しゅっぺい したことで明白 めいはく となり、大友 おおとも 本家 ほんけ 当主 とうしゅ の兄 あに ・義鑑 よしあき の激怒 げきど を買 か った。義鑑 よしあき は肥後 ひご に攻 せ め入 い り、義武 よしたけ は島原 しまばら を経 へ て相良 さがら 晴 はれ 広 ひろ の下 した へ逃 に げ込 こ んだ。義鑑 よしあき は大内 おおうち 氏 し との和睦 わぼく に応 おう じた後 のち 、天文 てんもん 12年 ねん (1543年 ねん )には肥後 ひご 守護 しゅご 職 しょく に就 つ き、肥後 ひご の大方 おおかた を支配 しはい した。しかし天文 てんもん 19年 ねん (1550年 ねん )2月 がつ に義鑑 よしあき が二 に 階 かい 崩 くず れの変 へん で殺害 さつがい されると、義武 よしたけ は勢 いきお いを取 と り戻 もど し、かつての重臣 じゅうしん や名和 なわ 氏 し ・相良 さがら 氏 し らの協力 きょうりょく を取 と り付 つ けて隈本 くまもと に戻 もど った。だがこれも、阿蘇 あそ 氏 し や城 じょう 氏 し を引 ひ き入 い れた義鑑 よしあき の嫡子 ちゃくし ・義鎮 よししげ (宗麟 そうりん )に攻 せ め込 こ まれ、これに抗 こう し難 がた く島原 しまばら へ逃亡 とうぼう 、再 ふたた び相良 さがら 家 か を頼 たよ る。相良 さがら 晴 はれ 広 ひろ は薩摩 さつま の島津 しまつ 忠良 ただよし に和睦 わぼく 斡旋 あっせん を依頼 いらい するなどして、大友 おおとも 義鎮 よししげ に菊池 きくち 義武 よしたけ との和 わ を請 こ い続 つづ けたが合意 ごうい には至 いた らず、義武 よしたけ は天文 てんもん 23年 ねん (1554年 ねん )義鎮 よししげ の再三 さいさん の帰還 きかん の命 いのち に覚悟 かくご を決 き め豊後 ぶんご へと帰還 きかん する。しかしその道中 どうちゅう で大友 おおとも 勢 ぜい に取 と り囲 かこ まれ已 やめ む無 な く自害 じがい して果 は てた。ここに肥後 ひご 武士 たけし の雄 ゆう ・菊池 きくち 氏 し は滅 ほろ んだ。大友 おおとも 氏 し は肥後 ひご 北部 ほくぶ を掌握 しょうあく し、政治 せいじ の実務 じつむ は旧 きゅう 菊池 きくち 家臣 かしん 団 だん に任 まか せる政策 せいさく を採 と った。
草刈 くさかり 場 じょう と化 か した肥後 ひご [ 編集 へんしゅう ]
一旦 いったん は平安 へいあん を見 み た大友 おおとも 氏 し による支配 しはい は程 ほど なくほころびを生 しょう じ、肥後 ひご は諸 しょ 勢力 せいりょく による草刈 くさかり 場 じょう の様相 ようそう を呈 てい し始 はじ める。永 えい 禄 ろく 2年 ねん (1559年 ねん )、現在 げんざい の菊鹿 きくか 町 まち で、それぞれが国人 くにびと として独自 どくじ 性 せい を持 も ち出 だ した旧 きゅう 菊池 きくち 家臣 かしん の権力 けんりょく 争 あらそ いが激化 げきか し始 はじ めた。赤星 あかほし 親 ちかし 家 か は合 ごう 勢 ぜい 川 かわ の戦 たたか い で隈部 くまべ 親 ちかし 永 ひさし に敗 やぶ れると、その子 こ ・赤星 あかほし 統 みつる 家 か は大友 おおとも 氏 し を頼 たよ り、対抗 たいこう して隈部 くまべ 氏 し は肥前 ひぜん の龍造寺 りゅうぞうじ 隆信 たかのぶ に助力 じょりょく を請 こ いた。事態 じたい は天正 てんしょう 6年 ねん (1578年 ねん )11月、耳川 みみがわ の戦 たたか い での大友 おおとも 宗麟 そうりん 敗北 はいぼく によって動 うご き出 だ した。龍造寺 りゅうぞうじ 氏 し はこれを好機 こうき と捉 とら え南下 なんか を開始 かいし し、2年 ねん 後 ご には肥後 ひご に迫 せま った。筒ヶ嶽 つつがたけ 城 じょう (荒尾 あらお 市 し )の小池 こいけ 親 ちかし 伝 でん を下 くだ し、さらに次男 じなん 江上 こうじょう 家 か 種 しゅ を大将 たいしょう とする軍 ぐん は隈部 くまべ 氏 し と共同 きょうどう 戦線 せんせん を張 は り、長坂 ながさか 城 じょう (山鹿 やまが 市 し )に進 すす め赤星 あかほし 方 かた の星子 ほしこ 中務 なかつかさ 廉 れん 正 せい を攻略 こうりゃく した。翌年 よくねん には嫡子 ちゃくし ・政 せい 家 か を大将 たいしょう に据 す えて再 ふたた び軍 ぐん を進 すす めた。赤星 あかほし 統 みつる 家 か は人質 ひとじち を出 だ して降伏 ごうぶく し、菊池 きくち 城 しろ を退去 たいきょ した。その後 ご には隈部 くまべ 親 ちかし 永 えい が入 はい り、肥後 ひご 北部 ほくぶ の支配 しはい 権 けん は大友 おおとも 氏 し から龍造寺 りゅうぞうじ 氏 し へ移 うつ った。
一方 いっぽう 、隈 くま 本城 ほんじょう を守 まも る城 じょう 親 ちかし 賢 けん は龍造寺 りゅうぞうじ ・隈部 くまべ 連合 れんごう への対抗 たいこう として、大友 おおとも 氏 し ではなく薩摩 さつま の島津 しまつ 氏 し と結 むす んだ。国境 こっきょう を接 せっ し、永 えい 禄 ろく 5年 ねん (1562年 ねん )に北原 きたはら 氏 し の領地 りょうち 回復 かいふく の為 ため に島津 しまつ 貴久 たかひさ と盟約 めいやく を結 むす んでいた相良 さがら 氏 し であったが、翌年 よくねん に日向 ひなた 国 こく の伊東 いとう 氏 し と結 むす び島津 しまつ 氏 し の大明神 だいみょうじん 城 じょう (大明司 だいみょうじ 塁 るい )を落城 らくじょう させる[2- 10] 。それにより両者 りょうしゃ の関係 かんけい は悪化 あっか し、貴久 たかひさ の後 のち を継 つ いだ島津 しまつ 義久 よしひさ は永 えい 禄 ろく 12年 ねん (1569年 ねん )菱刈 ひしかり 氏 し の援軍 えんぐん として大口 おおぐち に居 い した相良 さがら 勢 ぜい を追 お い出 だ した[10] 。島津 しまつ 氏 し はそれ以後 いご 、天正 てんしょう 6年 ねん (1578年 ねん )までに薩摩 さつま 国 こく 、大隅 おおすみ 国 こく 、日向 ひなた 国 こく と立 た て続 つづ けに統一 とういつ 、さらに耳川 みみがわ の戦 たたか いで大友 おおとも 氏 し を破 やぶ り、北進 ほくしん の足場 あしば を固 かた めていた。天正 てんしょう 8年 ねん (1580年 ねん )城 じょう 氏 し の求 もと めに応 おう じて島津 しまつ 義久 よしひさ は佐 さ 多久 たく 政 まさし ・川上 かわかみ 忠 ただし 智 さとし を肥後 ひご へ派遣 はけん し、隈 くま 本城 ほんじょう を拠点 きょてん に大友 おおとも 方 かた につく矢崎 やざき 城 じょう (三角 さんかく 町 まち )の中村 なかむら 惟 おもんみ 冬 ふゆ を攻 せ め落 お とし、さらに合志 こうし 親 おや 為 ため が篭 こめ る竹迫 たかば 城 じょう をも攻略 こうりゃく した。しかし、これら島津 しまつ 氏 し の遠征 えんせい は相良 さがら 氏 し の領地 りょうち である葦北 いほく ・八 はち 代 だい を海路 かいろ で越 こ えるもの[19] であり、この時 とき には本格 ほんかく 化 か するには至 いた らなかった。
期 き せずして肥後 ひご の防波堤 ぼうはてい となった相良 さがら 氏 し であったが、九州 きゅうしゅう 制覇 せいは を目指 めざ す島津 しまつ 氏 し に激 はげ しく攻 せ められることとなる。天正 てんしょう 8年 ねん 9月 がつ 、島津 しまつ 方 かた は新 しん 納 おさめ 忠 ちゅう 元 もと を将 しょう に据 す えた軍 ぐん で水俣 みなまた 城 じょう を攻撃 こうげき し、一 いち 年 ねん の攻防 こうぼう の末 すえ に落 お とす[10] と、相良 さがら 義 よし 陽 ひ は葦北 いほく 七浦 ななうら 割譲 かつじょう を条件 じょうけん に和睦 わぼく を結 むす んだ。島津 しまつ 氏 し は、相良 さがら 氏 し に阿蘇 あそ 氏 し 攻略 こうりゃく の先鋒 せんぽう を命 めい じ、義 よし 陽 ひ はかつて盟友 めいゆう の間柄 あいだがら でもあった阿蘇 あそ 方 かた の甲斐 かい 親 ちかし 直 ただし (宗 そう 運 はこぶ )と響 ひびき 野原 のはら の戦 たたか い で矛 ほこ を交 まじ えざるを得 え なくなった。この戦 たたか いで義 ぎ 陽 ひ は戦死 せんし する。
阿蘇 あそ 氏 し 、矢部 やべ の拠点 きょてん を失 うしな う(豪族 ごうぞく としての終焉 しゅうえん )[ 編集 へんしゅう ]
龍造寺 りゅうぞうじ 配下 はいか にあった肥前 ひぜん の有馬 ありま 晴信 はるのぶ は、島津 しまつ 氏 し に通 つう じた。天正 てんしょう 12年 ねん (1584年 ねん )初 はじ め、裏切 うらぎ りに龍造寺 りゅうぞうじ 隆信 たかのぶ は懲罰 ちょうばつ の兵 へい を島原 しまばら に向 む け、島津 しまつ 義久 よしひさ はこれを好機 こうき と捉 とら えた。3月、大将 たいしょう ・島津 しまつ 家久 いえひさ 以下 いか の大軍 たいぐん を肥前 ひぜん に進 すす め、龍造寺 りゅうぞうじ 氏 し との決戦 けっせん (沖田 おきた 畷 なわて の戦 たたか い )に臨 のぞ んだ島津 しまつ 方 かた は激戦 げきせん の末 すえ 勝利 しょうり を掴 つか み、肥後 ひご の覇権 はけん を手中 しゅちゅう にした。よもや肥後 ひご 武士 たけし は反抗 はんこう の態度 たいど を示 しめ さず、9月8日 にち には島津 しまつ 義弘 よしひろ が八 はち 代 だい に到着 とうちゃく し、12日 にち には隈 くま 本城 ほんじょう に入 はい った。隈部 くまべ 親 ちかし 泰 やすし ら肥後 ひご 北部 ほくぶ の国人 くにびと らも恭順 きょうじゅん の意 い を示 しめ す中 なか 、唯一 ゆいいつ 大友 おおとも 氏 し との繋 つな がりを持 も つ阿蘇 あそ 氏 し だけが従 したが わなかった。しかしこれも、阿蘇 あそ 方 かた の智将 ちしょう 甲斐 かい 親 ちかし 直 じき が天正 てんしょう 13年 ねん (1585年 ねん )7月 がつ 3日 にち に没 ぼっ すると島津 しまつ 氏 し は攻撃 こうげき を始 はじ め、御船 みふね の田代 たしろ 快 かい 尊 みこと ・宗 そう 傳 つたえ 父子 ふし など、阿蘇 あそ 方 かた 勢力 せいりょく 下 か の城 しろ を次々 つぎつぎ を攻 せ め落 お とし、翌年 よくねん には阿蘇 あそ 本拠 ほんきょ の矢部 やべ を落 お とし、肥後 ひご 制圧 せいあつ を完全 かんぜん なものとした。
島津 しまつ 氏 し は鹿児島 かごしま ・種子島 たねがしま に伝来 でんらい した鉄砲 てっぽう を有力 ゆうりょく な武器 ぶき として、九州 きゅうしゅう 各地 かくち の戦 たたか いで圧倒 あっとう した。
島津 しまつ 氏 し は八 はち 代 だい を拠点 きょてん に、各 かく 要所 ようしょ に配下 はいか の番 ばん 衆 しゅ を置 お いて肥後 ひご 支配 しはい を始 はじ めた。しかし、既 すで に占拠 せんきょ した日向 ひなた 国 こく のように地頭 じとう 職 しょく に家臣 かしん を就 つ け、その配下 はいか に地域 ちいき の武士 ぶし 団 だん を納 おさ めて軍事 ぐんじ 組織 そしき 化 か するには至 いた らなかった。これは、異 こと なる統治 とうち 手法 しゅほう を用 もち いようとしたのではなく、尾張 おわり 国 こく に発 はっ した新 あら たな時代 じだい の奔流 ほんりゅう が猶予 ゆうよ を与 あた えなかったためである。
天草 てんぐさ へのキリスト教 きりすときょう 伝播 でんぱ [ 編集 へんしゅう ]
戦国 せんごく 期 き は天草 てんぐさ にも訪 おとず れ、各 かく 氏族 しぞく は争 あらそ いを繰 く り返 かえ していた。この状況 じょうきょう に一 いち 石 せき を投 とう じたのは永 えい 禄 ろく 3年 ねん (1560年 ねん )、栖本 すもと 氏 し を攻 せ める上津浦 こうつうら 氏 し を支援 しえん した松浦 まつうら 隆信 たかのぶ が導入 どうにゅう した鉄砲 てっぽう 隊 たい の威力 いりょく だった。天草 てんぐさ 諸氏 しょし はその有効 ゆうこう 性 せい を認 みと め、導入 どうにゅう のためポルトガル 宣教師 せんきょうし のキリスト教 きりすときょう 布教 ふきょう を許 ゆる した。永 えい 禄 ろく 9年 ねん (1566年 ねん )志岐 しき 鎮経 は口之津 くちのつ の日本 にっぽん 布教 ふきょう 長 ちょう コスメ・デ・トーレス に宣教師 せんきょうし 派遣 はけん を要請 ようせい した。これに応 こた え、ルイス・デ・アルメイダ が志岐 しき に赴 おもむ いて教会堂 きょうかいどう が建設 けんせつ され、また 洗礼 せんれい を鎮経に施 ほどこ しドン・ジョアンの洗礼 せんれい 名 めい を与 あた えた。この教会堂 きょうかいどう は日本 にっぽん 布教 ふきょう の一大 いちだい 拠点 きょてん となり、永 えい 禄 ろく 11年 ねん (1568年 ねん )には日本 にっぽん 中 ちゅう の宣教師 せんきょうし が集 あつ まり会議 かいぎ が催 もよお され、元 もと 亀 かめ 元年 がんねん (1570年 ねん )にはトーレスの引退 いんたい とフランシスコ・カブラル への布教 ふきょう 長 ちょう 引継 ひきつ ぎが行 おこな われた。志岐 しき 氏 し 領地 りょうち の富岡 とみおか 港 こう (現 げん :苓北 れいほく 町 まち )にはカブラルとともにグネッキ・ソルディ・オルガンティノ も上陸 じょうりく した。
しかし後 のち に、志岐 しき 鎮経は棄教 きょう しキリスト教徒 きりすときょうと 迫害 はくがい に転 てん じる[17] 。これは、トーレスの死 し や後任 こうにん カブラルとの考 かんが えの食 く い違 ちが い、家臣 かしん と貿易 ぼうえき 船員 せんいん との間 あいだ に生 しょう じたトラブルもあったが、南蛮 なんばん 貿易 ぼうえき の本拠地 ほんきょち が長崎 ながさき に移 うつ ってしまったことが決定的 けっていてき だった。ルイス・フロイス が著 あらわ した『日本 にっぽん 史 し (Historia de Iapan)』では、鎮経の評判 ひょうばん はすこぶる悪 わる い[17] 。志岐 しき 氏 し に代 か わってキリスト教 きょう を受容 じゅよう したのは天草 あまくさ 鎮尚 (洗礼 せんれい 名 めい ミゲル)だった。元 もと 亀 かめ 2年 ねん (1571年 ねん 、永 えい 禄 ろく 12年 ねん とも[18] )アルメイダを招 まね き、嫡男 ちゃくなん ・久 ひさ 種 しゅ (洗礼 せんれい 名 めい ジョアン)以下 いか 家臣 かしん らとともに洗礼 せんれい を受 う けた。この後 のち 数 すう 年 ねん で下島 しもじま 中 ちゅう 南部 なんぶ を起点 きてん に天草諸島 あまくさしょとう 全域 ぜんいき にキリスト教 きりすときょう が広 ひろ まった。
島津 しまつ 氏 し による肥後 ひご 制圧 せいあつ の際 さい 、天草 あまくさ 地方 ちほう もまたその支配 しはい 下 か に入 はい ったが、志岐 しき 氏 し ・天草 あまくさ 氏 し ・上津浦 こうつうら 氏 し ・大矢野 おおやの 氏 し ・栖本 すもと 氏 し はそれぞれ独自 どくじ 性 せい を維持 いじ し、国人 くにびと として命脈 めいみゃく を繋 つな いだ。彼 かれ らを指 さ して天草 てんぐさ 五 ご 人 にん 衆 しゅ と呼 よ ばれる。
港湾 こうわん 都市 とし の発達 はったつ [ 編集 へんしゅう ]
中世 ちゅうせい 後期 こうき 、日本 にっぽん は経済 けいざい 発達 はったつ による交易 こうえき も盛 さか んになり、肥後 ひご にも外国 がいこく まで知 し られた港湾 こうわん 都市 とし が発達 はったつ した。高瀬 たかせ (現 げん :玉名 たまな 市 し )は筥崎宮 はこざきぐう 領 りょう に属 ぞく し、菊池川 きくちがわ と繁根木 はねぎ 川 がわ 河口 かこう に挟 はさ まれた交通 こうつう の要所 ようしょ であった。鎌倉 かまくら 時代 じだい には時宗 じしゅう の願行寺 がんぎょうじ などが建立 こんりゅう され、明 あきら に渡海 とかい する前 まえ の絶海 ぜっかい 中津 なかつ も立 た ち寄 よ ったという。貞和 さだかず 3年 ねん /興国 こうこく 7年 ねん (1347年 ねん )には菊池 きくち 武光 たけみつ の弟 おとうと ・武 たけ 尚 しょう が保田 やすだ 木城 きじょう を築 きず き、以後 いご 高瀬 たかせ 氏 し を称 しょう した。高瀬 たかせ 氏 し は願行寺 がんぎょうじ をはじめとする仏閣 ぶっかく への寄進 きしん や町 まち の整備 せいび などに尽力 じんりょく し、問屋 とんや 町 まち や職人 しょくにん 町 まち の形成 けいせい に寄与 きよ した。日 にち 朝 ちょう 貿易 ぼうえき も盛 さか んに行 おこな われ[2- 11] 、後 のち に高瀬 たかせ 川底 かわぞこ から発見 はっけん された中国 ちゅうごく の青磁 せいじ 類 るい からも、その繁栄 はんえい ぶりを窺 うかが うことができる。菊池 きくち 能 のう 運 うん が宇土 うど 為 ため 光 こう を討伐 とうばつ した際 さい に高瀬 たかせ 武 たけ 基 はじめ が戦死 せんし すると保田 やすだ 木城 きじょう は主 しゅ 不在 ふざい となり[20] 、後 ご の大友 おおとも 氏 し 肥後 ひご 支配 しはい 時 じ に自治 じち 都市 とし としての性格 せいかく を強 つよ めた。
足利 あしかが 直冬 ただふゆ を迎 むか えた河 かわ 尻 しり 幸 さいわい 俊 しゅん が拠点 きょてん とした河 かわ 尻 しり もまた、白川 しらかわ と緑川 みどりかわ の河口 かこう 域 いき にある港湾 こうわん 都市 とし として栄 さか えた。永 えい 正 ただし 14年 ねん (1517年 ねん )訪 おとず れた連歌 れんが 師 し の宗 そう 碩 せき は、「千舟 ちふね より川 かわ やちりはう柳 やなぎ かげ」と河 かわ 尻 しり の様子 ようす を詠 よ んでいる。応 おう 永年 えいねん 間 あいだ に河 かわ 尻 しり 氏 し の勢力 せいりょく が衰 おとろ えると、河 かわ 尻 しり は特定 とくてい の支配 しはい を受 う けない「公 おおやけ 界 かい 」としての性格 せいかく を強 つよ めた。天文 てんもん 8年 ねん (1539年 ねん )菊池 きくち 方 かた と相良 さがら 方 かた が利害 りがい 調整 ちょうせい 会談 かいだん の場 ば を河 かわ 尻 しり で設 もう けたり[2- 12] 、上京 じょうきょう 道中 どうちゅう の島津 しまつ 家久 いえひさ 一 いち 行 ぎょう が通 とお る際 さい に関 せき 銭 ぜに を支 ささえ 払 はら わされたなどは、この「公 おおやけ 界 かい 」河 かわ 尻 しり ならではの事例 じれい とされる。宣教師 せんきょうし アルメイダは永 えい 禄 ろく 7年 ねん (1564年 ねん )の手紙 てがみ に、河 かわ 尻 しり を指 さ して「大 だい なる町 まち 」という記述 きじゅつ を残 のこ している。
建 たて 武 たけし の新政 しんせい における論功 ろんこう で地頭 じとう 職 しょく を得 え た名和 なわ 義高 よしたか が入 はい り八 はち 代 だい 城 じょう を築 きず いてから、城下町 じょうかまち および八 はち 代 だい 神社 じんじゃ の門前 もんぜ 町 まち として八 はち 代 だい は繁栄 はんえい した[21] 。相良 さがら 氏 し 領 りょう 下 か の時代 じだい には、外港 がいこう の徳 とく 淵 ふち 浦 うら を基点 きてん とする貿易 ぼうえき で八 はち 代 だい は栄 さか えた。相良 さがら 義 よし 滋 しげる ・晴 はれ 広 ひろ は貿易 ぼうえき 船 せん 「市来 いちき 丸 まる 」を建造 けんぞう して主 おも に琉球 りゅうきゅう 貿易 ぼうえき を行 おこな ったが、町衆 まちしゅう による中国 ちゅうごく 貿易 ぼうえき も盛 さか んであった。
阿蘇 あそ 家 か 本拠 ほんきょ ・山都 やまと 町 まち 「浜 はま の館 かん 」の出土 しゅつど 品 ひん [ 編集 へんしゅう ]
これらの都市 とし に代表 だいひょう される交易 こうえき がもたらしたひとつの結実 けつじつ は、阿蘇 あそ 氏 し 本拠 ほんきょ であった矢部 やべ 町 まち (現 げん 、山都 やまと 町 まち )の地 ち で発見 はっけん された。1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん )、県 けん 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい は熊本 くまもと 県立 けんりつ 矢部 やべ 高等 こうとう 学校 がっこう 敷地 しきち を調査 ちょうさ し、建物 たてもの および庭園 ていえん 跡 あと を発掘 はっくつ した。さらに、黄金 おうごん の延板 のべいた 、白磁 はくじ ・青磁 せいじ ・染付 そめつけ ・三彩 さんさい ・緑 みどり 釉等 ひとし の陶磁器 とうじき などが出土 しゅつど した。これらのほとんどは輸入 ゆにゅう 品 ひん であり、この遺跡 いせき が阿蘇 あそ 氏 し 本拠 ほんきょ の「浜 はま の館 かん 」であったと同定 どうてい されている。出土 しゅつど 品 ひん 21点 てん は「肥後 ひご 阿蘇 あそ 氏 し 浜 はま 御所 ごしょ 跡 あと 出土 しゅつど 品 ひん 」として国 くに の重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい に指定 してい されている[22] 。
豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし の九州 きゅうしゅう 統一 とういつ [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん 史 し において一般 いっぱん に近世 きんせい とは織田 おだ 信長 のぶなが の上洛 じょうらく を起点 きてん とするが、肥後 ひご では豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし の九州 きゅうしゅう 統一 とういつ をはじまりとしている。天正 てんしょう 15年 ねん (1587年 ねん )3月 がつ 、大軍 たいぐん を率 ひき いた秀吉 ひでよし が九州 きゅうしゅう に入 はい ると、後 のち は文字通 もじどお り破竹 はちく の勢 いきお いで南下 なんか した。4月11日 にち には肥後 ひご 南関 なんかん 、16日 にち には隈 くま 本城 ほんじょう 、19日 にち には八 はち 代 だい 城 じょう 、26日 にち には水俣 みなまた 城 じょう に至 いた った。5月8日 にち には出水 しゅっすい で島津 しまつ 義久 よしひさ を、次 つ いで島津 しまつ 義弘 よしひろ ・新 しん 納 おさめ 忠 ちゅう 元 もと を降伏 ごうぶく させると踵 かかと を返 かえ し、6月2日 にち には隈本 くまもと へ舞 ま い戻 もど った。すると秀吉 ひでよし は肥後 ひご の国人 くにびと 52人 にん に本領 ほんりょう 安堵 あんど の書状 しょじょう を発 はっ すると同時 どうじ に、佐々 ささ 成 しげる 政 せい に肥後 ひご 一 いち 国 こく を与 あた えた。同 どう 7日 にち には小早川 こばやかわ 隆景 たかかげ に筑前 ちくぜん ・筑後 ちくご を、黒田 くろだ 孝高 よしたか に豊前 ぶぜん 六 ろく 郡 ぐん を与 あた え、九州 きゅうしゅう の国 くに 割 わ りを終 お えると大坂 おおさか への帰路 きろ についた。
難治 なんじ の国 くに の佐々 ささ 成 しげる 政 せい [ 編集 へんしゅう ]
織田 おだ 信長 のぶなが 配下 はいか の猛 もう 将 しょう として名高 なだか かった佐々 ささ 成 しげる 政 せい は秀吉 ひでよし に反発 はんぱつ し、何 なん 度 ど も反抗 はんこう しては降伏 ごうぶく を繰 く り返 かえ していた。その成 なり 政 せい が肥後 ひご 国 こく を貰 もら い受 う けたことは意外 いがい と評 ひょう されもする[23] が、九州 きゅうしゅう 遠征 えんせい 中 ちゅう の5月 がつ に肥後 ひご 国人 くにびと 相良 さがら 頼房 よりふさ と大矢野 おおやの 種基 たねもと が授 さず かった本領 ほんりょう 安堵 あんど の朱印 しゅいん 状 じょう には「羽柴 はしば 陸奥 むつ 守 もり (佐々 ささ 成 しげる 政 せい )に与力 よりき せしむ」[2- 13] とあり、既 すで に官職 かんしょく と羽柴 はしば 姓 せい が与 あた えられていることからも、秀吉 ひでよし はこの時 とき には既 すで に成 なり 政 せい に肥後 ひご を統治 とうち させようと予定 よてい していたと窺 うかが える。また6月 がつ 2日 にち には成 なり 政 せい を侍従 じじゅう に任命 にんめい し、肥後 ひご 国人 くにびと 52人 にん に与 あた えた書状 しょじょう にも領地 りょうち の目録 もくろく を成 なり 政 せい から受 う け取 と るよう指示 しじ されていることから、秀吉 ひでよし は成 なり 政 せい に期待 きたい を寄 よ せていたとも考 かんが えられる。なお、秀吉 ひでよし が肥後 ひご 統治 とうち に当 あ たり、一揆 いっき をおこさせない、国人 くにびと の所領 しょりょう 安堵 あんど 、検地 けんち の3年間 ねんかん 禁止 きんし などを厳命 げんめい した五 ご 箇条 かじょう の定 じょう 書 しょ [2- 14] は、宛名 あてな が「佐々 ささ 内蔵助 くらのすけ 」となっており、その信憑 しんぴょう 性 せい が取 と り沙汰 ざた されている[24] 。
難治 なんじ の国 くに [23] ・肥後 ひご 行政 ぎょうせい に乗 の り出 だ した佐々 ささ 成 しげる 政 せい は、領地 りょうち 目録 もくろく を作成 さくせい するため各国 かっこく 人 じん に所領 しょりょう の検地 けんち を要求 ようきゅう した。朱印 しゅいん 状 じょう には、本領 ほんりょう 安堵 あんど には成 なり 政 せい に従 したが い目録 もくろく を受 う けることが条件 じょうけん として記 しる されていたが、国人 くにびと たちはこのような寄 よせ 親 おや ・寄 よせ 子 こ 体制 たいせい は理解 りかい の埒外 らちがい にあり、彼 かれ らはこれを秀吉 ひでよし が保障 ほしょう した自治 じち 権 けん の侵害 しんがい と捉 とら えた。最初 さいしょ に反発 はんぱつ の態度 たいど を示 しめ したのが隈府 わいふ 城 じょう を拠点 きょてん としていた隈部 くまべ 親 ちかし 永 ひさし だった。彼 かれ は印 しるし 状 じょう を盾 たて に検地 けんち を拒否 きょひ し、いわゆる肥後 ひご 国人 くにびと 一揆 いっき が勃発 ぼっぱつ した。8月6日 にち 、甥 おい の[25] 佐々 ささ 宗 はじめ 能 のう を討伐 とうばつ に向 む けたが抵抗 ていこう を受 う け、成 なり 政 せい は家臣 かしん に徴兵 ちょうへい した国人 くにびと 衆 しゅ らを加 くわ えた総勢 そうぜい 6000の軍 ぐん で隈府 わいふ 城 じょう を攻 せ めた。親 おや 永 ひさし は息子 むすこ ・山鹿 やまが 親 ちかし 安 やす の城村 じょうむら 城 じょう に入 はい り、ここに篭城 ろうじょう して、肥後 ひご 中 ちゅう の国人 くにびと に檄 げき を飛 と ばした。
これに呼応 こおう したのが御船 みふね 城 しろ の甲斐 かい 親房 ちかふさ ・親 しん 英 えい だった。赤星 あかほし 氏 し ・城 じょう 氏 し ・詫摩 たくま 氏 し ら有力 ゆうりょく な国人 くにびと もこれに合流 ごうりゅう し、総勢 そうぜい 35000の一揆 いっき 軍 ぐん で隈 くま 本城 ほんじょう に向 む かった。この報告 ほうこく を受 う けた佐々 ささ 成 しげる 政 せい は隈府 わいふ 城 じょう に付 づけ 城 じょう を築 きず き、急遽 きゅうきょ 隈本 くまもと に戻 もど った。成 なり 政 せい は坪井川 つぼいがわ で一揆 いっき 軍 ぐん を破 やぶ ったが、隈府 わいふ では佐々 ささ 宗 はじめ 能 のう が隈部 くまべ 方 かた の内 うち 空 むなし 閑静 かんせい 房 ぼう に討 う ち取 と られた[25] 。さらに田中 たなか 城 じょう (菊池 きくち 郡 ぐん )で和 かず 仁 ひとし 親実 ちかざね や辺 あたり 春 はる 親 おや 行 ぎょう らも900人 にん の手兵 しゅへい で立 た ち上 あ がった[26] 。成 なり 政 せい の救援 きゅうえん 要請 ようせい を受 う けた柳川 やながわ の立花 たちばな 宗茂 むねしげ は2000の兵 へい を隈府 わいふ 城 じょう に差 さ し向 む け、また田中 たなか 城 しろ も安国寺 あんこくじ 恵瓊 えけい や鍋島 なべしま 氏 し らに攻 せ め込 こ まれた。
一揆 いっき の知 し らせを受 う けた秀吉 ひでよし は12月[23] 、隣接 りんせつ する諸 しょ 大名 だいみょう に出兵 しゅっぺい を命 めい じ、肥後 ひご 鎮圧 ちんあつ と国人 くにびと 殲滅 せんめつ を指示 しじ した。大軍 たいぐん に囲 かこ まれた隈部 くまべ 親 ちかし 永 ひさし ・親 おや 安 やす は降伏 ごうぶく し処刑 しょけい された。安国寺 あんこくじ 恵瓊 えけい は和 かず 仁 ひとし 親実 ちかざね ら家臣 かしん の忠節 ちゅうせつ を称 とな えたが、秀吉 ひでよし は許 ゆる さず、ことごとく処罰 しょばつ された[26] 。さらに天正 てんしょう 16年 ねん (1588年 ねん )には浅野 あさの 長吉 ちょうきち を始 はじ めとする配下 はいか の将 しょう 8人 にん と20000人 にん の兵 へい を肥後 ひご に送 おく り、残党 ざんとう をしらみつぶしにし、また検地 けんち の実施 じっし など統治 とうち を行 おこな わせた。秀吉 ひでよし は一揆 いっき 勃発 ぼっぱつ の責任 せきにん を佐々 ささ 成 しげる 政 せい に求 もと め、猛 もう 将 しょう は閏 うるう 5月 がつ 14日 にち 尼崎 あまがさき で切腹 せっぷく し果 は てた。
残党 ざんとう の鎮圧 ちんあつ [ 編集 へんしゅう ]
佐々 ささ 成 しげる 政 せい 切腹 せっぷく の翌日 よくじつ 、秀吉 ひでよし は肥後 ひご を二分 にぶん し、加藤 かとう 清正 きよまさ と小西 こにし 行長 ゆきなが に与 あた えた。清正 きよまさ は隈 くま 本城 ほんじょう に拠 よ り、肥後 ひご 北部 ほくぶ 19万 まん 5千 せん 石 せき の領内 りょうない に森本 もりもと 一久 かずひさ らを配置 はいち し、与力 よりき に参 さん じた国人 くにびと 、佐々 ささ の旧臣 きゅうしん 、領内 りょうない や遠国 おんごく の浪人 ろうにん などを召抱 めしかか えた。一方 いっぽう の行長 ゆきなが は宇土 うと 城 じょう を拠点 きょてん に、肥後 ひご 南部 なんぶ と天草 てんぐさ 14万 まん 5千 せん 石 せき を領有 りょうゆう し直 ちょく 臣 しん を要地 ようち に置 お いた。人吉 ひとよし の相良 さがら 氏 し は秀吉 ひでよし 進攻 しんこう 時 じ に島津 しまつ 氏 し に付 つ いたが、家臣 かしん 深水 ふかみ 宗方 むなかた の懸命 けんめい な交渉 こうしょう が功 こう を奏 そう し、八 はち 代 だい や葦北 いほく を失 うしな いこそしたが、人吉 ひとよし の本領 ほんりょう は安堵 あんど されていた。しかし一揆 いっき の際 さい 、秀吉 ひでよし の命 いのち を受 う けて一揆 いっき 鎮圧 ちんあつ に出陣 しゅつじん した島津 しまつ 義弘 よしひろ 、伊集院 いじゅういん 忠 ただし 棟 とう の軍勢 ぐんぜい を佐敷 さしき で足止 あしど めするという失態 しったい を犯 おか す。これは佐々 ささ 成 しげる 政 せい が、島津 しまつ 軍 ぐん が自身 じしん を討伐 とうばつ する為 ため に出陣 しゅつじん したものと勘違 かんちが いし、その足止 あしど めを相良 さがら 家 か に依頼 いらい した事 こと による行為 こうい であった。忠 ちゅう 棟 とう は石田 いしだ 三成 みつなり 、細川 ほそかわ 藤孝 ふじたか に対 たい し「相良 さがら の軍勢 ぐんぜい 差 さ し止 と めは一揆 いっき 行動 こうどう である為 ため 、相良 さがら 頼房 よりふさ が大 だい 坂 さか に上 あ がった際 さい には糾弾 きゅうだん すべきである」と訴 うった えている。三成 みなり 、藤孝 ふじたか も相良 さがら 家 か の行為 こうい を逆心 ぎゃくしん と捕 とら え、義弘 よしひろ 上洛 じょうらく の折 お りにはその際 さい の事情 じじょう を秀吉 ひでよし の耳 みみ に入 い れる心算 しんさん であると述 の べている。秀吉 ひでよし も当然 とうぜん ながらこれに激怒 げきど したが、深水 ふかみ 宗方 むなかた が大 だい 坂 さか へ出向 でむ き陳謝 ちんしゃ した事 こと で許 ゆる され、相良 さがら は領地 りょうち を安堵 あんど された[2- 15] 。
国人 くにびと 一揆 いっき の際 さい 佐々 ささ 方 かた に加 くわ わった[18] 天草 てんぐさ 五 ご 人 にん 衆 しゅ は、天正 てんしょう 17年 ねん (1589年 ねん )に小西 こにし 行長 ゆきなが が命 めい じた宇土 うど 城 しろ 普請 ふしん への資本 しほん 供出 きょうしゅつ に反乱 はんらん を起 お こした。最初 さいしょ に志岐 しき 鎮経 が異議 いぎ を唱 とな えて立 た ち上 あ がり、天草 あまくさ 種 たね 元 もと ・上津浦 こうつうら 種 しゅ 直 ただし ・大矢野 おおやの 種基 たねもと ・栖本 すもと 親 ちかし 高 だか も同調 どうちょう して一揆 いっき を起 お こした。行長 ゆきなが は3000人 にん の兵 へい を差 さ し向 む けたが、連合 れんごう した天草 てんぐさ 五 ご 人 にん 衆 しゅ は5600の兵 へい を揃 そろ え袋 ぶくろ 浦 うら (富岡 とみおか )でこれを迎 むか え撃破 げきは した。行長 ゆきなが は、加藤 かとう 清正 きよまさ や肥前 ひぜん の有馬 ありま ・大村 おおむら 氏 し からの応援 おうえん を受 う け包囲 ほうい 網 もう を形成 けいせい し攻 ぜ めに転 てん じた。この戦 たたか いで清正 きよまさ は最 もっと も活躍 かつやく し、行長 ゆきなが は同 おな じキリシタンの情 じょう が働 はたら き裏 うら で投降 とうこう を勧 すす めた。しかし一揆 いっき 方 かた は本渡 ほんど 城 じょう に篭 こも って徹底 てってい 抗戦 こうせん の態度 たいど を崩 くず さず、多 おお くが戦死 せんし した。志岐 しき 鎮経は薩摩 さつま に逃 のが れ、他 た の四 よん 氏 し は最終 さいしゅう 的 てき に降伏 ごうぶく し、行長 ゆきなが の家臣 かしん 団 だん に組 く み込 こ まれた。
秀吉 ひでよし の命 いのち により清正 きよまさ ・行長 ゆきなが ・相良 さがら 氏 し ら九州 きゅうしゅう の各 かく 大名 だいみょう が朝鮮 ちょうせん へ出兵 しゅっぺい した隙 すき を突 つ き、天正 てんしょう 20年 ねん (1592年 ねん )島津 しまつ の家臣 かしん 梅 うめ 北国 きたぐに 兼 けん と田尻 たじり 但馬 たじま らはいわゆる梅北 うめきた 一揆 いっき を起 お こした。彼 かれ らは肥後 ひご の佐敷 さしき 城 じょう (芦北 あしきた 町 まち )に篭 こも って周辺 しゅうへん にも決起 けっき を促 うなが し、さらに八 はち 代 だい にも兵 へい を差 さ し向 む けた。だが、土地 とち の有力 ゆうりょく 者 しゃ たちは容易 ようい には同調 どうちょう せず、相良 さがら 氏 し ら鎮圧 ちんあつ 方 かた の優勢 ゆうせい をみきわめて反 はん 一揆 いっき 側 がわ に加 くわ わり、梅北 うめきた らは破 やぶ れた。名護屋 なごや で一揆 いっき の報 ほう に触 ふ れた秀吉 ひでよし は、浅野 あさの 長政 ながまさ ・幸長 よしなが を派遣 はけん し、一揆 いっき 鎮圧 ちんあつ と地方 ちほう の諸 しょ 城 しろ 監視 かんし を強化 きょうか させた。さらに一揆 いっき 終結 しゅうけつ 後 ご には、島津 しまつ 歳 とし 久 ひさし や阿蘇 あそ 惟 おもんみ 光 こう が背後 はいご で糸 いと を引 ひ いたとして断罪 だんざい し、大名 だいみょう 勢力 せいりょく の強化 きょうか と潜在 せんざい 的 てき な反乱 はんらん 分子 ぶんし 押 お さえ込 こ みという果実 かじつ を一挙 いっきょ に手中 しゅちゅう にした[2- 16] 。
幕 まく 藩 はん 体制 たいせい の成立 せいりつ [ 編集 へんしゅう ]
本妙寺 ほんみょうじ 浄 きよし 池 いけ 廟 びょう の加藤 かとう 清正 きよまさ 像 ぞう
熊本 くまもと 城 じょう
加藤 かとう 清正 きよまさ とその子孫 しそん [ 編集 へんしゅう ]
慶長 けいちょう 5年 ねん (1600年 ねん )9月 がつ 、全国 ぜんこく を二分 にぶん する天下分 てんかわ け目 め の戦 たたか いは、九州 きゅうしゅう の大名 だいみょう も東西 とうざい に分 わ けた。徳川 とくがわ 方 ほう (東 ひがし 軍 ぐん )には加藤 かとう 清正 きよまさ のほか黒田 くろだ (中津 なかつ )・鍋島 なべしま (肥前 ひぜん )・細川 ほそかわ (小倉 おぐら )らが、石田 いしだ 方 ほう (西 にし 軍 ぐん )には小西 こにし 行長 ゆきなが のほか島津 しまつ ・大友 おおとも ・立花 たちばな (柳川 やながわ )がついた。相良 さがら 氏 し は当初 とうしょ 西 にし 軍 ぐん に属 ぞく したが、岐阜 ぎふ 城 じょう の戦 たたか い以後 いご 東 ひがし 軍 ぐん に鞍替 くらが えした。肥後 ひご では有馬 ありま ・大村 おおむら 氏 し の支援 しえん を受 う けた清正 きよまさ が、島津 しまつ 氏 し らに応援 おうえん された宇土 うど 隼人 はやと (小西 こにし 行 こう 景 けい ) が守 まも る宇土 うと 城 じょう を攻 せ めた。攻防 こうぼう 戦 せん は長引 ながび き10月 がつ まで続 つづ いたが、石田 いしだ 方 かた 敗北 はいぼく と小西 こにし 行長 ゆきなが 処刑 しょけい の知 し らせがもたらされ、隼人 はやと は開城 かいじょう して自決 じけつ した。
戦後 せんご の論功行賞 ろんこうこうしょう で、加藤 かとう 清正 きよまさ は人吉 ひとよし ・天草 てんぐさ を除 のぞ く肥後 ひご 一 いち 国 こく を与 あた えられ、熊本 くまもと 藩 はん が成立 せいりつ した。その石高 こくだか は、以前 いぜん からの19万 まん 5千 せん 石 せき と小西 こにし 氏 し 旧領 きゅうりょう 14万 まん 5千 せん 石 せき の他 ほか に、豊後 ぶんご の一部 いちぶ や旧 きゅう 豊臣 とよとみ 家 か の直轄 ちょっかつ 領 りょう が加 くわ わり、54万 まん 石 せき となった。一気 いっき に大 だい 大名 だいみょう の仲間入 なかまい りを果 は たした清正 きよまさ は家臣 かしん 団 だん の拡張 かくちょう を迫 せま られ、小西 こにし ・立花 りっか の旧 きゅう 家臣 かしん らを召抱 めしかか え対応 たいおう した。そして、慶長 けいちょう 年間 ねんかん には修復 しゅうふく を重 かさ ねて[注 ちゅう 11] 用 もち いていた隈 くま 本城 ほんじょう を含 ふく む茶臼山 ちゃうすやま 一帯 いったい に、大 だい 規模 きぼ な近代 きんだい 城 じょう を築 きず く工事 こうじ に着手 ちゃくしゅ し、土木 どぼく 治水 ちすい の才 ざい が遺憾無 いかんな く降 ふ り注 そそ がれた[27] 熊本 くまもと 城 じょう が慶長 けいちょう 12年 ねん (1607年 ねん )に完成 かんせい を見 み た。この際 さい 、清正 きよまさ は旧来 きゅうらい の「隈本 くまもと 」を「熊本 くまもと 」に改 あらた めているが、これは「隈 くま 」の字 じ が「阜(おか)に畏 かしこ (おそ)れる」とも読 よ めるため大名 だいみょう の居城 きょじょう としてふさわしくないと考 かんが えたことによるとも言 い われる[28] 。この築城 ちくじょう の様子 ようす を詠 うた った狂歌 きょうか 「熊本 くまもと に 石 いし 引 び きまはす茶臼山 ちゃうすやま 敵 てき にかとうの城 しろ の主 おも かな」が流行 りゅうこう し、清正 きよまさ は喜 よろこ んだとも言 い う[28] 。
治水 ちすい 事業 じぎょう やそのカリスマ性 せい から領民 りょうみん からも慕 した われ[23] 、南蛮 なんばん 貿易 ぼうえき にも熱心 ねっしん だった加藤 かとう 清正 きよまさ は慶長 けいちょう 16年 ねん (1611年 ねん )、二条城 にじょうじょう で徳川 とくがわ 家康 いえやす ・豊臣 とよとみ 秀頼 ひでより 会見 かいけん に同席 どうせき した後 のち 、肥後 ひご への帰路 きろ にあった船上 せんじょう で死去 しきょ した。嫡男 ちゃくなん ・忠広 ただひろ は当時 とうじ 10歳 さい であった。江戸 えど 幕府 ばくふ は藤堂 とうどう 高虎 たかとら を監 かん 国 こく として肥後 ひご に派遣 はけん し、藩政 はんせい は5家老 がろう を定 さだ めて合議 ごうぎ 制 せい とした。翌年 よくねん には忠広 ただひろ の相続 そうぞく が認 みと められたが、この時 とき にも幕府 ばくふ は水俣 みなまた ・宇土 うと ・矢部 やべ の三城 みき 破 やぶ 却を指示 しじ し、また5家老 がろう の異動 いどう を命 めい じた。この命令 めいれい では筆頭 ひっとう 家老 がろう の加藤 かとう 美作 みさく が格下 かくさ げ、加藤 かとう 右 みぎ 馬 うま 允 まこと が筆頭 ひっとう 兼 けん 八 はち 代 だい 城代 じょうだい に就 つ き、ここに因縁 いんねん が生 う まれた。元和 がんわ 4年 ねん (1618年 ねん )、加藤 かとう 右 みぎ 馬 うま 允 まこと 派 は (馬方 うまかた )は、加藤 かとう 美作 みさく 一派 いっぱ (牛 うし 方 かた )を謀反 むほん の恐 おそ れありと訴 うった え、美作 みさく らはただちに反論 はんろん を上奏 じょうそう した。これは将軍 しょうぐん ・徳川 とくがわ 秀忠 ひでただ の裁量 さいりょう 事項 じこう となり、大坂 おおさか 夏 なつ の陣 じん で牛 うし 方 かた が豊臣 とよとみ 方 かた に内通 ないつう した疑 うたが いや、徳川 とくがわ 方 かた に関 かん するあらぬ噂 うわさ を流布 るふ させたと断罪 だんざい され、美作 みさく 一派 いっぱ はことごとく刑 けい に処 しょ された。この背景 はいけい には、急激 きゅうげき に家臣 かしん 団 だん を膨張 ぼうちょう させた清正 きよまさ が亡 な くなり、元々 もともと 多方面 たほうめん からの寄 よ せ集 あつ まりだった集団 しゅうだん の結束 けっそく にほころびが生 しょう じた結果 けっか だともされる。この事件 じけん は「牛 うし 方 かた 馬方 うまかた 騒動 そうどう 」と呼 よ ばれる。
幼少 ようしょう ゆえ牛 うし 方 かた 馬方 うまかた 騒動 そうどう の処罰 しょばつ が及 およ ばなかった加藤 かとう 忠広 ただひろ は、しかし将軍家 しょうぐんけ の跡目 あとめ 争 あらそ いに巻 ま き込 こ まれる。寛永 かんえい 9年 ねん (1632年 ねん )徳川 とくがわ 秀忠 ひでただ 死去 しきょ の際 さい 、忠長 ただなが を奉 たてまつ った家光 いえみつ 暗殺 あんさつ 計画 けいかく の怪文書 かいぶんしょ が江戸 えど 表 おもて 各 かく 大名 だいみょう 家 か に届 とど いた。江戸 えど にあった忠広 ただひろ 嫡子 ちゃくし ・光広 みつひろ はこれを幕府 ばくふ に届 とど けず、元 もと から忠長 ただなが と親 した しい間柄 あいだがら にあった加藤 かとう 氏 し は処罰 しょばつ の対象 たいしょう となった。肥後 ひご 国 こく は没収 ぼっしゅう され忠広 ただひろ は改易 かいえき 、光広 みつひろ は配流 はいる に処 しょ された。肥後 ひご へは細川 ほそかわ 氏 し が転 うたて 封 ふう された。
旧 きゅう 小西 こにし 領 りょう のうち天草 てんぐさ は熊本 くまもと 藩 はん に含 ふく まれず、 寺沢 てらさわ 広高 ひろたか の肥前 ひぜん 唐津 からつ 領 りょう 飛 と び地 ち とされた。これには、一 いち 度 ど は熊本 くまもと 藩 はん 領 りょう とされたが、熱心 ねっしん な法華 ほっけ 信者 しんじゃ だった加藤 かとう 清正 きよまさ がキリシタン が根付 ねつ く当地 とうち を嫌 きら い、豊後 ぶんご 鶴崎 つるさき との交換 こうかん を申 もう し出 で て慶長 けいちょう 8年 ねん (1603年 ねん )に認 みと められたとも言 い われる[29] が、後 ご の研究 けんきゅう で少 すく なくとも慶長 けいちょう 6年 ねん の段階 だんかい で熊本 くまもと 藩 はん 領 りょう には天草 てんぐさ が無 な く鶴崎 つるさき がある事 こと 、肥前 ひぜん 唐津 からつ 藩 はん の天草 てんぐさ 支配 しはい を示 しめ す証拠 しょうこ が見 み つかっていることから、疑問 ぎもん も呈 てい されている。
天正 てんしょう 15年 ねん (1587年 ねん )発布 はっぷ されたバテレン追放 ついほう 令 れい 以降 いこう も、小西 こにし 行長 ゆきなが 配下 はいか となった天草 あまくさ 衆 しゅう によるキリスト教 きょう 保護 ほご は続 つづ き、天草諸島 あまくさしょとう はキリシタンの本拠地 ほんきょち となってゆく。大友 おおとも 氏 し の衰退 すいたい に伴 ともな い、豊後 ぶんご にあったノビシャド (修練 しゅうれん 院 いん )やコレジオ (大神 おおがみ 学校 がっこう )が天草 てんぐさ に移 うつ り、河内 かわうち 浦 うら にノビシャド・天草 てんぐさ コレジオが建 た てられ、イエズス会 かい の司祭 しさい や修道 しゅうどう 士 し たちが滞在 たいざい して布教 ふきょう に当 あ たる傍 かたわ ら、活版 かっぱん 印刷 いんさつ 機 き を導入 どうにゅう し『イソップ物語 ものがたり 』や『平家 ひらか 物語 ものがたり 』また辞典 じてん などの出版 しゅっぱん 活動 かつどう も行 おこな われた。文 ぶん 禄 ろく 元年 がんねん (1592年 ねん )には天草 てんぐさ 4箇所 かしょ にレジデンシア(司祭 しさい 館 かん )が、慶長 けいちょう 4年 ねん (1599年 ねん )には長崎 ながさき から移 うつ されてセミナリヨ (小神 おこ 学校 がっこう )が志岐 しき に、そして翌年 よくねん には天主堂 てんしゅどう が7箇所 かしょ に建設 けんせつ された。天草諸島 あまくさしょとう 住民 じゅうみん の過半 かはん はキリスト教 きりすときょう に帰依 きえ していた。
一 いち 度 ど は洗礼 せんれい を受 う けイエズス会 かい に協力 きょうりょく 的 てき だった寺沢 てらさわ 広高 ひろたか だが、慶長 けいちょう 9年 ねん (1604年 ねん )に転 てん じて弾圧 だんあつ 側 がわ に廻 まわ った。この態度 たいど は、純粋 じゅんすい な宗教 しゅうきょう 的 てき 動機 どうき ではなく政治 せいじ 的 てき な思惑 おもわく によるとされる。慶長 けいちょう 18年 ねん (1613年 ねん )幕府 ばくふ が宣教師 せんきょうし 追放 ついほう 令 れい を出 だ すと、寺沢 てらさわ 氏 し は宣教師 せんきょうし を外国 がいこく に追放 ついほう し、レジデンシアの取 と り壊 こわ しに乗 の り出 だ した。キリシタンの指導 しどう 者 しゃ たちは転 うたて 宗 むね するまで拷問 ごうもん を受 う け、一般 いっぱん の信者 しんじゃ たちも代官 だいかん から改宗 かいしゅう を迫 せま られた。その一方 いっぽう で寺沢 てらさわ 氏 し は天草 てんぐさ に対 たい し強圧 きょうあつ 的 てき な支配 しはい を下 くだ していた。肥前 ひぜん 唐津 からつ 藩 はん による検地 けんち の結果 けっか 、天草 てんぐさ の石高 こくだか は米 べい の取 と れ高 だか で3万 まん 7千 せん 石 せき (この他 ほか 、商品 しょうひん 作物 さくもつ や漁業 ぎょぎょう ・塩 しお 業 ぎょう など5千 せん 石 せき があり、天草 あまくさ 総 そう 石高 こくだか は4万 まん 2千 せん 石 せき )とされたが、これは実力 じつりょく が伴 ともな わない過大 かだい なものであり[30] 、背景 はいけい には寺沢 てらさわ 氏 し が自 じ 藩 はん を大 おお きく見 み せかけたい見栄 みえ によるものと考 かんが えられる[29] 。しかし領民 りょうみん にはあくまで石高 こくだか 相当 そうとう の租税 そぜい が課 か され、ほぼ同 おな じ状況 じょうきょう 下 か にあった島原 しまばら 領民 りょうみん ともども搾取 さくしゅ に苦 くる しめられた。
島原 しまばら の乱 らん は寛永 かんえい 14年 ねん (1637年 ねん )10月 がつ 、島原 しまばら の代官 だいかん 家 か 襲撃 しゅうげき に始 はじ まるが、ほぼ同 おな じ時期 じき に大矢野 おおやの でも農民 のうみん が立 た ち上 あ がった。彼 かれ らは、小西 こにし 行長 ゆきなが の旧臣 きゅうしん ・益田 ますだ 好次 よしつぐ の子 こ 天草 あまくさ 四郎 しろう を「ママコス上人 しょうにん (マルコス・フェレイラ 神父 しんぷ )が預言 よげん した天童 てんどう 」と奉 ほう じて蜂起 ほうき した。連絡 れんらく を受 う けた唐津 からつ 藩 はん は1500の軍 ぐん を送 おく ったが一揆 いっき 方 かた はこれを破 やぶ り、本渡 ほんど に進 すす んだ。さらに天草 てんぐさ 支配 しはい の本拠 ほんきょ ・富岡 とみおか 城 じょう を取 と り囲 かこ んだ。しかしなかなか落 お とせず、やがて熊本 くまもと 藩 はん からの討伐 とうばつ 軍 ぐん が来 く るという噂 うわさ が流 なが れたため、一 いち 行 ぎょう は島原 しまばら に渡 わた った。その後 ご 、篭 こも った原城 はらのじょう 址 し で九州 きゅうしゅう 諸 しょ 藩 はん 軍 ぐん の総 そう 攻撃 こうげき に曝 さら され、ただ一人 ひとり の内通 ないつう 者 しゃ を除 のぞ きすべて討死 うちじに した[31] 。四郎 しろう 時貞 ときさだ を討 う ち取 と ったのは熊本 くまもと 藩 はん の陳 ちん 佐 たすく 左衛門 さえもん だった。
乱 らん の後 のち 、島原 しまばら の松倉 まつくら 氏 し は改易 かいえき 、天草 てんぐさ は寺沢 てらさわ 氏 し から備中 びっちゅう 国 こく 成羽 なりわ 藩 はん の山崎 やまざき 家治 いえはる 領地 りょうち に鞍替 くらが えされた[注 ちゅう 12] 。この際 さい 、成和 せいわ 藩 はん による調査 ちょうさ では米 べい の石高 こくだか 38,732石 せき のうち6,732石 せき が失 うしな われ3,302石 せき が荒 あ らされたとある[2- 17] 。家治 いえはる は富岡 とみおか 城 しろ 修築 しゅうちく などに乗 の り出 だ したが、寛永 かんえい 18年 ねん (1641年 ねん )讃岐 さぬき 国 こく 丸亀 まるがめ 藩 はん に転 てん 封 ふう となった。以後 いご 天草 てんぐさ は天領 てんりょう となり、代官 だいかん 鈴木 すずき 重成 しげなり が着任 ちゃくにん した。
人吉 ひとよし 城 じょう の石垣 いしがき
人吉 ひとよし 藩 はん の成立 せいりつ [ 編集 へんしゅう ]
秀吉 ひでよし の九州 きゅうしゅう 統一 とういつ の際 さい に相良 さがら 家 か 存続 そんぞく に奔走 ほんそう した深水 ふかみ 宗方 むなかた は、自身 じしん の後継 こうけい の奉行 ぶぎょう としての犬 いぬ 童 わらわ 頼 よりゆき 安 やす の嫡子 ちゃくし である犬 いぬ 童 わらわ 頼 よりゆき 兄 けい を指名 しめい したが一族 いちぞく の反対 はんたい に遭 あ い、頼 よりゆき 兄 けい と甥 おい である深水 ふかみ 頼 よりゆき 蔵 ぞう の二人 ふたり を後継 こうけい とした。当主 とうしゅ の相良 さがら 頼房 よりふさ も朝鮮 ちょうせん 出兵 しゅっぺい の際 さい に深水 ふかみ 頼 よりゆき 蔵 ぞう を軍師 ぐんし (あるいは参謀 さんぼう )、犬 いぬ 童 わらわ 頼 よりゆき 兄 けい をその補佐 ほさ としたが、両者 りょうしゃ は大変 たいへん 不仲 ふなか であり、その影響 えいきょう もあってか朝鮮 ちょうせん 出兵 しゅっぺい の留守 るす を狙 ねら い深水 ふかみ 一族 いちぞく は騒動 そうどう を起 お こしたり、加藤 かとう 清正 きよまさ を頼 たよ り佐敷 さしき に逃散するなどしたがことごとく失敗 しっぱい し、頼 よりゆき 蔵 ぞう は清正 きよまさ に就 つ き従 したが い蔚山 うるさん の戦 たたか い で死去 しきょ 、頼 よりゆき 兄 けい は相良 さがら 家 か に於 お ける地位 ちい を高 たか めていった[2- 18] 。威風 いふう を確 かく たるものにした犬 いぬ 童 わらわ 頼 よりゆき 兄 けい は関ヶ原 せきがはら の戦 たたか いでも徳川 とくがわ 方 かた との密通 みっつう で活躍 かつやく し、相良 さがら 家 か 安泰 あんたい に貢献 こうけん したが、後 のち に専横 せんおう のふるまいが目立 めだ つようになった。頼房 よりふさ は遺言 ゆいごん に頼 よりゆき 兄 けい 征伐 せいばつ を残 のこ し、継 つ いだ頼 よりゆき 寛 ひろし は断罪 だんざい を幕府 ばくふ に申 もう し出 で た。寛永 かんえい 17年 ねん (1640年 ねん )頼 よりゆき 兄 あに らは江戸 えど に呼 よ び出 だ され、稲葉 いなば 正利 まさとし 預 あず かりとされる。人吉 ひとよし に残 のこ った一族 いちぞく は屋敷 やしき に立 た て篭 こ もり反抗 はんこう したが、これも鎮圧 ちんあつ された。頼 よりゆき 兄 けい は最終 さいしゅう 的 てき に津軽 つがる へ流刑 りゅうけい となり、その地 ち で没 ぼっ した。
人吉 ひとよし 藩 はん 相良 さがら 家 か は、江戸 えど 時代 じだい の諸 しょ 藩 はん の中 なか では島津 しまつ 氏 し とともに最古 さいこ から続 つづ く家系 かけい となった。石高 こくだか は2万 まん 2千 せん 石 せき とされた。近世 きんせい 人 じん 吉城 よしき 建築 けんちく は文 ぶん 禄 ろく 年間 ねんかん から始 はじ まっていたが、本格 ほんかく 的 てき には慶長 けいちょう 12年 ねん (1607年 ねん )からとされる。人吉 ひとよし 藩 はん では兵 へい 農 のう 分離 ぶんり は行 おこな われず、各 かく 村 むら には郷 さと 侍 さむらい が居住 きょじゅう していた。
細川 ほそかわ 家 か の入部 にゅうぶ [ 編集 へんしゅう ]
寛永 かんえい 9年 ねん (1632年 ねん )、肥後 ひご 国 こく に細川 ほそかわ 忠利 ただとし が入 はい った。一 いち 行 ぎょう は先頭 せんとう に加藤 かとう 清正 きよまさ の零 れい 牌 ぱい を掲 かか げ、熊本 くまもと 城 じょう に入場 にゅうじょう すると先 ま ず清正 きよまさ 公 おおやけ 廟 びょう に遥拝 ようはい したという[注 ちゅう 13] 。隠居 いんきょ していた先代 せんだい ・忠興 ただおき は八 はち 代 だい 城 じょう に入 はい った。
戦国 せんごく 時代 じだい 、主君 しゅくん の死 し に臨 のぞ み家臣 かしん が追 お い腹 はら を切 き る風習 ふうしゅう があり、これは江戸 えど 時代 じだい 初頭 しょとう まで続 つづ いた。細川 ほそかわ 家 か では寛永 かんえい 18年 ねん (1641年 ねん )3月 がつ に藩主 はんしゅ 細川 ほそかわ 忠利 ただとし が、正保 まさやす 2年 ねん (1645年 ねん )閏 うるう 5月 がつ には弟 おとうと ・立 たて 孝 こう 、同年 どうねん 12月 がつ には前 ぜん 藩主 はんしゅ ・忠興 ただこう が、慶安 けいあん 2年 ねん (1649年 ねん )には藩主 はんしゅ 光 ひかり 尚 ひさし が没 ぼっ した。このそれぞれの際 さい 、何人 なんにん もの殉死 じゅんし 者 もの が現 あらわ れた。この時 とき の出来事 できごと を元 もと に森 もり 鷗外 は『阿部 あべ 一族 いちぞく 』『興津 おきつ 弥 わたる 五右衛門 ごえもん の遺書 いしょ 』を著 あらわ した。この作中 さくちゅう 、殉死 じゅんし した阿部 あべ 弥一 やいち 右 みぎ 衛門 えもん 子孫 しそん の悲劇 ひげき を物語 ものがた っているが、現在 げんざい ではこれは史実 しじつ に則 そく していないとされる[2- 19] 。
一方 いっぽう 、細川 ほそかわ 光 ひかり 尚 なお が没 ぼっ した際 さい 、嫡子 ちゃくし ・細川 ほそかわ 綱 つな 利 り はまだ6歳 さい であり、後継 こうけい 問題 もんだい が生 しょう じた。幕府 ばくふ は熊本 くまもと 藩 はん に薩摩 さつま の抑 おさ えを役割 やくわり づけていたため、幼少 ようしょう 藩主 はんしゅ では心許 こころもと ないと考 かんが え、国替 くにがえ もしくは宇土 うと の細川 ほそかわ 行 こう 孝 こう と熊本 くまもと 藩 はん を二分 にぶん する案 あん も提示 ていじ された。しかし、家臣 かしん が過去 かこ の功労 こうろう を挙 あ げ、また光 ひかり 尚 ひさし の忠節 ちゅうせつ 溢 あふ れた遺言 ゆいごん が好 このみ を奏 そう し、細川 ほそかわ 家 か は分裂 ぶんれつ の危機 きき を逃 のが れた。綱 つな 利 り は成長 せいちょう 後 ご の寛文 ひろふみ 6年 ねん (1666年 ねん )、弟 おとうと ・利重 とししげ を分家 ぶんけ させて肥後 ひご 新田 にった 藩 はん (江戸 えど 鉄砲 てっぽう 洲 しゅう に屋敷 やしき を持 も ったが、後 のち に肥後 ひご 高瀬 たかせ に移 うつ したことから高瀬 たかせ 藩 はん とも称 しょう する)を創設 そうせつ し、支 ささえ 藩 はん としての役割 やくわり を持 も たせた。
江戸 えど 時代 じだい の熊本 くまもと [ 編集 へんしゅう ]
熊本 くまもと 藩 はん は寛永 かんえい 12年 ねん (1635年 ねん )、領内 りょうない 全域 ぜんいき に「手 て 永 ひさし 」(てなが)という地方 ちほう 行政 ぎょうせい 区域 くいき を設定 せってい し、それぞれを管轄 かんかつ する惣 そう 庄屋 しょうや を置 お いた。この手 て 永 なが とは郡 ぐん と村 むら の中間 ちゅうかん に当 あ たる区分 くぶん で、細川 ほそかわ 氏 し が豊前 ぶぜん 小倉 こくら 藩 はん 時代 じだい から行 い っていた制度 せいど を適用 てきよう したものである。惣 そう 庄屋 しょうや には多 おお く大 だい 庄屋 しょうや や旧 きゅう 菊池 きくち ・阿蘇 あそ 氏 し 家臣 かしん などが任命 にんめい され、それぞれの手 て 永 ひさし には会所 かいしょ と呼 よ ばれる役所 やくしょ が置 お かれた。そこで惣 そう 庄屋 しょうや は年貢 ねんぐ の請負 うけおい や民政 みんせい の運営 うんえい に当 あ たった。
当 とう 初手 しょて 永 ひさし は領内 りょうない に100箇所 かしょ 以上 いじょう 設定 せってい されたが、統廃合 とうはいごう を繰 く り返 かえ して承 うけたまわ 応 おう 2年 ねん (1653年 ねん )には59へ、そして後 のち には51まで減 へ らされ固定 こてい 化 か した。江戸 えど 時代 じだい 中期 ちゅうき になると手 て 永 ひさし は地方 ちほう 行政 ぎょうせい の基本 きほん 単位 たんい としての性格 せいかく を強 つよ め、郡 ぐん 単位 たんい であった代官 だいかん を手 て 永 なが 単位 たんい に置 お き換 か え、さらには代官 だいかん を惣 そう 庄屋 しょうや の兼任 けんにん 職 しょく とするなどの改訂 かいてい が行 おこな われた。また、世襲 せしゅう 制 せい だった惣 そう 庄屋 しょうや もやがて任命 にんめい 制 せい へと変 か わり、転勤 てんきん なども実施 じっし されるようになり官僚 かんりょう 的 てき 性質 せいしつ を帯 お びた。
水前寺 すいぜんじ 成 しげる 趣 おもむき 園 えん 。一般 いっぱん には「水前寺公園 すいぜんじこうえん 」の名 な で知 し られる。
熊本 くまもと 城下町 じょうかまち は、清正 きよまさ の時代 じだい に基本 きほん 構成 こうせい が出来上 できあ がった。築城 ちくじょう に先立 さきだ ち、白川 しらかわ と合流 ごうりゅう していた井芹 いせり 川 かわ を分離 ぶんり し有明海 ありあけかい に注 そそ ぐように付 つ け替 か えた。また、坪井川 つぼいがわ も白川 しらかわ とから井芹 いせり 川 かわ へ流 なが れ込 こ む様 よう に変 か え、それぞれが熊本 くまもと 城 じょう の堀 ほり として機能 きのう するようにした。城 しろ の周辺 しゅうへん には武家 ぶけ 屋敷 やしき を置 お いたが、普請 ふしん のために古町 ふるまち ・新町 しんまち や坪井 つぼい 、そして京町 きょうまち の一部 いちぶ に町人 ちょうにん 街 がい が形成 けいせい された。長 ちょう 六 ろく 橋 きょう は、この頃 ころ 初 はじ めて造 つく られた城下 じょうか で唯一 ゆいいつ 白川 しらかわ に架 か かる橋 はし であった。細川 ほそかわ 氏 し 入部 にゅうぶ 後 ご も町 まち は発展 はってん し、整備 せいび が続 つづ いた。寛永 かんえい 13年 ねん (1634年 ねん )には細川 ほそかわ 忠利 ただとし によって水前寺 すいぜんじ が建立 こんりゅう され、これは木山 きやま 方向 ほうこう への街道 かいどう に沿 そ った茶屋 ちゃや として発達 はったつ し、細川 ほそかわ 綱 つな 利 り 時代 じだい には桃山 ももやま 文化 ぶんか 風 ふう の回遊 かいゆう 式 しき 庭園 ていえん ・成 なる 趣 おもむき 園 えん が完成 かんせい した。享 とおる 和 わ 3年 ねん (1803年 ねん )には成 なり 趣 おもむき 園 えん 横 よこ に藩 はん 営の製 せい 蝋 ろう 所 しょ が建設 けんせつ され、この蝋 ろう 運搬 うんぱん には加勢川 かせがわ から江津湖 えづこ を経 へ て川尻 かわじり まで水運 すいうん された。
中世 ちゅうせい の阿蘇 あそ は、神 かみ 亀 ひさし 3年 ねん (726年 ねん )縁起 えんぎ とされる西 にし 巌 いわお 殿 どの 寺 てら を中心 ちゅうしん に僧侶 そうりょ 修行 しゅぎょう や山伏 やまぶし 修験 しゅげん の地 ち でもあった。しかし戦国 せんごく 時代 じだい に衰退 すいたい し、秀吉 ひでよし の九州 きゅうしゅう 統一 とういつ の際 さい に焼 や き払 はら われた[32] 。これは清正 きよまさ の時代 じだい に、黒川 くろかわ 村 むら (現 げん :阿蘇 あそ 市 し 黒川 くろかわ 町 まち )に再興 さいこう された。江戸 えど 時代 じだい には大峰 おおみね 修行 しゅぎょう の傍 かたわ ら「阿蘇 あそ 講 こう 」と呼 よ ばれる観光 かんこう 案内 あんない も行 おこな われた。宝 たから 暦年 れきねん 間 あいだ (1751年 ねん - 1763年 ねん )頃 ごろ からは温泉 おんせん 地 ち としても知 し られるようになり、文化 ぶんか ・文政 ぶんせい 期 き (1804年 ねん - 1829年 ねん )には杖立 つえたて 温泉 おんせん に「湯 ゆ 亭 てい 」という温泉 おんせん 業者 ぎょうしゃ が現 あらわ れ、造 つく り酒屋 ざかや なども建 た てられた。
保 ほ 元 もと 2年 ねん (1157年 ねん )に宇野 うの 親 ちかし 春 はる が発見 はっけん したという説 せつ が残 のこ る山鹿 やまが 温泉 おんせん は、既 すで に『和名 わみょう 類聚 るいじゅう 抄 しょう 』に山鹿 やまが 郡 ぐん 温泉郷 おんせんきょう として記述 きじゅつ されている。肥後 ひご 国人 くにびと 一揆 いっき の舞台 ぶたい ともなった山鹿 やまが は、江戸 えど 時代 じだい には豊前 ぶぜん 街道 かいどう の宿場 しゅくば 町 まち として、また温泉 おんせん 町 まち として発達 はったつ した。細川 ほそかわ 忠利 ただとし は寛永 かんえい 17年 ねん (1640年 ねん )に山鹿 やまが 御茶屋 おちゃや を設 もう け、ここに尾家 おいえ 義 よし 辰 たつ と宮本 みやもと 武蔵 むさし を招 まね いている。古 ふる い由緒 ゆいしょ があるという当地 とうち の民芸 みんげい 品 ひん 山鹿 やまが 灯籠 どうろう は、和紙 わし 生産 せいさん の好 こう 地 ち であった当時 とうじ の山鹿 やまが を背景 はいけい に発達 はったつ し、寛永 かんえい 9年 ねん (1632年 ねん )将軍 しょうぐん に献上 けんじょう された。また、山鹿 やまが 灯籠 どうろう まつり も江戸 えど 時代 じだい に盛 さか んになったとされる[注 ちゅう 14] 。
小西 こにし 氏 し 改易 かいえき の後 のち 宇土 うと 城 じょう は廃 はい 城 じょう となったが、細川 ほそかわ 氏 し 時代 じだい には宇土 うど 支 ささえ 藩 はん が置 お かれ、細川 ほそかわ 行 こう 孝 こう が初代 しょだい 藩主 はんしゅ となった。ただし城 しろ は建設 けんせつ されず、陣屋 じんや を拠点 きょてん とした。彼 かれ は、轟 とどろき 水源 すいげん の湧水 わきみず を陣屋 じんや まで引 ひ き込 こ む轟 とどろき 泉水 せんすい 道 どう を建設 けんせつ しているが、この費用 ひよう は祖父 そふ ・細川 ほそかわ 忠興 ただおき の茶入 ちゃい れや掛 か け軸 じく などを本 ほん 藩 はん に売却 ばいきゃく して得 え た。
八 はち 代 だい 城 じょう (松江城 まつえじょう )は一国一城 いっこくいちじょう 令 れい の例外 れいがい として残 のこ された。これは薩摩 さつま の抑 おさ え、そして外国 がいこく 船 せん 来航 らいこう に備 そな えるためとされる。細川 ほそかわ 氏 し は正保 しょうほう 3年 ねん (1646年 ねん )、家老 がろう 職 しょく の松井 まつい 家 か を城代 じょうだい として入 い れた。この細川 ほそかわ 氏 し 入部 にゅうぶ に従 したが って上野 うえの 焼 しょう のいくつかの窯元 かまもと も肥後 ひご へ移 うつ った。このうち、忠興 ただこう とともに八 はち 代 だい 入 はい った上野 うえの 喜蔵 よしぞう 一族 いちぞく は奈良木 ならぎ で窯 かま を開 ひら き、万治 まんじ 元年 がんねん (1658年 ねん )には平山 ひらやま に場所 ばしょ を移 うつ した。これは八 はち 代 だい 焼 しょう 、または在所 ざいしょ の高田 たかだ 手 て 永 なが から取 と って高田 たかだ 焼 しょう と呼 よ ばれた。李 り 氏 し 朝鮮 ちょうせん の粉 こな 青 あお 沙 すな 器 き の流 なが れを組 く む象嵌 ぞうがん 陶器 とうき を製作 せいさく し、藩 はん の御用 ごよう 窯 かま として保護 ほご を受 う けた。また、八 はち 代 だい の特産 とくさん 物 ぶつ としては高田 たかだ 蜜柑 みかん が以前 いぜん から知 し られており、天正 てんしょう 2年 ねん (1574年 ねん )紀州 きしゅう 有田 ありた の伊藤 いとう 孫右衛門 まごえもん が八 はち 代 だい から苗木 なえぎ を持 も ち帰 かえ り蜜柑 みかん 栽培 さいばい を導入 どうにゅう したという説 せつ もある[33] 。高田 たかだ 蜜柑 みかん は九州 きゅうしゅう 遠征 えんせい 時 じ の秀吉 ひでよし への、加藤 かとう 氏 し 時代 じだい から幕府 ばくふ への献上 けんじょう 品 ひん にされた。
人吉 ひとよし の城下町 じょうかまち は、青井 あおい 阿蘇 あそ 神社 じんじゃ の門前 もんぜ 町 まち が中心 ちゅうしん だったが、近世 きんせい 人吉 ひとよし 城 じょう が建設 けんせつ されてから市域 しいき が東側 ひがしがわ へ拡大 かくだい して形成 けいせい された。これは慶長 けいちょう 12年 ねん (1607年 ねん )から寛永 かんえい 16年 ねん (1639年 ねん )頃 ごろ に出来上 できあ がったものとされる。人吉 ひとよし 藩 はん では「小成 しょうせい 物 ぶつ 」と呼 よ ばれる特徴 とくちょう 的 てき な納税 のうぜい 制度 せいど があり、米 べい 以外 いがい に綿 めん ・茶 ちゃ ・漆 うるし ・楮 こうじ 、または薪 たきぎ や木材 もくざい ・果物 くだもの など多様 たよう な品物 しなもの が納 おさ められた。特 とく に五木 いつき 地方 ちほう の茶 ちゃ と木材 もくざい は質 しつ の高 たか さで知 し られた。これらは商品 しょうひん 性 せい が高 たか く藩 はん 外 がい へ供給 きょうきゅう されたが、その商 しょう 取引 とりひき や運輸 うんゆ を扱 あつか う川船 かわぶね 問屋 とんや など商人 しょうにん が発達 はったつ したのも人吉 ひとよし の特徴 とくちょう であった。
代官 だいかん ・鈴木 すずき 重成 しげなり は天草 てんぐさ の郡村 こおりむら 行政 ぎょうせい 体制 たいせい を整備 せいび し、復興 ふっこう のために近隣 きんりん 藩 はん からの協力 きょうりょく を得 え て移 うつり 農 のう を進 すす めた。しかし、寺沢 てらさわ 氏 し が一度 いちど 幕府 ばくふ に届 とど け出 で た4万 まん 2千 せん 石 せき という数字 すうじ に付 つ きまとう徴税 ちょうぜい は如何 いか ともしがたく、重成 しげなり は繰 く り返 かえ し幕 まく 閣 かく に表高 おもてだか の半減 はんげん を働 はたら きかけた。だが先例 せんれい 主義 しゅぎ の幕府 ばくふ はなかなか承諾 しょうだく せず、ついに重成 しげなり は江戸 えど に出府 しゅっぷ して願書 がんしょ を提出 ていしゅつ し、自刃 じじん した。この重成 しげなり の死 し は幕府 ばくふ を動 うご かし、万治 まんじ 2年 ねん (1659年 ねん )の再 さい 検地 けんち によって天草 てんぐさ の石高 こくだか は2万 まん 1千 せん 石 せき に改 あらた められた。石高 こくだか の減少 げんしょう は間違 まちが いないが、自刃 じじん については、病死 びょうし 説 せつ もある。
その後 ご 寛文 ひろふみ 4年 ねん (1664年 ねん )、天草 てんぐさ は三河 みかわ 国 こく の戸田 とだ 忠昌 ただまさ の所領 しょりょう とされたが、6年 ねん 後 ご に移 うつり 封 ふう される際 さい 忠昌 ただまさ は民衆 みんしゅう の労苦 ろうく を思 おも い、天草 てんぐさ を天領 てんりょう とすべしとの建議 けんぎ を提出 ていしゅつ し認 みと められた。戸田 とだ 氏 し は富岡 とみおか 城 じょう の本丸 ほんまる ・二 に の丸 まる を破 やぶ 却し、これは「戸田 とだ の破 やぶ 城 しろ 」と呼 よ ばれる[34] 。
平地 ひらち が少 すく ない天草 てんぐさ 地方 ちほう は、干拓 かんたく で得 え たわずかな田畑 たはた のほかにサツマイモ が食生活 しょくせいかつ を支 ささ える重要 じゅうよう な農産物 のうさんぶつ であった。天草 てんぐさ では「カライモ」「カンチョ」「カンボ」などと呼 よ ばれるサツマイモは、記録 きろく 上 じょう では『天草 あまくさ 年表 ねんぴょう 事 ごと 録 ろく 』の享 とおる 保 ほ 10年 ねん (1725年 ねん )にある記述 きじゅつ が初出 しょしゅつ だが[2- 20] 、これは江戸 えど ・小石川 こいしかわ に導入 どうにゅう された時期 じき よりも古 ふる い。また海産物 かいさんぶつ も重要 じゅうよう な食材 しょくざい であった。下島 しもじま 最南端 さいなんたん の牛深 うしぶか で盛 さか んなイワシ 漁 りょう は天正 てんしょう 11年 ねん (1583年 ねん )に紀伊 きい 国 こく から移 うつ り住 す んだ岩崎 いわさき 六 ろく 兵衛 ひょうえ が伝 つた えたと言 い われる[2- 21] 。イワシは食用 しょくよう のほか、カツオ 漁 りょう の餌 えさ や干鰯 ほしか として商品 しょうひん 化 か され、地域 ちいき の経済 けいざい を支 ささ えた。
肥後 ひご 54万 まん 石 せき という石高 こくだか は、天正 てんしょう 16年 ねん (1588年 ねん )に行 おこな われた太閤 たいこう 検地 けんち で明 あき らかになった数字 すうじ である。入部 にゅうぶ した加藤 かとう 清正 きよまさ は領内 りょうない の治水 ちすい や新田 にった 開発 かいはつ を積極 せっきょく 的 てき に進 すす め、各 かく 河川 かせん の改修 かいしゅう や井手 いで (用水路 ようすいろ ) ・堰 せき の建設 けんせつ などを行 おこな った。白川 しらかわ 流域 りゅういき の瀬田 せた 上井手 かみいで ・馬場楠 ばばぐす 井手 いで [35] 、緑川 みどりかわ の鵜 う の瀬 せ 堰 せき [36] 、球磨川 くまがわ 下流 かりゅう の遙拝 ようはい 堰 せき [37] などが清正 きよまさ 治水 ちすい の例 れい に挙 あ げられる。これらによって慶長 けいちょう 13年 ねん (1608年 ねん )の検地 けんち では、肥後 ひご 石高 こくだか は75万 まん 石 せき にまで上 あ がった。このような大 だい 規模 きぼ な開発 かいはつ は国人 くにびと 割拠 かっきょ の時代 じだい には不可能 ふかのう であり、恩恵 おんけい を受 う ける民衆 みんしゅう は過去 かこ を顧 かえり みることはなくなり、清正 きよまさ 人気 にんき をさらに高 たか めた[23] 。細川 ほそかわ 氏 し 時代 じだい になっても有明海 ありあけかい 干拓 かんたく などによる新田 にった 開発 かいはつ は続 つづ いた。
通 つう 潤 じゅん 橋 きょう
江戸 えど 時代 じだい 後期 こうき 、農村 のうそん の疲弊 ひへい が問題 もんだい になると惣 そう 庄屋 しょうや 層 そう が救済 きゅうさい を目的 もくてき に行 おこな う灌漑 かんがい 工事 こうじ が増 ふ えた。その代表 だいひょう 例 れい になる通 つう 潤 じゅん 橋 きょう は、矢部 やべ 手 しゅ 永 なが の惣 そう 庄屋 しょうや ・布田 ぬのた 保之助 やすのすけ が立案 りつあん 計画 けいかく し、種山 たねやま 石工 せっこう らが架橋 かきょう して完成 かんせい を見 み た。この橋 はし によって水 みず に乏 とぼ しい白糸 しらいと 台地 だいち 40町 まち への通 つう 水 すい が可能 かのう となった。布田 ぬのた はこの他 ほか にも13の石橋 いしばし を建設 けんせつ 、溜池 ためいけ や用水路 ようすいろ 設置 せっち 、道路 どうろ 整備 せいび などを進 すす めた。この通 つう 潤 じゅん 橋 きょう 建設 けんせつ の手本 てほん となった雄 お 亀 かめ 滝 たき 橋 きょう は、計画 けいかく ・惣 そう 庄屋 しょうや 三 さん 隅 すみ 丈 たけ 八 はち 、施工 しこう ・岩永 いわなが 三 さん 五 ご 郎 ろう によって架橋 かきょう された。後 ご 、三隅 みすみ 丈 たけ 八 はち は明治 めいじ 政府 せいふ に招 まね かれて東京 とうきょう 日本橋 にほんばし や皇居 こうきょ の二重橋 にじゅうばし 建設 けんせつ にも関与 かんよ するなど、肥後 ひご の石工 せっこう 技術 ぎじゅつ の高 たか さを示 しめ した。
人吉盆地 ひとよしぼんち 球磨川 くまがわ 上流 じょうりゅう には、支流 しりゅう まで加 くわ えると総 そう 延長 えんちょう 数 すう 十 じゅう km に及 およ ぶ農業 のうぎょう 用水路 ようすいろ ・百太郎 ももたろう 溝 みぞ がある。この建設 けんせつ は16世紀 せいき 末 まつ に始 はじ まるとされ、球磨川 くまがわ に設 もう けられた百太郎 ももたろう 堰 せき から多良木 たらき 村 むら までが作 つく られた。以後 いご 工事 こうじ が続 つづ けられて支流 しりゅう の原田川 はらたがわ まで繋 つな がった水路 すいろ は流域 りゅういき の田畑 たはた を潤 うるお した。何 なに を由来 ゆらい に名 な づけられたか判 わか らない水路 すいろ は、[38] 多 おお くの百姓 ひゃくしょう が労力 ろうりょく をかけて建設 けんせつ されたものである。元禄 げんろく 期 き からは藩士 はんし ・高橋 たかはし 政重 まさしげ が主導 しゅどう し、幸野 ゆきの 溝 みぞ が設 もう けられた。これらの灌漑 かんがい 溝 みぞ は、新 あら たに1万 まん 石 せき 以上 いじょう の新田 にった 開発 かいはつ を可能 かのう にし、また木材 もくざい の運搬 うんぱん にも用 もち いられた。
古代 こだい から豊 ゆた かな農産 のうさん 地 ち として知 し られ、藩 はん による治水 ちすい 灌漑 かんがい が盛 さか んに行 おこな われた肥後 ひご も、江戸 えど 時代 じだい に起 お こった飢饉 ききん の影響 えいきょう を免 まぬか れることはできなかった。寛永 かんえい 11年 ねん (1634年 ねん )の凶作 きょうさく 、翌年 よくねん の大風 おおかぜ 雨 う がもたらした田畑 たはた や家屋 かおく への被害 ひがい に始 はじ まった寛永 かんえい の大 だい 飢饉 ききん は高齢 こうれい 者 しゃ や病人 びょうにん など弱者 じゃくしゃ を中心 ちゅうしん に多 おお くの餓死 がし 者 もの を生 う んだ。これは、島原 しまばら ・天草 てんぐさ の乱 らん を引 ひ き起 お こした一因 いちいん ともされる。寛永 かんえい 18年 ねん (1641年 ねん )は最悪 さいあく な状況 じょうきょう となり、害虫 がいちゅう の発生 はっせい による田畑 たはた への被害 ひがい は種籾 たねもみ の確保 かくほ にも支障 ししょう をきたす程 ほど で、幕府 ばくふ や藩 はん は対応 たいおう に追 お われた。
享 とおる 保 ほ の大 だい 飢饉 ききん では、既 すで に享 とおる 保 ほ 14年 ねん (1729年 ねん )頃 ごろ から旱魃 かんばつ や大風 おおふう などによる収穫 しゅうかく 減 げん は始 はじ まっており、また厄介 やっかい な螟虫 ずいむし が発生 はっせい し充分 じゅうぶん な駆除 くじょ が出来 でき ないままに享 とおる 保 ほ 17年 ねん の長雨 ながあめ と冷夏 れいか を迎 むか えてしまった。収穫 しゅうかく は平年 へいねん の11%程 ほど にしかならず、御 ご 救 すくい 米 まい の拠出 きょしゅつ などの支出 ししゅつ が重 かさ なり、熊本 くまもと 藩 はん の財政 ざいせい は悪化 あっか した。そのため藩札 はんさつ 発行 はっこう 許可 きょか を幕府 ばくふ から得 え たが、現 げん 銀 ぎん の準備 じゅんび が無 な いままに発行 はっこう された銀 ぎん 札 さつ は信用 しんよう に劣 おと り、割引 わりびき 率 りつ の高 たか さや取 と り付 つ け騒動 そうどう などが起 お こり、早々 そうそう に停止 ていし された。
細川 ほそかわ 宗孝 むねたか の時代 じだい 、寛 ひろし 保 ほ 二 に 年 ねん 江戸 えど 洪水 こうずい があり、西国 さいごく 大名 だいみょう の手伝 てつだ い普請 ふしん のために、藩 はん の財政 ざいせい は悪化 あっか した。
享 とおる 保 ほ 年間 ねんかん 以降 いこう 、肥後 ひご は断続 だんぞく 的 てき な飢饉 ききん に見舞 みま われ続 つづ けた。天明 てんめい の大 だい 飢饉 ききん の頃 ころ には村 むら 々の囲 かこえ 米 まい が底 そこ をつき、農村 のうそん から都市 とし 部 ぶ へ出 で て乞食 こじき をして食 く いつなごうとする者 もの も多 おお かった。天明 てんめい 3年 ねん (1783年 ねん )に肥後 ひご を旅行 りょこう した古川 ふるかわ 小松 こまつ 軒 のき は、棄農者 しゃ が熊本 くまもと へ向 む かう道中 どうちゅう で餓死 がし した様 よう などを伝 つた え、耳 みみ にしていた熊本 くまもと 藩 はん の仁政 じんせい も虚像 きょぞう だったのだと記録 きろく した。この時期 じき 、幕府 ばくふ は浅間山 あさまやま 噴火 ふんか の被害 ひがい を受 う けた信濃川 しなのがわ などの修復 しゅうふく 普請 ふしん を熊本 くまもと 藩 はん に命 めい じており、自 じ 藩 はん の状況 じょうきょう に関 かか わらず出費 しゅっぴ を強 し いられていた。
寛永 かんえい 3年 ねん (1791年 ねん )4月 がつ 朔日 さくじつ 、2度 ど の大 だい 地震 じしん によって島原 しまばら ・眉山 びざん が崩落 くずれおち 、大量 たいりょう の土石流 どせきりゅう が海 うみ に注 そそ いで津波 つなみ を起 お こし、有明海 ありあけかい 沿岸 えんがん に大 おお きな被害 ひがい をもたらした。熊本 くまもと 藩 はん では死者 ししゃ 5520人 にん 、家屋 かおく 流出 りゅうしゅつ 2252棟 むね 、田畑 たはた 約 やく 2252町 まち が損害 そんがい を受 う けた。天草 てんぐさ 天領 てんりょう では死者 ししゃ 343人 にん 、田畑 たはた の損害 そんがい は約 やく 65町 まち に上 のぼ った。
百姓 ひゃくしょう 一揆 いっき [ 編集 へんしゅう ]
熊本 くまもと 藩 はん は一揆 いっき が少 すく なく、それは強固 きょうこ な地方 ちほう 支配 しはい の傍証 ぼうしょう とまでされていた。しかし近年 きんねん 、実際 じっさい には約 やく 90件 けん の一揆 いっき が領内 りょうない で勃発 ぼっぱつ し、人吉 ひとよし や天草 てんぐさ を含 ふく む近世 きんせい の肥後 ひご 国 こく では100件 けん を越 こ えていたことが明 あき らかになっている。これは、西日本 にしにほん では伊予 いよ 国 こく と並 なら んで最 さい 頻 しき の部類 ぶるい に当 あ たる[2- 22] 。熊本 くまもと 藩 はん で起 お こった一揆 いっき の特徴 とくちょう は、先 ま ず規模 きぼ の小 ちい ささがあり、300人 にん 以下 いか の一揆 いっき が多 おお かった。またその理由 りゆう についても、租税 そぜい など賦役 ふえき の減免 げんめん を求 もと めるものと並 なら び、藩札 はんさつ の信用 しんよう 不安 ふあん に基 もと づく都市 とし 騒動 そうどう 、庄屋 しょうや や村役人 むらやくにん の罷免 ひめん 要求 ようきゅう も多 おお かった。ただし惣 そう 庄屋 しょうや 排斥 はいせき を掲 かか げた一揆 いっき の記録 きろく は無 な く、逆 ぎゃく に寛政 かんせい 元年 がんねん (1789年 ねん )には惣 そう 庄屋 しょうや 転出 てんしゅつ に反対 はんたい し矢部 やべ の農民 のうみん が熊本 くまもと 城 じょう に押 お しかけるという例 れい もあった。延喜 えんぎ 4年 ねん (1747年 ねん )には7000〜8000人 にん が参加 さんか した熊本 くまもと 藩 はん 最大 さいだい の一揆 いっき が葦北 いほく 郡 ぐん で起 お きているが、これも堤防 ていぼう 工事 こうじ で尽力 じんりょく し[39] 農民 のうみん に理解 りかい を示 しめ していた郡代 ぐんだい ・稲津 いなつ 弥 わたる 右 みぎ 衛門 えもん の罷免 ひめん 取 と り消 け しを求 もと めた強訴 ごうそ だった。
寛政 かんせい 年間 ねんかん の頃 ころ には、凶作 きょうさく や御 ご 普請 ふしん 御 お 手伝 てつだえ などの原因 げんいん から人吉 ひとよし 藩 はん は財政 ざいせい が貧窮 ひんきゅう していた。武士 ぶし の家 いえ 禄 ろく 返上 へんじょう など倹約 けんやく 策 さく が続 つづ く中 なか 、文政 ぶんせい 4年 ねん (1821年 ねん )家老 がろう 職 しょく に就 つ いた田代 たしろ 政典 まさのり による改革 かいかく を断行 だんこう し、殖産 しょくさん 興業 こうぎょう 策 さく として苧 からむし ・楮 こうぞ ・椎茸 しいたけ などの栽培 さいばい と座 ざ による専売 せんばい を実施 じっし した。この計画 けいかく のため椎茸 しいたけ を栽培 さいばい する山 やま への立 た ち入 い りが禁 きん じられ、折 おり からの凶作 きょうさく による飢 う えを山菜 さんさい などで凌 しの いでいた農民 のうみん の反発 はんぱつ を買 か った。天保 てんぽう 12年 ねん (1841年 ねん )2月 がつ 2日 にち に始 はじ まった一揆 いっき は椎茸 しいたけ 山 やま を打 う ち壊 こわ し、9日 にち には総勢 そうぜい 15000人 にん の一揆 いっき 方 かた が町中 まちなか で特権 とっけん 階級 かいきゅう 業者 ぎょうしゃ の屋敷 やしき などを襲 おそ った。これは「茸 たけ 山 やま 騒動 そうどう 」と呼 よ ばれる。一揆 いっき 側 がわ には門葉 もんよう (相良 さがら 一族 いちぞく 、小 しょう 衆議 しゅうぎ 派 は と呼 よ ばれる)の相良 さがら 左 ひだり 仲 なか 頼 よりゆき 直 ただし がつき、農民 のうみん の要求 ようきゅう を藩 はん に受 う け入 い れさせることで一揆 いっき は収束 しゅうそく した。田代 たしろ 政典 まさのり は自 みずか ら自害 じがい に及 およ び、相良 さがら 左 ひだり 仲 なか は一揆 いっき 先導 せんどう の嫌疑 けんぎ にて切腹 せっぷく の命 いのち に服 ふく した。
天領 てんりょう 天草 てんぐさ では、銀 ぎん 主 ぬし (ぎんし)と呼 よ ばれる有力 ゆうりょく 者 しゃ による実効 じっこう 支配 しはい が進 すす んだ。商 しょう 工業 こうぎょう や貸金 かしきん などで蓄財 ちくざい し、田地 でんち の買占 かいし めを行 おこな った銀 ぎん 主 ぬし は農民 のうみん の小作 こさく ・貧農 ひんのう 家 か を促進 そくしん した。現在 げんざい の五和 ごわ 町 まち にあった石本 いしもと 家 か は薩摩 さつま の調 しらべ 所 しょ 広郷 ひろさと と協力 きょうりょく して琉球 りゅうきゅう 貿易 ぼうえき を行 おこな ったり[2- 23] 、幕府 ばくふ への貢 みつぎ 納 おさめ が評価 ひょうか され帯刀 たいとう を許 ゆる されるなどの権勢 けんせい を誇 ほこ った。飢饉 ききん や大 だい 庄屋 しょうや の不正 ふせい (明和 めいわ 8年 ねん (1771年 ねん )の「出 で 米 まい 騒動 そうどう 」など)によって鬱積 うっせき した農民 のうみん の不満 ふまん はやがて銀 ぎん 主 ぬし に向 む けられ、打 う ちこわしや松平 まつだいら 定信 さだのぶ への農民 のうみん 駕 が 籠 かご 訴 などが生 しょう じた。これらを受 う け、寛政 かんせい 5年 ねん (1793年 ねん )と8年 ねん (1796年 ねん )には「天草 あまくさ 郡 ぐん 百姓 ひゃくしょう 相続 そうぞく 方 かた 仕法 しほう 」(あまくさぐんひゃくしょうあいつづけかたしほう)が発令 はつれい された。特 とく に後者 こうしゃ は「天下 てんか 無双 むそう の徳政 とくせい 」とまで言 い われた、農民 のうみん 側 がわ に立 た った画期的 かっきてき 政策 せいさく だった。だが、文政 ぶんせい 9年 ねん (1826年 ねん )に仕法 しほう 運用 うんよう 期間 きかん が切 き れ3年 ねん 後 ご に大 だい 凶作 きょうさく が襲 おそ うと、銀 ぎん 主 ぬし と仕法 しほう 復活 ふっかつ を望 のぞ む農民 のうみん の間 あいだ で対立 たいりつ が激化 げきか し、天保 てんぽう 14年 ねん (1843年 ねん )と弘 ひろし 化 か 2年 ねん (1845年 ねん )には大 だい 一揆 いっき が勃発 ぼっぱつ した。天保 てんぽう 大 だい 一揆 いっき では25000人 にん 、弘 ひろし 化 か 大 だい 一揆 いっき では最大 さいだい 15000人 にん が加 くわ わった。弘 ひろし 化 か 年間 ねんかん の一揆 いっき では幕府 ばくふ は強硬 きょうこう 策 さく に出 で て、長崎 ながさき 代官 だいかん や島原 しまばら 藩 はん からの出兵 しゅっぺい により鎮圧 ちんあつ 。146人 にん の逮捕 たいほ と首謀 しゅぼう 者 しゃ の獄門 ごくもん で対処 たいしょ した。農民 のうみん に対 たい しては、不充分 ふじゅうぶん ながら施行 しこう された仕法 しほう が幕末 ばくまつ まで断続 だんぞく 的 てき に行 おこな われ、多少 たしょう なりとも不満 ふまん を慰撫 いぶ した。
「肥後 ひご の鳳凰 ほうおう 」細川 ほそかわ 重賢 しげかた
宝 たから 暦 れき の改革 かいかく [ 編集 へんしゅう ]
江戸 えど 中期 ちゅうき の熊本 くまもと 藩 はん 財政 ざいせい は厳 きび しい状態 じょうたい にあった。その頃 ころ に当 あ たる延喜 えんぎ 4年 ねん (1747年 ねん )、第 だい 5代 だい 藩主 はんしゅ 細川 ほそかわ 宗孝 むねたか が江戸 えど 表 ひょう で遠江 とおとうみ 国 こく 相良 さがら 藩 はん の旗本 はたもと ・板倉 いたくら 勝 まさる 該 に殺傷 さっしょう された。人違 ひとちが いの末 すえ の事件 じけん だったが、宗 そう 孝 たかし には子 こ が無 な かったため弟 おとうと の細川 ほそかわ 重賢 しげかた が跡目 あとめ を継 つ いだ。重賢 しげかた は長 なが い江戸 えど 藩邸 はんてい での部屋住 へやず み時代 じだい に、学問 がくもん に打 う ち込 こ むかたわら、自 じ 藩 はん の貧窮 ひんきゅう 状態 じょうたい を実感 じっかん していた。彼 かれ は肥後 ひご 入国 にゅうこく 以後 いご 次々 つぎつぎ と宝 たから 暦 れき の改革 かいかく と呼 よ ばれる政策 せいさく を打 う ち出 だ して藩 はん の建 た て直 なお しを行 おこな い、熊本 くまもと 藩 はん 中興 ちゅうこう の祖 そ と、また「肥後 ひご の鳳凰 ほうおう 」と賞賛 しょうさん された。重賢 しげかた は入国 にゅうこく とほぼ同時 どうじ に「申聞 もうしきけ 置 おけ 条々 じょうじょう 」を示 しめ し、まず綱紀 こうき 粛正 しゅくせい を打 う ち出 だ した。次 つ いで、財政 ざいせい 再建 さいけん や行政 ぎょうせい ・刑法 けいほう 改革 かいかく 、殖産 しょくさん 興業 こうぎょう や藩校 はんこう 時 じ 習館創立 そうりつ など、また検地 けんち を実施 じっし し領内 りょうない 年貢 ねんぐ 課 か の不公平 ふこうへい を是正 ぜせい するなど、次々 つぎつぎ と手 て を打 う った。この一連 いちれん の改革 かいかく において重賢 しげかた の右腕 うわん となったのは、御 ご 用人 ようにん から抜擢 ばってき を受 う けて大 だい 奉行 ぶぎょう となった堀 ほり 勝 まさる 名 めい であった。
宝 たから 暦 れき の改革 かいかく の中 なか で特筆 とくひつ すべき一 ひと つは、日本 にっぽん 最初 さいしょ の刑法 けいほう 典 てん とされる『刑法 けいほう 叢書 そうしょ 』の編纂 へんさん がある。従来 じゅうらい の追放 ついほう 刑 けい を廃止 はいし して鞭打 むちう ち ・懲役 ちょうえき 刑 けい を追加 ついか し、受刑 じゅけい 者 しゃ には藩 はん の公的 こうてき 作業 さぎょう を通 とお して技能 ぎのう 習得 しゅうとく をさせるなど生活 せいかつ 支援 しえん も行 おこな った。殖産 しょくさん 興業 こうぎょう ではハゼノキ や八 はち 代 だい の干拓 かんたく 地 ち で栽培 さいばい されたイグサ の育成 いくせい 、藩 はん 直営 ちょくえい で行 おこな われた木蝋 もくろう 製造 せいぞう がある。養蚕 ようさん も奨励 しょうれい されたが、その結実 けつじつ は寛政 かんせい 期 き 以降 いこう になってもたらされた。
宝 たから 暦 れき 4年 ねん (1754年 ねん )(宝 たから 暦 れき 5年 ねん -1755年 ねん ともされる[40] )重賢 しげかた によって設立 せつりつ された藩校 はんこう 時 じ 習館(総 そう 教 きょう は長岡 ながおか 忠英 ただひで )は、藩政 はんせい 刷新 さっしん を担 にな う藩士 はんし 育成 いくせい にあった。寛文 ひろふみ 年間 ねんかん (1661年 ねん – 1673年 ねん )熊本 くまもと で最 もっと も盛 さか んな学問 がくもん は陽明学 ようめいがく だったが、幕府 ばくふ の方針 ほうしん に倣 なら い朱子学 しゅしがく 中心 ちゅうしん へと移行 いこう していた。4代 だい 藩主 はんしゅ 細川 ほそかわ 宣 せん 紀 き は昌平 しょうへい 黌出身 しゅっしん の秋山 あきやま 玉山 ぎょくざん を重宝 ちょうほう し、玉山 たまやま は宗 そう 孝 たかし にも仕 つか え、そのまま重賢 しげかた の時 とき 習館で初代 しょだい 教授 きょうじゅ 職 しょく に就任 しゅうにん した。ここは、藩士 はんし のみならず、足軽 あしがる や陪臣 ばいしん 、果 は ては庶民 しょみん の子弟 してい でも承認 しょうにん を受 う ければ入館 にゅうかん できた。ここには武芸 ぶげい 所 しょ も併設 へいせつ され、生徒 せいと は文部 もんぶ 両道 りょうどう の教育 きょういく を受 う けた。
時 どき 習館とほぼ同 おな じ宝 たから 暦 れき 6年 ねん (1756年 ねん )、すでに私塾 しじゅく を持 も ち、重賢 しげかた を治療 ちりょう した医師 いし ・村井 むらい 見 み 朴 ほお は細川 ほそかわ 重賢 しげかた の命 いのち で医 い 学校 がっこう である再春館 さいしゅんかん (学校 がっこう ) を宮寺 みやでら 村 むら (現 げん ・二本木 にほんぎ )に創設 そうせつ した[41] [注 ちゅう 15] 。これは薬園 やくえん ・蕃 しげる 滋 しげる 園 えん [42] を持 も ち、医学 いがく とともに薬学 やくがく も研究 けんきゅう された。ここでは殖産 しょくさん 興業 こうぎょう の一環 いっかん として朝鮮人参 ちょうせんにんじん の栽培 さいばい 研究 けんきゅう も行 おこな われた。
きりしたん崩 くず れと流人 るにん たち [ 編集 へんしゅう ]
文化 ぶんか 2年 ねん (1805年 ねん )、天草 てんぐさ で大量 たいりょう の隠 かく れキリシタンが発覚 はっかく する事件 じけん (天草 あまくさ 崩 くず れ )が起 お きた。その2年 ねん 前 まえ 、今富 いまとみ 村 むら (現 げん :河浦 かわうら 町 まち )で牛 うし が殺 ころ される事件 じけん があったが、これは祝日 しゅくじつ に牛 うし を神 かみ に捧 ささ げるキリシタンの行為 こうい ではとみなされ、極秘 ごくひ に調査 ちょうさ が行 おこな われていた。この探索 たんさく には国 くに 照寺 しょうじ 住職 じゅうしょく の大成 たいせい と今富 いまとみ 村 むら 庄屋 しょうや の上田 うえだ 友三郎 ともさぶろう が当 あ たっていた。その結果 けっか 、4つの村 むら に総勢 そうぜい 5200人 にん の信者 しんじゃ がいることが判明 はんめい した。この処遇 しょぐう について報告 ほうこく を受 う けた幕府 ばくふ は、稀 まれ に見 み る寛大 かんだい な措置 そち を取 と った。既 すで に取 と り調 しら べの段階 だんかい で転 うたて 宗 むね を説得 せっとく し、キリスト像 ぞう の破 やぶ 却や踏絵 ふみえ または改宗 かいしゅう を誓 ちか う文書 ぶんしょ の提出 ていしゅつ などが行 おこな われていたこともあって、最終 さいしゅう 的 てき には「先祖 せんぞ 伝来 でんらい の風習 ふうしゅう を盲目的 もうもくてき に受 う け継 つ いでいた」だけとして誰 だれ 一人 ひとり 処罰 しょばつ されなかった。
この決定 けってい の背後 はいご には、友三郎 ともさぶろう の兄 あに ・上田 うえだ 宜 よろし 珍 めずらし の存在 そんざい が影響 えいきょう したとされる。天草 てんぐさ 行政 ぎょうせい を委託 いたく されていた島原 しまばら 藩 はん 松平 まつへい 家 か は天領 てんりょう で伴天連 ばてれん 騒動 そうどう が起 お きることを恐 おそ れ、以前 いぜん から宜 むべ 珍 ちん ら庄屋 しょうや 層 そう と接触 せっしょく を持 も っていた。「天草 あまくさ 崩 くず れ」発覚 はっかく において信者 しんじゃ 説得 せっとく に宜 むべ 珍 ちん らは奔走 ほんそう し、事 こと を穏便 おんびん に済 す ませた[43] 。宜 むべ 珍 ちん は天草 てんぐさ 民衆 みんしゅう の貧窮 ひんきゅう 解消 かいしょう にも心 しん を砕 くだ き、質 しつ が高 たか い地元 じもと 産 さん の天草 てんぐさ 石 せき に眼 め をつけて陶器 とうき 製造 せいぞう の検討 けんとう にも乗 の り出 だ した。かさむ物流 ぶつりゅう 費 ひ から陶器 とうき 製造 せいぞう は頓挫 とんざ したが、天草 てんぐさ 石 せき そのものを砥石 といし として販売 はんばい する道筋 みちすじ を立 た てた。宜 むべ 珍 ちん はまた、天草 てんぐさ の歴史 れきし を伝 つた える『天草 てんぐさ 嶋 しま 鏡 きょう 』著述 ちょじゅつ や、地図 ちず 編纂 へんさん のために訪 おとず れた伊能 いのう 忠敬 ちゅうけい から測量 そくりょう 術 じゅつ を学 まな ぶなどの事 こと 歴 れき を残 のこ した[44] 。
江戸 えど 時代 じだい を通 つう じて、天草 てんぐさ は流罪 るざい の刑 けい 地 ち でもあった。江戸 えど や京 きょう ・大 だい 坂 さか などから遠島 えんとう 処分 しょぶん にあった罪人 ざいにん たちは、各 かく 村 むら 々に割 わ り当 あ てられた。彼 かれ らと村人 むらびと の間 あいだ ではトラブルも多 おお く生 しょう じ、天草 てんぐさ の住人 じゅうにん や村役人 むらやくにん たちは何 なん 度 ど も流刑 りゅうけい 地 ち 免除 めんじょ 願 ねが いを幕府 ばくふ に提出 ていしゅつ したが、認 みと められることは無 な かった。その一方 いっぽう で、天保 てんぽう 3年 ねん (1832年 ねん )に讒言 ざんげん で罪 つみ を得 え た知 ち 恩 おん 院 いん 門主 もんしゅ の大 だい 僧都 そうず ・定 てい 舜 しゅん 上人 しょうにん (残夢 ざんむ 道人 どうじん )は当地 とうち で学問 がくもん を授 さづ けるなど、その高 たか い徳 とく から尊敬 そんけい を集 あつ めた。上人 しょうにん は明治 めいじ 政府 せいふ の特赦 とくしゃ を得 え たが、天草 てんぐさ へ止 と まり、1875年 ねん (明治 めいじ 8年 ねん )に生涯 しょうがい を終 お えた。
幕末 ばくまつ の熊本 くまもと [ 編集 へんしゅう ]
実学 じつがく 党 とう と勤皇 きんのう 党 とう [ 編集 へんしゅう ]
文化 ぶんか 6年 ねん (1809年 ねん )に生 う まれた横井 よこい 小楠 しょうなん は秀才 しゅうさい の誉 ほま れ高 たか く、時 とき 習館寮長 りょうちょう を経 へ て江戸 えど 遊学 ゆうがく を許 ゆる された。その地 ち で藤田 ふじた 東湖 とうこ などとの交流 こうりゅう を持 も ち、水戸 みと 学 まなぶ の影響 えいきょう を大 おお いに受 う けた。酒 さけ の失敗 しっぱい で帰国 きこく し謹慎 きんしん 中 ちゅう 、彼 かれ は勉学 べんがく を通 とお して訓詁 くんこ 学 がく 的 てき 朱子学 しゅしがく を教 おし える時 とき 習館を否定 ひてい する側 がわ に回 まわ り、李 り 滉 ひろし 学派 がくは の儒者 じゅしゃ ・大塚 おおつか 退 すさ 野 の の影響 えいきょう を色濃 いろこ く受 う け、道理 どうり の実践 じっせん を重視 じゅうし する思想 しそう を身 み につけた。これには家老 がろう の長岡 ながおか 是 ただし 容 よう らが賛同 さんどう し、共 とも に学 まな びながら、やがて政治 せいじ 改革 かいかく を思考 しこう する「実学 じつがく 党 とう 」結成 けっせい へと発展 はってん していった。
幅広 はばひろ い支持 しじ を受 う ける実学 じつがく 党 とう は、奢侈 しゃし 排除 はいじょ や農村 のうそん 復興 ふっこう 、特権 とっけん 商人 しょうにん 排斥 はいせき などを掲 かか げる「時務 じむ 策 さく 」を示 しめ して藩政 はんせい に意見 いけん した。これには主流 しゅりゅう 派 は であり時 とき 習館教義 きょうぎ を採 と る保守 ほしゅ 傾向 けいこう を持 も った「学校 がっこう 党 とう 」の反発 はんぱつ を生 う み、両者 りょうしゃ は長 なが く対立 たいりつ することになる。弘 ひろし 化 か 年間 ねんかん に交流 こうりゅう があった江戸 えど の徳川 とくがわ 斉昭 なりあき らが蟄居 ちっきょ の処分 しょぶん を受 う けると実学 じつがく 党 とう も影響 えいきょう を被 こうむ り、長岡 ながおか 是 ただし 容 よう は家老 がろう 職 しょく を罷免 ひめん されるなど発言 はつげん 力 りょく を急速 きゅうそく に失 うしな った。その後 ご 、安政 あんせい 年間 ねんかん に実学 じつがく 党 とう は、是 ぜ 容 よう を中心 ちゅうしん とした「明徳 めいとく 派 は 」(坪井 つぼい 派 は )と、小楠 しょうなん 中心 ちゅうしん の「新 しん 民 みん 派 は 」(沼山津 ぬやまづ 派 は )に分裂 ぶんれつ する。当 とう の横井 よこい 小楠 しょうなん は魏 ぎ 源 げん の『海国 かいこく 図 ず 誌 し 』に影響 えいきょう され、開国 かいこく と富国強兵 ふこくきょうへい 策 さく を奉 ほう じるが、熊本 くまもと 藩 はん では理解 りかい を得 え られず、松平 まつだいら 春 はる 嶽 だけ の求 もと めに応 おう じて福井 ふくい 藩 はん へ活躍 かつやく の場 ば を移 うつ した。
また、熊本 くまもと 藩 はん には国学 こくがく を掲 かか げる「勤皇 きんのう 党 とう 」も生 う まれた。 高本 たかもと 紫 むらさき 溟 は本 ほん 居 きょ 宣長 のりなが とも親交 しんこう があり、時 とき 習館の教授 きょうじゅ 職 しょく 時代 じだい には同館 どうかん に国学 こくがく 教科 きょうか を加 くわ えもした。思想家 しそうか 林 はやし 桜 さくら 園 えん は紫 むらさき 溟の弟子 でし ・長瀬 ながせ 真幸 まさき に学 まな び、熊本 くまもと 城内 じょうのうち の千葉城 ちばじょう に[45] 私塾 しじゅく 「原道 はらみち 館 かん 」を創立 そうりつ し、2000人 にん ともいわれる弟子 でし に国学 こくがく を教 おし えた[46] 。
幕末 ばくまつ 、人吉 ひとよし 藩 はん は新宮 しんぐう 行蔵 こうぞう らが教 おし える山鹿 やまが 流 りゅう 兵法 ひょうほう が主流 しゅりゅう だったが、幕府 ばくふ の講 こう 武 たけ 所 しょ で世話 せわ 役 やく を務 つと めていた松本 まつもと 了 りょう 一郎 いちろう が洋式 ようしき 兵制 へいせい を持 も ち込 こ み、両者 りょうしゃ の対立 たいりつ が激化 げきか した。文久 ぶんきゅう 2年 ねん (1862年 ねん )、城下 じょうか の火災 かさい で武具 ぶぐ 類 るい が焼失 しょうしつ したことを期 き に松本 まつもと らが藩 はん の武装 ぶそう を洋式 ようしき へ切 き り替 か えるよう主張 しゅちょう したが、藩主 はんしゅ ・相良 さがら 頼 よりゆき 基 もと は許可 きょか しなかった。慶応 けいおう 元年 がんねん (1865年 ねん )、洋式 ようしき 派 は が頑 かたく なな頼 よりゆき 基 もと を廃 はい する計画 けいかく を立 た てているとの噂 うわさ が流 なが れ、藩 はん は山鹿 やまが 流派 りゅうは に松本 まつもと らを討 う たせた。これは丑 うし 歳 とし 騒動 そうどう と呼 よ ばれ、洋式 ようしき 派 は に同情 どうじょう が寄 よ せられた。藩 はん は武装 ぶそう の再 さい 整備 せいび に一部 いちぶ 洋式 ようしき を取 と り入 い れたが、慶応 けいおう 3年 ねん には次代 じだい の趨勢 すうせい に乗 の り洋式 ようしき 兵制 へいせい へ全面 ぜんめん 的 てき に切 き り替 か えた。この際 さい 、人吉 ひとよし 藩 はん は指導 しどう を薩摩 さつま 藩 はん から受 う けたが、その影響 えいきょう によって公武 こうぶ 合体 がったい から倒幕 とうばく への傾斜 けいしゃ が強 つよ まっていった。
元治 もとはる 元年 がんねん (1864年 ねん )8月 がつ 、幕府 ばくふ は九州 きゅうしゅう 各 かく 藩 はん に長州 ちょうしゅう への出兵 しゅっぺい を命 めい じた。佐幕 さばく 派 は となった熊本 くまもと 藩 はん もこれに応 おう じ、沼田 ぬまた 勘 かん 解 かい 由 よし 率 ひき いる一 いち 番手 ばんて 2393人 にん が小倉 おぐら へ向 む かった。11月には有吉 ありよし 将 すすむ 監 かん の二 に 番手 ばんて 5436人 にん 、さらに長岡 ながおか 護 まもる 美 び の3785人 にん が続 つづ き、徳川 とくがわ 慶勝 よしかつ 配下 はいか に加 くわ わった。この際 さい には長州 ちょうしゅう 藩 はん の内部 ないぶ 分裂 ぶんれつ もあり、戦闘 せんとう には至 いた らなかった。
しかし慶応 けいおう 元年 がんねん (1865年 ねん )、長州 ちょうしゅう の実権 じっけん を倒幕 とうばく 派 は が握 にぎ ったことなどから幕府 ばくふ はふたたび長州 ちょうしゅう の討伐 とうばつ を実行 じっこう に移 うつ した。熊本 くまもと 藩 はん はこれに批判 ひはん 的 てき ながら出兵 しゅっぺい に応 おう じ、前回 ぜんかい 同様 どうよう 小倉 おぐら に赴任 ふにん した。幕府 ばくふ 老中 ろうじゅう ・小笠原 おがさわら 長行 おさゆき 指揮 しき の下 しも 戦闘 せんとう が始 はじ まったが、多 おお くの藩 はん や幕府 ばくふ 軍 ぐん までもが傍観 ぼうかん を決 き め込 こ み、小倉 こくら 藩 はん は苦戦 くせん した。熊本 くまもと 藩 はん は唯一 ゆいいつ 救援 きゅうえん 要請 ようせい に応 こた え、赤坂 あかさか 方面 ほうめん で長州 ちょうしゅう 軍 ぐん を退 しりぞ けた(赤坂 あかさか ・鳥越 とりこし の戦 たたか い。現在 げんざい の北九州 きたきゅうしゅう 市立 しりつ 桜丘 さくらがおか 小学校 しょうがっこう 付近 ふきん )。しかし大局 たいきょく は長州 ちょうしゅう 側 がわ に歩 ふ があり、将軍 しょうぐん ・徳川 とくがわ 家茂 いえもち の訃報 ふほう が伝 つた わると幕府 ばくふ 側 がわ は敗走 はいそう した。小倉 こくら 藩 はん は香春 かわら まで退却 たいきゃく し、当時 とうじ 6歳 さい の幼君 ようくん 豊 ゆたか 千代丸 ちよまる (のちの小笠原 おがさわら 忠 ただし 忱 まこと )や家臣 かしん の家族 かぞく たちは熊本 くまもと 藩 はん が保護 ほご した。一 いち 行 ぎょう の熊本 くまもと 滞在 たいざい は半年 はんとし 間 あいだ に及 およ んだ。
幕末 ばくまつ の、改革 かいかく に向 む かう胎動 たいどう は肥後 ひご では具体 ぐたい 的 てき な形 かたち になって顕 あらわ れることは無 な かった。明治 めいじ 3年 ねん (1870年 ねん )、藩 はん 所有 しょゆう の軍艦 ぐんかん 「龍 りゅう 驤」を新 しん 政府 せいふ に献上 けんじょう するにあたり、当時 とうじ の藩主 はんしゅ ・細川 ほそかわ 韶邦 は「当 とう 藩 はん は、維新 いしん への貢献 こうけん が何 なに もない」と語 かた っている[47] 。
これは、地方 ちほう ゆえに中央 ちゅうおう の情報 じょうほう から隔絶 かくぜつ されていたわけでは決 けっ して無 な い。大塩 おおしお 平八郎 へいはちろう の乱 らん の詳細 しょうさい が船津 ふなつ 村 むら (現 げん :熊本 くまもと 市 し )地蔵 じぞう 講 こう 帳 ちょう に記載 きさい され[2- 24] 、ペリー 来航 らいこう を描 えが いた黒船 くろふね の絵 え が小国 おぐに 町 まち 役場 やくば 文書 ぶんしょ から見 み つかっている程 ほど である。幕府 ばくふ が命 めい じた相州 あいしゅう 警備 けいび では、熊本 くまもと 藩士 はんし が現在 げんざい の横浜 よこはま 市 し 本牧 ほんもく や相模 さがみ で任 にん に当 あ たっている。このような世情 せじょう が背景 はいけい にあったのか、安政 あんせい 5年 ねん (1858年 ねん )8月 がつ 上旬 じょうじゅん に現 あらわ れた彗星 すいせい に、肥後 ひご の民衆 みんしゅう は社会 しゃかい の激変 げきへん を予感 よかん していた[2- 25] 。
しかし、熊本 くまもと 藩 はん は諸 しょ 党 とう が議論 ぎろん を戦 たたか わせるばかりで、藩 はん 論 ろん の一致 いっち を見 み なかった。鳥羽 とば ・伏見 ふしみ の戦 たたか い直前 ちょくぜん は佐幕 さばく 派 は が主流 しゅりゅう だったが、徳川 とくがわ 慶喜 よしのぶ が敗走 はいそう し追討 ついとう 令 れい が下 くだ されると勤皇 きんのう 側 がわ の意見 いけん が強 つよ まった[2- 26] 。しかし、大政奉還 たいせいほうかん が成 な り明治 めいじ 時代 じだい に入 はい っても藩 はん 内 ない は議論 ぎろん ばかりで行動 こうどう が伴 ともな わず、細川 ほそかわ 護 まもる 久 ひさ は嘆 なげ いたという。慶応 けいおう 4年 ねん /明治 めいじ 元年 がんねん (1868年 ねん )になってやっと米田 よねだ 虎之助 とらのすけ 率 ひき いる500の兵 へい が出兵 しゅっぺい して東北 とうほく 戦争 せんそう に参戦 さんせん し、維新 いしん 側 がわ 恭順 きょうじゅん の態度 たいど を示 しめ した。明治 めいじ 2年 ねん (1869年 ねん )には護 まもる 久 ひさ の弟 おとうと の津軽 つがる 承 うけたまわ 昭 あきら が婿養子 むこようし として藩主 はんしゅ を務 つと める津軽 つがる 藩 はん を支援 しえん するため、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の船 ふね ハーマン号 ごう を雇 やと い350人 にん の兵 へい を送 おく り出 だ したが、房総半島 ぼうそうはんとう 沖 おき で座礁 ざしょう し200人 にん 以上 いじょう が溺死 できし する事件 じけん も起 お こった[48] 。
明治 めいじ 新 しん 政府 せいふ は人材 じんざい を各 かく 藩 はん にも求 もと め、熊本 くまもと 藩 はん からも細川 ほそかわ 護 まもる 久 ひさ が議定 ぎてい 兼 けん 刑法 けいほう 事務 じむ 総督 そうとく 、弟 おとうと の護 まもる 美 び が参与 さんよ 、江戸 えど 留守 るす 役 やく の津田 つだ 信弘 のぶひろ が刑法 けいほう 事務 じむ 掛 かけ 、その他 た 刑法 けいほう 掛 かけ に複数 ふくすう の藩士 はんし が任命 にんめい された。これら刑法 けいほう 分野 ぶんや への多 おお さは、宝 たから 暦 れき の改革 かいかく 以後 いご 運用 うんよう されていた『刑法 けいほう 叢書 そうしょ 』が評価 ひょうか されたためである。一方 いっぽう で横井 よこい 小楠 しょうなん の召 め し出 だ しに熊本 くまもと 藩 はん は難色 なんしょく を示 しめ したともいう。この情勢 じょうせい の中 なか 、藩 はん 論 ろん も変 か わらざるをえず、それまで発言 はつげん 力 りょく が無 な きに等 ひと しかった勤皇 きんのう 党 とう も存在 そんざい 感 かん を増 ま し、鶴崎 つるさき に勤皇 きんのう 党 とう の河上 かわかみ 彦斎 を隊長 たいちょう とした長州 ちょうしゅう の奇 き 兵隊 へいたい のような性格 せいかく を持 も つ軍隊 ぐんたい を組織 そしき した。
護 まもる 久 ひさ と実学 じつがく 党 とう 政権 せいけん [ 編集 へんしゅう ]
小説 しょうせつ 家 か の徳 とく 冨 とみ 蘆花 ろか は、作品 さくひん 『竹崎 たけざき 順子 じゅんこ 』の中 なか で登場 とうじょう 人物 じんぶつ に「肥後 ひご の維新 いしん は明治 めいじ 3年 ねん に来 き ました」と語 かた らせている。幕末 ばくまつ の動乱 どうらん や凶作 きょうさく に曝 さら される熊本 くまもと の民衆 みんしゅう にとって、「御一新 ごいっしん 」と呼 よ ぶに相応 ふさわ しい変革 へんかく は明治 めいじ 3年 ねん を待 ま たなければならなかった。
明治 めいじ 2年 ねん (1869年 ねん )の版籍 はんせき 奉還 ほうかん 後 ご 、熊本 くまもと 藩 はん も藩政 はんせい と家政 かせい の区別 くべつ や家臣 かしん 団 だん の改組 かいそ などを行 おこな ったが、人事 じんじ 的 てき には旧態 きゅうたい を引 ひ き継 つ ぎ、あまり積極 せっきょく 的 てき な改革 かいかく を施 ほどこ さなかった。この攘夷 じょうい 派 は を抱 かか え込 こ んだままの熊本 くまもと 藩 はん に新 しん 政府 せいふ は不信 ふしん 感 かん を募 つの り、政府 せいふ に属 ぞく する細川 ほそかわ 護 まもる 久 ひさ らは対応 たいおう を迫 せま られ、知 ち 藩 はん 事 ごと を勤 つと める兄 あに ・韶邦へ改革 かいかく の必要 ひつよう 性 せい を説 と いた[2- 27] 。また同 どう 時期 じき 、実学 じつがく 党 とう も行動 こうどう を起 お こし、大久保 おおくぼ 利通 としみち や岩倉 いわくら 具視 ともみ らとの接触 せっしょく を持 も って改革 かいかく の必要 ひつよう 性 せい を実感 じっかん していた。このふたつの動 うご きはし合 めしあ わせたものではなかったが、目的 もくてき が一致 いっち した両者 りょうしゃ は共同 きょうどう 歩調 ほちょう を取 と る。
明治 めいじ 3年 ねん 3月 がつ 26日 にち 、細川 ほそかわ 韶邦は病気 びょうき を理由 りゆう に隠居 いんきょ を決 き め、5月8日 にち に護 まもる 久 ひさ が藩主 はんしゅ の座 ざ に就 つ いた。護 まもる 久 ひさ は実学 じつがく 党 とう とともに、竹崎 たけざき 律次郎 りつじろう や徳 とく 冨 とみ 一敬 かずたか が起草 きそう した改革 かいかく に着手 ちゃくしゅ した。7月17日 にち 、改革 かいかく 綱領 こうりょう に則 のっと り上 うえ 米 まい など雑税 ざつぜい を廃止 はいし する知事 ちじ 布告 ふこく が出 だ され、同時 どうじ に民衆 みんしゅう に対 たい して過去 かこ の治世 ちせい を遺憾 いかん とする声明 せいめい を発表 はっぴょう した。この、為政者 いせいしゃ として極 きわ めて珍 めずら しい反省 はんせい の弁 べん とともに実行 じっこう された減税 げんぜい は、当時 とうじ の農民 のうみん に課 か せられる負 まけ 役 やく の三 さん 分 ぶん の一 いち に匹敵 ひってき した。また、常備 じょうび 兵 へい や鷹 たか 場 じょう の廃止 はいし も実施 じっし され、これらは庶民 しょみん 層 そう から厚 あつ い支持 しじ を受 う けた。
また、新 あら たに熊本 くまもと 洋 ひろし 学校 がっこう と古城 こじょう 医 い 学校 がっこう (ふるしろいがっこう)を、現在 げんざい の熊本 くまもと 県立 けんりつ 第一高等学校 だいちこうとうがっこう がある場所 ばしょ に[49] 設立 せつりつ した。洋 よう 学校 がっこう はアメリカ退役 たいえき 軍人 ぐんじん のリロイ・ランシング・ジェーンズ を迎 むか え明治 めいじ 4年 ねん (1871年 ねん )9月 がつ 1日 にち に開校 かいこう した。そこでの授業 じゅぎょう はすべて英語 えいご で、旧制 きゅうせい 中学校 ちゅうがっこう 程度 ていど の文学 ぶんがく や歴史 れきし 地理 ちり 、数学 すうがく 、物理 ぶつり 化学 かがく などをジェーンズひとりが講義 こうぎ した。同校 どうこう は男女 だんじょ 共学 きょうがく の全寮 ぜんりょう 制 せい であり、学校 がっこう 教育 きょういく にとどまらず近代 きんだい 的 てき な文化 ぶんか や生活 せいかつ 様式 ようしき を熊本 くまもと に広 ひろ める意味 いみ でも大 おお きく役割 やくわり を果 は たした。ただ、これら新設 しんせつ された学校 がっこう は以前 いぜん から存在 そんざい していた時 とき 習館や再春館 さいしゅんかん の系譜 けいふ を継 つ がず、完全 かんぜん に別 べつ なものとして創立 そうりつ された。このような形態 けいたい は以後 いご 県政 けんせい を握 にぎ った政党 せいとう によって繰 く り返 かえ されることになる。また、この洋 よう 学校 がっこう はプロテスタント 派 は キリスト教 きりすときょう 集団 しゅうだん である熊本 くまもと バンド結成 けっせい の母体 ぼたい ともなった。学校 がっこう の教師 きょうし 館 かん はコロニア様式 ようしき で建設 けんせつ された熊本 くまもと 初 はつ の洋風 ようふう 建築 けんちく 物 ぶつ であった[50] 。古城 こじょう 医 い 学校 がっこう の教師 きょうし には長崎 ながさき からコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト を3年間 ねんかん 契約 けいやく で連 つ れてきた。緒方 おがた 正規 まさき 、浜田 はまだ 玄 げん 達 たち らは途中 とちゅう で東京大学 とうきょうだいがく に去 さ ったが、北里 きたさと 柴 しば 三郎 さぶろう は最後 さいご まで残 のこ った。
民衆 みんしゅう には圧倒的 あっとうてき に支持 しじ された実学 じつがく 党 とう 政権 せいけん は、しかし改革 かいかく 要領 ようりょう に定 さだ めた役人 やくにん 公選 こうせん 制 せい や議院 ぎいん 設置 せっち は実行 じっこう できなかった。鶴崎 つるさき の毛利 もうり 空 そら 桑 くわ や河上 かわかみ 彦斎が、長州 ちょうしゅう 藩 はん で農民 のうみん 一揆 いっき と結託 けったく し追 お われた大 だい 楽 らく 源太郎 げんたろう らを匿 かくま い、明治 めいじ 3年 ねん には密偵 みってい を斬 き る事件 じけん が明 あき らかとなった。彼 かれ らは処罰 しょばつ を受 う け、熊本 くまもと 藩 はん は政府 せいふ に目 め をつけられた。細川 ほそかわ 護 まもる 久 ひさ は藩 はん 内 ない に依然 いぜん 燻 いぶ る反抗 はんこう の気分 きぶん に嫌気 いやけ が差 さ し、明治 めいじ 4年 ねん (1871年 ねん )3月 がつ 、政府 せいふ に辞意 じい を示 しめ した。廃藩置県 はいはんちけん を目前 もくぜん にした政府 せいふ は一旦 いったん 慰留 いりゅう し、7月 がつ の実行 じっこう を待 ま ってこれを認 みと めた。弟 おとうと で参事 さんじ の護 まもる 美 び も同調 どうちょう し、辞職 じしょく の上 うえ 翌年 よくねん にはアメリカへ旅立 たびだ った。
新 あら たに成立 せいりつ した熊本 くまもと 県 けん の政務 せいむ を実学 じつがく 党 とう は維持 いじ するが、思 おも わぬ逆風 ぎゃくふう が彼 かれ らを襲 おそ うことになった。明治 めいじ 3年 ねん 末 まつ 、大分 おおいた 県 けん 日田 にった 郡 ぐん で大 だい 一揆 いっき が勃発 ぼっぱつ した。政府 せいふ は周辺 しゅうへん 藩 はん に鎮撫 ちんぶ 隊 たい を派遣 はけん させ熊本 くまもと も軍 ぐん を送 おく ったが、当地 とうち で意外 いがい にも彼 かれ らは農民 のうみん からの歓迎 かんげい を受 う けた。一揆 いっき は、「肥後 ひご 支配 しはい 同様 どうよう 雑税 ざつぜい 免除 めんじょ 」(熊本 くまもと 藩 はん のような減税 げんぜい )を要求 ようきゅう したもので[51] 、農民 のうみん にとって熊本 くまもと 軍 ぐん は悪政 あくせい に対 たい する解放 かいほう 軍 ぐん とみなされた。このような減税 げんぜい を求 もと める一揆 いっき は鹿児島 かごしま 県 けん を除 のぞ く熊本 くまもと 周辺 しゅうへん の各国 かっこく で1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )頃 ごろ まで頻発 ひんぱつ した。これは新 しん 政府 せいふ にとって好 この ましからぬ事態 じたい であり、熊本 くまもと 県 けん に安岡 やすおか 良 りょう 亮 あきら を派遣 はけん して実学 じつがく 党 とう を県政 けんせい から排除 はいじょ した。
中途 ちゅうと に終 お わった短 みじか い期間 きかん だったが、熊本 くまもと の維新 いしん は民衆 みんしゅう には強 つよ く歓迎 かんげい された。その痕跡 こんせき を、10基 き ほど確認 かくにん されている「知事 ちじ 塔 とう 」に見 み ることができる。現在 げんざい の産山 うぶやま 村 むら や阿蘇 あそ 市 し および大分 おおいた 県 けん にも見 み られるこの石塔 せきとう は、地域 ちいき では「チイさん」「チシさん」とも呼 よ ばれ、細川 ほそかわ 家 か の九曜 くよう 紋 もん と「村 むら 々小前 こまえ 共 ども 江 え 」の文 ぶん が刻 きざ まれている共通 きょうつう 点 てん が見 み られる。これらは明治 めいじ 初期 しょき に建立 こんりゅう されたものや、もっと時代 じだい が下 くだ り建 た てられたものもあるが、いずれもかつてない減税 げんぜい 措置 そち に踏 ふ み込 こ んだ県政 けんせい に対 たい して感謝 かんしゃ を、またはその後 ご 苛烈 かれつ に廻 まわ った政策 せいさく に苦 くる しみ過去 かこ を懐 なつ かしむ想 おも いから地域 ちいき が出資 しゅっし して作 つく られたと考 かんが えられている。
熊本 くまもと 洋 ひろし 学校 がっこう の男女 だんじょ 共学 きょうがく 制 せい は海老名 えびな 弾正 だんじょう など一部 いちぶ 上級生 じょうきゅうせい の反発 はんぱつ を招 まね いたが、逆 ぎゃく にジェーンズに説得 せっとく されて賛同 さんどう 側 がわ に廻 まわ った。女性 じょせい 第 だい 一 いち 期生 きせい の徳富 とくとみ 初子 はつこ と後 のち に海老名 えびな の妻 つま となった横井 よこい みや子 こ らは、後 のち に熊本 くまもと 女学校 じょがっこう (現 げん :熊本 くまもと フェイス学院 がくいん 高等 こうとう 学校 がっこう )や東京 とうきょう の女子 じょし 美術 びじゅつ 学校 がっこう (現 げん :女子美術大学 じょしびじゅつだいがく )創立 そうりつ にも大 おお きく関係 かんけい し、女性 じょせい の社会 しゃかい 的 てき 活動 かつどう を広 ひろ げる役割 やくわり を担 にな った。しかし、革新 かくしん 的 てき な西洋 せいよう 風 ふう そしてキリスト教 きりすときょう 色 しょく が強 つよ い学風 がくふう は危惧 きぐ の眼 め で見 み られた。学内 がくない はキリスト教派 きょうは と反対 はんたい 派 は に分裂 ぶんれつ し、大 だい 激論 げきろん が展開 てんかい された。さらに、子弟 してい のキリスト教 きりすときょう 帰依 きえ を好 この ましく思 おも わない実学 じつがく 党 とう のメンバーも棄教を迫 せま った。明治 めいじ 9年 ねん (1876年 ねん )、この状況 じょうきょう に見切 みき りをつけたジェーンズは、海老名 えびな 弾正 だんじょう らキリスト教派 きょうは 生徒 せいと 35名 めい を京都 きょうと の同志社 どうししゃ へ入学 にゅうがく させ、熊本 くまもと を去 さ った。同年 どうねん 9月 がつ 、熊本 くまもと 洋 よう 学校 がっこう は閉鎖 へいさ された。
一方 いっぽう の古城 こじょう 医 い 学校 がっこう は、私立 しりつ 熊本 くまもと 医 い 学校 がっこう 、熊本 くまもと 医科 いか 大学 だいがく を経 へ て1949年 ねん (昭和 しょうわ 24年 ねん )に熊本大学 くまもとだいがく 医学部 いがくぶ となった[52] 。この医 い 学校 がっこう からは、北里 きたさと 柴 しば 三郎 さぶろう と助手 じょしゅ の石神 いしがみ 亨 とおる [53] 、フローレンス・ナイチンゲール に影響 えいきょう を受 う け産婆 さんば 看護 かんご 婦 ふ 学校 がっこう 設立 せつりつ に寄与 きよ した佐伯 さえき 理一郎 りいちろう [49] らが育 そだ った。
自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう の端緒 たんしょ [ 編集 へんしゅう ]
1873年 ねん 、新 しん 政府 せいふ 内 ない では征 せい 韓 かん 論 ろん 争 そう が巻 ま き起 お こっていた。勤皇 きんのう 党 とう 出身 しゅっしん の宮崎 みやざき 八郎 はちろう は上京 じょうきょう 中 ちゅう に『征 せい 韓 かん 之 の 儀 ぎ 』を上奏 じょうそう し、また台湾 たいわん 出兵 しゅっぺい では義勇 ぎゆう 兵 へい を募 つの るなどの行動 こうどう を取 と っていたが、やがて反 はん 権力 けんりょく 思想 しそう を強 つよ めた[54] 。彼 かれ は中江 なかえ 兆民 ちょうみん の『民 みん 約 やく 論 ろん 』に大 おお きな影響 えいきょう を受 う けて自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう に身 み を投 とう じ、1875年 ねん (明治 めいじ 8年 ねん )に熊本 くまもと 県 けん 初 はつ の中学校 ちゅうがっこう となる植木 うえき 学校 がっこう (第 だい 五 ご 番 ばん 変則 へんそく 中学校 ちゅうがっこう [55] )を設立 せつりつ した。ここではルソー やギゾー またモンテスキュー らの思想 しそう を教 おし え、また県内 けんない 外 がい にオルガナイザー を派遣 はけん する拠点 きょてん ともなった。なお、八郎 はちろう の弟 おとうと ・宮崎 みやざき 滔天 とうてん もまた民権 みんけん 運動 うんどう に携 たずさ わり、その後 ご アジア革命 かくめい に関 かか わって亡命 ぼうめい 中 なか の孫 まご 文 ぶん を支援 しえん し、兄弟 きょうだい の生家 せいか に招 まね くなどした[56] 。
植木 うえき 学校 がっこう 設立 せつりつ と同 おな じ年 ねん 、東京 とうきょう で開催 かいさい された地方 ちほう 官 かん 議会 ぎかい では「地方 ちほう 民 みん 会 かい の事 こと 」が議題 ぎだい となり、同時 どうじ に行 おこな われた区 く 戸長 こちょう 会議 かいぎ は「民 みん 会 かい 興隆 こうりゅう 之 の 事 こと 」を諮問 しもん した。この動 うご きを受 う け、熊本 くまもと でも民権 みんけん 運動 うんどう が盛 さか んになり始 はじ めた。これには県政 けんせい を追 お われた実学 じつがく 党 とう も加 くわ わって、民 みん 会 かい 開設 かいせつ を求 もと める論説 ろんせつ が『熊本 くまもと 新聞 しんぶん 』に掲載 けいさい されるなど、世論 せろん を喚起 かんき する行動 こうどう も見 み られた。この動 うご きを受 う け、1876年 ねん (明治 めいじ 9年 ねん )、熊本 くまもと 県 けん は「臨時 りんじ 民 みん 会 かい 規則 きそく 」を制定 せいてい した。これはきわめて進歩 しんぽ 的 てき な制度 せいど であり、男子 だんし 戸主 こしゅ すべてに選挙 せんきょ 権 けん が与 あた えられ、選出 せんしゅつ された小 お 区 く 議員 ぎいん が、その互選 ごせん で大 だい 区 く 議員 ぎいん が、そしてさらに互選 ごせん で県民 けんみん 会 かい の議員 ぎいん が選出 せんしゅつ されるものだった。同年 どうねん 10月 がつ に植木 うえき 学校 がっこう は閉鎖 へいさ されるが、同校 どうこう に拠 よ った民権 みんけん 運動 うんどう 家 か たちは結社 けっしゃ を設 もう け、運動 うんどう を継続 けいぞく した。
近代 きんだい 日本 にっぽん 最後 さいご の内戦 ないせん へ[ 編集 へんしゅう ]
神 かみ 風連 ふうれん の乱 らん [ 編集 へんしゅう ]
林 はやし 桜 さくら 園 えん に始 はじ まった勤皇 きんのう 党 とう の一派 いっぱ に「神 かみ 風連 ふうれん 」(敬神 けいしん 党 とう )があった。彼 かれ らは宮崎 みやざき 八郎 はちろう のように民権 みんけん 運動 うんどう への転換 てんかん からも取 と り残 のこ され、不満 ふまん を和 やわ らげるために県内 けんない の神社 じんじゃ で神主 かんぬし 職 しょく を任命 にんめい されるなどしていたが、政府 せいふ の有司 ゆうし 専制 せんせい や欧化 おうか 政策 せいさく を常々 つねづね 苦々 にがにが しく思 おも っていた。そこに1876年 ねん 廃刀 はいとう 令 れい が布告 ふこく され、鬱憤 うっぷん が爆発 ばくはつ し反乱 はんらん を起 お こした。10月24日 にち 、神 かみ の信託 しんたく (宇気 うけ 比 ひ )を授 さず かったとして総帥 そうすい ・太田黒 おおたぐろ 伴雄 ともお 、副 ふく 師 し ・加屋 かや 霽堅 の下 した 約 やく 170名 めい が終結 しゅうけつ して決起 けっき し、熊本 くまもと 城 じょう 敷地 しきち 内 ない の熊本 くまもと 鎮台 ちんだい を攻 せ め火 ひ を放 はな った。彼 かれ らは鎮圧 ちんあつ され多 おお くが自刃 じじん または処罰 しょばつ されたが、この神 かみ 風連 ふうれん の乱 らん は江藤 えとう 新平 しんぺい らが起 お こした佐賀 さが の乱 らん ともども士族 しぞく 反乱 はんらん を誘発 ゆうはつ し、また明治 めいじ 六 ろく 年 ねん 政変 せいへん 以後 いご 薩摩 さつま に下 くだ っていた西郷 さいごう 隆盛 たかもり の動向 どうこう に注目 ちゅうもく を集 あつ める結果 けっか ともなった。
1877年 ねん (明治 めいじ 10年 ねん )2月 がつ 15日 にち 、西郷 さいごう 隆盛 たかもり 起 た つ。熊本 くまもと の不平 ふへい 士族 しぞく はこの報 ほう に触 ふ れて沸 わ き立 た ち、西郷 さいごう 軍 ぐん に馳 は せ参 さん じる者 もの が多発 たはつ した。池辺 いけべ 吉 よし 十郎 じゅうろう は時 とき 習館出身 しゅっしん 者 しゃ を元 もと とする「学校 がっこう 党 とう 」の士族 しぞく を中心 ちゅうしん に熊本 くまもと 隊 たい を結成 けっせい 、また植木 うえき 学校 がっこう 系 けい の民権 みんけん 派 は も協同 きょうどう 隊 たい として加 くわ わった。その数 かず は合 あ わせて7000名 めい ともされる。
政府 せいふ そして熊本 くまもと 鎮台 ちんだい は既 すで に西郷 さいごう 反逆 はんぎゃく を迎 むか え撃 う つ準備 じゅんび を進 すす めていた。参謀 さんぼう 長 ちょう ・谷 たに 干城 かんじょう は神 かみ 風連 ふうれん の乱 らん で受 う けた被害 ひがい が未 いま だ回復 かいふく していない状況 じょうきょう 、熊本 くまもと 士族 しぞく が呼応 こおう して決起 けっき する可能 かのう 性 せい を鑑 かんが み、政府 せいふ 軍 ぐん の主力 しゅりょく が到着 とうちゃく するまで熊本 くまもと 城 じょう に篭城 ろうじょう する策 さく を採用 さいよう した。武器 ぶき 弾薬 だんやく ・食料 しょくりょう などの準備 じゅんび 、橋 はし の撤去 てっきょ や棚 たな の設置 せっち 、道路 どうろ の封鎖 ふうさ や地雷 じらい の設置 せっち [57] 、藤崎 ふじさき 宮 みや など市内 しない 要所 ようしょ への守兵 しゅへい 配備 はいび を急遽 きゅうきょ 進 すす め、福岡 ふくおか や小倉 こくら の分 ぶん 営を熊本 くまもと に終結 しゅうけつ させるべく手 て を打 う った。19日 にち には射 い 界 かい を確保 かくほ するため、市街地 しがいち を焼 や き払 はら った。
ところが同日 どうじつ 午前 ごぜん 11時 じ 10分 ふん 頃 ごろ 、熊本 くまもと 城内 じょうのうち で火災 かさい が発生 はっせい し、天守閣 てんしゅかく などが焼失 しょうしつ してしまった。この原因 げんいん については、不要 ふよう 建築 けんちく 物 ぶつ を取 と り払 はら う鎮台 ちんだい による自 じ 焼 やき 説 せつ 、市街地 しがいち 焼 や き払 ばら いの火 ひ が廻 まわ った延焼 えんしょう 説 せつ 、薩軍スパイの放火 ほうか 説 せつ 、逃亡 とうぼう した給仕 きゅうじ 人 じん の放火 ほうか 説 せつ などがあり定 さだ かではない。しかし、いずれにしろ藩 はん の歴史 れきし を象徴 しょうちょう する熊本 くまもと 城 じょう 天守閣 てんしゅかく の焼失 しょうしつ には、多 おお くの人々 ひとびと が嘆 なげ いた。鎮台 ちんだい も備蓄 びちく 食料 しょくりょう を失 うしな ったため再 さい 収集 しゅうしゅう に忙殺 ぼうさつ される問題 もんだい もあったが、篭城 ろうじょう の準備 じゅんび は一応 いちおう 整 ととの った。この火災 かさい が起 お こる直前 ちょくぜん の午前 ごぜん 8時 じ 15分 ふん には征討 せいとう 令 れい が届 とど き鎮台 ちんだい は正式 せいしき に「官軍 かんぐん 」となった。この令 れい は県庁 けんちょう に掲示 けいじ され、民衆 みんしゅう にもこの戦 たたか いの大義名分 たいぎめいぶん を知 し らしめた。
熊 くま 本城 ほんじょう 攻 おさむ 防戦 ぼうせん [ 編集 へんしゅう ]
川尻 かわじり (河 かわ 尻 しり )に集結 しゅうけつ した薩軍は斥候 せっこう の存在 そんざい から官軍 かんぐん の方針 ほうしん を知 し り、作戦 さくせん の検討 けんとう が行 おこな われた結果 けっか 熊本 くまもと 城 じょう 強襲 きょうしゅう 策 さく が採用 さいよう された。2月21日 にち 先行 せんこう した薩軍の一部 いちぶ が熊本 くまもと 城東 じょうとう 側 がわ で守備 しゅび 兵 へい と戦闘 せんとう となり、攻防 こうぼう 戦 せん の幕 まく は切 き って落 お とされた。翌 よく 22日 にち 、薩軍は熊本 くまもと 城 じょう を包囲 ほうい し、正面 しょうめん (東側 ひがしがわ )と背面 はいめん (西側 にしがわ )の両方 りょうほう から攻撃 こうげき を仕掛 しか けた。熊本 くまもと 城 じょう の弱点 じゃくてん とされる背面 はいめん は特 とく に激戦 げきせん の地 ち となり、段 だん 山 さん (現 げん :段山本 だにやまほん 町 まち )と法華 ほっけ 坂 ざか (現 げん :熊本 くまもと YMCA から国立 こくりつ 病院 びょういん 機構 きこう 北側 きたがわ を通 とお る坂 さか )を襲撃 しゅうげき する薩軍一 いち ・二 に ・六 ろく ・七 なな 番 ばん 大隊 だいたい と官軍 かんぐん の間 あいだ で激 はげ しい戦闘 せんとう が行 おこな われた。正面 しょうめん でも桐野 きりの 利秋 としあき 率 ひき いる四 よん 番 ばん 大隊 だいたい を始 はじ めとする部隊 ぶたい との銃撃 じゅうげき ・砲撃 ほうげき 戦 せん となった。薩軍は本丸 ほんまる へ続 つづ くわずか300m 程度 ていど の法華 ほっけ 坂 ざか を攻略 こうりゃく できず、正面 しょうめん からの攻撃 こうげき でも石垣 いしがき に阻 はば まれた。
22日 にち には南下 なんか する政府 せいふ 軍 ぐん と薩摩 さつま 小隊 しょうたい との交戦 こうせん 情報 じょうほう がもたらされ、夜 よる の会議 かいぎ で方針 ほうしん を転換 てんかん し、一部 いちぶ 強硬 きょうこう 手段 しゅだん を残 のこ しつつも長 ちょう 囲 かこえ 策 さく を採 と った。熊本 くまもと 隊 たい や日向 ひなた からの部隊 ぶたい も加 くわ わった攻 せ め手 しゅ 側 がわ と鎮台 ちんだい 側 がわ の攻防 こうぼう 戦 せん は3月 がつ に入 はい っても続 つづ き、熊本 くまもと 城 じょう 背面 はいめん は特 とく に激戦 げきせん を極 きわ めた。片山 かたやま 邸 てい (現 げん :藤崎 ふじさき 台 たい 県営 けんえい 野球 やきゅう 場 じょう )や旧 きゅう 藤崎 ふじさき 神社 じんじゃ には砲弾 ほうだん が飛 と び交 か い、段 だん 山 さん は薩軍に占拠 せんきょ されたが3月 がつ 13日 にち に官軍 かんぐん がこれを奪取 だっしゅ した。また薩軍は城内 じょうない に離反 りはん を促 うなが す矢文 やぶみ を放 はな ったり、坪井川 つぼいがわ と井芹 いせり 川 かわ の合流 ごうりゅう 点 てん を堰 せ き止 と めて城 しろ の周囲 しゅうい に水 みず を張 は る作戦 さくせん を取 と り、篭城 ろうじょう 側 がわ をじわじわと攻 せ めた。
しかしその頃 ころ 、黒田 くろだ 清隆 きよたか の建 けん 策 さく が採用 さいよう され、政府 せいふ は勅使 ちょくし 護衛 ごえい 兵 へい を中心 ちゅうしん とした別 べつ 働 はたらけ 第 だい 二 に 旅団 りょだん を長崎 ながさき から差 さ し向 む けていた。3月19日 にち 、日 にち 奈久 に上陸 じょうりく した部隊 ぶたい は八 はち 代 だい を抑 おさ えた。薩軍は永山 ながやま 弥一郎 やいちろう を指揮 しき 官 かん とする部隊 ぶたい を送 おく ったが、官軍 かんぐん は31日 にち には松橋 まつはし を落 お とした。4月に入 はい り、熊本 くまもと 城 じょう では兵糧 ひょうろう の減少 げんしょう を危惧 きぐ した谷 たに が植木 うえき 方向 ほうこう への出撃 しゅつげき を思案 しあん した。しかしこれは参謀 さんぼう の樺山 かばやま 資 し 紀 き らの反対 はんたい を受 う けて取 と り消 け され、南 みなみ から接近 せっきん していた政府 せいふ 側 がわ 衝背軍 ぐん との連絡 れんらく を試 こころ みることとなった。4月8日 にち 、突囲隊 たい が薩摩 さつま の包囲 ほうい 網 もう を突破 とっぱ し、宇土 うと で政府 せいふ 軍 ぐん と合流 ごうりゅう することに成功 せいこう した。政府 せいふ 軍 ぐん は12日 にち に御船 みふね ・甲佐 こうさ を一斉 いっせい 攻撃 こうげき し、14日 にち には川尻 かわじり まで進軍 しんぐん した。さらに陸軍 りくぐん 中佐 ちゅうさ の山川 やまかわ 浩 ひろし は独断 どくだん で部隊 ぶたい を進 すす め、ついに篭城 ろうじょう 軍 ぐん との連結 れんけつ に成功 せいこう した。こうして、2ヶ月 かげつ にわたる熊本 くまもと 城 じょう 攻防 こうぼう 戦 せん は死者 ししゃ 773名 めい を出 だ して決着 けっちゃく し、加藤 かとう 清正 きよまさ が心血 しんけつ を注 そそ いで築 きず いた熊本 くまもと 城 じょう は初 はつ の戦 せん でその堅牢 けんろう さを証明 しょうめい した[2] [28] [57] 。
田原 たはら 坂 ざか 公園 こうえん の慰霊 いれい 碑 ひ には、官軍 かんぐん ・薩軍双方 そうほう の兵士 へいし が平等 びょうどう に祀 まつ られている。
田原 たはら 坂 ざか には官軍 かんぐん ・薩軍兵士 へいし の墓地 ぼち が点在 てんざい している。
田原 たはら 坂 ざか ・吉次 よしじ 峠 とうげ の戦 たたか い[ 編集 へんしゅう ]
一方 いっぽう 、2月 がつ 22日 にち に植木 うえき で乃木 のぎ 希典 まれすけ 率 ひき いる政府 せいふ 軍 ぐん と接触 せっしょく した薩軍小隊 しょうたい はこれを急襲 きゅうしゅう 。官軍 かんぐん を敗走 はいそう させ連隊 れんたい 旗 はた を奪 うば いもした。翌日 よくじつ も両 りょう 軍 ぐん は交戦 こうせん し、一時 いちじ 退却 たいきゃく を試 こころ みた官軍 かんぐん を追 お い薩軍は攻撃 こうげき をかけた。福岡 ふくおか から南下 なんか 中 ちゅう の第 だい 一 いち ・二 に 旅団 りょだん は一 いち 個 こ 中隊 ちゅうたい を急 いそ がせ25日 にち には高瀬 たかせ を抑 おさ えた。同日 どうじつ 午後 ごご 高瀬川 たかせがわ を挟 はさ んだ戦闘 せんとう となったが、この際 さい には官軍 かんぐん は持 も ちこたえて薩軍は退却 たいきゃく した。26日 にち 反撃 はんげき を開始 かいし した官軍 かんぐん は歩兵 ほへい 第 だい 14連隊 れんたい が田原 たはら 坂 ざか まで敵 てき を押 お し返 かえ した。だが兵糧 ひょうろう 不足 ふそく を理由 りゆう に退却 たいきゃく の命 いのち が届 とど き、しぶりつつも連隊 れんたい は引 ひ き返 かえ した。この時 とき 官軍 かんぐん が退却 たいきゃく せず田原 たはら 坂 ざか を抑 おさ えていれば、後 ご の凄惨 せいさん な戦 たたか いは防 ふせ げたのではと指摘 してき されている。
2月 がつ 22日 にち 深夜 しんや 、政府 せいふ 軍 ぐん の動向 どうこう を知 し った西郷 さいごう 隆盛 たかもり ら薩軍首脳 しゅのう は長 ちょう 囲 かこえ 策 さく に転 てん じ、軍 ぐん を分 わ けて北 きた へ兵力 へいりょく を差 さ し向 む ける決定 けってい を下 くだ した。北 きた から熊本 くまもと へ向 む かう路 みち は3つあり、山鹿 やまが から南下 なんか するルートには四 よん 番 ばん 大隊 だいたい 、高瀬 たかせ から田原 たはら 坂 ざか を越 こ え植木 うえき に至 いた るルートには一番 いちばん 大隊 だいたい 、吉次 よしじ 越 えつ ルートには二 に 番 ばん 大隊 だいたい と六 ろく ・七 なな 連合 れんごう 大隊 だいたい が当 あ たることとなり、25日 にち に出発 しゅっぱつ した。一方 いっぽう 薩軍の動 うご きを察知 さっち していた政府 せいふ 軍 ぐん だが、慎重 しんちょう な山縣 やまがた 有朋 ありとも はすぐに攻撃 こうげき を指示 しじ せず、態勢 たいせい 整備 せいび を優先 ゆうせん した。第 だい 14連隊 れんたい と近衛 このえ 歩 あゆみ 兵 へい 第 だい 1連隊 れんたい の一部 いちぶ を田原坂 たばるざか 方面 ほうめん に、残 のこ りの近衛 このえ 歩兵 ほへい と東京 とうきょう ・大阪 おおさか 鎮台 ちんだい 兵 へい を吉次 よしじ 峠 とうげ 方面 ほうめん へそれぞれ配置 はいち し、3月3日 にち に進軍 しんぐん を開始 かいし した。
3月4日 にち 、田原 たはら 坂 ざか に総 そう 攻撃 こうげき を仕掛 しか けた政府 せいふ 軍 ぐん は、天然 てんねん の要害 ようがい に拠 よ った薩軍の一斉 いっせい 射撃 しゃげき を浴 あ びて思 おも うように進 すす めない。吉次 よしじ 峠 とうげ はさらに凄惨 せいさん で、畑 はたけ には死体 したい が積 づ みあがり、側溝 そっこう には血 ち が溜 たま り、夥 おびただ しい銃弾 じゅうだん のせいで木々 きぎ は蜂 はち の巣 す のようになった[2- 28] 。薩軍も篠原 しのはら 国 こく 幹 みき が戦死 せんし するも意気 いき は衰 おとろ えず、敗走 はいそう する官軍 かんぐん は吉次 よしじ 峠 とうげ を「地獄 じごく 峠 とうげ 」と呼 よ んだ。翌日 よくじつ から一 いち 部隊 ぶたい を吉次 よしじ 峠 とうげ に残 のこ し、政府 せいふ 軍 ぐん は田原 たはら 坂 ざか に集中 しゅうちゅう 、一進一退 いっしんいったい の攻防 こうぼう が続 つづ くことになる。
警視 けいし 抜刀 ばっとう 隊 たい の活躍 かつやく によって少 すこ しずつ戦局 せんきょく を有利 ゆうり に進 すす めた政府 せいふ 軍 ぐん は、雨 あめ の3月 がつ 20日 はつか に総 そう 攻撃 こうげき を仕掛 しか けた。砲撃 ほうげき と雨 あめ に強 つよ い後 のち 装 そう 式 しき スナイドル銃 じゅう (en) が威力 いりょく を発 はっ する官軍 かんぐん に対 たい し、薩軍が主 おも に用 もち いたエンピール銃 じゅう は雨 あめ に弱 よわ く[58] 、さらに弾丸 だんがん に事欠 ことか いて付近 ふきん 住民 じゅうみん が拾 ひろ い集 あつ めた弾 たま を買 か い集 あつ めたりする状況 じょうきょう の中 なか 、田原 たはら 坂 ざか を突破 とっぱ され後退 こうたい を余儀 よぎ なくされた。記者 きしゃ として従軍 じゅうぐん した犬 いぬ 養 やしなえ 毅 あつし は激 はげ しい銃撃 じゅうげき 戦 せん のために木々 きぎ や電柱 でんちゅう が砕 くだ け散 ち った模様 もよう を伝 つた えた。田原 たはら 坂 ざか に入 はい った山縣 やまがた 有朋 ありとも は、その攻 せ めがたい急峻 きゅうしゅん さと狭窄 きょうさく さを実感 じっかん し、将兵 しょうへい の死 し に涙 なみだ を流 なが したという。
3月21日 にち には山鹿 やまが の四 よん 番 ばん 大隊 だいたい も敗 やぶ れ、後退 こうたい した薩軍は植木 うえき ・木留 きとめ で官軍 かんぐん を迎 むか え撃 う った。一進一退 いっしんいったい の攻防 こうぼう が続 つづ いたが、やがて政府 せいふ 軍 ぐん が優勢 ゆうせい となり、薩軍は辺田野 へたの ・荻迫 おぎさこ (現 げん :JR植木 うえき 駅 えき 周辺 しゅうへん )まで退 しりぞ く。この頃 ころ には、政府 せいふ 軍 ぐん がドイツ から購入 こうにゅう していた風船 ふうせん 爆 ばく 弾 だん 投入 とうにゅう に乗 の り出 だ したとの説 せつ もある[2- 29] 。しかし戦局 せんきょく は膠着 こうちゃく に陥 おちい り、官軍 かんぐん 内 ない では迂回 うかい して進軍 しんぐん する案 あん も出 だ された。しかし4月 がつ 15日 にち 午後 ごご 1時 じ 、熊本 くまもと 城 じょう と衝背軍 ぐん の連絡 れんらく を知 し った薩軍は撤退 てったい を始 はじ めた。
西郷 さいごう 隆盛 たかもり が本営 ほんえい を置 お いた永国寺 えいこくじ
人吉 ひとよし 防衛 ぼうえい 戦 せん と陥落 かんらく [ 編集 へんしゅう ]
薩軍は熊本平野 くまもとへいや 東部 とうぶ の木山 きやま に拠点 きょてん を移 うつ し、兵 へい を配置 はいち して官軍 かんぐん と対峙 たいじ した。ここでも両 りょう 軍 ぐん は拮抗 きっこう するが、官軍 かんぐん が御船 みふね と大津 おおつ を押 お さえたことを皮切 かわき りに優勢 ゆうせい に立 た ち、4月 がつ 21日 にち に薩軍は人吉 ひとよし への退却 たいきゃく を始 はじ めた。28日 にち に薩軍は再 さい 集結 しゅうけつ し、西郷 さいごう は永国寺 えいこくじ に入 はい って本営 ほんえい を置 お いた。ここで態勢 たいせい を組 く み直 なお す計画 けいかく が練 ね られ、食糧 しょくりょう 確保 かくほ や弾薬 だんやく 製造 せいぞう のために住民 じゅうみん の徴用 ちょうよう や課税 かぜい まで予定 よてい され、2年間 ねんかん は割拠 かっきょ する目論見 もくろみ が立 た てられ、同時 どうじ に兵力 へいりょく を分散 ぶんさん させる作戦 さくせん も取 と られた。しかし政府 せいふ 軍 ぐん は東 ひがし の江代 えしろ 方向 ほうこう 、北 きた の五木 いつき 村 むら 、西 にし の球磨川 くまがわ 下流 かりゅう という3方向 ほうこう から攻 せ め、5月30日 にち に人吉 ひとよし への総 そう 攻撃 こうげき を開始 かいし した。
6月1日 にち 未明 みめい 、市街 しがい に入 はい った官軍 かんぐん が放 はな つロケット に夜 よる の町 まち は燃 も え上 あ がり[2- 30] 、薩軍が人吉 ひとよし 城址 じょうし から撃 う つ大砲 たいほう の弾 たま が降 ふ る中 なか 、両者 りょうしゃ の白兵戦 はくへいせん が繰 く り広 ひろ げられた。薩軍は球磨川 くまがわ の南 みなみ に退却 たいきゃく し、橋 はし を落 お として政府 せいふ 軍 ぐん を防 ふせ ぎ、砲撃 ほうげき ・銃撃 じゅうげき が両 りょう 岸 きし から浴 あ びせ合 あ う状態 じょうたい が続 つづ いた。午後 ごご になり薩軍は退却 たいきゃく を始 はじ めた。以後 いご 、西郷 さいごう と薩軍は政府 せいふ 軍 ぐん の追 つい 走 はし を受 う けながら宮崎 みやざき ・延岡 のべおか などを転戦 てんせん しつつ、9月24日 にち 鹿児島 かごしま の城山 しろやま で壊滅 かいめつ した。
この戦争 せんそう で被害 ひがい を受 う けた一般人 いっぱんじん の死傷 ししょう 者 しゃ 数 すう は300を越 こ え、一 いち 万 まん 戸 こ 以上 いじょう の家屋 かおく が被災 ひさい し、記録 きろく は無 な いが耕地 こうち などもひどく荒 あ らされた。罹災 りさい した一般人 いっぱんじん には弔 ちょう 祭 さい 料 りょう や手当 てあて 金 きん が支払 しはら われ、家屋 かおく 被災 ひさい についても助成 じょせい 金 きん が支給 しきゅう された。宮崎 みやざき 八郎 はちろう は戦死 せんし し、協同 きょうどう 隊 たい として参戦 さんせん した肥後 ひご 勤皇 きんのう 党 とう の系統 けいとう は一旦 いったん 途絶 とだ えた。熊本 くまもと 隊 たい として加 くわ わった学校 がっこう 党 とう も鳴 な りをひそめ、熊本 くまもと は中央 ちゅうおう 政府 せいふ 主導 しゅどう の県政 けんせい が敷 し かれることとなった。
地方 ちほう の行政 ぎょうせい と発展 はってん [ 編集 へんしゅう ]
後年 こうねん 作成 さくせい された1872
年 ねん (
明治 めいじ 4年 ねん )
旧 きゅう 12
月 がつ の
行政 ぎょうせい 区画 くかく 地図 ちず 。
現在 げんざい の
熊本 くまもと 県域 けんいき には、
熊本 くまもと 県 けん (→
白川 しらかわ 県 けん )と
八代 やしろ 県 けん が
置 お かれた
本 ほん 項 こう では明治 めいじ 初期 しょき の県 けん 名 めい を一律 いちりつ に「熊本 くまもと 県 けん 」と表記 ひょうき しているが、1871年 ねん (明治 めいじ 4年 ねん )7月 がつ 14日 にち に始 はじ まった廃藩置県 はいはんちけん では、旧来 きゅうらい の藩 はん に対応 たいおう する3つの地域 ちいき が置 お かれ、その前後 ぜんご に名称 めいしょう 変更 へんこう や合併 がっぺい などを繰 く り返 かえ していた。大政奉還 たいせいほうかん が行 おこな われた1868年 ねん (明治 めいじ 元年 がんねん )、九州 きゅうしゅう の各 かく 天領 てんりょう は新 しん 政府 せいふ 直轄 ちょっかつ 地 ち となり、天草 あまくさ 地方 ちほう も1871年 ねん 閏 うるう 4月 がつ 25日 にち に富岡 とみおか 県 けん となった[59] [60] 。この県 けん 名 めい は6月 がつ 10日 とおか には天草 あまくさ 県 けん へ変 か えられ、8月 がつ 29日 にち には長崎 ながさき 県 けん の一部 いちぶ に編入 へんにゅう された。
1871年 ねん の廃藩置県 はいはんちけん 実施 じっし 当初 とうしょ 、熊本 くまもと 藩 はん は熊本 くまもと 県 けん (第 だい 1次 じ )、相良 さがら 藩 はん は人吉 ひとよし 県 けん とされたが、肥後 ひご 南部 なんぶ を統括 とうかつ する県庁 けんちょう が八 はち 代 だい に置 お かれる決定 けってい に伴 ともな い11月14日 にち には人吉 ひとよし 県 けん は八代 やしろ 県 けん に改名 かいめい され、これに天草 あまくさ 地方 ちほう が編入 へんにゅう 、米 よね 良 りょう 地方 ちほう が宮崎 みやざき 県 けん に移 うつ された。同様 どうよう に熊本 くまもと 県 けん も設置 せっち される県庁 けんちょう の所在地 しょざいち (現在 げんざい の熊本 くまもと 市 し 二本木 にほんぎ )から1872年 ねん (明治 めいじ 5年 ねん )6月14日 にち に白川 しらかわ 県 けん と名称 めいしょう が変 か わった[61] 。1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )1月 がつ 15日 にち に両 りょう 県 けん は合併 がっぺい して白川 しらかわ 県 けん に一本 いっぽん 化 か され、県庁 けんちょう の熊本 くまもと 城 じょう への移転 いてん を経 へ て、1876年 ねん (明治 めいじ 9年 ねん )2月 がつ 22日 にち に現在 げんざい に至 いた る熊本 くまもと 県 けん (第 だい 2次 じ )へと改名 かいめい された。
熊本 くまもと の政党 せいとう 形成 けいせい [ 編集 へんしゅう ]
明治 めいじ 4年 ねん (1871年 ねん )制定 せいてい された戸籍 こせき 法 ほう に基 もと づき翌年 よくねん 壬 みずのえ 申 さる 戸籍 こせき が編 へん 製 せい されたが、これに伴 ともな い戸長 こちょう ・区長 くちょう が置 お かれた。熊本 くまもと 県 けん の場合 ばあい 、彼 かれ らはすべて官選 かんせん で任命 にんめい されたため、民衆 みんしゅう との信頼 しんらい 関係 かんけい は弱 よわ かった。1873年 ねん 実学 じつがく 党 とう 政権 せいけん 崩壊 ほうかい と地租 ちそ 改正 かいせい 以降 いこう 民 みん 費 ひ は増大 ぞうだい の一 いち 歩 ほ を辿 たど り、不満 ふまん を抱 かか えた農民 のうみん は阿蘇 あそ 地方 ちほう などで打 う ちこわし など地租 ちそ 改正 かいせい 反対 はんたい 一揆 いっき をたびたび起 お こした。これには民権 みんけん 運動 うんどう が関 かか わり、区 く 戸長 こちょう 公選 こうせん 化 か を求 もと める声 こえ が強 つよ まった。
1878年 ねん (明治 めいじ 11年 ねん )愛国 あいこく 社 しゃ が再建 さいけん されると、熊本 くまもと でも西南 せいなん 戦争 せんそう での懲役 ちょうえき 刑 けい を終 お えた者 もの たちを吸収 きゅうしゅう しつつ民権 みんけん 運動 うんどう 家 か が連帯 れんたい して「相愛 そうあい 社 しゃ 」が設立 せつりつ された。これは翌年 よくねん には国会 こっかい 期成 きせい 同盟 どうめい の一員 いちいん に改組 かいそ されてゆくが、基本 きほん 的 てき に創設 そうせつ 時 じ の「相愛 そうあい 社 しゃ 趣意 しゅい 書 しょ 」に基 もと づく行動 こうどう を取 と った。相愛 そうあい 社 しゃ でも私議 しぎ 憲法 けんぽう 作成 さくせい が行 おこな われたがなかなか議論 ぎろん が収束 しゅうそく せず、発表 はっぴょう に至 いた ったのは1881年 ねん (明治 めいじ 14年 ねん )だった。一方 いっぽう 、同 おな じく西南 せいなん 戦争 せんそう 熊 ぐま 本隊 ほんたい に加 くわ わり捕縛 ほばく された佐々 ささ 友 とも 房 ぼう が帰郷 ききょう すると、1879年 ねん (明治 めいじ 12年 ねん )同心 どうしん 学舎 がくしゃ (現 げん :熊本 くまもと 県立 けんりつ 済々黌 せいせいこう 高等 こうとう 学校 がっこう )を設立 せつりつ した。ここには旧 きゅう 学校 がっこう 党 とう など保守 ほしゅ 勢力 せいりょく が集 あつ まっていった。佐々 ささ は井上 いのうえ 毅 あつし らの助言 じょげん を受 う けて紫 むらさき 溟会を設立 せつりつ し、民権 みんけん 運動 うんどう 取 と り込 こ みを画策 かくさく する。しかし度重 たびかさ なる論争 ろんそう の末 すえ 、1881年 ねん 設立 せつりつ 時 じ の民権 みんけん 派 は 参加 さんか は実学 じつがく 党 とう のみに止 と まり、これも2ヶ月 かげつ 後 ご には脱退 だったい した。
明治 めいじ 十 じゅう 四 よん 年 ねん の政変 せいへん 後 のち 板垣 いたがき 退助 たいすけ らが自由党 じゆうとう を設立 せつりつ すると、熊本 くまもと でも民権 みんけん 系 けい 結社 けっしゃ の組織 そしき 化 か が進 すす み、1882年 ねん (明治 めいじ 15年 ねん )九州 きゅうしゅう 改 あらため 進 しん 党 とう が結成 けっせい される。これは一度 いちど 解党 かいとう されるが、九州 きゅうしゅう 連合 れんごう 同志 どうし 会 かい などを経 へ て1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )に結成 けっせい された立憲 りっけん 自由党 じゆうとう に引 ひ き継 つ がれてゆく。そしてこれは、1888年 ねん (明治 めいじ 21年 ねん )に改組 かいそ されて熊本 くまもと 国権 こっけん 党 とう となった保守 ほしゅ 勢力 せいりょく の紫 むらさき 溟会と県政 けんせい を二分 にぶん する勢力 せいりょく になっていった。この対立 たいりつ の模様 もよう は「肥後 ひご の議論 ぎろん 倒 たお れ」とも呼 よ ばれる熊本 くまもと 人 じん の気質 きしつ を助長 じょちょう するひとつにもなった[2- 31] 。
熊本大学 くまもとだいがく 五 ご 高 だか 記念 きねん 館 かん 。1890年 ねん の第 だい 五 ご 高等 こうとう 中学校 ちゅうがっこう 新設 しんせつ キャンパスを今 いま に伝 つた える。
1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )発布 はっぷ された中学校 ちゅうがっこう 令 れい に基 もと づき、福岡 ふくおか や長崎 ながさき との誘致 ゆうち 合戦 かっせん の末 すえ [62] 熊本 くまもと に第 だい 五 ご 高等 こうとう 中学校 ちゅうがっこう (現 げん :熊本大学 くまもとだいがく )の設置 せっち が決定 けってい した。翌年 よくねん 、旧 きゅう 熊本 くまもと 洋 よう 学校 がっこう や古城 こじょう 医 い 学校 がっこう の校舎 こうしゃ を用 もち いて開校 かいこう し、1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )には黒髪 くろかみ 村 むら の新 しん キャンパスに移転 いてん した。1894年 ねん (明治 めいじ 27年 ねん )からは高等 こうとう 学校 がっこう 令 れい により第 だい 五 ご 高等 こうとう 学校 がっこう となった同校 どうこう では、ラフカディオ・ハーン(小泉 こいずみ 八雲 やくも )や夏目 なつめ 漱石 そうせき が教鞭 きょうべん をとったことでも知 し られる。
1884年 ねん (明治 めいじ 17年 ねん )、宇土半島 うとはんとう 先端 せんたん の三角 さんかく 町 まち では、国 くに 主導 しゅどう の国際 こくさい 貿易 ぼうえき 港 こう 整備 せいび が始 はじ まり、3年 ねん 後 ご に三角 さんかく 港 こう として開港 かいこう した[63] 。これに関連 かんれん し付帯 ふたい 工事 こうじ として鉄道 てつどう 建設 けんせつ も計画 けいかく され、1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )には門司 もじ - 三角 さんかく 間 あいだ の敷設 ふせつ が許可 きょか された。これには、松方 まつかた デフレ終息 しゅうそく と企業 きぎょう 活動 かつどう の活発 かっぱつ 化 か を背景 はいけい とした鉄道 てつどう 待望 たいぼう 論 ろん の盛 も り上 あ がりがあった。1891年 ねん (明治 めいじ 24年 ねん )7月 がつ 1日 にち 、長洲 ながす 駅 えき ・高瀬 たかぜ 駅 えき (後 ご の玉名 たまな 駅 えき )・植木 うえき 駅 えき ・池田 いけだ 駅 えき (後 ご の上熊本 かみくまもと 駅 えき )を経由 けいゆ して熊本 くまもと 駅 えき まで繋 つな がる鉄道 てつどう が開設 かいせつ した。池田 いけだ 駅 えき と熊本 くまもと 駅 えき は市街 しがい よりもかなり西側 にしがわ に設置 せっち されたが、これは純粋 じゅんすい に用地 ようち 買収 ばいしゅう 問題 もんだい に拠 よ るもので、鉄道 てつどう 忌避 きひ 論 ろん の影響 えいきょう はなかったとされる[2- 32] 。
鉄道 てつどう は順次 じゅんじ 延伸 えんしん され、1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )には人吉 ひとよし 駅 えき まで敷設 ふせつ された。これは、人吉 ひとよし 藩 はん 家老 がろう 家 か 出身 しゅっしん の渋谷 しぶや 礼 あや ら有志 ゆうし による誘致 ゆうち 運動 うんどう が好 このみ を奏 そう したもので、後 のち に文部 もんぶ 大臣 だいじん となった長谷場 はせば 純孝 すみたか が推 お した海岸 かいがん 線 せん ルートが採用 さいよう されなかった背景 はいけい には、軍部 ぐんぶ の意見 いけん もあった[64] 。球磨川 くまがわ 沿 ぞ いの鉄道 てつどう 路線 ろせん は地域 ちいき 住民 じゅうみん の足 あし として、また観光 かんこう コースとしても賑 にぎ わった。翌年 よくねん には鹿児島 かごしま 県 けん までの路線 ろせん が開通 かいつう し、スイッチバック や日本 にっぽん 初 はつ のループ式 しき 路線 ろせん が採用 さいよう された。
天草 てんぐさ のキリスト教 きりすときょう ふたたび[ 編集 へんしゅう ]
明治 めいじ 政府 せいふ は当初 とうしょ 、キリスト教 きょう 信仰 しんこう を解禁 かいきん しなかった。だが1868年 ねん (慶応 けいおう 元年 がんねん ) - 1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )の弾圧 だんあつ をアメリカやイギリス から激 はげ しく非難 ひなん されると、政府 せいふ はキリスト教 きりすときょう 布教 ふきょう を認 みと めた。しかしこの認可 にんか は地方 ちほう まで速 すみ やかに知 し らしめられた訳 わけ ではなく、天草 てんぐさ の人々 ひとびと は長崎 ながさき 「神 こう の島 しま 」の漁民 ぎょみん からこれを聞 き いた。1876年 ねん (明治 めいじ 9年 ねん )大江 おおえ (天草 あまくさ 町 まち )住民 じゅうみん 15人 にん 、翌々年 よくよくねん には大江 おおえ や崎津 さきつ (河浦 かわうら 町 まち )住民 じゅうみん 14人 にん が熊本 くまもと 県 けん 令 れい にキリスト教 きりすときょう 帰依 きえ を届 とど け出 で たが、県 けん はこれを受理 じゅり しなかった。それどころか、葬儀 そうぎ をキリスト教 きりすときょう 式 しき で行 おこな ったとして崎津 さきつ の住民 じゅうみん が処罰 しょばつ されるなど、地方 ちほう 政府 せいふ ゆえの無 む 理解 りかい もあった。
しかしやがて天草 てんぐさ に宣教師 せんきょうし が向 む かうようになり、キリスト教 きょう への理解 りかい も進 すす んだ。1892年 ねん (明治 めいじ 25年 ねん )天草 てんぐさ に赴 おもむ いたフランス 人 ひと 神父 しんぷ ルドヴィコ・ガルニエ は、50年 ねん に亘 わた り天草 てんぐさ での布教 ふきょう 活動 かつどう を続 つづ け、大江 おおえ 天主堂 てんしゅどう 建設 けんせつ や孤児 こじ 院 いん の建設 けんせつ などに尽力 じんりょく した。彼 かれ はフランス語 ふらんすご 調 ちょう で「パーテルさん」(紀行 きこう 文 ぶん 『五 ご 足 そく の靴 くつ 』では「バアテルさん」)と呼 よ ばれて親 した しまれつつ、1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )その生涯 しょうがい を天草 てんぐさ で閉 と じた。[43]
熊本 くまもと の戦争 せんそう と現代 げんだい [ 編集 へんしゅう ]
西南 せいなん 戦争 せんそう を戦 たたか った熊本 くまもと 鎮台 ちんだい は、1888年 ねん (明治 めいじ 21年 ねん )に第 だい 6師団 しだん に改組 かいそ された。熊本 くまもと 市 し がその衛戍 えいじゅ 地 ち となり、師団 しだん 司令 しれい 部 ぶ が置 お かれた熊本 くまもと 城 じょう を中心 ちゅうしん に、周辺 しゅうへん には歩兵 ほへい 連隊 れんたい や騎兵 きへい 大隊 だいたい 、また砲兵 ほうへい 連隊 れんたい が置 お かれた。 日 にち 清 しん 戦争 せんそう や1902年 ねん (明治 めいじ 35年 ねん )の天皇 てんのう を迎 むか えた軍事 ぐんじ 演習 えんしゅう などを経 へ て、熊本 くまもと 市 し は軍 ぐん 都 と としての性格 せいかく を強 つよ めた。日 にち 露 ろ 戦争 せんそう で熊本 くまもと は捕虜 ほりょ を収容 しゅうよう する場 ば のひとつとなり、大江 おおえ 鹿渡 しかわたし の練兵 れんぺい 場 じょう などに約 やく 5000人 にん を受 う け入 い れた。この中 なか には後 ご の作家 さっか ・アレクセイ・ノビコフ=プリボイ や、革命 かくめい 運動 うんどう 家 か ニコライ・ラッセル (ru:Судзиловский, Николай Константинович )らがいた。ラッセルは天草 てんぐさ 出身 しゅっしん の大原 おおはら ナツノとの間 あいだ に二男 じなん ・安光 やすみつ (ハリー)を儲 もう けた[65] 。以後 いご の十 じゅう 五 ご 年 ねん 戦争 せんそう においても、熊本 くまもと は重要 じゅうよう な軍事 ぐんじ 拠点 きょてん であった。
「大 だい 熊本 くまもと 市 し 」の整備 せいび [ 編集 へんしゅう ]
このように戦時 せんじ 体制 たいせい を支 ささ え、自 みずか らも成長 せいちょう する熊本 くまもと 市 し だったが、この二 ふた つの兼 か ね合 あ いに問題 もんだい が生 しょう じた。西南 せいなん 戦争 せんそう で焼 や け野原 のはら となった市 し の中心 ちゅうしん 部 ぶ に置 お かれた山崎 やまざき 練兵 れんぺい 場 じょう が交通 こうつう を分断 ぶんだん し、発展 はってん を阻害 そがい する要因 よういん となってしまっていたことが1881年 ねん (明治 めいじ 14年 ねん )頃 ごろ からクローズアップされ始 はじ めた。世論 せろん を考慮 こうりょ した陸軍 りくぐん 省 しょう は工兵 こうへい 隊 たい や藤崎 ふじさき 台 たい 兵舎 へいしゃ などを渡鹿 とろく や大江 おおえ 村 むら へ移転 いてん したが、肝心 かんじん の練兵 れんぺい 場 じょう は手付 てつ かずのままにされたため、移転 いてん 要求 ようきゅう は燻 くすぶ り続 つづ けた。1891年 ねん (明治 めいじ 24年 ねん )2月 がつ 22日 にち 付 づけ 『熊本 くまもと 新聞 しんぶん 』は、この練兵 れんぺい 場 じょう 移設 いせつ 問題 もんだい が放置 ほうち されている様 さま を「熊本 くまもと 市内 しない 三 さん 馬鹿 ばか の第 だい 一 いち 」と痛烈 つうれつ に批判 ひはん した。1897年 ねん (明治 めいじ 30年 ねん )に熊本 くまもと 市 し 会 かい は陸軍 りくぐん 大臣 だいじん に移転 いてん の要望 ようぼう を提出 ていしゅつ し、陸軍 りくぐん 側 がわ も施設 しせつ 拡張 かくちょう が限界 げんかい に達 たっ していた事情 じじょう もあって、幾度 いくど もの交渉 こうしょう の末 すえ これを受 う けた。翌年 よくねん から練兵 れんぺい 場 じょう が大江 おおえ 村 むら に移転 いてん される諸 しょ 工事 こうじ が始 はじ まったが、これは熊本 くまもと 市 し の負担 ふたん とされてしまった。
市街地 しがいち に広大 こうだい な用地 ようち を得 え た熊本 くまもと 市 し は、発展 はってん に向 む けた都市 とし 計画 けいかく を実行 じっこう に移 うつ した。練兵 れんぺい 場 じょう 跡地 あとち は縦横 じゅうおう の道路 どうろ が整備 せいび され、「練兵 れんぺい 町 まち 」や当時 とうじ の市長 しちょう ・辛島 からしま 格 かく の姓 せい から取 と られた「辛 からし 嶋 しま 町 まち 」などが置 お かれた。ここ一帯 いったい は「新 しん 市街 しがい 」と呼 よ ばれ、一大 いちだい 繁華 はんか 街 がい へと発展 はってん してゆく。市内 しない の公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん として、1907年 ねん (明治 めいじ 40年 ねん )には熊本 くまもと 軽便鉄道 けいべんてつどう が開業 かいぎょう した。これは大正 たいしょう 時代 じだい に熊本 くまもと 電気 でんき 鉄道 てつどう を経 へ て熊本 くまもと 市電 しでん へと変 か わっていった。また、用地 ようち には中央 ちゅうおう 官庁 かんちょう の出先 でさき 機関 きかん 設置 せっち を誘致 ゆうち し、その先駆 さきが けとして1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )には現在 げんざい の桜 さくら 町 まち バスターミナル がある立地 りっち に煙草 たばこ 専売 せんばい 局 きょく が建設 けんせつ された。膨張 ぼうちょう する都市 とし を賄 まかな う上水道 じょうすいどう の整備 せいび も行 おこな われ、1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )には八景水谷 はけのみや や立田 たった 山 さん を水源 すいげん とする上水道 じょうすいどう 網 もう が完成 かんせい した。この土地 とち 整備 せいび ・市電 しでん 敷設 ふせつ ・上水道 じょうすいどう 整備 せいび は近代 きんだい 熊本 くまもと 市 し の三 さん 大 だい 事業 じぎょう とされ、都市 とし 発展 はってん の基盤 きばん づくりが完成 かんせい した。
災害 さいがい と防災 ぼうさい [ 編集 へんしゅう ]
1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )9月13日 にち 、熊本 くまもと 県 けん 一帯 いったい に台風 たいふう が接近 せっきん し、高潮 こうちょう と暴風 ぼうふう による被害 ひがい が生 しょう じた(有明海 ありあけかい 台風 たいふう )。高潮 こうちょう は満潮 まんちょう 時間 じかん 帯 たい に飽託 ほうたく 郡 ぐん (小島 こじま 町 まち 、川口 かわぐち 村 むら 、海路口 うじぐち 村 むら 、沖新 おきしん 村 むら 、畠口 はたぐち 村 むら が顕著 けんちょ [66] )、玉名 たまな 郡 ぐん 、宇土 うと 郡 ぐん の干拓 かんたく 地 ち の防潮 ぼうちょう 堤 つつみ を破壊 はかい 、新田 にった 地帯 ちたい など海岸 かいがん 付近 ふきん の住民 じゅうみん は避難 ひなん する間 あいだ もなく家 いえ ごと押 お しつぶされて波 なみ にさらわれた[67] 。死者 ししゃ ・行方 ゆくえ 不明 ふめい 者 しゃ 423人 にん 、重傷 じゅうしょう 者 しゃ 23人 にん [68] 。また、暴風 ぼうふう は熊本 くまもと 市内 しない を襲 おそ い県立 けんりつ 養蚕 ようさん 試験場 しけんじょう 、県立 けんりつ 盲 めくら 啞学校 がっこう 、会津 あいづ 小学校 しょうがっこう 、二本木 にほんき 病院 びょういん など建物 たてもの 百 ひゃく 数 すう 十 じゅう 戸 こ が倒壊 とうかい 。電気 でんき やガスのライフラインも途絶 とぜつ した。大津 おおつ 街道 かいどう では、加藤 かとう 清正 きよまさ ゆかりの杉 すぎ 並木 なみき の大半 たいはん が吹 ふ き飛 と ばされたほか、水陸 すいりく 両 りょう 稲 いね の浸水 しんすい 面積 めんせき は7000町歩 ちょうぶ に及 およ んだ。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか 、熊本 くまもと 県 けん が初 はじ めて直接 ちょくせつ 空襲 くうしゅう を受 う けたのは1944年 ねん (昭和 しょうわ 19年 ねん )11月21日 にち 、熊本 くまもと 市 し に飛来 ひらい した80機 き のB29 によるものだった。翌年 よくねん 7月 がつ 1日 にち 深夜 しんや には154機 き のB29が飛来 ひらい ・爆 ばく 撃 げき を行 おこな い、熊本 くまもと 市街地 しがいち の三 さん 分 ぶん の一 いち が焼 や け野原 のはら になる熊本大 くまもとだい 空襲 くうしゅう があった。住居 じゅうきょ 一 いち 万 まん 戸 こ が罹災 りさい 、実態 じったい は不明 ふめい だが300人 にん 以上 いじょう が死亡 しぼう した。戦後 せんご 、森林 しんりん の乱伐 らんばつ と河川 かせん 整備 せいび の遅 おく れによる水害 すいがい が毎年 まいとし のように日本 にっぽん 各地 かくち を襲 おそ ったが、熊本 くまもと 県 けん も例外 れいがい ではなかった。1949年 ねん (昭和 しょうわ 24年 ねん )のジュディス台風 たいふう およびデラ台風 たいふう 、翌 よく 1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )にはキジア台風 たいふう で球磨川 くまがわ が氾濫 はんらん し人吉 ひとよし 市 し や八代 やしろ 市 し が被害 ひがい を受 う けた。さらに1953年 ねん (昭和 しょうわ 28年 ねん )6月 がつ の昭和 しょうわ 28年 ねん 西日本 にしにほん 水害 すいがい では筑後川 ちくごがわ を始 はじ めとして北部 ほくぶ 九州 きゅうしゅう のすべての河川 かせん が過去 かこ 最悪 さいあく の洪水 こうずい を引 ひ き起 お こしたが、熊本 くまもと 県 けん では菊池川 きくちがわ や白川 しらかわ といった県内 けんない 北部 ほくぶ の河川 かせん による洪水 こうずい 被害 ひがい が甚大 じんだい であった。熊本 くまもと 市 し の白川 しらかわ では阿蘇 あそ の爆発 ばくはつ のヨナが混 ま じり、泥土 でいど が混入 こんにゅう 、復旧 ふっきゅう に時間 じかん を要 よう した。なお、熊本 くまもと ではこの水害 すいがい を通称 つうしょう 6.26水害 すいがい と称 しょう している。河川 かせん を管理 かんり する建設省 けんせつしょう (現在 げんざい の国土 こくど 交通省 こうつうしょう )はこうした水害 すいがい を防 ふせ ぐためにダム による治水 ちすい を計画 けいかく 、球磨川 くまがわ に市 し 房 ぼう ダム を1959年 ねん (昭和 しょうわ 34年 ねん )完成 かんせい させたのを皮切 かわき りに緑川 みどりかわ に緑川 みどりかわ ダム を、菊池川 きくちがわ には支流 しりゅう の迫間川 はさまがわ に竜 りゅう 門 もん ダム を建設 けんせつ した。現在 げんざい は白川 しらかわ に立野 たての ダム を建設 けんせつ している。また河川 かせん 法 ほう が1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )に改正 かいせい され、県内 けんない の河川 かせん のうち菊池川 きくちがわ 、白川 しらかわ 、緑川 みどりかわ 、球磨川 くまがわ の四 よん 河川 かせん は国 くに が管理 かんり する一級 いっきゅう 河川 かせん に指定 してい された。2016年 ねん 4月 がつ には熊本 くまもと 地震 じしん が発生 はっせい し、その4年 ねん 後 ご には熊本 くまもと 豪雨 ごうう (令 れい 和 わ 2年 ねん 7月 がつ 豪雨 ごうう )が発生 はっせい するなど、21世紀 せいき に入 はい ってからも大 だい 規模 きぼ な災害 さいがい に見舞 みま われている。
蜂 はち の巣 す 城 じょう と川辺川 かわべがわ [ 編集 へんしゅう ]
球磨 くま 郡 ぐん 相良 さがら 村 むら の川辺川 かわべがわ ダム建設 けんせつ 予定 よてい 地 ち 。計画 けいかく 発表 はっぴょう から40年 ねん 以上 いじょう 経 た ってもダム建設 けんせつ に着手 ちゃくしゅ していない。
こうした治水 ちすい 事業 じぎょう 、特 とく にダム事業 じぎょう は父祖 ふそ 伝来 でんらい の土地 とち が永久 えいきゅう に湖底 こてい に沈 しず むことで地元 じもと の反発 はんぱつ は大 おお きいものがあったが、熊本 くまもと 県 けん では特 とく にこうした反発 はんぱつ が強 つよ かった。その一 ひと つは1959年 ねん より筑後川 ちくごがわ 上流 じょうりゅう に建設 けんせつ が計画 けいかく された松原 まつばら ダム と下 しも 筌(しもうけ)ダム に対 たい する地元 じもと 阿蘇 あそ 郡 ぐん 小国 おぐに 町 まち 住民 じゅうみん によるダム反対 はんたい 闘争 とうそう ・蜂 はち の巣 す 城 じょう 紛争 ふんそう である。事業 じぎょう 者 しゃ である建設省 けんせつしょう の強権 きょうけん 的 てき な態度 たいど に反発 はんぱつ した小国 おぐに 町 まち の住民 じゅうみん ・室原 むろはら 知幸 ともゆき は下 しも 筌ダム建設 けんせつ 予定 よてい 地 ち に砦 とりで を築 きず き、水没 すいぼつ 予定 よてい 地 ち の住民 じゅうみん と共 とも に建設省 けんせつしょう に対 たい して猛然 もうぜん と抵抗 ていこう した。この紛争 ふんそう は1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )には「代 だい 執行 しっこう 水中 すいちゅう 乱闘 らんとう 事件 じけん 」にまで発展 はってん する流血 りゅうけつ の事態 じたい となったが、1970年 ねん (昭和 しょうわ 45年 ねん )の室原 むろはら の死 し によって幕 まく を閉 と じた。しかしこの事件 じけん はその後 ご の国 くに による河川 かせん 行政 ぎょうせい のあり方 かた を大 おお きく転換 てんかん させ、1973年 ねん (昭和 しょうわ 48年 ねん )には水源 すいげん 地域 ちいき 対策 たいさく 特別 とくべつ 措置 そち 法 ほう が制定 せいてい されて水没 すいぼつ 住民 じゅうみん の生活 せいかつ 再建 さいけん などが法律 ほうりつ によって義務 ぎむ 化 か され、「住民 じゅうみん の許可 きょか がない限 かぎ り、ダム事業 じぎょう は着手 ちゃくしゅ できない」という不文 ふぶん 律 りつ を形成 けいせい した。
そして現在 げんざい 、熊本 くまもと 県 けん 最大 さいだい の公共 こうきょう 事業 じぎょう として全国 ぜんこく 的 てき に問題 もんだい になっているのが、球磨 くま 郡 ぐん 相良 さがら 村 むら と五木 いつき 村 むら に建設 けんせつ が計画 けいかく されている川辺川 かわべがわ ダム である。1966年 ねん (昭和 しょうわ 41年 ねん )に計画 けいかく が発表 はっぴょう されたこのダム計画 けいかく は、完成 かんせい すれば熊本 くまもと 県 けん 最大 さいだい のダムとなる。だが五木 いつき 村 むら ・相良 さがら 村 むら の反対 はんたい 運動 うんどう 、さらに1990年代 ねんだい 以降 いこう の公共 こうきょう 事業 じぎょう 見直 みなお しの風潮 ふうちょう によって計画 けいかく 発表 はっぴょう から40年 ねん 以上 いじょう 経過 けいか した現在 げんざい も工事 こうじ には着手 ちゃくしゅ していない。2001年 ねん (平成 へいせい 13年 ねん )には当時 とうじ の潮 しお 谷 たに 義子 よしこ 熊本 くまもと 県知事 けんちじ によって「川辺川 かわべがわ ダム住民 じゅうみん 討論 とうろん 集会 しゅうかい 」が開催 かいさい され、ダム建設 けんせつ の是非 ぜひ を巡 めぐ って活発 かっぱつ な議論 ぎろん が交 か わされた。この間 あいだ 事業 じぎょう 費 ひ の増大 ぞうだい に耐 た えかねた川辺川 かわべがわ ・球磨川 くまがわ 流域 りゅういき の農家 のうか が「川辺川 かわべがわ 利水 りすい 訴訟 そしょう 」を起 お こし、事業 じぎょう 計画 けいかく の取 と り下 さ げを訴 うった えこれが2003年 ねん (平成 へいせい 15年 ねん )に福岡 ふくおか 高等 こうとう 裁判所 さいばんしょ で認 みと められると、2007年 ねん (平成 へいせい 19年 ねん )には川辺川 かわべがわ ダムにかんがい事業 じぎょう 者 しゃ として参加 さんか を予定 よてい していた農林水産省 のうりんすいさんしょう がダム事業 じぎょう から撤退 てったい を表明 ひょうめい 。同時 どうじ に水力 すいりょく 発電 はつでん 事業 じぎょう に参加 さんか を予定 よてい していた電源 でんげん 開発 かいはつ も事業 じぎょう からの撤退 てったい を表明 ひょうめい 。川辺川 かわべがわ ダムの事業 じぎょう 意義 いぎ が問 と われるようになった。流域 りゅういき 自治体 じちたい の五木 いつき 村 むら や八代 やしろ 市 し 、球磨 くま 村 むら などはダム事業 じぎょう の早期 そうき 推進 すいしん を訴 うった えているが、人吉 ひとよし 市 し と相良 さがら 村 むら 、そして熊本 くまもと 県 けん は反対 はんたい ・計画 けいかく の白紙 はくし 撤回 てっかい の姿勢 しせい を示 しめ しており、今後 こんご ダム計画 けいかく が存続 そんぞく するかどうかは事業 じぎょう 者 しゃ である国土 こくど 交通省 こうつうしょう の対応 たいおう にかかっているといわれている。
なお、潮 しお 谷 だに 熊本 くまもと 県知事 けんちじ 在任 ざいにん 中 ちゅう に球磨川 くまがわ に建設 けんせつ していた県営 けんえい の水力 すいりょく 発電 はつでん 用 よう ダム・荒瀬 あらせ ダム の撤去 てっきょ が決定 けってい されていた。施設 しせつ の老朽 ろうきゅう 化 か による維持 いじ 費 ひ 捻出 ねんしゅつ 困難 こんなん がその理由 りゆう であり、2010年 ねん (平成 へいせい 22年 ねん )に水利 すいり 権 けん が失効 しっこう すると同時 どうじ にダムは撤去 てっきょ される予定 よてい であった。こうしたダム撤去 てっきょ は日本 にっぽん 初 はつ のケースとして注目 ちゅうもく されていたが、2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )6月 がつ 4日 にち 、潮 しお 谷 たに 知事 ちじ の後 のち を継 つ いだ蒲島 かましま 郁夫 いくお 知事 ちじ が「撤去 てっきょ に伴 ともな う費用 ひよう が増大 ぞうだい し、費用 ひよう 対 たい 効果 こうか に疑問 ぎもん がある」として撤去 てっきょ を凍結 とうけつ する方針 ほうしん を発表 はっぴょう した。しかしこの決断 けつだん に対 たい し、長年 ながねん ダム放流 ほうりゅう による振動 しんどう や冠水 かんすい 、井戸 いど 枯 か れの被害 ひがい に遭 あ っていた流域 りゅういき 住民 じゅうみん から怒 いか りの声 こえ が上 あ がり国交 こっこう 相 しょう は水利 すいり 権 けん 更新 こうしん を認 みと めず、知事 ちじ は凍結 とうけつ 方針 ほうしん を撤回 てっかい する。2012年 ねん からダム撤去 てっきょ 工事 こうじ が始 はじ まっている。
熊本 くまもと の産業 さんぎょう [ 編集 へんしゅう ]
古代 こだい から豊 ゆた かな農産物 のうさんぶつ で知 し られた肥後 ひご では、近代 きんだい そして現代 げんだい 熊本 くまもと となっても農業 のうぎょう が有力 ゆうりょく な産業 さんぎょう であり続 つづ けた。明治 めいじ 新 しん 政府 せいふ は、殖産 しょくさん 興業 こうぎょう の一環 いっかん として[69] 1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )農 のう 商務省 しょうむしょう 農事 のうじ 試験場 しけんじょう 九州 きゅうしゅう 支 ささえ 場 じょう (現 げん :独立 どくりつ 行政 ぎょうせい 法人 ほうじん 九州 きゅうしゅう 沖縄 おきなわ 農業 のうぎょう 研究 けんきゅう センター)を熊本 くまもと にも設立 せつりつ し、1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )に設置 せっち された県立 けんりつ の農事 のうじ 試験場 しけんじょう ともども、養蚕 ようさん 業 ぎょう ・イグサ・野菜 やさい 類 るい や茶 ちゃ などの栽培 さいばい や試験 しけん などを主導 しゅどう した[70] 。戦後 せんご になっても熊本 くまもと は屈指 くっし の農業 のうぎょう 県 けん であり、従事 じゅうじ 者 しゃ 数 すう や農業 のうぎょう ・畜産 ちくさん 生産 せいさん 額 がく は全国 ぜんこく でも高 たか い水準 すいじゅん にある[71] 。特産 とくさん 品 ひん としては、1991年 ねん (平成 へいせい 3年 ねん )から出荷 しゅっか が始 はじ まったデコポン [72] など柑橘類 かんきつるい 、トマト やスイカ 、出荷 しゅっか 時期 じき が他 た 地域 ちいき よりも早 はや い[73] アンデスメロン などや球磨川 くまがわ 流域 りゅういき の寒暖 かんだん 差 さ を利用 りよう したプリンスメロン [74] 等 ひとし が知 し られている。しかし近年 きんねん は、担 にな い手 て 不足 ふそく や台風 たいふう などの自然 しぜん 災害 さいがい 、また輸入 ゆにゅう 農産物 のうさんぶつ との競争 きょうそう 激化 げきか などの問題 もんだい が顕在 けんざい 化 か し、県 けん は2001年 ねん (平成 へいせい 13年 ねん )に「熊本 くまもと 県 けん 農業 のうぎょう 計画 けいかく (チャレンジ21くまもと)」を策定 さくてい して農業 のうぎょう の将来 しょうらい 展望 てんぼう を開 ひら く対策 たいさく を行 おこな っている[75] 。
熊本 くまもと 県 けん の就業 しゅうぎょう 人口 じんこう 比率 ひりつ を見 み ると、全国 ぜんこく 平均 へいきん の2倍 ばい を上回 うわまわ る第 だい 一 いち 次 じ 産業 さんぎょう に対 たい し、第 だい 二 に 次 じ 産業 さんぎょう 比率 ひりつ は平均 へいきん を下回 したまわ っている[76] 。熊本 くまもと 初 はつ の近代 きんだい 工業 こうぎょう は、実学 じつがく 党 とう 政権 せいけん 下 か の明治 めいじ 初期 しょき 、諮問 しもん された養蚕 ようさん 業 ぎょう 振興 しんこう 策 さく に則 のっと り1875年 ねん (明治 めいじ 8年 ねん )に設立 せつりつ された[77] 緑川 みどりかわ 製糸 せいし 場 じょう に遡 さかのぼ る。士族 しぞく 授産 じゅさん のひとつ、そして士族 しぞく 子女 しじょ らが女工 じょこう として働 はたら いた製糸 せいし 場 じょう は、当初 とうしょ こそ粗末 そまつ な町 まち 工場 こうじょう に過 す ぎなかったが、順次 じゅんじ 規模 きぼ や設備 せつび を充実 じゅうじつ していった[78] 。製糸 せいし 場 じょう は1881年 ねん (明治 めいじ 14年 ねん )の「横浜 よこはま 生糸 きいと 荷 に 預 あずか 所 ところ 事件 じけん 」[79] のあおりを受 う けて廃業 はいぎょう したが、1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )には熊本 くまもと 製糸 せいし (長野 ながの 濬平創業 そうぎょう [80] )が、翌年 よくねん には八 はち 代 だい で熊本 くまもと 紡績 ぼうせき が設立 せつりつ された。これらの企業 きぎょう は現在 げんざい に命脈 めいみゃく を繋 つな いでいないが、日本 にっぽん の製糸 せいし ・紡績 ぼうせき 産業 さんぎょう を支 ささ える一翼 いちよく を担 にな った[81] 。
1964年 ねん (昭和 しょうわ 39年 ねん )に新 しん 産業 さんぎょう 都市 とし 建設 けんせつ 促進 そくしん 法 ほう が施行 しこう されると、地区 ちく 指定 してい を受 う けた熊本 くまもと でも工業 こうぎょう 化 か が加速 かそく された[82] 。特 とく に九州 きゅうしゅう には大手 おおて 半導体 はんどうたい 企業 きぎょう の進出 しんしゅつ が続 つづ き、熊本 くまもと にも一貫 いっかん 生産 せいさん や組立 くみたて ・パネル企業 きぎょう の工場 こうじょう が建設 けんせつ された[83] 。これらの動 うご きを指 さ して、九州 きゅうしゅう を「シリコンアイランド 」と呼 よ ぶ向 む きもあったが、その実体 じったい は企画 きかく や設計 せっけい 機能 きのう が伴 ともな わない生産 せいさん に偏重 へんちょう したもので、「頭脳 ずのう なき拠点 きょてん 」とこき下 お ろされる一 いち 面 めん もあった[84] 。オイルショック による低迷 ていめい の後 のち 、熊本 くまもと 県 けん は「テクノポリス 構想 こうそう 」を打 う ち上 あ げ、1983年 ねん (昭和 しょうわ 58年 ねん )に制定 せいてい された「高度 こうど 技術 ぎじゅつ 工業 こうぎょう 集積 しゅうせき 地域 ちいき 開発 かいはつ 促進 そくしん 法 ほう (テクノポリス法 ほう )」に則 のっと り翌年 よくねん に全国 ぜんこく で9箇所 かしょ 指定 してい された産学 さんがく 住 じゅう の調和 ちょうわ を目標 もくひょう とした地域 ちいき 創設 そうせつ のひとつ「熊本 くまもと テクノポリス」建設 けんせつ に乗 の り出 だ した[82] 。
自動車 じどうしゃ や重化学 じゅうかがく 産業 さんぎょう には遅 おく れた熊本 くまもと は、半導体 はんどうたい に焦点 しょうてん を絞 しぼ った産業 さんぎょう 誘致 ゆうち 政策 せいさく を進 すす め一定 いってい の成果 せいか を挙 あ げた。しかし、競争 きょうそう 激化 げきか や景気 けいき 後退 こうたい による半導体 はんどうたい 不 ふ 況 きょう もあり、県 けん の製造 せいぞう 業 ぎょう 総 そう 出荷 しゅっか 額 がく も落 お ち込 こ みを見 み せた。企業 きぎょう 進出 しんしゅつ を促 うなが す助成 じょせい 金 きん や税制 ぜいせい 優遇 ゆうぐう は九州 きゅうしゅう でも高 たか い水準 すいじゅん にあるが、全国 ぜんこく 的 てき には必 かなら ずしも目 め につくものではない中 なか 、県 けん は「セミコンフォレンス構想 こうそう 」などインセンティブを高 たか める施策 しさく を打 う ち出 だ している[82] 。近年 きんねん 熊本 くまもと に進出 しんしゅつ した企業 きぎょう は、その理由 りゆう として豊富 ほうふ な水 みず 資源 しげん や、九州 きゅうしゅう の中心 ちゅうしん やアジア 地域 ちいき とのアクセスなど地理 ちり 的 てき 条件 じょうけん 等 とう を挙 あ げている[85] 。
熊本 くまもと 県 けん には豊富 ほうふ でダイナミックな自然 しぜん や歴史 れきし 的 てき 建築 けんちく 物 ぶつ 、また数多 かずおお い温泉 おんせん 地 ち などがある。しかしながら、黒川 くろかわ 温泉 おんせん のような成功 せいこう 例 れい を除 のぞ けば、現実 げんじつ は観光 かんこう 地 ち としての魅力 みりょく に欠 か き、宿泊 しゅくはく 客 きゃく や観光 かんこう 消費 しょうひ 総額 そうがく は伸 の び悩 なや んでいる[86] 。2011年 ねん に全線 ぜんせん 開業 かいぎょう が予定 よてい されている九州 きゅうしゅう 新幹線 しんかんせん には市場 いちば 拡大 かくだい や観光 かんこう 客 きゃく 増加 ぞうか への効果 こうか が期待 きたい されている[87] が、その一方 いっぽう で空洞 くうどう 化 か を懸念 けねん する声 こえ もある[88] [89] 。観光 かんこう 立 りつ 県 けん をめざす熊本 くまもと には、他 た 地域 ちいき との差別 さべつ 化 か やホスピタリティの向上 こうじょう 、また広報 こうほう 活動 かつどう などが求 もと められ[86] 、それらの実現 じつげん に向 む けた具体 ぐたい 的 てき 取 と り組 く みも行 おこな われている[88] [90] 。
水俣 みなまた の受難 じゅなん [ 編集 へんしゅう ]
1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )11月水俣 みなまた 市 し で稼動 かどう を始 はじ めた日本 にっぽん 窒素肥料 ちっそひりょう 株式会社 かぶしきがいしゃ (日 にち 窒、現 げん :チッソ )は、カーバイド を皮切 かわき りに肥料 ひりょう である石灰 せっかい 窒素 ちっそ そして硫酸 りゅうさん アンモニウム へと事業 じぎょう を拡大 かくだい していった。カザレー式 しき アンモニア 製造 せいぞう 法 ほう を確立 かくりつ した1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん /昭和 しょうわ 元年 がんねん )、日 にち 窒の元 もと 社員 しゃいん ・坂根 さかね 次郎 じろう が町長 ちょうちょう に就任 しゅうにん 、工場 こうじょう 長 ちょう ら関係 かんけい 者 しゃ 7人 にん が町会 ちょうかい 議員 ぎいん に当選 とうせん し、町 まち 政 せい への関与 かんよ を始 はじ めた。これには、1923年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )の水害 すいがい 発生 はっせい を受 う けて都市 とし 災害 さいがい 対策 たいさく に主導 しゅどう 権 けん を発揮 はっき するためとされたが、一方 いっぽう で1918年 ねん (大正 たいしょう 7年 ねん )以来 いらい 続 つづ いていた排水 はいすい を巡 めぐ る漁業 ぎょぎょう 組合 くみあい との補償 ほしょう 問題 もんだい を政治 せいじ 的 てき に解決 かいけつ しようとする意図 いと もあったという。漁業 ぎょぎょう 補償 ほしょう を排出 はいしゅつ 水 すい についての苦情 くじょう を永久 えいきゅう に取 と り下 さ げることを条件 じょうけん に見舞 みまい 金 きん を支払 しはら って決着 けっちゃく させ、日 にち 窒は排水 はいすい を継続 けいぞく した。
1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )頃 ごろ から日 にち 窒水俣 みなまた 工場 こうじょう は主 しゅ 製造 せいぞう 品 ひん を、アセトアルデヒド を原料 げんりょう とする酢酸 さくさん ・酢酸 さくさん エチル などに転換 てんかん した。この原料 げんりょう を製造 せいぞう する過程 かてい で、第 だい 二 に 硫化 りゅうか 水銀 すいぎん 触媒 しょくばい を使用 しよう する工程 こうてい で毒性 どくせい が高 たか いメチル水銀 すいぎん が生成 せいせい された。日 にち 窒は処理 しょり を行 おこ なわず、排水 はいすい を水俣 みなまた 湾 わん に放出 ほうしゅつ し続 つづ けた。この結果 けっか 、1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )に初 はじ めて水俣病 みなまたびょう 患者 かんじゃ が発生 はっせい した。戦時 せんじ 中 ちゅう の空襲 くうしゅう で工場 こうじょう は破壊 はかい されたが、戦後 せんご 復興 ふっこう し、ふたたび排水 はいすい 放出 ほうしゅつ は始 はじ まった。1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )から1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )までの間 あいだ に放出 ほうしゅつ された水銀 すいぎん 量 りょう は200トン にのぼる。
水俣 みなまた の「奇病 きびょう 」が公式 こうしき に発見 はっけん されたのは1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )、これがメチル水銀 すいぎん を原因 げんいん とする旨 むね の認定 にんてい がなされたのは1959年 ねん (昭和 しょうわ 34年 ねん )であった。しかし、1963年 ねん (昭和 しょうわ 38年 ねん )には水銀 すいぎん が水俣 みなまた 工場 こうじょう の排水 はいすい に起因 きいん すると指摘 してき されたにもかかわらず、政府 せいふ がこれを認 みと めたのは5年 ねん 後 ご だった。1969年 ねん (昭和 しょうわ 44年 ねん )から始 はじ まった患者 かんじゃ による訴訟 そしょう が和解 わかい 締結 ていけつ によって結審 けっしん を見 み たのは1996年 ねん (平成 へいせい 8年 ねん )であり、唯一 ゆいいつ 続 つづ いていた関西 かんさい 訴訟 そしょう も2004年 ねん (平成 へいせい 16年 ねん )に結審 けっしん し、国 くに と県 けん の敗訴 はいそ が確定 かくてい した。日本 にっぽん 思想 しそう 史 し 研究 けんきゅう 家 か のヴィクター・コッシュマンは「水俣病 みなまたびょう 患者 かんじゃ 」の英訳 えいやく に「patient」(患者 かんじゃ )ではなく「sufferer」(受難 じゅなん 者 しゃ )という単語 たんご を選択 せんたく している[2- 33] 。ここには、水俣病 みなまたびょう は医学 いがく 的 てき 問題 もんだい だけではなく、企業 きぎょう や行政 ぎょうせい 倫理 りんり および社会 しゃかい 構造 こうぞう の問題 もんだい でもあるという彼 かれ のメッセージが込 こ められている。水俣病 みなまたびょう 患者 かんじゃ は、現在 げんざい でも病気 びょうき との闘 たたか いを強 し いられている。
^ 出典 しゅってん 『熊本 くまもと 県 けん の歴史 れきし 』に倣 なら う(10p)。出典 しゅってん 『熊本 くまもと 県 けん の歴史 れきし 散歩 さんぽ 』では80ヶ所 かしょ 以上 いじょう とある(2p)。なお、日本 にっぽん 旧 きゅう 石器 せっき 学会 がっかい によって2010年 ねん に刊行 かんこう された『日本 にっぽん 列島 れっとう の旧石器時代 きゅうせっきじだい 遺跡 いせき 』は「熊本 くまもと 県 けん における旧石器時代 きゅうせっきじだい ・縄文 じょうもん 時代 じだい 草創 そうそう 期 き の遺跡 いせき /文化 ぶんか 層 そう 数 すう は、354 遺跡 いせき / 文化 ぶんか 層 そう (2006 年 ねん 1 月 がつ 現在 げんざい )であり、遺跡 いせき 数 すう は 333 を数 かぞ える」と記載 きさい されている「第 だい 2部 ぶ 都道府県 とどうふけん 別 べつ 遺跡 いせき 集成 しゅうせい の解説 かいせつ と遺跡 いせき 分布 ぶんぷ 図 ず 」『日本 にっぽん 列島 れっとう の旧石器時代 きゅうせっきじだい 遺跡 いせき ―日本 にっぽん 旧 きゅう 石器 せっき (先 さき 土器 どき ・岩 いわ 宿 やど )時代 じだい 遺跡 いせき のデータベース―』(pdf)日本 にっぽん 旧 きゅう 石器 せっき 学会 がっかい 、2010年 ねん 、104頁 ぺーじ 。http://palaeolithic.jp/data/palaeolithic-sites-database.pdf 。2021年 ねん 5月 がつ 2日 にち 閲覧 えつらん 。 。
^ 『日本 にっぽん 三 さん 代 だい 実録 じつろく 』貞 さだ 観 かん 十 じゅう 一 いち 年 ねん (869年 ねん )九 きゅう 月 がつ 十 じゅう 四 よん 日 にち 条 じょう には「肥後 ひご 国 こく に大 だい 風雨 ふうう あり 官舎 かんしゃ 民 みん 居 きょ 顚倒する者 もの 多 おお く」とあり、洪水 こうずい による破壊 はかい の傍証 ぼうしょう となる
^ 藤原不比等 ふじわらのふひと や藤原 ふじわら 四 よん 兄弟 きょうだい 、長屋王 ながやおう 、橘諸兄 たちばなのもろえ など官位 かんい の高 たか い者 もの さえ卒 そつ 伝 でん は載 の せられていない中 なか 、道 みち 公 こう 首 くび 名 めい は特異 とくい な例 れい に当 あ たる。
^ この蚕養 こがい 駅 えき 遺構 いこう は、現在 げんざい の熊本大学 くまもとだいがく 黒髪 くろかみ キャンパスにある黒髪 くろかみ 町 まち 遺跡 いせき (熊本 くまもと 市 し 黒髪 くろかみ 2丁目 ちょうめ )とも推定 すいてい されている。詳細 しょうさい は 熊本大学 くまもとだいがく ホームページ[リンク切 き れ ] にて解説 かいせつ されている。
^ この評 ひょう は、『熊本 くまもと 史学 しがく 』16-17号 ごう (1959年 ねん )に志方 しかた 正和 まさかず が発表 はっぴょう した論文 ろんぶん 「菊池 きくち 氏 し の起源 きげん について 」にて分析 ぶんせき されている。志方 しかた は、同 どう 時代 じだい に記 しる された藤原 ふじわら 実 みのる 資 し の『小 しょう 右記 うき 』や藤原 ふじわら 資 し 房 ぼう の『春記 はるき 』などを検討 けんとう し、この結論 けつろん に至 いた っている。
^ 出典 しゅってん 『熊本 くまもと 県 けん の歴史 れきし 』に倣 なら う(91-93p)。この解釈 かいしゃく は、『鹿子木 かのこぎ 荘 そう 条々 じょうじょう 事 ごと 書 しょ 』が元 もと 寇後に起 お こった神領 しんりょう 回復 かいふく 運動 うんどう において起草 きそう された論争 ろんそう 的 てき 文書 ぶんしょ だという点 てん から研究 けんきゅう された近年 きんねん のもので、他 た の文献 ぶんけん では沙弥 さや 寿 ことぶき 妙 たえ を開発 かいはつ 領主 りょうしゅ とみなしているもの(『街道 かいどう の日本 にっぽん 史 し 51』p9、『熊本 くまもと 県 けん の歴史 れきし 散歩 さんぽ 』p5・p132)もある。ただし、寿 ことぶき 妙 たえ の孫 まご ・高 たか 方 かた が上分 かみぶん 寄進 きしん を行 おこな っている点 てん から、鹿子木 かのこぎ 荘 そう を寄進 きしん 地 ち 系 けい 荘園 しょうえん に分類 ぶんるい することは誤 あやま りではない。
^ 出典 しゅってん 『熊本 くまもと 県 けん の歴史 れきし 』では「大友 おおとも 頼 よりゆき 泰 やすし 」とある (p112) が、大友 おおとも 氏 し 3代 だい 当主 とうしゅ 大友 おおとも 頼 よりゆき 泰 やすし とは時代 じだい が合 あ わない。
^ 『太平 たいへい 記 き 』 [要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] には、楠木 くすのき 正成 まさしげ が博多 はかた 合戦 かっせん における菊池 きくち 武 たけし 時 じ らの討死 うちじに を勲功 くんこう 第 だい 一 いち と賞賛 しょうさん したことが記 しる されている。
^ これは『新撰 しんせん 事蹟 じせき 通 どおり 考 こう 』 [要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] を根拠 こんきょ に、一般 いっぱん に宇土 うど 為 ため 光 こう の簒奪 さんだつ 行為 こうい とされるが、阿蘇 あそ 品 ひん 保夫 やすお はこれを隈部 くまべ 上総 かずさ 介 かい の謀反 むほん であり、島原 しまばら に去 さ った菊池 きくち 能 のう 運 うん の後任 こうにん として国侍 くにざむらい たちが宇土 うど 為 ため 光 こう を推挙 すいきょ したとする新説 しんせつ を『新 しん 熊本 くまもと 史 し 』「通史 つうし 編 へん 第 だい 二 に 巻 かん 中世 ちゅうせい 」 [要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] に著 あらわ した。
^ 木村 きむら 忠夫 ただお 「大友 おおとも 氏 し の豊後 ぶんご 支配 しはい 」[要 よう 出典 しゅってん ] によれば、阿蘇 あそ 惟 おもんみ 長 ちょう (菊池 きくち 武 たけし 経 けい )失脚 しっきゃく 直後 ちょくご から大友 おおとも 氏 し が菊 きく 法師丸 ほしまる (後 ご の菊地 きくち 義武 よしたけ )の名義 めいぎ で菊池 きくち 氏 し の家臣 かしん に所領 しょりょう 安堵 あんど を行 おこな っている、と指摘 してき する。
^ 清正 きよまさ の隈 くま 本城 ほんじょう 修復 しゅうふく を直接 ちょくせつ 証拠 しょうこ づける資料 しりょう は現存 げんそん しないが、『熊本 くまもと 細工 さいくの 町 まち 地割 じわり 図 ず 』 [要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] には天正 てんしょう 19年 ねん (1591年 ねん )に細工 さいくの 町 まち の職人 しょくにん 街 がい を末 すえ 町 まち に移 うつ す記述 きじゅつ があり、修理 しゅうり が一段落 いちだんらく したため職人 しょくにん の居住 きょじゅう 地 ち を移 うつ す様子 ようす が見 み られる。出典 しゅってん 『熊本 くまもと 県 けん の歴史 れきし 』では、これらの傍証 ぼうしょう を根拠 こんきょ に清正 きよまさ の古城 こじょう 修繕 しゅうぜん があったものと結論 けつろん づけている。
^ なお、改易 かいえき は免 まぬか れたものの天草 あまくさ 領 りょう の没収 ぼっしゅう と出仕 しゅっし 停止 ていし の処分 しょぶん を受 う けた寺沢 てらさわ 堅 けん 高 だか は、後 のち に自殺 じさつ したために唐津 からつ の寺沢 てらさわ 氏 し も改易 かいえき となっている。
^ この説話 せつわ は司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう が『この国 くに のかたち』などにて紹介 しょうかい しているが、『街道 かいどう をゆく』三 さん 「肥 こえ 薩のみち」にて司馬 しば は、この話 はなし は細川 ほそかわ 護貞 もりさだ から聞 き いたと記 しる している。
^ 『寺社 じしゃ 例 れい 帳 ちょう 』 [要 よう 文献 ぶんけん 特定 とくてい 詳細 しょうさい 情報 じょうほう ] には、山鹿 やまが の灯籠 とうろう を燈 とも した祭礼 さいれい の盛 さか んな様 よう を記 しる している。
^ 出典 しゅってん 『熊本 くまもと 県 けん の歴史 れきし 』では村井 むらい 見 み 朴 ほお が再春館 さいしゅんかん 創立 そうりつ を申 もう し出 で て、細川 ほそかわ 重賢 しげかた が許可 きょか したとある。
参考 さんこう 文献 ぶんけん の書籍 しょせき 内 ない で提示 ていじ されている出典 しゅってん を示 しめ しています。