江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだい(えどじだい、きゅう字体じたい江戶えど時代じだい)は、日本にっぽん歴史れきしうち江戸えど幕府ばくふ徳川とくがわ幕府ばくふ)の統治とうち時代じだい時代じだい区分くぶんである。呼称こしょうとして徳川とくがわ時代ときよ徳川とくがわ日本にっぽん[1]旧幕きゅうばく時代じだい藩政はんせい時代じだいはんりょうのみ)などがある。江戸えど時代じだいというは、江戸えど将軍しょうぐん常駐じょうちゅうしていたためである。

時代じだい区分くぶん[編集へんしゅう]

1865ねん慶応けいおう元年がんねん)または1866ねん慶応けいおう2ねん)にフェリーチェ・ベアト愛宕山あたごやまより撮影さつえいした江戸えどのパノラマ。人工じんこう着色ちゃくしょくした5まい写真しゃしんをつなげて制作せいさくされた。

日本にっぽん史上しじょう時代じだい区分くぶんとしては、安土あづち桃山ももやま時代じだい(または豊臣とよとみ政権せいけん時代じだい)とわせて「近世きんせい」とされる。

江戸えど時代じだい期間きかんは、一般いっぱんてきには1603ねん3月24にち慶長けいちょう8ねん2がつ12にち)に徳川とくがわ家康いえやす征夷大将軍せいいたいしょうぐん任命にんめいされて江戸えど現在げんざい東京とうきょう)に幕府ばくふ樹立じゅりつしてから[注釈ちゅうしゃく 1]1868ねん10月23にち慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねん9月8にち)の「一世一元いっせいいちげんみことのり」の発布はっぷ一世一元いっせいいちげんへの移行いこう)にともない、慶応けいおうから明治めいじ改元かいげんされるまでの265年間ねんかんである[注釈ちゅうしゃく 2]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

初期しょき前期ぜんき(1603ねん - 1690ねんごろ)[編集へんしゅう]

徳川とくがわ家康いえやす

徳川とくがわ家康いえやす征夷大将軍せいいたいしょうぐんくと、領地りょうちである江戸えど幕府ばくふひらき、ここに江戸えど幕府ばくふ徳川とくがわ幕府ばくふ)が誕生たんじょうする。豊臣とよとみ秀吉ひでよし死後しご政局せいきょく混乱こんらんおさめ、産業さんぎょう教育きょういく振興しんこうその施策しさくちかられるとともに、大坂おおさかじん大坂おおさかやく)により豊臣とよとみ勢力せいりょく一掃いっそう。その島原しまばららん鎮圧ちんあつすることで、平安へいあん時代じだい以降いこう、700ねんちかつづいた政局せいきょく不安ふあん終焉しゅうえんむかえた。以後いご200ねん以上いじょうつづ長期ちょうき安定あんてい政権せいけん基盤きばん確立かくりつし、「元和がんわ偃武」とよばれる平和へいわ状態じょうたい日本にっぽんにもたらされた[3]

設立せつりつ当初とうしょ幕府ばくふ運営うんえい体制たいせいは「庄屋しょうや仕立したて」とひょうされる、徳川とくがわ家政かせい踏襲とうしゅうしたものとなったが、寛永かんえい10ねんごろに「老中ろうじゅう」「若年寄わかどしより」などの末期まっきまでつづ制度せいど確立かくりつした[4]。かつて徳川とくがわ家康いえやす豊臣とよとみ政権せいけん同僚どうりょうだった大名だいみょうは、外様とざま大名だいみょうとしてあつかわれ、広大こうだい領土りょうどものもいたが、関東かんとう近畿きんき地方ちほうなどの要地ようちからはとおざけられ、従前じゅうぜん武家ぶけ政権せいけんのように幕政ばくせい関与かんよすることはなくなった。徳川とくがわ一門いちもん親藩しんぱん大名だいみょうだいりょうったが幕政ばくせいには関与かんよせず、関ヶ原せきがはらたたか以前いぜんから徳川とくがわつかえていた譜代ふだい大名だいみょう旗本はたもとによって幕政ばくせい運営うんえいされた。武家ぶけしょ法度はっとによって大名だいみょうきびしく統制とうせいされ、だい大名だいみょう改易かいえき処分しょぶんとなりだいりょううしなうことがしばしば発生はっせいした。京都きょうと大坂おおさか長崎ながさきといった全国ぜんこく要所ようしょ直轄ちょっかつりょう天領てんりょう)として大名だいみょうかず、 幕府ばくふ役人やくにん統治とうちおこなった。朝廷ちょうていたいしては禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと京都きょうと所司代しょしだいによる統制とうせいおこなわれ、自立じりつした対外たいがい行動こうどうをとることはできなくなった。

皇居こうきょきゅう江戸城えどじょう富士見ふじみ1659ねんまん2ねん築造ちくぞう

また、平和へいわ招来しょうらいされたことにより、大量たいりょう兵士へいし武士ぶし)が生産せいさんてき軍事ぐんじ活動かつどうから行政ぎょうせいてき活動かつどうてんじ、広域こういきてき新田にった開発かいはつ各地かくちおこなわれたため、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいへとなが成長せいちょうつづけていた経済けいざい爆発ばくはつてき発展はってんし、高度こうど成長せいちょう時代じだいはじまった。

徳川とくがわ家康いえやす発行はっこうされたオランダとの通商つうしょう許可きょかしょう慶長けいちょう14ねん7がつ25にち1609ねん8がつ24にちづけ

また江戸えど時代じだいには、対外たいがいてきには長崎ながさき出島でじまでの中国ちゅうごくあきらきよし)・オランダとの交流こうりゅう対馬つしまはんかいしての朝鮮ちょうせんとの交流こうりゅう以外いがい外国がいこくとの交流こうりゅう禁止きんしする鎖国さこく政策せいさくった(ただし、実際じっさいには薩摩さつま支配しはいされた琉球りゅうきゅう王国おうこくによるたい中国ちゅうごく交易こうえき渡島ととう半島はんとう松前まさきによる北方ほっぽう交易こうえき存在そんざいした)。バテレン追放ついほうれいは、すでに豊臣とよとみ秀吉ひでよし発令はつれいしていたが、鎖国さこく直接的ちょくせつてき契機けいきとなったのは島原しまばららんで、キリスト教きりすときょう一揆いっき中世ちゅうせい国人くにびと一揆いっき近世きんせい百姓ひゃくしょう一揆いっきなかあいだてき性格せいかくつもの)がむすびついたことにより、その鎮圧ちんあつ困難こんなんであったため、キリストきょう危険きけんせいつよ認識にんしきされたからであるとわれる。またこのあいだ、オランダが日本にっぽん貿易ぼうえき独占どくせんするため、スペインなどのカトリックくに日本にっぽん植民しょくみん意図いとがあり、危険きけんであると幕府ばくふ助言じょげんしたことも影響えいきょうしている。中国ちゅうごくでは同様どうよう政策せいさくうみきん政策せいさくぶが、中国ちゅうごく場合ばあいしゅとして沿海えんかい地域ちいきやまとをもふく海賊かいぞくからの防衛ぼうえいおよび海上かいじょうでのみつ貿易ぼうえき禁止きんしすることが目的もくてきとされており、日本にっぽん鎖国さこく事情じじょうことなるめんもあった。しかし、日本にっぽん鎖国さこく中国ちゅうごくうみきんおなじとして、鎖国さこくよりうみきんとするほう適当てきとうとする見解けんかいもある。鎖国さこく政策せいさく実施じっしされる以前いぜんには、日本人にっぽんじん海外かいがい進出しんしゅついちじるしく、東南とうなんアジアおおくの日本にっぽんまち形成けいせいされた。またタイわたった山田やまだ長政ながまさのように、そのくに重用じゅうようされるれいられた。[5]

しかし鎖国さこくは、もっぱら国内こくない重視じゅうし政策せいさくがとられ、基本きほんてき国内こくない自給じきゅう経済けいざい形成けいせいされた。そのためさん中軸ちゅうじくとする全国ぜんこく経済けいざい各地かくち城下町じょうかまち中心ちゅうしんとするはん経済けいざいとのふくあいてき経済けいざいシステムが形成けいせいされ、各地かくち特産とくさんぶつがおもにだいさか集中しゅうちゅうし(天下てんか台所だいどころばれた)[6]そこから全国ぜんこく拡散かくさんした。農業のうぎょう生産せいさんりょく発展はってん基盤きばんとして、経済けいざいてき繁栄はんえいられたのが元禄げんろく時代じだいであり、この時代じだいには文学ぶんがく絵画かいがめんでも、井原いはら西鶴さいかく浮世草子うきよぞうし松尾まつお芭蕉ばしょう俳諧はいかい近松ちかまつ門左衛門もんざえもん浄瑠璃じょうるり菱川ひしかわ師宣もろのぶ浮世絵うきよえなどが誕生たんじょうしていく。これらの文化ぶんかきょう大坂おおさかをはじめとする関西かんさい地域ちいきからまれた。また、この元禄げんろく花開はなひらいた文化ぶんか元禄げんろく文化ぶんかばれる[7]

中期ちゅうき(1690ねんごろ - 1780ねんごろ)[編集へんしゅう]

ゑちごチラシ

元禄げんろく - 正徳しょうとく[編集へんしゅう]

元禄げんろく時代じだい経済けいざいきゅう成長せいちょうにより、貨幣かへい経済けいざい農村のうそんにも浸透しんとうし、四木しもくくわうるしひのきこうぞ)・さんくさ紅花べにばなあいあさまたは木綿こわた)など商品しょうひん作物さくもつ栽培さいばいすすみ、漁業ぎょぎょうでは上方かみがた漁法ぎょほう全国ぜんこくひろまり、瀬戸内海せとないかい沿岸えんがんではにゅうはましき塩田えんでんひらかれてしお量産りょうさん体制たいせいととの各地かくち流通りゅうつうした。手工業しゅこうぎょうでは綿織物めんおりもの発達はったつし、伝統でんとうてき絹織物きぬおりものでは高級こうきゅうひん西陣織にしじんおりつくられ、また、なだ五郷いさと伊丹いたみ酒造しゅぞうぎょう有田ありた瀬戸せと窯業ようぎょう発展はってんした。やがて、18世紀せいきには農村のうそん工業こうぎょうとして問屋とんやせい家内かない工業こうぎょう各地かくち勃興ぼっこうした。

ひとものながれが活発かっぱつになるなかで、城下町じょうかまち港町みなとちょう宿場しゅくばまち門前もんぜまち鳥居前とりいまえまち鉱山こうざんまちなど、さまざまな性格せいかく都市とし各地かくちまれた。その意味いみ江戸えど時代じだい日本にっぽんは「都市とし時代じだい」であったという評価ひょうかがあり、「ぜん世界せかい歴史れきし見渡みわたしてみても、日本にっぽん江戸えど時代じだいほど都市とし計画けいかくてきに、しかも大量たいりょうつくられ、そのあたらしくつくった都市とし社会しゃかい構造こうぞうなか中心ちゅうしんになったれいは、ほかにられない」とされている[8] 。18世紀せいき初頭しょとう京都きょうと大坂おおさか大阪おおさかはともに40まんちか人口じんこうかかえていた。同期どうき江戸えどは、人口じんこう100まんにん前後ぜんこうたっしており、日本にっぽん最大さいだい消費しょうひ都市としであるばかりでなく、世界せかい最大さいだい都市としでもあった。当時とうじ江戸えど大坂おおさかむす東海道とうかいどうが、18世紀せいきには世界せかい一番いちばん人通ひとどおりのはげしいみちだったといわれている[9]

歌川うたがわ広重ひろしげ東海道とうかいどうじゅうさん』より「日本橋にほんばし

このような経済けいざい発展はってんは、院内銀山いんないぎんざんなどの鉱山こうざん開発かいはつすすんできむぎんどう大量たいりょう生産せいさんされ、それとえに日本にっぽん国外こくがい物資ぶっし大量たいりょう日本にっぽんはいんだためでもあったが、18世紀せいきはいると減産げんさん枯渇こかつ傾向けいこうられるようになった。それに対応たいおうしたのが、新井あらい白石はくせきうみ舶互市新いちしんれい長崎ながさき新令しんれい)であった。かれは、幕府ばくふ開設かいせつから元禄げんろくまでのあいだ長崎ながさき貿易ぼうえき決済けっさいのために、金貨きんか国内こくない通貨つうかりょうのうちの4ぶんの1、銀貨ぎんかは4ぶんの3がうしなわれたとし、長崎ながさき奉行ぶぎょう大岡おおおかきよししょうからの意見いけんしょ参考さんこうにして、この法令ほうれいした。その骨子こっし輸入ゆにゅう規制きせい商品しょうひん国産こくさん推進すいしんであり、長崎ながさきはい異国いこくせんかず貿易ぼうえきがく制限せいげんくわえるものであった。清国きよくにせん年間ねんかん30そう交易こうえきがくぎん6,000かんにまで、オランダせん年間ねんかん2せき貿易ぼうえきがくは3,000かん制限せいげんされ、従来じゅうらい輸入ゆにゅうひんであった綿布めんぷ生糸きいと砂糖さとう鹿しかがわ絹織物きぬおりものなどの国産こくさん奨励しょうれいした[10]

徳川とくがわ吉宗よしむね幕政ばくせいとおる改革かいかく[編集へんしゅう]

徳川とくがわ吉宗よしむね

8だい将軍しょうぐんとなった徳川とくがわ吉宗よしむねは、紀州きしゅう徳川とくがわ出身しゅっしんであり、それまで幕政ばくせい主導しゅどうしてきた譜代ふだい大名だいみょうたいして遠慮えんりょすることなく大胆だいたんに、農本主義のうほんしゅぎ立脚りっきゃくした政治せいじ改革かいかくおこなった(とおる改革かいかく)。吉宗よしむねがもっともしんくだいたのは米価べいか安定あんていであった。貨幣かへい経済けいざい進展しんてんにともない、しょ物価ぶっか基準きじゅんであった米価べいか下落げらくつづけ(米価べいかやす諸色しょしきだか)、それを俸禄の単位たんいとしていた旗本はたもと御家人ごけにん困窮こんきゅう顕著けんちょなものとなったからである。そのためかれ倹約けんやくれい消費しょうひおさえる一方いっぽう新田にった開発かいはつによるべい増産ぞうさんていめんほう採用さいようによる収入しゅうにゅう安定あんていうえべいれい堂島どうじまべい会所かいしょ公認こうにんなどをおこなった[11]。「べい将軍しょうぐん」としょうされた所以ゆえんである。それ以外いがいにも、財政ざいせい支出ししゅつおさえながら有為ゆうい人材じんざい登用とうようするあしだかせいかんやく洋書ようしょ禁輸きんゆ緩和かんわ甘藷さつまいも栽培さいばい奨励しょうれい目安めやすばこ設置せっちなどの改革かいかくおこなった。幕府ばくふ財政ざいせい一部いちぶ健全けんぜんし、1744ねんのべとおる元年がんねん)には江戸えど時代じだいつうじて最高さいこう税収ぜいしゅうとなったが、年貢ねんぐ税率ぜいりつ固定こていみつぎ租のじゅう厳重げんじゅうてとなり、また、きすぎた倹約けんやくにより百姓ひゃくしょう町民ちょうみんからの不満ふまんまねき、おりからのとおるだい飢饉ききんとおる6ねん信州しんしゅう浅間あさまさん噴火ふんか)、どう7ねんどう17ねん)もあって、百姓ひゃくしょう一揆いっきちこわし頻発ひんぱつした。それらにたいし、とおる6ねん(1721ねん)6がつ、「村民そんみん須知しゅうち」、とおる19ねん(1734ねん)8がつ代官だいかんへの触書ふれがきなどによる法令ほうれいまった。たかられき(1704 - 1710ねん)からとおる(1716 - 1735ねん)までのあいだに40かいほどにおよんだ(実際じっさいはもっとおおい。平均へいきんして1ねんやく2かい[12]。このように、土地とち資本しほん基盤きばんとする反面はんめん土地とち所有しょゆうしゃではない支配しはいしゃそうという独自どくじ立場たちばたされた武士ぶし生活せいかつ安定あんていと、安定あんてい成長せいちょう政策せいさくとはかならずしも上手うま融合ゆうごうできずに、金融きんゆうてき経済けいざい圧迫あっぱく政策せいさくされてきょう慢性まんせいした。

なお、「朱子学しゅしがく憶測おくそくにもとづく虚妄きょもうせつにすぎない」と朱子学しゅしがく批判ひはんおこなった荻生おぎゅう徂徠そらい1726ねんとおる11ねん)ごろに吉宗よしむね提出ていしゅつした政治せいじ改革かいかくろん政談せいだん』には、徂徠そらい政治せいじ思想しそう具体ぐたいてきしめされており、これは日本にっぽん思想しそうなか政治せいじ宗教しゅうきょう道徳どうとく分離ぶんりすすめる画期的かっきてき著作ちょさくでもあり、こののち経世けいせいろん本格ほんかくする。一方いっぽう1724ねんとおる9ねん)には大坂おおさか豪商ごうしょう朱子学しゅしがく中心ちゅうしん儒学じゅがくまなふところとくどう設立せつりつして、のちに幕府ばくふ官許かんきょ学問がくもんしょとして明治めいじ初年しょねんまでつづいている。1730ねんとおる15ねん)、石田いしだ梅岩ばいがん日本にっぽん独自どくじ道徳どうとく哲学てつがく心学しんがく石門せきもん心学しんがく)をとなえた。とおる年間ねんかんは、このように、学問がくもん思想しそうじょうでもあたらしい展開てんかいられた時代じだいでもあった[13]

その一方いっぽうで、ちょう長期ちょうき政権せいけん安定あんていとく前半ぜんはんひゃくすうじゅうねん成長せいちょう経済けいざい基調きちょうのもと、町人ちょうにんそう発展はってんし、学問がくもん文化ぶんか芸術げいじゅつ経済けいざいなどさまざまな分野ぶんや活動かつどう活発かっぱつし、現代げんだいにまでつづ伝統でんとう確立かくりつしている。

田沼たぬま意次おきつぐ幕政ばくせい田沼たぬま時代ときよ[編集へんしゅう]

田沼たぬま意次おきつぐ

幕府ばくふ財政ざいせいは、とおる改革かいかくでの年貢ねんぐ増徴ぞうちょうさくによって年貢ねんぐ収入しゅうにゅう増加ぞうかしたが、たかられき年間ねんかん1751ねん - 1763ねん)には頭打あたまうちとなり、ふたたまりをせた。農村のうそんではきびしい年貢ねんぐ収奪しゅうだつくるしみむらっていけなくなった貧農ひんのう遊民ゆうみん江戸えどなどの大都市だいとしながんで無宿むしゅくしゃした。さらに拍車はくしゃをかけたのが田沼たぬま時代じだいとおしてかえこされた天災てんさい飢餓きが続出ぞくしゅつだった。

これらに対応たいおうすべく田沼たぬま意次おきつぐらの田沼たぬま時代じだい幕臣ばくしんたち倹約けんやくれい経費けいひ削減さくげん大奥おおおく縮小しゅくしょう拝借はいしゃくきん制限せいげんなどの緊縮きんしゅく政策せいさく財政ざいせい赤字あかじ対処たいしょしつつ、発展はってんしてきた商品しょうひん生産せいさん流通りゅうつうあらたな財源ざいげん見出みだまい以外いがいからの税収ぜいしゅう確立かくりつこころみた。商品しょうひん生産せいさん流通りゅうつう掌握しょうあくし、物価ぶっかげるため手工業しゅこうぎょうしゃ仲間なかま組織そしきかぶ仲間なかまとして公認こうにん奨励しょうれいして、そこに運上うんじょう冥加みょうがなどを課税かぜいした。専売せんばいせい実施じっしあしがかりとして、ばれる組織そしき複数ふくすう設置せっちし、かく分野ぶんやごとの販売はんばい独占どくせんけん真鍮しんちゅうなどのあたえた[14]

田沼たぬま意次おきつぐ政策せいさく幕府ばくふ財政ざいせいだいいちいたものであったが、それは権力けんりょく商人しょうにん資本しほん密着みっちゃくつよ町人ちょうにん幕府ばくふ役人やくにんとの癒着ゆちゃくにつながった。一方いっぽう一般いっぱん民衆みんしゅう生活せいかつ基盤きばんよわまった。田沼たぬま時代じだい収入しゅうにゅう増加ぞうかさく立案りつあん運用うんようのところ場当ばあたりてきなものもおおく、利益りえきよりも弊害へいがいほう目立めだつようになって撤回てっかいまれるケースも多々たたあったのである。そして幕府ばくふ運上うんじょうきん冥加金みょうがきん上納じょうのうえさみずからの利益りえきをもくろんで献策けんさくおこな町人ちょうにんえ、結果けっかてき幕府ばくふ庶民しょみんとくにならなかった政策せいさく採用さいようすることもあった。そのような町人ちょうにん献策けんさく幕府ばくふないでの出世しゅっせ目当めあてに採用さいようしていく幕府ばくふ役人やくにんあらわれた。町人ちょうにん幕府ばくふ役人やくにんとの癒着ゆちゃく目立めだつようになった。このような風潮ふうちょうは「山師やまし運上うんじょう」という言葉ことばかたられ、利益りえき追求ついきゅうがた場当ばあたりてきめんおおく、腐敗ふはい目立めだってきた田沼たぬま意次おきつぐ政策せいさくたいする批判ひはんつよまっていた[15]

だい規模きぼ開発かいはつさく大胆だいたん金融きんゆう政策せいさくなど、開明かいめいてき革新かくしんてき経済けいざい政策せいさくばれる意次おきつぐ政策せいさくは、いわばだい山師やましてき政策せいさくだった。この時代じだい利益りえき追求ついきゅうもと民間みんかんから様々さまざま献策けんさくさかんにおこなわれ、民間みんかん利益りえき追求ついきゅう幕府ばくふえき追求ついきゅう政治せいじとがむすびつき、かなり大胆だいたん発想はっそう構想こうそう政策せいさく立案りつあん執行しっこうされた。同時どうじ田沼たぬま時代じだい代名詞だいめいしである賄賂わいろ横行おうこう幕府ばくふしょはんとの利益りえき衝突しょうとつ負担ふたんけられた民衆みんしゅうとのあいだ深刻しんこく矛盾むじゅんしょうじさせた[16]

最終さいしゅうてき天明てんめいだい飢饉ききんによる百姓ひゃくしょう一揆いっきちこわし田沼たぬま重用じゅうようした10代家治いえはる契機けいきとした御三家ごさんけ門閥もんばつ譜代ふだい大名だいみょうそうらによるはん田沼たぬま活動かつどうにより田沼たぬま失脚しっきゃく田沼たぬま時代じだい終了しゅうりょうする[17]

後期こうき(1780ねんごろ - 1850ねんごろ)[編集へんしゅう]

松平まつだいら定信さだのぶ幕政ばくせい寛政かんせい改革かいかく[編集へんしゅう]

松平まつだいら定信さだのぶ

つづいて田沼たぬま政治せいじ批判ひはんした松平まつだいら定信さだのぶ1787ねん天明てんめい7ねん)に登場とうじょうし、寛政かんせい改革かいかく推進すいしんした。天明てんめいだい飢饉ききんにより農業のうぎょう人口じんこうが140まんにん減少げんしょうし、幕府ばくふ財政ざいせいひゃくまんりょう赤字あかじ予想よそうされていた。

当時とうじ現在げんざいのようなぜい対価たいかとして行政ぎょうせいサービスをほどこすというかんがえはなかった。しかし、農村のうそんへの救済きゅうさいさく不十分ふじゅうぶん田沼たぬま政策せいさくにより荒廃こうはい一途いっと辿たどっていた農村のうそんと、天明てんめいだい飢饉ききん致命ちめいてき打撃だげきけ、このころから不完全ふかんぜんながらも経綸けいりんし、人民じんみんすくうという「経世済民けいせいさいみん」の思想しそうにもとづいた行政ぎょうせいがうまれようとしていた[18](p44)

天明てんめいだい飢饉ききん直後ちょくご時期じきである「寛政かんせい改革かいかく」は年貢ねんぐ増徴ぞうちょうをおこなえる状況じょうきょうではなく、「小農しょうのう経営けいえい中核ちゅうかくとするむら維持いじ再建さいけん」にちからちゅうくこととなり、農民のうみん負担ふたん軽減けいげんする目的もくてきでさまざまな減税げんぜい復興ふっこう政策せいさくをおこなった。寛政かんせい改革かいかくではこれまでの収奪しゅうだつ一辺倒いっぺんとうだった政策せいさくあらため、みんすくうための政治せいじへと断行だんこうした。定信さだのぶ飢餓きが対策たいさくみ、都市とし農村のうそんわず凶作きょうさく自然しぜん災害さいがいそなまい金銭きんせんたくわえる備荒びこう貯蓄ちょちく政策せいさく推進すいしんした。そのような増税ぞうぜいきびしい状況じょうきょうであったため定信さだのぶ即効そっこうせいのあるきびしい緊縮きんしゅく政策せいさく実行じっこう財政ざいせい再建さいけんつとめることとなる。最終さいしゅうてきに6ねんたった定信さだのぶ失脚しっきゃくのころには備蓄びちくきんも20まんりょうほど貯蓄ちょちくすることができており、幕府ばくふ赤字あかじ財政ざいせい黒字くろじとなっていた。しかし、倹約けんやくれい風俗ふうぞく統制とうせいれい頻発ひんぱつしたために江戸えど不景気ふけいきになり、市民しみんからつよ反発はんぱつけたため、各種かくしゅ法令ほうれい乱発らんぱつすることになった[19](p102)

通説つうせつでは松平まつだいら定信さだのぶ田沼たぬま意次おきつぐ経済けいざい政策せいさくをことごとくくつがえしたとされるが、近年きんねんではむしろ寛政かんせい改革かいかくには田沼たぬま政権せいけんとの連続れんぞくめんがあったと指摘してきされる[20]幕府ばくふ改革かいかくにおいてこうじた経済けいざい政策せいさく田沼たぬま時代じだいのものをほぼすべ継承けいしょうしており、かぶ仲間なかま冥加金みょうがきん南鐐なんりょうしゅばん公金こうきん貸付かしつけなど、じつ田沼たぬま政権せいけんのそれを継承けいしょうしたものがおおかった[21](p90)

1793ねん7がつ定信さだのぶ突然とつぜん老中ろうじゅう解任かいにんされることとなり寛政かんせい改革かいかくはわずかろくねんまくじた。その背景はいけいとして尊号そんごういちけんなどにより、家斉いえなりひとし定信さだのぶとの対立たいりつ、その大奥おおおく予算よさん大幅おおはば削減さくげん不良ふりょう女中じょちゅうきびしくばっするなどと定信さだのぶ大奥おおおくとの対立たいりつ深刻しんこくなどがげられる。


文化ぶんか文政ぶんせい大御所おおごしょ時代じだい[編集へんしゅう]

徳川とくがわ家斉いえなり

松平まつだいら定信さだのぶ辞任じにん[注釈ちゅうしゃく 3]文化ぶんか文政ぶんせい時代じだいから天保てんぽう年間ねんかんにかけてのやく50年間ねんかん政治せいじ実権じっけんは11だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなりにぎった。家斉いえなり将軍しょうぐんしょく家慶いえよしゆずったあとも実権じっけんにぎつづけたため、この政治せいじは「大御所おおごしょ政治せいじ」とばれている。家斉いえなり治世ちせいは、当初とうしょ質素しっそ倹約けんやく政策せいさくがれたが、貨幣かへいあくによる出目でめ収益しゅうえき幕府ばくふ財政ざいせいがいったんうるおうと、大奥おおおくでの華美かび生活せいかつながれ、幕政ばくせい放漫ほうまん経営けいえいおちいった。上述じょうじゅつ異国いこくせんはらいれい家斉いえなり時代じだい発布はっぷされたものである。一方いっぽうで、商人しょうにん経済けいざい活動かつどう活発かっぱつし、都市とし中心ちゅうしん庶民しょみん文化ぶんかせい文化ぶんか)がさかえた。しかし、農村のうそんでは貧富ひんぷ拡大かくだいして各地かくち百姓ひゃくしょう一揆いっき村方むらかた騒動そうどう頻発ひんぱつし、治安ちあん悪化あっかした。1805ねん文化ぶんか2ねん)には関東かんとう取締とりしまりやくかれた。水野みずの忠邦ただくにはこれまでのなかになかった変化へんかきざしをかんじていた。各地かくち農民のうみん町人ちょうにんによる一揆いっきちこわし、強訴ごうそ例年れいねんこっていた。文政ぶんせい6ねん(1823ねん)には摂津せっつ河内かわうち和泉いずみ1,307かそんによるくに訴は、綿めん自由じゆうりさばき、菜種なたね自由じゆうりさばきを要求ようきゅうして、空前くうぜん規模きぼうったえとなり、これまでの経済けいざいさまえるものであった[22]

発展はってんつづける経済けいざい活動かつどう土地とち資本しほん体制たいせい行政ぎょうせいかんである武士ぶし過剰かじょうかかえるかく政府せいふかくはん)との構造こうぞうてき軋轢あつれき内包ないほうしつつも、「泰平たいへい」を謳歌おうかしていた江戸えど時代じだい19世紀せいきむかえると、急速きゅうそく制度せいど疲労ひろうによる硬直こうちょく目立めだはじめる。また、このころより昭和しょうわ前半ぜんはんまでは国内こくないしょうこおりはいり、1822ねん文政ぶんせい5ねん)には隅田川すみだがわ凍結とうけつしている。

それにくわえて、18世紀せいき後半こうはん産業さんぎょう革命かくめいによって欧米おうべい諸国しょこく急速きゅうそく近代きんだいしており、それぞれの政治せいじ経済けいざいてき事情じじょうからだい航海こうかい時代じだいたんなる「冒険ぼうけん」ではなく、みずからの産業さんぎょうのために資源しげん市場いちばもとめて世界せかい各地かくち植民しょくみん獲得かくとくのための進出しんしゅつはじめた。極東きょくとう地域ちいき日本にっぽん近海きんかいにも欧米おうべいふね出没しゅつぼつする回数かいすうおおくなった。たとえば、明和めいわ8ねん(1771ねん)にペニュフスキー、あわ奄美あまみ大島おおしま漂流ひょうりゅう安永やすなが7ねん(1778ねん)ロシアせん蝦夷えぞ厚岸あっけし来航らいこうして松前まさきはん通商つうしょうもとめる、寛政かんせい4ねん(1792ねん)ロシア使節しせつラクスマン、伊勢いせ漂流ひょうりゅうみん大黒屋だいこくや光太夫こうだゆうとう護送ごそうして根室ねむろ来航らいこうし、通商つうしょうもとめるが、幕府ばくふ日本にっぽんとの外交がいこうルートを模索もさくする外国がいこく使節しせつ外国がいこくせん接触せっしょくたいし、1825ねん文政ぶんせい8ねん)には異国いこくせんはらいれい実行じっこうするなど、鎖国さこく政策せいさく継続けいぞくおこなった。文政ぶんせい2ねん(1819ねん)、幕府ばくふは、浦賀うらが奉行ぶぎょうを2めい増員ぞういんした[23]

動乱どうらん天保てんぽう[編集へんしゅう]

水野みずの忠邦ただくに
大塩おおしお平八郎へいはちろう終焉しゅうえん

1832ねん天保てんぽう3ねん)からはじまった天保てんぽうだい飢饉ききん全国ぜんこくひろがり、都市としでも農村のうそんでも困窮こんきゅうした人々ひとびとがあふれ、餓死がししゃおおあらわれた。1837ねん天保てんぽう8ねん)、幕府ばくふ無策むさくいきどおって大坂おおさか町奉行まちぶぎょうしょもと与力よりき大塩おおしお平八郎へいはちろうだいさか武装ぶそう蜂起ほうきした。だいしおしたがった農民のうみんおおく、地方ちほうにもして幕府ばくふしょはんおおきな衝撃しょうげきあたえた。このような危機きき対応たいおうすべく、家斉いえなり1841ねん天保てんぽう12ねん)、老中ろうじゅう水野みずの忠邦ただくに幕府ばくふ権力けんりょく強化きょうかのために天保てんぽう改革かいかくばれる財政ざいせい再建さいけんのためのしょ政策せいさく実施じっししたが[注釈ちゅうしゃく 4]、いずれも効果こうかうすく、とくうえともれい幕府ばくふ財政ざいせい安定あんてい国防こくぼう充実じゅうじつとの両方りょうほうねら意欲いよくてき政策せいさくであったが、社会しゃかい各層かくそうからのもう反対はんたいびて頓挫とんざし、忠邦ただくにもわずか3ねん失脚しっきゃくした[注釈ちゅうしゃく 5]幕府ばくふは、天保てんぽう改革かいかく一環いっかんとして、まくりょうたいして御料ごりょうしょ改革かいかくしている。この改革かいかくあんは、代官だいかんまくりょうぜん耕地こうちさい調査ちょうささせ、年貢ねんぐ増収ぞうしゅうはかろうとするものであった。この改革かいかくあんたいして、現地げんち実情じつじょう代官だいかんらにとっては迷惑めいわくなことであるとられた[24]

忠邦ただくにはまた、アヘン戦争せんそう(1840ねん)におけるきよし敗北はいぼくにより、1842ねん天保てんぽう13ねん)7がつ従来じゅうらい外国がいこくせんたいする異国いこくせんはらいれいあらためて薪水しんすい給与きゅうよれい発令はつれいして柔軟じゅうなん路線ろせん転換てんかんする。同年どうねん6がつには、英軍えいぐんかん来日らいにち計画けいかくがオランダより報告ほうこくされている。

同月どうげつには江川えがわ英龍ひでたつ高島たかしま秋帆しゅうはん西洋せいようりゅう砲術ほうじゅつ導入どうにゅうさせ、近代きんだい軍備ぐんびととのえさせた。アヘン戦争せんそう衝撃しょうげきは、日本にっぽん各地かくちけめぐり、げんの『海国かいこくこころざし』は多数たすう印刷いんさつされて幕末ばくまつ政局せいきょくつよ影響えいきょうあたえた[注釈ちゅうしゃく 6]

海国かいこくこころざし

中国ちゅうごくは、アヘン戦争せんそう敗北はいぼくにより、1843ねん天保てんぽう14ねん)には、広州こうしゅう厦門あもい上海しゃんはいやすしふくしゅうの5こう開港かいこうし、よく1844ねん天保てんぽう15ねん)7がつにはしんべい修好しゅうこう通商つうしょう協定きょうていもち条約じょうやく締結ていけつ、10月にはしんふつ通商つうしょう協定きょうてい条約じょうやく)を締結ていけつしている。一方いっぽう米国べいこく通商つうしょう拡大かくだいするため、日本にっぽん朝鮮ちょうせんとの国交こっこう樹立じゅりつすることを目的もくてき使節しせつ派遣はけんすることをめた。1846ねんひろし3ねんうるう5がつ27にちひがしインド艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんビッドルは2せき軍艦ぐんかんひきいて江戸えどわんはいった。浦賀うらが奉行ぶぎょう下役したやくとの交渉こうしょうで、日本にっぽん政府せいふ幕府ばくふ)は貿易ぼうえきのため開港かいこうする用意よういがないことをたしかめて6がつ7にち退去たいきょした。

こうしたなか、薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはんなど「雄藩ゆうはん」とばれる有力ゆうりょくはんでは財政ざいせい改革かいかく成功せいこうし、幕末ばくまつ政局せいきょくつよ発言はつげんりょくつことになった。

経済けいざいめんでは、地主じぬし問屋とんや商人しょうにんなかには工場こうじょうもうけて分業ぶんぎょう協業きょうぎょうによって工場こうじょうせい手工業しゅこうぎょう生産せいさんおこなマニュファクチュア天保てんぽうにはあらわれている。マニュファクチュア生産せいさんは、大坂おおさか周辺しゅうへん尾張おわり綿織物めんおりものぎょう桐生きりゅう足利あしかが結城ゆうきなど北関東きたかんとう地方ちほう絹織物きぬおりものごうなどでおこなわれた。

幕末ばくまつ(1853ねん - 1868ねん[編集へんしゅう]

開国かいこく日米にちべい和親わしん条約じょうやく[編集へんしゅう]

ペリー

1853ねんよしみなが6ねん)、長崎ながさき出島でじまへの折衝せっしょうのみを前提ぜんていとしてきた幕府ばくふのこれまでの方針ほうしんはんして、江戸えどわんはなさきである浦賀うらが黒船くろふね強行きょうこう上陸じょうりくしたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくマシュー・ペリー交渉こうしょうした幕府ばくふは、翌年よくねん来航らいこうには江戸えどわんへの強行きょうこう突入とつにゅうかまえをせたペリー艦隊かんたい威力いりょくくっし、日米にちべい和親わしん条約じょうやく締結ていけつ、その米国べいこくれいならってこうあつてき接触せっしょくしてきた西欧せいおう諸国しょこくともうやむやのうちに同様どうよう条約じょうやく締結ていけつ事実じじつじょう開国かいこく」しなければならないこととなった。同年どうねん6がつ22にち、12だい将軍しょうぐん家慶いえよしが「今後こんご政治せいじ徳川とくがわ斉昭なりあき阿部あべ正弘まさひろゆだねる」といいのこして61さいくなった。同年どうねん7がつ1にち幕府ばくふ国書こくしょしょ大名だいみょうしめ意見いけんい、3にちには目見めみ以上いじょう幕吏ばくりにも意見いけんうた。260年間ねんかんらしむべからず、らしむべし」をだい法則ほうそくとしてきた幕府ばくふにとってはだい方向ほうこう転換てんかんであった[26]

開国かいこく日本にっぽんのどの沿岸えんがん海岸かいがん外国がいこくせん来航らいこうするかもれない事態じたいとなり、1853ねんよしみなが6ねん)8がつから江戸えどわんのお台場だいば建設けんせつはじめた。そして、同年どうねん9がつ15にち幕府ばくふは、大型おおがたせん建造けんぞう許可きょかすることになった[注釈ちゅうしゃく 7]。さらにオランダに軍艦ぐんかん鉄砲てっぽう兵書へいしょなどを注文ちゅうもんした。

井伊いい直弼なおすけ

その、さらに1858ねん安政あんせい5ねん)4がつ井伊いい直弼なおすけ大老たいろう就任しゅうにんする。べいらんえいふつの5かこく修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく貿易ぼうえき章程しょうてい、いわゆる安政あんせいカ国かこく条約じょうやく不平等ふびょうどう条約じょうやく)を締結ていけつし、日本にっぽん経済けいざいだい打撃だげきけた。8月、外国がいこく奉行ぶぎょう設置せっちする。同月どうげつ孝明天皇こうめいてんのう条約じょうやく締結ていけつ不満ふまん勅諚ちょくじょうつちのえうま密勅みっちょく)を水戸みとはんなどにくだす。また、幕府ばくふにもくだす。このとしの7がつに13だい家定いえさだぼっし、10月25にちに14だい家茂いえもち征夷大将軍せいいたいしょうぐん内大臣ないだいじんにんぜられる。翌年よくねん6がつから横浜よこはま長崎ながさきはこかんの3こうふつえいらんべい5かこくとの自由じゆう貿易ぼうえきはじまった。取引とりひきは、日本にっぽん内地ないちでの活動かつどう条約じょうやく禁止きんしされていたため、外国がいこくじん居住きょじゅう営業えいぎょうみとめられていた居留きょりゅうおこなわれた。輸出ゆしゅつ中心ちゅうしん生糸きいとちゃであった[注釈ちゅうしゃく 8]輸出ゆしゅつ増大ぞうだい国内こくない物資ぶっし不足ふそくまねき、価格かかく高騰こうとうさせた。他方たほう機械きかいせいだい工業こうぎょう生産せいさんされた安価あんか欧米おうべい綿織物めんおりもの毛織物けおりものなどが流入りゅうにゅうしてきた。横浜よこはまこう輸出ゆしゅつが94.5パーセント、輸出ゆしゅつが86.8パーセントおこなわれ、相手あいてこくではえいが88.2パーセント、ふつが9.6パーセント、ついでべいらんへの輸出ゆしゅつであり、輸入ゆにゅうではえいが88.7パーセントをいでらんふつべい、プロシア、へであり、輸出入ゆしゅつにゅうともえいとの取引とりひきおもであった。また、国内こくないぎん価格かかくたいするきむ価格かかく欧米おうべいよりひくかったため、おびただしいりょう金貨きんか海外かいがい流失りゅうしつした。こうして開港かいこうによる経済けいざいてき変動へんどう下層かそう農民のうみん都市としみん没落ぼつらく拍車はくしゃをかけていった[27]

下級かきゅう武士ぶし知識ちしきじん階級かいきゅう中心ちゅうしんに、「鎖国さこく日本にっぽん開闢かいびゃく以来いらいほう」であるというせつはんしたとされ、その外交がいこう政策せいさく猛烈もうれつ反発はんぱつする世論せろんこり、「攘夷じょうい運動うんどうとして朝野ちょうやした。世論せろんこること自体じたいまくはん体制たいせい堅牢けんろうなころにはこりないことであったが、この「世論せろん」の精神せいしんてき支柱しちゅうとして、京都きょうと天皇てんのう=みかど(みかど)の存在そんざいがクローズアップされる。このためながあいだ幕府ばくふ方針ほうしんもあり、政治せいじてきにはしずかなとしてごしてきた京都きょうとがにわかに騒然そうぜんとなっていき、有名ゆうめいな「幕末ばくまつ騒乱そうらん」がこる。

文久ぶんきゅう国内こくない政治せいじ[編集へんしゅう]

徳川とくがわ家茂いえもち

一時いちじ大老たいろう井伊いい直弼なおすけ強行きょうこう弾圧だんあつ路線ろせん安政あんせい大獄たいごく)もあり、不満ふまん世論せろん」も沈静ちんせいするかにおもわれたが、1860ねん安政あんせい7ねん)3がつ3にち桜田さくらだ門外もんがいへん将軍しょうぐん後継こうけい問題もんだい幕府ばくふれるあいだ事態じたい急速きゅうそく変化へんかする。

これよりさきに1860ねん安政あんせい7ねん)1がつにはかつ海舟かいしゅうらが咸臨丸かんりんまる米国べいこくかっている。1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)1がつ15にち老中ろうじゅう安藤あんどう信正のぶまさ水戸みと浪士ろうしら6にんおそわれ負傷ふしょうする坂下さかした門外もんがいへんこっている。同年どうねん2がつ11にち将軍しょうぐん家茂いえもち和宮かずのみやとの婚儀こんぎ江戸城えどじょう盛大せいだい挙行きょこうされる。同年どうねん7がつ6にち幕府ばくふ徳川とくがわ慶喜よしのぶ将軍しょうぐん後見こうけんしょくとし、同月どうげつ9にち松平まつだいら慶永よしなが政事せいじ総裁そうさいしょくうるう8がつ1にち松平まつだいら容保かたもり京都きょうと守護しゅごしょくける。さきの7がつにはしょはん艦船かんせん購入こうにゅうゆるしている。一方いっぽう開国かいこくひらき開港かいこうつづくなかで、浪士ろうしなどにより1861ねん文久ぶんきゅう元年がんねん)と翌年よくねんに、だい1・2東禅寺とうぜんじ事件じけんこっている。薩摩さつまはんでは、島津しまつ斉彬なりあきらぼっしたあと、いだ藩主はんしゅ島津しまつ忠義ただよしちちである島津しまつ久光ひさみつ長州ちょうしゅうはん牽制けんせいすべく公武こうぶ合体がったい運動うんどう展開てんかいし、同年どうねん4がつはんない攘夷じょうい粛清しゅくせい寺田てらだ騒動そうどう)し、幕府ばくふ改革かいかく要求ようきゅうした(文久ぶんきゅう改革かいかく)。1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)、島津しまつ久光ひさみつ江戸えどから薩摩さつまへの帰路きろ生麦なまむぎ事件じけんこし[注釈ちゅうしゃく 9]翌年よくねん薩英戦争せんそう攘夷じょうい無謀むぼうさをさとることになる。

1862ねん文久ぶんきゅう2ねんうるう8がつ幕府ばくふ参勤交代さんきんこうたい制度せいど緩和かんわし、3ねんごとに1かい、100にちかぎりの在府ざいふとし、自国じこく警衛けいえい強化きょうかさせることを目的もくてきとした[注釈ちゅうしゃく 10]同年どうねん9がつ7にち明年みょうねん2がつをもって将軍しょうぐん上洛じょうらくするむね公布こうふされた。公武こうぶ合体がったい強化きょうかさくである。同年どうねん12がつ幕府ばくふへい制度せいど制定せいていした[注釈ちゅうしゃく 11]

尊皇そんのう攘夷じょうい公武こうぶ合体がったい藩政はんせい主導しゅどうけんあらそっていた長州ちょうしゅうはんでは、尊王そんのう攘夷じょうい主導しゅどうけんにぎるようになり、京都きょうと公家くげ結託けったく幕府ばくふ攘夷じょうい実行じっこうせまった[注釈ちゅうしゃく 12]。その結果けっか幕府ばくふ1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)5がつ10日とおか攘夷じょうい実行じっこうとすることを約束やくそくした[注釈ちゅうしゃく 13]長州ちょうしゅうはんでは下関しものせき海峡かいきょうとお外国がいこくせん砲撃ほうげきした[注釈ちゅうしゃく 14]。ところが長州ちょうしゅうはんでは、外国がいこくせん砲撃ほうげき翌日よくじつ井上いのうえ聞多野村のむら弥吉やきち遠藤えんどう謹助伊藤いとう俊輔しゅんすけ山尾やまお庸三ようぞうらをえいかんキロセッキごうで、12にち横浜よこはまからイギリスにけて出港しゅっこうさせている。この計画けいかく指導しどうしゃ周布すふ政之助まさのすけで、攘夷じょういのあとには各国かっこくとの交流こうりゅう交易こうえき必然ひつぜんてきにやってくることを見越みこし、西洋せいよう事情じじょうつうじておかねば日本にっぽん一大いちだい不利益ふりえきかんがえて、かれらを渡航とこうさせたのである[31][注釈ちゅうしゃく 15]

これらの攘夷じょうい実行じっこうたいして、京都きょうとでは会津あいづ薩摩さつまはんらの勢力せいりょくによって1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)8がつ18にち尊王そんのう攘夷じょうい公卿くぎょう京都きょうとから排除はいじょした。はちがつじゅうはちにち政変せいへんである。翌日よくじつ三条さんじょう実美みみらのななきょう長州ちょうしゅう藩主はんしゅ毛利もうりけいおや世子せいしていひろし都落みやこおちした三条さんじょう実美みみたちをようして上京じょうきょうしてくると風評ふうひょう京都きょうとではひろまっていた。その目的もくてき中川なかがわみや五摂家ごせっけ筆頭ひっとう近衛このえ会津あいづはん薩摩さつまはんなどの排除はいじょであった。1864ねん元治もとはる元年がんねん)6がつ5にち新撰しんせんぐみ池田いけだ襲撃しゅうげきした。6月24にち久坂くさかげんみずはんへいひきいて天王山てんのうざん陣取じんどり、27にちには来島くるしま又兵衛またべえひきいるはんへい天龍寺てんりゅうじはいった。7月19にち長州ちょうしゅうはん京都きょうとしょもんまくぐん薩摩さつまはん会津あいづはん桑名くわなはん)と交戦こうせんする(禁門きんもんへん)。同年どうねん11がつ長州ちょうしゅうはん禁門きんもんへん責任せきにんしゃ3家老がろう自刃じじん命令めいれいする。

だいいちだい長州ちょうしゅう征伐せいばつ兵庫ひょうご開港かいこう問題もんだい[編集へんしゅう]

禁門きんもんへん理由りゆう幕府ばくふは、だいいち長州ちょうしゅう征伐せいばつ(7がつ24にち)を決行けっこうどう時期じきえいべいふつらん4かこく艦隊かんたい反撃はんげきい、上陸じょうりくされ砲台ほうだい占拠せんきょされた(四国しこく艦隊かんたい下関しものせき砲撃ほうげき事件じけん)(8がつ5にち)。どう14にち長州ちょうしゅうはんは4こく艦隊かんたい講和こうわ5条件じょうけんむすぶ。その高杉たかすぎ晋作しんさく木戸きど孝允たかよしらが藩政はんせい掌握しょうあくした。

禁門きんもんへんでの長州ちょうしゅう朝敵ちょうてき幕府ばくふ権威けんい回復かいふく錯覚さっかく[32]、1864ねん元治もとはる元年がんねん)9がつ1にち参勤交代さんきんこうたいせいを1862ねん改正かいせいうるう8がつ22にち3ねんに1かい出府しゅっぷなどに緩和かんわ以前いぜんもどす。9月11にち大坂おおさか宿舎しゅくしゃで、西郷さいごうかち会合かいごうした。西郷さいごうは、かちから「共和きょうわ政治せいじ」(雄藩ゆうはん諸侯しょこう合議ごうぎせいによる連合れんごう政権せいけん)についてき、感心かんしんする。

1865ねんもと2ねん5月16にち将軍しょうぐん江戸えど出立しゅったつし、うるう5がつ22にち入京にゅうきょう参内さんだいどう25日大にちだい坂城さかき入城にゅうじょうした。同年どうねん9がつ15にち将軍しょうぐん大阪おおさか同月どうげつ16にち入京にゅうきょうし、長州ちょうしゅう追討ついとう勅許ちょっきょ奏請そうせいした。

このような情勢じょうせい1866ねん慶応けいおう2ねん)1がつ21にち薩摩さつま長州ちょうしゅう政争せいそうかえしていた西国さいごく雄藩ゆうはん坂本さかもと龍馬りょうま中岡なかおか慎太郎しんたろう周旋しゅうせんにより、西郷さいごうかつらとのあいだ口頭こうとうこうまく同盟どうめい密約みつやく薩長さっちょう同盟どうめい)された。1866ねん慶応けいおう2ねん)6がつ7にち幕府ばくふだい長州ちょうしゅう征伐せいばつ決行けっこうするが、高杉たかすぎ晋作しんさく組織そしきした兵隊へいたいなどの庶民しょみん混成こんせいぐん活躍かつやくはばまれ、また、そう指揮しきしゃである将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもちが7がつ20日はつかだい坂城さかき病没びょうぼつするなどもあり、8がつ21にち将軍しょうぐん死去しきょのためせいちょう停止ていし沙汰さたしょされ、9月2にちまくちょう休戦きゅうせん協定きょうていする。12月25にち天皇てんのう疱瘡ほうそうのため36さいぼっする。おくりな(おくりな)を孝明天皇こうめいてんのうさだめられた。

徳川とくがわ慶喜よしのぶ

おりからまくほうはんして京都きょうと藩邸はんていしょ大名だいみょう制御せいぎょできず、京都きょうと治安ちあん維持いじさえ独力どくりょくでおぼつかない江戸えど幕府ばくふと、まくはん体制たいせい根幹こんかんである「武士ぶし」の武力ぶりょくたいする信頼しんらいとその権威けんいは、この敗北はいぼくによって急速きゅうそくになくなっていった。薩長さっちょうは、土佐とさはん肥前ひぜんはんをもみ、開国かいこく以来いらい違勅いちょく条約じょうやくたいする反対はんたいろん外国がいこくじん排撃はいげき主張しゅちょう実行じっこううつそうとする「攘夷じょうい」を、国学こくがく進展しんてんなどにより江戸えど時代じだい後期こうきからひろがっていた国家こっか元首げんしゅ問題もんだいとしての尊王そんのうろんとをむすびつけ、「尊王そんのう攘夷じょうい」を旗頭はたがしらに「倒幕とうばく」の世論せろん形成けいせいしていった。

14だい将軍しょうぐん家茂いえもちぼっしてからやく4かげつの1866ねん慶応けいおう2ねん)12月5にち将軍しょうぐん宣下せんげしき挙行きょこうされ、慶喜よしのぶが15だい将軍しょうぐんとなった。この期間きかんを「将軍しょうぐん空位くうい」とぶ。慶喜よしのぶは、早速さっそく幕府ばくふ人事じんじ改革かいかくみ、若年寄わかどしよりや老中ろうじゅうなどのまくかく責任せきにん分担ぶんたんする制度せいどあらためた。また、ふつこく駐日ちゅうにち公使こうしロッシュ助言じょげん参照さんしょうまくぐん体制たいせい近代きんだい外交がいこうけん掌握しょうあく[注釈ちゅうしゃく 16]などをおこなった[33]

一方いっぽう国内こくない状況じょうきょうでは、このとし(1866ねん慶応けいおう2ねん))、全国ぜんこくてき農民のうみん一揆いっきちこわしなど未曾有みぞう多発たはつ激化げきかした[注釈ちゅうしゃく 17]

大政奉還たいせいほうかん王政おうせい復古ふっこ[編集へんしゅう]

1867ねん慶応けいおう3ねん)1がつ9にち明治天皇めいじてんのう践祚せんそした。天皇てんのう外祖父がいそふおや長州ちょうしゅう中山なかやま忠能ただやすは、禁門きんもんへん出仕しゅっし他人たにん面会めんかいきんじられた。この関係かんけいだけでいや処罰しょばつ公家くげたちの復権ふっけんおこなわれたわけではない。1867ねん慶応けいおう3ねん)1がつ15にち有栖川ありすがわのぼりじん親王しんのうもと関白かんぱく九条くじょうしょうただし同月どうげつ25にち有栖川ありすがわ熾仁親王たるひとしんのう中山なかやま忠能ただやす宥免ゆうめんされた[34]。5月21にち薩摩さつま西郷さいごう長州ちょうしゅうかつらとのあいだで、「倒幕とうばく」の密約みつやくわされた[注釈ちゅうしゃく 18]。6月、坂本さかもと龍馬りょうまが、今後こんご政体せいたい構想こうそう基本きほんとなるあんかんがした。これは、のちにふねちゅうはちさくわれるものである。

大政奉還たいせいほうかん邨田りょう ふで

同年どうねん8がつ東海とうかい地方ちほう伊勢神宮いせじんぐうのおさつったことからよろこんだ民衆みんしゅう仮装かそうしてええじゃないかうたいながら乱舞らんぶした。これは、なつからあきにかけて、近畿きんき四国しこくから関東かんとうおよ広範囲こうはんい地域ちいき波及はきゅうした。このさなかの1867ねん11月9にち慶応けいおう3ねん10がつ14にち)に、15だい将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ起死回生きしかいせいさくとして大政奉還たいせいほうかん上奏じょうそうし、15にち勅許ちょっきょ沙汰さたしょる。そして24にち将軍しょうぐんしょくした。武力ぶりょくによって完全かんぜん江戸えど幕府ばくふたおそうとしていた倒幕とうばく勢力せいりょく攻撃こうげき名目めいもく一時いちじてきうしなったため、先手せんてられたかたちとなったが、薩長さっちょうをはじめとする倒幕とうばく大政奉還たいせいほうかん同日どうじつ倒幕とうばく密勅みっちょく獲得かくとくするなど、あくまで幕府ばくふ滅亡めつぼうさせる姿勢しせいくずさなかった。1868ねん1がつ3にち慶応けいおう3ねん12月9にち)には岩倉いわくら具視ともみ西郷さいごう隆盛たかもり大久保おおくぼ利通としみちむすんで王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいはっせられ、摂関せっかん将軍しょうぐんはいさんしょく設置せっちされる太政官だじょうかん制度せいど発足ほっそくした。このしょう御所ごしょ会議かいぎ慶喜よしのぶたいして内大臣ないだいじん辞職じしょく領土りょうど一部いちぶ献上けんじょう命令めいれいされ、しん政府せいふきゅう幕府ばくふ対立たいりつあきらかとなり、この号令ごうれいのもとに、徳川とくがわ幕府ばくふ討伐とうばつすすんでいった。

慶応けいおう4ねん1がつ3、4にち鳥羽とば伏見ふしみたたか戊辰戦争ぼしんせんそう勃発ぼっぱつ。そして、1868ねん5月3にち慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねん4がつ11にち)、かつ海舟かいしゅう西郷さいごう隆盛たかもり交渉こうしょう結果けっか江戸城えどじょうしん政府せいふぐんわたされ慶喜よしのぶ水戸みと蟄居ちっきょしたことにより、江戸えど幕府ばくふ名実めいじつともに消滅しょうめつした。慶応けいおう4ねん1がつ15にち3しょく7せいさだめる。3月14にちじょう誓文せいもん、「宸翰しんかん[注釈ちゅうしゃく 19]どう15にち榜の提示ていじなどしん政府せいふ施策しさく次々つぎつぎ実施じっしされていった。1868ねん明治めいじ元年がんねん)9がつ8にち一世一元いっせいいちげんせいさだめられたうえで、明治めいじ改元かいげんされた。以降いこう明治めいじ時代じだいばれる。

江戸えど幕府ばくふ崩壊ほうかいしたあとも、一部いちぶ幕府ばくふ残存ざんそんへいしん幕府ばくふ大名だいみょう関東かんとう地方ちほうおよび東北とうほく地方ちほう(5がつ3にち奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい成立せいりつ)などで抵抗ていこうしたが、1869ねん5月17にち五稜郭ごりょうかく陥落かんらくにより(はこかん戦争せんそう)、戊辰戦争ぼしんせんそう終結しゅうけつ。これによって7世紀せいき以上いじょうにわたってつづいた武士ぶし時代じだい名実めいじつともに終了しゅうりょうした。武士ぶし華族かぞく士族しぞくといった称号しょうごう獲得かくとくしたものの、特権とっけんろくうしない、反乱はんらんもすべて失敗しっぱいしたことにより一般いっぱん国民こくみん吸収きゅうしゅうされていった。

政治せいじ制度せいど[編集へんしゅう]

まくはん体制たいせい[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい統治とうち体制たいせいまくはん体制たいせいまくはんせいばれ、将軍家しょうぐんけ幕府ばくふ)のもとに、大名だいみょういえはん)、旗本はたもと御家人ごけにん服属ふくぞくする体制たいせいである。直轄ちょっかつまくりょう天領てんりょうばれ、重要じゅうよう地点ちてんには城代しろだい所司代しょしだい町奉行まちぶぎょう遠国おんごく奉行ぶぎょうなどが派遣はけん、そのまくりょうにも郡代ぐんだい代官だいかんかれ、支配しはいたった。

江戸えど時代じだい征夷大将軍せいいたいしょうぐん徳川とくがわ中心ちゅうしんとして、武士ぶし階級かいきゅう支配しはいしていた封建ほうけん社会しゃかいであった。おもな身分みぶんせいは、支配しはい階層かいそう武士ぶし支配しはい階層かいそうである百姓ひゃくしょう町人ちょうにん以上いじょう3つの身分みぶん基礎きそとしていた。それまで武士ぶし農民のうみん分離ぶんりしていなかったが、豊臣とよとみ秀吉ひでよしかたな武士ぶし城下じょうか町人ちょうにん町屋まちや農民のうみん村落そんらく住居じゅうきょ固定こていされるなどにより、武士ぶし階級かいきゅう農民のうみん明確めいかく分離ぶんりされた(へいのう分離ぶんり)。しかし江戸えど時代じだいかく階層かいそうにある程度ていど流動りゅうどうせいられる。とく江戸えどには飢饉ききんなどにより地方ちほうから流入りゅうにゅうしてきた農民のうみんおおく、幕府ばくふはしばしば帰農きのうれいしている。また、全国ぜんこくしょはんには、郷士ごうしばれる自活じかつする武士ぶし存在そんざいした。かれらは城下じょうか藩主はんしゅから俸禄をもらっていた武士ぶしである藩士はんしとは明確めいかく区別くべつされ、また一段いちだん身分みぶんとして差別さべつされることもあった。幕末ばくまつ活躍かつやくした人々ひとびとには、勤王きんのうほう幕府ばくふかたわず、下級かきゅう藩士はんし郷士ごうし町人ちょうにんなど軽輩けいはい階層かいそう出身しゅっしんしゃであったものおおい。

幕府ばくふ朝廷ちょうてい関係かんけいについては諸説しょせつある[37]関白かんぱく太政大臣だじょうだいじんつとめた豊臣とよとみ秀吉ひでよし同様どうよう徳川とくがわ家康いえやす征夷大将軍せいいたいしょうぐん就任しゅうにん外戚がいせき関係かんけいむすぶことで朝廷ちょうてい権威けんい利用りようした。戦国せんごく時代じだい以来いらい領国りょうごく一円いちえんてき領域りょういき支配しはいおこなった公権力こうけんりょく公儀こうぎい、とく天皇てんのう権威けんい一体化いったいかして全国ぜんこく支配しはい達成たっせいした徳川とくがわ幕府ばくふす。幕府ばくふ禁中きんちゅうなみ公家くげしょ法度はっと制定せいてい紫衣しえ事件じけんなどをつうじて朝廷ちょうてい支配しはいつよめていった。新井あらい白石はくせきは『読史どくしあまりろん』で江戸えど幕府ばくふ成立せいりつ朱子学しゅしがくもとづき革命かくめいとらえ、幕府ばくふ正当せいとうせい主張しゅちょうした。ほんきょ宣長のりなが松平まつだいら定信さだのぶ大政たいせい委任いにんろんとなえたが、それは幕府ばくふ権力けんりょく肯定こうていする立場たちばったものだった(松平まつだいら定信さだのぶ尊号そんごういちけん朝廷ちょうてい対立たいりつした)。たかられき事件じけん竹内式部たけのうちしきぶや、明和めいわ事件じけん山県やまがた大弐だいにれいもと天皇てんのうなど、朝廷ちょうてい権力けんりょくもどそうとするものもいた。『だい日本にっぽん編纂へんさん過程かてい成立せいりつした水戸みとまなぶ吉田よしだ松陰しょういんなどの思想家しそうか天皇てんのうによる支配しはい正統せいとうせいき、倒幕とうばく運動うんどう明治維新めいじいしん志士ししまなばれた。

幕府ばくふ江戸えど大坂おおさか京都きょうと町奉行まちぶぎょう所司代しょしだい重視じゅうししたが、そのほか伊豆いず日田ひた長崎ながさき新潟にいがた飛騨ひだ重要じゅうよう鉱山こうざん代官だいかん配置はいち支配しはいした。これらの支配しはいりょくたんいち都市としかぎらず、京都きょうと所司代しょしだい山城やましろ丹波たんば近江おうみなど、大坂おおさか町奉行まちぶぎょう西日本にしにほん諸国しょこく天領てんりょう采配さいはいがそれぞれゆるされるなど、管轄かんかつしょ大名だいみょう監察かんさつする役目やくめもあった(京都きょうと所司代しょしだい朝廷ちょうてい監視かんししていた)。ただし、かれらのもちいる兵力へいりょくはほとんどなく、18世紀せいき初頭しょとう長崎ながさき奉行ぶぎょうは10すうにん幕末ばくまつ五条ごじょう代官だいかんしょでも30にんしかいなかった。

幕府ばくふ政治せいじりょく経済けいざいりょくへだてている。まくかくとなりうる譜代ふだい大名だいみょうには、そのほとんどが5まんせきから10まんせき程度ていどひく石高こくだかしかてられなかったのにたいし、幕政ばくせい関与かんよすることをけっしてゆるさなかった外様とざま大名だいみょうおおくにはすうじゅうまんせきだいふう国持くにもち大名だいみょう格式かくしきあたえられた。しかもそのまくかくですら、大老たいろう特例とくれいのぞき、定員ていいん4 - 5めい老中ろうじゅう重要じゅうよう案件あんけん合議ごうぎで、日常にちじょう案件あんけん月番つきばんせい決裁けっさいおこなうという権力けんりょく分散ぶんさん比較的ひかくてきはや時期じきはかられている。これは室町むろまち幕府ばくふにおいてさん管領かんりょう一家いっかであり、かつ複数ふくすう大国たいこく守護しゅごねた細川ほそかわが、やがては管領かんりょうしょく独占どくせんするほどの世襲せしゅう権力けんりょくとなって足利あしかが将軍家しょうぐんけをも圧倒あっとうするようになったことにたいする反省はんせいである。

はん[編集へんしゅう]

江戸えど幕府ばくふより統治とうち許可きょかしょ大名だいみょうが、原則げんそくてきにはいちだいかぎ土地とち統治とうちみとめられた封建ほうけん体制たいせいである。領土りょうど支配しはい体制たいせいかく大名だいみょう規模きぼによってかなりことなるが、ほぼ幕府ばくふ支配しはい機構きこう体制たいせいじゅんずるかたちをとった。身分みぶんせいについても同様どうようである。ただ、大名だいみょう支配しはい土地とち自由自在じゆうじざい支配しはいできたわけではなく、幕府ばくふからは大目おおめづけはっする監察かんさつ使にその行政ぎょうせい監視かんし規制きせいされていた。このため武家ぶけしょ法度はっと違反いはん相当そうとうすう大名だいみょう改易かいえきげんふう処分しょぶんけたが、この処罰しょばつ親藩しんぱん譜代ふだい外様とざまべつなくおこなわれた。

大名だいみょうには幕府ばくふによりその格式かくしきさだめられた参勤交代さんきんこうたい手伝てつだいの義務ぎむせられた。これが大名だいみょう貧困ひんこんおおきな原因げんいんとなった。これを打開だかいするために藩政はんせい改革かいかくが18 - 19世紀せいきにかけてかくはん実施じっしされる(はやいところでは土佐とさはん17世紀せいきなかばにった)。初期しょき倹約けんやく藩札はんさつ発布はっぷおもであったが、18世紀せいき中盤ちゅうばんになるとしお陶器とうきなどの土地とち産物さんぶつ専売せんばいせいがかなりのはん実施じっしされる。わったところでは、紀州きしゅうはんの「熊野くまの三山さんざん寄付きふ貸付かしつけ」があり、大名だいみょうみずからが金融きんゆう業者ぎょうしゃになり利子りしるということまでしている。また、仙台せんだいはんだいさか升屋ますや番頭ばんがしらである山片やまがたわだかまももはん財政ざいせい総覧そうらんさせたように、財政ざいせい商人しょうにんまかせるようなはんてきた。

一部いちぶ国持くにもち大名だいみょうはんのぞいて、はん領地りょうち中心ちゅうしんじょう城下町じょうかまち周辺しゅうへんと、そのすこはなれたっていた(あいきゅう)。この傾向けいこうとくに10まんせき前後ぜんこう譜代ふだい大名だいみょうおおられる。京都きょうと付近ふきんよどみはんは、山城やましろなど近畿きんきのほかとお上総かずさまで所領しょりょうっていた。

大名だいみょう支配しはい方法ほうほうとしては、戦時せんじ軍役ぐんえき参勤交代さんきんこうたい天下てんか普請ふしんへの参加さんか義務ぎむというかたちのこされたほか、有力ゆうりょく大名だいみょうには将軍しょうぐん子女しじょ養子ようしよめとしておくむことにより身内みうちするという、事実じじつじょうのおいえりにちか手段しゅだんまでがこうじられた。

なお、一部いちぶ例外れいがいのぞいて、かくはん藩士はんしへの知行ちぎょう体制たいせいを18世紀せいき初頭しょとうまでに地方ちほう知行ちぎょうせい藩主はんしゅ領地りょうち一部いちぶ藩士はんしあたえ、そこからがる年貢ねんぐ収入しゅうにゅうはその藩士はんしのものとすることをゆるす)から俸禄せい藩主はんしゅ領地りょうちからがる年貢ねんぐ収入しゅうにゅうはいったんすべてはんぞうれ、そこから藩士はんし蔵米くらまい年俸ねんぽうとして支給しきゅうする)へと変遷へんせんさせている。

江戸えど時代じだい初期しょきかくはん隣接りんせつするはんとのあいだ境界きょうかいあらそいがさかんとなった。有名ゆうめいなところでは久保田くぼたはん盛岡もりおかはん干戈かんかまじえるところまで発展はってんした鹿角かつのりょうあらそいであるが、これ以外いがいにも仙台せんだいはん相馬そうま中村なかむらはんはぎはん徳山とくやまはんなどがある。これらは中期ちゅうきごろまでにおおむね解決かいけつし、このとき決定けっていした境界きょうかい現在げんざいにもがれている。

地方ちほう支配しはい[編集へんしゅう]

幕府ばくふ大名だいみょう拠点きょてんのあるしろ中心ちゅうしんとしたまち城下町じょうかまち)のほかは基本きほんてき農村のうそんかんがえられていた。このためみなと利益りえき鉱山こうざん鉱物こうぶつなども収入しゅうにゅうべい換算かんさんしていた。大名だいみょうたちは上納じょうのうきんみついでくれる城下町じょうかまちさかえることは、みずからの発展はってん同義どうぎかんが保護ほご政策せいさくおこなった。

しかし江戸えど時代じだい中期ちゅうきはいり、港町みなとちょう宿場しゅくばまちなどの発展はってん換金かんきんせいたか綿めん栽培さいばいされはじめるなど農村のうそん資本しほん主義しゅぎ流入りゅうにゅうされ、また大名だいみょうへの献金けんきん過重かじゅうになりぎて商家しょうか一部いちぶつぶれるなど、城下町じょうかまち衰退すいたい目立めだつようになった。この農民のうみん商売しょうばいねつまそうと幕府ばくふ田畑たばた永代えいたい売買ばいばい禁止きんしれい帰農きのうれいなどを発布はっぷするも効果こうかがなかった。

農村のうそんでは名主なぬし庄屋しょうや幕府ばくふ大名だいみょう農村のうそん橋渡はしわたしとして存在そんざいし、原則げんそくてき武士ぶし農村のうそんにいなかったとされる(地方ちほう知行ちぎょうせい温存おんぞんした仙台せんだいはんなど例外れいがいはある)。この名主なぬし庄屋しょうやむかしから土地とち所有しょゆうしている有力ゆうりょく農民のうみん土着どちゃくした武士ぶし末裔まつえいなどがなる場合ばあいおおく、苗字みょうじ帯刀たいとうあるいはしょやく御免ごめん特権とっけんもの郷士ごうしれっせられるものおおかった。またおおきなむらでは複数ふくすうめい名主なぬし庄屋しょうや寄合よりあいひらいてむらおさめた。かれらは、年貢ねんぐとどこおりなくおさめるようにするだけでなく、施政しせいしゃ命令めいれい下達かたつする役目やくめもあった。しょはんによりちがいはあるものの、百姓ひゃくしょうこまっている場合ばあいにはかれらを代表だいひょうして施政しせいしゃつたえ、一揆いっきさいには農村のうそんがわって先導せんどうするような百姓ひゃくしょうがわ代表だいひょうとしての意識いしきつよいものと、支配しはい機構きこう末端まったんにな下級かきゅう官吏かんりめんつよ一揆いっきなどのさい標的ひょうてきとなる場合ばあいもあった。困窮こんきゅうした零細れいさい農民のうみん土地とち集積しゅうせきするなど地主じぬしてき側面そくめんつよくなる近世きんせい後期こうきには後者こうしゃめんつものがおおくなった。

きを中心ちゅうしんとした寺子屋てらこや私塾しじゅく農村のうそんにおけるごうまなぶさとこう)が設置せっちされ、日本人にっぽんじん識字しきじりつたかかった。また岡山おかやまはん閑谷しずたに学校がっこう嚆矢こうしとして、あちこちのはん旗本はたもとさとみんでも入校にゅうこうできる学校がっこうつくった。このようなことが最上もがみ徳内とくない間宮まみや林蔵りんぞうなどの農村のうそん出身しゅっしんしゃ活躍かつやく一役ひとやくっているといえる。

幕府ばくふにより大名だいみょう大幅おおはば配置はいちえが実施じっしされた江戸えど時代じだいは、同時どうじ日本にっぽんちゅう活発かっぱつ文化ぶんか交流こうりゅうおこなわれた時代じだいでもあった。たとえば、三河みかわ水野みずの備後びんご福山ふくやまたてはんしたためさんかわ言語げんご備後びんご地域ちいき流入りゅうにゅうし、福山ふくやま地方ちほう方言ほうげん三河みかわ方言ほうげんざっている。また、信濃しなの統治とうちしていた仙石せんごく但馬たじまいずるせきてんふうしたさい信濃しなの蕎麦そば出石いずしんだため、出石いずしそば発祥はっしょうした。このようなもの交流こうりゅう各地かくちこっているが、これが現在げんざい名産めいさんぶつになっている地域ちいきおおい。

社会しゃかい[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいには遠方えんぽう寺社じしゃへの巡礼じゅんれい参拝さんぱいさかんになった。これは多分たぶん娯楽ごらくてき意味いみち、民衆みんしゅう旅行りょこうするようになった起源きげんともわれる。なかには旅行りょこう代理だいり業者ぎょうしゃ案内あんないぎょうあらわれ、寺社じしゃがわ歓楽街かんらくがいができたところもある。また、現在げんざい旅行りょこうガイドブックのような案内あんないしょ刊行かんこうされている。この遠方えんぽうへの巡礼じゅんれい背景はいけいには、街道かいどう宿場しゅくばまち整備せいび治安ちあんりょうなどのインフラがととのったことがある。これらの代表だいひょうてきなものには、西国さいこくさんじゅうさんしょ四国八十八箇所しこくはちじゅうはっかしょ巡礼じゅんれいなどがある。また、江戸えど時代じだい末期まっきには、天理教てんりきょう金光かねみつきょうなどの神道しんとうけいしん宗教しゅうきょうあらわれている。

身分みぶん制度せいどおおきくけると、武士ぶしなどの支配しはい階級かいきゅうと、支配しはい階級かいきゅうである町人ちょうにん百姓ひゃくしょう水呑みずのみ借家しゃくやじんなどがあったが、有力ゆうりょく町人ちょうにん百姓ひゃくしょう武士ぶしかぶることもあるなど、身分みぶんあいだにはある程度ていど流動りゅうどうせいもあった。これらのほか、公家くげ検校けんぎょう役者やくしゃ神官しんかんちょうけがれおお非人ひにんなどさまざまな階級かいきゅうがあったが、別々べつべつ地域ちいきおな名前なまえばれる階級かいきゅう事実じじつうえべつ実態じったいっていたり、ある地域ちいきではべつ階級かいきゅうとみなされている階級かいきゅうがほかの地域ちいきでは同一どういつされているなど、地域ちいき時期じきにより錯綜さくそうした状況じょうきょうていする。差別さべつ階級かいきゅうとされるちょう吏、けがれ非人ひにんなどは皮革ひかく製造せいぞう加工かこう死刑しけい執行しっこうじん牛馬ぎゅうば死体したい掃除そうじなどひといやがる仕事しごとてられ、ほかの階級かいきゅうから差別さべつされたが、それらの職種しょくしゅ独占どくせんしたために経済けいざいてきにはある程度ていど安定あんていしていた。のちに明治維新めいじいしんおこなわれた四民しみん平等びょうどう政策せいさくにより、制度せいどてき差別さべつ廃止はいしされかれらは平民へいみんとなるが、それにより牛馬ぎゅうば取得しゅとくけんなどの特権とっけんうしないかえって困窮こんきゅうするものおおた。民間みんかんでは社会しゃかいてき差別さべつ依然いぜんとしてのこり、きん現代げんだい部落ぶらく解放かいほう運動うんどうにつながった(部落ぶらく問題もんだい)。

災害さいがい[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいもまた数々かずかずだい災害さいがい見舞みまわれた時代じだいであった。幕府ばくふによる災害さいがい復旧ふっきゅう普請ふしんはほぼ天領てんりょうかぎられ、かく大名だいみょうりょうたいする救恤きゅうじゅつおおくが貸付かしつけきんというかたちであった[38]

なかでも18世紀せいき初頭しょとう元禄げんろくから宝永ほうえい巨大きょだい災害さいがいつづけにこり[38]富士山ふじさん宝永ほうえい噴火ふんかの1708ねんにはこう100せきづけきん2りょう徴収ちょうしゅうする「諸国しょこくだかやくきんれい」をし、幕府ばくふはじまって以来いらい全国ぜんこくてき課税かぜいとなった[39]領地りょうちからの収入しゅうにゅうぞう目的もくてきとして元禄げんろくごろまでさかんにおこなわれてきた新田にった開発かいはつは、宝永ほうえい津波つなみをきっかけに転換てんかんせまられることとなり、以後いご開発かいはつ面積めんせき激減げきげんすることになる[40]慶長けいちょうから増加ぞうかつづけてきた人口じんこうはその停滞ていたいはいり、とおるだい飢饉ききんおよび天明てんめいだい飢饉ききんごろは減少げんしょう局面きょくめんられ、幕末ばくまつまでほとんど人口じんこう増加ぞうかしなかった[40]

だい飢饉ききん 死者ししゃ1まんにん以上いじょう
大火たいか 死者ししゃ1まんにん以上いじょう
だい地震じしん Mw8.5以上いじょう、かつ死者ししゃ1まんにん程度ていど以上いじょう
だい噴火ふんか、および火山かざん災害さいがい 火山かざん爆発ばくはつ指数しすうVEI4以上いじょうレベル、あるいは死者ししゃ1まんにん以上いじょう

経済けいざい[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい経済けいざいてきにはまぐるしい発展はってんげ、その資本しほん蓄積ちくせきは、明治維新めいじいしん以降いこう経済けいざい発展はってん原動力げんどうりょくとなる。

各地かくちしょ大名だいみょうは、江戸えど藩邸はんてい参勤交代さんきんこうたい費用ひよう捻出ねんしゅつするためにはん産出さんしゅつべいさかな農産物のうさんぶつ大阪おおさかったため、大阪おおさかしょ大名だいみょう蔵屋敷くらやしきかれ、全国ぜんこく特産とくさんひんならび、活況かっきょうていした。また、参勤交代さんきんこうたいやお手伝てつだ普請ふしんおおくのしょ大名だいみょう街道かいどうすじ宿屋やどや旅籠はたごまったため、経済けいざい流通りゅうつう活発かっぱつしたのである。江戸えど幕府ばくふかぶ仲間なかま結成けっせいさせて特定とくてい商人しょうにん独占どくせんみとめることで商業しょうぎょう統制とうせいおこなおうとした。しかし、実際じっさいには江戸えど時代じだい後期こうきはいると、都市とし地方ちほうともに新興しんこう商人しょうにん台頭たいとうはじまり、活発かっぱつ展開てんかいせるようになる。幕府ばくふはこうした経済けいざい発展はってんうごきに十分じゅうぶん対応たいおうれず、物価ぶっか変動へんどうによる社会しゃかいてき混乱こんらんしずめられずに幕府ばくふ動揺どうようする一因いちいんとなった。

アンガス・マディソンによれば、1820ねんとおる年間ねんかん時点じてんGDPは、アメリカを1とした場合ばあい日本にっぽんはその1.75ばいオランダは0.3ばいイギリスは2.8ばいであり、1850ねんになり、アメリカが日本にっぽんの2ばいちかくにたっする[41]江戸えどにおける1人ひとりあたりの生産せいさんりょうは、0.15%である[42]

対外たいがい政策せいさくとしては幕府ばくふうみきん(いわゆる鎖国さこく政策せいさくいていた。しかし、将軍しょうぐん代替だいがわりのさいした朝鮮ちょうせん通信使つうしんしによって清国きよくに動向どうこうを、またやはりたびたびらいしたオランダ商館しょうかんちょうによって欧州おうしゅう動向どうこうを、ある程度ていどにおいては把握はあくしていたといわれている(オランダ風説ふうせつしょ)。たとえば天保てんぽう改革かいかくおこなった老中ろうじゅう水野みずの忠邦ただくには、清国きよくにでアヘン戦争せんそうこると、ただちに異国いこくせんはらいれい撤回てっかいさせているが、これも英国えいこくをはじめとした西洋せいよう列強れっきょう清国きよくにたいする外交がいこう姿勢しせい把握はあくしていたからこその対処たいしょだった。なお、長崎ながさき鳴滝なるたき西洋せいよう医術いじゅつじゅく鳴滝なるたきじゅく)をひらいたシーボルトのもとには多数たすう日本人にっぽんじん修学しゅうがくしており、かぎられた範囲はんい西洋せいようじん日本人にっぽんじんとの交流こうりゅうおこなわれていた。

農業のうぎょう林業りんぎょう
農業のうぎょう技術ぎじゅつ農業のうぎょう器具きぐ進歩しんぽせんしご備中びっちゅうくわ金肥かねごえりょう干鰯ほしか油粕あぶらかす)、勤勉きんべん革命かくめい
農学のうがく二宮にのみや尊徳そんとく
水産すいさんぎょう
たわらぶつせんじ海鼠なまこ、(あわびフカヒレ…いずれも中華ちゅうか料理りょうり高級こうきゅう食材しょくざい
鉱業こうぎょう
佐渡さど金山かなやま生野いくの銀山ぎんざん石見いわみ銀山ぎんざんべつ銅山どうざん
手工業しゅこうぎょう
商品しょうひん作物さくもつマニュファクチュア
交通こうつう
陸上りくじょう交通こうつう街道かいどう東海道とうかいどう中山道なかせんどう日光にっこう街道かいどう甲州こうしゅう街道かいどう奥州おうしゅう街道かいどう
水上みずかみ交通こうつう弁才べんさいせんすみくらりょう河村かわむらみずほけんひがしまわり海運かいうん西にしまわり海運かいうん
通信つうしん飛脚ひきゃく制度せいど
都市とし
さん江戸えど大坂おおさか京都きょうと城下町じょうかまち宿場しゅくばまち門前もんぜまち長野ながの山田やまだなど)
慶長けいちょうひのとぎん
商人しょうにん
江戸えど商人しょうにん上方かみがた商人しょうにん大坂おおさか商人しょうにん近江おうみ商人しょうにん)、伊勢いせ商人しょうにん

通貨つうか政策せいさく[編集へんしゅう]

江戸えど幕府ばくふは、大量たいりょう蓄積ちくせきされた金銀きんぎん原資げんし貨幣かへい制度せいど改革かいかくおこなった。幕府ばくふ創立そうりつまえ1601ねん慶長けいちょう6ねん)に金座きんざ小判こばん)および銀座ぎんざ設立せつりつし、慶長けいちょうきんぎん鋳造ちゅうぞうめいじた。慶長けいちょうから寛永かんえいごろまでは各地かくち金山かなやまおよび銀山ぎんざん産出さんしゅつ世界せかい有数ゆうすう規模きぼであり、5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよしのころまでは江戸城えどじょう金蔵きんぞう金銀きんぎんたくわえも潤沢じゅんたくであった。そして輸入ゆにゅうひんであった永楽えいらくぜになどにわり、1636ねん寛永かんえい13ねん)、ぜにもうけて寛永かんえい通宝つうほうなどの国内こくない貨幣かへい鋳造ちゅうぞうし、流通りゅうつうさせた。

慶長けいちょう小判こばん

しかしながら、高額こうがく貨幣かへいは、東日本ひがしにっぽん金貨きんか小判こばん)が、西日本にしにほん銀貨ぎんかちょうぎん)が流通りゅうつう基本きほんとなっており、その相場そうば日々ひび変動へんどうしたため、両替りょうがえしょうなどの金融きんゆうぎょう発達はったつした。また大量たいりょう貨幣かへいはこぶのをけるため、手形てがた取引とりひき発達はったつした。また、1620ねん元和がんわ6ねん)ごろから世界せかい先駆さきがけて大坂おおさか大阪おおさか)の堂島どうじまにおいて先物さきもの取引とりひきおこなわれていた。経済けいざい発展はってんするとともに大量たいりょう物資ぶっし輸送ゆそう必要ひつようたため、弁才べんさいせんによる日本にっぽん沿海えんかい周回しゅうかいする物資ぶっし流通りゅうつうおおきく発達はったつした。

寛永かんえいどおりたから

また寛永かんえいぎると、金銀きんぎん産出さんしゅつかげりがはじめたのにたいし、人口じんこう次第しだい増加ぞうか経済けいざい発展はってんして幕府ばくふ支出ししゅつ増大ぞうだいしたため財政難ざいせいなんおちいるようになり、金銀きんぎん備蓄びちくそこはじめ、1695ねん元禄げんろく8ねん)の元禄げんろくきんぎん発行はっこう発端ほったんに、出目でめ獲得かくとくおよび通貨つうか拡大かくだいのため品位ひんい低下ていかさせる改鋳かいちゅうおこなわれるようになる。

1772ねん安永やすなが元年がんねん)の南鐐なんりょうしゅぎん発行はっこう以降いこう次第しだいりょう基軸きじくとする、ぶんしゅ単位たんい計数けいすう銀貨ぎんか増加ぞうかはじめ、1837ねん天保てんぽう8ねん)のいちふんぎん発行はっこういたって、ちょうぎんのような秤量ひょうりょう銀貨ぎんか凌駕りょうがするようになり、銀貨ぎんか小判こばん通貨つうか体系たいけいまれることになった。

幕府ばくふ元禄げんろく以降いこうきむ銀貨ぎんか比率ひりつ変更へんこうする貨幣かへい改鋳かいちゅうをたびたびっている[43]。これは幕府ばくふ財政ざいせい改善かいぜんさせることをおも目的もくてきとする政策せいさくであり、米価べいか調整ちょうせいすることや、貨幣かへいなかふくまれるかねらし、貨幣かへい発行はっこうりょうおおくすることによって貨幣かへい発行はっこうえきげることで財政ざいせい改善かいぜんおこなおうというものであったが、一方いっぽうでこの政策せいさくには市場いちば通貨つうかりょう増加ぞうかさせる目的もくてきや、金銀きんぎん相場そうば内外ないがい調整ちょうせいという目的もくてきもあった[44]徳川とくがわ綱吉つなよし時代じだい元禄げんろく改鋳かいちゅうリフレ効果こうかをもたらして景気けいき改善かいぜんしたが[45]宝永ほうえい改鋳かいちゅうでは米価べいかが83パーセントも上昇じょうしょうするなど急激きゅうげきなインフレをまねいた[46]新井あらい白石はくせき主導しゅどうによる正徳しょうとく改鋳かいちゅう通貨つうか流通りゅうつうりょう減少げんしょうしてデフレをまねいた[47]。このあと徳川とくがわ吉宗よしむねによっておこなわれたもとぶん改鋳かいちゅうは、デフレ対策たいさく目的もくてきとしておこなわれ、米価べいかを80年間ねんかんにわたって安定あんていさせることとなった[48]徳川とくがわ家斉いえなり時代じだいには幕府ばくふ財政ざいせい困窮こんきゅうしたためにだい規模きぼ改鋳かいちゅうおこなわれ、貨幣かへい流通りゅうつうりょうが40パーセント増大ぞうだいした[49]。またこの文政ぶんせい改鋳かいちゅうと、水野みずの忠邦ただくに主導しゅどうによる天保てんぽう改鋳かいちゅうは、きむ銀貨ぎんか額面がくめんどお交換こうかんしたため、幕府ばくふおおきな収益しゅうえきることになった。この結果けっか幕府ばくふ貨幣かへい支出ししゅつ増大ぞうだいし、もとぶんよりはゆるやかであるが、経済けいざい刺激しげきあたえるインフレーションをもたらしたと評価ひょうかするせつ新保しんぼひろし)もある[50]開国かいこくには内外ないがい金銀きんぎん価格かかく調整ちょうせいするために安政あんせい万延まんえん改鋳かいちゅうおこなわれたが、これはさらに名目めいもくてき貨幣かへい流通りゅうつうりょう増大ぞうだいをもたらし、経済けいざい劇的げきてきなインフレーションに見舞みまわれることとなった[51]

財政ざいせい[編集へんしゅう]

万延まんえん大判おおばん

徳川とくがわ家康いえやす武士ぶし支配しはい構造こうぞう基本きほんとして、士分しぶん収入しゅうにゅうべい依存いぞんしていた。そのため、幕府ばくふ経済けいざい政策せいさく主力しゅりょくべい相場そうば安定あんていさせることが中心ちゅうしんになった。しかしながら、収入しゅうにゅうやすためにべい生産せいさんりょうやすと米価べいかがるというようになかなかおもうようにはいかず、また武士ぶし階級かいきゅう困窮こんきゅうさせることになり、幾度いくど倹約けんやくれい徳政令とくせいれいされることになる。こうした要因よういんによって商人しょうにんたちが経済けいざい主導しゅどうけんにぎるようになった。

18世紀せいきはいると日本にっぽん飢饉ききん頻発ひんぱつするようになり、天保てんぽうだい飢饉ききんになるとはんによっては収穫しゅうかくゼロ(津軽つがるはんなど)のところもてくるようになる。これを田沼たぬま意次おきつぐじゅうしょう主義しゅぎ政策せいさくれようとしたが、反対はんたい勢力せいりょくによって失敗しっぱいわっている。また財政ざいせい改善かいぜんさせることをおも目的もくてきとする、貨幣かへい改鋳かいちゅうをたびたびっている[43]

対外たいがい関係かんけい外交がいこう[編集へんしゅう]

鎖国さこく」(うみきん政策せいさく[注釈ちゅうしゃく 20]のもとで、長崎ながさき唐人とうじん屋敷やしきにおけるきよし長崎ながさき出島でじまにおけるオランダとの交易こうえき幕府ばくふによっておこなわれた。また、対馬つしまはん仲介ちゅうかいした朝鮮ちょうせんとのやまとかんでの交易こうえき幕府ばくふ公認こうにんけたものだった。幕府ばくふによる公式こうしき貿易ぼうえき関係かんけいではないが、薩摩さつまはん支配しはいにあった琉球りゅうきゅう王国おうこくつう清国きよくに東南とうなんアジアとの仲介ちゅうかい貿易ぼうえき松前まさきはん勢力せいりょくにあったアイヌとの交易こうえきなどもおこなわれていた。このよん箇所かしょを「よっつのくち」とぶこともある。交易こうえきとはちがうが、天候てんこう不順ふじゅんにより海外かいがい難破なんぱしたものもいた。いまられている漂流ひょうりゅうしゃらは、一様いちよう外国がいこく手厚てあつ保護ほごけ、外国がいこく知識ちしき日本にっぽん帰国きこくした。18世紀せいきまつにロシアに漂流ひょうりゅうし、女帝にょていエカチェリーナ2せい謁見えっけんした大黒屋だいこくや光太夫こうだゆうや、アメリカで教育きょういくけて幕末ばくまつ活躍かつやくする中浜なかはま万次郎まんじろうジョン万次郎じょんまんじろう)もその一人ひとりである。なお、江戸えど幕府ばくふ唯一ゆいいつ朝鮮ちょうせんとは正式せいしき国交こっこうっていた。

外交がいこう[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

儒教じゅきょう[編集へんしゅう]

儒教じゅきょう日本にっぽんにおいてはむしろ儒学じゅがくとして発展はってんし、江戸えど時代じだい初期しょきから中期ちゅうきにかけて朱子学しゅしがく陽明学ようめいがくさかんになった[54]

仏教ぶっきょう[編集へんしゅう]

エンゲルベルト・ケンペルによる方広寺ほうこうじ大仏だいぶつ(きょう大仏だいぶつ)のスケッチ[55]豊臣とよとみ秀吉ひでよし方広寺ほうこうじ大仏だいぶつ発願ほつがんし、その相次あいつ天災てんさいのため損壊そんかい再建さいけんかえされたが、それらの大仏だいぶつ文献ぶんけん記録きろくによれば、6たけ3しゃく(やく19m)とされ、東大寺とうだいじ大仏だいぶつたかさ(14.7m)を上回うわまわり、江戸えど時代じだいには大仏だいぶつとして日本一にっぽんいちたかさをほこっていた。

仏教ぶっきょうは、旗本はたもと出身しゅっしんである鈴木すずき正三しょうさん独力どくりょく大蔵経だいぞうきょう刊行かんこうしたてつどうこうサンスクリット研究けんきゅう戒律かいりつ復興ふっこう提唱ていしょうした慈雲じうん臨済宗りんざいしゅう中興ちゅうこうしょうされるしろかくれなどのすぐれた僧侶そうりょ存在そんざいしたが、幕府ばくふ宗教しゅうきょう政策せいさく一環いっかんとして民衆みんしゅう支配しはい方策ほうさくとしてもちいられた(檀家だんか制度せいど)ために、一概いちがい不振ふしんだった[56]仏教ぶっきょう内部ないぶ腐敗ふはいし、いわゆる「葬式そうしき仏教ぶっきょう」が成立せいりつしたのもこの時期じきで、形骸けいがいした仏教ぶっきょう神道しんとう儒教じゅきょう両派りょうはから批判ひはんされた。織田おだ政権せいけん江戸えど幕府ばくふより邪宗じゃしゅうとされた日蓮宗にちれんしゅう受不ほどこせ徹底的てっていてき弾圧だんあつされた[57]

神道しんとう[編集へんしゅう]

神道しんとうでは、幕府ばくふしょはん儒教じゅきょう奨励しょうれいにともなって神道しんとう儒教じゅきょう習合しゅうごうしたかみ一致いっちたれ神道しんとうなどの儒教じゅきょう神道しんとうあらわれた。いで国学こくがく隆盛りゅうせいにともない儒仏じゅぶつはいした復古ふっこ神道しんとうとなえられ、一部いちぶでは神仏しんぶつ分離ぶんりはじまった。復古ふっこ神道しんとう儒教じゅきょう仏教ぶっきょうおしえを排除はいじょしたが、一方いっぽうでは、たれ神道しんとう復古ふっこ神道しんとう幕末ばくまつ尊王そんのう思想しそうにも影響えいきょうあたえ、明治めいじ政策せいさくにも影響えいきょうあたえた。明治維新めいじいしん朝廷ちょうてい権力けんりょく復活ふっかつしたために、各地かくち勤皇きんのう神社じんじゃ建立こんりゅうされ(湊川みなとがわ神社じんじゃもこのころ)、天皇陵てんのうりょう各地かくちさだめられた。

耶蘇教やそきょう(キリストきょう[編集へんしゅう]

豊臣とよとみ秀吉ひでよしによるバテレン追放ついほうれいながれをけ、耶蘇教やそきょうばれたキリスト教きりすときょう江戸えど時代じだいのほとんどをつうじて徹底てっていしたまりをけた。

江戸えど時代じだい初期しょき交易こうえきこくであったイギリスポルトガルなどからもキリスト教きりすときょうつたえられたため、禁止きんしれい徹底てっていされなかった。しかし鎖国さこく政策せいさくつよめるにつれてキリストきょう弾圧だんあつ強化きょうかされた。

  • 1622ねん元和がんわ8ねん)には長崎ながさき西坂にしさか元和がんわだい殉教じゅんきょうとしてられる大量たいりょう処刑しょけいおこなわれた。この3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ時代じだいには、封建ほうけん制度せいど確立かくりつ貿易ぼうえき出入国しゅつにゅうこく管理かんり統制とうせい強化きょうか(「鎖国さこく」の徹底てってい)、キリシタン禁止きんしさんだい政策せいさくとなり、キリスト教徒きりすときょうと殉教じゅんきょうか棄教のいずれかを選択せんたくせざるをなくなった。
  • 1635ねん寛永かんえい12ねん長崎ながさき奉行ぶぎょうたいする職務しょくむ規定きてい(「だいさん鎖国さこくれい」)で、日本人にっぽんじん東南とうなんアジア方面ほうめんとの往来おうらい禁止きんしすることで、宣教師せんきょうし密航みっこう手段しゅだんとして利用りようされた朱印船しゅいんせん貿易ぼうえき廃止はいしした。
  • 1637ねん寛永かんえい14ねん島原しまばららん発生はっせい。こののちは、全国ぜんこくでキリシタンまりが徹底てっていされ、てら制度せいどなどの制度せいどによってキリシタンを摘発てきはつした。わずかにのこった教徒きょうとかくれキリシタンとして幕末ばくまつまで信仰しんこう持続じぞくした。
  • 1865ねん慶応けいおう元年がんねん)にはかくれキリシタンたちがフランスじん宣教師せんきょうし信仰しんこう告白こくはくして世界せかいてきニュースとなった。かれらはその明治めいじ政府せいふ弾圧だんあつされた(浦上うらかみよんばんくず)。

学問がくもん思想しそう[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいには、戦乱せんらんしずまり社会しゃかい安定あんてい平和へいわになったことと経済けいざい活動かつどう活発かっぱつになったことにより、人々ひとびと言論げんろん活動かつどう活発かっぱつになり、多様たよう学問がくもん開花かいかした。また経済けいざい発展はってんによる庶民しょみん台頭たいとうは、学問がくもんになむこととなった。江戸えど時代じだい学問がくもん特徴とくちょうとしては、研究けんきゅうしゃ個人こじん直感ちょっかんてき連想れんそうてき思考しこうじくとする中世ちゅうせいてき発想はっそう研究けんきゅうすすめるのではなく、文献ぶんけんなどにもとづき実証じっしょうてき研究けんきゅうするという態度たいどあらわれたことがげられる。また一部いちぶには身分みぶん制度せいど否定ひていしたりする思想しそうあらわれた。このように、中世ちゅうせいはな近代きんだいちか時期じきとして、江戸えど時代じだい歴史れきしうえ近世きんせい定義ていぎされている。

江戸えど時代じだい中期ちゅうきになると、藩政はんせい改革かいかく一環いっかんとしての藩校はんこうひらきがく各地かくちおこなわれるようになる。基本きほんてきには藩士はんし子弟してい朱子学しゅしがく剣術けんじゅつ奨励しょうれい徹底てっていするものだが、一部いちぶには医術いじゅつ西洋せいよう技術ぎじゅつ講義こうぎし、さらに庶民しょみんまでも受講じゅこう対象たいしょうとなるところもあった。庶民しょみんレベルでは、僧侶そうりょ知識ちしき階級かいきゅう庶民しょみんらのどもをあつめて基本きほんてききをおしえた。この寺子屋てらこやえていったことで日本にっぽん識字しきじりつたかまっていき、幕末ばくまつから明治めいじにかけての近代きんだいささえる原動力げんどうりょくとなった。また、京都きょうとだいさかなどのおおきなまちでは江戸えど時代じだい初期しょきから伊藤いとう仁斎じんさいどうひらくなど、私塾しじゅくかまえるところもあったが、江戸えど中期ちゅうきからごうむら村塾そんじゅくといわれる私塾しじゅくてきた。

かずつじ哲郎てつろうは、「慶長けいちょうから元禄げんろくへかけて、すなわちじゅうなな世紀せいきあいだは、前代ぜんだい余勢よせいでまだつよし宕な精神せいしん冒険ぼうけんてき精神せいしんのこっているが、そのえて日本人にっぽんじん創造そうぞう活動かつどう萎縮いしゅくしてくる」、「中江なかえ藤樹とうじゅ熊沢くまさわ蕃山ばんざん山鹿やまが素行そこう伊藤いとう仁斎じんさい、ややおくれて新井あらい白石はくせき荻生おぎゅう徂徠そらいなどのしめしているところをれば、それはむしろ非常ひじょう優秀ゆうしゅうである。これらの学者がくしゃがもしひろ眼界がんかいなか自由じゆうにのびのびとした教養きょうようけることができたのであったら、じゅうなな世紀せいき日本にっぽん思想しそうかいは、十分じゅうぶんヨーロッパのそれにすることができたであろう。それをおもうと、はやし羅山らざんなどが文教ぶんきょうけんにぎったということは、なんとも名状めいじょうのしようのない不愉快ふゆかいなことである」とひょうしている[58]

儒学じゅがく

論語ろんごをはじめとする儒教じゅきょう経典きょうてん古代こだいから仏教ぶっきょう経典きょうてんとともに日本にっぽん伝来でんらいしており、室町むろまち時代ときよには五山ごさんそうによりまれていた。豊臣とよとみ秀吉ひでよし朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいさいきょうらの朱子学しゅしがくしゃかえられたこと、また、徳川とくがわ家康いえやす論語ろんごあいし、藤原ふじわら惺窩せいかとその弟子でしはやし羅山らざん重用じゅうようしたことで朱子学しゅしがく研究けんきゅう本格ほんかくした。幕府ばくふ昌平しょうへいざか学問がくもんしょ徳川とくがわ私設しせつ学問がくもんしょとして設立せつりつした。民間みんかんでは「近江おうみ聖人まさと」とばれた中江なかえ藤樹とうじゅや、朱子しゅしの「祖述そじゅつ」をむねとした山崎やまざき闇斎あんさい学派がくは存在そんざいし、民間みんかんにも朱子学しゅしがくつたわっていった。ヘルマン・オームス朱子学しゅしがく神道しんとう統合とうごうした闇斎あんさい学派がくはによって「徳川とくがわイデオロギー」が完成かんせいしたとする[59]松平まつだいら定信さだのぶ寛政かんせいことがくきん昌平しょうへいざか学問がくもんしょでの朱子学しゅしがく以外いがい講義こうぎきんじ、大坂おおさか町人ちょうにん学問がくもんしょであるふところとくどう公認こうにんした。陽明学ようめいがく中江なかえ藤樹とうじゅ弟子でしである熊沢くまさわ蕃山ばんざんまなんでいたほか、大塩おおしお平八郎へいはちろう吉田よしだ松陰しょういん幕末ばくまつ志士ししにもまなばれた。

朱子学しゅしがくいきおいづくにしたがってその批判ひはんこった。山鹿やまが素行そこうひじりがくしょうして古学こがく先駆せんくしゃとなり、貝原かいばら益軒えきけん朱子学しゅしがくきょうせつへの懐疑かいぎあらわにした。伊藤いとう仁斎じんさい伊藤いとう東涯とうがい朱子しゅしによらず経典きょうてんかれた中国ちゅうごく古代こだい字句じく意味いみあきらかにするがくてた。荻生おぎゅう徂徠そらい文辞ぶんじがくはこれらを大成たいせいするものであり、古代こだい聖人せいじんによる「もの」(事物じぶつ儀礼ぎれい)にたいする「」(概念がいねん)の「制作せいさく」をろんじ、政治せいじてき復古ふっこ主義しゅぎ主張しゅちょうした。ふところとくどうまなんだ富永とみながなかはじめ山片やまがたわだかまもも儒教じゅきょう仏教ぶっきょう神道しんとうすべてを否定ひていするおにろん主張しゅちょうした[60]

国学こくがく

文化ぶんか芸術げいじゅつ風俗ふうぞく[編集へんしゅう]

いくつかの地方ちほうでは女性じょせい平均へいきんてき結婚けっこん年齢ねんれいは24さいで、男性だんせいは28さいだった。最初さいしょどもがまれるのは結婚けっこんして3ねんというのが平均へいきんてきだった。結婚けっこんした夫婦ふうふ半数はんすうども2にん以下いかで、あとの半数はんすうは1夫婦ふうふあたり4にんから5にん出生しゅっしょうすう養育よういくすう)だった[注釈ちゅうしゃく 21]

文芸ぶんげい
芸能げいのう
音楽おんがく
建築けんちく
美術びじゅつ
園芸えんげい
風俗ふうぞく
しょく文化ぶんか

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだいまれの最後さいごのこ[編集へんしゅう]

1868ねん慶応けいおう4ねんまれが96さいとなる1960年代ねんだい時期じき1964ねん昭和しょうわ39ねんごろ)より江戸えど時代じだいまれの男性だんせいがゼロになったけんていた。100さいとなる1968ねん明治めいじ100周年しゅうねん記念きねん式典しきてんのころ)より江戸えど時代じだいまれの人物じんぶつ女性じょせいふくめてゼロになったけんていた。1968ねん9がつ時点じてんでは1868ねん9がつ以前いぜんまれの人口じんこう山形やまがたけん栃木とちぎけん群馬ぐんまけん埼玉さいたまけん1人ひとり青森あおもりけん富山とやまけん石川いしかわけん奈良ならけん2人ふたりであった[62]1970ねん時点じてんでの江戸えど時代じだいまれの人物じんぶつは100にんだい、うち男性だんせいは19にんであった。1973ねん9がつ時点じてんでは江戸えど時代じだいまれの人物じんぶつは10にん、1975ねん時点じてんでは6にんであった。 大政奉還たいせいほうかん以前いぜんまれ最後さいご人物じんぶつ1976ねん11月16にち死去しきょした河本かわもとにわで、うち男性だんせい1973ねん8がつ1にち死去しきょした後藤ごとう長次郎ちょうじろう1866ねん7がつ4にちまれ、岐阜ぎふけん)であった。 明治めいじ改元かいげん以前いぜんまれ最後さいご人物じんぶつ1977ねん5月27にち死去しきょした中山なかやまイサで、うち男性だんせいは1976ねん1がつ2にち死去しきょした吉川よしかわ与三よぞう太郎たろうであった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 始期しきについては、豊臣とよとみ秀吉ひでよしが薨じた1598ねん慶長けいちょう3ねん)や関ヶ原せきがはらたたか徳川とくがわ家康いえやす勝利しょうりした1600ねん10月21にち慶長けいちょう5ねん9月15にち)、あるいは豊臣とよとみ滅亡めつぼう1615ねん元和がんわ元年がんねん)をはじまりとする見方みかたもある[よう出典しゅってん]
  2. ^ 終期しゅうきについては、ペリーが来航らいこうした1853ねんよしみひさし6ねん)や桜田さくらだ門外もんがいへんがあった1860ねん万延まんえん元年がんねん)、徳川とくがわ慶喜よしのぶ大政奉還たいせいほうかん明治天皇めいじてんのう上奏じょうそうした1867ねん11月9にち慶応けいおう3ねん10月14にち)とする見方みかたや、王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいによって明治めいじ政府せいふ樹立じゅりつ宣言せんげんした1868ねん1がつ3にち慶応けいおう3ねん12月9にち)、江戸えど開城かいじょうされた1868ねん5月3にち慶応けいおう4ねん4がつ11にち)、あるいは廃藩置県はいはんちけん断行だんこうされた1871ねん明治めいじ4ねん)とする見方みかた存在そんざいする[2]
  3. ^ 幕府ばくふ反対はんたいによりてんじん親王しんのう尊号そんごう宣下せんげ見合みあわせた「尊号そんごういちけん」で寛政かんせい5ねん(1793ねん)に辞職じしょくする。
  4. ^ 同年どうねん5がつ22にちに、江戸えどちゅうげられた。市中しちゅう奢侈しゃし風俗ふうぞく取締とりしまり贅沢ぜいたく禁止きんし質素しっそ倹約けんやく強行きょうこうされた。
  5. ^ しかし、1814ねん天保てんぽう15ねん)6がつ忠邦ただくにふたた老中ろうじゅうとなった。
  6. ^ みなもとりょうえんは、「『海国かいこくこころざし』のにちちゅうかんかたちがい」において、のちようつとむへんほうみつつも刊行かんこう当時とうじまさしく評価ひょうかされなかった清国きよくに、『海国かいこくこころざし』への反応はんのうにぶかった朝鮮ちょうせん翻刻ほんこくほん23しゅ(うち和訳わやくほん16しゅ)が刊行かんこうされ、国民こくみん一般いっぱん公開こうかいされて、きわめて関心かんしんたかかった日本にっぽん比較ひかくしている[25]
  7. ^ 8ねんの1861ねん幕府ばくふ庶民しょみん大船おおふな建造けんぞう外国がいこくせん購入こうにゅう許可きょかする。
  8. ^ だい1生糸きいと輸出ゆしゅつがくの50-80%、だい2ちゃが5-17%をめていた。
  9. ^ 1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)11月、薩摩さつまはんえい公使こうしに10まんドルを交付こうふして生麦なまむぎ事件じけん解決かいけつしている。
  10. ^ 嫡子ちゃくし在国ざいこくゆるされた。大名だいみょう妻子さいしたいしての帰国きこく許可きょかされた。
  11. ^ 旗本はたもとたいし、3000せきき10にん、1000せきき3にん、500せきき1にんひと提出ていしゅつを、500せき以下いか金納きんのうにし、この人数にんずう歩兵ほへいぐみ編成へんせいした[28]
  12. ^ 長州ちょうしゅう公家くげたちを懐柔かいじゅうし、天皇てんのう詔勅しょうちょくであるといってつぎつぎにいろいろな命令めいれいすと、天皇てんのうにはおぼえがないとった「にせ詔勅しょうちょく事件じけん」が次々つぎつぎこってくる。これを「したより叡慮えいりょ」ともいう[29]
  13. ^ ぜん大名だいみょうめいじたが、実行じっこうしたはんはほとんどなかった。
  14. ^ うませき海峡かいきょう航行こうこうちゅう外国がいこくせんべいせんペムブロークごう、300トン)をはんせい大砲たいほう攻撃こうげきして「攘夷じょうい」を決行けっこうした。庚申こうしんまるから砲撃ほうげきし、たまたまうませきかっていたみずのとまる砲撃ほうげきくわわった。しかし、べいせん全速力ぜんそくりょくげ、両船りょうせん速力そくりょく明白めいはくすぎて、追跡ついせきできなかった。意気いきがった長州ちょうしゅうがわは、5月23にちふつ軍艦ぐんかんキンシャンごうを、26にちにはらんかんメジュサごう砲撃ほうげきした[30]
  15. ^ 3ねんの1866ねん慶応けいおう2ねん)4がつ7にちには、幕府ばくふ学術がくじゅつ商業しょうぎょうのための海外かいがい渡航とこう許可きょかしている。
  16. ^ 大坂おおさかに、各国かっこく駐日ちゅうにち代表だいひょう引見いんけんした。3月25にちにパークスと、26にちにオランダ総領事そうりょうじと、27にちロッシュと、28にちえいふつらんさんこく代表だいひょうと、4がつ1にちべいちゅう公使こうしファルケンブルグと会見かいけんした。
  17. ^ 5月、西宮にしのみや大坂おおさかさかい兵庫ひょうご江戸えどちこわし。6月、武蔵むさしいちえんこわし(たけしゅう世直よなお一揆いっき)、陸奥むつしんたちりょうぐんこわし(信達しんだち騒動そうどう)。7月、伊予大洲いよおおずはん出羽でわ村山むらやまぐんこわし。8月、小倉こくらはんで、長州ちょうしゅう戦争せんそう混乱こんらんから一揆いっき幕府ばくふ諸国しょこく凶作きょうさく米価べいか高騰こうとうにつき庶民しょみん外国がいこくまい販売はんばい交友こうゆう許可きょか。11月、江戸えど窮民きゅうみん増加ぞうか幕府ばくふ窮民きゅうみんちゅう強壮きょうそうしゃへい採用さいよう布告ふこく
  18. ^ 6ヶ条かじょうにわたる密約みつやく協定きょうていしゅとして、だいせいちょうについて、薩摩さつま長州ちょうしゅうはんのために政治せいじてき援助えんじょすることをめたものだった。5じょうには、幕府ばくふが、朝廷ちょうていよう正義せいぎをこばみ、周旋しゅうせん尽力じんりょくみちさえぎるときは、さつまはばくふと「つい決戦けっせんおよこうほかこれきこと」という文句もんくれた。中味なかみ防衛ぼうえいてき同盟どうめいであったが、このなかでは場合ばあいによっては倒幕とうばくもありることをはじめてしめした[35]
  19. ^ 1868ねん慶応けいおう4ねん)3がつ14にち明治天皇めいじてんのうは、京都きょうと御所ごしょ紫宸殿ししんでんいて、神前しんぜんいつつのことをちかった。このとき誓文せいもんとともに、明治天皇めいじてんのうみずからの信念しんねん発表はっぴょうがあった。これは「宸翰しんかん」(しんかん)とばれた。(天皇てんのうこのときかぞえで16さいまんで15さいいたのは木戸きど孝允たかよしわれている。

    宸翰しんかん

    ちん幼弱ようじゃくをもってにわかにだいすべ(たいとう)を紹(つ)ぎ爾来じらいなにをもって万国ばんこく対立たいりつし、れつにつかえたてまつらんやと朝夕ちょうせき恐懼きょうくにたえざるなり。
    ひそかにかんがえるに中葉ちゅうよう朝政ちょうせいおとろえてより武家ぶけけんをもっぱらにし、ひょう朝廷ちょうていを推尊してじつけいいしてこれをとおざけ、億兆おくちょう父母ちちははとしてえて赤子あかご(せきし)のじょうることあたわざるよりはかりなし、ついに億兆おくちょうきみたるもただめいのみになりはてて、それがために今日きょう朝廷ちょうてい尊重そんちょういにしえばいせしがごとくしてあさばいおとろえ、上下じょうげ(しょうか)しょうはなれるること霄譲(しょうじょう)のごとし。かかる形勢けいせいにてなにをもって天下てんか君臨くんりんせんや。
    今般こんぱん朝政ちょうせい一新いっしんときにあたり天下てんかおくちょういちにんもそのところざるときは、みなちんつみなれば今日きょうことちん自身じしんこついたわし、こころこころざしくるしめ、艱難かんなんさきち、ふるれつきさせたまいしあとをふみ、あとをすすめてこそ、はじめて天職てんしょくほうじて億兆おくちょうきみたるところにそむかざるべし。
    往昔おうせきれつまんおや(みずか)らししん(ふしん)のものあればみずからしょうとしてこれをせいしたまい、朝廷ちょうていせいすべて簡易かんいにしてかくのごとく尊重そんちょうならざるゆえ、君臣くんしんしょうしたしみて上下じょうげ相愛そうあい徳沢とくさわ(とくたく)天下てんかにあまねく国威こくい海外かいがい耀かがやきしなり。
    しかるに近来きんらい宇内うだいおおいに各国かっこく四方しほうあい雄飛ゆうひするのときにあたり、ひとり我国わがくにのみ世界せかい形勢けいせいにうとく、旧習きゅうしゅう固守こしゅし、一新いっしんこうはからず、ちんいたずらにきゅうじゅうちゅう安居あんきょし、いちにちやすきをぬすみ、ひゃくねんうれいを忘るるときはついに各国かっこくしのげあなどけ、うえれつをはずかしめまつり、した億兆おくちょうくるしめんことをおそる。ゆえにちんここにひゃくかん諸侯しょこうひろあいちかれつ偉業いぎょうつぎじゅつし、一身いっしん艱難辛苦かんなんしんくわず、みずから四方しほう経営けいえいなんじ億兆おくちょうやすし、ついには万里ばんりなみ濤を開拓かいたくし、国威こくい四方しほう宣布せんぷし、天下てんか富岳ふがくやすきにかんことをほっす。なんじおくちょう旧来きゅうらいの陋習になれ、尊重そんちょうのみを朝廷ちょうていのこととなし、神州しんしゅう危急ききゅうらず。ちんいちたびあしげれば非常ひじょうおどろき、種々しゅじゅ疑惑ぎわくしょうじ、まんくちまがえ紜としてちんこころざしをなさざらしむるときは、これちんをしてきみたるみちうしなわしむるのみならず、したがってれつ天下てんかうしなわしむるなり。
    なんじおくちょうよくよくちんこころざし体認たいにんし、あいひきいて私見しけんり、おおやけをとり、ちんごうたすけて神州しんしゅう保全ほぜんし、れつ神霊しんれいたてまつらしめば生前せいぜん幸甚こうじんならん。」
    [36]
  20. ^ 江戸えど幕府ばくふ対外たいがい関係かんけいは「鎖国さこく」とばれてきたが、たいヨーロッパ貿易ぼうえきをオランダに制限せいげんしただけで、きよし朝鮮ちょうせんなどとは貿易ぼうえきおこなっていたため、「うみきん」とぶべきだという主張しゅちょうがある[52][53]
  21. ^ 人口じんこう構成こうせい正確せいかく状況じょうきょう把握はあくするために、いくつかのむら膨大ぼうだいふる記録きろく調しらべてみたことがある」として。松原まつばら久子ひさこおごれる白人はくじんたたかうための日本にっぽん近代きんだい』( そだてるのはにんさんにんしも百姓ひゃくしょうにんあるいは一人ひとり[61]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

記事きじ本文ほんぶんには引用いんよう参観さんかんされていないものの、記事きじ関係かんけいがある文献ぶんけん一覧いちらん

  • 三上みかみさん江戸えど時代じだい上下じょうげまき)』講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1992ねん原著げんちょ1943-44)。 
  • 大石おおいし嘉一郎かいちろう江戸えど時代じだい中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、1977ねんISBN 4121004760 
  • 水谷みずたに三公みつきみ江戸えどゆめか』筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ〉、2004ねん原著げんちょ1992ねん)。ISBN 4480088091 
  • 杉森すぎもり哲也てつや日本にっぽん近世きんせい放送大学ほうそうだいがく教材きょうざい、2020ねんISBN 9784595321900 
  • 磯田いそだみち近世きんせい大名だいみょう家臣かしんだん社会しゃかい構造こうぞう文春ぶんしゅん学芸がくげいライブラリー、2013ねん原著げんちょ2003ねん)。ISBN 9784168130083 
  • 伊藤いとう愼吾しんご近世きんせい国語こくごがく立川たちかわ文明ふみあきどう、1928ねん 
  • ドナルド・キーン ちょ徳岡とくおか孝夫たかお やく日本にっぽん文学ぶんがく近世きんせいへん1〜3)』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2011ねん原著げんちょ1995ねん)。 
  • 鈴木すずき健一けんいち近世きんせい文学ぶんがく史論しろん古典こてん継承けいしょう展開てんかい岩波書店いわなみしょてん、2023ねんISBN 9784000615808 
  • 黒羽くろは英男ひでお日本にっぽん近世きんせい文学ぶんがく文化ぶんか書房しょぼう、1965ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]